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2020年10月4日

スーダン/最近の政治変化

バシール政権崩壊と移行政権の樹立

2019年4月11日、1989年6月から約30年間の長きにわたったオマル・アル=バシール(Omar al-Bashir)政権が崩壊した。強権的なイスラーム主義を貫いたバシール大統領に対しては、市民からの不満も大きかった。2018年後半の経済危機は、パンや燃料の値上げなど、市民の日常生活に直接的な影響を及ぼした。市民は、バシール大統領の退陣を要求し、12月中旬から、首都ハルツームのみならず地方都市においても、反政府デモを開始した。政府は、催涙ガスを使用したり、デモの首謀者を逮捕するなどして反政府デモを弾圧したが、死者が発生しても、市民による要求は止まらなかった。なお、この経済危機の背景には、2011年の南スーダン独立に伴い、同地域で産出される石油による収入が激減したことや、1997年以降2017年まで続いた米国による経済制裁の影響もある。なお、米国のテロ支援国家リストからスーダンの国名を外すことが次の二国間の課題となっている。2020年8月24日、マイク・ポンペオ米国務長官がスーダンを訪問した際に、ハムドゥーク首相とテロ支援国家指定解除も協議したとされる。テロ支援国家指定解除がされれば、米・スーダン関係の改善や対外投資等の政治・経済面で改善が期待される。ただし、国内では、2020年初め以降世界的に広がる新型コロナウィルスの感染のみならず、未曽有の洪水や、通貨の急速な下落に伴う経済的緊急事態も宣言されるなど、移行政権はさまざまな課題に直面している。

まず、バシール政権崩壊に至る過程からその後の経緯を整理する。2019年1月1日、バシール大統領の退任を求める、市民や反乱勢力の連合である「自由と変化」勢力(Force of Free and Change: FFC)の発足が宣言された。4月6日には、市民がハルツームの軍本部前で座り込みのデモを開始した。市民運動が盛り上がり続ける中、4月11日に軍が無血クーデタによりバシール大統領を退任に追い込んだ。クーデタを起こした軍部は、暫定軍事評議会(Transitional Military Council: TMC)を発足させた。これまで非暴力運動を展開してきた市民は、TMCは市民がこれまで抵抗してきた政府とほとんど変わらないと非難し、TMCに即時の民政移管を求めた。アフリカ連合(AU)平和・安全保障委員会は、4月15日、軍事力を使った、憲法に反する手法での政変を拒否・非難するとともに、スーダンに対し、15日以内に文民主導の政府に移管しなければ、AU加盟国としてのAUの活動への参加を停止すると決定した。

その後約2か月間はTMCとFFCの間で大きな動きは見られなかった。しかし、軍本部前で座り込みを続ける市民や民主化の高い要求を行うFFCに対し、TMCはいら立ちを募らせ、6月3日に軍本部前で座り込みをする市民の強制排除に出た強制排除の中で行われた残虐な暴行は国内外に衝撃を与え、エチオピアの仲介により、TMCとFFCが話し合いを始めることとなった。詳細は、アブディン(2020)による論考を参照されたい。デモの残虐な強制排除の経験によりデモの再開が現実的でなくなったことから、FFCは市民にゼネストを呼びかけた。さらに6月30日、欧米諸国や人権団体への働き掛けも功を奏し、TMCが暴力を控える中で、百万人規模のデモを成功させた。これ以降、TMCとFCは交渉を進め、8月に、移行期間のための憲法宣言が合意され、アブダッラー・ハムドゥークが首相に就任し、文民をトップとする移行政府が発足した。

スーダンの「現在の政治体制・政治制度」に記載した移行憲法宣言の条項に基づいて、ハムドゥーク首相の下、2019年9月8日に18人の大臣が就任した。ハムドゥーク首相自身が国連アフリカ経済委員会の副事務局長であるなど国際的に活動する経済学者であること、外務大臣他4名が女性であることや、財務・経済大臣は世界銀行勤務経験があることなども含め、注目の閣僚人事となった。

経済の立て直し、民政移管、スーダン和平の実現が急務とされたが、スーダンの市民は、新内閣の改革プロセスが遅々として進んでいないと不満を持っていた。2019年6月30日の大規模デモから1年にあたる2020年6月30日には、全世界的な新型コロナウィルス感染拡大の中、スーダンでもロックダウン中であったにもかかわらず、市民はSNSを使って連帯を呼びかけ、スーダン各地で大規模なデモを展開した。デモにより1人が死亡し、負傷者も発生した。この結果、7月上旬、ハムドゥーク首相は、警察長官及び副長官を解雇した他、財務・経済、外務、エネルギー担当、保健担当大臣等を外し、内閣改造を行った。以上のような内政状況に加えて、ナイル川の洪水により、2020年9月4日に、以降政権は、3か月間の緊急事態宣言を宣言した。続いて、9月11日には、通貨の急落により、経済緊急事態を宣言した。スーダン移行政権はさまざまな課題に直面している。政権に声を上げてきた市民の代表であるFFCについても、2020年7月には「スーダン専門職能者連合(Sudanese Professional Association)」がFFCから離脱するなどの課題がみられる。

なお、スーダンでは、バシール政権崩壊以前にも、民衆蜂起により軍事政権が倒されてきた過去がある。アッブード軍事政権(1958年-1964年)は、労働者、農民、専門職者(医師、弁護士、技術者等)、知識人を中心とする国民の抵抗運動(10月革命)により転覆した。ヌマイリー政権(1969年-1985年)も、経済不安定化及び生活必需品の値上げの後に、民衆による決起(インティファーダ)により打倒された。2011年のアラブの春で民衆が独裁政権を非暴力で転覆させ、スーダンでも「アラブの春」が発生する可能性も議論されたが、その際、スーダンで政権を牛耳る者たちは、スーダンではすでにアラブの春は経験済みであると認識していた。ただし、過去の民衆運動がそれぞれ5日、10日程度で政権を崩壊に至らしめたのとは対照的に、バシール政権崩壊までは4か月かかった。反対に、過去の軍事政権転覆時には問題にならなかった、国内紛争との反乱軍の活動があり、スーダンの国内政治を複雑化させているという面もある。国内政治の複雑さを象徴する動きとして、例えば2014年12月には、バシール大統領の一党独裁状態に対して、バシール大統領の退陣を求めるために共闘する、政党連合(NCF)・市民運動・反乱軍連合(SRF)が、隣国エチオピア・アジスアベバで、「スーダン・コール(Sudan Call)」なる同盟関係を結んだことがあげられる。国内紛争と反乱勢力については、次の「スーダン和平」で解説する。

<参考:スーダンの政治体制>

  • 1953年 自治選挙(self-government election)※植民地における自国民による選挙
  • 1956-1958年 スーダン独立、第一民主政権期
  • 1958-1964年 アッブード軍事政権期
  • 1964-1969年 「10月革命」によりアッブード政権崩壊、第二民主政権期
  • 1969-1985年 「5月革命」、ヌマイリー軍事政権
  • 1985-1989年 インティファーダ、ヌマイリー政権崩壊、第三民主政権期
  • 1989-2019年 「救済革命」、アル=バシールが政権奪取、NIF→NCPによる支配
  • 2019-2022年 バシール政権崩壊、暫定軍事評議会発足、移行政府発足、
  • 2022年 民政移管完了予定

スーダン和平

軍事部門対非軍事の市民という対立に加えて、スーダンでは、ハルツームを中心とする中央政府対周辺地域の反乱軍という構図で、複数の紛争が展開してきた。最も長く続いたのは、南北スーダン内戦である。1956年元日のスーダンの独立前日から1972年まで続いた第一次スーダン内戦、1983年から2005年までの第二次スーダン内戦は、主に北部に位置する中央政府及び国軍と南部スーダンの反乱軍の戦いであった。長い内戦の後、2005年にスーダン包括和平合意(Comprehensive Peace Agreement: CPA)が締結され、合意の履行結果のひとつとして2011年7月に南スーダンが独立することになった。他にも、スーダン西部に位置するダルフールでは、2003年以降、ダルフール紛争が続いてきた。加えて、2011年1月の南部スーダン住民投票で同地域の独立が決まると、スーダン・南スーダンの国境線沿いの北部に位置する、南コルドファン州と青ナイル州(いわゆる2州)でも反乱軍が蜂起した。ダルフール紛争及び2州の紛争をどのように平和的に解決するかも、現在の重要課題である。

スーダン政府に対峙する主要な反乱軍として次の勢力があげられる。ダルフールでは、「正義と平等」運動(Justice and Equality Movement: JEM)、スーダン解放運動/軍(Sudan Liberation Movement/Army: SLM/A)があった。SLM/Aは、2006年のダルフール和平合意をめぐり、署名か署名拒否かで内部分裂が起こり、それぞれ指導者の名前を付けて、SLM/Aミナウィ派とSLM/Aアブドゥルワーヒド派に分派した。同合意に署名したSLM/Aミナウィ派はダルフール地域における重要ポストを与えられたが、2011年2月にはダルフール和平合意から正式に手を引いた。2州では、第二次スーダン内戦に際して、アイデンティティは北部スーダンにあるものの、南部の反乱軍であるスーダン人民解放運動/軍(Sudan People’s Liberation Movement/Army: SPLM/A)側で北部の中央政府と戦った者が多い地域である。2011年に南スーダン独立が決まると、2005年のCPAの内容が2州ではほとんど実現されていないことや、2011年の同州での選挙結果等への不満も相まって、SPLM/A北部(SPLM/A-North)として蜂起した。2011年11月には、JEM、SLM/Aミナウィ派、SLM/Aアブドゥルワーヒド派、SPLM/A北部が集まって、スーダン革命戦線(Sudan Revolutionary Front: SRF)を発足させ、バシール政権に対し、解放のための武力闘争を行う旨宣言し、共闘を続けてきた。

バシール政権崩壊後、2019年8月に署名された移行憲法宣言の第7条第1項で包括的な和平を達成するべきことが掲げられ、第15章で「包括和平の課題」について具体的な内容が規定さた。同憲法宣言合意より6か月以内に包括和平を達成するという条項が盛り込まれている。これに関連する動きとして、翌月9月には、南スーダン・ジュバにて、ハムドゥーク首相率いるスーダン政府とSRFの間でジュバ原則宣言(Juba Declaration of Principles)が締結され、包括和平合意に至るロードマップとされた。ただし、SRFは一枚岩ではない。SRF傘下の一勢力であるSPLM/A北部の内部では、2017年3月にアブデルアズィーズ・アルヘルウ率いる一部が分派し、 SPLM/A北部アガール派とアルヘルウ派に分かれた。SPLM/A北部アルヘルウ派は、ジュバ原則宣言に署名しなかった。また、SLM/Aアブドゥルワーヒド派も、スーダンとの和平の道を選んだSRFから離脱し、同宣言への署名を拒否した。このように包括的な和平へプロセス実現を阻む動きも見られる。2019年10月には、スーダン政府とSRFの間で第2回目の和平交渉が実施され、同時にスーダン政府とSPLM-Nアルヘルウ派との間で別の交渉が行われ、南コルドファン州に関する和平交渉のロードマップが合意された。

最新の展開として、2020年8月31日、南スーダン・ジュバにて、サルヴァ・キール南スーダン大統領の仲介の下、スーダン移行政府(ハムドゥーク首相)と反乱勢力の間で7つの議定書からなる和平合意が締結された(富の分配、権力分有、避難民及び難民、土地所有、補償及び復興、アカウンタビリティー及び和解、遊牧問題)。主要な反乱勢力として、JEM、 SLM/Aミナウィ派、SPLM/A北部アガール派が署名した。ただし、SPLM/A北部アルヘルウ派及びSLM/Aアブドゥルワーヒド派は署名を拒否した。スーダン和平を支援してきたトロイカ(米・英・ノルウェー)は声明を出し、和平合意の締結を祝福するとともに、署名しなかったSPLM/A北部アルヘルウ派及びSLM/Aアブドゥルワーヒド派に対し、和平プロセスへの参加を呼び掛けた。9月3日、移行政権とSPLM/A北部アルヘルウ派は、停戦遵守などを盛り込んだ共同宣言に合意した。同共同宣言では、将来策定される憲法は宗教と分離されること、憲法策定まで、南コルドファン州および青ナイル州(2州)の自決権が認められることなどを合意した。

国際平和活動及び仲介活動

上述のスーダン和平実現のため、また文民を保護するため、スーダンには複数の国際平和活動が展開してきた。2003年に紛争が激化し、「世界最悪の人道危機」が発生しているとしてダルフールが注目を集めると、2004年に締結されたダルフール人道的停戦合意の履行監視目的で、同年、AUの平和維持活動であるスーダン・アフリカミッション(Africa Mission in Sudan: AMIS)が立ち上がった。AMISは、2007年に国連・アフリカ連合合同ミッション(UN/African Union Hybrid Mission in Darfur: UNAMID)に引き継がれた。国連とAUという2つの国際組織の「ハイブリッド」型として発足当時は注目を集めたが、報告系統が二重になること、予算の配分、機動性など、様々な面で課題も指摘された。UNAMIDがダルフールに展開する中、2005年のCPA履行監視を目的として、国連スーダン・ミッション(United Nations Mission in Sudan: UNMIS)が発足した。首都ハルツームに本部司令部、南部スーダン・ジュバに地域事務所を設置した。2011年に南スーダンの独立が決まると、UNMISは任務を終えることとなり、北部スーダンからUNMIS部隊は撤収することになった。南スーダンには、UNMISの後継ミッションである国連南スーダン・ミッション(United Nations Mission in South Sudan: UNMISS)が設置された。スーダンと南スーダンの係争地であるアビエイ(Abyei)地域には、国連暫定治安部隊(United Nations Interim Security Force in Abyei: UNISFA)が立ち上げられた。スーダン側に位置する2州では武力衝突が発生したため、引き続き平和維持活動の展開する案が出されたが、スーダン政府はこの案を拒否した。よって、2011年以降、国際平和活動が展開する地域はダルフールとアビエイのみであった。UNAMIDは、設立当初から約5年間は、約2万6000名の軍事要員の展開を認める国連平和維持活動最大規模のミッションであったが、2012年移行段階的に要員数は減らされ、2017年からはダルフールからの撤退を見越したさらなる軍事要員の削減が行われ、要員数は約6,500名まで減少した。

国際的な仲介活動に目を向けると、2009年には、タボ・ムベキ(Thabo Mbeki)元南アフリカ大統領を議長とする、AUハイレベル履行パネル(African Union High-Level Implementation Panel for Sudan: AUHIP)が、2006年に締結されたダルフール和平合意と2005年の南北スーダン包括和平合意履行支援を任務に設置され、スーダンの主要な紛争解決に向けて仲介を続けている。2014年には、解決の目途が立たないダルフールと2州という2つの問題を1つのプロセスに取り込んで、国民対話を通じて包括的解決を目指すという「1つのプロセス2つのトラック(one process, two tracks)」がAUから提案され、実施されてきた。2016年3月には、スーダン政府、ダルフール及び2州の反乱軍(JEM,、SLMミナウィ派、SPLM北部)とAUHIPがロードマップ合意を締結し、ダルフールと2州での紛争終結プロセスを促進していくことに合意した。ロードマップ合意では、一時的な停戦を恒久的な停戦合意としていくための交渉再開を合意した。ロードマップ合意以降、政府や主要な反乱軍は一方的停戦を宣言し、過去数年間は一部の例外を除き、軍事情勢は落ち着きを見せている。なお、2005年の南北スーダンCPAに導いたのは、東アフリカ地域の準地域機構である政府間開発機構(IGAD)であるが、AUHIPとは仲介スタイルに違いがある。IGADはケニアのスンベイウォ将軍(Gen. Lazaro Sumbeiywo)を仲介の長として、交渉の両当事者に強く合意を迫る傾向があった。合意をしなければ会議場から出てはいけない、という指示をすることさえあったとされる。強権的な仲介の下では、決められた合意には至るが、当事者が不満や禍根を残すという側面もある。一方で、ムベキ議長率いるAUHIPの仲介方針は、辛抱強く当事者が合意に至ることを待つスタイルであるとされる。なかなか成果が出ないために、「待つ」仲介方針は非難されたこともある。しかし、2009年以降、継続して仲介をし、以上のような成果も見せている。AUでは「アフリカの問題にはアフリカ的解決を」というスローガンも掲げられ、AUHIPによるスーダンでの仲介活動が注目される。

