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パキスタン/現在の政治体制・制度
パキスタンは1947年8月14日に英領インド植民地から分離独立後、イスラーム国家をめぐる論争やムスリム連盟内部の東ベンガルと西パンジャーブの対立など、政争が続き、最優先課題であった憲法制定過程は停滞した。1956年3月にようやく最初の憲法が発効し、イギリスの自治領から、パキスタン・イスラーム共和国となり、憲法制定議会は国民議会に変わって、イスカンダル・ミルザー総督は初代パキスタン大統領として宣誓を行った。その後、軍事クーデタによる憲法の停止、1962年憲法を経て、1973年に制定されたのが現行憲法である。
議会は二院制をとっている。上院の定数は104、任期は6年で3年ごとに半数を改選する。下院は定数342、任期は5年である。ただし、2018年3月の半数改選後の5月に第25次憲法修正によって連邦直轄部族地域がハイバル・パフトゥンハー州に併合されることとなったため、上院の議席数は部族地域に割り当てられていた8議席が削減され、2021年に予想される改選では96議席となる。下院の342議席のうち、272議席が普通選挙で選出され、60議席は女性、10議席は宗教的少数派のための留保議席となっている。
選挙後、議会が招集されると議員の投票によって議長が選出され、次に同様に首相が選出され、選出された首相が内閣を構成する。大統領は上下院議員と4州の州議会議員の選挙によって選出される。軍事政権の大統領が権限拡大を目的として行った1985年の憲法修正によって大統領は議会解散権をはじめとする強い権限を持ったが、2011年の修正によって大幅にその権限が削減され、現在は首相と内閣に実権が戻されている。
1956年の憲法施行以来、制度的には議会制民主主義の形が整えられたものの、上に触れたとおり、パキスタンでは度々軍事クーデタにより、憲法によらない政権が成立し憲法が停止されるなどのことが起こってきた。軍事政権下にあった期間は以下のとおり。
(軍人が戒厳令司令官など実質的な最高権力をもった、もしくは大統領であった期間)
- 1958年10月〜1971年12月(13年2か月)
- アユーブ・ハーンおよびヤヒヤー・ハーン共に大統領
- 1977年7月〜1988年8月(11年1か月)
- ジアーウル・ハク戒厳令司令官のち大統領
- 1999年10月〜2008年8月(9年1か月)
- パルヴェーズ・ムシャッラフ行政長官のち大統領
2008年にパルヴェーズ・ムシャッラフ大統領が辞任して以後、軍人が最高権力者の地位に就くことはなく、5年ごとに下院選挙が実施され、議会制民主主義の体制は維持されている。しかし政党政治は依然として未熟な状態にあり、政治家の腐敗や怠慢など、国民の政治不信、政治家不信は残っている。無論、軍人が憲法を無視して政権を取るクーデタのような事態は否定されるものの、軍が隠然と政治家や政治そのものを支配しているという一般的な認識は根強く存在する。実態としても、テロの封じ込めから国内の政治的な紛争やデモへの対応に至るまで、最も有効な力を発揮してパキスタン社会の秩序を維持してきたのは軍であることは否めない。この間の憲法な変更としては、1985年に軍人であるジアーウル・ハク大統領が大統領権限を強化する憲法改正を行い、議会解散権を持った(第58条2項b)。この議会解散権は90年代の民主化した時代にあっても、大統領を通じて軍が議会と首相を押さえる手段として使われ、パキスタン人民党(PPP)とパキスタン・ムスリム連盟(PML)から交互に出た歴代首相は一度も任期を全うできず、任期半ばでの交代を繰り返した。PMLのナワーズ・シャリーフは二度目の首相在任中、こうした軍の力に対抗を企て、軍の人事に介入したものの経済政策の失敗で国民の支持を失った挙句、1999年10月に陸軍参謀長のクーデタによって首相の座を追われることとなった。
さらに軍とその出身者は多くの経済活動をも行い、近年では軍関連産業がGDPの20%を占めると推計する研究もある。パキスタンは体制としては立憲主義の議会制民主主義であるが、実質は軍を柱とする権威主義体制が続いていると考えられているのである。
それでは権威主義に対抗する可能性がどこにもないかといえば、2008年にムシャッラフ大統領を辞任に追い込んだ一連の政治変動は注目に値しよう。これはクーデタで政権を取った大統領と、その違憲性を問おうとする最高裁長官との間の権力闘争であったといえる。最高裁長官の違憲判決を恐れてムシャッラフが長官を職務停止としたことから、まず司法関係者がデモを行い、これに政党が乗る形で下院での大統領弾劾にまで発展した。弾劾に至る前に大統領が辞任したが、路上で行なわれていた反ムシャッラフ運動がやがて議会を動かし、クーデタで成立した政権を打倒することに成功した、というのはパキスタン憲政史上初めてのことであった。
2018年7月に行われた選挙で、これまで政権を交代で担当してきたPPPとPMLという二大政党を抑えて、パキスタン正義運動党(PTI)が初めて政権を取った。これもまた軍の合意のもとに実現した躍進だという評価が聞かれる。おそらくそれは正しく、イムラン・ハーン首相が軍から離れたり対抗したりできる政治手腕を発揮した成果ではないだろう。しかし、PTIは、70年代以来パキスタンの政治を動かしてきたPPPやPMLと違って、地主でも資本家でもない人物による新しい政党である。また軍も、国際社会との関わりの中で、軍政のようなあからさまな形の干渉から遠ざかっている。急速な展開は望めないにしても、パキスタンは実質的な民主化への緩やかな変化の過程にあると見られる。
パキスタン/最近の政治変化
2018年3月に上院の半数改選が行われ、続いて5月末をもって下院が任期を終え、7月に総選挙が実施された。いずれの選挙においても、PTI(パキスタン正義運動党)が予想を上回る躍進を果たして第1党となり、イムラン・ハーン首相が誕生した。州議会においても、ハイバル・パフトゥンハー(KP)州とパンジャーブ州でPTIが与党となった。
また、9月に大統領が任期を終え、上下両院と州議会議員による大統領選挙が行われた。PTIのアリフ・アルヴィ、MMAのファズルル・ラフマーン、PPPのエーティザズ・アハサンの3人が立候補し、アリフ・アルヴィが53%の票を獲得して当選し、9日に宣誓式を行なって第13代大統領に就任した。
上院の半数改選は、52議席について州議会と下院の議員による投票が、3月3日に実施された。単独政党としては30議席を有するPML-Nが最多であるが、PTIが他の4政党すなわちバロチスタン人民党(BAP)、統一民族運動(MQM)、バロチスタン民族党(BNP)、民主大連合(GDA)と無所属議員とともに連立を組み、40議席で与党を構成することとなった。MQMやGDAはともにスィンドでPPPの地盤に挑戦する政党でありバロチスタンのBAPやBNPとともに、パンジャーブとスィンドを地盤とする大政党を下野させたことになる。
一方、下院は2018年5月31日をもって任期を満了し、6月1日に発足した選挙管理内閣の下、下院および州議会の選挙が7月25日に実施された。8月15日下院が召集され、下院議長にPTIのアサド・カイセルが選出された。つづいて17日には首相選挙が行われ、イムラン・ハーンがPML-Nのシャハバーズ・シャリーフを破って首相に選出された。PTIの連立政権は177議席となった(過半数は172)。
今回の選挙は、大政党のPML-NとPPPに新興のPTIを加えた3党を軸に、宗教勢力と地方政党をまじえて争う構図となった。PPPはベーナジール・ブットー暗殺(2007年)以後、夫のザルダリと長男ビラーワルが共同総裁を務め、2008年選挙では政権を担ったが、前回選挙(2013年)ではPML-Nに与党の座を譲り、全国的な指導力の低下が続いている。一方のPML-Nも、ナワーズ・シャリーフ党首が一族の不正蓄財疑惑などで責任を問われ、2018年2月から4月に、最高裁がナワーズ・シャリーフには党首の資格がなくさらに終身にわたって議員資格なしとの判決を下した上、禁固刑判決を受けたことによって事実上政治への復帰は難しくなった。
そのような中で第3の政党としてPTIが存在感を増していった。PTIはクリケットのナショナル・チーム主将であったイムラン・ハーンが1996年に結成した政党で、2002年にイムラン・ハーン自身が初当選し、前回2013年の選挙で初めて第3党となった。「現在の政治体制・制度」で述べたとおり、政治への軍の影響力は大きい。PTI政権が成立しえたのは軍が彼を容認したからだというのが大方の観測である。すなわちPPPとPML-Nに代わって軍の意向を代弁する民主勢力としてPTIが選ばれたのであろうという見方を否定することは難しい。なぜならイムラン・ハーン自身には政策的にも議会活動の面でも、ほとんど実績がなかったからである。
