「政党」カテゴリーの記事一覧
リビア/政党
筆者は2019年10~11月に1,200人以上のリビア国民を対象として世論調査を実施したが、支持政党についての質問では、「どの政党も支持しない」という回答が全国平均で92%(西部93%、東部92%、南部93%)と圧倒的であった。2%以上の支持を得たのは「リベラル」とされる「国民勢力連合(National Forces Alliance)」とムスリム同胞団系の「公正建設党(Justice and Construction Party)」のみであった。
政党に対する支持の低さは、リビアでは1951年の独立からカッザーフィー政権期崩壊まで政党活動が禁じられており、政治における政党の役割が限定的であることが要因だと考えられる。本稿執筆時点で、比例代表方式による選挙が行われたのは2012年のGNC選挙のみであり、政党政治はリビア国内に定着していないと指摘できる。「国民勢力連合」と「公正建設党」は、2012年のGNC選挙において第1党、第2党となり、国内における政治的影響力が大きいとみなされてきた。しかし、政変後のリビアで要人の暗殺・誘拐、政党と関わりを持つ民兵組織による政府機関やインフラ施設の襲撃などが頻発し、政策でなく暴力によって政治が決定されてきた経緯から、リビア国民の政治に対する期待感が低下したと指摘できるだろう。
2021年12月に実施予定の国政選挙を見据えて、全国で約130の小規模政党が設立されたと報じられるが、多くの政党が新設であり、政策でなく特定の地域や部族によって構成された組織が大半であると指摘される。
アルメニア/政党
ソ連時代の一党独裁制が崩れると、多党制に移行し、「アルメニア人が2人集まると3つの派閥ができる」という冗談が出るほどの百花繚乱ぶりである。ただ、党の団結が党首の強烈な個性に依存しているせいもあって政党の離合集散が多く、政局に影響を与える政党はわずかしかない。本稿では、第一次大戦以降のアルメニア社会に大きな役割を果たした政党を含めて、現代のアルメニア共和国の主要政党について解説する。(なお、政党のアルメニア語表記は、読者の便宜に鑑み、ラテン文字に転写してある。)
アルメニア全国民運動
Hayots‘ hamazgayin sharzhum
1989年にナゴルノ・カラバフ運動(ソヴィエト・アゼルバイジャン内のアルメニア人集住地域ナゴルノ・カラバフ自治州とソヴィエト・アルメニアとが合併するのが目標)の指導者レヴォン・テル=ペトロスィアンが設立した政党だが、前年に成立したカラバフ委員会の流れを汲むという説もある。テル・ペトロスィアンが政権の座に就いてからは与党として議会の多数派を占めたが、98年に大統領が辞任してからは党勢が急速に衰え、その後の議会選でも議席が取れない期間が続き、2012年の議会選で辛うじて1議席を獲得したものの、2013年に解党した。
ダシュナク党(アルメニア革命連盟)
Hay heghap‘okhakan dashnakts‘ut‘yun
1890年にチフリス(現:ジョージアのトビリシ)で複数の民族主義勢力が結集して成立した。1907年にロシアの人民主義政党エスエル(社会革命党あるいは社会主義者革命家党)と活動提携を結び、民族主義的社会主義を模索した。アルメニアにソヴィエト政権が成立した後、党内の反共グループは国外に亡命した。1925年以降は反共路線を打ち出し、在外アルメニア人コミュニティを根城にソヴィエト政権と厳しく対立した。ソ連邦末期にアルメニアに帰還し、カラバフ紛争に積極的に介入して国民の支持を伸ばしたが、対トルコ関係や94年のカラバフ紛争停戦後の対アゼルバイジャン政策をめぐってテル・ペトロスィアン政権と対立し、94年末からは非合法化され、98年の大統領辞任の直後、コチャリアン臨時大統領によって合法化された。コチャリアン政権期は事実上の与党として大統領を支えていたが、サルキスィアン政権が2009年春に打ち出したトルコとの国交樹立路線に反発して政権を離脱し、アルメニア人虐殺の謝罪をトルコ政府から勝ち取るまでトルコとの国交回復は容認しないとしている。2018年春の政変を受けた同年末の出直し議会選挙では、共和党とパシニアン新首相率いる「我が一歩」ブロックの対決の陰に隠れ、全議席を失ったが、第二次カラバフ紛争後の政局の混乱を収めるために行われた2021年6月の繰り上げ議会選では、「再生されるアルメニア」党と組み、かつて与党時代に関係の良かったコチャリアン元大統領を代表とした「アルメニア連合」ブロックを形成し、議席を奪還した。現議会では、この選挙ブロックで29議席を有する。
アルメニア共和党
Hayastani Hanrapetakan kusakts‘ut‘yun
1990年結党。思想的にはダシュナク党右派のガレギン・ヌジュデ(1886~1955)および1967年から87年にかけてソヴィエト・アルメニアで非合法に活動していた民族統一党の流れを汲むという。99年に暗殺されたヴァズゲン・サルキスィアン元首相、2007年に急死したアンドラニク・マルカリアン元首相も党首を務めたことがある。現在の党議長はセルジュ・サルキスィアン前大統領。2018年末の出直し議会選挙では、パシニアン新首相率いる「我が一歩」連合の政治腐敗一掃キャンペーンが功を奏し、全議席を失ったが、2021年6月の繰り上げ議会選では、新設の祖国党と「我に誇りあり」ブロックを組んで、パシニアン首相のカラバフ紛争での失政を批判し、議席を回復した。現議会では7議席を有する。
http://www.hhk.am/eng/index.php?page=program
「市民協約」
K’aghak’ats’iakan paymanagir
ジャーナリストのニコル・パシニアンが、それまで支持していたテル・ペトロスィアン元大統領と袂を分かって、2013年に設立した。当時のサルキスィアン政権の打倒と完全自由選挙を目指した。しかし、急ごしらえの政治団体だったため、2015年に政党として登録した後も、他党との連携で選挙に臨んだ。2017年の議会選では、「輝けるアルメニア」や共和国党(与党共和党とは別団体)と「出口連合」ブロックを形成、選挙連合全体で9議席獲得した。2018年春のパシニアンが主導した民衆革命でパシニアン内閣が成立したことを受けた同年末の出直し議会選では伝導党と「我が一歩」ブロックを形成、共和党との対決姿勢で88議席を獲得し、名実ともに与党化した。しかし、2021年の繰り上げ議会選では、第二次カラバフ紛争の失政を野党から厳しく追及され、71議席に減らしたものの、「市民協約」の単独過半数となり、引き続き与党を担っている。
https://www.civilcontract.am/hy
「繁栄のアルメニア」党
Vargavatsh Hayastani kusakts‘ut‘yun
2004年結党だが、この党が注目されるようになったのは、2006年夏に実業家でアームレスリング選手のガギク・ツァルキアンが党首に就いてからである。手広く事業を行う実業家が突如として政界入りして急速に党勢を拡張させたため、共和党に次ぐ第二与党を育成しようという大統領の思惑を訝る観測もあるが、実態は不明。実際、共和党政権に協力的な態度を示した。2018年春の政変を受けた同年末の出直し議会選挙では、共和党とパシニアン新首相率いる「我が一歩」連合の対決の中でも議席を守ったものの、第二次カラバフ紛争後の政局の混乱を収めるために行われた2021年6月の繰り上げ議会選では、パシニアン首相を批判する元大統領を擁する選挙連合が2つも現れたことで存在感が薄れ、全議席を失った。
「輝けるアルメニア」
Lusavor Hayastan
