「現在の政治体制・制度」カテゴリーの記事一覧
リビア/現在の政治体制・政治制度
2011年の「アラブの春」にともなう内戦とカダフィ政権崩壊を経て、現在(2021年8月時点)のリビアでは議院内閣制が採用されている。その根拠は、「憲法宣言(Constitutional Declaration)」(2011年8月発表、その後随時修正)および「リビア政治合意(Libyan Political Agreement)」(2015年12月締結)である。ただし、2021年12月24日に予定される国政選挙(大統領・議会選挙)をめぐり、今後政治制度が大きく変更される可能性がある。
「リビア政治合意」にもとづき、2016年1月に「国民合意政府(Government of National Accord: GNA)」が発足した。その後、2020年1月の独ベルリンでのリビア安定化に関する国際会議(Berlin International Conference on Libya)、2020年11月に発足した「リビア政治対話フォーラム(LPDF)」での議論にもとづき、2021年3月に国民統一政府(Government of National Accord: GNU)が設立された。GNUはあくまでも暫定政権という位置づけであり、任期は2021年12月24日に予定される国政選挙(大統領・議会選挙)の完了までと定められている。同政府の体制はアブドゥルハミード・ドゥバイバ(ドベイバ)首相以下、副首相2名、閣僚35名(うち国務大臣6名)で構成される。国防相は政治対立を避ける意図から空席のまま発足した。また、大統領と同様の立場で外交・内政の儀礼的役割を担う首脳評議会(Presidential Council: PC)が存在し、議長と副議長2名が東・西・南の地域から1名ずつ選出される。
立法府は2014年7月の選挙によって選ばれ、リビア東部のトブルクに拠点を置く代表議会(House of Representatives: HOR)が担う。また、トリポリに拠点を置く高等国家評議会(High Council of State: HCS)は政府の諮問機関として、GNCが議決した重要法案を承認・拒否する権限を持ち、GNUが提出する法案や国際的合意に対しても法的拘束力のある意見を提示できる。
「憲法宣言」
「憲法宣言」は内戦中の2011年8月3日、反体制派勢力である国民暫定評議会(National Transitional Congress: NTC)によって締結、同月10日に発表された。同宣言はいわば草案であり、議会による修正および承認決議を経て、国民投票によって3分の2以上の承認を得れば正式な憲法として制定される。
同宣言が締結された時点では、2012年7月の国民議会(GNC)の設立後すみやかに憲法起草委員が任命され、正式な憲法の起草・制定が行われると見込まれていた。しかし、憲法起草委員を選挙によって選ぶこととなり、またリビアの政治情勢が混乱したことから、2021年8月に至るまで正式な憲法は制定されていない。代わりに、GNCやGNCは「憲法宣言」を修正することで政治プロセスを進めてきた。2021年12月に予定される国政選挙の後、憲法承認のための国民投票の実施が見込まれている。
「憲法宣言」第1条には、リビアが民主国家であること、首都はトリポリであること、国教はイスラームであり、イスラーム法(シャリーア)が法制度の根源であるが、国家は非ムスリムにも信仰の自由を保障すること、公用語はアラビア語であることが定められている。また、「少数民族」という言葉は用いられず、「リビア社会の構成要素(components of the Libyan society)」として示され、アマージグ(ベルベル)、トゥーブ、トゥアレグに対して言語的・文化的権利を保障するとされている。
第4条には、国家は、政治的多元主義と多党制に基づく政治的民主制の確立に努め、権力の平和的・民主的交代を実現すると定められている。
第9条には、祖国の防衛、国家の団結の維持、文民統治・憲法・民主的制度の維持、市民の価値観の順守、地域・部族・氏族にもとづく対立との戦いは、全国民の義務であると定められている。
カッザーフィー政権期の法制度について、第35条では、既存の法律は修正・廃止されるまで、「憲法宣言」の内容と矛盾しない限りにおいて有効であると定められている。前政権で定められた法律における政治機構への言及は、国民暫定評議会や今後の移行政府に置き換えられる。また、カッザーフィー政権期の正式な国名「大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒーリーヤ国(Great Socialist People’s Libyan Arab Jamahiriya)」は、「リビア(State of Libya)」に置き換えられる。
アルメニア/現在の政治体制・政治制度
アルメニアは、中東では珍しいキリスト教(東方教会系)国で、しかもソ連時代に世俗主義の政治が定着したことが、独立後の政治体制にも大きく影響している。独立後のアルメニア共和国においては信仰や結社の自由が認められ、宗教などの伝統的価値観を尊重する政党はあるものの、世俗主義的な政治体制が受け入れられている。
アルメニア共和国の政体は、ソ連邦末期の制度改革以来、久しく直接選挙によって選出される大統領を国家元首とする共和制をとってきた。一方で、内閣制度も併存し、大統領が直接選挙によって選ばれる国民議会内の多数派の中から首相を任命することが慣例となっていた。ただし、議会多数派が大統領を党首とした政党である時期が大半で、そうでないコチャリアン政権も、最大政党アルメニア共和党が大統領を支持して政権与党化したため、フランスのような保革共存政権になることはなかった。
現行憲法は1995年6月の国民投票を経て制定され、2005年11月に一部条項を改定したもの(本稿に直接かかわる規定の変更に関しては民主化の経緯の項を参照のこと。)が土台になっているが、2015年12月の国民投票を経て、準大統領制から議院内閣制に移行する大幅な政治制度の変更がなされた。実際、これに従い2018年3月に大統領の任期が切れたセルジュ・サルキスィアンが、翌月首相に就任したところ、選挙を経ないで実質的な政権の延命を図ろうとする政治手法を批判した野党の抗議運動で政権が崩壊した。(詳細は、民主化の経緯(最近の政治変化)の項目を参照のこと。)
なお、現行憲法が制定されるまでは、1991年末日にアルメニアが独立した後も1978年のアルメニア・ソヴィエト社会主義共和国憲法(実質的には、前年に制定されたソ連憲法~ブレジネフ憲法~のアルメニア版)が、独立後制定された法律で補正しながら、流用されていた。以下、三権のシステムについて解説する。
1.大統領と内閣
2015年の憲法改正までは、行政府の長は大統領で、任期は5年であった。大統領は国民議会の法案の拒否ならびに議会そのものの解散、首相や検事総長の任免が可能で、しかも国軍の最高司令官であるなど絶大な権限を有した(2015年改定前の憲法第55条)。さらに、議会の同意を得ないで政令(大統領令)を発布することも出来た(同第56条)。大統領は、首相の提案に基づいて閣僚を任免するほか、外交政策を統括し、国際条約を締結する権限を有する(同第55条)ため、現実政治においては、内政一般を内閣が、外交並びに安全保障を大統領が分担していた。
なお、三権分立を明確化するため、国民議会の議員が閣僚に任命された際には、その任期中議員の資格は停止していた。また、大統領が職務遂行不能の状態に陥った際には、新たに大統領が選出されるまで、国民議会の議長、それが不可能な場合には首相が職務を代行することになっていた(同第60条)。実際、1998年2月にカラバフ紛争の和平プロセスをめぐって当時の大統領テル・ペトロスィアンと閣僚が対立して大統領が辞任に追い込まれた際には、当時首相だったコチャリアンが大統領代行となっている。
これに対し、新制度では、大統領は議会で選出される儀礼的な元首で、任期7年となった。また、政党に属さない、不偏不党の立場が求められている。(2015年改正後の第125条。)しかし、現実には、内閣が行政命令を執行する際に大統領が署名を拒否して首相の決定を覆すなど、決して儀礼的存在とは言えない。(同第129条では、国会で成立した法律と最高裁判所の決定には、大統領が21日以内に署名しないといけない規定になっているが、首相の政令に関しては、特に規定がない。)特に、アルメン・サルキスィアン現大統領は、2018年春、当時の共和党政権下で選出された人物であるため、2020年の第二次ナゴルノ・カラバフ紛争でアルメニアが敗北して政局が流動化して以来、パシニアン首相の政治姿勢を公然と批判するようになっている。基本的には、首相が政治の主導権を握っているとはいえ、大統領と首相の間では「保革共存」状態である。
2.議会
現行憲法下において、立法府である国民議会は131名定員の一院制で、任期は5年である(2015年の改正後の第90条。なお、2012年の改正前までは任期4年)。国民議会は、議長の提案に基づき、中央銀行の総裁ならびに副総裁を任命するほか、憲法裁判所の判事ならびにその長官を任免することが出来る。(第83条)また、多数決によって政府に対し不信任を表明した場合には、首相は辞任しなければならない(第74条)が、現状では議会多数派から首相が任命されているため、こうした状況は起こりにくい。
3.司法機関
司法は、独立後に大きな制度改変が見られ、第一審裁判所、控訴裁判所、破毀裁判所の三審制となり、憲法裁判所に上訴された事案を除けば破毀裁判所が最高裁の役割を担っている。(第163条)一般の裁判所の他に、経済裁判所などの法律で定める係争を専門的に扱う裁判所も存在する。
また、現行憲法では司法機関の独立が謳われている点も、大きな特徴である。もっとも、1995年の制定時の規定では、判事の人事は司法評議会によって決定されるが、この評議会は判事会から選ばれた9人の委員、国民議会の任命した法学者による2人の委員とならんで大統領の任命した法学者による2人の委員から構成されるうえ、憲法裁判所以外の判事の人事は大統領の同意事項でもあったため(2015年改正前の第94条)、行政が司法に介入する余地は残されていた。
2015年度の憲法改正で大統領制から議院内閣制に移行することが決定されたことに合わせ、裁判官の選任にも議会の関与するようになった。憲法裁判所の9名の判事のうち、3名が大統領推薦、3名が内閣推薦、3名が司法評議会による推薦で、これが国民議会で信任されて、任官されることになった。(任期は12年と定められた。)一方、破棄院の判事は、司法評議会の推薦の上で、大統領が指名し、任期は6年である(第166条)。このように、大統領も判事の任免をめぐって、一定程度影響力を残している。
参照:アルメニア共和国憲法(1995年版と2005年版)
レバノン/現在の政治体制・制度
シリアの西方、イスラエルの北方に位置するレバノンは、面積10,452平方キロメートル(日本の岐阜県ほど)、人口およそ600万人という小さなアラブ国家である。首都はベイルート。公用語はアラビア語であるが、英語やフランス語も多くの地域で通じる。
