「イラン」カテゴリーの記事一覧
イラン/現在の政治体制・制度
現在のイランの政治体制、すなわちイスラーム共和制の来歴は1979年の革命にさかのぼる。反王政運動は1960年代米国の提言を受けて始まった「白色革命」の影響を受けるとされるが、それは主に二つの主要アクターに影響を及ぼしたとされる。一つは労働者である。大地主所有者の解体と工業化を柱とする「白色革命」によって地方と都市、都市部の労働者の所得格差が拡大したことで1970年代に労働者による抗議運動が頻発するようになった(Parsa 1989:141-144)。所得格差の要因が米国による対外投資の増加にあるとの考えが市中に広まると「反米」が反王政運動のスローガンの一つとなったのである(Keddi 2006:148-169)。もう一つは宗教勢力である。近代教育制度の普及を目指す「白色革命」を受けてイランの宗教勢力は社会的役割が低下するとの懸念を抱くようになる(Brumberg 2001: 73)。それに対して宗教勢力は近代的な教養とイスラーム法学の両方を身につけた若年の知識人の育成に力を入れた(嶋本2011:52-55; Fischer 1980: 76-86)。この宗教学院での教育が後に新体制の創設において宗教勢力が他の勢力を制圧し権力の中枢を掌握する背景である[1]。
イスラーム法学者が国を統治するイランの政治制度の根底には革命で指導的な役割を果たしたホメイニー師が唱えた「イスラーム法学者の統治(ヴェラーヤテ・ファギーフ)」論がある(Arjomand 1988: 177-188)。これはホメイニー師が革命前から提唱していた考えである。その論点は、第12代イマームがお隠れで不在の間、外国植民地主義による反イスラームの攻勢に直面するイスラーム世界を救済するためには、イスラーム法を正しく解釈し執行できる統治者が必要であるというものである(吉村2005: 80)。
イラン・イスラーム共和国憲法には「イスラーム法学者の統治」論を具現化するための様々な条項が盛り込まれている。憲法第1条は、イランの政体がイスラーム共和制であり、この体制には「全有権者の98.2%が」賛成票を投じたことを明記している。第2条は主権が神にあることを謳っており、第4条ではイスラーム共和国におけるあらゆる法律はイスラームの原理に基づくことが定められている。そして第5条では、イマームがお隠れでいる間は、「公正で徳高く実社会に関する知識を有し、勇敢で有能な」イスラーム法学者(ファギーフ)が、イスラーム共和国を指導するとされている。
憲法第56条によれば、主権は神にあるものの、その神は人間を、自らの社会的運命を決定する権利を持つ存在として創造した。よって何者も、神から人間に与えられたこの権利を奪うことはできない。そのように定めた上で憲法は、イラン・イスラーム共和国の統治権力は立法権、行政権および司法権からなり、相互に独立するこれらの三権はいずれも最高指導者の導きのもとに、憲法の諸原則に基づき行使されることを定めている。
以上の憲法の特徴を踏まえ、イランの政治体制は神権政治と共和制という一見相反する特徴を備えた政治体制だとする指摘がなされている(Ghobadzadeh and Rahim 2016; Abdolmohammadi and Cama 2015)。
以下、イスラーム共和制を構成する主要機関を紹介する。各機関の説明に入る前にイランの政治体制の二元構造について説明しておきたい。イランの国家機構には日々の行政を担当する大統領(1989年までは首相)と内閣を中心とする行政府が存在する[2]。民選機関である議会は行政府が執行するための法を制定し、行政府の活動を監視している。他方、イランには最高指導者を頂点とする宗教政治の構造が併存するという特徴がある。それには金曜礼拝指導者、さらには警察、革命防衛隊、社会福祉[3]、開発機関[4]、国営メディア、公立大学などにおける最高指導者名代が含まれる(Matsunaga 2009: 478-479)。選挙で政権の派閥が変わると政策選好も変化することが指摘されている(Randjbar-Daemi 2018)。しかしながら大統領が率いる機関と最高指導者が率いる機関の権力関係は制度的にも実践的にも不平等である(Abdolmohammadi and Cama 2015)ことに注意する必要がある。
なお本稿はイランの政治体制の制度的側面を解説することを目的とするため、最高指導者、および三権を担う機構に絞る。また以下の憲法とは1989年の改正憲法を意味する。
最高指導者
イラン・イスラーム共和国の最高指導者は、「宗教的かつ政治的」な統治権を有する(憲法第107条)。初代最高指導者は、カリスマ的な革命の指導者ホメイニー師が努めたが、ホメイニー師の亡き後、最高指導者は国民の直接投票により選ばれる専門家会議メンバーにより決定されることになっている。 初代最高指導者であるホメイニー師が1989年6月に逝去すると、当時大統領を務めていたアリー・ハーメネイー師が、専門家会議の決定により最高指導者に就任した。
(1) 最高指導者に求められる資質(憲法第109条)
イスラーム法学上の様々な問題にまつわる法判断に必要とされる学識
イスラーム共同体を導くのに必要とされる公正さと敬虔さ
指導者に必要とされる適切な政治的・社会的洞察力、慎重さ、勇気、権威、国家運営能力
(2) 最高指導者の権限(憲法第110条)
- 体制利益判別評議会との協議をふまえたイラン・イスラーム共和国体制の施政方針の決定
- 体制の施政方針の適正な遂行の監督
- 国民投票の実施宣言
- 統帥権
- 宣戦布告、和平の受諾、軍の動員
- 以下の者の任命、解任、辞任の受理
- 監督者評議会メンバーのイスラーム法学者6名
- 司法長官
- イラン国営放送総裁
- 全軍統合参謀長
- イスラーム革命防衛隊総司令官
- 国軍及び治安維持軍の総司令官
- 三権間の対立の解消と調整
- 通常の方法では解決が不可能な込み入った問題の体制利益判別評議会を通じた解決
- 国民により選ばれた大統領の認証
- 最高裁判所が大統領による違反行為を認定した場合、あるいは国会が大統領は不適格との決定を下した場合、これに基づく大統領の罷免
- 司法長官の推薦を受けての恩赦および減刑の実施
立法府
イラン・イスラーム共和国において、立法権は国民による直接投票で選出された議員から構成される国会により行使される。憲法はまた、「非常に重要な経済的、政治的、社会的、文化的問題については」、国民投票により立法権が行使されることもあることを定めている。国民投票は、国会議員全員の3分の2の承認を得て実施される。
(1) 国会の構成
- 任期4年
- 定数290
- 憲法憲法第 64 条は定数270と定めている。ただし1989年の国民投票以降、10 年毎に人口、政治、地理その他の要因を考慮に入れて、最大30名まで議員を増員できる。
- この規定に基づき、2000年に実施された第6期国会選挙から、国会議員の定数は290名に増員された。
- 宗教少数派5議席
- ゾロアスター教徒は1名、ユダヤ教徒も1名、アッシリア系およびカルデア系キリスト教徒はあわせて1名、南部及び北部のアルメニア人キリスト教徒はそれぞれ1名の議員を選出することになっている(憲法第64条)。
(2)国会の権限
- イスラーム教の原則及び憲法に違反しない範囲であらゆる問題に関わる法律を審議・制定できる(憲法第71条)。
- 最小限15名の議員の賛同があれば法案を議会に上程できる(憲法第74条)。
- 国際間の条約、議定書、協定及び同意書の承認(憲法第77条)
- 政府が国内外の借款または無償の協力を受けるための承認(憲法第80条)
- 大統領による内閣組閣後、行政権行使前の信任投票(憲法第87条)。信任には投票総数の過半数の賛成が必要。
- 閣僚の罷免
- 閣僚の喚問動議は最低10名の議員の署名により上程される。動議の対象となった閣僚は10日以内に議会に出席し、動議に対する答弁を行う。信任投票が得られなかった場合、閣僚は免職となる(憲法第89条)。
- 大統領の罷免
- 大統領の喚問動議は3分の1以上の議員の決議により行われる。大統領は1ヶ月以内に議会に出席し、動議に対する答弁を行う。3分の2以上の議員が大統領を無能と票決すれば、罷任の理由を最高指導者に通知する。
- 行政府及び司法府の執行方法に対する苦情処理(憲法第90条)
(3) 監督者評議会による立法の監督
- 監督者評議会の構成(憲法第91条)
- 公正かつ時代の要請及び問題点に精通するイスラーム法学者6名(最高指導者が任命)
- 法律の各分野に精通する法学者6名(最高指導者が任命する司法長官が指名し、国会が承認)
- 任期6年(憲法第92条)
- 監督者評議会の権限
- 国会が可決する法律がイスラームの原則に適っているか否かは、監督者評議会が判定する。国会で可決された議事事項がイスラームの原則に抵触しないとの判定は監督者評議会中のイスラーム法学者の過半数により、また違憲性がないとの判定は監督者評議会メンバー全員の過半数による(憲法第96条)
- 憲法の解釈権限。監督者評議会メンバーの4分の3の賛成により解釈が決定される(憲法第98条)
(4) 体制利益判別評議会による裁定(憲法第112条)
- 体制利益判別評議会は1988年2月に設置された。メンバーは最高指導が任命する。
- 国会で可決された法案を、監督者評議会が承認せず、その法案をめぐる国会と監督者評議会の間の対立が解消されない場合、法案は「体制の利益」という観点から最終的な判断を下す権限を有する。
行政府
イラン・イスラーム共和国において、大統領は最高指導者に次ぐ第2の権力者である。大統領の任期は4年であり、継続的な再選は1回に限り許される(第114条)。
(1) 大統領に求められる資質(憲法第115条)
- 宗教的及び政治的に優れた人格を有する卓越した人物
- 生粋のイラン人でイラン国籍を持ち、管理能力があり慎重で、評判がよく正直かつ敬虔で、イスラーム共和国の原則と国教を信じ、これに忠実である者
(2) 大統領の権限
- 複数の副大統領の任命(憲法第130条)
- 議会の決議事項に署名する(憲法第123条)。大統領に拒否権はない。
- 閣僚の議会への紹介(憲法第133条)
- 大臣の解任(憲法第136条)
司法府
イラン・イスラーム共和国において、司法権内で最高の地位を占める司法長官は最高指導者により任命される。司法長官は「公正で司法に通暁し、管理能力を有しており、かつ有能な」イスラーム法学者であることが求められ、その任期は5年である。司法府長官は検事総長と最高裁判所長官の任命権限を持つ(憲法第162条) 。またイランでは内閣任命は大統領の権限であるが法務大臣のみ司法長官が任命する(憲法第160条)。
イランの司法府は憲法では中立・独立機関と規定されている。しかし、司法長官は最高指導者により直接任命されるため、実際の法執行では最高指導者の提示する政治方針に従う傾向がある(Shambayati 2008: 301; Künkler 2009)。司法府の傘下には、最高裁判所、検察庁、軍事法廷、行政裁判所、各州司法局が置かれている。加えて、聖職者の政治犯を裁くための聖職者のための特別法廷や反体制的なジャーナリストを裁くための報道法廷も設置されている(Entessar 2002: 29-34)。
<注>
本稿は、坂梨祥「イラン・イスラーム共和国」松本弘編『中東・イスラーム諸国 民主化ハンドブック2014 第1巻 中東編』人間文化研究機構「イスラーム地域研究」東京大学拠点, 2015, pp. 37-54. を基にしている。
参考文献
Abdolmohammadi, Pejman and Cama Giampiero. 2015. “Iran as a Peculiar Hybrid Regime: Structure and Dynamics of the Islamic Republic,” British Journal of Middle Eastern Studies, 42(4): 558–578.
