月別: 2020年10月

スーダン
現在の政治体制・制度
2020年10月4日

スーダン/現在の政治体制・制度

スーダンの政治体制は、大統領共和制である。2019年4月、約30年間続いたバシール政権が崩壊した。国軍が立ち上げた暫定軍事評議会(Transitional Military Council: TMC)と民政移管を求める市民の代表からなる「自由と変化勢力」(Force of Free and Change: FFC)の交渉により、暫定的な統治機構が設立されるに行ったった。スーダンでは、2005年7月以降、暫定国家憲法(Interim National Constitution)により政治体制が定められていたが、2019年8月4日に、移行期間のための憲法宣言(Constitutional Declaration for the Transitional Period)が署名され、3年3か月間の暫定期間は、2005年の暫定国民憲法に替わって使用されることが決定した。同憲法宣言第2章第7条第9項において、暫定期間中に、スーダンの恒久憲法策定に向けたメカニズムが構築されるべきこととなっている。

なお、スーダンでは1956年1月1日の独立以降、4つの憲法が、政変により作り替えられてきた。1956年のスーダン移行憲法、1973年のスーダン恒久憲法、1998年のスーダン共和国憲法、2005年のスーダン暫定国民憲法である。軍政と民政がたびたび入れ替わり、国内で反乱勢力が蜂起し政治的要求をする中で、あらゆる立場にあるスーダン国民のための恒久憲法策定は、スーダンの歴史上、重要課題であり続けている。

ここからは、2019年の憲法宣言の内容から、主要な移行政府機関についてまとめる。憲法宣言第3章第9条は、移行政府機関を次の3つから成ると定める。(1)主権の象徴である「主権評議会(Sovereignty Council)」、(2)国家の最高行政権を有する「内閣」、(3)立法権を有し、行政機構の活動を監視する「移行立法評議会(Transitional Legislative Council)」である。行政府・立法府に加えて、憲法宣言第8章で(4)司法府も規定される。以下ではこれらの4つについて、憲法宣言の内容を抜粋する。

行政府

行政府として、主権評議会と内閣がある。大統領ポストは、2019年4月のバシール大統領撤退以降、空席である。

主権評議会

主権評議会は、軍事評議会と文民勢力の間の権力分有協定として取り決めたものである。立法評議会は11人で構成され、5人はFFCが選出する文民、5人はTMCが選出する者、最後の1人は文民で、TMCとFFCが合意の下、選出する。主権評議会の議長は、暫定期間のはじめの21か月は同評議会の軍事メンバーが選出し、残る18カ月間の議長は評議会の文民メンバーが選出する文民が務める(憲法宣言第4章第10条)。

主権評議会は、次の能力と権限を有する。FFCが選出した首相の任命、首相が任命した閣僚、地方の長・州知事の承認、指名された立法評議会議員の承認、最高裁判所設置後の承認及び司法長官等の承認、内閣で指名された大使及び各国からの駐スーダン大使の承認、主要閣僚からなる安全保障・防衛評議会の勧告に基づく宣戦布告、等が定められている(憲法宣言第4章第11条)。

2020年9月現在、主権評議会議長はブルハン将軍(General Abd-al-Fatah al-BURHAN Abd-al-Rahman)である。2021年5月以降は、文民の議長に交代し2022年に選挙を迎える予定である。

内閣

内閣は、首相及び20人を超えない範囲で、FFCの閣僚候補者リストの中から首相が指名し、主権評議会で承認を受けた者からなる。ただし、国防大臣と内務大臣は、主権評議会の軍事メンバーが指名する。首相はFFCが選出し、主権評議会が承認する(第5章第14条)。

内閣は、次の能力と権限を有する。「自由と変化宣言」のプログラムに従って移行期間の任務を遂行すること。戦争・紛争を停止し、平和を構築すること。法律案、予算案、二国間お呼び多国間合意を早期に進めること。公的サービスのための計画や政策案を作成すること。公共サービスの長を指名し、国家機関の活動を監視すること。法の執行を監視すること、などである(第5章第15条)。

立法府

立法府として憲法宣言で規定されるのは移行立法評議会である。移行立法評議会は、独立の立法当局である。移行立法評議会員は、最大で300人であり、前政権に参加していた国民会議党などの政党を除いた、すべての勢力を代表する。女性の参加を全体の40%は確保すること、67%はFFCメンバーから、33%は、「自由と変化宣言」に署名していない勢力から選ばれる。移行立法評議会を構成する際には、「自由と変化宣言」に署名したか否かにかかわらず、スーダン国内で勘案すべき様々な要素を考慮すべき旨も明記されている(第7章23条)。

移行立法評議会は、次の能力と権限を有する。法律の制定、内閣の監視、国家予算の承認、二国間、地域間、国際合意や条約の批准、法律・規則の制定及び評議会の議長・副議長・専門委員会を選出する(第7章第24条)。首相が退任した際には、移行立法評議会が新首相を指名し、主権評議会が承認する。

この移行立法評議会は、2022年に予定される選挙まで存続する。

司法府

最高司法評議会(Supreme Judicial Council)が、国民司法サービス委員会に代わり設置され、権限を引き継ぐ。最高指標評議会は、憲法裁判所長官及び裁判官、司法長官及び副司法長官を選出する(第8章第28条)。

司法権は司法機関に委ねられる。司法機関は、主権評議会や立法評議会、その執行部局から独立して存在し、必要な財政的・行政的独立も維持する。司法長官は、司法機関の長であり、国民最高裁判所の長であり、最高司法評議会の下で司法機関の運営責任を有する(第8章第29条)。

憲法裁判所は、司法機関とは異なる独立した裁判所であり、法律や措置の合憲性を監視し、権利と自由を保護し、憲法上の係争を裁く。法律によって、憲法裁判所は設置され、その能力と権限が規定される(第8章第30条)。

参考文献

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スーダン
最近の政治変化
2020年10月4日

スーダン/最近の政治変化

バシール政権崩壊と移行政権の樹立

2019年4月11日、1989年6月から約30年間の長きにわたったオマル・アル=バシール(Omar al-Bashir)政権が崩壊した。強権的なイスラーム主義を貫いたバシール大統領に対しては、市民からの不満も大きかった。2018年後半の経済危機は、パンや燃料の値上げなど、市民の日常生活に直接的な影響を及ぼした。市民は、バシール大統領の退陣を要求し、12月中旬から、首都ハルツームのみならず地方都市においても、反政府デモを開始した。政府は、催涙ガスを使用したり、デモの首謀者を逮捕するなどして反政府デモを弾圧したが、死者が発生しても、市民による要求は止まらなかった。なお、この経済危機の背景には、2011年の南スーダン独立に伴い、同地域で産出される石油による収入が激減したことや、1997年以降2017年まで続いた米国による経済制裁の影響もある。なお、米国のテロ支援国家リストからスーダンの国名を外すことが次の二国間の課題となっている。2020年8月24日、マイク・ポンペオ米国務長官がスーダンを訪問した際に、ハムドゥーク首相とテロ支援国家指定解除も協議したとされる。テロ支援国家指定解除がされれば、米・スーダン関係の改善や対外投資等の政治・経済面で改善が期待される。ただし、国内では、2020年初め以降世界的に広がる新型コロナウィルスの感染のみならず、未曽有の洪水や、通貨の急速な下落に伴う経済的緊急事態も宣言されるなど、移行政権はさまざまな課題に直面している。

