「ヨルダン」カテゴリーの記事一覧

2021年8月20日

ヨルダン/現在の政治体制・制度

正式国名
ヨルダン・ハーシム王国
政治体制
立憲君主制
国家元首
アブドゥッラー2世国王
首相(兼国防相)(国王の指名による)
ビシャル・ハサーウナ
外相(首相の指名 国王の承認による 他の閣僚も同様)
アイマン・サファディー
内相(同上)
マーゼン・アブドゥッラー
議会
二院制
  • 下院(定数130名, 宗教・エスニシティ枠12、女性議席15議席(各行政区に1議席確保)、普通選挙, 任期4年)
  • 上院(定数65名, 国王の指名, 任期4年)
司法
普通裁判所, 宗教裁判所, 特別裁判所

現在のヨルダンの政治体制は、立憲君主制であり、ハーシム家出身のアブドゥッラー2世が国王として大きな権限を持っている。現憲法は、1952年1月8日に制定されたが、その後改正を重ねてきた(1954, 1955, 1958, 1960, 1965, 1973, 1974, 1976, 1984,2011,2012, 2016年改正)。行政権は、国王と内閣に付与される。国王が全ての法律に署名し、それを執行する。国王の法律承認の拒否権は、上・下両院の3分の2の投票で覆される。国王は布告により、裁判官を解任することができ、憲法改正を承認し、宣戦布告し、軍を率いることができる。憲法では三権分立の原則が導入され、市民には、言論・出版・集会・学問的自由・結社・宗教的自由・国会議員及び地方議会議員選出の権利が保証されている。

議会(国民議会)は、国王の指名によって選ばれる上院(65名、任期4年)と18歳以上の男女による普通投票で選ばれる下院(定数130議席、うち15議席は女性議席、12議席は宗派・マイノリティ議席。任期4年)からなる。 

国王は首相指名権を持っている。内閣は組閣後、議会に施政方針を発表するが、議会の絶対多数による不信任で解散する。また、閣僚は議会の絶対多数による不信任で更迭される。他方、国王は下院の解散権を有している。民主化要求の動きに応じて、2011年42項目にわたる憲法改正が行われ、その中で、国王の権限(選挙の延期の大権、下院の無期限解散権、政府の保護、首相の再指名など)制限にかかわる動きがあった。その中でも最も注目されたのは、首相の指名権であったが、国王の首相指名権は剥奪されず、議論の余地を残している。

司法面では憲法に基づき、裁判官は国王の指名を受けるが「法以外の何の権威にも従わない」と司法の独立性が謳われている。裁判所は、普通裁判所(初級裁判所、治安判事裁判所、上訴裁判所、最高裁判所)、宗教裁判所(シャリーア法廷、宗教共同体委員会)、特別裁判所(警察法廷、軍事評議会、関税法廷、国家治安法廷)が設置される。行政に対する審査は、特別高等法廷で行われる。

地方行政は、行政区の長官は国王に指名され内務省の管轄下に置かれるが、地方への開発政策等の実施に関しては州政府が権限を持つ。

政治体制発展略史

ヨルダンはイギリスの委任統治領パレスチナの管轄下におかれる一種の保護国トランスヨルダンを前身とし、1946年トランスヨルダン王国として独立した。トランスヨルダンは1948年のパレスチナ戦争(第一次中東戦争)をきっかけに、パレスチナの一部と見なされるヨルダン川西岸を占領し、その後、西岸の親ヨルダン的パレスチナ人有力者の要請を受ける形で(1950年ジェリコ宣言)、西岸を自国の領土として統合した(その時点でヨルダン・ハーシム王国と改称)。ヨルダンは、西岸の領有やヨルダン国民の6割程度を占めると見なされるパレスチナ系住民の扱いをめぐってPLOやアラブ民族主義勢力との間で、長らく緊張関係にあった。ヨルダンのパレスチナ系住民はヨルダン国籍を付与され、法的にはヨルダン国民と同等の権利を認められている。しかし、社会的には一般に不利な立場に置かれ、特に政府関係の職業に関しては差別を受けてきたと言われる。

1950年代下院は、西岸と東岸それぞれ同数(20名ずつ40議席、後に30名ずつ60議席に変更)の議員が選出される事になっていた。第三次中東戦争(1967年)後、西岸がイスラエルの占領下に置かれ、通常の選挙実施が不可能になった事を理由にヨルダン政府は選挙を凍結した(1957年以降の戒厳令により、すでに政治活動は実質的に凍結されていた)。イスラエルの占領が長期化し、また西岸のパレスチナへの帰属がアラブ世界や国際社会で承認されるようになり、1974年のラバト・アラブサミットでパレスチナ人の代表がPLOであることが確認されると、ヨルダン政府は凍結されてきた議会の解散を決定した。その後ヨルダン政府は、西岸選挙区を除く東岸のみの代表からなる議会とそのための選挙法改正を実施してきた。1988年にヨルダンは政治的な理由から、西岸の領有を正式に放棄する「西岸との法的・行政的関係の断絶宣言」を行った。これにより西岸を巡る選挙法上の問題点がなくなり、普通選挙の実施条件が整った。

