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2019年1月18日

モロッコ/現在の政治体制・制度

現在の政治制度は立憲君主制である。現在の国王は、前国王ハサン二世の死去によって、1999年7月23日に即位したムハンマド六世である。

(1) 国王

モロッコの憲法第42条では、国王は「国家元首」であり、「国民統合の象徴」「国家の永続性を擁護する者」であると定められている。また、第41条では、「アミール・アル・ムーミニーン(信徒の指揮者)」と規定され、国民に対して精神的な面での権威も有している。

王位の継承については、憲法第43条で、原則として直系男子の長子相続が定められている。現在のハサン皇太子は、ムハンマド六世の長男である。

また皇太子が未成年で国王に即位するような事態が起こった場合は、国王が満18歳に達するまで、複数の構成員(議長を憲法裁判所裁判長がつとめ、首相、上下院議長、司法権高等評議会議長、ウラマー高等評議会事務局長、その他国王が任命した10名で構成)からなる摂政評議会が憲法改正を除いて、憲法で定められている国王の諸権利・諸権力を行使する(憲法第44条)。

国王は不可侵で神聖である(憲法第46条)と定められている。

国王は首相の任命権を持つ(憲法第47条)。但し、2011年の新憲法では、首相として任命されるのは、下院選挙で第一党となった政党から任命すると明記されている。

閣議の議長は国王である(憲法第48条)。

国王は、法律が採択され政府に送られてから30日以内に法律を公布する(憲法50条)。また、国王は、憲法第96条、97条および98条に従って、勅令によって、上下院両方またはいずれかを解散させることができる(憲法第51条)。

国王は、国民と議会に向けてメッセージを発することができる。メッセージは上下院それぞれで読まれ、いかなる議論の対象にもすることはできない(憲法第52条)。

国王は、国軍の最高司令官である(憲法第53条)。

国王は外国および国際機関に駐劄する大使に信任状を渡して派遣する。また、モロッコに駐劄する外国または国際機関の大使を信任する。条約への署名と批准をおこなう。ただし、国境に関する条約、通商条約、および国家財政に関する条約は、法律によって事前に承認がなければ、批准することはできない。また憲法の条項に触れる恐れのある条約は、憲法改定の後でなければ条約の批准はできない。(憲法第55条)

国王は、高等司法評議会の議長をつとめる。(憲法第56条)

国王は、高等司法評議会の司法官を任命する。(憲法第57条)

国王は、恩赦の権利を行使する。(憲法第58条)

国土の一体性が脅かされたとき、または立憲体制の機能を阻害する恐れのある出来事が起こった場合、国王は、首相、上下院議長、憲法評議会議長と協議し、国民にメッセージを発した後、勅令によって非常事態を宣言することができる。その場合、国王は領土の一体性の擁護、立憲諸機関の機能回復、国事の遂行に必要な措置をとることができる。

非常事態は議会の解散を伴わない。非常事態の終了は、発令と同じ手続きでおこなわれる。(憲法第59条)

(2) 立法権:議会

1963年の国会開設以来、時期によって一院制と二院制両方の制度が採用された。現在は、二院制である。

1963年に、下院と上院からなる二院制の国会が開設された。(下院議員は、4年ごとの直接普通選挙で選出。上院議員は、6年ごとの間接普通選挙で選出。3分の2は、地方議会の代表から、3分の1は商工会議所および労働組合の代表から選出。)

この議会の会期は、20か月継続した。その後1965年から、新憲法が採択される1970年までの5年間にわたって非常事態が続き、国会不在の時期が続いた。

1970年7月31日に改正された憲法では二院制は廃止され、任期6年の一院制となった。1972年に再度改正された憲法でも一院制は維持された。1972年の改正憲法では、直接選挙で3分の1、間接選挙で3分の2を選出することを第43条に明記した。この割合は、1980年の43条改正によって、直接選挙で3分の2、間接選挙で3分の1と変更された。しかし、モロッコ国内外は不安定な時期を迎え、1971年末から1977年10月まで議会は停止されている。

1977、1984年から始まる会期、そして1992年に憲法が改正された後の1993年から始まる会期でも一院制が維持された。

1996年9月13日に改正された憲法では、二院制が再度採用された。この改正された憲法では、法案が両院それぞれで審議されることが定められた。両院間で異なる審議結果となった場合、内閣は両院から同数の代表からなる委員会を設置し、法案の採択に努めなければならない。同委員会の設置したのちも、調整がつかない場合は、下院の審議結果が優先される。

2011年7月29日に公布された新憲法でも、二院制は維持されている。

下院議員は直接選挙で選ばれ、任期は5年。人数は法律によって定められることになっている(憲法62条)。上院議員は、間接選挙で選ばれ、任期は6年である。人数は90名から120名までと定められている(憲法63条)

議会の権限は、立法と政府の行為の監視である(憲法70条)。法案の発議権は、首相と議員の両方にあり、法案はまず下院事務局に提出される。しかし、国土の一体性、地域開発、社会に関する事項については、最初に上院事務局に提出される(憲法78条)  

(3) 行政権:政府

首相は任命されたのち、両院で施政方針演説をおこなう。首相の説明した方針は両院で議論され、下院で採決される(憲法第88条)。

内閣不信任案について、下院が提出する場合は、議員の少なくとも5分の1の議員の賛成が必要である。不信任案の決議には、下院議員の絶対過半数が賛成する必要がある(憲法第105条)。上院が提出する場合は、議員の少なくとも5分の1の賛成が必要であり、決議には絶対過半数の議員の賛成が必要である(憲法第106条)。

(4) 司法権:裁判所

 モロッコの憲法は第107条で、司法権は立法権および行政権から独立していると定めている。2011年の憲法改定では、「国王は司法権独立を保障する」という一文が加えられている。また、裁判官は罷免されない(憲法第108条)。

 裁判官の昇進や懲罰を監督する司法高等評議会の議長は国王で、構成員は以下の通りである。(憲法第115条)

  • 最高裁判所長官(議長代理)
  • 最高裁判所付き国王代理検事
  • 最高裁判所第一法廷主席判事
  • 高等裁判所判事から4名
  • 第一級法廷判事から6名(高等裁判所判事からの4名と第一級法廷判事からの6名の計10名には必ず女性が含まれなければならないとしている。)
  • 調停者
  • 国立人権評議会議長
  • 「能力、不偏性、誠実さを兼ね備え、司法の独立と権利の優越に資する人物」として国王が任命した5名。この5名の中に、国王高等ウラマー評議会事務局長が提案した人物1名を含む。
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2019年1月18日

モロッコ/最近の政治変化

(1) ムハンマド五世:調停役としての国王

1956年独立を達成したモロッコ最初の国王は、ムハンマド五位であった。彼はアラウィ一朝第15代君主として1927年11月18日に即位したが、政治の実権を回復したのは、モロッコ独立後である。

彼は王制の「調停役」としての役割を強調した国王であった。保護領政府統治下のモロッコで、独立運動にとってムハンマド五世の王位回復は「独立の象徴」であった。保護領政府に対する抵抗スローガン”Thawra al-Malik wa as-Sha’b(王と国民の革命)にみられるように亡命中の王が王位に復帰することが、モロッコの独立を意味した。

「調停者」としての国王を支えたのは、独立後に創設された軍と警察の、国王に対する絶対的忠誠であり、さらに省庁と軍の大臣・長官や高級官僚の人事権を首相ではなく、国王が一手に握ったことで、国王の権力はさらに強化された。

省庁のうちで、国王権力の強化に最も直接的に関与したのは内務省である。1956年3月20日発令の勅令で、「カーイド及び知事の任命、昇進、辞職、降格、懲戒、転勤はすべて勅令によって発令されることとする」と定め、内務省の官僚および内務省管轄の役人の人事は国王がおこなった。

さらにその内務省の活動を支えたのは、軍である。軍の活動は、内務省と連動して行われ、内務省の地方役人は、その地に駐屯する軍の分団を治安維持のために発動させることができた。軍の果たすべき役割は、防衛や治安維持だけにとどまらず、中央官僚や地方役人として行政に参加することも含まれていた。軍の編成実務の責任者は皇太子、そして国王が軍人事に関する最終的裁量権を持っている。

王制にとって潜在的な脅威であるイスラーム運動を監視することも重要な内務省の職務である。この監視は、内務省が宗教省や「公的なイスラーム」を代表するウラマー協会と協力しておこなった。

立憲君主制の準備段階として、モロッコ国家諮問会議(Le Conseil national consultatif marocain)が1956年8月3日の勅令によって設立されたが、この会議は三年間しか続かなかった。

なお、ムハンマド五世は宗教的な権威を示す「アミール・アル・ムーミニーン(信徒の指揮者)」の称号を、独立後も、破棄することはなかった。独立の可視的な象徴となったことで、彼は世俗と聖の両方を、つまり保護領統治以前から有していた「アミール・アル・ムーミニーン」と独立後の近代的な意味での国家の長という二つの機能を体現することとなった。後述するように、この聖俗両面での権威を、国王があわせもつ状況は、現在に至るまで続いており、イスラーム運動への対抗手段としても重要な役割を果たしている。

(2) ハサン二世:憲法改正と権力の分配

モロッコの政治的場を構成する諸集団の間の「調停役」としての役割を推進することで、聖・俗両方の最高権威者としての国王権力の強大化を進めたムハンマド五世の後を継いだハサン二世(1961-1999年)は、憲法改正という法的手段を利用した、権力の巧みな分配によって、国王権力の強化をはかった。

独立後のモロッコ最初の憲法は1962年に制定された。1962年のアブドゥッラー・イブラヒーム内閣解散後に誕生したこの憲法では、「権力分立」とはほど遠く、国王の手にあらゆる権力が集中していた。憲法の条文をみると、モロッコは民主社会的王制(第1条)であり、憲法にかなった方法で設立された機関を通して行使される主権を有するのは国民である(第2条)と明記されている。しかし、閣僚の人事権を有するのは国王(第24条)であった。

国王は「アミール・アル・ムーミニーン」、国民の最高代表者、国家統合の象徴、国家の存在と継続の守護者であった。また信仰の擁護者であり、憲法尊重の守護者でもあった。国王は市民・共同体・組織の権利と自由を守る責任を有し、国家独立を守り、国土防衛の保障者(第19条)でもあった。しかし、緊急事態の際、介入する権利が国王に保障されていた(第35条)。どのような状況が「非常事態」であるのか、いつまでが「非常事態」なのかを判断するのは国王であり、「憲法体制を正常に再び機能させるために(第35条)」国王は、事実上無期限に無制限の権力を発動することが可能であった。実際1965年、ハサン二世は、「このまま空虚な議論を続けさせれば、モロッコの民主主義、倫理的価値観、創造への意志が失われてしまう」ことを理由に、議会を停止している。

1962年憲法では、議会は二院制と定められた(第36条)。下院議員は普通選挙で、上院議員は農商工会議所や労働組合が選出した(第44、45条)。新法が国王によって発布される前には、議会の承認か国民投票による承認が必要とされ(第26、62、73、75条)、立法権は、憲法上は議会に属していたのだが、実際は国王が「助言」することが度々であった。この憲法の文言では、国王の手に行政権を委ね、国王の立法権は制限されていた。しかし、立法権に関しても「助言」という形で、国王が大きな影響力を有していたのである。

1970年の憲法改正によって、国王権力はさらに強化された。首相の行政権の行使は、例外的な場合に制限され、しかも国王のイニシアティブによるものとされた(第29条および第62条)。この改正で、国王の行政権が強化された。また二院制が一院制に改められた(第36条)。議員の任期は6年で、直接選挙によるものと、商工会議所や職能組合を通した間接選挙によるものという二種類の選出方法が定められたが、直接・間接選挙による選出の具体的な

割合は、憲法では定められていない(第43条)。この憲法改正の直後に議会選挙が実施されたが、再度憲法改正を実施することを理由に、1971年末には1970年に開始した会期の議会が停止されている。

1972年、二度目の憲法改正が行われた。この改正では「1962年憲法と1970年憲法に定められた中間的なところ」に議会を位置づけた。一院制のままであったが、3分の1の議員を直接選挙で、3分の2の議員を間接選挙で選出することを憲法に明記し(第43条、なおこの条文は1980年5月30日の国民投票で、3分の2を直接選挙で、3分の1を間接選挙での選出に変更)、二院制放棄を補完するものとした。行政権は国王と政府に与えられていたが、国王は立法案や政府計画について「新しい解釈」を要求することが可能であり(第66条)、この国王の要求を政府が拒否することは認められていなかった(第67条)。

首相を含む閣僚全員の人事権を国王が握っていることからも、議会が国王にコントロールされる機関であったことは明白である。さらに内閣不信任案の提出に必要な議員数は、1962年憲法では総議員の10分の1であったのが1972年憲法では4分の1に引き上げられた(第75条)。この改正で、政党が政府の政策に対して不信任案を提出することはほぼ不可能となった。

また1971年ラバト郊外のスヒラートの王宮で発生したクーデター、そして1972年に発生したウフキール将軍が首謀者とされるクーデターは、いずれも未遂に終わったものの、70年、72年の憲法改正への不信を象徴する事件であった。

1972年のクーデター未遂について、ウフキール将軍はハサン二世の乗る飛行機を襲撃した首謀者とされ、後に「自殺」したとされる。「反乱を企てた、あるいは反乱を起こす可能性のある」者の最期の近似例としては、1980年代サハラ問題で功績を挙げたアフマド・ドゥリーミー将軍が卓越した人気を得るようになった後、不可解な自動車事故で亡くなった事件がある。ドゥリーミー将軍の事件以後、軍の司令官級の人物は、国王のライバルとなる程に個人的に賞賛をうけることは事実上タブーとなった。

1970年代のモロッコは、二度のクーデター未遂を経験し、隣国アルジェリアとの関係も西サハラ問題をめぐって緊迫化した。また、大衆諸勢力全国連合(UNFP:Union nationale des forces populaires)内部の対立が1972年頃から表面化し、1975年にはUNFP から分裂した大衆諸勢力社会主義連合(USFP:Union socialistes des forces populaires)が党を結成したが、同年USFPの指導者の一人で、モロッコ全国学生連合(UNEM : l’Union nationale des étudiants du Maroc)、モロッコ労働組合(UMT: l’Union marocaine du travail)の指導的立場にもあったオマル・ベンジャルーンが暗殺されるなど、国内外の政治・社会状況は不安定なものとなった。