まず、バシール政権崩壊に至る過程からその後の経緯を整理する。2019年1月1日、バシール大統領の退任を求める、市民や反乱勢力の連合である「自由と変化」勢力(Force of Free and Change: FFC)の発足が宣言された。4月6日には、市民がハルツームの軍本部前で座り込みのデモを開始した。市民運動が盛り上がり続ける中、4月11日に軍が無血クーデタによりバシール大統領を退任に追い込んだ。クーデタを起こした軍部は、暫定軍事評議会(Transitional Military Council: TMC)を発足させた。これまで非暴力運動を展開してきた市民は、TMCは市民がこれまで抵抗してきた政府とほとんど変わらないと非難し、TMCに即時の民政移管を求めた。アフリカ連合(AU)平和・安全保障委員会は、4月15日、軍事力を使った、憲法に反する手法での政変を拒否・非難するとともに、スーダンに対し、15日以内に文民主導の政府に移管しなければ、AU加盟国としてのAUの活動への参加を停止すると決定した。

その後約2か月間はTMCとFFCの間で大きな動きは見られなかった。しかし、軍本部前で座り込みを続ける市民や民主化の高い要求を行うFFCに対し、TMCはいら立ちを募らせ、6月3日に軍本部前で座り込みをする市民の強制排除に出た強制排除の中で行われた残虐な暴行は国内外に衝撃を与え、エチオピアの仲介により、TMCとFFCが話し合いを始めることとなった。詳細は、アブディン(2020)による論考を参照されたい。デモの残虐な強制排除の経験によりデモの再開が現実的でなくなったことから、FFCは市民にゼネストを呼びかけた。さらに6月30日、欧米諸国や人権団体への働き掛けも功を奏し、TMCが暴力を控える中で、百万人規模のデモを成功させた。これ以降、TMCとFCは交渉を進め、8月に、移行期間のための憲法宣言が合意され、アブダッラー・ハムドゥークが首相に就任し、文民をトップとする移行政府が発足した。

スーダンの「現在の政治体制・政治制度」に記載した移行憲法宣言の条項に基づいて、ハムドゥーク首相の下、2019年9月8日に18人の大臣が就任した。ハムドゥーク首相自身が国連アフリカ経済委員会の副事務局長であるなど国際的に活動する経済学者であること、外務大臣他4名が女性であることや、財務・経済大臣は世界銀行勤務経験があることなども含め、注目の閣僚人事となった。

経済の立て直し、民政移管、スーダン和平の実現が急務とされたが、スーダンの市民は、新内閣の改革プロセスが遅々として進んでいないと不満を持っていた。2019年6月30日の大規模デモから1年にあたる2020年6月30日には、全世界的な新型コロナウィルス感染拡大の中、スーダンでもロックダウン中であったにもかかわらず、市民はSNSを使って連帯を呼びかけ、スーダン各地で大規模なデモを展開した。デモにより1人が死亡し、負傷者も発生した。この結果、7月上旬、ハムドゥーク首相は、警察長官及び副長官を解雇した他、財務・経済、外務、エネルギー担当、保健担当大臣等を外し、内閣改造を行った。以上のような内政状況に加えて、ナイル川の洪水により、2020年9月4日に、以降政権は、3か月間の緊急事態宣言を宣言した。続いて、9月11日には、通貨の急落により、経済緊急事態を宣言した。スーダン移行政権はさまざまな課題に直面している。政権に声を上げてきた市民の代表であるFFCについても、2020年7月には「スーダン専門職能者連合(Sudanese Professional Association)」がFFCから離脱するなどの課題がみられる。

なお、スーダンでは、バシール政権崩壊以前にも、民衆蜂起により軍事政権が倒されてきた過去がある。アッブード軍事政権(1958年-1964年)は、労働者、農民、専門職者(医師、弁護士、技術者等)、知識人を中心とする国民の抵抗運動(10月革命)により転覆した。ヌマイリー政権(1969年-1985年)も、経済不安定化及び生活必需品の値上げの後に、民衆による決起(インティファーダ)により打倒された。2011年のアラブの春で民衆が独裁政権を非暴力で転覆させ、スーダンでも「アラブの春」が発生する可能性も議論されたが、その際、スーダンで政権を牛耳る者たちは、スーダンではすでにアラブの春は経験済みであると認識していた。ただし、過去の民衆運動がそれぞれ5日、10日程度で政権を崩壊に至らしめたのとは対照的に、バシール政権崩壊までは4か月かかった。反対に、過去の軍事政権転覆時には問題にならなかった、国内紛争との反乱軍の活動があり、スーダンの国内政治を複雑化させているという面もある。国内政治の複雑さを象徴する動きとして、例えば2014年12月には、バシール大統領の一党独裁状態に対して、バシール大統領の退陣を求めるために共闘する、政党連合(NCF)・市民運動・反乱軍連合(SRF)が、隣国エチオピア・アジスアベバで、「スーダン・コール(Sudan Call)」なる同盟関係を結んだことがあげられる。国内紛争と反乱勢力については、次の「スーダン和平」で解説する。

<参考:スーダンの政治体制>

  • 1953年 自治選挙(self-government election)※植民地における自国民による選挙
  • 1956-1958年 スーダン独立、第一民主政権期
  • 1958-1964年 アッブード軍事政権期
  • 1964-1969年 「10月革命」によりアッブード政権崩壊、第二民主政権期
  • 1969-1985年 「5月革命」、ヌマイリー軍事政権
  • 1985-1989年 インティファーダ、ヌマイリー政権崩壊、第三民主政権期
  • 1989-2019年 「救済革命」、アル=バシールが政権奪取、NIF→NCPによる支配
  • 2019-2022年 バシール政権崩壊、暫定軍事評議会発足、移行政府発足、
  • 2022年 民政移管完了予定

スーダン和平

軍事部門対非軍事の市民という対立に加えて、スーダンでは、ハルツームを中心とする中央政府対周辺地域の反乱軍という構図で、複数の紛争が展開してきた。最も長く続いたのは、南北スーダン内戦である。1956年元日のスーダンの独立前日から1972年まで続いた第一次スーダン内戦、1983年から2005年までの第二次スーダン内戦は、主に北部に位置する中央政府及び国軍と南部スーダンの反乱軍の戦いであった。長い内戦の後、2005年にスーダン包括和平合意(Comprehensive Peace Agreement: CPA)が締結され、合意の履行結果のひとつとして2011年7月に南スーダンが独立することになった。他にも、スーダン西部に位置するダルフールでは、2003年以降、ダルフール紛争が続いてきた。加えて、2011年1月の南部スーダン住民投票で同地域の独立が決まると、スーダン・南スーダンの国境線沿いの北部に位置する、南コルドファン州と青ナイル州(いわゆる2州)でも反乱軍が蜂起した。ダルフール紛争及び2州の紛争をどのように平和的に解決するかも、現在の重要課題である。

スーダン政府に対峙する主要な反乱軍として次の勢力があげられる。ダルフールでは、「正義と平等」運動(Justice and Equality Movement: JEM)、スーダン解放運動/軍(Sudan Liberation Movement/Army: SLM/A)があった。SLM/Aは、2006年のダルフール和平合意をめぐり、署名か署名拒否かで内部分裂が起こり、それぞれ指導者の名前を付けて、SLM/Aミナウィ派とSLM/Aアブドゥルワーヒド派に分派した。同合意に署名したSLM/Aミナウィ派はダルフール地域における重要ポストを与えられたが、2011年2月にはダルフール和平合意から正式に手を引いた。2州では、第二次スーダン内戦に際して、アイデンティティは北部スーダンにあるものの、南部の反乱軍であるスーダン人民解放運動/軍(Sudan People’s Liberation Movement/Army: SPLM/A)側で北部の中央政府と戦った者が多い地域である。2011年に南スーダン独立が決まると、2005年のCPAの内容が2州ではほとんど実現されていないことや、2011年の同州での選挙結果等への不満も相まって、SPLM/A北部(SPLM/A-North)として蜂起した。2011年11月には、JEM、SLM/Aミナウィ派、SLM/Aアブドゥルワーヒド派、SPLM/A北部が集まって、スーダン革命戦線(Sudan Revolutionary Front: SRF)を発足させ、バシール政権に対し、解放のための武力闘争を行う旨宣言し、共闘を続けてきた。

