月別: 2019年1月

政治変動DB記事
2019年1月18日

趣旨

このホームページは、人間文化研究機構(NIHU)「現代中東地域研究」東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所(AA研)拠点に属する政治変動研究会のものです。政治変動研究会は、文字通りイスラーム諸国の政治変動を研究することを目的としていますが、その活動のひとつに「中東・イスラーム諸国 政治変動データベース」の構築と公表があります。このホームページには、そのデータベースが掲載されています。

データベースの対象国は、中東(西アジアと北アフリカ)のみならず、中央アジア・南カフカス、西南アジア、東南アジアのイスラーム諸国(人口の半数以上をムスリムが占める国々)であり、データベース掲載国はこれから順次増えていく予定です。

データベースは、各国ごとに「政治体制・制度」、「最近の政治変化」、「選挙」、「政党」の4項目からなっています。「政治体制・制度」は憲法などに規定された三権の内容など、国家の基本構造を解説し、「最近の政治変化」は近年の政治的変化を簡潔にまとめています。「選挙」は選挙制度の解説と最近の議会選挙や大統領選挙などの結果を記載し、「政党」は政党制度と主要な政党、政治団体を解説しています。

以前に比べると、新聞などのメディアで多くの国の選挙が報道されるようになりました。1990年の冷戦崩壊以降、「民主化の第三の波」と呼ばれた大きな政治変動を経て、大半の国々で選挙がより大きな政治的意味を持つようになった結果であろうと思います。しかし、報道レベルでの選挙の結果やその解説は、量的・時間的制約などから、どうしても簡略化された内容となり、その意味するところが読者一般に十分には伝わっていないことが多いように思います。そこで、まずはデータベースの当該国をご覧いただき、その国の選挙結果にかかわるさまざまな内容や変化を理解する一助としていただきたいということが、我々の当面の目的です。

しかし、政治変動研究会やそのデータベースの目的は、これにとどまりません。イスラーム諸国に限らず、日本における諸外国の政治研究に最も欠けている点は、基礎研究であろうと思われます。もちろん、眼前の政治状況や事件が、報道だけでなく外交や経済活動の第一の関心事であることは明らかです。しかし、その理解のためには、憲法の規定やその変遷、選挙・政党に関わる制度とその変化など、政治変動の基層や背景にある基本情報の整理と提供が不可欠であることも、また明らかであると思います。冷戦期には、憲法規定や選挙自体にかかわる政治的意味が小さかった事例も多くありましたが、冷戦崩壊後には、それらの意味は格段に重要度を上げています。それゆえ、対象各国にかかわる政治制度や選挙・政党の基礎研究が、政治変動研究会の目的になります。

また、冷戦崩壊後の民主化は政治的な安定とは逆に、内戦などの混乱や、民主化の後退といった再権威主義化をもたらした事例もあります。2011年「アラブの春」のあとの、いくつかのアラブ諸国はその典型例ですが、そのような政治的な混乱や不安定にかかわる研究も当然、政治変動研究会の目的になります。さらに、少数ではありますが、政治制度として政党や立法権を有する議会が存在しないという国々もあります。これらの事例もデータベースの対象国とし、その政治制度や政治状況にかかわる解説を提供します。

データベースの各国の執筆者には、気鋭の研究者を揃えることができました(ぜひ「執筆者一覧」をご覧ください)。執筆者の方々には、完全なボランティアでこの研究会にご参加いただいております。この場をお借りして、厚く御礼申し上げます。「中東・イスラーム諸国 政治変動データベース」が、対象の国々の政治的な制度や変化の理解に資することができれば、それは執筆者陣の望外の喜びです。上記しましたように、データベース掲載国は順次増えていきますので、継続してご覧いただければと思います。なお、データベースにおける執筆者の見解は個人のものであり、現代中東地域研究によるものではないことを記しておきます。

(文責:松本弘)

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現在の政治体制・制度
インドネシア
2019年1月18日

インドネシア/現在の政治体制・制度

インドネシア共和国の政治体制の基本構造は1945年憲法に規定されている。すなわち5年を任期とする大統領を国家元首とし、最高議決機関は国民協議会(MPR)である。しかしその権力構造は時代によって大きな変化を遂げている。初代大統領スカルノは大衆動員を行い、イスラーム系政党と共産党を含めた翼賛体制を作ろうとしたが失敗、経済的な破綻と50万人とも言われる1965年の共産党員虐殺(9月30日事件)とともに体制が崩壊した。9月30日事件後の事態を収拾して権力の座についたスハルトは、大統領を任命する国民協議会を大統領であるスハルト自身が握り、安定的な「開発独裁」体制を形成した。野党への法的政治的介入によって、議会では翼賛的な「与党」ゴルカルがつねに独占的な立場にあった。さらに、スハルト大統領は国会の承認が不要な大統領決定を多用し、法律もほとんど制定されなかった。

スハルト体制下における大統領への権力集中や構造的な汚職、政治的自由や言論の自由への抑圧は、国民の批判や反発を生んでいたが、体制への取り込みと厳しい取り締まりというアメとムチによって長期政権を揺るがすことはほとんどなかった。流れが変わったのは1997年のアジア通貨・金融危機以降である。通貨ルピアの下落による急速なインフレは国民生活を圧迫し、1998年に入ると学生を中心とした反体制デモが次第に激しさを増した。他方、高齢のスハルト大統領への退陣要求は政権エリートにも波及した。5月12日に首都ジャカルタのトリサクティ大学で治安部隊が学生デモに発砲した事件をきっかけに、スハルト退陣要求が勢いを増し、各地で暴動が発生した。事態を収拾できなくなったスハルトは5月21日に辞任した。この間、学生や知識人に主導された改革勢力は、デモのみならず、政府・国軍・議会の関係者との間で討論会や集会を開催した。この過程でゴルカルのなかからも政治改革を進めようとするグループが現れ、スハルトに辞任勧告を行った。

スハルトの辞任を受けて、副大統領のハビビが大統領に昇格した。ハビビが正当性を示すためには民主化の推進以外に方策はなかった。1年あまりの間に、政治活動やメディアの自由化、国軍の政治機能の廃止、警察の国軍からの分離、地方分権の推進などの改革が行われた。

1998年以降、4度の憲法改正を経て事実上の新憲法制定といえるほどの大刷新が行われた。まず大統領への権力集中への反省から、その権限が大きく縮小された。大統領の任期は2期10年と定められ、長期の権力保持ができなくなった。大統領に認められていた立法権も否定され、大統領は法案の提案権を持つのみになった。国会の解散権は明確に否定、人事権にも制限が加えられた。

国民協議会は2004年総選挙以降、国会(DPR)議員(2004~09年550人、2009年~560人)と地方代表議会(DPD)議員(2004~09年150人、2009年~132人)から構成されている。民主化後多党化が進み、連立政権が常態化、権限を縮小された大統領は国民協議会や国会の運営に苦労することになった。2001年には第4党の民族覚醒党から大統領に選ばれたアブドゥルラフマン・ワヒドが国民協議会によって罷免されるに至った。しかし不安定な権力構造と国民協議会の行き過ぎた権力行使に対して批判が高まった。2002年の第4次憲法改正では国民協議会の優越性が否定され、また大統領が国民の直接選挙によって選出されることにより、大統領の正統性が再度高められることとなった。こうして2004年に初めて直接選挙によって大統領が選ばれたスシロ・バンバン・ユドヨノは、2期10年の安定政権を築いた。

独裁的な体制の一翼を担っていた国軍の政治的な機能も制限されるようになった。スハルト時代の国軍は軍務と政務を担当するという「二重機能」ドクトリンを掲げ、国会に任命議席を持っていた他、各地方に配置された軍管区は村レベルまで日常的な監視を行っていた。民主化後、二重機能の廃止、国防への専念、政治的中立などを求める国防法(2002年)、国軍法(2004年)が成立した。国軍の公式な政治からの撤退は定着し、クーデターの可能性は極めて低くなった。しかし国軍は非公式には依然強力な発言権を維持している。また国軍は予算の半分以上を自己調達しているため、違法なビジネスへの関与が危惧されている。

民主化後のインドネシアにおける政治構造のいまひとつの特徴は急速な地方自治の拡大である。1999年に制定された地方行政法と地方財政法によって地方財政の裁量権が大幅に拡充された。利権の確保を目指し、あるいは地域主義の台頭などによって、多数の州や県が全国で新設された。2005年にはそれまで地方議会によって選ばれていた地方首長が直接選挙によって選出されるようになった。2014年10月に大統領に就任したジョコ・ウィドドは、2005年に初めての直接選挙で中ジャワ州スラカルタ市の市長に選ばれると、その斬新なスタイルと行政改革などの政策で人気を呼び、2012年にジャカルタ州知事、そのわずか2年後に国政の頂点に立った。直接選挙の導入は、政党不信も相まって、有権者から直接支持を調達するポピュリスト型の地方首長を生むことになった。ジョコ・ウィドドの大統領当選以降、地方首長選が大統領への登竜門として注目されるようになった。

参考文献

  • 川村晃一「政治制度から見る2004年総選挙―民主化の完了、新しい民主生活の始まり」、松井和久・川村晃一編著『メガワティからユドヨノへ インドネシア総選挙と新政権の始動』明石書店、2005年、75-99ページ。
  • 本名純「インドネシア【政治・外交】」『新版 東南アジアを知る事典』平凡社、2008年、634-636ページ。
  • 増原綾子『スハルト体制のインドネシア―個人支配の変容と一九九八年政変』東京大学出版会、2010年。
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インドネシア
最近の政治変化
2019年1月18日

