「最近の政治変化」カテゴリーの記事一覧

2021年9月21日

リビア/最近の政治変化

国民合意政府(2016年1月〜2021年3月)

カッザーフィー政権崩壊後、2012年7月の選挙を経て国民議会(GNC)と新内閣が発足したが、同議会の一部議員が2014年6月の代表議会(HOR)設立に抵抗し、傘下の民兵組織を動員してHORを攻撃した。このため、HORは首都トリポリから退避し、東部の都市トブルクに議会本部を設置した。これがいわゆる「東西対立」の発端である。GNCとHORの対立は行政の不機能や治安悪化、アルカーイダや「イスラーム国」などジハード主義組織の伸長につながったため、国連や欧米、周辺諸国が和平調停を進め、モロッコでのGNC・HOR間の協議によって2015年12月17日、「リビア政治合意」が締結された。

同合意は統一政府である国民合意政府(GNA)を樹立し、 HORを立法府として、GNCを高等国家(HCS)に改称して政府の諮問機関とすることを定めた。2016年1月に発足したGNAは、2021年3月のGNU発足まで「正式な政権」として国際的に承認されていた。同政府においてはファーイズ・サッラージュ首相が「首脳評議会(PC)」の議長を兼任し、PCは首相1名、副首相3名(東・西・南の地域から1名ずつ)、国務大臣2名で構成されていた。

「リビア政治合意」の狙いは、対立していたHORとGNCを新政府の下に統合し、国内対立を解消することであったが、今度はGNAとHORの対立が勃発した。HORはGNAの信任投票を行わなかったため、同政府の法的基盤は2021年3月の解散まで脆弱なままであった。また、HORは東部のトブルクに拠点を置いたまま、東部独自の内閣や中央銀行、石油公社、その他政府機関を設立してGNAに対抗した。これにより、東西政府機関の統合が政治プロセス進展や国民生活改善の障害となっている。さらに、HORがハリーファ・ハフタル率いる軍事組織「リビア国民軍(LNA、後述)」を支援したことで、国内の軍事対立が激化した。

大統領・議会選挙に向けた動き(2017~2019年)

2017年頃から、リビアの統治機構の再編と政治・治安の安定化を進めるため、選挙を求める声が主に国外で高まるようになった。 GNAは発足以来リビア全土を統治したことはなく、政治機構も脆弱で、リビアの安定化を主導することは難しいとみられていた。不安定なリビアが地中海を越える移民の玄関口となり、ジハード主義組織や武装勢力の拠点となり、治安悪化に伴う原油生産量の乱高下がグローバルな石油価格の変動要因となっている現状は、周辺国にとって大きな脅威だと認識されてきた。

さらに、GNAの任期の問題もあった。リビア政治合意には、GNAの任期は HORによる信任決議から1年間とされ、この間に憲法が制定されなければ1年のみ延長が認められると明記されている。また、憲法がGNA設立後2年以内に制定された場合は、その時点で任期が終了する。GNAが最初の会合を行ったのは2016年1月6日であり、これを起点とすれば2018年1月6日でGNAの任期は終了することになる(ただしHORはGNAの信任投票を行わなかったため、GNAの任期のカウントダウンはそもそも始まっていなかったというロジックも成り立つ)。

2017年9月20日、国連リビア支援ミッション(United Nations Support Mission in Libya: UNSMIL)のサラーマ代表は、リビアを安定化させるための「アクション・プラン」を発表した。それは、①全土での国民対話の実施、②リビア政治合意の修正とGNAの組織改革、③憲法制定のための国民投票、④大統領・議会選挙を行うための法制度の整備という4つの柱からなる。また、UNSMILは2017年末の時点で、リビアの移行期間は2018年で完了すると述べ、同年中に大統領選挙を予定していることを明らかにした。

2018年5月29日、フランス・パリにおいて、リビアの諸勢力を招いた会談が行われた。この会談で、遅くとも同年12月10日までの大統領・議会選挙の実施および9月16日までの憲法草案と選挙法案の制定で合意された。しかし、大統領制を導入するための準備は進まなかった。カッザーフィー政権崩壊後のリビアは議院内閣制を採用しており、大統領に付与される権限、大統領と軍、議会および内閣との関係、議会の規模などを取り決めるための法的枠組みは存在しなかった。また、国軍の最高指揮権や任命権、中央政府と地方政府の関係なども不透明なままであった。

これらを規定するのが憲法と選挙関連法案ということになるが、立法権を持つHORは憲法制定のための国民投票に関する法案審議を何度も延期してきた。このため、高等選挙委員会(HNEC)も法的・技術的な準備を進められず、選挙が2018年中に行われることはなかった。2019年2月のミュンヘン安全保障会議にて、サラーマUNSMIL代表は、大統領・議会選挙の実施は「2019年末が最も現実的だ」と述べた。そして、選挙プロセスを進めるために「国民対話」を行い、国内で対立する諸勢力の和平調停を行うと発表した。しかし、ハフタル司令官率いる「リビア国民軍(LNA)」が2019年4月からトリポリ侵攻を開始したことで、選挙や国民和解の動きは頓挫した(後述)。

トリポリ周辺での衝突(2019年4月~2020年10月)

2019年4月4日、ハフタルLNA総司令官は傘下の部隊にトリポリへの進軍を命じ、 LNAはリビア東部と南西部からトリポリに迫った。これをGNA傘下の軍や同政府を支援する民兵組織が迎え討ち、大規模な武力衝突に展開した。国連リビア支援ミッション(UNSMIL)は、2019年だけで戦闘による避難者が20万人を超えたと発表するなど、甚大な人道被害が発生した。

さらに、LNAをUAE、サウジアラビア、エジプトが、GNAをトルコが支援し、武器や戦闘員、軍事資金を提供したことで、紛争は国際化して「代理戦争」の様相を呈した。特に、ロシアは2019年9月頃からプーチン政権に近い民間軍事会社Wagnerの兵員を投入して、LNAへの軍事支援を強めた。サラーマUNSMIL代表は国連安保理にて人道状況の悪化に警鐘を鳴らし、同時に諸外国の軍事支援が戦況を激化させていると非難した。

戦況は膠着していたが、2019年11月のサッラージュGNA首相とエルドアン・トルコ大統領との会談で、両者は①両国間の安全保障協力、特にトルコからリビアへの軍事支援に関する覚書と、②東地中海における両国間の海洋境界設定に関する覚書に署名した。これを受けて、2020年初頭からトルコは軍事ドローンや装甲車とともにシリア人戦闘員のべ1万5千人以上を送り込み、GNAへの軍事支援を強化した。この結果、2020年6月上旬にGNA勢力がトリポリ周辺を制圧し、LNAは東部および南西部に撤退した。

LNAの撤退による戦況変化を受けて、国際社会は停戦調停を強化させた。2020年8月21日、GNAとHORが停戦合意を発表し、すべての勢力に対する戦闘の即時停止を求め、2021年3月までの大統領・議会選挙実施を提案した。10月23日にはGNAとLNAの軍事代表団がスイス・ジュネーブにて停戦合意に署名し、両勢力の戦闘を即時停止し、3か月以内に全ての傭兵や外国人戦闘員をリビアから退去させることで合意した。

その後、UNSMILの主導により、停戦合意の確認や選挙実施に向けた政治協議「リビア政治対話フォーラム(LPDF)」が10月下旬にオンラインで、11月上旬にチュニジアで開催された。LPDFでは停戦の実現と持続、18か月以内(2022年5月まで)の選挙実施が合意された。同フォーラムに参加する75人の代表( UNSMILが選定)は、公平性を担保するために新政府において公職に就く権利を放棄した。

国民統一政府の発足と選挙に向けた動き(2021年3月~)

LPDFでの協議を受けて、2021年1月30日にUNSMILは新統一政府の首脳候補者45人を発表した。首相および「首脳評議会(PC)」の議長と副議長(2人)の選出に向けて4つの候補者リストが示され、LPDF参加者75人が投票する形を取った。2月5日の第1回投票、続く決選投票の結果、首相に実業家のアブドゥルハミード・ドベイバ、PC議長(大統領級)にギリシャ大使などを務めたムハンマド・ユーヌス・メンフィー、同副議長にトゥアレグ族出身の政治家ムーサー・クーニー、および代表議会(HOR)議員アブドゥッラー・ラーフィーが選出された。新政府の任期は、12月24日予定の大統領・議会選挙までとなる。

3月10日、リビアの立法機関であるHORは、新政府「国民統一政府(Government of National Unity: GNU)」およびダバイバ首相率いる新内閣を承認した。GNAも遅滞なく行政権を委譲した。HORの議員ほぼ全員の新政府承認決議への出席、トリポリ政府に反発し続けてきたサーリフHOR議長や東部政府による新内閣の承認、LPDFのスケジュールに概ね沿った形での新内閣承認は、いずれも大きな政治的成果である。国連の粘り強い働きかけに加え、国内外で政治プロセス進展への期待が高まったことが要因とされる。

GNUは発足後、UNSMILや国際社会の支援を受けながら、2021年12月の選挙に向けた政治プロセスや国内の和解・調整を進めているが、東西の政府機関や国軍の統合、外国軍・外国人戦闘員および外国人傭兵のリビアからの撤退、行政サービスや基礎インフラの復旧、民兵問題、移民問題等、対処すべき課題は山積している。このような中、治安問題、選挙法制定及び憲法基盤をめぐる合意形成の遅れ等を背景として、期日通りの選挙実施が危ぶまれる向きもある(選挙の項目で詳述)。

なお、日本政府は国連開発計画(UNDP)を通じた国政選挙支援(選挙機材の提供)、JICAを通じた司法や経済産業開発に関する技術協力、国連機関を通じた人道・社会安定化支援により、リビアの政治プロセスを支援している。

ハリーファ・ハフタル

内戦以降のリビアの政治プロセスに大きな影響を与えてきたのが、リビア東部を実効支配する軍事組織「リビア国民軍(Libyan National Army: LNA)」のハリーファ・ハフタル司令官である。

ハフタル(1943年生)はカッザーフィーによる1969年のクーデターの同志であり、1986年にリビア・チャド紛争(1978〜1987年)の司令官となるが、敗戦しチャドにて投獄された。その後は米国に約20年間在住したが、2011年のリビア政変時に帰国し、反カッザーフィー勢力を軍事的に指揮して台頭した。2014年5月にはリビア東部にてLNAを率い、国軍、部族勢力、民兵組織などの諸勢力と「尊厳作戦(Operation Dignity)」を立ち上げ、リビア国内のアルカーイダ系組織を含むイスラーム主義勢力への攻撃を開始した。また、2015年3月にはHORの軍総司令官に就任した。

LNAはジハード主義組織やイスラーム主義系の民兵組織に軍事的に対抗できるほぼ唯一の勢力であり、エジプトやUAE、サウジアラビアといった域内諸国だけでなく、欧米やロシアからも支援を受けた。しかし、ハフタルは2016年の「リビア政治合意」とGNA設立を外国の内政干渉として批判し、GNCの強硬派と連携してGNAに反発した。GNAの治安維持・法執行能力は脆弱であり、当時LNAは国軍や警察を凌ぐ軍事力を有していた。また、リビア東部地域を実効支配し、諸外国の支援を受けて支配圏を拡大した。

2019年1月、LNAはリビア南西部に進軍し、敵対する地元の民兵組織などを掃討して拠点を確保した。これによりハフタルの勢力圏は東部だけでなく南西部へと拡大され、主要な油田の大部分も同軍の支配下に入った。自信を高めたハフタルは2019年4月にLNAに対してトリポリ侵攻を命じる(前述)が失敗に終わり、2021年3月のGNU発足を受けて軍事力および政治力は大きく減衰した。しかし、2021年5月にはLNA設立7周年を祝う大規模な軍事パレードを東部で開催したり、東部や南西部で「対テロ作戦」を名目とした軍事活動を継続するなど、依然として一定程度の影響力を維持している。今後は12月に予定される大統領・議会選挙をめぐる動向が注目される。

他方で、ハフタルは高齢に加えて健康面でも不安を抱えており、その影響力は持続的ではないとの見方もある。現在は、長男サッダーム、次男ハーリドに加えて、同じファルジャーニ部族出身の2人を加えた4人のLNA高官が「ポスト・ハフタル」における重要人物だとみなされている。ただし、LNAはハフタル個人の圧倒的な影響力や諸外国とのネットワークによって存続しており、彼が病気や死亡によって不在になればLNAは求心力を失い、内部抗争が激化するという見方が強い。

国連リビア支援ミッション

国連リビア支援ミッション(UNSMIL)は内戦中の2011年9月に「国連安保理決議2009号」によって設立が承認された。その主な目的は以下の通りと定められている。

  • 公共の安全および秩序を回復し、また法の支配を促進すること
  • 包括的な政治的対話を行い、国民和解を促進し、また憲法起草と選挙プロセスを始めること
  • 説明責任のある制度と公共サービスの回復強化を含む、国の権限を拡大すること
  • 人権、特に脆弱な集団に属する者に対するものを促進し保護すること、および移行期司法を支援すること
  • 初期の経済回復のために要求される迅速な措置を講じること
  • 適切な場合には、他の多数の関係者および両関係者から要請される支援を調整すること

UNSMILはリビアの和平や国家建設に取り組み、全国・地方選挙、2016年リビア政治合意の締結、対立する諸勢力の調停、諸外国のリビア支援の調整などを行ってきた。しかし、米、露、仏といった国連安保理の常任理事国がリビアに対して独自の関与を続ける中で、UNSMILおよび国連はリビアの安定化に向けた取り組みを進めることができなかった。

2017年からUNSMIL代表の座についたレバノン人のガッサーン・サラーマはリビア安定化に向けた「アクション・プラン」を発表し、①全土での国民対話会議、②「リビア政治合意」の修正と GNAの組織改革、③憲法制定のための国民投票、④大統領・議会選挙を行うための法制度の整備を進めようとした。しかし、エジプト、UAE、フランス、イタリアが国連との十分な調整を行わないままに独自の「和平会議」を開催したことで、国連主導の政治プロセスは阻害された。さらに、2019年4月以降のトリポリ周辺での衝突を受けて国民対話会議や大統領・議会選挙が暗礁に乗り上げ、諸外国の利害対立によってリビア安定化のための国際的な協力も進まない中、2020年3月にサラーマ代表の辞職が発表された。

サラーマ代表の辞職以後、それまでUNSMIL副代表を務めていた米国人外交官のステファニー・ウィリアムズが代表代行に就任し、GNAとLNAの停戦、国内和解と政治プロセスの進展、諸外国の軍事介入の停止を精力的に進めた。この結果、LPDFでの議論を通じてGNUの設立や2021年12月24日を目標とする大統領・議会選挙の実施が合意された。2021年1月には在レバノン国連特別調整官や国連イラク支援ミッション(UNAMI)代表などを務めたジャン・クビシュが国連事務総長特使・UNSMIL代表として着任した。また、2020年12月からジンバブエ出身のライセドン・ゼネンガが副代表・ミッション調整官を、2021年1月からカナダ出身のジョルジェット・ギャノンが副代表・常駐調整官(人道・人権担当)を務めている。

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2021年9月21日

アルメニア/最近の政治変化

1.ソヴィエト体制から独立へ

アルメニア社会には古くからコミュニティの自治を行うための民会などが存在したが、本格的な代議員制が見られたのは20世紀に入ってからであり、しかもオスマン帝国議会やロシア帝国国会、アルメニアの独立期(1918~1920年)の議会など、いずれも短命なものだった。

また、ソ連時代にはソヴィエト(成立当初は、労働者、兵士、農民からなる評議会)という疑似議会が存在し、1936年憲法(スターリン憲法)制定後は、18歳以上の男女すべてに普通選挙権が与えられていた。しかし、代議員の候補者は、共産党ないし各社会団体の推薦を得た候補が各選挙区に一名のみ配置されたため、選挙は単なる信任投票と化し、ソヴィエトの形骸化が進んだ。

アルメニアの現体制の確立は、ソ連末期の全連邦的な制度改革に端を発している。まず、ゴルバチョフ書記長によるペレストロイカの一環として、このソヴィエトの活性化が図られた。1988年の憲法修正で複数候補制が導入され、90年2月には複数政党制が容認された結果、ソヴィエトの内実は欧米の議会に近づくことになった。ついで、1990年3月の第3回臨時人民代議員大会で、ソ連邦に複数政党制と大統領制が導入されることが決定し、ゴルバチョフ共産党書記長が大統領に就任した。引き続いて、同じ年の4月には連邦から民族共和国の離脱手続きに関する法律と、連邦・共和国の権限区分法が採択された。これによって、政治的多元性、連邦構成共和国の主体的な政治改革が促進されることとなった。アルメニア・ソヴィエト社会主義共和国(以下、ソヴィエト・アルメニアと略記)では、90年5月に共和国最高会議の自由選挙がおこなわれ、非共産系政党のアルメニア全国民運動が勝利し、8月4日には全国民運動の代表レヴォン・テル=ペトロスィアンが最高ソヴィエト議長に選ばれた。91年2月26日には政治団体法が採択され、司法および治安関係者が在職中に社会政治団体に加入する、あるいは政党が国外の団体から指導を受けたり、それに加盟したり財政的・物質的援助を受けたりすることが禁止されたことで、共産党の活動が事実上禁止された。

以後、連邦の経済改革の混乱とともにバルト諸国やグルジアなど連邦構成共和国の自立化が目立つようになり、91年8月には連邦と共和国との間の新たな関係を規定した新連邦条約が締結されるはずだったが、8月19日の共産主義守旧派のクーデタで頓挫した。しかし、クーデタの失敗後、各共和国で一斉に独立宣言が出されるなど、急速に連邦の分解が進み、ソヴィエト・アルメニアでも9月21日に独立を問う国民投票が行われ、独立派が勝利した。さらに、アルメニアにもソ連政府を模した大統領制が導入され、10月17日にはテル=ペトロスィアン最高会議議長が大統領に選出された。そして、91年末の連邦崩壊に伴い、アルメニアは短い独立期(1918~1920年)以来、久方ぶりに独立国となる。

