「主題別」カテゴリーの記事一覧

2020年10月4日

スーダン/現在の政治体制・制度

スーダンの政治体制は、大統領共和制である。2019年4月、約30年間続いたバシール政権が崩壊した。国軍が立ち上げた暫定軍事評議会(Transitional Military Council: TMC)と民政移管を求める市民の代表からなる「自由と変化勢力」(Force of Free and Change: FFC)の交渉により、暫定的な統治機構が設立されるに行ったった。スーダンでは、2005年7月以降、暫定国家憲法(Interim National Constitution)により政治体制が定められていたが、2019年8月4日に、移行期間のための憲法宣言(Constitutional Declaration for the Transitional Period)が署名され、3年3か月間の暫定期間は、2005年の暫定国民憲法に替わって使用されることが決定した。同憲法宣言第2章第7条第9項において、暫定期間中に、スーダンの恒久憲法策定に向けたメカニズムが構築されるべきこととなっている。

なお、スーダンでは1956年1月1日の独立以降、4つの憲法が、政変により作り替えられてきた。1956年のスーダン移行憲法、1973年のスーダン恒久憲法、1998年のスーダン共和国憲法、2005年のスーダン暫定国民憲法である。軍政と民政がたびたび入れ替わり、国内で反乱勢力が蜂起し政治的要求をする中で、あらゆる立場にあるスーダン国民のための恒久憲法策定は、スーダンの歴史上、重要課題であり続けている。

ここからは、2019年の憲法宣言の内容から、主要な移行政府機関についてまとめる。憲法宣言第3章第9条は、移行政府機関を次の3つから成ると定める。(1)主権の象徴である「主権評議会(Sovereignty Council)」、(2)国家の最高行政権を有する「内閣」、(3)立法権を有し、行政機構の活動を監視する「移行立法評議会(Transitional Legislative Council)」である。行政府・立法府に加えて、憲法宣言第8章で(4)司法府も規定される。以下ではこれらの4つについて、憲法宣言の内容を抜粋する。

行政府

行政府として、主権評議会と内閣がある。大統領ポストは、2019年4月のバシール大統領撤退以降、空席である。

主権評議会

主権評議会は、軍事評議会と文民勢力の間の権力分有協定として取り決めたものである。立法評議会は11人で構成され、5人はFFCが選出する文民、5人はTMCが選出する者、最後の1人は文民で、TMCとFFCが合意の下、選出する。主権評議会の議長は、暫定期間のはじめの21か月は同評議会の軍事メンバーが選出し、残る18カ月間の議長は評議会の文民メンバーが選出する文民が務める(憲法宣言第4章第10条)。

主権評議会は、次の能力と権限を有する。FFCが選出した首相の任命、首相が任命した閣僚、地方の長・州知事の承認、指名された立法評議会議員の承認、最高裁判所設置後の承認及び司法長官等の承認、内閣で指名された大使及び各国からの駐スーダン大使の承認、主要閣僚からなる安全保障・防衛評議会の勧告に基づく宣戦布告、等が定められている(憲法宣言第4章第11条)。

2020年9月現在、主権評議会議長はブルハン将軍(General Abd-al-Fatah al-BURHAN Abd-al-Rahman)である。2021年5月以降は、文民の議長に交代し2022年に選挙を迎える予定である。

内閣

内閣は、首相及び20人を超えない範囲で、FFCの閣僚候補者リストの中から首相が指名し、主権評議会で承認を受けた者からなる。ただし、国防大臣と内務大臣は、主権評議会の軍事メンバーが指名する。首相はFFCが選出し、主権評議会が承認する(第5章第14条)。

内閣は、次の能力と権限を有する。「自由と変化宣言」のプログラムに従って移行期間の任務を遂行すること。戦争・紛争を停止し、平和を構築すること。法律案、予算案、二国間お呼び多国間合意を早期に進めること。公的サービスのための計画や政策案を作成すること。公共サービスの長を指名し、国家機関の活動を監視すること。法の執行を監視すること、などである(第5章第15条)。

立法府

立法府として憲法宣言で規定されるのは移行立法評議会である。移行立法評議会は、独立の立法当局である。移行立法評議会員は、最大で300人であり、前政権に参加していた国民会議党などの政党を除いた、すべての勢力を代表する。女性の参加を全体の40%は確保すること、67%はFFCメンバーから、33%は、「自由と変化宣言」に署名していない勢力から選ばれる。移行立法評議会を構成する際には、「自由と変化宣言」に署名したか否かにかかわらず、スーダン国内で勘案すべき様々な要素を考慮すべき旨も明記されている(第7章23条)。

移行立法評議会は、次の能力と権限を有する。法律の制定、内閣の監視、国家予算の承認、二国間、地域間、国際合意や条約の批准、法律・規則の制定及び評議会の議長・副議長・専門委員会を選出する(第7章第24条)。首相が退任した際には、移行立法評議会が新首相を指名し、主権評議会が承認する。

この移行立法評議会は、2022年に予定される選挙まで存続する。

司法府

最高司法評議会(Supreme Judicial Council)が、国民司法サービス委員会に代わり設置され、権限を引き継ぐ。最高指標評議会は、憲法裁判所長官及び裁判官、司法長官及び副司法長官を選出する(第8章第28条)。

司法権は司法機関に委ねられる。司法機関は、主権評議会や立法評議会、その執行部局から独立して存在し、必要な財政的・行政的独立も維持する。司法長官は、司法機関の長であり、国民最高裁判所の長であり、最高司法評議会の下で司法機関の運営責任を有する(第8章第29条)。

憲法裁判所は、司法機関とは異なる独立した裁判所であり、法律や措置の合憲性を監視し、権利と自由を保護し、憲法上の係争を裁く。法律によって、憲法裁判所は設置され、その能力と権限が規定される(第8章第30条)。

参考文献

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2020年10月4日

スーダン/最近の政治変化

バシール政権崩壊と移行政権の樹立

2019年4月11日、1989年6月から約30年間の長きにわたったオマル・アル=バシール(Omar al-Bashir)政権が崩壊した。強権的なイスラーム主義を貫いたバシール大統領に対しては、市民からの不満も大きかった。2018年後半の経済危機は、パンや燃料の値上げなど、市民の日常生活に直接的な影響を及ぼした。市民は、バシール大統領の退陣を要求し、12月中旬から、首都ハルツームのみならず地方都市においても、反政府デモを開始した。政府は、催涙ガスを使用したり、デモの首謀者を逮捕するなどして反政府デモを弾圧したが、死者が発生しても、市民による要求は止まらなかった。なお、この経済危機の背景には、2011年の南スーダン独立に伴い、同地域で産出される石油による収入が激減したことや、1997年以降2017年まで続いた米国による経済制裁の影響もある。なお、米国のテロ支援国家リストからスーダンの国名を外すことが次の二国間の課題となっている。2020年8月24日、マイク・ポンペオ米国務長官がスーダンを訪問した際に、ハムドゥーク首相とテロ支援国家指定解除も協議したとされる。テロ支援国家指定解除がされれば、米・スーダン関係の改善や対外投資等の政治・経済面で改善が期待される。ただし、国内では、2020年初め以降世界的に広がる新型コロナウィルスの感染のみならず、未曽有の洪水や、通貨の急速な下落に伴う経済的緊急事態も宣言されるなど、移行政権はさまざまな課題に直面している。

まず、バシール政権崩壊に至る過程からその後の経緯を整理する。2019年1月1日、バシール大統領の退任を求める、市民や反乱勢力の連合である「自由と変化」勢力(Force of Free and Change: FFC)の発足が宣言された。4月6日には、市民がハルツームの軍本部前で座り込みのデモを開始した。市民運動が盛り上がり続ける中、4月11日に軍が無血クーデタによりバシール大統領を退任に追い込んだ。クーデタを起こした軍部は、暫定軍事評議会(Transitional Military Council: TMC)を発足させた。これまで非暴力運動を展開してきた市民は、TMCは市民がこれまで抵抗してきた政府とほとんど変わらないと非難し、TMCに即時の民政移管を求めた。アフリカ連合(AU)平和・安全保障委員会は、4月15日、軍事力を使った、憲法に反する手法での政変を拒否・非難するとともに、スーダンに対し、15日以内に文民主導の政府に移管しなければ、AU加盟国としてのAUの活動への参加を停止すると決定した。

その後約2か月間はTMCとFFCの間で大きな動きは見られなかった。しかし、軍本部前で座り込みを続ける市民や民主化の高い要求を行うFFCに対し、TMCはいら立ちを募らせ、6月3日に軍本部前で座り込みをする市民の強制排除に出た強制排除の中で行われた残虐な暴行は国内外に衝撃を与え、エチオピアの仲介により、TMCとFFCが話し合いを始めることとなった。詳細は、アブディン(2020)による論考を参照されたい。デモの残虐な強制排除の経験によりデモの再開が現実的でなくなったことから、FFCは市民にゼネストを呼びかけた。さらに6月30日、欧米諸国や人権団体への働き掛けも功を奏し、TMCが暴力を控える中で、百万人規模のデモを成功させた。これ以降、TMCとFCは交渉を進め、8月に、移行期間のための憲法宣言が合意され、アブダッラー・ハムドゥークが首相に就任し、文民をトップとする移行政府が発足した。

スーダンの「現在の政治体制・政治制度」に記載した移行憲法宣言の条項に基づいて、ハムドゥーク首相の下、2019年9月8日に18人の大臣が就任した。ハムドゥーク首相自身が国連アフリカ経済委員会の副事務局長であるなど国際的に活動する経済学者であること、外務大臣他4名が女性であることや、財務・経済大臣は世界銀行勤務経験があることなども含め、注目の閣僚人事となった。

経済の立て直し、民政移管、スーダン和平の実現が急務とされたが、スーダンの市民は、新内閣の改革プロセスが遅々として進んでいないと不満を持っていた。2019年6月30日の大規模デモから1年にあたる2020年6月30日には、全世界的な新型コロナウィルス感染拡大の中、スーダンでもロックダウン中であったにもかかわらず、市民はSNSを使って連帯を呼びかけ、スーダン各地で大規模なデモを展開した。デモにより1人が死亡し、負傷者も発生した。この結果、7月上旬、ハムドゥーク首相は、警察長官及び副長官を解雇した他、財務・経済、外務、エネルギー担当、保健担当大臣等を外し、内閣改造を行った。以上のような内政状況に加えて、ナイル川の洪水により、2020年9月4日に、以降政権は、3か月間の緊急事態宣言を宣言した。続いて、9月11日には、通貨の急落により、経済緊急事態を宣言した。スーダン移行政権はさまざまな課題に直面している。政権に声を上げてきた市民の代表であるFFCについても、2020年7月には「スーダン専門職能者連合(Sudanese Professional Association)」がFFCから離脱するなどの課題がみられる。

なお、スーダンでは、バシール政権崩壊以前にも、民衆蜂起により軍事政権が倒されてきた過去がある。アッブード軍事政権(1958年-1964年)は、労働者、農民、専門職者(医師、弁護士、技術者等)、知識人を中心とする国民の抵抗運動(10月革命)により転覆した。ヌマイリー政権(1969年-1985年)も、経済不安定化及び生活必需品の値上げの後に、民衆による決起(インティファーダ)により打倒された。2011年のアラブの春で民衆が独裁政権を非暴力で転覆させ、スーダンでも「アラブの春」が発生する可能性も議論されたが、その際、スーダンで政権を牛耳る者たちは、スーダンではすでにアラブの春は経験済みであると認識していた。ただし、過去の民衆運動がそれぞれ5日、10日程度で政権を崩壊に至らしめたのとは対照的に、バシール政権崩壊までは4か月かかった。反対に、過去の軍事政権転覆時には問題にならなかった、国内紛争との反乱軍の活動があり、スーダンの国内政治を複雑化させているという面もある。国内政治の複雑さを象徴する動きとして、例えば2014年12月には、バシール大統領の一党独裁状態に対して、バシール大統領の退陣を求めるために共闘する、政党連合(NCF)・市民運動・反乱軍連合(SRF)が、隣国エチオピア・アジスアベバで、「スーダン・コール(Sudan Call)」なる同盟関係を結んだことがあげられる。国内紛争と反乱勢力については、次の「スーダン和平」で解説する。