宗教とエスニシティの観点から見れば、レバノンは18の公認宗派、そして多様なエスニック・グループが共存するモザイク国家である。宗派毎に見ると、相対多数派としてマロン派キリスト教徒、スンナ派イスラーム教徒、シーア派イスラーム教徒が存在し、その他の少数派として、ギリシャ・カトリック、アルメニア教徒、ドゥルーズ派、アラウィー派などが存在する(宗派毎の人口比に関しては表1を参照)。エスニック・グループとしては、人口の約90%を占めるアラブ人がいて、これ以外にアルメニア人、クルド人、チェルケス人などの小さなエスニック・グループが存在している。
さらに、正確な数字は不明ではあるが、レバノン国外には国内のおよそ10倍ものレバノン人あるいはレバノン起源の移民が居住しているとされる。その多くはフランス、カナダ、オーストラリア、メキシコ、ブラジル、湾岸産油国、西アフリカ沿岸諸国、米国などに在住しており、なかにはそれぞれの国や地域でビジネスを成功させ、巨額の財を築いた者も少なくない。2019年末の国外逃亡劇で世間を騒がせた日産自動車のカルロス・ゴーン元会長などもブラジル出身でレバノンに起源を持つマロン派キリスト教徒である。
1943年11月に仏領委任統治からの独立を果たして以降、1970年代初頭に至るまで、レバノンはアジアとヨーロッパを繋ぐ中継地としての地政学的重要性、外国語を自由に操る国際的な貿易商の存在、レッセ・フェール(自由放任)を基礎とした政治経済体制、そして風光明媚な自然環境も相まって、金融・観光部門を中心に「中東のパリ」とも呼ばれるほどの栄華を誇った。だが、1975年から15年もの長きにわたって戦われた凄惨な内戦の影響で、国土は極度に荒廃、経済は完全に破綻し、知識や技術を持った貴重な人材の多くが国外へと去っていった。
内戦終結以降から2005年までの期間、レバノンは隣国シリアによる実効支配を受けることになる。内戦初期の1976年、シリアはレバノンに対して大規模な軍事介入に踏み切っており、内戦終結以降もレバノンが国防能力と治安維持能力を回復するまでという名目で軍と治安部隊を引き続き駐留させ続け、レバノンに巨大な政治的影響力を行使し続けた。また、内戦の最中に台頭したシーア派政治組織/対イスラエル抵抗運動組織であり、シリア・イランと密接な同盟関係にあるヒズブッラー(ヒズボラ)は、イスラエルの脅威は依然として消えていないとの論理によって内戦終結以降も唯一武装解除を免れた(その軍事力は今では国軍を遥かに凌いでいる)。シリアによる実効支配はレバノンに一応の安定をもたらしたものの、隣国に対する長引く実効支配とヒズブッラーに対する援助は国際的な批判をうけることにもなった。
そうしたなかで2005年2月、レバノンの大富豪で元首相、同国復興の立役者でもあるラフィーク・ハリーリー氏が暗殺された(実行犯は未だに明らかとはなっていないが、シリア当局の関与が強く疑われている)ことを契機に、レバノン国内では反シリアを掲げる国民運動、いわゆる「杉の木革命」が急速な盛り上がりを見せた。そうした動きを受けて、同年5月、シリアはレバノンからの完全撤退を決断する。
しかしながら、シリアという「重石」が取り除かれたことで、レバノン政治は再び深刻な政情不安に陥ることになり、2008〜09年頃には再び内戦の足音が聞こえてくるまでに事態は悪化した。ただ、このときはシリアやサウジアラビアをはじめとする外国勢力が再びレバノン政局に介入し、一応の秩序をもたらすことに成功した。だが、2011年以降はシリア内戦や地域情勢の不安定化の影響を強く受けることとなり(レバノンには現在まででトルコに次いで2番目に多い約150万人ものシリア難民が押し寄せたといわれている)、同国はまたもや深刻な困難を背負うこととなってしまった。
イラン/現在の政治体制・制度
現在のイランの政治体制、すなわちイスラーム共和制の来歴は1979年の革命にさかのぼる。反王政運動は1960年代米国の提言を受けて始まった「白色革命」の影響を受けるとされるが、それは主に二つの主要アクターに影響を及ぼしたとされる。一つは労働者である。大地主所有者の解体と工業化を柱とする「白色革命」によって地方と都市、都市部の労働者の所得格差が拡大したことで1970年代に労働者による抗議運動が頻発するようになった(Parsa 1989:141-144)。所得格差の要因が米国による対外投資の増加にあるとの考えが市中に広まると「反米」が反王政運動のスローガンの一つとなったのである(Keddi 2006:148-169)。もう一つは宗教勢力である。近代教育制度の普及を目指す「白色革命」を受けてイランの宗教勢力は社会的役割が低下するとの懸念を抱くようになる(Brumberg 2001: 73)。それに対して宗教勢力は近代的な教養とイスラーム法学の両方を身につけた若年の知識人の育成に力を入れた(嶋本2011:52-55; Fischer 1980: 76-86)。この宗教学院での教育が後に新体制の創設において宗教勢力が他の勢力を制圧し権力の中枢を掌握する背景である[1]。
イスラーム法学者が国を統治するイランの政治制度の根底には革命で指導的な役割を果たしたホメイニー師が唱えた「イスラーム法学者の統治(ヴェラーヤテ・ファギーフ)」論がある(Arjomand 1988: 177-188)。これはホメイニー師が革命前から提唱していた考えである。その論点は、第12代イマームがお隠れで不在の間、外国植民地主義による反イスラームの攻勢に直面するイスラーム世界を救済するためには、イスラーム法を正しく解釈し執行できる統治者が必要であるというものである(吉村2005: 80)。
イラン・イスラーム共和国憲法には「イスラーム法学者の統治」論を具現化するための様々な条項が盛り込まれている。憲法第1条は、イランの政体がイスラーム共和制であり、この体制には「全有権者の98.2%が」賛成票を投じたことを明記している。第2条は主権が神にあることを謳っており、第4条ではイスラーム共和国におけるあらゆる法律はイスラームの原理に基づくことが定められている。そして第5条では、イマームがお隠れでいる間は、「公正で徳高く実社会に関する知識を有し、勇敢で有能な」イスラーム法学者(ファギーフ)が、イスラーム共和国を指導するとされている。
憲法第56条によれば、主権は神にあるものの、その神は人間を、自らの社会的運命を決定する権利を持つ存在として創造した。よって何者も、神から人間に与えられたこの権利を奪うことはできない。そのように定めた上で憲法は、イラン・イスラーム共和国の統治権力は立法権、行政権および司法権からなり、相互に独立するこれらの三権はいずれも最高指導者の導きのもとに、憲法の諸原則に基づき行使されることを定めている。
以上の憲法の特徴を踏まえ、イランの政治体制は神権政治と共和制という一見相反する特徴を備えた政治体制だとする指摘がなされている(Ghobadzadeh and Rahim 2016; Abdolmohammadi and Cama 2015)。
以下、イスラーム共和制を構成する主要機関を紹介する。各機関の説明に入る前にイランの政治体制の二元構造について説明しておきたい。イランの国家機構には日々の行政を担当する大統領(1989年までは首相)と内閣を中心とする行政府が存在する[2]。民選機関である議会は行政府が執行するための法を制定し、行政府の活動を監視している。他方、イランには最高指導者を頂点とする宗教政治の構造が併存するという特徴がある。それには金曜礼拝指導者、さらには警察、革命防衛隊、社会福祉[3]、開発機関[4]、国営メディア、公立大学などにおける最高指導者名代が含まれる(Matsunaga 2009: 478-479)。選挙で政権の派閥が変わると政策選好も変化することが指摘されている(Randjbar-Daemi 2018)。しかしながら大統領が率いる機関と最高指導者が率いる機関の権力関係は制度的にも実践的にも不平等である(Abdolmohammadi and Cama 2015)ことに注意する必要がある。
なお本稿はイランの政治体制の制度的側面を解説することを目的とするため、最高指導者、および三権を担う機構に絞る。また以下の憲法とは1989年の改正憲法を意味する。
最高指導者
イラン・イスラーム共和国の最高指導者は、「宗教的かつ政治的」な統治権を有する(憲法第107条)。初代最高指導者は、カリスマ的な革命の指導者ホメイニー師が努めたが、ホメイニー師の亡き後、最高指導者は国民の直接投票により選ばれる専門家会議メンバーにより決定されることになっている。 初代最高指導者であるホメイニー師が1989年6月に逝去すると、当時大統領を務めていたアリー・ハーメネイー師が、専門家会議の決定により最高指導者に就任した。
(1) 最高指導者に求められる資質(憲法第109条)
イスラーム法学上の様々な問題にまつわる法判断に必要とされる学識
イスラーム共同体を導くのに必要とされる公正さと敬虔さ
指導者に必要とされる適切な政治的・社会的洞察力、慎重さ、勇気、権威、国家運営能力
(2) 最高指導者の権限(憲法第110条)
- 体制利益判別評議会との協議をふまえたイラン・イスラーム共和国体制の施政方針の決定
- 体制の施政方針の適正な遂行の監督
- 国民投票の実施宣言
- 統帥権
- 宣戦布告、和平の受諾、軍の動員
- 以下の者の任命、解任、辞任の受理
- 監督者評議会メンバーのイスラーム法学者6名
- 司法長官
- イラン国営放送総裁
- 全軍統合参謀長
- イスラーム革命防衛隊総司令官
- 国軍及び治安維持軍の総司令官
- 三権間の対立の解消と調整
- 通常の方法では解決が不可能な込み入った問題の体制利益判別評議会を通じた解決
- 国民により選ばれた大統領の認証
- 最高裁判所が大統領による違反行為を認定した場合、あるいは国会が大統領は不適格との決定を下した場合、これに基づく大統領の罷免
- 司法長官の推薦を受けての恩赦および減刑の実施
立法府
イラン・イスラーム共和国において、立法権は国民による直接投票で選出された議員から構成される国会により行使される。憲法はまた、「非常に重要な経済的、政治的、社会的、文化的問題については」、国民投票により立法権が行使されることもあることを定めている。国民投票は、国会議員全員の3分の2の承認を得て実施される。
(1) 国会の構成
- 任期4年
- 定数290
- 憲法憲法第 64 条は定数270と定めている。ただし1989年の国民投票以降、10 年毎に人口、政治、地理その他の要因を考慮に入れて、最大30名まで議員を増員できる。
- この規定に基づき、2000年に実施された第6期国会選挙から、国会議員の定数は290名に増員された。
- 宗教少数派5議席
- ゾロアスター教徒は1名、ユダヤ教徒も1名、アッシリア系およびカルデア系キリスト教徒はあわせて1名、南部及び北部のアルメニア人キリスト教徒はそれぞれ1名の議員を選出することになっている(憲法第64条)。
(2)国会の権限
- イスラーム教の原則及び憲法に違反しない範囲であらゆる問題に関わる法律を審議・制定できる(憲法第71条)。
- 最小限15名の議員の賛同があれば法案を議会に上程できる(憲法第74条)。
- 国際間の条約、議定書、協定及び同意書の承認(憲法第77条)
- 政府が国内外の借款または無償の協力を受けるための承認(憲法第80条)
- 大統領による内閣組閣後、行政権行使前の信任投票(憲法第87条)。信任には投票総数の過半数の賛成が必要。