2.独立後の権威主義的傾向

独立後のアルメニア共和国では、政治活動の自由化は制度的に確立したが、1988年に発生したナゴルノ・カラバフをめぐるアゼルバイジャンとの紛争が激化したことで挙国一致体制の色彩を帯び、制度は有名無実化した。その典型が、テル=ペトロスィアン大統領とダシュナク党(アルメニア革命連盟)との対立である。ダシュナク党はアルメニアの短い独立期の政権党で、ソ連期には世界各地の在外アルメニア人コミュニティを活動拠点にし、1991年の大統領選では、テル=ペトロスィアンに対抗して、独自候補を立てた。カラバフ紛争では積極的な役割を果たして国民の支持を伸ばした。ところが、92年5月以後は戦線が膠着状態に陥り、大統領がカラバフ戦局の不拡大方針を打ち出すと、ダシュナク党がこれを批判したため、大統領は92年夏にダシュナク党の議長フライル・マルヒアンに国外退去を命じた。さらに、1994年12月には元エレヴァン市長の暗殺事件で政情不安が高まったことを口実に、ダシュナク党そのものの活動も禁じた。これによって95年5月の議会選挙ではダシュナク党を排除することに成功したものの、こうした大統領の政治手法が非民主的との批判を国内外から浴びるにいたった。

1998年2月にテル=ペトロスィアンが、94年のカラバフ紛争停戦後の和平交渉の方策がもとで大統領辞任に追い込まれると、当時首相だったカラバフ出身のロベルト・コチャリアンが、大統領代行を務めることとなった。コチャリアンはダシュナク党を再び合法化し、ダシュナク党の選挙参加を約束した。これは彼がカラバフの大統領時代に接近したといわれるダシュナク党を与党化する意図で行われた可能性が高い。

独立後の歴代政権下では、ソヴィエト期のような一党独裁制こそ復活しなかったものの、テル=ペトロスィアン政権ではアルメニア全国民運動、コチャリアン政権では共和党とダシュナク党というように、議会には大統領を翼賛する巨大与党(ないし与党連合)が出現し、政権が安定化するという傾向がみられる。また、有力な政敵が排除される事案も発生している。2003年3月の大統領選に対抗馬として期待されていたアメリカ人ラッフィ・ホヴァニスィアン元外相は、かねてから申請していたアルメニアへの帰化が再三裁判所で拒否され立候補できなかった。カラバフ出身のコチャリアンが、容易にアルメニア国籍が取得できたのとは対照的である。また、99年10月27日の議会内銃乱射事件で何名かの有力政治家が暗殺される事件が起こったが、これには政府の関与が疑われている。

ところで、2005年11月にアルメニア共和国憲法の一部条項をめぐって国民投票が行われ、憲法改正が施された。これは2001年に欧州議会からの要求で、人権規約や制度的民主化を促進させる必要にアルメニア政府が迫られていたことが背景にある。主な点は、思想信条に基づく差別の禁止(第14条第1項)、公正な裁判を受ける権利(第19条)、報道の自由の保障(第27条)が追加されたこと、大統領が司法人事に与える影響力が減じられたことが挙げられる。その一方で、大統領は在職期間中、職務上の行為に関して訴追を免れる(第56条)ことが認められ、行政の裁量権が拡大した。

こうした国民の権利拡大が図られながらも、コチャリアン政権期には野党のデモを武力で鎮圧する事件が二度起こっている。憲法改正が議論されていた2005年春にアルメニア国民民主連合の議長ヴァズゲン・マヌキアン、アルメニア人民党のステパン・デミルチアンらが会派「正義」(Ardatut‘yun)を結成した。2003年にグルジア、2004年にウクライナ、そして2005年クルグスで発生した一連の「色革命」の影響を受け、政権交代に向けて座り込みストを行うと3月24日に決定した。しかし、与党だけでなく統一労働党も野党連合に非協力的であったため、4月9日に野党連合は支持者約8000名とともにデモや議会での座り込みを行うものの、それ以上には拡大しなかった。12日になると野党会派の議員が警察に身柄を拘束され、13日の未明にはデモ関係者が強制的に解散させられた。

第二の武力鎮圧事件は政権の最末期に起こった。大統領職を2期務めたコチャリアンは、憲法で大統領の三選禁止が規定されているため、2008年2月の大統領選では同じカラバフ出身のセルジュ・サルキスィアンを後継者に指名した。そして、ロシア大統領選に見られたプーチン、メドヴェージェフの二枚看板を模倣した広報活動を行い、勝利した。(ただし、ロシアの場合と違い、コチャリアンは、サルキスィアンが大統領に就任すると政治の表舞台からは身を引いた。)ところが、この選挙に不正があったとして、対立候補のテル=ペトロスィアン元大統領の支持者が抗議を続けていたが、3月1日には約8000人のデモ隊と警察が衝突し、多数の死傷者が出た。そのため、コチャリアン大統領はその日の夜に非常事態を宣言してデモ隊を強制的に排除したばかりでなく、この事件に関する報道も著しく制限した。

概して、アルメニア共和国では、多党制も制度的に認められ、政権交代も起こっているものの、大統領の権威主義体制が正当化されやすい環境にあるといえよう。こうした体制が容易に生み出される背景として、隣国アゼルバイジャンとのナゴルノ・カラバフ地域をめぐる対立、さらに隣国トルコとの不正常な関係といった対外的な緊張があり、強い権力を行使する大統領を国民が容認しているためと考えられる。

3.2018年の政変と民主化の課題

2018年3月に2期8年間の大統領任期を終えたセルジュ・サルキスィアンは、2015年の憲法改正で国政を議院内閣制に移行することが予定されていたので、それに則った首相に横滑りしようと画策したところ、野党の党首ニコル・パシニアン率いる反政府デモ隊の抗議活動に押されて、4月23日に首相を辞任し、翌月パシニアンが首相に指名された。首相は、エレヴァン市長のタロン・マルカリアンの所得隠しや市長の運営する財団への利益誘導疑惑を利用して辞任に追い込んだ。そうした旧政権の腐敗を追求するネガティヴ・キャンペーンを張ったうえで、2018年12月に実施された議会の出直し選挙では、与党共和党の議席が消滅し、パシニアンを中心に結集した選挙連合「我が一歩」ブロックが大勝した。

ところが、昨年9月27日から始まった第二次ナゴルノ・カラバフ紛争では、ドローンなどの最新兵器を投入したアゼルバイジャン軍が優勢で、アルメニア政府が11月10日に停戦した際にまだアルメニア側が押さえていた保障占領地域を引き渡しただけでなく、「カラバフ共和国」の領土も縮小したため、パシニアンの辞任を求めるデモが連日起こった。結局、2021年6月に繰り上げ議会選挙が行われたが、ダシュナク党がコチャリアン元大統領、復活を目指した共和党がサルキスィアン元大統領を担ぎ出して、パシニアン首相の失策を厳しく追及した。結果的には、パシニアン率いる「我が一歩」ブロックが過半数をわずかに上回って勝利したものの、投票率が49.37パーセントと国政選挙にしては低く、国民の4分の1しか首相の続投を信任していない実態が露わになった格好である。

参照

  • L.Chorbajian, ed. The Making of Nagorno-Karabagh, Chippenham, 2001
  • M.P.Croissant, The Armenia-Azerbaijan Conflict, West Port, 1998
  • G.E.Curtis ed., Armenia, Azerbaijan, and Georgia: country studies, Washington D.C., 1995
  • D.Golovanov, Armenia: constitution amended, http://merlin.obs.coe.int/iris/2006/2/article8.en.html
  • E.Herzig, The New Caucasus, New York, 1999
  • J.R.Masih&R.O.Krikorian, Armenia at the Crossroads, Amsterdam, 1999
  • C.Mouradian, L’Arménie, Paris, 1996
  • R.G.Suny, Looking toward Ararat, Bloomington & Indianapolis, 1993
  • Российский институт стратегических исследований, Армения, Москва, 1998
  • 上野俊彦「ロシアの選挙民主主義――ペレストロイカ期における競争選挙の導入――」、皆川修吾編『移行期のロシア政治』、渓水社、1999
  • 塩川伸明『多民族国家ソ連の興亡Ⅱ 国家の構築と解体』、岩波書店、2007
  • 吉村貴之『アルメニア近現代史』(ユーラシアブックレット)、東洋書店、2009
  • 吉村貴之「アルメニアの現代政治」(特集「ソ連解体から30年を経た現在」)、『ユーラシア研究』No.64、2021、23-25頁
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2021年8月31日

レバノン/最近の政治変化

政治・社会

独立以降、現在に至るまで、レバノンの政治・社会は基本的に「宗派主義制度」と「パトロン・クライアント関係」(親分・子分関係)の二点によって特徴付けられてきた。 

第一の「宗派主義」に関して、レバノンが18もの公認宗派集団によって構成されるモザイク国家であることは既に述べた。そんなレバノンでは歴史的に、国民を識別する第一義的な要素を「宗派」とし、国家権力・利権はある特定の宗派集団によって独占されるのではなく主要宗派間で共有されなければならないとする考え方、つまり「宗派主義」が基本理念として保持されてきた。そして、この理念を制度化したものが「宗派主義制度」と呼ばれる現行の権力分有システムである。この制度の下では宗派は事実上の「利権集団」として扱われ、あらゆる公的機関のポストはあらかじめ各宗派に定数配分されることになっている。たとえば大統領はマロン派、首相はスンナ派、国会議長はシーア派とするといったように憲法には明記されている。また総議席128の国民議会議席数も宗派ごとにあらかじめ定数が割り当てられている(表を参照)。

また、レバノン政治においては、重要度の高い法案や政策の可決に議会や内閣における3分の2以上の賛成票が必要とされる(「拒否権を行使できる3分の1」条項)。だが、実際のところ、宗派ごと/派閥ごとに細切れにされた同国政治においては、3分の2以上の議席を1つの勢力が握ることはきわめて困難である。

このような各宗派/派閥の権力を均衡させ、多数決ではなく合議/談合によって意思決定を行うことを意図したこうした制度の下では、これまでに宗派間の利害が鋭く対立するような争点をめぐって政治過程はしばしば麻痺状態に陥った。また、宗派単位で細切れにされた行政機関はしばしばその非効率性・硬直性を露呈してきた。

ついで、第二の「パトロン・クライアント関係」とは、要するに日本の文脈における利益誘導政治の一種と考えて良い。つまり、レバノンにおいては宗派ごとに「ザイーム」と呼ばれる派閥領袖(親分)らが存在し、彼らは政治家として国家機構内外の権力を独占的に占有し続け、そこから得られた恩恵を自らの庇護下の人々に便宜供与というかたち(たとえば政策的な便宜を図る、就職先を斡旋する、ビジネスの機会を提供するなど)で提供する。他方、庇護下の人々(子分)は、その見返りとしてザイームに対する政治献金、選挙における投票、そして有事に際しては民兵としての奉仕などを求められる。こうした慣行は世界各国にある程度普遍的に見られる現象ではあるが、レバノンの場合はそうした「公的権力の私物化」(つまりは政治腐敗)があまりに度を越しており、ザイームたちは政治や公共政策をあたかも彼らのファミリー・ビジネスかのように扱ってきたとしばしば批判されてきた1

レバノンの公認18宗派の人口比と議席配分

 宗派名人口比議席数
1932年2010年1960~92年1992年~
キリスト教諸派マロン派28.218.253034
ギリシャ正教9.781114
ギリシャ・カトリック5.94.568
アルメニア正教3.22.7545
アルメニア・カトリック0.711
プロテスタント0.9111
マイノリティ
(アッシリア正教、カルディア正教、
ラテン教会、シリア教会、
シリア・カトリック、コプト教)
11
小計50.834.55464
イスラーム諸派スンナ派22.4292027
シーア派19.6331927
ドルーズ派6.85.6368
アラウィー派0.8902

1990〜2005年、すなわちシリア軍・治安機関がレバノンに駐留していた期間においては、シリア政府が権威主義的支配をレバノンにまで拡大し、レバノン政界における事実上の支配者として最終的な裁定を行ってきた。これによってレバノンでは一定の秩序が維持されたが、同時に多くの国際的批判を受けてきたことは上述の通りである。だが、シリア軍・治安機関が撤退して以降、上述の2つの政治・社会的特徴が急速に表面化し、様々な政治・社会・経済問題を引き起こすようになった。

実際、2005年から2008年にかけては、シリア政府との関係をめぐってレバノン政局が「3月8日勢力」(ヒズブッラーなどによって構成される、いわゆる「親シリア派」)と「3月14日勢力」(ムスタクバル潮流などによって構成される、いわゆる「反シリア派」)という2つの勢力に分断され、政治の場や街頭において(内戦時代を想起させるような)激しい政治・武力闘争を繰り広げた。2008年5月にアラブ連盟とカタルの仲介によって「ドーハ合意」と呼ばれる和平合意が成立するも、両勢力間の対立の火種が解消したわけでは決してなかった。

2011年以降は内戦状況に陥ったシリア政府との関係をめぐってレバノン政局は再び深刻な分断・麻痺状況に陥り、政治的に重要な議案や争点はことごとく先送りされるようになっていった。たとえば2013年6月には国民議会議員(任期4年)の任期満了に伴う議会選挙が実施されるはずであったが、選挙制度に関する議論が最後までまとまらず、結局、任期切れの議員たちが2018年5月まで居座ることとなった。また、2014年5月にはミシェル・スライマーン大統領が任期満了で退任するも議会では後継大統領が決まらず、結局、2016年10月にミシェル・アウン氏が新大統領に選出されるまで大統領職は空位のままであった。こうした「憲政上の空白」とも呼びうる異常状態においては重要な意思決定を行うことなど到底不可能であり、実際、年度ごとの予算案などは2005年度以降12年間にわたって議会で可決されてこなかった。2016年頃から政治過程が僅かなりとも前に進むようになってきたのは、レバノンの根源的問題が解決されたからではなく、単にシリア情勢がバッシャール・アサド政権優位で終結の兆しを見せ始めたからに過ぎない。 

かねてより非効率性・硬直性が指摘され続けてきたレバノンの行政機構もまた、2011年以降はこうした政局の影響を大きく受け、まったくの機能不全に陥ってしまった。そもそもレバノンの行政機構に関する問題は数え上げればキリがないほどだが、たとえば2015年以降、政府が固形廃棄物の処理計画とその財源をいつまでも策定できなかったために国全体がゴミの山で溢れかえるようになった問題は、こうした状況を象徴していた。この問題はその後、放置されたゴミから放たれる悪臭と政治家たちの腐敗をかけた「おまえたちは臭う(You Stink)」という名の市民による抗議運動につながった。

2020年8月にはベイルート港湾部の倉庫が突如として爆発した。爆発はキノコ雲と数キロ先まで到達するほどの爆風を伴う大規模なもので、200人以上の死者、6,500人以上の負傷者、30万人もの避難者を出し、経済的損失も180〜200億ドルに上ると推計された。爆発したのは2013年9月に政府によって違法な貨物船から没収され保管されていたおよそ2,750トンもの硝酸アンモニウムであった。その直接的な原因(「事故」なのか「事件」なのか)は依然として調査中であるとはいえ、この危険な物質が2013年から6年にわたって杜撰な管理下で放置されてきたことは事実であり、その意味でこの爆発は間違いなく「人災」であった(少なくともレバノン国民からはそう認識された)。そして実際、事件から4日後にはベイルート中心部で政府の責任を追及する激しい抗議デモが発生し、暴徒化した市民が外務省ビルを占拠し「革命」を呼びかける事態となった。

加えて、次項で詳述するように、レバノンは現在、内戦後最悪とも言われるきわめて深刻な経済・財政危機に直面しており、それに対する政府の無策、そしてその背景にある深刻な腐敗問題に対して、2019年以降、レバノン各地で大規模な反政府デモが散発的に続いている。2020年3月には外貨建て国債の返済延期が表明され(同国による債務不履行〔デフォルト〕は今回が初めて)、同年4月には財政支援を受けるべくIMFとの協議に着手する旨が表明された。しかしながら、相変わらず腐敗と汚職が蔓延し、さらには(米国によって「国際テロ組織」に指定されている)ヒズブッラーが大きな発言権を持つレバノン政府に対してIMFが融資を躊躇していること、そしてヒズブッラーの側もIMFの介入を米国主導の「イラン/ヒズブッラー包囲網」と認識し、それに強い抵抗感を示していることから、レバノン政府とIMFとのあいだの交渉は依然として難航している。

経済・財政

2018年の世界銀行の調査によると、レバノンの経済規模はおよそ570億ドル、一人当たりGDPは9,251ドルと、経済規模は小さいながら中高位所得国に位置付けられている。2007年から2010年にかけては8~10%の経済成長を達成したが、2011年以降はシリア内戦や中東全域の混乱、そして海外からの資本流入の減少などにより急減速し、ここ数年は1~2%で推移した後、2019年はゼロ成長に落ち込んだ(図を参照)。2019年の時点で公的債務残高は国内総生産(GDP)の150%以上に達し、これは債務対GDP比で世界3番目に大きい数字である(なお、レバノンの上はギリシアと日本である)。また、経済格差という点で言えば、レバノンでは上位1%の最裕福層が GDPのおよそ25%を稼ぎだす一方、下位50%の人々の収入は合計してもGDPの10%足らずという、いわゆる「中間層」がすっぽり抜け落ちた、世界で最も不平等な国の一つとなっている。

レバノン経済の中心はサービス部門であり、とりわけ貿易・観光・金融部門はレバノンにおける最も重要な経済部門で主要な外貨獲得源となっている。2008年から2018年までの期間において、GDPに占めるこうしたサービス部門の割合は平均でおよそ73%であった一方、工業・建設業といった製造業と農業は合わせてもGDPの中で平均およそ19%を占めるに過ぎなかった。こうしたことからレバノンでは、経済成長を続けるにつれて輸入が増加するという構造にあり、加えて原油やガスといったエネルギー資源のすべて輸入に依存していることもあり、貿易収支は常に赤字基調にある(WTOのレポートによると、2017年の総輸出額は40.26億ドル、総輸入額は201.09億ドルであり、貿易収支は160.83億ドルの赤字となっている)。

