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パキスタン/現在の政治体制・制度
パキスタンは1947年8月14日に英領インド植民地から分離独立後、イスラーム国家をめぐる論争やムスリム連盟内部の東ベンガルと西パンジャーブの対立など、政争が続き、最優先課題であった憲法制定過程は停滞した。1956年3月にようやく最初の憲法が発効し、イギリスの自治領から、パキスタン・イスラーム共和国となり、憲法制定議会は国民議会に変わって、イスカンダル・ミルザー総督は初代パキスタン大統領として宣誓を行った。その後、軍事クーデタによる憲法の停止、1962年憲法を経て、1973年に制定されたのが現行憲法である。
議会は二院制をとっている。上院の定数は104、任期は6年で3年ごとに半数を改選する。下院は定数342、任期は5年である。ただし、2018年3月の半数改選後の5月に第25次憲法修正によって連邦直轄部族地域がハイバル・パフトゥンハー州に併合されることとなったため、上院の議席数は部族地域に割り当てられていた8議席が削減され、2021年に予想される改選では96議席となる。下院の342議席のうち、272議席が普通選挙で選出され、60議席は女性、10議席は宗教的少数派のための留保議席となっている。
選挙後、議会が招集されると議員の投票によって議長が選出され、次に同様に首相が選出され、選出された首相が内閣を構成する。大統領は上下院議員と4州の州議会議員の選挙によって選出される。軍事政権の大統領が権限拡大を目的として行った1985年の憲法修正によって大統領は議会解散権をはじめとする強い権限を持ったが、2011年の修正によって大幅にその権限が削減され、現在は首相と内閣に実権が戻されている。
1956年の憲法施行以来、制度的には議会制民主主義の形が整えられたものの、上に触れたとおり、パキスタンでは度々軍事クーデタにより、憲法によらない政権が成立し憲法が停止されるなどのことが起こってきた。軍事政権下にあった期間は以下のとおり。
(軍人が戒厳令司令官など実質的な最高権力をもった、もしくは大統領であった期間)
- 1958年10月〜1971年12月(13年2か月)
- アユーブ・ハーンおよびヤヒヤー・ハーン共に大統領
- 1977年7月〜1988年8月(11年1か月)
- ジアーウル・ハク戒厳令司令官のち大統領
- 1999年10月〜2008年8月(9年1か月)
- パルヴェーズ・ムシャッラフ行政長官のち大統領
2008年にパルヴェーズ・ムシャッラフ大統領が辞任して以後、軍人が最高権力者の地位に就くことはなく、5年ごとに下院選挙が実施され、議会制民主主義の体制は維持されている。しかし政党政治は依然として未熟な状態にあり、政治家の腐敗や怠慢など、国民の政治不信、政治家不信は残っている。無論、軍人が憲法を無視して政権を取るクーデタのような事態は否定されるものの、軍が隠然と政治家や政治そのものを支配しているという一般的な認識は根強く存在する。実態としても、テロの封じ込めから国内の政治的な紛争やデモへの対応に至るまで、最も有効な力を発揮してパキスタン社会の秩序を維持してきたのは軍であることは否めない。この間の憲法な変更としては、1985年に軍人であるジアーウル・ハク大統領が大統領権限を強化する憲法改正を行い、議会解散権を持った(第58条2項b)。この議会解散権は90年代の民主化した時代にあっても、大統領を通じて軍が議会と首相を押さえる手段として使われ、パキスタン人民党(PPP)とパキスタン・ムスリム連盟(PML)から交互に出た歴代首相は一度も任期を全うできず、任期半ばでの交代を繰り返した。PMLのナワーズ・シャリーフは二度目の首相在任中、こうした軍の力に対抗を企て、軍の人事に介入したものの経済政策の失敗で国民の支持を失った挙句、1999年10月に陸軍参謀長のクーデタによって首相の座を追われることとなった。
さらに軍とその出身者は多くの経済活動をも行い、近年では軍関連産業がGDPの20%を占めると推計する研究もある。パキスタンは体制としては立憲主義の議会制民主主義であるが、実質は軍を柱とする権威主義体制が続いていると考えられているのである。