2015年に法律家のエドモン・マヌキアンが設立した政党で、EUとの関係を重視している。2017年の議会選挙では、パシニアンの率いる「市民協約」などと「出口連合」ブロックを形成して、3議席を確保し、続く2018年の出直し議会選では、単独で18議席を獲得し、第3会派に躍り出た。しかし、2021年6月の繰り上げ議会選では、パシニアン首相を批判する元大統領を擁する選挙連合が他に2つも現れたことで存在感が薄れ、全議席を失った。
「法治国家」
Orinats‘ yerkir
1998年に法律家のアルトゥル・バグダサリアン議員が中心になって創設されたEUとの関係を重視する政党。2003年のコチャリアン大統領再選後に与党となるが、2006年末メツァモル原発の民営化問題をめぐって政府と対立し、政権から離脱した。2008年の大統領選では党首が立候補し、第3位となった。その後、サルキスィアン政権誕生時に再び与党入りした。しかし、2017年の議会選で議席を失って以来、党勢は回復していない。
http://www.oek.am/main/free_text/home_page.php?lng=1
「遺産」
Zharangut‘yun
アルメニアの体制転換時の1991、92年に外相を務めたラッフィ・ホヴァニスィアンが、2002年に設立した。党首がアメリカ合衆国生まれということもあり、欧米型の政治経済制度をアルメニアに定着させることを目指している。2007年の議会選挙で7議席を獲得した。しかし、2018年の出直し議会選で議席を失って以来、党勢は回復していない。
http://www.heritage.am/indexeng.htm
アルメニア共産党
Hayastani komunistakan kusakts‘ut‘yun
アルメニア共産党はソ連末期に解体分裂したが、その中で後継政党を自任する。2003年の議会選で議席を失って以来、党勢は回復していない。
アルメニア統一共産党
Hayastani miavorvatz komunistakan kusakts‘ut‘yun
旧共産党系の諸政党、アルメニア新共産党、アルメニア労働共産党、アルメニア統一労働党、アルメニア共産主義者同盟、アルメニア・マルクス主義者党、知識人党が、2003年7月に結集して成立したが、2007年の議会選挙で議席を失った。
民主自由党
Ramkavar azatakan kusakts‘ut‘yun
1908年にイスタンブル(現トルコ)で結成された。支持者にはオスマン帝国の高級官僚、富裕な商人や銀行家が多く、当時零細商工業者や下級聖職者出身者が多かったダシュナク党とは対照的な政党であった。民主自由党は、第一次大戦時にオスマン帝国下でアルメニア人虐殺が起こってから、この事件後に世界に四散したアルメニア人のコミュニティに根を下ろした。ソヴィエト・アルメニア成立後は、在外アルメニア人コミュニティに進出してきたダシュナク党に対抗し、一貫してソヴィエト政権を支持した。アルメニアの独立後は、「本国」政界にも進出したが、1999年の議会選で議席を失って以来、党勢拡大は見られない。
http://www.ramgavar.org/index.php?lang=en
(社会民主主義)フンチャク党
Sots‘ial democrat hnch‘akyan kusakts‘ut‘yun
フンチャク(「鐘」の意)党は、1887年夏にスイスのジュネーヴで結成されたアルメニア最初の社会主義政党である。創設者は西欧で教育を受けたマルクス主義者であった。1896年にオスマン帝国のアルメニア人社会の実情に鑑みれば社会主義は時期尚早とするグループが脱落したため党勢を縮小したものの、各地のアルメニア人コミュニティに活動拠点を築いていった。1920年代以降は、ソヴィエト・アルメニアを支持する派閥として、民主自由党と協力しつつ、ダシュナク党と対立した。アルメニアが独立した後はテル=ペトロスィアン政権を支持する立場を示していたが、サルキスィアン政権に批判的だった。
http://www.hunchak.org.au/aboutus/historical_turabian.html
国民民主連合
Azgayin demokratakan miut‘yun
ソヴィエト・アルメニア末期の1990~91年にアルメニア全国民運動政権時に首相を務めたヴァズゲン・マヌキアンが、91年にテル・ペトロスィアンと袂を分かってこの党を創設した。党首マヌキアンが1996、98、2003、2008年と大統領選に出馬するなど、野党を貫いている。また、2003年に会派「正義」を結成するなど、マヌキアンは野党結集に奔走したが、2007年の議会選挙でこの党は議席を失った。
「国民の統一」
Azgayin miabanut‘yun
1997年に元共産党員で、エレヴァン市長も務めたアルタシェス・ゲガミアンが1997年に設立した。党首ゲガミアンが2003年、2008年の大統領選に出馬するなど、野党を貫いている。2003年の議会選挙では議席を獲得したものの、2007年の議会選挙で議席を失った。
マレーシア/政党
1957年の独立から61年間続いた連盟/BN体制下でのマレーシアの政党システムは、民族別および地域別に組織された政党が連合を組む形態が基本となってきた。2018年総選挙で政権交代が起こって連盟/BN体制が崩壊したが、その後も民族や地域に沿った政党が連合を組む形態は基本的には変わっていない。ただし、多民族政党を自称し、複数の民族が党員となっている政党も存在する。2018年総選挙の後、政党(連合)間の連立や政党連合の組み換えが起こっており、本稿執筆時の2021年8月でもそうした政党システムの変動はいつでもおこりうる。2018年以降のマレーシアの政党および政党システムは流動化したといえる。
(1) 政党連合・国民連盟(PN)の主要構成政党
PH政権の崩壊に至った2020年2月の政変によって成立したムヒディン政権を支える与党連合が国民連盟(PN)だった。PNを構成する政党はムヒディン首相が総裁のマレーシア統一プリブミ党(Bersatu)、汎マレーシア・イスラーム党、祖国連帯党(STAR)とサバ進歩党(SAPP)というサバ州を基盤とする2党の小規模地方政党、マレーシア人民運動である。これらの構成政党のうち、2021年8月時点で連邦下院に議席を有しているのは、Bersatu(31議席)、PAS(18議席)、STAR(1議席)であり、その他の2党は議席を有していない。
①マレーシア統一プリブミ党(Parti Pribumi Bersatu Malaysia: Bersatu)
マハティールやムヒディン・ヤシン元副首相(後の第8代首相)ら主にUMNOからの離党組によって2016年に結成された政党。Bersatuが設立された背景として、2014年から2015年にかけて当時のナジブ首相にマハティール前首相が批判を強めていたことがある。マハティール首相が批判をしたのは、最初は財務省傘下の国営投資会社のワン・マレーシア開発公社(1MDB)の巨額債務問題だった。さらに、2015年7月に『ウォール・ストリート・ジャーナル』紙が26億リンギ(日本円で780億円)の巨額資金が1MDBからナジブ首相の個人口座に流れたとの報道をした後は、マハティールの批判はさらに強まった。1MDB関連のスキャンダルの追及から逃れるために、ナジブ首相は閣内で自らに批判的なムヒディン副首相を解任した。その後はマハティール、ムヒディンやマハティールの息子のムクリズ・マハティール前クダ州首相らはUMNO党内でナジブの追い落としを図ったが果たせず、彼らはUMNOから離党し、Bersatu結党に至った。