<参考:スーダンの政治体制>

  • 1953年 自治選挙(self-government election)※植民地における自国民による選挙
  • 1956-1958年 スーダン独立、第一民主政権期
  • 1958-1964年 アッブード軍事政権期
  • 1964-1969年 「10月革命」によりアッブード政権崩壊、第二民主政権期
  • 1969-1985年 「5月革命」、ヌマイリー軍事政権
  • 1985-1989年 インティファーダ、ヌマイリー政権崩壊、第三民主政権期
  • 1989-2019年 「救済革命」、アル=バシールが政権奪取、NIF→NCPによる支配
  • 2019-2022年 バシール政権崩壊、暫定軍事評議会発足、移行政府発足、
  • 2022年 民政移管完了予定

スーダン和平

軍事部門対非軍事の市民という対立に加えて、スーダンでは、ハルツームを中心とする中央政府対周辺地域の反乱軍という構図で、複数の紛争が展開してきた。最も長く続いたのは、南北スーダン内戦である。1956年元日のスーダンの独立前日から1972年まで続いた第一次スーダン内戦、1983年から2005年までの第二次スーダン内戦は、主に北部に位置する中央政府及び国軍と南部スーダンの反乱軍の戦いであった。長い内戦の後、2005年にスーダン包括和平合意(Comprehensive Peace Agreement: CPA)が締結され、合意の履行結果のひとつとして2011年7月に南スーダンが独立することになった。他にも、スーダン西部に位置するダルフールでは、2003年以降、ダルフール紛争が続いてきた。加えて、2011年1月の南部スーダン住民投票で同地域の独立が決まると、スーダン・南スーダンの国境線沿いの北部に位置する、南コルドファン州と青ナイル州(いわゆる2州)でも反乱軍が蜂起した。ダルフール紛争及び2州の紛争をどのように平和的に解決するかも、現在の重要課題である。

スーダン政府に対峙する主要な反乱軍として次の勢力があげられる。ダルフールでは、「正義と平等」運動(Justice and Equality Movement: JEM)、スーダン解放運動/軍(Sudan Liberation Movement/Army: SLM/A)があった。SLM/Aは、2006年のダルフール和平合意をめぐり、署名か署名拒否かで内部分裂が起こり、それぞれ指導者の名前を付けて、SLM/Aミナウィ派とSLM/Aアブドゥルワーヒド派に分派した。同合意に署名したSLM/Aミナウィ派はダルフール地域における重要ポストを与えられたが、2011年2月にはダルフール和平合意から正式に手を引いた。2州では、第二次スーダン内戦に際して、アイデンティティは北部スーダンにあるものの、南部の反乱軍であるスーダン人民解放運動/軍(Sudan People’s Liberation Movement/Army: SPLM/A)側で北部の中央政府と戦った者が多い地域である。2011年に南スーダン独立が決まると、2005年のCPAの内容が2州ではほとんど実現されていないことや、2011年の同州での選挙結果等への不満も相まって、SPLM/A北部(SPLM/A-North)として蜂起した。2011年11月には、JEM、SLM/Aミナウィ派、SLM/Aアブドゥルワーヒド派、SPLM/A北部が集まって、スーダン革命戦線(Sudan Revolutionary Front: SRF)を発足させ、バシール政権に対し、解放のための武力闘争を行う旨宣言し、共闘を続けてきた。

バシール政権崩壊後、2019年8月に署名された移行憲法宣言の第7条第1項で包括的な和平を達成するべきことが掲げられ、第15章で「包括和平の課題」について具体的な内容が規定さた。同憲法宣言合意より6か月以内に包括和平を達成するという条項が盛り込まれている。これに関連する動きとして、翌月9月には、南スーダン・ジュバにて、ハムドゥーク首相率いるスーダン政府とSRFの間でジュバ原則宣言(Juba Declaration of Principles)が締結され、包括和平合意に至るロードマップとされた。ただし、SRFは一枚岩ではない。SRF傘下の一勢力であるSPLM/A北部の内部では、2017年3月にアブデルアズィーズ・アルヘルウ率いる一部が分派し、 SPLM/A北部アガール派とアルヘルウ派に分かれた。SPLM/A北部アルヘルウ派は、ジュバ原則宣言に署名しなかった。また、SLM/Aアブドゥルワーヒド派も、スーダンとの和平の道を選んだSRFから離脱し、同宣言への署名を拒否した。このように包括的な和平へプロセス実現を阻む動きも見られる。2019年10月には、スーダン政府とSRFの間で第2回目の和平交渉が実施され、同時にスーダン政府とSPLM-Nアルヘルウ派との間で別の交渉が行われ、南コルドファン州に関する和平交渉のロードマップが合意された。

最新の展開として、2020年8月31日、南スーダン・ジュバにて、サルヴァ・キール南スーダン大統領の仲介の下、スーダン移行政府(ハムドゥーク首相)と反乱勢力の間で7つの議定書からなる和平合意が締結された(富の分配、権力分有、避難民及び難民、土地所有、補償及び復興、アカウンタビリティー及び和解、遊牧問題)。主要な反乱勢力として、JEM、 SLM/Aミナウィ派、SPLM/A北部アガール派が署名した。ただし、SPLM/A北部アルヘルウ派及びSLM/Aアブドゥルワーヒド派は署名を拒否した。スーダン和平を支援してきたトロイカ(米・英・ノルウェー)は声明を出し、和平合意の締結を祝福するとともに、署名しなかったSPLM/A北部アルヘルウ派及びSLM/Aアブドゥルワーヒド派に対し、和平プロセスへの参加を呼び掛けた。9月3日、移行政権とSPLM/A北部アルヘルウ派は、停戦遵守などを盛り込んだ共同宣言に合意した。同共同宣言では、将来策定される憲法は宗教と分離されること、憲法策定まで、南コルドファン州および青ナイル州(2州)の自決権が認められることなどを合意した。

国際平和活動及び仲介活動

上述のスーダン和平実現のため、また文民を保護するため、スーダンには複数の国際平和活動が展開してきた。2003年に紛争が激化し、「世界最悪の人道危機」が発生しているとしてダルフールが注目を集めると、2004年に締結されたダルフール人道的停戦合意の履行監視目的で、同年、AUの平和維持活動であるスーダン・アフリカミッション(Africa Mission in Sudan: AMIS)が立ち上がった。AMISは、2007年に国連・アフリカ連合合同ミッション(UN/African Union Hybrid Mission in Darfur: UNAMID)に引き継がれた。国連とAUという2つの国際組織の「ハイブリッド」型として発足当時は注目を集めたが、報告系統が二重になること、予算の配分、機動性など、様々な面で課題も指摘された。UNAMIDがダルフールに展開する中、2005年のCPA履行監視を目的として、国連スーダン・ミッション(United Nations Mission in Sudan: UNMIS)が発足した。首都ハルツームに本部司令部、南部スーダン・ジュバに地域事務所を設置した。2011年に南スーダンの独立が決まると、UNMISは任務を終えることとなり、北部スーダンからUNMIS部隊は撤収することになった。南スーダンには、UNMISの後継ミッションである国連南スーダン・ミッション(United Nations Mission in South Sudan: UNMISS)が設置された。スーダンと南スーダンの係争地であるアビエイ(Abyei)地域には、国連暫定治安部隊(United Nations Interim Security Force in Abyei: UNISFA)が立ち上げられた。スーダン側に位置する2州では武力衝突が発生したため、引き続き平和維持活動の展開する案が出されたが、スーダン政府はこの案を拒否した。よって、2011年以降、国際平和活動が展開する地域はダルフールとアビエイのみであった。UNAMIDは、設立当初から約5年間は、約2万6000名の軍事要員の展開を認める国連平和維持活動最大規模のミッションであったが、2012年移行段階的に要員数は減らされ、2017年からはダルフールからの撤退を見越したさらなる軍事要員の削減が行われ、要員数は約6,500名まで減少した。

国際的な仲介活動に目を向けると、2009年には、タボ・ムベキ(Thabo Mbeki)元南アフリカ大統領を議長とする、AUハイレベル履行パネル(African Union High-Level Implementation Panel for Sudan: AUHIP)が、2006年に締結されたダルフール和平合意と2005年の南北スーダン包括和平合意履行支援を任務に設置され、スーダンの主要な紛争解決に向けて仲介を続けている。2014年には、解決の目途が立たないダルフールと2州という2つの問題を1つのプロセスに取り込んで、国民対話を通じて包括的解決を目指すという「1つのプロセス2つのトラック(one process, two tracks)」がAUから提案され、実施されてきた。2016年3月には、スーダン政府、ダルフール及び2州の反乱軍(JEM,、SLMミナウィ派、SPLM北部)とAUHIPがロードマップ合意を締結し、ダルフールと2州での紛争終結プロセスを促進していくことに合意した。ロードマップ合意では、一時的な停戦を恒久的な停戦合意としていくための交渉再開を合意した。ロードマップ合意以降、政府や主要な反乱軍は一方的停戦を宣言し、過去数年間は一部の例外を除き、軍事情勢は落ち着きを見せている。なお、2005年の南北スーダンCPAに導いたのは、東アフリカ地域の準地域機構である政府間開発機構(IGAD)であるが、AUHIPとは仲介スタイルに違いがある。IGADはケニアのスンベイウォ将軍(Gen. Lazaro Sumbeiywo)を仲介の長として、交渉の両当事者に強く合意を迫る傾向があった。合意をしなければ会議場から出てはいけない、という指示をすることさえあったとされる。強権的な仲介の下では、決められた合意には至るが、当事者が不満や禍根を残すという側面もある。一方で、ムベキ議長率いるAUHIPの仲介方針は、辛抱強く当事者が合意に至ることを待つスタイルであるとされる。なかなか成果が出ないために、「待つ」仲介方針は非難されたこともある。しかし、2009年以降、継続して仲介をし、以上のような成果も見せている。AUでは「アフリカの問題にはアフリカ的解決を」というスローガンも掲げられ、AUHIPによるスーダンでの仲介活動が注目される。

2019年4月のバシール政権崩壊後の最新の動きとして、2020年6月に、国連の特別政治ミッション(軍事部門を持たない平和活動)として、国連スーダン統合以降支援ミッション(United nations Integrated Transition Assistance Mission in Sudan: UNITAMS)の設立が国連安全保障理事会決議で決定した(S/RES/2524(2020))。UNAMIDについても同日にもう1つの国連安保理決議が採択され、2020年末までの任期延長が認められた(S/RES/2525(2020))。スーダン政府は、UNAMIDの活動終了を希望している。そのため、一方では、2020年末頃に任務を終えて、スーダン政府がダルフール地方の安全を守る責任を持ち、UNITAMSが限定的な任務を引き継ぐと予想される。他方、安保理決議第2525号はUNAMIDが2021年以降も小規模に展開する余地を残したともいわれる。軍事部門を持たないUNITAMSであるが、首都での民政移管支援に加え、ダルフールや2州での和平促進支援等、様々な課題を抱えることになる。