バシール政権崩壊後、2019年8月に署名された移行憲法宣言の第7条第1項で包括的な和平を達成するべきことが掲げられ、第15章で「包括和平の課題」について具体的な内容が規定さた。同憲法宣言合意より6か月以内に包括和平を達成するという条項が盛り込まれている。これに関連する動きとして、翌月9月には、南スーダン・ジュバにて、ハムドゥーク首相率いるスーダン政府とSRFの間でジュバ原則宣言(Juba Declaration of Principles)が締結され、包括和平合意に至るロードマップとされた。ただし、SRFは一枚岩ではない。SRF傘下の一勢力であるSPLM/A北部の内部では、2017年3月にアブデルアズィーズ・アルヘルウ率いる一部が分派し、 SPLM/A北部アガール派とアルヘルウ派に分かれた。SPLM/A北部アルヘルウ派は、ジュバ原則宣言に署名しなかった。また、SLM/Aアブドゥルワーヒド派も、スーダンとの和平の道を選んだSRFから離脱し、同宣言への署名を拒否した。このように包括的な和平へプロセス実現を阻む動きも見られる。2019年10月には、スーダン政府とSRFの間で第2回目の和平交渉が実施され、同時にスーダン政府とSPLM-Nアルヘルウ派との間で別の交渉が行われ、南コルドファン州に関する和平交渉のロードマップが合意された。

最新の展開として、2020年8月31日、南スーダン・ジュバにて、サルヴァ・キール南スーダン大統領の仲介の下、スーダン移行政府(ハムドゥーク首相)と反乱勢力の間で7つの議定書からなる和平合意が締結された(富の分配、権力分有、避難民及び難民、土地所有、補償及び復興、アカウンタビリティー及び和解、遊牧問題)。主要な反乱勢力として、JEM、 SLM/Aミナウィ派、SPLM/A北部アガール派が署名した。ただし、SPLM/A北部アルヘルウ派及びSLM/Aアブドゥルワーヒド派は署名を拒否した。スーダン和平を支援してきたトロイカ(米・英・ノルウェー)は声明を出し、和平合意の締結を祝福するとともに、署名しなかったSPLM/A北部アルヘルウ派及びSLM/Aアブドゥルワーヒド派に対し、和平プロセスへの参加を呼び掛けた。9月3日、移行政権とSPLM/A北部アルヘルウ派は、停戦遵守などを盛り込んだ共同宣言に合意した。同共同宣言では、将来策定される憲法は宗教と分離されること、憲法策定まで、南コルドファン州および青ナイル州(2州)の自決権が認められることなどを合意した。

国際平和活動及び仲介活動

上述のスーダン和平実現のため、また文民を保護するため、スーダンには複数の国際平和活動が展開してきた。2003年に紛争が激化し、「世界最悪の人道危機」が発生しているとしてダルフールが注目を集めると、2004年に締結されたダルフール人道的停戦合意の履行監視目的で、同年、AUの平和維持活動であるスーダン・アフリカミッション(Africa Mission in Sudan: AMIS)が立ち上がった。AMISは、2007年に国連・アフリカ連合合同ミッション(UN/African Union Hybrid Mission in Darfur: UNAMID)に引き継がれた。国連とAUという2つの国際組織の「ハイブリッド」型として発足当時は注目を集めたが、報告系統が二重になること、予算の配分、機動性など、様々な面で課題も指摘された。UNAMIDがダルフールに展開する中、2005年のCPA履行監視を目的として、国連スーダン・ミッション(United Nations Mission in Sudan: UNMIS)が発足した。首都ハルツームに本部司令部、南部スーダン・ジュバに地域事務所を設置した。2011年に南スーダンの独立が決まると、UNMISは任務を終えることとなり、北部スーダンからUNMIS部隊は撤収することになった。南スーダンには、UNMISの後継ミッションである国連南スーダン・ミッション(United Nations Mission in South Sudan: UNMISS)が設置された。スーダンと南スーダンの係争地であるアビエイ(Abyei)地域には、国連暫定治安部隊(United Nations Interim Security Force in Abyei: UNISFA)が立ち上げられた。スーダン側に位置する2州では武力衝突が発生したため、引き続き平和維持活動の展開する案が出されたが、スーダン政府はこの案を拒否した。よって、2011年以降、国際平和活動が展開する地域はダルフールとアビエイのみであった。UNAMIDは、設立当初から約5年間は、約2万6000名の軍事要員の展開を認める国連平和維持活動最大規模のミッションであったが、2012年移行段階的に要員数は減らされ、2017年からはダルフールからの撤退を見越したさらなる軍事要員の削減が行われ、要員数は約6,500名まで減少した。

国際的な仲介活動に目を向けると、2009年には、タボ・ムベキ(Thabo Mbeki)元南アフリカ大統領を議長とする、AUハイレベル履行パネル(African Union High-Level Implementation Panel for Sudan: AUHIP)が、2006年に締結されたダルフール和平合意と2005年の南北スーダン包括和平合意履行支援を任務に設置され、スーダンの主要な紛争解決に向けて仲介を続けている。2014年には、解決の目途が立たないダルフールと2州という2つの問題を1つのプロセスに取り込んで、国民対話を通じて包括的解決を目指すという「1つのプロセス2つのトラック(one process, two tracks)」がAUから提案され、実施されてきた。2016年3月には、スーダン政府、ダルフール及び2州の反乱軍(JEM,、SLMミナウィ派、SPLM北部)とAUHIPがロードマップ合意を締結し、ダルフールと2州での紛争終結プロセスを促進していくことに合意した。ロードマップ合意では、一時的な停戦を恒久的な停戦合意としていくための交渉再開を合意した。ロードマップ合意以降、政府や主要な反乱軍は一方的停戦を宣言し、過去数年間は一部の例外を除き、軍事情勢は落ち着きを見せている。なお、2005年の南北スーダンCPAに導いたのは、東アフリカ地域の準地域機構である政府間開発機構(IGAD)であるが、AUHIPとは仲介スタイルに違いがある。IGADはケニアのスンベイウォ将軍(Gen. Lazaro Sumbeiywo)を仲介の長として、交渉の両当事者に強く合意を迫る傾向があった。合意をしなければ会議場から出てはいけない、という指示をすることさえあったとされる。強権的な仲介の下では、決められた合意には至るが、当事者が不満や禍根を残すという側面もある。一方で、ムベキ議長率いるAUHIPの仲介方針は、辛抱強く当事者が合意に至ることを待つスタイルであるとされる。なかなか成果が出ないために、「待つ」仲介方針は非難されたこともある。しかし、2009年以降、継続して仲介をし、以上のような成果も見せている。AUでは「アフリカの問題にはアフリカ的解決を」というスローガンも掲げられたが、AUHIPによるスーダンでの仲介活動は注目に値する。