2019年4月のバシール政権崩壊後の最新の動きとして、2020年6月に、国連の特別政治ミッション(軍事部門を持たない平和活動)として、国連スーダン統合以降支援ミッション(United nations Integrated Transition Assistance Mission in Sudan: UNITAMS)の設立が国連安全保障理事会決議で決定した(S/RES/2524(2020))。UNAMIDについても同日にもう1つの国連安保理決議が採択され、2020年末までの任期延長が認められた(S/RES/2525(2020))。スーダン政府は、UNAMIDの活動終了を希望している。そのため、一方では、2020年末頃に任務を終えて、スーダン政府がダルフール地方の安全を守る責任を持ち、UNITAMSが限定的な任務を引き継ぐと予想される。他方、安保理決議第2525号はUNAMIDが2021年以降も小規模に展開する余地を残したともいわれる。軍事部門を持たないUNITAMSであるが、首都での民政移管支援に加え、ダルフールや2州での和平促進支援等、様々な課題を抱えることになる。

参考文献

  • アブディン・モハメド「バシール政権崩壊から暫定政府発足に至るスーダンの政治プロセス――地域大国の思惑と内部政治主体間の権力関係――」『アフリカレポート』第58巻、2020年、41-58頁。
  • アフリカ日本協議会「栗田禎子さんに聞く2: 南スーダンの独立歴史的背景と今後の展望」『アフリカNOW』No. 97, 2013年。
  • Louisa Brooke-Holland, “Sudan: December 2017 Update,” House of Commons Library, Briefing Paper, No. 08180, December 15, 2017, https://researchbriefings.files.parliament.uk/documents/CBP-8180/CBP-8180.pdf (last accessed September 2020).
  • Andrew McCutchen, “The Sudan Revolutionary Front: Its Formation and Development,” Small Arms Survey, Graduate Institute of International and Development Studies, Geneva, October 2014, http://www.smallarmssurveysudan.org/fileadmin/docs/working-papers/HSBA-WP33-SRF.pdf (last accessed September 3, 2020).
  • Daniel Forti, “Navigating Crisis and Opportunity: The Peacekeeping Transition in Darfur,” International Peace Institute, December 2019, https://www.ipinst.org/wp-content/uploads/2019/12/1912_Transition-in-Darfur.pdf (last accessed September 3, 2020).
  • United Nations Security Council, “Report of the Secretary-General on the situation in the Sudan and the activities of the United Nations Integrated Transition Assistance Mission in the Sudan,” S/2020/912, September 17, 2020.
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2020年10月3日

シリア/最近の政治変化

(1)現況概観

「アラブの春」の動きとして2011年3月から始まったシリアにおける反体制運動は当初、現体制の枠内での「改革」による「民主化」を要求し、平和的手段による目的達成を目指していた。しかしながら、アサド政権が「民主化」要求にある程度は応えつつも、デモ行進や集会に対する強硬的な態度を取ったことから、反体制側は次第に「体制転換」を求めるようになり、政権側の弾圧措置を招く一方、反政府武装闘争がシリア各地に広がっていくことになった。

それでは、バアス党政権が1963年以来続き、また1971年以降はアサド父子が大統領職を独占して「世襲支配」を行ってきているシリアにおいて、「民主化」とは具体的に何を意味するのであろうか。ここで、既述のダールによる政治体制の類型化を思い起こすと、シリアの事例は「包括的抑圧体制」に当てはまることから、この体制から「ポリアーキー」に至る民主化プロセスは必然的に「市民的・政治的自由」の拡大を伴うことになる。

だが、反体制運動が開始されてからのアサド政権による「市民的・政治的自由」の拡大措置は、反体制側を満足させることが出来なかった。例えば、B・アサド大統領は内閣の決定に基づき、1963年以来施行されてきた「国家非常事態」の解除と、「最高国家治安裁判所」の廃止を命令する大統領令に2011年4月21日に署名した1。しかしながら同時に、治安部隊メンバーの行動に対して免責特権を与える大統領令や、スンナ派のイスラーム組織「ムスリム同胞団」に所属することは死罪に値するとの同令が新たに公布された2。また、2012年2月26日には、現憲法が国民投票によって承認され、憲法改正が実現した3

アサド政権はこのように、国家非常事態の解除や最高国家治安裁判所の廃止、さらには現憲法における「政治的多元主義」の導入(第8条)といったように、一方ではシリアにおける「市民的・政治的自由」を漸進させてきた。特に、「バアス党が国家、社会の指導的党である」と旧憲法では規定されていた(第8条)ことから、シリアの政党制の実態がジョヴァンニ・サルトーリの言うところの「ヘゲモニー政党制」に分類可能な状況において4、「政治的多元主義」が現憲法で保障されたことは「民主化」への第一歩と見なされるものであった。

しかしながら、反体制側に対する治安部隊の強硬措置を大統領令で認めたうえに、アラブ世界で影響力を増していたムスリム同胞団を敵視し続けたことは、アサド政権の「民主化」努力が茶番に過ぎないものであるとの印象を、反体制側並びに多くのアラブ・欧米諸国に植え付けることになった。さらに、「包括的抑圧体制」から「ポリアーキー」に至る径路が、「少数の比較的同質的なエリートの間ではなく、社会諸階層と、政治思想をたとえ全部ではなくともほとんど反映する広範な代表者間で、相互安全保障の体系を創出することを必要としている」5との指摘があるなかで、アサド政権は基本的に反体制側との対話を拒否してきた。

以上のようなアサド政権の対応により、シリアにおける反政府武装闘争は2011年後半以降、激しさを増した。アサド政権は一時期、軍事的にかなり追い詰められたものの、2015年9月以降のロシア軍による大規模な軍事支援で態勢を立て直し、シリア各地を武力で次々と平定していった結果、現在はシリア領土のおよそ3分の2を支配下に置いている。他方、シリア領土の残り3分の1に関しては、その大半をクルド勢力が支配下に収めており、それ以外は反体制勢力や「イスラーム国」(IS)などの支配領域となっている。なお、ISの支配領域は現在、大幅に縮小しており、ISはシリオ沙漠地帯の狭い領域(「ポケット」)で孤立している(各勢力の支配領域は以下の地図6が示す通りである)。

(2)諸外国の介入

上述した4つの国内主要アクター(アサド政権、クルド勢力、反体制勢力、そしてIS)のなかで、アサド政権に対しては、政治・軍事・経済面では主にロシアやイランが支援し、政治・経済面では中国も支援している。また、クルド勢力に対しては、米主導の有志連合が軍事支援をしてきたが、ドナルド・トランプ大統領は一昨(2018)年12月19日に、米軍のシリア完全撤退に関して言及し、さらに昨(2019)年10月6日に、米軍(1000人規模)のシリア北東部からの撤退宣言を行った。その結果、米軍のプレゼンスはシリア北東部のクルド勢力支配地域において大幅に縮小し、上記の地図が示すように、タナク油田やオマール油田にごくわずかの兵力を残すまでとなっている。他方、反体制勢力に関しては、様々な武装組織が存在し、「穏健勢力」と「過激勢力」に大別される。「穏健勢力」の代表例がシリア国民軍(SNA:旧自由シリア軍)系諸組織であり、後者の代表例がシャーム解放委員会(HTS:旧ヌスラ戦線)である。シリア北西部のイドリブ地域並びにアフリーン地区、及びシリア北東部のユーフラテス北東岸地域におけるSNA系諸組織に対しては、トルコが軍事支援を与えており、さらにはトルコ軍がこれら地域に駐留して作戦も共にしている。また、シリア南東部のタンフ地域におけるSNA系諸組織に対しては、米軍基地の縮小が報じられたこともあり、米軍による軍事支援は減少傾向にあると見られている。

このように、主に米国、ロシア、トルコ、そしてイランがシリア国内の各勢力に様々な対外支援を行っていることから、同国はこれら諸国によるパワー・ポリティックスが展開される場となっている。シリアは、2011年3月までは地域政治の「主体」として対外的な影響力を行使してきたが、今や「客体」として諸外国による影響力の行使を受ける場となっているのである。

そこで、シリアにおける米露、米土、米イラン、露土、露イラン、そして土イランの各関係について概略する。米露関係に関しては、米国が反体制勢力を支援し、ロシアがアサド政権を支援していることから、両国は基本的には対立関係にある。だが、クルド勢力をめぐる米露関係は少々複雑である。なぜならば、米国がクルド勢力を見捨てた形になっていることから、クルド勢力はアサド政権、さらにはロシアとの関係を強化しているのである。しかしながら、シリア全土の完全掌握を目指しているアサド政権と、自治の維持さらには拡大を望んでいるクルド勢力との間では、双方の利害が一致していない状況である。そこで、アサド政権及びクルド勢力双方とのパイプを持つロシアによる調停の役割が期待されるところであるが、ロシアとアサド政権との長年に渡る親密な関係や、ロシアとトルコが近年その関係を強化していることに鑑みると、ロシアがクルド勢力の意向に沿った動きを取るのかは不明である。ゆえに、クルド勢力はアサド政権及びロシアに対するカウンターバランスとして、米国と完全に縁を切るわけにはいかないのである。

米土関係に関しては、両国共に反体制勢力に対する支援を対シリア政策の柱としてきた一方で、クルド勢力に対する両国の政策は相反しており、二面性を有していると言える。すなわち、トルコが「シリア民主軍」(SDF)や「シリア民主評議会」(SDC)といったクルド勢力を「テロ組織」と見なしてきたのに対して、米国はクルド勢力と同盟関係を築いてきた。だが、トランプ大統領が昨(2019)年10月に米軍のシリア北東部からの撤退宣言を行った直後に、トルコ軍及びSNA系勢力が対クルド勢力軍事作戦「平和の春」を発動した際には、米国はトルコの行動を強く非難する声明を発したものの、その行動を止めるための具体的な手立ては、限定的な経済制裁を例外として、殆ど講じなかった。これは、後述するような露土関係の緊密化といった事態を前にして、米国がトルコとの関係悪化を出来るだけ避けたいとする意思表示であったと言える。また、トルコ軍がこの作戦により、タッル・アブヤドからラス・アインに至る地域に「安全地帯」を確立するなかで、10月17日に出された米土共同宣言では、同地帯の治安がトルコ軍によって第一に担われることとされるなど、米土関係は「平和の春」作戦に伴いさらなる悪化が懸念されたものの、決定的な亀裂には至らなかったのである。

米イラン関係に関しては、トランプ政権がイランの核政策や対外政策などを問題視し、同国に敵対政策をとっているなかで、米国は反体制勢力を、そしてイランはアサド政権を、それぞれ支援している。そして、イランが「イラン革命防衛隊」(IRGC)やヒズブッラーなどの軍事プレゼンスを、アサド政権支配地区に維持していることに対して、米国は、イランがこうしたイラン系勢力を利用して、テヘランからバグダード及びダマスカスを経由してベイルートに至る「シーア派回廊」を構築して覇権を追求している、と見なしているのである。ただ、米国はシリアにおいてイラン系勢力に対する直接的な軍事行動を日常的にはとっておらず、米国の同盟国であるイスラエルがこうしたイラン系勢力に対する軍事行動を頻繁に起こしている。

露土関係に関しては、アサド政権支援のロシアと、反体制勢力支援のトルコとは、本来は対立関係にある。だが、ロシア主導のシリア包括和平を目指す試みである「アスタナ会合」(後述)が2017年1月に開始されて以降、トルコは「三保障国」(ロシア、トルコ、そしてイラン)の一員として同会合を支持している。さらに、一昨(2018)年9月17日の露土首脳会談においては、イドリブ地域における大規模戦闘を回避するために「イドリブ合意」が成立した。その後、「イドリブ合意」は現在に至るまで殆ど実現されておらず、アサド政権がイドリブ地域再掌握に向けての大規模攻撃に着手し、ロシア軍がシリア政府軍(SAA)に対して主に空爆支援を行うなかで、トルコは同地域に対する増派を行い、SNA系勢力に対する支援を強化している。このように、ロシアとトルコはイドリブ地域において敵対的な軍事行動を行う一方で、ウラジミール・プーチン大統領とレジェップ・タイップ・エルドアン大統領はしばしば電話協議を行うなど、事態がエスカレーションしないように出来る限り協力する姿勢をも見せている。ロシアとトルコはS400ミサイルの購入や天然ガスの供給などでも関係を深めており、それゆえに両国共に米国との関係が決して手放しで良好であるとは言えないことから、シリアでは軍事的に対立する局面が存在する一方で、事態鎮静化に受けて協力可能な時はそのようにするなど、両国関係は二面性を持っているのである。

露イラン関係に関しては、両国共にアサド政権を政治・軍事・経済的に支援している意味では、同盟関係にある。また、イランは「アスタナ会合」における「三保障国」の一員であることから、ロシア主導の和平の試みにコミットしていると言える。だが、ロシアとイランの間には、シリア国家の在り方に関する根本的な相違があると言わざるを得ない。すなわち、ロシアは自軍が展開するラタキアの海軍基地やフマイミームの空軍基地が安泰であるように、「パックス・ロシアーナ」(ロシア主導の平和)のもとでシリア国内を可能な限り安定化させることにプライオリティを置いていると想定される。ゆえに、ロシアはシリア政府(具体的にはアサド政権)の統治能力回復、さらには強化を望ましいと考えていると推察され、SAAの再建を自らの利益と見なすであろう。他方、米国やイスラエルからの軍事攻撃の可能性に常に晒されているイランにとり、シリアは軍事作戦上の要衝であり、これら両国に対する反撃をフリーハンドで実施可能な状況が望ましい。イランがIRGCやヒズブッラーによるシリア領内でのある程度自由な軍事活動こそ望ましいと考えている、と想定されることから、イランはその制約要因となりかねないSAAの再建には消極的とならざるを得ないであろう。また、アサド政権が支配領域を再掌握し、復興計画の策定・実施に乗り出すなかで、ロシアの企業とイランの企業がライバル関係になることも想定可能であり、両国関係には悪化の種が隠れていると言えるのである。

土イラン関係に関しては、トルコが反体制勢力を、イランがアサド政権を、それぞれ支援していることから、両国は対シリア政策を異にしている。だが、イラン及びトルコは共に、「アスタナ会合」を「三保障国」の一員として支援しており、シリア情勢に関して協議する場を有している。また、イランはトルコとコンタクトを持つのみならず、アサド政権と緊密な関係にあることから、イドリブ情勢が国際的な注目を集める状況において、イラン外務省は本(2020)年2月8日に、同国がトルコとアサド政権との仲介役を担う意向であることを表明した7

(3)和平に向けた国際的な動き

上記のように、シリアに対する各国の思惑が異なることは、結果として紛争解決プロセスを機能不全にさせ、内戦が長引くことになった。それでは、シリアにおいてはこれまで、どのように国際的な和平の試みがなされてきているのであろうか。ここでは、国連主催の「ジュネーブ協議」及びロシア主導の「アスタナ会合」を軸に考察する。

シリアで戦闘が拡大する状況において、コフィ・アナン・シリア問題合同特使は2012年6月末に、安保理常任理事国やシリア周辺諸国の外相などをジュネーブに集め、事態打開に向けた協議を行った(「ジュネーブ1」)。その結果、アサド政権のメンバーを含む「移行政府」の樹立提案を含む「ジュネーブ・コミュニケ」が6月30日に成立した8が、B・アサド大統領の退陣を要求する反体制勢力の支持を得ることは出来なかった。加えて、米国が2012年11月に、反体制勢力の統括組織としての「シリア国民評議会」の後継組織として、「シリア国民連合」の樹立を強力に後押ししたことから、米露間の溝は開く一方であり、シリア情勢解決の見通しが立たない状態が続いた。

このように、「ジュネーブ協議」は米露間の対立により、当初から暗礁に乗り上げた。だが、アフダル・ブラーヒーミー・シリア問題合同特使(アナンの後任として2012年9月に就任)が会議の実現に向けて積極的な外交を展開した結果、「ジュネーブ2」は2014年1月から2月にかけて2ラウンドに分けて開催されるに至った。しかしながら、B・アサドの処遇をめぐり、アサド政権と反体制勢力が真っ向から対立し、妥協点は見いだされなかった。

その後、「ジュネーブ3」は2016年2月になって開催されたものの、ステファン・デ・ミストゥーラ国連・アラブ連盟シリア問題合同特使(ブラーヒーミーの後任として2014年7月就任)は3日に、会議の一時的な延期及び25日の再開を発表した9。だが、これは実現せずに終わり、1年余りの中断の後に、2017年2月から3月にかけて開催された「ジュネーブ4」においても、アサド政権と反体制勢力の直接対話は行われなかった。同年3月に開催された「ジュネーブ5」も大きな成果なく終了し、「ジュネーブ6」(同年5月)では、「憲法および法律に関する技術的コンサルティブ・メカニズム」の設置が合意された。同メカニズムの設置に対する進展はその後見られず、「ジュネーブ7」(同年7月)、「ジュネーブ8」(同年11月~12月、2ラウンドに分けて開催)、そして「ジュネーブ9」(2018年1月、但しウィーンで開催)共に、実質的成果なく終了した。