- 閣僚の罷免
- 閣僚の喚問動議は最低10名の議員の署名により上程される。動議の対象となった閣僚は10日以内に議会に出席し、動議に対する答弁を行う。信任投票が得られなかった場合、閣僚は免職となる(憲法第89条)。
- 大統領の罷免
- 大統領の喚問動議は3分の1以上の議員の決議により行われる。大統領は1ヶ月以内に議会に出席し、動議に対する答弁を行う。3分の2以上の議員が大統領を無能と票決すれば、罷任の理由を最高指導者に通知する。
- 行政府及び司法府の執行方法に対する苦情処理(憲法第90条)
(3) 監督者評議会による立法の監督
- 監督者評議会の構成(憲法第91条)
- 公正かつ時代の要請及び問題点に精通するイスラーム法学者6名(最高指導者が任命)
- 法律の各分野に精通する法学者6名(最高指導者が任命する司法長官が指名し、国会が承認)
- 任期6年(憲法第92条)
- 監督者評議会の権限
- 国会が可決する法律がイスラームの原則に適っているか否かは、監督者評議会が判定する。国会で可決された議事事項がイスラームの原則に抵触しないとの判定は監督者評議会中のイスラーム法学者の過半数により、また違憲性がないとの判定は監督者評議会メンバー全員の過半数による(憲法第96条)
- 憲法の解釈権限。監督者評議会メンバーの4分の3の賛成により解釈が決定される(憲法第98条)
(4) 体制利益判別評議会による裁定(憲法第112条)
- 体制利益判別評議会は1988年2月に設置された。メンバーは最高指導が任命する。
- 国会で可決された法案を、監督者評議会が承認せず、その法案をめぐる国会と監督者評議会の間の対立が解消されない場合、法案は「体制の利益」という観点から最終的な判断を下す権限を有する。
行政府
イラン・イスラーム共和国において、大統領は最高指導者に次ぐ第2の権力者である。大統領の任期は4年であり、継続的な再選は1回に限り許される(第114条)。
(1) 大統領に求められる資質(憲法第115条)
- 宗教的及び政治的に優れた人格を有する卓越した人物
- 生粋のイラン人でイラン国籍を持ち、管理能力があり慎重で、評判がよく正直かつ敬虔で、イスラーム共和国の原則と国教を信じ、これに忠実である者
(2) 大統領の権限
- 複数の副大統領の任命(憲法第130条)
- 議会の決議事項に署名する(憲法第123条)。大統領に拒否権はない。
- 閣僚の議会への紹介(憲法第133条)
- 大臣の解任(憲法第136条)
司法府
イラン・イスラーム共和国において、司法権内で最高の地位を占める司法長官は最高指導者により任命される。司法長官は「公正で司法に通暁し、管理能力を有しており、かつ有能な」イスラーム法学者であることが求められ、その任期は5年である。司法府長官は検事総長と最高裁判所長官の任命権限を持つ(憲法第162条) 。またイランでは内閣任命は大統領の権限であるが法務大臣のみ司法長官が任命する(憲法第160条)。
イランの司法府は憲法では中立・独立機関と規定されている。しかし、司法長官は最高指導者により直接任命されるため、実際の法執行では最高指導者の提示する政治方針に従う傾向がある(Shambayati 2008: 301; Künkler 2009)。司法府の傘下には、最高裁判所、検察庁、軍事法廷、行政裁判所、各州司法局が置かれている。加えて、聖職者の政治犯を裁くための聖職者のための特別法廷や反体制的なジャーナリストを裁くための報道法廷も設置されている(Entessar 2002: 29-34)。
<注>
本稿は、坂梨祥「イラン・イスラーム共和国」松本弘編『中東・イスラーム諸国 民主化ハンドブック2014 第1巻 中東編』人間文化研究機構「イスラーム地域研究」東京大学拠点, 2015, pp. 37-54. を基にしている。
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嶋本隆光(2011)『イスラーム革命の精神』京都大学出版会
吉村慎太郎(2005)『イラン・イスラーム共和国体制とは何か:革命・戦争・改革の歴史から』書肆心水
[1] 革命成功の他の要因は、反王政勢力に対する妥協と抑圧を用いた王政の対応の一貫性の欠如(Rasler 1996)、米国で人権政策を重視するカーター政権の発足(Taheri 1986: 210-211)が指摘されている。また革命から1980年代初頭のホメイニー派の宗教勢力と他の勢力との権力闘争の歴史についてはBakhash(1986)、対MKOに着目する歴史研究はAbrahamian(1989)、80年代の各種法廷における政治犯の処罰の歴史はAbrahamian(1990)に詳しい。
[2] 1989年の憲法改正に伴いそれまで首相が掌握していた行政権が大統領に一本化された(Arjomand 2009: 38-39)。
[3] イスラーム共和制下のイランの社会福祉政策が王政期とは対照的に貧困層の救済に重点がおかれ国民を国家に包括する役割を担うという議論はHarris (2017)を参照。
[4] 革命防衛隊傘下の開発ジハードによるインフラ事業、それによる全国的な雇用機会の提供についてはLob(2018)を参照
マレーシア/現在の政治体制・制度
マレーシアの政体は、1957年のマラヤ独立憲法と、それを継承する1963年のマレーシア連邦憲法に規定され、連邦制の下での立憲君主制が採用されている。イギリスの旧植民地であったことも影響し、統治制度は、議院内閣制が採用されている。
(1) 元首と連邦制
マレーシアの国家元首の地位にあるのは国王(Yang di-Pertuan Agong)である。国王は、各州レベルでの元首に相当する統治者によって構成される統治者会議(Majilis Raja-Raja)を通じて5年ごとに選挙によって選出される。候補者として国王に就任する資格を持つのは、マレー半島部の9州の世襲の統治者である(憲法32条、38条)。ただし、これまでの国王は慣例として9州から輪番制で選出されている。国王は「連邦の第一人者(憲法32条1項)」で、連邦の行政権は国王に付与されている(憲法39条)。国王は同時に国教であるイスラームの長で、陸海空の3軍を統率する。ただし、国王の行政権や軍の運用等は首相或いは首相を筆頭とする内閣の助言に基づいて行使されるため、実質的な権限は首相が有している(憲法40条)。マレーシアに独特な国王に関する憲法規定は、第153条のマレー人及びサバ、サラワクの先住民の社会・経済上の特権に関わる規定であり、国王にはこの特権を守る責任があることが規定されている(「民主化の経緯」の箇所も参照)。
連邦制をとるマレーシアでは、13の州から構成され、そのうちのクダ、クランタン、トレンガヌ、パハン、ペラ、スランゴール、ヌグリスンビラン、ジョホールの7州にはスルタン、ヌグリスンビラン州にはヤン・ディプルトゥアン・ブサール、プルリス州にはラジャが君臨しており、これらの9州の世襲の統治者は上述の国王になる資格を持つ。あとの4州(ペナン、マラッカ、サバ、サラワク)には国王が任命する州元首(Yang di-Pertua Negeri)が世襲の統治者に代わって置かれている。また、この13州の他にクアラルンプール、プトラジャヤ、ラブアンが連邦直轄地となっている。各州では、一院制の州議会が立法権を司り、州元首に任命された州首相(スルタン等が存在する9州ではMentei Besar、他の4州ではKetua Menteri)に率いられる州執行評議会(EXCO)が行政権を司る。
マレーシアの地方制度は上から連邦政府、州政府、自治体の三層構造になっている。地方自治体は特別市、一般市、町の3つの分類がある。自治体の長と議員は1960年代まで選挙で選出されていたが、現在では選挙が中止され、州政府による任命制となっている。連邦と州の権限配分は憲法第9付表に規定され、州はイスラーム法、マレー人の生活習慣、土地、農林業、地方自治などが主な権限となっている。連邦は国防、外交、教育など幅広い権限を持ち、連邦と州の権限が重複する場合は連邦に優先権がある。州は自治体に対して、全般的な監督権限があるものの、連邦は憲法95A条に規定された組織である国家地方自治評議会(Majlis Negara bagi Kerajaan Tempatan)を通じて自治体をコントロールすることが可能になっている。
(2) 立法権
連邦の立法権を付与されているのは、連邦議会である(44条)。連邦議会は上院(Dewan Negara)と下院(Dewan Rakyat)の二院から構成される。上院は、各州から2名ずつ選ばれる26名と国王によって任命される44名の計70名(任期3年)によって構成される。下院は、小選挙区で選出される222名(任期5年)から構成される。旧宗主国のイギリスの制度を受け継ぎ、下院が首相選出、予算、法案審議などで優越する。
(3) 行政権
連邦の行政権は国王に属しているものの、実際は首相及び内閣の助言に基づいて行使されるため、実質的には首相及び内閣が行政権を行使している。連邦下院議会で多数の信任を得ている議員が国王によって内閣の長である首相に任命される。各大臣は首相の勧告に基づいて国王が任命するが、連邦の上院あるいは下院のいずれかの議員である必要がある。
(4) 司法権
司法制度は3審制をとっており、上から連邦裁判所、控訴裁判所、高等裁判所があり、下級裁判所としてセッションズ裁判所とマジストレート裁判所がある。連邦元首や州元首に関わる裁判事項は特別法廷で扱われる。これらの裁判所以外にも、半島部にはムスリム間の親族・相続関係、イスラーム道徳などに関する領域を扱うシャリーア裁判所が存在する。
パキスタン/現在の政治体制・制度
パキスタンは1947年8月14日に英領インド植民地から分離独立後、イスラーム国家をめぐる論争やムスリム連盟内部の東ベンガルと西パンジャーブの対立など、政争が続き、最優先課題であった憲法制定過程は停滞した。1956年3月にようやく最初の憲法が発効し、イギリスの自治領から、パキスタン・イスラーム共和国となり、憲法制定議会は国民議会に変わって、イスカンダル・ミルザー総督は初代パキスタン大統領として宣誓を行った。その後、軍事クーデタによる憲法の停止、1962年憲法を経て、1973年に制定されたのが現行憲法である。
議会は二院制をとっている。上院の定数は104、任期は6年で3年ごとに半数を改選する。下院は定数342、任期は5年である。ただし、2018年3月の半数改選後の5月に第25次憲法修正によって連邦直轄部族地域がハイバル・パフトゥンハー州に併合されることとなったため、上院の議席数は部族地域に割り当てられていた8議席が削減され、2021年に予想される改選では96議席となる。下院の342議席のうち、272議席が普通選挙で選出され、60議席は女性、10議席は宗教的少数派のための留保議席となっている。
選挙後、議会が招集されると議員の投票によって議長が選出され、次に同様に首相が選出され、選出された首相が内閣を構成する。大統領は上下院議員と4州の州議会議員の選挙によって選出される。軍事政権の大統領が権限拡大を目的として行った1985年の憲法修正によって大統領は議会解散権をはじめとする強い権限を持ったが、2011年の修正によって大幅にその権限が削減され、現在は首相と内閣に実権が戻されている。
