「現在の政治体制・制度」カテゴリーの記事一覧

2019年1月18日

インドネシア/現在の政治体制・制度

インドネシア共和国の政治体制の基本構造は1945年憲法に規定されている。すなわち5年を任期とする大統領を国家元首とし、最高議決機関は国民協議会(MPR)である。しかしその権力構造は時代によって大きな変化を遂げている。初代大統領スカルノは大衆動員を行い、イスラーム系政党と共産党を含めた翼賛体制を作ろうとしたが失敗、経済的な破綻と50万人とも言われる1965年の共産党員虐殺(9月30日事件)とともに体制が崩壊した。9月30日事件後の事態を収拾して権力の座についたスハルトは、大統領を任命する国民協議会を大統領であるスハルト自身が握り、安定的な「開発独裁」体制を形成した。野党への法的政治的介入によって、議会では翼賛的な「与党」ゴルカルがつねに独占的な立場にあった。さらに、スハルト大統領は国会の承認が不要な大統領決定を多用し、法律もほとんど制定されなかった。

スハルト体制下における大統領への権力集中や構造的な汚職、政治的自由や言論の自由への抑圧は、国民の批判や反発を生んでいたが、体制への取り込みと厳しい取り締まりというアメとムチによって長期政権を揺るがすことはほとんどなかった。流れが変わったのは1997年のアジア通貨・金融危機以降である。通貨ルピアの下落による急速なインフレは国民生活を圧迫し、1998年に入ると学生を中心とした反体制デモが次第に激しさを増した。他方、高齢のスハルト大統領への退陣要求は政権エリートにも波及した。5月12日に首都ジャカルタのトリサクティ大学で治安部隊が学生デモに発砲した事件をきっかけに、スハルト退陣要求が勢いを増し、各地で暴動が発生した。事態を収拾できなくなったスハルトは5月21日に辞任した。この間、学生や知識人に主導された改革勢力は、デモのみならず、政府・国軍・議会の関係者との間で討論会や集会を開催した。この過程でゴルカルのなかからも政治改革を進めようとするグループが現れ、スハルトに辞任勧告を行った。

スハルトの辞任を受けて、副大統領のハビビが大統領に昇格した。ハビビが正当性を示すためには民主化の推進以外に方策はなかった。1年あまりの間に、政治活動やメディアの自由化、国軍の政治機能の廃止、警察の国軍からの分離、地方分権の推進などの改革が行われた。

1998年以降、4度の憲法改正を経て事実上の新憲法制定といえるほどの大刷新が行われた。まず大統領への権力集中への反省から、その権限が大きく縮小された。大統領の任期は2期10年と定められ、長期の権力保持ができなくなった。大統領に認められていた立法権も否定され、大統領は法案の提案権を持つのみになった。国会の解散権は明確に否定、人事権にも制限が加えられた。

国民協議会は2004年総選挙以降、国会(DPR)議員(2004~09年550人、2009年~560人)と地方代表議会(DPD)議員(2004~09年150人、2009年~132人)から構成されている。民主化後多党化が進み、連立政権が常態化、権限を縮小された大統領は国民協議会や国会の運営に苦労することになった。2001年には第4党の民族覚醒党から大統領に選ばれたアブドゥルラフマン・ワヒドが国民協議会によって罷免されるに至った。しかし不安定な権力構造と国民協議会の行き過ぎた権力行使に対して批判が高まった。2002年の第4次憲法改正では国民協議会の優越性が否定され、また大統領が国民の直接選挙によって選出されることにより、大統領の正統性が再度高められることとなった。こうして2004年に初めて直接選挙によって大統領が選ばれたスシロ・バンバン・ユドヨノは、2期10年の安定政権を築いた。

独裁的な体制の一翼を担っていた国軍の政治的な機能も制限されるようになった。スハルト時代の国軍は軍務と政務を担当するという「二重機能」ドクトリンを掲げ、国会に任命議席を持っていた他、各地方に配置された軍管区は村レベルまで日常的な監視を行っていた。民主化後、二重機能の廃止、国防への専念、政治的中立などを求める国防法(2002年)、国軍法(2004年)が成立した。国軍の公式な政治からの撤退は定着し、クーデターの可能性は極めて低くなった。しかし国軍は非公式には依然強力な発言権を維持している。また国軍は予算の半分以上を自己調達しているため、違法なビジネスへの関与が危惧されている。

民主化後のインドネシアにおける政治構造のいまひとつの特徴は急速な地方自治の拡大である。1999年に制定された地方行政法と地方財政法によって地方財政の裁量権が大幅に拡充された。利権の確保を目指し、あるいは地域主義の台頭などによって、多数の州や県が全国で新設された。2005年にはそれまで地方議会によって選ばれていた地方首長が直接選挙によって選出されるようになった。2014年10月に大統領に就任したジョコ・ウィドドは、2005年に初めての直接選挙で中ジャワ州スラカルタ市の市長に選ばれると、その斬新なスタイルと行政改革などの政策で人気を呼び、2012年にジャカルタ州知事、そのわずか2年後に国政の頂点に立った。直接選挙の導入は、政党不信も相まって、有権者から直接支持を調達するポピュリスト型の地方首長を生むことになった。ジョコ・ウィドドの大統領当選以降、地方首長選が大統領への登竜門として注目されるようになった。

参考文献

  • 川村晃一「政治制度から見る2004年総選挙―民主化の完了、新しい民主生活の始まり」、松井和久・川村晃一編著『メガワティからユドヨノへ インドネシア総選挙と新政権の始動』明石書店、2005年、75-99ページ。
  • 本名純「インドネシア【政治・外交】」『新版 東南アジアを知る事典』平凡社、2008年、634-636ページ。
  • 増原綾子『スハルト体制のインドネシア―個人支配の変容と一九九八年政変』東京大学出版会、2010年。
続きを読む
2019年1月18日

バングラデシュ/現在の政治体制・制度

バングラデシュは人口の9割をムスリムが占めている。同国の人口が1億6175万人(同国統計局による2017年度統計)であることを考えると、1億4000万人以上のムスリム人口をかかえていることとなり、実数でいえば、インドネシア、パキスタン、インドに次ぐ世界第4位のムスリム人口となる。そして、このような大多数のムスリム人口を背景とし、バングラデシュの国教はイスラームに規定されている。

現在バングラデシュでは、定数300名および、選出された議員の割合に応じて配分される女性留保議席50名の計350議席によって構成される、5年任期の一院制議会制度がとられている。しかし、議会制のもとでの民主主義の歴史は浅く、1975年から1990年までは、軍部出身の大統領に権限が集中し、国会が意味をなさない形骸化した議会制度、もしくは直接の軍政下にあった。バングラデシュ政治の実質的な民主化は、1990年にH・M・エルシャド政権が学生運動を主体とした民主化運動によって倒された後の憲法改正によって、大統領を元首とする議院内閣制度が確立した1991年になされたといえる。

現政権与党のアワミ連盟(Awami League)は2014年1月5日に実施された国会総選挙において、全議席の77%を獲得し、民主化以降初の二期連続の政権党となった。しかしながら、最大野党バングラデシュ民族主義党(Bangladesh Nationalist Party:以下BNP)が参加をボイコットした状態で投票を実施したことから、選挙の正当性に対して国内外より疑問符がつけられた。以下に、現在のバングラデシュ政治体制に関する論点を整理したい。 

(1)政治体制・政治制度の概観

バングラデシュにおける現在の政治体制の柱は議院内閣制である。行政権は内閣総理大臣に与えられる。大統領は、国家の元首および軍の最高司令官として定められており、総理大臣、大臣、および最高裁判所裁判官の任命権を有する。しかし、大統領は首相の助言にしたがって行動しなければならない。また、交戦権の行使には議会の承認が必要である。

立法権は議会に属し、議会は任期5年の一院制である。内閣総理大臣は議会によって選出される。内閣総理大臣は内閣の人事権を有する。議席数は350議席で、直接選挙による300人定員の普通選挙に加えて、50人の女性留保議席がある。女性留保議席に関しては、普通選挙の得票率に従って政党ごとに割り当てられる。

