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シリア/現在の政治体制・政治制度
シリアでは1963年の「バアス革命」以来、バアス党政権が今日に至るまで続いている。そうしたなかで、ハーフィズ・アル=アサド(H・アサド)が1970年に無血クーデタを引き起こして全権を掌握し、翌(1971)年に大統領に就任して以来、アサド家が大統領職を独占しており、2000年以降はH・アサドの次男であるバッシャール・アル=アサド(B・アサド)がその任に就いている。
そのアサド政権に関しては、現代シリアの政治・外交を専門とするレイモンド・ヒンネブッシュが、H・アサド時代の統治形態を「大統領君主制」と形容した1が、現在も基本的にはB・アサドの手に権力が集中している状況となっている。
大統領職の主な権能に関しては、現憲法に以下のように規定されている2。大統領と首相は、「憲法が規定する範囲内で国民を代表して行政権を行使する」(第83条)と規定され、大統領は自らが主宰する会議において、「国家の基本政策を立案し、その履行を監督する」(第98条)ことになっている。具体的には、法律に則って諸々の法令、決定、そして命令を発布し(第101条)、人民議会(すなわち国会)の同意を得た後の宣戦布告、国民総動員、そして和平締結を行う(第102条)のである。また、第97条に則り、大統領は首相、副首相、大臣、そして次官を任免する権限を持っており、更には「自らを議長とする閣議を召集できる」(第99条)のである。なお、大統領は「全軍の最高司令官である」(第105条)と規定されている。
このように、シリアにおいては、大統領が内政と外交、さらには軍事を司ることが、旧憲法と同様に現憲法においても規定されている。それでは、こうしたシリアの政治制度を基盤とする同国の現実の政治体制については、どのような見方をとることが可能であろうか。ここでは、政治体制論の「古典」とも言えるロバート・ダールの『ポリアーキー』に依拠して考えてみたい。ダールは、「公的異議申立て」及び「選挙に参加し公職につく権利」が、それぞれ実現されている程度から、現実の政治体制を分類している。その結果、「公的異議申立て」及び「選挙に参加し公職につく権利」の実現度合いが共に高い「ポリアーキー」以外に、「公的異議申立て」及び「選挙に参加し公職につく権利」の実現度合いが共に低い「閉鎖的抑圧体制」、「公的異議申立て」の実現度合いは高い一方で「選挙に参加し公職につく権利」の実現度合いは低い「競争的寡頭体制」、「公的異議申立て」の実現度合いは低いが他方で「選挙に参加し公職につく権利」の実現度合いは高い「包括的抑圧体制」といった類型を提示しているのである3。さらに、「公的異議申立て」を「市民的・政治的自由」に、「選挙に参加し公職につく権利」を「普通選挙制度」に、それぞれ読み替えるならば、シリアにおいては、「普通選挙制度」に関しては現実にほぼ機能してきていると見なせるものの、「市民的・政治的自由」に関しては後述するように大幅な制約が加えられていることから、同国の事例は「包括的抑圧体制」に当てはまると判定できよう。
シリア/最近の政治変化
(1)現況概観
「アラブの春」の動きとして2011年3月から始まったシリアにおける反体制運動は当初、現体制の枠内での「改革」による「民主化」を要求し、平和的手段による目的達成を目指していた。しかしながら、アサド政権が「民主化」要求にある程度は応えつつも、デモ行進や集会に対する強硬的な態度を取ったことから、反体制側は次第に「体制転換」を求めるようになり、政権側の弾圧措置を招く一方、反政府武装闘争がシリア各地に広がっていくことになった。
それでは、バアス党政権が1963年以来続き、また1971年以降はアサド父子が大統領職を独占して「世襲支配」を行ってきているシリアにおいて、「民主化」とは具体的に何を意味するのであろうか。ここで、既述のダールによる政治体制の類型化を思い起こすと、シリアの事例は「包括的抑圧体制」に当てはまることから、この体制から「ポリアーキー」に至る民主化プロセスは必然的に「市民的・政治的自由」の拡大を伴うことになる。
だが、反体制運動が開始されてからのアサド政権による「市民的・政治的自由」の拡大措置は、反体制側を満足させることが出来なかった。例えば、B・アサド大統領は内閣の決定に基づき、1963年以来施行されてきた「国家非常事態」の解除と、「最高国家治安裁判所」の廃止を命令する大統領令に2011年4月21日に署名した1。しかしながら同時に、治安部隊メンバーの行動に対して免責特権を与える大統領令や、スンナ派のイスラーム組織「ムスリム同胞団」に所属することは死罪に値するとの同令が新たに公布された2。また、2012年2月26日には、現憲法が国民投票によって承認され、憲法改正が実現した3。
アサド政権はこのように、国家非常事態の解除や最高国家治安裁判所の廃止、さらには現憲法における「政治的多元主義」の導入(第8条)といったように、一方ではシリアにおける「市民的・政治的自由」を漸進させてきた。特に、「バアス党が国家、社会の指導的党である」と旧憲法では規定されていた(第8条)ことから、シリアの政党制の実態がジョヴァンニ・サルトーリの言うところの「ヘゲモニー政党制」に分類可能な状況において4、「政治的多元主義」が現憲法で保障されたことは「民主化」への第一歩と見なされるものであった。
しかしながら、反体制側に対する治安部隊の強硬措置を大統領令で認めたうえに、アラブ世界で影響力を増していたムスリム同胞団を敵視し続けたことは、アサド政権の「民主化」努力が茶番に過ぎないものであるとの印象を、反体制側並びに多くのアラブ・欧米諸国に植え付けることになった。さらに、「包括的抑圧体制」から「ポリアーキー」に至る径路が、「少数の比較的同質的なエリートの間ではなく、社会諸階層と、政治思想をたとえ全部ではなくともほとんど反映する広範な代表者間で、相互安全保障の体系を創出することを必要としている」5との指摘があるなかで、アサド政権は基本的に反体制側との対話を拒否してきた。
以上のようなアサド政権の対応により、シリアにおける反政府武装闘争は2011年後半以降、激しさを増した。アサド政権は一時期、軍事的にかなり追い詰められたものの、2015年9月以降のロシア軍による大規模な軍事支援で態勢を立て直し、シリア各地を武力で次々と平定していった結果、現在はシリア領土のおよそ3分の2を支配下に置いている。他方、シリア領土の残り3分の1に関しては、その大半をクルド勢力が支配下に収めており、それ以外は反体制勢力や「イスラーム国」(IS)などの支配領域となっている。なお、ISの支配領域は現在、大幅に縮小しており、ISはシリオ沙漠地帯の狭い領域(「ポケット」)で孤立している(各勢力の支配領域は以下の地図6が示す通りである)。

(2)諸外国の介入
上述した4つの国内主要アクター(アサド政権、クルド勢力、反体制勢力、そしてIS)のなかで、アサド政権に対しては、政治・軍事・経済面では主にロシアやイランが支援し、政治・経済面では中国も支援している。また、クルド勢力に対しては、米主導の有志連合が軍事支援をしてきたが、ドナルド・トランプ大統領は一昨(2018)年12月19日に、米軍のシリア完全撤退に関して言及し、さらに昨(2019)年10月6日に、米軍(1000人規模)のシリア北東部からの撤退宣言を行った。その結果、米軍のプレゼンスはシリア北東部のクルド勢力支配地域において大幅に縮小し、上記の地図が示すように、タナク油田やオマール油田にごくわずかの兵力を残すまでとなっている。他方、反体制勢力に関しては、様々な武装組織が存在し、「穏健勢力」と「過激勢力」に大別される。「穏健勢力」の代表例がシリア国民軍(SNA:旧自由シリア軍)系諸組織であり、後者の代表例がシャーム解放委員会(HTS:旧ヌスラ戦線)である。シリア北西部のイドリブ地域並びにアフリーン地区、及びシリア北東部のユーフラテス北東岸地域におけるSNA系諸組織に対しては、トルコが軍事支援を与えており、さらにはトルコ軍がこれら地域に駐留して作戦も共にしている。また、シリア南東部のタンフ地域におけるSNA系諸組織に対しては、米軍基地の縮小が報じられたこともあり、米軍による軍事支援は減少傾向にあると見られている。
このように、主に米国、ロシア、トルコ、そしてイランがシリア国内の各勢力に様々な対外支援を行っていることから、同国はこれら諸国によるパワー・ポリティックスが展開される場となっている。シリアは、2011年3月までは地域政治の「主体」として対外的な影響力を行使してきたが、今や「客体」として諸外国による影響力の行使を受ける場となっているのである。
そこで、シリアにおける米露、米土、米イラン、露土、露イラン、そして土イランの各関係について概略する。米露関係に関しては、米国が反体制勢力を支援し、ロシアがアサド政権を支援していることから、両国は基本的には対立関係にある。だが、クルド勢力をめぐる米露関係は少々複雑である。なぜならば、米国がクルド勢力を見捨てた形になっていることから、クルド勢力はアサド政権、さらにはロシアとの関係を強化しているのである。しかしながら、シリア全土の完全掌握を目指しているアサド政権と、自治の維持さらには拡大を望んでいるクルド勢力との間では、双方の利害が一致していない状況である。そこで、アサド政権及びクルド勢力双方とのパイプを持つロシアによる調停の役割が期待されるところであるが、ロシアとアサド政権との長年に渡る親密な関係や、ロシアとトルコが近年その関係を強化していることに鑑みると、ロシアがクルド勢力の意向に沿った動きを取るのかは不明である。ゆえに、クルド勢力はアサド政権及びロシアに対するカウンターバランスとして、米国と完全に縁を切るわけにはいかないのである。
米土関係に関しては、両国共に反体制勢力に対する支援を対シリア政策の柱としてきた一方で、クルド勢力に対する両国の政策は相反しており、二面性を有していると言える。すなわち、トルコが「シリア民主軍」(SDF)や「シリア民主評議会」(SDC)といったクルド勢力を「テロ組織」と見なしてきたのに対して、米国はクルド勢力と同盟関係を築いてきた。だが、トランプ大統領が昨(2019)年10月に米軍のシリア北東部からの撤退宣言を行った直後に、トルコ軍及びSNA系勢力が対クルド勢力軍事作戦「平和の春」を発動した際には、米国はトルコの行動を強く非難する声明を発したものの、その行動を止めるための具体的な手立ては、限定的な経済制裁を例外として、殆ど講じなかった。これは、後述するような露土関係の緊密化といった事態を前にして、米国がトルコとの関係悪化を出来るだけ避けたいとする意思表示であったと言える。また、トルコ軍がこの作戦により、タッル・アブヤドからラス・アインに至る地域に「安全地帯」を確立するなかで、10月17日に出された米土共同宣言では、同地帯の治安がトルコ軍によって第一に担われることとされるなど、米土関係は「平和の春」作戦に伴いさらなる悪化が懸念されたものの、決定的な亀裂には至らなかったのである。
米イラン関係に関しては、トランプ政権がイランの核政策や対外政策などを問題視し、同国に敵対政策をとっているなかで、米国は反体制勢力を、そしてイランはアサド政権を、それぞれ支援している。そして、イランが「イラン革命防衛隊」(IRGC)やヒズブッラーなどの軍事プレゼンスを、アサド政権支配地区に維持していることに対して、米国は、イランがこうしたイラン系勢力を利用して、テヘランからバグダード及びダマスカスを経由してベイルートに至る「シーア派回廊」を構築して覇権を追求している、と見なしているのである。ただ、米国はシリアにおいてイラン系勢力に対する直接的な軍事行動を日常的にはとっておらず、米国の同盟国であるイスラエルがこうしたイラン系勢力に対する軍事行動を頻繁に起こしている。