このような状況の中で、72年の憲法改正後の1972年4月30日に予定されていた議会選挙は延期され、結局実施されたのは1977年6月3日で、1971年末に停止された議会は、1977年10月に再開されるまで空白の期間が続いた。

前述したように、省庁のなかでも内務省は王制の番人とでもいうべき存在であったが、特にその役割が強調されるようになったのは、1979年イドリース・バスリーが内務大臣に就任してからである。首相は頻繁に交代し、様々な政党の出身者が就任したのに対して、バスリーは、1999年に現国王ムハンマド六世によって解任されるまで20年間にわたって内相の職にあり、西サハラ問題など、必ずしも内務省の管轄ではない重要な政策決定にも関わった。

1992年の改正では、国王が任命した首相による他の閣僚人事の提案を受けて、国王が任命するよう変更され(第24条)、1993年の内閣組閣に際してラムラーニー新首相に国王が実際に閣僚リストの提出を求めた。ただこの内閣の閣僚には国会議員はまったく含まれておらず、主権者であるはずの国民の意思が「憲法で定められた諸機関(第2条)」の代表的機関である国会を通じて政策に反映されるような状況とは程遠かった。

また「非常事態においても国会は解散されない」と明記された(第35条)。しかし、この憲法改正により新たに設置された憲法評議会の議長、首相、国会議長に諮ったのち、非常事態を宣言し、あらゆる必要な措置を国王自身がとる権限は何ら制限されていない。

1996年、一院制を二院制に変更するための憲法改正が国民投票で承認された。

1997年11月の選挙に続いて、大衆諸勢力社会主義連合(USFP:Union socialistes des forces populaires)党首アブドゥルラフマーン・アルユースフィーの首相任命は、左翼に権力を分配することで、近い将来の皇太子(現国王ムハンマド六世)の王位継承を円滑にする布石の一つであったとも考えられよう。 

以上、これまで四度に渡った憲法改正のうち最初の二度の改正によって、行政・立法両方の権限を国王に集中させたうえで、後の二度の改正で憲法評議会の設置や非常事態での国会維持という「譲歩」、二院制の復活をおこない、そして長年国王と敵対関係にあった左翼政党党首を首相に任命して、国王権力の維持に「有益な」形で権力分配をおこなったといえよう。

(3) ムハンマド六世:経済的発展と「民主化」

1999年7月23日に、ハサン二世の死去により、皇太子がムハンマド六世として36歳で即位した。軍のコーディネーターであった皇太子時代、大衆は概ね彼に親しみやすい印象を抱いていた。

ムハンマド六世が強調しようとした国王像は「リベラルな改革者」である。スピーチで、「立憲君主制を堅持し、複数政党制、自由経済、地方分権化、法の支配、人権尊重、個人の自由を推進する」と明言した。また「父ハサン二世のすすめてきた教育改革計画と連動させて雇用問題の改善に尽くす」ど、モロッコで最も深刻な社会問題の一つである失業問題にも言及した。このスピーチは、ハサン二世即位時のものに比較するとはるかに具体性があった。ハサン二世のスピーチでは、イスラームの擁護と領土保全についての国王の決意が述べられた後、国民の義務についてのみ言及されている。当時の諸社会問題の解決などはまったく触れられることはなかった。

政治面では、バスリーに代わってアブマド・ミダーウィーが内務大臣に任命された。バスリーの内相退任を世論は非常に歓迎した。実際、前述したようにバスリーは1979年から20年間内相を務め、モロッコの「治安維持」に大きな影響力をふるった人物であり、この退任はモロッコの政治展開を民主化の方向にひきよせる契機となった。

モロッコ王制を今後揺るがしかねないほどの国民の不満を生む可能性が最も高い問題は、ムハンマド六位があえてスピーチでも言及した失業問題であろう。

失業問題は、都市部では特に深刻である。ハサン二世の死の直前、1999年7月初めにも、ラバトで大学を卒業して失業している若者たちが職を求めて抗議行動をおこした。また、大学あるいは大学院を卒業したが職のない、高学歴の失業者たちは「高学歴失業者組合(L’Association nationale des chômeurs diplomés)」を結成した。このラバトでの抗議デモは直接的には内務省を、間接的に王制に圧力を与えることとなり、ハサン二世は遅まきながら、失業問題を領土問題に次いで重要視することになった。前述したようにハサン二世は、イスラーム運動の対抗を視野に入れ、王制の宗教的正当性として「アミール・アル・ムーミニーン」としての側面の強調につとめた。ムハンマド六世もラマダーン期間中に、イスラーム世界各地から招聘された学者らが国王の前で講義をする「ドゥルース・ハサニーヤ」(その様子はテレビ中継される)を継承するなど、宗教的指導者として自己を演出する場はハサン二世のときと同様に維持している。しかし、イスラーム運動が社会的弱者の救済を担う限り、「アミール・アル・ムーミニーン」であることを強調するだけでは、有効なイスラーム運動対策とはなり得ない。ハサン二世の宗教的正当性の強調という策の裏面は内務省と警察による「治安維持」であり、すでに1992年の憲法改正で国際社会を意識して「人権の擁護」が前文に掲げられたように、人権問題を無視できる時代は過ぎた。ムハンマド六世は社会的弱者救済、具体的にはまず失業問題の解決を図ることなしには、イスラーム運動が王制の宗教的正当性を脅かす存在であり続けるだろう。即位後すぐのスピーチで国王自ら述べたように、社会・経済分野で国民に満足を与えうる「リベラルな改革者」という新たなる正当性を確立することがムハンマド六世の今後の課題となろう。

(4) イスラーム主義の挑戦

イスラーム運動は、ムハンマド六世の改革にとって障害となる可能性のある存在である。モロッコ最大のイスラーム運動である「公正と慈善の集団(Jama’ al-‘Adlwal Ikhsan)」の指導者アブドゥッサラーム・ヤースィーンは、モロッコの大衆がイスラームの教えに忠実になり、徳を備えた指導者を戴くことができれば、モロッコの諸問題は解決されると考えている。彼は欧米流の「民主主義」や「近代化」には批判的で、同時に国内の社会的不正義や汚職、政治的腐敗について、ムハンマド六世の父、ハサン二世に対して公開書簡を送って自宅軟禁となるなど体制批判を繰り返している。ただ、ヤースィーンにとって、指導者一人の手に権力が集中していても、その指導者が宗教的倫理を尊重している限り、その存在は受容できるものである。欧米流の「近代化」については、「『近代化』のイスラーム化」を目指している。ムスリムはイスラームの倫理的枠組みと社会秩序を維持する限りにおいて、欧米の科学技術や思想を借りることができる、とヤースィーンは考えている。宗教を私的空間に限定し、公的空間では法の支配を強化しようとする近代化・民主化推進に対するこのようなイスラーム運動の抵抗は、ムハンマド六世が、保護領化される以前のモロッコに比べればかなり形式的になったとはいえ、預言者ムハンマドの子孫であるシャリーフとしての側面、そして「信徒の指揮者」としての側面といった宗教的正当性を維持している限りは、王制にとって決定的な脅威とはなり得ないだろう。

モロッコでは新たに国王が即位すると、バイアの儀式がおこなわれる。ただかつてはモロッコ各地の共同体の代表者たち、宗教学者、有力者たちがバイアをおこなったが、現在では多くが政府高官、政府に雇われている宗教学者たち、官僚、宮廷に勤めている人々で、彼らと国王との関係は平等ではないため、かつてのように君主に対する要求を盛り込む余地がほとんどなく、バイヤは儀礼的なものとなる。このような原則と現実の落差に、イスラーム運動が存在する場が生まれる。しかし共同体の成員と代表者はともに良いムスリムで、常に共同体の利益を考えて行動するといったイスラーム運動の考える政治的代表の概念もまたユートピア的である点で、現実との落差があることは否定できないだろう。

ムハンマド六世が即位してから約10年が経過した。その間、これまでのモロッコ政府内での汚職や弾圧などについて積極的に摘発をおこない、2004年に公正と和解委員会(L’Instance équité et réconciliation)を設置し、ハサン二世の時代に、国王に反対する人々に対して行われた人権侵害について調査を開始したことについて、モロッコのメディアは大きく報じ歓迎した。またモロッコ史上では初めて自らの妃の姿を公にし、最近は国内だけではなく、愛知万博訪問なども含め妃単独での海外公務も増えている。

現在、英国などの西欧諸国の立憲君主制とはかなり内容が異なるが、中東諸国のなかでモロッコとヨルダンのみが憲法と国会を伴った「立憲君主制」を有している。前述したように、モロッコの場合、独立後ムハンマド五世が、保護領期以前から君主たちが依拠してきた宗教的権威を基盤に、王制を諸政治勢力の「調停役」として位置づけることで国王の権力強化をはかった。続くハサン二世は憲法改正によって、国王-権力を集中させたのち、漸次的に諸政治勢力へ権力を分配し王制の安定化をはかった。この安定化のプロセスは、王制にとって「潜在的脅威」であるイスラーム運動の対抗策としての、1970年代なかばから宗教的正当性の強調と並行してすすむこととなった。

その結果、中東地域で共和制を採用する諸国と比較して、モロッコは「安定した」社会を維持している。しかし識字率は依然国民の6割程度にとどまり、失業問題は深刻である。経済・社会面での満足感が生まれる状況をつくりだせるか否か、という点が、今後社会が王制に正当性を認める交換材料となるだろう。

(5) 国家人間開発イニシアティブ(INDH: Initiative nationale pour le développement humain)

前述のように、モロッコにおける最大の課題は、失業問題と貧困である。失業問題は特に都市部で、そして貧困問題は特に地方村落部で深刻であり、1999年に即位した国王のムハンマド六世は、家族法を改正し女性の地位向上を推進するなど、積極的に自国の抱える社会・経済状況の改革に取り組んでいった。2005年には国家人間開発イニシアティブ(INDH)を発表し、貧困対策と地域間・社会的格差の是正を目標として取り組んでいる。このイニシアティブは当初2006年から2010年までの5カ年を目途に開始されたが、現在も継続している。(国家人間開発イニシアティブについては、中川[2010]を参照。)

(6) 「アラブの春」と憲法改定

2010年末に、チュニジアに端を発した「アラブの春」の影響は、モロッコでは限定的なものとなった。2011年2月20日と3月20日に若者を中心とした抗議運動が、モロッコでも行われ、彼らの運動は「2月20日運動」として継続することとなった。

国王は、2011年3月9日に、包括的改革として憲法改定を呼びかけた。提案には、

  1. 選挙で選ばれた議会に対する国王自らの権限の縮小: 現在、首相は国王の任命であるが、それを選挙結果に基づいて国会で選ぶようにし、国王の役割を、アミール・アル・ムーミニーン(信徒の指揮者)、そして「調停者」としての役割に限定する。
  2. 権力分立の強化、特に司法の独立の強化:司法に対する政治の介入をなくす。これまで公正と和解委員会を設置して人権擁護に取り組んできたがそれをさらに推し進め、政治、経済、社会、文化、環境と発展、すべての側面において、人権システムを改革することで、個人や集団単位での自由の拡大や国家権の安定化をはかる。
  3. 地方分権:これまで中央が任命していた地方の知事を地方議会が選び、地方行政の意思決定を各地域が行うようにする。
  4. 文化の多様性の尊重:アラビア語と並んでアマジグ語を公用語とする。

その他に、個人の自由と人権の尊重、両性の法的な平等などが盛り込こまれていた。  

この憲法改定案について、2011年7月1日に国民投票が実施された。国内での投票率は73%、有効投票(在外投票分を含む)1006万3423票の98.46%を占める990万9356票の賛成を得て可決され、新憲法は7月29日に公布された。  

モロッコの場合、「アラブの春」が発生した時点で、国王によるイニシアティブで、女性の地位向上、貧困撲滅、人権、権力分立の強化など、さまざまな改革がすでに進められていた。一連の改革は、チュニジアやエジプトのような大衆の力による改革要求から発した民主化ではないが、広く国民の支持を得ていたといえる。

つまり、モロッコでも、2011年2月以降、のちに「2月20日運動」と名付けられた若者を中心とした抗議運動があり、3月20日には、首都ラバトのほかに、カサブランカやその他の都市で、35000人が参加する規模となったものの、抗議の内容は、政府に対する批判であり、王制批判の声は、一部の極左を除いて、ほとんど出ていない。4月末にも抗議デモがあったが、そこでの主張は、一部の政府高官が持つ実業界への強い影響力の排除、汚職撲滅、失業問題の改善、司法改革などであり、国王が3月9日にスピーチした内容が実現されるまで「戦う」という形での抗議運動であった。

一般国民や政党の多くは、国王の提案した憲法改革の方向性を支持し、歓迎の意を表明した。昔の共産党系の人々の中には、国王の権限をより制限したものにして、国教としてのイスラームの記載を削除することを求めている人々もいるものの、非常に少数派である。

モロッコの場合、一度デモがモロッコで起こったタイミングで、国王が憲法改革についてスピーチを行ったことで、その後の「抗議運動」にとって、いわば議論のたたき台・枠組みを提供する形となったといえる。言い換えれば、抗議運動の要求の限界を定めたことにもなったといえる。また失業や汚職といった問題、社会の上の方の階層にいる人々の社会的流動性の低さといったモロッコの根本的な問題は、憲法改定だけでは解決することは難しく、それが憲法改定案発表後に、政府高官の退任を要求する声につながったと考えられる。

(7) 穏健イスラーム政党「公正発展党」の勝利

新憲法のもとでの初めての議会選挙が、2011年11月25日に実施された。結果は、「3.選挙(3)近年の選挙 ③2011年議会選挙」に記載した通りで、公正発展党(PJD) が、107議席(27.08%)を獲得して圧勝し、同党のベンキラン党首が首相に任命された。PJDは、獲得議席数第2位のイスティクラール党(PI:60議席、)第6位の大衆運動党(MP:32議席)、第8位の進歩社会主義党(PPS:18議席)と連立政権を組むに至った。この第一次ベンキーラン内閣では、首相を除く23の閣僚ポストのうち、10をPJD選出の議員が占めた。

