「イエメン」カテゴリーの記事一覧

2019年1月18日

イエメン/現在の政治体制・制度

大統領制をとる共和制。現在の政治体制は、1990年憲法および1994年、2001年の憲法改正によって規定されている。行政権は、大統領と内閣に属する。大統領は直接選挙による公選制で、任期7年、三選禁止。大統領は当選後に、副大統領1名と首相を任命し、大統領と首相の協議により、首相が閣僚を任命する。大統領は議会で可決された法案を発布するが、法案の再審議を求めて議会に差し戻すことができる。差し戻された法案を議会が再度過半数により可決した場合、大統領はその法案を2週間以内に発布する。大統領は議会閉会中に、憲法と予算に反さない限りにおいて、法的効力を持つ大統領令を発することができるが、それは開会された議会に提出され、承認されなければならない。

立法権は議会に属する。議会は定数301名で、すべて小選挙区による選出と憲法に規定されている。また、議会のほかに大統領により議員が任命される諮問評議会がある。これは立法機関ではないが、議会に準ずるものとされ、有識者が大統領および議会に対し必要な提言を行なう。1994年憲法改正により設置され、2001年憲法改正により拡充された。定数は59名から111名に増員され、上記提言とともに、議会との合同会合において大統領選挙候補者の指名や開発計画の承認、条約の批准を行なうこととなった。これにより、大統領選挙候補者の指名に関わる規定は、議会と諮問評議会の合同会合メンバーの5%(21名)以上の推薦と候補者3名以上に変更された。

司法機関は、憲法により「法的、財政的、行政的に自立した機関」とされ、「検察当局は下部機関のひとつ」とされる。司法と検察の成員は、法により規定された条件を除いて解任されず、最高司法会議が裁判官の任命、昇進、解任を執行する。

2000年1月に、イエメン初の地方自治法が公布された。地方自治法は、1994年憲法改正において規定された地方評議会の設置に基づくもので、それは以下のように規定している。州知事およびムディール(州より下位の行政区域ムディーリーヤの長)はそれまで通り中央政府により任命され、それぞれの地方評議会の議長を務める。州評議会の議員は、州を構成する各ムディーリーヤから1名ずつが選出される。ムディーリーヤ評議会の議員は、住民の規模に応じ17~27名が各ムディーリーヤにて選出される(任期はともに4年)。両評議会はそれぞれ、その選出議員の中から事務総長を選出する(事務総長は慣習的に、それぞれ副知事、副ムディールと呼ばれている)。地方評議会に条例などの議決権はなく、その職務は当該行政区域における開発計画等の決定や予算の承認および監査であり、事務総長がそれらに関わる準備や調整を担当する。この地方評議会は行政機関の一部として、地元の民意を地方行政に反映させる、もしくは地方行政を監督するためのものと位置付けられている。 その後、州知事およびサナア市長は地方評議会による間接選挙で選出されることとなり、2008年5月17日に選出が行なわれた。 

2011年のサーレハ大統領辞任、2012年のハーディー大統領就任のあと、2013年3月から新憲法制定のための基本方針を決める包括的国民対話会議が始まった。包括的国民対話会議は2014年1月、連邦制導入などの方針を決定して閉幕したが、翌2015年3月以降の内戦により、憲法制定作業はなされていない。

参考文献

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2019年1月18日

イエメン/最近の政治変化

1990年5月22日、南北イエメンは統合を発表し、イエメン共和国が成立した。統一以前の南イエメンは、中東で唯一マルクス・レーニン主義を標榜する共産主義国家であり、イエメン社会党(YSP)一党独裁下でソ連型の国家体制を続けていた。北イエメンでは政党が禁止されていたが、国民全体会議(GPC)が唯一の公認政治団体として存在し、その大政翼賛的な性格をもって、実質的に単独支配政党の役割を果たしていた。冷戦構造崩壊に伴う北イエメン主導の統一においては、統一が実現する絶対条件としての「対等合併」が強調され、実際にそれを基本とする政治体制が形成された。

統一に際し、アデンで開催された第1回議会(北の議会議員159名と南の最高人民会議議員111名に任命議員31名を加えた301名)は、1981年に南北イエメン統一憲法合同委員会(1977年国境衝突の停戦合意であるクウェート協定に基づき設置)が作成した憲法案を、そのまま統一国家の憲法として承認した。同時に議会および政府は、その第39条に規定されていた「団体結成の自由」を複数政党制の承認と解釈し、その導入を決定した。政府の最高意思決定機関としては、5名からなる最高評議会(GPCから3名、YSPから2名)が設置され、その議長(北のアリー・アブドッラー・サーレハ大統領)が大統領、副議長(南のアリー・サーレム・ベイドYSP書記長)が副大統領とされた。GPC・YSPによる連立内閣の下、首相には南のアッタース最高人民会議幹部会議長(大統領)が就任し、大臣・次官ポストは南北出身者がそれぞれ同数を占め、それはすべての省において南北出身者による組み合わせとなった。

翌1991年5月に憲法は国民投票で承認され、正式に公布された。また、同年には政党・政治団体法(1991年66号法)が施行され、複数政党制に移行した。これによりGPCは正式な政党となったが、同時に保守派や左派(ナセル主義やバアス主義)が分離して新党を結成し、その大政翼賛的な性格を失った。南イエメンにおいても複数の新党が結成され、政党数は一時40を超えた。1992年には選挙法(1992年41号法)が施行され、1993年4月に第1回総選挙(301議席、任期4年)が実施された。選挙結果は、サーレハ大統領を党首とするGPCが122議席で第一党であったが、YSPは56議席で第三党に転落した。代わって第二党となったのは、63議席を獲得したイエメン改革党(イスラーハ)であった。これは、GPCから離脱した保守派の議員が北のハーシド部族連合長アブドッラー・ビン・フサイン・アハマルを党首に迎えて結成したもので、北イエメン北部の部族勢力と南部のウラマー層(ムスリム同胞団系)が合体したイスラーム政党であった。

いずれの政党も過半数に達しなかったため、サーレハ大統領はGPC・YSP・イスラーハによる三党連立内閣を発足させた。最高評議会はGPCとYSPが各2名にイスラーハが1名、閣僚はGPCが15名、YSPが9名、イスラーハが6名となり、首相はYSPのアッタースが留任し、議会の議長にはイスラーハ党首のアハマルが選出された。これは統一間もない政治状況のなかで、挙国一致態勢を確立しようとしたものであったが、それは逆に「政治危機」と呼ばれる事態を招く結果に陥った。YSPは、党中央委員会で社会主義放棄を決定したものの、党内の不一致から党大会を開催できず、その左派的傾向を強く残していた。それゆえ、保守的なイスラーハとはもともと水と油の関係であったが、連立政権でともに政策に関わるようになると、一気にその対立関係が表面化した。北イエメンでは、ハーシドおよびバキールと呼ばれる2つの部族連合を中心とする北部の部族勢力に対し、サーレハ政権が長く優遇・懐柔政策を続けていた。部族勢力はその民兵力を背景に大きな政治的影響力を有しており、政権の維持には彼らの暗黙の了解が不可欠とされている。YSPがこの部族勢力優遇に反対して急進的な政治改革を求め、それにイスラーハが強く反発したことが、対立の主たる要因であるといわれる。この対立は、イスラーハ支持者によるYSP幹部への襲撃事件を続発させ、1993年8月にベイド副大統領が職務放棄してアデンに引きこもったことから、「政治危機」に発展した。 