Abrahamian, Ervand. 1982. Iran between Two Revolutions, Princeton: Princeton University Press. Abrahamian, Ervand. 1989. Radical Islam: The Iranian Mojahedin, London: I.B. Tauris. Abrahamian, Ervand. 1999. Tortured Confessions: Prisons and Public Recantations in Modern Iran, Oakland: University of California Press.
Arjomand, Amir. 1988. The Turban for the Crown: The Islamic Revolution in Iran, Oxford: Oxford University Press.
Arjomand, Amir. 2009. After Khomeini: Iran under His Successor, Oxford: Oxford University Press. Bakhash, Shaul. 1984. The Reign of The Ayatollahs: Iran and The Islamic Revolution, New York: Basic Books, Inc.
Brumberg, Daniel. 2001. Reinventing Khomeini: The Struggle for Reform in Iran, Chicago: The University of Chicago Press.
Entessar, Nader. 2002. “Limits of Change: Legal Constraints to Political Reform in Iran,” Journal of Third World Studies, 19(1): 25-36.
Fairbanks, Stephen. 1998. “Theocracy versus Democracy: Iran Considers Political Parties,” The Middle East Journal, 52(1): 17-31.
Ghobadzadeh, Naser and Rahim Lily. 2016. “Electoral Theocracy and Hybrid Sovereignty in Iran,” Contemporary Politics, 22(4): 450–468.
Harris, Kevan. 2017. A Social Revolution: Politics and the Welfare State in Iran, Oakland, University of California Press.
Keddi, Nikki. 2006. Modern Iran: Roots and Results of Revolution. New Heaven: Yale University Press.
Künkler, Mirjam, The Special Court of the Clergy (Dādgāh-Ye Vizheh-Ye Ruhāniyat) and the Repression of Dissident Clergy in Iran (May 13, 2009). Available at SSRN: https://ssrn.com/abstract=1505542 or http://dx.doi.org/10.2139/ssrn.1505542
Lob, Eric. 2018. “Construction Jihad: State-building and Development in Iran and Lebanon’s Shi’i Territories,” Third World Quarterly, 39(11): 2103-2125.
Matsunaga, Yasuyuki. 2009. “The Secularization of a Faqih-Headed Revolutionary Islamic State of Iran: Its Mechanisms, Processes, and Prospects,” Comparative Studies of South Asia, Africa and the Middle East, 29(3): 468-482.
Parsa, Misagh. 1989. Social Origins of the Iranian Revolution. New Brunswick: Rutgers University Press.
Randjbar-Daemi, Siavush. 2018. The Quest for Authority in Iran: A History of the Presidency from Revolution to Rouhani, London: I.B. Tauris.
Rasler, Karen. 1996. “Concessions, Repression, and Political Protest in the Iranian Revolution,” American Journal of Sociology, 61: 132-152.
Shambayati, Hootan. 2008. “Courts in Semi-Democratic/ Authoritarian Regimes: The Judicialization of Turkish (and Iranian) Politics,” in Tom Ginsburg and Tamir Moustafa eds., Rule by Law: The Politics of Courts in Authoritarian Regimes, Cambridge: Cambridge University Press, 283-303.
Taheri, Amir. The Spirit of Ayatollah: Khomeini and The Islamic Revolution. Bethesda. Adler and Adler Publisher.
嶋本隆光(2011)『イスラーム革命の精神』京都大学出版会
吉村慎太郎(2005)『イラン・イスラーム共和国体制とは何か:革命・戦争・改革の歴史から』書肆心水
[1] 革命成功の他の要因は、反王政勢力に対する妥協と抑圧を用いた王政の対応の一貫性の欠如(Rasler 1996)、米国で人権政策を重視するカーター政権の発足(Taheri 1986: 210-211)が指摘されている。また革命から1980年代初頭のホメイニー派の宗教勢力と他の勢力との権力闘争の歴史についてはBakhash(1986)、対MKOに着目する歴史研究はAbrahamian(1989)、80年代の各種法廷における政治犯の処罰の歴史はAbrahamian(1990)に詳しい。
[2] 1989年の憲法改正に伴いそれまで首相が掌握していた行政権が大統領に一本化された(Arjomand 2009: 38-39)。
[3] イスラーム共和制下のイランの社会福祉政策が王政期とは対照的に貧困層の救済に重点がおかれ国民を国家に包括する役割を担うという議論はHarris (2017)を参照。
[4] 革命防衛隊傘下の開発ジハードによるインフラ事業、それによる全国的な雇用機会の提供についてはLob(2018)を参照
イラン/政党
革命後のイランにおける政党は極めて脆弱である。王制下のイランでは「復興党」(前身「新イラン党」)と称する国王が設立した官製与党が存在し、与党政党員が行政から立法まで国家機構をほぼ独占していた。革命後のイランでは、「復興党」は解党されその党首(兼首相)が法廷で処刑された。さらに旧与党政党員は全ての選挙での立候補資格が法律で禁じられている(Abrahamian 1982)。旧与党を粛清した後、イスラーム共和制において新たに官製与党が設立されることはなかった。つまりイスラーム共和制下のイラでは大統領選挙で必ず勝利する、あるいは各種議会を独占するような覇権政党が存在しないのである(Brownlee 2007: 64)[1]。
このような政党の脆弱性はイランにおける政党の乱立に見て取れる。2011年までに200を超える政治組織が内務省によって政党の認可を受けてきた[2]。換言すれば政党申請をしている政党数は少なくとも200を超えるということである。これらの政治組織は、必ずしも「党」を名乗るものばかりではなく、「協会」、「結社」、「集団」、「同盟」、「組織」、「機構」など様々な名称を採用している。イランにおける政党の活動とは各種選挙における推薦候補の発表である。その意味で政党とは選挙において提示される公式のラベルによって識別され、選挙を通じて候補者を公職に就けることができる政治団体であるとする政党の最小限定義には当てはまる。しかし、イランの政党はいずれも単独で勝利(大統領選挙だと過半数を獲得)するだけの有権者の支持層が不在であり、短命に終わるか、分裂、結合を繰り返している。このような背景からイランの政党は名ばかりの政党にしか過ぎず、政党政治が定着していないという見方がイラン国内外の研究で示されている(Naqībzāde and Soleimānī 1388; Razavi 2010; 松永2002) 。
イラン・イスラーム共和国の憲法第26条は、「政党、協会、政治団体、職能団体、イスラーム協会、および認定された宗教少数派の協会」の結成を認めており、1981年8月には国会が、「政党・結社活動法」(正式名称は、「政党・協会・政治団体・職能団体・イスラーム協会・宗教少数派団体活動法」、以下、政党法)を可決している。
しかし1981年の政党法に基づき、初めて政党・結社に対する活動認可が出されたのは、1989年7月のことである。1980年代の前半、新体制の定着過程においては、革命実現のために1979年2月に設立されたイスラーム共和党(IRP)以外の政党は、徐々に解党処分に追い込まれるなど淘汰されていった。革命の過程では共に闘っていたイラン自由運動(党首は革命暫定政権首相のバーザルガーン)も、宗教指導者シャリーアトマダーリー師のムスリム人民共和党も、武装イスラーム組織モジャーヘディーネ・ハルク(MKO)も、トゥーデ党(共産党)も、1983年2月までには全て、段階的に排除された。その後1987年6月IRP幹部が「当初の目的(イスラーム共和制の確立)が達成された」と発表し、IRPは活動を停止した。 活動停止の一因には内部分裂があるとも指摘されている。
その後1989年7月には、1981年政党法に基づいて初めて、4団体(「闘う聖職者集団(MRM)」、「フェダーイーヤーネ・エスラーム協会」、「ムスリム作家芸術家協会」、「イラン・イスラーム共和国女性連盟」)が認可を受けた。これらの団体の設立申請書類の審査を行ったのは、1981年政党法の第10条に定められている、通称「第10条委員会」である。政党法第10条は、政党・結社の活動申請を審査し、またその活動を監督する委員会を内務省に設置すること、また、そのメンバーは、検察庁、司法最高評議会、内務省から1名ずつ、及び国会から2名の代表計5名で構成されることを定めている。