2013年7月に、連立政権からイスティクラール党が離脱し、第二次ベンキラン内閣が同年10月10日に発足する。第二次ベンキラン内閣には、2011年の議会選挙で第3位の議席数(52議席)を獲得した国民独立連合(RNI)が新たに連立政権に加わった。

(8) オトマーニー内閣の発足

2016年10月の議会選挙で公正発展党(PJD)は125議席を獲得し第1党となったが、その後5ヶ月間、他党との間で連立を組む合意に至らず、翌2017年3月17日、国王ムハンマド六世は、同じく公正発展党のサアードディーン・オトマーニー氏を首相として新たに任命した。

同月25日、公正発展党(PJD)、国民独立連合(RNI)、進歩社会主義党(PPS)、大衆運動(MP)、立憲連合(UC)、大衆諸勢力社会主義連合(USFP)の間で、連立を組む合意が成立し、4月5日オトマーニー内閣が発足し、現在に至っている。

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2019年1月18日

モロッコ/選挙

(1) 選挙制度

2011年憲法でもモロッコは二院制を維持している(憲法60条)。下院を構成する395名の議員は、直接普通選挙で選ばれ、任期は5年間である(旧憲法でも5年間)。上院議員は、間接選挙で選出され、任期は6年間である(旧憲法では9年間)。現在の上院は、旧憲法下での間接選挙によって選ばれた270名の議員で構成される。2011年憲法では、上院議員の定数が最低90名最高120名と改められた。そのうちの5分の3の議員は、地方議会議員で構成される集団によって、地域ごとに選出される。5分の2の議員は、職能組合(産業、農業、工芸、商業、サービス業、漁業)の代表の集団と給与所得者の代表で構成される集団によって、地域ごとに選出される。

国会の会期は通常2期(10月および4月の第2金曜日に開始)(憲法第65条)で、特別国会の開催には、勅令、下院の3分の1の議員の要請、上院の過半数の議員の要請のいずれかが必要である。(憲法第66条)。

国会は公開で、上下院とも内規を定めており、内規の合憲性については憲法評議会が監督している。下院議長は、会期の初めと3年目の4月会期に選出される。上院議長は、10月会期の初めと改選の際に選出される。

すべての法案は、上下院で審議される。下院は、内閣不信任動議を提出することができる。この動議の提出には、下院の少なくとも4分の1の議員による署名が必要である。またこの動議の可決には、下院議員全体の絶対多数の賛成が必要である。

(2) これまでの選挙・国民投票

モロッコで、独立以来実施された選挙・国民投票は30回で、詳細は次の通りである。

①国民投票(10回実施)
  • 1962年12月7日:憲法制定に関する国民投票
  • 1970年7月24日:1962年憲法改定に関する国民投票
  • 1972年3月1日:1970年憲法改定に関する国民投票
  • 1980年5月23日:1972年憲法第21条改定に関する国民投票
  • 1980年5月30日:1972年憲法第43条・95条改定に関する国民投票
  • 1984年8月31日:アラブ・アフリカ連合に関する国民投票
  • 1989年12月1日:議会議員の任期2年延長に関する国民投票(1984年からの会期は、本来1990年に終了だが2年延長)
  • 1992年9月4日:1972年憲法改定に関する国民投票
  • 1996年9月13日:1992年憲法改定に関する国民投票
  • 2011年7月1日:2011年憲法改定に関する国民投票
②地方選挙(10回実施)
  • 1960年5月29日
  • 1963年7月28日
  • 1969年10月3日
  • 1976年11月12日
  • 1983年6月10日
  • 1992年10月16日
  • 1997年6月13日
  • 2003年9月12日
  • 2009年6月12日
  • 2015年9月4日
③議会選挙(10回実施)
  • 1963年5月17日
  • 1970年8月28日
  • 1977年6月3日
  • 1984年9月14日
  • 1993年6月25日(3分の2の議員選出のための直接選挙)と1993年9月17日(3分の1選出のための間接選挙)
  • 1997年11月14日
  • 2002年9月27日
  • 2007年9月7日
  • 2011年11月25日(2011年憲法下での初めての選挙。2012年9月に予定されていたが、憲法が改定されたために、前倒しで実施された。)
  • 2016年10月6日

(3) 近年に実施された選挙

①2007年議会選挙
  • 日時:2007年9月7日午前8時~午後7時
  • 議席数:下院325議席(任期5年)
  • 選挙区:全国区=30議席分(女性割り当て) 95の地方区=295議席分
  • 候補者数:6,691名
  • 有権者数:15,510,505名(男性=51.3%、女性=48.7%)  
  • 投票率:37%
  • 投票所数:全国38,687箇所
選挙結果-獲得議席数
  • イスティクラール党(PI-Parti  Istiqlal):52議席
  • 公正発展党(PDJ-Parti de la justice et du développement):46議席
  • 大衆運動(MP-Mouvement populaire):41議席
  • 国民独立連合(RNI-Rassemblement national des indépendants):39議席
  • 大衆諸勢力社会主義連合(USFP-Union socialiste des forces populaires):38議席
  • 立憲連合(UC- Union constitutionnelle):27議席
  • 進歩社会主義党(PPS-Parti du progrès et du socialisme):17議席
  • 民主勢力前線(FFD-Front des forces démocratiques):9議席
  • 民主社会党(MDS-Mouvement démocratique et social):9議席
  • 国民民主連合党(PND)-盟約党:14議席(PND・盟約党連合:8議席、盟約党:3議席、PND:3議席)
  • 前衛民主社会党(PADS)-国民議会党(CNI)-社会主義統一党(PSU):6議席(PADS-CNI-PSU連合:5議席、CNI:1議席)
  • 労働党(PT-Parti travailliste):5議席
  • 環境発展党(PED-Parti de l’environnement et du développement):5議席
  • 再生平等党(PRE-Parti du renouveau et de l’Equité):4議席
  • 社会主義党(PS-Parti socialiste):2議席
  • モロッコ民主連合(UMD-Union marocaine pour la démocratie):2議席
  • 市民勢力(FC-Forces citoyennes)/自由連盟(ADL-Alliance des libertés)/発展・シチズンシップ・イニシアティブ(ICD-Initiative citoyenne pour le développement/復興善行党(PRV-Parti de la renaissance et de la vertu)=各々1議席
  • 無所属:5議席
②2009年地方選挙
  • 実施日:2009年6月12日
  • 議席数:27795議席
  • 選挙区数:1503 (都市部:221 、農村部:1282 )
  • 候補者数:130223名-人口35,000人以下の地区(1人区)の候補者数:55751名 
  • 人口35000人以上の地区(比例代表)の候補者数:59188名
  • 女性候補者向け名簿での候補者数:15284名
  • 有権者数:13,360,219名
  • 投票者数:7,005,050名
  • 投票率:52.4%
  • 投票所数:38285箇所
選挙結果・・・獲得議席数(得票率 %)
  • 正統近代党(PAM:Parti authencité et modernité): 6015(21.7%)
  • イスティクラール党(PI:Parti Istiqlal): 5292 (19,1 %).
  • 国民独立連合(RNI:Rassemblement national des indépendants) : 4112 (14,8 %).
  • 大衆諸勢力社会主義連合(USFP:Union socialiste des forces populaires): 3226 (11,6 %).
  • 大衆運動(MP:Mouvement populaire) : 2213 (8 %).
  • 公正発展党(PJD:Parti de la justice et du développement) : 1513 (5,5 %).
  • 立憲連合(UC:Union constitutionnelle) : 1307 (4,7 %).
  • 進歩社会主義党(PPS:Parti du progrès et du socialisme)  : 1102 (4 %).
  • 民主勢力前線(FFD :Front des forces démocratiques): 678 (2,4 %).
  • 前衛民主社会党・国民議会党・社会主義統一党連合(PADS-CNI-PSU:Parti de l’avant-garde démocratique et socialiste, Congrès nationale ittihadi, Parti socialiste unifié) : 475 (1,7 %).
  • 民主社会党(MDS:Mouvement démocratique et social): 319 (1,2 %).
  • 民主協約党(Parti Al-Ahd Addimocrati): 294 (1,1 %).
  • 労働党(PT :Parti travailliste): 288 (1 %).
  • 再生平等党(PRE:Parti du renouveau et de l’équité) : 181 (0,7 %).
  • 環境と持続可能な発展党(PEDD:Parti de l’environnement et du développement durable) : 106 (0,4 %).
  • モロッコ自由党(PML:Parti marocain libéral) : 90 (0,3 %).
  • 統一民主党(PUD :Parti de l’unité et de la démocratie): 84 (0,3 %).
  • 改革発展党(PRD:Parti de la réforme et du développement) : 82 (0,3 %).
  • 社会党(PS:Parti socialiste) : 81 (0,3 %).
  • •市民勢力党(PFC:Parti des forces citoyennes) : 47 (0,2 %).
  • 無所属(SAP:Sans appartenance politique): 47 (0,2 %).
  • 復興善行党(PRV:Parti de la renaissance et de la vertu) : 30 (0,1 %).
  • 国民行動党(PAN :Parti de l’action nationale): 23 (0,1 %).
  • 行動党(PA :Parti de l’action): 21 (0,1 %).
  • 希望党(PE :Parti de l’espoir): 14 (0,1 %).
  • 民主社会党(PSD:Parti de la société démocratique) : 12 (0,0 %).
  • 民主主義のためのモロッコ連合(UMD:Union marocaine pour la démocratie) : 7 (0,0 %).
  • 自由社会正義党(PLJS:Parti de la liberté et de la justice sociale) : 7 (0,0 %). 
③2011年議会選挙
  • 日時:2011年11月25日
  • 議席数:下院395議席(任期5年)
  • 方式:比例代表制・中選挙区制
  • 選挙区:
    • 全国区=比例代表制:90議席分(30議席分=若年候補者割り当て、60議席分=女性候補者割り当て)
    •  92の選挙区:305議席分
  • 投票率:45.40%
選挙結果-獲得議席数
  • 公正発展党Parti de la Justice et du Développement (PJD) : 107議席(27.08%) 
  • イスティクラール党Parti de l’Istiqlal (PI) : 60議席(15.19% ) 
  • 国民独立連合Rassemblement National des Indépendants (RNI) : 52議席(13.16% ) 
  • 正統近代党Parti Authenticité et Modernité (PAM) : 47議席(11.90%) 
  • 大衆諸勢力社会主義連合Union Socialiste des Forces Populaires (USFP) : 39議席(9.87%) 
  • 大衆運動Mouvement Populaire (MP) : 32議席(8.10%) 
  • 立憲連合Union Constitutionnelle (UC) : 23議席(5.32%) 
  • 進歩社会主義党Parti du Progrès et du Socialisme (PPS) : 18議席(4.55%) 
  • 労働党Parti Travailliste (PT) : 4議席(1%) 
  • 社会民主運動Mouvement Démocratique et Social (MDS) : 2議席(0.50%) 
  • 再生平等党Parti du Renouveau et de l’Equité (PRE) : 2議席(0.50%) 
  • 環境と持続可能な発展党Parti de l’Environnement et du Développement durable : 2議席(0.50%) 
  • 民主協約党 Parti Al Ahd Addimocrati : 2議席(0.50%) 
  • 左翼緑の党Parti de la Gauche Verte : 1議席(0.25%) 
  • 自由社会正義党Parti de la Liberté et de la Justice Sociale : 1議席(0.25%) 
  • 民主勢力前線 Front des Forces Démocratiques (FFD) : 1議席(0.25%) 
  • 行動党Parti de l’Action (PA) : 1議席(0.25%) 
  • 統一民主党Parti Unité et Démocratie : 1議席(0.25%) 
④2015年地方選挙 
〈地方議会〉
  • 実施日:2015年9月4日
  • 議席数:678議席
  • 選挙区数:12
  • 投票者数:8,096,132名
  • 投票率:53.67%

選挙結果・・・獲得議席数・獲得票数(得票率 %)

  1. 公正発展党(PJD: Parti de la justice et du développement)174 議席・1,672,178票  (25.6 % )
  2. 正統近代党(PAM :Parti authencité et modernité): 132議席・1,318,700票(19.4 %) 
  3. イスティクラール党(PI : Parti de l’Istiqlal) : 119議席・1,057,658票(17.55 %)
  4. 国民独立連合( RNI : Rassemblement national des indépendants) : 90議席・883.421票(13.27 %) 
  5. 大衆運動(MP : Mouvement populaire) : 58議席・631,817  票(8.55 %)
  6. 大衆諸勢力社会主義連合 Union socialiste des forces populaires : 48議席・546,472票 (7.08 %)
  7. 立憲連合 Union constitutionnelle :27 議席・493,277 票( 3.98 %)
  8. 進歩社会主義党 Parti du progrès et du socialisme : 23議席・413,238票(3.39 %)
  9. 民主社会運動 Mouvement démocratique et social : 2議席・65, 554票(0.29 %)
  10. 民主協約党 Parti Al Ahd Addimocrati : 2議席・29,798票(0.29%)
  11. 改革発展党 Parti de la réforme et du développement : 2議席・9 600票(0.29%) 
  12. 左派民主連盟 Fédération de la gauche démocratique :  1議席・90,998票(0.15%) 

※9,10,11,12の党は、7議席を協議の上配分したため、それぞれの議席数は得票数に比例していない。

〈市議会〉
  • 実施日:2015 年9月4日
  • 総議席数: 31443議席
  • 投票者数:8,096,132名
  • 投票率:53.67%

選挙結果(獲得議席数・%)