今般のcovid-19の感染爆発への対応でも、イムラン・ハーンが打ち出した地域を限定したロックダウンよりも、軍が主導した全面的なロックダウンをはじめとする対策が実効性を持ち、結局は軍主導の対策となった。
とはいえ、1971年の民主化以来PPPとPML-N以外の政党が与党となるのも、地主でも資本家でもない人物が首相の座に就くのも初めてのことである。「新しいパキスタン」という呼びかけ、あるいは汚職撲滅や教育、保険制度を重視する政策など、大規模なインフラ事業が多かったシャリーフ政権との対比もあって、彼が掲げる清新な公約への期待は大きい。イムラン・ハーンのような新しい政治家や政党の登場が、パキスタンの実質的な民主化へ向かう変化につながるかどうか、注目される。
パキスタン/選挙
1970年以降の下院選挙実施年と第1党は【表1】のとおり。1970年は、バングラデシュ独立前年にあたり、のちにバングラデシュとして独立する東パキスタンの最大政党アワーミー連盟が最大議席を獲得した。また1985年と2002年の選挙は、事実上軍事政権下で行われ、軍事政権支持の政党が第1党となった。PPPが与党となった4回の選挙では、ズルフィカル・アリー・ブットーとベーナズィール・ブットー父娘が政権を取り、1990年以降でPMLが与党となった3回の選挙ではナワーズ・シャリーフが首相となっている。大地主と大資本家である党首が率いる二大政党のみが長くパキスタンの民主化時代を担ったことがわかる。この二大政党には汚職と縁故主義が付きまとい、国民の間に民主政治への不信を生んできた。2018年に初めて与党の座についたPTIは、初めて地主でも資本家でもない人物が、パキスタン政治の刷新と公正を旗印に掲げたことに、多くの支持が集まった。
また、2018年9月には大統領が任期を終え、上下両院と州議会議員による大統領選挙が行われた。PTIのアリフ・アルヴィ、MMAのファズルル・ラフマーン、PPPのエーティザズ・アハサンの3人が立候補し、アリフ・アルヴィが53%の票を獲得して当選し、9日に宣誓式を行なって第13代大統領に就任した。
実施年 | 第1党 | |
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1 | 1970 | アワーミー連盟AL: Awami League |
2 | 1977 | パキスタン人民党PPP: Pakistan Peoples Party |
3 | 1985 | パキスタン・ムスリム連盟PML: Pakistan Muslim League |
4 | 1988 | パキスタン人民党PPP |
5 | 1990 | イスラーム民主同盟IJI: Islami Jamhoori Ittehad(中心はPML) |
6 | 1993 | パキスタン人民党PPP |
7 | 1997 | パキスタン・ムスリム連盟ナワーズ派PMLN: Pakistan Muslim League (Nawaz) |
8 | 2002 | パキスタン・ムスリム連盟カーエデアーザム派PML-Q: Pakistan Muslim League (Quaid-i-Azam) |
9 | 2008 | パキスタン人民党PPP |
10 | 2013 | パキスタン・ムスリム連盟ナワーズ派PMLN |
11 | 2018 | パキスタン正義運動党PTI: Pakistan Tehriq-e-Insaaf |
2006年 | 2009年 | 2012年 | 2015年 | 2018年 | ||
---|---|---|---|---|---|---|
PTI | – | 0 | 6 | 17 | ||
PML-N | 21 | 16 | 26 | 30 | ||
PPP | 27 | 40 | 27 | 20 | ||
MMA | 9 | 6 | ||||
MQM-P | 6 | 7 | 8 | 5 | ||
ANP | 6 | 12 | 7 | 1 | ||
BAP | 11 | |||||
BNP-M | 2 | 11 | ||||
PMAP | 1 | 2 | ||||
NP | 1 | 5 | ||||
GDA | 1 | |||||
IND | 13 | 5 |
政党名 | 政治的立場 | 党首 | 2002年 | 2008年 | 2013年 | 2018年 |
---|---|---|---|---|---|---|
パキスタン正義運動党(PTI) | 中道 | Imran Khan | 1 | – | 28 | 156 |
パキスタン・ムスリム連盟ナワーズ派(PML-N) | 中道右派 | Shehbaz Sharif | 19 | 89 | 166 | 82 |
パキスタン人民党(PPP) | 中道左派 | Bilawal Bhutto Zardari | 81 | 118 | 33 | 55 |
統一民族運動 (MQM) | 左派 | Altaf Husain | 13 | 25 | 24 | – |
統一民族運動パキスタン派(MQM-P) | 左派 | Khalid Maqbool Siddiqui | – | – | – | 7 |
パキスタン・ムスリム連盟(PML-Q) | 中道右派 | Shujaat Hussain | 142 | 60 | 2 | 5 |
統一行動評議会(MMA) | 極右 | Fazl-ur-Rehman | 63 | 8 | 14 | 16 |
パフトゥンハー大衆党(PMAP) | 左派 | Mahmood Khan Achakzai | 1 | 0 | 3 | 2 |
アワーミー国民党(ANP) | 左派 | Asfandyar Wali Khan | – | 13 | 2 | 1 |
バロチスタン民族党(BAP) | 中道 | Jam Kamal Khan | – | – | – | 5 |
バロチスタン国民党(メンガル派)(BNP-M) | 中道右派 | Akhtar Mengal | 0 | 1 | 0 | 4 |
パキスタン/政党
パキスタン正義運動党PTI(Pakistan Tehreek-e-Insaaf)
1996年、元クリケットのパキスタン代表キャプテンを務めたイムラン・ハーンによって結成され、2018年から与党となった。政治傾向は中道であり、政権樹立以来、「新しいパキスタン」という標語を掲げ、福祉国家の建設を目標に掲げている。
ハーン党首はクリケット選手として抜群の知名度があったが、政党として支持を集めるまでには年月を要した。結党後最初の選挙であった1997年には一議席も獲得できず、2002年選挙でハーン党首だけが初当選し、2008年の選挙はボイコットという経緯を辿って、2013年に初めて第3党として躍進した。次の2018年の選挙では若年層からの強い支持を基盤に、とくにKP州、パンジャーブ州などで支持を集めて与党となり、ハーン党首が首相に就任した。2021年8月現在、パンジャーブ州およびKP州議会、ギルギット・バルティスタンおよびアーザード・ジャンムー・カシュミール議会の与党となっている。
パキスタン・ムスリム連盟ナワーズ派(PML-N:Pakistan Muslim League Nawas Faction)
1993年、イスラーム民主連合(Islamic Democratic Alliance)が解散して独立した政党で、ナワーズ・シャリーフが設立し、2017年まで党首を務めた。ナワーズ・シャリーフはイスラーム民主連合時代の1990年以来、3回にわたって首相を務めた。政治的な立場は中道右派。
イスラーム民主連合とは、1985年にジアーウル・ハク大統領が選挙を実施するにあたり、その支持政党としてムハンマド・ハーン・ジュネジョーが結成したムスリム連盟から、1988年ハク大統領の死後、フィダ・ムハンマド・ハーンが多数の党員を伴って分裂し、右派政党や宗教政党結成した連合である。イスラーム民主連合は1990年の選挙に勝利してナワーズ・シャリーフが首相となった。1993年にイスラーム連合は解散し、パキスタン・ムスリム連盟ナワーズ派と称した。パキスタン人民党(PPP)とともに1990年代民主化時代の二大政党制を担った。シャリーフ家の地元であるパンジャーブ州ラーホールを拠点とする。