「政治危機」に対しては様々な和解や仲介が試みられたが、その最中にも各地に駐屯する旧南北の軍部隊間で武力衝突が頻発し、結局彼らは翌1994年5月に内戦に突入してしまう。アッタース首相らのYSP最高幹部はアデンのベイド副大統領に合流し、南イエメンの分離・独立(イエメン民主共和国)を宣言した。しかし、YSP議員の大半はサナアに残り、南イエメンでもアビヤンやハドラマウトなどの各地方が、彼らに同調しなかった。サーレハ政権は優勢を保ちつつ戦局を進め、7月にベイドらが国外に逃亡して、内戦は2ヶ月で統一維持派の勝利に終わった。内戦に際し、YSPは連立政権からはずれ、党本部を含む資産を凍結されたが、その政党活動やサナアに残留した議員53名の身分および政治活動は維持された。 

内戦終結後の1994年9月、議会は憲法を改正し、翌10月にサーレハを大統領に選出した。改正憲法では最高評議会が廃止され、大統領制の導入およびその権限強化(副大統領は大統領の任命など)、大統領公選制の導入がなされるとともに、シャリーアを法源とする規定や諮問評議会の導入、地方評議会・地方選挙の導入(後述)などが新たに盛り込まれた。ただし、この時の議会による憲法改正および大統領選出は、内戦後の非常事態による例外的措置とされ、議会による承認のみで国民投票は行われなかった。サーレハ大統領は、南イエメン出身のアブドッラッボ・マンスール・ハーディー(1986年アデン内戦で敗退し、北イエメンに亡命後GPCに参加)を副大統領に指名し、GPCとイスラーハによる二党連立内閣を成立させた。 

内戦により国民経済が破綻寸前の危機に陥ったイエメンは、1994年からIMF・世銀と構造調整受け入れのための協議を開始し、翌1995年から構造調整による大規模な融資および政治経済改革が始まった。これにより国家再建が進んだが、民営化や都市部での起業にかかわる利権では、サーレハ支持層である退役軍人や部族長などが優遇され、サーレハの権力基盤が強化された。

1997年4月、任期満了に伴なう第2回総選挙が実施され、301議席中GPCが過半数の187議席(65議席増)を獲得し、初めて単独政権を樹立した。イスラーハは10議席減の53議席にとどまり、YSPは党資産凍結の継続などに抗議して選挙をボイコットし、無所属で4候補が当選した。その他の無所属は51議席、諸派(2党)は5議席。 

1999年9月、イエメンで初めての大統領直接選挙が実施された。大統領選挙候補者は議会議員の10%(31名)以上の推薦を必要とし、議会は2名以上の候補者を指名しなければならない規定であったが、最大野党のイスラーハは候補者を出さない決定を行ない、YSPと他の野党は「政府・GPCより議員に対し、YSPから大統領候補を出さないよう圧力があった」として、選挙のボイコットを表明した。結局、GPC議員が推薦して指名された現職のサーレハ大統領と、無所属議員が推薦して指名されたナジーブ・カハターン・シャアビー(1967年南イエメン独立時に初代大統領となり、1969年に失脚したカハターン・シャアビーの息子)の候補者2名による選挙となった。しかし、南イエメン出身とはいえ、支持基盤を持たないシャアビー候補者には支持が集まらず、選挙自体は完全な「無風」と化して、サーレハ大統領が有効投票数の96.3%を獲得して再選された。1994年10月の議会によるサーレハ大統領の指名は内戦後の例外措置とされたため、サーレハ大統領の任期はこれが正式な大統領選挙を経た1期目とされた。 

翌2000年1月に地方自治法が公布された。地方自治法は、94年改正憲法において規定された地方評議会の設置に基づくもので、それは以下のように規定している。州知事およびムディール(州より下位の行政区域ムディーリーヤの長)はそれまで通り中央政府により任命され、それぞれの地方評議会の議長を務める。州評議会の議員は、州を構成する各ムディーリーヤから1名ずつが選出される。ムディーリーヤ評議会の議員は、住民の規模に応じ17~27名が各ムディーリーヤにて選出される(任期はともに4年)。両評議会はそれぞれ、その選出議員の中から事務総長を選出する。

また同年8月には、大統領より議会に対し憲法改正が提案された。議会はその審議を続け、同年11月に憲法改正案を賛成多数で可決した。その内容は、大統領および議会議員任期の2年延長(それぞれ5年から7年、4年から6年)、大統領の議会解散権強化、諮問評議会の拡充、自由主義経済体制の明記などであった。諮問評議会は立法機関ではないが、議会に準ずるものとされる。これは、1994年改正憲法でその設置が規定されたもので、有識者が大統領および議会に対し必要な提言を行なう機関とされた(憲法改正後にそのメンバー59名が大統領より任命)。改正案ではそのメンバー数(111名に増加)および職務が拡充され、各種の提言とともに、議会との合同会合において大統領選挙候補者の指名や開発計画の承認、条約の批准を行なうこととなった。改正案において、大統領選挙候補者の指名に関わる規定は、議会と諮問評議会の合同会合メンバーの5%(21名)以上の推薦と候補者3名以上に変更された(大統領選挙において過半数を獲得した候補者がいない場合は、上位2名による決選投票を行なう規定には変更なし)。 

2001年2月、憲法改正案に関わる国民投票とイエメン初の地方選挙が同時に実施された。憲法改正に関する国民投票では、賛成が77.42%(201万8527票)であった。国民投票での憲法改正案承認を受け、サーレハ大統領は同年4月に諮問評議会メンバーを任命している。地方評議会選挙では、州評議会(19州と首都特別区の20評議会、全401議席)選挙でGPCが277議席を獲得(得票率69%)、ムディーリーヤ評議会(全6213議席)選挙でもGPCが3771議席を獲得(60%)して勝利した。イスラーハは州評議会で78議席(19%)、ムディーリーヤ評議会で1433議席(23%)、YSPが州評議会で16議席(4%)、ムディーリーヤ評議会で218議席(4%)となっている。これら3党以外の州評議会議員はすべて無所属で30議席(7%)、ムディーリーヤ評議会議員は諸派6党で42議席(1%)、無所属で749議席(12%)であった。 