1956年の憲法施行以来、制度的には議会制民主主義の形が整えられたものの、上に触れたとおり、パキスタンでは度々軍事クーデタにより、憲法によらない政権が成立し憲法が停止されるなどのことが起こってきた。軍事政権下にあった期間は以下のとおり。
(軍人が戒厳令司令官など実質的な最高権力をもった、もしくは大統領であった期間)
- 1958年10月〜1971年12月(13年2か月)
- アユーブ・ハーンおよびヤヒヤー・ハーン共に大統領
- 1977年7月〜1988年8月(11年1か月)
- ジアーウル・ハク戒厳令司令官のち大統領
- 1999年10月〜2008年8月(9年1か月)
- パルヴェーズ・ムシャッラフ行政長官のち大統領
2008年にパルヴェーズ・ムシャッラフ大統領が辞任して以後、軍人が最高権力者の地位に就くことはなく、5年ごとに下院選挙が実施され、議会制民主主義の体制は維持されている。しかし政党政治は依然として未熟な状態にあり、政治家の腐敗や怠慢など、国民の政治不信、政治家不信は残っている。無論、軍人が憲法を無視して政権を取るクーデタのような事態は否定されるものの、軍が隠然と政治家や政治そのものを支配しているという一般的な認識は根強く存在する。実態としても、テロの封じ込めから国内の政治的な紛争やデモへの対応に至るまで、最も有効な力を発揮してパキスタン社会の秩序を維持してきたのは軍であることは否めない。この間の憲法な変更としては、1985年に軍人であるジアーウル・ハク大統領が大統領権限を強化する憲法改正を行い、議会解散権を持った(第58条2項b)。この議会解散権は90年代の民主化した時代にあっても、大統領を通じて軍が議会と首相を押さえる手段として使われ、パキスタン人民党(PPP)とパキスタン・ムスリム連盟(PML)から交互に出た歴代首相は一度も任期を全うできず、任期半ばでの交代を繰り返した。PMLのナワーズ・シャリーフは二度目の首相在任中、こうした軍の力に対抗を企て、軍の人事に介入したものの経済政策の失敗で国民の支持を失った挙句、1999年10月に陸軍参謀長のクーデタによって首相の座を追われることとなった。
さらに軍とその出身者は多くの経済活動をも行い、近年では軍関連産業がGDPの20%を占めると推計する研究もある。パキスタンは体制としては立憲主義の議会制民主主義であるが、実質は軍を柱とする権威主義体制が続いていると考えられているのである。
それでは権威主義に対抗する可能性がどこにもないかといえば、2008年にムシャッラフ大統領を辞任に追い込んだ一連の政治変動は注目に値しよう。これはクーデタで政権を取った大統領と、その違憲性を問おうとする最高裁長官との間の権力闘争であったといえる。最高裁長官の違憲判決を恐れてムシャッラフが長官を職務停止としたことから、まず司法関係者がデモを行い、これに政党が乗る形で下院での大統領弾劾にまで発展した。弾劾に至る前に大統領が辞任したが、路上で行なわれていた反ムシャッラフ運動がやがて議会を動かし、クーデタで成立した政権を打倒することに成功した、というのはパキスタン憲政史上初めてのことであった。
2018年7月に行われた選挙で、これまで政権を交代で担当してきたPPPとPMLという二大政党を抑えて、パキスタン正義運動党(PTI)が初めて政権を取った。これもまた軍の合意のもとに実現した躍進だという評価が聞かれる。おそらくそれは正しく、イムラン・ハーン首相が軍から離れたり対抗したりできる政治手腕を発揮した成果ではないだろう。しかし、PTIは、70年代以来パキスタンの政治を動かしてきたPPPやPMLと違って、地主でも資本家でもない人物による新しい政党である。また軍も、国際社会との関わりの中で、軍政のようなあからさまな形の干渉から遠ざかっている。急速な展開は望めないにしても、パキスタンは実質的な民主化への緩やかな変化の過程にあると見られる。
アラブ首長国連邦/現在の政治体制・制度
アラブ首長国連邦(UAE)は、7つの君主制の首長国から構成される連邦国家である。1971年12月2日に英国の保護領から独立し、現在に至る。政治体制は、UAE 恒久憲法(以下憲法)において規定されている。
政治体制は憲法第1条において、「UAEは独立した、主権を有する、連邦制の国家」と定められている。連邦を構成する首長国は、アブダビ、ドバイ、シャルジャ、アジュマーン、ウンム・アル=クワイン、ラアス・アル=ハイマ、フジャイラが列記されている。各首長国には、長年同地を支配してきた首長家が存在し、首長位は首長家内で移譲されてきた。また憲法第45条により、連邦機関は①連邦最高評議会(al-Majlis al-’U‘lā li-l-Ittiḥād/The Federal Supreme Council)、②連邦大統領および副大統領、③連邦閣僚評議会(Majlis Wuzarā’ al-Ittiḥād/The Council of Ministers of the Federation)、④連邦国民評議会(al-Majlis al-Waṭanī al-Ittiḥādī/The Federal National Council; FNC)、⑤連邦司法、の5つから構成されることが定められている。
連邦政府の最高意思決定機関は、7首長によって構成されている連邦最高評議会である。連邦最高評議会の互選により、国家元首である連邦の大統領と副大統領が一名ずつ選出される。アブダビ首長が連邦大統領を務め、ドバイ首長が連邦副大統領と首相を務めることが慣習となっている。また大統領は首相を任命し、首相が組閣する。首相や閣僚の就任については、議会の承認を必要としていない。制度的には各首長国は対等な地位にあるものの、実態としては政治・経済の面でUAEの建国や発展を主導してきたアブダビとドバイが優位である体制が続いている。
UAEにおいて三権は分立されておらず、立法権と行政権は形式的に連邦最高評議会の監督・承認を受けるものとされている。
立法権は憲法第110条によって「閣僚評議会が法律案を起草し、連邦国民評議会に提出する。閣僚評議会は法律案を大統領および最高評議会に提出する。連邦大統領は、連邦最高評議会による承認を経たのち、法律に署名し、公布する」と定められている。閣僚評議会で起草された法案はFNCで審議・承認を受け、審議結果や勧告は閣僚評議会に提出される。ただし、閣僚評議会の決定はFNCの審議に左右されない。法律は最終的に大統領が署名し、その後公布される。
行政権は憲法第60条によって「閣僚評議会は、その連邦の行政機関としての資格並びに連邦大統領及び最高評議会の最高の監督に基づいて、この憲法及び連邦法に従い、連邦の権限内にあるすべての対内および対外事項を処理する責任を負うものとする」と規定されている。
司法権については、「司法は、統治の基礎である。裁判官は、独立であって、その職務遂行にあたり、法律および良心以外のいかなる権威にも服さない」(第94条)と規定される。また、最高裁判所の裁判官は、最高評議会の同意を得たのちに大統領命令によって任命される(第96条)。
連邦政府
UAEは連邦体制をとっており、連邦政府と首長国政府の間では行政上の管轄が分かれている。憲法第120条では、連邦政府が外交や軍事、治安、連邦財政、教育、公衆衛生などの管轄権を保持することが定められており、第122条によって首長国政府がそれ以外の管轄権を保持することが定められている。なお、天然資源に関する管轄権・処分権は憲法第23条によって各首長国が保持することになっている。またアブダビやドバイなど財政力のある首長国政府は、例えば教育など連邦政府の管轄分野であっても、独自の政策を実施することが少なくない。
UAEの最高意思決定機関は連邦最高評議会である。歴史的には7首長が一堂に会して重要な政策について議論していた時期もあったが、次第に形骸化するようになった。今日では、連邦最高評議会はほとんど開かれておらず、12月2日の建国記念日やイードなどの祝賀行事、5年に一回の大統領改選の際に7首長が集まる程度である。したがって、閣僚評議会(内閣)が実質的な最高意思決定機関となっている。閣僚評議会は首相と副首相、各省庁の大臣(閣僚)、国務大臣、事務局長らから構成されている。
連邦財政については、憲法によって各首長国の規模に応じた分担が定められている。しかしながら、北部首長国には財政を負担する能力がないため、豊富な石油資源を有するアブダビ首長国が大部分を負担してきた。また財源多角化のために2018年1月から5%の付加価値税(VAT)が導入されており、その30%は連邦財政に組み込まれる。連邦政府は国内資源の再配分機能を有しており、とりわけ北部首長国の基幹インフラの整備や教育政策、保健政策などにおいては中心的役割を担っている。
首長国政府
各首長国は世襲の首長によって統治されている。首長、副首長、皇太子が政治の中心となり、また他の首長家メンバーも首長国政府機関の要職に就くことが多い。首長府や執行評議会と呼ばれる機関が意思決定と政策の中心となり、その下に連邦政府の省庁に相当する専門部局が設置されている。またアブダビとシャルジャにはそれぞれ諮問評議会が設置されており、地元住民の意見を吸い上げる仕組みがある。
首長国政府財政は独立しており、基本的に独自の財源で賄われている。上述の通り、天然資源は各首長国が管轄しているため、UAEの原油埋蔵量の9割を保持するアブダビが必然的に豊かになる。ただし、北部首長国は天然資源に乏しく財政基盤が脆弱なため、独自で債権を発行して資金調達を行ったり、何らかの形でアブダビからの支援を受けたりしていると考えられる。また、2018年に導入されたVATの70%は徴収した首長国の財政に組み込まれている。
連邦国民評議会
UAEの議会にあたる連邦国民評議会(FNC)は1972年に設立された。議会制度は憲法第4章「連邦国民評議会」(憲法第68条~第93条)によって明文化されている。政府に対する諮問的な役割を担っており、政府から提出された法案を審議したり、各種政策について担当大臣や省庁関係者を喚問し議論することができる。しかしながら、連邦国民評議会には立法権が認められていない。
FNCは全40議席からなっており、アブダビおよびドバイは各8議席、シャルジャおよびラアス・アル=ハイマは各6議席、アジュマーン、ウンム・アル=クワイン、フジャイラは各4議席が割り当てられている。議員の任期は4年(2008年の憲法改正により、それまでの2年から延長)で、会期は10月第3週からの7か月間と定められている。
議員は、長らく首長による勅選が行われてきた。その後、2005年にハリーファ大統領が翌2006年にFNC選挙を実施することを発表した。これにより、全議席の半数にあたる20議席は、選挙による選出へと変更された。2001年の米国同時多発テロ事件以降、湾岸諸国は欧米からの民主化・改革圧力がかかっていた。また指導者層のなかには現状を政治的な「遅れ」と見る向きもあり、ある程度の政治改革の必要性は自覚されていたと言えるだろう。
参考文献
- 堀拔功二 2011. 「アラブ首長国連邦」松本弘(編)『中東・イスラーム諸国民主化ハンドブック』明石書店, pp. 338-353.
- 堀拔功二 2020. 「アラブ首長国連邦」日本エネルギー経済研究所中東研究センター(編)『JIME中東基礎講座2020年版』, pp. 44-50.