結党以来党首を務めたナワーズ・シャリーフは過去3回にわたって首相を務めたが、汚職や脱税などで訴追を受け、2017年に党首の資格なしとの最高裁判決を受けたため、弟でパンジャーブ州知事シャハーバーズ・シャリーフが党首となった。2018年の選挙では下院の議席を大幅に失い下野した。地盤であるパンジャーブでも敗北を喫し、州議会の与党の座も失った。
パキスタン人民党(PPP:Pakistan Peoples Party)
1967年ズルフィカル・アリー・ブットーが結成した。中道左派、社会民主主義を理念とする。1970年以降5回にわたって政権党となった(1970年、1977年、1988年、1993年、2008年)。ズルフィカル・アリーが1977年ジアーウル・ハクによるクーデタで政権を追われ処刑された後は娘のベーナジールが党首を務めたが、ベーナジールが2007年に暗殺されると、夫ザルダリと長男ビラーワルが共同総裁に就任した。現在はザルダリが総裁、ビラーワルが議長となっている。
1988年にジアーウル・ハク大統領が飛行機事故死した後、民主政回復を牽引する政党となり、ナワーズ・シャリーフのイスラーム民主連合(後にパキスタン・ムスリム連盟ナワーズ派)とともに二大政党制を確立した。1999年10月のクーデタ以降は、ムシャッラフ政権に対抗する民主勢力として2008年にはムシャッラフ大統領を辞任に追い込み、史上初めて議会の力で軍政を終結させる中心勢力となった。2012年にギーラーニー首相が法廷侮辱罪で失職した後、影響力が後退し始め、2013年、2018年の選挙では野党となった。
統一民族運動(MQM: Muttahida Qaumi Movement–Pakistan)
学生運動組織を母体として、1984年にアルターフ・フセインによって創設されたムハージル民族運動(Muhajir Qaumi Movement)を前身とする。1991年までにカラチを中心とするスィンド州のウルドゥー話者コミュニティーの圧倒的代表政党となった。1997年に名称の「ムハージル(分離独立時のインドからの移民を意味する)」をムッタヒダ(統一)に改め、統一民族運動とした。ムシャッラフ政権下では与党PML-Qと強調した。
2017年にファルーク・サッタルがアルターフ・フセインとたもとを分かち、統一民族運動(パキスタン)となり、アルターフ・フセインの党は統一民族運動(ロンドン)となった。
統一行動評議会(MMA)Muttahida Majlis-e-Amal
2002年の選挙に際して、イスラーム党Jamaat-e-Islam、イスラーム・ウラマー党Jamiat Ulema-e-Islam (F)などの宗教政党が連合して結成した政党で、党首はウラマー党のファズルル・ラフマーン、政治傾向は右派から極右に位置する。当時のムシャッラフ政権がアメリカの同時多発テロ後の対テロ戦争に協力したことに反対して、2002年の選挙に宗教勢力を立候補・当選させることを目的として結成された。
パキスタン・ムスリム連盟(カーエデアーザム派)Pakistan Muslim League-Quaid-e-Azam
2001年にムハンマド・アズハルが中心となって、ナワーズ派から分裂して結成された。当時のムシャッラフ軍事政権を支持する政党として、2002年の選挙で大勝した。2004年にさらにたのPML分派と合流して与党として勢力を確立したが、2008年の選挙ではPPP、PML-Nに敗北し、下野した。党首は、チョウドリー・シュッジャード・フセインが務める。
アワーミー国民党Awami National Party
パシュトゥーンの民族政党として、ワリー・ハーンを党首として1986年に結成された。ワリー・ハーンは独立運動期にインド国民会議を支持したアブドゥル・ガッファール・ハーンの息子で、当時も現在も明確な政教分離主義をとる。パシュトゥーンが居住するKP州とバローチスターン州の一部を地盤としていたが、2018年の選挙ではPTIの躍進によりKP州の下院選挙区と州議会議席の多くを失った。
バロチスタン国民党Balochistan National Party
バロチスタンの民族政党で、平和的な方法でバロチスタン州に自治の拡大を求める。現党首はアクタル・メンガル。
バロチスタン人民党Balochistan Awami Party
2018年にPML-NとPML-Qの支援を受けてバロチスタンで結成された。同年に行われた選挙でバロチスタン州最大勢力となり、連邦議会と州議会で連立政権の一翼を担う。また、隣のKP州にも議員を4人出している。党首はジャーム・カマル・ハーン。
バングラデシュ/現在の政治体制・制度
バングラデシュは人口の9割をムスリムが占めている。同国の人口が1億6760万人(同国統計局による2020年度統計)であることを考えると、1億4000万人以上のムスリム人口をかかえていることとなり、実数でいえば、インドネシア、パキスタン、インドに次ぐ世界第4位のムスリム人口となる。そして、このような大多数のムスリム人口を背景とし、バングラデシュの国教はイスラームに規定されている。
現在バングラデシュでは、定数300名および、選出された議員の割合に応じて配分される女性留保議席50名の計350議席によって構成される、5年任期の一院制議会制度がとられている。しかし、議会制のもとでの民主主義の歴史は浅く、1975年から1990年までは、軍部出身の大統領に権限が集中し、国会が意味をなさない形骸化した議会制度、もしくは直接の軍政下にあった。バングラデシュ政治の実質的な民主化は、1990年にH・M・エルシャド政権が学生運動を主体とした民主化運動によって倒された後の憲法改正によって、大統領を元首とする議院内閣制度が確立した1991年になされたといえる。
現政権与党のアワミ連盟(Awami League)は2018年12月30日に実施された第11次国民議会選挙において、単独で全300議席中258議席を獲得し、民主化以降初の3期連続の政権党となった。しかしながら、野党支持者が暴力的に排除されたり、投票箱が持ち出されたりするなど、選挙の公正な実施に関しては疑問符がついた。以下に、現在のバングラデシュ政治体制に関する論点を整理したい。
(1)政治体制・政治制度の概観
バングラデシュにおける現在の政治体制の柱は議院内閣制である。行政権は内閣総理大臣に与えられる。大統領は、国家の元首および軍の最高司令官として定められており、総理大臣、大臣、および最高裁判所裁判官の任命権を有する。しかし、大統領は首相の助言にしたがって行動しなければならない。また、交戦権の行使には議会の承認が必要である。
立法権は議会に属し、議会は任期5年の一院制である。内閣総理大臣は議会によって選出される。内閣総理大臣は内閣の人事権を有する。議席数は350議席で、直接選挙による300人定員の普通選挙に加えて、50人の女性留保議席がある。女性留保議席に関しては、普通選挙の得票率に従って政党ごとに割り当てられる。
司法権は、行政・立法権から独立する旨の憲法規定があるが、議会の3分の2以上の賛成で裁判官の罷免が可能である。裁判所は最高裁判所(Supreme Court)、高等裁判所(High Court)、下級裁判所(Subordinate Court)が憲法により定められている。これとは別に、軽度の民事訴訟においては村裁判によって裁判がおこなわれることもある。
(2)2大政党対立による政情不安
1991年の民主化以降、バングラデシュにおいては、アワミ連盟とBNPが交互に政権を担ってきた。そして、政権が交代する度に、野党側が「不正選挙」結果の取り消し要求、長期間にわたる議会ボイコットや政党傘下の学生組織を動員しての街頭デモやホルタル(ゼネスト)など、激しい反政府活動を展開し、国政を混乱させてきた。与党側も政策決定過程において実質的に野党を排除し、前政権の汚職の摘発や要職者の逮捕などをつうじて、野党の力を弱めようと画策した。また、中央から末端の地方行政、国立大学にまでおよぶ役職人事を政治的に任命し、影響力を強めてきた。2大政党のどちらが政権の座についても、同様のパターンが繰り返されており、今日までバングラデシュの政情混迷の主要因となっている。
国内で最も長い歴史を誇るアワミ連盟は、パキスタン時代にムジブル・ラフマン総裁を中心に自治権拡大運動を展開した。独立後、ムジブル・ラフマン総裁は初代首相(後に大統領)に就任したが、次第に強権的性格を強め、1975年の軍事クーデターによって暗殺された。後継者として、長女のシェイク・ハシナ(現首相)が総裁に就任した。
