「レバノン」カテゴリーの記事一覧

2021年8月31日

レバノン/現在の政治体制・制度

シリアの西方、イスラエルの北方に位置するレバノンは、面積10,452平方キロメートル(日本の岐阜県ほど)、人口およそ600万人という小さなアラブ国家である。首都はベイルート。公用語はアラビア語であるが、英語やフランス語も多くの地域で通じる。

宗教とエスニシティの観点から見れば、レバノンは18の公認宗派、そして多様なエスニック・グループが共存するモザイク国家である。宗派毎に見ると、相対多数派としてマロン派キリスト教徒、スンナ派イスラーム教徒、シーア派イスラーム教徒が存在し、その他の少数派として、ギリシャ・カトリック、アルメニア教徒、ドゥルーズ派、アラウィー派などが存在する(宗派毎の人口比に関しては表1を参照)。エスニック・グループとしては、人口の約90%を占めるアラブ人がいて、これ以外にアルメニア人、クルド人、チェルケス人などの小さなエスニック・グループが存在している。

さらに、正確な数字は不明ではあるが、レバノン国外には国内のおよそ10倍ものレバノン人あるいはレバノン起源の移民が居住しているとされる。その多くはフランス、カナダ、オーストラリア、メキシコ、ブラジル、湾岸産油国、西アフリカ沿岸諸国、米国などに在住しており、なかにはそれぞれの国や地域でビジネスを成功させ、巨額の財を築いた者も少なくない。2019年末の国外逃亡劇で世間を騒がせた日産自動車のカルロス・ゴーン元会長などもブラジル出身でレバノンに起源を持つマロン派キリスト教徒である。

1943年11月に仏領委任統治からの独立を果たして以降、1970年代初頭に至るまで、レバノンはアジアとヨーロッパを繋ぐ中継地としての地政学的重要性、外国語を自由に操る国際的な貿易商の存在、レッセ・フェール(自由放任)を基礎とした政治経済体制、そして風光明媚な自然環境も相まって、金融・観光部門を中心に「中東のパリ」とも呼ばれるほどの栄華を誇った。だが、1975年から15年もの長きにわたって戦われた凄惨な内戦の影響で、国土は極度に荒廃、経済は完全に破綻し、知識や技術を持った貴重な人材の多くが国外へと去っていった。 

内戦終結以降から2005年までの期間、レバノンは隣国シリアによる実効支配を受けることになる。内戦初期の1976年、シリアはレバノンに対して大規模な軍事介入に踏み切っており、内戦終結以降もレバノンが国防能力と治安維持能力を回復するまでという名目で軍と治安部隊を引き続き駐留させ続け、レバノンに巨大な政治的影響力を行使し続けた。また、内戦の最中に台頭したシーア派政治組織/対イスラエル抵抗運動組織であり、シリア・イランと密接な同盟関係にあるヒズブッラー(ヒズボラ)は、イスラエルの脅威は依然として消えていないとの論理によって内戦終結以降も唯一武装解除を免れた(その軍事力は今では国軍を遥かに凌いでいる)。シリアによる実効支配はレバノンに一応の安定をもたらしたものの、隣国に対する長引く実効支配とヒズブッラーに対する援助は国際的な批判をうけることにもなった。

そうしたなかで2005年2月、レバノンの大富豪で元首相、同国復興の立役者でもあるラフィーク・ハリーリー氏が暗殺された(実行犯は未だに明らかとはなっていないが、シリア当局の関与が強く疑われている)ことを契機に、レバノン国内では反シリアを掲げる国民運動、いわゆる「杉の木革命」が急速な盛り上がりを見せた。そうした動きを受けて、同年5月、シリアはレバノンからの完全撤退を決断する。

しかしながら、シリアという「重石」が取り除かれたことで、レバノン政治は再び深刻な政情不安に陥ることになり、2008〜09年頃には再び内戦の足音が聞こえてくるまでに事態は悪化した。ただ、このときはシリアやサウジアラビアをはじめとする外国勢力が再びレバノン政局に介入し、一応の秩序をもたらすことに成功した。だが、2011年以降はシリア内戦や地域情勢の不安定化の影響を強く受けることとなり(レバノンには現在まででトルコに次いで2番目に多い約150万人ものシリア難民が押し寄せたといわれている)、同国はまたもや深刻な困難を背負うこととなってしまった。 

