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マレーシア/現在の政治体制・制度
マレーシアの政体は、1957年のマラヤ独立憲法と、それを継承する1963年のマレーシア連邦憲法に規定され、連邦制の下での立憲君主制が採用されている。イギリスの旧植民地であったことも影響し、統治制度は、議院内閣制が採用されている。
(1) 元首と連邦制
マレーシアの国家元首の地位にあるのは国王(Yang di-Pertuan Agong)である。国王は、各州レベルでの元首に相当する統治者によって構成される統治者会議(Majilis Raja-Raja)を通じて5年ごとに選挙によって選出される。候補者として国王に就任する資格を持つのは、マレー半島部の9州の世襲の統治者である(憲法32条、38条)。ただし、これまでの国王は慣例として9州から輪番制で選出されている。国王は「連邦の第一人者(憲法32条1項)」で、連邦の行政権は国王に付与されている(憲法39条)。国王は同時に国教であるイスラームの長で、陸海空の3軍を統率する。ただし、国王の行政権や軍の運用等は首相或いは首相を筆頭とする内閣の助言に基づいて行使されるため、実質的な権限は首相が有している(憲法40条)。マレーシアに独特な国王に関する憲法規定は、第153条のマレー人及びサバ、サラワクの先住民の社会・経済上の特権に関わる規定であり、国王にはこの特権を守る責任があることが規定されている(「民主化の経緯」の箇所も参照)。
連邦制をとるマレーシアでは、13の州から構成され、そのうちのクダ、クランタン、トレンガヌ、パハン、ペラ、スランゴール、ヌグリスンビラン、ジョホールの7州にはスルタン、ヌグリスンビラン州にはヤン・ディプルトゥアン・ブサール、プルリス州にはラジャが君臨しており、これらの9州の世襲の統治者は上述の国王になる資格を持つ。あとの4州(ペナン、マラッカ、サバ、サラワク)には国王が任命する州元首(Yang di-Pertua Negeri)が世襲の統治者に代わって置かれている。また、この13州の他にクアラルンプール、プトラジャヤ、ラブアンが連邦直轄地となっている。各州では、一院制の州議会が立法権を司り、州元首に任命された州首相(スルタン等が存在する9州ではMentei Besar、他の4州ではKetua Menteri)に率いられる州執行評議会(EXCO)が行政権を司る。
マレーシアの地方制度は上から連邦政府、州政府、自治体の三層構造になっている。地方自治体は特別市、一般市、町の3つの分類がある。自治体の長と議員は1960年代まで選挙で選出されていたが、現在では選挙が中止され、州政府による任命制となっている。連邦と州の権限配分は憲法第9付表に規定され、州はイスラーム法、マレー人の生活習慣、土地、農林業、地方自治などが主な権限となっている。連邦は国防、外交、教育など幅広い権限を持ち、連邦と州の権限が重複する場合は連邦に優先権がある。州は自治体に対して、全般的な監督権限があるものの、連邦は憲法95A条に規定された組織である国家地方自治評議会(Majlis Negara bagi Kerajaan Tempatan)を通じて自治体をコントロールすることが可能になっている。
(2) 立法権
連邦の立法権を付与されているのは、連邦議会である(44条)。連邦議会は上院(Dewan Negara)と下院(Dewan Rakyat)の二院から構成される。上院は、各州から2名ずつ選ばれる26名と国王によって任命される44名の計70名(任期3年)によって構成される。下院は、小選挙区で選出される222名(任期5年)から構成される。旧宗主国のイギリスの制度を受け継ぎ、下院が首相選出、予算、法案審議などで優越する。
(3) 行政権
連邦の行政権は国王に属しているものの、実際は首相及び内閣の助言に基づいて行使されるため、実質的には首相及び内閣が行政権を行使している。連邦下院議会で多数の信任を得ている議員が国王によって内閣の長である首相に任命される。各大臣は首相の勧告に基づいて国王が任命するが、連邦の上院あるいは下院のいずれかの議員である必要がある。
(4) 司法権
司法制度は3審制をとっており、上から連邦裁判所、控訴裁判所、高等裁判所があり、下級裁判所としてセッションズ裁判所とマジストレート裁判所がある。連邦元首や州元首に関わる裁判事項は特別法廷で扱われる。これらの裁判所以外にも、半島部にはムスリム間の親族・相続関係、イスラーム道徳などに関する領域を扱うシャリーア裁判所が存在する。
マレーシア/最近の政治変化
マレーシアの政治体制は、民主主義と権威主義の中間のグレーゾーンの体制か権威主義体制の亜種として長く認識されてきた。つまり、マレーシアの政治体制は、独立以降、一貫して複数政党が参加する競争的な選挙が定期的に実施されている一方で、選挙の公平性、言論・表現や集会の自由に関わる市民的自由などの点で疑問符がつく体制であり、その体制が長期にわたり続いてきたのである。
2018年に政権交代が起こるまでの60年間以上、与党の地位にあったのは、民族と地域をもとにした政党から構成される政党連合の国民戦線(BN)とその前身の政党連合にあたる連盟(Alliance)である。連盟およびBNによる統治は2018年総選挙で政党連合の希望連盟(PH)が勝利することで終焉を迎えた。第4首相だったマハティールを再び第7代首相に首班指名して発足したPH政権は国民からの政治や社会の改革への高い期待を背景に発足したが、PH内で指導者間の対立と分裂が深まるなかで、2年も経たずに内紛で崩壊した。その後はPHから離脱したマレーシア統一プリブミ党(Bersatu)がBNの中核政党であった統一マレー人国民組織(UMNO)と連立を組んでムヒディン・ヤシン(Bersatu総裁、前内務大臣)を首相とする政権が結成された。しかし、ムヒディン首相は与党内の内紛により政権を維持できなくなって2021年8月に首相を辞任し、新たにUMNOからイスマイル・サブリ・ヤコブ前副首相兼防衛大臣(UMNO副総裁補)が首相に就任した。UMNOを中核とする連盟/BNによる統治体制が2018年に崩壊して以降、政党システム、政治体制や民主化の行方が流動化し、不安定さを増している。
マレーシアの体制変動と民主化を理解する際には、(Ⅰ)60年以上続いた連盟およびBNによる統治の時代、(Ⅱ)2018年総選挙で起こった選挙を通じたPH政権の成立、そして、(Ⅲ)PH政権崩壊からの流動的状況、の3つの時期を取り扱う必要がある。そこで、マレーシアの「民主化(と政治体制を巡る問題)」を考える際には、以下のように、独立以降の歴史を5つの期間、(1)独立から「5月13日事件」までの期間(1957~1969年)、(2)BN体制の成立期(1970年代)、(3)マハティール政権期(1981年~2003年)、(4)BN体制内改革とその反動の期間(2003年~2018年)、(5) PHによる統治の期間(2018~2020年)、(6) ムヒディン政権(2020年3月~2021年8月)、 (7)イスマイル政権―UMNOの首相ポスト奪還(2021年8月~現在)に区切って見ていくことで理解が容易になる。
(Ⅰ)連盟とBNによる長期与党体制
(1) 独立から「5月13日事件」までの期間(1957~1969年)-コンソシエーショナル・デモクラシーの時代
1957年のイギリスからのマラヤ連邦独立を達成した「独立の父」で初代首相トゥンク・アブドゥル・ラーマンが率いたのは、与党連合の連盟である。UMNO、華人政党のマラヤ華人協会(MCA、後にマレーシア華人協会)、インド人政党のマラヤ・インド人会議(MIC、後にマレーシア・インド人会議)の3党の民族政党から構成された連盟は、独立時の憲法に明記されたマレー人と(華人が中心の)非マレー人との間の「取り引き(bargain)」を政治的に担保する仕組みであった。その「取り引き」とは、移民である華人やインド人の市民権を与える代わりに、先住民とされたマレー人に、文化上の優位性(イスラームの国教化やマレー語の国語化など)と憲法153条で規定された社会・経済上の特権(公務員任用、高等教育機会、事業ライセンス付与におけるクォータ枠など)を確保することにあった。
連盟の統治は、UMNO、MCA、MICという各民族集団を代表する与党の幹部の個人的な紐帯と協調関係に支えられていた一方で、歴代の首相、内務大臣、国防大臣、教育大臣など政治・文化系の大臣ポストはUMNOから、財務大臣や商工大臣など経済系の大臣ポストはMCAから輩出され続けたことから分かるように、各民族集団間で領域ごとの権力の分有が行われていた。これは、政治学者のレイプハルトがコンソシエーショナル・デモクラシー(多極共存型民主主義)と呼んだ民主主義の在り方に極めて近いものであった。しかしながら、「独立の父」ラーマン首相に率いられた連盟の統治は、1969年に起こった民族暴動によって終焉を迎えることになる。
(2) BN結成(1970年代)-BN体制下のUMNOのヘゲモニーの確立
1969年5月13日に首都クアラルンプールで起こったマレー人と華人との衝突(「5月13日事件」)の責任をとる形で初代首相ラーマンが退任し、第二代首相にラザクが就任すると、政治体制の大きな転換が起こる。ラザク政権は、マレー人が華人を中心とする非マレー人に対して経済的に劣位に置かれていることが5月13日事件の背景にあると見なし、マレー人(と一部の先住民)への経済的支援に積極的に乗り出した。ラザク政権がこの時に20年間の国家政策として打ち出したのが新経済政策(New Economic Policy: NEP)であり、NEPはその後のマレー人優遇政策の柱となった。このNEPを、安定した政治環境の下で達成するために憲法や扇動法の改正が図られ、「センシティブ・イシューズ(sensitive issues)」と呼ばれる、市民権、マレー人の特権、国語としてのマレー語、スルタンの地位などを公的に議論することが禁止され、言論・表現の自由に箍がはめられた。
マレー人優遇政策を安定した政治環境の下で達成するもう一つの政治的枠組みが、連盟を再編する形で1974年に結成されたBNであった。BNには従来の連盟の所属政党であるUMNO、MCA、MICに加え、ペナンに基盤を持ち、華人を中心とした非マレー人を主な支持層とするグラカン(Gerakan)、インド人の指導者を持ち、ペラで大きな勢力を誇った人民進歩党(PPP)や、UMNOの独立以来のライバルにあった汎マレーシア・イスラーム党(PAS)、サラワクの政党であるサラワク統一ブミプトラ伝統党(PBB)とサラワク統一人民党(SUPP)、サバからは統一サバ国民組織(USNO)といった政党がBN結成に参加し、一挙に巨大与党連合が出現した。
本稿では、このBNによる統治体制をBN体制と呼びたい。このBN体制による統治は、エ民族と(サバ州とサラワク州に代表される)地域に基づいた多様な政党がBNという傘の下に集結することで、全ての国民の利益が表出され、調整されるという論理に基づいて正当化されることとなった。初期のBNはマレー人優遇政策を実行していくうえでの政治的安定を維持するための装置として作られた一方で、全ての民族や地域の代表を集め、それを調整するための組織としての論理が埋め込まれていたのである。
マレー人優遇政策を実行に移すための制度の構築が進む中、BN内部でUMNOは連盟時代にも増して影響力を拡大し、ヘゲモニーを確立することになる。それを端的に示すのが、大臣ポスト配分の変化である。前述のように、独立以来MCAは伝統的に財務大臣と商工大臣という経済政策の決定の根幹に関わるポストを独占してきた。しかし、ラザク政権以降、財務大臣や商工大臣のポストはUMNOが独占し、MCAは運輸大臣や保健大臣などのポストを得るに留まった。このことは、これまでMCAが大きな影響力を持ってきた経済政策の決定に関しても、UMNOが決定権を握ることになったことを意味する。また、70年代以降、政府は国民文化政策を発表し、言語、教育、文化などの面におけるマレー文化の普及を推し進めたが、この過程においてマレー人の守護者を自他とも認めるUMNOの地位も一層揺るぎないものになっていった。
(3) 第一次マハティール政権期(1981年~2003年)-首相への権力集中とレフォルマシ運動
1981年に発足したマハティール政権は、2003年まで22年間続いた。民主化の観点から見れば、マハティール政権期とは、全体としては権威主義化が進む中で、行政権力を司る執政、つまり、マハティール首相への権力集中が進んだ時代であった。ただし、そうした中でも、マハティール政権の22年間は前半の80年代と、後半の90年代以降に分けることが可能である。
(3-a) 第一次マハティール政権前半期(80年代)
1981年に首相に就任した当初のマハティールは、「ルック・イースト政策」や民営化政策など次々と新たな政策を打ち出していったが、その政権基盤は必ずしも盤石なものではなかった。まず、マハティールは50年代から60年代の独立期にUMNOを直接指導した「第一世代」のリーダーではなく、70年代のラザク政権期に頭角を現した「第二世代」の政治家にあたり、またスルタンや貴族層の家系以外からの初めての首相であった。そのため、マハティールは、同じく「第二世代」指導層のライバルであるラザレイ・ハムザやムサ・ヒタムといった政治家を閣内に取り込みつつも、常に彼らを潜在的挑戦者として考慮しながら活動をせざるを得なかった。また、マハティール政権は、国王・スルタンや司法など政府を構成する諸組織との軋轢も経験している。さらに、80年代に入ると、ジャーナリストや弁護士などの専門職団体、環境や人権問題などを扱うNGOなど市民社会アクターの活動が活性化し、BNがほぼ完全にコントロールする議会や行政などの制度的装置の枠組みの外側から要求を突きつけ、政府・与党(関係者)の汚職や権力乱用を厳しく批判するようになった。このように、発足当初のマハティール政権は政府・与党の内外からの圧力に取り囲まれており、マハティール首相は強力な権力を握ってはいるものの、それを掣肘する制度的装置や(新旧の)アクターの活動も活発であった。
しかしながら、マハティール政権は、政府・与党内外の圧力に対応しながら、それを弱めてくことに成功していく。与党内のライバルに対しては、1987年のUMNOの党役員人事選挙での勝利、その後のUMNO分裂過程での反対派の排除を通じて、マハティールの党総裁としての権力が強化された。国王・スルタン制度に対しては、国王の立法権の制限(1983年)、スルタンの免責特権の廃止(1993年)、司法制度に対しては、最高裁判所長官の罷免(1988年)などを通じて介入した。活性化しつつあった市民社会アクターに対しては、印刷機・出版物法の制定(1984年)と改正(1987年)、国家機密法の改正(1986年)や国内治安法による主に野党指導者やNGO関係者の一斉逮捕と日刊紙3紙の一斉停刊(「オペラシ・ララン事件」1987年)などを通じて、その勢いを一時的に削ぐことに成功した。