2001年憲法改正により議会の任期が2年延長となったことから、第3回総選挙は2003年4月に実施された。GPCは全301議席中229議席を獲得して圧勝し、以下イスラーハの46議席、YSPの7議席、諸派(2党)の5議席、無所属14議席と続いた。政権与党GPCの42議席増に対し、最大野党イスラーハは7議席減となり、またYSPの巻き返しもならなかったことから、サーレハ大統領率いるGPCの安定政権がより固定化された結果となった。また、このときイスラーハ党首のアハマルはGPCからも公認を受け、イスラーハとGPCに両属する議員として当選し、引き続き議長に選出された。 

2005年7月、翌年の大統領選挙への出馬と当選が確実視されていたサーレハ大統領は、突然選挙への不出馬を表明した。統一前の北イエメンで1978年に大統領に就任して以降、統一後を合わせてこの時点で27年間も大統領職にあることから、後進に道を譲りたいとの理由であった。しかし、その後GPCはサーレハ以外の大統領候補を擁立せず、2006年6月24日以降にサナアや地方都市でサーレハ出馬を求めるデモが続いた。このデモを受け、サーレハは7月5日に大統領候補への登録を行なった。 

2006年9月20日、第2回大統領選挙と第2回地方評議会選挙が同時に実施された。大統領選挙では、議会と諮問評議会の合同会議において5名の候補者が指名された。現職のサーレハ候補の独走と見られたが、著名な実業家であるファイサル・ビン・シャムラーン候補(野党のイスラーハ、YSP、ナセル統一、ハック党、イエメン人民勢力同盟の推薦)が集会などで予想外の動員力を発揮し、選挙戦は両者の一騎打ちとなった。しかし、結果はサーレハ候補が有効投票の77.17%を獲得して2期目の大統領に就任し、シャムラーン候補の得票は21.82%にとどまった。 

地方評議会選挙では、州評議会(20州と首都特別区の21評議会、全431議席)選挙でGPCが315議席を獲得(得票率74.12%)、ムディーリーヤ評議会(333評議会、全6869議席)選挙でもGPCが5078議席を獲得(73.75%)して大勝した。他の政党は、イスラーハが州評議会で28議席(6.59%)、ムディーリーヤ評議会で794議席(11.50%)、YSPが州評議会で10議席(2.35%)、ムディーリーヤ評議会で171議席(2.48%)、無所属が州評議会で20議席(4.71%)、ムディーリーヤ評議会で571議席(8.27%)となっている(そのほかは諸派)。 

それまで大統領による任命であった州知事および首都サナア市長が、地方評議会からの間接選挙によって選出されることとなり、2007年5月17日にその選挙が実施された。州知事20人およびサナア市長の計21人のうち、18人が与党GPCによって占められ、3州(マーリブ、ベイダー、ジョウフ)の知事が無所属であった。当選者は、現職の知事のみならず、現職の副知事や中央政府の現職や元職の閣僚、次官、与党幹部、元大使、元軍幹部などであった。州知事の直接選挙を要求していた諸野党は、選挙のボイコットを宣言したが、投票に参加した野党の地方評議会議員もいた。

2007年、議会議長・イスラーハ党首・ハーシド部族連合長のアブッドラー・アハマルが死去し、長男のサーディク・アハマルがハーシド部族連合を継いだ。イスラーハ党首には、ムスリム同胞団のムハンマド・ビン・アブドッラー・ヤドゥーミーが就任し、議会議長は翌2008年に、GPCのヤヒヤー・アリー・ラーイが選出された。

2009年4月、議会は同年に予定されていた第4回総選挙の2年間延期を可決した。延期の理由は、比例代表制の導入を含む一連の議会・選挙制度改革のためであった。しかし、選挙人登録に多数の不正が発覚したための延期であるとの報道や、ホーシー派(2004年以降、サアダ州で政府軍と武力衝突。イラン革命防衛隊の支援を受ける)、南部運動(通称ヒラーク。2007年以降、旧南イエメンの平和的な再分離独立を求める諸組織の総称)、イスラーム過激派の活動、ソマリア沖海賊への対処など、問題山積の状況がこの総選挙延期に影響しているとの観測もある。

2011年4月に 予定される第4回総選挙のあと、議会において大統領任期と議会議員任期を2年間短縮して元の5年と4年に戻す、選挙制度に比例代表制を導入するなどの憲法改正を行なう予定であったが、2010年12月に与党GPCより、これに大統領の三選禁止規定廃止を加える新たな憲法改正案が提示された。野党は強く反発し、これに反対するデモを呼びかけたが、参加者が集まらず不発に終わった。

しかし、2011年1月、チュニジアの政変に触発されたサーレハ退陣を求める大規模なデモが発生した。サナアでの反政府デモは長期化、常態化し、同様なデモは国内各都市にも波及した。5月以降、部族勢力やイスラーム過激派(アラビア半島のアルカーイダAQAP)と政府軍との戦闘も続き、事態の混迷に拍車をかけた。ホーシー派は、サアダ州に加えて隣接するハッジャ州、ジョウフ州を掌握し、南部では新たなイスラーム過激派であるアンサール・シャリーアが、内陸部で勢力圏を確保して実質的な自治を始めた。サーレハ政権はサウジアラビアに仲介を依頼し、サウジアラビアはGCC外相会議においてこの問題を協議して、GCCイニシアチブ(アブドッラッボ・マンスール・ハーディー副大統領への権限移譲、挙国一致内閣、サーレハ大統領への訴追免除など)を提示した。11月23日、サーレハ大統領はこの調停案に署名し、ハーディー副大統領に権限を委譲。12月7日には、野党勢力のムハンマド・バーシンドアを首相とする挙国一致内閣が成立した。2012年1月21日、議会はGCCイニシアチブに沿ってサーレハ訴追免除のための法案を可決し、ハーディー副大統領を大統領選挙の単独候補に指名した。2月21日に実施された大統領選挙で、ハーディーが当選した(信任投票)。大統領選挙後の2年間を移行期間として、その間に憲法改正、議会選挙、大統領選挙が行われる予定となった。2012年4月、ハーディー政権はサーレハの長男アハマド・サーレハ(精鋭の共和国防衛隊司令官)や異父弟アリー・ムフシン(精鋭の第一機甲旅団長。2004年からホーシー派との戦闘を指揮。2011年にサーレハ辞任を求めるデモに合流)を含む、サーレハ親族の軍高官を更迭した。