インドネシア/最近の政治変化

民主化以降のインドネシアでは、大統領選出に前後して大連立が組まれることが常態化していた。しかし、直近の2014年大統領選挙はジョコ・ウィドド(以下、通称のジョコウィ)とプラボウォ・スビアントの大接戦となり、その後の国政は大統領選に際して組まれた連立に基づく与野党対立が続いている。当選したジョコウィ大統領が野党切り崩しによる地歩固めを行い、在野の急進的なイスラーム勢力と連合した野党の巻き返しが起こった。そしてインターネット上の辛辣なやりとりが常態化している。国政はもっぱら、2019年の再選を目指すジョコウィとこれを阻止しようとする野党勢力とのせめぎ合いに終始している。

ジョコウィ政権は少数与党で始まり、国会の主要ポストは野党に独占された。しかし老獪な人事と野党の切り崩しを組み合わせ、ゴルカル党、開発統一党が党の分裂を経て与党連合に加わった。明確な野党は、プラボウォのグリンドラ党とイスラーム主義の福祉正義党だけになった。ジョコウィはインフラ整備に力を入れる一方、大統領選で弱みになった、リーダーシップの欠如と世俗的イメージの改善を図り、高い支持率を維持している。

2019年の大統領選に向け、盤石に見えたジョコウィ政権であったが、これを揺るがしたのが2016年末の「宗教冒涜」事件である。きっかけは、華人でキリスト教徒のバスキ・チャハヤ・プルナマ(通称アホック)による「宗教冒涜」発言であった。アホックは9月末の遊説で、コーランの一節を根拠に異教徒の指導者を認めない勢力を茶化した。この発言が編集されてソーシャルメディアで拡散した。イスラーム急進派がアホックへの抗議運動を指揮し、これに野党勢力も加わって、1998年以降最大規模の動員に成功した。ジョコウィに近いアホックへの抗議は、ジョコウィの立場も危うくした。

ジョコウィは一部強権的な手段も使ってこの難局を乗り切ったが、プラボウォ擁立を核とする野党は2019年大統領選挙へ向けて在野のイスラーム急進派との連携を深めている。もっとも、プラボウォは2018年7月時点で大統領選への出馬を明言していない。鍵を握るのは与野党連合から距離を置く、ユドヨノ前大統領とその民主主義者党の動向である。最終的な大統領正副候補の組み合わせは、2018年9月21日の候補者登録締め切りまで予断を許さない。

参考文献

  • 見市建「<インドネシア>庶民派大統領ジョコ・ウィドドの「強権」」『21世紀東南アジアの強権政治 「ストロングマン」時代の到来』明石書店、2018年、209-244ページ。
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インドネシア
選挙
2019年1月18日

インドネシア/選挙

国会議員選挙

インドネシアは独立以降(独立宣言1945年、(独立戦争の終結1949年)、1955、1971、1977、1982、1987、1992、1997、1999、2004、2009、2014年と11度の総選挙を行った。このうちスカルノ初代大統領下の1955年は比較的自由な選挙であったが、スハルト大統領下における71年から97年までの6度の総選挙には政府による厳しい統制と介入があった。1973年にナショナリスト系諸政党がインドネシア民主党、イスラーム系諸政党が開発統一党に統合された(政党簡素化)。翼賛的なゴルカル(職能団体)がつねに60%以上の得票をし、独占的な立場にあった。

スハルト体制崩壊後に行われた1999年以降の総選挙においては、より民主的な手続きがとられるようになった。総選挙では、下院に当たる国会(DPR)と上院に当たる地方代表議会(DPD)、地方議会(州・県・市議会)選挙も同時に行われる。選挙のたびに細かな制度変更が行われており、国会の定数は500から、550、560へと増加した。選挙制度は、1955年の第1回総選挙以来つねに比例代表制が採用されてきたが、完全拘束名簿式、条件付非拘束名簿式と変わり、2009年総選挙では完全な非拘束名簿が導入された。非拘束名簿の採用によって、政党より候補者個人の人気に選挙の結果が左右される傾向が強まった。なお、この制度導入に当たっては、一時は国会が実質的な拘束名簿の採用を決めたが、憲法裁判所がこれを違憲とした経緯があった。2014年選挙での変更は小さく、選挙参加要件の厳格化と、議会獲得のための最低得票率が1%引き上げられて3.5%になった。政党数を削減による、議会運営の安定化を意図したものであった。ただし、この選挙の前に憲法裁判所が2008年大統領選挙法の一部に違憲とし、2019年選挙からは、議会選挙と大統領選挙が同時に実施されることになった。これまで、国会議員選挙の結果によって、大統領候補擁立の合従連衡がなされてきており、大きなゲームのルールの変更となった。

政党名( * がイスラーム系政党)1999年2004 年2009 年2014 年
闘争民主党 (PDI-P)33.7%153議席18.6%109議席14%94議席19%109議席
ゴルカル党22.4%120議席21.6%127議席14.5%106議席14.8%91議席
グリンドラ党4.5%26議席11.8%73議席
民主主義者党 (PD)7.5%56議席20.9%148議席10.2%61議席
民族覚醒党 (PKB) *12.6%51議席10.6%52議席4.9%28議席9%47議席
国民信託党 (PAN) *7.1%34議席6.4%53議席6%46議席7.6%49議席
福祉正義党 (PKS) *1.4%7議席7.3%45議席7.9%57議席6.8%40議席
国民民主党 (Nasdem)6.7%35議席
開発統一党 (PPP) *10.7%58議席8.1%58議席5.3%38議席6.5%39議席
ハヌラ党3.8%17議席5.3%16議席
イスラーム系政党合計36.5%38.4%29.1%31.4%

2014年選挙の結果議席を獲得した政党のみ。*はイスラーム系政党(著者作成)

大統領選挙

大統領は従来国民協議会で選出されていたが、2004年から全国1区の直接投票となり、国会議員選挙と同時に行われるようになった。政党の支持を得た正副大統領のペアで立候補し、過半数票と全国の州の半分以上で20%以上の票を得られれば当選となる。この要件を満たす候補者がいなければ、上位2組で決選投票が行われる。候補者の擁立ができるのは国会議員選挙の得票率25%以上もしくは国会議席の20%以上を得た単独もしくは複数の政党である。この要件を単独の政党が満たすことは極めて難しく、大統領と国会の関係を安定化させるために、政党間の協力を促すことを意図している。

2004年選挙では5組が立候補し、上位2組による決選投票の結果スシロ・バンバン・ユドヨノ―ユスフ・カラ組が当選した。2009年選挙では3組が立候補し、スシロ・バンバン・ユドヨノ―ブディオノ組が第1回目の投票で過半数を占めて当選した。「継続」をキーワードに再選に挑んだユドヨノが負けたのはわずか5州、得票は60%を超える圧勝だった。2014年選挙はジョコ・ウィドド―ユスフ・カラ、プラボウォ・スビヤント―ハッタ・ラジャサの2組で争われ、かつてない大接戦のうえ、53.15%を獲得したジョコ・ウィドド組が勝利した(「最近の政治変化」参照)。ユスフ・カラは二度目の副大統領就任である。

参考文献

  • 川村晃一「2014年選挙の制度と管理」川村晃一編『新興民主主義国インドネシア―ユドヨノ政権の10年とジョコウィ大統領の誕生―』アジア経済研究所、2015年、15-36ページ。
  • 川村晃一・東方孝之「国会議員選挙―民主主義者党の勝利と業績投票の出現―」、本名純・川村晃一編『2009年インドネシアの選挙―ユドヨノ再選の背景と第2期政権の展望―』アジア経済研究所、2010年、13-37ページ。
  • 川村晃一・見市建「大統領選挙―庶民派対エリートの大激戦―」川村晃一編『新興民主主義国インドネシア―ユドヨノ政権の10年とジョコウィ大統領の誕生―』アジア経済研究所、2015年、73-93ページ。
  • 本名純「大統領選挙―ユドヨノ再選の権力政治と動員プロジェクト―」、本名純・川村晃一編『2009年インドネシアの選挙―ユドヨノ再選の背景と第2期政権の展望―』アジア経済研究所、2010年、39-55ページ。
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インドネシア
政党
2019年1月18日

インドネシア/政党

総選挙に参加できる政党は全国規模の組織を有する必要がある。政党法に定められた要件を満たした法人として法務・人権省に登録した上で、2012年改正の政党法ではすべて州に支部を設置し、その州内の4分の3以上の県・市に支部を設置することなどが義務づけられている。2004年総選挙では24政党、2009年総選挙では38政党が参加した。2009年総選挙より、歴史的経緯からナングロ・アチェ・ダルサラーム州に限り地方政党の選挙参加が認められた。2014年総選挙では参加政党は12まで減ったが、議席獲得政党は10に上った。同選挙では得票率2割を超える政党はなく、国会は一層の多党化が進んだ。

2008年の選挙法改正では代表阻止条項が規定する最低得票率が従来の1.5%から2.5%、2012年には3.5%に引き上げられ、小規模政党は一層不利になった。従来の制度では最低得票率に満たない政党は次回の総選挙への参加を禁じられていたが政党名を変えるだけで済み、多党化を防ぐ実質的な効果はなかった。2009年総選挙に際しては得票率2.5%以下の政党は議席も配分されなくなった。この結果、1999年総選挙から参加を続けていた月星党は国会で議席を失った。

インドネシアの政党は大きく世俗ナショナリスト系とイスラーム系に区分されてきた。1955年総選挙では国民党と共産党、マシュミ党とNU党が四大政党を形成した。こうした区分は依然として有効であるものの、両者の境界は曖昧になりつつある。ナショナリスト系政党は敬虔さをアピールし、イスラーム系政党は国家や社会のイスラーム化よりも反汚職や大衆の福祉などを訴えるようになった。ジョコ・ウィドド政権では、闘争民主党、ゴルカル党、民族覚醒党、開発統一党、ナスデム党、ハヌラ党が与党連合、グリンドラ党、福祉正義党が野党連合を組んでいる。野党連合は在野のイスラーム急進派を取り込み、政権批判を強めているが、与党連合にもイスラーム系政党が存在する。