以上のように、政府での執政としての首相権力の拡大、与党UMNO内での総裁支配の確立、市民社会からの圧力の一時的な後退などを受け、90年代初頭までにマハティール(とその周辺)への権力の集中が著しく進むことになった。
(3-b) 第一次マハティール政権後半期(90年代以降)
首相への権力の集中をみた90年代以降のマハティール政権下では、2020年までに先進国入りする目標を掲げた2020年ビジョンの策定、新空港や行政首都プトラジャヤの建設、先端情報通信技術導入を進めるためのマルチメディア・スーパー・コリドー計画など国家主導の大規模プロジェクトやビジョンが次々と打ち出されるとともに、経済的にも好況が持続したため、政権は90年代半ばまで大きく安定した。
しかし、90年代末になると、マハティール政権は大きく動揺する。1998年にアジア通貨危機から発展した経済危機からの回復策をめぐってアンワル副首相兼財務大臣がマハティール首相と対立し、最終的に政府・与党から追放され、汚職と異常性愛の罪で投獄される。これをきっかけに、BN体制下での汚職、権力乱用や権威主義的な法などを問題として取り上げ、政治と社会の変革を求めるレフォルマシ(改革)運動が広がった。
レフォルマシ運動は投獄されたアンワルへのマレー人を中心とした自然発生的な同情から始まったが、野党はそうした人々の感情を糾合し、与党BNに対抗していくための組織づくりを進めていった。最終的には、1999年11月に実施された総選挙の前月に、野党4党が合意して野党連合の代替戦線(BA)が結成されることになる。BA結成の意義は、これまでイスラーム主義を信奉し、マレー人に支持基盤を持つPASと、社会民主主義を党の基本理念として非マレー人に支持基盤を持つ、民主行動党(DAP)が、アンワルの妻が代表を務める国民公正党(PKN)などを仲立ちにして、BNに対抗する一つの野党グループを結成したことにある。野党を糾合する試みは80年代末にもあったものの、PASとDAPが同じ旗の下で政党連合を組むことは初めてであった。BAは、1999年総選挙で主にPASの躍進を可能にした原動力の1つであった(3の選挙の箇所の表も参照)。1999年総選挙後のBAは、イスラーム国家を巡る問題でPASとDAPが対立し、BAからのDAPの離脱を引き起こして、事実上その役割を終えていく。ただし、後述する2008年総選挙での新たな野党連合結成の方向性を決定づけたものとして評価することができる。
(4) BN体制内改革とその反動の期間(2003年~2018年)-改革の試みと市民社会の活性化
レフォルマシ運動を経て1999年総選挙では、マレー人有権者のUMNOに対する反発の高まりの中で、UMNOは議席を大きく減少させた。UMNOの立て直しが急務となったが、その期待を背負ったのは、マハティールの後を継いだ第5代首相のアブドゥラ・バダウィと第6代首相のナジブ・ラザクである。
その権威主義的な政治姿勢への反発も強かったマハティールは22年の在任期間を経て2003年に首相を退任した。マハティールの後に首相に就任したのは、第5代首相となったアブドゥラ・アフマド・バダウィと第6代首相となったナジブ・ラザクである。アブドゥラとナジブが首相だった時代はレフォルマシ運動の影響を受けて始まったBN体制内からの改革の時代であり、それが部分的な成果にとどまる中で改革が挫折していく時代でもあった。
(4-a) アブドゥラ政権期(2003年~2009年)
20年近く首相の座にあり、一部ではその権威主義的政治スタイルに対する反発も強かったマハティールの後継者の問題は、敬虔なムスリムであると同時に中華文化や西洋文化への理解を示す「新しいマレー人」指導者の代表格として高い人気を誇り、後継者として確実視されていたはずのアンワルが失脚しただけに、BN体制に深刻な動揺を与えた。そこで、マハティールは後継者として、当時、ミスター・クリーンと呼ばれ、そのソフトな人当りや飾らない人柄が評価されていたアブドゥラを指名した。
アブドゥラは、首相就任後、政府・与党の汚職の根絶、警察制度の改革、大規模プロジェクトの廃止、農業の振興など前政権の課題に取り組むとともに、独自の路線を打ち出した。発足当初の新政権の姿勢は国民に改革への期待を抱かせ、翌2004年3月に実施された第11回総選挙ではBNは連邦下院議席の9割以上を獲得し、圧勝した。国民からの圧倒的支持を得て、2004年総選挙後のアブドゥラ政権は、課題となっている政府・与党の制度改革に乗り出そうとしたが、改革が実行に移せないまま、アブドゥラ首相のリーダーシップへの不満が高まっていった。
アブドゥラ政権期は、新聞やテレビに代表される主流メディアについての政府の規制が前政権期よりも緩和されるとともに、インターネットを使ったニュース・サイトやブログなどのオンライン・メディアが国民の間に浸透していった時期でもある。特にオンライン・メディアは、これまで政府や与党が実施してきたメディア統制でカバーしきれない新たな情報源と言論空間を作り出し、野党やNGOの活動にとって以前よりも有利な状況を作り出した。
さらに、アブドゥラ政権末期から専門の調査会社や大学による世論調査が実施され、メディアがその結果を報道するようになっていく。また、本格化するのは次のナジブ政権からとなるが、首相の演説のライブ放送や、与党政治家も含めた政治家によるツイッターやフェイスブックでの情報提供が行われるなど、情報化が進む中で、政治的コミュニケーションの方法に新たな展開が見られるようになった。
他にも重要な点として、アブドゥラ政権期は半ばを過ぎると、90年代末のレフォルマシ運動以来の大規模な街頭での抗議デモが散見され始めるようになった。以上の点を踏まえれば、アブドゥラ政権期には前政権よりも確実に政治・社会的な自由化が進んだと言える。
以上のような政治・社会的な自由化が政治的コミュニケーションの変化とともに進んでいった一方で、アブドゥラ政権は抑圧的な法の改正や70年代からBNが掲げてきたマレー人優遇政策の転換など具体的な改革の成果を国民の前に提示することには失敗した。改革を実行に移せない政権への国民の不満の高まりと、前政権期よりも相対的に自由な政治・社会が根づいていく中で実施された2008年3月の第12回総選挙では、与党BNは結成以来はじめて、連邦下院議席の3分の2の議席を割り込む歴史的な後退を経験するだけでなく、経済的に最も発展した地域であるマレー半島西海岸部の4州の州政権(スランゴール州、ペラ州、クダ州、ペナン州)を野党に奪われることになった(ただし、ペラの州政権は野党からの離反者が出たために2009年に与党が再び奪回)。
この2008年総選挙では、PAS、DAP、人民公正党(PKR)の野党3党は、候補者の調整や選挙区での協力体制を進め、総選挙後の4月1日には新たな野党連合の人民連盟(PR)を結成した。2008年総選挙でのPRの大躍進によって、マレーシアはBNとPRという2大政党(連合)が政権をめぐって争う新たな段階に突入した。
(4-b) 第一次ナジブ政権期(2009年~2013年)
2008年総選挙でのBNの大幅な勢力後退の責任を取る形で、アブドゥラは首相を退任した。そのあとを継いで第6代首相に就任したのは、第2代首相のアブドゥル・ラザクを父に持つナジブである。ナジブ政権は2013年総選挙の前後で政権の方針や性格が異なる。2009年から2013年の第一次ナジブ政権期には部分的な政治的自由化や経済改革が進むこととなったが、2013年総選挙後の第二次ナジブ政権期には政治的自由化や改革が後退する反動の時代を迎えることになる。まずは第一次ナジブ政権期からみていことにしよう
2009年にアブドゥラから政権を引き継いで第6代首相に就任したナジブにとって、2008年の第12回総選挙で失われたBNへの支持を回復させることが至上命題であり、政権運営は常に次の選挙を意識したものとなった。しかし、世論調査会社のムルデカ・センターの調べでは、ナジブ首相の就任時の支持率は45%であり、歴代首相と比べても非常に低い支持率からの政権スタートであった。逆風の中からのスタートとなったナジブ政権は「1つのマレーシア、国民第一、即実行(One Malaysia, People First, Performance Now)」のスローガンの下、前政権が実行できなかった政治・経済改革に取り組んでいくことになる。
ナジブ政権は2010年に、行政改革のプログラムとして政府変革プログラム(GTP)、経済改革の指針としての新経済モデル(NEM)とその手段である経済変革プログラム(ETP)を発表した。GTPでは国家重点達成分野(NKRAs)として、犯罪減少、汚職撲滅、教育の機会と質の向上、低所得者の所得水準引き上げ、村落部の基礎的インフラ改善、都市部の公共交通機関の改善の6分野(後に生活費上昇への対策を含め7分野)で新政策を打ち出した。NEMでは、マレーシアが直面している「中所得国の罠」から抜け出して2020年までの先進国入りを果たすため、「高所得」、「包括性」、「持続性」をキーワードとして市場経済をより重視した政策を採用することを謳った。重要なのは、NEMでは、従来の民族を基準にした貧困者対策から所得を基準にする対策への転換が謳われたことであり、これまで続けられてきたマレー人優遇政策の見直しを図ったのである。
ナジブ政権は上記のような行政・経済改革案を政権主導で次々と提示することにより、ナジブ首相の改革者としてのイメージを国民に浸透させていこうとした。その結果、政権運営が安定してきたことも相まって、首相の支持率も6割を越え、2010年5月には72%を記録した(2014年1月段階で72%はナジブ政権で最も高い支持率である)。
その一方で、第一期ナジブ政権の政治的民主化については、野党や市民社会が主導し、それを政権が受け入れる場面が目立つようになる。本稿の選挙の項目でもふれるように、選挙制度改革を求める社会運動が2010年から活性化し、2011年と2012年に大規模な街頭デモを行った。特に2011年7月に行われたデモの後、支持率の急落(59%)に直面したナジブ政権は、国内治安法や扇動法など一連の抑圧的な法の廃止や改正を9月15日のマレーシア・デイのテレビ中継のスピーチで約束し、翌年からそれらの法の廃止や改正を実施していった。
2013年に実施された第13回総選挙でBNは政権を維持したものの、BN体制を揺るがす不安定要素が露呈することになった。第一に、連邦下院の議席数はBNが133議席でPRと89議席となってBNが過半数を維持したが、得票数ではBNが47%でPRが51%となり、PRがBNを逆転した。得票数で逆転されているにもかかわらず、BNが議席数で大きくPRを引き離して政権を維持した原因は、選挙の項目で後述するように小選挙区制と「一票の格差」に求めることができる。
第二に、133議席を獲得したBNだが、その内訳をみれば深刻な問題が既に浮上していた。BNの133議席のうち88議席を占めるUMNOは前回2008年総選挙から議席を9議席増やした。その一方で、マレー半島が基盤の華人政党のMCAは前回よりも8議席を減らして7議席しか獲得できず、同様に主に華人が支持基盤であるマレーシア人民運動(GERAKAN)は1議席しか獲得できなかった。BNのインド人政党であるMICは前回選挙より1議席増やしたものの、4議席の獲得に留まった。BN構成政党のうちサラワク州で活動する華人政党のサラワク統一人民党(SUPP)も前回選挙より5議席を減らして1議席の獲得に留まった。2013年総選挙結果を受けてナジブ首相は「華人ツナミ」が起こったと評したが、BN支持の華人票が総崩れとなったという意味で正しかった。BNに対する非マレー人からの支持の減少は2008年総選挙のときから止まらない継続的なトレンドであり、2013年総選挙ではそのトレンドがいっそう露わになったといえる。BN体制はこれまで全ての民族と地域の代表としての論理に基づいて統治を行ってきた。しかし、2008年と2013年総選挙を経て非マレー人からの支持の大幅な支持の減少が誰の目にも明らかになったことで、これまで体制が対外的に誇ってきた「全てのエスクック集団と地域の代弁者」としてのBN統治の論理の正当性が大きく揺らぐことになった
華人を含めた非マレー人からのBNに対する支持が大きく後退する中で、BN体制を維持するうえでの防護壁となったのは東マレーシアのサバ州とサラワク州である。2013年総選挙でマレー半島の選挙区に限ったBNとPRの連邦下院選挙での戦績は85対80の議席数でほぼ拮抗していた(偶然ながら、2008年総選挙時の結果と全く同じ)。2013年総選挙で最終的なBNの133議席とPRの89議席の差をもたらした大きな部分はサバ州とサラワク州の議席であったともいえる。
(4-c) 第二次ナジブ政権期(2013年~2018年)
2013年総選挙後の第二次ナジブ政権は第一次の政権が行ってきた改革の後退がみられる一方で、国民の増加がみられるようになった。政治的自由化の面では、市民的自由を抑圧する方向で法律の制定や改正が行われた。具体的な制定・改正が行われたのは、扇動法改正、刑法改正、犯罪防止法、テロリズム防止法、国家安全保障審議会法などである。このうち、テロリズム防止法は最長2年間の被疑者の拘禁を認めており、形を変えて国内治安法が復活したともみることができる。さらに、国家安全保障審議会法によって首相を長とする8名の閣僚からなる国家安全審議会の設置が可能となった。首相はこの審議会での決定に沿って国王の認可なしに非常事態宣言を出して事実上無制限に市民的権利を制約することができるようになった。第一次ナジブ政権が抑圧的法律を廃止・改正した時には、市民的自由の根本的な改善については疑問符が付くものの、自由を拡大する方向へ前進はしていた。しかし、2013年総選挙後の第二次ナジブ政権は、抑圧的法律を新たに制定・改正したことで明確に政治的自由化から後退した。さらに、2014年から2015年にかけて、政府は野党政治家、大学教授、弁護士、漫画家など政府に批判的な立場の人々を扇動法によって相次いで逮捕していった。