1989年には1967年以来の下院議員選挙が実施された。更に、1991年に戒厳令が解除され、1992年に政党法により一定の条件を満たす政党の活動が許可された。しかし、投票方法を連記制から単記制に変更する事を決めた1993年の選挙法改正が、野党、特にイスラーム行動戦線(IAF)に不利に働いたとの批判を呼んだ。この投票方法が、一票の重さや選挙区割りの問題と合わせてその後の政府と野党の主な対立点となった。1997年には選挙法の改正に反対するIAFと他の野党の一部が選挙をボイコットした。その後の2001年の新選挙法では選挙区や票の重さの問題に関する多少の変更は見られたが、投票方法の見直しはされなかった。国政の場から離れることで多くの問題に直面した経験から、その後行われた2003年、2007年の選挙に野党は選挙に参加したものの、2009年の改正選挙法でも女性枠の拡大(6議席増)と若干の都市部の議員枠拡大(アンマン2、イルビド1、ザルカ1議席増)以外、対立点は解消せず、再びIAFや野党の一部の選挙ボイコットがあった。さらに、2012年の選挙法改正では、全国区の政党枠(政党以外の政治団体も参加可能)を導入し議会における政党代表率を18%とした。しかし、代表率を最低でも30%にすることを要求するIAFなどの野党勢力はこれを不十分とし、IAFは再び選挙をボイコットした。なお、2012年改正選挙法では、女性枠がさらに3議席拡大され、またバルカとカラク選挙区でキリスト教徒議席枠がそれぞれ1議席増やされた。

2016年の選挙法改正(2016年第6号選挙法)では、オープンリスト方式の比例代表制を採用した。これは、SNTV(単記制)から連記制への投票方法の変更を意味していた。候補者は各選挙区の中で3人以上(選挙区の定数を超えない範囲)で構成されるリストに登録し、投票者は、リスト全体、1つのリストの異なる候補者、または選択したリストのすべての候補者に投票できる。すなわち、オープンリストシステムにより、異なるリスト間および各リストの候補間で競合が発生する。また選挙区の範囲を行政区レベルまで拡大することで(アンマン、ザルカ、イルビドは例外)、選挙区は45から23に減少した。定数が20議席縮小されたが、以前の15議席が維持されたため、女性の代表率は上昇した。投票リストへの登録手続きを簡素化(受動的登録制)した。また投票権は投票日の90日前の段階で18歳であることを条件とするように変更され、投票権は若干拡大された。この制度は2020年の総選挙でも踏襲された。

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2021年8月20日

ヨルダン/最近の政治変化

民主化の前提

ヨルダンの民主化は、三つの側面から説明できる。(a)民主主義への国内的条件:ヨルダンは独立後、立憲君主制下で近代化を志向した。1947年には初めての総選挙が実施された。また1952年憲法には、民主主義的原則が反映されており、同憲法下で政党活動は活発に展開され、また議会も政府に対する影響力を示していた。しかし、国王は国内的混乱を「外からの介入」によるものと判断し、1957年から政党活動の禁止と戒厳令の施行により、自由な政治活動は困難となった。その後、ヨルダン川西岸のイスラエルによる占領(1967年)を契機に、選挙そのものも凍結された。しかし、このような民主主義の経験は、その後の民主化の重要な初期条件を提供した。(b)国際的政治経済構造変動の影響:ヨルダンは、1988年に経済構造の脆弱性が表面化し、依拠していた外国からの十分な支援も受けられず、経済危機に陥った。先進国による構造調整は、政治改革の要請を伴っていたため、民主化への外的条件を提供した。また構造調整の求める緊縮財政は、ヨルダン・ディナールの下落、生活基本物資の価格値上げなどによる、市民の反発を呼び、1989年には南部地方での大規模な物価値上げ反対暴動を引き起こし、これが内的な改革・民主化への圧力となった。(c)ヨルダンの法的条件の変化:ヨルダンはパレスチナの一部であるヨルダン川西岸の領有権を主張してきたが、西岸の自立志向の拡大(インティファーダ発生など)の政治的影響を考慮した結果(国内のパレスチナ系住民の政治化)、1988年に西岸との法的・行政的な関係を断絶した。これは自国領土の占領という選挙法上の問題(自国領土たる西岸の代表を選べない)を解消した。 以上の3点以外に、2010年以降の中東域内のアラブ諸国の民主化運動の影響で、憲法や選挙法改正の議論が活性化したことが新たな民主化への条件を提供している。