2014年選挙の結果国会に議席を獲得したのは以下の政党である。このうち民主主義者党は2004年、グリンドラ党とハヌラ党は2009年、国民民主党は2014年に初参加した新党である。

闘争民主党(Partai Demokrasi Indonesia Perjuangan, 略称PDI-P)

スハルト時代の野党インドネシア民主党を前身とする。インドネシア民主党は1973年の「政党簡素化」によって、世俗ナショナリスト系やキリスト教系の諸政党が統合されたものである。1997年総選挙に際し、影響力を強めつつあったスカルノ初代大統領の娘メガワティが体制側の介入によって党首の座を解任された。闘争民主党はこのメガワティを中心とした分派によって結党された。1999年総選挙では第1党になり、2001年のワヒド大統領罷免を受けてメガワティが大統領に就任した。しかし、メガワティの大統領としての資質、同党の未熟な議員による汚職事件や私兵組織による廃退行為が失望や反発を生み、2004年総選挙では大幅に得票を減らした。メガワティは2004年、2009年の大統領選挙に出馬したが、いずれもユドヨノに敗れている。ジョコ・ウィドドを大統領候補に戦った2014年総選挙では第一党に復帰したが、得票率は2割に満たなかった。2014年10月に成立したジョコ・ウィドド政権ではメガワティの後継者と目される娘のプアン・マハラニが初めて入閣した。

ゴルカル党(Partai Golongan Karya, 略称Golkar) 

1964年にインドネシア共産党に対抗して設立され、スハルト時代には翼賛組織として独占的な「与党」となったゴルカル(職能集団)は民主化後、「党(Partai)」を組織名に加えて再出発した。2009年総選挙まで毎回得票を減らしたが、地方まで浸透する最も安定的な党組織と支持層を維持している。非ムスリムの国会議員もつねに1~2割は存在するが、とりわけジャワ以外ではスハルト体制期の長年の支配によって、イスラーム団体関係者も党内に多く抱える。ユスフ・カラの大統領選敗北後、2009年10月に実業家で前国民福祉担当調整相のアブリザル・バクリが党首に選出された。2014年大統領選挙では、ジョコ・ウィドドの副大統領候補となったユスフ・カラではなく、プラボウォ組を支持、野党連合に加わった。ジョコ・ウィドド政権発足後、ゴルカル党は政権支持をめぐって分裂したが、結局与党連合に加わった。近年は闘争民主党への依存を減らしたいジョコ・ウィドド大統領との接近が顕著である。

グリンドラ党(Partai Gerakan Indonesia Raya[大インドネシア運動党] , 略称Gerindra)

2007年結成の農民漁民党を前身とする。大統領選挙出馬を目指していたスハルトの娘婿で元陸軍戦略予備司令官のプラボウォが加わって、2008年4月に現在の党名に変更された。豊富な資金力を背景にテレビCMを大規模に展開して有権者への浸透を図った。そこで売り出したのは庶民の味方というポピュリスト的なイメージであり、かつてのプラボウォによる人権侵害への批判や強権的なイメージを払拭しようとした。2009年大統領選挙ではメガワティの副大統領候補として立候補したが、第1回投票で敗れた。2014年総選挙では、イメージ戦略に加え、前選挙で議席を得られなかった小政党を吸収して勢力を拡大、退役軍人のネットワークを活用、各地で地方有力者を取り込んで全選挙区で一議席を確保して第三党に躍進した。プラボウォは2014年大統領選挙に敗れ、福祉正義党と共に野党連合を形成、2019年の次期大統領選に向け、政権との対立姿勢を明確にしている。

民主主義者党(Partai Demokrat, 略称PD

2004年総選挙に際して、スシロ・バンバン・ユドヨノを大統領に擁立すべく設立された政党。ユドヨノの人気によって2009年には第1党に成長したが、既存の大政党に比較して党組織は脆弱でとりわけ地方の人材が不足しているといわれる。2009年選挙のスローガンは「宗教的ナショナリズム」であり、ユドヨノ大統領自身とともに、「穏健だが、宗教的」なイメージを売り込んだ。2009年選挙で当選した同党国会議員の6割以上が経済界出身者であった。2014年総選挙では、次世代のリーダーと目された指導者たちの汚職容疑による逮捕、ユドヨノの人気凋落とともに党勢を半減させた。

ジョコ・ウィドド政権発足後は、与野党連合から共に距離を置いている。またユドヨノは自身の後継者として、軍人だった息子のアグス・ユドヨノを退役させ、2017年2月のジャカルタ州知事選に立候補させた。

民族覚醒党(Partai Kebangkitan Bangsa, 略称PKB)

最大のイスラーム団体ナフダトゥル・ウラマー(NU)を支持母体とする政党。NUの元議長で2000年に大統領となったアブドゥルラフマン・ワヒドのイニシアティブによって結党された。イスラーム団体を基盤としながらも、「民族」を掲げて国民政党を目指した。「覚醒」(kebangkitan)はNUの「ナフダトゥル」(アラビア語で覚醒)を想起させるインドネシア語、ロゴマークもNUに類似している。宗教的にNUへの親近感が強く、NU系のプサントレン(イスラーム寄宿学校)指導者の影響力が強い東ジャワ州と中ジャワ州の一部に支持者が多い。「改革派」として期待された1999年総選挙では12.6%を獲得したが、内紛を繰り返し、勢力を弱めている。2009年総選挙に際しては、ワヒド派とムハイミン・イスカンダール(現党首)派との分裂が法廷闘争に持ち込まれ、正当性を認められなかったワヒド派は選挙をボイコットするに至った。2014年総選挙では分裂状態を解消して党勢を回復したが、得票率は1割を切っている。2014年大統領選挙ではジョコ・ウィドドを支持し、与党連合の一角を占めている。

国民信託党(Partai Amanat Nasitional, 略称PAN)

 NUに次ぐイスラーム団体ムハマディヤの元会長で1998年の民主化運動の指導者の一人アミン・ライスを中心に設立された政党。ロゴマークはムハマディヤのマークに類似しているが、「国民」を掲げ、キリスト教徒も幹部に迎えた。総選挙では都市部を中心につねに得票率6〜7%台の安定的な支持を受けている。アミン・ライスは2004年大統領選挙に立候補したが、第1回投票で敗れた。ビジネス出身の現党首ハッタ・ラジャサは、2009年大統領選挙ではいち早く再選を目指すユドヨノを支持し、第二次ユドヨノ政権の経済担当調整大臣を務めた。ハッタ・ラジャサは2014年大統領選挙ではプラボウォの副大統領候補になったが、接戦の上、敗退した。ジョコ・ウィドド政権発足後、一時は与党連合入りを表明して大臣職も得たが、野党連合とも近い関係を維持している。

福祉正義党(Partai Keadilan Sejahtera, 略称PKS)

ムスリム同胞団をモデルとした大学キャンパスにおける宣教運動が発展して1998年に結成された正義党を前身とする。正義党は1999年総選挙で代表阻止条項の最低得票率(1.5%)を下回ったため、2004年総選挙前に福祉正義党が新たに結党された。2004年総選挙では、既存政党への不信感を背景に清廉潔白なイメージを売る福祉正義党への期待が高まり、都市部で躍進、ジャカルタ特別州では約23%を得票して第1党になった。2009年総選挙は微増、2014年総選挙では初めて得票率を減らした。そのイデオロギー的背景と組織的性格から、排他的との批判を受ける一方で、2004年以降は日和見主義的との評価もなされるようになった。10年間のユドヨノ体制下では3つの大臣ポストを維持した。とりわけ2005年に地方首長選挙が有権者の直接投票となると、多数派工作のためにあらゆる政党と連立を組んだ。2010年7月には「開かれた政党」となることを宣言し、さらに現実主義を強めている。しかし2013年には当時の党首ルトゥフィ・ハサン・イシャクが汚職で逮捕され、大きなイメージダウンになった。2014年大統領選挙では、プラボウォ陣営に付き、ジョコ・ウィドド体制下では野党になった。

 2015年8月に指導体制を一新し、ソヒブル・イマンが党首、サリム・セガフ・ジュフリが宗教評議会議長に就任した。ソヒブル・イマンは学部から博士課程まで日本で教育を受けている。

国民民主党(Partai NasDem, 略称NasDem)

元ゴルカル党政治家でテレビ局MetroTVなどを所有するスルヤ・パロが2011年7月に設立した政党。2014年総選挙では唯一新党として参加が認められ、得票率6.7%の支持を得た。同年の大統領選挙ではいち早くジョコ・ウィドドへの支持を表明し、MetroTVも活用して当選に貢献した。内閣などの戦略的ポストに複数の党員を配置している。ジョコ・ウィドドの再選も一貫して支持、地方首長選挙でも大衆的人気が高い候補の擁立に貢献する戦略で、小党にも関わらず大きな影響力を持っている。

開発統一党(Partai Persatuan dan Pembangnan, 略称PPP)

 スハルト時代の1973年に「政党簡素化」によって、イスラーム諸政党を統合して結成された。「開発」と「統一」という体制イデオロギーを政党名に背負わされ、また度重なる体制側の介入と内紛に悩まされた。婚姻法の制定などイスラームに関係する議題で政府に反対して存在感を示すこともあった。1987年選挙に際しては党内最大勢力のNUが同党の公式な支持を取りやめ、得票が落ち込んだ。1998年以降、ロゴマークをカーバ神殿、党原則をイスラームに戻してイスラーム色を明確にした。NUの一部ウラマーなどから根強い支持がある。しかし、結党以来の派閥争いは解消されず、2004年選挙前に改革の星党と分裂した他、2009年大統領選挙でも候補擁立(ユドヨノかメガワティか)において二転三転した。2014年大統領選挙ではプラボウォを支持したが、ジョコ・ウィドド政権成立直前に与党連合へ加わり、二つの党執行部に分裂した。その後、政権支持側が裁判で勝ち、与党連合の一員となった。