経済面では、ブミプトラ経済エンパワーメント・プログラムが2013年9月に発表された。その内容は、①人的資本、②株式所有、③(住宅や工業用地などの)非金融資産、④企業家育成とビジネス支援、⑤行政サービスの5分野を特に重視してブミプトラへの支援を行うというものであった。第一期ナジブ政権がワン・マレーシアのスローガンを掲げてNEMを発表し、ブミプトラ政策の緩和を発表したことを考えれば、経済改革が後退したことは否定できない。同時に、選挙前ということで延期されてきた石油や砂糖など生活必需品への補助金の廃止および削減、電気料金や首都圏の高速道路通行料の値上げ、2015年4月からの物品・サービス税の導入といったように家計に負担の増加を強いる政策が総選挙後は次々と発表された。
改革の後退が目立つようになる中で、ナジブ政権、ひいてはBN体制そのものを大きく揺るがす政治スキャンダルが起こる。ワン・マレーシア開発公社(1MDB)にまつわる政治資金スキャンダルである。1MDBは2009年以前にはトレンガヌ州の州営投資会社であったものをナジブ政権が連邦政府の財務省傘下の国営投資会社としたところからスタートしており、電力、土地開発、観光、アグリビジネスなどの分野で外国企業とも協力しながら国内外で大型の投資を行ってきた。しかし、1MDBは巨額の負債を抱えていることが2014年頃から明らかになり、2015年初頭には負債が420億リンギットに拡大した。そうした中で2015年7月にはナジブ首相の個人口座に1MDBが出所であるとされる26億リンギットもの資金が流れたとの報道がなされた。現役の首相が関与したとされる1MDBスキャンダルによってマレーシアの政界には激震が走った。
逮捕され失職する危機に直面したナジブ首相は政治的生き残りをかけて自らに批判的な副首相や大臣を更迭し、1MDB関連の捜査を行っていた法務長官、マレーシア反汚職委員会、インテリジェンス関連の任務を司る警察の特別部隊など独立機関の幹部を次々に左遷や辞任に追い込んだ。さらに、連邦下院の公会計委員会の1MDBスキャンダルの調査も事実上停止させた。メディアについても1MDBスキャンダル関連の調査報道を行った週刊紙『ジ・エッジ』が一時的に停刊されている。UMNO内部からマハティール元首相がナジブ首相の退任を求めて批判の声をあげたが党内でナジブ批判は大きな力とならず、マハティールは離党してUMNOの外からナジブ退任を求める活動を本格化させていった。
2013年総選挙後には1MDBスキャンダルで政府・与党が混乱する中で野党側も各党間の連携が乱れていた。野党連合のPRが構成政党のPASとDAPの対立によって2015年に活動を停止したのである。後継の野党連合としてDAPとPKR、そしてPASから離党したグループが結成した国民信託党(Amanah)の3党によって新たな野党連合の希望連盟(PH)が結成された。しかし、PASはPHとは一線を画する独自路線を模索することになる。野党が政党連合のPHとUMNOとの連携も視野に入れつつ独自色を強めるPASの2大勢力で分裂する中で、PHにはマハティールやナジブに副首相を解任されてUMNOを離党したムヒディン・ヤシンらが結成したマレーシア統一プリブミ党(Bersatu)が合流して4党による政党連合となった。Bersatuの合流後、PHはマハティールを次期首相候補として選挙戦を戦ってマレーシア史上初の政権交代を果たすことになる(2018年総選挙に関しては直近の総選挙の項で説明)。
(Ⅱ)史上初の政権交代とPHによる短期政権
(5) PH政権(2018年5月~2020年2月)
2018年5月9日に実施された総選挙でマレーシア史上初の政権交代が起った。BNは独立から61年間維持していた政権を失い、PHが新たな与党となった。新首相には第4代首相だったマハティールが15年ぶりに再び首相に返り咲いて92歳の年齢で第7代首相となった。新政権は選挙期間中に公表したマニフェストに沿って政策を実施することを約束した。そのマニュフェストの中には物品・サービス税の撤廃や警察や司法の改革、市民的自由を抑圧する法律の廃止、首相の任期制限など様々な改革案が提示されていた。しかし、これらの改革案の多くはPH政権が2年も続かなかったために結果として成果が出ないままになってしまう。
PH政権の崩壊を直接的にもたらしたのは、PH内の内紛である。特に崩壊をもたらした最大の要因はマハティール首相の後継問題だった。2018年総選挙の前にマハティールは1990年代末に対立の末、汚職と異常性愛の罪で政府と自党から追放したかつての仇敵のアンワル元首相と和解をすることになった。1990年代末以降の野党の活動においてアンワルが果たしてきた役割を評価し、野党勢力を糾合するためにアンワルと手を握る必要があったためである。アンワルは2015年2月に確定したソドミーの罪によって服役していたため、総選挙を前にして野党勢力を代表して次期首相候補となったのはマハティールだった。90歳を超える高齢だったマハティールは2018年総選挙前に、仮に政権交代が起こって自らが首相となったとしても2年程度で退任し、その後の首相をアンワルに任せるとの約束を当時の野党指導者たちと交わした。
実際に政権交代が起こり、PHが政権を担当するようになると、マハティールは国王にアンワルへの恩赦を求めた。恩赦によって自由の身となったアンワルは、2018年の補選で下院議員に復帰し、当時PH内で最大与党だったPKRの総裁にも就任してマハティールから首相職の禅譲を準備した。しかし、これまで慣例的に次期首相と目されてきた副首相のポストもPH政権発足以来、アンワルの妻のワン・アジザが務め続けており、アンワルが入閣する気配もなかった。PH内では次第にマハティールはアンワルに政権を禅譲すべきでないという意見が公に出てきたり、そこまでいかなくとも次期総選挙までマハティールがPH政権を率いるべきだとの意見も出てくるようになった。他方でPH内のアンワル支持派の方では政権前の約束通り、アンワルへの首相禅譲を求める声が公に出てくるようになり、PHの結束が揺らぐことになった。アンワルが総裁を務めるPKRでナンバーツーの副総裁のポストに就いていたアズミン・アリもアンワルと対立し、アンワルの次期首相就任に反対の立場に立っており、PHの対立は政権交代後わずか1年で既に誰の目にも明らかになりつつあった。このようなマハティールの後継首相をめぐるPH内の対立に加え、史上初の政権交代の熱気から覚めた国民の間ではPHへの支持が急速に失われていった。ある世論調査によれば、PH政権発足直後にはマハティール首相への支持率が83%でPH政権には79%が支持を与えた。しかし、政権交代から1年も経たない2019年3月には、それぞれ46%と39%にまで低下している1。
こうした内紛と国民からの支持急落に苦しむPH政権の終焉は2020年2月23日からの1週間で進行した政変によって決した。2月23日の日曜日にシェラトン・ホテルにて当時の野党だったUMNOやPASなどの代表と、与党からBersatuやPKRの一部の幹部などの密会が行われた。この「シェラトンの策謀」とも呼ばれる会合の結果、政党連合の組み換えと下院議員の政党所属の変更が起こり、PH政権が崩壊して新たにBersatuの総裁だったムヒディン・ヤシンを首相とする政権が2020年3月1日に発足した。Bersatuはシェラトンの策謀以降、議長であるマハティールと総裁であるムヒディンとの対立が深まっていったが、ムヒディンが主導でPHからの離脱を決めて新たな政権を発足させることになった。政変でムヒディンに敗れた形となったマハティールは少数の議員をつれてBersatuから離党してムヒディン政権と対峙する野党議員となった。さらに、PKRではアンワルに対立するアズミン・アリ副総裁が率いる10人の下院議員がPKRを離党し、Bersatuに入党した。
(Ⅲ)PH政権崩壊からの政治の流動化
(6)ムヒディン政権(2020年3月~2021年8月)
2020年2月の「シェラトンの策謀」を経て3月に発足したムヒディン政権を支えたのは、新たに発足した政党連合の国民連盟(PN)とUMNOが主導する政党連合のBN、サラワク州の地方政党連合のサラワク政党連合(GPS)と、サバ州の地方政党であった。このうち、PNを構成したのは、PHから離脱したBersatuと、イスラーム主義政党のPAS、サバの地方政党などであった。PH政権下ではBNを主導するUMNOと、イスラーム主義政党PASとは「国民調和」(Muafakat Nasional)と呼ぶ政党間同盟を結び、ともにPHから政権を奪還するために協力してきた。PNに加入しなかったUMNOに対して、PNに加入しつつ、野党時代に結んだUMNOとの同盟関係も維持するPASは、UMNOとBersatuの間でキャスティングボードを握る立場ともなった。
以上のようなムヒディン政権を支える与党の構成には、マレー人を支持基盤とする与党間で支持者を求めて競合する構造的問題が存在した。半島部マレーシアではUMNOと、もともとはUMNOからの離党者によって結党されたBersatu、そしてムスリムのマレー人を支持者とするPASは選挙では同一選挙区で競合する可能性が非常に高い。実際に、2018年総選挙では同じ選挙区内でこの3党がマレー人票を奪い合って競合する構図がみられた。2020年2月には連邦レベルでの連立の組み換えおよび下院議員の政党移動によって政権交代が起こった。しかし、特にUMNOとBersatuの間では、連邦レベルでムヒディン政権を支える与党だったにもかかわらず、前述の支持基盤の競合から州レベルでの政党組織間での深刻な対立が存在していた。実際にそうした対立によって2020年12月にペラ州では、BersatuとUMNOの州レベルでの対立が表面化し、UMNO所属の州首相がUMNO所属の州首相へと変更になる事件も起こった。ジョホール州や2020年9月に州選挙が実施されたサバ州では、UMNOとBersatuの地方政党組織間での対立が表面化した。
このように与党内での構造的な対立を抱えたままスタートしたムヒディン政権だったが、野党との議席数も接近しており、安定性を常に欠いていた。ムヒディン政権を支持したのは全連邦下院議議員の222の過半数をわずかに超える113議員だけであり、野党となったPHからの引き抜き工作や、予算案を人質に取ったムヒディン政権への事実上の信任決議にも直面している。このように与党内での対立構造と、議席数が接近した野党側からの攻勢を前にしたムヒディン政権が史上最短とはいえ、なぜ17か月間政権を維持できたのか。その答えはムヒディン政権の発足とほぼ同時に深刻化していった新型コロナウイルスの感染拡大(とその対策)にある。とはいえ、コロナの感染拡大はムヒディン政権初期には本来的に不安定な政権が継続した理由である一方で、後述するように、1年が経過するあたりから政権崩壊を急速に促進させる理由ともなった。
2020年3月からコロナ患者が急増したことから、政府は活動制限令(MCO)を発令して国民の移動制限や企業の操業規制を含む事実上の全土でのロックダウン措置を実施した。MCOにともなってマレーシア人の自宅外での活動が厳しく制限されるなかで、2020年5月18日に開催された連邦下院議会は1日だけの開催となり、ムヒディン政権に不信任を突きつけようとした野党側はその機会を得ることができなかった。2020年11月に開催された連邦下院議会での2021年度予算案の審議に際して、野党側は予算案への反対を通じてムヒディン政権の倒閣を目指した。しかし、コロナ感染者が拡大するなかで、国民の間でコロナ対策予算のスムーズな成立を望む声が多く、さらには国王も予算案に賛成するように下院議員に呼びかけたこともあって野党側の予算案の審議を通じた倒閣の試みはうまくいかなかった。
2020年後半からのコロナ感染者の拡大は、ムヒディン首相が国王への助言を通じて憲法150条に基づく非常事態宣言の発令を求めることにつながった。ムヒディン首相はコロナ拡大を理由として最初は2020年10月に非常事態宣言の発令を求めたが、この時は国王が発令を拒否した。しかし、2021年1月にムヒディン首相が再度、国王に非常事態宣言の発令を求めたときには2021年8月1日までの期限で認められた。この憲法に規定された非常事態宣言に基づいて出された6つの非常事態令(emergency ordinance)により、連邦下院議会や州議会は停止され、予定されていた補選も延期となった。ほかにも連邦及び州の政府は当初予算を超えて予算を使用する場合でも議会の承認なしで使用が可能となった。これは政府が議会のチェックアンドバランスなしで事実上の行動のフリーハンドを得たことを意味する。コロナ対策を理由として出された非常事態宣言によりムヒディン政権は連邦下院議会を開くことなく限定された期間ながら非常に強力な権限を手にいれた。非常事態宣言の継続は当初2021年1月から8月までと期間を限定されていたが、ムヒディン政権は一時期、8月を超えても非常事態宣言を延長する可能性を示唆していた。
非常事態宣言の発令によって強力な権限を得て、議会を通じた野党からの圧力に直接的にさらされることがなくなったムヒディン政権だが、2021年6月頃から国民からの支持を失うとともに、UMNOの一部からムヒディン政権への支持を撤回する議員たちが登場して政権崩壊の危機が一気に現実化していく。比較的信頼できるある世論調査結果によると、2020年5月から2021年4月までのムヒディン首相への国民からの支持率はそれほど悪くない。最も支持が高かったのは2020年6月と7月で支持率は74%だった。逆に最も支持率が低かったのは2021年1月の63%である。2021年4月には支持率は67%だった2。本稿を執筆している2021年8月の段階では同じ世論調査機関による2021年4月以降の支持率が判明していないが、5月末から6月にかけてムヒディン政権への国民の支持が急減していったのではないかと予測ができる。支持減少の理由はコロナ感染拡大を食い止めるために6月1日から全土で実施されたロックダウンである。このロックダウンによって国民に半径10キロ圏内を超える不要な移動を禁じたり、特定の企業活動以外を禁じた非常に厳しい規制策が導入されたものの、新規のコロナ感染者数の拡大はとどまることがなかった。コロナ感染者数の継続的拡大の最大の原因はデルタ株が流行したためであるとみられる。マレーシアのコロナの新規感染者数は2021年8月に入って2万人を超え、8月26日には過去最大となる2万4599人を数えていた3。国民の間では政府が2020年3月以降、1年を超える厳しい規制を強いているにもかかわらず、感染拡大を止めることのできないムヒディン政権への不満が噴出し始めた。2021年4月までのムヒディン首相への比較的高い支持率は、政府がコロナ感染拡大を抑え込むことができているとの国民の認識に基づいていたと考えられるため、ムヒディン政権がコロナ対応に「失敗」しているとの認識が国民の間でのムヒディン首相や政権への支持が剥離していく原因となったとみられる。