上記に加え、ヨルダンの民主化をめぐる王政と国民の関係に関する特殊事情に注目することが必要である。政府は、国民生活に負担を強いる経済構造改革を実施するためにも、国民の理解を得やすい透明性のある政治運営を行う事で、国民の支持を得ようとした。しかし、過去の経験から、民主化による(外部からの政治的介入による)政治状況の混乱を避けたいという国王側の危機感があった。かたや民主化を求めてきた改革派エリートの中には、過去の民主主義導入による政治的混乱が結局、ヨルダンの民主主義の長い中断をもたらしたという経験を重視する傾向が見られた。そのような事情から、ヨルダンではフセイン国王を筆頭に、体制側と(反体制派を含む)政治エリート間の協議に基づいて、民主化のチャートとしての「国民憲章」(1991年)が起草される事になった。ここにヨルダンの「上から」でも「下から」でもない、妥協による民主化の構想が成立した。その後、多くの対立点を抱えながら、民主化プロセスが継続してきた背景には、このような国内におけるいわば現実的判断が作用していると見ることも可能である。

アブドゥッラー2世国王治下10年後の2011年には、チュニジアやエジプトなどの体制変革を伴う中東各国の民主化運動のうねりの中で、国王は首相の交代により民意への対応姿勢を示すという従来の手法で対応してきた。しかし従来の古典的対応への批判もあり、不十分との批判はあるものの、憲法の改正と選挙法の改正による一歩踏み込んだ改革によって民意に応える姿勢を示さざるをえなくなった。

民主化プロセス

トランスヨルダン時代の1921年から戦間期をへて、7つの政党が主に英国からの独立と主権の確立を目指して活動してきた。しかし、これらの政党はエリート中心の組織にとどまり大衆的支持に基づいたものではなかった。1955年の政党法の下で、政党活動は活性化したが、野党と政府の対立やクーデタ未遂事件などを経て、戒厳令が敷かれ政党活動は長期にわたって凍結されることになった。

1989年には、22年ぶりの総選挙が実施された。この時点では、政党活動は認められていなかった。このため、福祉団体としての活動を認められてきたムスリム同胞団が、その組織力を選挙で圧勝し、80議席中22議席を獲得し、単独政治勢力としては第一党となった。この第11期議会の時、湾岸危機(1990年)が発生し、イラクへの多国籍軍介入反対の国内世論を背景にムスリム同胞団から初めて入閣者が出るなど、同砲団の議会内外での影響力は頂点に達した。しかし、その反動として、議会が政治的イデオロギーのやり取りで空転し、国民の一番の関心事である生活条件の改善に資する実質的な議論が全く進まず、議会に対する批判も芽生え始めた。湾岸戦争における親イラク外交があだとなって、国家運営上重要な援助国であるアメリカからの厳しい対応に苦慮した国王は、反米色を一向に弱めない同胞団を警戒するようになった。そのような中で1992年には政党法により、政党活動が公認され、1993年には新選挙法が施行された。

1993年11月の選挙では、ムスリム同胞団の後援の下に作られたイスラーム行動戦線(IAF)は、5議席減らす17議席しか票を獲得できなかった。この苦戦の原因を野党及びIAFは、1993年の選挙法改正の焦点である、投票方法の変更(連記制→SNTV(単記制))に求めている。その主張によると、部族的社会関係が強いヨルダンでは有権者は先ず身内の候補者に投票するが、連記制では次の人物として社会的活動の評価される候補者への投票が期待できたが、SNTVではそれが票に結びつくことが困難になるというものである。その説明の妥当性を判断するのは難しいが、この投票方法をめぐって、1997年には、IAFと野党の一部は選挙をボイコットするに至った。

1999年に民主化プロセスを開始したフセイン国王が死去し、息子のアブドゥッラー2世が国王に即位した。折から、西岸で起きた「アルアクサー・インティファーダ」などによる周辺の政治的混乱状況への対応などを背景に、アブドゥッラー2世国王は2001年に予定されていた選挙を延期したが、法的に延長の限界である2003年6月に選挙を実施した。また、アブドゥッラー2世国王は、イスラーム過激派に対しては即位直後から厳しい対応をしており、国内のハマース事務所を閉鎖し、政治指導者を国外追放したり、ブッシュ政権の「反テロ戦争」にいち早く全面協力を申し出たりするなど、フセイン国王より更に一歩踏み込んだ治安対策を特徴にしてきた。