しかし、憲法改正などに関わる方針を各政治勢力の代表によって協議する機関とされた包括的国民対話会議の設置が大幅に遅れ、2013年3月にようやく設置された。2014年1月、包括的国民対話会議は連邦制導入などを骨子とする合意文書を発表し、移行期間を1年延長して憲法制定と議会選挙、大統領選挙を1年以内に実施することとした。 

2014年2月、ホーシー派がサアダ州からサナア北方のアムラーン州に進出し、7月には州都アムラーンを占拠した。8月、ホーシー派はサナア近郊に達し、9月に生活基礎物資値上げに抗議するデモに合流してサナア市内に進出した。その後、政府軍と衝突して一部の政府機関などを占拠した。 9月21日、政府とホーシー派は停戦に合意し、バーシンドア首相が辞任した。ハーディー大統領は10月7日にアフマド・アウド・ビン・ムバーラク大統領府長官を首相に任命したが、ホーシー派とGPCがこれを拒否した(本人も辞退)。10月13日、ハーディー大統領はハーリド・マフフーズ・バッハーフ国連大使(元石油相・首相。2011年にGPCを離脱して無所属)を首相に任命した(ホーシー派は拒否せず)。 ホーシー派のサナア占拠に際し、サーディク・ハーシド部族連合長やアリー・ムフシンはサウジアラビアに逃亡した。

 ホーシー派は、ハーディー大統領に対し憲法案作成や選挙準備、経済政策の実施などを要求したが、政府の対応は遅々として進まなかった。2015年1月、ホーシー派はハーディーを軟禁し、翌2月には「革命委員会」を組織して2年間の暫定統治を開始した。3月、ハーディーはサナアを脱出してアデンに向かい、自らの政権の正当性を主張した。その直後、サナアのモスクでAQAPによる大規模な爆弾テロが発生し、幹部を含む多数のホーシー派メンバーが死亡した。これを契機として、ホーシー派はサナアより南方に本格的な侵攻を開始した。3月、サウジアラビアのサルマーン新国王(2015年1月23日のアブドッラー国王死去により即位)はアラブ有志連合(サウジアラビア、クウェート、UAE、カタル、バハレーン、エジプト、スーダン、ヨルダン、モロッコ、パキスタンが参加)を組織し、ホーシー派への空爆を開始した。ホーシー派は4月にはアデン近郊に達し、アデンを巡る攻防戦が続いた。5月、サウジアラビアとUAEがアデンとマーリブ州に地上軍を派遣し、ホーシー派はサウジアラビアへの弾道ミサイルによる攻撃を始めた。一方、イスラーム過激派では、2014年にアンサール・シャリーアからイスラーム国が分派した。AQAPとイスラーム国は、南イエメンの内陸部や東部で勢力圏を拡大するとともに、ホーシー派とアデンのハーディー政権の双方に攻撃を仕掛けている。

2016年4月、アリー・ムフシンがハーディー政権の副大統領に就任し、首相もアハマド・オベイド・ビン・ダガル副首相(GPC、元通信相)に交代した。5月、UAEと米が支援する南部諸勢力(南部運動を背景とする複数の政治団体、武装勢力)が、ハドラマウト州の州都ムカッラをAPAQから奪還した。7月、サナアのホーシー派とサーレハ支持派は、革命委員会に代わる統治組織として「最高政治評議会」を設けた。

2017年1月、UAEが支援する南部諸勢力は紅海沿岸部に進出し、3月にはモカを掌握した。5月、南部諸勢力の中心的な組織である南部移行評議会STC(UAEが支援する武装組織)がアデンを掌握した(正副大統領は従前からサウジに在住)。12月、サーレハはGPC総会でサウジアラビアとの和平に言及し、サウジアラビアもこの発言を歓迎する意向を示したが、その2日後にホーシー派はサーレハを殺害した。サウジに在住していた長男アハマドは復讐を表明したが、イエメン国内に特段の動きはなかった。

 2018年1月、ハーディー政権が南部諸勢力による旧南イエメン分離独立のための集会を阻止しようとしたことから、ハーディー政権とセキュリティ・ベルト(略称ヒザーム、UAEが支援する武装組織、リーダーは上記STCの副代表を兼ねる)との武力衝突が発生。5月、紅海沿岸部を進撃していた南部諸勢力はホデイダ近郊に達し、イエメン最大の港湾都市ホデイダへの攻撃を開始した(一方、UAEはソコトラ島に地上軍を上陸させ占領)。しかし、ホデイダは陥落せず、戦線は膠着した。12月、国連の仲介によりホーシー派とハーディー政権は和平協議を行ない、ホデイダ州全域での停戦に合意した(ホデイダからの両派部隊の撤退はなされていない)。

 2019年5月12日、UAEフジャイラ港沖合でサウジアラビアのタンカーが攻撃を受け、6月13日にはオマーン湾で日本とノルウェーのタンカーが攻撃を受ける(米英はイランによる攻撃と主張)。7月、UAEはイエメンに派遣していた地上軍(5000人規模)の撤退を開始。8月、ホーシー派との戦闘で死亡したヒザームの指揮官の葬儀をきっかけに、7日からハーディー政権とSTC、ヒザームとの武力衝突が生じ、STCとヒザームは大統領宮殿やアデン市内の主要政府施設を占拠(その後、撤退)。同月13日、テヘランでイラン最高指導者ハーネメイー師がホーシー派広報のムハンマド・アブドッサラームと会談。同月17日、ホーシー派はサウジアラビアのシャイバ油田を無人機10機で攻撃したと声明。9月14日、サウジアラビアのアブーカイク油田とクライス油田が巡航ミサイルと無人機により攻撃される(ホーシー派が攻撃声明を出したが、米などはイランによる攻撃と主張)。同月、ホーシー派はサウジアラビアのナジュラン方面に侵攻し、武器と捕虜を獲得と声明。10月11日には、サウジアラビアのジェッダ沖でイランのタンカーが攻撃された。

 2019年11月5日、サウジアラビアの仲介により、リヤドでハーディー政権とSTCが和解した。両者は「権力分担協定」に署名し、ハーディー政権はSTCに複数の閣僚ポストを与え、STCの兵力(数万人規模)はハーディー政権の指揮下に入ることとなった。しかし、2020年4月26日、STCはアデン市と旧南イエメン各州の自治を宣言し、これを拒否するハーディー政権およびサウジアラビアとの対立関係が再燃した。ただし、実際に自治が行われているのは、アデン州とラヘジ州のみである模様。7月1日には、ハーディー政権またはSTCの勢力圏内にあるタイズ市で、サウジアラビアとUAEを非難するデモが生じた。12月18日、ハーディー政権とSTCは再び和解し、両者による連立内閣を発足させた。12月30日、新首相らを乗せた飛行機がアデン空港に着陸した直後、空港に攻撃があり、死傷者を出した(首相ら、政府関係者は無事)。