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2021年8月31日

レバノン/最近の政治変化

政治・社会

独立以降、現在に至るまで、レバノンの政治・社会は基本的に「宗派主義制度」と「パトロン・クライアント関係」(親分・子分関係)の二点によって特徴付けられてきた。 

第一の「宗派主義」に関して、レバノンが18もの公認宗派集団によって構成されるモザイク国家であることは既に述べた。そんなレバノンでは歴史的に、国民を識別する第一義的な要素を「宗派」とし、国家権力・利権はある特定の宗派集団によって独占されるのではなく主要宗派間で共有されなければならないとする考え方、つまり「宗派主義」が基本理念として保持されてきた。そして、この理念を制度化したものが「宗派主義制度」と呼ばれる現行の権力分有システムである。この制度の下では宗派は事実上の「利権集団」として扱われ、あらゆる公的機関のポストはあらかじめ各宗派に定数配分されることになっている。たとえば大統領はマロン派、首相はスンナ派、国会議長はシーア派とするといったように憲法には明記されている。また総議席128の国民議会議席数も宗派ごとにあらかじめ定数が割り当てられている(表を参照)。

また、レバノン政治においては、重要度の高い法案や政策の可決に議会や内閣における3分の2以上の賛成票が必要とされる(「拒否権を行使できる3分の1」条項)。だが、実際のところ、宗派ごと/派閥ごとに細切れにされた同国政治においては、3分の2以上の議席を1つの勢力が握ることはきわめて困難である。

このような各宗派/派閥の権力を均衡させ、多数決ではなく合議/談合によって意思決定を行うことを意図したこうした制度の下では、これまでに宗派間の利害が鋭く対立するような争点をめぐって政治過程はしばしば麻痺状態に陥った。また、宗派単位で細切れにされた行政機関はしばしばその非効率性・硬直性を露呈してきた。

ついで、第二の「パトロン・クライアント関係」とは、要するに日本の文脈における利益誘導政治の一種と考えて良い。つまり、レバノンにおいては宗派ごとに「ザイーム」と呼ばれる派閥領袖(親分)らが存在し、彼らは政治家として国家機構内外の権力を独占的に占有し続け、そこから得られた恩恵を自らの庇護下の人々に便宜供与というかたち(たとえば政策的な便宜を図る、就職先を斡旋する、ビジネスの機会を提供するなど)で提供する。他方、庇護下の人々(子分)は、その見返りとしてザイームに対する政治献金、選挙における投票、そして有事に際しては民兵としての奉仕などを求められる。こうした慣行は世界各国にある程度普遍的に見られる現象ではあるが、レバノンの場合はそうした「公的権力の私物化」(つまりは政治腐敗)があまりに度を越しており、ザイームたちは政治や公共政策をあたかも彼らのファミリー・ビジネスかのように扱ってきたとしばしば批判されてきた1

レバノンの公認18宗派の人口比と議席配分

 宗派名人口比議席数
1932年2010年1960~92年1992年~
キリスト教諸派マロン派28.218.253034
ギリシャ正教9.781114
ギリシャ・カトリック5.94.568
アルメニア正教3.22.7545
アルメニア・カトリック0.711
プロテスタント0.9111
マイノリティ
(アッシリア正教、カルディア正教、
ラテン教会、シリア教会、
シリア・カトリック、コプト教)
11
小計50.834.55464
イスラーム諸派スンナ派22.4292027
シーア派19.6331927
ドルーズ派6.85.6368
アラウィー派0.8902

1990〜2005年、すなわちシリア軍・治安機関がレバノンに駐留していた期間においては、シリア政府が権威主義的支配をレバノンにまで拡大し、レバノン政界における事実上の支配者として最終的な裁定を行ってきた。これによってレバノンでは一定の秩序が維持されたが、同時に多くの国際的批判を受けてきたことは上述の通りである。だが、シリア軍・治安機関が撤退して以降、上述の2つの政治・社会的特徴が急速に表面化し、様々な政治・社会・経済問題を引き起こすようになった。