国民の間でムヒディン政権のコロナ対応への「失敗」の認識が広がると同時に政治エリートの間でもムヒディン首相への批判が高まっていった。2021年7月に入るとムヒディン首相を支えるはずの与党UMNOからはトップである総裁のアフマド・ザヒド・ハミディがムヒディン首相への支持を撤回すると表明した。この時、UMNOは倒閣を目指すザヒド総裁と、UMNO副総裁補(内閣では副首相)で政権継続を求めるイスマイル・サブリ・ヤコブとの間でムヒディン政権の支持をめぐって分裂していた。ザヒドらUMNOの一部議員の間でのムヒディン首相への支持撤回が起こった背景には、前述のUMNOとBersatuの支持層が重なり合う構造的な問題に加えて、国王や各州の元首にあたるスルタンやラジャなどの統治者がムヒディン首相に非常事態宣言の延長はせず、停止されている議会を一刻も早く再開させるよう公式に求めたことがある。こうした国王や統治者からの公式の圧力もUMNO内でムヒディン首相への支持撤回が表面化するきっかけとなった。結局、連邦下院議会は7月26日に再開されたが、非常事態宣言下で発令されていた非常事態令の撤廃をめぐっても国王とムヒディン内閣の間でいざこざが持ち上がり、ザヒドUMNO総裁に同調してムヒディン政権への支持を公に撤回する連邦下院議員が増えた。与党であるはずのUMNOから10人以上の離反者が出たことで連邦下院議会での過半数の議員数を確保できないと悟ったムヒディン首相は国王に辞任を申し出た。
(7)イスマイル政権―UMNOの首相ポスト奪還(2021年8月~現在)
与野党の勢力が伯仲するなかでのムヒディンの首相辞任によって首相選出は困難が予想されたもののムヒディン政権下で与党を形成したUMNO、Bersatu、PASなどの政党は従来の与党の枠組みを崩さず、副首相でUMNO副総裁補のイスマイル・サブリ・ヤコブを首相に選出することとした。イスマイル首相の選出で3年ぶりにUMNOが首相職を取り戻した。首相に選出されたイスマイルは組閣を実施したが、ムヒディン政権の大臣や副大臣の大半を留任させて前政権との継続性を確保した。イスマイル政権はコロナ対策を中心に野党にも協力を求める姿勢を示している。
マレーシア/政党
1957年の独立から61年間続いた連盟/BN体制下でのマレーシアの政党システムは、民族別および地域別に組織された政党が連合を組む形態が基本となってきた。2018年総選挙で政権交代が起こって連盟/BN体制が崩壊したが、その後も民族や地域に沿った政党が連合を組む形態は基本的には変わっていない。ただし、多民族政党を自称し、複数の民族が党員となっている政党も存在する。2018年総選挙の後、政党(連合)間の連立や政党連合の組み換えが起こっており、本稿執筆時の2021年8月でもそうした政党システムの変動はいつでもおこりうる。2018年以降のマレーシアの政党および政党システムは流動化したといえる。
(1) 政党連合・国民連盟(PN)の主要構成政党
PH政権の崩壊に至った2020年2月の政変によって成立したムヒディン政権を支える与党連合が国民連盟(PN)だった。PNを構成する政党はムヒディン首相が総裁のマレーシア統一プリブミ党(Bersatu)、汎マレーシア・イスラーム党、祖国連帯党(STAR)とサバ進歩党(SAPP)というサバ州を基盤とする2党の小規模地方政党、マレーシア人民運動である。これらの構成政党のうち、2021年8月時点で連邦下院に議席を有しているのは、Bersatu(31議席)、PAS(18議席)、STAR(1議席)であり、その他の2党は議席を有していない。
①マレーシア統一プリブミ党(Parti Pribumi Bersatu Malaysia: Bersatu)
マハティールやムヒディン・ヤシン元副首相(後の第8代首相)ら主にUMNOからの離党組によって2016年に結成された政党。Bersatuが設立された背景として、2014年から2015年にかけて当時のナジブ首相にマハティール前首相が批判を強めていたことがある。マハティール首相が批判をしたのは、最初は財務省傘下の国営投資会社のワン・マレーシア開発公社(1MDB)の巨額債務問題だった。さらに、2015年7月に『ウォール・ストリート・ジャーナル』紙が26億リンギ(日本円で780億円)の巨額資金が1MDBからナジブ首相の個人口座に流れたとの報道をした後は、マハティールの批判はさらに強まった。1MDB関連のスキャンダルの追及から逃れるために、ナジブ首相は閣内で自らに批判的なムヒディン副首相を解任した。その後はマハティール、ムヒディンやマハティールの息子のムクリズ・マハティール前クダ州首相らはUMNO党内でナジブの追い落としを図ったが果たせず、彼らはUMNOから離党し、Bersatu結党に至った。
結成間もないBersatuが政党連合のPHに公式加入したのは2017年に入ってからである。結党後最初の総選挙となった2018年総選挙でBersatuはマハティールの生誕地で長年の選挙区であるクダ州や、ムヒディンが過去に州首相を務めたことがあるジョホール州で勢力を拡大した。2018年から2020年に連邦でPHが政権を担当している間、この両州とペラ州ではBersatuが州首相のポストを確保した。しかし、2020年2月の「シェラトンの策謀」に始まる政変でPH政権が崩壊し、Bersatu総裁のムヒディンを首相とする政権が発足すると、ジョホール州ではUMNOがクダ州ではPASが州首相ポストを担当するようになった。ペラ州では連邦で与党を構成していたUMNOとBersatuの地方組織の対立が2020年12月に表面化し、州首相ポストはBersatuからUMNOへと移った。PNが経験した初めての大規模な選挙である2020年9月のサバ州選挙の結果、Bersatuはサバ州の州首相ポストを確保した。
2020年2月の「シェラトンの策謀」によってBersatu内ではムヒディン総裁派とマハティール議長派が対立したが、その後は2020年3月1日に首相となったムヒディンがBersatuを掌握した。2020年5月にマハティールは自分の息子のムクリズ・マハティールら4人の連邦下院議員とともにBersatuの党員資格を停止されたことでBersatuと袂を分かって祖国闘士党(PEJUANG)を結成することとなった。2018年総選挙でのBersatuの連邦下院議会での獲得議席は13議席だったが、その後は他党の離党者を受け入れることで本稿を執筆した2021年8月時点では31議席にまで議席を増やしている。
②汎マレーシア・イスラーム党(Parti Islam SeMalaysia: PAS)
1956年に設立されたイスラーム主義政党。PASは伝統的にUMNOのライバルとしてマレー人票をめぐって争ってきた。PASの支持基盤はマレー半島の東海岸のクランタン州やトレンガヌ州であり、近年ではマレー半島北部のクダ州でも支持を拡大してきた。結党時からイスラームの擁護と促進がPASの党規約の基本的な項目として挙げられていたが、党のイスラーム主義へのシフトが一層本格化したのは80年代からである。これ以前の党指導者は、イスラームを重視するものの、マレー人の地位向上を目指すマレー・ナショナリズムを党の路線の中心に据えていた。だが、70年代のBNの一時加入とそれに伴う党の分裂で党勢が大きく後退し、PASが野党として再出発する際、中東留学によってイスラーム法学を修めたウラマーが1982年の党役員人事選挙で台頭し、文字通りイスラーム主義が党の基本路線となった。
PASの党機構でユニークなのは、党総裁が主催して日々の党運営を司る党中央運営員会(Jawatankuasa Kerja Pusat)の上位に選挙で非選出のウラマーからなるウラマー評議会(Majlis Syura Ulamak)が置かれ、党の最高意思決定機関としての地位を与えられている点である。ウラマー評議会を率いる議長はPASの精神的指導者(Mursyidul Am)と呼ばれて党の方針に大きな影響力を持つ。1991年から2015年まで精神的指導者としてPASだけでなくマレー人社会の中で広く敬意を受けていたのがニック・アジズであった。PASの指導体制は2000年代に入ってから2013年総選挙直後までは、ニック・アジズと2002年に総裁に就任したハディ・アワンの双方がPASをリードしていく体制であった。特にニック・アジズは当時の与党だったUMNOへの不信感を持ち、PASが野党として活動していくことを重視していた。
しかし、ニック・アジズが2015年に死去すると、PASは総裁のハディ・アワンの下で自党が政権を運営するクランタン州でのハッド刑の導入を図るため、連邦政府を握るUMNOに接近していった。ハッドとは飲酒、姦通、窃盗などコーランに処罰が記載された犯罪である。この犯罪に対する刑罰がハッド刑と呼ばれており、例えば、窃盗を行った者に対して四肢を切断する刑などが定められている。クランタン州で州法としてハッド刑を導入するためには、刑事罰の規定を定め、州法の上位にある連邦法を改正しなければならない。そのため、PASには当時連邦政府を担っていたUMNOに接近する動機があったのである。
PASがクランタン州でのハッド刑導入を進めようとUMNOに接近したことは、党内のみならず、当時PASが連合を組んでいたPRの構成パートナーとの間に対立を生み出した。PAS内部には伝統的に、イスラームの宗教教育を受けたウラマーを中心とするイスラーム主義を社会に厳格に適用していこうとする勢力と、非ウラマーで高度な世俗教育を受けたリーダーを中心としてムスリム以外とも妥協を図りながらイスラーム主義を段階的に適用していこうとする勢力との間の対立が長年存在していた。このウラマー勢力と非ウラマー勢力との対立は、2015年当時にはPASが所属していた野党連合のPR内でPKRやDAPと協力関係を維持するか、それとも連邦政府を担っていたUMNOと協力するか、という路線対立とも重なってPAS内の対立をさらに深めた。
ニック・アジズ死去後の2015年のPASの内紛は、非ウラマーを中心としたPR内でPKRやDAPと共闘を志向する勢力が6月の党内選挙で敗北し、彼らが離党して新たにAmanahを結成することで決着がついた。総裁のハディに率いられて勝者となったウラマー勢力が強くなったPASに対し、DAPがPRの政党連合を解消することを宣言し、PRは活動を停止した。
その後、PASはUMNOに接近しながらも野党として活動し、2018年総選挙に向けてBNとPHとは異なる第三極を目指してイスラーム系の政党と政党連合の平穏構想(Gagasan Sejahatera: GS)を結成した。ただし、PAS以外のGS構成政党は長年にわたり非常に小規模な活動しかしておらず、GSは事実上PASであるといってよかった。2018年総選挙でPASは、連邦下院議席を前回選挙よりも3議席減らして18議席となった。しかし、1991年から担当してきたクランタン州の州政権を維持したほか、新たにトレンガヌ州の州政権も確保してマレー半島の東海岸で確固たる地位を築いた。2018年総選挙後のPASは、野党となったUMNOと補選などの機会を通じて選挙協力を深め、「国民調和」(Muafakat Nasional)と呼ぶUMNOとの政党間の同盟関係に発展させた。
2020年月の「シェラトンの策謀」を経てムヒディン政権が成立すると、PASはPNを構成する与党の一角となり、BNを主導するUMNOとBersatuとの間でキャスティングボードを握る立場になった。
③マレーシア人民運動(Parti Gerakan Rakyat Malaysia: Gerakan)
1968年設立、通称、Gerakan(グラカン)。設立当初は野党として活動していたが、後に新たに設立された政党連合のBNに加入し、2018年まで与党の構成政党となった。特定の民族に党員を限定しない多民族政党であるものの、実態は華人に主要な支持基盤を持つ。結党時からペナン州に強い支持基盤を持ち、歴代の州首相を輩出することで、ペナンの州政権を握っていた。しかし、2008年総選挙で大敗し、連邦下院議席の大幅減少だけでなく、ペナン州の州政権も野党に奪われた。2013年総選挙でも党勢を回復することはできず、連邦下院議席も僅か1議席と低迷した。さらに、2018年総選挙では1議席も取れなかった。2018年総選挙での大敗を受けて、6月にグラカンはBNから離脱した。Gerakanは2021年2月正式にPNに加入した。
(2)政党連合・国民戦線(BN)の主要構成政党
①統一マレー人国民組織(United Malays National Organization: UMNO)
植民地統治下の1946年に宗主国イギリスが提出したマラヤ連合案に反対するマレー人組織が集まって結成される。結党時の党規約にも示されているとおり、マレー人の権利の擁護を目的に設立された政党であり、マレー人に党員が限定された民族政党である。2018年総選挙で敗れて下野するまで61年間政権を握り続けた政党連合BN(その前身の連盟)の中核政党で、歴代の内閣の総理、副総理は慣例的にそれぞれUMNOの総裁と副総裁が就任してきた。近年まで農村部や公務員の間に比較的強い支持基盤を持ち、長い与党経験の中で構築されてきた政府の統治機構と一体化した強力な選挙マシーンを有してきた。
NEPに伴って70年代から90年代にかけて政府主導でマレー人企業に手厚い保護が実施される中で、UMNOは与党としての立場を利用した与党ビジネスを本格化させていった。1980年代から1990年代にはUMNOの与党ビジネスは最盛期を迎え、UMNO系企業が建設、ホテル、メディア、不動産開発など様々な分野で大きな経済的影響力を持ち、巨大ビジネス・グループを形成し、党運営における豊富な資金源となる一方、こうしたビジネスとUMNOとのつながりは、党内の派閥闘争を深刻化させ、外部から金権政治や汚職体質を批判されるようになった。しかし、1990年代末のアジア経済危機によって与党ビジネスが深刻な打撃を被り、企業グループの整理や政府主導の再建が進む中で、UMNOが直接的に影響力を行使する企業はメディアなどの一部の分野に留まるようになった。
2018年総選挙の結果はUMNOにとって衝撃であった。UMNO結党の地であり長年にわたって地盤としてきたジョホール州や、1990年代から経済開発の実績と将来的な約束を通じて強固な地盤を築いているとみられていたサバ州のほか、これまで野党の州政権を経験したことがないムラカ州やヌグリスンビラン州などでもUMNOは議席を大きく減少させた。2018年総選挙によって連邦下院の議席数は前回総選挙よりも34議席を減らして54議席となり、州議会選挙でもクダ州、ペラ州、ムラカ州、ヌグリスンビラン州、ジョホール州の州政権を失った。サバ州の州政権も総選挙後に所属議員がUMNOからWARISANに寝返ったためにUMNOの確保できた州政権はプルリス州とパハン州の2州のみとなった。