- UAE Cabinet “The Constitution” <https://uaecabinet.ae/en/the-constitution>
- UAE Ministry of Justice “Laws and Legislation Portal” <https://elaws.moj.gov.ae/engLEGI.aspx>
- UAE Ministry of State for Federal National Council Affairs <https://www.mfnca.gov.ae/en/>
クウェート/現在の政治体制・制度
憲法の概要
現在クウェートの政治体制はサバーフ家が首長位を世襲する立憲君主制であり、政治制度は1962年に公布されたクウェート国憲法に基づいている。同憲法は1976年から1981年と、1986年から1991年の二度にわたって停止され、1982年から1983年にかけて、政府が改正案を提案したこともあったが、現在まで改正はなされておらず、クウェートにおける政治のルールとして定着している。
クウェート国憲法(以下、憲法と表記)は、選挙で選ばれた国民の代表と首長家代表が制憲議会での検討を重ねて制定された経緯から、君主の権力に制限をかけ、国民の政治参加と諸権利を保障する、当時としては民主的で画期的な憲法であった。1961年6月に英国保護領から独立したのち、アブドッゥラー・サーレムAbdullah al-Salim al-Mubarak al-Sabah首長(在位1950-1965年)が同年8月に制憲議会選挙実施のための法律案の起草委員会委員を任命し、12月に制憲議会の設立を宣言した。翌1962年1月に制憲議会選挙が実施され、クウェート人成年男子より選出された20名の民選議員と、首長が首長家一族から任命した暫定内閣の閣僚からなる制憲議会が開会した。起草委員会での審議と本会議での承認を経て、1962年11月11日にアブドッゥラー・サーレム首長の署名により、183条からなる憲法が発布された。アブドッゥラー・サーレム首長が憲法に署名するシーンを撮影した写真は、クウェート憲政・議会政治の始まりのアイコンとして多用されており、同首長はクウェート憲政の父と称されている。
憲法は、1950年代に隆盛したアラブ・ナショナリズム運動の影響もあり、第1条でクウェートがアラブ諸国のひとつであることが宣言されている。第2条では国教をイスラームとし、シャリーアが主要な法源であると位置づけられている。第4条では首長位を大ムバーラクと称されるムバーラク・サバーフMubarak al-Sabah首長(在位1896-1915年)の子孫が継承すること、皇太子(厳密には首長位継承予定者Wali al-Ahd)は、首長の指名と国民議会の過半数の承認に基づき、首長が任命することが規定されている。特徴的なのは、将来の首長となる皇太子の任命に対して議会が拒否権を有しており、首長が指名した人物が議会の承認を得られなかった場合、首長は大ムバーラクの子孫から少なくとも3名を指名し、その中から議会が忠誠を誓った人物を皇太子に任命することとなっている。第6条では国民主権に基づく民主的統治が明記されている。
立法権および国民議会の権能
立法権は首長と国民議会(以下、議会と表記)に付与されており(第51条)、立法に関して相互に牽制しあう制度設計となっている。湾岸アラブ君主制の中でも議員の法律案提出権や大臣に対する質問権、大臣の罷免権があるなど議会の権能が大きいのが特徴である。
議会は一院制で、議員定数は50議席である。議員は普通選挙および秘密投票により選出される。議員の任期は4年である。法律案の提出は首長と議員に認められている(第65条、議員立法・第109条)。定足数は総議員数の過半数であり、議会の議決は基本的に出席議員の過半数の賛成により成立する。選挙で選出されていない大臣も職制上の議員とみなされ、総議員数に含まれており、委員会人事と大臣の信任投票案の投票を除いて議会の採決に参加する(第80条)。大臣の人数は議員定数の3分の1を超えないこととされており(最大16名)、そのうち少なくとも1名は民選議員から任命することが定められているため(第56条)、過半数は最大で33名となる(民選議員から大臣に任命される人数によって変化する)。
議会に提出された法律案は、議決・承認されたのち、首長が30日以内に裁可することで法律として発効する。首長は議会に法律案を差し戻して再検討を求めることができるが、それに対して総議員数の3分の2以上の賛成によって法律案が改めて承認された場合には、首長は30日以内(緊急の場合は7日以内)に裁可・公布しなければならない。首長が法律案の再検討を求めず、裁可を30日以内に行わない場合は、法律案は裁可されたものとされ、発効する(第65条・第66条)。
首長は、議会の休会中または解散中に、憲法と予算法の見積もりに反しない範囲で、法律と同等の効力を有する緊急法令(緊急勅令)を発布することができる。緊急法令は、議会の再開または選挙後の新しい議会が召集されてから15日以内に議会に提出されのち、議決による承認を得なければならない。議会が承認しなかった場合、緊急法令は基本的に遡及的に無効となる(第71条)。
議員は、法律案の提出だけでなく、政府の政策や問題に対する首相および所管の大臣への質問および、大臣の不信任決議案提出の前提となる問責質問を提出することが可能である。また、問責質問を経たのち、議員は10名の連署で大臣に対する不信任決議案を提出することができる。閣僚を除く過半数の民選議員の賛成により不信任決議案が議決された場合には、対象となる大臣は決議の日から辞職したものとされる(大臣の罷免権、第101条)。首相に対する不信任決議案の提出はできないが、代わりに議会から政府に対する非協力の通知として首長に送られ、首長が新たに首相を任命するか国会の解散と60日以内の選挙の実施を宣言する。議会の解散権は首長のみ有する。
行政権
行政権は首長と内閣(閣僚評議会Majlis al-Wuzara)、大臣に付与されている。首長は首相を任命し、首相の指名に基づいて大臣を任命する。議会に大臣の罷免権が認められているが、内閣は首長に責任を負う。首相が辞職する場合、他の大臣も辞職する(内閣総辞職)。
閣僚数は国民議会の民選議員定数である50名の3分の1を超えないことが憲法で規定されており、16名が最大である。大臣のうち少なくとも1名は民選議員から任命しなければならない。女性閣僚が2005年から任命されている。
司法権
司法権は、首長の名のもとにそれを行使する裁判所に付与されている。司法の独立が明記されており、裁判官人事については最高司法評議会の決定に基づいて首長が任命する。7名の裁判官からなる憲法裁判所が設置されている。
バハレーン/現在の政治体制・制度
概要
現在の政治体制は、2002年に制定された憲法に基づいており、国王が強い権力を持つ立憲君主制である。正式な国号はバハレーン王国Mamlakat al-Bahrain、国王malikはハマド・ビン・イーサー・アール・ハリーファHamad bin Isa Al Khalifa、皇太子は国王の長男であるサルマーン・ビン・ハマド・ビン・イーサー・アール・ハリーファSalman bin Hamad bin Isal Al Khalifaである。バハレーンは1971年に英国保護領から独立し、制憲議会選挙を経て1973年に憲法が制定され、国号はバハレーン国Dawlat al-Bahrain、君主は首長amirを称していた。同年に国民議会選挙が実施されたが、1975年の議会解散および憲法停止により首長親政となった。1999年に即位したハマド首長(現国王)は、国民行動憲章を策定して国民投票に付した。2001年2月14日・15日に実施された国民投票によって国民行動憲章が承認されたことを受け、新憲法の制定に着手し、2002年2月14日に公布した。憲法は、2011年のアラブの春による反政府デモと、その後開催された国民対話集会の答申を受け、議長の権限拡大を中心とした修正がなされ、2012年5月3日にハマド国王により修正憲法が公布された。
立法権
立法権は、国王と議会に付与され、法律は国王の裁可を得て公布される。議会は二院制で、議員を普通選挙で選出する下院(代議院Majlis al-Nuwab)と、国王が任命する上院(諮問院Majlis al-Sura)から成る。上下両院は対等な立法権を有する。上下両院とも議員定数は40議席で任期は4年である。下院議長は下院にて選挙により選出し、上院議長は国王が任命する。
全ての法律は下院から上院への順で議決を経て成立するが、両院の議決が異なった場合は両院合同会議である国民議会Majlis al-Wataniでの議決を経て成立し、国王へ裁可のため送付される。国王による裁可が6カ月を経てもなされない場合は、国王による裁可がなされたものとみなされ、法律として公布される。国王は議会で議決により承認された法律案を再審議のため議会に返付する権限を持つ。議会に返付された法律案が総議員数の3分の2以上の賛成によって改めて議決・承認された場合、1カ月以内に国王は裁可・公布する。
国王は法律案の提出権および憲法修正案の提出権を有する。議会の休会中または解散中には法律と同等の効力を有する勅令を発することができるが、議会の再開時または新しい議会が召集された時には議会の議決による承認が必要である。議会が承認しなかった場合、勅令は発布に遡って失効する。また、内閣(閣僚評議会Majlis al-Wuzara)が提出する財政に関する法律案および緊急の審議を要求する法律案については、下院と上院でそれぞれ15日以内に議決される。両院の議決が異なる場合には、国民議会にて15日以内に議決される。この期間中に議決できなかった場合、国王はその法律案について勅令として発布できる。
下院は、大臣に対する罷免権をもつ。下院で大臣に対する問責質問istijwabが行なわれたのち、不信任決議案が下院議員の3分の2以上の賛成で議決された場合、その大臣は辞職したものとみなされる。首相に対しては不信任決議案を提出することはできないが、下院議員の3分の2以上が首相に協力できないと判断した場合、国民議会に諮られ、全議員の3分の2以上が同意した場合、議会が首相への協力を拒否したとみなされ、国王が新しい首相を任命(内閣総辞職)または下院を解散する。議会の解散権は国王のみが有する。
いずれにせよ、国王任命による上院のため、国王および政府の意向に反する下院の議決が国民議会で承認される可能性はほとんどなく、勅令が否決されることもない。国王による勅令の頻繁な発布や内閣が提出する法律案の緊急審議規定に加え、上院と下院は同じ議場で曜日を変えて本会議を開催しており、議会での審議には時間的な制約が大きい。そのため、野党は議会に実質的な権能はなく、単なる勅令の追認機関だと批判している。
行政権
行政権は、国王と内閣に付与されている。首相および大臣は議会選挙の結果とは関係なく国王が任命しており、議院内閣制ではない。首相は1971年の独立以前から現国王の叔父であるハリーファ・ビン・サルマーン・アール・ハリーファKhalifa bin Salman Al Khalifaが半世紀にわたり務めていたが、同首相が2020年11月に亡くなったのち、後任にサルマーン皇太子が任命された。閣僚の定数は特に定められていないが、サルマーン皇太子の首相任命時の閣僚数は24名で、うち8名が王族から任命されている。
司法権
司法権は国王の名において行使され、国王を議長とする最高司法評議会が裁判官の人事を決定している。法律2002年第27号に基づき憲法裁判所が設置され、2004年より業務を開始している。憲法裁判所判事は7名でいずれも国王により任命される。
地方行政