参考文献

  • アブディン・モハメド「バシール政権崩壊から暫定政府発足に至るスーダンの政治プロセス――地域大国の思惑と内部政治主体間の権力関係――」『アフリカレポート』第58巻、2020年、41-58頁。
  • アフリカ日本協議会「栗田禎子さんに聞く2: 南スーダンの独立歴史的背景と今後の展望」『アフリカNOW』No. 97, 2013年。
  • Louisa Brooke-Holland, “Sudan: December 2017 Update,” House of Commons Library, Briefing Paper, No. 08180, December 15, 2017, https://researchbriefings.files.parliament.uk/documents/CBP-8180/CBP-8180.pdf (last accessed September 2020).
  • Andrew McCutchen, “The Sudan Revolutionary Front: Its Formation and Development,” Small Arms Survey, Graduate Institute of International and Development Studies, Geneva, October 2014, http://www.smallarmssurveysudan.org/fileadmin/docs/working-papers/HSBA-WP33-SRF.pdf (last accessed September 3, 2020).
  • Daniel Forti, “Navigating Crisis and Opportunity: The Peacekeeping Transition in Darfur,” International Peace Institute, December 2019, https://www.ipinst.org/wp-content/uploads/2019/12/1912_Transition-in-Darfur.pdf (last accessed September 3, 2020).
  • United Nations Security Council, “Report of the Secretary-General on the situation in the Sudan and the activities of the United Nations Integrated Transition Assistance Mission in the Sudan,” S/2020/912, September 17, 2020.
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2020年10月4日

スーダン/選挙

スーダンでは、独立前の1953年以降、選挙制度が導入されてきた。1989年にバシール大統領が政権を奪取して以降は、1996年、2000年、2010年、2015年に総選挙、1998年に憲法改正を問う国民投票、2011年に南部スーダン住民投票(南部の分離独立が決定)が行われた。バシール大統領は、いずれの選挙でも、高い得票率で大統領の座を維持してきた。立法府の下院にあたる国民立法議会においても、常に与党NCPが圧倒的に多くの議席数を獲得してきた。

2019年の政変により、バシール大統領は失脚し、NCPは11月に解体された。2019年8月の憲法宣言(第23条)では、今後立ち上げられる移行立法評議会においては、スーダンの変革に参加するすべての勢力の代表が含まれるようにすることを明記しつつ、バシール政権参加にあったNCPや関連勢力は排除することも盛り込まれた。2022年に予定される選挙が注目される。

選挙権

選挙権は、スーダン国籍を持ち、18歳以上であり、有権者登録を済ませており、市民及び政治的権利を享受していること、そして健全な心の持ち主であること、の条件を満たす者に認められる。海外在住者は、大統領選挙及び国民投票のための有権者登録はできるが、議会選挙はできない。以上は、2008年国民選挙法(2014年改正)に規定されている。

立候補資格

議会選挙立候補者として認められるのは、スーダン国籍を持ち、21歳以上であり、健康で読み書きができ、立候補前の7年間にわたって犯罪で有罪を受けたことがなく、州議会・州政府メンバーでなく、大臣職にも就いていない人物である。

今後立ち上げられる移行立法評議会の立候補資格もほぼ同様の内容である(2019年憲法宣言第25条)。

大統領選挙

大統領は、直接選挙により過半数を獲得することで当選する。必要に応じて2回投票が行われる。任期は5年である。南スーダン独立を決める住民投票前の2010年に実施された大統領選挙では、候補者は乱立するも、実質的にはバシール大統領(与党NCP)と南部スーダンの主力政党であるSPLM候補者であるヤーセル・アルマーンの対決となった。しかし、アルマーンが立候補を辞退したこともあり、結果としてバシール大統領68.2%、アルマーン候補21.7%(辞退により無効)となった。2010年の選挙の後、バシール大統領は次の大統領選には出馬しないことを表明したが、党内・政権内の世代交代が思ったように進まず、2014年10月にはNCPは、バシール氏を正式な大統領候補として選出することを決定した。 2015年4月13-16日に行われた大統領選挙では、バシール大統領が94.1%、他の15人の候補者は5.9%という得票率で、バシール大統領の再選となった。ただし、こうした選挙実施期間になると、投票箱のすり替えや選挙権を持たないものが投票する、無効な投票用紙が計上されている、などの不正や工作が報じられることがしばしばある。

なお、首相は大統領の氏名により選出されるが、1989年6月30日以降、バシール政権以下では首相ポストは廃止されていた。2015年から2016年の国民対話プロセスにおいて、首相ポストの復活がなされ、バシール大統領は2017年3月にサーレハ(Bakri Hassan Salih)首相を指名した。2019 年8月21日、FFCがハムドゥークを移行政府の首相に指名し、現在に至る。移行期間が終了する2022年に次の大統領選挙が実施される見込みである。

議会選挙

2005年から2019年4月までの暫定憲法において立法府と規定されていた全州評議会(上院)と国民立法議会(下院)があった。国民立法議会は、「自由かつ公平な」直接選挙によって議員が選出される。また、全州評議会は、州議会による間接選挙によって各州から3名ずつ選出される。両議会とも、任期は5年である。

最近では、2015年4月に国民立法議会選挙が、同年6月1日に全州評議会選挙が実施された。国民立法議会選挙では、バシール大統領率いる与党国民会議党(NCP)が426議席中323議席、続いて民主統一党(DUP)が25議席を獲得した。無党派の独立候補者19名も議席を獲得した。ただし、主要な野党勢力であるウンマ党や人民会議党などはこの選挙をボイコットした。国民立法議会における女性議員率は31%であった。全州評議会では18州の各州議会から3名ずつ、合計54名が間接選挙で選ばれた。加えて、係争地アビエイ地域議会から2名が、全州評議会で投票権のないオブザーバーとして選ばれた。全集評議会における女性の比率は35%であった。

2019年8月の憲法宣言により、2022年の選挙実施まで、立法府としてはこれらの両議会に代わって移行立法評議会が設立されることとなった。ただし、2020年9月現在、移行立法評議会は発足していない。

<参考:スーダンの選挙>

  • 1953年 複数政党「自治」議会選挙
  • 1958年 複数政党議会選挙
  • 1965年 複数政党憲法議会選挙(北部スーダン)
  • 1967年 複数政党憲法議会選挙(南部スーダン)
  • 1968年 複数政党憲法議会選挙
  • 1971年 大統領に関する国民投票(ヌマイリーのみが候補)
  • 1972年 単一政党による人民議会選挙
  • 1974年 単一政党による人民議会選挙
  • 1977年 大統領に関する国民投票(ヌマイリーのみが候補)
  • 1978年 単一政党による人民議会選挙
  • 1980年 単一政党による人民議会選挙
  • 1983年 大統領に関する国民投票(ヌマイリーのみが候補)
  • 1984年 単一政党による人民議会選挙
  • 1986年 複数政党議会選挙
  • 1996年 単一政党/複数候補者による大統領選挙
  • 1998年 憲法改正に関する国民投票
  • 2000年 複数候補者による大統領・議会選挙、主要政党がボイコット
  • 2010年 複数候補者による大統領・議会選挙、主要政党がボイコット
  • 2015年 複数候補者による大統領・議会選挙
  • 2022年 選挙実施予定

今後の見通し

2019年8月の憲法宣言にて、スーダンの移行期間後の2022年後半に民政移管を完了させるため、選挙の実施もされる予定が記載されている。なお、同宣言は、主権評議会の議長やメンバー、州知事、各地方の首長らが、2022年に実施予定の選挙に出馬することを禁止している。2022年の民政移管完了に向け、選挙実施に向けた準備が急務となっている。

参考文献

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2020年10月3日

シリア/現在の政治体制・政治制度

シリアでは1963年の「バアス革命」以来、バアス党政権が今日に至るまで続いている。そうしたなかで、ハーフィズ・アル=アサド(H・アサド)が1970年に無血クーデタを引き起こして全権を掌握し、翌(1971)年に大統領に就任して以来、アサド家が大統領職を独占しており、2000年以降はH・アサドの次男であるバッシャール・アル=アサド(B・アサド)がその任に就いている。

そのアサド政権に関しては、現代シリアの政治・外交を専門とするレイモンド・ヒンネブッシュが、H・アサド時代の統治形態を「大統領君主制」と形容した1が、現在も基本的にはB・アサドの手に権力が集中している状況となっている。

大統領職の主な権能に関しては、現憲法に以下のように規定されている2。大統領と首相は、「憲法が規定する範囲内で国民を代表して行政権を行使する」(第83条)と規定され、大統領は自らが主宰する会議において、「国家の基本政策を立案し、その履行を監督する」(第98条)ことになっている。具体的には、法律に則って諸々の法令、決定、そして命令を発布し(第101条)、人民議会(すなわち国会)の同意を得た後の宣戦布告、国民総動員、そして和平締結を行う(第102条)のである。また、第97条に則り、大統領は首相、副首相、大臣、そして次官を任免する権限を持っており、更には「自らを議長とする閣議を召集できる」(第99条)のである。なお、大統領は「全軍の最高司令官である」(第105条)と規定されている。

このように、シリアにおいては、大統領が内政と外交、さらには軍事を司ることが、旧憲法と同様に現憲法においても規定されている。それでは、こうしたシリアの政治制度を基盤とする同国の現実の政治体制については、どのような見方をとることが可能であろうか。ここでは、政治体制論の「古典」とも言えるロバート・ダールの『ポリアーキー』に依拠して考えてみたい。ダールは、「公的異議申立て」及び「選挙に参加し公職につく権利」が、それぞれ実現されている程度から、現実の政治体制を分類している。その結果、「公的異議申立て」及び「選挙に参加し公職につく権利」の実現度合いが共に高い「ポリアーキー」以外に、「公的異議申立て」及び「選挙に参加し公職につく権利」の実現度合いが共に低い「閉鎖的抑圧体制」、「公的異議申立て」の実現度合いは高い一方で「選挙に参加し公職につく権利」の実現度合いは低い「競争的寡頭体制」、「公的異議申立て」の実現度合いは低いが他方で「選挙に参加し公職につく権利」の実現度合いは高い「包括的抑圧体制」といった類型を提示しているのである3。さらに、「公的異議申立て」を「市民的・政治的自由」に、「選挙に参加し公職につく権利」を「普通選挙制度」に、それぞれ読み替えるならば、シリアにおいては、「普通選挙制度」に関しては現実にほぼ機能してきていると見なせるものの、「市民的・政治的自由」に関しては後述するように大幅な制約が加えられていることから、同国の事例は「包括的抑圧体制」に当てはまると判定できよう。

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2020年10月3日

シリア/最近の政治変化

(1)現況概観

「アラブの春」の動きとして2011年3月から始まったシリアにおける反体制運動は当初、現体制の枠内での「改革」による「民主化」を要求し、平和的手段による目的達成を目指していた。しかしながら、アサド政権が「民主化」要求にある程度は応えつつも、デモ行進や集会に対する強硬的な態度を取ったことから、反体制側は次第に「体制転換」を求めるようになり、政権側の弾圧措置を招く一方、反政府武装闘争がシリア各地に広がっていくことになった。

それでは、バアス党政権が1963年以来続き、また1971年以降はアサド父子が大統領職を独占して「世襲支配」を行ってきているシリアにおいて、「民主化」とは具体的に何を意味するのであろうか。ここで、既述のダールによる政治体制の類型化を思い起こすと、シリアの事例は「包括的抑圧体制」に当てはまることから、この体制から「ポリアーキー」に至る民主化プロセスは必然的に「市民的・政治的自由」の拡大を伴うことになる。

だが、反体制運動が開始されてからのアサド政権による「市民的・政治的自由」の拡大措置は、反体制側を満足させることが出来なかった。例えば、B・アサド大統領は内閣の決定に基づき、1963年以来施行されてきた「国家非常事態」の解除と、「最高国家治安裁判所」の廃止を命令する大統領令に2011年4月21日に署名した1。しかしながら同時に、治安部隊メンバーの行動に対して免責特権を与える大統領令や、スンナ派のイスラーム組織「ムスリム同胞団」に所属することは死罪に値するとの同令が新たに公布された2。また、2012年2月26日には、現憲法が国民投票によって承認され、憲法改正が実現した3

アサド政権はこのように、国家非常事態の解除や最高国家治安裁判所の廃止、さらには現憲法における「政治的多元主義」の導入(第8条)といったように、一方ではシリアにおける「市民的・政治的自由」を漸進させてきた。特に、「バアス党が国家、社会の指導的党である」と旧憲法では規定されていた(第8条)ことから、シリアの政党制の実態がジョヴァンニ・サルトーリの言うところの「ヘゲモニー政党制」に分類可能な状況において4、「政治的多元主義」が現憲法で保障されたことは「民主化」への第一歩と見なされるものであった。