  1. 正統近代党Parti authenticité et modernité (PAM) 6,655 議席(21.16 %),
  2. イスティクラール党Parti de l’Istiqlal (PI) 5,106 議席(16.23%)
  3. 公正発展党Parti de la justice et du développement (PJD) 5,021 議席(15.96 %).
  4. 国民独立連合Rassemblement national des indépendants (RNI)4,408 議席(14.01%)
  5. 大衆運動Mouvement populaire (MP) 3,007 議席(9.56%),
  6. 大衆諸勢力社会主義連合Union socialiste des forces populaires (USFP) 2,656 議席(8.44%),
  7. 進歩社会主義党Parti du progrès et du socialisme (PPS) 1,766 議席(5.61%)
  8. 立憲連合Union constitutionnelle (UC) 1,489 議席(4.73 %),
  9. 左派民主連盟 Fédération de la gauche démocratique (FGD) 333 議席(1.06%),
  10. 民主社会運動Mouvement démocratique et social (MDS) 297 議席(0.94 %),
  11. 民主勢力前線Front des forces démocratiques (FFD) 193 議席(0.61%)
  12. 民主協約党 Parti Al Ahd Addimocrati (PAA) 142 議席(0.45%)
    以下合計370議席(1.17%)
  13. Parti de l’Environnement et du Développement Durable (PEDD) 79議席
  14. Parti de l’Unicité et de la Démocratie (PUD) 65議席
  15. Parti de la Renaissance et de la Vertu (PRV) 54議席
  16. Parti de la Réforme et du Développement (PRD) 39議席
  17. Parti du Renouveau et de l’Equité (PRE) 25議席
  18. Parti de l’Union marocaine pour la Démocratie (UMD) 21議席
  19. Parti de l’Action (PA) 15議席
  20. Parti National Démocrate (PDN) 13議席
  21. Parti de la Liberté et de la Justice Sociale (PLJS) 12議席
  22. Parti du Centre Social (PCS)11議席
  23. Parti des Néo-démocrates 10議席
  24. Parti de l’Espoir (parti Al-Amal) 7議席
  25. Parti Démocratique et de l’Indépendance (PDI)6議席
  26. Parti Marocain Libéral (PML), 5議席
  27. Parti de la Gauche Verte Marocaine (PGVM) 5議席
  28. Parti d’Annahda, 3議席
⑤2016年議会選挙 
  • 実施日:2016年10月6日
  • 議席数:下院395議席(任期5年)
  • 方式:比例代表制・中選挙区制
  • 選挙区:
    • 全国区=比例代表制:90議席分
      • 30議席分=若年候補者割り当て
      • 60議席分=女性候補者割り当て
    • 92の選挙区:305議席分
  • 投票率:42.29%
選挙結果(獲得議席数・%)
  1. 公正発展党Parti de la justice et du développement (PJD) 125議席( 31.64%)
  2. 正統近代党Parti authenticité et modernité (PAM) 102議席( 25.82%)
  3. イスティクラール党Parti de l’Istiqlal (PI)46議席( 11.64 %)
  4. 国民独立連合Rassemblement national des indépendants (RNI) 37議席( 9.36 %)
  5. 大衆運動Mouvement populaire (MP) 27議席(6.83%)
  6. 大衆諸勢力社会主義連合Union socialiste des forces populaires (USFP) 20議席( 5.06%) 
  7. 立憲連合Union constitutionnelle (UC) 19議席( 4.81%)
  8. 進歩社会主義党Parti du progrès et du socialisme (PPS) 12議席( 3.03%)
  9. 民主社会運動Mouvement démocratique et social (MDS) 3議席( 0.75%)
  10. 左派民主連盟Fédération de la gauche démocratique (FGD) 2議席( 0.5%)
  11. 統一民主党Parti de l’unité et de la démocratie (PUD) 1議席( 0.25%)
  12. 左派緑の党Parti de la gauche verte (PGV) 1議席( 0.25%)
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2019年1月18日

モロッコ/政党

(1) 政党制度

2011年に改定された憲法では、第7条で、「政党は男女両方の市民の政治的枠組・組織であり、市民の国民生活への参加を促進し、公的な事項の運営をおこなう。また政党は、憲法の枠組に沿って、民主的な手段で、多元主義と政権交代を基盤として、有権者の意思の表明に協力し、権力の行使に参加する。政党の綱領と政党活動は、憲法と法律を尊重している限り、自由である」と定められている。また同じく第7条で、一党制は合法ではないと定めている。

2006年に公布された政党法では、「いかなる政党も、特定の宗教・言語・民族・地域を基盤にすることはできない。またあらゆる形態の差別に基づいたり、人権に反することはできない」(第4条)と定められている。特定の地域の利益擁護に偏った政党が誕生することを避けるために、政党法第8条では、創設時に必要とされる300名以上の党員の住所が、全国の半数以上の地域にあり、一つの地域における党員の割合が5%以上であることが、新党結成条件の一つとされている。政党法第57条では、武装してデモを行うこと、武装部門や民兵を組織すること、体制転覆やイスラーム、王制および領土の一体性への攻撃を目的とした場合は、内務省はラバトの行政裁判所に要請し、その政党を解党することができると定められている。

(2) 政党

現在モロッコには30を超える政党があり、様々な綱領をかかげている。以下、主要政党に関する情報をまとめておく。

イスティクラール党(Hizb al-Istiqlal, Parti Istiqlal ) 

政党HP: http://www.partistiqlal.org/ 

1944年に設立された民族主義政党。「イスティクラール」は「独立」の意。現在の政治路線は保守系で、1998年2月から党首はアッバース・エルファースィー。

1934年にモロッコ最初の政党として国民行動連合(Kutla al- ‘Amal al-Watani, Comité de l’Action Nationale)が誕生した。国民行動連合は、保護領政府が出したベルベル勅令に反対して、モロッコの独立運動を指導したアッラール・ファースィーやアフマド・バラフレージュらが結成した政党で、保護領政府に対して政治や社会改革案を提出したが、指導者らは弾圧され、党は非合法化された。アッラール・ファースィーらは、1937年に国民行動連合に代わって、国民改革党を結成し、これが後にイスティクラール党へと発展した。

2007年9月7日の議会選挙では、52議席を獲得し第一党となり、国王は同年9月19日にイスティクラール党党首であるアッバース・エルファースィーを首相に任命した。アッバース・エルファースィー首相は、ムハンマド六世が国王になってから任命した二人目の首相であるが、前任者であるイドリース・ジェットゥは過去に国務大臣をつとめ、政治的なキャリアもあるものの、どの党にも属していない実業家であり、首相任命の前に行われた2002年9月の議会選挙では、大衆社会主義勢力連合、イスティクラール党、公正発展党、国民独立連合の順で議席を獲得しており、ジェットゥ氏の首相任命は選挙結果を尊重したものとはいえなかった。

大衆諸勢力社会主義連合(al-Ittihad al-Ishtiraki lil-Qwat al-Sha‘biya, USFP:Union socialiste des forces populaires)  

政党HP:

  • http://www.usfp.ma/index_ar.php (アラビア語) 
  • http://www.usfp.ma/ (フランス語)

1975年にUNFP(Union Nationale des ForcesPopulaires)から分離して設立された左派政党。2008年11月、当時のアッバース・エルファースィー内閣で法相をつとめていたアブドゥルワヒド・ラーディーが党首に選出された。同党は、1998年から2002年まで、当時のアブドゥルラフマーン・アル・ユースフィー党首が首相をつとめ、政権を担当した。   

アブドゥルラフマーン・アル・ユースフィーは、もともとイスティクラール党のメンバーで、イスティクラール党の左派グループに属していたマフディ・ベン・バルカ、アブドゥルラヒーム・ブアビド、アブダッラー・イブラヒームらと共に1959年にUNFPを設立した。UNFP は王制にとっての反対勢力であったため、ユースフィーも逮捕され、その後釈放されたが、マフディ・ベン・バルカがパリで行方不明になった事件の裁判に参加するためパリを訪れたことをきっかけに、1965年から15年間パリで亡命生活を送る。1980年に恩赦を受けてモロッコに帰国。1992年からUSFPの党首となる。1997年の議会選挙で、USFPは第一党となり、1998年より首相をつとめた。当時の国王ハサン二世が、かつて敵対していたユースフィーを首相に任命したことは、大きな話題となった。

2007年の議会選挙では、38議席を獲得するにとどまり、第5党となった。2011年の議会選挙でも、獲得議席数は39で、同じく第5党となった。

公正発展党(Hizb al-‘Adala wa at-Tanmiya , PJD:Parti de la justice et du développement)  

政党HP:http://www.pjd.ma/

1998年に設立されたイスラーム主義的傾向の政党。2007年より党首はアブディッラー・ベンキラン。1967年に設立された大衆立憲民主運動(MPCD:Mouvement populaire, constitutionnel et démocratique )を前身としている。

2007年の議会選挙では、46議席を獲得する躍進をみせ、イスティクラール党に次ぐ第2党となった。

2011年11月25日に実施された議会選挙では、107議席を獲得し、第1党となった。2011年に発布された新憲法で定められた通り、下院第一党となった同党の党首であるベンキランが首相に就任した。  

大衆運動党(Hizb al-Haraka al-Sha‘biya , MP:Mouvement populaire)  

政党HP:http://www.alharaka.ma/ 

1957年設立の中道左派政党。現在の党首は、モハンド・ラエンセル。

1958年の公的自由に関する勅令によって、1959年に合法な政党となった。立憲王制、領土の一体性を支持する。またモロッコ国王の一側面である「信徒の指揮者」としての役割は、モロッコ社会の安定に不可欠であるとするが、他宗教の共存はモロッコの伝統であるとし、あらゆる形での過激主義や宗教の政治利用に反対している。またアマジグ(ベルベル)文化は、モロッコの文化的な源であるとし、アマジグの言語も、モロッコの国語として憲法に明記されることを要求している。

2007年9月7日の議会選挙では、41議席を獲得し、第3党となったが、2011年の議会選挙では、32議席まで議席を減らし、第6党となった。

国民独立連合(Hizb al-Tajammu‘al-Watani  lil-Ahrar , RNI:Rassemblement national des indépendants)  

1978年(1979年)に設立した中道右派政党。党首は、経済財政大臣であるサラハッディーン・メズワール(2010年1月就任)が務めている。党の創設者であるアフマド・オスマンは、1972年~1979年まで首相をつとめた後、1984年~1992年まで国会議長をつとめた。

2007年9月7日の議会選挙では、39議席を獲得し、第4党となった。2011年の議会選挙では、獲得議席数を52に増やし、第3党となった。

立憲連合(al-Ittihad al-Dusturi, UC:Union constitutionnelle) 

1983年に設立された保守・リベラル政党。創設者のマアティ・ブアビドは、1979年から1983年まで首相をつとめた。現在の党首は、ムハンマド・アビド。2007年の議会選挙では、27議席、2011年の議会選挙では23議席を獲得した。

正統近代党(Hizb al-Asala wal-Mu‘asila , PAM:Parti authencité et modernité) 

政党HP:http://www.pam.ma/

2009年から党首は、ドリス・ジェットゥ内閣で保健大臣をつとめたムハンマド・シェイフ・ビアディッラー。

2008年に、アハド党(le Parti al ahd), 環境開発党(le Parti de l’environnement et du développement)、自由同盟(l’Alliance des libertés)、開発のための市民イニシアティブ(le Parti initiative citoyenne pour le développement)、国民民主党(PND: Le Parti national démocrate)の五つの政党を連合して設立された。設立には、現国王であるムハンマド六世の親しい友人であるフアド・アリー・アル・ヒンマが深くかかわっている。設立の翌年2009年に実施された地方選挙では、イスティクラール党や国民独立連合を抜いて、第一党となり、全議席の21.7%にあたる計6015議席を獲得した。初の議会選挙となった2011年の選挙では、47議席を獲得し、第4党となっている。

その他の諸政党

  • 進歩社会主義党(PPS: Parti du progrès et du socialisme )
  • モロッコ共産党(PCM:Parti communiste marocain)は1943年に設立されたが、1952年に非合法化され、1969年に解放社会主義党(PLS: Parti de la libération et du socialisme)として再結成され、1974年に進歩社会主義党(PPS: Parti du progrès et du socialisme )として合法化された。
  • 民主独立党(PDI:Parti démocratique et de l’independence)イスティクラール党から分離して、1946年に設立。
  • 行動党(PA: le Parti de l’action)1974年設立の社会主義政党。
  • 中央社会党(PCS: le Parti du centre social)1984年設立の社会主義政党。
  • 前衛民主社会党(PADS :le Parti de l’avant garde démocratique et social)1991年設立の社会主義政党。
  • 民主社会運動(MDS: le Mouvement démocrate social )1996年設立の社会主義政党。
  • 民主勢力前線(FFD:le Parti du front des forces démocratiques)1997年設立。
  • 希望党(PE :Parti de l’espoir)1999年設立。
  • 市民勢力党(PFC :le Parti des forces citoyennes)2001年設立。
  • 統一国民会議(CNI: le Congrès national ittihadi )2001年設立。
  • 改革発展党(PRD: le Parti de la réforme et du développement)2001年設立。
  • 再生平等党(PRE:le Parti du renouveau et de l’equité)2002年設立。
  • モロッコ自由党(PML: le Parti marocain libéral)2002年設立。
  • 労働党(PT :Parti travailliste) 2005年設立。
  • 復興善行党(PRV:Parti de la renaissance et de la vertu) 2005年設立。
  • 社会主義統一党連合(PSU:Parti socialiste unifié )2005年設立。2002年、民主大衆行動機構(OADP:l’Organisation de l’action démocratique et populaire)、民主独立運動(MDI:le Mouvement des démocrates indépendants)、民主運動(MPD:le Mouvement pour la démocratie)が連合して、統一左派社会主義党(PGSU:le Parti de la gauche socialiste unifiée)を創設。2005年にPGSUがPSUに発展解消。
  • 社会党(PS:Parti socialiste) 2006年設立。
  • 民主社会党(PSD:Parti de la société démocratique) 2007年設立
  • 環境と持続可能な発展党(PEDD:Parti de l’environnement et du développement durable) 2009年設立。

上記の政党と統合した諸政党

  • 国民民主党(PND: Le Parti national démocrate)1979年設立。後に正統近代党(PAM)に統合。
  • 国民大衆運動(MNP:le Mouvement national populaire)1991年に設立され、2002年の議会選挙で18議席を獲得したが、後に大衆運動党(MP)に統合。
  • 社会民主党(PSD: le Parti socialiste démocratique )1996年設立。後にUSFPに統合。
  • 民主連合(UD:l’Union démocratique)2001年に設立。後に大衆運動党(MP)に統合。
  • 自由同盟(ADL:l’Alliance des libertés)、開発のための市民イニシアティブ(ICD: Initiatives citoyennes pour le développement)、アハド党(le Parti Al Ahd)、環境開発党(PED :le Parti de l’environnement et du développement )はいずれも2002年設立され、後に正統近代党(PAM)に統合。
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2019年1月18日