露土関係に関しては、アサド政権支援のロシアと、反体制勢力支援のトルコとは、本来は対立関係にある。だが、ロシア主導のシリア包括和平を目指す試みである「アスタナ会合」(後述)が2017年1月に開始されて以降、トルコは「三保障国」(ロシア、トルコ、そしてイラン)の一員として同会合を支持している。さらに、一昨(2018)年9月17日の露土首脳会談においては、イドリブ地域における大規模戦闘を回避するために「イドリブ合意」が成立した。その後、「イドリブ合意」は現在に至るまで殆ど実現されておらず、アサド政権がイドリブ地域再掌握に向けての大規模攻撃に着手し、ロシア軍がシリア政府軍(SAA)に対して主に空爆支援を行うなかで、トルコは同地域に対する増派を行い、SNA系勢力に対する支援を強化している。このように、ロシアとトルコはイドリブ地域において敵対的な軍事行動を行う一方で、ウラジミール・プーチン大統領とレジェップ・タイップ・エルドアン大統領はしばしば電話協議を行うなど、事態がエスカレーションしないように出来る限り協力する姿勢をも見せている。ロシアとトルコはS400ミサイルの購入や天然ガスの供給などでも関係を深めており、それゆえに両国共に米国との関係が決して手放しで良好であるとは言えないことから、シリアでは軍事的に対立する局面が存在する一方で、事態鎮静化に受けて協力可能な時はそのようにするなど、両国関係は二面性を持っているのである。
露イラン関係に関しては、両国共にアサド政権を政治・軍事・経済的に支援している意味では、同盟関係にある。また、イランは「アスタナ会合」における「三保障国」の一員であることから、ロシア主導の和平の試みにコミットしていると言える。だが、ロシアとイランの間には、シリア国家の在り方に関する根本的な相違があると言わざるを得ない。すなわち、ロシアは自軍が展開するラタキアの海軍基地やフマイミームの空軍基地が安泰であるように、「パックス・ロシアーナ」(ロシア主導の平和)のもとでシリア国内を可能な限り安定化させることにプライオリティを置いていると想定される。ゆえに、ロシアはシリア政府(具体的にはアサド政権)の統治能力回復、さらには強化を望ましいと考えていると推察され、SAAの再建を自らの利益と見なすであろう。他方、米国やイスラエルからの軍事攻撃の可能性に常に晒されているイランにとり、シリアは軍事作戦上の要衝であり、これら両国に対する反撃をフリーハンドで実施可能な状況が望ましい。イランがIRGCやヒズブッラーによるシリア領内でのある程度自由な軍事活動こそ望ましいと考えている、と想定されることから、イランはその制約要因となりかねないSAAの再建には消極的とならざるを得ないであろう。また、アサド政権が支配領域を再掌握し、復興計画の策定・実施に乗り出すなかで、ロシアの企業とイランの企業がライバル関係になることも想定可能であり、両国関係には悪化の種が隠れていると言えるのである。
土イラン関係に関しては、トルコが反体制勢力を、イランがアサド政権を、それぞれ支援していることから、両国は対シリア政策を異にしている。だが、イラン及びトルコは共に、「アスタナ会合」を「三保障国」の一員として支援しており、シリア情勢に関して協議する場を有している。また、イランはトルコとコンタクトを持つのみならず、アサド政権と緊密な関係にあることから、イドリブ情勢が国際的な注目を集める状況において、イラン外務省は本(2020)年2月8日に、同国がトルコとアサド政権との仲介役を担う意向であることを表明した7。
(3)和平に向けた国際的な動き
上記のように、シリアに対する各国の思惑が異なることは、結果として紛争解決プロセスを機能不全にさせ、内戦が長引くことになった。それでは、シリアにおいてはこれまで、どのように国際的な和平の試みがなされてきているのであろうか。ここでは、国連主催の「ジュネーブ協議」及びロシア主導の「アスタナ会合」を軸に考察する。
シリアで戦闘が拡大する状況において、コフィ・アナン・シリア問題合同特使は2012年6月末に、安保理常任理事国やシリア周辺諸国の外相などをジュネーブに集め、事態打開に向けた協議を行った(「ジュネーブ1」)。その結果、アサド政権のメンバーを含む「移行政府」の樹立提案を含む「ジュネーブ・コミュニケ」が6月30日に成立した8が、B・アサド大統領の退陣を要求する反体制勢力の支持を得ることは出来なかった。加えて、米国が2012年11月に、反体制勢力の統括組織としての「シリア国民評議会」の後継組織として、「シリア国民連合」の樹立を強力に後押ししたことから、米露間の溝は開く一方であり、シリア情勢解決の見通しが立たない状態が続いた。
このように、「ジュネーブ協議」は米露間の対立により、当初から暗礁に乗り上げた。だが、アフダル・ブラーヒーミー・シリア問題合同特使(アナンの後任として2012年9月に就任)が会議の実現に向けて積極的な外交を展開した結果、「ジュネーブ2」は2014年1月から2月にかけて2ラウンドに分けて開催されるに至った。しかしながら、B・アサドの処遇をめぐり、アサド政権と反体制勢力が真っ向から対立し、妥協点は見いだされなかった。
その後、「ジュネーブ3」は2016年2月になって開催されたものの、ステファン・デ・ミストゥーラ国連・アラブ連盟シリア問題合同特使(ブラーヒーミーの後任として2014年7月就任)は3日に、会議の一時的な延期及び25日の再開を発表した9。だが、これは実現せずに終わり、1年余りの中断の後に、2017年2月から3月にかけて開催された「ジュネーブ4」においても、アサド政権と反体制勢力の直接対話は行われなかった。同年3月に開催された「ジュネーブ5」も大きな成果なく終了し、「ジュネーブ6」(同年5月)では、「憲法および法律に関する技術的コンサルティブ・メカニズム」の設置が合意された。同メカニズムの設置に対する進展はその後見られず、「ジュネーブ7」(同年7月)、「ジュネーブ8」(同年11月~12月、2ラウンドに分けて開催)、そして「ジュネーブ9」(2018年1月、但しウィーンで開催)共に、実質的成果なく終了した。
このように、「ジュネーブ協議」が大きな成果を生み出すことなく、事実上休止状態に至っている背景には、アサド政権と反体制勢力との間にプライオリティの違いが存在することがある。すなわち、「ジュネーブ協議」における4つの主要議題(ガバナンス、憲法、選挙、テロとの戦い)の中で、政権側はテロ問題を優先すべきと考えているのに対し、反体制側は政権移行に繋がるような他のイシューに重きを置いているのである。また、「ジュネーブ8」においては、反体制勢力が合同代表団を形成10して参加したが、B・アサドの退陣に依然として拘ったことは政権側の不興を買った。さらに、後述する「アスタナ会合」の開催以降、とりわけロシアが「ジュネーブ協議」に関心を失っていることも、戦局で優位に立っているアサド政権に譲歩を促す方向に作用せず、反体制勢力との溝を広める結果となったのである。
ロシアは、「ジュネーブ2」終了後に「ジュネーブ3」の開催目途が立たないなかで、自らイニシアティブをとり、シリア情勢の打開に向けて動いた。ロシアは2015年1月及び4月に、アサド政権及び同政権によって許容されているシリア国内の反体制勢力が参加する和平協議をモスクワで開催したが、大きな成果なく終了した。その後、「ジュネーブ3」が中断されたままの状況において、プーチン大統領とエルドアン大統領は2016年12月16日に、カザフスタンの首都アスタナ(当時、現在のヌルスルタン)での、米国や国連が関与しない形での新たなシリア和平交渉の開催意向を表明した。そして、国連が12月31日に、安保理決議第2336号により、ロシア及びトルコ主導の停戦並びに和平会議開催支持を表明した結果、アスタナでの和平協議(通称「アスタナ会合」)は国際的なお墨付きを得ることになったのである。
「アスタナ会合」はこれまで、ロシア、トルコ、そしてイランを「三保障国」として14回にわたり開かれており、「アスタナ1」(2017年1月)、「アスタナ2」(同年2月)、「アスタナ3」(同年3月)においては、「アスタナ2」でアサド政権と反体制勢力の直接交渉が短時間行われた以外、大きな成果なく終了した。その後、「アスタナ4」(同年5月)において、ロシア、トルコ、及びイランを「保障国」とする「緊張緩和地帯」の設置が決まった。同地帯は、イドリブ地域、ホムス北部、ダマスカス郊外東グータ、シリア南部に設置され、イドリブ地域以外では同年7月から8月にかけて停戦が発効した。しかしながら、ホムス北部及びシリア南部では、露軍が展開してしばらくは停戦が概ね維持されたものの、最終的にはSAAが「テロ組織」と見なすHTSやISがこれら地区に拠点を構えていることを理由に攻撃を行い、他方で露軍が見て見ぬふりをすることで、掌握するに至った。また、東グータでは2018年春に、SAAに加えて露軍が、HTSが拠点を有していることを理由に空爆を中心とする猛爆撃を行い、人道危機が深刻化した。
この結果、イドリブ地域を除く「緊張緩和地帯」はアサド政権側によって掌握されることになったが、それでもトルコは「アスタナ会合」に参加し続けた。その背景には、ホムス北部、東グータ、そしてシリア南部のいずれにおいても、トルコが強力に支援していた反体制勢力が存在しなかったことがあった。その後、「アスタナ5」(2017年7月)、「アスタナ6」(同年9月)、「アスタナ7」(同年10月)、「アスタナ8」(同年12月)、「アスタナ9」(2018年5月)、そして「アスタナ10」(2018年7月、但しソチで開催)共に、大きな成果なく終了した。「アスタナ11」(2018年11月)においては、9月の露土首脳会談で設置が決まった、イドリブ地域における「非武装地帯」設置に関して協議が行われた。だが、協議終了後に具体的な進展は見られず、同地域でSAAと反体制勢力の間で戦闘が行われているのは既述の通りである。また、昨(2019)年には3回(4月の「アスタナ12」、8月の「アスタナ13」、そして12月の「アスタナ14」)開催されたものの、何れも成果は殆どなく終了した。
ロシアは他方で、アサド政権及び反体制勢力関係者を集めた「国民対話会議」を2018年1月にソチで主宰し、その結果として「憲法委員会」の設置が決まった。「憲法委員会」は、アサド政権側、反体制側、そして「独立系」のメンバー各50人から構成されることになっており、アサド政権及び「シリア交渉委員会」(SNC、旧「高等交渉員会」(HNC)であり、反体制勢力の統括政治組織)は各々、メンバーの候補者リストをデ・ミストゥーラに既に手渡した。だが、デ・ミストゥーラが同年9月11日に、「独立系」メンバー候補者リストのロシア、トルコ、そしてイラン政府関係者に提示したところ、ロシアとイランは事前に相談を受けていなかったことを理由に、そのリストを即座に拒否した。デ・ミストウーラは同年10月に辞任を表明し、後任にはゲイル・ペデルセンが就任した。
ペデルセンが「憲法委員会」の発足に向けた外交的努力を重ねた結果、昨(2019)年9月にようやく人選の完了と設置が宣言された。そして、同年10月末から第1ラウンドが翌11月上旬にかけて開催されたものの、同下旬の開幕が予定されていた第2ラウンドは実現しなかった。アサド政権側が「憲法委員会」を現憲法の改正のための協議の場と捉えているのに対して、SNC側は同委員会を新憲法の制定のための協議の場と見なしていることにより、議事次第に対する双方の同意が形成されなかったからであった。
シリア/政党
既述のように、現憲法はバアス党の指導的立場を規定していないが、2012年以降に3回実施された国会議員選挙結果に見られたように、同党がサルトーリの言うところの「支配政党」である実態は変化していない。