2018年5月の総選挙で政権を失った後、UMNOは党役員人事選挙を6月に実施した。役員人事選挙では、UMNO副総裁で前副首相のアフマド・ザヒド・ハミディ、UMNO青年部長で前青年・スポーツ大臣のカイリ・ジャマルディン、元財務大臣のラザレイ・ハムザらが総裁職を争った。総裁選ではカイリがUMNOの党員をマレー人以外にも求める可能性も示唆したが、選挙結果はナジブ時代からの継続の色が強いザヒドが総裁に選出された。ザヒドは2021年2月時点で47 件(12件の背信容疑、8件の汚職容疑、27件の資金洗浄容疑) もの起訴に直面して裁判で争っている最中であることから政府の大臣職やその他の公職に就くことが困難である。
PH政権下ではUMNOはPASと「国民調和」と呼ぶ政党間同盟を結んで選挙協力を進めた。2020年2月の「シェラトンの策謀」によって起こった政変でPH政権が崩壊してムヒディン政権が成立したことで与党に復帰した。さらに2021年8月のムヒディン首相の辞任によってムヒディン内閣で副首相だったイスマイル・サブリ・ヤコブ防衛大臣(UMNO副総裁補)が首相に就任したことからUMNOは3年ぶりに首相ポストを奪回した。
②マレーシア華人協会(Malaysian Chinese Association: MCA)
1949年に当時のイギリス植民地マラヤを代表する華人企業家のタン・チェンロックの主導により結成。華人に党員が限定された民族政党。設立以来、華人ビジネス界との関係を比較的強く有している一方、MCA自体もビジネスに直接関与している。最もよく知られたMCAのビジネスとして、マレーシア最大の英語紙『スター』の発行がある。独立から2018年まで与党の地位についてきたが、2008年総選挙で議席が半減しただけでなく、その後の党内を2分する派閥抗争によって党勢は大きく落ち込んだ。その後、2013年総選挙ではさらに議席数を7議席まで減らし、2018年総選挙では僅か1議席しか確保できずに、壊滅的な打撃を受けた。
MCAはBNに残留しているものの、2018年総選挙で唯一議席を確保できたウィー・カッションと2019年11月の連邦下院補選で当選したウィー・ジェックセンの2人しか連邦下院に議席を確保できず、2018年総選挙以前と比べると政界全体への政治的影響力のみならず、UMNOの主導するBN内での影響力も非常に小さいものとなっている。
③マレーシア・インド人会議(Malaysian Indian Congress: MIC)
1946年結党。インド人に党員を限定した民族政党。UMNO、MCAと同様に連盟の時から続く与党連合の一角を占めてきた政党である。しかし、2008年総選挙で議席を大幅に減らしたことで大きな打撃を受けた。2013年総選挙では、ナジブ政権によって選挙前に発表されたインド人社会への支援策や、反政府的な立場に立っていた社会運動のヒンドゥー権利行動隊(Hindraf)のBNへの取り込みなどで4議席を確保することができた。しかし、2018年総選挙ではBNが政権を失うなかでMICも議席を減らし、1議席と低迷している。その後、PH政権の崩壊に伴い、与党に復帰するが、MCAと同じく政界全体への政治的影響力およびBN内での影響力は非常に小さいままとなっている。
(3)政党連合・希望連盟(PH)の構成政党
政党連合の希望連盟(Pakatan Harapan: PH)は2018年総選挙でマレーシア史上初の政権交代を果たした。PHは2015年に前身の人民連盟(Pakatan Rakyat: PR)が活動停止状態になった後、以下で説明するPKR、DAP、Amanahの3党によって発足した。その後2017年に公式にBersatuが加入して4党体制となった。しかし、2020年2月の「シェラトンの策謀」による政変を経てBersatuがPHを離脱し、PKRからも離党者がでたことからPHは政権を失った。
PHの前身にあたるPRは2008年から2015年まで連邦下院での野党連合として活動し、スランゴール州、ペナン州、クダ州(2008-2013年)、ペラ州(2008-2009年)でPRが州政権も運営していた。しかし、後述するAmanahやPASの項で説明するように、構成政党間の対立によってPRは活動を停止してしまう。中でもイスラーム主義政党のPASと主に非ムスリムに支持基盤をおく世俗政党のDAPとの対立がPR瓦解の最大の要因である。
PASとDAPの対立はPRの前身にあたり、1999年総選挙に向けて野党が連合した政党連合の代替戦線(Barisan Alternatif: BA)でも起こり、BAが事実上活動を停止する原因となっている。
①人民公正党(Parti Keadilan Rakyat: PKR)
1990年代末のレフォルマシ運動の時代にアンワル・イブラヒムの妻のワン・アジザを代表に結成された国民公正党(PKN)をベースに、1955年にマレー人左派を中心に結成され、社会主義を掲げたマレーシア人民党(PRM)が2003年に合併してできた政党。実質的にはマレー人が主導する政党だが、公式には多民族政党として組織されている。現在の総裁は2018年11月の党選挙において無投票で当選したアンワル・イブラヒムである。
2008年総選挙では連邦下院議席を31議席獲得して最も躍進した政党であったが、その後は離党者が続出し、2011年8月には下院24議席(協力関係にあるマレーシア社会主義者党の議員を除けば23議席)にまで減少した。しかし、2013年総選挙では30議席に回復し、2018年総選挙では47議席にまで議席を増やして新たに政権についたPH政権の中で最大の連邦下院議員を擁する政党となった。しかし、2020年2月の「シェラトンの策謀」に始まる政変によってPHが政権を失ったことで野党となった。「シェラトンの策謀」では当時のPKR副総裁のアズミン・アリと彼を支持するグループの連邦下院議員が離党した。2018年総選挙ではPKRは47議席を獲得していたが、離党者がでたことで本稿を執筆している2021年8月の時点で連邦下院議席は35議席にまで減少している。
PKRは2008年以降、首都で連邦直轄地のクアラルンプールを取り囲む、マレーシアで最も経済的に発展したスランゴール州の州政権の州首相を輩出してきた。PKRの支持者はマレー人、華人、インド人の全ての層にまたがっており、多民族政党を自称している。とはいえ、支持者や指導層の中核を占めるのはマレー人である。PKRの最も重要な支持基盤はスランゴール州にあり、その他にマレー半島の西海岸沿いの州の都市部を中心に支持を集めている。
②民主行動党(Democratic Action Party: DAP)
1965年のシンガポールのマレーシア離脱に伴い、シンガポールを拠点に設立されていた人民行動党(People’s Action Party: PAP)の元党員がマレーシアで結党した。党の路線として社会民主主義を標榜する。マルチ・民族政党であり、党自体も「マレーシア人のマレーシア(a Malaysian Malaysia)」を主張し、BNの民族に基づく差別政策を批判してきたが、実態は非マレー人、特に華人に強い支持基盤を持ち、彼らの利益に基づく活動を行うことで、主に都市部の華人在住地域で議席を確保してきた。しかし、近年では華人の党であるとのイメージを刷新するため、マレー人の若手党員や指導者の育成に力を入れている。
2008年総選挙では、PASやPKRと連合を組んでペナン州で(連邦下院議席と州議会議席)の大量当選者を出し、当時BNを構成していたグラカンから州政権を奪った。2013年総選挙では、それまでBNの牙城だったジョホール州に、60年代から90年代末まで幹事長として名を馳せて、党の顔でもあるリム・キッシャンや若手の有力政治家を候補者として立てることで、BNの牙城の一部を崩すことに成功した。この成果により、DAPはPR構成政党の中でも2008年総選挙から唯一議席を増加させた政党となり、PRの第一党、連邦下院議会でもUMNOに次ぐ第2党に躍進した。2018年総選挙後は与党となったPH内で第二党として重要な位置を占めている。DAPの長年の支持基盤はペナン州などマレー半島西海岸の華人の多い都市部であったが、近年は東マレーシアのサラワク州などでも勢力を拡大している。2020年2月の政変によってPH政権が崩壊すると野党となった。
党役員では代表にあたる議長は、タン・コックワイ。しかし、党内では上述のリム・キッシャンが強い影響力を持つほか、実質的な指導者は党幹事長でリム・キッシャンの息子であるリム・グァンエンである。リム・グァンエンは2008年から2018年までペナン州の州首相を務めた後、2018年総選挙でPHが政権を獲得するとマハティール内閣の財務大臣に就任した。華人の財務大臣就任は1974年以来初めてのことである。DAPが州政権を運営するペナン州の現在の州首相は2018年5月に就任したチョウ・コンヨウである。
③国民信託党(Parti Amanah Negara: Amanah)
2015年にPASからの離党組が結成した政党。PASの項で後述するように2013年総選挙以降、PASはクランタン州でのハッド刑の導入を本格的に検討し始め、当時の野党連合のPRの内部で対立を生んでいた。この対立が高じて2015年にPRは政党連合の解消に至った。PAS内ではPKRやDAPとの協調路線をとろうとする非ウラマーの勢力が2015年の党内選挙で敗退したが、この勢力は同年6月にPASを離党して社会運動組織の新希望運動(Gerakan Harapan Baru: GHB)を結成した。GHBは当初から政党結成を目指して組織されていた。GHBは1970年代から休眠状態にあったマレーシア労働者党(Parti Pekerja-Pekerja Malaysia)の政党登録を利用し、党名を改名して現在のAmanahとなった。その後、AmanahはPKRやDAPと政党連合のPHを結成した。
2018年総選挙ではAmanahは11議席を獲得した。総選挙でAmanahはPASが強い勢力を保ってきたマレー半島の東海岸や北部に候補者を多く立てたが、実際に当選者を出すことができたのはマレー半島の西海岸だった。この選挙結果から示されるように、Amanahは現在でもマレー人有権者の比率が高いマレー半島の東海岸や北部でPASに対抗できるほどの支持基盤を築くことができていない。Amanahの支持者の多くはクアラルンプール周辺の都市部に住むマレー人である。
Amanahの総裁は、モハマド・サブ(通称、マット・サブ)である。モハマド・サブはPAS離党前にはPAS副総裁を務めていたこともある。PH政権下でモハマド・サブは防衛大臣を務めた。2020年2月のPH政権崩壊で野党となった。
(4)PHと同盟関係
サバ伝統党(Parti Warisan Sabah: WARISAN)
2016年に結成されたサバの地域政党である。現在、PHには加入していないものの、PHと同盟関係にあって2018年に発足したマハティール内閣にも3人の大臣を出している。WARISAN結成のきっかけは、2015年から1MDBスキャンダルの渦中でUMNOのナンバースリーの副総裁補で、農村・地域開発大臣でもあったシャフィ・アプダルが反ナジブの姿勢を見せて閣僚を解任され、その後、UMNOから離党したことによる。シャフィは自らを代表とするサバの地域政党を立ち上げて総選挙に備えた。
2018年総選挙でWARISANはサバ州で連邦下院議席を8議席獲得する一方、サバ州の州議会で21議席を獲得した。サバ州議会選挙結果の内訳は、WARISANがPH構成政党のPKRおよびDAPが獲得した8議席と合わせて29議席を確保したが、UMNOが同じく29議席を獲得したため、PHと同盟したWARISANと、UMNOが同数となった。残りの州議会の議席はサバの地域政党の故郷連帯党(Parti Solidariti Tanah Airku: STAR)が2議席を獲得した。STARがUMNOに協力する意向を示したため、総選挙直後はUMNO主導の州政権が発足する見込みであった。しかし、UMNOからの6人の離党者がWARISANに入党したため、WARISAN総裁のシャフィを州首相とする州政権が発足した。
2020年2月の「シェラトンの策謀」に始まる政変によってPHが政権を失うと、WARISANも連邦レベルで野党となった。その後、WARISANは2020年7月までサバ州の州政権を維持したが、UMNOのムサ・アマン前州首相が新しい州政権を組織するのに十分な数の州議員の支持を得たと発表したことから、シャフィが州議会を解散して選挙に突入した。2020年9月のサバ州選挙の結果、WARISANは過半数の議席を確保することができず、連邦レベルで政権を担当するBersatuがUMNOと連立を組んでサバ州政権も獲得することになった。
(5)PN、BN、PH以外の独立系政党連合
サラワク政党連合(Gabungan Parti Sarawak: GPS)
2018年まで続いたBNの長期政権下で、サラワク州はマレーシアの全13州のうち唯一UMNOが進出していない州だった。しかし、サラワク州の4党の地域政党がBNに加入して、与党の地位を享受してきた。その4政党とは、サラワク統一ブミプトラ・プサカ党(Parti Pesaka Bumiputera Bersatu: PBB)、サラワク統一人民党(Sarawak United People’s Parti: SUPP)、進歩民主党(Progressive Democratic Party: PDP)、サラワク人民党(Parti Rakyat Sarawak: PRS)であった。
サラワク州では、PBB総裁だったタイブ・マフムドが1981年から33年間にわたって州首相を務めてきたが、長期政権に伴う深刻な汚職問題が長年取りざたされてきた。タイブは2014年に州首相とPBB総裁を辞任して、象徴的な地位にある州元首の地位についたが、依然としてサラワク州の政治に強い影響力をもっているとみられている。
タイブが2014年に州首相を退いた後、州首相とPBB総裁を引き継いだのはアデナン・サテムである。アデナンはサラワクの独自性を主張して時には連邦政府とも対立を招きかねないスタンスで政治に臨んだ。彼のスタンスはサラワクの人々から大きな支持を受け、2016年5月のサラワク州選挙ではサラワクのBN構成政党の4党は前回2011年の州議会選挙から17議席を増やす大勝を収めた。しかし、2017年にアデナンが死去し、その後の地位をアバン・ジョハリ・オペンが継ぐとBNの勢いは弱まり、2018年総選挙ではBN構成政党の4党はいずれも下院議席数を減少させた。2018年総選挙でBNが大敗し、連邦政府を失うと、サラワクの旧BN構成政党4党はBNから離脱し、6月に新たにサラワク政党連合(Gabungan Parti Sarawak: GPS)を結成した。GPSは連邦レベルでは野党となったものの、サラワク州では引き続き州政権を担っていくことになった。その後の2020年2月の「シェラトンの策謀」に始まる政変によってムヒディン政権が成立すると、GPSはムヒディン政権を支える与党となった。2021年8月のムヒディン政権退陣後に成立したイスマイル政権でもGPSは与党の一角を占めている。