ハヌラ党(Partai Hati Nurani[民衆の真心党], 略称Hanura)

スハルト体制末期に国軍司令官、国防治安相を務め、2004年大統領選挙ではゴルカル党から立候補(第1回投票で落選)したウィラントが退役軍人らと共に2006年12月に設立した政党。ウィラントは2009年大統領選ではユスフ・カラ(当時のゴルカル党首、副大統領)と組んで、副大統領候補となったが第1回投票で敗れた。 2014年総選挙ではテレビ局RCTIなどを所有する華人のメディア王ハリー・タヌスディビジョを副党首、ウィラントの副大統領候補に迎えたが得票率は5.3%に留まった。大統領選挙ではハヌラ党はジョコ・ウィドドを支持したが、ハリー・タヌスディビジョは党と袂を分かってプラボウォ側に付いた。ハリー・タヌスディビジョは2015年2月にインドネシア統一党(略称Perindo)を設立し、紆余曲折のうえ、ジョコウィ政権支持を表明している。

参考文献

  • 森下明子「2009年国会議員にみるインドネシアの政党政治家と政党の変化」、本名純・川村晃一編『2009年インドネシアの選挙―ユドヨノ再選の背景と第2期政権の展望―』アジア経済研究所、2010年、91-108ページ。 
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現在の政治体制・制度
バングラデシュ
2019年1月18日

バングラデシュ/現在の政治体制・制度

バングラデシュは人口の9割をムスリムが占めている。同国の人口が1億6175万人(同国統計局による2017年度統計)であることを考えると、1億4000万人以上のムスリム人口をかかえていることとなり、実数でいえば、インドネシア、パキスタン、インドに次ぐ世界第4位のムスリム人口となる。そして、このような大多数のムスリム人口を背景とし、バングラデシュの国教はイスラームに規定されている。

現在バングラデシュでは、定数300名および、選出された議員の割合に応じて配分される女性留保議席50名の計350議席によって構成される、5年任期の一院制議会制度がとられている。しかし、議会制のもとでの民主主義の歴史は浅く、1975年から1990年までは、軍部出身の大統領に権限が集中し、国会が意味をなさない形骸化した議会制度、もしくは直接の軍政下にあった。バングラデシュ政治の実質的な民主化は、1990年にH・M・エルシャド政権が学生運動を主体とした民主化運動によって倒された後の憲法改正によって、大統領を元首とする議院内閣制度が確立した1991年になされたといえる。

現政権与党のアワミ連盟(Awami League)は2014年1月5日に実施された国会総選挙において、全議席の77%を獲得し、民主化以降初の二期連続の政権党となった。しかしながら、最大野党バングラデシュ民族主義党(Bangladesh Nationalist Party:以下BNP)が参加をボイコットした状態で投票を実施したことから、選挙の正当性に対して国内外より疑問符がつけられた。以下に、現在のバングラデシュ政治体制に関する論点を整理したい。 

(1)政治体制・政治制度の概観

バングラデシュにおける現在の政治体制の柱は議院内閣制である。行政権は内閣総理大臣に与えられる。大統領は、国家の元首および軍の最高司令官として定められており、総理大臣、大臣、および最高裁判所裁判官の任命権を有する。しかし、大統領は首相の助言にしたがって行動しなければならない。また、交戦権の行使には議会の承認が必要である。

立法権は議会に属し、議会は任期5年の一院制である。内閣総理大臣は議会によって選出される。内閣総理大臣は内閣の人事権を有する。議席数は350議席で、直接選挙による300人定員の普通選挙に加えて、50人の女性留保議席がある。女性留保議席に関しては、普通選挙の得票率に従って政党ごとに割り当てられる。

司法権は、行政・立法権から独立する旨の憲法規定があるが、議会の3分の2以上の賛成で裁判官の罷免が可能である。裁判所は最高裁判所(Supreme Court)、高等裁判所(High Court)、下級裁判所(Subordinate Court)が憲法により定められている。これとは別に、軽度の民事訴訟においては村裁判によって裁判がおこなわれることもある。

(2)2大政党対立による政情不安

1991年の民主化以降、バングラデシュにおいては、アワミ連盟とBNPが交互に政権を担ってきた。そして、政権が交代する度に、野党側が「不正選挙」結果の取り消し要求、長期間にわたる議会ボイコットや政党傘下の学生組織を動員しての街頭デモやホルタル(ゼネスト)など、激しい反政府活動を展開し、国政を混乱させてきた。与党側も政策決定過程において実質的に野党を排除し、前政権の汚職の摘発や要職者の逮捕などをつうじて、野党の力を弱めようと画策した。また、中央から末端の地方行政、国立大学にまでおよぶ役職人事を政治的に任命し、影響力を強めてきた。2大政党のどちらが政権の座についても、同様のパターンが繰り返されており、今日までバングラデシュの政情混迷の主要因となっている。

国内で最も長い歴史を誇るアワミ連盟は、パキスタン時代にムジブル・ラフマン総裁を中心に自治権拡大運動を展開した。独立後、ムジブル・ラフマン総裁は初代首相(後に大統領)に就任したが、次第に強権的性格を強め、1975年の軍事クーデターによって暗殺された。後継者として、長女のシェイク・ハシナ(現首相)が総裁に就任した。

一方のBNPは、1975年の軍事クーデターの主導者の一人である、ジヤウル・ラフマン陸軍参謀長(77年に大統領)が、民政移管に備え1978年に結成した官製政党である。ジヤウル・ラフマン大統領もまた、1981年に軍内部の対立から暗殺され、その後はカレダ・ジア夫人が総裁に就任した。

このように、両党の現総裁は、過去に大統領であった近親者を軍事クーデターによって暗殺されている。特に、初代大統領のムジブル・ラフマン暗殺の際には、大統領本人だけでなく一族の大半が殺害された(ハシナ現総裁は外遊中で殺害を免れた)。そしてクーデターの後に、軍部内の権力闘争に勝ち抜いて、自らBNPを結成し政権の座についたのがジヤウル・ラフマンであったことから、両総裁の間には晴れることのない遺恨が存在する。 

現在では、両党の間には、支持基盤や理念に違いはみられるものの、政策的には大きな差異はなく、むしろ党首間の心情的確執や利権の争奪、権力への強い固執からくる泥仕合的な対立が目立っている(村山2012)。現段階では上記二大政党に割って入るだけの支持基盤と強いリーダーシップを持つ政党・政治家が存在しないことから、国民はどちらかに国政を託すしかないのが現状である。2008年総選挙実施にあたり、ノーベル平和賞受賞者であるグラミン銀行のムハマド・ユヌス総裁が新党立ち上げを画策したが、実現しなかった。また、国政・地方に関わらず、選挙の不正に関する報道はあとをたたず、バングラデシュの議会制民主主義は、民意を反映する仕組みとしてはいまだ未成熟であるといえる。

(3)軍の影響

1991年の民主化以降、軍の間にも二大政党の対立が浸透しているといわれているが、軍の中立的姿勢と実行力は、2007年から2008年にかけての非政党選挙管理内閣を経て、国民の高い支持を得るにいたった。

2006年10月、2001年より国政を担っていたBNP政権が任期満了で退陣し、解散後90日以内に国会選挙を実施するために設けられる、非政党選挙管理内閣が発足した。1996年の憲法改正で導入されたこの制度は、与野党どちらの側にも与しない中立的な立場の暫定内閣を組閣し、選挙管理委員会を支援・監視することにより、国会選挙の公正性を担保することを目的としている。しかし、内閣人事などを巡り政党間の対立が激化し、国内の治安が悪化したため、同内閣のイアデュッディン大統領は2007年1月11日、バングラデシュ全土に向けて非常事態宣言を発令するとともに、全土に夜間外出禁止令を出した。そして軍の後援のもと、翌12日にファクルッディン・アーメド元中央銀行総裁を首班とする非政党選挙内閣が再発足した。

ファクルッディン政権は、これまで2大政党のどちらもが自らの足下への波及を恐れて着手してこなかった政治改革を断行した。特に、汚職の一掃にむけた取り組みは、大々的に実施され、元閣僚を含む政治家や官僚、企業家を矢継ぎ早に逮捕した。その対象は政治の中枢にまでおよび、BNPのカレダ・ジア総裁、アワミ連盟のシェイク・ハシナ総裁も汚職容疑で逮捕される事態となった(08年6月にハシナ総裁は海外での病気治療を理由に仮釈放され、ジア総裁も08年9月に保釈された)。報道によれば、400人以上におよぶ汚職容疑者リストは軍部によって用意されたとされる。そのため、軍部は、汚職のない環境制度作りに寄与し、2大政党による利益誘導型の政治にメスを入れたとして国民の高い支持を受けた。一方で、選挙実施にむけたロードマップ作成の遅れから、アメリカをはじめとする欧米諸国から、軍の強い影響下にある非政党選挙管理内閣が長期化することへの危惧が示されたが、結果として2年後の2009年12月に議会選挙が実施され、無事民政移管が果たされた。