こうした経常赤字はこれまで主として観光などを始めとするサービス業、および在外レバノン人からの送金や外国直接投資(FDI)によって補填されてきた。長期に渡った内戦を境に地域経済・金融のハブとしての地位を湾岸諸国へ譲り渡すことにはなったが、英・仏・アラビア語が通じ、美しい自然や様々な世界遺産、そして豊かな食文化とアルコール(この点は特に湾岸産油国の富豪たちにとって重要である)を楽しめるレバノンは、依然として多くの観光客を魅了し続けている。GDPに占める観光部門の割合は例年15~20%であり、2009年にはおよそ200万人の観光客を受け入れて戦前の最多記録を塗り替えた。

他方で、在外レバノン人からの国内への送金額は巨額に上り、2018年の世界銀行のデータによると、その額は年間でおよそ70億ドル(GDPのおよそ12.7%に相当)と推計されている。また、FDIに関しては、内戦終結以降、政府は国家再建のために非常に高い金利を設定し、為替売買や資本移動に関する規制をほとんど設けず、銀行の秘匿権を厳密に保証しており、これによって海外、とりわけ産油国からのオイルマネーを集めることに尽力した。内戦終結以降のベイルートにおける建設ブームと不動産価格の高騰とも相まって、こうした手法は短期的には功を奏した。以降、政府は同様の手法を続け、いわゆる「不労所得経済」に大きく依存する経済構造が確立していく。だが、こうして集められた外貨は結局、不透明なかたちで政治家の懐に入るだけで、政府によって有効に有用・投資されることはなかった。また、こうしたバブル的な経済構造は当然、大きなリスクをはらむものでもあった。

事実、シリア内戦をきっかけとして、2012〜13年頃からレバノン経済は深刻な財政危機に陥いるようになっていった。FDIに大きく依存するレバノンにおいては国外からの投資を積極的に呼び込むため極端に高い金利が設定され、これまで同国の商業銀行は大口預金者に対して法外な利息を約束し支払ってきたが、その元手は投資・運用によって得た利益ではなくあくまでリスクの低い政府への貸し付けで得た利息である場合が多く(ある報道によるとレバノンの商業銀行が中央銀行に預けた預金は2017年から2019年の間に70%以上増加しているともいわれる)、そのしわ寄せは当然納税者の国民に向かうことになる。「巨大なポンジ・スキーム」(いわゆる出資金詐欺)と揶揄されることも多いこうした金融システムにおいては、外貨が流入し続けているうちは良いが、一旦外貨引き上げの兆候が見られると途端に負債が雪だるま式に増大していく。ここ数年のレバノン経済はまさにこのような悪循環の只中にある。

加えて、レバノンの風土病とも言いうる腐敗も、経済システムの基本構造と指摘して良いだろう。たとえば「腐敗認知指数」2019年度版によるとレバノンの汚職度合いは180ヵ国中137位であり、また世界銀行の2020年の研究によると同国での「ビジネスのしやすさ」は190ヵ国中143位(他の中東諸国、たとえばトルコは33位、バハレーンは43位、サウジアラビアは62位)であった。そして、レバノンにおけるビジネス環境の順位を著しく落としている最大の要因が「非効率で腐敗にまみれた官僚機構」であるとされ、煩雑な手続きや腐敗があらゆる形態・場所で蔓延し、贈収賄、縁故・恩顧主義、談合などが日常的に観察されるとされている。

世銀による1995年の調査は、レバノンにおいてビジネスを行う際の困難さを、次のように的確に表現している。「国際的なビジネス社会には[レバノン経済に関して]、私的取引、贈収賄、恩顧、圧力のために、法を超越して、[既得権益]保護のネットワークにおいて腐敗が制度化されているとの認識が存在している。潜在的な投資家たちは、こうした状況が継続するならば、党派的・家族的な忠誠心が経済的参入や成功を独断的に決定するようになると予想している。結果として、国際的なビジネス社会は、法的要求や国家機構への信頼無しに、自分たちが知っており、出来事やアクターをコントロールできる範囲においてのみリスクを引き受けるようになる」2。 レバノンでは2019年10月中旬以降、悪化する一方の経済状況と、それに対して何らの対処策も打ち出せない無能で腐敗した政府に対して、大規模な抗議デモが続いている。2020年3月にはレバノン史上初となる債務不履行(デフォルト)が宣言され、その後も現在に至るまで深刻な債務危機は解決の見通しも立たないままである。そうしたなかでレバノン・リラ(LL)も急落し、1ドル1,500LLが正規レートであるにもかかわらず、現時点では街の両替商のレートは2,300LLで1ドルとなっている。外貨準備も極端に不足しており、ほとんどの銀行は1週間の引き出し上限を200ドルに制限するに至った。

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2021年8月31日

マレーシア/最近の政治変化

マレーシアの政治体制は、民主主義と権威主義の中間のグレーゾーンの体制か権威主義体制の亜種として長く認識されてきた。つまり、マレーシアの政治体制は、独立以降、一貫して複数政党が参加する競争的な選挙が定期的に実施されている一方で、選挙の公平性、言論・表現や集会の自由に関わる市民的自由などの点で疑問符がつく体制であり、その体制が長期にわたり続いてきたのである。

2018年に政権交代が起こるまでの60年間以上、与党の地位にあったのは、民族と地域をもとにした政党から構成される政党連合の国民戦線(BN)とその前身の政党連合にあたる連盟(Alliance)である。連盟およびBNによる統治は2018年総選挙で政党連合の希望連盟(PH)が勝利することで終焉を迎えた。第4首相だったマハティールを再び第7代首相に首班指名して発足したPH政権は国民からの政治や社会の改革への高い期待を背景に発足したが、PH内で指導者間の対立と分裂が深まるなかで、2年も経たずに内紛で崩壊した。その後はPHから離脱したマレーシア統一プリブミ党(Bersatu)がBNの中核政党であった統一マレー人国民組織(UMNO)と連立を組んでムヒディン・ヤシン(Bersatu総裁、前内務大臣)を首相とする政権が結成された。しかし、ムヒディン首相は与党内の内紛により政権を維持できなくなって2021年8月に首相を辞任し、新たにUMNOからイスマイル・サブリ・ヤコブ前副首相兼防衛大臣(UMNO副総裁補)が首相に就任した。UMNOを中核とする連盟/BNによる統治体制が2018年に崩壊して以降、政党システム、政治体制や民主化の行方が流動化し、不安定さを増している。

マレーシアの体制変動と民主化を理解する際には、(Ⅰ)60年以上続いた連盟およびBNによる統治の時代、(Ⅱ)2018年総選挙で起こった選挙を通じたPH政権の成立、そして、(Ⅲ)PH政権崩壊からの流動的状況、の3つの時期を取り扱う必要がある。そこで、マレーシアの「民主化(と政治体制を巡る問題)」を考える際には、以下のように、独立以降の歴史を5つの期間、(1)独立から「5月13日事件」までの期間(1957~1969年)、(2)BN体制の成立期(1970年代)、(3)マハティール政権期(1981年~2003年)、(4)BN体制内改革とその反動の期間(2003年~2018年)、(5) PHによる統治の期間(2018~2020年)、(6) ムヒディン政権(2020年3月~2021年8月)、 (7)イスマイル政権―UMNOの首相ポスト奪還(2021年8月~現在)に区切って見ていくことで理解が容易になる。

(Ⅰ)連盟とBNによる長期与党体制

 (1)  独立から「5月13日事件」までの期間(1957~1969年)-コンソシエーショナル・デモクラシーの時代 

1957年のイギリスからのマラヤ連邦独立を達成した「独立の父」で初代首相トゥンク・アブドゥル・ラーマンが率いたのは、与党連合の連盟である。UMNO、華人政党のマラヤ華人協会(MCA、後にマレーシア華人協会)、インド人政党のマラヤ・インド人会議(MIC、後にマレーシア・インド人会議)の3党の民族政党から構成された連盟は、独立時の憲法に明記されたマレー人と(華人が中心の)非マレー人との間の「取り引き(bargain)」を政治的に担保する仕組みであった。その「取り引き」とは、移民である華人やインド人の市民権を与える代わりに、先住民とされたマレー人に、文化上の優位性(イスラームの国教化やマレー語の国語化など)と憲法153条で規定された社会・経済上の特権(公務員任用、高等教育機会、事業ライセンス付与におけるクォータ枠など)を確保することにあった。

連盟の統治は、UMNO、MCA、MICという各民族集団を代表する与党の幹部の個人的な紐帯と協調関係に支えられていた一方で、歴代の首相、内務大臣、国防大臣、教育大臣など政治・文化系の大臣ポストはUMNOから、財務大臣や商工大臣など経済系の大臣ポストはMCAから輩出され続けたことから分かるように、各民族集団間で領域ごとの権力の分有が行われていた。これは、政治学者のレイプハルトがコンソシエーショナル・デモクラシー(多極共存型民主主義)と呼んだ民主主義の在り方に極めて近いものであった。しかしながら、「独立の父」ラーマン首相に率いられた連盟の統治は、1969年に起こった民族暴動によって終焉を迎えることになる。 

(2) BN結成(1970年代)-BN体制下のUMNOのヘゲモニーの確立 

1969年5月13日に首都クアラルンプールで起こったマレー人と華人との衝突(「5月13日事件」)の責任をとる形で初代首相ラーマンが退任し、第二代首相にラザクが就任すると、政治体制の大きな転換が起こる。ラザク政権は、マレー人が華人を中心とする非マレー人に対して経済的に劣位に置かれていることが5月13日事件の背景にあると見なし、マレー人(と一部の先住民)への経済的支援に積極的に乗り出した。ラザク政権がこの時に20年間の国家政策として打ち出したのが新経済政策(New Economic Policy: NEP)であり、NEPはその後のマレー人優遇政策の柱となった。このNEPを、安定した政治環境の下で達成するために憲法や扇動法の改正が図られ、「センシティブ・イシューズ(sensitive issues)」と呼ばれる、市民権、マレー人の特権、国語としてのマレー語、スルタンの地位などを公的に議論することが禁止され、言論・表現の自由に箍がはめられた。 

マレー人優遇政策を安定した政治環境の下で達成するもう一つの政治的枠組みが、連盟を再編する形で1974年に結成されたBNであった。BNには従来の連盟の所属政党であるUMNO、MCA、MICに加え、ペナンに基盤を持ち、華人を中心とした非マレー人を主な支持層とするグラカン(Gerakan)、インド人の指導者を持ち、ペラで大きな勢力を誇った人民進歩党(PPP)や、UMNOの独立以来のライバルにあった汎マレーシア・イスラーム党(PAS)、サラワクの政党であるサラワク統一ブミプトラ伝統党(PBB)とサラワク統一人民党(SUPP)、サバからは統一サバ国民組織(USNO)といった政党がBN結成に参加し、一挙に巨大与党連合が出現した。 

本稿では、このBNによる統治体制をBN体制と呼びたい。このBN体制による統治は、エ民族と(サバ州とサラワク州に代表される)地域に基づいた多様な政党がBNという傘の下に集結することで、全ての国民の利益が表出され、調整されるという論理に基づいて正当化されることとなった。初期のBNはマレー人優遇政策を実行していくうえでの政治的安定を維持するための装置として作られた一方で、全ての民族や地域の代表を集め、それを調整するための組織としての論理が埋め込まれていたのである。

マレー人優遇政策を実行に移すための制度の構築が進む中、BN内部でUMNOは連盟時代にも増して影響力を拡大し、ヘゲモニーを確立することになる。それを端的に示すのが、大臣ポスト配分の変化である。前述のように、独立以来MCAは伝統的に財務大臣と商工大臣という経済政策の決定の根幹に関わるポストを独占してきた。しかし、ラザク政権以降、財務大臣や商工大臣のポストはUMNOが独占し、MCAは運輸大臣や保健大臣などのポストを得るに留まった。このことは、これまでMCAが大きな影響力を持ってきた経済政策の決定に関しても、UMNOが決定権を握ることになったことを意味する。また、70年代以降、政府は国民文化政策を発表し、言語、教育、文化などの面におけるマレー文化の普及を推し進めたが、この過程においてマレー人の守護者を自他とも認めるUMNOの地位も一層揺るぎないものになっていった。  

(3) 第一次マハティール政権期(1981年~2003年)-首相への権力集中とレフォルマシ運動

1981年に発足したマハティール政権は、2003年まで22年間続いた。民主化の観点から見れば、マハティール政権期とは、全体としては権威主義化が進む中で、行政権力を司る執政、つまり、マハティール首相への権力集中が進んだ時代であった。ただし、そうした中でも、マハティール政権の22年間は前半の80年代と、後半の90年代以降に分けることが可能である。

(3-a) 第一次マハティール政権前半期(80年代) 

1981年に首相に就任した当初のマハティールは、「ルック・イースト政策」や民営化政策など次々と新たな政策を打ち出していったが、その政権基盤は必ずしも盤石なものではなかった。まず、マハティールは50年代から60年代の独立期にUMNOを直接指導した「第一世代」のリーダーではなく、70年代のラザク政権期に頭角を現した「第二世代」の政治家にあたり、またスルタンや貴族層の家系以外からの初めての首相であった。そのため、マハティールは、同じく「第二世代」指導層のライバルであるラザレイ・ハムザやムサ・ヒタムといった政治家を閣内に取り込みつつも、常に彼らを潜在的挑戦者として考慮しながら活動をせざるを得なかった。また、マハティール政権は、国王・スルタンや司法など政府を構成する諸組織との軋轢も経験している。さらに、80年代に入ると、ジャーナリストや弁護士などの専門職団体、環境や人権問題などを扱うNGOなど市民社会アクターの活動が活性化し、BNがほぼ完全にコントロールする議会や行政などの制度的装置の枠組みの外側から要求を突きつけ、政府・与党(関係者)の汚職や権力乱用を厳しく批判するようになった。このように、発足当初のマハティール政権は政府・与党の内外からの圧力に取り囲まれており、マハティール首相は強力な権力を握ってはいるものの、それを掣肘する制度的装置や(新旧の)アクターの活動も活発であった。

しかしながら、マハティール政権は、政府・与党内外の圧力に対応しながら、それを弱めてくことに成功していく。与党内のライバルに対しては、1987年のUMNOの党役員人事選挙での勝利、その後のUMNO分裂過程での反対派の排除を通じて、マハティールの党総裁としての権力が強化された。国王・スルタン制度に対しては、国王の立法権の制限(1983年)、スルタンの免責特権の廃止(1993年)、司法制度に対しては、最高裁判所長官の罷免(1988年)などを通じて介入した。活性化しつつあった市民社会アクターに対しては、印刷機・出版物法の制定(1984年)と改正(1987年)、国家機密法の改正(1986年)や国内治安法による主に野党指導者やNGO関係者の一斉逮捕と日刊紙3紙の一斉停刊(「オペラシ・ララン事件」1987年)などを通じて、その勢いを一時的に削ぐことに成功した。

以上のように、政府での執政としての首相権力の拡大、与党UMNO内での総裁支配の確立、市民社会からの圧力の一時的な後退などを受け、90年代初頭までにマハティール(とその周辺)への権力の集中が著しく進むことになった。 

(3-b) 第一次マハティール政権後半期(90年代以降) 

首相への権力の集中をみた90年代以降のマハティール政権下では、2020年までに先進国入りする目標を掲げた2020年ビジョンの策定、新空港や行政首都プトラジャヤの建設、先端情報通信技術導入を進めるためのマルチメディア・スーパー・コリドー計画など国家主導の大規模プロジェクトやビジョンが次々と打ち出されるとともに、経済的にも好況が持続したため、政権は90年代半ばまで大きく安定した。 

しかし、90年代末になると、マハティール政権は大きく動揺する。1998年にアジア通貨危機から発展した経済危機からの回復策をめぐってアンワル副首相兼財務大臣がマハティール首相と対立し、最終的に政府・与党から追放され、汚職と異常性愛の罪で投獄される。これをきっかけに、BN体制下での汚職、権力乱用や権威主義的な法などを問題として取り上げ、政治と社会の変革を求めるレフォルマシ(改革)運動が広がった。 

レフォルマシ運動は投獄されたアンワルへのマレー人を中心とした自然発生的な同情から始まったが、野党はそうした人々の感情を糾合し、与党BNに対抗していくための組織づくりを進めていった。最終的には、1999年11月に実施された総選挙の前月に、野党4党が合意して野党連合の代替戦線(BA)が結成されることになる。BA結成の意義は、これまでイスラーム主義を信奉し、マレー人に支持基盤を持つPASと、社会民主主義を党の基本理念として非マレー人に支持基盤を持つ、民主行動党(DAP)が、アンワルの妻が代表を務める国民公正党(PKN)などを仲立ちにして、BNに対抗する一つの野党グループを結成したことにある。野党を糾合する試みは80年代末にもあったものの、PASとDAPが同じ旗の下で政党連合を組むことは初めてであった。BAは、1999年総選挙で主にPASの躍進を可能にした原動力の1つであった(3の選挙の箇所の表も参照)。1999年総選挙後のBAは、イスラーム国家を巡る問題でPASとDAPが対立し、BAからのDAPの離脱を引き起こして、事実上その役割を終えていく。ただし、後述する2008年総選挙での新たな野党連合結成の方向性を決定づけたものとして評価することができる。

(4) BN体制内改革とその反動の期間(2003年~2018年)-改革の試みと市民社会の活性化  

レフォルマシ運動を経て1999年総選挙では、マレー人有権者のUMNOに対する反発の高まりの中で、UMNOは議席を大きく減少させた。UMNOの立て直しが急務となったが、その期待を背負ったのは、マハティールの後を継いだ第5代首相のアブドゥラ・バダウィと第6代首相のナジブ・ラザクである。

その権威主義的な政治姿勢への反発も強かったマハティールは22年の在任期間を経て2003年に首相を退任した。マハティールの後に首相に就任したのは、第5代首相となったアブドゥラ・アフマド・バダウィと第6代首相となったナジブ・ラザクである。アブドゥラとナジブが首相だった時代はレフォルマシ運動の影響を受けて始まったBN体制内からの改革の時代であり、それが部分的な成果にとどまる中で改革が挫折していく時代でもあった。

(4-a) アブドゥラ政権期(2003年~2009年) 