法律2002年第17号「地方行政に関する勅令」に基づき、地方行政単位として首都県、ムハッラク県、北部県、中部県、南部県の5つの県が設置された。地方行政の所管官庁は労働地方行政都市計画省で、県知事は国王が任命する。各県にはそれぞれ地方評議会Majlis al-Baladiが設置され、各評議会の定数は下院選挙で各県に配分された小選挙区数と同数とされた。2006年の第2回下院議会選挙以来、地方評議会選挙は下院選挙と同じ小選挙区制で同じ日程で投票が行われている。地方評議会は条例などの議決権はなく、県が所管する行政や都市計画、予算についての助言と監督を行う。2014年9月の選挙区割り見直しの際に中部県が廃止され、現在は4県に再編されている。
トルコ/現在の政治体制・制度
(1)議院内閣制から大統領制へ:体制変更が内包する危うさ
トルコの政治体制は、2018年6月24日の選挙を以って議院内閣制から大統領制に移行した。この体制変更は、従来の1982年憲法に変えて新憲法を制定するのではなく、1982年憲法の関連条項を変更することにより実施された。また、国会や市民社会での熟議を通して、何のためにどのような制度が必要であるかについて、国民的総意を時間をかけて醸成するという段階を踏むことなく、エルドアン大統領の旗振りの下、国会における与党の公正と発展党の多数を頼みにして実現された。大統領制移行を国民に問うた2017年国民投票でも、2018年6月に実施された大統領選挙でも、エルドアンは50%を辛うじて超える支持によって望みを果たした。ただし、「選挙」の項目で説明するように、2018年選挙での勝利は、公正と発展党が野党の民族主義行動党と選挙協力を行ったことにより可能になったものであり、与党単独での得票率と国会議席比率は過半数に届かなかった。対して、主要野党は議院内閣制に戻すことも含めて政治体制を再検討することを主要マニフェストに掲げて選挙を戦った。
結果的にはエルドアンの勝利となり、大統領制移行が実現したが、他方で、エルドアンはすでにこの数年の間に権威主義的な大統領制を事実上、実践していたとみることも可能である。実質的に大統領の一存で執政を行い、政治権力を牽制しうる政治・社会的権威(司法機関やメディア、大学)の人事や経営方針にも介入や弾圧を行使し、後で詳述するように、折からの国内外の危機的状況への対応のために非常事態的な政治手法に訴えてきた。その意味では、大統領制に移行したところで、この数年の統治のあり方が統治機構の再編を伴いながらも続くに過ぎない、という見方も可能であろう。しかし、エルドアンの執政手法に強く反発する批判的世論が過半数に迫る状況が2015年選挙以来、固定化しており、大統領制に関わる法的根拠が整えられたところで、エルドアンの執政手法の正当性を高めるとは限らないという不安感が残る。また、市民社会的な各種自由が制限されるだけでなく、ソーシャル・メディア上でのエルドアン批判者へのリンチや法的・社会的制裁が拡大してきたなかで、こうした状況が継続・悪化した場合、2013年6月にイスタンブルから全国各地に飛び火した反政府デモに類似する抗議運動が発生し、政治社会的混乱を招く可能性も十分に考えられる。
(2)議院内閣制時代の大統領と大統領公選制導入の経緯
2014年の大統領選挙までは、国家元首は大統領だったが、議員内閣制をとり、大統領は行政権を憲法規定上は持たなかったため、法律上は大統領制や半大統領制とはいえなかった。しかし、2014年8月の第一回公選大統領選挙の結果、普通選挙によって選ばれた大統領として、憲法上の大統領権限を最大限に行使して執政に関与することを正当化するエルドアンが当選したことによって、議員内閣制から事実上の半大統領制に移行した。後述のように、現行憲法は大統領の意向次第で権限を拡大解釈できる文言となっていたため、エルドアンは憲法の関連条文を全く変更することなく、大統領選出方法を国会での間接選挙から国民直接選挙へと変更しただけで、大統領制的な執政を事実上、実施してきたのである。さらには、2017年4月の憲法改正国民投票と2018年6月大統領選を経て、法的にも大統領制への移行を実現した。
2007年以前は、大統領は国会議員である必要はなく、議員総数の5分の1以上の書面による推薦を以て立候補でき、国会議員定数の3分の2以上の多数(秘密投票、第1回および第2回投票で決まらない場合、第3回投票は過半数)により選出されていた。2007年10月21日の憲法改正国民投票により、任期は従来の7年(再選不可)から5年(2選まで可)に変更された。いずれにしても、議員が大統領に選出された場合には、議員辞職と党籍離脱によって党派的に中立的立場をとることが求められていた。
現行の1982年憲法では、1980年以前に国会が混乱し、政治機能を発揮できなかったことを反省し、議院内閣制であるにもかかわず、国会に対する大統領の立場が強化されていた。大統領は首相の指名・任命権を持つ他、必要に応じて国会を招集し、国会の混乱に際しては解散総選挙を宣言する権限を付与された。また、国会が可決した法案の再審議を要求して国会に差し戻したり、再審議後にそのまま可決された法案を国民投票に付託したり、憲法違反の疑いがあると考える法律や政令については憲法裁判所に合憲性を審査させる権限も有した。行政や司法に対しても、大統領は国家監督委員会委員や各種上級裁判所の幹部裁判官および検事の一部を選任する権限を有してきた。軍に対しては、統帥権を有し、参謀総長の任命と軍の出動命令権を持つが、有事の際には参謀総長が指揮を執ることが定められている。以上のような大統領の権限がどれだけ実践されるかは、実際には個々の大統領がどのように行使するかにかかっており、その意味で、大統領の個性に大きく依存してきたといえる。国会の決定にあまり介入しない大統領もいれば、たとえば、2000年から2007年まで大統領を務めたセゼルのように、イデオロギー的に対立する政府の政策や人事に次々と干渉することも可能だった。
このような大統領の権限にかんする曖昧さがそもそも存在する上に、2007年5月に憲法の大統領選出条項が改正され、国会議員による間接選挙ではなく、国民の直接選挙によることになった。そのような憲法条項改正のきっかけになったのは、2002年総選挙以降、国会の過半数を優に上回る議席を得ていた公正と発展党から大統領が選出されることを阻止しようと、当時の唯一の院内野党だった共和人民党が軍部、憲法裁判所など、伝統的に世俗主義勢力を構成してきた国家機関と画策し、従来の法解釈に反する方法に訴えて、与党の大統領候補(当時のギュル外相)の選出を阻んだことである。公正と発展党の議席数は最初の2回の投票での選出に必要な議会定数の3分の2には達していなかったが、3回目の決選投票で単純過半数によって選出されることが確実視されていた。しかし、第1回投票をボイコットした共和人民党と、憲法裁判所出身の当時のセゼル大統領が、憲法裁判所に第1回投票の無効を訴え、憲法裁判所もそれを認める判決を下した。投票の定足数について特別の規定がないため、通常なら国会議員定数の3分の1のはずであるが、共和人民党らは国会議員定数の3分の2が定足数であると主張し、憲法裁判所もそれを認めたのである。つまり、共和人民党が投票をボイコットする限り、第1回投票は成立しないことになるため、新大統領選出はその状況では不可能となった。これを不当とする公正と発展党は、早期解散総選挙に打って出るとともに、大統領選の定足数を3分の1と明記する憲法条項改正を行い、さらに早期総選挙で再び国会過半数を制し、ギュル大統領の選出を達成した。その上で、国民の直接選挙で大統領が選出されるよう、憲法も改正した。こうして、憲法における大統領と三権、特に首相や政府との関係について一切の見直しや議論がされないまま、ギュル大統領が任期満了となる2014年をもって、公選大統領の時代に移行することとなった。
2014年大統領選で勝利したエルドアンは、そもそも半大統領制あるいは大統領制に前向きで、大統領として積極的に政治的リーダーシップを発揮したいとの意向をしばしば示してきた。大統領就任とともに法律上は党籍離脱し、議員辞職を強いられたが、大統領選出まで3期にわたり首相を務める間に、党組織人事と選挙候補者リスト選定を通じて党内で自派閥を形成していった。自身のライバル候補は結党以前から政治運動を共に作りあげてきた仲間であっても容赦なく排除していった。公正と発展党結成プロセス以来、トルコ政治を共に動かしてきたギュル元大統領や、公正と発展党政権期の外交政策の青写真を描き、自身が首相にまで抜擢したダウトオールは象徴的例である。しかし、その強権的で自己中心主義的な政治手法は全体としては、エルドアン首相期前半にトルコが経験した高度経済成長と生活水準の向上、国際社会での発言力向上といった、肯定的側面と結びつけて受け止められた。そうした手法に対して仲間や支持基盤から批判が漏れ聞こえては来るものの、トルコのさらなる発展や危機回避には彼のような強いリーダーが必要だと考える人々にとっては、エルドアン首相期後半以降の危機と権威主義化の時代において、彼を結局は支持する主要な理由になっている。
2014年の大統領就任以来、エルドアンは事実上の半大統領制を敷いて内政と外交を統率し、閣僚や党内の人事、選挙候補者リストもエルドアンのチェックと承認なしには首相は決定できないという状況だった。それは、かつて世俗主義派のセゼル大統領が公正と発展党政権の人事に介入したレベルをはるかに上回っていた。なによりもセゼルは裁判官出身であり、政党や議会に内側から働きかける権力基盤を有していなかった。エルドアンはその両者を有しており、しかもそれを独占しようとしてきた。例えば、ギュル大統領の任期満了に伴ってエルドアンが大統領に選出された際、世論調査でエルドアンを上回る人気を誇っていたギュルの党首と首相就任を妨げるために(http://www.internethaber.com/ankette-erdogan-ve-gul-soku-548550h.htm)、当時外相だったダウトオールを自ら首相(それゆえに党首)に抜擢した。しかし2年後にはそのダウトオールに対して首相辞任を強いた。ダウトオールは「清潔政治法」制定を公言して政治家の汚職疑惑解明に積極な姿勢を見せることで、与党政治家の汚職疑惑に対して野党だけでなく与党支持基盤からも高まっていた反発に応えようとしていた。また、2015年6月国政選挙で得票率と議席比率の双方で過半数を割り込みながらも国会第1党の座を守った際には、長年の政治的・イデオロギー的ライバルである共和人民党との連立政権樹立に前向きだったとされる。エルドアンは、前者については自身や自身の家族への疑惑が取りざたされていたこともあって阻止し、後者については連立協議のイニシアチブを党首らに任せることなく連立不成立の機運へと導き、そのまま異例の早期解散総選挙へと持ち込んだ。2015年11月には公正と発展党は議席比率で過半数を回復し、単独政権を維持することに成功した。ダウトオールはある意味、選挙の洗礼を受けずにトップダウンで首相の座に座っていたが、この二つの選挙を通じて首相として国民の信任を得たはずであった。それにもかかわらず、2016年5月にエルドアンによって辞任を強いられたのである。
代わりに1990年代のイスタンブル市長時代から側近として彼を支え、公正と発展党政権下で長く交通・海運・通信大臣を務めてきたビナリ・ユルドゥルムが首相に据えられ、大統領制移行までの最後の首相を務めた。
2013年春以降、エルドアン政権は多くの国内外の政治的危機に直面してきた。2013年5月末からの反政府デモとそれへの過度な暴力的鎮圧政策に対する国内外からの批判、同年秋移行から年末にかけてのギュレン派との対立激化と政府要人やその親族の汚職疑惑、2014年秋のコバニの戦闘に象徴される、内戦中のシリアにおけるクルド自治地域宣言と連動したトルコ内でのクルド武装組織(PKK)の活動活発化やシリアで勢力拡大する「イスラム国」へのトルコ政府支援に関する国際的疑念の高まり、トルコ・ルートによるシリア難民の欧州流入をめぐるEUとの関係悪化、こうした過程全体を通じての、政府に批判的メディアや市民組織の弾圧・閉鎖、政治・市民活動家や学術研究者の不当な逮捕や長期拘留、パージが深刻化してきた。2016年5月にはクルド系左派の諸人民の民主党議員のパージを主目的として、当時、起訴されながらも不逮捕特権のゆえに裁判が行われていない議員について、その時点で起訴された案件を有する議員だけに限定して不逮捕特権を解除する時限憲法改正を実現した。この後、同党共同党首を始め多くの議員が逮捕され、有罪判決を受けて留置されることになる。2016年7月の失敗したクーデタはこうした流れをさらに加速させた。非常事態が宣言され、パージや政府批判への弾圧は空前の規模に達した。こうした背景の下、2017年1月に大統領制移行のための憲法改正法案が国会で可決され、同年4月の国民投票によって僅差で承認された。