バアス党は、ミシェル・アフラク(ギリシャ正教徒)及びサラーフッディーン・アル=ビタール(スンナ派ムスリム)らが1940年代初期に、ダマスカスで活動を開始したアラブ民族主義の勉強会を母体とする1。その後、1947年には結党大会が開かれ、政党として正式に発足するなかで、その党綱領である「統一、自由、社会主義」は下位中産階級に広くアピールした2。当時16歳であったH・アサドは学生党員として加わり、党内で以後めきめきと頭角を現していき、1963年のシリアにおける「バアス革命」に際しては、ダマスカス当方のドゥマイル空軍基地攻略作戦を主導し、革命の成功に大きな役割を果たした3。この結果、シリアでは現在に至るまで57年間バアス党政権が続いているが、「バアス革命」後しばらくの間は党内で熾烈な権力闘争が発生した。そうしたなかで、H・アサドが最終的に勝ち残り、1970年のクーデタでバアス党内における実権を掌握した。以後、バアス党内での権力闘争は影を潜め、H・アサド大統領、さらにはB・アサド大統領の権威に対する目立った挑戦は党内からは発生していない。
シリア/選挙
(1)2014年大統領選挙
旧憲法のもとでは、シリアにおける内政と外交、さらには軍事を司っている大統領を選出するプロセスは、「バアス党シリア地域指導部」が推挙した候補者に対して国民が投票を行うというものであった。すなわち、バアス党員のみが大統領職への「パスポート」を有しており、「包括的抑圧体制」のもとで「市民的・政治的自由」に大幅な制約が加えられているなかでは、結果的に「信任投票」が行われてきたのである。
しかしながら、シリアにおける反体制運動の高揚には、こうしたバアス党の優越的地位に対する批判が重要な役割を果たしたことから、現憲法においては、第85条で大統領職に対する複数立候補制が導入された。また、大統領職における任期制限(最大2期14年)も第88条で規定された。他方、大統領職への立候補要件を定めている第84条には、40歳以上という年齢やシリア国民という国籍といった要件に加え、候補者として推挙される時点(第85条の規定により、少なくとも国会議員35名の支持を得る必要がある)までに、シリア国内に最低10年間継続して住み続けていなければならないとの要件(旧憲法には存在せず)も含まれていた。この居住要件は、反体制側の指導者の多くがシリアから国外に逃れているなかで、そうした指導者の立候補を阻止するために導入されたものである。したがって、有力な対立候補が存在せず、B・アサド大統領の再選が当初から確実視される状況であっては、実質的にはこれまでの「信任投票」と大きく変わることがなかったことから、反体制側及びその後ろ盾である欧米・湾岸アラブ諸国は、大統領選挙そのものを「茶番」と見なし、同選挙の正当性を認めないとの立場をとった。
結局のところ、2014年6月3日に実施された選挙においては、B・アサド以外に「泡沫候補」である2名が立候補した。公式発表によると、B・アサドは、88.7%の得票率(投票率は73.42%)でもって再選され1、7月16日から3期目の政権をスタートさせた。そして、B・アサドは自らの再選に勢いを得て、北のアレッポからホムス、ダマスカスを経て南のダラアーに至るシリア随一の基幹エリア「南北回廊」と、アサド家の本拠地である北西部ラタキアに焦点を当て、これら地域に位置する反体制勢力の拠点に空爆を中心とした猛攻をSAAに指示した。この結果、大統領選挙は政治・軍事両面において、アサド政権と反体制側並びに欧米・湾岸アラブ諸国との溝を広げる方向に作用したのである。
(2)2012年国会議員選挙
2012年の憲法改正により、「政治的多元主義」及び複数政党制が第8条(旧憲法ではバアス党の「指導的立場」が規定されていた)で規定され、同年5月7日には、現憲法下で初めての国会議員選挙が実施された。だが、SAA並びに治安部隊と反体制勢力との間で武力衝突が続く状況であり、ゆえにアサド政権の支配地区でのみ選挙が行われ、反体制側は選挙に参加しなかった。結局のところ、定数250に対して7195人が立候補するなかで、バアス党主体の与党連合「国民進歩戦線」が150議席を獲得する一方、バアス党寄りの人物が独立系候補として立候補し、90議席を獲得した。また、公式発表によると、投票率は51.26%であった2。
(3)2016年国会議員選挙
現憲法の第56条において、議員任期は通常4年と定められている。そこで、2016年4月13日に国会議員選挙が行われたものの、前回の2012年選挙と同様に、武力衝突が続いている状況であったことから、アサド政権の支配地区でのみ選挙が行われ、反体制側は選挙に参加しなかった。結局のところ、定数250に対して約3500人が立候補するなかで、バアス党主体の与党連合「国民進歩戦線」が200議席を獲得した。また、公式発表によると、投票率は57.56%であった3。
(4)2020年国会議員選挙
新型コロナウィルス感染症の拡大により、2020年4月以降2度にわたり延期されていた国会議員選挙は、7月19日に実施された。国土の7割程度を掌握していると見なされているアサド政権の支配地区でのみ選挙が行われ、反体制側は選挙に参加しなかった。結局のところ、定数250に対して1656人が立候補する4なかで、バアス党主体の与党連合「国民進歩戦線」が177議席を獲得した5。また、投票時間は午後11時まで4時間延長され6、公式発表によると、投票率は33.17%であった7。なお、ヒシャーム・シャアル法相は選挙後に、投票率の低さの要因として、新型コロナウィルス感染症の拡大並びに国境閉鎖に伴う在外シリア人による投票権の不行使を挙げた8。
イラン/現在の政治体制・制度
イランでは、1979年の民衆革命を経て、王制からイスラーム共和制へ、という劇的な体制転換が生じた。イスラーム共和制の理論基盤となっているのは、革命で指導的な役割を果たしたイスラーム法学者であるホメイニー師が唱えた、「法学者の統治(ヴェラーヤテ・ファギーフ)」論である。イスラーム共和国憲法には、「イマームがお隠れで不在の間は、イスラーム法学者がイマームの代理として共同体を教え導く」というこの理論を具現化するための、様々な条項が盛り込まれている。
イラン・イスラーム共和国憲法の第1条は、イランの政体がイスラーム共和制であり、この体制には「全有権者の98.2%が」賛成票を投じたことを明記している。第2条は主権が神にあることを謳っており、第4条ではイスラーム共和国におけるあらゆる法律はイスラームの原理に基づくことが定められている。そして第5条では、イマームがお隠れでいる間は、「公正で徳高く実社会に関する知識を有し、勇敢で有能な」イスラーム法学者(ファギーフ)が、イスラーム共和国を指導するとされている。
憲法第56条によれば、主権は神にあるものの、その神は人間を、自らの社会的運命を決定する権利を持つ存在として創造した。よって何者も、神から人間に与えられたこの権利を奪うことはできない。そのように定めた上で憲法は、イラン・イスラーム共和国の統治権力は立法権、行政権および司法権からなり、相互に独立するこれらの三権はいずれも最高指導者の導きのもとに、憲法の諸原則に基づき行使されることを定めている。
最高指導者
イラン・イスラーム共和国の最高指導者は、「宗教的かつ政治的」な統治権を有する(憲法第107条)。初代最高指導者は、カリスマ的な革命の指導者ホメイニー師が努めたが、ホメイニー師の亡き後、最高指導者は国民の直接投票により選ばれる専門家会議メンバーにより決定されることになっている。 初代最高指導者であるホメイニー師が1989年6月に逝去すると、当時大統領を務めていたアリー・ハーメネイー師が、専門家会議の決定により最高指導者に就任した。
(1) 最高指導者に求められる資質
- イスラーム法学上の様々な問題にまつわる法判断に必要とされる学識
- イスラーム共同体を導くのに必要とされる公正さと敬虔さ
- 指導者に必要とされる適切な政治的・社会的洞察力、慎重さ、勇気、権威、国家運営能力
(2) 最高指導者の権限
- 体制利益判別評議会との協議をふまえたイラン・イスラーム共和国体制の施政方針の決定
- 体制の施政方針の適正な遂行の監督
- 国民投票の実施宣言
- 統帥権
- 宣戦布告、和平の受諾、軍の動員
- 以下の者の任命、解任、辞任の受理
- 監督者評議会メンバーのイスラーム法学者6名
- 司法長官
- イラン国営放送総裁
- 全軍統合参謀長
- イスラーム革命防衛隊総司令官
- 国軍及び治安維持軍の総司令官
- 三権間の対立の解消と調整
- 通常の方法では解決が不可能な込み入った問題の体制利益判別評議会を通じた解決
- 国民により選ばれた大統領の認証
- 最高裁判所が大統領による違反行為を認定した場合、あるいは国会が大統領は不適格との決定を下した場合、これに基づく大統領の罷免
- 司法長官の推薦を受けての恩赦および減刑の実施
立法府
イラン・イスラーム共和国において、立法権は国民による直接投票で選出された議員から構成される国会により行使される。憲法はまた、「非常に重要な経済的、政治的、社会的、文化的問題については」、国民投票により立法権が行使されることもあることを定めている。国民投票は、国会議員全員の3分の2の承認を得て実施される。
(1) 国会の構成と権限
国会議員の任期は4年である。憲法は国会の定数を270名と定めているが、定数は10年ごとに見直し、「最大20名まで」増員することが認められている。この規定に基づき、2000年に実施された第6期国会選挙から、国会議員の定数は290名に増員された。
イラン・イスラーム共和国憲法は宗教少数派にも合計5議席を割り当てており、ゾロアスター教徒は1名、ユダヤ教徒も1名、アッシリア系およびカルデア系キリスト教徒はあわせて1名、南部及び北部のアルメニア人キリスト教徒はそれぞれ1名の議員を選出することになっている。
国会は、イスラーム教の原則及び憲法に違反しない範囲で、あらゆる問題に関わる法律を審議・制定できることになっている。政府提出の法案は閣議決定後、議会に送付される。一方、議員15名以上の賛同があれば、法案を上程することができる。
国会はまた、大統領が指名した閣僚に対する信任投票を行う。信任には投票総数の過半数の賛成が必要とされる。国会は閣僚を喚問する権限も有し、喚問動議は最低10名の議員の署名により上程される。動議の対象となった閣僚による答弁次第では、信任投票が実施される。この投票で信任が得られなかった場合、閣僚は免職となる。
憲法第90条は、国会に「三権による権限の執行方法に対する苦情」を調査し、回答を提示することを義務付けている。国会では憲法第90条委員会を設置し、このような問題に対処している。
(2) 監督者評議会による立法の監督
国会が可決する法律がイスラームの原則に適っているか否かは、監督者評議会が判定することになっている。監督者評議会の設置は憲法第91条に定められており、そのメンバーは「公正かつ時代の要請及び問題点に精通するイスラーム法学者6名(最高指導者が任命)」と「法律の各分野に精通する法律学者6名(最高指導者が任命する司法長官が指名し、国会が承認)」から構成される。法案がイスラームの原則に違反しないとの認定は、イスラーム法学者の過半数により、また、法案が憲法に違反しないとの認定は、監督者評議会メンバー全員の過半数により行われる。
憲法の解釈は監督者評議会の権限に属し、監督者評議会メンバーの4分の3の賛成により、解釈が決定される(憲法第98条)。
(3) 体制利益判別評議会による裁定
国会で可決された法案を、監督者評議会が承認せず、その法案をめぐる国会と監督者評議会の間の対立が解消されない場合、法案は「体制の利益」という観点から最終的な判断を下す権限を有する体制利益判別評議会に送られる。1988年2月に設置された体制利益判別評議会のメンバーは、最高指導者が任命する。
行政府