インドネシア/政党
総選挙に参加できる政党は全国規模の組織を有する必要がある。政党法に定められた要件を満たした法人として法務・人権省に登録した上で、2012年改正の政党法ではすべて州に支部を設置し、その州内の4分の3以上の県・市に支部を設置することなどが義務づけられている。2004年総選挙では24政党、2009年総選挙では38政党が参加した。2009年総選挙より、歴史的経緯からナングロ・アチェ・ダルサラーム州に限り地方政党の選挙参加が認められた。2014年総選挙では12政党が参加、10政党が議席獲得、直近の2019年総選挙では20政党が参加、9政党が議席を獲得した。得票率および議会占有率が2割を超える政党はない、多党化傾向が常態化している。
2008年の選挙法改正では代表阻止条項が規定する最低得票率が従来の1.5%から2.5%、2012年には3.5%に引き上げられ、小規模政党は一層不利になった。従来の制度では最低得票率に満たない政党は次回の総選挙への参加を禁じられていたが政党名を変えるだけで済み、多党化を防ぐ実質的な効果はなかった。2009年総選挙に際しては得票率2.5%以下の政党は議席も配分されなくなった。この結果、1999年総選挙から参加を続けていた月星党は国会で議席を失った。2019年総選挙では最低得票率が4%にまで引き上げられ、2009、14年選挙で議席を持っていたハヌラ党が国会から消えた。
インドネシアの政党は大きく世俗ナショナリスト系とイスラーム系に区分されてきた。1955年総選挙では国民党と共産党、マシュミ党とNU党が四大政党を形成した。こうした区分は依然として有効であるものの、両者の境界はかなり曖昧になっている。ナショナリスト系政党は敬虔さをアピールし、イスラーム系政党は国家や社会のイスラーム化よりも反汚職や大衆の福祉などを訴えるようになった。第一次ジョコ・ウィドド(以下ジョコウィ)政権では、闘争民主党、ゴルカル党、民族覚醒党、開発統一党、国民民主(ナスデム)党、ハヌラ党が与党連合、グリンドラ党、福祉正義党が野党連合を組んでいる。野党連合は在野のイスラーム急進派を取り込み、政権批判を強めたが、与党連合にもイスラーム系政党(民族覚醒党、開発統一党)が含まれる。
2019年総選挙は、大統領への支持をめぐる与野党の対立が、社会の「分極化」といわれるほど高まるなか、大統領選挙と初めて同日に行われた。ジョコウィ、プラボウォを担いだ闘争民主党とグリンドラ党がそれぞれ票を伸ばしたが、いずれも2割には届かなかった(グリンドラ党はゴルカル党に次ぐ第3党)。大統領選挙の結果が確定すると、両陣営は早々に和解し、グリンドラ党も第二次ジョコウィ政権の連立に加わった。明確な野党は福祉正義党のみになった。
2019年選挙の結果国会に議席を獲得したのは以下の9政党である。このうち民主主義者党は2004年、グリンドラ党は2009年、国民民主党は2014年に国政選挙に初参加した。
闘争民主党(Partai Demokrasi Indonesia Perjuangan, 略称PDI-P)
スハルト時代の野党インドネシア民主党(PDI)を前身とする。インドネシア民主党は1973年の「政党簡素化」によって、世俗ナショナリスト系やキリスト教系の諸政党が統合されたものである。1997年総選挙に際し、影響力を強めつつあったスカルノ初代大統領の娘メガワティが体制側の介入によって党首の座を解任された。闘争民主党はこのメガワティを中心とした分派によって結党された。1999年総選挙では第1党になり、2001年のワヒド大統領罷免を受けてメガワティが大統領に就任した。しかし、メガワティの大統領としての資質、同党の未熟な議員による汚職事件や私兵組織による廃退行為が失望や反発を生み、2004年総選挙では大幅に得票を減らした。メガワティは2004年、2009年の大統領選挙に出馬したが、いずれもユドヨノに敗れている。メガワティが後継者として期待する娘のプアン・マハラニは、2019年選出の国会で議長となった。
ジョコウィを大統領候補に戦った2014年総選挙では第1党に復帰、2019年選挙でも第1党を維持した。なお、ジョコウィは当初から党員ではなく、大統領と闘争民主党の間にはつねに緊張感がある。2024年の大統領選候補としては、プアンと中ジャワ州知事のガンジャル・プラノウォが争っている状況であるが、ジョコウィの3選論も根強い。
ゴルカル党(Partai Golongan Karya, 略称Golkar)
1964年にインドネシア共産党に対抗して設立され、スハルト時代には翼賛組織として独占的な「与党」となったゴルカル(職能集団)は民主化後、「党(Partai)」を組織名に加えて再出発した。2009年総選挙まで毎回得票を減らしたが、地方まで浸透する最も安定的な党組織と支持層を維持している。非ムスリムの国会議員もつねに1~2割は存在するが、とりわけジャワ以外ではスハルト体制期の長年の支配によって、イスラーム組織関係者も党内に多く抱える。ユスフ・カラの大統領選敗北後、2009年10月に実業家で前国民福祉担当調整相のアブリザル・バクリが党首に選出された。2014年大統領選挙では、ジョコ・ウィドドの副大統領候補となったユスフ・カラではなく、プラボウォ組を支持、野党連合に加わった。ジョコウィ政権発足後、ゴルカル党は政権支持をめぐって分裂したが、結局与党連合に加わった。近年は闘争民主党への依存を減らしたいジョコウィとの接近が顕著である。前党首の汚職事件での逮捕を経て、2017年末から党首の座にあるアイルランガ・ハルタルトは、第一次ジョコウィ政権の途中から産業大臣に、第二次政権では経済部門の調整大臣の要職に就いている。
グリンドラ党(Partai Gerakan Indonesia Raya[大インドネシア運動党] , 略称Gerindra)
2007年結成の農民漁民党を前身とする。大統領選挙出馬を目指していたスハルトの娘婿で元陸軍戦略予備司令官のプラボウォが加わって、2008年4月に現在の党名に変更された。豊富な資金力を背景にテレビCMを大規模に展開して有権者への浸透を図った。そこで売り出したのは庶民の味方というポピュリスト的なイメージであり、かつてのプラボウォによる人権侵害への批判や強権的なイメージを払拭しようとした。プラボウォは2009年大統領選挙ではメガワティの副大統領候補として立候補したが、第1回投票で敗れた。2014年総選挙では、イメージ戦略に加え、前選挙で議席を得られなかった小政党を吸収して勢力を拡大、退役軍人のネットワークを活用、各地で地方有力者を取り込んで全選挙区で一議席を確保して第三党に躍進した。第一次ジョコウィ政権を通して、福祉正義党と共に野党連合として政権との対立姿勢を明確にしたが、2019年10月発足の第二次ジョコウィ政権では与党に加わり、プラボウォは国防相に就任した。
プラボウォが政権入りする一方で、副党首のファドリ・ゾンは政権批判を続けている。2024年大統領選では、プラボウォがまた出馬するのか否かが注目される。ジャカルタ州知事のアニス・バスウェダンも有力候補の一人である。
民主主義者党(Partai Demokrat, 略称PD)
2004年総選挙に際して、スシロ・バンバン・ユドヨノを大統領に擁立すべく設立された政党。ユドヨノの人気によって2009年には第1党に成長したが、既存の大政党に比較して党組織は脆弱でとりわけ地方の人材が不足しているといわれる。2009年選挙のスローガンは「宗教的ナショナリズム」であり、ユドヨノ大統領自身とともに、「穏健だが、宗教的」なイメージを売り込んだ。2009年選挙で当選した同党国会議員の6割以上が経済界出身者であった。2014年総選挙では、次世代のリーダーと目された指導者たちの汚職容疑による逮捕、ユドヨノの人気凋落とともに党勢を半減させた。2019年総選挙でもさらに支持を減らしている。なお2019年大統領選では最終的にプラボウォ側に付いたものの、選挙後はすぐにジョコウィ政権と連立交渉を行なった。しかし、ユドヨノが自身の後継者として期待を寄せる息子のアグス・ユドヨノの入閣は叶わなかった。
2021年3月には、ジョコウィ政権の大統領首席補佐官であるムルドコ元国軍司令官がクーデターを仕掛け、党首就任を宣言した。この策謀は失敗に終わったが、アグスのリーダーシップと党組織の脆弱性を印象付けた。
民族覚醒党(Partai Kebangkitan Bangsa, 略称PKB)
最大のイスラーム団体ナフダトゥル・ウラマー(NU)を支持母体とする政党。NUの元議長で2000年に大統領となったアブドゥルラフマン・ワヒドのイニシアティブによって結党された。イスラーム団体を基盤としながらも、「民族」を掲げて国民政党を目指した。「覚醒」(kebangkitan)はNUの「ナフダトゥル」(アラビア語で覚醒)を想起させるインドネシア語、ロゴマークもNUに類似している。NUのプサントレン(イスラーム寄宿学校)指導者の影響力が強い東ジャワ州と中ジャワ州に支持者が多い。「改革派」として期待された1999年総選挙では12.6%を獲得したが、内紛を繰り返し、勢力を弱めた。2009年総選挙に際しては、ワヒド派とムハイミン・イスカンダール(現党首)派との分裂が法廷闘争に持ち込まれ、正当性を認められなかったワヒド派は選挙をボイコットするに至った。2014年総選挙では分裂状態を解消して党勢を回復、2019年総選挙でも票を伸ばしたが、得票率10%に届いていない。2014、2019年大統領選挙ではジョコウィを支持し、連立与党の一角を占めている。とくに2019年はジョコウィが、副大統領候補にNU総裁のマアルフ・アミンを立てたため、民族覚醒党もジョコウィの当選に尽力した。
2005年から党首を務めるムハイミンが党内を掌握してきたが、2021年4月にはワヒドの娘イェニー・ワヒドを担ぐ動きがあることが明らかになった。
国民信託党(Partai Amanat Nasitional, 略称PAN)
NUに次ぐイスラーム団体ムハマディヤの元会長で1998年の民主化運動の指導者の一人アミン・ライスを中心に設立された政党。ロゴマークはムハマディヤのマークに類似しているが、「国民」を掲げ、結党当初はキリスト教徒も幹部に迎えた。総選挙では都市部を中心につねに得票率6〜7%台の安定的な支持を受けている。アミン・ライスは2004年大統領選挙に立候補したが、第1回投票で敗れた。ビジネス出身の現党首ハッタ・ラジャサは、2009年大統領選挙ではいち早く再選を目指すユドヨノを支持し、第二次ユドヨノ政権の経済担当調整大臣を務めた。ハッタ・ラジャサは2014年大統領選挙ではプラボウォの副大統領候補になったが、接戦の上、敗退した。ジョコ・ウィドド政権発足後、一時は与党連合入りを表明して大臣職も得たが、野党連合とも近い関係を維持、2019年大統領選ではプラボウォを支持した。選挙後はやはりジョコウィ政権に接近したものの態度ははっきりしていない。2021年8月現在、次期大統領選に向けた動向が活発化するなかで、正式な連立政権への加入と大臣職の配分が取り沙汰されている。
福祉正義党(Partai Keadilan Sejahtera, 略称PKS)
ムスリム同胞団をモデルとした大学キャンパスにおける宣教運動が発展して1998年に政党となった。正義党として結成されたが1999年総選挙で代表阻止条項の最低得票率(1.5%)を下回ったため、2004年総選挙前に福祉正義党が新たに結党された。2004年総選挙では、既存政党への不信感を背景に清廉潔白なイメージを売る福祉正義党への期待が高まり、都市部で躍進、ジャカルタ特別州では約23%を得票して第1党になった。2009年総選挙は微増、2014年総選挙では初めて得票率を減らした。そのイデオロギー的背景と組織的性格から、排他的との批判を受ける一方で、2004年以降は日和見主義的との評価もなされるようになった。10年間のユドヨノ体制下では3つの大臣ポストを維持した。とりわけ2005年に地方首長選挙が有権者の直接投票となると、多数派工作のためにあらゆる政党と連立を組んだ。2010年7月には「開かれた政党」となることを宣言し、さらに現実主義を強めている。しかし2013年には当時の党首が汚職で逮捕され、大きなイメージダウンになった。2014年大統領選挙では、プラボウォ陣営に付き、ジョコ・ウィドド体制下では下野した。2019年大統領選でもプラボウォを支持、第2次ジョコウィ政権では唯一明確な野党となった。
2015年8月に指導体制を一新し、ソヒブル・イマンが党首、サリム・セガフ・ジュフリが宗教評議会議長に就任した。ソヒブル・イマンは学部から博士課程まで日本で教育を受けている。他方のサリム・セガフはサウディアラビアのマディナ大学で博士号を得ている。理系と宗教エリートという福祉正義党特有の組み合わせである。2020年10月には、地方議会からの叩き上げであるアフマド・シャイフが党首に就任した。
国民民主党(Partai NasDem, 略称NasDem)
元ゴルカル党政治家でテレビ局MetroTVなどを所有するスルヤ・パロが2011年7月に設立した政党。2014年総選挙では唯一新党として参加が認められ、得票率6.7%の支持を得た。同年の大統領選挙ではいち早くジョコ・ウィドドへの支持を表明し、MetroTVも活用して当選に貢献した。内閣などの戦略的ポストに複数の党員を配置している。ジョコ・ウィドドの再選も一貫して支持、地方首長選挙でも大衆的人気が高い候補の擁立に貢献する戦略で、小党にも関わらず大きな影響力を持ってきた。2019年総選挙ではやはり効果的な候補者擁立で9%まで得票を伸ばした。
開発統一党(Partai Persatuan dan Pembangnan, 略称PPP)