2019年4月のバシール政権崩壊後の最新の動きとして、2020年6月に、国連の特別政治ミッション(軍事部門を持たない平和活動)として、国連スーダン統合以降支援ミッション(United nations Integrated Transition Assistance Mission in Sudan: UNITAMS)の設立が国連安全保障理事会決議で決定した(S/RES/2524(2020))。UNAMIDについても同日にもう1つの国連安保理決議が採択され、2020年末までの任期延長が認められた(S/RES/2525(2020))。スーダン政府は、UNAMIDの活動終了を希望している。そのため、一方では、2020年末頃に任務を終えて、スーダン政府がダルフール地方の安全を守る責任を持ち、UNITAMSが限定的な任務を引き継ぐと予想される。他方、安保理決議第2525号はUNAMIDが2021年以降も小規模に展開する余地を残したともいわれる。軍事部門を持たないUNITAMSであるが、首都での民政移管支援に加え、ダルフールや2州での和平促進支援等、様々な課題を抱えることになる。

参考文献

  • アブディン・モハメド「バシール政権崩壊から暫定政府発足に至るスーダンの政治プロセス――地域大国の思惑と内部政治主体間の権力関係――」『アフリカレポート』第58巻、2020年、41-58頁。
  • アフリカ日本協議会「栗田禎子さんに聞く2: 南スーダンの独立歴史的背景と今後の展望」『アフリカNOW』No. 97, 2013年。
  • Louisa Brooke-Holland, “Sudan: December 2017 Update,” House of Commons Library, Briefing Paper, No. 08180, December 15, 2017, https://researchbriefings.files.parliament.uk/documents/CBP-8180/CBP-8180.pdf (last accessed September 2020).
  • Andrew McCutchen, “The Sudan Revolutionary Front: Its Formation and Development,” Small Arms Survey, Graduate Institute of International and Development Studies, Geneva, October 2014, http://www.smallarmssurveysudan.org/fileadmin/docs/working-papers/HSBA-WP33-SRF.pdf (last accessed September 3, 2020).
  • Daniel Forti, “Navigating Crisis and Opportunity: The Peacekeeping Transition in Darfur,” International Peace Institute, December 2019, https://www.ipinst.org/wp-content/uploads/2019/12/1912_Transition-in-Darfur.pdf (last accessed September 3, 2020).
  • United Nations Security Council, “Report of the Secretary-General on the situation in the Sudan and the activities of the United Nations Integrated Transition Assistance Mission in the Sudan,” S/2020/912, September 17, 2020.
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スーダン
選挙
2020年10月4日

スーダン/選挙

スーダンでは、独立前の1953年以降、選挙制度が導入されてきた。1989年にバシール大統領が政権を奪取して以降は、1996年、2000年、2010年、2015年に総選挙、1998年に憲法改正を問う国民投票、2011年に南部スーダン住民投票(南部の分離独立が決定)が行われた。バシール大統領は、いずれの選挙でも、高い得票率で大統領の座を維持してきた。立法府の下院にあたる国民立法議会においても、常に与党NCPが圧倒的に多くの議席数を獲得してきた。

2019年の政変により、バシール大統領は失脚し、NCPは11月に解体された。2019年8月の憲法宣言(第23条)では、今後立ち上げられる移行立法評議会においては、スーダンの変革に参加するすべての勢力の代表が含まれるようにすることを明記しつつ、バシール政権参加にあったNCPや関連勢力は排除することも盛り込まれた。2022年に予定される選挙が注目される。

選挙権

選挙権は、スーダン国籍を持ち、18歳以上であり、有権者登録を済ませており、市民及び政治的権利を享受していること、そして健全な心の持ち主であること、の条件を満たす者に認められる。海外在住者は、大統領選挙及び国民投票のための有権者登録はできるが、議会選挙はできない。以上は、2008年国民選挙法(2014年改正)に規定されている。

立候補資格

議会選挙立候補者として認められるのは、スーダン国籍を持ち、21歳以上であり、健康で読み書きができ、立候補前の7年間にわたって犯罪で有罪を受けたことがなく、州議会・州政府メンバーでなく、大臣職にも就いていない人物である。

今後立ち上げられる移行立法評議会の立候補資格もほぼ同様の内容である(2019年憲法宣言第25条)。

大統領選挙

大統領は、直接選挙により過半数を獲得することで当選する。必要に応じて2回投票が行われる。任期は5年である。南スーダン独立を決める住民投票前の2010年に実施された大統領選挙では、候補者は乱立するも、実質的にはバシール大統領(与党NCP)と南部スーダンの主力政党であるSPLM候補者であるヤーセル・アルマーンの対決となった。しかし、アルマーンが立候補を辞退したこともあり、結果としてバシール大統領68.2%、アルマーン候補21.7%(辞退により無効)となった。2010年の選挙の後、バシール大統領は次の大統領選には出馬しないことを表明したが、党内・政権内の世代交代が思ったように進まず、2014年10月にはNCPは、バシール氏を正式な大統領候補として選出することを決定した。 2015年4月13-16日に行われた大統領選挙では、バシール大統領が94.1%、他の15人の候補者は5.9%という得票率で、バシール大統領の再選となった。ただし、こうした選挙実施期間になると、投票箱のすり替えや選挙権を持たないものが投票する、無効な投票用紙が計上されている、などの不正や工作が報じられることがしばしばある。

なお、首相は大統領の氏名により選出されるが、1989年6月30日以降、バシール政権以下では首相ポストは廃止されていた。2015年から2016年の国民対話プロセスにおいて、首相ポストの復活がなされ、バシール大統領は2017年3月にサーレハ(Bakri Hassan Salih)首相を指名した。2019 年8月21日、FFCがハムドゥークを移行政府の首相に指名し、現在に至る。移行期間が終了する2022年に次の大統領選挙が実施される見込みである。

議会選挙

2005年から2019年4月までの暫定憲法において立法府と規定されていた全州評議会(上院)と国民立法議会(下院)があった。国民立法議会は、「自由かつ公平な」直接選挙によって議員が選出される。また、全州評議会は、州議会による間接選挙によって各州から3名ずつ選出される。両議会とも、任期は5年である。

最近では、2015年4月に国民立法議会選挙が、同年6月1日に全州評議会選挙が実施された。国民立法議会選挙では、バシール大統領率いる与党国民会議党(NCP)が426議席中323議席、続いて民主統一党(DUP)が25議席を獲得した。無党派の独立候補者19名も議席を獲得した。ただし、主要な野党勢力であるウンマ党や人民会議党などはこの選挙をボイコットした。国民立法議会における女性議員率は31%であった。全州評議会では18州の各州議会から3名ずつ、合計54名が間接選挙で選ばれた。加えて、係争地アビエイ地域議会から2名が、全州評議会で投票権のないオブザーバーとして選ばれた。全集評議会における女性の比率は35%であった。

2019年8月の憲法宣言により、2022年の選挙実施まで、立法府としてはこれらの両議会に代わって移行立法評議会が設立されることとなった。ただし、2020年9月現在、移行立法評議会は発足していない。

<参考:スーダンの選挙>

  • 1953年 複数政党「自治」議会選挙
  • 1958年 複数政党議会選挙
  • 1965年 複数政党憲法議会選挙(北部スーダン)
  • 1967年 複数政党憲法議会選挙(南部スーダン)
  • 1968年 複数政党憲法議会選挙
  • 1971年 大統領に関する国民投票(ヌマイリーのみが候補)
  • 1972年 単一政党による人民議会選挙
  • 1974年 単一政党による人民議会選挙
  • 1977年 大統領に関する国民投票(ヌマイリーのみが候補)
  • 1978年 単一政党による人民議会選挙
  • 1980年 単一政党による人民議会選挙
  • 1983年 大統領に関する国民投票(ヌマイリーのみが候補)
  • 1984年 単一政党による人民議会選挙
  • 1986年 複数政党議会選挙
  • 1996年 単一政党/複数候補者による大統領選挙
  • 1998年 憲法改正に関する国民投票
  • 2000年 複数候補者による大統領・議会選挙、主要政党がボイコット
  • 2010年 複数候補者による大統領・議会選挙、主要政党がボイコット
  • 2015年 複数候補者による大統領・議会選挙
  • 2022年 選挙実施予定