1989年7月に活動を開始して以降、第10条委員会は一貫して政党・結社の認可に関わっており、政党・結社の活動内容を不当と見なした場合には、当該政党に対し解党命令も下している。たとえば2010年4月、第10条委員会は、2009年6月の大統領選挙以降の混乱を「主導した」として、改革派の主要政党イスラーム・イラン参加戦線(IIPF)、及びイスラーム革命モジャーヘディーン機構(IRMO)を解党処分とした。旧IIPF、IRMO政党員は2016年第10期国会選挙前候補者を擁立するために「国民連合党」を設立し内務省の認可を受けたが、「国民連帯党」のほとんどの政党員が事前の立候補資格審査で失格になるなど政党として脆弱なままである。
以下、イランの主な政党を右派(保守派、原理派)、左派(改革派)、それらの間をとる中道派の三つに分けて紹介する。派閥毎に分ける理由は、イラン研究では政党政治よりも派閥政治(factional politics)が分析対象となる傾向(Dārabī 1397)があるからである。特にポスト・ホメイニー期において政治権力の分極化(decentralization)が進んだという議論(Buchta 2000; Moslem 2002; Almadari 2005)や、体制内エリート(保守派)の内部分裂(Bakhtiari 1993; Sarabi 1994; Wells 1999; Fairbanks 1998; Fazili 2010)、体制外エリート(改革派)の結束力・組織力の低下(Kadivar 2013; Bayat 2017; Rivetti 2019)によって派閥政治が選挙毎に多様化する過程が指摘されている。
主要政党・政治団体
右派・保守派
闘う聖職者協会(JRM)
1977年、王制打倒を目指す聖職者たちにより結成。亡命中のホメイニー師の演説を、主にカセットテープなどを通じ、モスク、大学、バーザールなどに広め、様々なデモ・集会も組織し、革命の達成に重要な役割を果たす。結成時の中心的なメンバーは、組織の取りまとめに力を発揮したベヘシュティー師、および革命のイデオローグと呼ばれたモタッハリー師であり、他にもハーメネイー現最高指導者、ラフサンジャーニー師(元大統領、元体制利益判別評議会議長)、バーホナル師(ラジャーイー政権首相)、マフダヴィー・キャニー師、ナーテグヌーリー師などが結成メンバーに名を連ねた。JRMは今日、イスラーム連合協会、イスラーム・エンジニア協会、ゼイナブ協会などを「同傾向の」組織と位置づけ、これらの組織と密接な協力関係を維持しているが、内務省の認可は受けていない。事務総長(党首)はモヴァッヘディーケルマーニー師が2014年10月の死去まで務めていた。後継はメフダヴィーカーニー師である。新党首メフダヴィーカーニーは1992年から2005年まで最高指導者ハーメネイー師の革命防衛隊における名代を務めていた。
政党HP https://rohaniatmobarez.ir/
イスラーム連合協会
1960年代に結成され、バーザールを拠点としてホメイニーの反王制活動を支持するデモなどを組織した。1964年にホメイニーが逮捕・国外追放されて以降は地下活動を開始し、モタッハリー師らの支援を受けて、反王制活動を継続した。革命後はIRP内部で活動するが、87年のIRP解党後は独自の活動を継続し、今日も原理派勢力の重要な一角を成す。2019年2月にアサドッラー・バーダームチアーン(2期、8期国会議員)が新事務総長に選出された。機関紙『ショマー』を発行。
イスラーム・エンジニア協会
1988年結成。認可年1991年。事務局長はモハンマド・レザー・バーホナル(第8期国会副議長)が務め、アフマディーネジャード大統領もメンバーに名を連ねる。その他の有力メンバーは、モルテザー・ナバヴィー、アリー・ラーリージャーニー(第8、9、10期国会議長)、モハンマド・ジャヴァード・ラーリージャーニー、モフセン・ラフィークドゥースト、アリー・ナギー・ハームーシー(前イラン商工鉱会議所会頭)などがいる。今日では開発者連合の一角を構成している。
政党HP http://www.mohandesin.ir/
イスラーム革命献身者協会
2005年結成。その源流は、1979年月に結成されたイスラーム革命モジャーヘディーン機構の右派系勢力に求められると言われている。2017年9月事務局長ジャヴァード・アーメリーが務める。アフマディーネジャード元大統領と同じ「原理派」に属するが、2005年の第9期大統領選挙ではガーリーバーフ候補を支持しており、アフマディーネジャードに対しては批判的なスタンスを維持している。
イスラーム・イラン開発者連合
革命の理想に忠実で、かつ「イスラーム的イラン」の開発・繁栄を実現する実務能力を有することを掲げる、保守派系政治団体の連合体。2003年の第2期地方評議会選挙に際して結成され、第2期地方評議会選挙及び翌2004年の第7期国会選挙で勝利を収め、2005年のアフマディーネジャード大統領誕生の素地を作った。
イスラーム革命永続戦線
2011年7月に設立され2014年9月に内務省の認可を受ける。2009年に生じた大規模な不正選挙デモのような混乱を阻止し、革命の理想、イスラーム体制の安定を目指し設立されたとされる。モルテザー・アーガーテヘラーニーが現在まで事務局長を務める。2013年、2017年の大統領選挙ではそれぞれ現ロウハーニーの対抗候補を支持した。
政党HP:http://www.jebhepaydari.ir/main/
左派・改革派
闘う聖職者集団(MRM)
1988年に結成され、1989年7月に内務省の認可を受ける。JRMと袂を分かった「左派」系ウラマーたちにより結成された。ハータミー元大統領もメンバーの一人。初代事務総長は、2000年選出の第6期国会で議長を務めたキャッルービー師。その後2005年にキャッルービー師がMRMを脱退すると、同年6月、モハンマド・ムーサヴィー・ホイーニーハー師(1979年11月の在テヘラン米国大使館占拠事件を主導した学生達の精神的指導者)が新たな事務総長に選出された。
イラン・イスラーム革命モジャーヘディーン機構(IRMO)
1991年に設立され、同年認可を受ける。その源流は、王制打倒という目的のもと共闘していた7つのイスラーム主義組織が革命直後(1979年4月)に結成した、イスラーム革命モジャーヘディーン機構(86年解散)の左派系勢力に求められる。1994年から発行を開始した機関紙『アスレ・マー』は、MRMのホイーニーハー師が発行する日刊紙『サラーム』に並ぶ、左派(改革派)勢力のマウスピースとなった。第10期大統領選挙ではムーサヴィー元首相を支持したものの敗北し、選挙後にはベフザード・ナバヴィー及びモスタファー・タージザーデなどの主要メンバーが軒並み逮捕された。2010年4月、2009年6月の第9期大統領選挙後の混乱を扇動したとして、第10条委員会から解党命令が出された。
イスラーム・イラン参加戦線(IIPF)
1998年に、97年に大統領に選出されたハータミー師の選挙キャンペーンを支えた活動家たちにより設立される。その中心的なメンバーには、1979年11月の在イラン米国大使館占拠事件に関与した「イマームの路線を支持する学生たち」の元メンバーも含まれた。1999年認可。初代事務総長はハータミー前大統領の実弟であるモハンマド・レザー・ハータミーが務めた。2006年、第6期国会の外交・安全保障委員会委員長を務めたモフセン・ミールダーマーディが第2代事務局長に就任。しかしミールダーマーディは、2009年6月に実施された第10期大統領選挙後の混乱を扇動したとして、懲役6年(及び10年間政治活動禁止)の実刑判決を受け、IIPF自体に対しても、2010年4月、第10条委員会から解党命令が出された。
国民信頼党
2005年6月の第9期大統領選挙においてMRMの支持を得られず落選し、MRMと袂を分かったキャッルービー元国会議長により、同2005年に設立された。改革派を名乗りつつ、(IIPFなどの)「急進」改革派(「急進」とは、体制の枠組み自体を疑問視することを意味する)とは一線を画すと明言している。2008年の第8期国会選挙では改革派連合には加わらず、独自のリストを作成した。日刊紙『エッテマーデ・メッリー』紙を発行していたが、同紙は2009年8月、発行停止処分を受けた。
イスラーム労働党
1996年に、労働組合(「労働者の家」)の指導者たちにより設立。1999年認可。アリーレザー・マフジューブ(5、7-10期国会議員)が現在党首を務めている。ニュースサイトILNA(Iran Labor News Agency)を運営。
中道派・現実派
建設の奉仕者党
1996年1月、当時のラフサンジャーニー政権の閣僚ら16名が結成宣言を行った「建設に仕える者たち」を原型とする政党。この宣言では「建設に仕える者たち」が、同96年3月に予定される第5期国会選挙に積極的に関与していくことが明言された。その後、このグループの旗揚げに加わった現職大臣は身を引き、改めて「建設の奉仕者たち(カールゴザーラーン)」という名称が採用され、さらに、1999年8月に内務省の認可を受けるに際し、名称は「建設の奉仕者党」と改められた。建設の奉仕者党を構成するのはラフサンジャーニー政権時代の閣僚経験者を含むテクノクラートであり、党首は元テヘラン市長のゴラーム・ホセイン・キャルバースチーが務めている。 中央評議会メンバーの1人であるモハンマド・アトリヤーンファルは、2009年大統領選挙でムーサヴィー氏支持に回ったが、選挙後に「体制転覆を企てた」として逮捕された。
政党HP https://www.kargozaran.net/fa/
中庸発展党
1999年設立。党首はモハンマド・バーゲル・ノウバフト(ロウハーニー政権期副大統領)が務める。中心メンバーはノウバフトの他、アクバル・トルカーン元国防軍需相(第1期ラフサンジャーニー政権)、モルテザー・モハンマド・ハーン元経済財務相(第2期ラフサンジャーニー政権)など閣僚経験のあるテクノクラートが占める。
イスラーム・イラン公正発展党
レザー・タラーイーニーク元国会議員が党首を務める。タラーイーニークは2006年の国会選挙では「包括連合」の旗上げに関わり、テヘラン選挙区から出馬したが、落選した。タラーイーニークは現在、体制利益判別評議会司法・評議会担当書記を務める。
[1] ただし選挙で選ばれない最高指導者の任命機関(例:司法府、監督者評議会、軍・大学・メディアなどにおける最高指導者名代)はJRMとJMHEQの政党員が独占している。また民選機関であるが高位のイスラーム法学者のみ立候補を許される専門家会議(最高指導者の選出・諮問機関)もこれら二つの政党で占められている。
[2] 2011年10月14日イラン国内メティア「ハバルオンライン」による政党活動の分析(https://www.khabaronline.ir/photo/177829/)を参照。
参考文献
Abrahamian, Ervand. 1982. Iran between Two Revolutions. Princeton: Princeton University Press.