結成間もないBersatuが政党連合のPHに公式加入したのは2017年に入ってからである。結党後最初の総選挙となった2018年総選挙でBersatuはマハティールの生誕地で長年の選挙区であるクダ州や、ムヒディンが過去に州首相を務めたことがあるジョホール州で勢力を拡大した。2018年から2020年に連邦でPHが政権を担当している間、この両州とペラ州ではBersatuが州首相のポストを確保した。しかし、2020年2月の「シェラトンの策謀」に始まる政変でPH政権が崩壊し、Bersatu総裁のムヒディンを首相とする政権が発足すると、ジョホール州ではUMNOがクダ州ではPASが州首相ポストを担当するようになった。ペラ州では連邦で与党を構成していたUMNOとBersatuの地方組織の対立が2020年12月に表面化し、州首相ポストはBersatuからUMNOへと移った。PNが経験した初めての大規模な選挙である2020年9月のサバ州選挙の結果、Bersatuはサバ州の州首相ポストを確保した。
2020年2月の「シェラトンの策謀」によってBersatu内ではムヒディン総裁派とマハティール議長派が対立したが、その後は2020年3月1日に首相となったムヒディンがBersatuを掌握した。2020年5月にマハティールは自分の息子のムクリズ・マハティールら4人の連邦下院議員とともにBersatuの党員資格を停止されたことでBersatuと袂を分かって祖国闘士党(PEJUANG)を結成することとなった。2018年総選挙でのBersatuの連邦下院議会での獲得議席は13議席だったが、その後は他党の離党者を受け入れることで本稿を執筆した2021年8月時点では31議席にまで議席を増やしている。
②汎マレーシア・イスラーム党(Parti Islam SeMalaysia: PAS)
1956年に設立されたイスラーム主義政党。PASは伝統的にUMNOのライバルとしてマレー人票をめぐって争ってきた。PASの支持基盤はマレー半島の東海岸のクランタン州やトレンガヌ州であり、近年ではマレー半島北部のクダ州でも支持を拡大してきた。結党時からイスラームの擁護と促進がPASの党規約の基本的な項目として挙げられていたが、党のイスラーム主義へのシフトが一層本格化したのは80年代からである。これ以前の党指導者は、イスラームを重視するものの、マレー人の地位向上を目指すマレー・ナショナリズムを党の路線の中心に据えていた。だが、70年代のBNの一時加入とそれに伴う党の分裂で党勢が大きく後退し、PASが野党として再出発する際、中東留学によってイスラーム法学を修めたウラマーが1982年の党役員人事選挙で台頭し、文字通りイスラーム主義が党の基本路線となった。
PASの党機構でユニークなのは、党総裁が主催して日々の党運営を司る党中央運営員会(Jawatankuasa Kerja Pusat)の上位に選挙で非選出のウラマーからなるウラマー評議会(Majlis Syura Ulamak)が置かれ、党の最高意思決定機関としての地位を与えられている点である。ウラマー評議会を率いる議長はPASの精神的指導者(Mursyidul Am)と呼ばれて党の方針に大きな影響力を持つ。1991年から2015年まで精神的指導者としてPASだけでなくマレー人社会の中で広く敬意を受けていたのがニック・アジズであった。PASの指導体制は2000年代に入ってから2013年総選挙直後までは、ニック・アジズと2002年に総裁に就任したハディ・アワンの双方がPASをリードしていく体制であった。特にニック・アジズは当時の与党だったUMNOへの不信感を持ち、PASが野党として活動していくことを重視していた。
しかし、ニック・アジズが2015年に死去すると、PASは総裁のハディ・アワンの下で自党が政権を運営するクランタン州でのハッド刑の導入を図るため、連邦政府を握るUMNOに接近していった。ハッドとは飲酒、姦通、窃盗などコーランに処罰が記載された犯罪である。この犯罪に対する刑罰がハッド刑と呼ばれており、例えば、窃盗を行った者に対して四肢を切断する刑などが定められている。クランタン州で州法としてハッド刑を導入するためには、刑事罰の規定を定め、州法の上位にある連邦法を改正しなければならない。そのため、PASには当時連邦政府を担っていたUMNOに接近する動機があったのである。
PASがクランタン州でのハッド刑導入を進めようとUMNOに接近したことは、党内のみならず、当時PASが連合を組んでいたPRの構成パートナーとの間に対立を生み出した。PAS内部には伝統的に、イスラームの宗教教育を受けたウラマーを中心とするイスラーム主義を社会に厳格に適用していこうとする勢力と、非ウラマーで高度な世俗教育を受けたリーダーを中心としてムスリム以外とも妥協を図りながらイスラーム主義を段階的に適用していこうとする勢力との間の対立が長年存在していた。このウラマー勢力と非ウラマー勢力との対立は、2015年当時にはPASが所属していた野党連合のPR内でPKRやDAPと協力関係を維持するか、それとも連邦政府を担っていたUMNOと協力するか、という路線対立とも重なってPAS内の対立をさらに深めた。
ニック・アジズ死去後の2015年のPASの内紛は、非ウラマーを中心としたPR内でPKRやDAPと共闘を志向する勢力が6月の党内選挙で敗北し、彼らが離党して新たにAmanahを結成することで決着がついた。総裁のハディに率いられて勝者となったウラマー勢力が強くなったPASに対し、DAPがPRの政党連合を解消することを宣言し、PRは活動を停止した。
その後、PASはUMNOに接近しながらも野党として活動し、2018年総選挙に向けてBNとPHとは異なる第三極を目指してイスラーム系の政党と政党連合の平穏構想(Gagasan Sejahatera: GS)を結成した。ただし、PAS以外のGS構成政党は長年にわたり非常に小規模な活動しかしておらず、GSは事実上PASであるといってよかった。2018年総選挙でPASは、連邦下院議席を前回選挙よりも3議席減らして18議席となった。しかし、1991年から担当してきたクランタン州の州政権を維持したほか、新たにトレンガヌ州の州政権も確保してマレー半島の東海岸で確固たる地位を築いた。2018年総選挙後のPASは、野党となったUMNOと補選などの機会を通じて選挙協力を深め、「国民調和」(Muafakat Nasional)と呼ぶUMNOとの政党間の同盟関係に発展させた。
2020年月の「シェラトンの策謀」を経てムヒディン政権が成立すると、PASはPNを構成する与党の一角となり、BNを主導するUMNOとBersatuとの間でキャスティングボードを握る立場になった。
③マレーシア人民運動(Parti Gerakan Rakyat Malaysia: Gerakan)
1968年設立、通称、Gerakan(グラカン)。設立当初は野党として活動していたが、後に新たに設立された政党連合のBNに加入し、2018年まで与党の構成政党となった。特定の民族に党員を限定しない多民族政党であるものの、実態は華人に主要な支持基盤を持つ。結党時からペナン州に強い支持基盤を持ち、歴代の州首相を輩出することで、ペナンの州政権を握っていた。しかし、2008年総選挙で大敗し、連邦下院議席の大幅減少だけでなく、ペナン州の州政権も野党に奪われた。2013年総選挙でも党勢を回復することはできず、連邦下院議席も僅か1議席と低迷した。さらに、2018年総選挙では1議席も取れなかった。2018年総選挙での大敗を受けて、6月にグラカンはBNから離脱した。Gerakanは2021年2月正式にPNに加入した。
(2)政党連合・国民戦線(BN)の主要構成政党
①統一マレー人国民組織(United Malays National Organization: UMNO)
植民地統治下の1946年に宗主国イギリスが提出したマラヤ連合案に反対するマレー人組織が集まって結成される。結党時の党規約にも示されているとおり、マレー人の権利の擁護を目的に設立された政党であり、マレー人に党員が限定された民族政党である。2018年総選挙で敗れて下野するまで61年間政権を握り続けた政党連合BN(その前身の連盟)の中核政党で、歴代の内閣の総理、副総理は慣例的にそれぞれUMNOの総裁と副総裁が就任してきた。近年まで農村部や公務員の間に比較的強い支持基盤を持ち、長い与党経験の中で構築されてきた政府の統治機構と一体化した強力な選挙マシーンを有してきた。