しかしながら、反体制側に対する治安部隊の強硬措置を大統領令で認めたうえに、アラブ世界で影響力を増していたムスリム同胞団を敵視し続けたことは、アサド政権の「民主化」努力が茶番に過ぎないものであるとの印象を、反体制側並びに多くのアラブ・欧米諸国に植え付けることになった。さらに、「包括的抑圧体制」から「ポリアーキー」に至る径路が、「少数の比較的同質的なエリートの間ではなく、社会諸階層と、政治思想をたとえ全部ではなくともほとんど反映する広範な代表者間で、相互安全保障の体系を創出することを必要としている」5との指摘があるなかで、アサド政権は基本的に反体制側との対話を拒否してきた。

以上のようなアサド政権の対応により、シリアにおける反政府武装闘争は2011年後半以降、激しさを増した。アサド政権は一時期、軍事的にかなり追い詰められたものの、2015年9月以降のロシア軍による大規模な軍事支援で態勢を立て直し、シリア各地を武力で次々と平定していった結果、現在はシリア領土のおよそ3分の2を支配下に置いている。他方、シリア領土の残り3分の1に関しては、その大半をクルド勢力が支配下に収めており、それ以外は反体制勢力や「イスラーム国」(IS)などの支配領域となっている。なお、ISの支配領域は現在、大幅に縮小しており、ISはシリオ沙漠地帯の狭い領域(「ポケット」)で孤立している(各勢力の支配領域は以下の地図6が示す通りである)。

(2)諸外国の介入

上述した4つの国内主要アクター(アサド政権、クルド勢力、反体制勢力、そしてIS)のなかで、アサド政権に対しては、政治・軍事・経済面では主にロシアやイランが支援し、政治・経済面では中国も支援している。また、クルド勢力に対しては、米主導の有志連合が軍事支援をしてきたが、ドナルド・トランプ大統領は一昨(2018)年12月19日に、米軍のシリア完全撤退に関して言及し、さらに昨(2019)年10月6日に、米軍(1000人規模)のシリア北東部からの撤退宣言を行った。その結果、米軍のプレゼンスはシリア北東部のクルド勢力支配地域において大幅に縮小し、上記の地図が示すように、タナク油田やオマール油田にごくわずかの兵力を残すまでとなっている。他方、反体制勢力に関しては、様々な武装組織が存在し、「穏健勢力」と「過激勢力」に大別される。「穏健勢力」の代表例がシリア国民軍(SNA:旧自由シリア軍)系諸組織であり、後者の代表例がシャーム解放委員会(HTS:旧ヌスラ戦線)である。シリア北西部のイドリブ地域並びにアフリーン地区、及びシリア北東部のユーフラテス北東岸地域におけるSNA系諸組織に対しては、トルコが軍事支援を与えており、さらにはトルコ軍がこれら地域に駐留して作戦も共にしている。また、シリア南東部のタンフ地域におけるSNA系諸組織に対しては、米軍基地の縮小が報じられたこともあり、米軍による軍事支援は減少傾向にあると見られている。

このように、主に米国、ロシア、トルコ、そしてイランがシリア国内の各勢力に様々な対外支援を行っていることから、同国はこれら諸国によるパワー・ポリティックスが展開される場となっている。シリアは、2011年3月までは地域政治の「主体」として対外的な影響力を行使してきたが、今や「客体」として諸外国による影響力の行使を受ける場となっているのである。

そこで、シリアにおける米露、米土、米イラン、露土、露イラン、そして土イランの各関係について概略する。米露関係に関しては、米国が反体制勢力を支援し、ロシアがアサド政権を支援していることから、両国は基本的には対立関係にある。だが、クルド勢力をめぐる米露関係は少々複雑である。なぜならば、米国がクルド勢力を見捨てた形になっていることから、クルド勢力はアサド政権、さらにはロシアとの関係を強化しているのである。しかしながら、シリア全土の完全掌握を目指しているアサド政権と、自治の維持さらには拡大を望んでいるクルド勢力との間では、双方の利害が一致していない状況である。そこで、アサド政権及びクルド勢力双方とのパイプを持つロシアによる調停の役割が期待されるところであるが、ロシアとアサド政権との長年に渡る親密な関係や、ロシアとトルコが近年その関係を強化していることに鑑みると、ロシアがクルド勢力の意向に沿った動きを取るのかは不明である。ゆえに、クルド勢力はアサド政権及びロシアに対するカウンターバランスとして、米国と完全に縁を切るわけにはいかないのである。

米土関係に関しては、両国共に反体制勢力に対する支援を対シリア政策の柱としてきた一方で、クルド勢力に対する両国の政策は相反しており、二面性を有していると言える。すなわち、トルコが「シリア民主軍」(SDF)や「シリア民主評議会」(SDC)といったクルド勢力を「テロ組織」と見なしてきたのに対して、米国はクルド勢力と同盟関係を築いてきた。だが、トランプ大統領が昨(2019)年10月に米軍のシリア北東部からの撤退宣言を行った直後に、トルコ軍及びSNA系勢力が対クルド勢力軍事作戦「平和の春」を発動した際には、米国はトルコの行動を強く非難する声明を発したものの、その行動を止めるための具体的な手立ては、限定的な経済制裁を例外として、殆ど講じなかった。これは、後述するような露土関係の緊密化といった事態を前にして、米国がトルコとの関係悪化を出来るだけ避けたいとする意思表示であったと言える。また、トルコ軍がこの作戦により、タッル・アブヤドからラス・アインに至る地域に「安全地帯」を確立するなかで、10月17日に出された米土共同宣言では、同地帯の治安がトルコ軍によって第一に担われることとされるなど、米土関係は「平和の春」作戦に伴いさらなる悪化が懸念されたものの、決定的な亀裂には至らなかったのである。

米イラン関係に関しては、トランプ政権がイランの核政策や対外政策などを問題視し、同国に敵対政策をとっているなかで、米国は反体制勢力を、そしてイランはアサド政権を、それぞれ支援している。そして、イランが「イラン革命防衛隊」(IRGC)やヒズブッラーなどの軍事プレゼンスを、アサド政権支配地区に維持していることに対して、米国は、イランがこうしたイラン系勢力を利用して、テヘランからバグダード及びダマスカスを経由してベイルートに至る「シーア派回廊」を構築して覇権を追求している、と見なしているのである。ただ、米国はシリアにおいてイラン系勢力に対する直接的な軍事行動を日常的にはとっておらず、米国の同盟国であるイスラエルがこうしたイラン系勢力に対する軍事行動を頻繁に起こしている。

露土関係に関しては、アサド政権支援のロシアと、反体制勢力支援のトルコとは、本来は対立関係にある。だが、ロシア主導のシリア包括和平を目指す試みである「アスタナ会合」(後述)が2017年1月に開始されて以降、トルコは「三保障国」(ロシア、トルコ、そしてイラン)の一員として同会合を支持している。さらに、一昨(2018)年9月17日の露土首脳会談においては、イドリブ地域における大規模戦闘を回避するために「イドリブ合意」が成立した。その後、「イドリブ合意」は現在に至るまで殆ど実現されておらず、アサド政権がイドリブ地域再掌握に向けての大規模攻撃に着手し、ロシア軍がシリア政府軍(SAA)に対して主に空爆支援を行うなかで、トルコは同地域に対する増派を行い、SNA系勢力に対する支援を強化している。このように、ロシアとトルコはイドリブ地域において敵対的な軍事行動を行う一方で、ウラジミール・プーチン大統領とレジェップ・タイップ・エルドアン大統領はしばしば電話協議を行うなど、事態がエスカレーションしないように出来る限り協力する姿勢をも見せている。ロシアとトルコはS400ミサイルの購入や天然ガスの供給などでも関係を深めており、それゆえに両国共に米国との関係が決して手放しで良好であるとは言えないことから、シリアでは軍事的に対立する局面が存在する一方で、事態鎮静化に受けて協力可能な時はそのようにするなど、両国関係は二面性を持っているのである。

露イラン関係に関しては、両国共にアサド政権を政治・軍事・経済的に支援している意味では、同盟関係にある。また、イランは「アスタナ会合」における「三保障国」の一員であることから、ロシア主導の和平の試みにコミットしていると言える。だが、ロシアとイランの間には、シリア国家の在り方に関する根本的な相違があると言わざるを得ない。すなわち、ロシアは自軍が展開するラタキアの海軍基地やフマイミームの空軍基地が安泰であるように、「パックス・ロシアーナ」(ロシア主導の平和)のもとでシリア国内を可能な限り安定化させることにプライオリティを置いていると想定される。ゆえに、ロシアはシリア政府(具体的にはアサド政権)の統治能力回復、さらには強化を望ましいと考えていると推察され、SAAの再建を自らの利益と見なすであろう。他方、米国やイスラエルからの軍事攻撃の可能性に常に晒されているイランにとり、シリアは軍事作戦上の要衝であり、これら両国に対する反撃をフリーハンドで実施可能な状況が望ましい。イランがIRGCやヒズブッラーによるシリア領内でのある程度自由な軍事活動こそ望ましいと考えている、と想定されることから、イランはその制約要因となりかねないSAAの再建には消極的とならざるを得ないであろう。また、アサド政権が支配領域を再掌握し、復興計画の策定・実施に乗り出すなかで、ロシアの企業とイランの企業がライバル関係になることも想定可能であり、両国関係には悪化の種が隠れていると言えるのである。

土イラン関係に関しては、トルコが反体制勢力を、イランがアサド政権を、それぞれ支援していることから、両国は対シリア政策を異にしている。だが、イラン及びトルコは共に、「アスタナ会合」を「三保障国」の一員として支援しており、シリア情勢に関して協議する場を有している。また、イランはトルコとコンタクトを持つのみならず、アサド政権と緊密な関係にあることから、イドリブ情勢が国際的な注目を集める状況において、イラン外務省は本(2020)年2月8日に、同国がトルコとアサド政権との仲介役を担う意向であることを表明した7

(3)和平に向けた国際的な動き

上記のように、シリアに対する各国の思惑が異なることは、結果として紛争解決プロセスを機能不全にさせ、内戦が長引くことになった。それでは、シリアにおいてはこれまで、どのように国際的な和平の試みがなされてきているのであろうか。ここでは、国連主催の「ジュネーブ協議」及びロシア主導の「アスタナ会合」を軸に考察する。

シリアで戦闘が拡大する状況において、コフィ・アナン・シリア問題合同特使は2012年6月末に、安保理常任理事国やシリア周辺諸国の外相などをジュネーブに集め、事態打開に向けた協議を行った(「ジュネーブ1」)。その結果、アサド政権のメンバーを含む「移行政府」の樹立提案を含む「ジュネーブ・コミュニケ」が6月30日に成立した8が、B・アサド大統領の退陣を要求する反体制勢力の支持を得ることは出来なかった。加えて、米国が2012年11月に、反体制勢力の統括組織としての「シリア国民評議会」の後継組織として、「シリア国民連合」の樹立を強力に後押ししたことから、米露間の溝は開く一方であり、シリア情勢解決の見通しが立たない状態が続いた。

このように、「ジュネーブ協議」は米露間の対立により、当初から暗礁に乗り上げた。だが、アフダル・ブラーヒーミー・シリア問題合同特使(アナンの後任として2012年9月に就任)が会議の実現に向けて積極的な外交を展開した結果、「ジュネーブ2」は2014年1月から2月にかけて2ラウンドに分けて開催されるに至った。しかしながら、B・アサドの処遇をめぐり、アサド政権と反体制勢力が真っ向から対立し、妥協点は見いだされなかった。