それでは権威主義に対抗する可能性がどこにもないかといえば、2008年にムシャッラフ大統領を辞任に追い込んだ一連の政治変動は注目に値しよう。これはクーデタで政権を取った大統領と、その違憲性を問おうとする最高裁長官との間の権力闘争であったといえる。最高裁長官の違憲判決を恐れてムシャッラフが長官を職務停止としたことから、まず司法関係者がデモを行い、これに政党が乗る形で下院での大統領弾劾にまで発展した。弾劾に至る前に大統領が辞任したが、路上で行なわれていた反ムシャッラフ運動がやがて議会を動かし、クーデタで成立した政権を打倒することに成功した、というのはパキスタン憲政史上初めてのことであった。
2018年7月に行われた選挙で、これまで政権を交代で担当してきたPPPとPMLという二大政党を抑えて、パキスタン正義運動党(PTI)が初めて政権を取った。これもまた軍の合意のもとに実現した躍進だという評価が聞かれる。おそらくそれは正しく、イムラン・ハーン首相が軍から離れたり対抗したりできる政治手腕を発揮した成果ではないだろう。しかし、PTIは、70年代以来パキスタンの政治を動かしてきたPPPやPMLと違って、地主でも資本家でもない人物による新しい政党である。また軍も、国際社会との関わりの中で、軍政のようなあからさまな形の干渉から遠ざかっている。急速な展開は望めないにしても、パキスタンは実質的な民主化への緩やかな変化の過程にあると見られる。
パキスタン/最近の政治変化
2018年3月に上院の半数改選が行われ、続いて5月末をもって下院が任期を終え、7月に総選挙が実施された。いずれの選挙においても、PTI(パキスタン正義運動党)が予想を上回る躍進を果たして第1党となり、イムラン・ハーン首相が誕生した。州議会においても、ハイバル・パフトゥンハー(KP)州とパンジャーブ州でPTIが与党となった。
また、9月に大統領が任期を終え、上下両院と州議会議員による大統領選挙が行われた。PTIのアリフ・アルヴィ、MMAのファズルル・ラフマーン、PPPのエーティザズ・アハサンの3人が立候補し、アリフ・アルヴィが53%の票を獲得して当選し、9日に宣誓式を行なって第13代大統領に就任した。
上院の半数改選は、52議席について州議会と下院の議員による投票が、3月3日に実施された。単独政党としては30議席を有するPML-Nが最多であるが、PTIが他の4政党すなわちバロチスタン人民党(BAP)、統一民族運動(MQM)、バロチスタン民族党(BNP)、民主大連合(GDA)と無所属議員とともに連立を組み、40議席で与党を構成することとなった。MQMやGDAはともにスィンドでPPPの地盤に挑戦する政党でありバロチスタンのBAPやBNPとともに、パンジャーブとスィンドを地盤とする大政党を下野させたことになる。
一方、下院は2018年5月31日をもって任期を満了し、6月1日に発足した選挙管理内閣の下、下院および州議会の選挙が7月25日に実施された。8月15日下院が召集され、下院議長にPTIのアサド・カイセルが選出された。つづいて17日には首相選挙が行われ、イムラン・ハーンがPML-Nのシャハバーズ・シャリーフを破って首相に選出された。PTIの連立政権は177議席となった(過半数は172)。
今回の選挙は、大政党のPML-NとPPPに新興のPTIを加えた3党を軸に、宗教勢力と地方政党をまじえて争う構図となった。PPPはベーナジール・ブットー暗殺(2007年)以後、夫のザルダリと長男ビラーワルが共同総裁を務め、2008年選挙では政権を担ったが、前回選挙(2013年)ではPML-Nに与党の座を譲り、全国的な指導力の低下が続いている。一方のPML-Nも、ナワーズ・シャリーフ党首が一族の不正蓄財疑惑などで責任を問われ、2018年2月から4月に、最高裁がナワーズ・シャリーフには党首の資格がなくさらに終身にわたって議員資格なしとの判決を下した上、禁固刑判決を受けたことによって事実上政治への復帰は難しくなった。
そのような中で第3の政党としてPTIが存在感を増していった。PTIはクリケットのナショナル・チーム主将であったイムラン・ハーンが1996年に結成した政党で、2002年にイムラン・ハーン自身が初当選し、前回2013年の選挙で初めて第3党となった。「現在の政治体制・制度」で述べたとおり、政治への軍の影響力は大きい。PTI政権が成立しえたのは軍が彼を容認したからだというのが大方の観測である。すなわちPPPとPML-Nに代わって軍の意向を代弁する民主勢力としてPTIが選ばれたのであろうという見方を否定することは難しい。なぜならイムラン・ハーン自身には政策的にも議会活動の面でも、ほとんど実績がなかったからである。