 2020年1月10日、米ポンペオ国務長官は、ホーシー派をテロ祖域に指定したが、その後に発足したバイデン政権により取り消された(ホーシー派要人への経済制裁は続行)。バイデン政権は2月4日、アラブ有志連合への軍事支援を停止すると発表するなど、トランプ政権の中東政策を転換する意向を示した。一方、ホーシー派は2月以降、サウジアラビア南部の軍事施設や東部の石油関連施設、首都リヤドに対するミサイルや無人機による攻撃を頻繁に繰り返し、3月9日には、サウジアラビアがイエメンの首都サナアに対する大規模な空爆を行なった。22日、サウジアラビア政府はホーシー派に対し、国連監視下での全土での戦闘停止やハーディー政権との和平協議などの停戦案を示した。しかし、ホーシー派は「サウジアラビアがイエメンへの攻撃を停止することが前提」と停戦案を拒否し、26日には無人機を用いたサウジ領への越境攻撃を行なった。

 2019年に自国の地上軍部隊をイエメンから撤退させたUAEは、自国に亡命したイエメン人に軍事訓練を施して民兵部隊を編成し、2021年12月にイエメンに派兵した。この民兵部隊はサウジアラビアと国境を接するマーリブ州、シャブワ州などで、一定の戦果を挙げた。これに対し、ホーシー派は2022年1月、3度にわたりアブダビの石油施設や米空軍が使用する空軍基地などに、無人機や弾道ミサイルによる攻撃をおこなった。このホーシー派の攻撃にアラブ有志連合は報復の空爆をサナアに行ない、2月には無人機を管制する衛星通信施設を爆破したと発表した。

参考文献

  • 松本弘「イエメンの民主化」『現代の中東』27号(1999年7月)、pp.27-41。
  • ―――「イエメン民主化の10年」『現代の中東』39号(2005年7月)、pp.24-39。
  • ―――「イエメン:政党政治の成立と亀裂」、間寧編『西・中央アジアにおける亀裂構造と政治体制』JETROアジア経済研究所、2006年、pp.95-158。
  • ―――「民主化と構造調整―イエメンの事例から―」『中東研究』500号(2008年6月)、pp.206-211。
  • ―――「イエメン―政変とイスラーム主義―」『中東研究』512号(2011年9月)、pp.17-28。
  • ―――「イエメンの混迷―その背景と特質―」『国際問題』605号(2011年10月)、pp.38-47。
  • ―――「イエメンの民主化と部族社会―変化の中の伝統―」、酒井啓子編『中東政治学』有斐閣、2012年、pp.67-80。
  • ―――「イエメン・ホーシー派の展開」、酒井啓子編『途上国における軍・政治権力・市民社会―21世紀の「新しい」政軍関係―』晃洋書房、2016年、pp.112-129。
  • ―――「イエメンにおける政治と部族」『中東研究』526号(2016年5月)、pp.33-43。
  • ―――「イエメン内戦の背景と特質」『海外事情』64巻9号(2016年9月)、pp.18-29。
  • ―――「イエメンの内戦と宗派」、酒井啓子編『現代中東の宗派問題―政治対立の「宗派化」と「新冷戦」』晃洋書房、2019年、pp.205-226。
  • 「特集 イエメン―忘れられた『アラブの春』の落とし子―」『アジ研ワールド・トレンド』248号(2016年5月)、pp.2-38。
  • ―――「イエメン内戦における国家観の不在―ホーシー派支持者の意識と傾向―」、末近浩太・遠藤貢編『紛争が変える国家(グローバル関係学4)』岩波書店、2020年、pp.44-63。
  • ―――「イエメン内戦―その要因と展開―」、近藤洋平編『アラビア半島の歴史・文化・社会』東京大学中東地域研究センター、2021年、pp.175-194。
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2019年1月18日

イエメン/選挙

憲法は、議会定数の301すべてを小選挙区により選出すると規定している。1992年に施行された選挙法(92年第41号法)では、選挙権(国籍を有し国内に居住する18歳以上の男女)、被選挙権(同25歳以上)、選挙人登録制、小選挙区単純多数制(比較第1位の候補者の得票が有効投票数の過半数に達しなくとも、そのまま当選。その場合の上位2名による第2回投票はない)、選挙区設置(301小選挙区、人口格差5%以内、選挙区は複数の州にまたがらない)、選挙の運営・管理を行う最高選挙委員会(政府および各政党の代表者を委員とする)の設置及びその職務が規定されている。

1993年4月に実施された第1回総選挙においては、当時の総人口1429万7500人をもとに1選挙区の人口が4万7500人±5%、州別の平均選挙区人口格差が同じく±5%と設定され、全国に301小選挙区(旧北245、旧南56)が設置された。総有権者数は629万900人で、選挙登録した選挙人総数は269万1064人(全有権者の42.8%、うち女性50万1591人)、投票率は登録選挙人の84.5%(全有権者の約36%)。以後の総選挙もこれと同様に実施され、選挙区は人口の変化に応じて選挙ごとに調整されている。議員の任期は当初4年であったが、2001年憲法改正で6年となった。

大統領は直接選挙による公選制で、任期7年、三選禁止。大統領選挙候補者(国籍を有し40歳以上で配偶者が外国人でない者)は、議会(301名)と諮問評議会(111名)の合同会議において定員の5%(21名)以上の推薦を受けなければならず、合同会議は3名以上の候補者を指名しなければならない(候補者が合同会議のメンバーである必要はない)。大統領選挙において、過半数の得票を得た候補者がいない場合は、上位2名による決選投票となる。 

選挙自体は種々の問題をはらみながらも、一般に自由との評価を受けている。しかし、選挙結果比較第1位の候補者がそのまま当選するため、大政党に有利で死票が多い選挙制度となっている。また、選挙のたびに一部の投票所で投票妨害のための暴力事件や混乱が起き、再投票や欠員が生じる事態となる。

2009年4月に予定されていた第4回総選挙は、比例代表制導入を含む議会・選挙制度改革を理由として、2009年4月に議会により2年間延長された。これにより、次回総選挙は2011年4月27日に予定されていた。しかし、2011年1月に始まった大規模な反政府デモにより、この総選挙は実施されず、サーレハ大統領辞任後の2012年2月に大統領選挙(ハーディー大統領信任)が実施された。2013年3月から、新憲法制定のための基本方針を決める包括的国民対話会議が始まった。包括的国民対話会議は2014年1月、連邦制導入などの方針を決定して閉幕した。しかし、翌2015年1月のホーシー派による「革命委員会」設置および3月以降の内戦により、その後はいかなる選挙も行われていない。