非常事態宣言は、大統領制への移行をなす2018年の大統領と国会の同日選挙を終えた後、7月21日をもって終了した。2016年7月の失敗したクーデタ後に非常事態宣言が発布されて以降、政権は3か月ごとに更新してきたが、新体制発足後に政権がその更新手続きを取らなかったことによる自動的な終了であった。選挙までと比べて、治安に関わる状況が大きく変わったわけでは特になく、むしろ選挙戦を非常事態宣言下で行うことが政権に有利に働くために、漫然と延長し続けたという見方もできる。他方で、クーデタやクルド問題にかかわる警察の取り締まりや司法手続き・判断に非常事態宣言終了が大きな意味をもったのかもはっきりしないほど、その後の民主的権利や市民的自由の状況は厳しい。
(3)2017年憲法改正による大統領制の特徴
2017年国民投票により導入された大統領制の概要は次の通りである。具体的には2018年6月の大統領選挙で新制度の大統領となったエルドアンが大統領令を通じて新しい体制を整え、彼の執政スタイルが新しい体制がどのように動いていくのかを決めてきたといえる。以下に、まずは法律上の制度について説明し、その後で実際の執政スタイルの特徴についてみていく。
大統領と国会議員の任期と選挙(詳しくは「選挙制度」の項を参照)
大統領(40歳以上の高等教育修了者)と国会議員(一院制、定数600名、18歳以上に被選挙権)は同日選を基本とし、任期5年とされる。国会には大統領や内閣不信任決議の権利がない代わりに、定数の3/5(360)以上の議員の賛成を以って早期解散総選挙を行い、任期途中の大統領に選挙を強いることができる。大統領は原則3選禁止であるが、2期目に国会の早期解散総選挙によって任期が短縮された場合に限って3期目に立候補することができる。逆に大統領は、いかなる理由であれ、何時でも大統領選挙を決断できる。例えば、国会における党勢の改善を試みるたの解散総選挙も可能である。
大統領の権能
大統領は国家元首であり執政府の長として以下の権限を有する。国会が可決した法律を公布したり、国会に再審議のために差し戻したり、国会内規や憲法に反しているとして憲法裁判所に廃止を求める裁判を起こすことができる。国会議員被選挙権を有する国民の間から副大統領や閣僚を任免する。幹部職官僚を任免する。国際条約を批准し公布する。国家安全保障政策を策定し、必要な対策をとる。トルコ国軍の出動を命じる。受刑者の病気や障害、高齢を理由として量刑を減免する。予算と決算の法案を国会に提出する。
また非常に重要な権限として、執政にかかわる大統領令を発布でき、そこには、省庁設立・廃止、目的と権限、組織構造、省庁の中央と地方の組織設立の決定も含まれる。大統領令は国会の承認を必要としないため、大統領は大統領令を以ってほとんどありとあらゆる執政を単独の意思で行うことができる。憲法による大統領令発布制限要件は以下のとおりである。憲法の人権や個人の権利義務にかかわる政治的権利義務と関連すること、特に法によって規定すると憲法が定めていること、既存の法律に明文規定があること、である。大統領令と法律が矛盾する場合、法律が優先する。大統領令の規定と同じ事柄について法律を制定した場合、法律が優先する。ただし、このような大統領令制限を要する条件が生起した場合に、どのような手続きで制限を実行するのかは憲法では定められていない。大統領が人権等にかかわる憲法上の規定に反する執政を許されるのは、非常事態宣言下で発令する大統領令によってである。ただし、そのような大統領令は、3か月以内に国会の承認を得る必要があり、さもなくば3か月をもって自動的に無効となる。換言すれば、3か月を上限とする人権侵害が大統領の単独の判断で可能となる。
司法との権力分立は以前に増して大統領の影響が大きくなった。判事と検事の人事を司る判事・検事高等会議の名称が判事・検事会議と改められ、委員数は22名から13名へと削減された。法務大臣と法務次官が職権の一部として会議構成員となることが規定されているが、この2名は大統領の政治任用による。その他、大統領は判事と検事の中から4名を選ぶことが規定された。直接的に選出できることになる。他方で、国会は4名を最高裁判所や行政最高裁の判事から、3名を大学の法学部教授と弁護士から、計7名を選ぶ。国会は当然ながら数的に勝る与党の意向が反映されやすく、大統領と同じイデオロギー的立場の委員や大統領が御しやすい委員が多数を占めやすい懸念がある。
大統領制移行は2018年6月の大統領選挙を以って行われたが、大統領が選出後も党籍を維持することを認める改正は、2017年国民投票後に直ちに施行された。2014年の大統領当選に伴って党籍を離れていたエルドアンは、2017年5月に公正と発展党の党籍を回復し、同時に党首に就任した。
国会の権能
国会は立法、予算と決算の法案の審議と承認、通貨発行、交戦権発動、国際条約批准の承認、定数の3/5以上の賛成による恩赦が特に憲法改正法案で明記されている。他方で、大統領令という立法に基づかない執政手法に広大な執政領域が付与されているために、立法府として行政上のルールを整え、執行府をチェックするという一般的な存在理由が事実上はどれだけあるのか疑問である。選挙制度の項目で説明するように、新体制においても従来通りのドント式の大選挙区制がとられており、議会の過半数が大統領の所属政党の議員で占められている場合、国会は形式的存在となる可能性が強い。また、民主的体制では国会には執政府のチェック機関としての役割が期待されるところであるが、前述のように大統領不信任決議の権限はなく、自らの任期を犠牲にして大統領選挙を前倒しさせる以外に大統領の政治責任を問う手段はない。さらに、大統領が提出する予算案の可決についても、国会が法定期限までに承認しない場合には、前年度予算案を踏襲して大統領は執政を継続できるとされ、米国で見られたような、大統領と議会が対立して政治が麻痺するという事態は回避されている。換言すれば、議会は大統領に対して予算案否決という手段で対抗することもできないということになる。
大統領に対する刑事的訴追権については以下の通りである。大統領が刑法上の犯罪を行ったとして国会の過半数が訴追を提案し、定数の3/5以上の秘密投票により可決した場合、会派勢力比に応じて訴追委員会が結成される。同委員会は2か月以内に訴追報告書を国会議長に提出する。訴追報告書は国会で審議されたのちに、定数の2/3以上の賛成(秘密投票)をもって弾劾法廷(実質は憲法裁判所)に送致される。訴追プロセス中の大統領は早期選挙決定権を行使できず、弾劾法廷で有罪となった大統領は失職する。大統領就任中に犯したとされる犯罪行為については、退任後も上記の訴追手続きが適用される。現行の制度では、大統領が党首として党内人事と国会議員候補者リスト選定の権力を一手に握っている。ために、大統領所属政党が2/5以上の議席を占める国会では、訴追による大統領解任はかなり困難である。ちなみに、副大統領と大臣についても職務に関連して行ったとされる犯罪の訴追については大統領と同じ手続きが適用される。職務と無関係の犯罪行為については議員の不逮捕特権規定が適用されるとされ、就任中の司法的処罰適用は国会の決定による。離任後は不逮捕特権は終了し、就任期間は時効期間に参入されないため、副大統領や大臣に対して任期後に刑事責任を問う可能性は広く開かれている。これに対して、職務関連かどうかにかかわりなく大統領の就任中のあらゆる犯罪行為について訴刑事責任を問うためにクリアーすべき条件はかなり厳しい。
2017年憲法改正案は大統領制への急な移行のために用意されたため、既存憲法の部分的変更にとどまった。しかも、10年以上にわたって国会や市民社会で議論されてきた、軍事政権が制定した現行憲法を市民的かつ民主的な精神に基づいた新憲法に置き換えるという大義を叶えるには程遠い内容となった。ひたすらにエルドアンにより強大な権限を付与することを目的として体制変更を急いだために、大統領制移行による制度改編の全貌を理解しているのはエルドアンとその取り巻きの一握りという状態で、憲法改正へ突き進んだというのが実情である。大統領を抑制するための権力分立の回避が意図された制度だとして、トルコ国内では「トルコ風大統領制」とも呼ばれるが、政治的な危機が続く中で、トップダウンで迅速な執政を目指したものだとしても、エルドアンの事実上の独裁体制の道具となってしまうことが大いに危惧され、実際に西洋諸国との外交関係悪化とも関連しながら、国内的な政治経済的危機や不安がむしろ強まる結果になってしまったといえる。
大統領令による政治
そのような強権的な大統領制を象徴するのが、中銀総裁人事である。中銀は政権からの独立が国家の経済的信用度にも大きく影響するとされるにもかかわらず、エルドアンは大統領制移行以前より、中銀への介入を続けてきた。主流派の経済学に基づけば近年のトルコの経済的局面では金融引き締めが適切とされる状況であるが、エルドアンは金融緩和に固執し、中銀に圧力をかけるだけでなく、逆らう中銀総裁のすげ替えを繰り返してきた。しかし、大統領制移行後は、その頻度が増し、政権発足後3年足らずの現在、すでに総裁は4人目である。現総裁は、エルドアンに従順な人物と評されているが、国際的な信用への悪影響のために、経済的にはより不安定化している。
この中銀総裁を含め、前述の通り、閣僚や省庁幹部、大学学長などの任免、さらに国際条約の批准は、議会の承認を要さず、大統領令によりエルドアンが単独で行使できる権限である。つまり、形式として議会での説明や議論が不要であり、エルドアンが決めるタイミングで大統領令が公布されればこと足りるということになる。実際、エルドアンは真夜中に上記要職の人事や、2021年3月に国際的にも議論の的となった、いわゆる「イスタンブル条約」(欧州評議会による「女性への暴力およびDV防止条約」)からの脱退も、真夜中の大統領令発布により実行してきた。大統領制移行以前も、エルドアンに物申す政府や党の重鎮が更迭され、イエスマンが要職に置かれて、議会でもエルドアンの意向に応じて賛否の投票をする傾向は非常に強まっていたが、それでも形式的には、閣議や国会内各種委員会、国会で説明をする必要があった。しかしもはや、大統領令による政治にはそうした説明という工程は存在せず、エルドアンがその気になった時に取り巻きの記者の質問に答えるだけで、物事が進んでいく事態に陥っている。また、政府要職にある人々も、真夜中にホームページに発表される大統領令を見て、自身の罷免を知る、という状況であり、政治の不透明感は極めて深刻な状態となっている。
特に2016年7月のクーデタ実行未遂事件以降のエルドアンは、非常事態宣言も利用しながら批判的メディアの弾圧を徹底したが、同宣言終了後もそれは続いてきた。最近ではシンパによる直接的暴力事件もジャーナリストだけでなく野党政治家に対しても発生しているが、警察や司法の動きは鈍く、エルドアンもそうした事件について沈黙しており、事実上の黙認と受け取られている。また、ソーシャルメディアなどでエルドアンの政敵などに誹謗中傷活動を先導するグループの一人とされ、「荒らしの女王」とも揶揄される人物が国営放送局の理事会役員に任命され、物議を醸した。