今般のcovid-19の感染爆発への対応でも、イムラン・ハーンが打ち出した地域を限定したロックダウンよりも、軍が主導した全面的なロックダウンをはじめとする対策が実効性を持ち、結局は軍主導の対策となった。
とはいえ、1971年の民主化以来PPPとPML-N以外の政党が与党となるのも、地主でも資本家でもない人物が首相の座に就くのも初めてのことである。「新しいパキスタン」という呼びかけ、あるいは汚職撲滅や教育、保険制度を重視する政策など、大規模なインフラ事業が多かったシャリーフ政権との対比もあって、彼が掲げる清新な公約への期待は大きい。イムラン・ハーンのような新しい政治家や政党の登場が、パキスタンの実質的な民主化へ向かう変化につながるかどうか、注目される。
パキスタン/選挙
1970年以降の下院選挙実施年と第1党は【表1】のとおり。1970年は、バングラデシュ独立前年にあたり、のちにバングラデシュとして独立する東パキスタンの最大政党アワーミー連盟が最大議席を獲得した。また1985年と2002年の選挙は、事実上軍事政権下で行われ、軍事政権支持の政党が第1党となった。PPPが与党となった4回の選挙では、ズルフィカル・アリー・ブットーとベーナズィール・ブットー父娘が政権を取り、1990年以降でPMLが与党となった3回の選挙ではナワーズ・シャリーフが首相となっている。大地主と大資本家である党首が率いる二大政党のみが長くパキスタンの民主化時代を担ったことがわかる。この二大政党には汚職と縁故主義が付きまとい、国民の間に民主政治への不信を生んできた。2018年に初めて与党の座についたPTIは、初めて地主でも資本家でもない人物が、パキスタン政治の刷新と公正を旗印に掲げたことに、多くの支持が集まった。
また、2018年9月には大統領が任期を終え、上下両院と州議会議員による大統領選挙が行われた。PTIのアリフ・アルヴィ、MMAのファズルル・ラフマーン、PPPのエーティザズ・アハサンの3人が立候補し、アリフ・アルヴィが53%の票を獲得して当選し、9日に宣誓式を行なって第13代大統領に就任した。
実施年 | 第1党 | |
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1 | 1970 | アワーミー連盟AL: Awami League |
2 | 1977 | パキスタン人民党PPP: Pakistan Peoples Party |
3 | 1985 | パキスタン・ムスリム連盟PML: Pakistan Muslim League |
4 | 1988 | パキスタン人民党PPP |
5 | 1990 | イスラーム民主同盟IJI: Islami Jamhoori Ittehad(中心はPML) |
6 | 1993 | パキスタン人民党PPP |
7 | 1997 | パキスタン・ムスリム連盟ナワーズ派PMLN: Pakistan Muslim League (Nawaz) |
8 | 2002 | パキスタン・ムスリム連盟カーエデアーザム派PML-Q: Pakistan Muslim League (Quaid-i-Azam) |
9 | 2008 | パキスタン人民党PPP |
10 | 2013 | パキスタン・ムスリム連盟ナワーズ派PMLN |
11 | 2018 | パキスタン正義運動党PTI: Pakistan Tehriq-e-Insaaf |
2006年 | 2009年 | 2012年 | 2015年 | 2018年 | ||
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PTI | – | 0 | 6 | 17 | ||
PML-N | 21 | 16 | 26 | 30 | ||
PPP | 27 | 40 | 27 | 20 | ||
MMA | 9 | 6 | ||||
MQM-P | 6 | 7 | 8 | 5 | ||
ANP | 6 | 12 | 7 | 1 | ||
BAP | 11 | |||||
BNP-M | 2 | 11 | ||||
PMAP | 1 | 2 | ||||
NP | 1 | 5 | ||||