このように、バングラデシュ政治における軍部の影響力は、国民の支持を背景に決して小さくないが、現状では軍部が全面にでて長期間政治運営をおこなうことは困難であると思われる。一つには外国援助依存がきわめて高いバングラデシュにおいては、欧米のドナー諸国の意向、とりわけ民主化促進、基本的人権の擁護を求める外的圧力が働き、軍政をしくこと自体が難しくなっている。また、軍の関心は、機微な舵取りと利害調整が求められ、時として軍内部でのクーデターに発展する恐れのある国内政治への関与から、議会制民主主義のもと民主化が前提となっている国連平和維持軍の派遣によって得られる経済的利益に移行していると考えられる。バングラデシュは2018年5月の段階でPKOミッションに7099人を派遣しており、世界第2位の派遣国である。バングラデシュにとっては、外貨と軍組織の維持費獲得、そして国際的な地位向上という派遣へのインセンティブがある。また、将兵個々人の経済的メリットも大きく、派遣兵士の平均月給は約75、680TK(約1、100USドル)となっている。この額は少尉クラスの基本給10、000TK、准将クラスの基本給38、565TKに比べると格段に高い(IWGIA 2012)。軍のリクルートサイトには海外勤務での手厚い追加手当てがうたわれており、国軍兵士を目指す動機付けとなっている。

非政党選挙管理内閣を支援したモイーン・アフマド陸軍参謀長は、自身の回顧録において、国連の平和維持軍担当の事務次長から、すべての与野党が参加したもとでの公正な選挙が実施されない場合には、バングラデシュ軍を平和維持軍から外すことを検討するとの警告があったとしたうえで、平和維持軍への機会が奪われた場合、限られた収入しかない兵士たちの不満を抑えるのは難しいと指摘した(堀口2009)。実際、2009年2月には平和維持軍への参加資格のない準軍事的組織である国境警備隊(BDR)が、平和維持軍への参加を含めた待遇改善を求めて反乱をおこし、軍関係者57人が殺害される事件が発生している。

軍政を引くと紛争国として扱われ、PKOへの参加資格を失うことから、現状のバングラデシュにおいては、PKOミッションという国外での役割が軍部に国内で政治に干渉することを思いとどまらせているといえる。また、2011年の第15次憲法改正によって、軍による国家権力の掌握と憲法停止に対して、極刑を含む厳しい処罰に処することが規定された。これは、2007年から2008年の軍後援の非政党選挙管理内閣下において、両党総裁を含む政治家多数が汚職容疑で逮捕された経験から、軍の介入を警戒してアワミ連盟がうった布石である。これらのことからも、今後軍が積極的に政権運営に介入することの政治的合理性はないといえる。

(4)イスラームと政治

BNPを創設したジヤウル・ラフマン大統領は、憲法から政教分離を削除し、コーランの一文を挿入するなど、イスラームに対して寛容な姿勢をとった。そして、独立戦争時にパキスタンに与した政治家の起用や、イスラーム政党の解禁を通じて、イスラーム勢力を取り込む政治姿勢を示した。続くエルシャド政権は、休日を日曜日ら金曜日に変更し、1988年には、憲法改正によってイスラームを国教化した。このようなジヤウル・ラフマン、エルシャドの両軍人政権を通じて、イスラームへの配慮の姿勢を示すことが重要視される政治的土壌がつくられたといえる。

1991年の民主化以降は、イスラーム主義政党が2大政党の間でたびたびキャスティンボードをにぎることによって、その存在感を示すようになった。主な政党としてイスラーム協会(Jamaat-e-Islami、Bangladesh:以下JI)とイスラーム統一戦線(Islami Oikiya Jote)がある。これらの政党は、イスラーム国家の実現や市民法に代わってイスラーム法を導入することなどを主張しており、イスラーム原理主義的傾向が強い。二大政党の中では、近年BNPがイスラーム主義政党と共同戦線を張る傾向がみられる。1996年の総選挙では、BNPとJIの離反がアワミ連盟の勝利へと結びついた。一方で2001年の総選挙では、BNPがイスラーム主義政党と共闘することによってアワミ連盟に勝利し、イスラーム主義政党が政権与党の一角を占めるにいたった。

しかしながら、BNPとイスラーム主義政党の連立政権下においては、非合法イスラーム武装主義勢力による爆弾事件が頻発したことから、武装主義勢力との関係が噂されるイスラーム主義政党や、連立政権を組むBNPは国民の支持を得られなくなり、2008年の総選挙では惨敗した。

代わって政権を奪取したアワミ連盟は、独立戦争時の戦争犯罪を裁く国際戦争犯罪法廷を設置し、イスラーム主義政党への攻勢を強めた。1971年の独立戦争当時、パキスタン軍に協力して独立運動を弾圧したとされる「戦争犯罪者」の中にはJIのメンバーが多く含まれている。国際戦争犯罪法廷の目的がJI指導者を裁判にかけることにあり、総選挙を視野にいれた野党勢力の切り崩しであるとしてBNPやイスラーム主義政党は批判を強めた(補足参照 )。

参考文献

  • アジア経済研究所編『アジア動向年報(各年版)』アジア経済研究所.
  • 日下部尚徳「バングラデシュの政治情勢:国内で抗議デモが頻発、暴動も-JI副総裁に死刑判決-」『金融財政ビジネス』、10316号、pp.10-14、時事通信社
  • 日下部尚徳「バングラデシュ総選挙をめぐる情勢不安-民主的で穏健なイスラム国家の行方-」『金融財政ビジネス』、10386号、pp.16-19、時事通信社
  • 佐藤宏編著『バングラデシュ: 低開発の政治構造』アジア経済研究所.
  • 佐藤宏「国をめぐる模索」『バングラデシュを知るための60章』pp. 23-26、 明石書店.
  • 佐藤宏「議会制民主主義のゆくえ」『バングラデシュを知るための60章』pp. 40-43、 明石書店.
  • 高田峰夫『バングラデシュ民衆社会のムスリム意識の変動-デシュとイスラーム-』明石書店.
  • 村山真弓「憲法第15次改正で再選への布石」『アジア動向年報2012』pp. 440-464、アジア経済研究所
  • 堀口松城『バングラデシュの歴史』明石書店.
  • A. T. Rafiqur Rahman. 2008. “Bangladesh Election 2008 and Beyond: Reforming Institutions and Political Culture for a Sustainable Democracy”. The University Press Limited.  
  • IWGIA. 2012. “Militarization in the Chittagong Hill Tracts、Bangladesh”. IWGIA・Organising Commitee CHT Campaign・SHIMIN GAIKOU CENTRE.
  • Mudud Ahmed. 2012.“Bangladesh: A Study of the Democratic Regimes”. The University Press Limited.

※参考文献は全項目に共通

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バングラデシュ
最近の政治変化
2019年1月18日

バングラデシュ/最近の政治変化

1民主化の経緯

 1-1独立と中央集権化

自治権とベンガル語の公用語化要求に端を発し、1971年、第3次印パ戦争を経て、東パキスタンはバングラデシュとして独立した。そして、翌1972年にムジブル・ラフマン政権(アワミ連盟)のもと、民主主義、社会主義、政教分離を柱とする議院内閣制を基本制度とした憲法を制定した。当政権が社会主義と政教分離主義を目指した背景としては、パキスタンへの対抗上インドに近い立場をとったこと、当時のインドが冷戦構造の中でソ連陣営に与していたことなどが考えられる。しかし、独立後の経済停滞、物価高騰、洪水被害、援助物資の横流しなどによって高まった政権に対する批判を抑えこむため、ムジブル・ラフマン政権は大統領制へと移行し、一部の政党を非合法化するなど中央集権的な政治体制となっていった。

1-2軍事政権とイスラーム主義

1975年、青年陸軍将校によるクーデターによって、ムジブル・ラフマンが自宅にて殺害された。その際、ムジブル・ラフマン本人だけでなく、夫人や3人の息子を含む一族の大半が殺された(現アワミ連盟総裁のシェイク・ハシナは当時ヨーロッパを外遊中で難を逃れた)。事件後、ジヤウル・ラフマン陸軍少将がクーデターをおこして政権を掌握したが、ジヤウル・ラフマンも1981年に軍内部のクーデターによって暗殺された(表1)。事件以降政権を掌握したH・M・エルシャド陸軍中将とあわせて、バングラデシュにおいては15年間軍人主導の政治が続いた。ジヤウル・ラフマン政権、H・M・エルシャド政権ともに、政権掌握後、自らの政権の受け皿として政党を結成した上で選挙を実施し、自らが大統領として政権運営をおこなった。この過程の中で生まれたのがジヤウル・ラフマンのBNPであり、エルシャドのジャティオ・パーティ(Jatiya Party:以下JP)である。

また、政教分離主義を目指したアワミ連盟と異なり、イスラーム主義の復活もこの両政権の特徴であった。ジヤウル・ラフマンは1977年に憲法前文に「慈悲深く、慈愛遍くアッラーの御名において」の一句を挿入し、政党としてイスラーム主義を全面に押し出した。エルシャドは1982年にアラビア語を義務教育化した。1988年にはイスラームを国教と規定し、週の休みを、日曜日からイスラームの安息日である金曜日に変更した。

表1 バングラデシュにおける主なクーデター
1975年8月15日青年将校らにより、ムジブル・ラフマン大統領が、夫人や3人の息子をはじめとする近親者とともに殺害される。
11月3日軍部内のムジブル・ラフマン支持派であったハレッド・ムシャラフ准将が、巻き返しのクーデターを起こす。
11月7日軍内部で反ハレッド・ムシャラフ派によるクーデターがおき、ジヤウル・ラフマン陸軍参謀長が権力を掌握する。ジヤウル・ラフマンは77年4月に大統領に就任。
1981年5月30日軍部内の改革派グループにより、ジヤウル・ラフマン大統領がチッタゴンで側近に暗殺される。
1982年3月24日無血軍事クーデターによりフセイン・ムハマド・エルシャド戒厳司令官が権力を掌握し、戒厳令を引いた。翌年、エルシャドは自らが大統領であると宣言。