スハルト時代の1973年に「政党簡素化」によって、イスラーム諸政党を統合して結成された。「開発」と「統一」という体制イデオロギーを政党名に背負わされ、また度重なる体制側の介入と内紛に悩まされた。他方、婚姻法の制定などイスラームに関係する議題で政府に反対して存在感を示すこともあった。1987年選挙に際しては党内最大勢力のNUが同党の公式な支持を取りやめ、得票が落ち込んだ。1998年以降、ロゴマークをカーバ神殿、党原則をイスラームに戻してイスラーム色を明確にした。NUの一部ウラマーなどから根強い支持がある。しかし、結党以来の派閥争いは解消されず、2004年選挙前に改革の星党と分裂した他、2009年大統領選挙でも候補擁立(ユドヨノかメガワティか)において二転三転した。2014年大統領選挙ではプラボウォを支持したが、ジョコウィ政権成立直前に与党連合へ加わり、二つの党執行部に分裂した。その後、政権支持側が裁判で勝ち、与党連合の一員となった。選挙直前に党首が逮捕された2019年総選挙では4.5%(前回6.5%)まで落ち込み、風前の灯である。
インドネシア/現在の政治体制・制度
インドネシア共和国の政治体制の基本構造は1945年憲法に規定されている。すなわち5年を任期とする大統領を国家元首とし、最高議決機関は国民協議会(MPR)である。しかしその権力構造は時代によって大きな変化を遂げている。初代大統領スカルノは大衆動員を行い、イスラーム系政党と共産党を含めた翼賛体制を作ろうとしたが失敗、経済的な破綻と50万人とも言われる1965年の共産党員虐殺(9月30日事件)とともに体制が崩壊した。9月30日事件後の国軍を掌握、事態を収拾してスハルトが権力の座についた。大統領であるスハルトが、大統領を任命する国民協議会を握るなど、安定的な「開発独裁」体制を形成した。野党への法的政治的介入によって、議会では翼賛的な「与党」ゴルカルがつねに独占的な立場にあった。さらに、スハルト大統領は国会の承認が不要な大統領決定を多用し、法律もほとんど制定されなかった。
スハルト体制下における大統領への権力集中や構造的な汚職、政治的自由や言論の自由への抑圧は、国民の批判や反発を生んでいたが、体制への取り込みと厳しい取り締まりというアメとムチによって長期政権を揺るがすことはほとんどなかった。流れが変わったのは1997年のアジア通貨・金融危機以降である。通貨ルピアの下落による急速なインフレは国民生活を圧迫し、1998年に入ると学生を中心とした反体制デモが次第に激しさを増した。他方、高齢のスハルト大統領への退陣要求は政権エリートにも波及した。5月12日に首都ジャカルタのトリサクティ大学で治安部隊が学生デモに発砲した事件をきっかけに、スハルト退陣要求が勢いを増し、各地で暴動が発生した。事態を収拾できなくなったスハルトは5月21日に辞任した。この間、学生や知識人に主導された改革勢力は、デモのみならず、政府・国軍・議会の関係者との間で討論会や集会を開催して、政権内外のコミュニケーションが取られた。この過程でゴルカルのなかからも政治改革を進めようとするグループが現れ、スハルトに辞任勧告を行った。
スハルトの辞任を受けて、副大統領のハビビが大統領に昇格した。ハビビが正当性を示すためには民主化の推進以外に方策はなかった。1年あまりの間に、政治活動やメディアの自由化、国軍の政治機能の廃止、警察の国軍からの分離、地方分権の推進などの改革が行われた。これらの改革は憲法改正を伴って行われた。4度の憲法改正は事実上の新憲法制定といえるほどの大刷新だった。
大統領への権力集中への反省から、その権限が大きく縮小された。大統領の任期は2期10年と定められ、長期の権力保持ができなくなった。大統領に認められていた立法権も否定され、大統領は法案の提案権を持つのみになった。国会の解散権は明確に否定、人事権にも制限が加えられた。
国民協議会は2004年総選挙以降、国会(DPR)議員(2004~09年550人、2009~19年560人、2019年〜575人)と地方代表議会(DPD)議員(2004~09年150人、2009〜19年132人、2019年〜136人)から構成されている。民主化後多党化が進み、連立政権が常態化、権限を縮小された大統領は国民協議会や国会の運営に苦労することになった。2001年には第4党の民族覚醒党から大統領に選ばれたアブドゥルラフマン・ワヒドが国民協議会によって罷免されるに至った。しかし不安定な権力構造と国民協議会の行き過ぎた権力行使に対して批判が高まった。2002年の第4次憲法改正では国民協議会の優越性が否定され、また大統領が国民の直接選挙によって選出されることにより、大統領の正統性が再度高められることとなった。こうして2004年に初めて直接選挙によって大統領が選ばれたスシロ・バンバン・ユドヨノは2期10年の安定政権を築いた。続く2014年に選ばれたジョコ・ウィドド(以下通称のジョコウィ)も、2019年に再選され、2期目に入った。
独裁的な体制の一翼を担っていた国軍の政治的な機能も制限されるようになった。スハルト時代の国軍は軍務と政務を担当するという「二重機能」ドクトリンを掲げ、国会に任命議席を持っていた他、各地方に配置された軍管区は村レベルまで日常的な監視を行っていた。民主化後、二重機能の廃止、国防への専念、政治的中立などを求める国防法(2002年)、国軍法(2004年)が成立した。国軍の公式な政治からの撤退は定着し、クーデターの可能性は極めて低くなった。しかし国軍は非公式には依然強力な発言権を維持している。退役軍人は歴代政権に入閣している。また国軍は予算の半分以上を自己調達しているため、違法なビジネスへの関与が危惧されている。
民主化後のインドネシアにおける政治構造のいまひとつの特徴は急速な地方自治の拡大である。1999年に制定された地方行政法と地方財政法によって地方財政の裁量権が大幅に拡充された。利権の確保を目指し、あるいは地域主義の台頭などによって、多数の州や県が全国で新設された。2005年にはそれまで地方議会によって選ばれていた地方首長が直接選挙によって選出されるようになった。2014年10月に大統領に就任したジョコウィは、2005年に初めての直接選挙で中ジャワ州スラカルタ市の市長に選ばれると、その斬新なスタイルと行政改革などの政策で人気を呼び、2012年にジャカルタ州知事、そのわずか2年後に国政の頂点に立った。直接選挙の導入は、政党不信も相まって、有権者から直接支持を調達するポピュリスト型の地方首長を生むことになった。ジョコウィの大統領当選以降、地方首長選が大統領への登竜門として注目されるようになった。
参考文献
- 川村晃一「政治制度から見る2004年総選挙―民主化の完了、新しい民主生活の始まり」、松井和久・川村晃一編著『メガワティからユドヨノへ―インドネシア総選挙と新政権の始動』明石書店、2005年、75-99ページ。
- 川村晃一「2014年選挙の制度と管理」、川村晃一編『新興民主主義大国インドネシア―ユドヨノ政権の10年とジョコウィ大統領の誕生』アジア経済研究所、2015年、15-36ページ。
- 本名純「インドネシア【政治・外交】」『新版 東南アジアを知る事典』平凡社、2008年、634-636ページ。
- 増原綾子『スハルト体制のインドネシア―個人支配の変容と一九九八年政変』東京大学出版会、2010年。
インドネシア/選挙
国会議員選挙
インドネシアは独立以降(独立宣言1945年、(独立戦争の終結1949年)、1955、1971、1977、1982、1987、1992、1997、1999、2004、2009、2014、2019年と12度の総選挙を行った。このうちスカルノ初代大統領下の1955年は比較的自由な選挙であったが、スハルト大統領下における71年から97年までの6度の総選挙には政府による厳しい統制と介入があった。1973年にナショナリスト系諸政党がインドネシア民主党、イスラーム系諸政党が開発統一党に統合された(政党簡素化)。翼賛的なゴルカル(職能団体)がつねに60%以上の得票をし、独占的な立場にあった。
スハルト体制崩壊後に行われた1999年以降の総選挙においては、より民主的な手続きがとられるようになった。総選挙では、下院に当たる国会(DPR)と上院に当たる地方代表議会(DPD)、地方議会(州・県・市議会)選挙も同時に行われる。選挙のたびに細かな制度変更が行われており、国会の定数は500から、550、560、575へと増加した。選挙制度は、1955年の第1回総選挙以来つねに比例代表制が採用されてきたが、完全拘束名簿式、条件付非拘束名簿式と変わり、2009年総選挙では完全な非拘束名簿が導入された。非拘束名簿の採用によって、政党より候補者個人の人気に選挙の結果が左右される傾向が強まった。なお、この制度導入に当たっては、一時は国会が実質的な拘束名簿の採用を決めたが、憲法裁判所がこれを違憲とした経緯があった。
1999年総選挙以降、多党化の傾向が続いており、2014年選挙では議会獲得のための最低得票率が1%引き上げられて3.5%に、2019年選挙では4%に引き上げられた。政党数を削減による、議会運営の安定化を意図したものであった。しかしその効果は薄く、第1党でも得票率および議席占有率が2割を切る状態が続いている。その背景には、政党の支持基盤や組織の弱さ、政党不信から、支持政党を持たない有権者が増え続けている状況がある。このため、政党の分裂と新党結成が常態化している。
政党名( * がイスラーム系政党) | 1999年 | 2004 年 | 2009 年 | 2014 年 | 2019 年 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
闘争民主党 (PDI-P) | 33.7% | 153議席 | 18.6% | 109議席 | 14% | 94議席 | 19% | 109議席 | 19.3% | 128議席 |
グリンドラ党 | — | — | 4.5% | 26議席 | 11.8% | 73議席 | 12.6% | 78議席 | ||
ゴルカル党 | 22.4% | 120議席 | 21.6% | 127議席 | 14.5% | 106議席 | 14.8% | 91議席 | 12.3% | 85議席 |
民族覚醒党 (PKB) * | 12.6% | 51議席 | 10.6% | 52議席 | 4.9% | 28議席 | 9% | 47議席 | 9.7% | 58議席 |
国民民主党 (Nasdem) | — | — | — | 6.7% | 35議席 | 9.1% | 59議席 | |||
福祉正義党 (PKS) * | 1.4% | 7議席 | 7.3% | 45議席 | 7.9% | 57議席 | 6.8% | 40議席 | 8.2% | 50議席 |
民主主義者党 (PD) | — | 7.5% | 56議席 | 20.9% | 148議席 | 10.2% | 61議席 | 7.8% | 54議席 | |
国民信託党 (PAN) * | 7.1% | 34議席 | 6.4% | 53議席 | 6% | 46議席 | 7.6% | 49議席 | 6.8% | 44議席 |
開発統一党 (PPP) * | 10.7% | 58議席 | 8.1% | 58議席 | 5.3% | 38議席 | 6.5% | 39議席 | 4.5% | 19議席 |
ハヌラ党 | — | — | 3.8% | 17議席 | 5.3% | 16議席 | 1.5% | — | ||
イスラーム系政党合計 | 36.5% | 38.4% | 29.1% | 31.4% | 30.0% |
2019年総選挙の得票率順。記載政党は、2014年選挙の結果議席を獲得した政党のみ。*はイスラーム系政党(著者作成)
大統領選挙
大統領は従来国民協議会で選出されていたが、2004年から全国1区の直接投票となり、国会議員選挙と同時に行われるようになった。政党の支持を得た正副大統領のペアで立候補し、過半数票と全国の州の半分以上で20%以上の票を得られれば当選となる。この要件を満たす候補者がいなければ、上位2組で決選投票が行われる。候補者の擁立ができるのは国会議員選挙の得票率25%以上もしくは国会議席の20%以上を得た単独もしくは複数の政党である。この要件を単独の政党が満たすことは極めて難しく、大統領と国会の関係を安定化させるために、政党間の協力を促すことを意図している。
2004年選挙では5組が立候補し、上位2組による決選投票の結果スシロ・バンバン・ユドヨノ―ユスフ・カラ組が当選した。2009年選挙では3組が立候補し、スシロ・バンバン・ユドヨノ―ブディオノ組が第1回目の投票で過半数を占めて当選した。「継続」をキーワードに再選に挑んだユドヨノが負けたのはわずか5州、得票は60%を超える圧勝だった。2014年選挙はジョコウィ―ユスフ・カラ、プラボウォ・スビアント―ハッタ・ラジャサの2組で争われ、かつてない大接戦のうえ、53.15%を獲得したジョコウィ組が勝利した。ユスフ・カラは二度目の副大統領就任となった。2019年選挙は再びジョコウィとプラボウォの一騎打ち(副大統領候補はそれぞれマアルフ・アミン、サンディアガ・ウノ)となり、ジョコ・ウィドドが55.5%を獲得して再選された(「最近の政治変化」参照)。
参考文献
- 川村晃一「2014年選挙の制度と管理」川村晃一編『新興民主主義国インドネシア―ユドヨノ政権の10年とジョコウィ大統領の誕生―』アジア経済研究所、2015年、15-36ページ。
- 川村晃一・東方孝之「国会議員選挙―民主主義者党の勝利と業績投票の出現―」、本名純・川村晃一編『2009年インドネシアの選挙―ユドヨノ再選の背景と第2期政権の展望―』アジア経済研究所、2010年、13-37ページ。
- 川村晃一・見市建「大統領選挙―庶民派対エリートの大激戦―」川村晃一編『新興民主主義国インドネシア―ユドヨノ政権の10年とジョコウィ大統領の誕生―』アジア経済研究所、2015年、73-93ページ。
- 本名純「大統領選挙―ユドヨノ再選の権力政治と動員プロジェクト―」、本名純・川村晃一編『2009年インドネシアの選挙―ユドヨノ再選の背景と第2期政権の展望―』アジア経済研究所、2010年、39-55ページ。
インドネシア/最近の政治変化
1998年以降のインドネシアでは、大統領選出に前後して大連立が組まれることが常態化していた。しかし、2014年大統領選挙はジョコウィとプラボウォ・スビアントの大接戦となり、その後の国政は大統領選に際して組まれた連立に基づく与野党対立が続いた。当選したジョコウィ大統領が野党切り崩しによる地歩固めを行い、在野の急進的なイスラーム勢力と連合した野党の巻き返しが起こった。そしてインターネット上の辛辣なやりとりやフェイクニュース、そして政府の強権的な取り締まりが常態化している。2019年大統領選は社会に深い傷跡を残し、順調に進んできたとみなされてきたインドネシアの民主化にブレーキがかかったと評されている。