Almadari, Kazem. 2005. “The Power Structure of the Islamic Republic of Iran: Transition from Populism to Clientelism, and Militarization of the Government.” Third World Quarterly 26(8):1285-1301.
Bakhtiari, Bahman. 1993. “Parliamentary Elections in Iran.” Iranian Studies 26(3/4): 375-388.
Bayat, Asef. 2017. Revolution without Revolutionaries: Making Sense of The Arab Spring. Stanford: Stanford University Press.
Brownlee, Jason. 2007. Authoritarianism in an Age of Democratization. Cambridge: Cambridge University Press.
Buchta, Wilfried. 2000. Who Rules Iran? The Structure of Power in the Islamic Republic. Washington D.C.: Washington Institute for Near East Policy.
Dārabī, ʻAlī. 1397. Jaryān Shenāsī-e Siyāsī dar Īrān. Tehrān: Sāzmān-e Enteshārāt-e Pazhūheshgāh-e Farhangī va Andīshe-ye Eslāmī.
Fairbanks, Stephen. 1998. “Theocracy versus Democracy: Iran Considers Political Parties.” The Middle East Journal 52(1):17-31.
Fazili, Yousra. 2010. “Between Mullahs’ Robes and Absolutism: Conservatism in Iran.” SAIS Review XXX(1):49-55.
Kadivar, Mohammad-Ali. 2013. “Alliance and Perception Profiles in the Iranian Reform Movement, 1997 to 2005.” American Sociological Review 78(6):1063-1086.
Moslem, Mehdi. 2002. Factional Politics in Post-revolutionary Iran. New York: Syracuse University Press.
Naqībzāde, Aḥmad and Gholamʻalī Soleimānī. 1388. “Nowsāzī-ye Siyāsī va Shoklgīrī-ye Aḥzāb dar Jomuhūrī-ye Eslāmī Īrān.” Faslnāme-ye Siyāst Majalle-ye Dāneshkade-ye Ḥoqūq va ʻOlūm-e Siyāsī 39(4):367-347.
Razavi, Reza. 2010. “The Road to Party Politics in Iran (1979-2009).” Middle Eastern Studies 46 (1): 79-96.
Rivetti, Paola. 2019. “Political Activism in Iran: Strategies for Survival, Possibilities for Resistance and Authoritarianism.” Democratization 24(6):1178-1194.
Sarabi, Farzin. 1994. “The Post-Khomeini Era in Iran: The Elections of the Fourth Islamic Majlis.” The Middle East Journal 48(1): 89-107.
Wells, Matthew. 1999. “Thermion in the Islamic Republic of Iran: The Rise of Muhammad Khatami.” British Journal of Middle Eastern Studies 26(1):27-39.
松永泰行(2002)「イスラーム体制下における宗教と政党-イラン・イスラーム共和国の場合」日本比較政治学会編『現代宗教と政党-比較のなかのイスラーム』早稲田大学出版部、67-95.
<注>
本稿は、坂梨祥「イラン・イスラーム共和国」松本弘編『中東・イスラーム諸国 民主化ハンドブック2014 第1巻 中東編』人間文化研究機構「イスラーム地域研究」東京大学拠点, 2015, pp. 37-54. を最新のものに更新したものである。
イラン/選挙
イランでは1979年2月に革命が達成されて以降、大統領(任期4年)、国会議員(同4年)、及び専門家会議メンバー(同8年)を選ぶ選挙が定期的に行われてきている。国民投票もこれまで3回実施されており、1度目の国民投票では革命後の新体制の名称が問われ、2度目と3度目の国民投票ではそれぞれ、新憲法と改正憲法の承認が問われた。1999年には初めて、地方評議会(任期4年)選挙も実施された。
選挙権
今日のイランでは、選挙権は18歳以上の男女に与えられている。革命当初、選挙権は16歳以上の男女に与えられ、その後選挙権年齢は一時15歳まで引き下げられたが、2007年1月2日選挙権年齢は15歳から18歳に引き上げられた。
立候補資格審査
今日のイランで選挙に立候補するためには、立候補の資格審査を通過しなければならない。大統領選挙と専門家会議選挙については、立候補の資格審査は監督者評議会が行っている。国会選挙の立候補資格審査は、まず選挙区ごとに設置される選挙実行委員会(内務省傘下の選挙本部の下に設置)が実施し、次いで監督者評議会が任命する州選挙監督委員会が実施する。選挙実行委員会の審査結果に不服の者は州選挙監督委員会に、州選挙監督委員会の審査結果に不服の者は監督者評議会に対し異議を申し立て、再審査を申請することができる。監督者評議会が再審査の実施後に行う最終結果発表によって、全立候補者が確定する。 確定した立候補者の名簿は内務省が発表する。
大統領選挙
イランではこれまでに、合計12回の大統領選挙が行われてきた。1980年の第1期大統領選挙で選出されたバニーサドルは、1981年6月に国会より弾劾決議を受け、罷免された。これを受けて翌7月には第2期大統領選挙が行われ、バニーサドル大統領の下で首相を務めていたラジャーイーが当選した。しかしラジャーイー大統領は1981年8月末、大統領に就任して2週間あまりでバーホナル首相とともに暗殺され、これを受けて同年10月に実施された第3期大統領選挙ではハーメネイー師が当選し、第3代大統領に就任した。これ以降、大統領選挙は定期的に4年ごとに実施され、現ロウハーニー師まで5名の大統領は皆連続2期8年を務めてきている。
期 | 年 | 月 | 有権者数 | 投票総数 | 投票率 | 当選者 | 得票数 | 得票率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 1980 | 1 | 20,993,643 | 14,152,887 | 67.42 | アボルハサン・バニーサドル | 10,709,330 | 75.67 |
2 | 1981 | 7 | 22,687,017 | 14,573,803 | 64.24 | ムハンマド・アリー・ラジャーイー | 13,001,761 | 89.21 |
3 | 1981 | 10 | 22,687,017 | 16,847,717 | 74.26 | アリー・ハーメネイー | 16,003,242 | 94.99 |
4 | 1985 | 8 | 25,993,802 | 14,238,587 | 54.78 | 〃 | 12,203,870 | 85.71 |
5 | 1989 | 7 | 30,139,598 | 16,452,677 | 54.59 | ハーシェミー・ラフサンジャーニー | 15,550,528 | 94.52 |
6 | 1993 | 6 | 33,156,055 | 16,796,787 | 50.66 | 〃 | 10,566,499 | 62.91 |
7 | 1997 | 5 | 36,466,487 | 29,145,754 | 79.92 | モハンマド・ハータミー | 20,138,784 | 69.10 |
8 | 2001 | 6 | 42,170,230 | 28,081,930 | 66.59 | 〃 | 21,654,320 | 77.11 |
9(第1回) | 2005 | 6 | 46,786,418 | 29,400,857 | 62.84 | (決着がつかず決選投票へ) | - | - |
9(第2回) | 2005 | 6 | 46,786,418 | 27,958,931 | 59.76 | マフムード・アフマディーネジャード | 17,248,782 | 61.69 |
10 | 2009 | 6 | 46,199,997 | 39,371,214 | 85.22 | 〃 | 24,527,516 | 62.30 |
11 | 2013 | 6 | 50,483,192 | 36,821,538 | 72.94 | ハサン・ロウハーニー | 18,613,329 | 50.55 |
12 | 2017 | 5 | 56,410,234 | 41,366,085 | 73.33 | 〃 | 23,636,652 | 57.14 |
出所: Iran data portal (https://irandataportal.syr.edu/presidential-elections)をもとに作成
第9期大統領選挙
2005年6月17日、第9期大統領選挙が行われた。この選挙における有権者は15歳以上の男女全てであり、有権者数は4678万6418人(2005年6月16日付IRNA報道)であった。
この選挙の立候補登録者は1014名(うち女性は89名)に上り(立候補登録期間:5月10~14日)、監督者評議会は5月15日から資格審査を開始し、5月22日、審査結果を発表した。監督者評議会により資格を認められたのは、アフマディーネジャード・テヘラン市長、ラーリージャーニー元国営放送総裁、レザーイー体制利益判別評議会書記(元革命防衛隊総司令官)、ガーリーバーフ前治安維持軍司令官、キャッルービー前国会議長と、ラフサンジャーニー体制利益判別評議会議長の6名であった。この時点で、改革派の有力候補とされていたモイーン前科学技術相は失格処分とされた。
これに対してハーメネイー最高指導者は、監督者評議会にモイーン前科学技術相とメフル・アリーザーデ副大統領(兼イラン・スポーツ連盟総裁)の立候補資格を再審査することを要請した。5月25日、監督者評議会は再審査の結果、同2名の立候補を承認したと発表し、立候補の有資格者は8名となった。しかし6月15日、レザーイー体制利益判別評議会書記は立候補を撤回したため、立候補者数は最終的に7名となった。
5月24日から6月15日までの選挙運動期間を経て、6月17日の朝8時には、予定通り投票が開始された。第1回投票ではいずれの候補者も、「投票総数の過半数」の票を獲得することができず、上位2位を占めたラフサンジャーニー候補とアフマディーネジャード候補の2名が、6月24日の決選投票に臨むことになった。決選投票の結果、アフマディーネジャード候補が1724万8782票を獲得し(得票率61.69%)、ラフサンジャーニー師に700万票近い大差をつけて当選した。
第10期大統領選挙
2009年6月12日、第10期大統領選挙が実施された。その日程は以下のとおり。
イラン第10期大統領選挙日程
- 5月5日~9日 立候補受付期間(今回よりインターネットで立候補登録を受付)
- 5月9日夜~14日 監督者評議会による立候補資格審査
- 5月15日~19日 監督者評議会による、立候補資格再審査
- 5月20日・21日 国家選挙本部、立候補最終確定者を発表
- 5月22日~6月10日 選挙運動期間(20日間)
- 6月12日 投票日
5月10日、ダーネシュジュウ国家選挙本部長は、立候補の届出を行った者は合計で475名に上ると発表した。この発表によれば、インターネット上の選挙登録受付用サイトで登録を行った者は3,272名に上り、その14.5%にあたる475名が選挙本部に実際に出向き、立候補届出の手続きを完了させた。