その後、「ジュネーブ3」は2016年2月になって開催されたものの、ステファン・デ・ミストゥーラ国連・アラブ連盟シリア問題合同特使(ブラーヒーミーの後任として2014年7月就任)は3日に、会議の一時的な延期及び25日の再開を発表した9。だが、これは実現せずに終わり、1年余りの中断の後に、2017年2月から3月にかけて開催された「ジュネーブ4」においても、アサド政権と反体制勢力の直接対話は行われなかった。同年3月に開催された「ジュネーブ5」も大きな成果なく終了し、「ジュネーブ6」(同年5月)では、「憲法および法律に関する技術的コンサルティブ・メカニズム」の設置が合意された。同メカニズムの設置に対する進展はその後見られず、「ジュネーブ7」(同年7月)、「ジュネーブ8」(同年11月~12月、2ラウンドに分けて開催)、そして「ジュネーブ9」(2018年1月、但しウィーンで開催)共に、実質的成果なく終了した。

このように、「ジュネーブ協議」が大きな成果を生み出すことなく、事実上休止状態に至っている背景には、アサド政権と反体制勢力との間にプライオリティの違いが存在することがある。すなわち、「ジュネーブ協議」における4つの主要議題(ガバナンス、憲法、選挙、テロとの戦い)の中で、政権側はテロ問題を優先すべきと考えているのに対し、反体制側は政権移行に繋がるような他のイシューに重きを置いているのである。また、「ジュネーブ8」においては、反体制勢力が合同代表団を形成10して参加したが、B・アサドの退陣に依然として拘ったことは政権側の不興を買った。さらに、後述する「アスタナ会合」の開催以降、とりわけロシアが「ジュネーブ協議」に関心を失っていることも、戦局で優位に立っているアサド政権に譲歩を促す方向に作用せず、反体制勢力との溝を広める結果となったのである。

ロシアは、「ジュネーブ2」終了後に「ジュネーブ3」の開催目途が立たないなかで、自らイニシアティブをとり、シリア情勢の打開に向けて動いた。ロシアは2015年1月及び4月に、アサド政権及び同政権によって許容されているシリア国内の反体制勢力が参加する和平協議をモスクワで開催したが、大きな成果なく終了した。その後、「ジュネーブ3」が中断されたままの状況において、プーチン大統領とエルドアン大統領は2016年12月16日に、カザフスタンの首都アスタナ(当時、現在のヌルスルタン)での、米国や国連が関与しない形での新たなシリア和平交渉の開催意向を表明した。そして、国連が12月31日に、安保理決議第2336号により、ロシア及びトルコ主導の停戦並びに和平会議開催支持を表明した結果、アスタナでの和平協議(通称「アスタナ会合」)は国際的なお墨付きを得ることになったのである。

「アスタナ会合」はこれまで、ロシア、トルコ、そしてイランを「三保障国」として14回にわたり開かれており、「アスタナ1」(2017年1月)、「アスタナ2」(同年2月)、「アスタナ3」(同年3月)においては、「アスタナ2」でアサド政権と反体制勢力の直接交渉が短時間行われた以外、大きな成果なく終了した。その後、「アスタナ4」(同年5月)において、ロシア、トルコ、及びイランを「保障国」とする「緊張緩和地帯」の設置が決まった。同地帯は、イドリブ地域、ホムス北部、ダマスカス郊外東グータ、シリア南部に設置され、イドリブ地域以外では同年7月から8月にかけて停戦が発効した。しかしながら、ホムス北部及びシリア南部では、露軍が展開してしばらくは停戦が概ね維持されたものの、最終的にはSAAが「テロ組織」と見なすHTSやISがこれら地区に拠点を構えていることを理由に攻撃を行い、他方で露軍が見て見ぬふりをすることで、掌握するに至った。また、東グータでは2018年春に、SAAに加えて露軍が、HTSが拠点を有していることを理由に空爆を中心とする猛爆撃を行い、人道危機が深刻化した。

この結果、イドリブ地域を除く「緊張緩和地帯」はアサド政権側によって掌握されることになったが、それでもトルコは「アスタナ会合」に参加し続けた。その背景には、ホムス北部、東グータ、そしてシリア南部のいずれにおいても、トルコが強力に支援していた反体制勢力が存在しなかったことがあった。その後、「アスタナ5」(2017年7月)、「アスタナ6」(同年9月)、「アスタナ7」(同年10月)、「アスタナ8」(同年12月)、「アスタナ9」(2018年5月)、そして「アスタナ10」(2018年7月、但しソチで開催)共に、大きな成果なく終了した。「アスタナ11」(2018年11月)においては、9月の露土首脳会談で設置が決まった、イドリブ地域における「非武装地帯」設置に関して協議が行われた。だが、協議終了後に具体的な進展は見られず、同地域でSAAと反体制勢力の間で戦闘が行われているのは既述の通りである。また、昨(2019)年には3回(4月の「アスタナ12」、8月の「アスタナ13」、そして12月の「アスタナ14」)開催されたものの、何れも成果は殆どなく終了した。

ロシアは他方で、アサド政権及び反体制勢力関係者を集めた「国民対話会議」を2018年1月にソチで主宰し、その結果として「憲法委員会」の設置が決まった。「憲法委員会」は、アサド政権側、反体制側、そして「独立系」のメンバー各50人から構成されることになっており、アサド政権及び「シリア交渉委員会」(SNC、旧「高等交渉員会」(HNC)であり、反体制勢力の統括政治組織)は各々、メンバーの候補者リストをデ・ミストゥーラに既に手渡した。だが、デ・ミストゥーラが同年9月11日に、「独立系」メンバー候補者リストのロシア、トルコ、そしてイラン政府関係者に提示したところ、ロシアとイランは事前に相談を受けていなかったことを理由に、そのリストを即座に拒否した。デ・ミストウーラは同年10月に辞任を表明し、後任にはゲイル・ペデルセンが就任した。

ペデルセンが「憲法委員会」の発足に向けた外交的努力を重ねた結果、昨(2019)年9月にようやく人選の完了と設置が宣言された。そして、同年10月末から第1ラウンドが翌11月上旬にかけて開催されたものの、同下旬の開幕が予定されていた第2ラウンドは実現しなかった。アサド政権側が「憲法委員会」を現憲法の改正のための協議の場と捉えているのに対して、SNC側は同委員会を新憲法の制定のための協議の場と見なしていることにより、議事次第に対する双方の同意が形成されなかったからであった。

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2020年10月3日

シリア/政党

既述のように、現憲法はバアス党の指導的立場を規定していないが、2012年以降に3回実施された国会議員選挙結果に見られたように、同党がサルトーリの言うところの「支配政党」である実態は変化していない。

バアス党は、ミシェル・アフラク(ギリシャ正教徒)及びサラーフッディーン・アル=ビタール(スンナ派ムスリム)らが1940年代初期に、ダマスカスで活動を開始したアラブ民族主義の勉強会を母体とする1。その後、1947年には結党大会が開かれ、政党として正式に発足するなかで、その党綱領である「統一、自由、社会主義」は下位中産階級に広くアピールした2。当時16歳であったH・アサドは学生党員として加わり、党内で以後めきめきと頭角を現していき、1963年のシリアにおける「バアス革命」に際しては、ダマスカス当方のドゥマイル空軍基地攻略作戦を主導し、革命の成功に大きな役割を果たした3。この結果、シリアでは現在に至るまで57年間バアス党政権が続いているが、「バアス革命」後しばらくの間は党内で熾烈な権力闘争が発生した。そうしたなかで、H・アサドが最終的に勝ち残り、1970年のクーデタでバアス党内における実権を掌握した。以後、バアス党内での権力闘争は影を潜め、H・アサド大統領、さらにはB・アサド大統領の権威に対する目立った挑戦は党内からは発生していない。

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2020年10月3日

シリア/選挙

(1)2014年大統領選挙

旧憲法のもとでは、シリアにおける内政と外交、さらには軍事を司っている大統領を選出するプロセスは、「バアス党シリア地域指導部」が推挙した候補者に対して国民が投票を行うというものであった。すなわち、バアス党員のみが大統領職への「パスポート」を有しており、「包括的抑圧体制」のもとで「市民的・政治的自由」に大幅な制約が加えられているなかでは、結果的に「信任投票」が行われてきたのである。 

しかしながら、シリアにおける反体制運動の高揚には、こうしたバアス党の優越的地位に対する批判が重要な役割を果たしたことから、現憲法においては、第85条で大統領職に対する複数立候補制が導入された。また、大統領職における任期制限(最大2期14年)も第88条で規定された。他方、大統領職への立候補要件を定めている第84条には、40歳以上という年齢やシリア国民という国籍といった要件に加え、候補者として推挙される時点(第85条の規定により、少なくとも国会議員35名の支持を得る必要がある)までに、シリア国内に最低10年間継続して住み続けていなければならないとの要件(旧憲法には存在せず)も含まれていた。この居住要件は、反体制側の指導者の多くがシリアから国外に逃れているなかで、そうした指導者の立候補を阻止するために導入されたものである。したがって、有力な対立候補が存在せず、B・アサド大統領の再選が当初から確実視される状況であっては、実質的にはこれまでの「信任投票」と大きく変わることがなかったことから、反体制側及びその後ろ盾である欧米・湾岸アラブ諸国は、大統領選挙そのものを「茶番」と見なし、同選挙の正当性を認めないとの立場をとった。

結局のところ、2014年6月3日に実施された選挙においては、B・アサド以外に「泡沫候補」である2名が立候補した。公式発表によると、B・アサドは、88.7%の得票率(投票率は73.42%)でもって再選され1、7月16日から3期目の政権をスタートさせた。そして、B・アサドは自らの再選に勢いを得て、北のアレッポからホムス、ダマスカスを経て南のダラアーに至るシリア随一の基幹エリア「南北回廊」と、アサド家の本拠地である北西部ラタキアに焦点を当て、これら地域に位置する反体制勢力の拠点に空爆を中心とした猛攻をSAAに指示した。この結果、大統領選挙は政治・軍事両面において、アサド政権と反体制側並びに欧米・湾岸アラブ諸国との溝を広げる方向に作用したのである。

(2)2012年国会議員選挙

2012年の憲法改正により、「政治的多元主義」及び複数政党制が第8条(旧憲法ではバアス党の「指導的立場」が規定されていた)で規定され、同年5月7日には、現憲法下で初めての国会議員選挙が実施された。だが、SAA並びに治安部隊と反体制勢力との間で武力衝突が続く状況であり、ゆえにアサド政権の支配地区でのみ選挙が行われ、反体制側は選挙に参加しなかった。結局のところ、定数250に対して7195人が立候補するなかで、バアス党主体の与党連合「国民進歩戦線」が150議席を獲得する一方、バアス党寄りの人物が独立系候補として立候補し、90議席を獲得した。また、公式発表によると、投票率は51.26%であった2

(3)2016年国会議員選挙

現憲法の第56条において、議員任期は通常4年と定められている。そこで、2016年4月13日に国会議員選挙が行われたものの、前回の2012年選挙と同様に、武力衝突が続いている状況であったことから、アサド政権の支配地区でのみ選挙が行われ、反体制側は選挙に参加しなかった。結局のところ、定数250に対して約3500人が立候補するなかで、バアス党主体の与党連合「国民進歩戦線」が200議席を獲得した。また、公式発表によると、投票率は57.56%であった3

(4)2020年国会議員選挙

新型コロナウィルス感染症の拡大により、2020年4月以降2度にわたり延期されていた国会議員選挙は、7月19日に実施された。国土の7割程度を掌握していると見なされているアサド政権の支配地区でのみ選挙が行われ、反体制側は選挙に参加しなかった。結局のところ、定数250に対して1656人が立候補する4なかで、バアス党主体の与党連合「国民進歩戦線」が177議席を獲得した5。また、投票時間は午後11時まで4時間延長され6、公式発表によると、投票率は33.17%であった7。なお、ヒシャーム・シャアル法相は選挙後に、投票率の低さの要因として、新型コロナウィルス感染症の拡大並びに国境閉鎖に伴う在外シリア人による投票権の不行使を挙げた8