2011年には、周辺の民主化の動きに刺激されて、民主化要求の動きが活性化した。その中で国王の権限縮小につながる憲法改正と懸案の選挙法改正が行われた。しかし首相指名をめぐる、国王の権限縮小問題では、モロッコの場合ほど大きな変革はなかった。選挙法に関してはSNTV改正と政党政治の推進が求められており、これに対しては2012年の選挙法改正によって、全国区の「政党枠」が設定され、有権者は地方選挙区で1票、全国区の「政党枠」で1票を投じることが決められ、部分的にSNTVに修正が加えられた。しかし、全国区の「政党枠」の代表率の低さ(議席の18%に相当)への批判と、地方の選挙区(1人区)においては実質的にSNTV方式が継続されたことへの批判が強く、イスラーム系で影響力のあるIAFやいくつかの有力野党勢力が選挙をボイコットした。2016年には、行政区と選挙区を一致させることをめざす選挙区の大幅な改正が実施され、3つの大都市部を除いては、住民は選挙リストへの投票とともに定員内であれば複数の候補者への投票を認められた。これによって長年議論の対象となってきたSNTV方式は廃止された。前回ボイコットしたIAFなどの多くの野党勢力は今回は候補者を擁立した。しかし、全国区の27議席が廃止された(その代わりに政党所属に関わらず候補者は政党リストを組み立候補する)ことに対し、政党政治浸透への努力が後退したという批判が寄せられた。また、15,000人以上の海外在住者の投票が廃止されたことも政治的権利の縮小と批判されている。同制度のもとにコロナ禍の2020年に実施された総選挙では、女性候補者や政党からの候補者増加など若干ポジティブな側面も見られたものの、投票率の低下、女性の当選者減少、IAFの議席減少など概して野党勢力の後退がみられた。

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2021年8月20日

ヨルダン/選挙

下院議員は18歳以上の男女による普通投票で選ばれる。下院は定数130議席、うち15議席は女性議席、12議席は宗派・マイノリティ議席(任期4年)からなる。被選挙権は30歳以上の国民であることが条件となる。2020年11月10日、コロナ禍にもかかわらず、第19期総選挙が実施された。投票率は過去最低の29%にとどまった。特徴としてはこれまでで最多の政党からの立候補と女性の立候補、さらに若者の参加率が高かった。しかし女性候補者は5議席減らし、最大野党IAFは5議席減らすことになった。

2011年以降、政治改革の要請にもとづき、政党指導者や法律家やジャーナリストによる包括的な検証を行うための国民対話委員会が設立された。委員会の提言に基づく2012年の選挙法は、SNTV方式の投票に部分的にメスを入れ、150議席中27議席に比例代表に基づく全国区の「政党枠」を導入したが、地方選挙区については1人区でSNTVによる投票が残されたので、SNTVの完全廃止を求める有権者からの評価は厳しかった。反対派からはせめて政党枠を全議席の50%にするべきであるとの声もあった。さらに、2016年の改正においては、SNTVが廃止され、1989年の選挙に近い形で、有権者は選挙区の候補者の数だけ投票することが可能になった。また、政党政治の観点からは、SNTVの場合には投票者が血縁や部族関係を優先して投票したのに対して、連記制への変更によって、2票目を支持する政党に投票することが可能になることで政党が有利になる。さらに、政党に所属する候補者も無所属の候補者も、選挙リストから立候補することが義務付けられた。そのため選挙リスト形成のプロセスで政治的議論が展開された。(EU選挙監視団の報告)

2016年の選挙法では、選挙区は2013年の45選挙区から23選挙区に縮小された。アンマン(5選挙区)、ザルカ(4選挙区)、イルビド(2選挙区)の都市部を除いて、すべての行政区で選挙区は1つになった。ただし、選挙区の再編(45から23への縮小および議席配分の変更)に関しては、人口・地理・発展状況などをめぐる具体的な根拠があいまいであり(EU選挙監視団の報告)、これまでも指摘されてきた都市部と地方の表の格差は依然として存在している(議員比率の偏り、参照)。概して都市部にはパレスチナ系住民の数が多く、またムスリム同胞団系の支持者が多いが、地方(特に南部)住民は保守系の体制派が多いとされる。このため、制度的に南部の地方への議席配分は体制側に有利なものになっているとの批判があった。この批判の論拠についてのさらに厳密な議論は必要であるが、都市部と地方の票の格差は依然として存在していることは事実である。

議員比率の偏り

2016年の選挙法では、人口440万人で国の42%を占めるアンマンには、28議席、人口150万で国の14.3%を占めるザルカには、12議席なのに対して、人口3万で国の1%のタフィーラには、4議席、人口35万で国の3.3%のカラクには、10議席が配分されている。このため、伝統的にアンマンやザルカの投票率が低くなっているものと考えられ、実際にこの2つの都市部では前回2016年の投票率よりさらに低い投票率となっている。アンマン第3選挙区においては、11.7%(2016年、19.2%)と低く、ザルカ第1選挙区では、14.3%(2016年、22.8%)と全国平均を下回っている。政府は新型コロナの影響を指摘するが、議会や政府に対する不信感の表れであるとの指摘もある。

政党の存在感

2020年の総選挙では1992年以来最も多い政党の参加があった。48政党中41政党が選挙に候補者を出し、全立候補者の23.2%にあたる389人が政党から立候補した。しかし12人の党員が当選し、6人の党との協力候補が当選したに過ぎなかった。もっとも有力な政治ブロックはイスラーム主義グループ主導の「改革のための国民連合」は2016年より5議席を減らし10議席にとどまった。左派・民族主義のブロックは1議席もとれなかった。このように、政党からの立候補者が少なく、当選者のほとんどは、実業家、部族基盤の候補者(20人の退役軍人を含む)であり、多くは「個人主義的であり、非政治的であり、サービス志向」(元閣僚の発言)であった。市民活動の立場からは、改革はあるものの、政党法は政党よりは部族基盤の候補者に有利な内容であり、投票行動も部族基盤の投票がつづいており、80%近くの当選者は政党と関与せず特定の政治的イデオロギーを持っていないと評されている(RASED指導者Amer Bani Amer)。制度的な限界に加え、市民から政党への不信感を払しょくするための政党側の対応が遅れていることも問題と考えられる。