一方のBNPは、1975年の軍事クーデターの主導者の一人である、ジヤウル・ラフマン陸軍参謀長(77年に大統領)が、民政移管に備え1978年に結成した官製政党である。ジヤウル・ラフマン大統領もまた、1981年に軍内部の対立から暗殺され、その後はカレダ・ジア夫人が総裁に就任した。
このように、両党の現総裁は、過去に大統領であった近親者を軍事クーデターによって暗殺されている。特に、初代大統領のムジブル・ラフマン暗殺の際には、大統領本人だけでなく一族の大半が殺害された(ハシナ現総裁は外遊中で殺害を免れた)。そしてクーデターの後に、軍部内の権力闘争に勝ち抜いて、自らBNPを結成し政権の座についたのがジヤウル・ラフマンであったことから、両総裁の間には晴れることのない遺恨が存在する。
現在では、両党の間には、支持基盤や理念に違いはみられるものの、政策的には大きな差異はなく、むしろ党首間の心情的確執や利権の争奪、権力への強い固執からくる泥仕合的な対立が目立っている(村山2012)。現段階では上記二大政党に割って入るだけの支持基盤と強いリーダーシップを持つ政党・政治家が存在しないことから、国民はどちらかに国政を託すしかないのが現状である。2008年総選挙実施にあたり、ノーベル平和賞受賞者であるグラミン銀行のムハマド・ユヌス総裁が新党立ち上げを画策したが、実現しなかった。また、国政・地方に関わらず、選挙の不正に関する報道はあとをたたず、バングラデシュの議会制民主主義は、民意を反映する仕組みとしてはいまだ未成熟であるといえる。
(3)軍の影響
1991年の民主化以降、軍の間にも二大政党の対立が浸透しているといわれているが、軍の中立的姿勢と実行力は、2007年から2008年にかけての非政党選挙管理内閣を経て、国民の高い支持を得るにいたった。
2006年10月、2001年より国政を担っていたBNP政権が任期満了で退陣し、解散後90日以内に国会選挙を実施するために設けられる、非政党選挙管理内閣が発足した。1996年の憲法改正で導入されたこの制度は、与野党どちらの側にも与しない中立的な立場の暫定内閣を組閣し、選挙管理委員会を支援・監視することにより、国会選挙の公正性を担保することを目的としている。しかし、内閣人事などを巡り政党間の対立が激化し、国内の治安が悪化したため、同内閣のイアデュッディン大統領は2007年1月11日、バングラデシュ全土に向けて非常事態宣言を発令するとともに、全土に夜間外出禁止令を出した。そして軍の後援のもと、翌12日にファクルッディン・アーメド元中央銀行総裁を首班とする非政党選挙内閣が再発足した。
ファクルッディン政権は、これまで2大政党のどちらもが自らの足下への波及を恐れて着手してこなかった政治改革を断行した。特に、汚職の一掃にむけた取り組みは、大々的に実施され、元閣僚を含む政治家や官僚、企業家を矢継ぎ早に逮捕した。その対象は政治の中枢にまでおよび、BNPのカレダ・ジア総裁、アワミ連盟のシェイク・ハシナ総裁も汚職容疑で逮捕される事態となった(08年6月にハシナ総裁は海外での病気治療を理由に仮釈放され、ジア総裁も08年9月に保釈された)。報道によれば、400人以上におよぶ汚職容疑者リストは軍部によって用意されたとされる。そのため、軍部は、汚職のない環境制度作りに寄与し、2大政党による利益誘導型の政治にメスを入れたとして国民の高い支持を受けた。一方で、選挙実施にむけたロードマップ作成の遅れから、アメリカをはじめとする欧米諸国から、軍の強い影響下にある非政党選挙管理内閣が長期化することへの危惧が示されたが、結果として2年後の2009年12月に議会選挙が実施され、無事民政移管が果たされた。
このように、バングラデシュ政治における軍部の影響力は、国民の支持を背景に決して小さくないが、現状では軍部が全面にでて長期間政治運営をおこなうことは困難であると思われる。一つには外国援助依存がきわめて高いバングラデシュにおいては、欧米のドナー諸国の意向、とりわけ民主化促進、基本的人権の擁護を求める外的圧力が働き、軍政をしくこと自体が難しくなっている。また、軍の関心は、機微な舵取りと利害調整が求められ、時として軍内部でのクーデターに発展する恐れのある国内政治への関与から、議会制民主主義のもと民主化が前提となっている国連平和維持軍の派遣によって得られる経済的利益に移行していると考えられる。バングラデシュは2018年5月の段階でPKOミッションに7099人を派遣しており、世界第2位の派遣国である。バングラデシュにとっては、外貨と軍組織の維持費獲得、そして国際的な地位向上という派遣へのインセンティブがある。また、将兵個々人の経済的メリットも大きく、派遣兵士の平均月給は約75、680TK(約1、100USドル)となっている。この額は少尉クラスの基本給10、000TK、准将クラスの基本給38、565TKに比べると格段に高い(IWGIA 2012)。軍のリクルートサイトには海外勤務での手厚い追加手当てがうたわれており、国軍兵士を目指す動機付けとなっている。
非政党選挙管理内閣を支援したモイーン・アフマド陸軍参謀長は、自身の回顧録において、国連の平和維持軍担当の事務次長から、すべての与野党が参加したもとでの公正な選挙が実施されない場合には、バングラデシュ軍を平和維持軍から外すことを検討するとの警告があったとしたうえで、平和維持軍への機会が奪われた場合、限られた収入しかない兵士たちの不満を抑えるのは難しいと指摘した(堀口2009)。実際、2009年2月には平和維持軍への参加資格のない準軍事的組織である国境警備隊(BDR)が、平和維持軍への参加を含めた待遇改善を求めて反乱をおこし、軍関係者57人が殺害される事件が発生している。
軍政を引くと紛争国として扱われ、PKOへの参加資格を失うことから、現状のバングラデシュにおいては、PKOミッションという国外での役割が軍部に国内で政治に干渉することを思いとどまらせているといえる。また、2011年の第15次憲法改正によって、軍による国家権力の掌握と憲法停止に対して、極刑を含む厳しい処罰に処することが規定された。これは、2007年から2008年の軍後援の非政党選挙管理内閣下において、両党総裁を含む政治家多数が汚職容疑で逮捕された経験から、軍の介入を警戒してアワミ連盟がうった布石である。これらのことからも、今後軍が積極的に政権運営に介入することの政治的合理性はないといえる。
(4)イスラームと政治
BNPを創設したジヤウル・ラフマン大統領は、憲法から政教分離を削除し、コーランの一文を挿入するなど、イスラームに対して寛容な姿勢をとった。そして、独立戦争時にパキスタンに与した政治家の起用や、イスラーム政党の解禁を通じて、イスラーム勢力を取り込む政治姿勢を示した。続くエルシャド政権は、休日を日曜日ら金曜日に変更し、1988年には、憲法改正によってイスラームを国教化した。このようなジヤウル・ラフマン、エルシャドの両軍人政権を通じて、イスラームへの配慮の姿勢を示すことが重要視される政治的土壌がつくられたといえる。
1991年の民主化以降は、イスラーム主義政党が2大政党の間でたびたびキャスティンボードをにぎることによって、その存在感を示すようになった。主な政党としてイスラーム協会(Jamaat-e-Islami、Bangladesh:以下JI)とイスラーム統一戦線(Islami Oikiya Jote)がある。これらの政党は、イスラーム国家の実現や市民法に代わってイスラーム法を導入することなどを主張しており、イスラーム原理主義的傾向が強い。二大政党の中では、近年BNPがイスラーム主義政党と共同戦線を張る傾向がみられる。1996年の総選挙では、BNPとJIの離反がアワミ連盟の勝利へと結びついた。一方で2001年の総選挙では、BNPがイスラーム主義政党と共闘することによってアワミ連盟に勝利し、イスラーム主義政党が政権与党の一角を占めるにいたった。
しかしながら、BNPとイスラーム主義政党の連立政権下においては、非合法イスラーム武装主義勢力による爆弾事件が頻発したことから、武装主義勢力との関係が噂されるイスラーム主義政党や、連立政権を組むBNPは国民の支持を得られなくなり、2008年の総選挙では惨敗した。
代わって政権を奪取したアワミ連盟は、独立戦争時の戦争犯罪を裁く国際戦争犯罪法廷を設置し、イスラーム主義政党への攻勢を強めた。1971年の独立戦争当時、パキスタン軍に協力して独立運動を弾圧したとされる「戦争犯罪者」の中にはJIのメンバーが多く含まれている。国際戦争犯罪法廷の目的がJI指導者を裁判にかけることにあり、総選挙を視野にいれた野党勢力の切り崩しであるとしてBNPやイスラーム主義政党は批判を強めた(補足参照 )。
参考文献
- アジア経済研究所編『アジア動向年報(各年版)』アジア経済研究所.