(1) 総選挙 

政党・無所属の獲得議席(議席定数301) 
政党199319972003*1
GPC122187229
イスラーハ635346
YSP5607
バアス党722
ハック党200
ナセル統一133
ナセル民主100
ナセル矯正100
無所属485414
301299*2301
  1. 2003年総選挙においてGPCとイスラーハの双方から公認を受け、当選したアハマル議会議長(イスラーハ党首)については、イスラーハの議席に加算した。
  2. 1997年総選挙では、投票の際の混乱により2つの選挙区で当選者を確定できず、2名の欠員となった。 
女性当選者
  • 1993年: 2名(YSP)
  • 1997年: 0名
  • 2003年: 1名(GPC)
1993年総選挙の得票・得票率
政党獲得議席 得票数 得票率 
GPC122640,52328.69%
イスラーハ63383,54517.18%
YSP56413,98418.54%
諸派19政党12142,0076.36%
無所属48600,62027.25%
  • 有権者総数:629万0900人
  • 登録選挙人総数:269万1064人
  • 投票総数:227万1185票
  • 有効投票総数:223万2573票 
1997年総選挙の得票・得票率
政党獲得議席 得票数 得票率 
GPC1871,175,24342.94%
イスラーハ53237,7278.69%
YSP(ボイコット)
諸派10政党5108,2543.96%
無所属54845,626 31,11% 
  • 登録選挙人総数: 454万6306人
  • 投票総数: 282万7369票
  • 有効投票総数: 272万6961票 
2003年総選挙の得票・得票率 
政党獲得議席 得票数 得票率 
GPC2293,465,11757.59%
イスラーハ461,349,48522.51%
YSP7291,5414.86%
諸派19政党5269,2914.49%
無所属14620,61510.35%
  1. GPCとイスラーハの双方から公認を受け、当選したアハマル議会議長(イスラーハ党首)については、イスラーハの得票に加算した。 
  • 登録選挙人総数: 809万7514人
  • 投票総数:620万1254票
  • 有効投票総数: 599万6049票

(2) 大統領選挙 

1999
候補者得票数得票率
アリー・アブドッラー・サーレハ3,583,79596.20%
ナジーブ・カタハーン・シャアビー141,4333.80%
  1. サーレハは現職でGPC公認。
  2. シャアビーはYSP所属の議会議員だが、大統領選は無所属。
  • 選挙人登録総数: 560万0119人
  • 有効投票総数: 377万2941票 
2006年 
候補者得票数得票率
アリー・アブドッラー・サーレハ4,149,67377.17% 
ファイサル・ビン・シャムラーン1,173,02521.82%
ファトヒー・アザブ 24,5240.46%
ヤアシーン・アブドゥ・サイード21,6420.40%
アフマド・マジュディー8,3240.15%
  1. サーレハは現職でGPC公認。
  2. シャムラーン(実業家)は、5野党(イスラーハ、YSP、ナセル統一、ハック党、イエメン人民勢力同盟)による「政党合同会議」の推薦。
  3. サイードは、そのほかの野党による「野党国民会議」の推薦。
  4. アザブおよびマジュディーは無所属。
  • 投票総数: 602万5818票
  • 有効投票総数: 537万7238票
2012年2月21日

アブドッラッボ・マンスール・ハーディー 信任票 662万1921票(信任99.80%)  

 選挙人登録総数 1024万3364人(人口2405万) 

有効投票総数 663万5192票(投票率64.78%) 

・2011年政変におけるGCCイニシアチブの規定に基づく大統領選挙。このイニシアチブには、ハーディー副大統領を唯一の大統領選挙候補とする旨記されており、かつイニシアチブの内容はイエメンの憲法および法律の代替をなし、イニシアチブに対する異議申し立てはできないと記されている。  

参考文献

  • 松本弘「イエメンの民主化」『現代の中東』27号(1999年7月)、pp.27-41。
  • ―――「イエメン民主化の10年」『現代の中東』39号(2005年7月)、pp.24-39。
  • ―――「イエメン:政党政治の成立と亀裂」間寧編『西・中央アジアにおける亀裂構造と政治体制』JETROアジア経済研究所、2006年、pp.95-158。
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2019年1月18日

イエメン/政党

1990年南北イエメン統一において、1981年に南北イエメン統一憲法合同委員会(77年南北国境衝突の停戦協定であるクウェート協定に基づき設立)が作成した統一憲法案が、そのままイエメン共和国の憲法案に採用された。イエメン共和国議会はこの憲法案を承認し、さらに同憲法第39条に規定された「政治団体の自由」を複数政党制の承認と解釈して、その導入を決定した。これにより政府は、統一と同時に複数政党制による総選挙実施を公約として発表した。議会で承認された憲法案は、翌91年5月に国民投票で承認されて正式に発布・施行され、同じ年に政党・政治団体法(91年第66号法)も公布された。 

政党・政治団体法では、政党・政治団体の結成の自由が明記されているが、それはイスラーム、イエメンの統一、旧南北イエメン革命および統一憲法の理念、政治的自由及び人権の尊重、アラブ民族の精神に合致するものとされている。また、特定の地域、言語、宗教などを基盤としてはならないとも規定されている。このほか、政党の結成手続きやその役員構成・会計などが規定され、政党・政治団体の認可・解散等を決定する政党・政治団体委員会(議会担当相を委員長とし、内務相、司法相などを委員とする)の設置およびその職務も規定されている。

法律上、政党の非認可および政党への解散命令は可能だが、現在までそのような例はない。たとえば、「イスラームに合致するもの」という規定と左派政党との関係、「特定の宗教を基盤としてはならない」という規定とイスラーム政党との関係、「特定の地域を基盤としてはならない」という規定と北部山岳地域を基盤とするザイド派イスラーム政党(エスニック政党)との関係などに問題の可能性はあるものの、これまで議論の対象となった形跡はなく、申請を行なった政党はすべて認可されている。また、1994年内戦で党幹部が旧南イエメン分離独立派に合流した諸政党(YSP、ナセル矯正、イエメン民族同盟)も、解散命令を受けていない。

2011年のサーレハ大統領辞任、2012年のハーディー大統領就任のあと、2013年3月から新憲法制定のための基本方針を決める包括的国民対話会議が始まった。包括的国民対話会議は2014年1月、連邦制導入などの方針を決定して閉幕したが、その後ハーディー政権は憲法案作成を行なわず、さらに翌2015年1月のホーシー派による「革命委員会」設置および3月以降の内戦により、政党政治は機能していない。

主要政党

国民全体会議(GPC)

イエメン・アラブ共和国(1990年南北イエメン統一以前の北イエメン)において、1982年にアリー・アブドッラー・サーレハ大統領により設立された同名の大政翼賛団体(各地方・職業団体からの選出700名、政府任命300名)を母体とする政党。統一以前の北イエメンでは政党が禁止されていたため、唯一の公認政治団体(実質的な単独支配政党)として、当時停止されていた議会の役割を果しながら、総選挙を準備する組織として位置づけられた。