イラン・イスラーム共和国において、大統領は最高指導者に次ぐ第2の権力者である。大統領の任期は4年であり、継続的な再選は1回に限り許される(第114条)。
(1) 大統領に求められる資質
大統領は、「宗教的及び政治的に優れた人格を有する卓越した人物」でなければならず、さらに、「生粋のイラン人でイラン国籍を持ち、管理能力があり慎重で、評判がよく正直かつ敬虔で、イスラーム共和国の原則と国教を信じ、これに忠実である者」でなければなない(憲法第115条)。
(2) 大統領の罷免
国会議員の3分の1以上が大統領の喚問決議を行った場合、大統領は1ヵ月以内に議会に出席し、問題に関する答弁を行う。その後3分の2以上の議員が大統領を無能と判断した場合、国会はその理由を最高指導者に通告する。最高指導者はこの通告を受けて、大統領を罷免する権限を持つ。最高裁判所が大統領による違反行為を認定した場合にも、最高指導者はこの認定に基づき、大統領を罷免する権限を有す。
司法府
イラン・イスラーム共和国において、司法権内で最高の地位を占める司法長官は最高指導者により任命される。司法長官は「公正で司法に通暁し、管理能力を有しており、かつ有能な」イスラーム法学者であることが求められ、その任期は5年である。
司法府の傘下には、最高裁判所、検察庁、軍事法廷、行政裁判所、各州司法局が置かれる。また、法律の適切な施行を監督する機関として、司法府の傘下には全国監察庁が設置されている。
<注>
本稿は、坂梨祥「イラン・イスラーム共和国」松本弘編『中東・イスラーム諸国 民主化ハンドブック2014 第1巻 中東編』人間文化研究機構「イスラーム地域研究」東京大学拠点, 2015, pp. 37-54. を基にしている。
<資料>
大統領選挙法
https://www.shora-gc.ir/fa/news/2952/قانون-انتخابات-ریاست-جمهوری-اسلامی-ایران
国会選挙法
https://www.shora-gc.ir/fa/news/5730/قانون-انتخابات-مجلس-شورای-اسلامی
イラン/最近の政治変化
1979年の革命から現在まで続くイランのイスラーム共和制下では、国家元首である最高指導者をはじめとするイスラーム法学者が軍や司法府など国家の治安機構全てを掌握している。すなわち、国家に対する抗議行動には容赦のない弾圧が待ち受けている。それにもかかわらず、イランではこれまで幾度も大規模な抗議運動が発生してきた。
革命後最大規模の抗議運動と言われているのが、2009年6月第10期大統領選挙後の不正選挙を訴えるデモである。アフマディーネジャードの再選が報じられた後、落選候補であるムーサビー(元首相)、キャッロビー(元国会議長)の選挙陣営が結果を認めず、彼らの支持者数千人が首都テヘランや主要都市においてデモに参加した。だが、デモの要求(選挙のやり直し)は認められず、体制による弾圧で幕を閉じた。デモを扇動した罪でムーサビー、キャッロビーは逮捕され、自宅軟禁に置かれ政界から遠ざけられた。さらに彼らを支持する主要政治家も逮捕の対象となり、次回以降の選挙で立候補資格を剥奪されるケースが相次いだ。
直近の抗議運動としては、2019年11月に発生したガソリン値上げに対するデモが挙げられる。これは2009年とは対照的に、指導者が不在で、動員力に欠けるものの、銀行の焼き討ちなど暴力的な方法で抗議がなされた。治安部隊との衝突も激しく、国際人権団体アムネスティの発表によると抗議運動初期の11月15日~18日だけで死者数300、負傷者数千人に上るとされる。デモ発生を受けて体制は、デモ拡大を抑制するために、11月16日から1週間~10日にわたりイラン全国のインターネット接続を遮断した。
これらの抗議運動は、大多数の国民が現体制に不満を抱いていることを象徴するものである。一方で、体制側も国民が体制を支持していることを国内外に示すために、大衆動員を行ってきた。大衆動員のために体制が使うスローガンは主に「反米」、「反イスラエル」である。すなわち、イスラーム共和制を批判する米国やイスラエルによる体制転覆という「陰謀」を阻止するために、国民が体制を支持していることを示す必要があるというわけである。例えば、毎年革命記念日(2月11日)や在テヘラン米国大使館人質事件(11月4日)などで反米デモが扇動されてきた。さらに選挙も体制への信任投票と位置づけられ、最高指導者をはじめとする体制指導部は、選挙参加を強く呼びかけてきた。また2020年1月イラン革命防衛隊ゴッツ部隊の司令官であったガーセム・ソレイマーニーが米国によりイラクで殺害される事件が発生した後、テヘラン、コム、ケルマーンで国葬が行われ、革命記念日以上の国民が参加したとされる。このように官製の(ただしソレイマーニーの国葬は自発的参加者も多い)大衆動員に参加する国民が実際に体制を支持しているかは定かではないが、少なくともイランの体制指導部は体制が多くの国民に支持されていることを装うことに重要な意義を見出している、と言える。
イラン/選挙
イランでは1979年2月に革命が達成されて以降、大統領(任期4年)、国会議員(同4年)、及び専門家会議メンバー(同8年)を選ぶ選挙が定期的に行われてきている。国民投票もこれまで3回実施されており、1度目の国民投票では革命後の新体制の名称が問われ、2度目と3度目の国民投票ではそれぞれ、新憲法と改正憲法の承認が問われた。1999年には初めて、地方評議会(任期4年)選挙も実施された。
選挙権
今日のイランでは、選挙権は18歳以上の男女に与えられている。革命当初、選挙権は16歳以上の男女に与えられ、その後選挙権年齢は一時15歳まで引き下げられたが、2007年1月2日選挙権年齢は15歳から18歳に引き上げられた。
立候補資格審査
今日のイランで選挙に立候補するためには、立候補の資格審査を通過しなければならない。大統領選挙と専門家会議選挙については、立候補の資格審査は監督者評議会が行っている。国会選挙の立候補資格審査は、まず選挙区ごとに設置される選挙実行委員会(内務省傘下の選挙本部の下に設置)が実施し、次いで監督者評議会が任命する州選挙監督委員会が実施する。選挙実行委員会の審査結果に不服の者は州選挙監督委員会に、州選挙監督委員会の審査結果に不服の者は監督者評議会に対し異議を申し立て、再審査を申請することができる。監督者評議会が再審査の実施後に行う最終結果発表によって、全立候補者が確定する。 確定した立候補者の名簿は内務省が発表する。
大統領選挙
イランではこれまでに、合計12回の大統領選挙が行われてきた。1980年の第1期大統領選挙で選出されたバニーサドルは、1981年6月に国会より弾劾決議を受け、罷免された。これを受けて翌7月には第2期大統領選挙が行われ、バニーサドル大統領の下で首相を務めていたラジャーイーが当選した。しかしラジャーイー大統領は1981年8月末、大統領に就任して2週間あまりでバーホナル首相とともに暗殺され、これを受けて同年10月に実施された第3期大統領選挙ではハーメネイー師が当選し、第3代大統領に就任した。これ以降、大統領選挙は定期的に4年ごとに実施され、現ロウハーニー師まで5名の大統領は皆連続2期8年を務めてきている。
期 | 年 | 月 | 有権者数 | 投票総数 | 投票率 | 当選者 | 得票数 | 得票率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 1980 | 1 | 20,993,643 | 14,152,887 | 67.42 | アボルハサン・バニーサドル | 10,709,330 | 75.67 |
2 | 1981 | 7 | 22,687,017 | 14,573,803 | 64.24 | ムハンマド・アリー・ラジャーイー | 13,001,761 | 89.21 |
3 | 1981 | 10 | 22,687,017 | 16,847,717 | 74.26 | アリー・ハーメネイー | 16,003,242 | 94.99 |
4 | 1985 | 8 | 25,993,802 | 14,238,587 | 54.78 | 〃 | 12,203,870 | 85.71 |
5 | 1989 | 7 | 30,139,598 | 16,452,677 | 54.59 | ハーシェミー・ラフサンジャーニー | 15,550,528 | 94.52 |
6 | 1993 | 6 | 33,156,055 | 16,796,787 | 50.66 | 〃 | 10,566,499 | 62.91 |
7 | 1997 | 5 | 36,466,487 | 29,145,754 | 79.92 | モハンマド・ハータミー | 20,138,784 | 69.10 |
8 | 2001 | 6 | 42,170,230 | 28,081,930 | 66.59 | 〃 | 21,654,320 | 77.11 |
9(第1回) | 2005 | 6 | 46,786,418 | 29,400,857 | 62.84 | (決着がつかず決選投票へ) | - | - |
9(第2回) | 2005 | 6 | 46,786,418 | 27,958,931 | 59.76 | マフムード・アフマディーネジャード | 17,248,782 | 61.69 |
10 | 2009 | 6 | 46,199,997 | 39,371,214 | 85.22 | 〃 | 24,527,516 | 62.30 |
11 | 2013 | 6 | 50,483,192 | 36,821,538 | 72.94 | ハサン・ロウハーニー | 18,613,329 | 50.55 |
12 | 2017 | 5 | 56,410,234 | 41,366,085 | 73.33 | 〃 | 23,636,652 | 57.14 |
出所: Iran data portal (https://irandataportal.syr.edu/presidential-elections)をもとに作成
第9期大統領選挙
2005年6月17日、第9期大統領選挙が行われた。この選挙における有権者は15歳以上の男女全てであり、有権者数は4678万6418人(2005年6月16日付IRNA報道)であった。
この選挙の立候補登録者は1014名(うち女性は89名)に上り(立候補登録期間:5月10~14日)、監督者評議会は5月15日から資格審査を開始し、5月22日、審査結果を発表した。監督者評議会により資格を認められたのは、アフマディーネジャード・テヘラン市長、ラーリージャーニー元国営放送総裁、レザーイー体制利益判別評議会書記(元革命防衛隊総司令官)、ガーリーバーフ前治安維持軍司令官、キャッルービー前国会議長と、ラフサンジャーニー体制利益判別評議会議長の6名であった。この時点で、改革派の有力候補とされていたモイーン前科学技術相は失格処分とされた。
これに対してハーメネイー最高指導者は、監督者評議会にモイーン前科学技術相とメフル・アリーザーデ副大統領(兼イラン・スポーツ連盟総裁)の立候補資格を再審査することを要請した。5月25日、監督者評議会は再審査の結果、同2名の立候補を承認したと発表し、立候補の有資格者は8名となった。しかし6月15日、レザーイー体制利益判別評議会書記は立候補を撤回したため、立候補者数は最終的に7名となった。
5月24日から6月15日までの選挙運動期間を経て、6月17日の朝8時には、予定通り投票が開始された。第1回投票ではいずれの候補者も、「投票総数の過半数」の票を獲得することができず、上位2位を占めたラフサンジャーニー候補とアフマディーネジャード候補の2名が、6月24日の決選投票に臨むことになった。決選投票の結果、アフマディーネジャード候補が1724万8782票を獲得し(得票率61.69%)、ラフサンジャーニー師に700万票近い大差をつけて当選した。