20年近く首相の座にあり、一部ではその権威主義的政治スタイルに対する反発も強かったマハティールの後継者の問題は、敬虔なムスリムであると同時に中華文化や西洋文化への理解を示す「新しいマレー人」指導者の代表格として高い人気を誇り、後継者として確実視されていたはずのアンワルが失脚しただけに、BN体制に深刻な動揺を与えた。そこで、マハティールは後継者として、当時、ミスター・クリーンと呼ばれ、そのソフトな人当りや飾らない人柄が評価されていたアブドゥラを指名した。

アブドゥラは、首相就任後、政府・与党の汚職の根絶、警察制度の改革、大規模プロジェクトの廃止、農業の振興など前政権の課題に取り組むとともに、独自の路線を打ち出した。発足当初の新政権の姿勢は国民に改革への期待を抱かせ、翌2004年3月に実施された第11回総選挙ではBNは連邦下院議席の9割以上を獲得し、圧勝した。国民からの圧倒的支持を得て、2004年総選挙後のアブドゥラ政権は、課題となっている政府・与党の制度改革に乗り出そうとしたが、改革が実行に移せないまま、アブドゥラ首相のリーダーシップへの不満が高まっていった。

アブドゥラ政権期は、新聞やテレビに代表される主流メディアについての政府の規制が前政権期よりも緩和されるとともに、インターネットを使ったニュース・サイトやブログなどのオンライン・メディアが国民の間に浸透していった時期でもある。特にオンライン・メディアは、これまで政府や与党が実施してきたメディア統制でカバーしきれない新たな情報源と言論空間を作り出し、野党やNGOの活動にとって以前よりも有利な状況を作り出した。 

さらに、アブドゥラ政権末期から専門の調査会社や大学による世論調査が実施され、メディアがその結果を報道するようになっていく。また、本格化するのは次のナジブ政権からとなるが、首相の演説のライブ放送や、与党政治家も含めた政治家によるツイッターやフェイスブックでの情報提供が行われるなど、情報化が進む中で、政治的コミュニケーションの方法に新たな展開が見られるようになった。

他にも重要な点として、アブドゥラ政権期は半ばを過ぎると、90年代末のレフォルマシ運動以来の大規模な街頭での抗議デモが散見され始めるようになった。以上の点を踏まえれば、アブドゥラ政権期には前政権よりも確実に政治・社会的な自由化が進んだと言える。

以上のような政治・社会的な自由化が政治的コミュニケーションの変化とともに進んでいった一方で、アブドゥラ政権は抑圧的な法の改正や70年代からBNが掲げてきたマレー人優遇政策の転換など具体的な改革の成果を国民の前に提示することには失敗した。改革を実行に移せない政権への国民の不満の高まりと、前政権期よりも相対的に自由な政治・社会が根づいていく中で実施された2008年3月の第12回総選挙では、与党BNは結成以来はじめて、連邦下院議席の3分の2の議席を割り込む歴史的な後退を経験するだけでなく、経済的に最も発展した地域であるマレー半島西海岸部の4州の州政権(スランゴール州、ペラ州、クダ州、ペナン州)を野党に奪われることになった(ただし、ペラの州政権は野党からの離反者が出たために2009年に与党が再び奪回)。 

この2008年総選挙では、PAS、DAP、人民公正党(PKR)の野党3党は、候補者の調整や選挙区での協力体制を進め、総選挙後の4月1日には新たな野党連合の人民連盟(PR)を結成した。2008年総選挙でのPRの大躍進によって、マレーシアはBNとPRという2大政党(連合)が政権をめぐって争う新たな段階に突入した。

(4-b) 第一次ナジブ政権期(2009年~2013年) 

2008年総選挙でのBNの大幅な勢力後退の責任を取る形で、アブドゥラは首相を退任した。そのあとを継いで第6代首相に就任したのは、第2代首相のアブドゥル・ラザクを父に持つナジブである。ナジブ政権は2013年総選挙の前後で政権の方針や性格が異なる。2009年から2013年の第一次ナジブ政権期には部分的な政治的自由化や経済改革が進むこととなったが、2013年総選挙後の第二次ナジブ政権期には政治的自由化や改革が後退する反動の時代を迎えることになる。まずは第一次ナジブ政権期からみていことにしよう

2009年にアブドゥラから政権を引き継いで第6代首相に就任したナジブにとって、2008年の第12回総選挙で失われたBNへの支持を回復させることが至上命題であり、政権運営は常に次の選挙を意識したものとなった。しかし、世論調査会社のムルデカ・センターの調べでは、ナジブ首相の就任時の支持率は45%であり、歴代首相と比べても非常に低い支持率からの政権スタートであった。逆風の中からのスタートとなったナジブ政権は「1つのマレーシア、国民第一、即実行(One Malaysia, People First, Performance Now)」のスローガンの下、前政権が実行できなかった政治・経済改革に取り組んでいくことになる。

ナジブ政権は2010年に、行政改革のプログラムとして政府変革プログラム(GTP)、経済改革の指針としての新経済モデル(NEM)とその手段である経済変革プログラム(ETP)を発表した。GTPでは国家重点達成分野(NKRAs)として、犯罪減少、汚職撲滅、教育の機会と質の向上、低所得者の所得水準引き上げ、村落部の基礎的インフラ改善、都市部の公共交通機関の改善の6分野(後に生活費上昇への対策を含め7分野)で新政策を打ち出した。NEMでは、マレーシアが直面している「中所得国の罠」から抜け出して2020年までの先進国入りを果たすため、「高所得」、「包括性」、「持続性」をキーワードとして市場経済をより重視した政策を採用することを謳った。重要なのは、NEMでは、従来の民族を基準にした貧困者対策から所得を基準にする対策への転換が謳われたことであり、これまで続けられてきたマレー人優遇政策の見直しを図ったのである。

ナジブ政権は上記のような行政・経済改革案を政権主導で次々と提示することにより、ナジブ首相の改革者としてのイメージを国民に浸透させていこうとした。その結果、政権運営が安定してきたことも相まって、首相の支持率も6割を越え、2010年5月には72%を記録した(2014年1月段階で72%はナジブ政権で最も高い支持率である)。 

その一方で、第一期ナジブ政権の政治的民主化については、野党や市民社会が主導し、それを政権が受け入れる場面が目立つようになる。本稿の選挙の項目でもふれるように、選挙制度改革を求める社会運動が2010年から活性化し、2011年と2012年に大規模な街頭デモを行った。特に2011年7月に行われたデモの後、支持率の急落(59%)に直面したナジブ政権は、国内治安法や扇動法など一連の抑圧的な法の廃止や改正を9月15日のマレーシア・デイのテレビ中継のスピーチで約束し、翌年からそれらの法の廃止や改正を実施していった。 

2013年に実施された第13回総選挙でBNは政権を維持したものの、BN体制を揺るがす不安定要素が露呈することになった。第一に、連邦下院の議席数はBNが133議席でPRと89議席となってBNが過半数を維持したが、得票数ではBNが47%でPRが51%となり、PRがBNを逆転した。得票数で逆転されているにもかかわらず、BNが議席数で大きくPRを引き離して政権を維持した原因は、選挙の項目で後述するように小選挙区制と「一票の格差」に求めることができる。

第二に、133議席を獲得したBNだが、その内訳をみれば深刻な問題が既に浮上していた。BNの133議席のうち88議席を占めるUMNOは前回2008年総選挙から議席を9議席増やした。その一方で、マレー半島が基盤の華人政党のMCAは前回よりも8議席を減らして7議席しか獲得できず、同様に主に華人が支持基盤であるマレーシア人民運動(GERAKAN)は1議席しか獲得できなかった。BNのインド人政党であるMICは前回選挙より1議席増やしたものの、4議席の獲得に留まった。BN構成政党のうちサラワク州で活動する華人政党のサラワク統一人民党(SUPP)も前回選挙より5議席を減らして1議席の獲得に留まった。2013年総選挙結果を受けてナジブ首相は「華人ツナミ」が起こったと評したが、BN支持の華人票が総崩れとなったという意味で正しかった。BNに対する非マレー人からの支持の減少は2008年総選挙のときから止まらない継続的なトレンドであり、2013年総選挙ではそのトレンドがいっそう露わになったといえる。BN体制はこれまで全ての民族と地域の代表としての論理に基づいて統治を行ってきた。しかし、2008年と2013年総選挙を経て非マレー人からの支持の大幅な支持の減少が誰の目にも明らかになったことで、これまで体制が対外的に誇ってきた「全てのエスクック集団と地域の代弁者」としてのBN統治の論理の正当性が大きく揺らぐことになった

華人を含めた非マレー人からのBNに対する支持が大きく後退する中で、BN体制を維持するうえでの防護壁となったのは東マレーシアのサバ州とサラワク州である。2013年総選挙でマレー半島の選挙区に限ったBNとPRの連邦下院選挙での戦績は85対80の議席数でほぼ拮抗していた(偶然ながら、2008年総選挙時の結果と全く同じ)。2013年総選挙で最終的なBNの133議席とPRの89議席の差をもたらした大きな部分はサバ州とサラワク州の議席であったともいえる。

(4-c) 第二次ナジブ政権期(2013年~2018年)

2013年総選挙後の第二次ナジブ政権は第一次の政権が行ってきた改革の後退がみられる一方で、国民の増加がみられるようになった。政治的自由化の面では、市民的自由を抑圧する方向で法律の制定や改正が行われた。具体的な制定・改正が行われたのは、扇動法改正、刑法改正、犯罪防止法、テロリズム防止法、国家安全保障審議会法などである。このうち、テロリズム防止法は最長2年間の被疑者の拘禁を認めており、形を変えて国内治安法が復活したともみることができる。さらに、国家安全保障審議会法によって首相を長とする8名の閣僚からなる国家安全審議会の設置が可能となった。首相はこの審議会での決定に沿って国王の認可なしに非常事態宣言を出して事実上無制限に市民的権利を制約することができるようになった。第一次ナジブ政権が抑圧的法律を廃止・改正した時には、市民的自由の根本的な改善については疑問符が付くものの、自由を拡大する方向へ前進はしていた。しかし、2013年総選挙後の第二次ナジブ政権は、抑圧的法律を新たに制定・改正したことで明確に政治的自由化から後退した。さらに、2014年から2015年にかけて、政府は野党政治家、大学教授、弁護士、漫画家など政府に批判的な立場の人々を扇動法によって相次いで逮捕していった。

経済面では、ブミプトラ経済エンパワーメント・プログラムが2013年9月に発表された。その内容は、①人的資本、②株式所有、③(住宅や工業用地などの)非金融資産、④企業家育成とビジネス支援、⑤行政サービスの5分野を特に重視してブミプトラへの支援を行うというものであった。第一期ナジブ政権がワン・マレーシアのスローガンを掲げてNEMを発表し、ブミプトラ政策の緩和を発表したことを考えれば、経済改革が後退したことは否定できない。同時に、選挙前ということで延期されてきた石油や砂糖など生活必需品への補助金の廃止および削減、電気料金や首都圏の高速道路通行料の値上げ、2015年4月からの物品・サービス税の導入といったように家計に負担の増加を強いる政策が総選挙後は次々と発表された。

改革の後退が目立つようになる中で、ナジブ政権、ひいてはBN体制そのものを大きく揺るがす政治スキャンダルが起こる。ワン・マレーシア開発公社(1MDB)にまつわる政治資金スキャンダルである。1MDBは2009年以前にはトレンガヌ州の州営投資会社であったものをナジブ政権が連邦政府の財務省傘下の国営投資会社としたところからスタートしており、電力、土地開発、観光、アグリビジネスなどの分野で外国企業とも協力しながら国内外で大型の投資を行ってきた。しかし、1MDBは巨額の負債を抱えていることが2014年頃から明らかになり、2015年初頭には負債が420億リンギットに拡大した。そうした中で2015年7月にはナジブ首相の個人口座に1MDBが出所であるとされる26億リンギットもの資金が流れたとの報道がなされた。現役の首相が関与したとされる1MDBスキャンダルによってマレーシアの政界には激震が走った。

逮捕され失職する危機に直面したナジブ首相は政治的生き残りをかけて自らに批判的な副首相や大臣を更迭し、1MDB関連の捜査を行っていた法務長官、マレーシア反汚職委員会、インテリジェンス関連の任務を司る警察の特別部隊など独立機関の幹部を次々に左遷や辞任に追い込んだ。さらに、連邦下院の公会計委員会の1MDBスキャンダルの調査も事実上停止させた。メディアについても1MDBスキャンダル関連の調査報道を行った週刊紙『ジ・エッジ』が一時的に停刊されている。UMNO内部からマハティール元首相がナジブ首相の退任を求めて批判の声をあげたが党内でナジブ批判は大きな力とならず、マハティールは離党してUMNOの外からナジブ退任を求める活動を本格化させていった。

2013年総選挙後には1MDBスキャンダルで政府・与党が混乱する中で野党側も各党間の連携が乱れていた。野党連合のPRが構成政党のPASとDAPの対立によって2015年に活動を停止したのである。後継の野党連合としてDAPとPKR、そしてPASから離党したグループが結成した国民信託党(Amanah)の3党によって新たな野党連合の希望連盟(PH)が結成された。しかし、PASはPHとは一線を画する独自路線を模索することになる。野党が政党連合のPHとUMNOとの連携も視野に入れつつ独自色を強めるPASの2大勢力で分裂する中で、PHにはマハティールやナジブに副首相を解任されてUMNOを離党したムヒディン・ヤシンらが結成したマレーシア統一プリブミ党(Bersatu)が合流して4党による政党連合となった。Bersatuの合流後、PHはマハティールを次期首相候補として選挙戦を戦ってマレーシア史上初の政権交代を果たすことになる(2018年総選挙に関しては直近の総選挙の項で説明)。

(Ⅱ)史上初の政権交代とPHによる短期政権

(5) PH政権(2018年5月~2020年2月)

2018年5月9日に実施された総選挙でマレーシア史上初の政権交代が起った。BNは独立から61年間維持していた政権を失い、PHが新たな与党となった。新首相には第4代首相だったマハティールが15年ぶりに再び首相に返り咲いて92歳の年齢で第7代首相となった。新政権は選挙期間中に公表したマニフェストに沿って政策を実施することを約束した。そのマニュフェストの中には物品・サービス税の撤廃や警察や司法の改革、市民的自由を抑圧する法律の廃止、首相の任期制限など様々な改革案が提示されていた。しかし、これらの改革案の多くはPH政権が2年も続かなかったために結果として成果が出ないままになってしまう。

PH政権の崩壊を直接的にもたらしたのは、PH内の内紛である。特に崩壊をもたらした最大の要因はマハティール首相の後継問題だった。2018年総選挙の前にマハティールは1990年代末に対立の末、汚職と異常性愛の罪で政府と自党から追放したかつての仇敵のアンワル元首相と和解をすることになった。1990年代末以降の野党の活動においてアンワルが果たしてきた役割を評価し、野党勢力を糾合するためにアンワルと手を握る必要があったためである。アンワルは2015年2月に確定したソドミーの罪によって服役していたため、総選挙を前にして野党勢力を代表して次期首相候補となったのはマハティールだった。90歳を超える高齢だったマハティールは2018年総選挙前に、仮に政権交代が起こって自らが首相となったとしても2年程度で退任し、その後の首相をアンワルに任せるとの約束を当時の野党指導者たちと交わした。

実際に政権交代が起こり、PHが政権を担当するようになると、マハティールは国王にアンワルへの恩赦を求めた。恩赦によって自由の身となったアンワルは、2018年の補選で下院議員に復帰し、当時PH内で最大与党だったPKRの総裁にも就任してマハティールから首相職の禅譲を準備した。しかし、これまで慣例的に次期首相と目されてきた副首相のポストもPH政権発足以来、アンワルの妻のワン・アジザが務め続けており、アンワルが入閣する気配もなかった。PH内では次第にマハティールはアンワルに政権を禅譲すべきでないという意見が公に出てきたり、そこまでいかなくとも次期総選挙までマハティールがPH政権を率いるべきだとの意見も出てくるようになった。他方でPH内のアンワル支持派の方では政権前の約束通り、アンワルへの首相禅譲を求める声が公に出てくるようになり、PHの結束が揺らぐことになった。アンワルが総裁を務めるPKRでナンバーツーの副総裁のポストに就いていたアズミン・アリもアンワルと対立し、アンワルの次期首相就任に反対の立場に立っており、PHの対立は政権交代後わずか1年で既に誰の目にも明らかになりつつあった。このようなマハティールの後継首相をめぐるPH内の対立に加え、史上初の政権交代の熱気から覚めた国民の間ではPHへの支持が急速に失われていった。ある世論調査によれば、PH政権発足直後にはマハティール首相への支持率が83%でPH政権には79%が支持を与えた。しかし、政権交代から1年も経たない2019年3月には、それぞれ46%と39%にまで低下している1

こうした内紛と国民からの支持急落に苦しむPH政権の終焉は2020年2月23日からの1週間で進行した政変によって決した。2月23日の日曜日にシェラトン・ホテルにて当時の野党だったUMNOやPASなどの代表と、与党からBersatuやPKRの一部の幹部などの密会が行われた。この「シェラトンの策謀」とも呼ばれる会合の結果、政党連合の組み換えと下院議員の政党所属の変更が起こり、PH政権が崩壊して新たにBersatuの総裁だったムヒディン・ヤシンを首相とする政権が2020年3月1日に発足した。Bersatuはシェラトンの策謀以降、議長であるマハティールと総裁であるムヒディンとの対立が深まっていったが、ムヒディンが主導でPHからの離脱を決めて新たな政権を発足させることになった。政変でムヒディンに敗れた形となったマハティールは少数の議員をつれてBersatuから離党してムヒディン政権と対峙する野党議員となった。さらに、PKRではアンワルに対立するアズミン・アリ副総裁が率いる10人の下院議員がPKRを離党し、Bersatuに入党した。

(Ⅲ)PH政権崩壊からの政治の流動化

(6)ムヒディン政権(2020年3月~2021年8月)

2020年2月の「シェラトンの策謀」を経て3月に発足したムヒディン政権を支えたのは、新たに発足した政党連合の国民連盟(PN)とUMNOが主導する政党連合のBN、サラワク州の地方政党連合のサラワク政党連合(GPS)と、サバ州の地方政党であった。このうち、PNを構成したのは、PHから離脱したBersatuと、イスラーム主義政党のPAS、サバの地方政党などであった。PH政権下ではBNを主導するUMNOと、イスラーム主義政党PASとは「国民調和」(Muafakat Nasional)と呼ぶ政党間同盟を結び、ともにPHから政権を奪還するために協力してきた。PNに加入しなかったUMNOに対して、PNに加入しつつ、野党時代に結んだUMNOとの同盟関係も維持するPASは、UMNOとBersatuの間でキャスティングボードを握る立場ともなった。