女性当選者の減少

女性有権者は全国で464万人だが、多くは男性有権者と同じく、部族や家族への帰属感に基づいて投票しているとの指摘がある(Konrad-Adenauer-Stiftung e. V.)。女性の候補者は増加し、全1,674候補者中360候補者であったが、当選者は女性クオータ枠の15人にすぎなかった(2016年、20人)。全体的に女性の政治参加への関心が高まっているにも関わらず、同一選挙リストに有力な女性候補者が入ると自分が敗北する(2016年には実際に起きた)ことを恐れる男性候補者が他の男性候補者を推すことから、女性有権者の失望感を招いたことが指摘されている。

イスラーム系政党の動向

ムスリム同胞団の政党組織であるIAFは2016年の総選挙の15議席から5議席を減らして、10議席を獲得した。しかしその後、2名の女性議員が脱退したために、IAFのかかわる議会の改革リストのメンバーは8名になった。今回の選挙においては、IAFからの立候補者は14の選挙区で出馬し、全体の得票数の6.5%にあたる83,000票を獲得したが、これは2016年選挙における獲得票157,000票(全体の11.6%)に及ばなかった。伝統的にムスリム同胞団の影響力の強いアンマンやザルカにおいて、投票率は低かった。パレスチナ系住民の多い地域のため、一般的に投票は部族的基盤によるものではなかったが、今回はアンマンで投票率は15%(2016年、23%)にとどまった。ザルカにおいてはIAFの参加する「改革リスト」は1議席(2016年、2議席)しか獲得できなかった。この地域においては選挙結果はすでに概ね決まっているとの諦念や、議会そのものへの不信感がより強いものとみられる。他国や国際社会では同胞団がテロ組織認定を受ける中で、ムスリム同胞団の敗北は必ずしも予想外のことでもなかった。国内においても2016年にムスリム同胞団が非合法化され、さらに政府は同胞団が教員組合を支配し、2019年の教員ストを先導したと批判した(実際には、執行部10人中3人が同胞団員)。しかし同胞団は原則にこだわらず、組織の存続のために影響下のIAFが選挙をボイコットせず参加することを選択したのである。「同胞団は、プレーヤーであることを選びゲームを受け入れ、攻撃を避けるために敗北した」(Rami Adwan, Jordan Country Representative of the Netherlands Institute for Democracy)のである。

青年層の傾向

30歳以下の若者はヨルダンの63%をしめ、多数派である。選挙直前の世論調査で、40%の若者は、部族的要素が自分たちの投票行動に影響すると答えた。また、被選挙権を30歳から25歳まで下げるべきであるとの意見を持っている。若者の多くは主に就職、公正な機会、将来への不安の除去を望んでいるが、新コロナの影響で若者の経済環境は悪化し、ヨルダンの大学卒業生の45%が海外で働く希望を持っているような状況である(中東の中でも突出している)。これはヨルダンの政治改革への無関心や失望の背景になっている。

2020年第19期総選挙 選挙区と議席配分・候補者数

行政区など選挙区一般議席チェルケスクリスチャン女性枠合計
アンマン52521129
イルビド41801120
ザルカ21011113
バルカ1802111
カラク1802111
マアン140015
マフラク140015
タフィーラ140015
マダバ130115
ジェラシ140015
アジュルン130115
アカバ130014
北部ベドウィン130014
中部ベドウィン130014
南部ベドウィン130014
合計231033915130

投票率

200320072010201320162020
58.6%57.1%53%56.6%37%29%

当選者の政治的傾向

議会実施年左派保守イスラーム主義合計
第2期1950142640
第3期1951182240
第4期1954332540
第5期19561520540
第11期1989582280
第12期19937561780
第13期1997769480
第14期200328517110 (6)
第15期2007098110(6)
第16期201011031120(12)
第17期2013 013317150(15)
第18期2016296[18]22130(15)
第19期20200118[2]10(8*)130(15)