- 日下部尚徳「バングラデシュの政治情勢:国内で抗議デモが頻発、暴動も-JI副総裁に死刑判決-」『金融財政ビジネス』、10316号、pp.10-14、時事通信社
- 日下部尚徳「バングラデシュ総選挙をめぐる情勢不安-民主的で穏健なイスラム国家の行方-」『金融財政ビジネス』、10386号、pp.16-19、時事通信社
- 佐藤宏編著『バングラデシュ: 低開発の政治構造』アジア経済研究所.
- 佐藤宏「国をめぐる模索」『バングラデシュを知るための60章』pp. 23-26、 明石書店.
- 佐藤宏「議会制民主主義のゆくえ」『バングラデシュを知るための60章』pp. 40-43、 明石書店.
- 高田峰夫『バングラデシュ民衆社会のムスリム意識の変動-デシュとイスラーム-』明石書店.
- 村山真弓「憲法第15次改正で再選への布石」『アジア動向年報2012』pp. 440-464、アジア経済研究所
- 堀口松城『バングラデシュの歴史』明石書店.
- A. T. Rafiqur Rahman. 2008. “Bangladesh Election 2008 and Beyond: Reforming Institutions and Political Culture for a Sustainable Democracy”. The University Press Limited.
- IWGIA. 2012. “Militarization in the Chittagong Hill Tracts、Bangladesh”. IWGIA・Organising Commitee CHT Campaign・SHIMIN GAIKOU CENTRE.
- Mudud Ahmed. 2012.“Bangladesh: A Study of the Democratic Regimes”. The University Press Limited.
※参考文献は全項目に共通
バングラデシュ/最近の政治変化
1民主化の経緯
1-1独立と中央集権化
自治権とベンガル語の公用語化要求に端を発し、1971年、第3次印パ戦争を経て、東パキスタンはバングラデシュとして独立した。そして、翌1972年にムジブル・ラフマン政権(アワミ連盟)のもと、民主主義、社会主義、政教分離を柱とする議院内閣制を基本制度とした憲法を制定した。当政権が社会主義と政教分離主義を目指した背景としては、パキスタンへの対抗上インドに近い立場をとったこと、当時のインドが冷戦構造の中でソ連陣営に与していたことなどが考えられる。しかし、独立後の経済停滞、物価高騰、洪水被害、援助物資の横流しなどによって高まった政権に対する批判を抑えこむため、ムジブル・ラフマン政権は大統領制へと移行し、一部の政党を非合法化するなど中央集権的な政治体制となっていった。
1-2軍事政権とイスラーム主義
1975年、青年陸軍将校によるクーデターによって、ムジブル・ラフマンが自宅にて殺害された。その際、ムジブル・ラフマン本人だけでなく、夫人や3人の息子を含む一族の大半が殺された(現アワミ連盟総裁のシェイク・ハシナは当時ヨーロッパを外遊中で難を逃れた)。事件後、ジヤウル・ラフマン陸軍少将がクーデターをおこして政権を掌握したが、ジヤウル・ラフマンも1981年に軍内部のクーデターによって暗殺された(表1)。事件以降政権を掌握したH・M・エルシャド陸軍中将とあわせて、バングラデシュにおいては15年間軍人主導の政治が続いた。ジヤウル・ラフマン政権、H・M・エルシャド政権ともに、政権掌握後、自らの政権の受け皿として政党を結成した上で選挙を実施し、自らが大統領として政権運営をおこなった。この過程の中で生まれたのがジヤウル・ラフマンのBNPであり、エルシャドのジャティオ・パーティ(Jatiya Party:以下JP)である。
また、政教分離主義を目指したアワミ連盟と異なり、イスラーム主義の復活もこの両政権の特徴であった。ジヤウル・ラフマンは1977年に憲法前文に「慈悲深く、慈愛遍くアッラーの御名において」の一句を挿入し、政党としてイスラーム主義を全面に押し出した。エルシャドは1982年にアラビア語を義務教育化した。1988年にはイスラームを国教と規定し、週の休みを、日曜日からイスラームの安息日である金曜日に変更した。
1975年 | 8月15日 | 青年将校らにより、ムジブル・ラフマン大統領が、夫人や3人の息子をはじめとする近親者とともに殺害される。 |
11月3日 | 軍部内のムジブル・ラフマン支持派であったハレッド・ムシャラフ准将が、巻き返しのクーデターを起こす。 | |
11月7日 | 軍内部で反ハレッド・ムシャラフ派によるクーデターがおき、ジヤウル・ラフマン陸軍参謀長が権力を掌握する。ジヤウル・ラフマンは77年4月に大統領に就任。 | |
1981年 | 5月30日 | 軍部内の改革派グループにより、ジヤウル・ラフマン大統領がチッタゴンで側近に暗殺される。 |
1982年 | 3月24日 | 無血軍事クーデターによりフセイン・ムハマド・エルシャド戒厳司令官が権力を掌握し、戒厳令を引いた。翌年、エルシャドは自らが大統領であると宣言。 |
1-3民主化運動
1986年、市民および諸外国の民主化要求に応じる形で行われた総選挙において選挙操作があったとして、エルシャド政権に対する民主化運動が盛り上がりを見せるようになった。中心的な役割を果たしたのは学生や知識人で、首都ダッカを始め、国立大学のあるチッタゴンやシレット、ラジシャヒなどの大学キャンパス付近で反政府デモが繰り返されるようになった。この民主化運動の際にはムジブル・ラフマンの娘シェイク・ハシナが党首を務めるアワミ連盟とジヤウル・ラフマンの妻カレダ・ジアが党首を務めるBNPが共闘し、エルシャド政権打倒のための運動を展開した。
1-4民主化
一般的に、バングラデシュの民主化はH・M・エルシャド政権が上記の民主化運動によって倒された後の憲法改正によって、大統領を元首とする議院内閣制度が確立した1991年になされたと言える。エルシャド退陣後の1991年2月に実施された国民議会選挙ではカレダ・ジア率いるBNPが勝利し、BNPは民主化後最初の政権党となった。以後、1996年選挙ではシェイク・ハシナ率いるアワミ連盟が、2001年選挙はBNP、2009年選挙はアワミ連盟と2大政党による政権運営が交互に続いてきたが、2014年、2018年の選挙ではアワミ連盟が勝利し一党支配体制を確立した。
制度上は民主主義とられているものの、 選挙実施に際しては有権者への目先の利益誘導が優先され、立候補者同士で具体的な政策が議論されるような機会は少ない。ときには現金が有権者へ配られることもあり、運用上の課題も少なくない。また、議会において政策上の意見の衝突があった場合には、議会ボイコットやホルタル(ゼネスト)、街頭デモといった手法で野党は対抗する。それらは時に先鋭化し暴力的な様相を呈することから、本来あるべき議会制民主主義がおこなわれているとは言いがたいのが実情である。
(2)最近の政治変化
2-1国際戦争犯罪法廷とイスラーム主義政党