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2020年6月10日

イラン/現在の政治体制・制度

イランでは、1979年の民衆革命を経て、王制からイスラーム共和制へ、という劇的な体制転換が生じた。イスラーム共和制の理論基盤となっているのは、革命で指導的な役割を果たしたイスラーム法学者であるホメイニー師が唱えた、「法学者の統治(ヴェラーヤテ・ファギーフ)」論である。イスラーム共和国憲法には、「イマームがお隠れで不在の間は、イスラーム法学者がイマームの代理として共同体を教え導く」というこの理論を具現化するための、様々な条項が盛り込まれている。

イラン・イスラーム共和国憲法の第1条は、イランの政体がイスラーム共和制であり、この体制には「全有権者の98.2%が」賛成票を投じたことを明記している。第2条は主権が神にあることを謳っており、第4条ではイスラーム共和国におけるあらゆる法律はイスラームの原理に基づくことが定められている。そして第5条では、イマームがお隠れでいる間は、「公正で徳高く実社会に関する知識を有し、勇敢で有能な」イスラーム法学者(ファギーフ)が、イスラーム共和国を指導するとされている。

憲法第56条によれば、主権は神にあるものの、その神は人間を、自らの社会的運命を決定する権利を持つ存在として創造した。よって何者も、神から人間に与えられたこの権利を奪うことはできない。そのように定めた上で憲法は、イラン・イスラーム共和国の統治権力は立法権、行政権および司法権からなり、相互に独立するこれらの三権はいずれも最高指導者の導きのもとに、憲法の諸原則に基づき行使されることを定めている。

最高指導者

イラン・イスラーム共和国の最高指導者は、「宗教的かつ政治的」な統治権を有する(憲法第107条)。初代最高指導者は、カリスマ的な革命の指導者ホメイニー師が努めたが、ホメイニー師の亡き後、最高指導者は国民の直接投票により選ばれる専門家会議メンバーにより決定されることになっている。 初代最高指導者であるホメイニー師が1989年6月に逝去すると、当時大統領を務めていたアリー・ハーメネイー師が、専門家会議の決定により最高指導者に就任した。

(1) 最高指導者に求められる資質

  • イスラーム法学上の様々な問題にまつわる法判断に必要とされる学識
  • イスラーム共同体を導くのに必要とされる公正さと敬虔さ
  • 指導者に必要とされる適切な政治的・社会的洞察力、慎重さ、勇気、権威、国家運営能力

(2) 最高指導者の権限

  • 体制利益判別評議会との協議をふまえたイラン・イスラーム共和国体制の施政方針の決定
  • 体制の施政方針の適正な遂行の監督
  • 国民投票の実施宣言
  • 統帥権
  • 宣戦布告、和平の受諾、軍の動員
  • 以下の者の任命、解任、辞任の受理
    • 監督者評議会メンバーのイスラーム法学者6名
    • 司法長官
    • イラン国営放送総裁
    • 全軍統合参謀長
    • イスラーム革命防衛隊総司令官
    • 国軍及び治安維持軍の総司令官
  • 三権間の対立の解消と調整
  • 通常の方法では解決が不可能な込み入った問題の体制利益判別評議会を通じた解決
  • 国民により選ばれた大統領の認証
  • 最高裁判所が大統領による違反行為を認定した場合、あるいは国会が大統領は不適格との決定を下した場合、これに基づく大統領の罷免
  • 司法長官の推薦を受けての恩赦および減刑の実施

立法府

イラン・イスラーム共和国において、立法権は国民による直接投票で選出された議員から構成される国会により行使される。憲法はまた、「非常に重要な経済的、政治的、社会的、文化的問題については」、国民投票により立法権が行使されることもあることを定めている。国民投票は、国会議員全員の3分の2の承認を得て実施される。

(1) 国会の構成と権限

国会議員の任期は4年である。憲法は国会の定数を270名と定めているが、定数は10年ごとに見直し、「最大20名まで」増員することが認められている。この規定に基づき、2000年に実施された第6期国会選挙から、国会議員の定数は290名に増員された。

イラン・イスラーム共和国憲法は宗教少数派にも合計5議席を割り当てており、ゾロアスター教徒は1名、ユダヤ教徒も1名、アッシリア系およびカルデア系キリスト教徒はあわせて1名、南部及び北部のアルメニア人キリスト教徒はそれぞれ1名の議員を選出することになっている。

国会は、イスラーム教の原則及び憲法に違反しない範囲で、あらゆる問題に関わる法律を審議・制定できることになっている。政府提出の法案は閣議決定後、議会に送付される。一方、議員15名以上の賛同があれば、法案を上程することができる。

国会はまた、大統領が指名した閣僚に対する信任投票を行う。信任には投票総数の過半数の賛成が必要とされる。国会は閣僚を喚問する権限も有し、喚問動議は最低10名の議員の署名により上程される。動議の対象となった閣僚による答弁次第では、信任投票が実施される。この投票で信任が得られなかった場合、閣僚は免職となる。

憲法第90条は、国会に「三権による権限の執行方法に対する苦情」を調査し、回答を提示することを義務付けている。国会では憲法第90条委員会を設置し、このような問題に対処している。

(2) 監督者評議会による立法の監督

国会が可決する法律がイスラームの原則に適っているか否かは、監督者評議会が判定することになっている。監督者評議会の設置は憲法第91条に定められており、そのメンバーは「公正かつ時代の要請及び問題点に精通するイスラーム法学者6名(最高指導者が任命)」と「法律の各分野に精通する法律学者6名(最高指導者が任命する司法長官が指名し、国会が承認)」から構成される。法案がイスラームの原則に違反しないとの認定は、イスラーム法学者の過半数により、また、法案が憲法に違反しないとの認定は、監督者評議会メンバー全員の過半数により行われる。

憲法の解釈は監督者評議会の権限に属し、監督者評議会メンバーの4分の3の賛成により、解釈が決定される(憲法第98条)。

(3) 体制利益判別評議会による裁定

国会で可決された法案を、監督者評議会が承認せず、その法案をめぐる国会と監督者評議会の間の対立が解消されない場合、法案は「体制の利益」という観点から最終的な判断を下す権限を有する体制利益判別評議会に送られる。1988年2月に設置された体制利益判別評議会のメンバーは、最高指導者が任命する。

行政府

イラン・イスラーム共和国において、大統領は最高指導者に次ぐ第2の権力者である。大統領の任期は4年であり、継続的な再選は1回に限り許される(第114条)。

(1) 大統領に求められる資質

大統領は、「宗教的及び政治的に優れた人格を有する卓越した人物」でなければならず、さらに、「生粋のイラン人でイラン国籍を持ち、管理能力があり慎重で、評判がよく正直かつ敬虔で、イスラーム共和国の原則と国教を信じ、これに忠実である者」でなければなない(憲法第115条)。

(2) 大統領の罷免

国会議員の3分の1以上が大統領の喚問決議を行った場合、大統領は1ヵ月以内に議会に出席し、問題に関する答弁を行う。その後3分の2以上の議員が大統領を無能と判断した場合、国会はその理由を最高指導者に通告する。最高指導者はこの通告を受けて、大統領を罷免する権限を持つ。最高裁判所が大統領による違反行為を認定した場合にも、最高指導者はこの認定に基づき、大統領を罷免する権限を有す。

司法府

イラン・イスラーム共和国において、司法権内で最高の地位を占める司法長官は最高指導者により任命される。司法長官は「公正で司法に通暁し、管理能力を有しており、かつ有能な」イスラーム法学者であることが求められ、その任期は5年である。

司法府の傘下には、最高裁判所、検察庁、軍事法廷、行政裁判所、各州司法局が置かれる。また、法律の適切な施行を監督する機関として、司法府の傘下には全国監察庁が設置されている。

<注>

本稿は、坂梨祥「イラン・イスラーム共和国」松本弘編『中東・イスラーム諸国 民主化ハンドブック2014 第1巻 中東編』人間文化研究機構「イスラーム地域研究」東京大学拠点, 2015, pp. 37-54. を基にしている。

<資料>

大統領選挙法

https://www.shora-gc.ir/fa/news/2952/قانون-انتخابات-ریاست-جمهوری-اسلامی-ایران

国会選挙法

https://www.shora-gc.ir/fa/news/5730/قانون-انتخابات-مجلس-شورای-اسلامی

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2020年6月10日

イラン/最近の政治変化

1979年の革命から現在まで続くイランのイスラーム共和制下では、国家元首である最高指導者をはじめとするイスラーム法学者が軍や司法府など国家の治安機構全てを掌握している。すなわち、国家に対する抗議行動には容赦のない弾圧が待ち受けている。それにもかかわらず、イランではこれまで幾度も大規模な抗議運動が発生してきた。

 革命後最大規模の抗議運動と言われているのが、2009年6月第10期大統領選挙後の不正選挙を訴えるデモである。アフマディーネジャードの再選が報じられた後、落選候補であるムーサビー(元首相)、キャッロビー(元国会議長)の選挙陣営が結果を認めず、彼らの支持者数千人が首都テヘランや主要都市においてデモに参加した。だが、デモの要求(選挙のやり直し)は認められず、体制による弾圧で幕を閉じた。デモを扇動した罪でムーサビー、キャッロビーは逮捕され、自宅軟禁に置かれ政界から遠ざけられた。さらに彼らを支持する主要政治家も逮捕の対象となり、次回以降の選挙で立候補資格を剥奪されるケースが相次いだ。

 直近の抗議運動としては、2019年11月に発生したガソリン値上げに対するデモが挙げられる。これは2009年とは対照的に、指導者が不在で、動員力に欠けるものの、銀行の焼き討ちなど暴力的な方法で抗議がなされた。治安部隊との衝突も激しく、国際人権団体アムネスティの発表によると抗議運動初期の11月15日~18日だけで死者数300、負傷者数千人に上るとされる。デモ発生を受けて体制は、デモ拡大を抑制するために、11月16日から1週間~10日にわたりイラン全国のインターネット接続を遮断した。

 これらの抗議運動は、大多数の国民が現体制に不満を抱いていることを象徴するものである。一方で、体制側も国民が体制を支持していることを国内外に示すために、大衆動員を行ってきた。大衆動員のために体制が使うスローガンは主に「反米」、「反イスラエル」である。すなわち、イスラーム共和制を批判する米国やイスラエルによる体制転覆という「陰謀」を阻止するために、国民が体制を支持していることを示す必要があるというわけである。例えば、毎年革命記念日(2月11日)や在テヘラン米国大使館人質事件(11月4日)などで反米デモが扇動されてきた。さらに選挙も体制への信任投票と位置づけられ、最高指導者をはじめとする体制指導部は、選挙参加を強く呼びかけてきた。また2020年1月イラン革命防衛隊ゴッツ部隊の司令官であったガーセム・ソレイマーニーが米国によりイラクで殺害される事件が発生した後、テヘラン、コム、ケルマーンで国葬が行われ、革命記念日以上の国民が参加したとされる。このように官製の(ただしソレイマーニーの国葬は自発的参加者も多い)大衆動員に参加する国民が実際に体制を支持しているかは定かではないが、少なくともイランの体制指導部は体制が多くの国民に支持されていることを装うことに重要な意義を見出している、と言える。

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2020年6月10日

イラン/選挙

イランでは1979年2月に革命が達成されて以降、大統領(任期4年)、国会議員(同4年)、及び専門家会議メンバー(同8年)を選ぶ選挙が定期的に行われてきている。国民投票もこれまで3回実施されており、1度目の国民投票では革命後の新体制の名称が問われ、2度目と3度目の国民投票ではそれぞれ、新憲法と改正憲法の承認が問われた。1999年には初めて、地方評議会(任期4年)選挙も実施された。 

選挙権

今日のイランでは、選挙権は18歳以上の男女に与えられている。革命当初、選挙権は16歳以上の男女に与えられ、その後選挙権年齢は一時15歳まで引き下げられたが、2007年1月2日選挙権年齢は15歳から18歳に引き上げられた。