司法権は、行政・立法権から独立する旨の憲法規定があるが、議会の3分の2以上の賛成で裁判官の罷免が可能である。裁判所は最高裁判所(Supreme Court)、高等裁判所(High Court)、下級裁判所(Subordinate Court)が憲法により定められている。これとは別に、軽度の民事訴訟においては村裁判によって裁判がおこなわれることもある。

(2)2大政党対立による政情不安

1991年の民主化以降、バングラデシュにおいては、アワミ連盟とBNPが交互に政権を担ってきた。そして、政権が交代する度に、野党側が「不正選挙」結果の取り消し要求、長期間にわたる議会ボイコットや政党傘下の学生組織を動員しての街頭デモやホルタル(ゼネスト)など、激しい反政府活動を展開し、国政を混乱させてきた。与党側も政策決定過程において実質的に野党を排除し、前政権の汚職の摘発や要職者の逮捕などをつうじて、野党の力を弱めようと画策した。また、中央から末端の地方行政、国立大学にまでおよぶ役職人事を政治的に任命し、影響力を強めてきた。2大政党のどちらが政権の座についても、同様のパターンが繰り返されており、今日までバングラデシュの政情混迷の主要因となっている。

国内で最も長い歴史を誇るアワミ連盟は、パキスタン時代にムジブル・ラフマン総裁を中心に自治権拡大運動を展開した。独立後、ムジブル・ラフマン総裁は初代首相(後に大統領)に就任したが、次第に強権的性格を強め、1975年の軍事クーデターによって暗殺された。後継者として、長女のシェイク・ハシナ(現首相)が総裁に就任した。

一方のBNPは、1975年の軍事クーデターの主導者の一人である、ジヤウル・ラフマン陸軍参謀長(77年に大統領)が、民政移管に備え1978年に結成した官製政党である。ジヤウル・ラフマン大統領もまた、1981年に軍内部の対立から暗殺され、その後はカレダ・ジア夫人が総裁に就任した。

このように、両党の現総裁は、過去に大統領であった近親者を軍事クーデターによって暗殺されている。特に、初代大統領のムジブル・ラフマン暗殺の際には、大統領本人だけでなく一族の大半が殺害された(ハシナ現総裁は外遊中で殺害を免れた)。そしてクーデターの後に、軍部内の権力闘争に勝ち抜いて、自らBNPを結成し政権の座についたのがジヤウル・ラフマンであったことから、両総裁の間には晴れることのない遺恨が存在する。 

現在では、両党の間には、支持基盤や理念に違いはみられるものの、政策的には大きな差異はなく、むしろ党首間の心情的確執や利権の争奪、権力への強い固執からくる泥仕合的な対立が目立っている(村山2012)。現段階では上記二大政党に割って入るだけの支持基盤と強いリーダーシップを持つ政党・政治家が存在しないことから、国民はどちらかに国政を託すしかないのが現状である。2008年総選挙実施にあたり、ノーベル平和賞受賞者であるグラミン銀行のムハマド・ユヌス総裁が新党立ち上げを画策したが、実現しなかった。また、国政・地方に関わらず、選挙の不正に関する報道はあとをたたず、バングラデシュの議会制民主主義は、民意を反映する仕組みとしてはいまだ未成熟であるといえる。

(3)軍の影響

1991年の民主化以降、軍の間にも二大政党の対立が浸透しているといわれているが、軍の中立的姿勢と実行力は、2007年から2008年にかけての非政党選挙管理内閣を経て、国民の高い支持を得るにいたった。

2006年10月、2001年より国政を担っていたBNP政権が任期満了で退陣し、解散後90日以内に国会選挙を実施するために設けられる、非政党選挙管理内閣が発足した。1996年の憲法改正で導入されたこの制度は、与野党どちらの側にも与しない中立的な立場の暫定内閣を組閣し、選挙管理委員会を支援・監視することにより、国会選挙の公正性を担保することを目的としている。しかし、内閣人事などを巡り政党間の対立が激化し、国内の治安が悪化したため、同内閣のイアデュッディン大統領は2007年1月11日、バングラデシュ全土に向けて非常事態宣言を発令するとともに、全土に夜間外出禁止令を出した。そして軍の後援のもと、翌12日にファクルッディン・アーメド元中央銀行総裁を首班とする非政党選挙内閣が再発足した。

ファクルッディン政権は、これまで2大政党のどちらもが自らの足下への波及を恐れて着手してこなかった政治改革を断行した。特に、汚職の一掃にむけた取り組みは、大々的に実施され、元閣僚を含む政治家や官僚、企業家を矢継ぎ早に逮捕した。その対象は政治の中枢にまでおよび、BNPのカレダ・ジア総裁、アワミ連盟のシェイク・ハシナ総裁も汚職容疑で逮捕される事態となった(08年6月にハシナ総裁は海外での病気治療を理由に仮釈放され、ジア総裁も08年9月に保釈された)。報道によれば、400人以上におよぶ汚職容疑者リストは軍部によって用意されたとされる。そのため、軍部は、汚職のない環境制度作りに寄与し、2大政党による利益誘導型の政治にメスを入れたとして国民の高い支持を受けた。一方で、選挙実施にむけたロードマップ作成の遅れから、アメリカをはじめとする欧米諸国から、軍の強い影響下にある非政党選挙管理内閣が長期化することへの危惧が示されたが、結果として2年後の2009年12月に議会選挙が実施され、無事民政移管が果たされた。

このように、バングラデシュ政治における軍部の影響力は、国民の支持を背景に決して小さくないが、現状では軍部が全面にでて長期間政治運営をおこなうことは困難であると思われる。一つには外国援助依存がきわめて高いバングラデシュにおいては、欧米のドナー諸国の意向、とりわけ民主化促進、基本的人権の擁護を求める外的圧力が働き、軍政をしくこと自体が難しくなっている。また、軍の関心は、機微な舵取りと利害調整が求められ、時として軍内部でのクーデターに発展する恐れのある国内政治への関与から、議会制民主主義のもと民主化が前提となっている国連平和維持軍の派遣によって得られる経済的利益に移行していると考えられる。バングラデシュは2018年5月の段階でPKOミッションに7099人を派遣しており、世界第2位の派遣国である。バングラデシュにとっては、外貨と軍組織の維持費獲得、そして国際的な地位向上という派遣へのインセンティブがある。また、将兵個々人の経済的メリットも大きく、派遣兵士の平均月給は約75、680TK(約1、100USドル)となっている。この額は少尉クラスの基本給10、000TK、准将クラスの基本給38、565TKに比べると格段に高い(IWGIA 2012)。軍のリクルートサイトには海外勤務での手厚い追加手当てがうたわれており、国軍兵士を目指す動機付けとなっている。

非政党選挙管理内閣を支援したモイーン・アフマド陸軍参謀長は、自身の回顧録において、国連の平和維持軍担当の事務次長から、すべての与野党が参加したもとでの公正な選挙が実施されない場合には、バングラデシュ軍を平和維持軍から外すことを検討するとの警告があったとしたうえで、平和維持軍への機会が奪われた場合、限られた収入しかない兵士たちの不満を抑えるのは難しいと指摘した(堀口2009)。実際、2009年2月には平和維持軍への参加資格のない準軍事的組織である国境警備隊(BDR)が、平和維持軍への参加を含めた待遇改善を求めて反乱をおこし、軍関係者57人が殺害される事件が発生している。

軍政を引くと紛争国として扱われ、PKOへの参加資格を失うことから、現状のバングラデシュにおいては、PKOミッションという国外での役割が軍部に国内で政治に干渉することを思いとどまらせているといえる。また、2011年の第15次憲法改正によって、軍による国家権力の掌握と憲法停止に対して、極刑を含む厳しい処罰に処することが規定された。これは、2007年から2008年の軍後援の非政党選挙管理内閣下において、両党総裁を含む政治家多数が汚職容疑で逮捕された経験から、軍の介入を警戒してアワミ連盟がうった布石である。これらのことからも、今後軍が積極的に政権運営に介入することの政治的合理性はないといえる。