このように、「ジュネーブ協議」が大きな成果を生み出すことなく、事実上休止状態に至っている背景には、アサド政権と反体制勢力との間にプライオリティの違いが存在することがある。すなわち、「ジュネーブ協議」における4つの主要議題(ガバナンス、憲法、選挙、テロとの戦い)の中で、政権側はテロ問題を優先すべきと考えているのに対し、反体制側は政権移行に繋がるような他のイシューに重きを置いているのである。また、「ジュネーブ8」においては、反体制勢力が合同代表団を形成10して参加したが、B・アサドの退陣に依然として拘ったことは政権側の不興を買った。さらに、後述する「アスタナ会合」の開催以降、とりわけロシアが「ジュネーブ協議」に関心を失っていることも、戦局で優位に立っているアサド政権に譲歩を促す方向に作用せず、反体制勢力との溝を広める結果となったのである。

ロシアは、「ジュネーブ2」終了後に「ジュネーブ3」の開催目途が立たないなかで、自らイニシアティブをとり、シリア情勢の打開に向けて動いた。ロシアは2015年1月及び4月に、アサド政権及び同政権によって許容されているシリア国内の反体制勢力が参加する和平協議をモスクワで開催したが、大きな成果なく終了した。その後、「ジュネーブ3」が中断されたままの状況において、プーチン大統領とエルドアン大統領は2016年12月16日に、カザフスタンの首都アスタナ(当時、現在のヌルスルタン)での、米国や国連が関与しない形での新たなシリア和平交渉の開催意向を表明した。そして、国連が12月31日に、安保理決議第2336号により、ロシア及びトルコ主導の停戦並びに和平会議開催支持を表明した結果、アスタナでの和平協議(通称「アスタナ会合」)は国際的なお墨付きを得ることになったのである。

「アスタナ会合」はこれまで、ロシア、トルコ、そしてイランを「三保障国」として14回にわたり開かれており、「アスタナ1」(2017年1月)、「アスタナ2」(同年2月)、「アスタナ3」(同年3月)においては、「アスタナ2」でアサド政権と反体制勢力の直接交渉が短時間行われた以外、大きな成果なく終了した。その後、「アスタナ4」(同年5月)において、ロシア、トルコ、及びイランを「保障国」とする「緊張緩和地帯」の設置が決まった。同地帯は、イドリブ地域、ホムス北部、ダマスカス郊外東グータ、シリア南部に設置され、イドリブ地域以外では同年7月から8月にかけて停戦が発効した。しかしながら、ホムス北部及びシリア南部では、露軍が展開してしばらくは停戦が概ね維持されたものの、最終的にはSAAが「テロ組織」と見なすHTSやISがこれら地区に拠点を構えていることを理由に攻撃を行い、他方で露軍が見て見ぬふりをすることで、掌握するに至った。また、東グータでは2018年春に、SAAに加えて露軍が、HTSが拠点を有していることを理由に空爆を中心とする猛爆撃を行い、人道危機が深刻化した。

この結果、イドリブ地域を除く「緊張緩和地帯」はアサド政権側によって掌握されることになったが、それでもトルコは「アスタナ会合」に参加し続けた。その背景には、ホムス北部、東グータ、そしてシリア南部のいずれにおいても、トルコが強力に支援していた反体制勢力が存在しなかったことがあった。その後、「アスタナ5」(2017年7月)、「アスタナ6」(同年9月)、「アスタナ7」(同年10月)、「アスタナ8」(同年12月)、「アスタナ9」(2018年5月)、そして「アスタナ10」(2018年7月、但しソチで開催)共に、大きな成果なく終了した。「アスタナ11」(2018年11月)においては、9月の露土首脳会談で設置が決まった、イドリブ地域における「非武装地帯」設置に関して協議が行われた。だが、協議終了後に具体的な進展は見られず、同地域でSAAと反体制勢力の間で戦闘が行われているのは既述の通りである。また、昨(2019)年には3回(4月の「アスタナ12」、8月の「アスタナ13」、そして12月の「アスタナ14」)開催されたものの、何れも成果は殆どなく終了した。

ロシアは他方で、アサド政権及び反体制勢力関係者を集めた「国民対話会議」を2018年1月にソチで主宰し、その結果として「憲法委員会」の設置が決まった。「憲法委員会」は、アサド政権側、反体制側、そして「独立系」のメンバー各50人から構成されることになっており、アサド政権及び「シリア交渉委員会」(SNC、旧「高等交渉員会」(HNC)であり、反体制勢力の統括政治組織)は各々、メンバーの候補者リストをデ・ミストゥーラに既に手渡した。だが、デ・ミストゥーラが同年9月11日に、「独立系」メンバー候補者リストのロシア、トルコ、そしてイラン政府関係者に提示したところ、ロシアとイランは事前に相談を受けていなかったことを理由に、そのリストを即座に拒否した。デ・ミストウーラは同年10月に辞任を表明し、後任にはゲイル・ペデルセンが就任した。

ペデルセンが「憲法委員会」の発足に向けた外交的努力を重ねた結果、昨(2019)年9月にようやく人選の完了と設置が宣言された。そして、同年10月末から第1ラウンドが翌11月上旬にかけて開催されたものの、同下旬の開幕が予定されていた第2ラウンドは実現しなかった。アサド政権側が「憲法委員会」を現憲法の改正のための協議の場と捉えているのに対して、SNC側は同委員会を新憲法の制定のための協議の場と見なしていることにより、議事次第に対する双方の同意が形成されなかったからであった。

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2020年6月10日

イラン/最近の政治変化

1979年の革命から現在まで続くイランのイスラーム共和制下では、国家元首である最高指導者をはじめとするイスラーム法学者が軍や司法府など国家の治安機構全てを掌握している。すなわち、国家に対する抗議行動には容赦のない弾圧が待ち受けている。それにもかかわらず、イランではこれまで幾度も大規模な抗議運動が発生してきた。

 革命後最大規模の抗議運動と言われているのが、2009年6月第10期大統領選挙後の不正選挙を訴えるデモである。アフマディーネジャードの再選が報じられた後、落選候補であるムーサビー(元首相)、キャッロビー(元国会議長)の選挙陣営が結果を認めず、彼らの支持者数千人が首都テヘランや主要都市においてデモに参加した。だが、デモの要求(選挙のやり直し)は認められず、体制による弾圧で幕を閉じた。デモを扇動した罪でムーサビー、キャッロビーは逮捕され、自宅軟禁に置かれ政界から遠ざけられた。さらに彼らを支持する主要政治家も逮捕の対象となり、次回以降の選挙で立候補資格を剥奪されるケースが相次いだ。

 直近の抗議運動としては、2019年11月に発生したガソリン値上げに対するデモが挙げられる。これは2009年とは対照的に、指導者が不在で、動員力に欠けるものの、銀行の焼き討ちなど暴力的な方法で抗議がなされた。治安部隊との衝突も激しく、国際人権団体アムネスティの発表によると抗議運動初期の11月15日~18日だけで死者数300、負傷者数千人に上るとされる。デモ発生を受けて体制は、デモ拡大を抑制するために、11月16日から1週間~10日にわたりイラン全国のインターネット接続を遮断した。

 これらの抗議運動は、大多数の国民が現体制に不満を抱いていることを象徴するものである。一方で、体制側も国民が体制を支持していることを国内外に示すために、大衆動員を行ってきた。大衆動員のために体制が使うスローガンは主に「反米」、「反イスラエル」である。すなわち、イスラーム共和制を批判する米国やイスラエルによる体制転覆という「陰謀」を阻止するために、国民が体制を支持していることを示す必要があるというわけである。例えば、毎年革命記念日(2月11日)や在テヘラン米国大使館人質事件(11月4日)などで反米デモが扇動されてきた。さらに選挙も体制への信任投票と位置づけられ、最高指導者をはじめとする体制指導部は、選挙参加を強く呼びかけてきた。また2020年1月イラン革命防衛隊ゴッツ部隊の司令官であったガーセム・ソレイマーニーが米国によりイラクで殺害される事件が発生した後、テヘラン、コム、ケルマーンで国葬が行われ、革命記念日以上の国民が参加したとされる。このように官製の(ただしソレイマーニーの国葬は自発的参加者も多い)大衆動員に参加する国民が実際に体制を支持しているかは定かではないが、少なくともイランの体制指導部は体制が多くの国民に支持されていることを装うことに重要な意義を見出している、と言える。

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2019年11月18日

インドネシア/最近の政治変化

1998年以降のインドネシアでは、大統領選出に前後して大連立が組まれることが常態化していた。しかし、2014年大統領選挙はジョコウィとプラボウォ・スビアントの大接戦となり、その後の国政は大統領選に際して組まれた連立に基づく与野党対立が続いた。当選したジョコウィ大統領が野党切り崩しによる地歩固めを行い、在野の急進的なイスラーム勢力と連合した野党の巻き返しが起こった。そしてインターネット上の辛辣なやりとりやフェイクニュース、そして政府の強権的な取り締まりが常態化している。2019年大統領選は社会に深い傷跡を残し、順調に進んできたとみなされてきたインドネシアの民主化にブレーキがかかったと評されている。

2014年10月に誕生した第一次ジョコウィ政権は少数与党で始まり、国会の主要ポストは野党に独占された。しかし老獪な人事と野党の切り崩しを組み合わせ、ゴルカル党、開発統一党が党の分裂を経て与党連合に加わった。明確な野党は、プラボウォのグリンドラ党とイスラーム主義の福祉正義党だけになった。ジョコウィはインフラ整備に力を入れる一方、大統領選で弱みになった、リーダーシップの欠如と世俗的イメージの改善を図り、高い支持率を維持した。

2019年の大統領選に向け、盤石に見えたジョコウィ政権であったが、これを揺るがしたのが2016年末の「宗教冒涜」事件である。きっかけは、華人でキリスト教徒のバスキ・チャハヤ・プルナマ(通称アホック)による「宗教冒涜」発言であった。アホックは9月末の遊説で、コーランの一節を根拠に異教徒の指導者を認めない勢力を茶化した。この発言が編集されてソーシャルメディアで拡散した。イスラーム急進派がアホックの「宗教冒涜」に対する抗議運動を指揮し、これに野党勢力も加わって、1998年以降最大規模の動員に成功した。アホックは2017年4月の州知事選挙で敗れた挙句、宗教冒涜罪で禁錮2年の罰を受けた。ジョコウィに近いアホックへの抗議は、ジョコウィの立場も危うくした。動員は、「#大統領交代」運動として継続した。

プラボウォの支持勢力は、ジョコウィやその支持勢力に「宗教冒涜」「共産党」「非ムスリム」「親中」といったラベルを貼り、「反イスラーム的」な政権とのイメージを植えつけた。他方、ジョコウィ側は急進的なイスラーム主義勢力への危機感を煽った。両陣営のプロパガンダには、ソーシャルメディアが駆使された。この結果、2019年4月の大統領選挙結果は、地域によって極端な分裂をした。つまり、一部のムスリム多数派地域ではプラボウォへの支持が9割近くになり、非ムスリム地域ではジョコウィが圧倒した。またこの過程で、政権はしばしば強権的な手法で取り締まりを行なった。ジョコウィは55.5%を獲得して再選されたが、社会に深い傷跡を残した。

2019年10月には第二次ジョコウィ政権が誕生した。プラボウォとそのグリンドラ党は連立政権に加わり、プラボウォは国防相になった。大連立による政権の安定が図られるとともに、プラボウォを始め退役軍人の入閣が目立った。新政権は「急進的なイスラーム主義との対決」を看板とし、宗教相にまで退役軍人が据えられた。このまま民主主義が後退していくのか、安定政権によって再び民主化の軌道に戻るのか、インドネシアは分岐点に立っているといえるだろう。

参考文献

  • 見市建「<インドネシア>庶民派大統領ジョコ・ウィドドの「強権」」『21世紀東南アジアの強権政治 「ストロングマン」時代の到来』明石書店、2018年、209-244ページ。
  • 見市建「インドネシアにおける「イスラームの位置付け」をめぐる闘争」『国際問題』675号、2018年、29-37ページ。
  • 見市建「インドネシア大統領選挙 二極化の虚実」『世界』55号、2019年、72-75ページ。
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2019年10月7日

リビア/最近の政治変化

リビア政治合意と国民合意政府

「リビア政治合意」とは、2015年12月17日に締結された、統一政府を樹立してリビア国内の政治対立の調停と平和構築を進める和平案である。

2012年7月の選挙を経て誕生した国民議会は、2014年6月の代表議会設立に抵抗し、傘下の民兵組織を動員して代表議会を攻撃した。これにより国内対立が激化し、治安悪化やジハード主義組織の伸長につながったため、国連や欧米、周辺諸国が和平調停を進め、リビア政治合意締結を主導した。

この合意によって2016年1月に発足した国民合意政府は、2019年9月に至るまで「正式な政権」として国際的に承認されている。同政府は行政機関、代表議会は立法機関、国家高等評議会(前・国民議会)は国民合意政府の諮問機関と定められた。国民合意政府の首相および執行評議会議長は、発足以来ファーイズ・サッラージュが務めている。しかし、代表議会は国民合意政府の信任投票を行っておらず、東部のトブルクに拠点を置き、独自の内閣や中央銀行、石油公社を持ち、国民合意政府に対抗している。

次期大統領・議会選挙の展望

2017年頃から、リビアの統治機構の再編と政治・治安の安定化を進めるため、選挙を求める声が主に国外で高まるようになった。国民合意政府は発足以来リビア全土を統治したことはなく、政治機構も脆弱で、リビアの安定化を主導することは難しいとみられている。不安定なリビアが地中海を越える移民の玄関口となり、ジハード主義組織や武装勢力の拠点となり、治安悪化に伴う原油生産量の乱高下がグローバルな石油価格の変動要因となっている現状は、周辺国にとって極めて大きな脅威だと認識されている。

さらに、国民合意政府の任期の問題もある。リビア政治合意には、国民合意政府の任期は代表議会による信任決議から1年間であり、この間に憲法が制定されなければ、1年のみ延長が認められると明記されている。憲法が国民合意政府設立後2年以内に制定された場合は、その時点で任期が終了する。国民合意政府が最初の会合を行ったのは2016年1月6日であり、これを起点とすれば2018年1月6日で国民合意政府の任期は終了することになる。ただし、代表議会は国民合意政府の信任投票を行っていないため、国民合意政府の任期のカウントダウンはそもそも始まっていないというロジックも成り立つ。

2017年9月20日、国連リビア支援ミッション(United Nations Support Mission in Libya: UNSMIL)の代表ガッサーン・サラーマは、リビアを安定化させるための「アクション・プラン」を発表した。それは、①全土での国民対話の実施、②リビア政治合意の修正と国民合意政府の組織改革、③憲法制定のための国民投票、④大統領・議会選挙を行うための法制度の整備という4つの柱からなる。また、UNSMILは2017年末の時点で、リビアの移行期間は2018年で完了すると述べ、同年中に大統領選挙を予定していることを明らかにした。

2018年5月29日、フランス・パリにおいて、リビアの諸勢力を招いた会談が行われた。この会談で、遅くとも同年の12月10日までに大統領・議会選挙を行うこと、および9月16日までに憲法草案と選挙実施に必要となる法案を制定することで合意された。しかし、大統領制を導入するための準備は進まなかった。カッザーフィー政権崩壊後のリビアは議院内閣制を採用しており、大統領に付与される権限、大統領と軍、議会および内閣との関係、議会の規模などを取り決めるための法的枠組みは存在しない。また、国軍の最高指揮権や任命権、中央政府と地方政府の関係なども不透明なままであった。

これらを規定するのが憲法と選挙関連法案ということになるのだが、立法権を持つ代表議会は憲法制定のための国民投票に関する法案審議を何度も延期してきた。代表議会が選挙関連法案を採択しなければ、高等選挙委員会も選挙を実施することができず、選挙が2018年中に行われることはなかった。2019年2月16日のミュンヘン安全保障会議にて、サラーマUNSMIL代表は、大統領・議会選挙の実施は「2019年末が最も現実的だ」と述べた。そして、選挙プロセスを進めるために「国民対話」を行い、国内で対立する諸勢力の和平調停を行うと発表した。

ハリーファ・ハフタル

内線以降のリビアの政治プロセスに大きな影響を与えてきたのが、リビア東部を実効支配する軍事組織「リビア国民軍(Libyan National Army)」のハリーファ・ハフタル司令官である。

ハフタルは、カッザーフィーによる1969年のクーデターの同志であり、1986年にリビア・チャド紛争(1978〜1987年)の司令官となるが、敗戦しチャドにて投獄された。その後は米国に約20年間在住したが、2011年のリビア政変時に帰国し、反カッザーフィー勢力を軍事的に指揮して台頭した。2014年5月には、リビア東部にて軍事組織「リビア国民軍」を率い、国軍、部族勢力、民兵組織などの諸勢力と「尊厳作戦(Operation Dignity)」を立ち上げ、リビア国内のアルカーイダ系組織やISへの攻撃を開始した。また、2015年3月には代表議会の軍総司令官に就任した。

