アルメニア/最近の政治変化
1.ソヴィエト体制から独立へ
アルメニア社会には古くからコミュニティの自治を行うための民会が存在したが、本格的な代議員制が見られたのは20世紀に入ってからであり、しかもアルメニア人代議士が進出したオスマン帝国議会やロシア帝国国会、アルメニアの独立期(1918~1920年)の議会など、いずれも短命なものだった。
また、ソ連時代にはソヴィエト(成立当初は、労働者、兵士、農民からなる評議会)という疑似議会が存在し、1936年憲法(スターリン憲法)制定後は、18歳以上の男女すべてに普通選挙権が与えられていた。しかし、代議員の候補者は、共産党ないし各社会団体の推薦を得た候補が各選挙区に一名のみ配置されたため、選挙は単なる信任投票と化し、ソヴィエトの形骸化が進んだ。
アルメニアの現体制の確立は、ソ連末期の全連邦的な制度改革に端を発している。まず、ゴルバチョフ書記長によるペレストロイカの一環として、このソヴィエトの活性化が図られた。1988年の憲法修正で複数候補制が導入され、90年2月には複数政党制が容認された結果、ソヴィエトの内実は欧米の議会に近づくことになった。ついで、1990年3月の第3回臨時人民代議員大会で、ソ連邦に複数政党制と大統領制が導入されることが決定し、ゴルバチョフ共産党書記長が大統領に就任した。引き続いて、同じ年の4月には連邦から民族共和国の離脱手続きに関する法律と、連邦・共和国の権限区分法が採択された。これによって、政治的多元性、連邦構成共和国の主体的な政治改革が促進されることとなった。アルメニア・ソヴィエト社会主義共和国(以下、ソヴィエト・アルメニアと略記)では、90年5月に共和国最高会議の自由選挙がおこなわれ、非共産系政党のアルメニア全国民運動が勝利し、8月4日には全国民運動の代表レヴォン・テル=ペトロスィアンが最高ソヴィエト議長に選ばれた。91年2月26日には政治団体法が採択され、司法および治安関係者が在職中に社会政治団体に加入する、あるいは政党が国外の団体から指導を受けたり、それに加盟したり財政的・物質的援助を受けたりすることが禁止されたことで、共産党の活動が事実上禁止された。
以後、連邦の経済改革の混乱とともにバルト諸国やグルジアなど連邦構成共和国の自立化が目立つようになり、91年8月には連邦と共和国との間の新たな関係を規定した新連邦条約が締結されるはずだったが、8月19日の共産主義守旧派のクーデタで頓挫した。しかし、クーデタの失敗後、各共和国で一斉に独立宣言が出されるなど、急速に連邦の分解が進み、ソヴィエト・アルメニアでも9月21日に独立を問う国民投票が行われ、独立派が勝利した。さらに、アルメニアにもソ連政府を模した大統領制が導入され、10月17日にはテル=ペトロスィアン最高会議議長が大統領に選出された。そして、91年末の連邦崩壊に伴い、アルメニアは短い独立期(1918~1920年)以来、久方ぶりに独立国となる。
2.独立後の権威主義的傾向
独立後のアルメニア共和国では、政治活動の自由化は制度的に確立したが、1988年に発生したナゴルノ・カラバフをめぐるアゼルバイジャンとの紛争が激化したことで挙国一致体制の色彩を帯び、制度は有名無実化した。その典型が、テル=ペトロスィアン大統領とダシュナク党(アルメニア革命連盟)との対立である。ダシュナク党はアルメニアの短い独立期の政権党で、ソ連期には世界各地の在外アルメニア人コミュニティを活動拠点にし、1991年の大統領選では、テル=ペトロスィアンに対抗して、独自候補を立てた。カラバフ紛争では積極的な役割を果たして国民の支持を伸ばした。ところが、92年5月以後は戦線が膠着状態に陥り、大統領がカラバフ戦局の不拡大方針を打ち出すと、ダシュナク党がこれを批判したため、大統領は92年夏にダシュナク党の議長フライル・マルヒアンに国外退去を命じた。さらに、1994年12月には元エレヴァン市長の暗殺事件で政情不安が高まったことを口実に、ダシュナク党そのものの活動も禁じた。これによって95年5月の議会選挙ではダシュナク党を排除することに成功したものの、こうした大統領の政治手法が非民主的との批判を国内外から浴びるにいたった。