(4)イスラームと政治

BNPを創設したジヤウル・ラフマン大統領は、憲法から政教分離を削除し、コーランの一文を挿入するなど、イスラームに対して寛容な姿勢をとった。そして、独立戦争時にパキスタンに与した政治家の起用や、イスラーム政党の解禁を通じて、イスラーム勢力を取り込む政治姿勢を示した。続くエルシャド政権は、休日を日曜日ら金曜日に変更し、1988年には、憲法改正によってイスラームを国教化した。このようなジヤウル・ラフマン、エルシャドの両軍人政権を通じて、イスラームへの配慮の姿勢を示すことが重要視される政治的土壌がつくられたといえる。

1991年の民主化以降は、イスラーム主義政党が2大政党の間でたびたびキャスティンボードをにぎることによって、その存在感を示すようになった。主な政党としてイスラーム協会(Jamaat-e-Islami、Bangladesh:以下JI)とイスラーム統一戦線(Islami Oikiya Jote)がある。これらの政党は、イスラーム国家の実現や市民法に代わってイスラーム法を導入することなどを主張しており、イスラーム原理主義的傾向が強い。二大政党の中では、近年BNPがイスラーム主義政党と共同戦線を張る傾向がみられる。1996年の総選挙では、BNPとJIの離反がアワミ連盟の勝利へと結びついた。一方で2001年の総選挙では、BNPがイスラーム主義政党と共闘することによってアワミ連盟に勝利し、イスラーム主義政党が政権与党の一角を占めるにいたった。

しかしながら、BNPとイスラーム主義政党の連立政権下においては、非合法イスラーム武装主義勢力による爆弾事件が頻発したことから、武装主義勢力との関係が噂されるイスラーム主義政党や、連立政権を組むBNPは国民の支持を得られなくなり、2008年の総選挙では惨敗した。

代わって政権を奪取したアワミ連盟は、独立戦争時の戦争犯罪を裁く国際戦争犯罪法廷を設置し、イスラーム主義政党への攻勢を強めた。1971年の独立戦争当時、パキスタン軍に協力して独立運動を弾圧したとされる「戦争犯罪者」の中にはJIのメンバーが多く含まれている。国際戦争犯罪法廷の目的がJI指導者を裁判にかけることにあるのは明白であり、2014年国会総選挙を視野にいれた野党勢力の切り崩しであるとしてBNPやイスラーム主義政党は批判を強めた(補足参照 )。

参考文献

  • アジア経済研究所編『アジア動向年報(各年版)』アジア経済研究所.
  • 日下部尚徳「バングラデシュの政治情勢:国内で抗議デモが頻発、暴動も-JI副総裁に死刑判決-」『金融財政ビジネス』、10316号、pp.10-14、時事通信社
  • 日下部尚徳「バングラデシュ総選挙をめぐる情勢不安-民主的で穏健なイスラム国家の行方-」『金融財政ビジネス』、10386号、pp.16-19、時事通信社
  • 佐藤宏編著『バングラデシュ: 低開発の政治構造』アジア経済研究所.
  • 佐藤宏「国をめぐる模索」『バングラデシュを知るための60章』pp. 23-26、 明石書店.
  • 佐藤宏「議会制民主主義のゆくえ」『バングラデシュを知るための60章』pp. 40-43、 明石書店.
  • 高田峰夫『バングラデシュ民衆社会のムスリム意識の変動-デシュとイスラーム-』明石書店.
  • 村山真弓「憲法第15次改正で再選への布石」『アジア動向年報2012』pp. 440-464、アジア経済研究所
  • 堀口松城『バングラデシュの歴史』明石書店.
  • A. T. Rafiqur Rahman. 2008. “Bangladesh Election 2008 and Beyond: Reforming Institutions and Political Culture for a Sustainable Democracy”. The University Press Limited.  
  • IWGIA. 2012. “Militarization in the Chittagong Hill Tracts、Bangladesh”. IWGIA・Organising Commitee CHT Campaign・SHIMIN GAIKOU CENTRE.
  • Mudud Ahmed. 2012.“Bangladesh: A Study of the Democratic Regimes”. The University Press Limited.

※参考文献は全項目に共通

続きを読む
2019年1月18日

マレーシア/現在の政治体制・制度

マレーシアの政体は、1957年のマラヤ独立憲法と、それを継承する1963年のマレーシア連邦憲法に規定され、連邦制の下での立憲君主制が採用されている。イギリスの旧植民地であったことも影響し、統治制度は、議院内閣制が採用されている。

(1) 元首と連邦制

マレーシアの国家元首の地位にあるのは国王(Yang di-Pertuan Agon)である。国王は、各州の州元首によって構成される統治者会議(Majilis Raja-Raja)によって、マレー半島部の9州の州元首(スルタン、ラジャなど)の中から5年ごとに選挙で選出される(32条、38条)ものの、実際は輪番制が慣例となっている。国王は「連邦の第一人者(32条1項)」で、連邦の行政権は国王に付与されている(39条)。国王は同時に国教であるイスラームの長で、陸海空の3軍を統率する。ただし、国王の行政権や軍の運用等は首相或いは首相を筆頭とする内閣の助言に基づいて行使されるため、実質的な権限は首相が有している(40条)。マレーシアに独特な国王に関する憲法規定は、第153条のマレー人及びサバ、サラワクの先住民の社会・経済上の特権に関わる規定であり、国王にはこの特権を守る責任があることが規定されている(「民主化の経緯」の箇所も参照)。

連邦制をとるマレーシアでは、13の州から構成され、そのうちのクダ、クランタン、トレンガヌ、パハン、ペラ、スランゴール、ヌグリスンビラン、ジョホールの8州にはスルタン、プルリス州にはラジャが君臨しており、これらの9州の州元首にあたるスルタンやラジャは上述の国王になる資格を持つ。あとの4州(ペナン、マラッカ、サバ、サラワク)には国王が任命する州元首(Yang di-Pertua Negeri)がスルタンやラジャに代わって置かれている。また、この13州の他にクアラルンプール、プトラジャヤ、ラブアンが連邦直轄地となっている。各州では、一院制の州議会が立法権を司り、州元首に任命された州首相(スルタン等が存在する9州ではMentei Besar、他の4州ではKetua Menteri)に率いられる州執行評議会(EXCO)が行政権を司る。

マレーシアの地方制度は上から連邦政府、州政府、自治体の三層構造になっている。地方自治体は特別市、一般市、町の3つの分類がある。自治体の長と議員は60年代まで選挙で選出されていたが、現在では選挙が中止され、州政府による任命制となっている。連邦と州の権限配分は憲法第9付表に規定され、州はイスラーム法、マレー人の生活習慣、土地、農林業、地方自治などが主な権限となっている。連邦は国防、外交、教育など幅広い権限を持ち、連邦と州の権限が重複する場合は連邦に優先権がある。州は自治体に対して、全般的な監督権限があるものの、連邦は憲法95A条に規定された組織である国家地方自治評議会(Majlis Negara bagi Kerajaan Tempatan)を通じて自治体をコントロールすることが可能になっている。  

(2) 立法権

連邦の立法権を付与されているのは、連邦議会である(44条)。連邦議会は上院(Dewan Negara)と下院(Dewan Rakyat)の二院から構成される。上院は、各州から2名ずつ選ばれる26名と国王によって任命される44名の計70名(任期3年)によって構成される。下院は、小選挙区で選出される222名(任期5年)から構成される。旧宗主国のイギリスの制度を受け継ぎ、下院が首相選出、予算、法案審議などで優越する。

(3) 行政権

連邦の行政権は国王に属しているものの、実際は首相及び内閣の助言に基づいて行使されるため、実質的には首相及び内閣が行政権を行使している。連邦下院議会で多数の信任を得ている議員が国王によって内閣の長である首相に任命される。各大臣は首相の勧告に基づいて国王が任命するが、連邦の上院あるいは下院のいずれかの議員である必要がある。

(4) 司法権

司法制度は3審制をとっており、上から連邦裁判所、控訴裁判所、高等裁判所があり、下級裁判所としてセッションズ裁判所とマジストレート裁判所がある。連邦元首や州元首に関わる裁判事項は特別法廷で扱われる。これらの裁判所以外にも、半島部にはムスリム間の親族・相続関係、イスラーム道徳などに関する領域を扱うシャリーア裁判所が存在する。  