今後の見通し

2019年8月の憲法宣言にて、スーダンの移行期間後の2022年後半に民政移管を完了させるため、選挙の実施もされる予定が記載されている。なお、同宣言は、主権評議会の議長やメンバー、州知事、各地方の首長らが、2022年に実施予定の選挙に出馬することを禁止している。2022年の民政移管完了に向け、選挙実施に向けた準備が急務となっている。

参考文献

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シリア
現在の政治体制・制度
2020年10月3日

シリア/現在の政治体制・政治制度

シリアでは1963年の「バアス革命」以来、バアス党政権が今日に至るまで続いている。そうしたなかで、ハーフィズ・アル=アサド(H・アサド)が1970年に無血クーデタを引き起こして全権を掌握し、翌(1971)年に大統領に就任して以来、アサド家が大統領職を独占しており、2000年以降はH・アサドの次男であるバッシャール・アル=アサド(B・アサド)がその任に就いている。

そのアサド政権に関しては、現代シリアの政治・外交を専門とするレイモンド・ヒンネブッシュが、H・アサド時代の統治形態を「大統領君主制」と形容した1が、現在も基本的にはB・アサドの手に権力が集中している状況となっている。

大統領職の主な権能に関しては、現憲法に以下のように規定されている2。大統領と首相は、「憲法が規定する範囲内で国民を代表して行政権を行使する」(第83条)と規定され、大統領は自らが主宰する会議において、「国家の基本政策を立案し、その履行を監督する」(第98条)ことになっている。具体的には、法律に則って諸々の法令、決定、そして命令を発布し(第101条)、人民議会(すなわち国会)の同意を得た後の宣戦布告、国民総動員、そして和平締結を行う(第102条)のである。また、第97条に則り、大統領は首相、副首相、大臣、そして次官を任免する権限を持っており、更には「自らを議長とする閣議を召集できる」(第99条)のである。なお、大統領は「全軍の最高司令官である」(第105条)と規定されている。

このように、シリアにおいては、大統領が内政と外交、さらには軍事を司ることが、旧憲法と同様に現憲法においても規定されている。それでは、こうしたシリアの政治制度を基盤とする同国の現実の政治体制については、どのような見方をとることが可能であろうか。ここでは、政治体制論の「古典」とも言えるロバート・ダールの『ポリアーキー』に依拠して考えてみたい。ダールは、「公的異議申立て」及び「選挙に参加し公職につく権利」が、それぞれ実現されている程度から、現実の政治体制を分類している。その結果、「公的異議申立て」及び「選挙に参加し公職につく権利」の実現度合いが共に高い「ポリアーキー」以外に、「公的異議申立て」及び「選挙に参加し公職につく権利」の実現度合いが共に低い「閉鎖的抑圧体制」、「公的異議申立て」の実現度合いは高い一方で「選挙に参加し公職につく権利」の実現度合いは低い「競争的寡頭体制」、「公的異議申立て」の実現度合いは低いが他方で「選挙に参加し公職につく権利」の実現度合いは高い「包括的抑圧体制」といった類型を提示しているのである3。さらに、「公的異議申立て」を「市民的・政治的自由」に、「選挙に参加し公職につく権利」を「普通選挙制度」に、それぞれ読み替えるならば、シリアにおいては、「普通選挙制度」に関しては現実にほぼ機能してきていると見なせるものの、「市民的・政治的自由」に関しては後述するように大幅な制約が加えられていることから、同国の事例は「包括的抑圧体制」に当てはまると判定できよう。

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シリア
最近の政治変化
2020年10月3日

シリア/最近の政治変化

(1)現況概観

「アラブの春」の動きとして2011年3月から始まったシリアにおける反体制運動は当初、現体制の枠内での「改革」による「民主化」を要求し、平和的手段による目的達成を目指していた。しかしながら、アサド政権が「民主化」要求にある程度は応えつつも、デモ行進や集会に対する強硬的な態度を取ったことから、反体制側は次第に「体制転換」を求めるようになり、政権側の弾圧措置を招く一方、反政府武装闘争がシリア各地に広がっていくことになった。

それでは、バアス党政権が1963年以来続き、また1971年以降はアサド父子が大統領職を独占して「世襲支配」を行ってきているシリアにおいて、「民主化」とは具体的に何を意味するのであろうか。ここで、既述のダールによる政治体制の類型化を思い起こすと、シリアの事例は「包括的抑圧体制」に当てはまることから、この体制から「ポリアーキー」に至る民主化プロセスは必然的に「市民的・政治的自由」の拡大を伴うことになる。

だが、反体制運動が開始されてからのアサド政権による「市民的・政治的自由」の拡大措置は、反体制側を満足させることが出来なかった。例えば、B・アサド大統領は内閣の決定に基づき、1963年以来施行されてきた「国家非常事態」の解除と、「最高国家治安裁判所」の廃止を命令する大統領令に2011年4月21日に署名した1。しかしながら同時に、治安部隊メンバーの行動に対して免責特権を与える大統領令や、スンナ派のイスラーム組織「ムスリム同胞団」に所属することは死罪に値するとの同令が新たに公布された2。また、2012年2月26日には、現憲法が国民投票によって承認され、憲法改正が実現した3

アサド政権はこのように、国家非常事態の解除や最高国家治安裁判所の廃止、さらには現憲法における「政治的多元主義」の導入(第8条)といったように、一方ではシリアにおける「市民的・政治的自由」を漸進させてきた。特に、「バアス党が国家、社会の指導的党である」と旧憲法では規定されていた(第8条)ことから、シリアの政党制の実態がジョヴァンニ・サルトーリの言うところの「ヘゲモニー政党制」に分類可能な状況において4、「政治的多元主義」が現憲法で保障されたことは「民主化」への第一歩と見なされるものであった。

しかしながら、反体制側に対する治安部隊の強硬措置を大統領令で認めたうえに、アラブ世界で影響力を増していたムスリム同胞団を敵視し続けたことは、アサド政権の「民主化」努力が茶番に過ぎないものであるとの印象を、反体制側並びに多くのアラブ・欧米諸国に植え付けることになった。さらに、「包括的抑圧体制」から「ポリアーキー」に至る径路が、「少数の比較的同質的なエリートの間ではなく、社会諸階層と、政治思想をたとえ全部ではなくともほとんど反映する広範な代表者間で、相互安全保障の体系を創出することを必要としている」5との指摘があるなかで、アサド政権は基本的に反体制側との対話を拒否してきた。

以上のようなアサド政権の対応により、シリアにおける反政府武装闘争は2011年後半以降、激しさを増した。アサド政権は一時期、軍事的にかなり追い詰められたものの、2015年9月以降のロシア軍による大規模な軍事支援で態勢を立て直し、シリア各地を武力で次々と平定していった結果、現在はシリア領土のおよそ3分の2を支配下に置いている。他方、シリア領土の残り3分の1に関しては、その大半をクルド勢力が支配下に収めており、それ以外は反体制勢力や「イスラーム国」(IS)などの支配領域となっている。なお、ISの支配領域は現在、大幅に縮小しており、ISはシリオ沙漠地帯の狭い領域(「ポケット」)で孤立している(各勢力の支配領域は以下の地図6が示す通りである)。