1998年2月にテル=ペトロスィアンが、94年のカラバフ紛争停戦後の和平交渉の方策がもとで大統領辞任に追い込まれると、当時首相だったカラバフ出身のロベルト・コチャリアンが、大統領代行を務めることとなった。コチャリアンはダシュナク党を再び合法化し、ダシュナク党の選挙参加を約束した。これは彼がカラバフの大統領時代に接近したといわれるダシュナク党を与党化する意図で行われた可能性が高い。
独立後の歴代政権下では、ソヴィエト期のような一党独裁制こそ復活しなかったものの、テル=ペトロスィアン政権ではアルメニア全国民運動、コチャリアン政権では共和党とダシュナク党というように、議会には大統領を翼賛する巨大与党(ないし与党連合)が出現し、政権が安定化するという傾向がみられる。また、有力な政敵が排除される事案も発生している。2003年3月の大統領選に対抗馬として期待されていたアメリカ人ラッフィ・ホヴァニスィアン元外相は、かねてから申請していたアルメニアへの帰化が再三裁判所で拒否され立候補できなかった。カラバフ出身のコチャリアンが、容易にアルメニア国籍が取得できたのとは対照的である。また、99年10月27日の議会内銃乱射事件で何名かの有力政治家が暗殺される事件が起こったが、これには政府の関与が疑われている。
ところで、2005年11月にアルメニア共和国憲法の一部条項をめぐって国民投票が行われ、憲法改正が施された。これは2001年に欧州議会からの要求で、人権規約や制度的民主化を促進させる必要にアルメニア政府が迫られていたことが背景にある。主な点は、思想信条に基づく差別の禁止(第14条第1項)、公正な裁判を受ける権利(第19条)、報道の自由の保障(第27条)が追加されたこと、大統領が司法人事に与える影響力が減じられたことが挙げられる。その一方で、大統領は在職期間中、職務上の行為に関して訴追を免れる(第56条)ことが認められ、行政の裁量権が拡大した。
こうした国民の権利拡大が図られながらも、コチャリアン政権期には野党のデモを武力で鎮圧する事件が二度起こっている。憲法改正が議論されていた2005年春にアルメニア国民民主連合の議長ヴァズゲン・マヌキアン、アルメニア人民党のステパン・デミルチアンらが会派「正義」(Ardatut‘yun)を結成した。2003年にグルジア、2004年にウクライナ、そして2005年クルグスで発生した一連の「色革命」の影響を受け、政権交代に向けて座り込みストを行うと3月24日に決定した。しかし、与党だけでなく統一労働党も野党連合に非協力的であったため、4月9日に野党連合は支持者約8000名とともにデモや議会での座り込みを行うものの、それ以上には拡大しなかった。12日になると野党会派の議員が警察に身柄を拘束され、13日の未明にはデモ関係者が強制的に解散させられた。
第二の武力鎮圧事件は政権の最末期に起こった。大統領職を2期務めたコチャリアンは、憲法で大統領の三選禁止が規定されているため、2008年2月の大統領選では同じカラバフ出身のセルジュ・サルキスィアンを後継者に指名した。そして、ロシア大統領選に見られたプーチン、メドヴェージェフの二枚看板を模倣した広報活動を行い、勝利した。(ただし、ロシアの場合と違い、コチャリアンは、サルキスィアンが大統領に就任すると政治の表舞台からは身を引いた。)ところが、この選挙に不正があったとして、対立候補のテル=ペトロスィアン元大統領の支持者が抗議を続けていたが、3月1日には約8000人のデモ隊と警察が衝突し、多数の死傷者が出た。そのため、コチャリアン大統領はその日の夜に非常事態を宣言してデモ隊を強制的に排除したばかりでなく、この事件に関する報道も著しく制限した。