その後監督者評議会による立候補資格審査及び再審査を経て、5月20日、マフスーリー内務相は、アフマディーネジャード大統領、ムーサヴィー元首相、キャッルービー元国会議長、およびレザーイー体制利益判別評議会書記の4名が、大統領選挙の立候補資格を認められたと発表した。選挙当日、投票は、全国368の自治体に設置された合計4万8千ヶ所の投票所(うち1万4千ヶ所は「移動式」)で行われた。当初「朝8時から10時間」とされていた投票時間は、投票所によっては深夜12時まで延長された。
選挙の翌日である6月13日(土)の夕刻、マフスーリー内相は選挙結果を発表した。この発表によれば、今回の大統領選挙における投票総数は39,165,191票であり、投票率は85%に上った。マフスーリー内相が発表した開票結果は、以下のとおりである。ハーメネイー最高指導者は同13日、マフスーリー内相による選挙結果の発表を受けて直ちに声明を発表し、国民の選挙への広範な参加を讃え、アフマディーネジャード大統領の再選を祝福した。
立候補者 | 得票数 | 得票率 |
---|---|---|
アフマディーネジャード大統領 | 24,527,516 | 62.63 |
ムーサヴィー元首相 | 13,216,411 | 33.75 |
レザーイー体制利益判別評議会書記 | 678,240 | 1.73 |
キャッルービー元国会議長 | 333,635 | 0.85 |
無効票 | 409,389 | 1.04 |
出所:イラン学生通信(ISNA)、2009.6.13/イラン内務省HP(6月14日付発表最終結果、6月13日(土)午後4時発表)
第11期大統領選挙
第11期大統領選挙は2013年6月14日に実施された。 内務省発表の公式選挙結果は以下のとおりである。ロウハーニー候補が総投票数の50.71%に相当する1861万3329票を獲得したことから、同師がイランの第7代大統領として就任することが決まった。内務省の発表によれば、投票率は72.7%に上った。
立候補者 | 得票数 | 得票率(%) |
---|---|---|
ハサン・ロウハーニー | 18,613,329 | 50.71 |
モハンマド・バーゲル・ガーリーバーフ | 6,077,292 | 16.56 |
サイード・ジャリーリー | 4,168,946 | 11.36 |
モフセン・レザーイー | 3,884,412 | 10.58 |
アリー・アクバル・ヴェラーヤティー | 2,268,753 | 6.18 |
モハンマド・ガラズィー | 446,015 | 1.22 |
出所:イラン学生通信2013年6月15日、内務省発表の最終結果https://www.isna.ir/news/92032515237/(最終閲覧日2020年5月19日)
第12期大統領選挙
第12期大統領選挙は2017年5月19日に実施された。立候補登録者1,636人の中から、立候補資格を承認された候補者(立候補当時の肩書)は、モスタファー・ミールサリーム(元・文化・イスラーム指導相、1994-1997)、エスハーク・ジャハーンギーリー(現・第一副大統領、2013-)、ハサン・ロウハーニー(現・大統領、2013-)、エブラーヒーム・ライースィー(前・検事総長、2014-2016)、モハンマドバーゲル・ガーリーバーフ(現・テヘラン市長、2005-2017)モスタファー・ハーシェミータバー(元・副大統領、1994-2001)の6名であった。しかし、ガーリーバーフが5月15日にライースィー支持を、ジャハーンギーリーが5月16日にロウハーニー支持をそれぞれ表明し、撤退した。選挙の結果、ロウハーニーが23,636,652票で当選。2位のライースィーは15,835,794票であった。惜敗率66.99%という差でライースィーが2位落選となったが、下表のように州によってはライースィーの方が得票数が多い、僅差で敗戦となった州もあった。
州 | ロウハーニー | ライースィー | 惜敗率(%) | |
---|---|---|---|---|
1 | コム | 219,443 | 588,557 | |
2 | 南ホラーサーン | 159,433 | 301,976 | |
3 | ホラーサーン・ラザヴィー | 1,422,110 | 1,885,838 | |
4 | 北ホラーサーン | 231,313 | 272,697 | |
5 | ザンジャーン | 259,981 | 294,485 | |
6 | セムナーン | 182,279 | 200,658 | |
7 | マルキャズィー | 376,905 | 377,051 | |
8 | コフギールーイェ・ヴァ・ボイラフマド | 183,941 | 176,140 | 95.76 |
9 | ハマダーン | 418,256 | 383,285 | 91.64 |
10 | ロレスターン | 455,277 | 363,300 | 79.80 |
11 | チャハールマハール・ヴァ・バフティヤーリー | 270,619 | 213,608 | 78.93 |
12 | フーゼスターン | 1,162,954 | 896,184 | 77.06 |
13 | ホルムズガーン | 480,743 | 370,359 | 77.04 |
14 | ガズヴィン | 395,911 | 303,469 | 76.65 |
15 | エスファハーン | 1,391,233 | 1,038,535 | 74.65 |
16 | イーラーム | 188,925 | 133,023 | 70.41 |
17 | ブーシェフル | 328,806 | 223,278 | 67.91 |
18 | ケルマーン | 242,540 | 154,163 | 63.56 |
19 | アルダビール | 412,735 | 261,056 | 63.25 |
20 | ファールス | 1,500,000 | 900,000 | 60.00 |
21 | ゴレスターン | 610,974 | 358,108 | 58.61 |
22 | マーザンダラーン | 1,256,362 | 726,478 | 57.82 |
23 | 東アゼルバイジャン | 1,284,111 | 661,627 | 51.52 |
24 | ヤズド | 402,995 | 206,514 | 51.24 |
25 | アルボルズ | 832,050 | 390,488 | 46.93 |
26 | 西アゼルバイジャン | 1,030,101 | 473,785 | 45.99 |
27 | ケルマーンシャー | 699,654 | 313,894 | 44.86 |
28 | テヘラン | 4,388,012 | 1,918,116 | 43.71 |
29 | ギーラーン | 1,043,285 | 442,728 | 42.44 |
30 | スィースターン・ヴァ・バローチェスターン | 878,398 | 313,985 | 35.75 |
31 | クルデスターン | 467,700 | 155,036 | 33.15 |
出所:『エッテラーアート』2017年5月24日
第13期大統領選挙
2021年6月イランでは第13期大統領選挙が実施された。今回の選挙前イラン国内メディアの時評で注目されたのは、①被選挙権の規則、②立候補資格審査であった。まず監督者評議会による被選挙権の制約追加から説明したい。立候補登録が始まる直前2021年5月1日、選挙監督を担う(実施は内務省)[1]監督者評議会が現行法よりも被選挙権を狭める決定を下した。資格の内容を述べる前に、この決定が今回の選挙限定であることに留意しておきたい。通常の法的手続きでは被選挙権を含むイランの大統領選挙法は、内閣提出法案(Lāyeḥe)または議会提出法案(Ṭarḥ)によって改正されることになっている。しかし、2021年選挙ではこれらの手続きを経て被選挙権に関する法律が改正されたわけではない。監督者評議会が大統領選挙の立候補資格に関する決定事項(Moṣavvabe)を内務省に通知し、立候補資格を決めたのであった。
前回までとの制度的違いは具体的に何であったのか。イラン国内メディアでは「実務者および管理職として有能であること」など現行法に定められた要件[2]の具体的な解釈に加えて、年齢制限(40歳~75歳)、公務員管理法71条[3]で定められた政府の要職、体制公益判別評議会、国家最高安全保障評議会、軍の少将以上などの職歴を合計4年以上有する者などが新たに追加されたことが取り上げられた[4]。「メフル通信」の論説によると、このような監督者評議会の決定によって革命防衛隊出身の政治家でも少将以上の経歴がないサイード・モハンマド[5]のような人物の出馬が阻まれたとされる[6]。また改革派の推薦候補の有力者の一人として選挙前に複数の国内メディアで出馬動向が着目された若手政治家モハンマド・ジャヴァード・アーザリージョフラミー(第二次ロウハーニー政権情報通信技術相)は合計4年という職歴に満たないため出馬が妨げられたとも報じられた[7]。
次に立候補者登録である。2021年5月11日~15日の登録期間中、全国に設置された内務省の事務所において592人が登録した。登録者全員の詳細は不明であるが、資格審査結果を見ると保守派と改革派というイランの二大政治潮流から参加したようである。もっとも改革派から2名の候補が承認されているが、国外のペルシャ語メディアで改革派の政治活動家が選挙ボイコットを公言したことから、彼らの本命候補は失格になったか、そもそも立候補登録をボイコットしていたと考えられる[8]。以下の表は資格審査を通過した立候補者のリストである。イラン特有の役職もあるので立候補者の政治的バックグラウンドを簡単に紹介しておく。ライースィーの現職司法府長官とは最高指導者の任命ポストである。つまり最高指導者の最側近の候補であることが有権者に認知されていると言える。同様に最高指導者に近い役職はレザーイーの現職体制利益判別評議会書記である。体制公益判別評議会は立法過程における議会と監督者評議会の仲裁機関である。それに対してヘンマティーの現職ポスト中央銀行総裁とは大統領の任命ポストである。つまり現職大統領ロウハーニーに近い唯一の候補ということになる。
候補者名 | 現職 | 前職 | 政党(派閥) | 結果 |
---|---|---|---|---|
エブラーヒーム・ライースィー | 司法府長官 | JRM(保守派) | 17926345票 | |
モフセン・レザーイー・ミールガーエド | 体制公益判別評議会書記 | IRGC総司令官 | 無(保守派) | 3412712票 |
アブドゥルナーセル・ヘッマティー | 中央銀行総裁 | KS(改革派) | 2427201票 | |
アミールホセイン・ガーズィーザーデ・ハーシェミー | 国会第一副議長 | 持続戦線(保守派) | 999718票 | |
モフセン・メフル・アリーザーデ | ー | ハータミー政権副大統領 | 無(改革派) | 辞退 |
サイード・ジャリーリー | ー | IRGC、アフマディーネジャード政権SNSC書記 | 持続戦線(保守派) | 辞退 |
アリーレザー・ザッカーニー | 国会議員 | IRGC | 無(保守派) | 辞退 |
最後に投票結果を見ていきたい。2021年6月18日に投票が行われた。イランの有権者59,310,307人のうち28,933,004人(48.8%)が参加した[9]。その結果、当選条件である有効投票数の過半数を上回る約70%の得票率でライースィーが初当選した。票から有効投票を投じた有権者の中ではライースィーが圧倒的に支持されていることが分かる。この結果は全ての落選候補によって認められ、選挙後にデモなどの混乱が生じることはなかった。もっとも4位落選ガーズィーザーデ・ハーシェミーは投票日の数日前にイラン国営放送が彼の辞退を誤報したことをフェイクニュース(選挙不正)だと抗議したが、ライースィーの当選結果そのものには抗議しなかった[10]。
選挙後イラン国内メディアで少々話題になったのは無効票の多さであった。次点候補レザーイーの得票数3,412,712票に対して、無効票はそれよりも多い3,726,870票であった。イランの選挙における無効票の多さは常でありイラン国内の学術論文でも当選ラインを左右する一因として注目されている(Khosravī 1399: 92)。なぜ今回は落選候補の得票を上回るほど無効票が多かったのであろうか。内務省の発表によると大統領選挙法第25条、第26条、第28条に定められた無効票の規則に基づき対処したとされる。具体的には、白票、投票用紙への落書(体制や政府に対する皮肉など)、間違った投票箱(同時開催された他二つの選挙の投票箱)への投票が含まれる[11]。この点、改革派の政治活動家も同意している。元IIPF(強制解体された改革派政党)のメンバーであるアッバース・アブディーも投票所において3つの選挙の同時開催がマネージされていない問題を指摘している[12]。
参考文献(第13期大統領選挙)
Khosravī, Ḥasan. 1399. “Taḥlīl-e Natāyej-e Entekhābāt-e Dowre-ye Yāzdahom-e Majles-e Showrā-ye Eslāmi dar Parto-e Qāʻede-ye Aksarīyat.” Faslnāme-ye Jāmeʻeshenāsī-ye Īrān 3(3): 86-111.