以上のようなムヒディン政権を支える与党の構成には、マレー人を支持基盤とする与党間で支持者を求めて競合する構造的問題が存在した。半島部マレーシアではUMNOと、もともとはUMNOからの離党者によって結党されたBersatu、そしてムスリムのマレー人を支持者とするPASは選挙では同一選挙区で競合する可能性が非常に高い。実際に、2018年総選挙では同じ選挙区内でこの3党がマレー人票を奪い合って競合する構図がみられた。2020年2月には連邦レベルでの連立の組み換えおよび下院議員の政党移動によって政権交代が起こった。しかし、特にUMNOとBersatuの間では、連邦レベルでムヒディン政権を支える与党だったにもかかわらず、前述の支持基盤の競合から州レベルでの政党組織間での深刻な対立が存在していた。実際にそうした対立によって2020年12月にペラ州では、BersatuとUMNOの州レベルでの対立が表面化し、UMNO所属の州首相がUMNO所属の州首相へと変更になる事件も起こった。ジョホール州や2020年9月に州選挙が実施されたサバ州では、UMNOとBersatuの地方政党組織間での対立が表面化した。

このように与党内での構造的な対立を抱えたままスタートしたムヒディン政権だったが、野党との議席数も接近しており、安定性を常に欠いていた。ムヒディン政権を支持したのは全連邦下院議議員の222の過半数をわずかに超える113議員だけであり、野党となったPHからの引き抜き工作や、予算案を人質に取ったムヒディン政権への事実上の信任決議にも直面している。このように与党内での対立構造と、議席数が接近した野党側からの攻勢を前にしたムヒディン政権が史上最短とはいえ、なぜ17か月間政権を維持できたのか。その答えはムヒディン政権の発足とほぼ同時に深刻化していった新型コロナウイルスの感染拡大(とその対策)にある。とはいえ、コロナの感染拡大はムヒディン政権初期には本来的に不安定な政権が継続した理由である一方で、後述するように、1年が経過するあたりから政権崩壊を急速に促進させる理由ともなった。

2020年3月からコロナ患者が急増したことから、政府は活動制限令(MCO)を発令して国民の移動制限や企業の操業規制を含む事実上の全土でのロックダウン措置を実施した。MCOにともなってマレーシア人の自宅外での活動が厳しく制限されるなかで、2020年5月18日に開催された連邦下院議会は1日だけの開催となり、ムヒディン政権に不信任を突きつけようとした野党側はその機会を得ることができなかった。2020年11月に開催された連邦下院議会での2021年度予算案の審議に際して、野党側は予算案への反対を通じてムヒディン政権の倒閣を目指した。しかし、コロナ感染者が拡大するなかで、国民の間でコロナ対策予算のスムーズな成立を望む声が多く、さらには国王も予算案に賛成するように下院議員に呼びかけたこともあって野党側の予算案の審議を通じた倒閣の試みはうまくいかなかった。

2020年後半からのコロナ感染者の拡大は、ムヒディン首相が国王への助言を通じて憲法150条に基づく非常事態宣言の発令を求めることにつながった。ムヒディン首相はコロナ拡大を理由として最初は2020年10月に非常事態宣言の発令を求めたが、この時は国王が発令を拒否した。しかし、2021年1月にムヒディン首相が再度、国王に非常事態宣言の発令を求めたときには2021年8月1日までの期限で認められた。この憲法に規定された非常事態宣言に基づいて出された6つの非常事態令(emergency ordinance)により、連邦下院議会や州議会は停止され、予定されていた補選も延期となった。ほかにも連邦及び州の政府は当初予算を超えて予算を使用する場合でも議会の承認なしで使用が可能となった。これは政府が議会のチェックアンドバランスなしで事実上の行動のフリーハンドを得たことを意味する。コロナ対策を理由として出された非常事態宣言によりムヒディン政権は連邦下院議会を開くことなく限定された期間ながら非常に強力な権限を手にいれた。非常事態宣言の継続は当初2021年1月から8月までと期間を限定されていたが、ムヒディン政権は一時期、8月を超えても非常事態宣言を延長する可能性を示唆していた。

非常事態宣言の発令によって強力な権限を得て、議会を通じた野党からの圧力に直接的にさらされることがなくなったムヒディン政権だが、2021年6月頃から国民からの支持を失うとともに、UMNOの一部からムヒディン政権への支持を撤回する議員たちが登場して政権崩壊の危機が一気に現実化していく。比較的信頼できるある世論調査結果によると、2020年5月から2021年4月までのムヒディン首相への国民からの支持率はそれほど悪くない。最も支持が高かったのは2020年6月と7月で支持率は74%だった。逆に最も支持率が低かったのは2021年1月の63%である。2021年4月には支持率は67%だった2。本稿を執筆している2021年8月の段階では同じ世論調査機関による2021年4月以降の支持率が判明していないが、5月末から6月にかけてムヒディン政権への国民の支持が急減していったのではないかと予測ができる。支持減少の理由はコロナ感染拡大を食い止めるために6月1日から全土で実施されたロックダウンである。このロックダウンによって国民に半径10キロ圏内を超える不要な移動を禁じたり、特定の企業活動以外を禁じた非常に厳しい規制策が導入されたものの、新規のコロナ感染者数の拡大はとどまることがなかった。コロナ感染者数の継続的拡大の最大の原因はデルタ株が流行したためであるとみられる。マレーシアのコロナの新規感染者数は2021年8月に入って2万人を超え、8月26日には過去最大となる2万4599人を数えていた3。国民の間では政府が2020年3月以降、1年を超える厳しい規制を強いているにもかかわらず、感染拡大を止めることのできないムヒディン政権への不満が噴出し始めた。2021年4月までのムヒディン首相への比較的高い支持率は、政府がコロナ感染拡大を抑え込むことができているとの国民の認識に基づいていたと考えられるため、ムヒディン政権がコロナ対応に「失敗」しているとの認識が国民の間でのムヒディン首相や政権への支持が剥離していく原因となったとみられる。

国民の間でムヒディン政権のコロナ対応への「失敗」の認識が広がると同時に政治エリートの間でもムヒディン首相への批判が高まっていった。2021年7月に入るとムヒディン首相を支えるはずの与党UMNOからはトップである総裁のアフマド・ザヒド・ハミディがムヒディン首相への支持を撤回すると表明した。この時、UMNOは倒閣を目指すザヒド総裁と、UMNO副総裁補(内閣では副首相)で政権継続を求めるイスマイル・サブリ・ヤコブとの間でムヒディン政権の支持をめぐって分裂していた。ザヒドらUMNOの一部議員の間でのムヒディン首相への支持撤回が起こった背景には、前述のUMNOとBersatuの支持層が重なり合う構造的な問題に加えて、国王や各州の元首にあたるスルタンやラジャなどの統治者がムヒディン首相に非常事態宣言の延長はせず、停止されている議会を一刻も早く再開させるよう公式に求めたことがある。こうした国王や統治者からの公式の圧力もUMNO内でムヒディン首相への支持撤回が表面化するきっかけとなった。結局、連邦下院議会は7月26日に再開されたが、非常事態宣言下で発令されていた非常事態令の撤廃をめぐっても国王とムヒディン内閣の間でいざこざが持ち上がり、ザヒドUMNO総裁に同調してムヒディン政権への支持を公に撤回する連邦下院議員が増えた。与党であるはずのUMNOから10人以上の離反者が出たことで連邦下院議会での過半数の議員数を確保できないと悟ったムヒディン首相は国王に辞任を申し出た。

(7)イスマイル政権―UMNOの首相ポスト奪還(2021年8月~現在) 

与野党の勢力が伯仲するなかでのムヒディンの首相辞任によって首相選出は困難が予想されたもののムヒディン政権下で与党を形成したUMNO、Bersatu、PASなどの政党は従来の与党の枠組みを崩さず、副首相でUMNO副総裁補のイスマイル・サブリ・ヤコブを首相に選出することとした。イスマイル首相の選出で3年ぶりにUMNOが首相職を取り戻した。首相に選出されたイスマイルは組閣を実施したが、ムヒディン政権の大臣や副大臣の大半を留任させて前政権との継続性を確保した。イスマイル政権はコロナ対策を中心に野党にも協力を求める姿勢を示している。

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2021年8月31日

パキスタン/最近の政治変化

2018年3月に上院の半数改選が行われ、続いて5月末をもって下院が任期を終え、7月に総選挙が実施された。いずれの選挙においても、PTI(パキスタン正義運動党)が予想を上回る躍進を果たして第1党となり、イムラン・ハーン首相が誕生した。州議会においても、ハイバル・パフトゥンハー(KP)州とパンジャーブ州でPTIが与党となった。

また、9月に大統領が任期を終え、上下両院と州議会議員による大統領選挙が行われた。PTIのアリフ・アルヴィ、MMAのファズルル・ラフマーン、PPPのエーティザズ・アハサンの3人が立候補し、アリフ・アルヴィが53%の票を獲得して当選し、9日に宣誓式を行なって第13代大統領に就任した。

上院の半数改選は、52議席について州議会と下院の議員による投票が、3月3日に実施された。単独政党としては30議席を有するPML-Nが最多であるが、PTIが他の4政党すなわちバロチスタン人民党(BAP)、統一民族運動(MQM)、バロチスタン民族党(BNP)、民主大連合(GDA)と無所属議員とともに連立を組み、40議席で与党を構成することとなった。MQMやGDAはともにスィンドでPPPの地盤に挑戦する政党でありバロチスタンのBAPやBNPとともに、パンジャーブとスィンドを地盤とする大政党を下野させたことになる。

一方、下院は2018年5月31日をもって任期を満了し、6月1日に発足した選挙管理内閣の下、下院および州議会の選挙が7月25日に実施された。8月15日下院が召集され、下院議長にPTIのアサド・カイセルが選出された。つづいて17日には首相選挙が行われ、イムラン・ハーンがPML-Nのシャハバーズ・シャリーフを破って首相に選出された。PTIの連立政権は177議席となった(過半数は172)。

今回の選挙は、大政党のPML-NとPPPに新興のPTIを加えた3党を軸に、宗教勢力と地方政党をまじえて争う構図となった。PPPはベーナジール・ブットー暗殺(2007年)以後、夫のザルダリと長男ビラーワルが共同総裁を務め、2008年選挙では政権を担ったが、前回選挙(2013年)ではPML-Nに与党の座を譲り、全国的な指導力の低下が続いている。一方のPML-Nも、ナワーズ・シャリーフ党首が一族の不正蓄財疑惑などで責任を問われ、2018年2月から4月に、最高裁がナワーズ・シャリーフには党首の資格がなくさらに終身にわたって議員資格なしとの判決を下した上、禁固刑判決を受けたことによって事実上政治への復帰は難しくなった。

そのような中で第3の政党としてPTIが存在感を増していった。PTIはクリケットのナショナル・チーム主将であったイムラン・ハーンが1996年に結成した政党で、2002年にイムラン・ハーン自身が初当選し、前回2013年の選挙で初めて第3党となった。「現在の政治体制・制度」で述べたとおり、政治への軍の影響力は大きい。PTI政権が成立しえたのは軍が彼を容認したからだというのが大方の観測である。すなわちPPPとPML-Nに代わって軍の意向を代弁する民主勢力としてPTIが選ばれたのであろうという見方を否定することは難しい。なぜならイムラン・ハーン自身には政策的にも議会活動の面でも、ほとんど実績がなかったからである。

今般のcovid-19の感染爆発への対応でも、イムラン・ハーンが打ち出した地域を限定したロックダウンよりも、軍が主導した全面的なロックダウンをはじめとする対策が実効性を持ち、結局は軍主導の対策となった。

とはいえ、1971年の民主化以来PPPとPML-N以外の政党が与党となるのも、地主でも資本家でもない人物が首相の座に就くのも初めてのことである。「新しいパキスタン」という呼びかけ、あるいは汚職撲滅や教育、保険制度を重視する政策など、大規模なインフラ事業が多かったシャリーフ政権との対比もあって、彼が掲げる清新な公約への期待は大きい。イムラン・ハーンのような新しい政治家や政党の登場が、パキスタンの実質的な民主化へ向かう変化につながるかどうか、注目される。

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2021年8月30日

アラブ首長国連邦/最近の政治変化

UAE建国の父であるザーイド・ビン・スルターン・アール・ナヒヤーン大統領が2004年11月に死去すると、息子のハリーファ・ビン・ザーイド・アール・ナヒヤーン・アブダビ皇太子が首長に就任し、連邦最高評議会で大統領に選出された。また2006年にはムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥームが連邦副大統領兼首相に就任した。ハリーファ期には政治改革が漸進的に進められ、2006年にはFNC選挙が初めて実施された。またムハンマド・ビン・ラーシド首相の下で行政改革や政府の効率化が進められた。不定期に新内閣の立ち上げおよび内閣改造が行われており、首長国政府や政府系企業で頭角を現してきた人材がテクノクラートとして登用されるようになっている。2016年と2020年に省庁再編・政府機構改革が実施され、それに伴い新内閣の立ち上げも行われた。寛容・共生相や幸福担当国務相、青少年担当国務相など、国内の政治的・社会的課題に対応するためのポストも新設されている。

2010年末から翌年にかけて、中東で「アラブの春」が起こると、UAEでも政治改革を求める人々が声を上げた。2011年3月、UAE国内のリベラル派とイスラーム主義者から成る政治改革派が大統領および首長らに対して、包括的な政治改革を求める建白書を提出したのである。しかしながら、改革を求める声は体制に受け入れられず、建白書の取りまとめやインターネット上で政治活動を行っていた5人が逮捕された。当局による改革派への取り締まりは翌年以降も続き、ムスリム同胞団系組織「イスラーハ」のメンバーやその家族など200人以上が逮捕された。国民の多くは政治的関心が低く、また当局による厳しい言論監視も続いたため、改革派に対する支持は広がらなかった。

2014年頃から、国内政治にも新たな変化が見られた。同年、ハリーファ・ビン・ザーイド大統領が脳卒中で倒れ、政治の表舞台には顔を見せなくなった。その後、アブダビ皇太子であるムハンマド・ビン・ザーイド・アール・ナヒヤーンが、アブダビ首長国だけでなく連邦政府においても政治的影響力を行使するようになった。現在、ムハンマド・ビン・ザーイド・アブダビ皇太子がUAEの事実上の指導者であると見なされている。内政面では、ムハンマド・ビン・ラーシド首相は内閣改造の人事案についてムハンマド・ビン・ザーイド・アブダビ皇太子と相談するようになった。また両者は定期的に会談し、国家運営について意見交換を行っている。

ムハンマド・ビン・ザーイド・アブダビ皇太子の影響力は、外交・安全保障分野においても拡大している。UAEは近年、国際社会において外交的・経済的な存在感を強めており、ある種の大国意識を持つようになった。UAEの外交・安全保障戦略も、従来の国際協調路線から、次第に自国の戦略的利益を優先する拡張主義的なものへと変化している。その結果、UAEと域内諸国との対立も生じている。また、ムハンマド・ビン・ザーイド・アブダビ皇太子の「反イラン」「反イスラーム主義」という脅威認識も、安全保障戦略に色濃く反映されている。UAEは同盟国のサウジアラビアとともに、対イラン封じ込めやイエメン内戦への介入、対カタル断交などで連携した。また2020年のイスラエルとの国交正常化についても、ムハンマド・ビン・ザーイド・アブダビ皇太子のイニシアチブによって実現したと言えるだろう。

参考文献

  • 堀拔功二 2011. 「アラブ首長国連邦」松本弘(編)『中東・イスラーム諸国民主化ハンドブック』明石書店, pp. 338-353.
  • 堀拔功二 2012. 「UAEにおける政治改革運動と体制の危機認識――2011年の建白書事件を事例に――」アジア経済研究所機動研究報告『アラブの春とアラビア半島の将来』, pp. 1-14.
  • 堀拔功二 2016. 「ポスト・ハリーファ期を見据えるアブダビ政治の動向――ムハンマド皇太子の研究――」『中東動向分析』15(4): 1-16.
  • 堀拔功二 2018. 「MbZの外交:カタル危機をめぐるUAEの対米アプローチを事例に」『中東動向分析』16(11): 1-15. 
  • 堀拔功二 2020. 「アラブ首長国連邦」日本エネルギー経済研究所中東研究センター(編)『JIME中東基礎講座2020年版』, pp. 44-50. 
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2021年8月30日

バハレーン/最近の政治変化

2011年2月から3月にかけての大規模抗議デモが鎮圧された後、ハマド国王の意向を受けてサルマーン皇太子が国民対話を主導し、改革と国内対立の緩和に努めたが、王族内ではハワーリドと称されるハーリド・ビン・アフマドKhalid bin Ahmad Al Khalifa王宮府顧問とハリーファ・ビン・アフマドKhalifa bin Ahmad Al Khalifa国防軍総司令官の兄弟に代表される強硬派が優勢で、野党解散と代表の逮捕収監、メンバーや支持者の国籍剥奪による国外追放、一部街区の封鎖といった抑圧的な対応が続いている。強硬派には、野党がイランの影響下にあるとの認識が強く、改革の要求も宗派主義とイランの脅威に対応するという安全保障の脅威として捉えられており、弾圧の継続が正当化されている。国内情勢はおおむね安定化しているが、強硬派が優勢な政府の対応は国内対立の緩和を難しくしている。