概して、アルメニア共和国では、多党制も制度的に認められ、政権交代も起こっているものの、大統領の権威主義体制が正当化されやすい環境にあるといえよう。こうした体制が容易に生み出される背景として、隣国アゼルバイジャンとのナゴルノ・カラバフ地域をめぐる対立、さらに隣国トルコとの不正常な関係といった対外的な緊張があり、強い権力を行使する大統領を国民が容認しているためと考えられる。
3.2018年の政変と民主化の課題
2018年3月に2期8年間の大統領任期を終えたセルジュ・サルキスィアンは、2015年の憲法改正で国政を議院内閣制に移行することが予定されていたので、それに則った首相に横滑りしようと画策したところ、野党の党首ニコル・パシニアン率いる反政府デモ隊の抗議活動に押されて、4月23日に首相を辞任し、翌月パシニアンが首相に指名された。首相は、エレヴァン市長のタロン・マルカリアンの所得隠しや市長の運営する財団への利益誘導疑惑を利用して辞任に追い込んだ。そうした旧政権の腐敗を追求するネガティヴ・キャンペーンを張ったうえで、2018年12月に実施された議会の出直し選挙では、与党共和党の議席が消滅し、パシニアンを中心に結集した選挙連合「我が一歩」ブロックが大勝した。
ところが、昨年9月27日から始まった第二次ナゴルノ・カラバフ紛争では、ドローンなどの最新兵器を投入したアゼルバイジャン軍が優勢で、アルメニア政府が11月10日に停戦した際にまだアルメニア側が押さえていた保障占領地域を引き渡しただけでなく、「カラバフ共和国」の領土も縮小したため、パシニアンの辞任を求めるデモが連日起こった。結局、2021年6月に繰り上げ議会選挙が行われたが、ダシュナク党がコチャリアン元大統領、復活を目指した共和党がサルキスィアン元大統領を担ぎ出して、パシニアン首相の失策を厳しく追及した。結果的には、パシニアン率いる「我が一歩」ブロックが過半数をわずかに上回って勝利したものの、投票率が49.37パーセントと国政選挙にしては低く、国民の4分の1しか首相の続投を信任していない実態が露わになった格好である。
参照
- L.Chorbajian, ed. The Making of Nagorno-Karabagh, Chippenham, 2001
- M.P.Croissant, The Armenia-Azerbaijan Conflict, West Port, 1998
- G.E.Curtis ed., Armenia, Azerbaijan, and Georgia: country studies, Washington D.C., 1995
- D.Golovanov, Armenia: constitution amended, http://merlin.obs.coe.int/iris/2006/2/article8.en.html
- E.Herzig, The New Caucasus, New York, 1999
- J.R.Masih&R.O.Krikorian, Armenia at the Crossroads, Amsterdam, 1999
- C.Mouradian, L’Arménie, Paris, 1996
- R.G.Suny, Looking toward Ararat, Bloomington & Indianapolis, 1993
- Российский институт стратегических исследований, Армения, Москва, 1998
- 上野俊彦「ロシアの選挙民主主義――ペレストロイカ期における競争選挙の導入――」、皆川修吾編『移行期のロシア政治』、渓水社、1999
- 塩川伸明『多民族国家ソ連の興亡Ⅱ 国家の構築と解体』、岩波書店、2007
- 吉村貴之『アルメニア近現代史』(ユーラシアブックレット)、東洋書店、2009
- 吉村貴之「アルメニアの現代政治」(特集「ソ連解体から30年を経た現在」)、『ユーラシア研究』No.64、2021、23-25頁