立候補資格審査

今日のイランで選挙に立候補するためには、立候補の資格審査を通過しなければならない。大統領選挙と専門家会議選挙については、立候補の資格審査は監督者評議会が行っている。国会選挙の立候補資格審査は、まず選挙区ごとに設置される選挙実行委員会(内務省傘下の選挙本部の下に設置)が実施し、次いで監督者評議会が任命する州選挙監督委員会が実施する。選挙実行委員会の審査結果に不服の者は州選挙監督委員会に、州選挙監督委員会の審査結果に不服の者は監督者評議会に対し異議を申し立て、再審査を申請することができる。監督者評議会が再審査の実施後に行う最終結果発表によって、全立候補者が確定する。 確定した立候補者の名簿は内務省が発表する。 

大統領選挙

イランではこれまでに、合計12回の大統領選挙が行われてきた。1980年の第1期大統領選挙で選出されたバニーサドルは、1981年6月に国会より弾劾決議を受け、罷免された。これを受けて翌7月には第2期大統領選挙が行われ、バニーサドル大統領の下で首相を務めていたラジャーイーが当選した。しかしラジャーイー大統領は1981年8月末、大統領に就任して2週間あまりでバーホナル首相とともに暗殺され、これを受けて同年10月に実施された第3期大統領選挙ではハーメネイー師が当選し、第3代大統領に就任した。これ以降、大統領選挙は定期的に4年ごとに実施され、現ロウハーニー師まで5名の大統領は皆連続2期8年を務めてきている。

有権者数投票総数投票率当選者得票数得票率
11980120,993,64314,152,88767.42アボルハサン・バニーサドル10,709,33075.67
21981722,687,01714,573,80364.24ムハンマド・アリー・ラジャーイー13,001,76189.21
319811022,687,01716,847,71774.26アリー・ハーメネイー16,003,24294.99
41985825,993,80214,238,58754.7812,203,87085.71
51989730,139,59816,452,67754.59ハーシェミー・ラフサンジャーニー15,550,52894.52
61993633,156,05516,796,78750.6610,566,49962.91
71997536,466,48729,145,75479.92モハンマド・ハータミー20,138,78469.10
82001642,170,23028,081,93066.5921,654,32077.11
9(第1回)2005646,786,41829,400,85762.84 (決着がつかず決選投票へ) - -
9(第2回)2005646,786,41827,958,93159.76マフムード・アフマディーネジャード17,248,78261.69
102009646,199,99739,371,21485.22〃 24,527,51662.30
 112013650,483,19236,821,53872.94 ハサン・ロウハーニー18,613,32950.55
122017556,410,23441,366,08573.33〃 23,636,65257.14

出所: Iran data portal (https://irandataportal.syr.edu/presidential-elections)をもとに作成 

第9期大統領選挙

2005年6月17日、第9期大統領選挙が行われた。この選挙における有権者は15歳以上の男女全てであり、有権者数は4678万6418人(2005年6月16日付IRNA報道)であった。

この選挙の立候補登録者は1014名(うち女性は89名)に上り(立候補登録期間:5月10~14日)、監督者評議会は5月15日から資格審査を開始し、5月22日、審査結果を発表した。監督者評議会により資格を認められたのは、アフマディーネジャード・テヘラン市長、ラーリージャーニー元国営放送総裁、レザーイー体制利益判別評議会書記(元革命防衛隊総司令官)、ガーリーバーフ前治安維持軍司令官、キャッルービー前国会議長と、ラフサンジャーニー体制利益判別評議会議長の6名であった。この時点で、改革派の有力候補とされていたモイーン前科学技術相は失格処分とされた。 

これに対してハーメネイー最高指導者は、監督者評議会にモイーン前科学技術相とメフル・アリーザーデ副大統領(兼イラン・スポーツ連盟総裁)の立候補資格を再審査することを要請した。5月25日、監督者評議会は再審査の結果、同2名の立候補を承認したと発表し、立候補の有資格者は8名となった。しかし6月15日、レザーイー体制利益判別評議会書記は立候補を撤回したため、立候補者数は最終的に7名となった。 

5月24日から6月15日までの選挙運動期間を経て、6月17日の朝8時には、予定通り投票が開始された。第1回投票ではいずれの候補者も、「投票総数の過半数」の票を獲得することができず、上位2位を占めたラフサンジャーニー候補とアフマディーネジャード候補の2名が、6月24日の決選投票に臨むことになった。決選投票の結果、アフマディーネジャード候補が1724万8782票を獲得し(得票率61.69%)、ラフサンジャーニー師に700万票近い大差をつけて当選した。 

第10期大統領選挙

2009年6月12日、第10期大統領選挙が実施された。その日程は以下のとおり。 

イラン第10期大統領選挙日程

  • 5月5日~9日 立候補受付期間(今回よりインターネットで立候補登録を受付)
  • 5月9日夜~14日 監督者評議会による立候補資格審査
  • 5月15日~19日 監督者評議会による、立候補資格再審査
  • 5月20日・21日 国家選挙本部、立候補最終確定者を発表
  • 5月22日~6月10日 選挙運動期間(20日間)
  • 6月12日 投票日

5月10日、ダーネシュジュウ国家選挙本部長は、立候補の届出を行った者は合計で475名に上ると発表した。この発表によれば、インターネット上の選挙登録受付用サイトで登録を行った者は3,272名に上り、その14.5%にあたる475名が選挙本部に実際に出向き、立候補届出の手続きを完了させた。 

その後監督者評議会による立候補資格審査及び再審査を経て、5月20日、マフスーリー内務相は、アフマディーネジャード大統領、ムーサヴィー元首相、キャッルービー元国会議長、およびレザーイー体制利益判別評議会書記の4名が、大統領選挙の立候補資格を認められたと発表した。選挙当日、投票は、全国368の自治体に設置された合計4万8千ヶ所の投票所(うち1万4千ヶ所は「移動式」)で行われた。当初「朝8時から10時間」とされていた投票時間は、投票所によっては深夜12時まで延長された。

選挙の翌日である6月13日(土)の夕刻、マフスーリー内相は選挙結果を発表した。この発表によれば、今回の大統領選挙における投票総数は39,165,191票であり、投票率は85%に上った。マフスーリー内相が発表した開票結果は、以下のとおりである。ハーメネイー最高指導者は同13日、マフスーリー内相による選挙結果の発表を受けて直ちに声明を発表し、国民の選挙への広範な参加を讃え、アフマディーネジャード大統領の再選を祝福した。

立候補者得票数得票率
アフマディーネジャード大統領24,527,51662.63
ムーサヴィー元首相13,216,41133.75
レザーイー体制利益判別評議会書記678,2401.73
キャッルービー元国会議長333,6350.85
無効票409,3891.04

出所:イラン学生通信(ISNA)、2009.6.13/イラン内務省HP(6月14日付発表最終結果、6月13日(土)午後4時発表)

第11期大統領選挙

第11期大統領選挙は2013年6月14日に実施された。 内務省発表の公式選挙結果は以下のとおりである。ロウハーニー候補が総投票数の50.71%に相当する1861万3329票を獲得したことから、同師がイランの第7代大統領として就任することが決まった。内務省の発表によれば、投票率は72.7%に上った。

立候補者得票数得票率(%)
ハサン・ロウハーニ18,613,32950.71
モハンマド・バーゲル・ガーリーバーフ6,077,29216.56
サイード・ジャリーリー4,168,94611.36
モフセン・レザーイー 3,884,41210.58
 アリー・アクバル・ヴェラーヤティー2,268,753 6.18
モハンマド・ガラズィー446,0151.22

出所:イラン学生通信2013年6月15日、内務省発表の最終結果https://www.isna.ir/news/92032515237/(最終閲覧日2020年5月19日)

第12期大統領選挙

第12期大統領選挙は2017年5月19日に実施された。立候補登録者1,636人の中から、立候補資格を承認された候補者(立候補当時の肩書)は、モスタファー・ミールサリーム(元・文化・イスラーム指導相、1994-1997)、エスハーク・ジャハーンギーリー(現・第一副大統領、2013-)、ハサン・ロウハーニー(現・大統領、2013-)、エブラーヒーム・ライースィー(前・検事総長、2014-2016)、モハンマドバーゲル・ガーリーバーフ(現・テヘラン市長、2005-2017)モスタファー・ハーシェミータバー(元・副大統領、1994-2001)の6名であった。しかし、ガーリーバーフが5月15日にライースィー支持を、ジャハーンギーリーが5月16日にロウハーニー支持をそれぞれ表明し、撤退した。選挙の結果、ロウハーニーが23,636,652票で当選。2位のライースィーは15,835,794票であった。惜敗率66.99%という差でライースィーが2位落選となったが、下表のように州によってはライースィーの方が得票数が多い、僅差で敗戦となった州もあった。

 ロウハーニーライースィー惜敗率(%)
1コム219,443588,557
2南ホラーサーン159,433301,976
3ホラーサーン・ラザヴィー1,422,1101,885,838
4北ホラーサーン231,313272,697
5ザンジャーン259,981294,485
6セムナーン182,279200,658
7マルキャズィー376,905377,051
8コフギールーイェ・ヴァ・ボイラフマド183,941176,14095.76
9ハマダーン418,256383,28591.64
10ロレスターン455,277363,30079.80
11チャハールマハール・ヴァ・バフティヤーリー270,619213,60878.93
12フーゼスターン1,162,954896,18477.06
13ホルムズガーン480,743370,35977.04
14ガズヴィン395,911303,46976.65
15エスファハーン1,391,2331,038,53574.65
16イーラーム188,925133,02370.41
17ブーシェフル328,806223,27867.91
18ケルマーン242,540154,16363.56
19アルダビール412,735261,05663.25
20ファールス1,500,000900,00060.00
21ゴレスターン610,974358,10858.61
22マーザンダラーン1,256,362726,47857.82
23東アゼルバイジャン1,284,111661,62751.52
24ヤズド402,995206,51451.24
25アルボルズ832,050390,48846.93
26西アゼルバイジャン1,030,101473,78545.99
27ケルマーンシャー699,654313,89444.86
28テヘラン4,388,0121,918,11643.71
29ギーラーン1,043,285442,72842.44
30スィースターン・ヴァ・バローチェスターン878,398313,98535.75
31クルデスターン467,700155,03633.15

出所:『エッテラーアート』2017年5月24日

国会選挙

イランにおける国会選挙は、1980年3月に第1回選挙が行われて以降、定期的に4年ごとに実施されてきている。選挙区数は当初193であったものが1992年の第4期国会選挙で196に増え、2000年に実施された第6期国会選挙では定数が270から290に引き上げられるのに伴い、選挙区数も196から207に増えた。選出議員の数は、選挙区によって異なる。そのうち5議席は宗教的少数派に割り当てられている。第1~3期までは絶対過半数を獲得しなければ第1回投票では当選できないとされていたが、 第4期から3分の1以上に緩和された。

イランの国会選挙は必ずしも政党単位では戦われておらず、有権者は各選挙区に割り当てられた議席数分の候補者の名前を、投票用紙に記入することになっている(たとえばコム選挙区には3議席が割り当てられているため、コム選挙区の有権者は投票用紙に3名の候補者の名前を記入する)。各政治団体はそれぞれが「推薦候補者リスト」を作成し、有権者に配布するが、一人の候補者が複数の団体の推薦を受け、同一候補者の氏名が複数のリストに掲載される場合もある。このような理由から、選挙結果は政治団体ごとの得票数というよりは、革命初期からの大まかな対立軸である「右派」と「左派」の獲得議席数に、また、特に第6期国会選挙以降、「保守派(原理派)」系候補と「改革派」系候補の議席数を中心に、報じられることが多かった。 