続きを読む
2019年1月18日

モロッコ/現在の政治体制・制度

現在の政治制度は立憲君主制である。現在の国王は、前国王ハサン二世の死去によって、1999年7月23日に即位したムハンマド六世である。

(1) 国王

モロッコの憲法第42条では、国王は「国家元首」であり、「国民統合の象徴」「国家の永続性を擁護する者」であると定められている。また、第41条では、「アミール・アル・ムーミニーン(信徒の指揮者)」と規定され、国民に対して精神的な面での権威も有している。

王位の継承については、憲法第43条で、原則として直系男子の長子相続が定められている。現在のハサン皇太子は、ムハンマド六世の長男である。

また皇太子が未成年で国王に即位するような事態が起こった場合は、国王が満18歳に達するまで、複数の構成員(議長を憲法裁判所裁判長がつとめ、首相、上下院議長、司法権高等評議会議長、ウラマー高等評議会事務局長、その他国王が任命した10名で構成)からなる摂政評議会が憲法改正を除いて、憲法で定められている国王の諸権利・諸権力を行使する(憲法第44条)。

国王は不可侵で神聖である(憲法第46条)と定められている。

国王は首相の任命権を持つ(憲法第47条)。但し、2011年の新憲法では、首相として任命されるのは、下院選挙で第一党となった政党から任命すると明記されている。

閣議の議長は国王である(憲法第48条)。

国王は、法律が採択され政府に送られてから30日以内に法律を公布する(憲法50条)。また、国王は、憲法第96条、97条および98条に従って、勅令によって、上下院両方またはいずれかを解散させることができる(憲法第51条)。

国王は、国民と議会に向けてメッセージを発することができる。メッセージは上下院それぞれで読まれ、いかなる議論の対象にもすることはできない(憲法第52条)。

国王は、国軍の最高司令官である(憲法第53条)。

国王は外国および国際機関に駐劄する大使に信任状を渡して派遣する。また、モロッコに駐劄する外国または国際機関の大使を信任する。条約への署名と批准をおこなう。ただし、国境に関する条約、通商条約、および国家財政に関する条約は、法律によって事前に承認がなければ、批准することはできない。また憲法の条項に触れる恐れのある条約は、憲法改定の後でなければ条約の批准はできない。(憲法第55条)

国王は、高等司法評議会の議長をつとめる。(憲法第56条)

国王は、高等司法評議会の司法官を任命する。(憲法第57条)

国王は、恩赦の権利を行使する。(憲法第58条)

国土の一体性が脅かされたとき、または立憲体制の機能を阻害する恐れのある出来事が起こった場合、国王は、首相、上下院議長、憲法評議会議長と協議し、国民にメッセージを発した後、勅令によって非常事態を宣言することができる。その場合、国王は領土の一体性の擁護、立憲諸機関の機能回復、国事の遂行に必要な措置をとることができる。

非常事態は議会の解散を伴わない。非常事態の終了は、発令と同じ手続きでおこなわれる。(憲法第59条)

(2) 立法権:議会

1963年の国会開設以来、時期によって一院制と二院制両方の制度が採用された。現在は、二院制である。

1963年に、下院と上院からなる二院制の国会が開設された。(下院議員は、4年ごとの直接普通選挙で選出。上院議員は、6年ごとの間接普通選挙で選出。3分の2は、地方議会の代表から、3分の1は商工会議所および労働組合の代表から選出。)

この議会の会期は、20か月継続した。その後1965年から、新憲法が採択される1970年までの5年間にわたって非常事態が続き、国会不在の時期が続いた。

1970年7月31日に改正された憲法では二院制は廃止され、任期6年の一院制となった。1972年に再度改正された憲法でも一院制は維持された。1972年の改正憲法では、直接選挙で3分の1、間接選挙で3分の2を選出することを第43条に明記した。この割合は、1980年の43条改正によって、直接選挙で3分の2、間接選挙で3分の1と変更された。しかし、モロッコ国内外は不安定な時期を迎え、1971年末から1977年10月まで議会は停止されている。

1977、1984年から始まる会期、そして1992年に憲法が改正された後の1993年から始まる会期でも一院制が維持された。

1996年9月13日に改正された憲法では、二院制が再度採用された。この改正された憲法では、法案が両院それぞれで審議されることが定められた。両院間で異なる審議結果となった場合、内閣は両院から同数の代表からなる委員会を設置し、法案の採択に努めなければならない。同委員会の設置したのちも、調整がつかない場合は、下院の審議結果が優先される。

2011年7月29日に公布された新憲法でも、二院制は維持されている。

下院議員は直接選挙で選ばれ、任期は5年。人数は法律によって定められることになっている(憲法62条)。上院議員は、間接選挙で選ばれ、任期は6年である。人数は90名から120名までと定められている(憲法63条)

議会の権限は、立法と政府の行為の監視である(憲法70条)。法案の発議権は、首相と議員の両方にあり、法案はまず下院事務局に提出される。しかし、国土の一体性、地域開発、社会に関する事項については、最初に上院事務局に提出される(憲法78条)  

(3) 行政権:政府

首相は任命されたのち、両院で施政方針演説をおこなう。首相の説明した方針は両院で議論され、下院で採決される(憲法第88条)。

内閣不信任案について、下院が提出する場合は、議員の少なくとも5分の1の議員の賛成が必要である。不信任案の決議には、下院議員の絶対過半数が賛成する必要がある(憲法第105条)。上院が提出する場合は、議員の少なくとも5分の1の賛成が必要であり、決議には絶対過半数の議員の賛成が必要である(憲法第106条)。

(4) 司法権:裁判所

 モロッコの憲法は第107条で、司法権は立法権および行政権から独立していると定めている。2011年の憲法改定では、「国王は司法権独立を保障する」という一文が加えられている。また、裁判官は罷免されない(憲法第108条)。

 裁判官の昇進や懲罰を監督する司法高等評議会の議長は国王で、構成員は以下の通りである。(憲法第115条)

  • 最高裁判所長官(議長代理)
  • 最高裁判所付き国王代理検事
  • 最高裁判所第一法廷主席判事
  • 高等裁判所判事から4名
  • 第一級法廷判事から6名(高等裁判所判事からの4名と第一級法廷判事からの6名の計10名には必ず女性が含まれなければならないとしている。)
  • 調停者
  • 国立人権評議会議長
  • 「能力、不偏性、誠実さを兼ね備え、司法の独立と権利の優越に資する人物」として国王が任命した5名。この5名の中に、国王高等ウラマー評議会事務局長が提案した人物1名を含む。
続きを読む
2019年1月18日

イラク/現在の政治体制・制度

現在のイラクの政治体制は、2005年10月に国民投票で承認された新憲法によると、「共和制、代議制(議会制)、民主制」(第1条)と定義されている。世俗主義を党是としていたバアス党が2003年に倒れた後、宗教政党が大きく躍進したが、イラン型の「法学者の統治」は受け入れられておらず、宗教法学者は最高政治権力者である首相の座にはつかないことが暗黙の了解となっている。

新憲法は、大統領の役割を「国家の長、国家統一のシンボルであり、国家の主権を体現する」(第67条)と定める一方、首相は「国家の政策を遂行する責任者、軍の指揮官」(第78条)であるとしている。首相の選出は大統領の指名によって行われるが、その人選は、与党となる議会の最大政党が行うとされており(第76条第1項)、首相が閣僚を指名した後、議会の絶対過半数の賛成を経て内閣が発足する。従って、大統領は存在するが、制度としては議院内閣制に近い。国民議会は大統領・首相を罷免できるが、大統領・首相に国民議会の解散権はない。議会自体が解散を決定することは可能だが、2003年以降解散したことはなく、毎回4年の任期満了に伴って選挙が実施されている。

移行措置として、憲法制定後の最初の国民議会の任期(2006年からの4年間)に限って、大統領と副大統領2名で構成される「大統領評議会」が設けられ、議会を通過した法案に対する拒否権が付与されるなど大統領に一定の権限が存在した。しかし、これは当初から事前措置であり、現在はこうした権限はなくなっている。大統領は名誉職であるため、仮に法案に反対して署名せずとも、法律としては有効となる。