大統領令による説明なき政治と批判勢力への見せしめ的リンチに依拠する政治は、2013年のイスタンブル・ゲズィ公園デモ以来の閉塞感を一層強めている。2021年夏は、前年からのコロナ・ウイルス禍の継続に加えて、異常気象による各地での水害・大規模山火事・干ばつが相次いでおり、経済不況に加えて農作物不足による物価上昇が一層進行するとみられる。シリア難民受け入れの負担感が解消されないなかで、アフガニスタンからの米軍撤退に伴うアフガン難民流入もメディアで取りざたされており、任期満了となる2023年まで現状を維持できるのか、全く予断を許さない状況である。
(4)大統領制発足後の動きについて
エルドアン新体制は7月10日に最初の大統領令(Cumhurbaşkanlığı Kararnamesi)を発布(議会の承認不要)して始動した。旧来の26省体制を16省に整理するとともに、省以外の主要組織の位置づけや責任関係が明文化された。2021年8月末時点では、さらなる再編を経て、17省体制である。
注目閣僚の配置と政治腐敗の深刻化
第一号の大統領令と同時に閣僚名簿も発表された。改選前の内務相、法務相、外相の留任、選挙前の国軍参謀総長の国防相就任という布陣から、国内外のクルド問題やシリア内戦をはじめとする外交政策での現状維持路線と、イエスマンの布陣継続が明らかとなった。また、国庫・財務大臣には、改選前にエネルギー相だった娘婿のべラット・アルバイラク(Berat Albayrak)が横滑りした。アルバイラクは経営学で博士号を取得し、エルドアン政権との結びつきの深さで知られるチャルク財閥(Çalık Holding)で経営責任者を務めるなど、経営畑を歩んできた。自らを抜擢してくれたカリスマ的な義父の意向に反した政策が財政政策的に不可欠と思われる場合に、エルドアンに意見することは困難だろうと予想されたが、結局、経済状況が悪化する中で有効な政策を打ち出すことができないまま、2020年11月に突如としてインスタグラムへの辞意表明文をアップした。エルドアンも辞意をインスタグラムを通じて知ったと噂された。表向きは健康理由での執務困難が示されたが、国政に関する面でいえば、金融政策などでのエルドアンとの見解の相違が取りざたされたが、エルドアンの娘である妻との不仲も報じられており、実際のところは不明である。
エルドアンの女婿の大臣任命は大統領制移行以前から与党支持層も含めて批判の的となっていたが、大統領制下でのエルドアン政権ではエルドアン自身の身内や取り巻きの身内の重用が以前にもまして目立っている。最近の例では、現職大臣の息子が国営放送局の理事会役員に任命された他、大使の娘二人がともに大統領顧問となっている。これは公職への抜擢の例であるが、民間企業や財団として公共事業参画を通じて事業を拡大し、経営陣として多大な利益や利権を手にしていると考えられる政治家親族はエルドアンの子供も含めて多数にのぼる。前通商相に至っては任期中に、夫と共同経営する会社として、通商省への物品納入案件を落札していたことが報道されたのがきっかけで、任を解かれている。この他にも、少なからずの政権幹部が、いくつもの公的組織の委員を務めて多くの収入を得ているのではないかと報道されるなど、政治倫理に関わる目は、市民生活が困窮を極める中で、非常に厳しくなっている。しかし、政府批判を繰り広げることは、ネットメディアをのぞけば、マスメディアでは非常に難しい他、イデオロギー的にメディア市場の棲み分けが進んでいる状態で、政府系のテレビ局や新聞しか目にしない有権者に、こういった問題が与える影響は限定的だと考えられている。
軍に対する文民統制の完成
大統領制移行に伴う省庁再編は、エルドアンやトルコのイスラム復興勢力の多くにとって積年の課題だった、軍部に対する文民統制の完成という点でも、大きな意味をもった。まず、大統領令第4号により国防省の管轄下に軍が置かれることが明記された(第799条i項)。この大統領令以前には、トルコ国軍は多くの国に一般的な国防省の管轄下ではなく、議院内閣制における最高政治責任者としての首相に対して、内閣が策定した軍事政策の実施に関わる責任を負っていた。他方で2013年夏に「国軍内規に関する法」(Türk Silahlı Kuvvetleri İç Hizmet Kanunu)が改正されるまでは、対外脅威に対する国土防衛と並んで、「憲法に規定されたトルコ共和国体制を守ること」が国軍の主要任務であった。これはイスラム復興運動やクルド民族主義運動が従来の政治体制の変更、つまり、世俗主義を放棄してイスラム的政策を容認したり、トルコ民族主義的中央集権体制を緩和して国民の多様なアイデンティティに応じた多元主義的・地方分権的統治システムを取り入れる、といった政治要求の高まりを阻止するために、内政に干渉し、場合によってはクーデタを実行して軍事政権を敷き、そうした「国内的脅威」を除去することも、軍の主要任務であることを意味する。実際、内政への軍の介入は様々な形で実施され、トルコの民主主義の成熟という点で、長く主要な課題とされてきた。
この内政に関わる任務が政権や国会に対する政治監督者の地位を意味したがゆえに、軍は政権や司法に対して事実上は高度な自律性を維持してきた。2002年以来続いた公正と発展党単独政権が一歩ずつ実現してきたのが、このような軍の高度な自律的地位をはく奪し、文民統制を法的にも実際的にも確立することだった。二つの象徴的変化を取り上げるとすれば、一つは、かつて軍が憲法上の多様なメカニズムを通じて「国内的脅威」の排除に務めてきたが、そのメカニズムを着実に切り崩してきたことである。高等教育や放送に関わる大枠を設定する会議体に憲法規定として配置されていた軍代表ポストが2004年にまず廃止された。上述の2013年の法改正では、「国内的脅威」から体制を守ることが軍の主要任務から削除された。
また、より短期的な安保・治安政策を策定する国家安全保障会議と、軍に関わる法規定やより中長期的安保政策について議論する高等軍事評議会は、かつては圧倒的に軍中心のメンバー構成だったが、文民優位の構成へと再編されてきた。特に後者については、思想・イデオロギー的理由から軍人のパージを決定する会議体としても長く機能してきたが、2016年クーデタ後の対応として組織改編がなされた際にようやくその機能は廃止された。同時に、かつては首相と国防相のみの文民委員に対して参謀総長以下、ジャンダルマを含む4軍司令官やその他の陸・海・空軍大将(orgeneral、oramiral)などが居並んでいたものを、クーデタ後に軍委員を削減し、代わりに外務や内務、法務など主要閣僚を配置して人員バランスを調整していたが、今回の大統領令ではさらに国庫・財務相、国民教育相が新たな常任委員に加わった。従来、軍は予算に関してもかなりの自律性を持っていたと言われるが、文民委員の布陣は、予算に関しても文民政権の優位を示唆している。
軍部の政府との責任関係という観点からいえば、大統領令第4号により参謀本部が国防省所管となったことは述べたが、参謀本部だけでなく、陸・海・空軍司令部(komutanlıklar)はそれぞれが個別に(つまり参謀本部とも別個に)国防省所管となり、それぞれのトップは個別に(つまり参謀総長経由ではなく、直接的に)国防相に対して責任を負うことが規定された。ジャンダルマは2016年クーデタ後にすでに内務省所管になっていたため、今回のこの組織関係再編によって、軍全体の文民政府に対する一体としての自律性が法的には解消されることになった。人事権も、幹部階級の将官(general、amiral)については大統領の(大統領令第3号第9条)、その下の階級の士官(subay)については国防相の権限となった。(https://www.hurriyet.com.tr/gundem/cumhurbaskanligindan-7-kararname-savunmada-yeni-donem-40897980)
もう一つの文民統制強化への変化としては、軍を司法的にも文民システムに組み込むことが目指された。1961年以降、トルコでは軍関連の裁判所が複数設立され、いわゆる軍内部の規律に関わる案件以外についても、何らかの点で軍に関わる限り、全てこれらの裁判所で扱われてきた。例えば、軍の敷地で発生したが、他国であれば一般の刑事事件として文民裁判所で扱われる案件であっても、軍内部の裁判所の管轄とされた。つまり、軍関連の裁判所の管轄は非常に広範で、文民裁判所はその軍関連裁判所の管轄事項について別途、審理を進めることはできなかった。しかし、2004年の国家治安裁判所廃止を皮切りに、2010年には軍幹部が憲法裁判所における弾劾法廷で裁かれる道が開かれ、軍内部司法機関の管轄から民間人の関与する案件が除外されることになるなど、軍の司法的自律性は浸食されてきた。2017年の大統領制移行に関する憲法改正案には、残る軍関連裁判所にかかるすべての憲法規定が削除される条項が盛り込まれており、しかも国民投票により承認されたのちには直ちに適用される条項とされたため、国民投票の承認後に軍関連裁判所は早速、廃止されている。
こうした文民統制の確立期に政府と軍部の結節点である国防相人事は大統領と軍の双方に信頼関係があり、経験に依拠した権威を示せる人物である必要がある。その要職には前参謀総長のフルスィ・アカル(Hulusi Akar)が任命された。トルコ国軍は世俗主義の擁護者を自任し、しばしば内政や組閣人事に介入し、文民政権からほとんど独立して作戦を実行する伝統を有していたが、エルゲネコン裁判による軍幹部パージ以降、政権とイデオロギー的に近い軍幹部が登用されてきた。アカルもそうした一人である。彼は本来は、2016年クーデタを起こした組織のトップとして責任追及を免れ得ない立場であったが(また、実はクーデタのプロセスにおける彼の立ち位置について不透明なところも少なくないが)、政権とイデオロギー的に近い幹部の手薄さ故か、現在に至るまで国防相を務めている。いずれにしろ、現在、軍は指揮命令系統上は、完全にエルドアンの支配下にあると言える。
参考文献
- 「トルコ共和国憲法」
- Mustafa Erdoğan, Türkiye’de Anayasalar ve Siyaset (Genişletilmiş ve Gözden Geçirilmiş 4. Baskı), Ankara: Liberte Yayınları, 2003.
- Ergun Özbudun, “Constitutions and Political Systems,” in J. Joost ed., The Routledge Handbook on Contemporary Turkey, Milton: Taylor & Francis, 2021, pp. 144-152.
- 「憲法改正にかかわる法律」(法律第6771号、2017年1月21日承認)
- 欧州評議会ヴェニス委員会の非公式英訳(2017年の憲法改正箇所について改正前条文と並べた一覧表。)
- Fumiko Sawae, “Development of Constitutional Democracy in Turkey: Constituent Power and Constitutional Identity in the Democratizing Process,” in Tsugitaka Sato ed., Development of Parliamentarism in the Modern Islamic World, Tokyo: The Toyo Bunko, 2009, pp. 220-245.
- 澤江史子「トルコのEU加盟改革過程と内政力学」『中東研究』第3巻第494号、中東調査会、2006/2007年、43-55頁。
- 「大統領制の組織体制に関する大統領令」(大統領令第1号、2018年7月10日発布)
- 「上級行政職および公的機構や組織における人事に関する大統領令」(大統領令第3号、2018年7月10日発布)
- 「省所管、あるいは省に何らかの関わりがある機構や組織、およびその他の機構や組織の組織構成に関する大統領令」(大統領令第4号、2018年7月15日発布)