実際、2005年から2008年にかけては、シリア政府との関係をめぐってレバノン政局が「3月8日勢力」(ヒズブッラーなどによって構成される、いわゆる「親シリア派」)と「3月14日勢力」(ムスタクバル潮流などによって構成される、いわゆる「反シリア派」)という2つの勢力に分断され、政治の場や街頭において(内戦時代を想起させるような)激しい政治・武力闘争を繰り広げた。2008年5月にアラブ連盟とカタルの仲介によって「ドーハ合意」と呼ばれる和平合意が成立するも、両勢力間の対立の火種が解消したわけでは決してなかった。

2011年以降は内戦状況に陥ったシリア政府との関係をめぐってレバノン政局は再び深刻な分断・麻痺状況に陥り、政治的に重要な議案や争点はことごとく先送りされるようになっていった。たとえば2013年6月には国民議会議員(任期4年)の任期満了に伴う議会選挙が実施されるはずであったが、選挙制度に関する議論が最後までまとまらず、結局、任期切れの議員たちが2018年5月まで居座ることとなった。また、2014年5月にはミシェル・スライマーン大統領が任期満了で退任するも議会では後継大統領が決まらず、結局、2016年10月にミシェル・アウン氏が新大統領に選出されるまで大統領職は空位のままであった。こうした「憲政上の空白」とも呼びうる異常状態においては重要な意思決定を行うことなど到底不可能であり、実際、年度ごとの予算案などは2005年度以降12年間にわたって議会で可決されてこなかった。2016年頃から政治過程が僅かなりとも前に進むようになってきたのは、レバノンの根源的問題が解決されたからではなく、単にシリア情勢がバッシャール・アサド政権優位で終結の兆しを見せ始めたからに過ぎない。 

かねてより非効率性・硬直性が指摘され続けてきたレバノンの行政機構もまた、2011年以降はこうした政局の影響を大きく受け、まったくの機能不全に陥ってしまった。そもそもレバノンの行政機構に関する問題は数え上げればキリがないほどだが、たとえば2015年以降、政府が固形廃棄物の処理計画とその財源をいつまでも策定できなかったために国全体がゴミの山で溢れかえるようになった問題は、こうした状況を象徴していた。この問題はその後、放置されたゴミから放たれる悪臭と政治家たちの腐敗をかけた「おまえたちは臭う(You Stink)」という名の市民による抗議運動につながった。

2020年8月にはベイルート港湾部の倉庫が突如として爆発した。爆発はキノコ雲と数キロ先まで到達するほどの爆風を伴う大規模なもので、200人以上の死者、6,500人以上の負傷者、30万人もの避難者を出し、経済的損失も180〜200億ドルに上ると推計された。爆発したのは2013年9月に政府によって違法な貨物船から没収され保管されていたおよそ2,750トンもの硝酸アンモニウムであった。その直接的な原因(「事故」なのか「事件」なのか)は依然として調査中であるとはいえ、この危険な物質が2013年から6年にわたって杜撰な管理下で放置されてきたことは事実であり、その意味でこの爆発は間違いなく「人災」であった(少なくともレバノン国民からはそう認識された)。そして実際、事件から4日後にはベイルート中心部で政府の責任を追及する激しい抗議デモが発生し、暴徒化した市民が外務省ビルを占拠し「革命」を呼びかける事態となった。