1-3民主化運動

1986年、市民および諸外国の民主化要求に応じる形で行われた総選挙において選挙操作があったとして、エルシャド政権に対する民主化運動が盛り上がりを見せるようになった。中心的な役割を果たしたのは学生や知識人で、首都ダッカを始め、国立大学のあるチッタゴンやシレット、ラジシャヒなどの大学キャンパス付近で反政府デモが繰り返されるようになった。この民主化運動の際にはムジブル・ラフマンの娘シェイク・ハシナが党首を務めるアワミ連盟とジヤウル・ラフマンの妻カレダ・ジアが党首を務めるBNPが共闘し、エルシャド政権打倒のための運動を展開した。

1-4民主化

一般的に、バングラデシュの民主化はH・M・エルシャド政権が上記の民主化運動によって倒された後の憲法改正によって、大統領を元首とする議院内閣制度が確立した1991年に果たされたと言える。エルシャド退陣後の1991年2月に実施された国会総選挙ではカレダ・ジア率いるBNPが勝利し、BNPは民主化後最初の政権党となった。以後、1996年選挙ではシェイク・ハシナ率いるアワミ連盟が、2001年選挙はBNP、2009年選挙はアワミ連盟と2大政党による政権運営が交互に続いてきたが、2014年の選挙ではアワミ連盟が再び勝利した。

制度上は民主主義とられているものの、 選挙実施に際しては有権者への目先の利益誘導が優先され、立候補者同士で具体的な政策が議論されるような機会は少ない。ときには現金が有権者へ配られることもあり、運用上の課題も少なくない。また、議会において政策上の意見の衝突があった場合には、議会ボイコットやホルタル(ゼネスト)、街頭デモといった手法で野党は対抗する。それらは時に先鋭化し暴力的な様相を呈することから、本来あるべき議会制民主主義がおこなわれているとは言いがたいのが実情である。

(2)最近の政治変化

2-1国際戦争犯罪法廷とイスラーム主義政党

アワミ連盟は91年の民主化以降、選挙のたびに独立戦争で西パキスタン側 に協力した者への処罰を主張することにより、戦争を経験した元軍人党員の支持を集め、党の結束をはかってきた。2008年12月の国会総選挙でも戦犯裁判の実施を選挙公約に掲げて戦い、3分の2以上の議席を獲得して地滑り的勝利を収めた。 そして、公約にもとづいて、2010年3月25日に、3人の裁判官と7人の検察官、12人の調査官を任命し「国際戦争犯罪法廷」を開く体制を整えた。「国際」と名付けられているが、2009年1月にアワミ連盟主導政権によって制定された国内法である国際犯罪(法廷)法(International Crime[Tribunal]Act)に基づく裁判であることから、その中立性には国内外から疑問符がつけられた。特に被疑者となったイスラーム主義政党の指導者と関係の深いパキスタンやトルコなどの中東諸国、死刑に反対の立場をとる欧州諸国は裁判の実施に強い懸念を示した。

裁判の対象は、1971年のバングラデシュ(東パキスタン)独立戦争当時、独立運動を弾圧したパキスタン軍に協力したものや、住民を虐殺したとされる者である。西パキスタン側への協力者の多くは、イスラーム主義政党の支持者であった。その中でも特に、農村住民に強い影響力をもつイスラーム教学者の支持のもと、地方にまで組織力を持つイスラーム協会(Jamaat-e-Islami:以下JI)が、反独立運動の中心的な役割を担っていた。JIは親パキスタンの立場から「和平委員会」と呼ばれる組織を結成し、独立に反対した。そして、イスラーム主義政党の地方・学生団体としてラザーカールやアル・バダル、アル・シャムスといった組織を編成し、和平委員会の下、アワミ連盟の活動家や独立を支持する知識人、ヒンドゥー教徒を虐殺した。反独立派はバングラデシュ独立による東西パキスタンの分断と、それによってヒンドゥー教徒が多数を占めるインドの影響力が南アジアで拡大することを恐れ、パキスタンに加担したとされる。一方で、独立戦争の際には、東パキスタンの独立派による反独立派に対する虐殺行為も同時におこなわれており、バングラデシュ独立戦争に際しては、独立派、反独立派の双方で、悲しむべき多くの虐殺事件がおきていたと理解すべきである。

しかしながら、戦犯法廷の対象がJIと一部のBNP指導者に限定されていることから、両党は裁判そのものが不当であるとして、激しい抗議運動を展開した。JI支持者や学生グループのメンバーは全国で治安部隊と衝突し、報道されているだけで300名以上が死亡する事態となった。アワミ連盟は、暴動を主導したとして2013年8月にJIを非合法化し、選挙資格を剥奪した。これらのことから、アワミ連盟による戦犯法廷設置の狙いは、野党指導者を裁判にかけ、有力野党の政治力を削ぎ、選挙を優位に進めることにあったと考えられ、その目的はおおむね達成されたと言える。

2-2シャハバーグ運動とイスラーム主義勢力

上述の戦犯法廷は2013年1月に元JI幹部のアブル・カラム・アザドに死刑判決をくだしたが、2月には同じく死刑判決が予想されていたJI幹事長補佐のアブドゥル・カデル・モッラに対しては終身刑をくだした。これに対して、「Blogger and Online Activist Network(BOAN)」に参加する若者たちが、ウェブサイト上でモッラ被告に対しても死刑を求める運動を呼びかけた。その結果、数万人規模の市民がダッカ南部のシャハバーグ地区交差点付近に集結し、無期限の座り込み集会をおこなった。シャハバーグ運動と名付けられたこの集会は、若者中心の市民運動として始まったが、ハシナ首相をはじめ、アワミ連盟の政治家も同調する姿勢をみせたため、政治色を帯びることとなった。

これに対して、JIとも関係の深いイスラーム主義団体であるヘファジャテ・イスラム(Hifazat-e-Islam)は、シャハバーグ運動を呼びかけた若者を、ムスリムとその予言者を冒涜する無神論者として、死罪を求める抗議行進をチッタゴンからダッカにかけて実施した。ヘファジャテ・イスラムは、全国の宗教学校に支持基盤をもつため、行進の途中に支持者が合流し、ダッカに到着する頃には、数十万人規模の集団に拡大していた。同組織は、反冒涜法の導入やシャハバーグ運動のリーダーの処罰、イスラーム主義にもとづく国家建設にむけた項目を含む「13か条の要求」を政府に突きつけた。シャハバーグ運動参加者との前面衝突にはいたらなかったが、イスラーム主義勢力の組織力を顕示する上では十分な効果があったといえる。

2-3イスラーム主義勢力による襲撃事件の増加

上記の国際戦争犯罪法廷に社会の注目が集まりはじめた2013年初頭より、イスラーム武装勢力による襲撃事件が増加した。襲撃の対象は、反イスラーム的であるとされたブロガー、外国人、宗教マイノリティに大別される。

ウェブ上で政治的意見を発言するブロガーは、バングラデシュにおけるインターネットの普及によって、急速にその存在感を増してきている。特に、アワミ連盟が戦犯裁判を推し進めることにより、戦犯推進派や保守的かつ武装主義的なイスラーム思想に対して批判的な立場をとる人びとが政権のお墨付きを得た形となり、活発に発言するようになった。また、自らの意見を誰からも精査されることなく容易にウェブ上で流布することができるようになったことから、イスラームに関する議論が過激な批判の応酬となって、互いの憎悪を高め合う結果となった。

これらを背景として、2013年頃から過激なイスラーム思想を批判する書き込みを行っていたブロガーや、戦犯裁判で被疑者に厳罰を求める運動をウェブ上で展開したブロガー、彼らの著作を発行する編集者、LGBT(性的マイノリティ)の権利を求める活動家などが、何者かに襲撃される事件が続いた。これに対してIS(イスラーム国)やインド亜大陸のアルカイーダ (Al Qaeda in the Indian Subcontinent: AQIS)は、彼らをイスラームの伝統的な教えに反する「無神論者」や「世俗主義者」であるとして犯行を認める声明をだした。

宗教マイノリティに対しては、シーア派宗教施設における無差別発砲事件や、イスラームの少数宗派であるアフマディヤのモスクにおける自爆テロ事件、ヒンドゥー教徒や仏教徒、キリスト教徒、イスラーム少数宗派に対する襲撃事件などが発生し、ISからの犯行声明がだされた。

また、2015年には外国人をターゲットにした襲擊事件が3件発生し、イタリア人2名、日本人1名が死傷した。外国人に対する襲撃事件がISの犯行声明の下、立て続けに発生したことに加え、ISの広報誌「ダービク12号」において、バングラデシュにおけるテロ活動の強化を示唆したことから、政府、各国大使館は警戒を強めた。

このような襲撃事件が断続的に発生するなか、2016年7月1日午後9時過ぎにダッカの外国人高級住宅街であるグルシャン地区のレストラン「ホーリー・アルチザン・ベーカリー」で、日本人7人を含む民間人20人が殺害されるという、大規模かつ計画的なテロ事件が発生した。事件は、武装した5人の若者によって引き起こされ、実行中にISからの犯行声明が出された。彼らはいずれも25歳以下で、バングラデシュにおいては富裕層・高学歴の部類に入る。事件当日はラマダン(断食月)の最終金曜日で、レストランは外国人客が多数を占めていた。実行犯は、殺害にあたりコーランの一節を朗読させたとの証言もあり、非ムスリムを狙って犯行に及んだことが予想される。