統一後の政党・政治団体法施行に際し、政党申請を行なって一般から党員を募集する通常の政党となった(党首はサーレハ大統領)。もともと、アラブ民族主義を基調としながら、国内のさまざまな勢力や政治思想を包含する組織であったが、複数政党制の導入より左派(ナセル主義、バアス主義)や保守派が分離して新党を結成し、大政翼賛的な性格は失った。その後は、アラブ民族主義や革命理念の継承を掲げながらも、サーレハ政権を支持し、脱イデオロギー化のなかで国民経済の発展を優先する現実主義・実務志向の政党となっている。

1993年総選挙(定数301議席)で122議席(イスラーハ、YSPと三党連立内閣、1994年内戦後はイスラーハとの二党連立内閣)、1997年総選挙(単独内閣)で187議席、2003年総選挙で229議席(単独内閣)を獲得し、すべての総選挙で第一党となっている。また、2001年と2006年の地方選挙でも圧勝している。 

1995年に構造調整を受け入れて以降、マクロ経済の安定・拡大と補助金削減や財政再建などによる国民生活の負担増大との間で、政局の運営を続けている。生活基礎物資の価格上昇のたびにデモ・暴動が発生し、政府への強い不満・批判が噴出するものの、選挙では支持を拡大し続けていた。

イエメン改革党(イスラーハ、YIP)

統一後のGPCとYSPの協力関係やナセル主義、バアス主義の左派新党設立に警戒感を抱いた保守派議員がGPCを離脱し、GPCメンバーであった旧北イエメン北部のハーシド部族連合長アブドッラー・ビン・フセイン・アハマル(統一以降、2007年の死去まで議会議長)を党首に仰いで結成した政党。結成には、旧北イエメン南部のムスリム同胞団系のウラマー層も加わり、イエメン最大のイスラーム政党となった(北部部族はシーア派のザイド派に属し、南部はスンナ派のシャーフィイー法学派だが、宗派の違いはこれまで問題となっていない)。

1993年総選挙で63議席(GPC、YSPと三党連立内閣、1994年内戦後はGPCと二党連立内閣)、1997年総選挙で53議席(最大野党)、2003年総選挙で46議席(最大野党)を獲得し、すべての総選挙および地方選挙で、GPCに次ぐ第二党の位置を占める。 

イエメン最大最強の圧力団体とも言うべき保守的な北部部族勢力(ハーシド部族連合、バキール部族連合)を支持基盤とし、南部ウラマー層が政党としての思想や枠組みを提供する態勢をとっている。しかし、「イスラーハは動員力はあるが、集票力に欠ける」と評価されており、北部での支持は得票にはつながらず、議席の多くを南部に依存している。

党首はアハマル、党最高評議会議長はムスリム同胞団系の指導的ウラマーであるヤアシーン・アブドルアジーズ・クバーティー、党諮問委員長はサウジアラビアに近く、イエメン・イスラーム主義の教条派を代表するアブドルマジード・ジンダーニー(現イーマーン大学学長、党内では少数派)。アハマルもサウジアラビアと強い関係を有しており、アハマルとジンダーニーに着目すれば、イエメンにおける親サウジ政党ともいえる。

野党として経済・外交政策でGPCと激しく対立するものの、実質的にはサーレハ政権支持の姿勢を続けており、純粋な野党とは言いがたい。たとえば、1999年大統領選挙では対立候補を立てずにサーレハを支持し、2003年総選挙ではイスラーハ党首のアハマルがGPCからも公認を受け、イスラーハとGPCに両属する議員として当選して、引き続き議長に選出された。最大野党の党首が与党にも属して議長を務めることは、法律的にも政治倫理的にも問題とされておらず、イエメン政党政治の一面を象徴している。しかし、2006年大統領選挙では他の野党4党(YSP、ナセル統一、ハック党、イエメン人民勢力同盟)とサーレハの対立候補(実業家のシャムラーン)を擁立、支持し、活発な選挙戦を展開した。

2007年12月29日、アハマル党首が死去し、ムハンマド・ビン・アブドッラー・ヤドゥーミーが党首に就任した。

イエメン社会党(YSP)

イエメン民主主義人民共和国(統一前の南イエメン)における、マルクス・レーニン主義を掲げる単独支配政党。統一後の政党・政治団体法施行に際し、政党申請を行なって一般から党員を募集する通常の政党となった。ソ連崩壊と南北イエメン統一を背景に、党中央委員会は社会主義の放棄を決定したが、党内の混乱により党大会を開催できず、党の綱領自体は変わっていない。

1993年総選挙で56議席を獲得するが、GPC、イスラーハに次ぐ第三党に甘んじる(GPC、イスラーハと三党連立内閣)。党最高幹部が1994年内戦を引き起こし、旧南イエメンの分離独立(イエメン民主共和国の独立)を宣言したが、YSP議員の大半はこれに合流せず、首都サナアに残留した。内戦中にYSPは資産等を凍結され、連立内閣から排除されたが、内戦終結後も政党や議員としての活動には制限を加えられなかった。資産凍結の継続に抗議して、1997年総選挙をボイコット。2003年総選挙で復帰するも、7議席にとどまった。1999年大統領選挙では候補者を擁立できなかったが、2006年大統領選挙では他の野党4党(イスラーハ、ナセル統一、ハック党、イエメン人民勢力同盟)と候補者(実業家のシャムラーン)を擁立した。

旧北イエメンとの経済格差が解消されない旧南イエメンを支持基盤とする政党となるべき存在ではあるが、選挙では旧南イエメンでもGPCの得票が圧倒的となっている。 

アラブ・バアス社会主義党イエメン地域指導部(バアス党)

複数政党制の導入に伴い、バアス主義者がGPCから分離して、イラク系バアス党のイエメン支部として結党。結党時の党首は、ムジャーヒド・アブー・シャワーリブ(統一以前からのサーレハ大統領の側近で、アハマル・イスラーハ党首の義弟)だが、1994年内戦後に大統領顧問に任命され離党。その後、イラクのサッダーム・フセイン大統領(当時)に近いカーシム・サッラームが党首となる。しかし、党内対立からサッラームは離党して、新たにバアス民族党(総選挙での当選者なし)を設立した。

1993年総選挙で7議席、1997年および2003年総選挙では2議席を獲得。

ナセル人民統一組織(ナセル統一)

統一直前のアデンで結成された、旧北イエメンのハムディー大統領(在職1974~77年、南部を基盤とするリベラル派として北部部族勢力と対抗した)の支持勢力による政党。ナセル主義に基づく公正を訴え、旧北イエメン南部や旧南イエメンのアデン、アブヤンで一定の支持者を有する。1993年総選挙で1議席、1997年および2003年総選挙では、GPCと選挙協力を行なって3議席を獲得。 