加えて、次項で詳述するように、レバノンは現在、内戦後最悪とも言われるきわめて深刻な経済・財政危機に直面しており、それに対する政府の無策、そしてその背景にある深刻な腐敗問題に対して、2019年以降、レバノン各地で大規模な反政府デモが散発的に続いている。2020年3月には外貨建て国債の返済延期が表明され(同国による債務不履行〔デフォルト〕は今回が初めて)、同年4月には財政支援を受けるべくIMFとの協議に着手する旨が表明された。しかしながら、相変わらず腐敗と汚職が蔓延し、さらには(米国によって「国際テロ組織」に指定されている)ヒズブッラーが大きな発言権を持つレバノン政府に対してIMFが融資を躊躇していること、そしてヒズブッラーの側もIMFの介入を米国主導の「イラン/ヒズブッラー包囲網」と認識し、それに強い抵抗感を示していることから、レバノン政府とIMFとのあいだの交渉は依然として難航している。

経済・財政

2018年の世界銀行の調査によると、レバノンの経済規模はおよそ570億ドル、一人当たりGDPは9,251ドルと、経済規模は小さいながら中高位所得国に位置付けられている。2007年から2010年にかけては8~10%の経済成長を達成したが、2011年以降はシリア内戦や中東全域の混乱、そして海外からの資本流入の減少などにより急減速し、ここ数年は1~2%で推移した後、2019年はゼロ成長に落ち込んだ(図を参照)。2019年の時点で公的債務残高は国内総生産(GDP)の150%以上に達し、これは債務対GDP比で世界3番目に大きい数字である(なお、レバノンの上はギリシアと日本である)。また、経済格差という点で言えば、レバノンでは上位1%の最裕福層が GDPのおよそ25%を稼ぎだす一方、下位50%の人々の収入は合計してもGDPの10%足らずという、いわゆる「中間層」がすっぽり抜け落ちた、世界で最も不平等な国の一つとなっている。

レバノン経済の中心はサービス部門であり、とりわけ貿易・観光・金融部門はレバノンにおける最も重要な経済部門で主要な外貨獲得源となっている。2008年から2018年までの期間において、GDPに占めるこうしたサービス部門の割合は平均でおよそ73%であった一方、工業・建設業といった製造業と農業は合わせてもGDPの中で平均およそ19%を占めるに過ぎなかった。こうしたことからレバノンでは、経済成長を続けるにつれて輸入が増加するという構造にあり、加えて原油やガスといったエネルギー資源のすべて輸入に依存していることもあり、貿易収支は常に赤字基調にある(WTOのレポートによると、2017年の総輸出額は40.26億ドル、総輸入額は201.09億ドルであり、貿易収支は160.83億ドルの赤字となっている)。

こうした経常赤字はこれまで主として観光などを始めとするサービス業、および在外レバノン人からの送金や外国直接投資(FDI)によって補填されてきた。長期に渡った内戦を境に地域経済・金融のハブとしての地位を湾岸諸国へ譲り渡すことにはなったが、英・仏・アラビア語が通じ、美しい自然や様々な世界遺産、そして豊かな食文化とアルコール(この点は特に湾岸産油国の富豪たちにとって重要である)を楽しめるレバノンは、依然として多くの観光客を魅了し続けている。GDPに占める観光部門の割合は例年15~20%であり、2009年にはおよそ200万人の観光客を受け入れて戦前の最多記録を塗り替えた。

他方で、在外レバノン人からの国内への送金額は巨額に上り、2018年の世界銀行のデータによると、その額は年間でおよそ70億ドル(GDPのおよそ12.7%に相当)と推計されている。また、FDIに関しては、内戦終結以降、政府は国家再建のために非常に高い金利を設定し、為替売買や資本移動に関する規制をほとんど設けず、銀行の秘匿権を厳密に保証しており、これによって海外、とりわけ産油国からのオイルマネーを集めることに尽力した。内戦終結以降のベイルートにおける建設ブームと不動産価格の高騰とも相まって、こうした手法は短期的には功を奏した。以降、政府は同様の手法を続け、いわゆる「不労所得経済」に大きく依存する経済構造が確立していく。だが、こうして集められた外貨は結局、不透明なかたちで政治家の懐に入るだけで、政府によって有効に有用・投資されることはなかった。また、こうしたバブル的な経済構造は当然、大きなリスクをはらむものでもあった。