注)合計の( )は女性枠、[ ]は保守系政党からの当選者。*その後、2名の女性議員が脱退。

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2021年8月20日

ヨルダン/政党

ヨルダンの政党制度の変化

ヨルダンの政党制度は、1950年代に基礎ができたが、主に周辺諸国に拡大するアラブ民族主義や左翼勢力は国家の枠組みを超えた影響を持ち、その影響下にある国内の各政治勢力は時としてハーシム王制そのものを反動的体制として批判・攻撃の対象とした。このため、国王は政党活動を1957年以降禁止し、1992年までヨルダンを戒厳令下に置いた。政党活動が盛んな1950年代には、バース党やナーセル主義の影響力を受けたアラブ民族主義政党が影響力を持ち、それに対するカウンターバランスとしてハーシム王制はムスリム同胞団に依拠した。しかし、政党活動の禁止後は、イスラエルの西岸占領によって選挙も停止され、健全な政治的新陳代謝が不可能になる中で、各種職能組合が国民の意見表出機能を一部代替し、政党の機能を担った。その間、例外的に慈善団体として組織的活動を許されたヨルダンのムスリム同胞団は、社会活動における影響力拡大を政治的力にして、影響力を拡大した。

1992年の政党法は、政党設立の諸条件を規定しているが最も重要な条件として、ヨルダン以外の国の政党のメンバーであったり他の国を拠点にする政党であったりしてはならないということが規定されている。これは、1950年代の政治的経験によるものと考えられる。この規定により、シリアやエジプトやパレスチナとのつながりの深い政党は、党のヨルダン化を行わなければならなかった。1989年の第11期議会の選挙の時点では、政党が認められていなかったが、注目される政治的潮流としては1950年代にも見られたアラブ民族主義系、イスラーム系、左翼系の勢力で、唯一、同胞団が公認の組織としての強みを発揮する事になった。1992年の政党法以降は、上記傾向の諸政党が設立され、ムスリム同胞団も新政党法に合致するようにイスラーム行動戦線(IAF)を設立した(ムスリム同胞団も福祉団体として存続)。 

ヨルダンの政党制度の最大の問題は、政党に対する有権者の期待の低さに現れている。選挙において政党に基づいて投票した有権者の割合が極端に少ない事がヨルダンの民主主義の問題点を示している。野党側は、選挙制度の改変(投票方法の連記制から単記制への変更)が政党からの立候補者に不利に働いた事を指摘する。その指摘が正しかったとしても、もともとのヨルダンの政党全体に対する支持率の低さは説明できない。問題点の一つとして、各政党がイデオロギーや信仰などの抽象的問題にあまりにこだわり、国民の日常的な関心を議論の中心に据え、具体的な提案や対応を行ってこなかった事も考えられる。ヨルダン大学戦略問題研究所の世論調査では、「支持政党あり」と答えた割合が2004年に9.8%、2005年に6%、2006年に6.8%、2007年に9.7%、2008年に5%という数字しか示していない事や、「政党が(国民のためでなく)党のために働いている」と感じた市民が、上記年にそれぞれ49.1%、53.3%、58.7%、61.5%、59%という数字に上っている事が問題の一端を示している。

2016年の総選挙における政党(登録数40)からの立候補者は、1252人中215人であり、候補者の17%に相当する。これは結果的に2013年に採用され2016年に廃止された全国区の「政党枠」の全議席に対する代表率18%に近い数字である。そして選挙の結果、40名が政党からの立候補により当選した。形式的には近年では最も政党による当選者が拡大した。しかし内実は、イスラーム系22議席、左派民族主義2議席、その他は保守派政党からの当選者であった。2020年の総選挙では、41政党から389名の立候補があり、政党からの立候補者は増えたものの当選者は、イスラーム系10議席、その他2議席、党友としての当選者は6議席(政治傾向は不明)であった。なお、2016年の政党参加の背景として、参加政党には経済的な誘因が作用したことも考えられる。たとえば、3つの選挙区に6人の候補者を立てた政党は2万JD(約2万8千ドル)の助成金を獲得し、さらに女性候補者や35歳以下の若手候補者を立てると15%の増額が認められることになっていた。全投票数の1%を得た政党にはさらに助成金が交付されることになっていた。保守派政党の内実はほとんどが特定の影響力のある政治家が中心となり運営されており特記すべき政策は見られない。なお政党に関心を持たない有権者に関しては、部族や血縁関係に日常的要求実現を求めるのか、宗教組織に求めるのか、あるいは新たなNGOの機能に実現を求めるのか、無党派層の内実にも注目すべきである。 

ヨルダンの主要政党

ヨルダンの主要政党はイスラーム系、左翼系、アラブ民族主義系、中道・レベラル、保守と分かれる。その中で左翼系とアラブ民族主義系の政党は(共産党を除いて)主張が重なるところも多く、時には両方の要素が混合した政党も見られる。その中でも、議会に議員を一定数送り込み、実質的に党としての活動をしているのは、IAFのみと見なされる。他方国王は、民主主義の定着の証としての政党政治の重要性を謳っており、それは2012年や2016年の選挙法にも表れている。

(a)イスラーム系

イスラーム行動戦線党

  • Hizb Jabhah al-‘Amal al-Islami
  • (Islamic Action Front Party)
  • 1992公認
  • 発起人353人