アワミ連盟は91年の民主化以降、選挙のたびに独立戦争で西パキスタン側 に協力した者への処罰を主張することにより、戦争を経験した元軍人党員の支持を集め、党の結束をはかってきた。2008年12月の国会総選挙でも戦犯裁判の実施を選挙公約に掲げて戦い、3分の2以上の議席を獲得して地滑り的勝利を収めた。 そして、公約にもとづいて、2010年3月25日に、3人の裁判官と7人の検察官、12人の調査官を任命し「国際戦争犯罪法廷」を開く体制を整えた。「国際」と名付けられているが、2009年1月にアワミ連盟主導政権によって制定された国内法である国際犯罪(法廷)法(International Crime[Tribunal]Act)に基づく裁判であることから、その中立性には国内外から疑問符がつけられた。特に被疑者となったイスラーム主義政党の指導者と関係の深いパキスタンやトルコなどの中東諸国、死刑に反対の立場をとる欧州諸国は裁判の実施に強い懸念を示した。
裁判の対象は、1971年のバングラデシュ(東パキスタン)独立戦争当時、独立運動を弾圧したパキスタン軍に協力したものや、住民を虐殺したとされる者である。西パキスタン側への協力者の多くは、イスラーム主義政党の支持者であった。その中でも特に、農村住民に強い影響力をもつイスラーム教学者の支持のもと、地方にまで組織力を持つイスラーム協会(Jamaat-e-Islami:以下JI)が、反独立運動の中心的な役割を担っていた。JIは親パキスタンの立場から「和平委員会」と呼ばれる組織を結成し、独立に反対した。そして、イスラーム主義政党の地方・学生団体としてラザーカールやアル・バダル、アル・シャムスといった組織を編成し、和平委員会の下、アワミ連盟の活動家や独立を支持する知識人、ヒンドゥー教徒を虐殺した。反独立派はバングラデシュ独立による東西パキスタンの分断と、それによってヒンドゥー教徒が多数を占めるインドの影響力が南アジアで拡大することを恐れ、パキスタンに加担したとされる。一方で、独立戦争の際には、東パキスタンの独立派による反独立派に対する虐殺行為も同時におこなわれており、バングラデシュ独立戦争に際しては、独立派、反独立派の双方で、悲しむべき多くの虐殺事件がおきていたと理解すべきである。
しかしながら、戦犯法廷の対象がJIと一部のBNP指導者に限定されていることから、両党は裁判そのものが不当であるとして、激しい抗議運動を展開した。JI支持者や学生グループのメンバーは全国で治安部隊と衝突し、報道されているだけで300名以上が死亡する事態となった。アワミ連盟は、暴動を主導したとして2013年8月にJIを非合法化し、選挙資格を剥奪した。これらのことから、アワミ連盟による戦犯法廷設置の狙いは、野党指導者を裁判にかけ、有力野党の政治力を削ぎ、選挙を優位に進めることにあったと考えられ、その目的はおおむね達成されたと言える。
2-2シャハバーグ運動とイスラーム主義勢力
上述の戦犯法廷は2013年1月に元JI幹部のアブル・カラム・アザドに死刑判決をくだしたが、2月には同じく死刑判決が予想されていたJI幹事長補佐のアブドゥル・カデル・モッラに対しては終身刑をくだした。これに対して、「Blogger and Online Activist Network(BOAN)」に参加する若者たちが、ウェブサイト上でモッラ被告に対しても死刑を求める運動を呼びかけた。その結果、数万人規模の市民がダッカ南部のシャハバーグ地区交差点付近に集結し、無期限の座り込み集会をおこなった。シャハバーグ運動と名付けられたこの集会は、若者中心の市民運動として始まったが、ハシナ首相をはじめ、アワミ連盟の政治家も同調する姿勢をみせたため、政治色を帯びることとなった。
これに対して、JIとも関係の深いイスラーム主義団体であるヘファジャテ・イスラム(Hifazat-e-Islam)は、シャハバーグ運動を呼びかけた若者を、ムスリムとその予言者を冒涜する無神論者として、死罪を求める抗議行進をチッタゴンからダッカにかけて実施した。ヘファジャテ・イスラムは、全国の宗教学校に支持基盤をもつため、行進の途中に支持者が合流し、ダッカに到着する頃には、数十万人規模の集団に拡大していた。同組織は、反冒涜法の導入やシャハバーグ運動のリーダーの処罰、イスラーム主義にもとづく国家建設にむけた項目を含む「13か条の要求」を政府に突きつけた。シャハバーグ運動参加者との前面衝突にはいたらなかったが、イスラーム主義勢力の組織力を顕示する上では十分な効果があったといえる。
2-3イスラーム主義勢力による襲撃事件の増加
上記の国際戦争犯罪法廷に社会の注目が集まりはじめた2013年初頭より、イスラーム武装勢力による襲撃事件が増加した。襲撃の対象は、反イスラーム的であるとされたブロガー、外国人、宗教マイノリティに大別される。
ウェブ上で政治的意見を発言するブロガーは、バングラデシュにおけるインターネットの普及によって、急速にその存在感を増してきている。特に、アワミ連盟が戦犯裁判を推し進めることにより、戦犯推進派や保守的かつ武装主義的なイスラーム思想に対して批判的な立場をとる人びとが政権のお墨付きを得た形となり、活発に発言するようになった。また、自らの意見を誰からも精査されることなく容易にウェブ上で流布することができるようになったことから、イスラームに関する議論が過激な批判の応酬となって、互いの憎悪を高め合う結果となった。
これらを背景として、2013年頃から過激なイスラーム思想を批判する書き込みを行っていたブロガーや、戦犯裁判で被疑者に厳罰を求める運動をウェブ上で展開したブロガー、彼らの著作を発行する編集者、LGBT(性的マイノリティ)の権利を求める活動家などが、何者かに襲撃される事件が続いた。これに対してIS(イスラーム国)やインド亜大陸のアルカイーダ (Al Qaeda in the Indian Subcontinent: AQIS)は、彼らをイスラームの伝統的な教えに反する「無神論者」や「世俗主義者」であるとして犯行を認める声明をだした。
宗教マイノリティに対しては、シーア派宗教施設における無差別発砲事件や、イスラームの少数宗派であるアフマディヤのモスクにおける自爆テロ事件、ヒンドゥー教徒や仏教徒、キリスト教徒、イスラーム少数宗派に対する襲撃事件などが発生し、ISからの犯行声明がだされた。
また、2015年には外国人をターゲットにした襲擊事件が3件発生し、イタリア人2名、日本人1名が死傷した。外国人に対する襲撃事件がISの犯行声明の下、立て続けに発生したことに加え、ISの広報誌「ダービク12号」において、バングラデシュにおけるテロ活動の強化を示唆したことから、政府、各国大使館は警戒を強めた。
このような襲撃事件が断続的に発生するなか、2016年7月1日午後9時過ぎにダッカの外国人高級住宅街であるグルシャン地区のレストラン「ホーリー・アルチザン・ベーカリー」で、日本人7人を含む民間人20人が殺害されるという、大規模かつ計画的なテロ事件が発生した。事件は、武装した5人の若者によって引き起こされ、実行中にISからの犯行声明が出された。彼らはいずれも25歳以下で、バングラデシュにおいては富裕層・高学歴の部類に入る。事件当日はラマダン(断食月)の最終金曜日で、レストランは外国人客が多数を占めていた。実行犯は、殺害にあたりコーランの一節を朗読させたとの証言もあり、非ムスリムを狙って犯行に及んだことが予想される。
テロ事件後、政府はテロを一切容認しない「ゼロ・トレランス・ポリシー」を掲げ、取り締まりの強化にのりだした。現地治安当局は、2017年5月までの間に武装勢力のメンバー92人を殺害、1050人を拘束した。殺害されたなかには、ダカ襲撃テロ事件の首謀者とみられるタミム・アフメド・チョウドゥリも含まれる。また、若者が過激思想に感化されるのを防ぐために、テレビCMや看板を作成するなど、政府は一般の人の目に見える形で過激派の問題を提起した。 これによりイスラーム武装勢力内および組織間の指示系統は分断され,資金調達能力を低下させたことから,武装勢力による襲撃事件は減少した。