「リビア国民軍」はジハード主義組織に対して軍事的に対抗できるほぼ唯一の勢力であり、エジプトやUAE、サウジアラビアといった域内諸国だけでなく、欧米からも支援を受けた。しかし、ハフタルは2016年のリビア政治合意と国民合意政府設立を外国の内政干渉として批判し、代表議会の強硬派と連携して国民合意政府への協力を拒絶した。

「リビア国民軍」はリビア国内において国軍や警察を凌ぐ軍事力を有し、国民合意政府と同等かそれ以上の政治力を持つ。また、リビア東部地域を実効支配し、諸外国の支援を受けて支配圏を拡大している。2019年1月、「リビア国民軍」はリビア南西部に進軍し、地元の民兵組織などを掃討した。これにより、ハフタルの勢力圏は東部~南西部へと拡大され、主要な油田の大部分も同軍の支配下に入った。

トリポリ周辺での衝突

2019年4月4日、ハリーファ・ハフタルは傘下の「リビア国民軍」に対してトリポリへの進軍を命じ、同軍はリビアの東部と南西部からトリポリに迫った。これを国民合意政府傘下の軍や同政府を支援する民兵組織が迎え討ち、大規模な武力衝突が発生した。トリポリ周辺での両者の戦闘は2019年9月現在まで継続しており、出口は見えていない。WHOは7月15日時点で死者1,093人、負傷者5,752人、避難者10万人以上と報告した。さらに、「リビア国民軍」をUAE、サウジアラビア、エジプトが、国民合意政府を支援する民兵組織をトルコが支援しており、「代理戦争」の様相を呈している。

4月には国連主導の「国民対話会議」が予定されていたが、戦闘により中止を余儀なくされた。また、2019年中に予定されていた大統領・議会選挙の実施可能性も大きく損なわれた。従来からハフタルを支持してきたフランス、ロシア、米国(トランプ政権)もハフタルへの圧力を高めておらず、国連や欧米としての一致した対応は出ていない。サラーマUNSMIL代表は国連安保理にて、戦闘が短期的に収束する兆候はないとして、人道状況の悪化に警鐘を鳴らした。同時に、諸外国の軍事支援が戦況を激化させていると非難した。

国連リビア支援ミッション

国連リビア支援ミッション(United Nations Support Mission in Libya: UNSMIL)は内戦中の2011年9月に「国連安保理決議2009号」によって設立が承認された。その主な目的は以下の通りと定められている。

  1. 公共の安全および秩序を回復し、また法の支配を促進すること
  2. 包括的な政治的対話を行い、国民和解を促進し、また憲法起草と選挙プロセスを始めること
  3. 説明責任のある制度と公共サービスの回復強化を含む、国の権限を拡大すること
  4. 人権、特に脆弱な集団に属する者に対するものを促進し保護すること、および移行期司法を支援すること
  5. 初期の経済回復のために要求される迅速な措置を講じること
  6. 適切な場合には、他の多数の関係者および両関係者から要請される支援を調整すること

UNSMILはリビアの和平や国家建設に取り組み、全国・地方選挙、2016年リビア政治合意の締結、対立する諸勢力の調停、諸外国のリビア支援の調整などを行ってきた。しかし、米、露、仏といった国連安保理の常任理事国がリビアに対して独自の関与を続ける中で、UNSMILおよび国連はリビアの安定化に向けて実効的な施策を打ち出せていない。

2017年からUNSMIL代表の座についたレバノン人のガッサーン・サラーマはリビア安定化に向けた「アクション・プラン」を発表し、①全土での国民対話会議、②「リビア政治合意」の修正と国民合意政府の組織改革、③憲法制定のための国民投票、④大統領・議会選挙を行うための法制度の整備を進めようとした。しかし、エジプト、UAE、フランス、イタリアが国連との十分な調整を行わないままに独自の「和平会議」を開催したことで、国連主導の政治プロセスは阻害された。

さらに、2019年4月以降のトリポリ周辺での衝突を受けて国民対話会議や大統領・議会選挙が暗礁に乗り上げる中、UNSMILは多くの課題を抱えている。

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2019年9月30日

ヨルダン/最近の政治変化

民主化の前提

ヨルダンの民主化は、三つの側面から説明できる。(a)民主主義への国内的条件:ヨルダンは独立後、立憲君主制下で近代化を志向した。1947年には初めての総選挙が実施された。また1952年憲法には、民主主義的原則が反映されており、同憲法下で政党活動は活発に展開され、また議会も政府に対する影響力を示していた。しかし、国王は国内的混乱を「外からの介入」によるものと判断し、1957年から政党活動の禁止と戒厳令の施行により、自由な政治活動は困難となった。その後、ヨルダン川西岸のイスラエルによる占領(1967年)を契機に、選挙そのものも凍結された。しかし、このような民主主義の経験は、その後の民主化の重要な初期条件を提供した。(b)国際的政治経済構造変動の影響:ヨルダンは、1988年に経済構造の脆弱性が表面化し、依拠していた外国からの十分な支援も受けられず、経済危機に陥った。先進国による構造調整は、政治改革の要請を伴っていたため、民主化への外的条件を提供した。また構造調整の求める緊縮財政は、ヨルダン・ディナールの下落、生活基本物資の価格値上げなどによる、市民の反発を呼び、1989年には南部地方での大規模な物価値上げ反対暴動を引き起こし、これが内的な改革・民主化への圧力となった。(c)ヨルダンの法的条件の変化:ヨルダンはパレスチナの一部であるヨルダン川西岸の領有権を主張してきたが、西岸の自立志向の拡大(インティファーダ発生など)の政治的影響を考慮した結果(国内のパレスチナ系住民の政治化)、1988年に西岸との法的・行政的な関係を断絶した。これは自国領土の占領という選挙法上の問題(自国領土たる西岸の代表を選べない)を解消した。 以上の3点以外に、2010年以降の中東域内のアラブ諸国の民主化運動の影響で、憲法や選挙法改正の議論が活性化したことが新たな民主化への条件を提供している。

上記に加え、ヨルダンの民主化をめぐる王政と国民の関係に関する特殊事情に注目することが必要である。政府は、国民生活に負担を強いる経済構造改革を実施するためにも、国民の理解を得やすい透明性のある政治運営を行う事で、国民の支持を得ようとした。しかし、過去の経験から、民主化による(外部からの政治的介入による)政治状況の混乱を避けたいという国王側の危機感があった。かたや民主化を求めてきた改革派エリートの中には、過去の民主主義導入による政治的混乱が結局、ヨルダンの民主主義の長い中断をもたらしたという経験を重視する傾向が見られた。そのような事情から、ヨルダンではフセイン国王を筆頭に、体制側と(反体制派を含む)政治エリート間の協議に基づいて、民主化のチャートとしての「国民憲章」(1991年)が起草される事になった。ここにヨルダンの「上から」でも「下から」でもない、妥協による民主化の構想が成立した。その後、多くの対立点を抱えながら、民主化プロセスが継続してきた背景には、このような国内におけるいわば現実的判断が作用していると見ることも可能である。

しかし、アブドゥッラー2世国王治下10年後の2011年には、チュニジアやエジプトなどの体制変革を伴う中東各国の民主化運動のうねりの中で、国王は首相の交代により民意への対応姿勢を示すという従来の手法で対応してきたが、憲法の改正と選挙法の改正による一歩踏み込んだ改革によって民意に応える姿勢を示さざるをえなくなった。

民主化プロセス

トランスヨルダン時代の1921年から戦間期をへて、7つの政党が主に英国からの独立と主権の確立を目指して活動してきた。しかし、これらの政党はエリート中心の組織にとどまり大衆的支持に基づいたものではなかった。1955年の政党法の下で、政党活動は活性化したが、野党と政府の対立やクーデタ未遂事件などを経て、戒厳令が敷かれ政党活動は長期にわたって凍結されることになった。

1989年には、22年ぶりの総選挙が実施された。この時点では、政党活動は認められていなかった。このため、福祉団体としての活動を認められてきたムスリム同胞団が、その組織力を選挙で圧勝し、80議席中22議席を獲得し、単独政治勢力としては第一党となった。この第11期議会の時、湾岸危機(1990年)が発生し、イラクへの多国籍軍介入反対の国内世論を背景にムスリム同胞団から初めて入閣者が出るなど、同砲団の議会内外での影響力は頂点に達した。しかし、その反動として、議会が政治的イデオロギーのやり取りで空転し、国民の一番の関心事である生活条件の改善に資する実質的な議論が全く進まず、議会に対する批判も芽生え始めた。湾岸戦争における親イラク外交があだとなって、国家運営上重要な援助国であるアメリカからの厳しい対応に苦慮した国王は、反米色を一向に弱めない同胞団を警戒するようになった。そのような中で1992年には政党法により、政党活動が公認され、1993年には新選挙法が施行された。

1993年11月の選挙では、ムスリム同胞団の後援の下に作られたイスラーム行動戦線(IAF)は、5議席減らす17議席しか票を獲得できなかった。この苦戦の原因を野党及びIAFは、1993年の選挙法改正の焦点である、投票方法の変更(連記制→SNTV(単記制))に求めている。その主張によると、部族的社会関係が強いヨルダンでは有権者は先ず身内の候補者に投票するが、連記制では次の人物として社会的活動の評価される候補者への投票が期待できたが、SNTVではそれが票に結びつくことが困難になるというものである。その説明の妥当性を判断するのは難しいが、この投票方法をめぐって、1997年には、IAFと野党の一部は選挙をボイコットするに至った。

1999年に民主化プロセスを開始したフセイン国王が死去し、息子のアブドゥッラー2世が国王に即位した。折から、西岸で起きた「アルアクサー・インティファーダ」などによる周辺の政治的混乱状況への対応などを背景に、アブドゥッラー2世国王は2001年に予定されていた選挙を延期したが、法的に延長の限界である2003年6月に選挙を実施した。また、アブドゥッラー2世国王は、イスラーム過激派に対しては即位直後から厳しい対応をしており、国内のハマース事務所を閉鎖し、政治指導者を国外追放したり、ブッシュ政権の「反テロ戦争」にいち早く全面協力を申し出たりするなど、フセイン国王より更に一歩踏み込んだ治安対策を特徴にしてきた。

2011年には、周辺の民主化の動きに刺激されて、民主化要求の動きが活性化した。その中で国王の権限縮小につながる憲法改正と懸案の選挙法改正が行われた。しかし首相指名をめぐる、国王の権限縮小問題では、モロッコの場合ほど大きな変革はなかった。選挙法に関してはSNTV改正と政党政治の推進が求められており、これに対しては2012年の選挙法改正によって、全国区の「政党枠」が設定され、有権者は地方選挙区で1票、全国区の「政党枠」で1票を投じることが決められ、部分的にSNTVに修正が加えられた。しかし、全国区の「政党枠」の代表率の低さ(議席の18%に相当)への批判と、地方の選挙区(1人区)においては実質的にSNTV方式が継続されたことへの批判が強く、イスラーム系で影響力のあるIAFやいくつかの有力野党勢力が選挙をボイコットした。これに対し、2016年には、行政区と選挙区を一致させることをめざす選挙区の大幅な改正が実施され、3つの対都市部を除いては、住民は選挙リストへの投票とともに定員内であれば複数の候補者への投票を認められた。これによって長年議論の対象となってきたSNTV方式は廃止された。前回ボイコットしたIAFなどの野党勢力は今回は候補者を擁立した。しかし、全国区の27議席が廃止された(その代わりに政党所属に関わらず候補者は政党リストを組み立候補する)ことに対し、政党政治浸透への努力が後退したという批判が寄せられた。また、15,000人以上の海外在住者の投票が廃止されたことも政治的権利の縮小と批判されている。

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2019年1月18日

バングラデシュ/最近の政治変化

1民主化の経緯

 1-1独立と中央集権化

自治権とベンガル語の公用語化要求に端を発し、1971年、第3次印パ戦争を経て、東パキスタンはバングラデシュとして独立した。そして、翌1972年にムジブル・ラフマン政権(アワミ連盟)のもと、民主主義、社会主義、政教分離を柱とする議院内閣制を基本制度とした憲法を制定した。当政権が社会主義と政教分離主義を目指した背景としては、パキスタンへの対抗上インドに近い立場をとったこと、当時のインドが冷戦構造の中でソ連陣営に与していたことなどが考えられる。しかし、独立後の経済停滞、物価高騰、洪水被害、援助物資の横流しなどによって高まった政権に対する批判を抑えこむため、ムジブル・ラフマン政権は大統領制へと移行し、一部の政党を非合法化するなど中央集権的な政治体制となっていった。

1-2軍事政権とイスラーム主義

1975年、青年陸軍将校によるクーデターによって、ムジブル・ラフマンが自宅にて殺害された。その際、ムジブル・ラフマン本人だけでなく、夫人や3人の息子を含む一族の大半が殺された(現アワミ連盟総裁のシェイク・ハシナは当時ヨーロッパを外遊中で難を逃れた)。事件後、ジヤウル・ラフマン陸軍少将がクーデターをおこして政権を掌握したが、ジヤウル・ラフマンも1981年に軍内部のクーデターによって暗殺された(表1)。事件以降政権を掌握したH・M・エルシャド陸軍中将とあわせて、バングラデシュにおいては15年間軍人主導の政治が続いた。ジヤウル・ラフマン政権、H・M・エルシャド政権ともに、政権掌握後、自らの政権の受け皿として政党を結成した上で選挙を実施し、自らが大統領として政権運営をおこなった。この過程の中で生まれたのがジヤウル・ラフマンのBNPであり、エルシャドのジャティオ・パーティ(Jatiya Party:以下JP)である。

また、政教分離主義を目指したアワミ連盟と異なり、イスラーム主義の復活もこの両政権の特徴であった。ジヤウル・ラフマンは1977年に憲法前文に「慈悲深く、慈愛遍くアッラーの御名において」の一句を挿入し、政党としてイスラーム主義を全面に押し出した。エルシャドは1982年にアラビア語を義務教育化した。1988年にはイスラームを国教と規定し、週の休みを、日曜日からイスラームの安息日である金曜日に変更した。

表1 バングラデシュにおける主なクーデター
1975年8月15日青年将校らにより、ムジブル・ラフマン大統領が、夫人や3人の息子をはじめとする近親者とともに殺害される。
11月3日軍部内のムジブル・ラフマン支持派であったハレッド・ムシャラフ准将が、巻き返しのクーデターを起こす。
11月7日軍内部で反ハレッド・ムシャラフ派によるクーデターがおき、ジヤウル・ラフマン陸軍参謀長が権力を掌握する。ジヤウル・ラフマンは77年4月に大統領に就任。
1981年5月30日軍部内の改革派グループにより、ジヤウル・ラフマン大統領がチッタゴンで側近に暗殺される。
1982年3月24日無血軍事クーデターによりフセイン・ムハマド・エルシャド戒厳司令官が権力を掌握し、戒厳令を引いた。翌年、エルシャドは自らが大統領であると宣言。

1-3民主化運動

1986年、市民および諸外国の民主化要求に応じる形で行われた総選挙において選挙操作があったとして、エルシャド政権に対する民主化運動が盛り上がりを見せるようになった。中心的な役割を果たしたのは学生や知識人で、首都ダッカを始め、国立大学のあるチッタゴンやシレット、ラジシャヒなどの大学キャンパス付近で反政府デモが繰り返されるようになった。この民主化運動の際にはムジブル・ラフマンの娘シェイク・ハシナが党首を務めるアワミ連盟とジヤウル・ラフマンの妻カレダ・ジアが党首を務めるBNPが共闘し、エルシャド政権打倒のための運動を展開した。

1-4民主化

一般的に、バングラデシュの民主化はH・M・エルシャド政権が上記の民主化運動によって倒された後の憲法改正によって、大統領を元首とする議院内閣制度が確立した1991年に果たされたと言える。エルシャド退陣後の1991年2月に実施された国会総選挙ではカレダ・ジア率いるBNPが勝利し、BNPは民主化後最初の政権党となった。以後、1996年選挙ではシェイク・ハシナ率いるアワミ連盟が、2001年選挙はBNP、2009年選挙はアワミ連盟と2大政党による政権運営が交互に続いてきたが、2014年の選挙ではアワミ連盟が再び勝利した。

制度上は民主主義とられているものの、 選挙実施に際しては有権者への目先の利益誘導が優先され、立候補者同士で具体的な政策が議論されるような機会は少ない。ときには現金が有権者へ配られることもあり、運用上の課題も少なくない。また、議会において政策上の意見の衝突があった場合には、議会ボイコットやホルタル(ゼネスト)、街頭デモといった手法で野党は対抗する。それらは時に先鋭化し暴力的な様相を呈することから、本来あるべき議会制民主主義がおこなわれているとは言いがたいのが実情である。