事実、シリア内戦をきっかけとして、2012〜13年頃からレバノン経済は深刻な財政危機に陥いるようになっていった。FDIに大きく依存するレバノンにおいては国外からの投資を積極的に呼び込むため極端に高い金利が設定され、これまで同国の商業銀行は大口預金者に対して法外な利息を約束し支払ってきたが、その元手は投資・運用によって得た利益ではなくあくまでリスクの低い政府への貸し付けで得た利息である場合が多く(ある報道によるとレバノンの商業銀行が中央銀行に預けた預金は2017年から2019年の間に70%以上増加しているともいわれる)、そのしわ寄せは当然納税者の国民に向かうことになる。「巨大なポンジ・スキーム」(いわゆる出資金詐欺)と揶揄されることも多いこうした金融システムにおいては、外貨が流入し続けているうちは良いが、一旦外貨引き上げの兆候が見られると途端に負債が雪だるま式に増大していく。ここ数年のレバノン経済はまさにこのような悪循環の只中にある。

加えて、レバノンの風土病とも言いうる腐敗も、経済システムの基本構造と指摘して良いだろう。たとえば「腐敗認知指数」2019年度版によるとレバノンの汚職度合いは180ヵ国中137位であり、また世界銀行の2020年の研究によると同国での「ビジネスのしやすさ」は190ヵ国中143位(他の中東諸国、たとえばトルコは33位、バハレーンは43位、サウジアラビアは62位)であった。そして、レバノンにおけるビジネス環境の順位を著しく落としている最大の要因が「非効率で腐敗にまみれた官僚機構」であるとされ、煩雑な手続きや腐敗があらゆる形態・場所で蔓延し、贈収賄、縁故・恩顧主義、談合などが日常的に観察されるとされている。

世銀による1995年の調査は、レバノンにおいてビジネスを行う際の困難さを、次のように的確に表現している。「国際的なビジネス社会には[レバノン経済に関して]、私的取引、贈収賄、恩顧、圧力のために、法を超越して、[既得権益]保護のネットワークにおいて腐敗が制度化されているとの認識が存在している。潜在的な投資家たちは、こうした状況が継続するならば、党派的・家族的な忠誠心が経済的参入や成功を独断的に決定するようになると予想している。結果として、国際的なビジネス社会は、法的要求や国家機構への信頼無しに、自分たちが知っており、出来事やアクターをコントロールできる範囲においてのみリスクを引き受けるようになる」2。 レバノンでは2019年10月中旬以降、悪化する一方の経済状況と、それに対して何らの対処策も打ち出せない無能で腐敗した政府に対して、大規模な抗議デモが続いている。2020年3月にはレバノン史上初となる債務不履行(デフォルト)が宣言され、その後も現在に至るまで深刻な債務危機は解決の見通しも立たないままである。そうしたなかでレバノン・リラ(LL)も急落し、1ドル1,500LLが正規レートであるにもかかわらず、現時点では街の両替商のレートは2,300LLで1ドルとなっている。外貨準備も極端に不足しており、ほとんどの銀行は1週間の引き出し上限を200ドルに制限するに至った。

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2021年8月31日

レバノン/選挙

上述のようにレバノンでは宗派主義制度に基づく特殊な形態の議会制民主主義が採用されており、立法府たる国民議会は一院制で総議席数は128(内戦以前は99)、議席配分は宗派ごとに予め設定されている(表を参照)。任期は4年である。内戦終結以降、これまでに6度の国政選挙が行われた(1992年、1996年、2000年、2005年、2009年、2018年)。

選挙制度については宗派主義に基づく特殊な形態の大選挙区制(定数は2~10)が採用されており、議席は宗派ごとの定数内で相対多数を獲得した候補者に与えられる。有権者は候補者個人に投票し、定数の上限まで投票することができる。選挙区割りに関しては、「選挙区は県を単位とする」と明確に規定されているにもかかわらず、実際には有力者たち――シリア軍・治安部隊による実効支配期(1986~2005年)においてはシリア当局、それ以降はレバノン政界における有力政治家たち(派閥の領袖クラス)――にとって有利になるよう選挙ごとに恣意的に操作されてきた。特に2000年の第16期国民議会選挙における選挙法は「ガーズィー・カナアーン1の法」としばしば呼ばれ、これは操作次第では親シリアの政治家にとって極端に有利となり得る仕組みであった。