2014年10月に誕生した第一次ジョコウィ政権は少数与党で始まり、国会の主要ポストは野党に独占された。しかし老獪な人事と野党の切り崩しを組み合わせ、ゴルカル党、開発統一党が党の分裂を経て与党連合に加わった。明確な野党は、プラボウォのグリンドラ党とイスラーム主義の福祉正義党だけになった。ジョコウィはインフラ整備に力を入れる一方、大統領選で弱みになった、リーダーシップの欠如と世俗的イメージの改善を図り、高い支持率を維持した。
2019年の大統領選に向け、盤石に見えたジョコウィ政権であったが、これを揺るがしたのが2016年末の「宗教冒涜」事件である。きっかけは、華人でキリスト教徒のバスキ・チャハヤ・プルナマ(通称アホック)による「宗教冒涜」発言であった。アホックは9月末の遊説で、コーランの一節を根拠に異教徒の指導者を認めない勢力を茶化した。この発言が編集されてソーシャルメディアで拡散した。イスラーム急進派がアホックの「宗教冒涜」に対する抗議運動を指揮し、これに野党勢力も加わって、1998年以降最大規模の動員に成功した。アホックは2017年4月の州知事選挙で敗れた挙句、宗教冒涜罪で禁錮2年の罰を受けた。ジョコウィに近いアホックへの抗議は、ジョコウィの立場も危うくした。動員は、「#大統領交代」運動として継続した。
プラボウォの支持勢力は、ジョコウィやその支持勢力に「宗教冒涜」「共産党」「非ムスリム」「親中」といったラベルを貼り、「反イスラーム的」な政権とのイメージを植えつけた。他方、ジョコウィ側は急進的なイスラーム主義勢力への危機感を煽った。両陣営のプロパガンダには、ソーシャルメディアが駆使された。この結果、2019年4月の大統領選挙結果は、地域によって極端な分裂をした。つまり、一部のムスリム多数派地域ではプラボウォへの支持が9割近くになり、非ムスリム地域ではジョコウィが圧倒した。またこの過程で、政権はしばしば強権的な手法で取り締まりを行なった。ジョコウィは55.5%を獲得して再選されたが、社会に深い傷跡を残した。
2019年10月には第二次ジョコウィ政権が誕生した。プラボウォとそのグリンドラ党は連立政権に加わり、プラボウォは国防相になった。大連立による政権の安定が図られるとともに、プラボウォを始め退役軍人の入閣が目立った。しかし、2019年選挙での亀裂は次期2024年選挙の動向を睨みつつ、燻り続けている。
新型コロナウィルスの流行は、各国の政治構造や制度、リーダーシップのあり方や問題点を浮き彫りにした。2020年3月上旬まで感染者が確認されなかったインドネシアでは、その対処方針をめぐって当初中央と地方の対立が目立った。両者の法律上の権限があいまいなことや、上に述べた政治的な亀裂や競争を反映したものだった。経済への影響を憂慮する大統領は、ロックダウンなど厳しい措置に消極的だったため、より強い規制を求める声があった。2021年8月現在、デルタ株の蔓延によって、インドネシアは世界でも最もひどい感染状況にある国の一つとなっている。
他方、こうした状況下で2024年大統領選に向けた動きは本格化しつつある(現時点の候補者については「政党」を参照)。ジョコウィは一定の人気を維持しており、憲法改正によってジョコウィの3選を可能にする案も取り沙汰されている。大統領の多選制限は1998年の民主化の重要な産物である。こうした案が浮上すること自体が、インドネシアにおける民主主義の緩慢な後退を象徴しているといえるだろう。
参考文献
- 見市建「<インドネシア>庶民派大統領ジョコ・ウィドドの「強権」」『21世紀東南アジアの強権政治 「ストロングマン」時代の到来』明石書店、2018年、209-244ページ。
- 見市建「インドネシアにおける「イスラームの位置付け」をめぐる闘争」『国際問題』675号、2018年、29-37ページ。
- 見市建「インドネシア大統領選挙 二極化の虚実」『世界』55号、2019年、72-75ページ。
マレーシア/選挙
(1) 選挙制度の内容とその実際の運用状況および問題点
マレーシアの選挙制度はイギリスから引き継いだ小選挙区制(First-Past-The-Post:FPTP)である。選挙権は21歳以上の国民に与えられ(119条)、連邦下院議会の被選挙権は21歳以上(47条)である。また、非選挙部分の連邦上院議員の選出年齢は30歳である(47条)。選挙を実施する主体である選挙管理委員会は憲法に規定された独立委員会であり、統治者会議での相談の後、国王によって任命され、議長、副議長と5人のメンバーで構成される(114条1項)。 現在のところ、選挙は連邦下院議会選挙と州議会選挙からなっており、サラワク州を除くマレー半島とサバ州では基本的に連邦と州の選挙が同時に行われている。近年のサラワク州議会選挙は、連邦下院議会選挙とは異なる日程で行われている。州元首の同意の下で、州首相が連邦下院と異なる日程で州議会を解散して州選挙を実施することは可能である。1960年代までは州の下位の自治体レベルでも選挙が行われ、野党が多数議席を占める議会も見られたが、当時のインドネシアとのボルネオの領土をめぐる対立が深まる中で非常時を理由に自治体選挙が停止され、以来、自治体の選挙は行われていない。
2013年総選挙では当時は野党の政党連合であったPRが得票率で与党連合のBNを上回ったが(BN47%、PR51%)、BNが連邦下院議席の議席数でPRを44議席上回って過半数を確保した。この得票率と実際の議席数とのギャップを生み出した要因として挙げられるのが、死票を多く生む小選挙区制による本来の制度的要因と、その要因を拡大させている「一票の格差」の問題である。特に後者の「一票の格差」の問題は2013年総選挙の時から大きな注目を集めるようになり、2018年総選挙でもその問題が浮き彫りになっていた。
「一票の格差」の問題について、2018年総選挙での極端な例を挙げよう。サラワク州のイガン選挙区では登録有権者数が1万9592人で、勝利した国民戦線候補者の得票数は1万538票である。これに対し、首都クアラルンプールを取り囲む人口密集地のスランゴール州のバンギ選挙区では登録有権者数が17万8790人で当選した希望連盟候補者の得票数が10万2557票である。サラワク州と首都圏の1票の格差は最大でおよそ8倍から9倍の格差がある。ここまで極端ではなくとも、国民戦線に批判的な有権者の多い人口密集地の首都圏やペナン州など都市部の票がこれまで過少代表されてきた一方で、サバ州、サラワク州およびマレー半島の村落部に位置する地方の選挙区が過大代表されている問題がある。2018年に至るまでBN体制の長期継続を支えてきた重要な要因がこの選挙区での「一票の格差」にあったことは間違いない。
「一票の格差」に代表されるような選挙制度上の不備や不公平性の問題は2000年代に入って重要なアジェンダとして浮上していった。野党やNGOによって選挙における二重投票や郵政投票での不正、選挙期間中の主流メディアの偏向報道など選挙の公平性に関わる問題に対して社会運動を通じて争点化する動きがアブドゥラ政権末期から本格化した。そうした選挙制度の改革運動を主導したのが、清廉で公平な選挙のための同盟(Bersih)、通称、ブルシ運動である。ブルシ運動は、これまで2007年11月、2011年7月、2012年4月、2015年8月、2016年11月の5度にわたって首都で大規模なデモ行進を行った。特に後半の2度のデモでは首都だけでなく、国内外の都市で在外マレーシア人も含めたデモが起こっている。こうしたデモ活動以外にも、ブルシ運動は選挙管理委員会との対話、一般市民に対するワークショップを通じた啓蒙活動など積極的な活動を行ってきた。
ブルシ運動で重要なのは、リーダーシップの変化である。ブルシ運動が2006年に設立された当初は、NGOは参加したものの野党が主導する運動であった。しかし、2010年に再結成されたとき、NGOが主導する運動となることで、指導部からは意図的に野党指導者が排された。これにより、ブルシ運動は運動外には非党派の国民運動としてのアピールを強めることとなった。
ブルシ運動は2008年、2013年、2018年の総選挙の動向に影響を与えている。特に、選挙管理委員会による、ずさんな投票人名簿の管理が一部の研究者や野党によってデータに基づいて提示され、その対応に選挙管理委員会や政府が十分に乗り出すことができなかったために、都市部の住民を中心に不満が高まっていった。また、ブルシ運動は、選挙制度改革運動の看板を掲げているが、選挙管理委員会と政府に求めた8大要求の中には、自由で公正なメディア、選挙管理委員会や反汚職委員会の強化、汚職の根絶などが含まれており、選挙制度改革という特定のアジェンダを越えてBN体制に対する一般の不満を組織化したということができる。こうしたブルシ運動によって表出されたBN体制への不満は、野党による総選挙での重要な争点となるとともに、(野党自身がブルシ運動の重要な構成団体であることもあって)野党自身の活性化にもつながった。さらに、ブルシ運動から派生した運動として、在外マレーシア人に帰国して投票を呼びかける運動(Jom Balik Undi)や、投票所での選挙監視運動が活発になった。
(2) 直近の国政選挙-第14回総選挙(2018年5月9日投票)
直近の国政選挙は2018年5月に実施された第14回総選挙である。この選挙によってマレーシア史上初の政権交代が起こった。選挙結果はPHが過半数の112議席を1議席上回る113議席を獲得する一方で、BNは79議席と前回選挙よりも54議席を一気に減らして政権から転落した。BNとPH以外にもこの2大政党連合の間でキャスティングボードを握ろうとしたPASが前回選挙時の議席から3議席を減らしたものの18議席を獲得した。さらに、元農村地域開発大臣でUMNOから離党したシャフィ・アプダルが新たに設立したサバの地域政党であるサバ伝統党(WARISAN)が8議席を獲得し、独立候補も3人が当選した。各政党連合および各党の得票率はPHが45.6%、BNが33.8、PASが16.9%、WARISANが2.3%であった。
2018年連邦下院議会選挙の結果
政党名(連合名) | 獲得議席数 | 前回2013年総選挙議席 | |
希望連盟(PH) | 113 | ― | |
人民公正党(PKR) | 47 | 30 | |
民主行動党(DAP) | 42 | 38 | |
マレーシア統一プリブミ党(PPBM) | 13 | ― | |
国民信託党(AMANAH) | 11 | ― | |
サバ伝統党(WARISAN) | 8 | ― | |
国民戦線(BN) | 79 | 133 | |
統一マレー人国民組織(UMNO) | 54 | 88 | |
マレーシア華人協会(MCA) | 1 | 7 | |
マレーシア・インド人会議(MIC) | 2 | 4 | |
マレーシア人民運動(Gerakan) | 0 | 1 | |
人民進歩党(myPPP) | 0 | 0 | |
サラワク統一ブミプトラ・プサカ党(PBB) | 13 | 14 | |
サラワク人民党(PRS) | 3 | 6 | |
民主進歩党(PDP)(1) | 2 | 4 | |
サラワク統一人民党(SUPP) | 1 | 1 | |
サバ統一党(PBS) | 1 | 4 | |
パソモモグン・カダザンドゥスン・ムルット統一組織(UPKO) | 1 | 3 | |
サバ人民統一党(PBRS) | 1 | 1 | |
自由民主党(LDP) | 0 | 0 | |
平穏構想(Gagasan Sejahtera) | 18 | ― | |
汎マレーシア・イスラーム党(PAS) | 18 | 21 | |
マレーシア国民連合党(IKATAN) | 0 | ― | |
汎マレーシア・イスラーム戦線(BERJASA) | 0 | ― | |
故郷連帯党(STAR) | 1 | ― | |
独立系候補 | 3 | 0 | |
合計 | 222 | 222 |
連邦下院選挙と12州で州選挙も同時に行われた。マレー半島をみれば、PHがクダ州、ペナン州、ペラ州、スランゴール州、ヌグリスンビラン州、マラッカ州、ジョホール州の7州の州政権、BNがプルリス州とパハン州の2州の州政権、PASがクランタン州とトレンガヌ州の2州の州政権を獲得した。サバ州では選挙後にBNとWARISAN(およびWARISANと共闘するPH)の間で州政権をめぐって混乱があったものの、BNから6人の州議員が離党してWARISANに入党したためにWARISAN主導の州政権が成立した。サラワク州は州議会選挙が2018年総選挙と同時に実施されず(前回のサラワク州議会選挙は2016年に実施された)、BNを構成するサラワクの地方政党4党(PBB、PRS、PDP、SUPP)が州政権を確保していたが、2018年総選挙後にこの4党はBNを離脱して新しいサラワクの地方政党連合であるサラワク政党連合(GPS)を結成した。
2018年総選挙をめぐって研究者、世論調査機関、メディアの事前予想ではBNが政権を維持するとの声が大多数だった。1MDBスキャンダルを筆頭にナジブ首相やBN体制の問題が浮上して政権批判は高まっていたものの、野党間の分裂が引き起こす3党競合、総選挙直前に実施されたBNに有利な新選挙区割りの導入、投票日が休日の週末ではなく水曜日に設定されたこと、といった要因によってPHがBNに勝利するのは難しいと考えられていた。
野党間の分裂については、主にマレー半島の選挙区で与党のBNに対して、野党のPHとPASが挑戦する構図で3党が競合する状況で与党への批判票が分裂して、結果的に与党を有利にするとみられていた。しかし、選挙結果をみれば野党間での票の分散の効果を上回るほど与党への批判が強かったとみられる。その一方で、PHは2008年総選挙以降のトレンドを継続して非マレー人票の大多数を確保しつつ、マレー人票がBN、PHとPASとの3勢力間で分裂した中で少なくとも3分の1程度のマレー人票をPHが確保したことが政権交代につながったとする指摘がなされている。選挙直前の3月末に連邦下院で採決されて導入された新選挙区割りについては、野党や市民社会組織からBNに有利なゲリマンダリング選挙区であるとの批判が強かった。また、前回2013年および前々回の2008年総選挙では投票日が週末であったが、2018年総選挙では選挙管理員会が水曜日を投票日とした。2013年総選挙の投票率は84.8%で非常に高かったが、2018年総選挙では水曜日が投票日となったことで投票率低下が懸念された。しかし、実際の投票率は82.3%と2013年総選挙には及ばないものの、依然として高い投票率を記録した。
2018年総選挙で重要な焦点となったのは、生活コストの上昇や現役首相も関与したとされる政治的スキャンダルであったが、マハティール首相に率いられたPHは一般国民の不満の声をうまくすくい上げて政権交代につなげたといえよう。