(2)最近の政治変化

2-1国際戦争犯罪法廷とイスラーム主義政党

アワミ連盟は91年の民主化以降、選挙のたびに独立戦争で西パキスタン側 に協力した者への処罰を主張することにより、戦争を経験した元軍人党員の支持を集め、党の結束をはかってきた。2008年12月の国会総選挙でも戦犯裁判の実施を選挙公約に掲げて戦い、3分の2以上の議席を獲得して地滑り的勝利を収めた。 そして、公約にもとづいて、2010年3月25日に、3人の裁判官と7人の検察官、12人の調査官を任命し「国際戦争犯罪法廷」を開く体制を整えた。「国際」と名付けられているが、2009年1月にアワミ連盟主導政権によって制定された国内法である国際犯罪(法廷)法(International Crime[Tribunal]Act)に基づく裁判であることから、その中立性には国内外から疑問符がつけられた。特に被疑者となったイスラーム主義政党の指導者と関係の深いパキスタンやトルコなどの中東諸国、死刑に反対の立場をとる欧州諸国は裁判の実施に強い懸念を示した。

裁判の対象は、1971年のバングラデシュ(東パキスタン)独立戦争当時、独立運動を弾圧したパキスタン軍に協力したものや、住民を虐殺したとされる者である。西パキスタン側への協力者の多くは、イスラーム主義政党の支持者であった。その中でも特に、農村住民に強い影響力をもつイスラーム教学者の支持のもと、地方にまで組織力を持つイスラーム協会(Jamaat-e-Islami:以下JI)が、反独立運動の中心的な役割を担っていた。JIは親パキスタンの立場から「和平委員会」と呼ばれる組織を結成し、独立に反対した。そして、イスラーム主義政党の地方・学生団体としてラザーカールやアル・バダル、アル・シャムスといった組織を編成し、和平委員会の下、アワミ連盟の活動家や独立を支持する知識人、ヒンドゥー教徒を虐殺した。反独立派はバングラデシュ独立による東西パキスタンの分断と、それによってヒンドゥー教徒が多数を占めるインドの影響力が南アジアで拡大することを恐れ、パキスタンに加担したとされる。一方で、独立戦争の際には、東パキスタンの独立派による反独立派に対する虐殺行為も同時におこなわれており、バングラデシュ独立戦争に際しては、独立派、反独立派の双方で、悲しむべき多くの虐殺事件がおきていたと理解すべきである。

しかしながら、戦犯法廷の対象がJIと一部のBNP指導者に限定されていることから、両党は裁判そのものが不当であるとして、激しい抗議運動を展開した。JI支持者や学生グループのメンバーは全国で治安部隊と衝突し、報道されているだけで300名以上が死亡する事態となった。アワミ連盟は、暴動を主導したとして2013年8月にJIを非合法化し、選挙資格を剥奪した。これらのことから、アワミ連盟による戦犯法廷設置の狙いは、野党指導者を裁判にかけ、有力野党の政治力を削ぎ、選挙を優位に進めることにあったと考えられ、その目的はおおむね達成されたと言える。

2-2シャハバーグ運動とイスラーム主義勢力

上述の戦犯法廷は2013年1月に元JI幹部のアブル・カラム・アザドに死刑判決をくだしたが、2月には同じく死刑判決が予想されていたJI幹事長補佐のアブドゥル・カデル・モッラに対しては終身刑をくだした。これに対して、「Blogger and Online Activist Network(BOAN)」に参加する若者たちが、ウェブサイト上でモッラ被告に対しても死刑を求める運動を呼びかけた。その結果、数万人規模の市民がダッカ南部のシャハバーグ地区交差点付近に集結し、無期限の座り込み集会をおこなった。シャハバーグ運動と名付けられたこの集会は、若者中心の市民運動として始まったが、ハシナ首相をはじめ、アワミ連盟の政治家も同調する姿勢をみせたため、政治色を帯びることとなった。

これに対して、JIとも関係の深いイスラーム主義団体であるヘファジャテ・イスラム(Hifazat-e-Islam)は、シャハバーグ運動を呼びかけた若者を、ムスリムとその予言者を冒涜する無神論者として、死罪を求める抗議行進をチッタゴンからダッカにかけて実施した。ヘファジャテ・イスラムは、全国の宗教学校に支持基盤をもつため、行進の途中に支持者が合流し、ダッカに到着する頃には、数十万人規模の集団に拡大していた。同組織は、反冒涜法の導入やシャハバーグ運動のリーダーの処罰、イスラーム主義にもとづく国家建設にむけた項目を含む「13か条の要求」を政府に突きつけた。シャハバーグ運動参加者との前面衝突にはいたらなかったが、イスラーム主義勢力の組織力を顕示する上では十分な効果があったといえる。

2-3イスラーム主義勢力による襲撃事件の増加

上記の国際戦争犯罪法廷に社会の注目が集まりはじめた2013年初頭より、イスラーム武装勢力による襲撃事件が増加した。襲撃の対象は、反イスラーム的であるとされたブロガー、外国人、宗教マイノリティに大別される。

ウェブ上で政治的意見を発言するブロガーは、バングラデシュにおけるインターネットの普及によって、急速にその存在感を増してきている。特に、アワミ連盟が戦犯裁判を推し進めることにより、戦犯推進派や保守的かつ武装主義的なイスラーム思想に対して批判的な立場をとる人びとが政権のお墨付きを得た形となり、活発に発言するようになった。また、自らの意見を誰からも精査されることなく容易にウェブ上で流布することができるようになったことから、イスラームに関する議論が過激な批判の応酬となって、互いの憎悪を高め合う結果となった。

これらを背景として、2013年頃から過激なイスラーム思想を批判する書き込みを行っていたブロガーや、戦犯裁判で被疑者に厳罰を求める運動をウェブ上で展開したブロガー、彼らの著作を発行する編集者、LGBT(性的マイノリティ)の権利を求める活動家などが、何者かに襲撃される事件が続いた。これに対してIS(イスラーム国)やインド亜大陸のアルカイーダ (Al Qaeda in the Indian Subcontinent: AQIS)は、彼らをイスラームの伝統的な教えに反する「無神論者」や「世俗主義者」であるとして犯行を認める声明をだした。

宗教マイノリティに対しては、シーア派宗教施設における無差別発砲事件や、イスラームの少数宗派であるアフマディヤのモスクにおける自爆テロ事件、ヒンドゥー教徒や仏教徒、キリスト教徒、イスラーム少数宗派に対する襲撃事件などが発生し、ISからの犯行声明がだされた。

また、2015年には外国人をターゲットにした襲擊事件が3件発生し、イタリア人2名、日本人1名が死傷した。外国人に対する襲撃事件がISの犯行声明の下、立て続けに発生したことに加え、ISの広報誌「ダービク12号」において、バングラデシュにおけるテロ活動の強化を示唆したことから、政府、各国大使館は警戒を強めた。

このような襲撃事件が断続的に発生するなか、2016年7月1日午後9時過ぎにダッカの外国人高級住宅街であるグルシャン地区のレストラン「ホーリー・アルチザン・ベーカリー」で、日本人7人を含む民間人20人が殺害されるという、大規模かつ計画的なテロ事件が発生した。事件は、武装した5人の若者によって引き起こされ、実行中にISからの犯行声明が出された。彼らはいずれも25歳以下で、バングラデシュにおいては富裕層・高学歴の部類に入る。事件当日はラマダン(断食月)の最終金曜日で、レストランは外国人客が多数を占めていた。実行犯は、殺害にあたりコーランの一節を朗読させたとの証言もあり、非ムスリムを狙って犯行に及んだことが予想される。

テロ事件後、政府はテロを一切容認しない「ゼロ・トレランス・ポリシー」を掲げ、取り締まりの強化にのりだした。現地治安当局は、2017年5月までの間に武装勢力のメンバー92人を殺害、1050人を拘束した。殺害されたなかには、ダカ襲撃テロ事件の首謀者とみられるタミム・アフメド・チョウドゥリも含まれる。また、若者が過激思想に感化されるのを防ぐために、テレビCMや看板を作成するなど、政府は一般の人の目に見える形で過激派の問題を提起した。 これによりイスラーム武装勢力内および組織間の指示系統は分断され,資金調達能力を低下させたことから,武装勢力による襲撃事件は減少した。

また、2018年7月23日にダカ襲撃テロ事件の起訴状が提出され、12月3日に裁判が開始された。警察は容疑者を21人と断定したが、そのうち13人は容疑者死亡で起訴見送りとなった。起訴状によると、事件はイスラーム武装勢力バングラデシュ・ムスリム戦士団(JMB)の分派、ネオJMBによって実行された。ネオJMBは6カ月間かけてダカ襲撃テロ事件を計画したとされる。テロの目的は、バングラデシュを不安定なテロ国家にすることだった。裁判では、逃亡中の2人を除き、起訴時点で逮捕拘留されていた6人全員が無罪を主張した。

2-4国民議会選挙

憲法第123条第3項(a)によると,任期満了による解散の場合,解散の期日に先立つこと90日前から解散の期日当日までの間に選挙を行うこととされる。現ハシナ政権の初議会は2014年1月29日であるため,次回国会総選挙は2018年10月31日から2019年1月28日までの間に実施される見込みだ。

しかし,総選挙を前に,野党関係者の拘束・襲撃事件が多発しており,野党関係者は批判を強めている。最大野党BNPは報道に対して,2013から2017年の間に34人が逮捕、435人が失踪し,そのうち252人がいまだに行方不明,39人が遺体で発見されたとして、与党アワミ連盟を非難した。

2018年2月8日には、ダッカ特別裁判所が慈善団体の基金横領の容疑でカレダ・ジアBNP総裁に懲役5年の有罪判決,ロンドンにいるタリク・ラフマンBNP上級副総裁に懲役10年の有罪判決を言い渡した。ジア総裁が刑務所に収監される事態を受け,BNP は全国で抗議運動を展開した。一連のBNP幹部の逮捕は,2年以上の懲役刑を受けた者で釈放から5年以内の者は国会総選挙に出馬できないという憲法規定を利用したBNPへの攻勢であるとの見方も強い。

BNPは2月6日にハミド大統領によって任命されたフッダ選挙管理委員長はハシナ政権と関わりが深いとして批判しており,中立的な「選挙時支援型内閣」の設置を要求している。これに対してアワミ連盟は憲法上の規定にないとして応じない構えをみせている。

また、アワミ連盟政権下においては国定教科書におけるイスラーム関連記述の増加や、宗教学校卒業者への公的な資格付与、最高裁判所の前に設置されたギリシャ神話の女神テミスをモチーフにした像の撤去など,イスラーム主義団体の要求に沿った政策が次々と実行された。世俗主義を標榜するアワミ連盟がこれまで手を付けてこなかった分野での政策変更は,総選挙を睨んでのイスラーム主義層の取り込みであるとの見方が強い。

国連事務総長の報道官は,2018年2月26日,国際社会にロヒンギャ難民支援を訴える一方で,バングラデシュ政府に対して公正な選挙を求める声明をだした。ロヒンギャ難民支援を大規模に実施する以上,国連としてもバングラデシュに民主的な体制を維持してもらう必要があることから,今後もアワミ連盟に対する公正な選挙実施にむけた国際社会からの圧力が強まると考えられる。

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2019年1月18日

マレーシア/最近の政治変化

マレーシアの政治体制は、民主主義と権威主義の中間のグレーゾーンの体制か権威主義体制の亜種として長く認識されてきた。つまり、マレーシアの政治体制は、独立以降、一貫して複数政党が参加する競争的な選挙が定期的に実施されている一方で、選挙の公平性、言論・表現や集会の自由に関わる市民的自由などの点で疑問符がつく体制であり、その体制が長期にわたり続いてきたのである。

2018年に政権交代が起こるまでの60年間以上、与党の地位にあったのは、エスニック・グループと地域をもとにした政党から構成される政党連合の国民戦線(Barisan National: BN)とその前身の政党連合にあたる連盟(Alliance)である。しかし、連盟およびBNによる統治は2018年総選挙で政党連合の希望連盟(Pakatan Harapan: PH)が勝利することで終焉を迎えた。本稿執筆時点でのマレーシアは体制変動の最中にある。

マレーシアの体制変動と民主化を考える際には、60年以上続いた連盟およびBNによる統治の時代と2018年総選挙で起こった選挙を通じた体制変動の双方を取り扱う必要がある。そこで、マレーシアの「民主化(と政治体制を巡る問題)」を考える際には、以下のように、独立以降の歴史を5つの期間、(1)独立から「5月13日事件」までの期間(1957~1969年)、(2)BN体制の成立期(1970年代)、(3)マハティール政権期(1981年~2003年)、(4)BN体制内改革とその反動の期間(2003年~2018年)、(5) PHによる統治の期間(2018年~現在)、に区切って見ていくことで理解が容易になる。

 (1)  独立から「5月13日事件」までの期間(1957~1969年)-コンソシエーショナル・デモクラシーの時代

1957年のイギリスからのマラヤ連邦独立を達成した「独立の父」で初代首相トゥンク・アブドゥル・ラーマンが率いたのは、与党連合の連盟である。マレー人政党の統一マレー人国民組織(UMNO)、華人政党のマラヤ華人協会(MCA、後にマレーシア華人協会)、インド人政党のマラヤ・インド人会議(MIC、後にマレーシア・インド人会議)の3党のエスニック政党から構成された連盟は、独立時の憲法に明記されたマレー人と(華人が中心の)非マレー人との間の「取り引き(bargain)」を政治的に担保する仕組みであった。その「取り引き」とは、移民である華人やインド人の市民権を与える代わりに、先住民とされたマレー人に、文化上の優位性(イスラームの国教化やマレー語の国語化など)と憲法153条で規定された社会・経済上の特権(公務員任用、高等教育機会、事業ライセンス付与におけるクォータ枠など)を確保することにあった。

連盟の統治は、UMNO、MCA、MICという各エスニック集団を代表する与党の幹部の個人的な紐帯と協調関係に支えられていた一方で、歴代の首相、内務大臣、国防大臣、教育大臣など政治・文化系の大臣ポストはUMNOから、財務大臣や商工大臣など経済系の大臣ポストはMCAから輩出され続けたことから分かるように、各エスニック集団間で領域ごとの権力の分有が行われていた。これは、政治学者のレイプハルトがコンソシエーショナル・デモクラシー(多極共存型民主主義)と呼んだ民主主義の在り方に極めて近いものであった。しかしながら、「独立の父」ラーマン首相に率いられた連盟の統治は、1969年に起こったエスニック暴動によって終焉を迎えることになる。

(2) BN結成(1970年代)-BN体制下のUMNOのヘゲモニーの確立

1969年5月13日に首都クアラルンプールで起こったマレー人と華人との衝突(「5月13日事件」)の責任をとる形で初代首相ラーマンが退任し、第二代首相にラザクが就任すると、政治体制の大きな転換が起こる。ラザク政権は、マレー人が華人を中心とする非マレー人に対して経済的に劣位に置かれていることが5月13日事件の背景にあると見なし、マレー人(と一部の先住民)への経済的支援に積極的に乗り出した。ラザク政権がこの時に20年間の国家政策として打ち出したのが新経済政策(New Economic Policy: NEP)であり、NEPはその後のマレー人優遇政策の柱となった。このNEPを、安定した政治環境の下で達成するために憲法や扇動法の改正が図られ、「センシティブ・イシューズ(sensitive issues)」と呼ばれる、市民権、マレー人の特権、国語としてのマレー語、スルタンの地位などを公的に議論することが禁止され、言論・表現の自由に箍がはめられた 

マレー人優遇政策を安定した政治環境の下で達成するもう一つの政治的枠組みが、連盟を再編する形で1974年に結成されたBNであった。BNには従来の連盟の所属政党であるUMNO、MCA、MICに加え、ペナンに基盤を持ち、華人を中心とした非マレー人を主な支持層とするグラカン(Gerakan)、インド人の指導者を持ち、ペラで大きな勢力を誇った人民進歩党(PPP)や、UMNOの独立以来のライバルにあった汎マレーシア・イスラーム党(PAS)、サラワクの政党であるサラワク統一ブミプトラ伝統党(PBB)とサラワク統一人民党(SUPP)、サバからは統一サバ国民組織(USNO)といった政党がBN結成に参加し、一挙に巨大与党連合が出現した。

本稿では、このBNによる統治体制をBN体制と呼びたい。このBN体制による統治は、エスニック集団と(サバ州とサラワク州に代表される)地域に基づいた多様な政党がBNという傘の下に集結することで、全ての国民の利益が表出され、調整されるという論理に基づいて正当化されることとなった。初期のBNはマレー人優遇政策を実行していくうえでの政治的安定を維持するための装置として作られた一方で、全てのエスニック集団や地域の代表を集め、それを調整するための組織としての論理が埋め込まれていたのである。