(2)諸外国の介入

上述した4つの国内主要アクター(アサド政権、クルド勢力、反体制勢力、そしてIS)のなかで、アサド政権に対しては、政治・軍事・経済面では主にロシアやイランが支援し、政治・経済面では中国も支援している。また、クルド勢力に対しては、米主導の有志連合が軍事支援をしてきたが、ドナルド・トランプ大統領は一昨(2018)年12月19日に、米軍のシリア完全撤退に関して言及し、さらに昨(2019)年10月6日に、米軍(1000人規模)のシリア北東部からの撤退宣言を行った。その結果、米軍のプレゼンスはシリア北東部のクルド勢力支配地域において大幅に縮小し、上記の地図が示すように、タナク油田やオマール油田にごくわずかの兵力を残すまでとなっている。他方、反体制勢力に関しては、様々な武装組織が存在し、「穏健勢力」と「過激勢力」に大別される。「穏健勢力」の代表例がシリア国民軍(SNA:旧自由シリア軍)系諸組織であり、後者の代表例がシャーム解放委員会(HTS:旧ヌスラ戦線)である。シリア北西部のイドリブ地域並びにアフリーン地区、及びシリア北東部のユーフラテス北東岸地域におけるSNA系諸組織に対しては、トルコが軍事支援を与えており、さらにはトルコ軍がこれら地域に駐留して作戦も共にしている。また、シリア南東部のタンフ地域におけるSNA系諸組織に対しては、米軍基地の縮小が報じられたこともあり、米軍による軍事支援は減少傾向にあると見られている。

このように、主に米国、ロシア、トルコ、そしてイランがシリア国内の各勢力に様々な対外支援を行っていることから、同国はこれら諸国によるパワー・ポリティックスが展開される場となっている。シリアは、2011年3月までは地域政治の「主体」として対外的な影響力を行使してきたが、今や「客体」として諸外国による影響力の行使を受ける場となっているのである。

そこで、シリアにおける米露、米土、米イラン、露土、露イラン、そして土イランの各関係について概略する。米露関係に関しては、米国が反体制勢力を支援し、ロシアがアサド政権を支援していることから、両国は基本的には対立関係にある。だが、クルド勢力をめぐる米露関係は少々複雑である。なぜならば、米国がクルド勢力を見捨てた形になっていることから、クルド勢力はアサド政権、さらにはロシアとの関係を強化しているのである。しかしながら、シリア全土の完全掌握を目指しているアサド政権と、自治の維持さらには拡大を望んでいるクルド勢力との間では、双方の利害が一致していない状況である。そこで、アサド政権及びクルド勢力双方とのパイプを持つロシアによる調停の役割が期待されるところであるが、ロシアとアサド政権との長年に渡る親密な関係や、ロシアとトルコが近年その関係を強化していることに鑑みると、ロシアがクルド勢力の意向に沿った動きを取るのかは不明である。ゆえに、クルド勢力はアサド政権及びロシアに対するカウンターバランスとして、米国と完全に縁を切るわけにはいかないのである。

米土関係に関しては、両国共に反体制勢力に対する支援を対シリア政策の柱としてきた一方で、クルド勢力に対する両国の政策は相反しており、二面性を有していると言える。すなわち、トルコが「シリア民主軍」(SDF)や「シリア民主評議会」(SDC)といったクルド勢力を「テロ組織」と見なしてきたのに対して、米国はクルド勢力と同盟関係を築いてきた。だが、トランプ大統領が昨(2019)年10月に米軍のシリア北東部からの撤退宣言を行った直後に、トルコ軍及びSNA系勢力が対クルド勢力軍事作戦「平和の春」を発動した際には、米国はトルコの行動を強く非難する声明を発したものの、その行動を止めるための具体的な手立ては、限定的な経済制裁を例外として、殆ど講じなかった。これは、後述するような露土関係の緊密化といった事態を前にして、米国がトルコとの関係悪化を出来るだけ避けたいとする意思表示であったと言える。また、トルコ軍がこの作戦により、タッル・アブヤドからラス・アインに至る地域に「安全地帯」を確立するなかで、10月17日に出された米土共同宣言では、同地帯の治安がトルコ軍によって第一に担われることとされるなど、米土関係は「平和の春」作戦に伴いさらなる悪化が懸念されたものの、決定的な亀裂には至らなかったのである。

米イラン関係に関しては、トランプ政権がイランの核政策や対外政策などを問題視し、同国に敵対政策をとっているなかで、米国は反体制勢力を、そしてイランはアサド政権を、それぞれ支援している。そして、イランが「イラン革命防衛隊」(IRGC)やヒズブッラーなどの軍事プレゼンスを、アサド政権支配地区に維持していることに対して、米国は、イランがこうしたイラン系勢力を利用して、テヘランからバグダード及びダマスカスを経由してベイルートに至る「シーア派回廊」を構築して覇権を追求している、と見なしているのである。ただ、米国はシリアにおいてイラン系勢力に対する直接的な軍事行動を日常的にはとっておらず、米国の同盟国であるイスラエルがこうしたイラン系勢力に対する軍事行動を頻繁に起こしている。

露土関係に関しては、アサド政権支援のロシアと、反体制勢力支援のトルコとは、本来は対立関係にある。だが、ロシア主導のシリア包括和平を目指す試みである「アスタナ会合」(後述)が2017年1月に開始されて以降、トルコは「三保障国」(ロシア、トルコ、そしてイラン)の一員として同会合を支持している。さらに、一昨(2018)年9月17日の露土首脳会談においては、イドリブ地域における大規模戦闘を回避するために「イドリブ合意」が成立した。その後、「イドリブ合意」は現在に至るまで殆ど実現されておらず、アサド政権がイドリブ地域再掌握に向けての大規模攻撃に着手し、ロシア軍がシリア政府軍(SAA)に対して主に空爆支援を行うなかで、トルコは同地域に対する増派を行い、SNA系勢力に対する支援を強化している。このように、ロシアとトルコはイドリブ地域において敵対的な軍事行動を行う一方で、ウラジミール・プーチン大統領とレジェップ・タイップ・エルドアン大統領はしばしば電話協議を行うなど、事態がエスカレーションしないように出来る限り協力する姿勢をも見せている。ロシアとトルコはS400ミサイルの購入や天然ガスの供給などでも関係を深めており、それゆえに両国共に米国との関係が決して手放しで良好であるとは言えないことから、シリアでは軍事的に対立する局面が存在する一方で、事態鎮静化に受けて協力可能な時はそのようにするなど、両国関係は二面性を持っているのである。

露イラン関係に関しては、両国共にアサド政権を政治・軍事・経済的に支援している意味では、同盟関係にある。また、イランは「アスタナ会合」における「三保障国」の一員であることから、ロシア主導の和平の試みにコミットしていると言える。だが、ロシアとイランの間には、シリア国家の在り方に関する根本的な相違があると言わざるを得ない。すなわち、ロシアは自軍が展開するラタキアの海軍基地やフマイミームの空軍基地が安泰であるように、「パックス・ロシアーナ」(ロシア主導の平和)のもとでシリア国内を可能な限り安定化させることにプライオリティを置いていると想定される。ゆえに、ロシアはシリア政府(具体的にはアサド政権)の統治能力回復、さらには強化を望ましいと考えていると推察され、SAAの再建を自らの利益と見なすであろう。他方、米国やイスラエルからの軍事攻撃の可能性に常に晒されているイランにとり、シリアは軍事作戦上の要衝であり、これら両国に対する反撃をフリーハンドで実施可能な状況が望ましい。イランがIRGCやヒズブッラーによるシリア領内でのある程度自由な軍事活動こそ望ましいと考えている、と想定されることから、イランはその制約要因となりかねないSAAの再建には消極的とならざるを得ないであろう。また、アサド政権が支配領域を再掌握し、復興計画の策定・実施に乗り出すなかで、ロシアの企業とイランの企業がライバル関係になることも想定可能であり、両国関係には悪化の種が隠れていると言えるのである。