第10期大統領選挙
2009年6月12日、第10期大統領選挙が実施された。その日程は以下のとおり。
イラン第10期大統領選挙日程
- 5月5日~9日 立候補受付期間(今回よりインターネットで立候補登録を受付)
- 5月9日夜~14日 監督者評議会による立候補資格審査
- 5月15日~19日 監督者評議会による、立候補資格再審査
- 5月20日・21日 国家選挙本部、立候補最終確定者を発表
- 5月22日~6月10日 選挙運動期間(20日間)
- 6月12日 投票日
5月10日、ダーネシュジュウ国家選挙本部長は、立候補の届出を行った者は合計で475名に上ると発表した。この発表によれば、インターネット上の選挙登録受付用サイトで登録を行った者は3,272名に上り、その14.5%にあたる475名が選挙本部に実際に出向き、立候補届出の手続きを完了させた。
その後監督者評議会による立候補資格審査及び再審査を経て、5月20日、マフスーリー内務相は、アフマディーネジャード大統領、ムーサヴィー元首相、キャッルービー元国会議長、およびレザーイー体制利益判別評議会書記の4名が、大統領選挙の立候補資格を認められたと発表した。選挙当日、投票は、全国368の自治体に設置された合計4万8千ヶ所の投票所(うち1万4千ヶ所は「移動式」)で行われた。当初「朝8時から10時間」とされていた投票時間は、投票所によっては深夜12時まで延長された。
選挙の翌日である6月13日(土)の夕刻、マフスーリー内相は選挙結果を発表した。この発表によれば、今回の大統領選挙における投票総数は39,165,191票であり、投票率は85%に上った。マフスーリー内相が発表した開票結果は、以下のとおりである。ハーメネイー最高指導者は同13日、マフスーリー内相による選挙結果の発表を受けて直ちに声明を発表し、国民の選挙への広範な参加を讃え、アフマディーネジャード大統領の再選を祝福した。
立候補者 | 得票数 | 得票率 |
---|---|---|
アフマディーネジャード大統領 | 24,527,516 | 62.63 |
ムーサヴィー元首相 | 13,216,411 | 33.75 |
レザーイー体制利益判別評議会書記 | 678,240 | 1.73 |
キャッルービー元国会議長 | 333,635 | 0.85 |
無効票 | 409,389 | 1.04 |
出所:イラン学生通信(ISNA)、2009.6.13/イラン内務省HP(6月14日付発表最終結果、6月13日(土)午後4時発表)
第11期大統領選挙
第11期大統領選挙は2013年6月14日に実施された。 内務省発表の公式選挙結果は以下のとおりである。ロウハーニー候補が総投票数の50.71%に相当する1861万3329票を獲得したことから、同師がイランの第7代大統領として就任することが決まった。内務省の発表によれば、投票率は72.7%に上った。
立候補者 | 得票数 | 得票率(%) |
---|---|---|
ハサン・ロウハーニ | 18,613,329 | 50.71 |
モハンマド・バーゲル・ガーリーバーフ | 6,077,292 | 16.56 |
サイード・ジャリーリー | 4,168,946 | 11.36 |
モフセン・レザーイー | 3,884,412 | 10.58 |
アリー・アクバル・ヴェラーヤティー | 2,268,753 | 6.18 |
モハンマド・ガラズィー | 446,015 | 1.22 |
出所:イラン学生通信2013年6月15日、内務省発表の最終結果https://www.isna.ir/news/92032515237/(最終閲覧日2020年5月19日)
第12期大統領選挙
第12期大統領選挙は2017年5月19日に実施された。立候補登録者1,636人の中から、立候補資格を承認された候補者(立候補当時の肩書)は、モスタファー・ミールサリーム(元・文化・イスラーム指導相、1994-1997)、エスハーク・ジャハーンギーリー(現・第一副大統領、2013-)、ハサン・ロウハーニー(現・大統領、2013-)、エブラーヒーム・ライースィー(前・検事総長、2014-2016)、モハンマドバーゲル・ガーリーバーフ(現・テヘラン市長、2005-2017)モスタファー・ハーシェミータバー(元・副大統領、1994-2001)の6名であった。しかし、ガーリーバーフが5月15日にライースィー支持を、ジャハーンギーリーが5月16日にロウハーニー支持をそれぞれ表明し、撤退した。選挙の結果、ロウハーニーが23,636,652票で当選。2位のライースィーは15,835,794票であった。惜敗率66.99%という差でライースィーが2位落選となったが、下表のように州によってはライースィーの方が得票数が多い、僅差で敗戦となった州もあった。
州 | ロウハーニー | ライースィー | 惜敗率(%) | |
---|---|---|---|---|
1 | コム | 219,443 | 588,557 | |
2 | 南ホラーサーン | 159,433 | 301,976 | |
3 | ホラーサーン・ラザヴィー | 1,422,110 | 1,885,838 | |
4 | 北ホラーサーン | 231,313 | 272,697 | |
5 | ザンジャーン | 259,981 | 294,485 | |
6 | セムナーン | 182,279 | 200,658 | |
7 | マルキャズィー | 376,905 | 377,051 | |
8 | コフギールーイェ・ヴァ・ボイラフマド | 183,941 | 176,140 | 95.76 |
9 | ハマダーン | 418,256 | 383,285 | 91.64 |
10 | ロレスターン | 455,277 | 363,300 | 79.80 |
11 | チャハールマハール・ヴァ・バフティヤーリー | 270,619 | 213,608 | 78.93 |
12 | フーゼスターン | 1,162,954 | 896,184 | 77.06 |
13 | ホルムズガーン | 480,743 | 370,359 | 77.04 |
14 | ガズヴィン | 395,911 | 303,469 | 76.65 |
15 | エスファハーン | 1,391,233 | 1,038,535 | 74.65 |
16 | イーラーム | 188,925 | 133,023 | 70.41 |
17 | ブーシェフル | 328,806 | 223,278 | 67.91 |
18 | ケルマーン | 242,540 | 154,163 | 63.56 |
19 | アルダビール | 412,735 | 261,056 | 63.25 |
20 | ファールス | 1,500,000 | 900,000 | 60.00 |
21 | ゴレスターン | 610,974 | 358,108 | 58.61 |
22 | マーザンダラーン | 1,256,362 | 726,478 | 57.82 |
23 | 東アゼルバイジャン | 1,284,111 | 661,627 | 51.52 |
24 | ヤズド | 402,995 | 206,514 | 51.24 |
25 | アルボルズ | 832,050 | 390,488 | 46.93 |
26 | 西アゼルバイジャン | 1,030,101 | 473,785 | 45.99 |
27 | ケルマーンシャー | 699,654 | 313,894 | 44.86 |
28 | テヘラン | 4,388,012 | 1,918,116 | 43.71 |
29 | ギーラーン | 1,043,285 | 442,728 | 42.44 |
30 | スィースターン・ヴァ・バローチェスターン | 878,398 | 313,985 | 35.75 |
31 | クルデスターン | 467,700 | 155,036 | 33.15 |
出所:『エッテラーアート』2017年5月24日
国会選挙
イランにおける国会選挙は、1980年3月に第1回選挙が行われて以降、定期的に4年ごとに実施されてきている。選挙区数は当初193であったものが1992年の第4期国会選挙で196に増え、2000年に実施された第6期国会選挙では定数が270から290に引き上げられるのに伴い、選挙区数も196から207に増えた。選出議員の数は、選挙区によって異なる。そのうち5議席は宗教的少数派に割り当てられている。第1~3期までは絶対過半数を獲得しなければ第1回投票では当選できないとされていたが、 第4期から3分の1以上に緩和された。
イランの国会選挙は必ずしも政党単位では戦われておらず、有権者は各選挙区に割り当てられた議席数分の候補者の名前を、投票用紙に記入することになっている(たとえばコム選挙区には3議席が割り当てられているため、コム選挙区の有権者は投票用紙に3名の候補者の名前を記入する)。各政治団体はそれぞれが「推薦候補者リスト」を作成し、有権者に配布するが、一人の候補者が複数の団体の推薦を受け、同一候補者の氏名が複数のリストに掲載される場合もある。このような理由から、選挙結果は政治団体ごとの得票数というよりは、革命初期からの大まかな対立軸である「右派」と「左派」の獲得議席数に、また、特に第6期国会選挙以降、「保守派(原理派)」系候補と「改革派」系候補の議席数を中心に、報じられることが多かった。
第7期国会選挙
2004年2月20日に実施された第7期国会選挙では、監督者評議会が改革派系の有力議員を軒並み失格処分とし、その結果保守派勢力が圧勝した。
2004年1月11日、監督者評議会は第7期国会議員立候補登録者8157名のうち、83名の現職議員を含む3605名を失格処分とした。これに先立つ1月3日には、内務省傘下の選挙実行委員会が、立候補登録者の「92.88%」の立候補資格を認めていたため、監督者評議会独自の判断に基づく大量失格処分には、非難の嵐が巻き起こった。
これを受けてハーメネイー最高指導者は監督者評議会に立候補資格の再審査を命じ、その結果監督者評議会は、当初失格処分とした申請者のうち1160名の資格を承認した。しかし1回目の審査で失格とされた(改革派系)現職議員の大半は、結局立候補を認められなかった。
これに対してハーメネイー師は再び、監督者評議会に対し再審査を命じるが、最終的に立候補が認められたのは5625名であり、現職議員80名を含む約2500名は失格となった。これを受けて、12名の現職国会議員を含む888名の立候補登録者が、立候補は認められながら出馬を辞退し、選挙をボイコットすることを発表した。
2月20日の投票は、改革派の最大政党イスラーム・イラン参加戦線(IIPF)がボイコットを維持する中行われ、投票率はイラン全土で50.57%、首都テヘランでは25%と低迷した。第1回投票において投票総数の4分の1以上の獲得により確定した議席数は、保守派154議席、改革派39議席、無所属31議席であった。宗教少数派に割り当てられた5議席も確定した。
5月7日に行われた第2回投票では、さらに57議席が確定した(第1回投票の結果を監督者評議会が承認しなかった4議席の投票は後日に持ち越された)。第2回投票では保守派が40議席、改革派が8議席を獲得し、(残りは無所属)、第7期国会において保守派勢力は「少なくとも」194議席を、改革派勢力は47議席を占めることになった。
5月27日、第7期国会が召集された。第7期国会議長には、テヘラン選挙区で888,276票を獲得してトップ当選を果たしたハッダード・アーデルが選出された。
第8期国会選挙