イラク/現在の政治体制・制度

現在のイラクの政治体制は、2005年10月に国民投票で承認された新憲法によると、「共和制、代議制(議会制)、民主制」(第1条)と定義されている。世俗主義を党是としていたバアス党が2003年に倒れた後、宗教政党が大きく躍進したが、イラン型の「法学者の統治」は受け入れられておらず、宗教法学者は最高政治権力者である首相の座にはつかないことが暗黙の了解となっている。

新憲法は、大統領の役割を「国家の長、国家統一のシンボルであり、国家の主権を体現する」(第67条)と定める一方、首相は「国家の政策を遂行する責任者、軍の指揮官」(第78条)であるとしている。首相の選出は大統領の指名によって行われるが、その人選は、与党となる議会の最大政党が行うとされており(第76条第1項)、首相が閣僚を指名した後、議会の絶対過半数の賛成を経て内閣が発足する。従って、大統領は存在するが、制度としては議院内閣制に近い。国民議会は大統領・首相を罷免できるが、大統領・首相に国民議会の解散権はない。議会自体が解散を決定することは可能だが、2003年以降解散したことはなく、毎回4年の任期満了に伴って選挙が実施されている。

移行措置として、憲法制定後の最初の国民議会の任期(2006年からの4年間)に限って、大統領と副大統領2名で構成される「大統領評議会」が設けられ、議会を通過した法案に対する拒否権が付与されるなど大統領に一定の権限が存在した。しかし、これは当初から事前措置であり、現在はこうした権限はなくなっている。大統領は名誉職であるため、仮に法案に反対して署名せずとも、法律としては有効となる。

イラク戦争後に占領統治を行っていたCPA(連合国暫定当局)が設立した統治評議会(2003年7月発足)や暫定政府(2004年6月発足)が民族・宗派別の数合わせによる構成であったことや、2005年の議会選挙結果において、宗派・民族ごとのエスニック政党(特定のエスニック集団を基盤として形成され、かつその特定のエスニック集団からの支持に全面的に依存する政党)の躍進が顕著なものとなったことから、2006年に発足した初の正式政府である第一次マーリキ政権においては、挙国一致内閣との建前のもと、主要政党がほぼすべて与党に入り、議席数に応じてポストを分け合うクオータ・システムに依ることとなった。その後の政権に構成においても、首相はシーア派、国会議長はスンナ派、大統領はクルドから選出され、大臣ポストを分け合うことが慣例的に続いてきた。

2018年5月に行われた国民議会選挙では、一部のシーア派政党からスンナ派政治家が立候補し、スンナ派住民からの票を獲得するなど、宗派横断的な現象も見られた。しかしその背景には、2014~2018年の対IS掃討作戦で中心となったシーア派政党の勢力が増す一方で、分裂傾向が激しいスンナ派政党は特定の選挙区(県)に依存したごく狭い支持基盤でしか集票できなくなっているという現実があり、上記の宗派横断的な現象は、イラク全土を代表する政党が出現したことを意味していない。また、北部のクルド人自治区では、イラク国民議会選挙であっても非クルド政党はほとんど得票できず、クルド政党間の争いとなっている。

参考文献

  • イラク憲法 (http://www.parliament.iq/)
  • 移行期間のためのイラク国家施政法
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2019年1月18日

イラク/最近の政治変化

イラクの民主化は、2003年3月のイラク戦争による旧フセイン政権の崩壊という劇的な形でもたらされた。しかし、戦後の占領統治を主導した米国が明確な統治プランを持っていなかったことから、戦後統治は迷走を極めた。CPA(連合国暫定当局)は、2003年7月にイラク人の代表組織として、亡命政治家を中心に25名からなる統治評議会を発足させたものの、正統性の確保に失敗し、また反米武装勢力の攻撃も次第に増加していったことから、2003年11月に、従来の政策を変更して占領統治体制終了を前倒しすることを統治評議会と合意した。 この合意に基づき、2004年3月8日に、イラク暫定政府に主権が移譲されてから恒久憲法の公布を経て正式政権の樹立に至るまでの政治プロセスを定めた「移行期間のためのイラク国家施政法」(基本法)が成立した。このスケジュールに従って、2005年に新憲法の起草や国民投票、二度の国民議会選挙が執り行われ、2006年5月の正式政権の発足をもって「民主化」プロセスは終了した。

しかし、こうした一連の民主化プロセスは、イラクに安定的な民主主義をもたらさなかった。理由の一つは、2005年1月 の制憲国民議会選挙の際、スンナ派住民が多い中部では極端に投票率が低かったことで、憲法にスンナ派政治勢力の意見が反映されなかった点にある。その後予定されていた憲法改正も棚上げ状態となり、イラク国家のあり方に対し、国内における合意の形成ができていない。さらに、2003年夏から反米武装闘争が活発化したことに加えて、2005年頃からは宗派間対立も顕著になった。米軍やイラク政府に協力する一般市民・政治家らを狙うスンナ派の武装勢力・過激派と、主として警察組織に浸透したシーア派民兵との間で報復攻撃がじわじわと拡大し、特に2006年以降、内乱状態に陥ったことは、イラク政界における政党・政治家間の協調を極めて難しくしたことが指摘できる。

他方、そうした内乱状況は結果的に勝者を生み出さなかった。過激派と地元の武装勢力間の亀裂、米軍の増派戦略、民兵間の停戦合意などを経て、治安状況は2007年後半から徐々に回復に向かった。イラク政府や議会はしばしば機能不全に陥りながらも完全には崩壊せず、国民議会は4年の任期を満了して2010年3月、さらに2014年4月は再度、国民議会選挙が実施された。しかしながら、2013年初頃から、マーリキ首相の強権統治に反発したスンナ派住民が中部で反政府デモを度々組織するようになり、市民の不満を利用する形で過激な武装勢力が再び力をつけ始め、隣国シリアの内戦の影響もあり、ついに2014年6月にはモスルなど中部の複数の主要都市が陥落するに至った。混乱の中で2014年9月にハイダル・アバーディを首相とする新政権が発足し、イラク政府は隣国イランや米国政府からの軍事支援を得て、その後3年以降をかけてようやくISをイラク国内から掃討した。

この過程で、敗退したイラク軍・警察に変わってシーア派民兵が国内外からの支援を得て軍事的に活躍し、人民動員部隊として半公的な立場を確保するに至った。また、北部クルド地域のクルド兵士ペシュメルガも、欧米からの支援を得てISの駆逐と同時に支配領域を拡張させた他、自警団的なスンナ派組織も形成されている。このように、ISの掃討は実現したものの、半公的な様々な武装集団の間で指揮命令系統が極めて複雑化するという状況が生まれている。

また、2003年以降のイラクが宗派・民族間でポストを分け合うクオータ・システムを採用した背景には、挙国一致という体裁をとることで少数派を決定的に排除することを防ぐという理由があった。しかしながら、野党不在の総与党体制となったことで政権へのチェック機能が働かなくなるという問題が生じている。その最たる問題とみられているのは汚職問題である。イラク戦争から10年以上が経ち、2010年代半ばまで原油価格が高い水準で推移したにもかかわらず、イラク全土の復興ペースが極めて遅く、市民が満足できるレベルの公共サービスが提供されていないことに極めて大きな不満が募っている。クオータ・システムの結果として、政界では、仮に汚職疑惑で大臣が離任しても後任はその大臣ポスト枠を持つ同じ政党から選出されるなど、説明責任の問われていない。加えて、汚職の追及自体が政争化する傾向にある。こうしたことから新たな政治システムが必要だとの認識が広まっている。しかし、選挙の時点で各党はスローガン以上の詳細な政策を戦わせているわけでもなく、一定の政策を軸に政党が形成されているわけでもないことから、機能的な政府のあり方について合意ができているとは言えない状況が続いている。

<イラク戦争後の政治プロセス>
  • 2004年3月:基本法制定
  • 2004年6月:暫定政府組閣、主権移譲
  • 2004年8月:国民大会議開催、諮問評議会議員選出
  • 2005年1月:制憲議会選挙
  • 2005年5月:移行政府組閣
  • 2005年8月:憲法草案を議会承認
  • 2005年10月:憲法草案の国民投票
  • 2005年12月:国民議会選挙
  • 2006年5月:本格政権(第一次マーリキ政権)発足
  • 2010年3月:国民議会選挙
  • 2010年12月:第二次マーリキ政権発足
  • 2014年4月:国民議会選挙
  • 2014年9月:アバーディ政権発足
  • 2018年5月:国民議会選挙

参考文献

  • 移行期間のためのイラク国家施政法
  • 中東経済研究所『イラク 中東諸国の政府機構と人脈等に関する調査』2005年3月
  • 吉岡明子「イラク-戦後統治体制をめぐる迷路」『中東の新たな秩序』(松尾昌樹・岡野内正・吉川卓郎編著)ミネルヴァ書房、2016年
  • 吉岡明子「2018年イラク国民議会選挙分析-低投票率と不正疑惑からみる民主化の課題-」『中東動向分析』日本エネルギー経済研究所中東研究センター、2018年6月
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2019年1月18日

イラク/選挙

イラク戦争後、イラク暫定政府に主権が移譲されてから恒久憲法の公布を経て正式政権の樹立に至るまでの政治プロセスを定めた「移行期間のためのイラク国家施政法」(基本法、2004年3月8日成立)に則り、2005年1月30日と、2005年12月15日に国民議会選挙が行われた。最初の選挙は、憲法起草のための制憲議会選挙であり、2度目は通常の議会選挙となっているため、議会の役割は必ずしも同じではなく、その正式名称も最初の制憲議会がal-Jam’iya al-Wataniya、2度目の通常議会がMajlis al-Nuwwabと区別されている。しかし、2度の議会選挙はその参加政党や国民にとって連続性のあるものと捉えられていると言える。その後、議会任期満了を経て2010年3月、2014年4月、2018年5月に国民議会選挙が実施されている。

<選挙制度:2005年1月>

2005年1月までの選挙実施のために、2004年3月から5月にかけて、国連スタッフがイラク国内で選挙管理委員会や政治家、宗教関係者らと会合を行い、いくつかの選挙制度を提示した。2000万 以上の人口を抱える国で、人口統計も不備な中、半年強の準備期間で国政選挙を行わなければならないことから、選挙制度の選択にあたってはその実現可能性が もっとも考慮され、最終的にイラク選挙管理委員会が全国一区の比例代表制を採用することを決定した。その後、統治評議会の認可を得て、2004年6月のCPA Order第96号「選挙法」に盛り込まれた。議席数は275議 席。選挙に出馬する政党は、「政治団体」として選管に登録されなければならず、個人としての立候補も可能である。登録された政党は、単独あるいは 他政党と連合を組んで候補者リストを選管に提出するが、主要政党はいずれも政党連合を形成した。選挙はクローズド・リスト(拘束名簿式比例代表制)で行われ、有権者は政党にのみ投票する。政党が獲得した票数に応じて議席数が決定され、当選者は各政党が前もって作成した候補者リストの上位から掲載順に当選が決まる。選管への提出後に順位を変更することはできない。なお、憲法によって4分の1以上の女性議員比率を実現することを求められているため(第46条第4条)、リストの掲載順を決定する際、必ず3名ごとに最低1名の女性を含まなければならないとされた。

<選挙制度:2005年12月>

2005年1月の選挙で採用された、全国一区の比例代表制という選挙制度がもたらした問題は、2005年1月の選挙でスンナ派住民が多い中部の投票率が極めて低かった結果、シーア派とクルドの票が人口比以上に議席に反映されたことであった。シーア派宗教勢力を中心とする統一イラク連合(140議席)と、クルドの二大政党が中心となって形成したクルディスタン同盟(75議席)の上位2政党だけで議席の78%を占める結果となった。この問題への対応から、12月の選挙で採用された選挙法では、全国を一区とするのではなく18県をそれぞれ一選挙区して設定することになった。制度としては引き続き、クローズド・リスト(拘束名簿式比例代表制)で実施された。

正確な有権者数が不明であったことから、各県への議席の配分は食糧配給名簿に基づいて行われ、合計230議席が18選挙区に割り当てられた。残る45議席については、補償議席として各選挙区で議席獲得に至らなかった小党に優先的に配分される(さらにその残りは、前回同様全国区比例代表制で各党に配分される)。しかし、実際にこの補償議席の仕組みによって議席を獲得することが可能となった政党は1つで、1議席のみであった。

<選挙制度:2010年3月>

およそ4年ぶりに国民議会選挙を実施するにあたって、選挙法にいくつかの変更がなされた。まず、クローズド・リスト方式(拘束名簿式比例代表制)からオープン・リスト方式(非拘束名簿式比例代表制)となり、有権者は、党とその党に所属する個人の両方に投票できるようになった。オープン・リスト方式は2009年1月 に行われた県議会選挙で初めて実施されたが、その際、比例名簿上位の候補者の落選が相次ぐ結果となった。そのため、多くの政党は国政選挙でのオープン・リスト採用に本音では 否定的だったが、透明性のある選挙を求める世論に押される形で採用が決まった。党が得た得票総数で獲得議席数が決まり、個々の立候補者の得票数に応じて当選者が決まる仕組みである。なお、憲法上4分の1以上の女性議員比率を実現する必要があるため、女性候補は獲得票数が少なくとも優先的に当選することなる。

また、「人口10万人につき1議席」との憲法上の規定に基づき、人口増加を反映して議席が拡大された。正確な人口統計が存在していないため、各県へ増加議席を分配するにあたって国民議会における議論は紛糾を極め、結局議席数は275議席から325議席まで膨らむこととなった。このうち、各県ごとの選挙区に310議席が割り当てられ、キリスト教徒などのマイノリティ枠として5県において計8議席が配分されることになった。補償議席は7議席設けられたが、この議席は各県ごとの選挙区で1議席以上獲得した政党間で、全国の得票数に応じて配分されることになっており、小党救済のための議席という位置付けではなくなっている。

<選挙制度:2014年4月>

引き続きオープン・リスト方式が採用されたが、議席配分方式がヘア式から修正サンラグ方式へと変更された。前年の2013年県議会選挙の際に、従来から使われていたヘア式が大政党に有利との批判から、より小党に有利なサンラグ方式へと変更されていた。しかし、この改正によって議席数減を余儀なくされた主要政党が国民議会選挙の選挙法改正時に巻き返しをはかり、その結果、修正サンラグ方式に変わった。