2011年の大規模抗議デモ

チュニジアとエジプトの革命に影響されて、バハレーンでも、国民行動憲章が国民投票で承認された10周年にあたる2月14日に政府へ抗議と改革を要求する「怒りの日」デモの予告と参加の呼びかけがなされた。ハマド国王は各世帯に1千ディーナール(約22万円)の支給を発表し、不満の抑え込みをはかったが、2月14日にマナーマ市内やシトラ地区で、シーア派住民を中心に数百人から数千人規模の抗議デモが行われた。これに対し、治安部隊が催涙弾やゴム弾で鎮圧にあたり、2名が死亡した。翌15日には、マナーマ市街のサルマーニーヤ病院に死亡者の追悼に集まった千人規模の群衆に対して治安部隊が介入して実力行使により解散させようとして更に死者が生じたことから、抗議行動が拡大し、カイロのタハリール広場に倣って、マナーマ西部の真珠広場に集まり、座り込みを開始した。国王はテレビ演説で犠牲者への哀悼を表明し、ネット・メディアの規制緩和と、真相を調査する特別委員会の設置を表明した。一方、議会の比較第一党でシーア派が支持基盤であるイスラーム国民協約協会Jamaiat al-Wifaq al-Watani al-Isalmi(以下、ウィファーク)は議会審議のボイコットを宣言した。

2月16日早朝、治安部隊は真珠広場を占拠していたデモ隊を強制排除し、更に強制排除に抗議したデモ隊に発砲した。更に実弾を使用していたことが判明したことから、シーア派住民を中心に、デモ参加者の政府に対する怒りが高まり、ウィファークは議員の辞職を表明し、2002年の第1回下院選挙をボイコットした国民民主行動協会Jamaiat al-Amal al-Watani al-Dimuqrati(以下、ワアド)やイスラーム行動協会Jamaiat al-Amal al-Islami(以下、アマル)など野党系6団体から成る合同政治委員会において、政府に対し、内務省の責任追及、ハリーファ首相(当時)の退陣と議院内閣制の実現、選挙制度改革、政治的帰化の中止、政治犯の釈放等を要求した。

政府側は、サルマーン皇太子が事態の対処にあたり、真珠広場からの軍・治安部隊の撤収や政治犯の釈放を決定した。しかしながら、ハリーファ首相の退陣要求に対しては、4閣僚の交代・横滑りでの対処に留まった。野党側はウィファークやワアドの指導者たちが、真珠広場で国民の連帯を呼びかける一方で、政府側の対応が不十分であるとして、要求が受け入れられるまで対話には応じない姿勢を示した。さらに、2月26日に、自由と民主主義のための権利運動Harakat Haqq Harakat al-Hurriyat wa al-Dimuqratiyah (以下、ハック)の代表であったハサン・ムシャイマHasan Mushaymaが恩赦により国外追放状態から帰国すると、王政打倒を主張する声が勢いづき、政府と野党および抗議デモ参加者との間で妥協点を見出すことが難しくなった。サルマーン皇太子の呼びかけに対し、野党指導者や抗議デモ参加者が応じる姿勢を見せない状態に対し、ハマド国王は治安維持のため湾岸協力会議(GCC)の合同部隊である「半島の盾」の介入を要請したうえで、3月14日に真珠広場のデモ参加者を強制排除して抗議デモを鎮圧した。

国民対話と野党の弾圧

デモ鎮圧後、ハマド国王の意向を受け、サルマーン皇太子が主導して改革と国内融和のための国民対話が7月2日から開催された。平行して、デモ参加者に対する政府の暴力・武力行使に関して真相究明のための独立調査委員会による調査も進められた。国民対話は国内各界代表300人を招いて開催され、まとめられた選挙制度や議会の権限強化についての答申が憲法修正に反映された。また、独立調査委員会は抗議デモの発生と大規模化、政府の治安行動への抵抗についてイランの関与はなかったことを公式に認めた。多数派を占めるシーア派を支持基盤とする野党側は国民対話において25名の枠しか認められず、国民の声が反映されない状況や対話への参加を安易な妥協とみなす支持層、とくに若年層からの批判が大きいこともあり、国民対話から離脱した後、抗議デモ時に結成した合同委員会の要求内容を改めて改革を要求する「マナーマ文書」を野党5団体連名で10月12日に発表した。

政府内では野党に対しやや穏健的な態度を取っていたサルマーン皇太子よりも、国内のシーア派政治団体がイランの影響下にあり、抗議デモの発生と拡大にイランの働きかけを疑い、国内のシーア派およびシーア派を主な支持基盤とする野党を安全保障上の脅威とみなす強硬派が優勢となり、民衆の扇動や現体制の否定、国家への侮辱といった罪状で野党指導者の逮捕や国籍剥奪による追放、野党の解散命令といった弾圧が続いている。

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2021年8月30日

イラン/最近の政治変化

1979年の革命から現在まで続くイランのイスラーム共和制下では、国家元首である最高指導者をはじめとするイスラーム法学者が軍や司法府など国家の治安機構全てを掌握している。すなわち、国家に対する抗議行動には容赦のない弾圧が待ち受けている。それにもかかわらず、イランではこれまで幾度も大規模な抗議運動が発生してきた。

革命後最大規模の抗議運動と言われているのが、2009年6月第10期大統領選挙後の不正選挙を訴えるデモである。アフマディーネジャードの再選が報じられた後、落選候補であるムーサビー(元首相)、キャッロビー(元国会議長)の選挙陣営が結果を認めず、彼らの支持者数千人が首都テヘランや主要都市においてデモに参加した。だが、デモの要求(選挙のやり直し)は認められず、体制による弾圧で幕を閉じた。デモを扇動した罪でムーサビー、キャッロビーは逮捕され、自宅軟禁に置かれ政界から遠ざけられた。さらに彼らを支持する主要政治家も逮捕の対象となり、次回以降の選挙で立候補資格を剥奪されるケースが相次いだ。

2019年11月〜2020年1月:3つの路上抗議運動

直近の抗議運動としては、2019年11月に発生したガソリン値上げに対するデモが挙げられる。これは2009年とは対照的に、指導者が不在で、動員力に欠けるものの、銀行の焼き討ちなど暴力的な方法で抗議がなされた。治安部隊との衝突も激しく、国際人権団体アムネスティの発表によると抗議運動初期の11月15日~18日だけで死者数300、負傷者数千人に上るとされる。デモ発生を受けて体制は、デモ拡大を抑制するために、11月16日から1週間~10日にわたりイラン全国のインターネット接続を遮断した。

これらの抗議運動は、大多数の国民が現体制に不満を抱いていることを象徴するものである。一方で、体制側も国民が体制を支持していることを国内外に示すために、大衆動員を行ってきた。大衆動員のために体制が使うスローガンは主に「反米」、「反イスラエル」である。すなわち、イスラーム共和制を批判する米国やイスラエルによる体制転覆という「陰謀」を阻止するために、国民が体制を支持していることを示す必要があるというわけである。例えば、毎年革命記念日(2月11日)や在テヘラン米国大使館人質事件(11月4日)などで反米デモが扇動されてきた。さらに選挙も体制への信任投票と位置づけられ、最高指導者をはじめとする体制指導部は、選挙参加を強く呼びかけてきた。また2020年1月イラン革命防衛隊ゴッツ部隊の司令官であったガーセム・ソレイマーニーが米国によりイラクで殺害される事件が発生した後、テヘラン、コム、ケルマーンで国葬が行われ、革命記念日以上の国民が参加したとされる。このように官製の(ただしソレイマーニーの国葬は自発的参加者も多い)大衆動員に参加する国民が実際に体制を支持しているかは定かではないが、少なくともイランの体制指導部は体制が多くの国民に支持されていることを装うことに重要な意義を見出している、と言える。

第13期大統領選挙の展望

イランの2021年大統領選挙は何を含意するのか。このテーマを扱う講演会が日本国内外でいくつか開催されてきた。ここでは資料が公開されている二つの講演会の要点を紹介したい。いずれも3人のイラン専門家が登壇した。

The Woodrow Wilson Center とthe U.S. Institute of Peace が主催した講演会では、事前の立候補資格審査におけるアリー・ラーリージャーニー元国会議長の監督者評議会による失格に着目し、それが体制内エリートの分裂を象徴し、ハーメネイー最高指導者の支持層を狭める狙いがあるとの見解が示された。またライースィーの当選はハーメネイーが最高指導者に就任して以降、初めて最高指導者の任命ポスト経験者が政権を掌握した出来事であるとも指摘された。それによって、体制内エリート間においてある程度の対立が存在するとしても、最高指導者の狭い支持層の結束力は強化されたと論じられた。

また講演会ではライースィー政権の外交政策の見通しについても議論された。欧州諸国などとの核交渉、サウジアラビアとの周辺国でのいわゆる代理戦争に対するイランの態度は、保守穏健派のロウハーニーから保守強硬派のライースィーに政権が変わったからといって大きく変化する可能性は低いという意見がほとんどの専門家から提示された。なぜなら核交渉や域内諸国との安全保障問題は体制の安全保障(レジームセキュリティ)に直結する問題であり、そうした政策の意思決定は大統領ではなく(革命防衛隊などの軍権を握る)最高指導者が主導するからである。加えて米国の研究機関のイラン専門家からは、ライースィーのこれまでの司法府機関における政治犯処罰の経歴が人権侵害と見なされていることから、それが人権を重視するバイデン政権の対イラン政策に影響を及ぼすのではないかとの意見も述べられた。

Italian Institute for International Political Studies (ISPI)が主催した講演会では、過去最低の投票率、有権者の投票参加の意味について議論された。ライースィーに投票した有権者は、彼の個人的な支持層ではなく、体制の支持層である可能性が高い。そのためライースィーが大統領として経済政策などで何らかの成果を達成しない限り、ライースィーに票を投じた有権者との距離を縮めることは難しいとの見方が示された。一方、新型ウイルス感染拡大やそれに伴う経済不況にもかかわらず、選挙に参加し、かつ最高指導者の意中の候補ライースィーが最多票を獲得したことは、少なくとも強固に体制を支持するイラン国民が全有権者の4分の1以上は存在することを示唆さるという指摘もなされた。

また、半数以上のイラン国民が選挙ボイコットをしたことについて、これは必ずしも(改革派支持層の)イラン国民が政治そのものへの関心を失ったわけではない、という指摘もなされた。選挙参加と政治参加の関心は全く別ものだとされる。つまり、イランの有権者は選挙制度を通した改革を諦めただけであって、政治や社会の改革要求そのものを完全に失ったわけではないとされた。しかしながら、イランの有権者の大部分を占める中産階級の人々は暴力的な方法での改革は望んでおらず、今後すぐに革命のような社会運動が生じる可能性はないと指摘された。加えて、これまで体制内エリート(保守派)が労働者による経済不況に対する抗議活動ですら(参加者の意図とは異なる)体制の安全保障を脅かす抗議活動と結びつけてきたことが、経済状況のさらなる悪化が予想される今後のイランにおいて自ら首を絞める事態を招く可能性があるとの見解も示された。

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2021年8月26日

モロッコ/最近の政治変化

(1) ムハンマド五世:調停役としての国王

1956年独立を達成したモロッコ最初の国王は、ムハンマド五位であった。彼はアラウィ一朝第15代君主として1927年11月18日に即位したが、政治の実権を回復したのは、モロッコ独立後である。

彼は王制の「調停役」としての役割を強調した国王であった。保護領政府統治下のモロッコで、独立運動にとってムハンマド五世の王位回復は「独立の象徴」であった。保護領政府に対する抵抗スローガン”Thawra al-Malik wa as-Sha’b(王と国民の革命)にみられるように亡命中の王が王位に復帰することが、モロッコの独立を意味した。

「調停者」としての国王を支えたのは、独立後に創設された軍と警察の、国王に対する絶対的忠誠であり、さらに省庁と軍の大臣・長官や高級官僚の人事権を首相ではなく、国王が一手に握ったことで、国王の権力はさらに強化された。

省庁のうちで、国王権力の強化に最も直接的に関与したのは内務省である。1956年3月20日発令の勅令で、「カーイド及び知事の任命、昇進、辞職、降格、懲戒、転勤はすべて勅令によって発令されることとする」と定め、内務省の官僚および内務省管轄の役人の人事は国王がおこなった。

さらにその内務省の活動を支えたのは、軍である。軍の活動は、内務省と連動して行われ、内務省の地方役人は、その地に駐屯する軍の分団を治安維持のために発動させることができた。軍の果たすべき役割は、防衛や治安維持だけにとどまらず、中央官僚や地方役人として行政に参加することも含まれていた。軍の編成実務の責任者は皇太子、そして国王が軍人事に関する最終的裁量権を持っている。

王制にとって潜在的な脅威であるイスラーム運動を監視することも重要な内務省の職務である。この監視は、内務省が宗教省や「公的なイスラーム」を代表するウラマー協会と協力しておこなった。

立憲君主制の準備段階として、モロッコ国家諮問会議(Le Conseil national consultatif marocain)が1956年8月3日の勅令によって設立されたが、この会議は三年間しか続かなかった。

なお、ムハンマド五世は宗教的な権威を示す「アミール・アル・ムーミニーン(信徒の指揮者)」の称号を、独立後も、破棄することはなかった。独立の可視的な象徴となったことで、彼は世俗と聖の両方を、つまり保護領統治以前から有していた「アミール・アル・ムーミニーン」と独立後の近代的な意味での国家の長という二つの機能を体現することとなった。後述するように、この聖俗両面での権威を、国王があわせもつ状況は、現在に至るまで続いており、イスラーム運動への対抗手段としても重要な役割を果たしている。

(2) ハサン二世:憲法改正と権力の分配

モロッコの政治的場を構成する諸集団の間の「調停役」としての役割を推進することで、聖・俗両方の最高権威者としての国王権力の強大化を進めたムハンマド五世の後を継いだハサン二世(1961-1999年)は、憲法改正という法的手段を利用した、権力の巧みな分配によって、国王権力の強化をはかった。

独立後のモロッコ最初の憲法は1962年に制定された。1962年のアブドゥッラー・イブラヒーム内閣解散後に誕生したこの憲法では、「権力分立」とはほど遠く、国王の手にあらゆる権力が集中していた。憲法の条文をみると、モロッコは民主社会的王制(第1条)であり、憲法にかなった方法で設立された機関を通して行使される主権を有するのは国民である(第2条)と明記されている。しかし、閣僚の人事権を有するのは国王(第24条)であった。

国王は「アミール・アル・ムーミニーン」、国民の最高代表者、国家統合の象徴、国家の存在と継続の守護者であった。また信仰の擁護者であり、憲法尊重の守護者でもあった。国王は市民・共同体・組織の権利と自由を守る責任を有し、国家独立を守り、国土防衛の保障者(第19条)でもあった。しかし、緊急事態の際、介入する権利が国王に保障されていた(第35条)。どのような状況が「非常事態」であるのか、いつまでが「非常事態」なのかを判断するのは国王であり、「憲法体制を正常に再び機能させるために(第35条)」国王は、事実上無期限に無制限の権力を発動することが可能であった。実際1965年、ハサン二世は、「このまま空虚な議論を続けさせれば、モロッコの民主主義、倫理的価値観、創造への意志が失われてしまう」ことを理由に、議会を停止している。

1962年憲法では、議会は二院制と定められた(第36条)。下院議員は普通選挙で、上院議員は農商工会議所や労働組合が選出した(第44、45条)。新法が国王によって発布される前には、議会の承認か国民投票による承認が必要とされ(第26、62、73、75条)、立法権は、憲法上は議会に属していたのだが、実際は国王が「助言」することが度々であった。この憲法の文言では、国王の手に行政権を委ね、国王の立法権は制限されていた。しかし、立法権に関しても「助言」という形で、国王が大きな影響力を有していたのである。

1970年の憲法改正によって、国王権力はさらに強化された。首相の行政権の行使は、例外的な場合に制限され、しかも国王のイニシアティブによるものとされた(第29条および第62条)。この改正で、国王の行政権が強化された。また二院制が一院制に改められた(第36条)。議員の任期は6年で、直接選挙によるものと、商工会議所や職能組合を通した間接選挙によるものという二種類の選出方法が定められたが、直接・間接選挙による選出の具体的な

割合は、憲法では定められていない(第43条)。この憲法改正の直後に議会選挙が実施されたが、再度憲法改正を実施することを理由に、1971年末には1970年に開始した会期の議会が停止されている。

1972年、二度目の憲法改正が行われた。この改正では「1962年憲法と1970年憲法に定められた中間的なところ」に議会を位置づけた。一院制のままであったが、3分の1の議員を直接選挙で、3分の2の議員を間接選挙で選出することを憲法に明記し(第43条、なおこの条文は1980年5月30日の国民投票で、3分の2を直接選挙で、3分の1を間接選挙での選出に変更)、二院制放棄を補完するものとした。行政権は国王と政府に与えられていたが、国王は立法案や政府計画について「新しい解釈」を要求することが可能であり(第66条)、この国王の要求を政府が拒否することは認められていなかった(第67条)。

首相を含む閣僚全員の人事権を国王が握っていることからも、議会が国王にコントロールされる機関であったことは明白である。さらに内閣不信任案の提出に必要な議員数は、1962年憲法では総議員の10分の1であったのが1972年憲法では4分の1に引き上げられた(第75条)。この改正で、政党が政府の政策に対して不信任案を提出することはほぼ不可能となった。

また1971年ラバト郊外のスヒラートの王宮で発生したクーデター、そして1972年に発生したウフキール将軍が首謀者とされるクーデターは、いずれも未遂に終わったものの、70年、72年の憲法改正への不信を象徴する事件であった。

1972年のクーデター未遂について、ウフキール将軍はハサン二世の乗る飛行機を襲撃した首謀者とされ、後に「自殺」したとされる。「反乱を企てた、あるいは反乱を起こす可能性のある」者の最期の近似例としては、1980年代サハラ問題で功績を挙げたアフマド・ドゥリーミー将軍が卓越した人気を得るようになった後、不可解な自動車事故で亡くなった事件がある。ドゥリーミー将軍の事件以後、軍の司令官級の人物は、国王のライバルとなる程に個人的に賞賛をうけることは事実上タブーとなった。

1970年代のモロッコは、二度のクーデター未遂を経験し、隣国アルジェリアとの関係も西サハラ問題をめぐって緊迫化した。また、大衆諸勢力全国連合(UNFP:Union nationale des forces populaires)内部の対立が1972年頃から表面化し、1975年にはUNFP から分裂した大衆諸勢力社会主義連合(USFP:Union socialistes des forces populaires)が党を結成したが、同年USFPの指導者の一人で、モロッコ全国学生連合(UNEM : l’Union nationale des étudiants du Maroc)、モロッコ労働組合(UMT: l’Union marocaine du travail)の指導的立場にもあったオマル・ベンジャルーンが暗殺されるなど、国内外の政治・社会状況は不安定なものとなった。