一般には、ムスリム同胞団(1947)の政治部門とされる。しかし、行動戦線側では人的交流の深さを認めつつも、あくまでも別組織であり、ムスリム同胞団出身者以外のメンバーも多いとしている。1992年ムスリム同胞団の幹部と独立イスラーム主義者によって設立会議が開かれた。発起人には、元自治環境大臣や元法相など閣僚経験者も含まれている。選挙制度(単記制)への反発から2010年の総選挙をボイコットし、また新たな制度である政党ベースの全国区の議席率が少ないことに反対し、2013年の総選挙をボイコットした。選挙に復帰した2016年の選挙では15名、2020年には10名が当選した。

イスラーム的生活の回復とシャリーアの適用、シオニストや帝国主義に対するジハードの遂行とアラブ・イスラームの復興をめざす。国民統合、民主主義とシューラーに基礎をおく体制、自由の獲得をめざす。そのために、市民のためにあらゆる政治勢力との対話を行い、ヨルダンの政治・行政・経済の腐敗を除去し、国の安定を目差す。女性・青年の権利を守る努力をする。シューラー会議は、選挙で選ばれた120人の議員(4年任期)によって半年ごとに開催され、党の方針を決め、指導部も選出する(2年ごと)。党員は教育省関係者が多い。1991年にムスリム同胞団メンバーが史上初めて閣僚入りしたが、内閣参加への反対派(ハンマーム・サイードら)と賛成派(アブドゥッラー・アカーイレら)の間の対立も生まれた。また、独立系の党員からはムスリム同胞団の党への影響力関与への批判もある。

国民会議党(Zamzam)

  • Zamzam 
  • Jordanian National Conference Party
  • 公認2016年

ザムザムは穏健イスラーム政党であり、ヨルダンのムスリム同胞団を離脱したメンバー(レイル・ガラーイバが発起人)により構成される。2016年総選挙では5名が当選した。メンバーは党が市民中心で、党派的でなく、包括的で真に国民的な目標を達成し、民主主義と法の支配を達成することを目指す。ガラーイバは、「われわれは既存の宗教的・エスニック的・排他的なイデオロギーから離れたコンセンサスを渇望している」と述べた。(Jordan Times,26 March 2016) 

イスラーム・ワサト党

  • Hizb al-Wast al-Islami
  • (The Islamic Middle Party)
  • 2001年公認

Muhammad Al-Qudahを指導者とし、2001年IAFから離脱した者で結成された。党首、諮問評議会、諮問評議会事務局、General Assembly, General Conference、中央委員会、中央裁判所、訴追裁判所、約400人のメンバーがいるとみられる。シャリーアを柔軟に解釈し、民主的改革と政治的多元主義を重視し、政府の権力と市民の自由のバランスを取るように求める。議会で他の世俗政党とともに国民運動ブロックを形成している。また欧米諸国と公然と協力する姿勢を示し過激主義を批判している。

(b)左翼

ヨルダン共産党

  • Al-Hizb al-Shyu‘ii al-’Urduni
  • (Jordanian Communist Party)
  • 1993年公認
  • 発起人70人

イスラエルの成立後も西岸で活動を続けたパレスチナ解放運動組織の連合により、1951年ヨルダンに創設された。アラブ各国の大学で学ぶヨルダン人を中心に構成されていた。1950年代には「反共法」に基づき、治安当局からの取締りを受けた。秘密に発行される機関紙「ジャマーヒール(大衆)」紙により党員の連絡を保つ一方、労働組合・女性組織・学生組織・青年組織などの中で影響力維持を図った。共産党はその後、分裂も経験した。1980年代初めには、西岸のパレスチナ人共産主義者が離脱し、「パレスチナ共産党」を宣言した。また80年代初めに、ヤコブ・ズィヤッディーンが書記長に選出されると、古くからの党員で幹部のイーサー・マダナートが党を割った。社会主義圏の崩壊にもかかわらず、党は原則を主張しつづけている。労働組合などでの量的影響力は低下しているが、一般的な尊敬を引き続き集めているとも言われる。IMFの構造調整に反対し、イスラエルとの和平条約に反対を表明し、また協定後はイスラエルへの門戸開放に抵抗し、アラブ諸国間の協力関係強化を主張している。 現在議席は持っていない。 

(c)アラブ民族主義

アラブ・バース進歩党

  • Hizb al-Ba‘ath al-‘Arabi al-Taqaddumi
  • (The Arab Ba‘ath Progressive Party)
  • 1993年公認
  • 党員約200人

シリア・バース党系。法と憲法による統治とともに民主主義の拡大を追求している。人民の意思の支配を払しょくし、人民のための政治的・経済的利益の達成を求める。一神教の信仰と民族的遺産の尊重とアラブ民族の統一を尊重する。国内制度の安定とアラブの経済的統合の達成を目指す。政党としては規模が小さいが、書記長であるフアド・ダッブールの外交問題に関する発言がメディアで取り上げられることが多く党の知名度を上げることに貢献している。 ライバルであるイラク・バース党系のヨルダン・アラブ・バース社会主義党より規模が小さいとみられる。