マレー人優遇政策を実行に移すための制度の構築が進む中、BN内部でUMNOは連盟時代にも増して影響力を拡大し、ヘゲモニーを確立することになる。それを端的に示すのが、大臣ポスト配分の変化である。前述のように、独立以来MCAは伝統的に財務大臣と商工大臣という経済政策の決定の根幹に関わるポストを独占してきた。しかし、ラザク政権以降、財務大臣や商工大臣のポストはUMNOが独占し、MCAは運輸大臣や保健大臣などのポストを得るに留まった。このことは、これまでMCAが大きな影響力を持ってきた経済政策の決定に関しても、UMNOが決定権を握ることになったことを意味する。また、70年代以降、政府は国民文化政策を発表し、言語、教育、文化などの面におけるマレー文化の普及を推し進めたが、この過程においてマレー人の守護者を自他とも認めるUMNOの地位も一層揺るぎないものになっていった。 

(3) 第一次マハティール政権期(1981年~2003年)-首相への権力集中とレフォルマシ運動

1981年に発足したマハティール政権は、2003年まで22年間続いた。民主化の観点から見れば、マハティール政権期とは、全体としては権威主義化が進む中で、行政権力を司る執政、つまり、マハティール首相への権力集中が進んだ時代であった。ただし、そうした中でも、マハティール政権の22年間は前半の80年代と、後半の90年代以降に分けることが可能である。

(3-a) 第一次マハティール政権前半期(80年代)

1981年に首相に就任した当初のマハティールは、「ルック・イースト政策」や民営化政策など次々と新たな政策を打ち出していったが、その政権基盤は必ずしも盤石なものではなかった。まず、マハティールは50年代から60年代の独立期にUMNOを直接指導した「第一世代」のリーダーではなく、70年代のラザク政権期に頭角を現した「第二世代」の政治家にあたり、またスルタンや貴族層の家系以外からの初めての首相であった。そのため、マハティールは、同じく「第二世代」指導層のライバルであるラザレイ・ハムザやムサ・ヒタムといった政治家を閣内に取り込みつつも、常に彼らを潜在的挑戦者として考慮しながら活動をせざるを得なかった。また、マハティール政権は、国王・スルタンや司法など政府を構成する諸組織との軋轢も経験している。さらに、80年代に入ると、ジャーナリストや弁護士などの専門職団体、環境や人権問題などを扱うNGOなど市民社会アクターの活動が活性化し、BNがほぼ完全にコントロールする議会や行政などの制度的装置の枠組みの外側から要求を突きつけ、政府・与党(関係者)の汚職や権力乱用を厳しく批判するようになった。このように、発足当初のマハティール政権は政府・与党の内外からの圧力に取り囲まれており、マハティール首相は強力な権力を握ってはいるものの、それを掣肘する制度的装置や(新旧の)アクターの活動も活発であった。

しかしながら、マハティール政権は、政府・与党内外の圧力に対応しながら、それを弱めてくことに成功していく。与党内のライバルに対しては、1987年のUMNOの党役員人事選挙での勝利、その後のUMNO分裂過程での反対派の排除を通じて、マハティールの党総裁としての権力が強化された。国王・スルタン制度に対しては、国王の立法権の制限(1983年)、スルタンの免責特権の廃止(1993年)、司法制度に対しては、最高裁判所長官の罷免(1988年)などを通じて介入した。活性化しつつあった市民社会アクターに対しては、印刷機・出版物法の制定(1984年)と改正(1987年)、国家機密法の改正(1986年)や国内治安法による主に野党指導者やNGO関係者の一斉逮捕と日刊紙3紙の一斉停刊(「オペラシ・ララン事件」1987年)などを通じて、その勢いを一時的に削ぐことに成功した。

以上のように、政府での執政としての首相権力の拡大、与党UMNO内での総裁支配の確立、市民社会からの圧力の一時的な後退などを受け、90年代初頭までにマハティール(とその周辺)への権力の集中が著しく進むことになった。

(3-b) 第一次マハティール政権後半期(90年代以降)

首相への権力の集中をみた90年代以降のマハティール政権下では、2020年までに先進国入りする目標を掲げた2020年ビジョンの策定、新空港や行政首都プトラジャヤの建設、先端情報通信技術導入を進めるためのマルチメディア・スーパー・コリドー計画など国家主導の大規模プロジェクトやビジョンが次々と打ち出されるとともに、経済的にも好況が持続したため、政権は90年代半ばまで大きく安定した。

しかし、90年代末になると、マハティール政権は大きく動揺する。1998年にアジア通貨危機から発展した経済危機からの回復策をめぐってアンワル副首相兼財務大臣がマハティール首相と対立し、最終的に政府・与党から追放され、汚職と異常性愛の罪で投獄される。これをきっかけに、BN体制下での汚職、権力乱用や権威主義的な法などを問題として取り上げ、政治と社会の変革を求めるレフォルマシ(改革)運動が広がった。 

レフォルマシ運動は投獄されたアンワルへのマレー人を中心とした自然発生的な同情から始まったが、野党はそうした人々の感情を糾合し、与党BNに対抗していくための組織づくりを進めていった。最終的には、1999年11月に実施された総選挙の前月に、野党4党が合意して野党連合の代替戦線(BA)が結成されることになる。BA結成の意義は、これまでイスラーム主義を信奉し、マレー人に支持基盤を持つPASと、社会民主主義を党の基本理念として非マレー人に支持基盤を持つ、民主行動党(DAP)が、アンワルの妻が代表を務める国民公正党(PKN)などを仲立ちにして、BNに対抗する一つの野党グループを結成したことにある。野党を糾合する試みは80年代末にもあったものの、PASとDAPが同じ旗の下で連合を組むことは初めてであった。BAは、1999年総選挙で主にPASの躍進を可能にした原動力の1つであった(3の選挙の箇所の表も参照)。1999年総選挙後のBAは、イスラーム国家を巡る問題でPASとDAPが対立し、BAからのDAPの離脱を引き起こして、事実上その役割を終えていく。ただし、後述する2008年総選挙での新たな野党連合結成の方向性を決定づけたものとして評価することができる。

(4) BN体制内改革とその反動の期間(2003年~2018年)-改革の試みと市民社会の活性化 

レフォルマシ運動を経て1999年総選挙では、マレー人有権者のUMNOに対する反発の高まりの中で、UMNOは議席を大きく減少させた。UMNOの立て直しが急務となったが、その期待を背負ったのは、マハティールの後を継いだ第5代首相のアブドゥラ・バダウィと第6代首相のナジブ・ラザクである。

その権威主義的な政治姿勢への反発も強かったマハティールは22年の在任期間を経て2003年に首相を退任した。マハティールの後に首相に就任したのは、第5代首相となったアブドゥラ・アフマド・バダウィと第6代首相となったナジブ・ラザクである。アブドゥラとナジブが首相だった時代はレフォルマシ運動の影響を受けて始まったBN体制内からの改革の時代であり、それが部分的な成果にとどまる中で改革が挫折していく時代でもあった。

(4-a) アブドゥラ政権期(2003年~2009年)

20年近く首相の座にあり、一部ではその権威主義的政治スタイルに対する反発も強かったマハティールの後継者の問題は、敬虔なムスリムであると同時に中華文化や西洋文化への理解を示す「新しいマレー人」指導者の代表格として高い人気を誇り、後継者として確実視されていたはずのアンワルが失脚しただけに、BN体制に深刻な動揺を与えた。そこで、マハティールは後継者として、当時、ミスター・クリーンと呼ばれ、そのソフトな人当りや飾らない人柄が評価されていたアブドゥラを指名した。

アブドゥラは、首相就任後、政府・与党の汚職の根絶、警察制度の改革、大規模プロジェクトの廃止、農業の振興など前政権の課題に取り組むとともに、独自の路線を打ち出した。発足当初の新政権の姿勢は国民に改革への期待を抱かせ、翌2004年3月に実施された第11回総選挙ではBNは連邦下院議席の9割以上を獲得し、圧勝した。国民からの圧倒的支持を得て、2004年総選挙後のアブドゥラ政権は、課題となっている政府・与党の制度改革に乗り出そうとしたが、改革が実行に移せないまま、アブドゥラ首相のリーダーシップへの不満が高まっていった。

アブドゥラ政権期は、新聞やテレビに代表される主流メディアについての政府の規制が前政権期よりも緩和されるとともに、インターネットを使ったニュース・サイトやブログなどのオンライン・メディアが国民の間に浸透していった時期でもある。特にオンライン・メディアは、これまで政府や与党が実施してきたメディア統制でカバーしきれない新たな情報源と言論空間を作り出し、野党やNGOの活動にとって以前よりも有利な状況を作り出した。

さらに、アブドゥラ政権末期から専門の調査会社や大学による世論調査が実施され、メディアがその結果を報道するようになっていく。また、本格化するのは次のナジブ政権からとなるが、首相の演説のライブ放送や、与党政治家も含めた政治家によるツイッターやフェイスブックでの情報提供が行われるなど、情報化が進む中で、政治的コミュニケーションの方法に新たな展開が見られるようになった。

他にも重要な点として、アブドゥラ政権期は半ばを過ぎると、90年代末のレフォルマシ運動以来の大規模な街頭での抗議デモが散見され始めるようになった。以上の点を踏まえれば、アブドゥラ政権期には前政権よりも確実に政治・社会的な自由化が進んだと言える。

以上のような政治・社会的な自由化が政治的コミュニケーションの変化とともに進んでいった一方で、アブドゥラ政権は抑圧的な法の改正や70年代からBNが掲げてきたマレー人優遇政策の転換など具体的な改革の成果を国民の前に提示することには失敗した。改革を実行に移せない政権への国民の不満の高まりと、前政権期よりも相対的に自由な政治・社会が根づいていく中で実施された2008年3月の第12回総選挙では、与党BNは結成以来はじめて、連邦下院議席の3分の2の議席を割り込む歴史的な後退を経験するだけでなく、経済的に最も発展した地域であるマレー半島西海岸部の4州の州政権(スランゴール州、ペラ州、クダ州、ペナン州)を野党に奪われることになった(ただし、ペラの州政権は野党からの離反者が出たために2009年に与党が再び奪回)。

この2008年総選挙では、PAS、DAP、人民公正党(PKR)の野党3党は、候補者の調整や選挙区での協力体制を進め、総選挙後の4月1日には新たな野党連合の人民連盟(PR)を結成した。2008年総選挙でのPRの大躍進によって、マレーシアはBNとPRという2大政党(連合)が政権をめぐって争う新たな段階に突入した。

(4-b) 第一次ナジブ政権期(2009年~2013年)

2008年総選挙でのBNの大幅な勢力後退の責任を取る形で、アブドゥラは首相を退任した。そのあとを継いで第6代首相に就任したのは、第2代首相のアブドゥル・ラザクを父に持つナジブである。ナジブ政権は2013年総選挙の前後で政権の方針や性格が異なる。2009年から2013年の第一次ナジブ政権期には部分的な政治的自由化や経済改革が進むこととなったが、2013年総選挙後の第二次ナジブ政権期には政治的自由化や改革が後退する反動の時代を迎えることになる。まずは第一次ナジブ政権期からみていことにしよう

2009年にアブドゥラから政権を引き継いで第6代首相に就任したナジブにとって、2008年の第12回総選挙で失われたBNへの支持を回復させることが至上命題であり、政権運営は常に次の選挙を意識したものとなった。しかし、世論調査会社のムルデカ・センターの調べでは、ナジブ首相の就任時の支持率は45%であり、歴代首相と比べても非常に低い支持率からの政権スタートであった。逆風の中からのスタートとなったナジブ政権は「1つのマレーシア、国民第一、即実行(One Malaysia, People First, Performance Now)」のスローガンの下、前政権が実行できなかった政治・経済改革に取り組んでいくことになる。

ナジブ政権は2010年に、行政改革のプログラムとして政府変革プログラム(GTP)、経済改革の指針としての新経済モデル(NEM)とその手段である経済変革プログラム(ETP)を発表した。GTPでは国家重点達成分野(NKRAs)として、犯罪減少、汚職撲滅、教育の機会と質の向上、低所得者の所得水準引き上げ、村落部の基礎的インフラ改善、都市部の公共交通機関の改善の6分野(後に生活費上昇への対策を含め7分野)で新政策を打ち出した。NEMでは、マレーシアが直面している「中所得国の罠」から抜け出して2020年までの先進国入りを果たすため、「高所得」、「包括性」、「持続性」をキーワードとして市場経済をより重視した政策を採用することを謳った。重要なのは、NEMでは、従来のエスニック集団を基準にした貧困者対策から所得を基準にする対策への転換が謳われたことであり、これまで続けられてきたマレー人優遇政策の見直しを図ったのである。

ナジブ政権は上記のような行政・経済改革案を政権主導で次々と提示することにより、ナジブ首相の改革者としてのイメージを国民に浸透させていこうとした。その結果、政権運営が安定してきたことも相まって、首相の支持率も6割を越え、2010年5月には72%を記録した(2014年1月段階で72%はナジブ政権で最も高い支持率である)。

その一方で、第一期ナジブ政権の政治的民主化については、野党や市民社会が主導し、それを政権が受け入れる場面が目立つようになる。本稿の選挙の項目でもふれるように、選挙制度改革を求める社会運動が2010年から活性化し、2011年と2012年に大規模な街頭デモを行った。特に2011年7月に行われたデモの後、支持率の急落(59%)に直面したナジブ政権は、国内治安法や扇動法など一連の抑圧的な法の廃止や改正を9月15日のマレーシア・デイのテレビ中継のスピーチで約束し、翌年からそれらの法の廃止や改正を実施していった。

2013年に実施された第13回総選挙でBNは政権を維持したものの、BN体制を揺るがす不安定要素が露呈することになった。第一に、連邦下院の議席数はBNが133議席でPRと89議席となってBNが過半数を維持したが、得票数ではBNが47%でPRが51%となり、PRがBNを逆転した。得票数で逆転されているにもかかわらず、BNが議席数で大きくPRを引き離して政権を維持した原因は、選挙の項目で後述するように小選挙区制と「一票の格差」に求めることができる。

第二に、133議席を獲得したBNだが、その内訳をみれば深刻な問題が既に浮上していた。BNの133議席のうち88議席を占めるUMNOは前回2008年総選挙から議席を9議席増やした。その一方で、マレー半島が基盤の華人政党のMCAは前回よりも8議席を減らして7議席しか獲得できず、同様に主に華人が支持基盤であるマレーシア人民運動(GERAKAN)は1議席しか獲得できなかった。BNのインド人政党であるMICは前回選挙より1議席増やしたものの、4議席の獲得に留まった。BN構成政党のうちサラワク州で活動する華人政党のサラワク統一人民党(SUPP)も前回選挙より5議席を減らして1議席の獲得に留まった。2013年総選挙結果を受けてナジブ首相は「華人ツナミ」が起こったと評したが、BN支持の華人票が総崩れとなったという意味で正しかった。BNに対する非マレー人からの支持の減少は2008年総選挙のときから止まらない継続的なトレンドであり、2013年総選挙ではそのトレンドがいっそう露わになったといえる。BN体制はこれまで全てのエスニック集団と地域の代表としての論理に基づいて統治を行ってきた。しかし、2008年と2013年総選挙を経て非マレー人からの支持の大幅な支持の減少が誰の目にも明らかになったことで、これまで体制が対外的に誇ってきた「全てのエスクック集団と地域の代弁者」としてのBN統治の論理の正当性が大きく揺らぐことになった

華人を含めた非マレー人からのBNに対する支持が大きく後退する中で、BN体制を維持するうえでの防護壁となったのは東マレーシアのサバ州とサラワク州である。2013年総選挙でマレー半島の選挙区に限ったBNとPRの連邦下院選挙での戦績は85対80の議席数でほぼ拮抗していた(偶然ながら、2008年総選挙時の結果と全く同じ)。2013年総選挙で最終的なBNの133議席とPRの89議席の差をもたらした大きな部分はサバ州とサラワク州の議席であったともいえる。

(4-c) 第二次ナジブ政権期(2013年~2018年)

2013年総選挙後の第二次ナジブ政権は第一次の政権が行ってきた改革の後退がみられる一方で、国民の増加がみられるようになった。政治的自由化の面では、市民的自由を抑圧する方向で法律の制定や改正が行われた。具体的な制定・改正が行われたのは、扇動法改正、刑法改正、犯罪防止法、テロリズム防止法、国家安全保障審議会法などである。このうち、テロリズム防止法は最長2年間の被疑者の拘禁を認めており、形を変えて国内治安法が復活したともみることができる。さらに、国家安全保障審議会法によって首相を長とする8名の閣僚からなる国家安全審議会の設置が可能となった。首相はこの審議会での決定に沿って国王の認可なしに非常事態宣言を出して事実上無制限に市民的権利を制約することができるようになった。第一次ナジブ政権が抑圧的法律を廃止・改正した時には、市民的自由の根本的な改善については疑問符が付くものの、自由を拡大する方向へ前進はしていた。しかし、2013年総選挙後の第二次ナジブ政権は、抑圧的法律を新たに制定・改正したことで明確に政治的自由化から後退した。さらに、2014年から2015年にかけて、政府は野党政治家、大学教授、弁護士、漫画家など政府に批判的な立場の人々を扇動法によって相次いで逮捕していった。