第7期国会選挙

2004年2月20日に実施された第7期国会選挙では、監督者評議会が改革派系の有力議員を軒並み失格処分とし、その結果保守派勢力が圧勝した。 

2004年1月11日、監督者評議会は第7期国会議員立候補登録者8157名のうち、83名の現職議員を含む3605名を失格処分とした。これに先立つ1月3日には、内務省傘下の選挙実行委員会が、立候補登録者の「92.88%」の立候補資格を認めていたため、監督者評議会独自の判断に基づく大量失格処分には、非難の嵐が巻き起こった。 

これを受けてハーメネイー最高指導者は監督者評議会に立候補資格の再審査を命じ、その結果監督者評議会は、当初失格処分とした申請者のうち1160名の資格を承認した。しかし1回目の審査で失格とされた(改革派系)現職議員の大半は、結局立候補を認められなかった。

これに対してハーメネイー師は再び、監督者評議会に対し再審査を命じるが、最終的に立候補が認められたのは5625名であり、現職議員80名を含む約2500名は失格となった。これを受けて、12名の現職国会議員を含む888名の立候補登録者が、立候補は認められながら出馬を辞退し、選挙をボイコットすることを発表した。

2月20日の投票は、改革派の最大政党イスラーム・イラン参加戦線(IIPF)がボイコットを維持する中行われ、投票率はイラン全土で50.57%、首都テヘランでは25%と低迷した。第1回投票において投票総数の4分の1以上の獲得により確定した議席数は、保守派154議席、改革派39議席、無所属31議席であった。宗教少数派に割り当てられた5議席も確定した。 

5月7日に行われた第2回投票では、さらに57議席が確定した(第1回投票の結果を監督者評議会が承認しなかった4議席の投票は後日に持ち越された)。第2回投票では保守派が40議席、改革派が8議席を獲得し、(残りは無所属)、第7期国会において保守派勢力は「少なくとも」194議席を、改革派勢力は47議席を占めることになった。 

5月27日、第7期国会が召集された。第7期国会議長には、テヘラン選挙区で888,276票を獲得してトップ当選を果たしたハッダード・アーデルが選出された。 

第8期国会選挙

2008年3月14日、第8期国会選挙が実施された。選挙の立候補登録は1月5日に開始され、11日に締め切られた。3月9日の監督者評議会の発表によれば、立候補資格審査の結果、全7597名の立候補登録者のうち、4755人(約6割)が立候補を認められた。3月14日の投票は、朝8時に開始され、投票時間は夜11時まで延長された。 

4月6日に行われた内務省の発表によれば、第8期国会選挙の投票率は60%と、前回選挙時の51%に比べて上昇した。立候補者は合計3863名、うち308名は女性であったが、このうち第1回投票で当選が確定したのは209名(うち83名が現職、5名は女性)であった。第2回投票へは、残る81議席の2倍の人数である162名がコマを進め、4月25日には53の選挙区で、第2回投票が実施された。第2回投票の投票率は、「26%以上」と発表された。 

第8期国会選挙において、保守派(原理派)勢力は「統一戦線」なるグループを立ち上げ、ともに選挙戦を戦おうとした。しかし選挙直前になり、アフマディーネジャード大統領に対してより批判的な「包括連合」なるグループが統一戦線から離脱し、独自の候補者リストの作成をこころみた。しかし結局のところ、統一戦線リストと包括連合リストには重複も多く(第1回投票では統一戦線と包括連合の共通候補が40議席近くを獲得した)、また、包括連合と改革派のリストの間にも重複が見られた(包括連合と改革派の共通候補は第1回投票で7議席を獲得)。選挙結果の確定後、イラン国内メディアは、最終的には保守派が「200議席近く」、改革派が「45議席程度」を獲得、残りは無所属の候補が獲得したと報じた。

5月27日、第8期国会が召集され、翌28日、コムでトップ当選を果たした(239,436票を獲得)アリー・ラーリージャーニーが、国会議長に就任した。

第9期国会選挙

第9期国会選挙は、2012年3月2日に実施された。 政府の発表によれば、今回の選挙の有権者数は48,288,799名であり、全国47,665ヵ所に投票所が設置され、投票が行われた。立候補登録者数は5,395人であり、うち女性立候補者数は260人であった。現職議員290人のうち、再選を目指して立候補した議員の数は260人に上った。 

立候補登録を行った候補者のうち、内務省による立候補資格審査を通過した者は3,703人、監督者評議会による資格審査を通過した者は3,444人であった。選挙後に内務省が発表した今回の選挙の投票率は64.20%に上り、選挙区内の総投票数の4分の1以上の得票により第1回投票で確定した議席数は、全290議席中225議席に上った。 

5月4日に、3月2日に実施された第1回投票では確定しなかった65議席をめぐる決選投票が行われ、残り65議席が確定した。 

しかしその後5月28日、監督者評議会は第2回投票で確定した議席のうち2議席(イーラーム州とハマダーン州のそれぞれ1議席)に関し、選挙結果は無効であると判断した。監督者評議会は4月5日には、ラームサルとダマーヴァンド選挙区の結果を「無効」と判断しており、その結果第9期国会は、(定数の290議席より4議席少ない)286議席でスタートすることになった。 

第9期国会選挙においては、保守本流勢力により構成される「統一戦線」と、アフマディーネジャード大統領により近い(しかし大統領の腹心であるマシャーイー大統領執務室長には批判的な)「永続戦線」が別々のリストを作成し、選挙戦を戦った。選挙の結果、統一戦線リストからは126名が当選を果たし、 統一戦線が第9期国会の最大会派を構成することになった。 

第10期国会選挙

 第10期国会選挙の第1回投票は2016年2月26日に実施された。有権者数は54,915,024人であり、投票率は61.64%であった。2016年4月29日に実施された第2回投票では残り68議席が136人によって競われた。第1回投票でテヘラン選挙区30人全員が決まったのは初めてである。30人全員「希望リスト」と呼ばれるロウハーニー大統領の政策、特に2015年の核合意を支持する改革派系リストから当選した。対して、第9期の現職議員(ハッダード・アーデルを筆頭)とする保守派系のリスト30人は全員落選する結果となった。国会議長選挙では「希望リスト」の筆頭候補であったアーレフが現職の保守穏健派ラリージャニー(コム選挙区から選出)に挑んだが、ラーリージャーニーの再選に終わった。

第11期国会選挙

 第11期国会選挙の登録期間は2019年12月1日~8日であった。現国会議長のラーリージャーニー、第10期国会の改革派派閥トップであるアーレフなど有力者が登録しなかった。16,033人登録し、うち800人が立候補を取り下げ、1,300人が内務省管轄下の選挙実施委員会によって失格になった。2020年1月12日、監督者評議会の発表によると7,148人が承認された。249人の現職議員が再選を目指し立候補登録したが90人失格になった。監督者評議会のキャドホダーイー報道官によると失格の主な理由は汚職とされる。

第1回投票は2020年2月21日に実施された。テヘラン選挙区では元テヘラン市長で革命防衛隊の空軍司令官であったガーリーバーフを筆頭とする保守派系リストから30人全員が当選する結果となった。投票率は、内務省の発表ではテヘランではわずか25.4%、全国平均でも42.57%にとどまり、過去最低を記録した。第2回投票(残り11議席)はもともと2020年4月に予定されていたが、感染症の影響で2020年9月11日に延期された。

2020年5月28日に実施された国会議長選挙では、ガーリーバーフが267票中230票を獲得し、他2人の候補を寄せ付けず、圧勝した。第一副議長にアミールホセイン・ガーゼィーザーデ・ハーシェミー(9期議員)が208票、第二副議長にはアリー・ニクザード(アフマディーネジャード政権期の官僚)が196票で選ばれた。

地方評議会選挙

  地方評議会選挙は1999年2月に導入され、この選挙を通じ、4年ごとに全国の市町村の評議会メンバーが選出されている。

第3期地方評議会議選挙

2006年12月15日、第4期専門家会議選挙と同日に、第3期地方評議会選挙が実施された。この選挙ではアフマディーネジャード大統領を支持する勢力が独自の候補者リストを作成し、投票に臨んだが、思うように票を伸ばすことができなかった。たとえばテヘラン市評議会では、アフマディーネジャード大統領支持派は定数15議席のうち2議席しか確保できなかった。テヘラン市評議会では結局、「改革派」勢力が4議席を獲得し、残り8議席は「原理派大連合」(アフマディーネジャード大統領支持派以外の「保守派(原理派)」勢力)が獲得した(残り1名は無所属)。 

第4期地方評議会議選挙

地方評議会の任期は4年であり、第4期地方評議会選挙は予定では、2010年末から2011年初め頃に実施される予定であった。しかし選挙にかかる経費節減のため、第4期地方評議会選挙は第11期大統領選挙と同日に実施すべきであるという案が出され、2010年7月に、この「選挙統一法案」が承認された。これを受けて第4期地方評議会選挙は、2013年に予定される第11期大統領選挙と同時に、2013年6月14日に実施されることになった。 

専門家会議選挙

最高指導者を選出し、また、最高指導者による任務遂行が不可能になった場合にそれを見極める任務を持つ専門家会議の選挙は、1982年の第1期から2006年の第4期まで8年ごとに実施されてきた。第5期は2016年の第10期国会選挙と同日開催になった。選挙制度上、先述した3つの選挙と大きく異なるのは立候補資格である。ムジュタヒド(イジュテハードとよばれるイスラーム法解釈などができる能力と資格を持つ者)レベルのイスラーム法学者に限定される(第3条)。また大統領、官僚、国会議員、司法関係ポストに就く者の立候補規制もない。

 実施日有権者数投票総数投票率議席数
第1期1982.12.10232777811801306177.3882
第2期1990.10.8312800841160261337.0983
第3期1998.10.23385505971785786946.3286
第4期2006.12.154654924228,321,27060.8486
第5期2016.2.2654,915,02433,480,54860.9788

出所:イラン内務省 

第4期専門家会議選挙

2006年12月15日、第4期専門家会議選挙が実施された。この選挙には493名が立候補登録を行ったが、監督者評議会による、筆記試験(イスラーム法学)を含む資格審査の結果、最終的には166名が、立候補資格を認められた。 

この選挙の有権者数は4654万9242名であり、投票率は66%に上った。選挙の結果、「協会」リスト(テヘラン闘う聖職者協会とコム神学校教師協会の合同リスト)の推薦者が、全86議席中67議席を占めた。キャッルービー前国会議長が設立した国民信頼党の推薦を受けた候補は10名が当選し、「協会」と「国民信頼党」の双方から推薦を受けた候補は32名が当選した。

今回の選挙で最も多くの票を獲得したのは、2005年6月の大統領選挙ではアフマディーネジャード候補に大差で敗れたラフサンジャーニー体制利益判別評議会議長であった。ラフサンジャーニー師はテヘラン選挙区で156万票を獲得し、トップ当選を果たした(2位で当選したメシュキーニー師の得票数は84万票であった)。 

第5期専門家会議選挙

2016年2月26日、第10期国会選挙と同日に開催された。801人の立候補登録者の中から166人が承認された。過去の選挙でも競争倍率は定数に対して約2倍と低い。また、定数と同じ人数しか残らない選挙区(州)もあるので競争性は低い。2016年は、西アゼルバイジャン(3議席)、アルダビール(2議席)、ブーシェフル(1議席)、北ホラーサーン(1議席)、セムナーン(1議席)、ホルムズガーン(1議席)がそれに該当する。失格者の中には初代最高指導者ホメイニー師の孫アフマド・ホメイニーも含まれていた。

選挙の結果、88議席中「テヘラン闘う聖職者協会」と「コム神学校教師協会」の合同リストの推薦者が64議席を占めた。現職大統領であるロウハーニーはテヘラン州から再選した(16議席中3位当選)。2017年の第11期大統領選挙に立候補したライースィーは南ホラーサーン州から圧倒的多数で再選した(得票率75%)。

<注>

本稿は、坂梨祥「イラン・イスラーム共和国」松本弘編『中東・イスラーム諸国 民主化ハンドブック2014 第1巻 中東編』人間文化研究機構「イスラーム地域研究」東京大学拠点, 2015, pp. 37-54. を最新のデータに更新したものである。

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