GDA | 1 | |||||
IND | 13 | 5 |
政党名 | 政治的立場 | 党首 | 2002年 | 2008年 | 2013年 | 2018年 |
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パキスタン正義運動党(PTI) | 中道 | Imran Khan | 1 | – | 28 | 156 |
パキスタン・ムスリム連盟ナワーズ派(PML-N) | 中道右派 | Shehbaz Sharif | 19 | 89 | 166 | 82 |
パキスタン人民党(PPP) | 中道左派 | Bilawal Bhutto Zardari | 81 | 118 | 33 | 55 |
統一民族運動 (MQM) | 左派 | Altaf Husain | 13 | 25 | 24 | – |
統一民族運動パキスタン派(MQM-P) | 左派 | Khalid Maqbool Siddiqui | – | – | – | 7 |
パキスタン・ムスリム連盟(PML-Q) | 中道右派 | Shujaat Hussain | 142 | 60 | 2 | 5 |
統一行動評議会(MMA) | 極右 | Fazl-ur-Rehman | 63 | 8 | 14 | 16 |
パフトゥンハー大衆党(PMAP) | 左派 | Mahmood Khan Achakzai | 1 | 0 | 3 | 2 |
アワーミー国民党(ANP) | 左派 | Asfandyar Wali Khan | – | 13 | 2 | 1 |
バロチスタン民族党(BAP) | 中道 | Jam Kamal Khan | – | – | – | 5 |
バロチスタン国民党(メンガル派)(BNP-M) | 中道右派 | Akhtar Mengal | 0 | 1 | 0 | 4 |
パキスタン/政党
パキスタン正義運動党PTI(Pakistan Tehreek-e-Insaaf)
1996年、元クリケットのパキスタン代表キャプテンを務めたイムラン・ハーンによって結成され、2018年から与党となった。政治傾向は中道であり、政権樹立以来、「新しいパキスタン」という標語を掲げ、福祉国家の建設を目標に掲げている。
ハーン党首はクリケット選手として抜群の知名度があったが、政党として支持を集めるまでには年月を要した。結党後最初の選挙であった1997年には一議席も獲得できず、2002年選挙でハーン党首だけが初当選し、2008年の選挙はボイコットという経緯を辿って、2013年に初めて第3党として躍進した。次の2018年の選挙では若年層からの強い支持を基盤に、とくにKP州、パンジャーブ州などで支持を集めて与党となり、ハーン党首が首相に就任した。2021年8月現在、パンジャーブ州およびKP州議会、ギルギット・バルティスタンおよびアーザード・ジャンムー・カシュミール議会の与党となっている。
パキスタン・ムスリム連盟ナワーズ派(PML-N:Pakistan Muslim League Nawas Faction)
1993年、イスラーム民主連合(Islamic Democratic Alliance)が解散して独立した政党で、ナワーズ・シャリーフが設立し、2017年まで党首を務めた。ナワーズ・シャリーフはイスラーム民主連合時代の1990年以来、3回にわたって首相を務めた。政治的な立場は中道右派。
イスラーム民主連合とは、1985年にジアーウル・ハク大統領が選挙を実施するにあたり、その支持政党としてムハンマド・ハーン・ジュネジョーが結成したムスリム連盟から、1988年ハク大統領の死後、フィダ・ムハンマド・ハーンが多数の党員を伴って分裂し、右派政党や宗教政党結成した連合である。イスラーム民主連合は1990年の選挙に勝利してナワーズ・シャリーフが首相となった。1993年にイスラーム連合は解散し、パキスタン・ムスリム連盟ナワーズ派と称した。パキスタン人民党(PPP)とともに1990年代民主化時代の二大政党制を担った。シャリーフ家の地元であるパンジャーブ州ラーホールを拠点とする。
結党以来党首を務めたナワーズ・シャリーフは過去3回にわたって首相を務めたが、汚職や脱税などで訴追を受け、2017年に党首の資格なしとの最高裁判決を受けたため、弟でパンジャーブ州知事シャハーバーズ・シャリーフが党首となった。2018年の選挙では下院の議席を大幅に失い下野した。地盤であるパンジャーブでも敗北を喫し、州議会の与党の座も失った。