2008年3月14日、第8期国会選挙が実施された。選挙の立候補登録は1月5日に開始され、11日に締め切られた。3月9日の監督者評議会の発表によれば、立候補資格審査の結果、全7597名の立候補登録者のうち、4755人(約6割)が立候補を認められた。3月14日の投票は、朝8時に開始され、投票時間は夜11時まで延長された。
4月6日に行われた内務省の発表によれば、第8期国会選挙の投票率は60%と、前回選挙時の51%に比べて上昇した。立候補者は合計3863名、うち308名は女性であったが、このうち第1回投票で当選が確定したのは209名(うち83名が現職、5名は女性)であった。第2回投票へは、残る81議席の2倍の人数である162名がコマを進め、4月25日には53の選挙区で、第2回投票が実施された。第2回投票の投票率は、「26%以上」と発表された。
第8期国会選挙において、保守派(原理派)勢力は「統一戦線」なるグループを立ち上げ、ともに選挙戦を戦おうとした。しかし選挙直前になり、アフマディーネジャード大統領に対してより批判的な「包括連合」なるグループが統一戦線から離脱し、独自の候補者リストの作成をこころみた。しかし結局のところ、統一戦線リストと包括連合リストには重複も多く(第1回投票では統一戦線と包括連合の共通候補が40議席近くを獲得した)、また、包括連合と改革派のリストの間にも重複が見られた(包括連合と改革派の共通候補は第1回投票で7議席を獲得)。選挙結果の確定後、イラン国内メディアは、最終的には保守派が「200議席近く」、改革派が「45議席程度」を獲得、残りは無所属の候補が獲得したと報じた。
5月27日、第8期国会が召集され、翌28日、コムでトップ当選を果たした(239,436票を獲得)アリー・ラーリージャーニーが、国会議長に就任した。
第9期国会選挙
第9期国会選挙は、2012年3月2日に実施された。 政府の発表によれば、今回の選挙の有権者数は48,288,799名であり、全国47,665ヵ所に投票所が設置され、投票が行われた。立候補登録者数は5,395人であり、うち女性立候補者数は260人であった。現職議員290人のうち、再選を目指して立候補した議員の数は260人に上った。
立候補登録を行った候補者のうち、内務省による立候補資格審査を通過した者は3,703人、監督者評議会による資格審査を通過した者は3,444人であった。選挙後に内務省が発表した今回の選挙の投票率は64.20%に上り、選挙区内の総投票数の4分の1以上の得票により第1回投票で確定した議席数は、全290議席中225議席に上った。
5月4日に、3月2日に実施された第1回投票では確定しなかった65議席をめぐる決選投票が行われ、残り65議席が確定した。
しかしその後5月28日、監督者評議会は第2回投票で確定した議席のうち2議席(イーラーム州とハマダーン州のそれぞれ1議席)に関し、選挙結果は無効であると判断した。監督者評議会は4月5日には、ラームサルとダマーヴァンド選挙区の結果を「無効」と判断しており、その結果第9期国会は、(定数の290議席より4議席少ない)286議席でスタートすることになった。
第9期国会選挙においては、保守本流勢力により構成される「統一戦線」と、アフマディーネジャード大統領により近い(しかし大統領の腹心であるマシャーイー大統領執務室長には批判的な)「永続戦線」が別々のリストを作成し、選挙戦を戦った。選挙の結果、統一戦線リストからは126名が当選を果たし、 統一戦線が第9期国会の最大会派を構成することになった。
第10期国会選挙
第10期国会選挙の第1回投票は2016年2月26日に実施された。有権者数は54,915,024人であり、投票率は61.64%であった。2016年4月29日に実施された第2回投票では残り68議席が136人によって競われた。第1回投票でテヘラン選挙区30人全員が決まったのは初めてである。30人全員「希望リスト」と呼ばれるロウハーニー大統領の政策、特に2015年の核合意を支持する改革派系リストから当選した。対して、第9期の現職議員(ハッダード・アーデルを筆頭)とする保守派系のリスト30人は全員落選する結果となった。国会議長選挙では「希望リスト」の筆頭候補であったアーレフが現職の保守穏健派ラリージャニー(コム選挙区から選出)に挑んだが、ラーリージャーニーの再選に終わった。
第11期国会選挙
第11期国会選挙の登録期間は2019年12月1日~8日であった。現国会議長のラーリージャーニー、第10期国会の改革派派閥トップであるアーレフなど有力者が登録しなかった。16,033人登録し、うち800人が立候補を取り下げ、1,300人が内務省管轄下の選挙実施委員会によって失格になった。2020年1月12日、監督者評議会の発表によると7,148人が承認された。249人の現職議員が再選を目指し立候補登録したが90人失格になった。監督者評議会のキャドホダーイー報道官によると失格の主な理由は汚職とされる。
第1回投票は2020年2月21日に実施された。テヘラン選挙区では元テヘラン市長で革命防衛隊の空軍司令官であったガーリーバーフを筆頭とする保守派系リストから30人全員が当選する結果となった。投票率は、内務省の発表ではテヘランではわずか25.4%、全国平均でも42.57%にとどまり、過去最低を記録した。第2回投票(残り11議席)はもともと2020年4月に予定されていたが、感染症の影響で2020年9月11日に延期された。
2020年5月28日に実施された国会議長選挙では、ガーリーバーフが267票中230票を獲得し、他2人の候補を寄せ付けず、圧勝した。第一副議長にアミールホセイン・ガーゼィーザーデ・ハーシェミー(9期議員)が208票、第二副議長にはアリー・ニクザード(アフマディーネジャード政権期の官僚)が196票で選ばれた。
地方評議会選挙
地方評議会選挙は1999年2月に導入され、この選挙を通じ、4年ごとに全国の市町村の評議会メンバーが選出されている。
第3期地方評議会議選挙
2006年12月15日、第4期専門家会議選挙と同日に、第3期地方評議会選挙が実施された。この選挙ではアフマディーネジャード大統領を支持する勢力が独自の候補者リストを作成し、投票に臨んだが、思うように票を伸ばすことができなかった。たとえばテヘラン市評議会では、アフマディーネジャード大統領支持派は定数15議席のうち2議席しか確保できなかった。テヘラン市評議会では結局、「改革派」勢力が4議席を獲得し、残り8議席は「原理派大連合」(アフマディーネジャード大統領支持派以外の「保守派(原理派)」勢力)が獲得した(残り1名は無所属)。
第4期地方評議会議選挙
地方評議会の任期は4年であり、第4期地方評議会選挙は予定では、2010年末から2011年初め頃に実施される予定であった。しかし選挙にかかる経費節減のため、第4期地方評議会選挙は第11期大統領選挙と同日に実施すべきであるという案が出され、2010年7月に、この「選挙統一法案」が承認された。これを受けて第4期地方評議会選挙は、2013年に予定される第11期大統領選挙と同時に、2013年6月14日に実施されることになった。
専門家会議選挙
最高指導者を選出し、また、最高指導者による任務遂行が不可能になった場合にそれを見極める任務を持つ専門家会議の選挙は、1982年の第1期から2006年の第4期まで8年ごとに実施されてきた。第5期は2016年の第10期国会選挙と同日開催になった。選挙制度上、先述した3つの選挙と大きく異なるのは立候補資格である。ムジュタヒド(イジュテハードとよばれるイスラーム法解釈などができる能力と資格を持つ者)レベルのイスラーム法学者に限定される(第3条)。また大統領、官僚、国会議員、司法関係ポストに就く者の立候補規制もない。
実施日 | 有権者数 | 投票総数 | 投票率 | 議席数 | |
---|---|---|---|---|---|
第1期 | 1982.12.10 | 23277781 | 18013061 | 77.38 | 82 |
第2期 | 1990.10.8 | 31280084 | 11602613 | 37.09 | 83 |
第3期 | 1998.10.23 | 38550597 | 17857869 | 46.32 | 86 |
第4期 | 2006.12.15 | 46549242 | 28,321,270 | 60.84 | 86 |
第5期 | 2016.2.26 | 54,915,024 | 33,480,548 | 60.97 | 88 |
出所:イラン内務省
第4期専門家会議選挙
2006年12月15日、第4期専門家会議選挙が実施された。この選挙には493名が立候補登録を行ったが、監督者評議会による、筆記試験(イスラーム法学)を含む資格審査の結果、最終的には166名が、立候補資格を認められた。
この選挙の有権者数は4654万9242名であり、投票率は66%に上った。選挙の結果、「協会」リスト(テヘラン闘う聖職者協会とコム神学校教師協会の合同リスト)の推薦者が、全86議席中67議席を占めた。キャッルービー前国会議長が設立した国民信頼党の推薦を受けた候補は10名が当選し、「協会」と「国民信頼党」の双方から推薦を受けた候補は32名が当選した。
今回の選挙で最も多くの票を獲得したのは、2005年6月の大統領選挙ではアフマディーネジャード候補に大差で敗れたラフサンジャーニー体制利益判別評議会議長であった。ラフサンジャーニー師はテヘラン選挙区で156万票を獲得し、トップ当選を果たした(2位で当選したメシュキーニー師の得票数は84万票であった)。
第5期専門家会議選挙
2016年2月26日、第10期国会選挙と同日に開催された。801人の立候補登録者の中から166人が承認された。過去の選挙でも競争倍率は定数に対して約2倍と低い。また、定数と同じ人数しか残らない選挙区(州)もあるので競争性は低い。2016年は、西アゼルバイジャン(3議席)、アルダビール(2議席)、ブーシェフル(1議席)、北ホラーサーン(1議席)、セムナーン(1議席)、ホルムズガーン(1議席)がそれに該当する。失格者の中には初代最高指導者ホメイニー師の孫アフマド・ホメイニーも含まれていた。
選挙の結果、88議席中「テヘラン闘う聖職者協会」と「コム神学校教師協会」の合同リストの推薦者が64議席を占めた。現職大統領であるロウハーニーはテヘラン州から再選した(16議席中3位当選)。2017年の第11期大統領選挙に立候補したライースィーは南ホラーサーン州から圧倒的多数で再選した(得票率75%)。
<注>
本稿は、坂梨祥「イラン・イスラーム共和国」松本弘編『中東・イスラーム諸国 民主化ハンドブック2014 第1巻 中東編』人間文化研究機構「イスラーム地域研究」東京大学拠点, 2015, pp. 37-54. を最新のデータに更新したものである。
イラン/政党
2020年4月29日、イラン内務省は、新たに3政党を承認し、今日のイランにおいて認可を受け活動している政治結社の数は118(活動範囲全国レベル87、州レベル31)になったことを発表した。しかしこれらの政治組織は、必ずしも「党」を名乗るものばかりではなく、「協会」、「結社」、「集団」、「同盟」、「組織」、「機構」など様々な名称を採用している。
イラン・イスラーム共和国の憲法第26条は、「政党、協会、政治団体、職能団体、イスラーム協会、および認定された宗教少数派の協会」の結成を認めており、1981年8月には国会が、「政党・結社活動法」(正式名称は、「政党・協会・政治団体・職能団体・イスラーム協会・宗教少数派団体活動法」、以下、政党法)を可決している。