経済面では、ブミプトラ経済エンパワーメント・プログラムが2013年9月に発表された。その内容は、①人的資本、②株式所有、③(住宅や工業用地などの)非金融資産、④企業家育成とビジネス支援、⑤行政サービスの5分野を特に重視してブミプトラへの支援を行うというものであった。第一期ナジブ政権がワン・マレーシアのスローガンを掲げてNEMを発表し、ブミプトラ政策の緩和を発表したことを考えれば、経済改革が後退したことは否定できない。同時に、選挙前ということで延期されてきた石油や砂糖など生活必需品への補助金の廃止および削減、電気料金や首都圏の高速道路通行料の値上げ、2015年4月からの物品・サービス税の導入といったように家計に負担の増加を強いる政策が総選挙後は次々と発表された。

改革の後退が目立つようになる中で、ナジブ政権、ひいてはBN体制そのものを大きく揺るがす政治スキャンダルが起こる。ワン・マレーシア開発公社(1MDB)にまつわる政治資金スキャンダルである。1MDBは2009年以前にはトレンガヌ州の州営投資会社であったものをナジブ政権が連邦政府の財務省傘下の国営投資会社としたところからスタートしており、電力、土地開発、観光、アグリビジネスなどの分野で外国企業とも協力しながら国内外で大型の投資を行ってきた。しかし、1MDBは巨額の負債を抱えていることが2014年頃から明らかになり、2015年初頭には負債が420億リンギットに拡大した。そうした中で2015年7月にはナジブ首相の個人口座に1MDBが出所であるとされる26億リンギットもの資金が流れたとの報道がなされた。現役の首相が関与したとされる1MDBスキャンダルによってマレーシアの政界には激震が走った。

逮捕され失職する危機に直面したナジブ首相は政治的生き残りをかけて自らに批判的な副首相や大臣を更迭し、1MDB関連の捜査を行っていた法務長官、マレーシア反汚職委員会、インテリジェンス関連の任務を司る警察の特別部隊など独立機関の幹部を次々に左遷や辞任に追い込んだ。さらに、連邦下院の公会計委員会の1MDBスキャンダルの調査も事実上停止させた。メディアについても1MDBスキャンダル関連の調査報道を行った週刊紙『ジ・エッジ』が一時的に停刊されている。UMNO内部からマハティール元首相がナジブ首相の退任を求めて批判の声をあげたが党内でナジブ批判は大きな力とならず、マハティールは離党してUMNOの外からナジブ退任を求める活動を本格化させていった。

2013年総選挙後には1MDBスキャンダルで政府・与党が混乱する中で野党側も各党間の連携が乱れていた。野党連合のPRが構成政党のPASとDAPの対立によって2015年に活動を停止したのである。後継の野党連合としてDAPとPKR、そしてPASから離党したグループが結成した国民信託党(Amanah)の3党によって新たな野党連合の希望連盟(PH)が結成された。しかし、PASはPHとは一線を画する独自路線を模索することになる。野党が政党連合のPHとUMNOとの連携も視野に入れつつ独自色を強めるPASの2大勢力で分裂する中で、PHにはマハティールやナジブに副首相を解任されてUMNOを離党したムヒディン・ヤシンらが結成したマレーシア統一プリブミ党(PPBM)が合流して4党による政党連合となった。PPBMの合流後、PHはマハティールを次期首相候補として選挙戦を戦ってマレーシア史上初の政権交代を果たすことになる(2018年総選挙に関しては直近の総選挙の項で説明)。

(5) PHによる統治(2018年~現在)

2018年5月9日に実施された総選挙でマレーシア史上初の政権交代が起った。BNは独立から61年間維持していた政権を失い、PHが新たな与党となった。新首相には第4代首相だったマハティールが15年ぶりに再び首相に返り咲いて92歳の年齢で第7代首相となった。新政権は選挙期間中に公表したマニフェストに沿って政策を実施することを約束している。本稿執筆時点(2018年8月)で実行に移された最大の公約は、物品・サービス税の撤廃である。PHの公約のなかには、国民に対する利益供与的な政策も目立つ一方で、市民的自由を抑圧する法律の撤廃や司法関連の制度改革など民主化に向けた一連の改革策が並んでいる。少なくとも本稿執筆時点で権威主義的な制度や法律の改正への道筋がつきつつあることから、PHによる史上初の政権交代によってマレーシアは漸進的に体制の民主化の方向に進んでいるといえる。

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2019年1月18日

モロッコ/最近の政治変化

(1) ムハンマド五世:調停役としての国王

1956年独立を達成したモロッコ最初の国王は、ムハンマド五位であった。彼はアラウィ一朝第15代君主として1927年11月18日に即位したが、政治の実権を回復したのは、モロッコ独立後である。

彼は王制の「調停役」としての役割を強調した国王であった。保護領政府統治下のモロッコで、独立運動にとってムハンマド五世の王位回復は「独立の象徴」であった。保護領政府に対する抵抗スローガン”Thawra al-Malik wa as-Sha’b(王と国民の革命)にみられるように亡命中の王が王位に復帰することが、モロッコの独立を意味した。

「調停者」としての国王を支えたのは、独立後に創設された軍と警察の、国王に対する絶対的忠誠であり、さらに省庁と軍の大臣・長官や高級官僚の人事権を首相ではなく、国王が一手に握ったことで、国王の権力はさらに強化された。

省庁のうちで、国王権力の強化に最も直接的に関与したのは内務省である。1956年3月20日発令の勅令で、「カーイド及び知事の任命、昇進、辞職、降格、懲戒、転勤はすべて勅令によって発令されることとする」と定め、内務省の官僚および内務省管轄の役人の人事は国王がおこなった。

さらにその内務省の活動を支えたのは、軍である。軍の活動は、内務省と連動して行われ、内務省の地方役人は、その地に駐屯する軍の分団を治安維持のために発動させることができた。軍の果たすべき役割は、防衛や治安維持だけにとどまらず、中央官僚や地方役人として行政に参加することも含まれていた。軍の編成実務の責任者は皇太子、そして国王が軍人事に関する最終的裁量権を持っている。

王制にとって潜在的な脅威であるイスラーム運動を監視することも重要な内務省の職務である。この監視は、内務省が宗教省や「公的なイスラーム」を代表するウラマー協会と協力しておこなった。

立憲君主制の準備段階として、モロッコ国家諮問会議(Le Conseil national consultatif marocain)が1956年8月3日の勅令によって設立されたが、この会議は三年間しか続かなかった。

なお、ムハンマド五世は宗教的な権威を示す「アミール・アル・ムーミニーン(信徒の指揮者)」の称号を、独立後も、破棄することはなかった。独立の可視的な象徴となったことで、彼は世俗と聖の両方を、つまり保護領統治以前から有していた「アミール・アル・ムーミニーン」と独立後の近代的な意味での国家の長という二つの機能を体現することとなった。後述するように、この聖俗両面での権威を、国王があわせもつ状況は、現在に至るまで続いており、イスラーム運動への対抗手段としても重要な役割を果たしている。

(2) ハサン二世:憲法改正と権力の分配

モロッコの政治的場を構成する諸集団の間の「調停役」としての役割を推進することで、聖・俗両方の最高権威者としての国王権力の強大化を進めたムハンマド五世の後を継いだハサン二世(1961-1999年)は、憲法改正という法的手段を利用した、権力の巧みな分配によって、国王権力の強化をはかった。

独立後のモロッコ最初の憲法は1962年に制定された。1962年のアブドゥッラー・イブラヒーム内閣解散後に誕生したこの憲法では、「権力分立」とはほど遠く、国王の手にあらゆる権力が集中していた。憲法の条文をみると、モロッコは民主社会的王制(第1条)であり、憲法にかなった方法で設立された機関を通して行使される主権を有するのは国民である(第2条)と明記されている。しかし、閣僚の人事権を有するのは国王(第24条)であった。

国王は「アミール・アル・ムーミニーン」、国民の最高代表者、国家統合の象徴、国家の存在と継続の守護者であった。また信仰の擁護者であり、憲法尊重の守護者でもあった。国王は市民・共同体・組織の権利と自由を守る責任を有し、国家独立を守り、国土防衛の保障者(第19条)でもあった。しかし、緊急事態の際、介入する権利が国王に保障されていた(第35条)。どのような状況が「非常事態」であるのか、いつまでが「非常事態」なのかを判断するのは国王であり、「憲法体制を正常に再び機能させるために(第35条)」国王は、事実上無期限に無制限の権力を発動することが可能であった。実際1965年、ハサン二世は、「このまま空虚な議論を続けさせれば、モロッコの民主主義、倫理的価値観、創造への意志が失われてしまう」ことを理由に、議会を停止している。

1962年憲法では、議会は二院制と定められた(第36条)。下院議員は普通選挙で、上院議員は農商工会議所や労働組合が選出した(第44、45条)。新法が国王によって発布される前には、議会の承認か国民投票による承認が必要とされ(第26、62、73、75条)、立法権は、憲法上は議会に属していたのだが、実際は国王が「助言」することが度々であった。この憲法の文言では、国王の手に行政権を委ね、国王の立法権は制限されていた。しかし、立法権に関しても「助言」という形で、国王が大きな影響力を有していたのである。

1970年の憲法改正によって、国王権力はさらに強化された。首相の行政権の行使は、例外的な場合に制限され、しかも国王のイニシアティブによるものとされた(第29条および第62条)。この改正で、国王の行政権が強化された。また二院制が一院制に改められた(第36条)。議員の任期は6年で、直接選挙によるものと、商工会議所や職能組合を通した間接選挙によるものという二種類の選出方法が定められたが、直接・間接選挙による選出の具体的な

割合は、憲法では定められていない(第43条)。この憲法改正の直後に議会選挙が実施されたが、再度憲法改正を実施することを理由に、1971年末には1970年に開始した会期の議会が停止されている。

1972年、二度目の憲法改正が行われた。この改正では「1962年憲法と1970年憲法に定められた中間的なところ」に議会を位置づけた。一院制のままであったが、3分の1の議員を直接選挙で、3分の2の議員を間接選挙で選出することを憲法に明記し(第43条、なおこの条文は1980年5月30日の国民投票で、3分の2を直接選挙で、3分の1を間接選挙での選出に変更)、二院制放棄を補完するものとした。行政権は国王と政府に与えられていたが、国王は立法案や政府計画について「新しい解釈」を要求することが可能であり(第66条)、この国王の要求を政府が拒否することは認められていなかった(第67条)。

首相を含む閣僚全員の人事権を国王が握っていることからも、議会が国王にコントロールされる機関であったことは明白である。さらに内閣不信任案の提出に必要な議員数は、1962年憲法では総議員の10分の1であったのが1972年憲法では4分の1に引き上げられた(第75条)。この改正で、政党が政府の政策に対して不信任案を提出することはほぼ不可能となった。

また1971年ラバト郊外のスヒラートの王宮で発生したクーデター、そして1972年に発生したウフキール将軍が首謀者とされるクーデターは、いずれも未遂に終わったものの、70年、72年の憲法改正への不信を象徴する事件であった。

1972年のクーデター未遂について、ウフキール将軍はハサン二世の乗る飛行機を襲撃した首謀者とされ、後に「自殺」したとされる。「反乱を企てた、あるいは反乱を起こす可能性のある」者の最期の近似例としては、1980年代サハラ問題で功績を挙げたアフマド・ドゥリーミー将軍が卓越した人気を得るようになった後、不可解な自動車事故で亡くなった事件がある。ドゥリーミー将軍の事件以後、軍の司令官級の人物は、国王のライバルとなる程に個人的に賞賛をうけることは事実上タブーとなった。

1970年代のモロッコは、二度のクーデター未遂を経験し、隣国アルジェリアとの関係も西サハラ問題をめぐって緊迫化した。また、大衆諸勢力全国連合(UNFP:Union nationale des forces populaires)内部の対立が1972年頃から表面化し、1975年にはUNFP から分裂した大衆諸勢力社会主義連合(USFP:Union socialistes des forces populaires)が党を結成したが、同年USFPの指導者の一人で、モロッコ全国学生連合(UNEM : l’Union nationale des étudiants du Maroc)、モロッコ労働組合(UMT: l’Union marocaine du travail)の指導的立場にもあったオマル・ベンジャルーンが暗殺されるなど、国内外の政治・社会状況は不安定なものとなった。

このような状況の中で、72年の憲法改正後の1972年4月30日に予定されていた議会選挙は延期され、結局実施されたのは1977年6月3日で、1971年末に停止された議会は、1977年10月に再開されるまで空白の期間が続いた。

前述したように、省庁のなかでも内務省は王制の番人とでもいうべき存在であったが、特にその役割が強調されるようになったのは、1979年イドリース・バスリーが内務大臣に就任してからである。首相は頻繁に交代し、様々な政党の出身者が就任したのに対して、バスリーは、1999年に現国王ムハンマド六世によって解任されるまで20年間にわたって内相の職にあり、西サハラ問題など、必ずしも内務省の管轄ではない重要な政策決定にも関わった。

1992年の改正では、国王が任命した首相による他の閣僚人事の提案を受けて、国王が任命するよう変更され(第24条)、1993年の内閣組閣に際してラムラーニー新首相に国王が実際に閣僚リストの提出を求めた。ただこの内閣の閣僚には国会議員はまったく含まれておらず、主権者であるはずの国民の意思が「憲法で定められた諸機関(第2条)」の代表的機関である国会を通じて政策に反映されるような状況とは程遠かった。

また「非常事態においても国会は解散されない」と明記された(第35条)。しかし、この憲法改正により新たに設置された憲法評議会の議長、首相、国会議長に諮ったのち、非常事態を宣言し、あらゆる必要な措置を国王自身がとる権限は何ら制限されていない。

1996年、一院制を二院制に変更するための憲法改正が国民投票で承認された。

1997年11月の選挙に続いて、大衆諸勢力社会主義連合(USFP:Union socialistes des forces populaires)党首アブドゥルラフマーン・アルユースフィーの首相任命は、左翼に権力を分配することで、近い将来の皇太子(現国王ムハンマド六世)の王位継承を円滑にする布石の一つであったとも考えられよう。 

以上、これまで四度に渡った憲法改正のうち最初の二度の改正によって、行政・立法両方の権限を国王に集中させたうえで、後の二度の改正で憲法評議会の設置や非常事態での国会維持という「譲歩」、二院制の復活をおこない、そして長年国王と敵対関係にあった左翼政党党首を首相に任命して、国王権力の維持に「有益な」形で権力分配をおこなったといえよう。

(3) ムハンマド六世:経済的発展と「民主化」

1999年7月23日に、ハサン二世の死去により、皇太子がムハンマド六世として36歳で即位した。軍のコーディネーターであった皇太子時代、大衆は概ね彼に親しみやすい印象を抱いていた。

ムハンマド六世が強調しようとした国王像は「リベラルな改革者」である。スピーチで、「立憲君主制を堅持し、複数政党制、自由経済、地方分権化、法の支配、人権尊重、個人の自由を推進する」と明言した。また「父ハサン二世のすすめてきた教育改革計画と連動させて雇用問題の改善に尽くす」ど、モロッコで最も深刻な社会問題の一つである失業問題にも言及した。このスピーチは、ハサン二世即位時のものに比較するとはるかに具体性があった。ハサン二世のスピーチでは、イスラームの擁護と領土保全についての国王の決意が述べられた後、国民の義務についてのみ言及されている。当時の諸社会問題の解決などはまったく触れられることはなかった。

政治面では、バスリーに代わってアブマド・ミダーウィーが内務大臣に任命された。バスリーの内相退任を世論は非常に歓迎した。実際、前述したようにバスリーは1979年から20年間内相を務め、モロッコの「治安維持」に大きな影響力をふるった人物であり、この退任はモロッコの政治展開を民主化の方向にひきよせる契機となった。