イラク戦争後に占領統治を行っていたCPA(連合国暫定当局)が設立した統治評議会(2003年7月発足)や暫定政府(2004年6月発足)が民族・宗派別の数合わせによる構成であったことや、2005年の議会選挙結果において、宗派・民族ごとのエスニック政党(特定のエスニック集団を基盤として形成され、かつその特定のエスニック集団からの支持に全面的に依存する政党)の躍進が顕著なものとなったことから、2006年に発足した初の正式政府である第一次マーリキ政権においては、挙国一致内閣との建前のもと、主要政党がほぼすべて与党に入り、議席数に応じてポストを分け合うクオータ・システムに依ることとなった。その後の政権に構成においても、首相はシーア派、国会議長はスンナ派、大統領はクルドから選出され、大臣ポストを分け合うことが慣例的に続いてきた。

2018年5月に行われた国民議会選挙では、一部のシーア派政党からスンナ派政治家が立候補し、スンナ派住民からの票を獲得するなど、宗派横断的な現象も見られた。しかしその背景には、2014~2018年の対IS掃討作戦で中心となったシーア派政党の勢力が増す一方で、分裂傾向が激しいスンナ派政党は特定の選挙区(県)に依存したごく狭い支持基盤でしか集票できなくなっているという現実があり、上記の宗派横断的な現象は、イラク全土を代表する政党が出現したことを意味していない。また、北部のクルド人自治区では、イラク国民議会選挙であっても非クルド政党はほとんど得票できず、クルド政党間の争いとなっている。

参考文献

  • イラク憲法 (http://www.parliament.iq/)
  • 移行期間のためのイラク国家施政法
続きを読む
2019年1月18日

イエメン/現在の政治体制・制度

大統領制をとる共和制。現在の政治体制は、1990年憲法および1994年、2001年の憲法改正によって規定されている。行政権は、大統領と内閣に属する。大統領は直接選挙による公選制で、任期7年、三選禁止。大統領は当選後に、副大統領1名と首相を任命し、大統領と首相の協議により、首相が閣僚を任命する。大統領は議会で可決された法案を発布するが、法案の再審議を求めて議会に差し戻すことができる。差し戻された法案を議会が再度過半数により可決した場合、大統領はその法案を2週間以内に発布する。大統領は議会閉会中に、憲法と予算に反さない限りにおいて、法的効力を持つ大統領令を発することができるが、それは開会された議会に提出され、承認されなければならない。

立法権は議会に属する。議会は定数301名で、すべて小選挙区による選出と憲法に規定されている。また、議会のほかに大統領により議員が任命される諮問評議会がある。これは立法機関ではないが、議会に準ずるものとされ、有識者が大統領および議会に対し必要な提言を行なう。1994年憲法改正により設置され、2001年憲法改正により拡充された。定数は59名から111名に増員され、上記提言とともに、議会との合同会合において大統領選挙候補者の指名や開発計画の承認、条約の批准を行なうこととなった。これにより、大統領選挙候補者の指名に関わる規定は、議会と諮問評議会の合同会合メンバーの5%(21名)以上の推薦と候補者3名以上に変更された。

司法機関は、憲法により「法的、財政的、行政的に自立した機関」とされ、「検察当局は下部機関のひとつ」とされる。司法と検察の成員は、法により規定された条件を除いて解任されず、最高司法会議が裁判官の任命、昇進、解任を執行する。

2000年1月に、イエメン初の地方自治法が公布された。地方自治法は、1994年憲法改正において規定された地方評議会の設置に基づくもので、それは以下のように規定している。州知事およびムディール(州より下位の行政区域ムディーリーヤの長)はそれまで通り中央政府により任命され、それぞれの地方評議会の議長を務める。州評議会の議員は、州を構成する各ムディーリーヤから1名ずつが選出される。ムディーリーヤ評議会の議員は、住民の規模に応じ17~27名が各ムディーリーヤにて選出される(任期はともに4年)。両評議会はそれぞれ、その選出議員の中から事務総長を選出する(事務総長は慣習的に、それぞれ副知事、副ムディールと呼ばれている)。地方評議会に条例などの議決権はなく、その職務は当該行政区域における開発計画等の決定や予算の承認および監査であり、事務総長がそれらに関わる準備や調整を担当する。この地方評議会は行政機関の一部として、地元の民意を地方行政に反映させる、もしくは地方行政を監督するためのものと位置付けられている。 その後、州知事およびサナア市長は地方評議会による間接選挙で選出されることとなり、2008年5月17日に選出が行なわれた。 

2011年のサーレハ大統領辞任、2012年のハーディー大統領就任のあと、2013年3月から新憲法制定のための基本方針を決める包括的国民対話会議が始まった。包括的国民対話会議は2014年1月、連邦制導入などの方針を決定して閉幕したが、その後ハーディー政権は憲法案作成を行なわず、さらに翌2015年3月以降の内戦により、憲法制定作業はなされていない。

参考文献

続きを読む
2019年1月18日

トルコ/現在の政治体制・制度

(1)議院内閣制から大統領制へ:体制変更が内包する危うさ

トルコの政治体制は、2018年6月24日の選挙を以って議院内閣制から大統領制に移行した。この体制変更は、従来の1982年憲法に変えて新憲法を制定するのではなく、1982年憲法の関連条項を変更することにより実施された。また、国会や市民社会での熟議を通して、何のためにどのような制度が必要であるかについて、国民的総意を時間をかけて醸成するという段階を踏むことなく、エルドアン大統領の旗振りの下、国会における与党の公正と発展党の多数を頼みにして実現された。大統領制移行を国民に問うた2017年国民投票でも、2018年6月に実施された大統領選挙でも、エルドアンは50%を辛うじて超える支持によって望みを果たした。ただし、「選挙」の項目で説明するように、2018年選挙での勝利は、公正と発展党が野党の民族主義行動党と選挙協力を行ったことにより可能になったものであり、与党単独での得票率と国会議席比率は過半数に届かなかった。対して、主要野党は議院内閣制に戻すことも含めて政治体制を再検討することを主要マニフェストに掲げて選挙を戦った。

結果的にはエルドアンの勝利となり、大統領制移行が実現したが、他方で、エルドアンはすでにこの数年の間に権威主義的な大統領制を事実上、実践していたとみることも可能である。実質的に大統領の一存で執政を行い、政治権力を牽制しうる政治・社会的権威(司法機関やメディア、大学)の人事や経営方針にも介入や弾圧を行使し、後で詳述するように、折からの国内外の危機的状況への対応のために非常事態的な政治手法に訴えてきた。その意味では、大統領制に移行したところで、この数年の統治のあり方が統治機構の再編を伴いながらも続くに過ぎない、という見方も可能であろう。しかし、エルドアンの執政手法に強く反発する批判的世論が過半数に迫る状況が2015年選挙以来、固定化しており、大統領制に関わる法的根拠が整えられたところで、エルドアンの執政手法の正当性を高めるとは限らないという不安感が残る。また、市民社会的な各種自由が制限されるだけでなく、ソーシャル・メディア上でのエルドアン批判者へのリンチや法的・社会的制裁が拡大してきたなかで、こうした状況が新体制下でも継続・悪化した場合、2013年6月にイスタンブルから全国各地に飛び火した反政府デモに類似する抗議運動が発生し、政治社会的混乱を招く可能性も十分に考えられる。

(2)議院内閣制時代の大統領と大統領公選制導入の経緯

2014年の大統領選挙までは、国家元首は大統領だったが、議員内閣制をとり、大統領は行政権を憲法規定上は持たなかったため、法律上は大統領制や半大統領制とはいえなかった。しかし、2014年8月の第一回公選大統領選挙の結果、普通選挙によって選ばれた大統領として、憲法上の大統領権限を最大限に行使して執政に関与することを正当化するエルドアンが当選したことによって、議員内閣制から事実上の半大統領制に移行した。後述のように、現行憲法は大統領の意向次第で権限を拡大解釈できる文言となっていたため、エルドアンは憲法の関連条文を全く変更することなく、大統領選出方法を国会での間接選挙から国民直接選挙へと変更しただけで、大統領制的な執政を事実上、実施してきたのである。さらには、2017年4月の憲法改正国民投票と2018年6月大統領選を経て、法的にも大統領制への移行を実現した。