また、2018年7月23日にダカ襲撃テロ事件の起訴状が提出され、12月3日に裁判が開始された。警察は容疑者を21人と断定したが、そのうち13人は容疑者死亡で起訴見送りとなった。起訴状によると、事件はイスラーム武装勢力バングラデシュ・ムスリム戦士団(JMB)の分派、ネオJMBによって実行された。ネオJMBは6カ月間かけてダカ襲撃テロ事件を計画したとされる。テロの目的は、バングラデシュを不安定なテロ国家にすることだった。裁判では、逃亡中の2人を除き、起訴時点で逮捕拘留されていた6人全員が無罪を主張した。
2-4国民議会選挙
憲法第123条第3項(a)によると,任期満了による解散の場合、解散の期日に先立つこと90日前から解散の期日当日までの間に選挙を行うこととされる。直近の国民議会選挙は2018年12月30日に実施されており、次回の選挙は2023年に予定されている。
2018年12月に実施された国民議会選挙では,野党関係者の拘束・襲撃事件が多発し,野党関係者は批判を強めた。最大野党BNPは報道に対して,2013から2017年の間に34人が逮捕、435人が失踪し、そのうち252人がいまだに行方不明、39人が遺体で発見されたとして、与党アワミ連盟を非難した。
2018年2月8日には、ダッカ特別裁判所が慈善団体の基金横領の容疑でカレダ・ジアBNP総裁に懲役5年の有罪判決、ロンドンにいるタリク・ラフマンBNP上級副総裁に懲役10年の有罪判決を言い渡した。ジア総裁が刑務所に収監される事態を受け、BNP は全国で抗議運動を展開した。一連のBNP幹部の逮捕は、2年以上の懲役刑を受けた者で釈放から5年以内の者は国会総選挙に出馬できないという憲法規定を利用したBNPへの攻勢であるとの見方も強い。
また、選挙を前に国定教科書におけるイスラーム関連記述の増加や、宗教学校卒業者への公的な資格付与、最高裁判所の前に設置されたギリシャ神話の女神テミスをモチーフにした像の撤去など、イスラーム主義団体の要求に沿った政策が次々と実行された。世俗主義を標榜するアワミ連盟がこれまで手を付けてこなかった分野での政策変更は、総選挙を睨んでのイスラーム主義層の取り込みであるとの見方が強い。
国連事務総長の報道官は、2018年2月26日、国際社会にロヒンギャ難民支援を訴える一方で、バングラデシュ政府に対して公正な選挙を求める声明をだした。しかしながら、投票場の一時閉鎖や投票箱の持ち出し、暴力による野党支持者の排除など、国内外のメディアで選挙の不正が報じられた。ロヒンギャ難民支援を大規模に実施する以上、国連としてもバングラデシュに民主的な体制を維持してもらう必要があることから、次回2023年の国民議会選挙にむけてアワミ連盟に対する公正な選挙実施にむけた国際社会からの圧力が強まると考えられる。
バングラデシュ/選挙
(1)選挙制度
バングラデシュでは、定数300名および女性留保議席50名の計350名によって構成される、5年任期の一院制議会制度がとられている。女性留保議席は普通選挙の得票率にしたがって政党ごとに割り当てられる。選挙にあたっては小選挙区制を採用し、各選挙区からひとりずつ議員が選出される。選挙権は18歳以上のバングラデシュ国籍をもつ者、もしくは法的居住者と認められる者に与えられるが、心身衰弱者、および独立戦争時にパキスタンに協力したとして訴訟された者は除外される。被選挙権は25才以上のバングラデシュ国籍をもつ者に与えられ、心身衰弱者、および二年以上の懲役刑を受けた者で釈放から5年以内の者、独立戦争時にパキスタンに協力したとして訴訟された者は除外される。
(2)2018年国民議会選挙
1991年の民主化以降、アワミ連盟とBNPが交互に政権を担ってきた。そして、政権が交代する度に、野党側が「不正選挙」結果の取り消しを要求し、都市部の暴力団や政党傘下の学生組織を動員して激しい抗議活動を展開してきた。与党側も政策決定過程において実質的に野党を排除し、前政権の汚職の摘発や要職者の逮捕などを通じて、野党の力を弱めようと画策した。二大政党のどちらが政権の座についても、同様のパターンが繰り返されており、今日までバングラデシュの政情混迷の要因となっている。バングラデシュは小選挙区制を採用しているため、両者の獲得議席数で大差がついていたとしても、得票率では拮抗してきた経緯がある(表)。そのため、二大政党のどちらが政権をとっても、野党勢力による支持者を大規模に動員した抗議運動や政治活動が可能となる。
2018年12月30日に実施された国民議会選挙(以下、総選挙)は、電子投票の一部導入やSNSでの選挙活動など、政府の「デジタル・バングラデシュ」政策を反映させる新たな動きが見られたものの、一方で与党側の強権的な姿勢や、与野党の候補者に対する襲撃事件、投票所の一時閉鎖や票の水増しなどが報道されたことから、選挙の正当性に国内外より疑問符がつけられた。
総選挙では、各党に比例配分される女性留保枠50を除く小選挙区300議席が争われ、ALを中心とした与党連合が有効とされた298議席中288議席を獲得し、圧倒的多数派となった。ALは単独で全議席の86%となる257議席を獲得し、ハシナ政権は連続3期目を迎えた。
ALは過去の選挙戦において世俗主義を前面に出す傾向がみられたが、今回の選挙ではイスラーム政治団体15団体からなるイスラーム民主同盟(Islamic Democratic Alliance)の設立を画策し、ALを含む与党連合に対する支持を取り付けた。ハシナ首相は選挙戦を通じて、宗教色の強い非正規イスラーム教育機関であるコウミ・マドラサの教育委員会による大規模集会に参加するなど、イスラーム主義政党と共闘関係にあり、イスラーム保守層を票田に抱えるBNPに対抗する姿勢をみせた。
一方で、贈賄の容疑で逮捕されたカレダ・ジア総裁の保釈を求める最大野党BNPは、中立性が担保されていないとして5年前の前回総選挙同様に選挙をボイコットする姿勢をみせたが、国会に議席がないことによる党のさらなる弱体化を避けるため、野党連合として設立された国民統一戦線(Jotiya Oikya Front:JOF)から候補者を擁立した。しかし、JOFは「公正な政治の実現」を前面に押し出すものの、反ALということ以外に政策的共通性はみられず、また独立戦争時の戦争犯罪に加担したイスラーム主義政党ジャマアテ・イスラーミー(イスラーム協会:JI)と共闘するBNPの加入を否定的にとらえる政党も少なくなかったことから最後まで足並みがそろわず、わずか7議席を獲得するにとどまり、BNPの国政復帰は厳しい船出となった。
(3)非政党選挙管理内閣制度の廃止
2014年の国会総選挙において、BNPをはじめとする野党が選挙をボイコットした背景には、アワミ連盟主導政権による非政党選挙管理内閣制度(以下、選管内閣制度)の廃止がある。選管内閣制度は、96年の憲法改正で正式に導入された制度で、与野党どちらの側にも与しない中立的な立場の暫定内閣を組閣することによって選挙の公正性を担保することを目的としている。同制度下においては、公正な選挙を実施するため、直近に退職した最高裁判所長官を長とする諮問委員会が、暫定選挙管理内閣として政権を引き継ぎ、90日以内に総選挙を実施する。同制度が導入された背景には、1986年の選挙において、当時のエルシャド政権による選挙工作があり、政権側による投票の恣意的な操作があり得ることが政党間および国民の間でコンセンサスとなっていたことがある。同制度のもとではこれまでに3回の総選挙が実施されたが、すべての選挙で与野党逆転という結果を残してきた。選管内閣の下では、それまでの政権与党のマイナスイメージが強調される傾向があることから、一般的に同制度は与党の側に不利に働くと考えられている。