鈴木優子(2018)「選挙と部族社会-第 12 回大統領選挙におけるコフギルイエ・ヴァ・ボイ ラフマド州の動向」山岸智子編『現代イランの社会と政治-つながる人びとと国家の挑戦』明石書店、68-116.
松永泰行(2002)「イラン・イスラーム共和国における選挙制度と政党」『中東諸国の選挙制度と政党』日本国際問題研究所、4-20.
松永泰行(2016)「イランにおける制度的弾圧と一般国民-抑圧的体制下の争議政治として の競合的選挙」酒井啓子編『軍・政治権力・市民社会-21 世紀における「新しい」政軍関係』晃洋書房、262-279.
[1] イランの大統領選挙における選挙管理構造の詳細は鈴木(2018:74)を参照。
[2] 大統領の被選挙人資格は憲法第115条および大統領選挙法第35条に定められている。①宗教的・政治的な「男性」であること、②出自的にイラン人であること、③イラン国籍を所持すること、④実務者および管理職として有能であること、⑤経歴、誠実さ、怖神態度が真正であること、⑥敬虔でイラン・イスラーム共和国の諸原則と国家の公式宗派の信奉者であること、の6つである(松永2016: 264; 松永2002: 5)。
[3] 法律全文は以下を参照https://rkj.mcls.gov.ir/fa/moghararaat/ghavanin/ghanoonkeshvari-%D9%85%D8%AA%D9%86-%DA%A9%D8%A7%D9%85%D9%84-%D9%82%D8%A7%D9%86%D9%88%D9%86-%D9%85%D8%AF%DB%8C%D8%B1%DB%8C%D8%AA-%D8%AE%D8%AF%D9%85%D8%A7%D8%AA-%DA%A9%D8%B4%D9%88%D8%B1%DB%8C
[4] 監督者評議会の発表内容は2021年5月8日掲載のイラン国内オンラインニュース「メフル通信」(https://www.mehrnews.com/news/5207317/)を参照。
[5] サイード・モハンマドはIRGC政治部門副官である。IRGC傘下の経済団体ハータム・アル・アンビアー司令官を立候補登録前に辞していたことから、立候補資格審査の担当側は彼の出馬を事前に予想できだと考えられる。なおIRGCの2021年大統領選挙の見通しに関する見解は2021年4月3日掲載「ファールス通信」(https://www.farsnews.ir/news/14000111000171/)を参照。結局サイード・モハンマドは出馬したが監督者評議会によって失格にされた。2021年5月27日掲載「ハバルオンライン」(https://www.khabaronline.ir/news/1519374/)を参照。
[6] 2021年5月5日掲載の報道(https://www.mehrnews.com/news/5205152/)を参照。
[7] なお、ロウハーニー政権最年少閣僚ジョフラミー(40歳)を改革派が擁立する可能性を否定する報道もなされている。改革派連合の選挙対策本部における推薦候補を決める投票でジョフラミーは10票(全46票)しか獲得できなかったためである。2021年5月10日の報道を参照(https://www.mashreghnews.ir/news/1215137/)。結局ジョフラミーは出馬しなかった。
[8] 2021年6月14日掲載BBC Persian(https://www.bbc.com/persian/iran-features-57469397)、2021年5月26日掲載「ゼイトゥーン」(https://www.zeitoons.com/87917)を参照。「ゼイトゥーン」はホメイニーとの対立で失脚した暫定政権首相バーザルガーン支持者によって運営されている。
[9] 投票数などはRadio Free Europeのペルシャ語版2021年6月21日掲載(https://www.radiofarda.com/a/31318891.html)を参照。
[10] 2021年6月16日掲載の「ハバルオンライン」(https://www.khabaronline.ir/news/1525981/)を参照。
[11] 例えば2021年6月28日掲載のBBC Persian(https://www.bbc.com/persian/iran-features-57603703)を参照。
[12] 改革派日刊紙「エッテマード」2021年6月22日p.1を参照
国会選挙
イランにおける国会選挙は、1980年3月に第1期国会選挙が行われて以降、定期的に4年ごとに実施されてきている。選挙区数は当初193であったものが1992年の第4期国会選挙で196に増えた。2000年に実施された第6期国会選挙で定数が270から290に引き上げられるのに伴い、選挙区数も196から207に増えた。選出議員の数は、選挙区の人口に応じて1から6議席が割り当てられている。イランの人口の約10%を占めるテヘラン選挙区では例外的に30議席が割り当てられている。なお全議席のうち5議席は宗教的少数派に割り当てられている。
イランの国会選挙の投票形式には優先順位付連記投票制度が採用されている。この制度では1回目の投票で有権者は各選挙区に割り当てられた議席数分の候補者名を記入する。第1回投票で当選ラインを上回る候補者が不在の選挙区では、第2回投票が行われる。各選挙区で第2回投票に進むのは第1回投票において多数票を獲得した候補者のうち残りの議席数の2倍に限られる。第2回投票では当選ラインは設けられておらず多数票を獲得した候補者が勝利する。第1回投票の当選ラインは1980年の国会選挙法では有効投票数の過半数と定められたが、その後の改正国会選挙法で33パーセント、1999年の改正国会選挙法で25パーセント、2016年の改正国会選挙法で20パーセントに変更された。
イランの国会選挙は必ずしも政党単位では戦われておらず、有権者は立候補者個人に投票することになっている。各政治団体はそれぞれが推薦候補者リストを作成し、有権者に配布するが、一人の候補者が複数の団体の推薦を受け、同一候補者の氏名が複数のリストに掲載される場合もある。このような理由から、選挙結果は政治団体ごとの得票数というよりは、革命初期からの大まかな対立軸である「右派」と「左派」の獲得議席数に、また、特に第6期国会選挙以降、「保守派(原理派)」系候補と「改革派」系候補の議席数を中心に、イラン国内外のメディアで報じられる傾向にある。
第7期国会選挙
2004年2月20日に実施された第7期国会選挙では、監督者評議会が改革派系の有力議員を軒並み失格処分とし、その結果保守派勢力が圧勝した。
2004年1月11日、監督者評議会は第7期国会議員立候補登録者8157名のうち、83名の現職議員を含む3605名を失格処分とした。これに先立つ1月3日には、内務省傘下の選挙実行委員会が、立候補登録者の「92.88%」の立候補資格を認めていたため、監督者評議会独自の判断に基づく大量失格処分には、非難の嵐が巻き起こった。
これを受けてハーメネイー最高指導者は監督者評議会に立候補資格の再審査を命じ、その結果監督者評議会は、当初失格処分とした申請者のうち1160名の資格を承認した。しかし1回目の審査で失格とされた(改革派系)現職議員の大半は、結局立候補を認められなかった。
これに対してハーメネイー師は再び、監督者評議会に対し再審査を命じるが、最終的に立候補が認められたのは5625名であり、現職議員80名を含む約2500名は失格となった。これを受けて、12名の現職国会議員を含む888名の立候補登録者が、立候補は認められながら出馬を辞退し、選挙をボイコットすることを発表した。
2月20日の投票は、改革派の最大政党イスラーム・イラン参加戦線(IIPF)がボイコットを維持する中行われ、投票率はイラン全土で50.57%、首都テヘランでは25%と低迷した。第1回投票において投票総数の4分の1以上の獲得により確定した議席数は、保守派154議席、改革派39議席、無所属31議席であった。宗教少数派に割り当てられた5議席も確定した。
5月7日に行われた第2回投票では、さらに57議席が確定した(第1回投票の結果を監督者評議会が承認しなかった4議席の投票は後日に持ち越された)。第2回投票では保守派が40議席、改革派が8議席を獲得し、(残りは無所属)、第7期国会において保守派勢力は「少なくとも」194議席を、改革派勢力は47議席を占めることになった。
5月27日、第7期国会が召集された。第7期国会議長には、テヘラン選挙区で888,276票を獲得してトップ当選を果たしたハッダード・アーデルが選出された。
第8期国会選挙
2008年3月14日、第8期国会選挙が実施された。選挙の立候補登録は1月5日に開始され、11日に締め切られた。3月9日の監督者評議会の発表によれば、立候補資格審査の結果、全7597名の立候補登録者のうち、4755人(約6割)が立候補を認められた。3月14日の投票は、朝8時に開始され、投票時間は夜11時まで延長された。
4月6日に行われた内務省の発表によれば、第8期国会選挙の投票率は60%と、前回選挙時の51%に比べて上昇した。立候補者は合計3863名、うち308名は女性であったが、このうち第1回投票で当選が確定したのは209名(うち83名が現職、5名は女性)であった。第2回投票へは、残る81議席の2倍の人数である162名がコマを進め、4月25日には53の選挙区で、第2回投票が実施された。第2回投票の投票率は、「26%以上」と発表された。