2007年以前は、大統領は国会議員である必要はなく、議員総数の5分の1以上の書面による推薦を以て立候補でき、国会議員定数の3分の2以上の多数(秘密投票、第1回および第2回投票で決まらない場合、第3回投票は過半数)により選出されていた。2007年10月21日の憲法改正国民投票により、任期は従来の7年(再選不可)から5年(2選まで可)に変更された。いずれにしても、議員が大統領に選出された場合には、議員辞職と党籍離脱によって党派的に中立的立場をとることが求められていた。

現行の1982年憲法では、1980年以前に国会が混乱し、政治機能を発揮できなかったことを反省し、議院内閣制であるにもかかわず、国会に対する大統領の立場が強化されていた。大統領は首相の指名・任命権を持つ他、必要に応じて国会を招集し、国会の混乱に際しては解散総選挙を宣言する権限を付与された。また、国会が可決した法案の再審議を要求して国会に差し戻したり、再審議後にそのまま可決された法案を国民投票に付託したり、憲法違反の疑いがあると考える法律や政令については憲法裁判所に合憲性を審査させる権限も有した。行政や司法に対しても、大統領は国家監督委員会委員や各種上級裁判所の幹部裁判官および検事の一部を選任する権限を有してきた。軍に対しては、統帥権を有し、参謀総長の任命と軍の出動命令権を持つが、有事の際には参謀総長が指揮を執ることが定められている。以上のような大統領の権限がどれだけ実践されるかは、実際には個々の大統領がどのように行使するかにかかっており、その意味で、大統領の個性に大きく依存してきたといえる。国会の決定にあまり介入しない大統領もいれば、たとえば、2000年から2007年まで大統領を務めたセゼルのように、イデオロギー的に対立する政府の政策や人事に次々と干渉することも可能だった。

このような大統領の権限にかんする曖昧さがそもそも存在する上に、2007年5月に憲法の大統領選出条項が改正され、国会議員による間接選挙ではなく、国民の直接選挙によることになった。そのような憲法条項改正のきっかけになったのは、2002年総選挙以降、国会の過半数を優に上回る議席を得ていた公正と発展党から大統領が選出されることを阻止しようと、当時の唯一の院内野党だった共和人民党が軍部、憲法裁判所など、伝統的に世俗主義勢力を構成してきた国家機関と画策し、従来の法解釈に反する方法に訴えて、与党の大統領候補(当時のギュル外相)の選出を阻んだことである。公正と発展党の議席数は最初の2回の投票での選出に必要な議会定数の3分の2には達していなかったが、3回目の決選投票で単純過半数によって選出されることが確実視されていた。しかし、第1回投票をボイコットした共和人民党と、憲法裁判所出身の当時のセゼル大統領が、憲法裁判所に第1回投票の無効を訴え、憲法裁判所もそれを認める判決を下した。投票の定足数について特別の規定がないため、通常なら国会議員定数の3分の1のはずであるが、共和人民党らは国会議員定数の3分の2が定足数であると主張し、憲法裁判所もそれを認めたのである。つまり、共和人民党が投票をボイコットする限り、第1回投票は成立しないことになるため、新大統領選出はその状況では不可能となった。これを不当とする公正と発展党は、早期解散総選挙に打って出るとともに、大統領選の定足数を3分の1と明記する憲法条項改正を行い、さらに早期総選挙で再び国会過半数を制し、ギュル大統領の選出を達成した。その上で、国民の直接選挙で大統領が選出されるよう、憲法も改正した。こうして、憲法における大統領と三権、特に首相や政府との関係について一切の見直しや議論がされないまま、ギュル大統領が任期満了となる2014年をもって、公選大統領の時代に移行することとなった。

2014年大統領選で勝利したエルドアンは、そもそも半大統領制あるいは大統領制に前向きで、大統領として積極的に政治的リーダーシップを発揮したいとの意向をしばしば示してきた。大統領就任とともに法律上は党籍離脱し、議員辞職を強いられたが、大統領選出まで3期にわたり首相を務める間に、党組織人事と選挙候補者リスト選定を通じて党内で自派閥を形成していった。自身のライバル候補は結党以前から政治運動を共に作りあげてきた仲間であっても容赦なく排除していった。公正と発展党結成プロセス以来、トルコ政治を共に動かしてきたギュル元大統領や、公正と発展党政権期の外交政策の青写真を描き、自身が首相にまで抜擢したダウトオールは象徴的例である。しかし、その強権的で自己中心主義的な政治手法は全体としては、エルドアン首相期前半にトルコが経験した高度経済成長と生活水準の向上、国際社会での発言力向上といった、肯定的側面と結びつけて受け止められた。そうした手法に対して仲間や支持基盤から批判が漏れ聞こえては来るものの、トルコのさらなる発展や危機回避には彼のような強いリーダーが必要だと考える人々にとっては、エルドアン首相期後半以降の危機と権威主義化の時代において、彼を結局は支持する主要な理由になっている。

 2014年の大統領就任以来、エルドアンは事実上の半大統領制を敷いて内政と外交を統率し、閣僚や党内の人事、選挙候補者リストもエルドアンのチェックと承認なしには首相は決定できないという状況だった。それは、かつて世俗主義派のセゼル大統領が公正と発展党政権の人事に介入したレベルをはるかに上回っていた。なによりもセゼルは裁判官出身であり、政党や議会に内側から働きかける権力基盤を有していなかった。エルドアンはその両者を有しており、しかもそれを独占しようとしてきた。例えば、ギュル大統領の任期満了に伴ってエルドアンが大統領に選出された際、世論調査でエルドアンを上回る人気を誇っていたギュルの党首と首相就任を妨げるために(http://www.internethaber.com/ankette-erdogan-ve-gul-soku-548550h.htm)、当時外相だったダウトオールを自ら首相(それゆえに党首)に抜擢した。しかし2年後にはそのダウトオールに対して首相辞任を強いた。ダウトオールは「清潔政治法」制定を公言して政治家の汚職疑惑解明に積極な見せることで、与党政治家の汚職疑惑に対して野党だけでなく与党支持基盤からも高まっていた反発に応えようとしていた。また、2015年6月国政選挙で得票率と議席比率の双方で過半数を割り込みながらも国会第1党の座を守った際には、長年の政治的・イデオロギー的ライバルである共和人民党との連立政権樹立に前向きだったとされる。エルドアンは、前者については自身や自身の家族への疑惑が取りざたされていたこともあって阻止し、後者については連立協議のイニシアチブを党首らに任せることなく連立不成立の機運へと導き、そのまま異例の早期解散総選挙へと持ち込んだ。2015年11月には公正と発展党は議席比率で過半数を回復し、単独政権を維持することに成功した。ダウトオールはある意味、選挙の洗礼を受けずにトップダウンで首相の座に座っていたが、この二つの選挙を通じて首相として国民の信任を得たはずであった。それにもかかわらず、2016年5月にエルドアンによって辞任を強いられたのである。

代わりに1990年代のイスタンブル市長時代から側近として彼を支え、公正と発展党政権下で長く交通・海運・通信大臣を務めてきたビナリ・ユルドゥルムが首相に据えられ、大統領制移行までの最後の首相を務めた。