NEPに伴って70年代から90年代にかけて政府主導でマレー人企業に手厚い保護が実施される中で、UMNOは与党としての立場を利用した与党ビジネスを本格化させていった。1980年代から1990年代にはUMNOの与党ビジネスは最盛期を迎え、UMNO系企業が建設、ホテル、メディア、不動産開発など様々な分野で大きな経済的影響力を持ち、巨大ビジネス・グループを形成し、党運営における豊富な資金源となる一方、こうしたビジネスとUMNOとのつながりは、党内の派閥闘争を深刻化させ、外部から金権政治や汚職体質を批判されるようになった。しかし、1990年代末のアジア経済危機によって与党ビジネスが深刻な打撃を被り、企業グループの整理や政府主導の再建が進む中で、UMNOが直接的に影響力を行使する企業はメディアなどの一部の分野に留まるようになった。
2018年総選挙の結果はUMNOにとって衝撃であった。UMNO結党の地であり長年にわたって地盤としてきたジョホール州や、1990年代から経済開発の実績と将来的な約束を通じて強固な地盤を築いているとみられていたサバ州のほか、これまで野党の州政権を経験したことがないムラカ州やヌグリスンビラン州などでもUMNOは議席を大きく減少させた。2018年総選挙によって連邦下院の議席数は前回総選挙よりも34議席を減らして54議席となり、州議会選挙でもクダ州、ペラ州、ムラカ州、ヌグリスンビラン州、ジョホール州の州政権を失った。サバ州の州政権も総選挙後に所属議員がUMNOからWARISANに寝返ったためにUMNOの確保できた州政権はプルリス州とパハン州の2州のみとなった。
2018年5月の総選挙で政権を失った後、UMNOは党役員人事選挙を6月に実施した。役員人事選挙では、UMNO副総裁で前副首相のアフマド・ザヒド・ハミディ、UMNO青年部長で前青年・スポーツ大臣のカイリ・ジャマルディン、元財務大臣のラザレイ・ハムザらが総裁職を争った。総裁選ではカイリがUMNOの党員をマレー人以外にも求める可能性も示唆したが、選挙結果はナジブ時代からの継続の色が強いザヒドが総裁に選出された。ザヒドは2021年2月時点で47 件(12件の背信容疑、8件の汚職容疑、27件の資金洗浄容疑) もの起訴に直面して裁判で争っている最中であることから政府の大臣職やその他の公職に就くことが困難である。
PH政権下ではUMNOはPASと「国民調和」と呼ぶ政党間同盟を結んで選挙協力を進めた。2020年2月の「シェラトンの策謀」によって起こった政変でPH政権が崩壊してムヒディン政権が成立したことで与党に復帰した。さらに2021年8月のムヒディン首相の辞任によってムヒディン内閣で副首相だったイスマイル・サブリ・ヤコブ防衛大臣(UMNO副総裁補)が首相に就任したことからUMNOは3年ぶりに首相ポストを奪回した。
②マレーシア華人協会(Malaysian Chinese Association: MCA)
1949年に当時のイギリス植民地マラヤを代表する華人企業家のタン・チェンロックの主導により結成。華人に党員が限定された民族政党。設立以来、華人ビジネス界との関係を比較的強く有している一方、MCA自体もビジネスに直接関与している。最もよく知られたMCAのビジネスとして、マレーシア最大の英語紙『スター』の発行がある。独立から2018年まで与党の地位についてきたが、2008年総選挙で議席が半減しただけでなく、その後の党内を2分する派閥抗争によって党勢は大きく落ち込んだ。その後、2013年総選挙ではさらに議席数を7議席まで減らし、2018年総選挙では僅か1議席しか確保できずに、壊滅的な打撃を受けた。
MCAはBNに残留しているものの、2018年総選挙で唯一議席を確保できたウィー・カッションと2019年11月の連邦下院補選で当選したウィー・ジェックセンの2人しか連邦下院に議席を確保できず、2018年総選挙以前と比べると政界全体への政治的影響力のみならず、UMNOの主導するBN内での影響力も非常に小さいものとなっている。
③マレーシア・インド人会議(Malaysian Indian Congress: MIC)
1946年結党。インド人に党員を限定した民族政党。UMNO、MCAと同様に連盟の時から続く与党連合の一角を占めてきた政党である。しかし、2008年総選挙で議席を大幅に減らしたことで大きな打撃を受けた。2013年総選挙では、ナジブ政権によって選挙前に発表されたインド人社会への支援策や、反政府的な立場に立っていた社会運動のヒンドゥー権利行動隊(Hindraf)のBNへの取り込みなどで4議席を確保することができた。しかし、2018年総選挙ではBNが政権を失うなかでMICも議席を減らし、1議席と低迷している。その後、PH政権の崩壊に伴い、与党に復帰するが、MCAと同じく政界全体への政治的影響力およびBN内での影響力は非常に小さいままとなっている。
(3)政党連合・希望連盟(PH)の構成政党
政党連合の希望連盟(Pakatan Harapan: PH)は2018年総選挙でマレーシア史上初の政権交代を果たした。PHは2015年に前身の人民連盟(Pakatan Rakyat: PR)が活動停止状態になった後、以下で説明するPKR、DAP、Amanahの3党によって発足した。その後2017年に公式にBersatuが加入して4党体制となった。しかし、2020年2月の「シェラトンの策謀」による政変を経てBersatuがPHを離脱し、PKRからも離党者がでたことからPHは政権を失った。
PHの前身にあたるPRは2008年から2015年まで連邦下院での野党連合として活動し、スランゴール州、ペナン州、クダ州(2008-2013年)、ペラ州(2008-2009年)でPRが州政権も運営していた。しかし、後述するAmanahやPASの項で説明するように、構成政党間の対立によってPRは活動を停止してしまう。中でもイスラーム主義政党のPASと主に非ムスリムに支持基盤をおく世俗政党のDAPとの対立がPR瓦解の最大の要因である。
PASとDAPの対立はPRの前身にあたり、1999年総選挙に向けて野党が連合した政党連合の代替戦線(Barisan Alternatif: BA)でも起こり、BAが事実上活動を停止する原因となっている。
①人民公正党(Parti Keadilan Rakyat: PKR)
1990年代末のレフォルマシ運動の時代にアンワル・イブラヒムの妻のワン・アジザを代表に結成された国民公正党(PKN)をベースに、1955年にマレー人左派を中心に結成され、社会主義を掲げたマレーシア人民党(PRM)が2003年に合併してできた政党。実質的にはマレー人が主導する政党だが、公式には多民族政党として組織されている。現在の総裁は2018年11月の党選挙において無投票で当選したアンワル・イブラヒムである。
2008年総選挙では連邦下院議席を31議席獲得して最も躍進した政党であったが、その後は離党者が続出し、2011年8月には下院24議席(協力関係にあるマレーシア社会主義者党の議員を除けば23議席)にまで減少した。しかし、2013年総選挙では30議席に回復し、2018年総選挙では47議席にまで議席を増やして新たに政権についたPH政権の中で最大の連邦下院議員を擁する政党となった。しかし、2020年2月の「シェラトンの策謀」に始まる政変によってPHが政権を失ったことで野党となった。「シェラトンの策謀」では当時のPKR副総裁のアズミン・アリと彼を支持するグループの連邦下院議員が離党した。2018年総選挙ではPKRは47議席を獲得していたが、離党者がでたことで本稿を執筆している2021年8月の時点で連邦下院議席は35議席にまで減少している。