ハック党

旧北イエメン北端のサアダを基盤とする、ザイド派(シーア派)カーディー(法学ウラマー)や旧サイイド層(シーア派初代イマーム・アリーの子孫。旧北イエメン革命前のイエメン・ムタワッキル王国における支配層。革命により特権剥奪)などが、GPCから分離して結成したザイド派のイスラーム政党であり、ホーシー家の活動を母体とする。1993年総選挙で2議席を獲得したが、その後は議席なし。 

その他
  • 民主ナセル党(ナセル民主。1993年総選挙で1議席のみ)
  • ナセル人民矯正組織(ナセル矯正。1993年総選挙で1議席のみ)
  • イエメン人民勢力同盟(ザイド派のイスラーム政党)
  • イエメン統一グループ(アデンの知識人層による政党)
  • イエメン民族同盟(旧南イエメン・ラヘジの保守層による政党)
  • 国民社会党
  • 人民民主同盟

政党以外の政治組織・政治勢力

ホーシー派(アンサール・アッラー)

1980年代、イエメン北部のザイド派地域(シーア派、信徒はハーシド部族連合とバキール部族連合に属する部族民)において、サウジアラビアが支援するワッハーブ派の布教活動拠点「ハディースの家」が設けられた。これに危機感を抱いたサイイド(預言者ムハンマドの子孫)のホーシー家(ザイド派ウラマーの家系)当主のバドルッディーン・ホーシーは、「信仰する若者」というザイド派の復興運動を開始した。これがホーシー派の起源とされる。1990年南北イエメン統一以降の民主化ではハック党を結成し、総選挙に参加した。

長男フサイン・ホーシーは、反ワッハーブ・反サウジの演説を繰り返したが、2003年のイラク戦争後に、それは反米の内容を多く含むようになり、多くの若者の支持を得た。しかし、2001年米同時多発テロ以降、米国の対テロ戦争に協力していたサーレハ大統領は、フセインに対し反米演説をしないよう求めたが、フセインは聞き入れなかった。2004年6月18日、サナアのアリー・アブドッラー・サーレハ・モスク前でフセインを支持する若者たちが反米のスローガンを叫び、拘束された(一説に640人)。サーレハは、説得のためにフセインをサナアに呼んだが、拒否された。7月、サーレハは治安部隊をフセイン拘束のために派遣したが、支持者と銃撃戦になって拘束に失敗。武力衝突が拡大したため、その後はアリー・ムフシン(サーレハの異父弟。現在はハーディー政権の副大統領)を司令官とする第一機甲旅団がその制圧にあたったが、ホーシー派を抑えることはできなかった。9月10日、フセインは銃撃戦の中で死亡した。父バドルッディーンも死亡したあとは、次男アブドルマリクなどの親族がホーシー派を率いた。その後、彼らはホーシー派と呼ばれるようになるが、彼ら自身は長く自称を持たず、2010年に自らを「アンサール・アッラー(アッラーの支援者)」と名乗った。2009年には、ホーシー派がサウジアラビアに対する越境攻撃を行ない、サウジはホーシー派を空爆している

イエメン政府は、ホーシー派はイラン流の「ウラマーによる政治」や「ザイド派イマーム(1918~1962年のイエメン・ムタワッキル王国国王)の復活」を求める集団であると喧伝したが、ホーシー派自身は特段の政治思想を展開せず、政府軍の攻撃に防御・反撃しているのみとの姿勢を取り続けた。ホーシー派に対するイランの革命防衛隊の支援については、不明な点が多い、イエメン政府やサウジアラビアは、2005年から支援が始まったとしているが、研究書の多くは、2011年の政変までイランのホーシー派支援にかかわる確たる証拠はないとしている。

当時、これはサアダ事件と呼ばれ、サアダ州の一部における衝突であったが、2011年の政変に乗じてホーシー派は北部3州(サアダ州、ハッジャ州、ジョウフ州)を掌握し、ハーディー政権下の包括的国民対話会議に参加した。しかし、2004年1月、包括的国民対話会議がホーシー派が反対する連邦制の導入に合意すると、翌2月より南下を開始し、同年9月にはサナアを占拠した。翌2015年1月、ホーシー派はハーディー大統領を軟禁下に置き、翌2月に「革命委員会」を組織して、2年間の暫定統治を宣言した。翌3月からはサナア以南に本格的な進攻を開始し、ハーディー政権およびそれを支援するサウジアラビア主導のアラブ有志連合との内戦に至った。

南部運動(ヒラーク)

2007年、アデン近郊で公務員解雇に反対するデモが生じた。その後、同様なデモが多発し、暴動に発展する例も増えた。1990年南北イエメン統一以降、政治経済の北部偏重に南部住民は大きな不満を持っており、これがデモや暴動の背景となっていた。そのような騒擾状態のなか、同年に旧南イエメンの平和的な再分離独立を求める南部運動(通称ヒラーク)が組織された。その内実は、さまざまな勢力や団体の集合体であり、まとまった組織とは呼べないものであったが、2011年政変後の包括的国民対話会議に参加し、連邦制の導入を主導した。

2015年以降の内戦では、この南部運動を背景とした複数の政治団体や武装勢力が南部諸勢力と呼ばれ、UAEの支援を受けて2016年以降の沿岸部での戦闘の主体となっている。ハーディー政権と対立し、2017年5月にアデンを掌握した南部移行評議会(Southern Transitional Council, STC)は、この南部諸勢力の中心的存在。ほかにも、ラヘジ州を基盤としてUAEの支援を受けるセキュリティ・ベルト(略称ヒザーム)があり、これが武装組織としては最大のものとみられている。

参考文献

  • 松本弘「イエメンの民主化」『現代の中東』27号(1999年7月)、pp.27-41。
  • ―――「イエメン民主化の10年」『現代の中東』39号(2005年7月)、pp.24-39。
  • ―――「イエメン:政党政治の成立と亀裂」間寧編『西・中央アジアにおける亀裂構造と政治体制』JETROアジア経済研究所、2006年、pp.95-158。
  • ―――「イエメン・ホーシー派の展開」、酒井啓子編『途上国における軍・政治権力・市民社会―21世紀の「新しい」政軍関係―』晃洋書房、2016年、pp.112-129。
  • ―――「イエメン内戦の背景と特質」『海外事情』64巻9号(2016年9月)、pp.18-29。
  • ―――「イエメンの内戦と宗派」、酒井啓子編『現代中東の宗派問題―政治対立の「宗派化」と「新冷戦」―』晃洋書房、2019年、pp.205-226。
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