2013年春以降、エルドアン政権は多くの国内外の政治的危機に直面してきた。2013年5月末からの反政府デモとそれへの過度な暴力的鎮圧政策に対する国内外からの批判、同年秋移行から年末にかけてのギュレン派との対立激化と政府要人やその親族の汚職疑惑、2014年秋のコバニの戦闘に象徴される、内戦中のシリアにおけるクルド自治地域宣言と連動したトルコ内でのクルド武装組織(PKK)の活動活発化やシリアで勢力拡大する「イスラム国」へのトルコ政府支援に関する国際的疑念の高まり、トルコ・ルートによるシリア難民の欧州流入をめぐるEUとの関係悪化、こうした過程全体を通じての、政府に批判的メディアや市民組織の弾圧・閉鎖、政治・市民活動家や学術研究者の不当な逮捕や長期拘留、パージが深刻化してきた。2016年5月にはクルド系左派の諸人民の民主党議員のパージを主目的として、当時、起訴されながらも不逮捕特権のゆえに裁判が行われていない議員について、その時点で起訴された案件を有する議員だけに限定して不逮捕特権を解除する時限憲法改正を実現した。この後、同党共同党首を始め多くの議員が逮捕され、有罪判決を受けて留置さることになる。2016年7月の失敗したクーデタはこうした流れをさらに加速させた。非常事態が宣言され、パージや政府批判への弾圧は空前の規模に達したこうした背景の下、2017年1月に大統領制移行のための憲法改正法案が国会で可決され、同年4月の国民投票によって僅差で承認された。

(3)2017年憲法改正による大統領制の特徴

2017年国民投票により導入された大統領制の概要は次の通りである。具体的には2018年6月の大統領選挙後に、大統領令によって新しい体制が次第に整えられていくことになる。

大統領と国会議員の任期と選挙(詳しくは「選挙制度」の項を参照)

大統領(40歳以上の高等教育修了者)と国会議員(一院制、定数600名、18歳以上に被選挙権)は同日選を基本とし、任期5年とされる。国会には大統領や内閣不信任決議の権利がない代わりに、定数の3/5(360)以上の議員の賛成を以って早期解散総選挙を行い、任期途中の大統領に選挙を強いることができる。大統領は原則3選禁止であるが、2期目に国会の早期解散総選挙によって任期が短縮された場合に限って3期目に立候補することができる。逆に大統領は、いかなる理由であれ、何時でも大統領選挙を決断できる。例えば、国会における党勢の改善を試みるたの解散総選挙も可能である。

大統領の権能

大統領は国家元首であり執政府の長として以下の権限を有する。国会が可決した法律を公布したり、国会に再審議のために差し戻したり、国会内規や憲法に反しているとして憲法裁判所に廃止を求める裁判を起こすことができる。国会議員被選挙権を有する国民の間から副大統領や閣僚を任免する。幹部職官僚を任免する。国際条約を批准し公布する。国家安全保障政策を策定し、必要な対策をとる。トルコ国軍の出動を命じる。受刑者の病気や障害、高齢を理由として量刑を減免する。予算と決算の法案を国会に提出する。

また非常に重要な権限として、執政にかかわる大統領令を発布でき、そこには、省庁設立・廃止、目的と権限、組織構造、省庁の中央と地方の組織設立の決定も含まれる。大統領令は国会の承認を必要としないため、大統領は大統領令を以ってほとんどありとあらゆる執政を単独の意思で行うことができる。管見の限り、憲法による大統領令発布制限要件は以下のとおりである。憲法の人権や個人の権利義務にかかわる政治的権利義務と関連すること、特に法によって規定すると憲法が定めていること、既存の法律に明文規定があること、である。大統領令と法律が矛盾する場合、法律が優先する。大統領令の規定と同じ事柄について法律を制定した場合、法律が優先する。ただし、このような大統領令制限を要する条件が生起した場合に、どのような手続きで制限を実行するのかは憲法では定められていない。大統領が人権等にかかわる憲法上の規定に反する執政を許されるのは、非常事態宣言下で発令する大統領令によってである。ただし、そのような大統領令は、3か月以内に国会の承認を得る必要があり、さもなくば3か月をもって自動的に無効となる。換言すれば、3か月を上限とする人権侵害が大統領の単独の判断で可能となる。

司法との権力分立は以前に増して大統領の影響が大きくなった。判事と検事の人事を司る判事・検事高等会議の名称が判事・検事会議と改められ、委員数は22名から13名へと削減された。法務大臣と法務次官が職権の一部として会議構成員となることが規定されているが、この2名は大統領の政治任用による。その他、大統領は判事と検事の中から4名を選ぶことが規定された。直接的に選出できることになる。他方で、国会は4名を最高裁判所や行政最高裁の判事から、3名を大学の法学部教授と弁護士から、計7名を選ぶ。国会は当然ながら数的に勝る与党の意向が反映されやすく、大統領と同じイデオロギー的立場の委員や大統領が御しやすい委員が多数を占めやすい懸念がある。

大統領制移行は2018年6月の大統領選挙を以って行われたが、大統領が選出後も党籍を維持することを認める改正は、2017年国民投票後に直ちに施行された。2014年の大統領当選に伴って党籍を離れていたエルドアンは、2017年5月に公正と発展党の党籍を回復し、同時に党首に就任した。

<国会の権能

国会は立法、予算と決算の法案の審議と承認、通貨発行、交戦権発動、国際条約批准の承認、定数の3/5以上の賛成による恩赦が特に憲法改正法案で明記されている。他方で、大統領令という立法に基づかない執政手法に広大な執政領域が付与されているために、立法府として行政上のルールを整え、執行府をチェックするという一般的な存在理由が事実上はどれだけあるのか疑問である。選挙制度の項目で説明するように、新体制においても従来通りのドント式の大選挙区制がとられており、議会の過半数が大統領の所属政党の議員で占められている場合、国会は形式的存在となる可能性が強い。また、民主的体制では国会には執政府のチェック機関としての役割が期待されるところであるが、前述のように大統領不信任決議の権限はなく、自らの任期を犠牲にして大統領選挙を前倒しさせる以外に大統領の政治責任を問う手段はない。

大統領に対する刑事的訴追権については以下の通りである。大統領が刑法上の犯罪を行ったとして国会の過半数が訴追を提案し、定数の3/5以上の秘密投票により可決した場合、会派勢力比に応じて訴追委員会が結成される。同委員会は2か月以内に訴追報告書を国会議長に提出する。訴追報告書は国会で審議されたのちに、定数の2/3以上の賛成(秘密投票)をもって弾劾法廷(実質は憲法裁判所)に送致される。訴追プロセス中の大統領は早期選挙決定権を行使できず、弾劾法廷で有罪となった大統領は失職する。大統領就任中に犯したとされる犯罪行為については、退任後も上記の訴追手続きが適用される。現行の制度では、大統領が党首として党内人事と国会議員候補者リスト選定の権力を一手に握っている。ために、大統領所属政党が2/5以上の議席を占める国会では、訴追による大統領解任はかなり困難である。ちなみに、副大統領と大臣についても職務に関連して行ったとされる犯罪の訴追については大統領と同じ手続きが適用される。職務と無関係の犯罪行為については議員の不逮捕特権規定が適用されるとされ、就任中の司法的処罰適用は国会の決定による。離任後は不逮捕特権は終了し、就任期間は時効期間に参入されないため、副大統領や大臣に対して任期後に刑事責任を問う可能性は広く開かれている。これに対して、職務関連かどうかにかかわりなく大統領の就任中のあらゆる犯罪行為について訴刑事責任を問うためにクリアーすべき条件はかなり厳しい。

2017年憲法改正案は大統領制への急な移行のために用意されたため、10年以上にわたって国会や市民社会で議論されてきた、軍事政権が制定した現行憲法を市民的かつ民主的な精神に基づいた新憲法に置き換えるという精神とは程遠い内容の、既存憲法の部分的変更にとどまった。しかも、大統領制移行による制度改編の全貌もはっきりしないままに、さらにいえば国家機構改編という強大な権限が一任された大統領に、権威主義化を強める現職大統領がが選出された。大統領をチェックするための権力分立の回避が意図された制度だとして、トルコ国内では「トルコ風大統領制」とも呼ばれるが、危機に際してトップダウンで迅速な執政を目指したものだとしても、国内外の危機や不安を長期的に収束するものとして機能するか、未知数である。

(4)大統領制による内閣発足後の動きについて

 エルドアン新体制は7月10日に最初の大統領令(Cumhurbaşkanlığı Kararnamesi)であるを発布(議会の承認不要)して始動した。これにより、旧来の26省体制を16省に整理するとともに、省以外の主要組織の位置づけや責任関係が明文化された。