第8期国会選挙において、保守派(原理派)勢力は「統一戦線」なるグループを立ち上げ、ともに選挙戦を戦おうとした。しかし選挙直前になり、アフマディーネジャード大統領に対してより批判的な「包括連合」なるグループが統一戦線から離脱し、独自の候補者リストの作成をこころみた。しかし結局のところ、統一戦線リストと包括連合リストには重複も多く(第1回投票では統一戦線と包括連合の共通候補が40議席近くを獲得した)、また、包括連合と改革派のリストの間にも重複が見られた(包括連合と改革派の共通候補は第1回投票で7議席を獲得)。選挙結果の確定後、イラン国内メディアは、最終的には保守派が「200議席近く」、改革派が「45議席程度」を獲得、残りは無所属の候補が獲得したと報じた。
5月27日、第8期国会が召集され、翌28日、コムでトップ当選を果たした(239,436票を獲得)アリー・ラーリージャーニーが、国会議長に就任した。
第9期国会選挙
第9期国会選挙は、2012年3月2日に実施された。 政府の発表によれば、今回の選挙の有権者数は48,288,799名であり、全国47,665ヵ所に投票所が設置され、投票が行われた。立候補登録者数は5,395人であり、うち女性立候補者数は260人であった。現職議員290人のうち、再選を目指して立候補した議員の数は260人に上った。
立候補登録を行った候補者のうち、内務省による立候補資格審査を通過した者は3,703人、監督者評議会による資格審査を通過した者は3,444人であった。選挙後に内務省が発表した今回の選挙の投票率は64.20%に上り、選挙区内の総投票数の4分の1以上の得票により第1回投票で確定した議席数は、全290議席中225議席に上った。
5月4日に、3月2日に実施された第1回投票では確定しなかった65議席をめぐる決選投票が行われ、残り65議席が確定した。
しかしその後5月28日、監督者評議会は第2回投票で確定した議席のうち2議席(イーラーム州とハマダーン州のそれぞれ1議席)に関し、選挙結果は無効であると判断した。監督者評議会は4月5日には、ラームサルとダマーヴァンド選挙区の結果を「無効」と判断しており、その結果第9期国会は、(定数の290議席より4議席少ない)286議席でスタートすることになった。
第9期国会選挙においては、保守本流勢力により構成される「統一戦線」と、アフマディーネジャード大統領により近い(しかし大統領の腹心であるマシャーイー大統領執務室長には批判的な)「永続戦線」が別々のリストを作成し、選挙戦を戦った。選挙の結果、統一戦線リストからは126名が当選を果たし、 統一戦線が第9期国会の最大会派を構成することになった。
第10期国会選挙
第10期国会選挙の第1回投票は2016年2月26日に実施された。有権者数は54,915,024人であり、投票率は61.64%であった。2016年4月29日に実施された第2回投票では残り68議席が136人によって競われた。第1回投票でテヘラン選挙区30人全員が決まったのは初めてである。30人全員「希望リスト」と呼ばれるロウハーニー大統領の政策、特に2015年の核合意を支持する改革派系リストから当選した。対して、第9期の現職議員(ハッダード・アーデルを筆頭)とする保守派系のリスト30人は全員落選する結果となった。国会議長選挙では「希望リスト」の筆頭候補であったアーレフが現職の保守穏健派ラリージャニー(コム選挙区から選出)に挑んだが、ラーリージャーニーの再選に終わった。
第11期国会選挙
第11期国会選挙の登録期間は2019年12月1日~8日であった。現国会議長のラーリージャーニー、第10期国会の改革派会派をまとめるアーレフなど有力者が登録しなかった。16,033人登録し、うち800人が立候補を取り下げ、1,300人が内務省管轄下の選挙実施委員会によって失格になった。2020年1月12日、監督者評議会の発表によると7,148人が承認された。290人中249人の現職議員が再選出馬したが90人が失格になった。監督者評議会キャドホダーイー報道官によると、現職議員の主な失格理由は汚職とされる。
第1回投票は2020年2月21日に実施された。テヘラン選挙区では元テヘラン市長で革命防衛隊の空軍司令官であったガーリーバーフを筆頭とする保守派系リストから30人全員が当選する結果となった。投票率は、内務省の発表ではテヘランではわずか25.4%、全国平均でも42.57%にとどまり、過去最低を記録した。第2回投票(残り11議席)はもともと2020年4月に予定されていたが、感染症の影響で2020年9月11日に延期された。
2020年5月28日に実施された国会議長選挙では、ガーリーバーフが267票中230票を獲得し、他2人の候補を寄せ付けず、圧勝した。第一副議長にアミールホセイン・ガーゼィーザーデ・ハーシェミー(9期議員)が208票、第二副議長にはアリー・ニクザード(アフマディーネジャード政権期の官僚)が196票で選ばれた。
地方評議会選挙
地方評議会選挙は1999年2月に導入され、この選挙を通じ、4年ごとに全国の市町村の評議会メンバーが選出されている。大統領選挙や国会選挙とは異なり二回投票制ではなく一回投票制で多数決で選出される。
第3期地方評議会議選挙
2006年12月15日、第4期専門家会議選挙と同日に、第3期地方評議会選挙が実施された。この選挙ではアフマディーネジャード大統領を支持する勢力が独自の候補者リストを作成し、投票に臨んだが、思うように票を伸ばすことができなかった。たとえばテヘラン市評議会では、アフマディーネジャード大統領支持派は定数15議席のうち2議席しか確保できなかった。テヘラン市評議会では結局、「改革派」勢力が4議席を獲得し、残り8議席は「原理派大連合」(アフマディーネジャード大統領支持派以外の「保守派(原理派)」勢力)が獲得した(残り1名は無所属)。
第4期地方評議会議選挙
地方評議会の任期は4年であり、第4期地方評議会選挙は予定では、2010年末から2011年初め頃に実施される予定であった。しかし選挙にかかる経費節減のため、第4期地方評議会選挙は第11期大統領選挙と同日に実施すべきであるという案が出され、2010年7月に、この「選挙統一法案」が承認された。これを受けて第4期地方評議会選挙は、2013年に予定される第11期大統領選挙と同時に、2013年6月14日に実施されることになった。
結果、大統領選挙では改革派と伝統保守派の支持を受けたロウハーニーが当選した一方で、地方評議会選挙では保守派が全国的な議席の過半数以上を占めた。後者はメフディー・チャムラーン(テヘラン市議)が第4期州最高評議会(地方評議会の総会)議長選挙で70票中45票を獲得して選出された[1]ことから推測できる。
[1] 2014年1月21日掲載のISNA(https://www.isna.ir/photo/92110100841/)参照。
第5期地方評議会選挙
2017年5月第12期大統領選挙と同時開催された。全国的に改革派が保守派に対して多数議席を獲得したと見られる。そのように判断できる理由は2017年12月に開催された第5期州最高評議会の1年目の議長選挙である。この選挙ではテヘラン市議会議員でKS政党員モルテザー・アルヴィーリーが全75票のうち38票を獲得し初当選した。次点は(ファールス州)シーラーズ市議会議員で改革派系の教師協会シーラーズ支部の責任者アブドゥルラッザーグ・ムーサヴィーの33票であった[1]。
[1] 投票結果は2017年12月31日掲載の「テジャーラトニュース」(https://tejaratnews.com/%D9%85%D8%B1%D8%AA%D8%B6%DB%8C-%D8%A7%D9%84%D9%88%DB%8C%D8%B1%DB%8C-%D8%B1%D8%A6%DB%8C%D8%B3-%D8%B4%D9%88%D8%B1%D8%A7%DB%8C-%D8%B9%D8%A7%D9%84%DB%8C-%D8%A7%D8%B3%D8%AA%D8%A7%D9%86%E2%80%8C%D9%87%D8%A7)参照。シーラーズ市議会議員ムーサヴイーの経歴は(http://www.kazeroonnema.ir/fa/news/14877/)を参照。
第6期地方評議会選挙
2021年6月第13期大統領選挙と同時開催された。2021年8月の本稿執筆時点で州最高評議会議長選挙が開催されていないため全国的な議席を占める派閥の割合を推定することはできない。ここではテヘラン市議会選挙の結果のみ紹介しておきたい。テヘラン市議会の全21議席は「連合評議会」と自称する保守派リストによって独占された。1位当選は現職候補チャムラーン486,282票であった。「共和国」と自称する改革派リストの中で最多票を獲得した現職候補アリー・エッターは得票数32,618、22位落選であった。保守派リストの21位当選候補が265,607票獲得していることを踏まえると、改革派は第6期テヘラン市議会選挙で保守派に大敗したと解すことができる[1]。
[1] 2021年6月24日掲載「マシュレグニュース」(https://www.mashreghnews.ir/news/1236599/)参照
専門家会議選挙
最高指導者を選出し、また、最高指導者による任務遂行が不可能になった場合にそれを見極める任務を持つ専門家会議の選挙は、1982年の第1期から2006年の第4期まで8年ごとに実施されてきた。第5期は2016年の第10期国会選挙と同日開催になった。選挙制度上、先述した3つの選挙と大きく異なるのは立候補資格である。ムジュタヒド(イジュテハードとよばれるイスラーム法解釈などができる能力と資格を持つ者)レベルのイスラーム法学者に限定される(専門家会議選挙法第3条)。また大統領、官僚、国会議員、司法関係ポストに就く者の立候補規制もない。