また、補償議席が撤廃され、かわりに北部3県を含む10県に1議席ずつ議席数が追加された。この背景には、クルディスタン地域の3県が他地域よりも総じて投票率が高いという事実を背景に、クルド政党が北部3県の議席増を求めたことがある。これにより総議席数は328議席となった。マイノリティ枠8議席は維持された。

なお、選挙連合、単独政党、個人など様々な資格で同等に選挙に出馬できる点は前回の選挙と同様だが、今回の選挙の特徴として、シーア派やクルド、スンナ派といった宗派民族ごとの大連合よりも、より細分化した小規模な政党連合ないしは単独政党が出馬する傾向にあり、その結果、議席獲得政党も倍以上に増加した。

<選挙制度:2018年5月>

前回同様、オープン・リスト方式、修正サンラグ方式が採用されたが、選挙法の制定にあたっては、修正サンラグ方式において議席計算に使用される除数の数値(大きいほど大政党有利となる)をめぐって激しい論争が続き、法案交渉が長引く要因となった。結局、2017年8月に成立した法案では、除数は1.7と前回の2014年と同じ数値が維持されることになった。議席数はマイノリティ枠の1議席増加して9議席となり、全体では329議席となった。

なお、今回初めて自動集計システム(有権者が投票用紙にマーキングし、それをスキャナで読み込んで投票箱に入れる)が採用された。毎回、投票結果の集計に数週間を要していたことが理由であり、このシステムの導入で、投票から2日で開票率95~97%の暫定結果、1週間後には開票率100%の選挙結果の発表が可能になった。しかしながら、ハッキングによる選挙不正が行われたのではないかという疑惑が拡大し、判事が選管委員と交代したり、異議申し立てがあった投票箱の手作業による再集計が行われたり、その間にも放火とみられる火事で一部の投票箱が焼失したり、混乱が拡大する要因にもなった。諸々の混乱を経て選挙結果が確定したのは8月19日と、選挙から3ヶ月以上が経ってからだった。なお、再集計による議席変動は1議席にとどまり、組織的な不正やハッキングがあったのかどうかは定かではない。

選挙連合については、前回同様、シーア派、スンナ派、クルドのそれぞれの内部でより細分化する傾向が続いている。さらに新たなトレンドとして、宗派の枠を越えて、アバーディ首相率いるシーア派政党からスンナ派政治家が立候補し、モスルなどのスンナ派住民地域で大きな得票を得るというケースが見られたことが特筆される。これは、2014~2017年の対IS戦においてスンナ派政党が実質的な役割を果たせなかったとい失望の裏返しであると考えられるが、こうしたトレンドは今後も続くのかどうかが注目される。

<選挙結果:2005年1月>

以下は、2005年1月30日に実施された国民議会選挙の結果である。

投票総数は855万571票で、うち有効投票数は845万6266票であった。

政党グループ獲得議席得票
統一イラク連合シーア派140 4,075,295 
クルディスタン同盟クルド75 2,175,551 
イラク・リストアラブ世俗派40 1,168,943 
イラク人たちアラブ世俗派150,680 
イラク・トルコマン戦線トルコマン69,938 
独立国民エリート集団シーア派69,938 
人民連合アラブ世俗派69,920 
クルド・イスラーム集団クルド60,292 
イスラミック・アマルシーア派43,205 
民主国民同盟スンナ派36,795 
国民ラーフィダイン・リストアッシリア33,255 
和解解放団体スンナ派30,796 

<選挙結果:2005年12月>

以下は、2005年12月15日に実施された国民議会選挙の結果である。

投票総数は1239万6631票で、うち有効投票数は1219万1133票であった。

政党グループ獲得議席得票
統一イラク連合シーア派128 5,021,137 
クルディスタン同盟クルド53 2,642,172 
イラク合意戦線スンナ派44 1,840,216 
国民イラク・リストアラブ世俗派25 977,325 
国民対話イラク戦線スンナ派11 499,963 
クルド・イスラーム同盟クルド157,688 
和解解放団体スンナ派129,847 
リサーリーユーンシーア派145,028 
イラク・トルコマン戦線トルコマン87,993 
ラーフィダイン・リストアッシリア47,263 
イラク国家のためのミサール・アルーシーのリストスンナ派32,245 
改革・発展のためのヤジーディ運動ヤジーディ21,908 

<選挙結果:2010年3月>

以下は、2010年3月7日に実施された国民議会選挙の結果である。

有効投票数は1162万1998票であった。

政党獲得議席得票
イラーキーヤ912,849,803
法治国家連合892,794,038
INA(イラク国民連合)702,092,683
クルディスタン同盟431,686,344*
ゴラン8487,181*
イラク合意6303,057
イラク統一連合4314,823*
KIU(クルディスタン・イスラーム連盟)4247,366*
KIG(クルディスタン・イスラーム集団)2153,640*
マイノリティ枠8

注:*印については、バグダード県における再集計後の結果が発表されていないため、再集計前の暫定得票数である。

<選挙結果:2014年4月>

以下は、2014年4月30日に実施された国民議会選挙の結果である(3議席以上獲得した政党の一覧)。

有効投票数は1301万3765票であった。

政党獲得議席
法治国家連合95
サドル派34
市民連合31
ムッタヒドゥーン27
KDP25
PUK21
ワタニーヤ連合21
アラビーヤ連合11
ゴラン9
国民改革潮流6
ファディーラ党6
イラク連合5
市民民主連合4
KIU(クルディスタン・イスラーム連盟)4
KIG(クルディスタン・イスラーム集団)3
アンバール忠誠連合3
その他15
マイノリティ枠8
合計328

注:サドル派はアフラール連合、国民参加集団、エリート潮流の3リストの合計。市民民主連合には、独立民主連合の議席を含む。

注:選挙区によって相乗りしているケースがあるため、各党の全国レベルでの得票数の集計はできなくなっている。

<選挙結果:2018年5月>

以下は、2018年5月12日に実施された国民議会選挙の結果である(4議席以上獲得した政党の一覧)。

有効投票数は1034万3279票であった。

政党獲得議席
サーイルーン54
ファタハ連合48
勝利連合42
KDP25
ワタニーヤ21
ヒクマ潮流19
PUK 18
イラクの決定連合14
アンバールは我々のアイデンティティ6
ゴラン5
新世代4
その他24
マイノリティ枠9
合計329

注:選挙区によって相乗りしているケースがあるため、各党の全国レベルでの得票数の集計はできなくなっている。

参考文献

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2019年1月18日

イラク/政党

サーイルーン(54議席)

宗教法学者ムクタダ・サドルが率いる政治潮流サドル派は、これまでにも選挙に参加し、議会や政府の一角を占めてきたが、決して政界の主流派ではなく、野党に近い立場で政権の汚職などを批判してきた。そして、2015年から2016年にかけて市民の抗議デモが広がった際にはその動員力を駆使して大きな存在感を示し、一部の閣僚をテクノクラートと交代させるまでに至った。2018年の選挙でも改革を旗印に掲げたサドル派の政党連合「サーイルーン」を率いて躍進し、2014年の獲得議席である34議席 を大幅に上回る54議席を得た。

だが、2018年のサドル派の得票数を2014年と比較すると、それほど大きく伸びたわけではなく、全国的に投票率が低迷した結果、固い支持基盤を持ち支持者を動員することができたサドル派が相対的に立場を上昇させたと見られる。なお、抵投票率に表れているように、既存政治家に対する市民の不信感はかなり高い。そうした声に敏感なムクタダは、選挙を前にしてこれまでサドル派の主要政党だったアフラール党を解党し、新党「イスティカーマ党」を立ち上げたが、この時に新党に横滑りすることができたアフラール党の現職議員はわずか3名だった。そのうちの一人が、5万5184票を集めて全国8位、女性候補者としてはトップ当選だったマージダ・タミーミ議員である。このように、勝てる候補者を絞り込み、ほとんど新顔を擁立するという戦略があたったと言える。

サーイルーンはイスティカーマ党を中心としつつも、政治改革という理念を共有する共産党など世俗政党も参加している。ただし、サーイルーンが獲得した54議席のうち、51議席がイスティカーマ党の議席である。

ファタハ連合(48議席)

ファタハ連合の母体は、対IS戦において軍事面で活躍した義勇兵組織、人民動員部隊である。シーア派民兵の中でもイランとの関係が深いグループが多い。ファタハ連合には18政党が参加している。政党法では政党が武装組織を持つことは禁じられており、多くが武装組織とは異なる名称の政党名を冠しているが実態は同じと見られている。

ファタハ連合が得た48議席の内訳を見ると、まず、代表のハーディ・アーミリ司令官率いるバドル組織が21議席を占めて強さを見せた。ただし、2014年の選挙においても、バドル組織はマーリキ首相(当時)率いる法治国家連合に参加して22議席を得ていたため、それを比べると1議席減である。次に、AAH(アサーイブ・アフルルハック)の政治組織「サーディクーン」がバグダードと南部で幅広く得票して15議席を得た。2014年の選挙でのサーディクーンの議席が1であったことからすると、大きな躍進である。また、人民動員部隊の報道官だったアフマド・アサディ率いる「イマームの兵士旅団」が「イラクにおけるイスラーム潮流」の政党名で2議席を獲得した。

なお、これまでシーア派主要政党の一つであった「イラク・イスラーム最高評議会(ISCI)」は、党首のアンマール・ハキームが新党「ヒクマ潮流」を形成して離党したことで壊滅的な打撃を受け、今回の選挙ではわずか2議席の獲得にとどまった。ファタハ連合内では、この他、7党がそれぞれ1~2議席を得た。

人民動員部隊は、対IS戦を機に中西部も含めてシーア派住民地域以外にも展開するようになった。2018年の選挙では、彼らが傘下に置く部族ハシュドと呼ばれるスンナ派の自警団的な武装組織が、ファタハ連合の集票に寄与する可能性が注目されていたが、サラーハッディーン県で人民動員部隊の第51旅団を率いるヤズン・ジュブーリなど、主だったスンナ派民兵候補者は落選した。したがって、ファタハ連合の集票は総じて、バドル組織やAAHなどの中心勢力のシーア派コミュニティ内部での動員力に負っていると言える。

勝利連合(42議席)

アバーディ首相はダアワ党所属だが、党首のマーリキとの折り合いが悪く、2018年の選挙にはダアワ党は党として特定の政党連合に所属せず、党員は各々個別の政党連合に所属して出馬することになった。アバーディ首相が率いた政党連合が「勝利連合」である。過去4年間近く、イラク軍を率いて対IS戦の中心人物となってきたことから選挙での勝利が予想されていたが、選挙では投票率が低迷し、市民の支持を得票に繋げられなかった。特に票田であるはずのバグダードや南部において、組織力を持つサーイルーンやファタハ連合に水をあけられたことで伸び悩んだ。加えて、アバーディ首相が所属するダアワ党は前任のマーリキ、ジャァファリと合わせて、2005年以降常に首相を輩出しイラク政界の中心にいたことで、既存のエスタブリッシュメント政治への逆風を受けた。バスラ、マイサーン、ナジャフ、ディーカールの各県の勝利連合立候補者リストのトップはいずれもダアワ党現職議員が占めていたが、4名とも落選した。むしろ当選したのは、ジャッバール・ルアイビ石油相、アドナーン・ズルフィ元ナジャフ県知事、スハーム・アカイリ・マイサーン県議会議員など、非ダアワ党員の方だった。

他方、勝利連合はバグダード、南部9県、ディヤーラ県で合計約84万票を得票する一方、シーア派住民が少ないその他4県(アンバール、サラーハッディーン、キルクーク、ニナワ)でも約29万票を獲得している。この29万票という数字は、他のシーア派主要政党の中では抜きん出て多く、スンナ派の各党や世俗政党連合ワタニーヤも凌いだ。ニナワ県のトップ当選者は勝利連合から立候補したスンナ派のハーリド・オベイディ元国防相であり、サラーハッディーン県でもアンマール・ユースィフ元県議会議長が1万票を集めて当選した。

KDP(クルディスタン民主党、25議席)

クルド民族主義政党で、エルビルやドホークなどを地盤とする。KDPが主導して2017年10月に実施されたクルディスタン地域の独立を問う住民投票が、国内外からの反発を受けて結果的に失敗に終わったことで、マスード・バルザーニは自治政府大統領の職を辞したが、今もKDP党首の座にとどまっている。政界におけるKDPのライバルかつパートナーであるPUKが、2000年代半ばから党内の分裂を食い止められず党勢が衰退していることをうけて、KDPは自治政府の要職を独占するなど、事実上、自治区はKDPの一党支配体制になりつつある。

自治区内では、2010年代半ばから原油価格下落や対IS戦の影響、イラク政府との間の予算配分問題などによって経済状況が極めて悪化しており、独立住民投票の失敗もあって、2018年の選挙では、与党であるKDPは議席を減らす可能性が指摘されていた。しかし、結果は2014年と同じ25議席を維持し、安定的な力を見せた。その背景には、特にドホーク県とエルビル県ではバルザーニ家への支持者の忠誠心や、強固に張り巡らされた党のパトロン・ネットワークの存在があるとみられる。

ワタニーヤ(21議席)

アッラーウィ副大統領率いる世俗政党だが、2018年の選挙ではサリーム・ジュブーリ国会議長率いる「改革のための市民集会」、サーレハ・ムトゥラク元副首相率いる「国民対話戦線」など、複数のスンナ派政党を取り込んで参戦した。それでも、獲得議席数は21議席と2014年と変わらず、ジュブーリ国会議長も落選した。アッラーウィ自身の個人得票数も2014年の23万票から今回は2.8万票へと激減しており、影響力の低下は免れないだろう。

ヒクマ潮流(19議席)

ISCI(イラク・イスラーム最高評議会)党首のアンマール・ハキームが2017年7 月に立ち上げた新党。ハキームは新党を若者、女性のための党で、近代的で、イラク社会の全てに開かれた党だとしている。結成時に30名強のISCI 議員のうち、20 名が新党に移ったとみられている。