主要閣僚の配置

同大統領令と同時に閣僚名簿も発表された。改選前の内務相、法務相、外相の留任、選挙前の国軍参謀総長の国防相就任という布陣から、国内外のクルド問題やシリア内戦をはじめとする外交政策での現状維持路線が予測される。また、国庫・財務大臣には、改選前にエネルギー相だった娘婿のべラット・アルバイラク(Berat Albayrak)が横滑りした。アルバイラクは経営学で博士号を取得し、エルドアン政権との結びつきの深さで知られるチャルク財閥(Çalık Holding)で経営責任者を務めるなど、経営畑を歩んできた。しかし、自らを抜擢してくれたカリスマ的な義父の意向に反した政策が財政政策的に不可欠と思われる場合に、エルドアンに意見することは恐らく困難である。エルドアンは、不況脱出という火急の問題への対応に加え、国家予算執行全般についても、自らの意向が最もスムーズに反映できる体制を整えたといえる。

軍に対する文民統制の完成

大統領制移行に伴う省庁再編は、エルドアンやトルコのイスラム復興勢力の多くにとって積年の課題だった、軍部に対する文民統制の完成という点でも、大きな意味をもった。まず、大統領令第4号により国防省の管轄下に軍が置かれることが明記された(第799条i項)。この大統領令以前には、トルコ国軍は多くの国に一般的な国防省の管轄下ではなく、議院内閣制における最高政治責任者としての首相に対して、内閣が策定した軍事政策の実施に関わる責任を負っていた。他方で2013年夏に「国軍内規に関する法」(Türk Silahlı Kuvvetleri İç Hizmet Kanunu)が改正されるまでは、対外脅威に対する国土防衛と並んで、「憲法が規定するトルコ共和国の守ること」が国軍の主要任務であった。これはイスラム復興運動やクルド民族主義運動が従来の政治体制の変更、つまり、世俗主義を放棄してイスラム的政策を容認したり、トルコ民族主義的中央集権体制を緩和して国民の多様なアイデンティティに応じた多元主義的・地方分権的統治システムを取り入れる、といった政治要求の高まりを阻止するために、内政に干渉し、場合によってはクーデタを実行して軍事政権を敷き、そうした「国内的脅威」を除去することも、軍の主要任務であることを意味する。実際、内政への軍の介入は様々な形で実施され、トルコの民主主義の成熟という点で、長く主要な課題とされてきた。

この内政に関わる任務が政権や国会に対する政治監督者の地位を意味したがゆえに、軍は政権や司法に対して事実上は高度な自律性を維持してきた。2002年以来続いた公正と発展党単独政権が一歩ずつ実現してきたのが、このような軍の高度な自律的地位をはく奪し、文民統制を法的にも実際的にも確立することだった。二つの象徴的変化を取り上げるとすれば、一つは、かつて軍が憲法上の多様なメカニズムを通じて「国内的脅威」の排除に務めてきたが、そのメカニズムを着実に切り崩してきたことである。高等教育や放送に関わる大枠を設定する会議体に憲法規定として配置されていた軍代表ポストが2004年にまず廃止された。上述の2013年の法改正では、「国内的脅威」から体制を守ることが軍の主要任務から削除された。

また、より短期的な安保・治安政策を策定する国家安全保障会議と、軍に関わる法規定やより中長期的安保政策について議論する高等軍事評議会は、かつては圧倒的に軍中心のメンバー構成だったが、文民優位の構成へと再編されてきた。特に後者については、思想・イデオロギー的理由から軍人のパージを決定する会議体としても長く機能してきたが、2016年クーデタ後の対応として組織改編がなされた際にようやくその機能は廃止された。同時に、かつては首相と国防相のみの文民委員に対して参謀総長以下、ジャンダルマを含む4軍司令官やその他の陸・海・空軍大将(orgeneral、oramiral)などが居並んでいたものを、クーデタ後に軍委員を削減し、代わりに外務や内務、法務など主要閣僚を配置して人員バランスを調整していたが、今回の大統領令ではさらに国庫・財務相、国民教育相が新たな常任委員に加わった。従来、軍は予算に関してもかなりの自律性を持っていたと言われるが、文民委員の布陣は、予算に関しても文民政権の切込みが始まる可能性を示唆している。

軍部の政府との責任関係という観点からいえば、大統領令第4号により参謀本部が国防省所管となったことは述べたが、参謀本部だけでなく、陸・海・空軍司令部(komutanlıklar)はそれぞれが個別に(つまり参謀本部とも別個に)国防省所管となり、それぞれのトップは個別に(つまり参謀総長経由ではなく、直接的に)国防相に対して責任を負うことが規定された。ジャンダルマは2016年クーデタ後にすでに内務省所管になっていたため、今回のこの組織関係再編によって、軍全体の文民政府に対する一体としての自律性が法的には解体されることになった。人事権も、幹部階級の将官(general、amiral)については大統領の(大統領令第3号第9条)、その下の階級の士官(subay)については国防相の権限となった。従来、NATOの首脳会議や国防相会議に参謀総長はプロトコルの上下関係が曖昧だったために参加しなかったが、こうして文民統制の組織間関係が確定したことに伴い、今後は文民政治家を背後から補佐する役割で参加するとみられる。参照

もう一つの文民統制強化への変化としては、軍を司法的にも文民システムに組み込むことが目指された。1961年以降、トルコでは軍関連の裁判所が複数設立され、いわゆる軍内部の規律に関わる案件以外についても、何らかの点で軍に関わる限り、全てこれらの裁判所で扱われてきた。例えば、軍の敷地で発生したが、他国であれば一般の刑事事件として文民裁判所で扱われる案件であっても、軍内部の裁判所の管轄とされた。つまり、軍関連の裁判所の管轄は非常に広範で、文民裁判所はその軍関連裁判所の管轄事項について別途、審理を進めることはできなかった。しかし、2004年の国家治安裁判所廃止を皮切りに、2010年には軍幹部が憲法裁判所における弾劾法廷で裁かれる道が開かれ、軍内部司法機関の管轄から民間人の関与する案件が除外されることになるなど、軍の司法的自律性は浸食されてきた。2017年の大統領制移行に関する憲法改正案には、残る軍関連裁判所にかかるすべての憲法規定が削除される条項が盛り込まれており、しかも国民投票により承認されたのちには直ちに適用される条項とされたため、国民投票の承認後に軍関連裁判所は早速、廃止されている。

こうした文民統制の確立期に政府と軍部の結節点である国防相人事は大統領と軍の双方に信頼関係があり、経験に依拠した権威を示せる人物である必要がある。その要職には前参謀総長のフルスィ・アカル(Hulusi Akar)が任命された。トルコ国軍は世俗主義の擁護者を自任し、しばしば内政や組閣人事に介入し、文民政権からほとんど独立して作戦を実行する伝統を有していたが、エルゲネコン裁判による軍幹部パージ以降、政権とイデオロギー的に近い軍幹部が登用されてきた。アカルもそうした一人であるが、2016年クーデタを起こした組織のトップとしての責任追及を免れていた。それは逆に言えば、政権とイデオロギー的に近い幹部の手薄さを示すとも言えよう。当面は、エルドアン大統領を前参謀総長の新国防相が補佐しながら、人事面でも精査しながら新しいトルコ国軍の再編的立て直しが進められていくことになる。

非常事態宣言の終了

選挙後の7月21日をもって非常事態は終了した。2016年7月の失敗したクーデタ後に非常事態宣言が発布されて以降、政権は3か月ごとに更新してきたが、新体制発足後に政権がその更新手続きを取らなかったことによる自動的な終了であった。選挙までと比べて、治安に関わる状況が大きく変わったわけでは特になく、むしろ選挙戦を非常事態宣言下で行うことが政権の有利に働くために、漫然と延長し続けたという見方もできよう。他方で、クーデタやクルド問題にかかわる警察の取り締まりや司法手続き・判断に非常事態宣言終了が大きな意味をもつかもはっきりしない。新体制下で政府批判勢力に対してどのような対応がとられていくのか、現段階で見通すのは難しい。

参考文献

続きを読む