実施日 | 有権者数 | 投票総数 | 投票率 | 議席数 | |
---|---|---|---|---|---|
第1期 | 1982.12.10 | 23277781 | 18013061 | 77.38 | 82 |
第2期 | 1990.10.8 | 31280084 | 11602613 | 37.09 | 83 |
第3期 | 1998.10.23 | 38550597 | 17857869 | 46.32 | 86 |
第4期 | 2006.12.15 | 46549242 | 28,321,270 | 60.84 | 86 |
第5期 | 2016.2.26 | 54,915,024 | 33,480,548 | 60.97 | 88 |
出所:イラン内務省
第4期専門家会議選挙
2006年12月15日、第4期専門家会議選挙が実施された。この選挙には493名が立候補登録を行ったが、監督者評議会による、筆記試験(イスラーム法学)を含む資格審査の結果、最終的には166名が、立候補資格を認められた。
この選挙の有権者数は4654万9242名であり、投票率は66%に上った。選挙の結果、「協会」リスト(テヘラン闘う聖職者協会とコム神学校教師協会の合同リスト)の推薦者が、全86議席中67議席を占めた。キャッルービー前国会議長が設立した国民信頼党の推薦を受けた候補は10名が当選し、「協会」と「国民信頼党」の双方から推薦を受けた候補は32名が当選した。
今回の選挙で最も多くの票を獲得したのは、2005年6月の大統領選挙ではアフマディーネジャード候補に大差で敗れたラフサンジャーニー体制利益判別評議会議長であった。ラフサンジャーニー師はテヘラン選挙区で156万票を獲得し、トップ当選を果たした(2位で当選したメシュキーニー師の得票数は84万票であった)。
第5期専門家会議選挙
2016年2月26日、第10期国会選挙と同日に開催された。801人の立候補登録者の中から166人が承認された。過去の選挙でも競争倍率は定数に対して約2倍と低い。また、定数と同じ人数しか残らない選挙区(州)もあるので競争性は低い。2016年は、西アゼルバイジャン(3議席)、アルダビール(2議席)、ブーシェフル(1議席)、北ホラーサーン(1議席)、セムナーン(1議席)、ホルムズガーン(1議席)がそれに該当する。失格者の中には初代最高指導者ホメイニー師の孫アフマド・ホメイニーも含まれていた。選挙の結果、88議席中「テヘラン闘う聖職者協会」と「コム神学校教師協会」の合同リストの推薦者が64議席を占めた。
<注>
本稿は、坂梨祥「イラン・イスラーム共和国」松本弘編『中東・イスラーム諸国 民主化ハンドブック2014 第1巻 中東編』人間文化研究機構「イスラーム地域研究」東京大学拠点, 2015, pp. 37-54. を最新のデータに更新したものである。
イラン/最近の政治変化
1979年の革命から現在まで続くイランのイスラーム共和制下では、国家元首である最高指導者をはじめとするイスラーム法学者が軍や司法府など国家の治安機構全てを掌握している。すなわち、国家に対する抗議行動には容赦のない弾圧が待ち受けている。それにもかかわらず、イランではこれまで幾度も大規模な抗議運動が発生してきた。
革命後最大規模の抗議運動と言われているのが、2009年6月第10期大統領選挙後の不正選挙を訴えるデモである。アフマディーネジャードの再選が報じられた後、落選候補であるムーサビー(元首相)、キャッロビー(元国会議長)の選挙陣営が結果を認めず、彼らの支持者数千人が首都テヘランや主要都市においてデモに参加した。だが、デモの要求(選挙のやり直し)は認められず、体制による弾圧で幕を閉じた。デモを扇動した罪でムーサビー、キャッロビーは逮捕され、自宅軟禁に置かれ政界から遠ざけられた。さらに彼らを支持する主要政治家も逮捕の対象となり、次回以降の選挙で立候補資格を剥奪されるケースが相次いだ。
2019年11月〜2020年1月:3つの路上抗議運動
直近の抗議運動としては、2019年11月に発生したガソリン値上げに対するデモが挙げられる。これは2009年とは対照的に、指導者が不在で、動員力に欠けるものの、銀行の焼き討ちなど暴力的な方法で抗議がなされた。治安部隊との衝突も激しく、国際人権団体アムネスティの発表によると抗議運動初期の11月15日~18日だけで死者数300、負傷者数千人に上るとされる。デモ発生を受けて体制は、デモ拡大を抑制するために、11月16日から1週間~10日にわたりイラン全国のインターネット接続を遮断した。
これらの抗議運動は、大多数の国民が現体制に不満を抱いていることを象徴するものである。一方で、体制側も国民が体制を支持していることを国内外に示すために、大衆動員を行ってきた。大衆動員のために体制が使うスローガンは主に「反米」、「反イスラエル」である。すなわち、イスラーム共和制を批判する米国やイスラエルによる体制転覆という「陰謀」を阻止するために、国民が体制を支持していることを示す必要があるというわけである。例えば、毎年革命記念日(2月11日)や在テヘラン米国大使館人質事件(11月4日)などで反米デモが扇動されてきた。さらに選挙も体制への信任投票と位置づけられ、最高指導者をはじめとする体制指導部は、選挙参加を強く呼びかけてきた。また2020年1月イラン革命防衛隊ゴッツ部隊の司令官であったガーセム・ソレイマーニーが米国によりイラクで殺害される事件が発生した後、テヘラン、コム、ケルマーンで国葬が行われ、革命記念日以上の国民が参加したとされる。このように官製の(ただしソレイマーニーの国葬は自発的参加者も多い)大衆動員に参加する国民が実際に体制を支持しているかは定かではないが、少なくともイランの体制指導部は体制が多くの国民に支持されていることを装うことに重要な意義を見出している、と言える。
第13期大統領選挙の展望
イランの2021年大統領選挙は何を含意するのか。このテーマを扱う講演会が日本国内外でいくつか開催されてきた。ここでは資料が公開されている二つの講演会の要点を紹介したい。いずれも3人のイラン専門家が登壇した。
The Woodrow Wilson Center とthe U.S. Institute of Peace が主催した講演会では、事前の立候補資格審査におけるアリー・ラーリージャーニー元国会議長の監督者評議会による失格に着目し、それが体制内エリートの分裂を象徴し、ハーメネイー最高指導者の支持層を狭める狙いがあるとの見解が示された。またライースィーの当選はハーメネイーが最高指導者に就任して以降、初めて最高指導者の任命ポスト経験者が政権を掌握した出来事であるとも指摘された。それによって、体制内エリート間においてある程度の対立が存在するとしても、最高指導者の狭い支持層の結束力は強化されたと論じられた。
また講演会ではライースィー政権の外交政策の見通しについても議論された。欧州諸国などとの核交渉、サウジアラビアとの周辺国でのいわゆる代理戦争に対するイランの態度は、保守穏健派のロウハーニーから保守強硬派のライースィーに政権が変わったからといって大きく変化する可能性は低いという意見がほとんどの専門家から提示された。なぜなら核交渉や域内諸国との安全保障問題は体制の安全保障(レジームセキュリティ)に直結する問題であり、そうした政策の意思決定は大統領ではなく(革命防衛隊などの軍権を握る)最高指導者が主導するからである。加えて米国の研究機関のイラン専門家からは、ライースィーのこれまでの司法府機関における政治犯処罰の経歴が人権侵害と見なされていることから、それが人権を重視するバイデン政権の対イラン政策に影響を及ぼすのではないかとの意見も述べられた。
Italian Institute for International Political Studies (ISPI)が主催した講演会では、過去最低の投票率、有権者の投票参加の意味について議論された。ライースィーに投票した有権者は、彼の個人的な支持層ではなく、体制の支持層である可能性が高い。そのためライースィーが大統領として経済政策などで何らかの成果を達成しない限り、ライースィーに票を投じた有権者との距離を縮めることは難しいとの見方が示された。一方、新型ウイルス感染拡大やそれに伴う経済不況にもかかわらず、選挙に参加し、かつ最高指導者の意中の候補ライースィーが最多票を獲得したことは、少なくとも強固に体制を支持するイラン国民が全有権者の4分の1以上は存在することを示唆さるという指摘もなされた。
また、半数以上のイラン国民が選挙ボイコットをしたことについて、これは必ずしも(改革派支持層の)イラン国民が政治そのものへの関心を失ったわけではない、という指摘もなされた。選挙参加と政治参加の関心は全く別ものだとされる。つまり、イランの有権者は選挙制度を通した改革を諦めただけであって、政治や社会の改革要求そのものを完全に失ったわけではないとされた。しかしながら、イランの有権者の大部分を占める中産階級の人々は暴力的な方法での改革は望んでおらず、今後すぐに革命のような社会運動が生じる可能性はないと指摘された。加えて、これまで体制内エリート(保守派)が労働者による経済不況に対する抗議活動ですら(参加者の意図とは異なる)体制の安全保障を脅かす抗議活動と結びつけてきたことが、経済状況のさらなる悪化が予想される今後のイランにおいて自ら首を絞める事態を招く可能性があるとの見解も示された。