有権者(21歳以上)は各選挙区において、自らが属する宗派以外の候補者(25歳以上)を含む定数分の候補者に投票する権利を有している。例えば2009年選挙においては、ベイルート県第三区の定数は10(スンナ派5、シーア派1、ドルーズ派1、ギリシャ正教1、福音派1、マイノリティ1)であり、有権者は割当議席数分の投票権(同選挙区では10票)を持つ。なお有権者は、定数分の投票権を有するも、それに満たない数の票を投じることも可能となっている(例えば、どうしても他宗派の事情は分からないという有権者は、自宗派分の票のみを投ずるだけでも良い)。

投票の結果、各宗派内で相対多数の票を獲得した候補者が当選を果たす。これは換言すれば、候補者にとってライバルは他宗派にではなく自宗派内に存在することを意味する。こうしたことから、各候補者は当選を確実にするために自らの宗派を超え、同一選挙区で他宗派に属する有権者からの票をあまねく獲得する必要性が生じてくる。それゆえに各政治主体は、他宗派からの得票を目指し、しばしば政策やイデオロギーを無視したかたちで宗派横断的な選挙協力――ないしは「選挙前談合」――を企てるのである。この帰結が、選挙公示後に各選挙区で作成される選挙リストである。

選挙リストとは、各選挙区に割り当てられた総議席数分を、議席が配分されている各宗派の候補者を網羅するかたちである種の大連合を形成した、「セットメニュー」のようなものだと考えればよいだろう。

選挙前談合によってリストを作成するに際しては、政策的・イデオロギー的親和性とは全く無関係の次元、すなわち選挙に出馬する各ザイームが動員可能な票の数と資金力、ならびにザイーム同士で選挙戦以前に行っていた非公式・水面下の「約束」が鍵となる。前節で確認したように、レバノンにおけるザイーム支配は伝統的かつ非常に強固であり、こうした支配構造の下、有権者はもっぱら「政策」ではなく「人物」に票を投じる(より正確には、投じざるを得ない)。それゆえ、各選挙区の登録有権者数と照らし合わせることで、選挙時に各々のザイームが動員可能な票の数は事前に概ね予想がつく。そこで、派閥の領袖であるアクタブは、各選挙区の事情とそれぞれのザイームの集票能力等を勘案し、選挙前談合によって他のアクタブと取引・調整を行ったり、選挙後のブロック形成や組閣作業といった政治過程に関する非公式な水面下の「約束」を取り決めたりすることで、リストを作成していく。またその際に、事実として立証することは非常に困難ではあるものの、買収や賄賂といった形で多額の不透明な資金が流れていることは、選挙戦を実際に観察していれば容易に想像がつく。

こうした過程によってリストが作成されるため、各立候補者の当落は選挙前にほぼ予想でき、実際に、たとえば2009年選挙ではおよそ128議席中110議席は選挙前に予め結果が予想できた。それゆえ有力政治家たちは自身の当選の正当性を高めるべく「高い投票率」と「盛り上がり」を国内外に演出するために、ただ挑発的な言動で有権者の「宗派対立」を煽ったり巨額の資金をばらまいたりすることで、投票所や街頭に人を集めるだけでよいことになる。

なお、2018年選挙では選挙制度が改正され、それまでの大選挙区制・複数記入制から15選挙区での比例制に変更された。これによって事前の予測通り、ヒズブッラーと同党と連携する諸派の議席が伸び、他方でムスタクバル運動の議席が減少する結果となった。ただし、レバノンでは、結局、個々の候補者が属する政党、選挙の際に組まれる選挙リスト、そして選挙後の議会で編成される会派がそれぞれまったくの別物であり、政策やイデオロギーなどとは関係なくその時々の政局次第でいくらでも呉越同舟が成立する。ゆえに、選挙の結果を見ただけではその後の政治過程を予測することはほとんど不可能であると言える。

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