ヨルダン人民民主党

  • Hizb al-Sha‘ab al-Dimqrati al-’Urdni (Hashd)
  • (Jordanian People’s Democratic Party)
  • 1993年公認
  • 発起人100人

1989年、DFLPがヨルダン内に自立性を持つ政党を作る方針を出したことにより、設立された。1993年DFLPメンバー・労働組合員・職能組合員・女性運動家・青年組織・知識人などからなる創設機関が作られ、1989年の総選挙では1人当選者を出した。週刊の党機関紙「アルアハーリー」がある。1970年代から80年代にかけてはパレスチナ人が党の基盤となったが、1991年と1994年に党は分裂し、影響力を弱めた。2010年の選挙では女性枠で事務局長のアブラ・アブー・オルベ(アンマン第1区)が当選し、1994年以降初めての議員となるとともに、第16期議会の唯一の野党議員となった。その後の議会では当選者は出ていない。

(d)左翼+アラブ民族主義

ヨルダン民主左翼党

  • Al-Hizb al-Yasar al-Dimuqrati
  • (Jordanian Democratic Leftist Party)
  • 1994年公認

1997年、ヨルダン民主統一党 Al-Hizb al-Dimqrati al-Wahdawi (The Jordanian Democratic Unitary Party)より改称した。左翼とアラブ民族主義諸派の連合で構成されている。党側は自らを左翼政党ではなく、民主主義政党としているが、むしろ革新的左翼の主張に近い。以下の政党及び政治グループから成る。

(i)社会民主党Al-Hizb al-Dimuqrati al-Ishtiraki

イーサー・マダナートが率いる。ヨルダン共産党から、スターリン主義的傾向を持つ党の方針に反対し、民主主義やアラブや世界との交流を主張し、離脱した。第12期下院に1人当選した。 

(ii)ヨルダン民主アラブ党 Al-Hizb al-‘Arabi al-Dimqurati al-’Urduni

マーゼン・サーキトMazin al-Sakit が率いる。バアス主義者、共産党員、パレスチナ政治グループの多様な派の集まり。アラブ民族主義・ヨルダン国民主義・社会主義・穏健な自由主義などの混合が見られる。

(iii)ヨルダン民主進歩党 Al-Hizb al-Taqaddumi al-Dimqurati al-’Urduni

ヨルダン人民民主党(Hashd)から分離した勢力によるもの。1991年にDFLPを脱退したヤーセル・アブドラッボ派に近く、「刷新と民主主義」をスローガンとしている。

(iv)ヨルダン人民民主党民主派Al-Taiyar al-Dimuqrati fi Hizb al-Sha‘ab al-Dimqrati al-’Urduni (Hashd)

1994年ヨルダン人民民主党(Hashd)から分離した。同党のバッサーム・ハッダーディーン Bassam Haddadinは89年と93年の選挙で下院議員に当選以降、6期にわたって議員を務め、議会・政治開発担当大臣(2012‐13)をつとめた。 

(e)中道・リベラル

未来党

  • Hizb al-Mustaqbal
  • (Future Party)
  • 1992年公認

1980年代に内務相などを務めたスレイマン・アラール Sulaiman ‘Ararが中心となり、1992年中道の政党としては初めて登録した。スレイマン・アラールはまた、1989年から90年11期下院の議長を務めている。ヨルダン国民主義とアラブ民族主義の中間の政治方針を持っているが、政府の金融政策とイスラエルとの政治経済的な平和の構築を支持した。しかし、最近の民主化や選挙法改正に関する政府批判に同調し、1997年選挙はボイコットした。1989年の第11期議会には3人、1993年の第12期議会には1名議員を当選させている。結党当初から発行されていた機関紙は、発行停止になった。

(f)保守

国民潮流党

  • Hizb al-Tayar al-Watani
  • (National Current Party)
  • 2009年公認

党の基本的方針としては、国民的統一、政治的忠誠心、公正、節度、寛容の価値の推進、市民の参加の拡大、法の統治の構築、政治改革によるガバナンスの強化、そのための法による自由や市民の保護と政府による安全や政策の展開との調和を掲げている。第16期議会選挙では、マジャーリー指揮下に国民潮流党の名のもとに、8名、第17期選挙では1人、第18期選挙では4人当選している。政党の形をとっているが、部族的背景で当選した者も多く、保守派と無党派の境界領域にあるもの、とみなすこともできる。

国民連合党

  • Hizb al-Ittihad al-Watani
  • (The Jordanian National Union party)
  • 2011年公認

組織:総会、議長、事務局長、事務局、経済局、会計局、専門局(議会、政党、選挙、人権、女性等) 政党、選挙等に関する政治関係法への市民の関心を喚起することを目的とする。民主主義推進のための適切な環境を整備する。各種会議への参加を通して、ヨルダンのアラブ諸国や域内、国際社会での役割を強化する。表現の自由、集会、平和的デモの権利を確立しそれへの障害を取り除く。憲法の原則を維持し、それに反する法律や規定を排除する。法の統治を確立する。第18期選挙では、7名の当選者をだした。

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