PKRは2008年以降、首都で連邦直轄地のクアラルンプールを取り囲む、マレーシアで最も経済的に発展したスランゴール州の州政権の州首相を輩出してきた。PKRの支持者はマレー人、華人、インド人の全ての層にまたがっており、多民族政党を自称している。とはいえ、支持者や指導層の中核を占めるのはマレー人である。PKRの最も重要な支持基盤はスランゴール州にあり、その他にマレー半島の西海岸沿いの州の都市部を中心に支持を集めている。
②民主行動党(Democratic Action Party: DAP)
1965年のシンガポールのマレーシア離脱に伴い、シンガポールを拠点に設立されていた人民行動党(People’s Action Party: PAP)の元党員がマレーシアで結党した。党の路線として社会民主主義を標榜する。マルチ・民族政党であり、党自体も「マレーシア人のマレーシア(a Malaysian Malaysia)」を主張し、BNの民族に基づく差別政策を批判してきたが、実態は非マレー人、特に華人に強い支持基盤を持ち、彼らの利益に基づく活動を行うことで、主に都市部の華人在住地域で議席を確保してきた。しかし、近年では華人の党であるとのイメージを刷新するため、マレー人の若手党員や指導者の育成に力を入れている。
2008年総選挙では、PASやPKRと連合を組んでペナン州で(連邦下院議席と州議会議席)の大量当選者を出し、当時BNを構成していたグラカンから州政権を奪った。2013年総選挙では、それまでBNの牙城だったジョホール州に、60年代から90年代末まで幹事長として名を馳せて、党の顔でもあるリム・キッシャンや若手の有力政治家を候補者として立てることで、BNの牙城の一部を崩すことに成功した。この成果により、DAPはPR構成政党の中でも2008年総選挙から唯一議席を増加させた政党となり、PRの第一党、連邦下院議会でもUMNOに次ぐ第2党に躍進した。2018年総選挙後は与党となったPH内で第二党として重要な位置を占めている。DAPの長年の支持基盤はペナン州などマレー半島西海岸の華人の多い都市部であったが、近年は東マレーシアのサラワク州などでも勢力を拡大している。2020年2月の政変によってPH政権が崩壊すると野党となった。
党役員では代表にあたる議長は、タン・コックワイ。しかし、党内では上述のリム・キッシャンが強い影響力を持つほか、実質的な指導者は党幹事長でリム・キッシャンの息子であるリム・グァンエンである。リム・グァンエンは2008年から2018年までペナン州の州首相を務めた後、2018年総選挙でPHが政権を獲得するとマハティール内閣の財務大臣に就任した。華人の財務大臣就任は1974年以来初めてのことである。DAPが州政権を運営するペナン州の現在の州首相は2018年5月に就任したチョウ・コンヨウである。
③国民信託党(Parti Amanah Negara: Amanah)
2015年にPASからの離党組が結成した政党。PASの項で後述するように2013年総選挙以降、PASはクランタン州でのハッド刑の導入を本格的に検討し始め、当時の野党連合のPRの内部で対立を生んでいた。この対立が高じて2015年にPRは政党連合の解消に至った。PAS内ではPKRやDAPとの協調路線をとろうとする非ウラマーの勢力が2015年の党内選挙で敗退したが、この勢力は同年6月にPASを離党して社会運動組織の新希望運動(Gerakan Harapan Baru: GHB)を結成した。GHBは当初から政党結成を目指して組織されていた。GHBは1970年代から休眠状態にあったマレーシア労働者党(Parti Pekerja-Pekerja Malaysia)の政党登録を利用し、党名を改名して現在のAmanahとなった。その後、AmanahはPKRやDAPと政党連合のPHを結成した。
2018年総選挙ではAmanahは11議席を獲得した。総選挙でAmanahはPASが強い勢力を保ってきたマレー半島の東海岸や北部に候補者を多く立てたが、実際に当選者を出すことができたのはマレー半島の西海岸だった。この選挙結果から示されるように、Amanahは現在でもマレー人有権者の比率が高いマレー半島の東海岸や北部でPASに対抗できるほどの支持基盤を築くことができていない。Amanahの支持者の多くはクアラルンプール周辺の都市部に住むマレー人である。
Amanahの総裁は、モハマド・サブ(通称、マット・サブ)である。モハマド・サブはPAS離党前にはPAS副総裁を務めていたこともある。PH政権下でモハマド・サブは防衛大臣を務めた。2020年2月のPH政権崩壊で野党となった。
(4)PHと同盟関係
サバ伝統党(Parti Warisan Sabah: WARISAN)
2016年に結成されたサバの地域政党である。現在、PHには加入していないものの、PHと同盟関係にあって2018年に発足したマハティール内閣にも3人の大臣を出している。WARISAN結成のきっかけは、2015年から1MDBスキャンダルの渦中でUMNOのナンバースリーの副総裁補で、農村・地域開発大臣でもあったシャフィ・アプダルが反ナジブの姿勢を見せて閣僚を解任され、その後、UMNOから離党したことによる。シャフィは自らを代表とするサバの地域政党を立ち上げて総選挙に備えた。
2018年総選挙でWARISANはサバ州で連邦下院議席を8議席獲得する一方、サバ州の州議会で21議席を獲得した。サバ州議会選挙結果の内訳は、WARISANがPH構成政党のPKRおよびDAPが獲得した8議席と合わせて29議席を確保したが、UMNOが同じく29議席を獲得したため、PHと同盟したWARISANと、UMNOが同数となった。残りの州議会の議席はサバの地域政党の故郷連帯党(Parti Solidariti Tanah Airku: STAR)が2議席を獲得した。STARがUMNOに協力する意向を示したため、総選挙直後はUMNO主導の州政権が発足する見込みであった。しかし、UMNOからの6人の離党者がWARISANに入党したため、WARISAN総裁のシャフィを州首相とする州政権が発足した。
2020年2月の「シェラトンの策謀」に始まる政変によってPHが政権を失うと、WARISANも連邦レベルで野党となった。その後、WARISANは2020年7月までサバ州の州政権を維持したが、UMNOのムサ・アマン前州首相が新しい州政権を組織するのに十分な数の州議員の支持を得たと発表したことから、シャフィが州議会を解散して選挙に突入した。2020年9月のサバ州選挙の結果、WARISANは過半数の議席を確保することができず、連邦レベルで政権を担当するBersatuがUMNOと連立を組んでサバ州政権も獲得することになった。
(5)PN、BN、PH以外の独立系政党連合
サラワク政党連合(Gabungan Parti Sarawak: GPS)
2018年まで続いたBNの長期政権下で、サラワク州はマレーシアの全13州のうち唯一UMNOが進出していない州だった。しかし、サラワク州の4党の地域政党がBNに加入して、与党の地位を享受してきた。その4政党とは、サラワク統一ブミプトラ・プサカ党(Parti Pesaka Bumiputera Bersatu: PBB)、サラワク統一人民党(Sarawak United People’s Parti: SUPP)、進歩民主党(Progressive Democratic Party: PDP)、サラワク人民党(Parti Rakyat Sarawak: PRS)であった。