ISCI の前身のSCIRI(イラク・イスラーム革命最高評議会)は1982 年にイランで当時の反体制派を集めて、サイイド・ムハンマド・バーキル・ハキームの下で形成された(ムハ ンマド・バーキルは、1970 年に亡くなった大アーヤトッラ、ムフスィン・ハキームの息子)。 その後、分裂してSCIRI は反対派のグループの一つになり、イラク戦争後にイラクに帰国した。バーキル・ハキームは2003 年8 月のテロ事件で死亡し、兄弟のアブドゥル・アジーズ・ハキームが跡を継いだ後、ISCIに改称。2009 年にアブドゥル・アジーズ・ハキームが病死すると、その息子であり創設者の甥であるアンマール・ハキームが党首に就いた。アンマールは古参幹部よりも遥かに若く、さらに若手登用で幹部は不満を持つようになったと言われている。

2018年の総選挙ではISCIの獲得議席が2議席にとどまる一方、ヒクマ潮流は19議席を獲得した。ISCIがその支持の多くをハキーム家の威光に負っていたこと、アンマールがISCI のテレビ局や外郭団体などを連れて出たことなどが影響したとみられる。

PUK(クルディスタン愛国同盟、18議席)

スレイマニヤ県やキルクーク県を地盤とする。党の創設者であり長年党首を務めていたジャラール・タラバーニが2017年10月に死去したが、党内の分裂が激しく新党首を選出できていない。

2018年選挙では、幹部の一人バルハム・サーレハ元自治政府首相が離党し、新党CDJ(民主正義連合)を結成しており、他にもスレイマニヤを中心に新党が立ち上がっていたことや、経済危機に対する市民の不満が既存政党に向かう可能性から、2018年の選挙にあたっては、PUKはかなり議席を減らすことになるのではと憶測されていた。しかし、結果は18議席と3議席減にとどまった。

それに対してキルクーク県のアラブ政党やトルコマン政党、スレイマニヤ県のクルド政党が選挙不正の疑いを申し立て、選挙結果が紛糾する主要因となった。ただし、手作業による一部再集計を経ても、PUKの議席数は変わらなかった。仮に大規模な不正がなかったとするならば、PUKの善戦の理由として、タラバーニ家の威光を前面に押し出した選挙キャンペーン、投票率が低迷する中でのPUK支持者の動員、2006年にPUKから分裂して誕生した野党ゴランの失敗への市民の失望などが考えられる。

イラクの決定連合(14議席)

スンナ派政党は、スンナ派住民が多いバグダードと中部5県を中心に出馬しているものの、いずれも党としての歴史が浅く組織力も弱い。そのため、選挙のために県ごとに様々な政党連合が組まれ、入れ替わりも激しい。2018年選挙ではヌジャイフィ副大統領を代表として「イラクの決定連合」が形成され、政党連合としては14議席を得た。しかし、ヌジャイフィ自身が党首であるムッタヒドゥーンは、2014年の選挙では27議席を得てスンナ派政党の代表格となったものの、2018年は別の政党連合に参加して得た議席を合わせても3議席に過ぎず、大きく失速した。ニナワ県でのヌジャイフィの個人得票数も1万票強で、7万票以上を得たオベイディ元国防相(勝利連合から立候補)に大きく引き離された。

他のスンナ派政党についても、ジャマール・カルブーリ率いるハッル党、ハミース・ハンジャル率いるアラブ計画などが、複数の政党連合に参加して議席を得たが、いずれも一桁に留まっている。

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2019年1月18日

イエメン/現在の政治体制・制度

大統領制をとる共和制。現在の政治体制は、1990年憲法および1994年、2001年の憲法改正によって規定されている。行政権は、大統領と内閣に属する。大統領は直接選挙による公選制で、任期7年、三選禁止。大統領は当選後に、副大統領1名と首相を任命し、大統領と首相の協議により、首相が閣僚を任命する。大統領は議会で可決された法案を発布するが、法案の再審議を求めて議会に差し戻すことができる。差し戻された法案を議会が再度過半数により可決した場合、大統領はその法案を2週間以内に発布する。大統領は議会閉会中に、憲法と予算に反さない限りにおいて、法的効力を持つ大統領令を発することができるが、それは開会された議会に提出され、承認されなければならない。

立法権は議会に属する。議会は定数301名で、すべて小選挙区による選出と憲法に規定されている。また、議会のほかに大統領により議員が任命される諮問評議会がある。これは立法機関ではないが、議会に準ずるものとされ、有識者が大統領および議会に対し必要な提言を行なう。1994年憲法改正により設置され、2001年憲法改正により拡充された。定数は59名から111名に増員され、上記提言とともに、議会との合同会合において大統領選挙候補者の指名や開発計画の承認、条約の批准を行なうこととなった。これにより、大統領選挙候補者の指名に関わる規定は、議会と諮問評議会の合同会合メンバーの5%(21名)以上の推薦と候補者3名以上に変更された。

司法機関は、憲法により「法的、財政的、行政的に自立した機関」とされ、「検察当局は下部機関のひとつ」とされる。司法と検察の成員は、法により規定された条件を除いて解任されず、最高司法会議が裁判官の任命、昇進、解任を執行する。

2000年1月に、イエメン初の地方自治法が公布された。地方自治法は、1994年憲法改正において規定された地方評議会の設置に基づくもので、それは以下のように規定している。州知事およびムディール(州より下位の行政区域ムディーリーヤの長)はそれまで通り中央政府により任命され、それぞれの地方評議会の議長を務める。州評議会の議員は、州を構成する各ムディーリーヤから1名ずつが選出される。ムディーリーヤ評議会の議員は、住民の規模に応じ17~27名が各ムディーリーヤにて選出される(任期はともに4年)。両評議会はそれぞれ、その選出議員の中から事務総長を選出する(事務総長は慣習的に、それぞれ副知事、副ムディールと呼ばれている)。地方評議会に条例などの議決権はなく、その職務は当該行政区域における開発計画等の決定や予算の承認および監査であり、事務総長がそれらに関わる準備や調整を担当する。この地方評議会は行政機関の一部として、地元の民意を地方行政に反映させる、もしくは地方行政を監督するためのものと位置付けられている。 その後、州知事およびサナア市長は地方評議会による間接選挙で選出されることとなり、2008年5月17日に選出が行なわれた。 

2011年のサーレハ大統領辞任、2012年のハーディー大統領就任のあと、2013年3月から新憲法制定のための基本方針を決める包括的国民対話会議が始まった。包括的国民対話会議は2014年1月、連邦制導入などの方針を決定して閉幕したが、その後ハーディー政権は憲法案作成を行なわず、さらに翌2015年3月以降の内戦により、憲法制定作業はなされていない。

参考文献

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2019年1月18日

イエメン/最近の政治変化

1990年5月22日、南北イエメンは統合を発表し、イエメン共和国が成立した。統一以前の南イエメンは、中東で唯一マルクス・レーニン主義を標榜する共産主義国家であり、イエメン社会党(YSP)一党独裁下でソ連型の国家体制を続けていた。北イエメンでは政党が禁止されていたが、国民全体会議(GPC)が唯一の公認政治団体として存在し、その大政翼賛的な性格をもって、実質的に単独支配政党の役割を果たしていた。冷戦構造崩壊に伴う北イエメン主導の統一においては、統一が実現する絶対条件としての「対等合併」が強調され、実際にそれを基本とする政治体制が形成された。

統一に際し、アデンで開催された第1回議会(北の議会議員159名と南の最高人民会議議員111名に任命議員31名を加えた301名)は、1981年に南北イエメン統一憲法合同委員会(1977年国境衝突の停戦合意であるクウェート協定に基づき設置)が作成した憲法案を、そのまま統一国家の憲法として承認した。同時に議会および政府は、その第39条に規定されていた「団体結成の自由」を複数政党制の承認と解釈し、その導入を決定した。政府の最高意思決定機関としては、5名からなる最高評議会(GPCから3名、YSPから2名)が設置され、その議長(北のアリー・アブドッラー・サーレハ大統領)が大統領、副議長(南のアリー・サーレム・ベイドYSP書記長)が副大統領とされた。GPC・YSPによる連立内閣の下、首相には南のアッタース最高人民会議幹部会議長(大統領)が就任し、大臣・次官ポストは南北出身者がそれぞれ同数を占め、それはすべての省において南北出身者による組み合わせとなった。

翌1991年5月に憲法は国民投票で承認され、正式に公布された。また、同年には政党・政治団体法(1991年66号法)が施行され、複数政党制に移行した。これによりGPCは正式な政党となったが、同時に保守派や左派(ナセル主義やバアス主義)が分離して新党を結成し、その大政翼賛的な性格を失った。南イエメンにおいても複数の新党が結成され、政党数は一時40を超えた。1992年には選挙法(1992年41号法)が施行され、1993年4月に第1回総選挙(301議席、任期4年)が実施された。選挙結果は、サーレハ大統領を党首とするGPCが122議席で第一党であったが、YSPは56議席で第三党に転落した。代わって第二党となったのは、63議席を獲得したイエメン改革党(イスラーハ)であった。これは、GPCから離脱した保守派の議員が北のハーシド部族連合長アブドッラー・ビン・フサイン・アハマルを党首に迎えて結成したもので、北イエメン北部の部族勢力と南部のウラマー層(ムスリム同胞団系)が合体したイスラーム政党であった。

いずれの政党も過半数に達しなかったため、サーレハ大統領はGPC・YSP・イスラーハによる三党連立内閣を発足させた。最高評議会はGPCとYSPが各2名にイスラーハが1名、閣僚はGPCが15名、YSPが9名、イスラーハが6名となり、首相はYSPのアッタースが留任し、議会の議長にはイスラーハ党首のアハマルが選出された。これは統一間もない政治状況のなかで、挙国一致態勢を確立しようとしたものであったが、それは逆に「政治危機」と呼ばれる事態を招く結果に陥った。YSPは、党中央委員会で社会主義放棄を決定したものの、党内の不一致から党大会を開催できず、その左派的傾向を強く残していた。それゆえ、保守的なイスラーハとはもともと水と油の関係であったが、連立政権でともに政策に関わるようになると、一気にその対立関係が表面化した。北イエメンでは、ハーシドおよびバキールと呼ばれる2つの部族連合を中心とする北部の部族勢力に対し、サーレハ政権が長く優遇・懐柔政策を続けていた。部族勢力はその民兵力を背景に大きな政治的影響力を有しており、政権の維持には彼らの暗黙の了解が不可欠とされている。YSPがこの部族勢力優遇に反対して急進的な政治改革を求め、それにイスラーハが強く反発したことが、対立の主たる要因であるといわれる。この対立は、イスラーハ支持者によるYSP幹部への襲撃事件を続発させ、1993年8月にベイド副大統領が職務放棄してアデンに引きこもったことから、「政治危機」に発展した。 

「政治危機」に対しては様々な和解や仲介が試みられたが、その最中にも各地に駐屯する旧南北の軍部隊間で武力衝突が頻発し、結局彼らは翌1994年5月に内戦に突入してしまう。アッタース首相らのYSP最高幹部はアデンのベイド副大統領に合流し、南イエメンの分離・独立(イエメン民主共和国)を宣言した。しかし、YSP議員の大半はサナアに残り、南イエメンでもアビヤンやハドラマウトなどの各地方が、彼らに同調しなかった。サーレハ政権は優勢を保ちつつ戦局を進め、7月にベイドらが国外に逃亡して、内戦は2ヶ月で統一維持派の勝利に終わった。内戦に際し、YSPは連立政権からはずれ、党本部を含む資産を凍結されたが、その政党活動やサナアに残留した議員53名の身分および政治活動は維持された。 

内戦終結後の1994年9月、議会は憲法を改正し、翌10月にサーレハを大統領に選出した。改正憲法では最高評議会が廃止され、大統領制の導入およびその権限強化(副大統領は大統領の任命など)、大統領公選制の導入がなされるとともに、シャリーアを法源とする規定や諮問評議会の導入、地方評議会・地方選挙の導入(後述)などが新たに盛り込まれた。ただし、この時の議会による憲法改正および大統領選出は、内戦後の非常事態による例外的措置とされ、議会による承認のみで国民投票は行われなかった。サーレハ大統領は、南イエメン出身のアブドッラッボ・マンスール・ハーディー(1986年アデン内戦で敗退し、北イエメンに亡命後GPCに参加)を副大統領に指名し、GPCとイスラーハによる二党連立内閣を成立させた。 

内戦により国民経済が破綻寸前の危機に陥ったイエメンは、1994年からIMF・世銀と構造調整受け入れのための協議を開始し、翌1995年から構造調整による大規模な融資および政治経済改革が始まった。これにより国家再建が進んだが、民営化や都市部での起業にかかわる利権では、サーレハ支持層である退役軍人や部族長などが優遇され、サーレハの権力基盤が強化された。

1997年4月、任期満了に伴なう第2回総選挙が実施され、301議席中GPCが過半数の187議席(65議席増)を獲得し、初めて単独政権を樹立した。イスラーハは10議席減の53議席にとどまり、YSPは党資産凍結の継続などに抗議して選挙をボイコットし、無所属で4候補が当選した。その他の無所属は51議席、諸派(2党)は5議席。 

1999年9月、イエメンで初めての大統領直接選挙が実施された。大統領選挙候補者は議会議員の10%(31名)以上の推薦を必要とし、議会は2名以上の候補者を指名しなければならない規定であったが、最大野党のイスラーハは候補者を出さない決定を行ない、YSPと他の野党は「政府・GPCより議員に対し、YSPから大統領候補を出さないよう圧力があった」として、選挙のボイコットを表明した。結局、GPC議員が推薦して指名された現職のサーレハ大統領と、無所属議員が推薦して指名されたナジーブ・カハターン・シャアビー(1967年南イエメン独立時に初代大統領となり、1969年に失脚したカハターン・シャアビーの息子)の候補者2名による選挙となった。しかし、南イエメン出身とはいえ、支持基盤を持たないシャアビー候補者には支持が集まらず、選挙自体は完全な「無風」と化して、サーレハ大統領が有効投票数の96.3%を獲得して再選された。1994年10月の議会によるサーレハ大統領の指名は内戦後の例外措置とされたため、サーレハ大統領の任期はこれが正式な大統領選挙を経た1期目とされた。 

翌2000年1月に地方自治法が公布された。地方自治法は、94年改正憲法において規定された地方評議会の設置に基づくもので、それは以下のように規定している。州知事およびムディール(州より下位の行政区域ムディーリーヤの長)はそれまで通り中央政府により任命され、それぞれの地方評議会の議長を務める。州評議会の議員は、州を構成する各ムディーリーヤから1名ずつが選出される。ムディーリーヤ評議会の議員は、住民の規模に応じ17~27名が各ムディーリーヤにて選出される(任期はともに4年)。両評議会はそれぞれ、その選出議員の中から事務総長を選出する。