このような状況の中で、72年の憲法改正後の1972年4月30日に予定されていた議会選挙は延期され、結局実施されたのは1977年6月3日で、1971年末に停止された議会は、1977年10月に再開されるまで空白の期間が続いた。

前述したように、省庁のなかでも内務省は王制の番人とでもいうべき存在であったが、特にその役割が強調されるようになったのは、1979年イドリース・バスリーが内務大臣に就任してからである。首相は頻繁に交代し、様々な政党の出身者が就任したのに対して、バスリーは、1999年に現国王ムハンマド六世によって解任されるまで20年間にわたって内相の職にあり、西サハラ問題など、必ずしも内務省の管轄ではない重要な政策決定にも関わった。

1992年の改正では、国王が任命した首相による他の閣僚人事の提案を受けて、国王が任命するよう変更され(第24条)、1993年の内閣組閣に際してラムラーニー新首相に国王が実際に閣僚リストの提出を求めた。ただこの内閣の閣僚には国会議員はまったく含まれておらず、主権者であるはずの国民の意思が「憲法で定められた諸機関(第2条)」の代表的機関である国会を通じて政策に反映されるような状況とは程遠かった。

また「非常事態においても国会は解散されない」と明記された(第35条)。しかし、この憲法改正により新たに設置された憲法評議会の議長、首相、国会議長に諮ったのち、非常事態を宣言し、あらゆる必要な措置を国王自身がとる権限は何ら制限されていない。

1996年、一院制を二院制に変更するための憲法改正が国民投票で承認された。

1997年11月の選挙に続いて、大衆諸勢力社会主義連合(USFP:Union socialistes des forces populaires)党首アブドゥルラフマーン・アルユースフィーの首相任命は、左翼に権力を分配することで、近い将来の皇太子(現国王ムハンマド六世)の王位継承を円滑にする布石の一つであったとも考えられよう。 

以上、これまで四度に渡った憲法改正のうち最初の二度の改正によって、行政・立法両方の権限を国王に集中させたうえで、後の二度の改正で憲法評議会の設置や非常事態での国会維持という「譲歩」、二院制の復活をおこない、そして長年国王と敵対関係にあった左翼政党党首を首相に任命して、国王権力の維持に「有益な」形で権力分配をおこなったといえよう。

(3) ムハンマド六世:経済的発展と「民主化」

1999年7月23日に、ハサン二世の死去により、皇太子がムハンマド六世として36歳で即位した。軍のコーディネーターであった皇太子時代、大衆は概ね彼に親しみやすい印象を抱いていた。

ムハンマド六世が強調しようとした国王像は「リベラルな改革者」である。スピーチで、「立憲君主制を堅持し、複数政党制、自由経済、地方分権化、法の支配、人権尊重、個人の自由を推進する」と明言した。また「父ハサン二世のすすめてきた教育改革計画と連動させて雇用問題の改善に尽くす」ど、モロッコで最も深刻な社会問題の一つである失業問題にも言及した。このスピーチは、ハサン二世即位時のものに比較するとはるかに具体性があった。ハサン二世のスピーチでは、イスラームの擁護と領土保全についての国王の決意が述べられた後、国民の義務についてのみ言及されている。当時の諸社会問題の解決などはまったく触れられることはなかった。

政治面では、バスリーに代わってアブマド・ミダーウィーが内務大臣に任命された。バスリーの内相退任を世論は非常に歓迎した。実際、前述したようにバスリーは1979年から20年間内相を務め、モロッコの「治安維持」に大きな影響力をふるった人物であり、この退任はモロッコの政治展開を民主化の方向にひきよせる契機となった。

モロッコ王制を今後揺るがしかねないほどの国民の不満を生む可能性が最も高い問題は、ムハンマド六位があえてスピーチでも言及した失業問題であろう。

失業問題は、都市部では特に深刻である。ハサン二世の死の直前、1999年7月初めにも、ラバトで大学を卒業して失業している若者たちが職を求めて抗議行動をおこした。また、大学あるいは大学院を卒業したが職のない、高学歴の失業者たちは「高学歴失業者組合(L’Association nationale des chômeurs diplomés)」を結成した。このラバトでの抗議デモは直接的には内務省を、間接的に王制に圧力を与えることとなり、ハサン二世は遅まきながら、失業問題を領土問題に次いで重要視することになった。前述したようにハサン二世は、イスラーム運動の対抗を視野に入れ、王制の宗教的正当性として「アミール・アル・ムーミニーン」としての側面の強調につとめた。ムハンマド六世もラマダーン期間中に、イスラーム世界各地から招聘された学者らが国王の前で講義をする「ドゥルース・ハサニーヤ」(その様子はテレビ中継される)を継承するなど、宗教的指導者として自己を演出する場はハサン二世のときと同様に維持している。しかし、イスラーム運動が社会的弱者の救済を担う限り、「アミール・アル・ムーミニーン」であることを強調するだけでは、有効なイスラーム運動対策とはなり得ない。ハサン二世の宗教的正当性の強調という策の裏面は内務省と警察による「治安維持」であり、すでに1992年の憲法改正で国際社会を意識して「人権の擁護」が前文に掲げられたように、人権問題を無視できる時代は過ぎた。ムハンマド六世は社会的弱者救済、具体的にはまず失業問題の解決を図ることなしには、イスラーム運動が王制の宗教的正当性を脅かす存在であり続けるだろう。即位後すぐのスピーチで国王自ら述べたように、社会・経済分野で国民に満足を与えうる「リベラルな改革者」という新たなる正当性を確立することがムハンマド六世の今後の課題となろう。

(4) イスラーム主義の挑戦

イスラーム運動は、ムハンマド六世の改革にとって障害となる可能性のある存在である。モロッコ最大のイスラーム運動である「公正と慈善の集団(Jama’ al-‘Adlwal Ikhsan)」の指導者アブドゥッサラーム・ヤースィーンは、モロッコの大衆がイスラームの教えに忠実になり、徳を備えた指導者を戴くことができれば、モロッコの諸問題は解決されると考えている。彼は欧米流の「民主主義」や「近代化」には批判的で、同時に国内の社会的不正義や汚職、政治的腐敗について、ムハンマド六世の父、ハサン二世に対して公開書簡を送って自宅軟禁となるなど体制批判を繰り返している。ただ、ヤースィーンにとって、指導者一人の手に権力が集中していても、その指導者が宗教的倫理を尊重している限り、その存在は受容できるものである。欧米流の「近代化」については、「『近代化』のイスラーム化」を目指している。ムスリムはイスラームの倫理的枠組みと社会秩序を維持する限りにおいて、欧米の科学技術や思想を借りることができる、とヤースィーンは考えている。宗教を私的空間に限定し、公的空間では法の支配を強化しようとする近代化・民主化推進に対するこのようなイスラーム運動の抵抗は、ムハンマド六世が、保護領化される以前のモロッコに比べればかなり形式的になったとはいえ、預言者ムハンマドの子孫であるシャリーフとしての側面、そして「信徒の指揮者」としての側面といった宗教的正当性を維持している限りは、王制にとって決定的な脅威とはなり得ないだろう。

モロッコでは新たに国王が即位すると、バイアの儀式がおこなわれる。ただかつてはモロッコ各地の共同体の代表者たち、宗教学者、有力者たちがバイアをおこなったが、現在では多くが政府高官、政府に雇われている宗教学者たち、官僚、宮廷に勤めている人々で、彼らと国王との関係は平等ではないため、かつてのように君主に対する要求を盛り込む余地がほとんどなく、バイヤは儀礼的なものとなる。このような原則と現実の落差に、イスラーム運動が存在する場が生まれる。しかし共同体の成員と代表者はともに良いムスリムで、常に共同体の利益を考えて行動するといったイスラーム運動の考える政治的代表の概念もまたユートピア的である点で、現実との落差があることは否定できないだろう。

ムハンマド六世が即位してから約10年が経過した。その間、これまでのモロッコ政府内での汚職や弾圧などについて積極的に摘発をおこない、2004年に公正と和解委員会(L’Instance équité et réconciliation)を設置し、ハサン二世の時代に、国王に反対する人々に対して行われた人権侵害について調査を開始したことについて、モロッコのメディアは大きく報じ歓迎した。またモロッコ史上では初めて自らの妃の姿を公にし、最近は国内だけではなく、愛知万博訪問なども含め妃単独での海外公務も増えている。

現在、英国などの西欧諸国の立憲君主制とはかなり内容が異なるが、中東諸国のなかでモロッコとヨルダンのみが憲法と国会を伴った「立憲君主制」を有している。前述したように、モロッコの場合、独立後ムハンマド五世が、保護領期以前から君主たちが依拠してきた宗教的権威を基盤に、王制を諸政治勢力の「調停役」として位置づけることで国王の権力強化をはかった。続くハサン二世は憲法改正によって、国王-権力を集中させたのち、漸次的に諸政治勢力へ権力を分配し王制の安定化をはかった。この安定化のプロセスは、王制にとって「潜在的脅威」であるイスラーム運動の対抗策としての、1970年代なかばから宗教的正当性の強調と並行してすすむこととなった。

その結果、中東地域で共和制を採用する諸国と比較して、モロッコは「安定した」社会を維持している。しかし識字率は依然国民の6割程度にとどまり、失業問題は深刻である。経済・社会面での満足感が生まれる状況をつくりだせるか否か、という点が、今後社会が王制に正当性を認める交換材料となるだろう。

(5) 国家人間開発イニシアティブ(INDH: Initiative nationale pour le développement humain)

前述のように、モロッコにおける最大の課題は、失業問題と貧困である。失業問題は特に都市部で、そして貧困問題は特に地方村落部で深刻であり、1999年に即位した国王のムハンマド六世は、家族法を改正し女性の地位向上を推進するなど、積極的に自国の抱える社会・経済状況の改革に取り組んでいった。2005年には国家人間開発イニシアティブ(INDH)を発表し、貧困対策と地域間・社会的格差の是正を目標として取り組んでいる。このイニシアティブは当初2006年から2010年までの5カ年を目途に開始されたが、現在も継続している。(国家人間開発イニシアティブについては、中川[2010]を参照。)

(6) 「アラブの春」と憲法改定

2010年末に、チュニジアに端を発した「アラブの春」の影響は、モロッコでは限定的なものとなった。2011年2月20日と3月20日に若者を中心とした抗議運動が、モロッコでも行われ、彼らの運動は「2月20日運動」として継続することとなった。

国王は、2011年3月9日に、包括的改革として憲法改定を呼びかけた。提案には、

  1. 選挙で選ばれた議会に対する国王自らの権限の縮小: 現在、首相は国王の任命であるが、それを選挙結果に基づいて国会で選ぶようにし、国王の役割を、アミール・アル・ムーミニーン(信徒の指揮者)、そして「調停者」としての役割に限定する。
  2. 権力分立の強化、特に司法の独立の強化:司法に対する政治の介入をなくす。これまで公正と和解委員会を設置して人権擁護に取り組んできたがそれをさらに推し進め、政治、経済、社会、文化、環境と発展、すべての側面において、人権システムを改革することで、個人や集団単位での自由の拡大や国家権の安定化をはかる。
  3. 地方分権:これまで中央が任命していた地方の知事を地方議会が選び、地方行政の意思決定を各地域が行うようにする。
  4. 文化の多様性の尊重:アラビア語と並んでアマジグ語を公用語とする。

その他に、個人の自由と人権の尊重、両性の法的な平等などが盛り込こまれていた。  

この憲法改定案について、2011年7月1日に国民投票が実施された。国内での投票率は73%、有効投票(在外投票分を含む)1006万3423票の98.46%を占める990万9356票の賛成を得て可決され、新憲法は7月29日に公布された。  

モロッコの場合、「アラブの春」が発生した時点で、国王によるイニシアティブで、女性の地位向上、貧困撲滅、人権、権力分立の強化など、さまざまな改革がすでに進められていた。一連の改革は、チュニジアやエジプトのような大衆の力による改革要求から発した民主化ではないが、広く国民の支持を得ていたといえる。

つまり、モロッコでも、2011年2月以降、のちに「2月20日運動」と名付けられた若者を中心とした抗議運動があり、3月20日には、首都ラバトのほかに、カサブランカやその他の都市で、35000人が参加する規模となったものの、抗議の内容は、政府に対する批判であり、王制批判の声は、一部の極左を除いて、ほとんど出ていない。4月末にも抗議デモがあったが、そこでの主張は、一部の政府高官が持つ実業界への強い影響力の排除、汚職撲滅、失業問題の改善、司法改革などであり、国王が3月9日にスピーチした内容が実現されるまで「戦う」という形での抗議運動であった。

一般国民や政党の多くは、国王の提案した憲法改革の方向性を支持し、歓迎の意を表明した。昔の共産党系の人々の中には、国王の権限をより制限したものにして、国教としてのイスラームの記載を削除することを求めている人々もいるものの、非常に少数派である。

モロッコの場合、一度デモがモロッコで起こったタイミングで、国王が憲法改革についてスピーチを行ったことで、その後の「抗議運動」にとって、いわば議論のたたき台・枠組みを提供する形となったといえる。言い換えれば、抗議運動の要求の限界を定めたことにもなったといえる。また失業や汚職といった問題、社会の上の方の階層にいる人々の社会的流動性の低さといったモロッコの根本的な問題は、憲法改定だけでは解決することは難しく、それが憲法改定案発表後に、政府高官の退任を要求する声につながったと考えられる。

(7) 穏健イスラーム政党「公正発展党」の勝利

新憲法のもとでの初めての議会選挙が、2011年11月25日に実施された。結果は、「3.選挙(3)近年の選挙 ③2011年議会選挙」に記載した通りで、公正発展党(PJD) が、107議席(27.08%)を獲得して圧勝し、同党のベンキラン党首が首相に任命された。PJDは、獲得議席数第2位のイスティクラール党(PI:60議席、)第6位の大衆運動党(MP:32議席)、第8位の進歩社会主義党(PPS:18議席)と連立政権を組むに至った。この第一次ベンキーラン内閣では、首相を除く23の閣僚ポストのうち、10をPJD選出の議員が占めた。

2013年7月に、連立政権からイスティクラール党が離脱し、第二次ベンキラン内閣が同年10月10日に発足する。第二次ベンキラン内閣には、2011年の議会選挙で第3位の議席数(52議席)を獲得した国民独立連合(RNI)が新たに連立政権に加わった。

(8) オトマーニー内閣の発足

2016年10月の議会選挙で公正発展党(PJD)は125議席を獲得し第1党となったが、その後5ヶ月間、他党との間で連立を組む合意に至らず、翌2017年3月17日、国王ムハンマド六世は、同じく公正発展党のサアードディーン・オトマーニー氏を首相として新たに任命した。

同月25日、公正発展党(PJD)、国民独立連合(RNI)、進歩社会主義党(PPS)、大衆運動(MP)、立憲連合(UC)、大衆諸勢力社会主義連合(USFP)の間で、連立を組む合意が成立し、4月5日オトマーニー内閣が発足した。2019年10月9日に第二次オトマーニー内閣が発足し、現在に至っている。第二次オトマーニー内閣では、第一次オトマーニー内閣に参加していたPPSが連立から離脱し、PJDを含む5つの党による連立となった。

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2021年8月20日

シリア/最近の政治変化

(1)現況概観

「アラブの春」の動きとして2011年3月から始まったシリアにおける反体制運動は当初、現体制の枠内での「改革」による「民主化」を要求し、平和的手段による目的達成を意図していた。しかしながら、アサド政権が「民主化」要求にある程度は応えつつも、デモ行進や集会に対する強硬的な態度を取ったことから、反体制勢力は次第に「体制転換」を求めるようになり、政権側の弾圧措置を招く一方、反政府武装闘争がシリア各地に広がっていくことになった。

それでは、バアス党政権が1963年以来続き、また1971年以降はアサド父子が大統領職を独占して「世襲支配」を行ってきているシリアにおいて、「民主化」とは具体的に何を意味するのであろうか。ここで、既述のダールによる政治体制の類型化の議論を思い起こすと、シリアの政治体制は「包括的抑圧体制」であることから、この体制から「ポリアーキー」に至る民主化プロセスは必然的に「市民的・政治的自由」の拡大を伴うことになる。

だが、反体制運動が開始されてからのアサド政権による「市民的・政治的自由」の拡大措置は、反体制勢力を満足させることが出来なかった。例えば、B・アサド大統領は内閣の決定に基づき、1963年以来施行されてきた「国家非常事態」の解除及び「最高国家治安裁判所」の廃止を命令する大統領令に、2011年4月21日に署名した1。しかしながら同時に、治安部隊メンバーの行動に対して免責特権を与える大統領令や、スンナ派のイスラーム組織「ムスリム同胞団」に所属することは死罪に値するとの同令が同時に公布された2。また、2012年2月26日には、現憲法が国民投票によって承認され、憲法改正が実現した3

アサド政権はこのように、国家非常事態の解除や最高国家治安裁判所の廃止、さらには現憲法における「政治的多元主義」の導入(第8条)といったように、一方ではシリアにおける「市民的・政治的自由」を漸進させてきた。特に、「バアス党が国家、社会の指導的党である」と旧憲法では規定されていた(第8条)ことから、シリアの政党制の実態がジョヴァンニ・サルトーリの言うところの「ヘゲモニー政党制」に分類可能な状況において4、「政治的多元主義」が現憲法で保障されたことは「民主化」への第一歩と見なされるものであった。

しかしながら、反体制勢力に対する治安部隊の強硬措置を大統領令で認めたうえに、アラブ世界で影響力を増していたムスリム同胞団を敵視し続けたことは、アサド政権の「民主化」努力が茶番に過ぎないものであるとの印象を、反体制勢力並びに多くのアラブ・欧米諸国に植え付けることになった。さらに、「包括的抑圧体制」から「ポリアーキー」に至る径路が、「少数の比較的同質的なエリートの間ではなく、社会諸階層と、政治思想をたとえ全部ではなくともほとんど反映する広範な代表者間で、相互安全保障の体系を創出することを必要としている」5との指摘があるなかで、アサド政権は基本的に反体制勢力との対話を拒否してきた。