サラワク州では、PBB総裁だったタイブ・マフムドが1981年から33年間にわたって州首相を務めてきたが、長期政権に伴う深刻な汚職問題が長年取りざたされてきた。タイブは2014年に州首相とPBB総裁を辞任して、象徴的な地位にある州元首の地位についたが、依然としてサラワク州の政治に強い影響力をもっているとみられている。
タイブが2014年に州首相を退いた後、州首相とPBB総裁を引き継いだのはアデナン・サテムである。アデナンはサラワクの独自性を主張して時には連邦政府とも対立を招きかねないスタンスで政治に臨んだ。彼のスタンスはサラワクの人々から大きな支持を受け、2016年5月のサラワク州選挙ではサラワクのBN構成政党の4党は前回2011年の州議会選挙から17議席を増やす大勝を収めた。しかし、2017年にアデナンが死去し、その後の地位をアバン・ジョハリ・オペンが継ぐとBNの勢いは弱まり、2018年総選挙ではBN構成政党の4党はいずれも下院議席数を減少させた。2018年総選挙でBNが大敗し、連邦政府を失うと、サラワクの旧BN構成政党4党はBNから離脱し、6月に新たにサラワク政党連合(Gabungan Parti Sarawak: GPS)を結成した。GPSは連邦レベルでは野党となったものの、サラワク州では引き続き州政権を担っていくことになった。その後の2020年2月の「シェラトンの策謀」に始まる政変によってムヒディン政権が成立すると、GPSはムヒディン政権を支える与党となった。2021年8月のムヒディン政権退陣後に成立したイスマイル政権でもGPSは与党の一角を占めている。
パキスタン/政党
パキスタン正義運動党PTI(Pakistan Tehreek-e-Insaaf)
1996年、元クリケットのパキスタン代表キャプテンを務めたイムラン・ハーンによって結成され、2018年から与党となった。政治傾向は中道であり、政権樹立以来、「新しいパキスタン」という標語を掲げ、福祉国家の建設を目標に掲げている。
ハーン党首はクリケット選手として抜群の知名度があったが、政党として支持を集めるまでには年月を要した。結党後最初の選挙であった1997年には一議席も獲得できず、2002年選挙でハーン党首だけが初当選し、2008年の選挙はボイコットという経緯を辿って、2013年に初めて第3党として躍進した。次の2018年の選挙では若年層からの強い支持を基盤に、とくにKP州、パンジャーブ州などで支持を集めて与党となり、ハーン党首が首相に就任した。2021年8月現在、パンジャーブ州およびKP州議会、ギルギット・バルティスタンおよびアーザード・ジャンムー・カシュミール議会の与党となっている。
パキスタン・ムスリム連盟ナワーズ派(PML-N:Pakistan Muslim League Nawas Faction)
1993年、イスラーム民主連合(Islamic Democratic Alliance)が解散して独立した政党で、ナワーズ・シャリーフが設立し、2017年まで党首を務めた。ナワーズ・シャリーフはイスラーム民主連合時代の1990年以来、3回にわたって首相を務めた。政治的な立場は中道右派。
イスラーム民主連合とは、1985年にジアーウル・ハク大統領が選挙を実施するにあたり、その支持政党としてムハンマド・ハーン・ジュネジョーが結成したムスリム連盟から、1988年ハク大統領の死後、フィダ・ムハンマド・ハーンが多数の党員を伴って分裂し、右派政党や宗教政党結成した連合である。イスラーム民主連合は1990年の選挙に勝利してナワーズ・シャリーフが首相となった。1993年にイスラーム連合は解散し、パキスタン・ムスリム連盟ナワーズ派と称した。パキスタン人民党(PPP)とともに1990年代民主化時代の二大政党制を担った。シャリーフ家の地元であるパンジャーブ州ラーホールを拠点とする。
結党以来党首を務めたナワーズ・シャリーフは過去3回にわたって首相を務めたが、汚職や脱税などで訴追を受け、2017年に党首の資格なしとの最高裁判決を受けたため、弟でパンジャーブ州知事シャハーバーズ・シャリーフが党首となった。2018年の選挙では下院の議席を大幅に失い下野した。地盤であるパンジャーブでも敗北を喫し、州議会の与党の座も失った。
パキスタン人民党(PPP:Pakistan Peoples Party)
1967年ズルフィカル・アリー・ブットーが結成した。中道左派、社会民主主義を理念とする。1970年以降5回にわたって政権党となった(1970年、1977年、1988年、1993年、2008年)。ズルフィカル・アリーが1977年ジアーウル・ハクによるクーデタで政権を追われ処刑された後は娘のベーナジールが党首を務めたが、ベーナジールが2007年に暗殺されると、夫ザルダリと長男ビラーワルが共同総裁に就任した。現在はザルダリが総裁、ビラーワルが議長となっている。
1988年にジアーウル・ハク大統領が飛行機事故死した後、民主政回復を牽引する政党となり、ナワーズ・シャリーフのイスラーム民主連合(後にパキスタン・ムスリム連盟ナワーズ派)とともに二大政党制を確立した。1999年10月のクーデタ以降は、ムシャッラフ政権に対抗する民主勢力として2008年にはムシャッラフ大統領を辞任に追い込み、史上初めて議会の力で軍政を終結させる中心勢力となった。2012年にギーラーニー首相が法廷侮辱罪で失職した後、影響力が後退し始め、2013年、2018年の選挙では野党となった。
統一民族運動(MQM: Muttahida Qaumi Movement–Pakistan)
学生運動組織を母体として、1984年にアルターフ・フセインによって創設されたムハージル民族運動(Muhajir Qaumi Movement)を前身とする。1991年までにカラチを中心とするスィンド州のウルドゥー話者コミュニティーの圧倒的代表政党となった。1997年に名称の「ムハージル(分離独立時のインドからの移民を意味する)」をムッタヒダ(統一)に改め、統一民族運動とした。ムシャッラフ政権下では与党PML-Qと強調した。
2017年にファルーク・サッタルがアルターフ・フセインとたもとを分かち、統一民族運動(パキスタン)となり、アルターフ・フセインの党は統一民族運動(ロンドン)となった。
統一行動評議会(MMA)Muttahida Majlis-e-Amal
2002年の選挙に際して、イスラーム党Jamaat-e-Islam、イスラーム・ウラマー党Jamiat Ulema-e-Islam (F)などの宗教政党が連合して結成した政党で、党首はウラマー党のファズルル・ラフマーン、政治傾向は右派から極右に位置する。当時のムシャッラフ政権がアメリカの同時多発テロ後の対テロ戦争に協力したことに反対して、2002年の選挙に宗教勢力を立候補・当選させることを目的として結成された。
パキスタン・ムスリム連盟(カーエデアーザム派)Pakistan Muslim League-Quaid-e-Azam
2001年にムハンマド・アズハルが中心となって、ナワーズ派から分裂して結成された。当時のムシャッラフ軍事政権を支持する政党として、2002年の選挙で大勝した。2004年にさらにたのPML分派と合流して与党として勢力を確立したが、2008年の選挙ではPPP、PML-Nに敗北し、下野した。党首は、チョウドリー・シュッジャード・フセインが務める。
アワーミー国民党Awami National Party
パシュトゥーンの民族政党として、ワリー・ハーンを党首として1986年に結成された。ワリー・ハーンは独立運動期にインド国民会議を支持したアブドゥル・ガッファール・ハーンの息子で、当時も現在も明確な政教分離主義をとる。パシュトゥーンが居住するKP州とバローチスターン州の一部を地盤としていたが、2018年の選挙ではPTIの躍進によりKP州の下院選挙区と州議会議席の多くを失った。
バロチスタン国民党Balochistan National Party