また同年8月には、大統領より議会に対し憲法改正が提案された。議会はその審議を続け、同年11月に憲法改正案を賛成多数で可決した。その内容は、大統領および議会議員任期の2年延長(それぞれ5年から7年、4年から6年)、大統領の議会解散権強化、諮問評議会の拡充、自由主義経済体制の明記などであった。諮問評議会は立法機関ではないが、議会に準ずるものとされる。これは、1994年改正憲法でその設置が規定されたもので、有識者が大統領および議会に対し必要な提言を行なう機関とされた(憲法改正後にそのメンバー59名が大統領より任命)。改正案ではそのメンバー数(111名に増加)および職務が拡充され、各種の提言とともに、議会との合同会合において大統領選挙候補者の指名や開発計画の承認、条約の批准を行なうこととなった。改正案において、大統領選挙候補者の指名に関わる規定は、議会と諮問評議会の合同会合メンバーの5%(21名)以上の推薦と候補者3名以上に変更された(大統領選挙において過半数を獲得した候補者がいない場合は、上位2名による決選投票を行なう規定には変更なし)。 

2001年2月、憲法改正案に関わる国民投票とイエメン初の地方選挙が同時に実施された。憲法改正に関する国民投票では、賛成が77.42%(201万8527票)であった。国民投票での憲法改正案承認を受け、サーレハ大統領は同年4月に諮問評議会メンバーを任命している。地方評議会選挙では、州評議会(19州と首都特別区の20評議会、全401議席)選挙でGPCが277議席を獲得(得票率69%)、ムディーリーヤ評議会(全6213議席)選挙でもGPCが3771議席を獲得(60%)して勝利した。イスラーハは州評議会で78議席(19%)、ムディーリーヤ評議会で1433議席(23%)、YSPが州評議会で16議席(4%)、ムディーリーヤ評議会で218議席(4%)となっている。これら3党以外の州評議会議員はすべて無所属で30議席(7%)、ムディーリーヤ評議会議員は諸派6党で42議席(1%)、無所属で749議席(12%)であった。 

2001年憲法改正により議会の任期が2年延長となったことから、第3回総選挙は2003年4月に実施された。GPCは全301議席中229議席を獲得して圧勝し、以下イスラーハの46議席、YSPの7議席、諸派(2党)の5議席、無所属14議席と続いた。政権与党GPCの42議席増に対し、最大野党イスラーハは7議席減となり、またYSPの巻き返しもならなかったことから、サーレハ大統領率いるGPCの安定政権がより固定化された結果となった。また、このときイスラーハ党首のアハマルはGPCからも公認を受け、イスラーハとGPCに両属する議員として当選し、引き続き議長に選出された。 

2005年7月、翌年の大統領選挙への出馬と当選が確実視されていたサーレハ大統領は、突然選挙への不出馬を表明した。統一前の北イエメンで1978年に大統領に就任して以降、統一後を合わせてこの時点で27年間も大統領職にあることから、後進に道を譲りたいとの理由であった。しかし、その後GPCはサーレハ以外の大統領候補を擁立せず、2006年6月24日以降にサナアや地方都市でサーレハ出馬を求めるデモが続いた。このデモを受け、サーレハは7月5日に大統領候補への登録を行なった。 

2006年9月20日、第2回大統領選挙と第2回地方評議会選挙が同時に実施された。大統領選挙では、議会と諮問評議会の合同会議において5名の候補者が指名された。現職のサーレハ候補の独走と見られたが、著名な実業家であるファイサル・ビン・シャムラーン候補(野党のイスラーハ、YSP、ナセル統一、ハック党、イエメン人民勢力同盟の推薦)が集会などで予想外の動員力を発揮し、選挙戦は両者の一騎打ちとなった。しかし、結果はサーレハ候補が有効投票の77.17%を獲得して2期目の大統領に就任し、シャムラーン候補の得票は21.82%にとどまった。 

地方評議会選挙では、州評議会(20州と首都特別区の21評議会、全431議席)選挙でGPCが315議席を獲得(得票率74.12%)、ムディーリーヤ評議会(333評議会、全6869議席)選挙でもGPCが5078議席を獲得(73.75%)して大勝した。他の政党は、イスラーハが州評議会で28議席(6.59%)、ムディーリーヤ評議会で794議席(11.50%)、YSPが州評議会で10議席(2.35%)、ムディーリーヤ評議会で171議席(2.48%)、無所属が州評議会で20議席(4.71%)、ムディーリーヤ評議会で571議席(8.27%)となっている(そのほかは諸派)。 

それまで大統領による任命であった州知事および首都サナア市長が、地方評議会からの間接選挙によって選出されることとなり、2007年5月17日にその選挙が実施された。州知事20人およびサナア市長の計21人のうち、18人が与党GPCによって占められ、3州(マーリブ、ベイダー、ジョウフ)の知事が無所属であった。当選者は、現職の知事のみならず、現職の副知事や中央政府の現職や元職の閣僚、次官、与党幹部、元大使、元軍幹部などであった。州知事の直接選挙を要求していた諸野党は、選挙のボイコットを宣言したが、投票に参加した野党の地方評議会議員もいた。

2007年、議会議長・イスラーハ党首・ハーシド部族連合長のアブッドラー・アハマルが死去し、長男のサーディク・アハマルがハーシド部族連合を継いだ。イスラーハ党首には、ムスリム同胞団のムハンマド・ビン・アブドッラー・ヤドゥーミーが就任し、議会議長は翌2008年に、GPCのヤヒヤー・アリー・ラーイが選出された。

2009年4月、議会は同年に予定されていた第4回総選挙の2年間延期を可決した。延期の理由は、比例代表制の導入を含む一連の議会・選挙制度改革のためであった。しかし、選挙人登録に多数の不正が発覚したための延期であるとの報道や、ホーシー派(2004年以降、サアダ州で政府軍と武力衝突。イラン革命防衛隊の支援を受ける)、南部運動(通称ヒラーク。2007年以降、旧南イエメンの平和的な再分離独立を求める諸組織の総称)、イスラーム過激派の活動、ソマリア沖海賊への対処など、問題山積の状況がこの総選挙延期に影響しているとの観測もある。

2011年4月に 予定される第4回総選挙のあと、議会において大統領任期と議会議員任期を2年間短縮して元の5年と4年に戻す、選挙制度に比例代表制を導入するなどの憲法改正を行なう予定であったが、2010年12月に与党GPCより、これに大統領の三選禁止規定廃止を加える新たな憲法改正案が提示された。野党は強く反発し、これに反対するデモを呼びかけたが、参加者が集まらず不発に終わった。

しかし、2011年1月、チュニジアの政変に触発されたサーレハ退陣を求める大規模なデモが発生した。サナアでの反政府デモは長期化、常態化し、同様なデモは国内各都市にも波及した。5月以降、部族勢力やイスラーム過激派(アラビア半島のアルカーイダAQAP)と政府軍との戦闘も続き、事態の混迷に拍車をかけた。ホーシー派は、サアダ州に加えて隣接するハッジャ州、ジョウフ州を掌握し、南部では新たなイスラーム過激派であるアンサール・シャリーアが、内陸部で勢力圏を確保して実質的な自治を始めた。サーレハ政権はサウジアラビアに仲介を依頼し、サウジアラビアはGCC外相会議においてこの問題を協議して、GCCイニシアチブ(アブドッラッボ・マンスール・ハーディー副大統領への権限移譲、挙国一致内閣、サーレハ大統領への訴追免除など)を提示した。11月23日、サーレハ大統領はこの調停案に署名し、ハーディー副大統領に権限を委譲。12月7日には、野党勢力のムハンマド・バーシンドアを首相とする挙国一致内閣が成立した。2012年1月21日、議会はGCCイニシアチブに沿ってサーレハ訴追免除のための法案を可決し、ハーディー副大統領を大統領選挙の単独候補に指名した。2月21日に実施された大統領選挙で、ハーディーが当選した(信任投票)。大統領選挙後の2年間を移行期間として、その間に憲法改正、議会選挙、大統領選挙が行われる予定となった。2012年4月、ハーディー政権はサーレハの長男アハマド・サーレハ(精鋭の共和国防衛隊司令官)や異父弟アリー・ムフシン(精鋭の第一機甲旅団長。2004年からホーシー派との戦闘を指揮。2011年にサーレハ辞任を求めるデモに合流)を含む、サーレハ親族の軍高官を更迭した。

しかし、憲法改正などに関わる方針を各政治勢力の代表によって協議する機関とされた包括的国民対話会議の設置が大幅に遅れ、2013年3月にようやく設置された。2014年1月、包括的国民対話会議は連邦制導入などを骨子とする合意文書を発表し、移行期間を1年延長して憲法制定と議会選挙、大統領選挙を1年以内に実施することとした。 

2014年2月、ホーシー派がサアダ州からサナア北方のアムラーン州に進出し、7月には州都アムラーンを占拠した。8月、ホーシー派はサナア近郊に達し、9月に生活基礎物資値上げに抗議するデモに合流してサナア市内に進出した。その後、政府軍と衝突して一部の政府機関などを占拠した。 9月21日、政府とホーシー派は停戦に合意し、バーシンドア首相が辞任した。ハーディー大統領は10月7日にアフマド・アウド・ビン・ムバーラク大統領府長官を首相に任命したが、ホーシー派とGPCがこれを拒否した(本人も辞退)。10月13日、ハーディー大統領はハーリド・マフフーズ・バッハーフ国連大使(元石油相・首相。2011年にGPCを離脱して無所属)を首相に任命した(ホーシー派は拒否せず)。 ホーシー派のサナア占拠に際し、サーディク・ハーシド部族連合長やアリー・ムフシンはサウジアラビアに逃亡した。

 ホーシー派は、ハーディー大統領に対し憲法案作成や選挙準備、経済政策の実施などを要求したが、政府の対応は遅々として進まなかった。2015年1月、ホーシー派はハーディーを軟禁し、翌2月には「革命委員会」を組織して2年間の暫定統治を開始した。3月、ハーディーはサナアを脱出してアデンに向かい、自らの政権の正当性を主張した。その直後、サナアのモスクでAQAPによる大規模な爆弾テロが発生し、幹部を含む多数のホーシー派メンバーが死亡した。これを契機として、ホーシー派はサナアより南方に本格的な侵攻を開始した。同じ3月、サウジアラビアはアラブ有志連合(サウジアラビア、クウェート、UAE、カタル、バハレーン、エジプト、スーダン、ヨルダン、モロッコ、パキスタンが参加)を組織し、ホーシー派への空爆を開始した。ホーシー派は4月にはアデン近郊に達し、アデンを巡る攻防戦が続いた。5月、サウジアラビアとUAEがアデンとマーリブ州に地上軍を派遣し、ホーシー派はサウジアラビアへの弾道ミサイルによる攻撃を始めた。一方、イスラーム過激派では、2014年にアンサール・シャリーアからイスラーム国が分派した。AQAPとイスラーム国は、南イエメンの内陸部や東部で勢力圏を拡大するとともに、ホーシー派とアデンのハーディー政権の双方に攻撃を仕掛けている。

2016年4月、アリー・ムフシンがハーディー政権の副大統領に就任し、首相もアハマド・オベイド・ビン・ダガル副首相(GPC、元通信相)に交代した。5月、UAEと米が支援する南部諸勢力(南部運動を背景とする複数の政治団体、武装勢力)が、ハドラマウト州の州都ムカッラをAPAQから奪還した。7月、サナアのホーシー派とサーレハ支持派は、革命委員会に代わる統治組織として「最高政治評議会」を設けた。

2017年1月、UAEが支援する南部諸勢力は紅海沿岸部に進出し、3月にはモカを掌握した。5月、南部諸勢力の中心的な組織である「南部移行評議会」(UAEが支援)がアデンを掌握した(正副大統領は従前からサウジに在住)。12月、サーレハはGPC総会でサウジアラビアとの和平に言及し、サウジアラビアもこの発言を歓迎する意向を示したが、その2日後にホーシー派はサーレハを殺害した。サウジに在住していた長男アハマドは復讐を表明したが、イエメン国内に特段の動きはなかった。2018年5月、紅海沿岸部を進撃していた南部諸勢力はホデイダ近郊に達し、イエメン最大の港湾都市ホデイダへの攻撃を開始した(一方、UAEはソコトラ島に地上軍を上陸させ占領)。しかし、ホデイダは陥落せず、戦線は膠着した。12月、国連の仲介によりホーシー派とハーディー政権は和平協議を行ない、ホデイダ州全域での停戦に合意した。2019年3月現在、合意されたホデイダからの両派部隊の撤退は、なされていない。

参考文献

  • 松本弘「イエメンの民主化」『現代の中東』27号(1999年7月)、pp.27-41。
  • ―――「イエメン民主化の10年」『現代の中東』39号(2005年7月)、pp.24-39。
  • ―――「イエメン:政党政治の成立と亀裂」、間寧編『西・中央アジアにおける亀裂構造と政治体制』JETROアジア経済研究所、2006年、pp.95-158。
  • ―――「民主化と構造調整―イエメンの事例から―」『中東研究』500号(2008年6月)、pp.206-211。
  • ―――「イエメン―政変とイスラーム主義―」『中東研究』512号(2011年9月)、pp.17-28。
  • ―――「イエメンの混迷―その背景と特質―」『国際問題』605号(2011年10月)、pp.38-47。
  • ―――「イエメンの民主化と部族社会―変化の中の伝統―」、酒井啓子編『中東政治学』有斐閣、2012年、pp.67-80。
  • ―――「イエメン・ホーシー派の展開」、酒井啓子編『途上国における軍・政治権力・市民社会―21世紀の「新しい」政軍関係―』晃洋書房、2016年、pp.112-129。
  • ―――「イエメンにおける政治と部族」『中東研究』526号(2016年5月)、pp.33-43。
  • ―――「イエメン内戦の背景と特質」『海外事情』64巻9号(2016年9月)、pp.18-29。
  • 「特集 イエメン―忘れられた『アラブの春』の落とし子―」『アジ研ワールド・トレンド』248号(2016年5月)、pp.2-38。
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