しかし1981年の政党法に基づき、初めて政党・結社に対する活動認可が出されたのは、1989年7月のことである。1980年代の前半、新体制の定着過程においては、革命実現のために1979年2月に設立されたイスラーム共和党(IRP)以外の政党は、徐々に解党処分に追い込まれるなど淘汰されていった。革命の過程では共に闘っていたイラン自由運動(党首は革命暫定政権首相のバーザルガーン)も、宗教指導者シャリーアトマダーリー師のムスリム人民共和党も、武装イスラーム組織モジャーヘディーネ・ハルク(MKO)も、トゥーデ党(共産党)も、1983年2月までには全て、段階的に排除された。その後1987年6月IRP幹部が「当初の目的(イスラーム共和制の確立)が達成された」と発表し、IRPは活動を停止した。 活動停止の一因には内部分裂があるとも指摘されている。
その後1989年7月には、1981年政党法に基づいて初めて、4団体(「闘う聖職者集団(MRM)」、「フェダーイーヤーネ・エスラーム協会」、「ムスリム作家芸術家協会」、「イラン・イスラーム共和国女性連盟」)が認可を受けた。これらの団体の設立申請書類の審査を行ったのは、1981年政党法の第10条に定められている、通称「第10条委員会」である。政党法第10条は、政党・結社の活動申請を審査し、またその活動を監督する委員会を内務省に設置すること、また、そのメンバーは、検察庁、司法最高評議会、内務省から1名ずつ、及び国会から2名の代表計5名で構成されることを定めている。
1989年7月に活動を開始して以降、第10条委員会は一貫して政党・結社の認可に関わっており、政党・結社の活動内容を不当と見なした場合には、当該政党に対し解党命令も下している。たとえば2010年4月、第10条委員会は、2009年6月の大統領選挙以降の混乱を「主導した」として、改革派の主要政党イスラーム・イラン参加戦線(IIPF)、及びイスラーム革命モジャーヘディーン機構(IRMO)を解党処分とした。
主要政党・政治団体
右派・保守派
闘う聖職者協会(JRM)
1977年、王制打倒を目指す聖職者たちにより結成。亡命中のホメイニー師の演説を、主にカセットテープなどを通じ、モスク、大学、バーザールなどに広め、様々なデモ・集会も組織し、革命の達成に重要な役割を果たす。結成時の中心的なメンバーは、組織の取りまとめに力を発揮したベヘシュティー師、および革命のイデオローグと呼ばれたモタッハリー師であり、他にもハーメネイー現最高指導者、ラフサンジャーニー師(元大統領、元体制利益判別評議会議長)、バーホナル師(ラジャーイー政権首相)、マフダヴィー・キャニー師、ナーテグヌーリー師などが結成メンバーに名を連ねた。JRMは今日、イスラーム連合協会、イスラーム・エンジニア協会、ゼイナブ協会などを「同傾向の」組織と位置づけ、これらの組織と密接な協力関係を維持しているが、内務省の認可は受けていない。事務総長は2018年5月からモスタファー・プールモハンマディー師(元内務大臣、法務大臣)が務める。
政党HP https://rohaniatmobarez.ir/
イスラーム連合協会
1960年代に結成され、バーザールを拠点としてホメイニーの反体制活動を支持するデモなどを組織する。1964年にホメイニーが逮捕・国外追放されて以降は地下活動を開始し、モタッハリー師らの支援を受けて、反体制活動を継続する。革命後はIRP内部で活動するが、87年のIRP解党後は独自の活動を継続し、今日も原理派勢力の重要な一角を成す。2019年2月にアサドッラー・バーダームチアーン(2期、8期国会議員)が新事務総長に選出された。機関紙『ショマー』を発行。
イスラーム・エンジニア協会
1988年結成。認可年1991年。事務局長はモハンマド・レザー・バーホナル(第8期国会副議長)が務め、アフマディーネジャード大統領もメンバーに名を連ねる。その他の有力メンバーは、モルテザー・ナバヴィー、アリー・ラーリージャーニー(第8、9、10期国会議長)、モハンマド・ジャヴァード・ラーリージャーニー、モフセン・ラフィークドゥースト、アリー・ナギー・ハームーシー(前イラン商工鉱会議所会頭)などがいる。今日では開発者連合の一角を構成している。
政党HP http://www.mohandesin.ir/
イスラーム革命献身者協会
2005年結成。その源流は、1979年月に結成されたイスラーム革命モジャーヘディーン機構の右派系勢力に求められると言われている。2017年9月事務局長ジャヴァード・アーメリーが務める。アフマディーネジャード元大統領と同じ「原理派」に属するが、2005年の第9期大統領選挙ではガーリーバーフ候補を支持しており、アフマディーネジャードに対しては批判的なスタンスを維持している。
イスラーム・イラン開発者連合(アーバードギャラーン)
革命の理想に忠実で、かつ「イスラーム的イラン」の開発・繁栄を実現する実務能力を有することを掲げる、保守派系政治団体の連合体。2003年の第2期地方評議会選挙に際して結成され、第2期地方評議会選挙及び翌2004年の第7期国会選挙で勝利を収め、2005年のアフマディーネジャード大統領誕生の素地を作った。
イスラーム革命永続戦線(パーイダーリー)
2011年7月に設立され2014年9月に内務省の認可を受ける。2009年に生じた大規模な不正選挙デモのような混乱を阻止し、革命の理想、イスラーム体制の安定を目指し設立されたとされる。モルテザー・アーガーテヘラーニーが現在まで事務局長を務める。2013年、2017年の大統領選挙ではそれぞれ現ロウハーニーの対抗候補を支持した。
政党HP:http://www.jebhepaydari.ir/main/
左派・改革派
闘う聖職者集団(MRM)
1988年に結成され、1989年7月に内務省の認可を受ける。JRMと袂を分かった「左派」系ウラマーたちにより結成された。ハータミー元大統領もメンバーの一人。初代事務総長は、2000年選出の第6期国会で議長を務めたキャッルービー師。その後2005年にキャッルービー師がMRMを脱退すると、同年6月、モハンマド・ムーサヴィー・ホイーニーハー師(1979年11月の在テヘラン米国大使館占拠事件を主導した学生達の精神的指導者)が新たな事務総長に選出された。
イラン・イスラーム革命モジャーヘディーン機構(IRMO)
1991年に設立され、同年認可を受ける。その源流は、王制打倒という目的のもと共闘していた7つのイスラーム主義組織が革命直後(1979年4月)に結成した、イスラーム革命モジャーヘディーン機構(86年解散)の左派系勢力に求められる。1994年から発行を開始した機関紙『アスレ・マー』は、MRMのホイーニーハー師が発行する日刊紙『サラーム』に並ぶ、左派(改革派)勢力のマウスピースとなった。第10期大統領選挙ではムーサヴィー元首相を支持したものの敗北し、選挙後にはベフザード・ナバヴィー及びモスタファー・タージザーデなどの主要メンバーが軒並み逮捕された。2010年4月、2009年6月の第9期大統領選挙後の混乱を扇動したとして、第10条委員会から解党命令が出された。
イスラーム・イラン参加戦線(IIPF)
1998年に、97年に大統領に選出されたハータミー師の選挙キャンペーンを支えた活動家たちにより設立される。その中心的なメンバーには、1979年11月の在イラン米国大使館占拠事件に関与した「イマームの路線を支持する学生たち」の元メンバーも含まれた。1999年認可。初代事務総長はハータミー前大統領の実弟であるモハンマド・レザー・ハータミーが務めた。2006年、第6期国会の外交・安全保障委員会委員長を務めたモフセン・ミールダーマーディが第2代事務局長に就任。しかしミールダーマーディは、2009年6月に実施された第10期大統領選挙後の混乱を扇動したとして、懲役6年(及び10年間政治活動禁止)の実刑判決を受け、IIPF自体に対しても、2010年4月、第10条委員会から解党命令が出された。
国民信頼(エッテマーデ・メッリー)党
2005年6月の第9期大統領選挙においてMRMの支持を得られず落選し、MRMと袂を分かったキャッルービー元国会議長により、同2005年に設立された。改革派を名乗りつつ、(IIPFなどの)「急進」改革派(「急進」とは、体制の枠組み自体を疑問視することを意味する)とは一線を画すと明言している。2008年の第8期国会選挙では改革派連合には加わらず、独自のリストを作成した。日刊紙『エッテマーデ・メッリー』紙を発行していたが、同紙は2009年8月、発行停止処分を受けた。
イスラーム労働党
1996年に、労働組合(「労働者の家」)の指導者たちにより設立。1999年認可。アリーレザー・マフジューブ(5、7-10期国会議員)が現在党首を務めている。ニュースサイトILNA(Iran Labor News Agency)を運営。
中道派・現実派
建設の奉仕者党
1996年1月、当時のラフサンジャーニー政権の閣僚ら16名が結成宣言を行った「建設に仕える者たち」を原型とする政党。この宣言では「建設に仕える者たち」が、同96年3月に予定される第5期国会選挙に積極的に関与していくことが明言された。その後、このグループの旗揚げに加わった現職大臣は身を引き、改めて「建設の奉仕者たち(カールゴザーラーン)」という名称が採用され、さらに、1999年8月に内務省の認可を受けるに際し、名称は「建設の奉仕者党」と改められた。建設の奉仕者党を構成するのはラフサンジャーニー政権時代の閣僚経験者を含むテクノクラートであり、党首は元テヘラン市長のゴラーム・ホセイン・キャルバースチーが務めている。 中央評議会メンバーの1人であるモハンマド・アトリヤーンファルは、2009年大統領選挙でムーサヴィー氏支持に回ったが、選挙後に「体制転覆を企てた」として逮捕された。
政党HP https://www.kargozaran.net/fa/
中庸発展党
1999年設立。党首はモハンマド・バーゲル・ノウバフト(ロウハーニー政権期副大統領)が務める。中心メンバーはノウバフトの他、アクバル・トルカーン元国防軍需相(第1期ラフサンジャーニー政権)、モルテザー・モハンマド・ハーン元経済財務相(第2期ラフサンジャーニー政権)など閣僚経験のあるテクノクラートが占める。 ロウハーニー現大統領を指導者とする。
イスラーム・イラン公正発展党
レザー・タラーイーニーク元国会議員が党首を務める。タラーイーニークは2006年の国会選挙では「包括連合」の旗上げに関わり、テヘラン選挙区から出馬したが、落選した。タラーイーニークは現在、体制利益判別評議会司法・評議会担当書記を務める。
<注>
本稿は、坂梨祥「イラン・イスラーム共和国」松本弘編『中東・イスラーム諸国 民主化ハンドブック2014 第1巻 中東編』人間文化研究機構「イスラーム地域研究」東京大学拠点, 2015, pp. 37-54. を最新のものに更新したものである。
<資料>
政党リストは以下の内務省HPからダウンロード可
https://www.moi.ir/Files/MOI/Files/9c/9c8af850-6540-4e22-8220-40dc8c779a9a.pdf
政党法第10条
https://rc.majlis.ir/fa/law/show/90226
リビア/現在の政治体制・政治制度
2011年の「アラブの春」にともなう内戦とカダフィ政権崩壊を経て、現在(2019年9月時点)のリビアでは議院内閣制が採用されている。その根拠は、「憲法宣言(Constitutional Declaration)」(2011年8月締結)および「リビア政治合意(Libyan Political Agreement)」(2015年12月締結)である。
リビア政治合意にもとづき、「国民合意政府(Government of National Accord)」が2016年2月に結成された。同政府は最高意思決定機関「執行評議会(Presidential Council)」と内閣からなる行政機関である。「執行評議会」は首相1名、副首相3名(東・西・南の地域から1名ずつ選出)、国務大臣2名で構成される。立法府はリビア東部のトブルクに拠点を置く「代表議会(House of Representatives)」が担う。また、「国家高等評議会(High Council of State)」は国民合意政府の諮問機関として、同政府が提出する法案や国際的合意に対して、法的拘束力のある意見を提示できる。