土イラン関係に関しては、トルコが反体制勢力を、イランがアサド政権を、それぞれ支援していることから、両国は対シリア政策を異にしている。だが、イラン及びトルコは共に、「アスタナ会合」を「三保障国」の一員として支援しており、シリア情勢に関して協議する場を有している。また、イランはトルコとコンタクトを持つのみならず、アサド政権と緊密な関係にあることから、イドリブ情勢が国際的な注目を集める状況において、イラン外務省は本(2020)年2月8日に、同国がトルコとアサド政権との仲介役を担う意向であることを表明した7

(3)和平に向けた国際的な動き

上記のように、シリアに対する各国の思惑が異なることは、結果として紛争解決プロセスを機能不全にさせ、内戦が長引くことになった。それでは、シリアにおいてはこれまで、どのように国際的な和平の試みがなされてきているのであろうか。ここでは、国連主催の「ジュネーブ協議」及びロシア主導の「アスタナ会合」を軸に考察する。

シリアで戦闘が拡大する状況において、コフィ・アナン・シリア問題合同特使は2012年6月末に、安保理常任理事国やシリア周辺諸国の外相などをジュネーブに集め、事態打開に向けた協議を行った(「ジュネーブ1」)。その結果、アサド政権のメンバーを含む「移行政府」の樹立提案を含む「ジュネーブ・コミュニケ」が6月30日に成立した8が、B・アサド大統領の退陣を要求する反体制勢力の支持を得ることは出来なかった。加えて、米国が2012年11月に、反体制勢力の統括組織としての「シリア国民評議会」の後継組織として、「シリア国民連合」の樹立を強力に後押ししたことから、米露間の溝は開く一方であり、シリア情勢解決の見通しが立たない状態が続いた。

このように、「ジュネーブ協議」は米露間の対立により、当初から暗礁に乗り上げた。だが、アフダル・ブラーヒーミー・シリア問題合同特使(アナンの後任として2012年9月に就任)が会議の実現に向けて積極的な外交を展開した結果、「ジュネーブ2」は2014年1月から2月にかけて2ラウンドに分けて開催されるに至った。しかしながら、B・アサドの処遇をめぐり、アサド政権と反体制勢力が真っ向から対立し、妥協点は見いだされなかった。

その後、「ジュネーブ3」は2016年2月になって開催されたものの、ステファン・デ・ミストゥーラ国連・アラブ連盟シリア問題合同特使(ブラーヒーミーの後任として2014年7月就任)は3日に、会議の一時的な延期及び25日の再開を発表した9。だが、これは実現せずに終わり、1年余りの中断の後に、2017年2月から3月にかけて開催された「ジュネーブ4」においても、アサド政権と反体制勢力の直接対話は行われなかった。同年3月に開催された「ジュネーブ5」も大きな成果なく終了し、「ジュネーブ6」(同年5月)では、「憲法および法律に関する技術的コンサルティブ・メカニズム」の設置が合意された。同メカニズムの設置に対する進展はその後見られず、「ジュネーブ7」(同年7月)、「ジュネーブ8」(同年11月~12月、2ラウンドに分けて開催)、そして「ジュネーブ9」(2018年1月、但しウィーンで開催)共に、実質的成果なく終了した。

このように、「ジュネーブ協議」が大きな成果を生み出すことなく、事実上休止状態に至っている背景には、アサド政権と反体制勢力との間にプライオリティの違いが存在することがある。すなわち、「ジュネーブ協議」における4つの主要議題(ガバナンス、憲法、選挙、テロとの戦い)の中で、政権側はテロ問題を優先すべきと考えているのに対し、反体制側は政権移行に繋がるような他のイシューに重きを置いているのである。また、「ジュネーブ8」においては、反体制勢力が合同代表団を形成10して参加したが、B・アサドの退陣に依然として拘ったことは政権側の不興を買った。さらに、後述する「アスタナ会合」の開催以降、とりわけロシアが「ジュネーブ協議」に関心を失っていることも、戦局で優位に立っているアサド政権に譲歩を促す方向に作用せず、反体制勢力との溝を広める結果となったのである。

ロシアは、「ジュネーブ2」終了後に「ジュネーブ3」の開催目途が立たないなかで、自らイニシアティブをとり、シリア情勢の打開に向けて動いた。ロシアは2015年1月及び4月に、アサド政権及び同政権によって許容されているシリア国内の反体制勢力が参加する和平協議をモスクワで開催したが、大きな成果なく終了した。その後、「ジュネーブ3」が中断されたままの状況において、プーチン大統領とエルドアン大統領は2016年12月16日に、カザフスタンの首都アスタナ(当時、現在のヌルスルタン)での、米国や国連が関与しない形での新たなシリア和平交渉の開催意向を表明した。そして、国連が12月31日に、安保理決議第2336号により、ロシア及びトルコ主導の停戦並びに和平会議開催支持を表明した結果、アスタナでの和平協議(通称「アスタナ会合」)は国際的なお墨付きを得ることになったのである。

「アスタナ会合」はこれまで、ロシア、トルコ、そしてイランを「三保障国」として14回にわたり開かれており、「アスタナ1」(2017年1月)、「アスタナ2」(同年2月)、「アスタナ3」(同年3月)においては、「アスタナ2」でアサド政権と反体制勢力の直接交渉が短時間行われた以外、大きな成果なく終了した。その後、「アスタナ4」(同年5月)において、ロシア、トルコ、及びイランを「保障国」とする「緊張緩和地帯」の設置が決まった。同地帯は、イドリブ地域、ホムス北部、ダマスカス郊外東グータ、シリア南部に設置され、イドリブ地域以外では同年7月から8月にかけて停戦が発効した。しかしながら、ホムス北部及びシリア南部では、露軍が展開してしばらくは停戦が概ね維持されたものの、最終的にはSAAが「テロ組織」と見なすHTSやISがこれら地区に拠点を構えていることを理由に攻撃を行い、他方で露軍が見て見ぬふりをすることで、掌握するに至った。また、東グータでは2018年春に、SAAに加えて露軍が、HTSが拠点を有していることを理由に空爆を中心とする猛爆撃を行い、人道危機が深刻化した。

この結果、イドリブ地域を除く「緊張緩和地帯」はアサド政権側によって掌握されることになったが、それでもトルコは「アスタナ会合」に参加し続けた。その背景には、ホムス北部、東グータ、そしてシリア南部のいずれにおいても、トルコが強力に支援していた反体制勢力が存在しなかったことがあった。その後、「アスタナ5」(2017年7月)、「アスタナ6」(同年9月)、「アスタナ7」(同年10月)、「アスタナ8」(同年12月)、「アスタナ9」(2018年5月)、そして「アスタナ10」(2018年7月、但しソチで開催)共に、大きな成果なく終了した。「アスタナ11」(2018年11月)においては、9月の露土首脳会談で設置が決まった、イドリブ地域における「非武装地帯」設置に関して協議が行われた。だが、協議終了後に具体的な進展は見られず、同地域でSAAと反体制勢力の間で戦闘が行われているのは既述の通りである。また、昨(2019)年には3回(4月の「アスタナ12」、8月の「アスタナ13」、そして12月の「アスタナ14」)開催されたものの、何れも成果は殆どなく終了した。