91年の民主化以降初の2期連続の政権党を目指したアワミ連盟は、選挙をできる限り有利に進めるために、2011年の第15次憲法改正で同制度を廃止し、政権党である同党の指揮のもとに2014年の総選挙を実施する手はずを整えた。これに対してBNPをはじめとする野党は、これまで通り政党政治家によらない中立な選管内閣の下で選挙が実施されない限り総選挙には参加しないとの声明をだすと同時に、国会をボイコットし、全国的な抗議デモであるホルタルを実施した。一部の抗議集会やデモ行進は暴徒化し、警官隊との衝突により多数の死傷者がでる事態となった。また選挙前後には手製爆弾が使用されるなど、その暴力性がエスカレートし、国内の治安情勢は悪化した。
(4)地方選挙制度
地方行政機構として、7つの地方管区(Division) 、64の県(District:ベンガル語ではジェラ) 、487 の郡(Upazira:ウポジラ)、4546 のユニオン(Union)に行政区画されている。中央政府より各地方に対し地方行政長官(Divisional Commissioner)が配置され、各県には県行政長官(Deputy Commissioner)が、各郡に対しては郡行政官(Upazila Executive Officer) が派遣されている。県レベルにおいては行政長官が地方行政の実質的な責任者となっている。上記行政区画のうち、以前から選挙による首長及び議員の選出が実施されていたのはユニオンのみである。2008年からはウポジラにおいても選挙により首長が選ばれるようになったが、議会は存在しない。また、県レベルにおいては民選の首長システムは存在しない。
ユニオン議会システムはイギリス統治時代のザミンダール制度の名残で、ザミンダールの持っていた徴税権がユニオン・チェアマンに移された事にその歴史的背景を有する。多くの地方でユニオン・チェアマンはザミンダールの子孫が選出されていた。ユニオン議会では当該地域が9つの選挙区に区分され、それぞれの選挙区からひとりずつ議員が選出される。また、女性留保議席が別途3議席あり、9つの選挙区を3つずつ合わせた選挙区で選出される。ウポジラ選挙においては、議長1人、副議長1人、女性副議長1人が投票により選出される。
バングラデシュ/政党
(1)Awami League:アワミ連盟
アワミ連盟は、パキスタン分離独立後の1949年に東パキスタンにおいて結成された。アワミ連盟の創始者はマオラナ・バシャニーとH・S・スフラワルディとされているが、リーダーとして認知されているのはシェイク・ムジブル・ラフマンである。結党当初からパキスタン政府の打ち出したウルドゥー語を公用語とする政策に強く反対し、パキスタンからのバングラデシュ独立に指導的な役割を果たした。
独立後、アワミ連盟は新国家バングラデシュの舵取りを担ったが、独立戦争によって国土が荒れていた上に度重なるサイクロンや洪水の被害により国民は飢餓に苦しみ、国家を安定的に導くことができなかった。また、ムジブル・ラフマンは初代首相(後に大統領)に就任したが、次第に強権的性格を強め、1975年の青年将校による軍事クーデターによって家族数十人とともに暗殺された。後継者には、クーデター当時ヨーロッパに滞在中で難を逃れた長女のシェイク・ハシナ(現首相)が総裁に就任した。
その後、アワミ連盟は1995年の総選挙に勝利し、政権を奪取するまでの20年間、野党の立場にあった。2001年総選挙には敗れたものの、2009年、2014年、2018の選挙に勝利し、三期連続の政権党となった。
アワミ連盟はパキスタンから独立を果たす際、インドからの支援を受けた経緯から、歴史的に親インドであり、特にインド国民会議派との関係は深い。独立戦争直後は社会主義と政教分離主義を柱とするなど、明確な左派政党であったが、近年では中道左派的な政策指向に変化している。国立大学に強力な学生支持団体を持ち、ヒンドゥー教徒や少数民族にも支持基盤をもつ。
(2) Bangladesh Nationalist Party (BNP):バングラデシュ民族主義党
BNPは、1978年にジヤウル・ラフマンによって設立された。ジヤウル・ラフマンは軍人出身で、独立戦争のリーダーだったムジブル・ラフマンを積極的に支持した。1975年の軍部青年将校によるムジブル・ラフマン暗殺事件のあと、クーデターを起こして事態を収拾し、そのまま政権を担った。その後、民政移管にむけてBNPを設立したが、1981年に軍内部の対立から暗殺された。
ジヤウル・ラフマンの暗殺事件後は、妻のカレダ・ジアが総裁に就任し、現在にいたっている。BNPは1990年および2001年の国会総選挙に勝利し、カレダ・ジア総裁は過去に2度首相を経験している。
BNPは、親インドで左派的な政策を指向するアワミ連盟への対抗上、親パキスタン、親イスラームの立場をとる。2001年の選挙からイスラーム主義政党であるジャマティ・イスラミと連立を組んでいる。2014年の総選挙では選挙のプロセスをめぐり与党アワミ連盟と対立し、選挙をボイコットしたことから、BNPは国会の議席を失い、急速に政治力を低下させた。2018年の総選挙では野党連合として選挙に参加したが、連合全体でわずか7議席を獲得するにとどまった。
(3) Jatiya Party(JP):ジャティオ・パーティ
JPは、1981年に起きたジヤウル・ラフマン暗殺事件の後、戒厳令司令官として軍政を掌握したH・M・エルシャドが1986年に設立した。当時、欧米諸国の外的圧力もあり、エルシャドは民主的な総選挙をおこない国会に議席をもつことで政府の正統性を国内外に示す必要があった。その受け皿として設立されたのがJPである。1986年の総選挙では勝利したが、さまざまな選挙工作疑惑がもたれている。実質的な民主化がなされた1991年の選挙以降は第3政党となっている。
(4) Jamaat-e-Islami(JI):ジャマアテ・イスラーミー(イスラーム協会)
JIは1941年にイギリス植民地時代のインドにおいて結成された。パキスタンからバングラデシュが独立した際にBangladesh Jamaat-e-Islamiとして再結党された。イスラーム主義政党で農村部貧困層に強い支持基盤をもつ。議席数は多くないものの、過去にアワミ連盟とも、BNPとも連立政権を組んだ経験があるなど、強固な政治基盤をもとに政界に影響力を与えている。パキスタンからの独立戦争当時はパキスタン側についていたため、一時非合法政党となっていたこともある。
2009年の国民議会選挙に勝利したアワミ連盟により、独立戦争当時戦争犯罪を裁く、国際戦争犯罪裁判が設置され、JIの幹部の多くが有罪判決をうけた。2013年12月にそのうち一人が処刑されて以降、アワミ連盟とは厳しい緊張関係にあったが、2013年8月1日に党綱領が憲法および選挙法に違反するとの判決が下され、政治活動が禁止された。そのため2018年の国民議会選挙には党としての参加が認められず、一部が野党連合のもとで出馬したが全員落選した。