以上のようなアサド政権の対応により、シリアにおける反政府武装闘争は2011年後半以降、激しさを増した。アサド政権は一時期、軍事的にかなり追い詰められたものの、2015年9月以降のロシア軍による大規模な軍事支援で態勢を立て直し、シリア各地を武力で次々と平定していった結果、現在はシリア領土のおよそ3分の2を支配下に置いており、実質的な戦闘はイドリブ地域にほぼ限定されている。他方、シリア領土の残り3分の1に関しては、その大半をクルド勢力が支配下に収めており、それ以外は反体制勢力や「イスラーム国」(IS)などの支配領域となっている。なお、ISの支配領域は現在、大幅に縮小しており、ISはシリオ沙漠地帯の狭い領域(「ポケット」)で孤立している(各勢力の支配領域は以下の地図6が示す通りである)。

(2)諸外国の介入

上述した4つの国内主要アクター(アサド政権、クルド勢力、反体制勢力、そしてIS)のなかで、アサド政権に対しては、政治・軍事・経済面では主にロシアやイランが支援し、政治・経済面では中国も支援している。また、クルド勢力に対しては、米主導の有志連合が軍事支援をしてきたが、ドナルド・トランプ大統領は2018年12月19日に、米軍のシリア完全撤退に関して言及し、さらに一昨(2019)年10月6日に、米軍(1000人規模)のシリア北東部からの撤退宣言を行った。その結果、米軍のプレゼンスはシリア北東部のクルド勢力支配地域において大幅に縮小し、上記の地図が示すように、タナク油田やオマール油田にごくわずかの兵力を残すまでとなっている。他方、反体制勢力に関しては、様々な武装組織が存在し、「穏健勢力」と「過激勢力」に大別される。「穏健勢力」の代表例がシリア国民軍(SNA:旧自由シリア軍)系諸組織であり、後者の代表例がシャーム解放委員会(HTS:旧ヌスラ戦線)である。シリア北西部のイドリブ地域並びにアフリーン地区、及びシリア北東部のユーフラテス北東岸地域におけるSNA系諸組織に対しては、トルコが軍事支援を与えており、さらにはトルコ軍がこれら地域に駐留して作戦も共にしている。また、シリア南東部のタンフ地域におけるSNA系諸組織に対しては、米軍基地の縮小が報じられたこともあり、米国による軍事支援は減少傾向にあると見られている。

このように、主に米国、ロシア、トルコ、そしてイランがシリア国内の各勢力に様々な対外支援を行っていることから、同国はこれら諸国によるパワー・ポリティックスが展開される場となっている。シリアは、2011年3月までは地域政治の「主体」として対外的な影響力を行使してきたが、今や「客体」として諸外国による影響力の行使を受ける場となっているのである。

そこで、シリアにおける米露、米土、米イラン、露土、露イラン、そして土イランの各関係について概略する。米露関係に関しては、米国が反体制勢力を支援し、ロシアがアサド政権を支援していることから、両国は基本的には対立関係にある。だが、クルド勢力をめぐる米露関係は少々複雑である。なぜならば、米国がクルド勢力を見捨てた形になっていることから、クルド勢力はアサド政権、さらにはロシアとの関係を強化しているのである。しかしながら、シリア全土の完全掌握を目指しているアサド政権と、シリア北東部における自治の維持さらには拡大を望んでいるクルド勢力との間では、双方の利害が一致していない状況である。そこで、アサド政権及びクルド勢力双方とのパイプを持つロシアによる調停の役割が期待されるところであるが、ロシアとアサド政権との長年に渡る親密な関係や、ロシアとトルコが近年その関係を強化していることに鑑みると、ロシアがクルド勢力の意向に沿った動きを取るのかは不明である。ゆえに、クルド勢力はアサド政権及びロシアに対するカウンターバランスとして、米国と完全に縁を切るわけにはいかないのである。

米土関係に関しては、両国共に反体制勢力に対する支援を対シリア政策の柱としてきた一方で、クルド勢力に対する両国の政策は相反しており、二面性を有していると言える。すなわち、トルコが「シリア民主軍」(SDF)や「シリア民主評議会」(SDC)といったクルド勢力を「テロ組織」と見なしてきたのに対して、米国はクルド勢力と同盟関係を築いてきた。だが、トランプ大統領が一昨(2019)年10月に米軍のシリア北東部からの撤退宣言を行った直後に、トルコ軍及びSNA系勢力が対クルド勢力軍事作戦「平和の春」を発動した際には、米国はトルコの行動を強く非難する声明を発したものの、その行動を止めるための具体的な手立ては、限定的な経済制裁を例外として、殆ど講じなかった。これは、後述するような露土関係の緊密化といった事態を前にして、米国がトルコとの関係悪化を出来るだけ避けたいとする意思表示であったと言える。また、トルコ軍がこの作戦により、タッル・アブヤドからラス・アインに至る地域に「安全地帯」を確立するなかで、同年10月17日に出された米土共同宣言では、同地帯の治安がトルコ軍によって第一に担われることとされるなど、米土関係は「平和の春」作戦に伴いさらなる悪化が懸念されたものの、決定的な亀裂には至らなかったのである。

米イラン関係に関しては、トランプ政権がイランの核政策や対外政策などを問題視し、同国に敵対政策をとっているなかで、米国は反体制勢力を、そしてイランはアサド政権を、それぞれ支援している。そして、イランが「イラン革命防衛隊」(IRGC)やヒズブッラーなどの軍事プレゼンスを、アサド政権支配地区に維持していることに対して、米国は、イランがこうしたイラン系勢力を利用して、テヘランからバグダード及びダマスカスを経由してベイルートに至る「シーア派回廊」を構築して覇権を追求している、と見なしているのである。ただ、米国はシリアにおいてイラン系勢力に対する直接的な軍事行動を日常的にはとっておらず、米国の同盟国であるイスラエルがこうしたイラン系勢力に対する軍事行動を頻繁に起こしている。

露土関係に関しては、アサド政権支援のロシアと、反体制勢力支援のトルコとは、本来は対立関係にある。だが、ロシア主導のシリア包括和平を目指す試みである「アスタナ会合」(後述)が2017年1月に開始されて以降、トルコは「三保障国」(他はロシア及びイラン)の一員として同会合を支持している。さらに、2018年9月17日の露土首脳会談においては、イドリブ地域における大規模戦闘を回避するために「イドリブ合意」が成立した。その後、「イドリブ合意」は現在に至るまで殆ど実現されておらず、アサド政権がイドリブ地域再掌握に向けての大規模攻撃に着手し、ロシア軍がシリア政府軍(SAA)に対して主に空爆支援を行うなかで、トルコは同地域に対する増派を行い、SNA系勢力に対する支援を強化している。このように、ロシアとトルコはイドリブ地域において敵対的な軍事行動を行う一方で、ウラジミール・プーチン大統領とレジェップ・タイップ・エルドアン大統領はしばしば電話協議を行うなど、事態がエスカレーションしないように出来る限り協力する姿勢をも見せている。ロシアとトルコはS400ミサイルの購入や天然ガスの供給などでも関係を深めており、それゆえに両国共に米国との関係が決して手放しで良好であるとは言えないことから、シリアでは軍事的に対立する局面が存在する一方で、事態鎮静化に受けて協力可能な時はそのようにするなど、両国関係は二面性を持っているのである。

露イラン関係に関しては、両国共にアサド政権を政治・軍事・経済的に支援している意味では、同盟関係にある。また、イランは「アスタナ会合」における「三保障国」の一員であることから、ロシア主導の和平の試みにコミットしていると言える。だが、ロシアとイランの間には、シリア国家の在り方に関する根本的な相違があると言わざるを得ない。すなわち、ロシアは自軍が展開するタルトゥースの海軍基地やフマイミームの空軍基地が安泰であるように、「パックス・ロシアーナ」(ロシア主導の平和)のもとでシリア国内を可能な限り安定化させることにプライオリティを置いていると想定される。ゆえに、ロシアはシリア政府(具体的にはアサド政権)の統治能力回復、さらには強化を望ましいことと考えていると推察され、SAAの再建を自らの利益と見なすであろう。他方、米国やイスラエルからの軍事攻撃の可能性に常に晒されているイランにとって、シリアは軍事作戦上の要衝であり、同国内でIRGCやヒズブッラーがフリーハンドで行動可能な状況が望ましい。ゆえにイランはこれら勢力に対する制約要因となりかねないSAAの再建には消極的とならざるを得ないであろう。また、アサド政権が支配領域を再掌握し、復興計画の策定・実施に乗り出すなかで、ロシアの企業とイランの企業がライバル関係になることも想定可能であり、両国関係には悪化の種が隠れていると言えるのである。

土イラン関係に関しては、トルコが反体制勢力を、イランがアサド政権を、それぞれ支援していることから、両国は対シリア政策を異にしている。だが、トルコ及びイラン共に、「アスタナ会合」を「三保障国」の一員として支援しており、シリア情勢に関して協議する場を有している。また、イランはトルコとコンタクトを持つのみならず、アサド政権と緊密な関係にあることから、イドリブ情勢が国際的な注目を集める状況において、イラン外務省は昨(2020)年2月8日に、同国がトルコとアサド政権との仲介役を担う意向であることを表明した7

(3)和平に向けた国際的な動き

上記のように、シリアに対する各国の思惑が異なることは、結果として紛争解決プロセスを機能不全にさせ、内戦が長引くことになった。それでは、シリアにおいてはこれまで、どのように国際的な和平の試みがなされてきているのであろうか。ここでは、国連主催の「ジュネーブ協議」及びロシア主導の「アスタナ会合」を軸に考察する。

シリアで反体制運動が勃発し、事態収拾の目途が立たない状況において、安保理は米露対立により機能麻痺に陥った。そこで、アラブ連盟は2011年12月に160人規模の停戦監視団を派遣したものの、アサド政権と反体制勢力との武力の応酬はむしろエスカレートし、2012年2月に派遣終了が決定された。他方、同年2月にはコフィ・アナン元国連事務総長が国連・アラブ連盟合同シリア担当特使に就任し、4月には300人規模の停戦監視団の派遣が安保理で決定された。しかしながら、ロシアの反対により、停戦の実現に寄与するような強制措置が安保理決議に盛り込まれなかったことから、アサド政権と反体制勢力との武力対立は止むことなく、監視団活動は8月に終了した。

このように戦闘が拡大する状況において、アナン特使は2012年6月末に、安保理常任理事国やシリア周辺諸国の外相などをジュネーブに集め、事態打開に向けた協議を行った(「ジュネーブ1」)。その結果、アサド政権のメンバーを含む「移行政府」の樹立提案を含む「ジュネーブ・コミュニケ」8が6月30日に成立したものの、B・アサド大統領の退陣を要求する反体制勢力の支持を得ることは出来なかった。加えて、米国が2012年11月に、反体制勢力の統括組織としての「シリア国民評議会」の後継組織として、「シリア国民連合」の樹立を強力に後押ししたことから、米露間の溝は開く一方であり、シリア情勢解決の見通しが立たない状態が続いた。

このように、「ジュネーブ協議」は米露間の対立により、当初から暗礁に乗り上げたものの、アナンの後任としてアフダル・ブラーヒーミー(元国連アフガニスタン特別代表)が国連・アラブ連盟合同シリア担当特使に2012年9月に就任し、会議の実現に向けて積極的な外交を展開した結果、「ジュネーブ2」は2014年1月から2月にかけて2ラウンドに分けて開催されるに至った。しかしながら、B・アサドの処遇をめぐり、アサド政権と反体制勢力が真っ向から対立し、妥協点は見いだされなかった。

その後、ブラーヒーミーの後任としてステファン・デ・ミストゥーラ(元国連アフガニスタン支援団代表)が国連・アラブ連盟合同シリア担当特使に2014年7月に就任し、「ジュネーブ3」が2016年2月になって開催されたものの、3日に会議の一時延期及び25日の再開が発表された9。だが、これは実現せずに終わり、1年余りの中断の後に、2017年2月から3月にかけて開催された「ジュネーブ4」においても、アサド政権と反体制勢力の直接対話は行われなかった。同年3月に開催された「ジュネーブ5」も大きな成果なく終了し、「ジュネーブ6」(同年5月)では、「憲法および法律に関する技術的コンサルティブ・メカニズム」の設置が合意された。しかしながら、同メカニズムの設置に対する具体的な進展はその後見られず、「ジュネーブ7」(同年7月)、「ジュネーブ8」(同年11月~12月、2ラウンドに分けて開催)、そして「ジュネーブ9」(2018年1月、但しウィーンで開催)共に、実質的成果なく終了した。

このように、「ジュネーブ協議」が大きな成果を生み出すことなく、事実上休止状態に至っている背景には、アサド政権と反体制勢力との間にプライオリティの違いが存在することがある。すなわち、「ジュネーブ協議」における4つの主要議題(ガバナンス、憲法、選挙、テロとの戦い)の中で、政権側はテロ問題を優先すべきと考えているのに対し、反体制側は政権移行に繋がるような他のイシューに重きを置いているのである。また、「ジュネーブ8」においては、反体制勢力が合同代表団を形成10して参加したが、B・アサドの退陣に依然として拘ったことは政権側の不興を買った。さらに、後述する「アスタナ会合」の開催以降、とりわけロシアが「ジュネーブ協議」に関心を失っていることも、戦局で優位に立っているアサド政権側に譲歩を促す方向に作用せず、反体制勢力との溝を広める結果となったのである。

ロシアは、2015年1月及び4月に、アサド政権及び同政権によって許容されているシリア国内の反体制勢力が参加する和平協議をモスクワで開催したが、大きな成果なく終了した。その後、「ジュネーブ3」が中断されたままの状況において、プーチン大統領とエルドアン大統領は2016年12月16日に、カザフスタンの首都アスタナ(当時、現在のヌルスルタン)での、米国や国連が関与しない形での新たなシリア和平交渉の開催意向を表明した。そして、国連が12月31日に、安保理決議第2336号により、ロシア及びトルコ主導の停戦並びに和平会議開催支持を表明した結果、アスタナでの和平協議(通称「アスタナ会合」)は国際的なお墨付きを得ることになったのである。

「アスタナ会合」は現在に至るまで、ロシアを筆頭に、トルコ及びイランが主導するシリア包括和平を目指す試みとして15回開催されており、「アスタナ1」(2017年1月)、「アスタナ2」(同年2月)、「アスタナ3」(同年3月)においては、「アスタナ2」でアサド政権と反体制勢力の直接交渉が短時間行われた以外、大きな成果なく終了した。その後、「アスタナ4」(同年5月)において、ロシア、トルコ、及びイランを停戦の「保障国」とする「緊張緩和地帯」の設置が決まった。同地帯は、イドリブ地域、ホムス北部、ダマスカス郊外東グータ、シリア南部に設置され、イドリブ地域以外では同年7月から8月にかけて停戦が発効した。しかしながら、ホムス北部及びシリア南部では、露軍が展開してしばらくは停戦が概ね維持されたものの、アサド政権によって「テロ組織」認定されているHTSやISの拠点がこれら地域に存在していることを理由に、最終的にはSAAが攻撃に着手し、露軍が見て見ぬふりをするなかで、掌握するに至った。また、東グータでは2018年春に、SAAに加えて露軍が、HTSが拠点を有していることを理由に空爆を中心とする猛攻撃を実施し、人道危機が深刻化するとともに、化学兵器攻撃事案も発生した。この結果、アサド政権は2018年春までに、イドリブ地域を除く「緊張緩和地帯」を掌握したが、アサド政権による攻撃が続くなかでもトルコは「アスタナ会合」に参加し続けた。その背景には、ホムス北部、東グータ、そしてシリア南部のいずれにおいても、トルコが強力に支援していた反体制勢力が存在していなかったことがあった。

「アスタナ5」(2017年7月)、「アスタナ6」(同年9月)、「アスタナ7」(同年10月)、「アスタナ8」(同年12月)、「アスタナ9」(2018年5月)、そして「アスタナ10」(2018年7月、但しソチで開催)共に、大きな成果なく終了した。「アスタナ11」(同年11月)においては、9月の露土首脳会談で設置が決まった、イドリブ地域における「非武装地帯」設置に関して協議が行われた。だが、協議終了後に具体的な進展は見られず、同地域で露軍支援のSAAと、トルコ軍支援の反体制勢力との間で戦闘が行われているのは既述の通りである。また、一昨(2019)年には3回(4月の「アスタナ12」、8月の「アスタナ13」、そして12月の「アスタナ14」)開かれ、本(2021)年2月には「アスタナ15」が開催されたものの、何れも成果は殆どなく終了した。

ロシアは他方で、アサド政権及び反体制勢力関係者を集めた「国民対話会議」を2018年1月にソチで主宰し、その結果として「憲法委員会」の設置が決まった。「憲法委員会」は、アサド政権、反体制勢力、そして「独立系」のメンバー各50人から構成されることとなっており、アサド政権及び「シリア交渉委員会」(SNC、旧「高等交渉員会」(HNC)であり、反体制勢力の統括政治組織)は各々、メンバーの候補者リストをデ・ミストゥーラに手渡した。だが、デ・ミストゥーラが同年9月11日に、「独立系」メンバー候補者リストをロシア、トルコ、そしてイラン政府関係者に提示したところ、ロシアとイランは事前に相談を受けていなかったことを理由に、そのリストを即座に拒否した。デ・ミストゥーラは12月に辞任し、後任にはゲイル・ペデルセン(国連ノルウェー政府代表部元大使)が国連シリア担当特使に就任した。

ペデルセンが「憲法委員会」の発足に向けた外交的努力を重ねた結果、一昨(2019)年9月にようやく人選の完了と設置が宣言された。同年10月末から第1ラウンドが翌11月上旬にかけて開催されたものの、同下旬の開幕が予定されていた第2ラウンドは実現しなかった。その後、昨(2020)年8月に開催された第3ラウンド、同年11月から12月にかけて開催された第4ラウンド、そして本(2021)年1月に開催された第5ラウンドは、何れも小規模会合であったものの、成果は上がらなかった。アサド政権側が「憲法委員会」を現憲法の改正のための協議の場と捉えているのに対して、SNC側は同委員会を新憲法の制定のための協議の場と見なしていることにより、双方の見解の隔たりが大きいのが実情である。

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