ロシアは他方で、アサド政権及び反体制勢力関係者を集めた「国民対話会議」を2018年1月にソチで主宰し、その結果として「憲法委員会」の設置が決まった。「憲法委員会」は、アサド政権側、反体制側、そして「独立系」のメンバー各50人から構成されることになっており、アサド政権及び「シリア交渉委員会」(SNC、旧「高等交渉員会」(HNC)であり、反体制勢力の統括政治組織)は各々、メンバーの候補者リストをデ・ミストゥーラに既に手渡した。だが、デ・ミストゥーラが同年9月11日に、「独立系」メンバー候補者リストのロシア、トルコ、そしてイラン政府関係者に提示したところ、ロシアとイランは事前に相談を受けていなかったことを理由に、そのリストを即座に拒否した。デ・ミストウーラは同年10月に辞任を表明し、後任にはゲイル・ペデルセンが就任した。

ペデルセンが「憲法委員会」の発足に向けた外交的努力を重ねた結果、昨(2019)年9月にようやく人選の完了と設置が宣言された。そして、同年10月末から第1ラウンドが翌11月上旬にかけて開催されたものの、同下旬の開幕が予定されていた第2ラウンドは実現しなかった。アサド政権側が「憲法委員会」を現憲法の改正のための協議の場と捉えているのに対して、SNC側は同委員会を新憲法の制定のための協議の場と見なしていることにより、議事次第に対する双方の同意が形成されなかったからであった。

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シリア
政党
2020年10月3日

シリア/政党

既述のように、現憲法はバアス党の指導的立場を規定していないが、2012年以降に3回実施された国会議員選挙結果に見られたように、同党がサルトーリの言うところの「支配政党」である実態は変化していない。

バアス党は、ミシェル・アフラク(ギリシャ正教徒)及びサラーフッディーン・アル=ビタール(スンナ派ムスリム)らが1940年代初期に、ダマスカスで活動を開始したアラブ民族主義の勉強会を母体とする1。その後、1947年には結党大会が開かれ、政党として正式に発足するなかで、その党綱領である「統一、自由、社会主義」は下位中産階級に広くアピールした2。当時16歳であったH・アサドは学生党員として加わり、党内で以後めきめきと頭角を現していき、1963年のシリアにおける「バアス革命」に際しては、ダマスカス当方のドゥマイル空軍基地攻略作戦を主導し、革命の成功に大きな役割を果たした3。この結果、シリアでは現在に至るまで57年間バアス党政権が続いているが、「バアス革命」後しばらくの間は党内で熾烈な権力闘争が発生した。そうしたなかで、H・アサドが最終的に勝ち残り、1970年のクーデタでバアス党内における実権を掌握した。以後、バアス党内での権力闘争は影を潜め、H・アサド大統領、さらにはB・アサド大統領の権威に対する目立った挑戦は党内からは発生していない。

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シリア
選挙
2020年10月3日

シリア/選挙

(1)2014年大統領選挙

旧憲法のもとでは、シリアにおける内政と外交、さらには軍事を司っている大統領を選出するプロセスは、「バアス党シリア地域指導部」が推挙した候補者に対して国民が投票を行うというものであった。すなわち、バアス党員のみが大統領職への「パスポート」を有しており、「包括的抑圧体制」のもとで「市民的・政治的自由」に大幅な制約が加えられているなかでは、結果的に「信任投票」が行われてきたのである。 

しかしながら、シリアにおける反体制運動の高揚には、こうしたバアス党の優越的地位に対する批判が重要な役割を果たしたことから、現憲法においては、第85条で大統領職に対する複数立候補制が導入された。また、大統領職における任期制限(最大2期14年)も第88条で規定された。他方、大統領職への立候補要件を定めている第84条には、40歳以上という年齢やシリア国民という国籍といった要件に加え、候補者として推挙される時点(第85条の規定により、少なくとも国会議員35名の支持を得る必要がある)までに、シリア国内に最低10年間継続して住み続けていなければならないとの要件(旧憲法には存在せず)も含まれていた。この居住要件は、反体制側の指導者の多くがシリアから国外に逃れているなかで、そうした指導者の立候補を阻止するために導入されたものである。したがって、有力な対立候補が存在せず、B・アサド大統領の再選が当初から確実視される状況であっては、実質的にはこれまでの「信任投票」と大きく変わることがなかったことから、反体制側及びその後ろ盾である欧米・湾岸アラブ諸国は、大統領選挙そのものを「茶番」と見なし、同選挙の正当性を認めないとの立場をとった。

結局のところ、2014年6月3日に実施された選挙においては、B・アサド以外に「泡沫候補」である2名が立候補した。公式発表によると、B・アサドは、88.7%の得票率(投票率は73.42%)でもって再選され1、7月16日から3期目の政権をスタートさせた。そして、B・アサドは自らの再選に勢いを得て、北のアレッポからホムス、ダマスカスを経て南のダラアーに至るシリア随一の基幹エリア「南北回廊」と、アサド家の本拠地である北西部ラタキアに焦点を当て、これら地域に位置する反体制勢力の拠点に空爆を中心とした猛攻をSAAに指示した。この結果、大統領選挙は政治・軍事両面において、アサド政権と反体制側並びに欧米・湾岸アラブ諸国との溝を広げる方向に作用したのである。

(2)2012年国会議員選挙

2012年の憲法改正により、「政治的多元主義」及び複数政党制が第8条(旧憲法ではバアス党の「指導的立場」が規定されていた)で規定され、同年5月7日には、現憲法下で初めての国会議員選挙が実施された。だが、SAA並びに治安部隊と反体制勢力との間で武力衝突が続く状況であり、ゆえにアサド政権の支配地区でのみ選挙が行われ、反体制側は選挙に参加しなかった。結局のところ、定数250に対して7195人が立候補するなかで、バアス党主体の与党連合「国民進歩戦線」が150議席を獲得する一方、バアス党寄りの人物が独立系候補として立候補し、90議席を獲得した。また、公式発表によると、投票率は51.26%であった2

(3)2016年国会議員選挙

現憲法の第56条において、議員任期は通常4年と定められている。そこで、2016年4月13日に国会議員選挙が行われたものの、前回の2012年選挙と同様に、武力衝突が続いている状況であったことから、アサド政権の支配地区でのみ選挙が行われ、反体制側は選挙に参加しなかった。結局のところ、定数250に対して約3500人が立候補するなかで、バアス党主体の与党連合「国民進歩戦線」が200議席を獲得した。また、公式発表によると、投票率は57.56%であった3

(4)2020年国会議員選挙

新型コロナウィルス感染症の拡大により、2020年4月以降2度にわたり延期されていた国会議員選挙は、7月19日に実施された。国土の7割程度を掌握していると見なされているアサド政権の支配地区でのみ選挙が行われ、反体制側は選挙に参加しなかった。結局のところ、定数250に対して1656人が立候補する4なかで、バアス党主体の与党連合「国民進歩戦線」が177議席を獲得した5。また、投票時間は午後11時まで4時間延長され6、公式発表によると、投票率は33.17%であった7。なお、ヒシャーム・シャアル法相は選挙後に、投票率の低さの要因として、新型コロナウィルス感染症の拡大並びに国境閉鎖に伴う在外シリア人による投票権の不行使を挙げた8

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