テロ事件後、政府はテロを一切容認しない「ゼロ・トレランス・ポリシー」を掲げ、取り締まりの強化にのりだした。現地治安当局は、2017年5月までの間に武装勢力のメンバー92人を殺害、1050人を拘束した。殺害されたなかには、ダカ襲撃テロ事件の首謀者とみられるタミム・アフメド・チョウドゥリも含まれる。また、若者が過激思想に感化されるのを防ぐために、テレビCMや看板を作成するなど、政府は一般の人の目に見える形で過激派の問題を提起した。 これによりイスラーム武装勢力内および組織間の指示系統は分断され,資金調達能力を低下させたことから,武装勢力による襲撃事件は減少した。

また、2018年7月23日にダカ襲撃テロ事件の起訴状が提出され、12月3日に裁判が開始された。警察は容疑者を21人と断定したが、そのうち13人は容疑者死亡で起訴見送りとなった。起訴状によると、事件はイスラーム武装勢力バングラデシュ・ムスリム戦士団(JMB)の分派、ネオJMBによって実行された。ネオJMBは6カ月間かけてダカ襲撃テロ事件を計画したとされる。テロの目的は、バングラデシュを不安定なテロ国家にすることだった。裁判では、逃亡中の2人を除き、起訴時点で逮捕拘留されていた6人全員が無罪を主張した。

2-4国民議会選挙

憲法第123条第3項(a)によると,任期満了による解散の場合,解散の期日に先立つこと90日前から解散の期日当日までの間に選挙を行うこととされる。現ハシナ政権の初議会は2014年1月29日であるため,次回国会総選挙は2018年10月31日から2019年1月28日までの間に実施される見込みだ。

しかし,総選挙を前に,野党関係者の拘束・襲撃事件が多発しており,野党関係者は批判を強めている。最大野党BNPは報道に対して,2013から2017年の間に34人が逮捕、435人が失踪し,そのうち252人がいまだに行方不明,39人が遺体で発見されたとして、与党アワミ連盟を非難した。

2018年2月8日には、ダッカ特別裁判所が慈善団体の基金横領の容疑でカレダ・ジアBNP総裁に懲役5年の有罪判決,ロンドンにいるタリク・ラフマンBNP上級副総裁に懲役10年の有罪判決を言い渡した。ジア総裁が刑務所に収監される事態を受け,BNP は全国で抗議運動を展開した。一連のBNP幹部の逮捕は,2年以上の懲役刑を受けた者で釈放から5年以内の者は国会総選挙に出馬できないという憲法規定を利用したBNPへの攻勢であるとの見方も強い。

BNPは2月6日にハミド大統領によって任命されたフッダ選挙管理委員長はハシナ政権と関わりが深いとして批判しており,中立的な「選挙時支援型内閣」の設置を要求している。これに対してアワミ連盟は憲法上の規定にないとして応じない構えをみせている。

また、アワミ連盟政権下においては国定教科書におけるイスラーム関連記述の増加や、宗教学校卒業者への公的な資格付与、最高裁判所の前に設置されたギリシャ神話の女神テミスをモチーフにした像の撤去など,イスラーム主義団体の要求に沿った政策が次々と実行された。世俗主義を標榜するアワミ連盟がこれまで手を付けてこなかった分野での政策変更は,総選挙を睨んでのイスラーム主義層の取り込みであるとの見方が強い。

国連事務総長の報道官は,2018年2月26日,国際社会にロヒンギャ難民支援を訴える一方で,バングラデシュ政府に対して公正な選挙を求める声明をだした。ロヒンギャ難民支援を大規模に実施する以上,国連としてもバングラデシュに民主的な体制を維持してもらう必要があることから,今後もアワミ連盟に対する公正な選挙実施にむけた国際社会からの圧力が強まると考えられる。

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バングラデシュ
選挙
2019年1月18日

バングラデシュ/選挙

(1)選挙制度

バングラデシュでは、定数300名および女性留保議席50名の計350名によって構成される、5年任期の一院制議会制度がとられている。女性留保議席は普通選挙の得票率にしたがって政党ごとに割り当てられる。選挙にあたっては小選挙区制を採用し、各選挙区からひとりずつ議員が選出される。選挙権は18歳以上のバングラデシュ国籍をもつ者、もしくは法的居住者と認められる者に与えられるが、心身衰弱者、および独立戦争時にパキスタンに協力したとして訴訟された者は除外される。被選挙権は25才以上のバングラデシュ国籍をもつ者に与えられ、心身衰弱者、および二年以上の懲役刑を受けた者で釈放から5年以内の者、独立戦争時にパキスタンに協力したとして訴訟された者は除外される。

(2)2018年国民議会選挙

1991年の民主化以降、アワミ連盟とBNPが交互に政権を担ってきた。そして、政権が交代する度に、野党側が「不正選挙」結果の取り消しを要求し、都市部の暴力団や政党傘下の学生組織を動員して激しい抗議活動を展開してきた。与党側も政策決定過程において実質的に野党を排除し、前政権の汚職の摘発や要職者の逮捕などを通じて、野党の力を弱めようと画策した。二大政党のどちらが政権の座についても、同様のパターンが繰り返されており、今日までバングラデシュの政情混迷の要因となっている。バングラデシュは小選挙区制を採用しているため、両者の獲得議席数で大差がついていたとしても、得票率では拮抗してきた経緯がある(表)。そのため、二大政党のどちらが政権をとっても、野党勢力による支持者を大規模に動員した抗議運動や政治活動が可能となる。

2018年12月30日に実施された国民議会選挙(以下、総選挙)は、電子投票の一部導入やSNSでの選挙活動など、政府の「デジタル・バングラデシュ」政策を反映させる新たな動きが見られたものの、一方で与党側の強権的な姿勢や、与野党の候補者に対する襲撃事件、投票所の一時閉鎖や票の水増しなどが報道されたことから、選挙の正当性に国内外より疑問符がつけられた。

総選挙では、各党に比例配分される女性留保枠50を除く小選挙区300議席が争われ、ALを中心とした与党連合が有効とされた298議席中288議席を獲得し、圧倒的多数派となった。ALは単独で全議席の86%となる257議席を獲得し、ハシナ政権は連続3期目を迎えた。

ALは過去の選挙戦において世俗主義を前面に出す傾向がみられたが、今回の選挙ではイスラーム政治団体15団体からなるイスラーム民主同盟(Islamic Democratic Alliance)の設立を画策し、ALを含む与党連合に対する支持を取り付けた。ハシナ首相は選挙戦を通じて、宗教色の強い非正規イスラーム教育機関であるコウミ・マドラサの教育委員会による大規模集会に参加するなど、イスラーム主義政党と共闘関係にあり、イスラーム保守層を票田に抱えるBNPに対抗する姿勢をみせた。

一方で、贈賄の容疑で逮捕されたカレダ・ジア総裁の保釈を求める最大野党BNPは、中立性が担保されていないとして5年前の前回総選挙同様に選挙をボイコットする姿勢をみせたが、国会に議席がないことによる党のさらなる弱体化を避けるため、野党連合として設立された国民統一戦線(Jotiya Oikya Front:JOF)から候補者を擁立した。しかし、JOFは「公正な政治の実現」を前面に押し出すものの、反ALということ以外に政策的共通性はみられず、また独立戦争時の戦争犯罪に加担したイスラーム主義政党ジャマアテ・イスラーミー(イスラーム協会:JI)と共闘するBNPの加入を否定的にとらえる政党も少なくなかったことから最後まで足並みがそろわず、わずか7議席を獲得するにとどまり、BNPの国政復帰は厳しい船出となった。

(3)非政党選挙管理内閣制度の廃止

2014年の国会総選挙において、BNPをはじめとする野党が選挙をボイコットした背景には、アワミ連盟主導政権による非政党選挙管理内閣制度(以下、選管内閣制度)の廃止がある。選管内閣制度は、96年の憲法改正で正式に導入された制度で、与野党どちらの側にも与しない中立的な立場の暫定内閣を組閣することによって選挙の公正性を担保することを目的としている。同制度下においては、公正な選挙を実施するため、直近に退職した最高裁判所長官を長とする諮問委員会が、暫定選挙管理内閣として政権を引き継ぎ、90日以内に総選挙を実施する。同制度が導入された背景には、1986年の選挙において、当時のエルシャド政権による選挙工作があり、政権側による投票の恣意的な操作があり得ることが政党間および国民の間でコンセンサスとなっていたことがある。同制度のもとではこれまでに3回の総選挙が実施されたが、すべての選挙で与野党逆転という結果を残してきた。選管内閣の下では、それまでの政権与党のマイナスイメージが強調される傾向があることから、一般的に同制度は与党の側に不利に働くと考えられている。

91年の民主化以降初の2期連続の政権党を目指したアワミ連盟は、選挙をできる限り有利に進めるために、2011年の第15次憲法改正で同制度を廃止し、政権党である同党の指揮のもとに2014年の総選挙を実施する手はずを整えた。これに対してBNPをはじめとする野党は、これまで通り政党政治家によらない中立な選管内閣の下で選挙が実施されない限り総選挙には参加しないとの声明をだすと同時に、国会をボイコットし、全国的な抗議デモであるホルタルを実施した。一部の抗議集会やデモ行進は暴徒化し、警官隊との衝突により多数の死傷者がでる事態となった。また選挙前後には手製爆弾が使用されるなど、その暴力性がエスカレートし、国内の治安情勢は悪化した。

(4)地方選挙制度

地方行政機構として、7つの地方管区(Division) 、64の県(District:ベンガル語ではジェラ) 、487 の郡(Upazira:ウポジラ)、4546 のユニオン(Union)に行政区画されている。中央政府より各地方に対し地方行政長官(Divisional Commissioner)が配置され、各県には県行政長官(Deputy Commissioner)が、各郡に対しては郡行政官(Upazila Executive Officer) が派遣されている。県レベルにおいては行政長官が地方行政の実質的な責任者となっている。上記行政区画のうち、以前から選挙による首長及び議員の選出が実施されていたのはユニオンのみである。2008年からはウポジラにおいても選挙により首長が選ばれるようになったが、議会は存在しない。また、県レベルにおいては民選の首長システムは存在しない。