パキスタン人民党(PPP:Pakistan Peoples Party)
1967年ズルフィカル・アリー・ブットーが結成した。中道左派、社会民主主義を理念とする。1970年以降5回にわたって政権党となった(1970年、1977年、1988年、1993年、2008年)。ズルフィカル・アリーが1977年ジアーウル・ハクによるクーデタで政権を追われ処刑された後は娘のベーナジールが党首を務めたが、ベーナジールが2007年に暗殺されると、夫ザルダリと長男ビラーワルが共同総裁に就任した。現在はザルダリが総裁、ビラーワルが議長となっている。
1988年にジアーウル・ハク大統領が飛行機事故死した後、民主政回復を牽引する政党となり、ナワーズ・シャリーフのイスラーム民主連合(後にパキスタン・ムスリム連盟ナワーズ派)とともに二大政党制を確立した。1999年10月のクーデタ以降は、ムシャッラフ政権に対抗する民主勢力として2008年にはムシャッラフ大統領を辞任に追い込み、史上初めて議会の力で軍政を終結させる中心勢力となった。2012年にギーラーニー首相が法廷侮辱罪で失職した後、影響力が後退し始め、2013年、2018年の選挙では野党となった。
統一民族運動(MQM: Muttahida Qaumi Movement–Pakistan)
学生運動組織を母体として、1984年にアルターフ・フセインによって創設されたムハージル民族運動(Muhajir Qaumi Movement)を前身とする。1991年までにカラチを中心とするスィンド州のウルドゥー話者コミュニティーの圧倒的代表政党となった。1997年に名称の「ムハージル(分離独立時のインドからの移民を意味する)」をムッタヒダ(統一)に改め、統一民族運動とした。ムシャッラフ政権下では与党PML-Qと強調した。
2017年にファルーク・サッタルがアルターフ・フセインとたもとを分かち、統一民族運動(パキスタン)となり、アルターフ・フセインの党は統一民族運動(ロンドン)となった。
統一行動評議会(MMA)Muttahida Majlis-e-Amal
2002年の選挙に際して、イスラーム党Jamaat-e-Islam、イスラーム・ウラマー党Jamiat Ulema-e-Islam (F)などの宗教政党が連合して結成した政党で、党首はウラマー党のファズルル・ラフマーン、政治傾向は右派から極右に位置する。当時のムシャッラフ政権がアメリカの同時多発テロ後の対テロ戦争に協力したことに反対して、2002年の選挙に宗教勢力を立候補・当選させることを目的として結成された。
パキスタン・ムスリム連盟(カーエデアーザム派)Pakistan Muslim League-Quaid-e-Azam
2001年にムハンマド・アズハルが中心となって、ナワーズ派から分裂して結成された。当時のムシャッラフ軍事政権を支持する政党として、2002年の選挙で大勝した。2004年にさらにたのPML分派と合流して与党として勢力を確立したが、2008年の選挙ではPPP、PML-Nに敗北し、下野した。党首は、チョウドリー・シュッジャード・フセインが務める。
アワーミー国民党Awami National Party
パシュトゥーンの民族政党として、ワリー・ハーンを党首として1986年に結成された。ワリー・ハーンは独立運動期にインド国民会議を支持したアブドゥル・ガッファール・ハーンの息子で、当時も現在も明確な政教分離主義をとる。パシュトゥーンが居住するKP州とバローチスターン州の一部を地盤としていたが、2018年の選挙ではPTIの躍進によりKP州の下院選挙区と州議会議席の多くを失った。
バロチスタン国民党Balochistan National Party
バロチスタンの民族政党で、平和的な方法でバロチスタン州に自治の拡大を求める。現党首はアクタル・メンガル。
バロチスタン人民党Balochistan Awami Party
2018年にPML-NとPML-Qの支援を受けてバロチスタンで結成された。同年に行われた選挙でバロチスタン州最大勢力となり、連邦議会と州議会で連立政権の一翼を担う。また、隣のKP州にも議員を4人出している。党首はジャーム・カマル・ハーン。