モロッコ王制を今後揺るがしかねないほどの国民の不満を生む可能性が最も高い問題は、ムハンマド六位があえてスピーチでも言及した失業問題であろう。

失業問題は、都市部では特に深刻である。ハサン二世の死の直前、1999年7月初めにも、ラバトで大学を卒業して失業している若者たちが職を求めて抗議行動をおこした。また、大学あるいは大学院を卒業したが職のない、高学歴の失業者たちは「高学歴失業者組合(L’Association nationale des chômeurs diplomés)」を結成した。このラバトでの抗議デモは直接的には内務省を、間接的に王制に圧力を与えることとなり、ハサン二世は遅まきながら、失業問題を領土問題に次いで重要視することになった。前述したようにハサン二世は、イスラーム運動の対抗を視野に入れ、王制の宗教的正当性として「アミール・アル・ムーミニーン」としての側面の強調につとめた。ムハンマド六世もラマダーン期間中に、イスラーム世界各地から招聘された学者らが国王の前で講義をする「ドゥルース・ハサニーヤ」(その様子はテレビ中継される)を継承するなど、宗教的指導者として自己を演出する場はハサン二世のときと同様に維持している。しかし、イスラーム運動が社会的弱者の救済を担う限り、「アミール・アル・ムーミニーン」であることを強調するだけでは、有効なイスラーム運動対策とはなり得ない。ハサン二世の宗教的正当性の強調という策の裏面は内務省と警察による「治安維持」であり、すでに1992年の憲法改正で国際社会を意識して「人権の擁護」が前文に掲げられたように、人権問題を無視できる時代は過ぎた。ムハンマド六世は社会的弱者救済、具体的にはまず失業問題の解決を図ることなしには、イスラーム運動が王制の宗教的正当性を脅かす存在であり続けるだろう。即位後すぐのスピーチで国王自ら述べたように、社会・経済分野で国民に満足を与えうる「リベラルな改革者」という新たなる正当性を確立することがムハンマド六世の今後の課題となろう。

(4) イスラーム主義の挑戦

イスラーム運動は、ムハンマド六世の改革にとって障害となる可能性のある存在である。モロッコ最大のイスラーム運動である「公正と慈善の集団(Jama’ al-‘Adlwal Ikhsan)」の指導者アブドゥッサラーム・ヤースィーンは、モロッコの大衆がイスラームの教えに忠実になり、徳を備えた指導者を戴くことができれば、モロッコの諸問題は解決されると考えている。彼は欧米流の「民主主義」や「近代化」には批判的で、同時に国内の社会的不正義や汚職、政治的腐敗について、ムハンマド六世の父、ハサン二世に対して公開書簡を送って自宅軟禁となるなど体制批判を繰り返している。ただ、ヤースィーンにとって、指導者一人の手に権力が集中していても、その指導者が宗教的倫理を尊重している限り、その存在は受容できるものである。欧米流の「近代化」については、「『近代化』のイスラーム化」を目指している。ムスリムはイスラームの倫理的枠組みと社会秩序を維持する限りにおいて、欧米の科学技術や思想を借りることができる、とヤースィーンは考えている。宗教を私的空間に限定し、公的空間では法の支配を強化しようとする近代化・民主化推進に対するこのようなイスラーム運動の抵抗は、ムハンマド六世が、保護領化される以前のモロッコに比べればかなり形式的になったとはいえ、預言者ムハンマドの子孫であるシャリーフとしての側面、そして「信徒の指揮者」としての側面といった宗教的正当性を維持している限りは、王制にとって決定的な脅威とはなり得ないだろう。

モロッコでは新たに国王が即位すると、バイアの儀式がおこなわれる。ただかつてはモロッコ各地の共同体の代表者たち、宗教学者、有力者たちがバイアをおこなったが、現在では多くが政府高官、政府に雇われている宗教学者たち、官僚、宮廷に勤めている人々で、彼らと国王との関係は平等ではないため、かつてのように君主に対する要求を盛り込む余地がほとんどなく、バイヤは儀礼的なものとなる。このような原則と現実の落差に、イスラーム運動が存在する場が生まれる。しかし共同体の成員と代表者はともに良いムスリムで、常に共同体の利益を考えて行動するといったイスラーム運動の考える政治的代表の概念もまたユートピア的である点で、現実との落差があることは否定できないだろう。

ムハンマド六世が即位してから約10年が経過した。その間、これまでのモロッコ政府内での汚職や弾圧などについて積極的に摘発をおこない、2004年に公正と和解委員会(L’Instance équité et réconciliation)を設置し、ハサン二世の時代に、国王に反対する人々に対して行われた人権侵害について調査を開始したことについて、モロッコのメディアは大きく報じ歓迎した。またモロッコ史上では初めて自らの妃の姿を公にし、最近は国内だけではなく、愛知万博訪問なども含め妃単独での海外公務も増えている。

現在、英国などの西欧諸国の立憲君主制とはかなり内容が異なるが、中東諸国のなかでモロッコとヨルダンのみが憲法と国会を伴った「立憲君主制」を有している。前述したように、モロッコの場合、独立後ムハンマド五世が、保護領期以前から君主たちが依拠してきた宗教的権威を基盤に、王制を諸政治勢力の「調停役」として位置づけることで国王の権力強化をはかった。続くハサン二世は憲法改正によって、国王-権力を集中させたのち、漸次的に諸政治勢力へ権力を分配し王制の安定化をはかった。この安定化のプロセスは、王制にとって「潜在的脅威」であるイスラーム運動の対抗策としての、1970年代なかばから宗教的正当性の強調と並行してすすむこととなった。

その結果、中東地域で共和制を採用する諸国と比較して、モロッコは「安定した」社会を維持している。しかし識字率は依然国民の6割程度にとどまり、失業問題は深刻である。経済・社会面での満足感が生まれる状況をつくりだせるか否か、という点が、今後社会が王制に正当性を認める交換材料となるだろう。

(5) 国家人間開発イニシアティブ(INDH: Initiative nationale pour le développement humain)

前述のように、モロッコにおける最大の課題は、失業問題と貧困である。失業問題は特に都市部で、そして貧困問題は特に地方村落部で深刻であり、1999年に即位した国王のムハンマド六世は、家族法を改正し女性の地位向上を推進するなど、積極的に自国の抱える社会・経済状況の改革に取り組んでいった。2005年には国家人間開発イニシアティブ(INDH)を発表し、貧困対策と地域間・社会的格差の是正を目標として取り組んでいる。このイニシアティブは当初2006年から2010年までの5カ年を目途に開始されたが、現在も継続している。(国家人間開発イニシアティブについては、中川[2010]を参照。)

(6) 「アラブの春」と憲法改定

2010年末に、チュニジアに端を発した「アラブの春」の影響は、モロッコでは限定的なものとなった。2011年2月20日と3月20日に若者を中心とした抗議運動が、モロッコでも行われ、彼らの運動は「2月20日運動」として継続することとなった。

国王は、2011年3月9日に、包括的改革として憲法改定を呼びかけた。提案には、

  1. 選挙で選ばれた議会に対する国王自らの権限の縮小: 現在、首相は国王の任命であるが、それを選挙結果に基づいて国会で選ぶようにし、国王の役割を、アミール・アル・ムーミニーン(信徒の指揮者)、そして「調停者」としての役割に限定する。
  2. 権力分立の強化、特に司法の独立の強化:司法に対する政治の介入をなくす。これまで公正と和解委員会を設置して人権擁護に取り組んできたがそれをさらに推し進め、政治、経済、社会、文化、環境と発展、すべての側面において、人権システムを改革することで、個人や集団単位での自由の拡大や国家権の安定化をはかる。
  3. 地方分権:これまで中央が任命していた地方の知事を地方議会が選び、地方行政の意思決定を各地域が行うようにする。
  4. 文化の多様性の尊重:アラビア語と並んでアマジグ語を公用語とする。

その他に、個人の自由と人権の尊重、両性の法的な平等などが盛り込こまれていた。  

この憲法改定案について、2011年7月1日に国民投票が実施された。国内での投票率は73%、有効投票(在外投票分を含む)1006万3423票の98.46%を占める990万9356票の賛成を得て可決され、新憲法は7月29日に公布された。  

モロッコの場合、「アラブの春」が発生した時点で、国王によるイニシアティブで、女性の地位向上、貧困撲滅、人権、権力分立の強化など、さまざまな改革がすでに進められていた。一連の改革は、チュニジアやエジプトのような大衆の力による改革要求から発した民主化ではないが、広く国民の支持を得ていたといえる。

つまり、モロッコでも、2011年2月以降、のちに「2月20日運動」と名付けられた若者を中心とした抗議運動があり、3月20日には、首都ラバトのほかに、カサブランカやその他の都市で、35000人が参加する規模となったものの、抗議の内容は、政府に対する批判であり、王制批判の声は、一部の極左を除いて、ほとんど出ていない。4月末にも抗議デモがあったが、そこでの主張は、一部の政府高官が持つ実業界への強い影響力の排除、汚職撲滅、失業問題の改善、司法改革などであり、国王が3月9日にスピーチした内容が実現されるまで「戦う」という形での抗議運動であった。

一般国民や政党の多くは、国王の提案した憲法改革の方向性を支持し、歓迎の意を表明した。昔の共産党系の人々の中には、国王の権限をより制限したものにして、国教としてのイスラームの記載を削除することを求めている人々もいるものの、非常に少数派である。

モロッコの場合、一度デモがモロッコで起こったタイミングで、国王が憲法改革についてスピーチを行ったことで、その後の「抗議運動」にとって、いわば議論のたたき台・枠組みを提供する形となったといえる。言い換えれば、抗議運動の要求の限界を定めたことにもなったといえる。また失業や汚職といった問題、社会の上の方の階層にいる人々の社会的流動性の低さといったモロッコの根本的な問題は、憲法改定だけでは解決することは難しく、それが憲法改定案発表後に、政府高官の退任を要求する声につながったと考えられる。

(7) 穏健イスラーム政党「公正発展党」の勝利

新憲法のもとでの初めての議会選挙が、2011年11月25日に実施された。結果は、「3.選挙(3)近年の選挙 ③2011年議会選挙」に記載した通りで、公正発展党(PJD) が、107議席(27.08%)を獲得して圧勝し、同党のベンキラン党首が首相に任命された。PJDは、獲得議席数第2位のイスティクラール党(PI:60議席、)第6位の大衆運動党(MP:32議席)、第8位の進歩社会主義党(PPS:18議席)と連立政権を組むに至った。この第一次ベンキーラン内閣では、首相を除く23の閣僚ポストのうち、10をPJD選出の議員が占めた。

2013年7月に、連立政権からイスティクラール党が離脱し、第二次ベンキラン内閣が同年10月10日に発足する。第二次ベンキラン内閣には、2011年の議会選挙で第3位の議席数(52議席)を獲得した国民独立連合(RNI)が新たに連立政権に加わった。

(8) オトマーニー内閣の発足

2016年10月の議会選挙で公正発展党(PJD)は125議席を獲得し第1党となったが、その後5ヶ月間、他党との間で連立を組む合意に至らず、翌2017年3月17日、国王ムハンマド六世は、同じく公正発展党のサアードディーン・オトマーニー氏を首相として新たに任命した。

同月25日、公正発展党(PJD)、国民独立連合(RNI)、進歩社会主義党(PPS)、大衆運動(MP)、立憲連合(UC)、大衆諸勢力社会主義連合(USFP)の間で、連立を組む合意が成立し、4月5日オトマーニー内閣が発足し、現在に至っている。

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2019年1月18日

イラク/最近の政治変化

イラクの民主化は、2003年3月のイラク戦争による旧フセイン政権の崩壊という劇的な形でもたらされた。しかし、戦後の占領統治を主導した米国が明確な統治プランを持っていなかったことから、戦後統治は迷走を極めた。CPA(連合国暫定当局)は、2003年7月にイラク人の代表組織として、亡命政治家を中心に25名からなる統治評議会を発足させたものの、正統性の確保に失敗し、また反米武装勢力の攻撃も次第に増加していったことから、2003年11月に、従来の政策を変更して占領統治体制終了を前倒しすることを統治評議会と合意した。 この合意に基づき、2004年3月8日に、イラク暫定政府に主権が移譲されてから恒久憲法の公布を経て正式政権の樹立に至るまでの政治プロセスを定めた「移行期間のためのイラク国家施政法」(基本法)が成立した。このスケジュールに従って、2005年に新憲法の起草や国民投票、二度の国民議会選挙が執り行われ、2006年5月の正式政権の発足をもって「民主化」プロセスは終了した。

しかし、こうした一連の民主化プロセスは、イラクに安定的な民主主義をもたらさなかった。理由の一つは、2005年1月 の制憲国民議会選挙の際、スンナ派住民が多い中部では極端に投票率が低かったことで、憲法にスンナ派政治勢力の意見が反映されなかった点にある。その後予定されていた憲法改正も棚上げ状態となり、イラク国家のあり方に対し、国内における合意の形成ができていない。さらに、2003年夏から反米武装闘争が活発化したことに加えて、2005年頃からは宗派間対立も顕著になった。米軍やイラク政府に協力する一般市民・政治家らを狙うスンナ派の武装勢力・過激派と、主として警察組織に浸透したシーア派民兵との間で報復攻撃がじわじわと拡大し、特に2006年以降、内乱状態に陥ったことは、イラク政界における政党・政治家間の協調を極めて難しくしたことが指摘できる。

他方、そうした内乱状況は結果的に勝者を生み出さなかった。過激派と地元の武装勢力間の亀裂、米軍の増派戦略、民兵間の停戦合意などを経て、治安状況は2007年後半から徐々に回復に向かった。イラク政府や議会はしばしば機能不全に陥りながらも完全には崩壊せず、国民議会は4年の任期を満了して2010年3月、さらに2014年4月は再度、国民議会選挙が実施された。しかしながら、2013年初頃から、マーリキ首相の強権統治に反発したスンナ派住民が中部で反政府デモを度々組織するようになり、市民の不満を利用する形で過激な武装勢力が再び力をつけ始め、隣国シリアの内戦の影響もあり、ついに2014年6月にはモスルなど中部の複数の主要都市が陥落するに至った。混乱の中で2014年9月にハイダル・アバーディを首相とする新政権が発足し、イラク政府は隣国イランや米国政府からの軍事支援を得て、その後3年以降をかけてようやくISをイラク国内から掃討した。

この過程で、敗退したイラク軍・警察に変わってシーア派民兵が国内外からの支援を得て軍事的に活躍し、人民動員部隊として半公的な立場を確保するに至った。また、北部クルド地域のクルド兵士ペシュメルガも、欧米からの支援を得てISの駆逐と同時に支配領域を拡張させた他、自警団的なスンナ派組織も形成されている。このように、ISの掃討は実現したものの、半公的な様々な武装集団の間で指揮命令系統が極めて複雑化するという状況が生まれている。

また、2003年以降のイラクが宗派・民族間でポストを分け合うクオータ・システムを採用した背景には、挙国一致という体裁をとることで少数派を決定的に排除することを防ぐという理由があった。しかしながら、野党不在の総与党体制となったことで政権へのチェック機能が働かなくなるという問題が生じている。その最たる問題とみられているのは汚職問題である。イラク戦争から10年以上が経ち、2010年代半ばまで原油価格が高い水準で推移したにもかかわらず、イラク全土の復興ペースが極めて遅く、市民が満足できるレベルの公共サービスが提供されていないことに極めて大きな不満が募っている。クオータ・システムの結果として、政界では、仮に汚職疑惑で大臣が離任しても後任はその大臣ポスト枠を持つ同じ政党から選出されるなど、説明責任の問われていない。加えて、汚職の追及自体が政争化する傾向にある。こうしたことから新たな政治システムが必要だとの認識が広まっている。しかし、選挙の時点で各党はスローガン以上の詳細な政策を戦わせているわけでもなく、一定の政策を軸に政党が形成されているわけでもないことから、機能的な政府のあり方について合意ができているとは言えない状況が続いている。

<イラク戦争後の政治プロセス>
  • 2004年3月:基本法制定
  • 2004年6月:暫定政府組閣、主権移譲
  • 2004年8月:国民大会議開催、諮問評議会議員選出
  • 2005年1月:制憲議会選挙
  • 2005年5月:移行政府組閣
  • 2005年8月:憲法草案を議会承認
  • 2005年10月:憲法草案の国民投票
  • 2005年12月:国民議会選挙
  • 2006年5月:本格政権(第一次マーリキ政権)発足
  • 2010年3月:国民議会選挙
  • 2010年12月:第二次マーリキ政権発足
  • 2014年4月:国民議会選挙
  • 2014年9月:アバーディ政権発足
  • 2018年5月:国民議会選挙

参考文献

  • 移行期間のためのイラク国家施政法
  • 中東経済研究所『イラク 中東諸国の政府機構と人脈等に関する調査』2005年3月
  • 吉岡明子「イラク-戦後統治体制をめぐる迷路」『中東の新たな秩序』(松尾昌樹・岡野内正・吉川卓郎編著)ミネルヴァ書房、2016年
  • 吉岡明子「2018年イラク国民議会選挙分析-低投票率と不正疑惑からみる民主化の課題-」『中東動向分析』日本エネルギー経済研究所中東研究センター、2018年6月
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