バロチスタンの民族政党で、平和的な方法でバロチスタン州に自治の拡大を求める。現党首はアクタル・メンガル。
バロチスタン人民党Balochistan Awami Party
2018年にPML-NとPML-Qの支援を受けてバロチスタンで結成された。同年に行われた選挙でバロチスタン州最大勢力となり、連邦議会と州議会で連立政権の一翼を担う。また、隣のKP州にも議員を4人出している。党首はジャーム・カマル・ハーン。
アラブ首長国連邦/政党
政党の設立は認められていない。2012年8月に、ムスリム同胞団系組織イスラーハ元メンバーのハサン・ドッキーがUAEウンマ党(Hizb al-‘Umma al-Imārāt)の設立を宣言した。しかし、本人はその後トルコに亡命しており、政治活動はオンライン上で行っている。
クウェート/政党
概要
憲法では結社の自由が認められているものの、政党法は制定されておらず、法的規定はないが、ほぼ政党としての組織と活動実態をもつ政治団体が存在している。このような政治団体は社会事項省が所管する市民団体と同列の位置づけにあり、政治活動については、集会法や出版法に基づいて規制・監督されている。議員立法による政党法の提案は市民団体の後押しもあり繰り返されているが、政府の反対もあり未だ上程されていない。政府および首長家側には、政党法の制定によって党派主義による社会の分断が進むことへの懸念や、首長の権能を制限する議院内閣制への移行につながりかねないとの警戒がみられる。政治団体の側も、政党(アラビア語でhizb)とは名乗らない背景に、バアス党のような一党独裁と結びついたイメージへの忌避感や党派主義による国内社会の分断への懸念への配慮がある。実際に、議会内で政治団体に所属している議員は少数派であり、半数以上は無所属議員である。議員はそれぞれ自らに意思決定の裁量があることに重きを置いており、有権者も選挙では議員個人の資質を重視する傾向がある。しかし、議員たちが政府に対して連携する必要性を認め、議会内で一定の勢力を示すために、政治的志向性や政策目標に応じて会派を結成する場合もある。
現在活動する政治団体の多くは、1991年に国民議会の復活が決定されたことを受けて結成された。さらに、これらの団体の源流は、1989年に本格化した「立憲運動(Harakat al-Dusturiyah)」の経験にある。立憲運動は1985年議会の議長であったアフマド・サアドゥーンAhmad Abd al-Aziz al-Sadunを中心に元議員たちが憲法と議会の復活を要求し、国民的な民主化要求運動へと展開した。1991年以降、クウェートにおける政治文脈におけるイデオロギーや政治的目標、社会的亀裂に応じた政治団体が結成され、1999年議会から2009年議会では無所属議員も加わった会派(ブロック)という形で議員の組織化が進んでいた。2012年以降は野党の選挙ボイコットや投票方式の変更の影響もあり、議会内での議員の組織化は振り出しに戻っている。
世俗的・リベラル志向
クウェート民主フォーラムKuwait Democratic Forum(KDF)al-Minbar al-Dimuqrati
1991年に、議会参加を目指して結成された。アラブ・ナショナリズム・社会主義の影響が強い。前身は1962年議会に参加したアラブ・ナショナリズム運動(Arab Nationalist Movement/ Ḥarakat al-Qawmīyīn al-‘Arabī)および1971年に改組した民主進歩的クウェート人運動(Movement of Kuwaiti Democratic Progressives/ Ḥarakat al-Taqaddumiyīn al-Dimqurāṭiyīn al-Kuwaytiyīn) である。もともと、都市部住民や知識人層を支持基盤としていたが、バアス党に近いメンバーも加わっていたため、2002年に穏健派が離脱して、後述する国民民主同盟を結成した。
国民民主同盟National Democratic Alliance(NDA)al-Tahalf al-Watani al-Dimuqrati
KDFの左翼主義的傾向を嫌った、西欧型リベラル・デモクラシーを志向する都市部住民が2002年に結成した。伝統的な有力商人層が結成した護憲連合(下記参照)の流れをくんでおり、経済の自由化・市場化志向がみられる。
護憲連合Constitutional Alliance(CA)al-Tajammu al-Dusturi
クウェートの伝統的な有力商人層が中心となって1991年に結成した団体であり、議会発足以来の野党の伝統を受け継いでいる。前身は1980年代の国民会派(al-Kutlat al-Watani)であるが、商工会議所のメンバーが多いため、商人政党(ḥizb al-tijār)、ブルジョワ政党(ḥizb al-burjuwazīyah)とも称されていた。女性参政権の完全な実現や政党の公認化と議院内閣制(民選議員の首相任命)の実現を掲げていた。1996年選挙前に、所属のジャーセム・ハマド・サグルJasim Hamad al-Saqr議員が引退して以降は議席を持たず、組織や支持基盤は2002年に上述のNDAへ継承された。
国民行動会派National Action Bloc(NAB)Kutlat al-Amal al-Watani
1999年議会における議員連合「7+1」、および2003年議会における「リベラル会派」を経て、2006年議会において8名の議員が党議拘束を含む合意文書に署名して発足した会派。2008年選挙で当選したNDA所属議員が中心となり、2009年議会まで存続した。
民族主義的・ポピュリズム志向
代議員会派Bloc of Deputies(BD)al-Takattul al-Nuwwab
1989年の憲政運動に加わっていた1985年議会の元議員で、1992年選挙で再選を果たした議員が、アフマド・サアドゥーンを中心に1992年議会において結成した会派。政党内閣の実現を目指していた。1990-91年のイラクによる占領中のクウェート・ナショナリズムの高揚と、イラク侵攻時、真っ先に首長家一族と有力商人が脱出を図ったことへの批判から、主に都市部住民の新興中間層および下層や一部の部族住民の支持を獲得した。経済政策をめぐって政府や有力商人層と対立しており、分配政策や外資規制、資源ナショナリズムを主張した。
人民行動会派 Popular Action Bloc(PAB)Kutlat al-Amal al-Shabi
1999年議会において、アフマド・サアドゥーンを代表に結成された会派で、労働者・都市中間層に対する分配と政治的権利の拡大を求め、首長家による石油の富の独占や外資による資源開発に強く反発する。政府とは対立関係にあり、野党連合の中心となる存在である。上述の代議員会派の流れを汲み、シーア派を含む都市部住民の新興中間層および下層や部族住民など広範な支持基盤をもつ。2006年議会以降は最多得票により当選を重ねたムサッラム・バッラークMusarram al-Barrakが中心的な存在となった。2012年12月選挙と2013年7月選挙はボイコットした。2014年にムサッラム・バッラークが首長批判により逮捕・収監されるなど、政府による弾圧を受けた。同じ2014年には政治団体として立憲人民運動Constitutional Popular Movement/ Harakat al-Shabiyah al-Dusturiyahを結成し、2021年現在も活動中である。
イスラーム主義
イスラーム立憲運動Islamic Constitutional Movement(ICM)Harakat al-Dusturiyah al-Islamiyah