ユニオン議会システムはイギリス統治時代のザミンダール制度の名残で、ザミンダールの持っていた徴税権がユニオン・チェアマンに移された事にその歴史的背景を有する。多くの地方でユニオン・チェアマンはザミンダールの子孫が選出されていた。ユニオン議会では当該地域が9つの選挙区に区分され、それぞれの選挙区からひとりずつ議員が選出される。また、女性留保議席が別途3議席あり、9つの選挙区を3つずつ合わせた選挙区で選出される。ウポジラ選挙においては、議長1人、副議長1人、女性副議長1人が投票により選出される。

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バングラデシュ
政党
2019年1月18日

バングラデシュ/政党

 (1)Awami League:アワミ連盟

アワミ連盟は、パキスタン分離独立後の1949年に東パキスタンにおいて結成された。アワミ連盟の創始者はマオラナ・バシャニーとH・S・スフラワルディとされているが、リーダーとして認知されているのはシェイク・ムジブル・ラフマンである。結党当初からパキスタン政府の打ち出したウルドゥー語を公用語とする政策に強く反対し、パキスタンからのバングラデシュ独立に指導的な役割を果たした。

独立後、アワミ連盟は新国家バングラデシュの舵取りを担ったが、独立戦争によって国土が荒れていた上に度重なるサイクロンや洪水の被害により国民は飢餓に苦しみ、国家を安定的に導くことができなかった。また、ムジブル・ラフマンは初代首相(後に大統領)に就任したが、次第に強権的性格を強め、1975年の青年将校による軍事クーデターによって家族数十人とともに暗殺された。後継者には、クーデター当時ヨーロッパに滞在中で難を逃れた長女のシェイク・ハシナ(現首相)が総裁に就任した。

その後、アワミ連盟は1995年の総選挙に勝利し、政権を奪取するまでの20年間、野党の立場にあった。2001年総選挙には敗れたものの、2009年、2014年、2018の選挙に勝利し、三期連続の政権党となった。

アワミ連盟はパキスタンから独立を果たす際、インドからの支援を受けた経緯から、歴史的に親インドであり、特にインド国民会議派との関係は深い。独立戦争直後は社会主義と政教分離主義を柱とするなど、明確な左派政党であったが、近年では中道左派的な政策指向に変化している。国立大学に強力な学生支持団体を持ち、ヒンドゥー教徒や少数民族にも支持基盤をもつ。

(2) Bangladesh Nationalist Party (BNP):バングラデシュ民族主義党

BNPは、1978年にジヤウル・ラフマンによって設立された。ジヤウル・ラフマンは軍人出身で、独立戦争のリーダーだったムジブル・ラフマンを積極的に支持した。1975年の軍部青年将校によるムジブル・ラフマン暗殺事件のあと、クーデターを起こして事態を収拾し、そのまま政権を担った。その後、民政移管にむけてBNPを設立したが、1981年に軍内部の対立から暗殺された。

ジヤウル・ラフマンの暗殺事件後は、妻のカレダ・ジアが総裁に就任し、現在にいたっている。BNPは1990年および2001年の国会総選挙に勝利し、カレダ・ジア総裁は過去に2度首相を経験している。

BNPは、親インドで左派的な政策を指向するアワミ連盟への対抗上、親パキスタン、親イスラームの立場をとる。2001年の選挙からイスラーム主義政党であるジャマティ・イスラミと連立を組んでいる。2014年の総選挙では選挙のプロセスをめぐり与党アワミ連盟と対立し、選挙をボイコットしたことから、BNPは国会の議席を失い、急速に政治力を低下させた。2018年の総選挙では野党連合として選挙に参加したが、連合全体でわずか7議席を獲得するにとどまった。

(3) Jatiya Party(JP):ジャティオ・パーティ

JPは、1981年に起きたジヤウル・ラフマン暗殺事件の後、戒厳令司令官として軍政を掌握したH・M・エルシャドが1986年に設立した。当時、欧米諸国の外的圧力もあり、エルシャドは民主的な総選挙をおこない国会に議席をもつことで政府の正統性を国内外に示す必要があった。その受け皿として設立されたのがJPである。1986年の総選挙では勝利したが、さまざまな選挙工作疑惑がもたれている。実質的な民主化がなされた1991年の選挙以降は第3政党となっている。

(4) Jamaat-e-Islami(JI):ジャマアテ・イスラーミー(イスラーム協会)

JIは1941年にイギリス植民地時代のインドにおいて結成された。パキスタンからバングラデシュが独立した際にBangladesh Jamaat-e-Islamiとして再結党された。イスラーム主義政党で農村部貧困層に強い支持基盤をもつ。議席数は多くないものの、過去にアワミ連盟とも、BNPとも連立政権を組んだ経験があるなど、強固な政治基盤をもとに政界に影響力を与えている。パキスタンからの独立戦争当時はパキスタン側についていたため、一時非合法政党となっていたこともある。2009年の総選挙に勝利したアワミ連盟により、独立戦争当時戦争犯罪を裁く、国際戦争犯罪裁判が設置され、JIの幹部の多くが有罪判決をうけた。2013年12月にそのうち一人が処刑されて以降、アワミ連盟とは厳しい緊張関係にある。

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現在の政治体制・制度
マレーシア
2019年1月18日

マレーシア/現在の政治体制・制度

マレーシアの政体は、1957年のマラヤ独立憲法と、それを継承する1963年のマレーシア連邦憲法に規定され、連邦制の下での立憲君主制が採用されている。イギリスの旧植民地であったことも影響し、統治制度は、議院内閣制が採用されている。

(1) 元首と連邦制

マレーシアの国家元首の地位にあるのは国王(Yang di-Pertuan Agon)である。国王は、各州の州元首によって構成される統治者会議(Majilis Raja-Raja)によって、マレー半島部の9州の州元首(スルタン、ラジャなど)の中から5年ごとに選挙で選出される(32条、38条)ものの、実際は輪番制が慣例となっている。国王は「連邦の第一人者(32条1項)」で、連邦の行政権は国王に付与されている(39条)。国王は同時に国教であるイスラームの長で、陸海空の3軍を統率する。ただし、国王の行政権や軍の運用等は首相或いは首相を筆頭とする内閣の助言に基づいて行使されるため、実質的な権限は首相が有している(40条)。マレーシアに独特な国王に関する憲法規定は、第153条のマレー人及びサバ、サラワクの先住民の社会・経済上の特権に関わる規定であり、国王にはこの特権を守る責任があることが規定されている(「民主化の経緯」の箇所も参照)。

連邦制をとるマレーシアでは、13の州から構成され、そのうちのクダ、クランタン、トレンガヌ、パハン、ペラ、スランゴール、ヌグリスンビラン、ジョホールの8州にはスルタン、プルリス州にはラジャが君臨しており、これらの9州の州元首にあたるスルタンやラジャは上述の国王になる資格を持つ。あとの4州(ペナン、マラッカ、サバ、サラワク)には国王が任命する州元首(Yang di-Pertua Negeri)がスルタンやラジャに代わって置かれている。また、この13州の他にクアラルンプール、プトラジャヤ、ラブアンが連邦直轄地となっている。各州では、一院制の州議会が立法権を司り、州元首に任命された州首相(スルタン等が存在する9州ではMentei Besar、他の4州ではKetua Menteri)に率いられる州執行評議会(EXCO)が行政権を司る。

マレーシアの地方制度は上から連邦政府、州政府、自治体の三層構造になっている。地方自治体は特別市、一般市、町の3つの分類がある。自治体の長と議員は60年代まで選挙で選出されていたが、現在では選挙が中止され、州政府による任命制となっている。連邦と州の権限配分は憲法第9付表に規定され、州はイスラーム法、マレー人の生活習慣、土地、農林業、地方自治などが主な権限となっている。連邦は国防、外交、教育など幅広い権限を持ち、連邦と州の権限が重複する場合は連邦に優先権がある。州は自治体に対して、全般的な監督権限があるものの、連邦は憲法95A条に規定された組織である国家地方自治評議会(Majlis Negara bagi Kerajaan Tempatan)を通じて自治体をコントロールすることが可能になっている。  

(2) 立法権

連邦の立法権を付与されているのは、連邦議会である(44条)。連邦議会は上院(Dewan Negara)と下院(Dewan Rakyat)の二院から構成される。上院は、各州から2名ずつ選ばれる26名と国王によって任命される44名の計70名(任期3年)によって構成される。下院は、小選挙区で選出される222名(任期5年)から構成される。旧宗主国のイギリスの制度を受け継ぎ、下院が首相選出、予算、法案審議などで優越する。

(3) 行政権

連邦の行政権は国王に属しているものの、実際は首相及び内閣の助言に基づいて行使されるため、実質的には首相及び内閣が行政権を行使している。連邦下院議会で多数の信任を得ている議員が国王によって内閣の長である首相に任命される。各大臣は首相の勧告に基づいて国王が任命するが、連邦の上院あるいは下院のいずれかの議員である必要がある。

(4) 司法権

司法制度は3審制をとっており、上から連邦裁判所、控訴裁判所、高等裁判所があり、下級裁判所としてセッションズ裁判所とマジストレート裁判所がある。連邦元首や州元首に関わる裁判事項は特別法廷で扱われる。これらの裁判所以外にも、半島部にはムスリム間の親族・相続関係、イスラーム道徳などに関する領域を扱うシャリーア裁判所が存在する。  

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