「憲法宣言」は内戦中の2011年8月3日、反体制派勢力である国民暫定評議会(National Transitional Congress)によって締結、同月10日に発表された。同宣言はいわば草案であり、修正後、国民投票によって3分の2以上の承認を得れば正式な憲法として制定される。
同宣言が締結されたときは、国民議会の設立後すみやかに憲法起草委員が任命され、正式な憲法の起草・制定が行われると見込まれていた。しかし、後述の通り憲法起草委員を選挙によって選ぶこととなり、またリビアの政治情勢が混乱したことから、2019年9月に至るまで正式な憲法は制定されていない。代わりに、国民議会や代表議会は「憲法宣言」を修正することで政治プロセスを進めてきた。
「憲法宣言」第1条には、リビアが民主国家であること、首都はトリポリであること、国教はイスラームであり、イスラーム法(シャリーア)が法制度の根源であるが、国家は非ムスリムにも信仰の自由を保障すること、公用語はアラビア語であることが定められている。また、「少数民族」という言葉は用いられず、「リビア社会の構成要素(components of the Libyan society)」として示され、アマージグ(ベルベル)、トゥーブ、トゥアレグに対して言語的・文化的権利を保障するとされている。
第4条には、国家は、政治的多元主義と多党制に基づく政治的民主制の確立に努め、権力の平和的・民主的交代を実現すると定められている。
第9条には、祖国の防衛、国家の団結の維持、文民統治・憲法・民主的制度の維持、市民の価値観の順守、地域・部族・氏族にもとづく対立との戦いは、全国民の義務であると定められている。
カッザーフィー政権期の法制度について、第35条では、既存の法律は修正・廃止されるまで、「憲法宣言」の内容と矛盾しない限りにおいて有効であると定められている。前政権で定められた法律における政治機構への言及は、国民暫定評議会や今後の移行政府に置き換えられる。また、カッザーフィー政権期の正式な国名「大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒーリーヤ国(Great Socialist People’s Libyan Arab Jamahiriya)」は、リビアに置き換えられる。
リビア/最近の政治変化
リビア政治合意と国民合意政府
「リビア政治合意」とは、2015年12月17日に締結された、統一政府を樹立してリビア国内の政治対立の調停と平和構築を進める和平案である。
2012年7月の選挙を経て誕生した国民議会は、2014年6月の代表議会設立に抵抗し、傘下の民兵組織を動員して代表議会を攻撃した。これにより国内対立が激化し、治安悪化やジハード主義組織の伸長につながったため、国連や欧米、周辺諸国が和平調停を進め、リビア政治合意締結を主導した。
この合意によって2016年1月に発足した国民合意政府は、2019年9月に至るまで「正式な政権」として国際的に承認されている。同政府は行政機関、代表議会は立法機関、国家高等評議会(前・国民議会)は国民合意政府の諮問機関と定められた。国民合意政府の首相および執行評議会議長は、発足以来ファーイズ・サッラージュが務めている。しかし、代表議会は国民合意政府の信任投票を行っておらず、東部のトブルクに拠点を置き、独自の内閣や中央銀行、石油公社を持ち、国民合意政府に対抗している。
次期大統領・議会選挙の展望
2017年頃から、リビアの統治機構の再編と政治・治安の安定化を進めるため、選挙を求める声が主に国外で高まるようになった。国民合意政府は発足以来リビア全土を統治したことはなく、政治機構も脆弱で、リビアの安定化を主導することは難しいとみられている。不安定なリビアが地中海を越える移民の玄関口となり、ジハード主義組織や武装勢力の拠点となり、治安悪化に伴う原油生産量の乱高下がグローバルな石油価格の変動要因となっている現状は、周辺国にとって極めて大きな脅威だと認識されている。
さらに、国民合意政府の任期の問題もある。リビア政治合意には、国民合意政府の任期は代表議会による信任決議から1年間であり、この間に憲法が制定されなければ、1年のみ延長が認められると明記されている。憲法が国民合意政府設立後2年以内に制定された場合は、その時点で任期が終了する。国民合意政府が最初の会合を行ったのは2016年1月6日であり、これを起点とすれば2018年1月6日で国民合意政府の任期は終了することになる。ただし、代表議会は国民合意政府の信任投票を行っていないため、国民合意政府の任期のカウントダウンはそもそも始まっていないというロジックも成り立つ。
2017年9月20日、国連リビア支援ミッション(United Nations Support Mission in Libya: UNSMIL)の代表ガッサーン・サラーマは、リビアを安定化させるための「アクション・プラン」を発表した。それは、①全土での国民対話の実施、②リビア政治合意の修正と国民合意政府の組織改革、③憲法制定のための国民投票、④大統領・議会選挙を行うための法制度の整備という4つの柱からなる。また、UNSMILは2017年末の時点で、リビアの移行期間は2018年で完了すると述べ、同年中に大統領選挙を予定していることを明らかにした。
2018年5月29日、フランス・パリにおいて、リビアの諸勢力を招いた会談が行われた。この会談で、遅くとも同年の12月10日までに大統領・議会選挙を行うこと、および9月16日までに憲法草案と選挙実施に必要となる法案を制定することで合意された。しかし、大統領制を導入するための準備は進まなかった。カッザーフィー政権崩壊後のリビアは議院内閣制を採用しており、大統領に付与される権限、大統領と軍、議会および内閣との関係、議会の規模などを取り決めるための法的枠組みは存在しない。また、国軍の最高指揮権や任命権、中央政府と地方政府の関係なども不透明なままであった。
これらを規定するのが憲法と選挙関連法案ということになるのだが、立法権を持つ代表議会は憲法制定のための国民投票に関する法案審議を何度も延期してきた。代表議会が選挙関連法案を採択しなければ、高等選挙委員会も選挙を実施することができず、選挙が2018年中に行われることはなかった。2019年2月16日のミュンヘン安全保障会議にて、サラーマUNSMIL代表は、大統領・議会選挙の実施は「2019年末が最も現実的だ」と述べた。そして、選挙プロセスを進めるために「国民対話」を行い、国内で対立する諸勢力の和平調停を行うと発表した。
ハリーファ・ハフタル
内線以降のリビアの政治プロセスに大きな影響を与えてきたのが、リビア東部を実効支配する軍事組織「リビア国民軍(Libyan National Army)」のハリーファ・ハフタル司令官である。
ハフタルは、カッザーフィーによる1969年のクーデターの同志であり、1986年にリビア・チャド紛争(1978〜1987年)の司令官となるが、敗戦しチャドにて投獄された。その後は米国に約20年間在住したが、2011年のリビア政変時に帰国し、反カッザーフィー勢力を軍事的に指揮して台頭した。2014年5月には、リビア東部にて軍事組織「リビア国民軍」を率い、国軍、部族勢力、民兵組織などの諸勢力と「尊厳作戦(Operation Dignity)」を立ち上げ、リビア国内のアルカーイダ系組織やISへの攻撃を開始した。また、2015年3月には代表議会の軍総司令官に就任した。
「リビア国民軍」はジハード主義組織に対して軍事的に対抗できるほぼ唯一の勢力であり、エジプトやUAE、サウジアラビアといった域内諸国だけでなく、欧米からも支援を受けた。しかし、ハフタルは2016年のリビア政治合意と国民合意政府設立を外国の内政干渉として批判し、代表議会の強硬派と連携して国民合意政府への協力を拒絶した。
「リビア国民軍」はリビア国内において国軍や警察を凌ぐ軍事力を有し、国民合意政府と同等かそれ以上の政治力を持つ。また、リビア東部地域を実効支配し、諸外国の支援を受けて支配圏を拡大している。2019年1月、「リビア国民軍」はリビア南西部に進軍し、地元の民兵組織などを掃討した。これにより、ハフタルの勢力圏は東部~南西部へと拡大され、主要な油田の大部分も同軍の支配下に入った。
トリポリ周辺での衝突
2019年4月4日、ハリーファ・ハフタルは傘下の「リビア国民軍」に対してトリポリへの進軍を命じ、同軍はリビアの東部と南西部からトリポリに迫った。これを国民合意政府傘下の軍や同政府を支援する民兵組織が迎え討ち、大規模な武力衝突が発生した。トリポリ周辺での両者の戦闘は2019年9月現在まで継続しており、出口は見えていない。WHOは7月15日時点で死者1,093人、負傷者5,752人、避難者10万人以上と報告した。さらに、「リビア国民軍」をUAE、サウジアラビア、エジプトが、国民合意政府を支援する民兵組織をトルコが支援しており、「代理戦争」の様相を呈している。
4月には国連主導の「国民対話会議」が予定されていたが、戦闘により中止を余儀なくされた。また、2019年中に予定されていた大統領・議会選挙の実施可能性も大きく損なわれた。従来からハフタルを支持してきたフランス、ロシア、米国(トランプ政権)もハフタルへの圧力を高めておらず、国連や欧米としての一致した対応は出ていない。サラーマUNSMIL代表は国連安保理にて、戦闘が短期的に収束する兆候はないとして、人道状況の悪化に警鐘を鳴らした。同時に、諸外国の軍事支援が戦況を激化させていると非難した。
国連リビア支援ミッション
国連リビア支援ミッション(United Nations Support Mission in Libya: UNSMIL)は内戦中の2011年9月に「国連安保理決議2009号」によって設立が承認された。その主な目的は以下の通りと定められている。
- 公共の安全および秩序を回復し、また法の支配を促進すること
- 包括的な政治的対話を行い、国民和解を促進し、また憲法起草と選挙プロセスを始めること
- 説明責任のある制度と公共サービスの回復強化を含む、国の権限を拡大すること
- 人権、特に脆弱な集団に属する者に対するものを促進し保護すること、および移行期司法を支援すること
- 初期の経済回復のために要求される迅速な措置を講じること
- 適切な場合には、他の多数の関係者および両関係者から要請される支援を調整すること
UNSMILはリビアの和平や国家建設に取り組み、全国・地方選挙、2016年リビア政治合意の締結、対立する諸勢力の調停、諸外国のリビア支援の調整などを行ってきた。しかし、米、露、仏といった国連安保理の常任理事国がリビアに対して独自の関与を続ける中で、UNSMILおよび国連はリビアの安定化に向けて実効的な施策を打ち出せていない。
2017年からUNSMIL代表の座についたレバノン人のガッサーン・サラーマはリビア安定化に向けた「アクション・プラン」を発表し、①全土での国民対話会議、②「リビア政治合意」の修正と国民合意政府の組織改革、③憲法制定のための国民投票、④大統領・議会選挙を行うための法制度の整備を進めようとした。しかし、エジプト、UAE、フランス、イタリアが国連との十分な調整を行わないままに独自の「和平会議」を開催したことで、国連主導の政治プロセスは阻害された。
さらに、2019年4月以降のトリポリ周辺での衝突を受けて国民対話会議や大統領・議会選挙が暗礁に乗り上げる中、UNSMILは多くの課題を抱えている。