クウェートのムスリム同胞団である社会改革協会Social Reform Society/ Jamiyat al-Islah al-Ijtimaiの政治活動部門として1991年に結成。ムスリム同胞団出身の議員は1963年の第1期議会から存在していた。公務員、特に学校や医療福祉関係と、石油関連事業の労働組合が主要な支持基盤となっており、都市系住民を中心としつつ、全国区で支持を獲得している。湾岸戦争を機に本家であるエジプトのムスリム同砲団とは独立した立場を採っている。段階的な社会改革により、最終的にはイスラームのシャリーアに基づく統治を掲げているが、実際の議会活動は現実主義で、他の政治団体および会派との協力に積極的であり、シーア派との関係もおおむね良好であった。政府を批判する野党の立場にありながら、メンバーが大臣として政府に加わったこともあり、後述のサラフィー主義やPABからは野党としての一貫性のなさを批判されたこともあった。2012年12月と2013年7月の選挙はボイコットしたが、2016年選挙以降は復帰し、議席を獲得している。
サラフィー・イスラーム連合Salafi Islamic Alliance(SIA)al-Tajammu al-Islami al-Salafi
上述の社会改革協会に対抗する形で結成されたサラフ主義団体であるイスラーム遺産復興協会Islamic Heritage Revival Society/ Jamiyat Ihya al-Turath al-Islamiの政治活動部門として、1991年に結成された人民イスラーム連合Popular Islamic Alliance/ al-Tajammu al-Islami al-Shabiが1994年に改称した。サラフ主義を掲げ、伝統墨守・復古主義的立場から伝統的サラフィーとも称されている。上述のICMに対抗する形で議会選挙に参加し、議席を獲得していたが、2012年12月と2013年7月選挙への参加をめぐって所属議員の対応が分かれた。もともとサラフ主義は組織化や政治参加に積極的ではないこともあり、政党については反対の立場を採っている。
発展と改革会派Development and Reform Bloc (DRB)Kutlat al-Tammiyah wa al-Islah
イスラーム主義の議員による連携を組織化すべく、2008年から結成について検討が進められ、2010年に当時唯一のICM所属議員であったジャムアーン・ハルブシュJaman al-Harbush、サラフ主義の有力な無所属議員であるフィサル・ミスリムFaisal al-Mislim、ワリード・タブタバーイーWalid al-Tabtabaiらが結成した会派で、PABとともに野党の中心的な勢力となった。2012年議会選挙では9議席(ICM所属6名を含む)を獲得した。2012年12月と2013年7月の選挙をボイコットした。2013年以降の政府の弾圧により上記3名をはじめ多くの元議員がトルコに亡命している。ワリード・タブタバーイーは2019年11月、母親の葬儀のために帰国し、政治活動を行わないことを条件に恩赦を受けた。
国民イスラーム連合National Islamic Alliance(NIA) al-Tahalf al-Islami al-Watani
シーア派のイスラーム主義団体である社会文化協会Social Culture Society/ al-Jamaiya al-Thaqafiyah al-Ijtimaiyahの 政治活動部門として、1991年に結成された。1980年代はイラン・イスラーム革命の影響を受けて、シーア派イスラーム主義勢力は首長制の打倒を訴えていた時代もあったが、湾岸戦争後は穏健化した。女性参政権には賛成の立場を採り、スンナ派イスラーム主義勢力が主張する、シャリーアに基づく統治には反対の立場である。ICMとは連携することもあったが、サラフ主義者からはクウェート・ヒズブッラーと称され、忌避されていた。2008年議会までは所属議員がPABに合流していた。
バハレーン/政党
政党は公式には認められておらず、各種の政治団体が活動している。2002年選挙時は、政治団体の選挙への関与は厳しく制限された。立候補者の所属政治団体は公式には明らかにされず、また政治団体による立候補者への支援も禁じられていた。しかし、2005年7月に制定された政治団体法(法律2005年第26号)により政治団体の選挙への関与(政治団体からの立候補や立候補者への支援など)が可能となり、実質的な政党として機能している。しかしながら、2011年の大規模抗議デモ以降、与党系であったスンナ派イスラーム主義系も含む政治団体の活動に対する政府の抑圧が続いている。野党系の団体は裁判所による活動禁止および解散命令を受けているが、ツイッターなどのアカウントは閉鎖されずに継続している。
シーア派イスラーム主義
イスラーム国民協約協会Jamaiat al-Wifaq al-Watani al-Islamiyah(ウィファーク)
バハレーン最大の政治団体であり、国民の多数派を占めるシーア派を支持基盤とする野党である。創設者は1990年代のバハレーン蜂起において有力な指導者であったアブドルワッハーブ・フサインAbd al-Wahhab Husain Ali Ahmad Ismailであった。2005年に彼が代表を退いた後、代表には12イマーム派法学ウラマーのアリー・サルマーンAli Salman Ahmad Salmanが、実質的な最終権限を有する30名の評議員からなるウィファーク評議会により選出されてきた。彼は2010年の第3回下院選挙には出馬しなかったため、議会内での会派代表はアブドゥルジャリール・ハリールAbd al-Jalil Khalil Ibrahim Hasanが務めた。ウィファークの宗教権威・精神的指導者としては、1973年議会の宗教会派の代表を務めていたイーサー・カーシムの影響力が強い。イデオロギー的にはイランの「ヴィラーヤテ・ファギーフ(法学者の統治)」を理想としているともいわれるが、同時にバハレーンにおける民主化の進展として議院内閣制の実現も求めており、12イマーム派のウラマー(ターバン組)のイスラーム主義と、実務家(背広組)の民主化推進派の両面を有する。
2002年憲法改正が国民投票にかけられなかったことや、憲法改正による民主化が不十分であったことに抗議して、2002年の第1回選挙をボイコットした。2006年の第2回選挙には参加し、シーア派が多数を占める18の選挙区で所属候補17名と、支援する無所属候補1名を当選させ、比較第一党となった。支持基盤は、マナーマ、北部県と旧中部県の東部(シトラ地区)。選挙後の議会開会に際して議長職を求めたが、無所属議員も含めた全体でスンナ派がシーア派を上回ったため、議長にはスンナ派の議員が選出された。副議長への選出を辞退し、議長に選出されなかったことに抗議して、国王が参加する議会開会式への出席をボイコットした。2010年の第3回選挙では、擁立した18名全員が1次投票で当選を決めた。2010年選挙後の議会の開会では、議長職を要求せず、副議長への選出を受け入れて、ハリール・マルズークKhalil Ibrahim al-Marzuqが副議長に選出された。2011年1月12日には、議長に代わって、ハリール・マルズークが初めて議事進行を担った。
議会における比較第一党であり、反体制派から穏健的な野党へと、政府との過度な対立を避ける現実的な姿勢をとっていたが、2011年2月14日の「怒りの日」抗議デモ隊への治安部隊の弾圧による死者の発生に抗議して議会審議のボイコットを宣言した。同16日の真珠広場のデモ参加者の強制排除および実弾発砲による弾圧に抗議して、他の野党系団体と合同政治委員会を設置し、同18日に政府に対する改革を要求して全議員が辞職を表明した。3 月14日のデモ鎮圧後、ハマド国王の意向を受け、改革と国内融和のためにサルマーン皇太子が主導して7月2日から開催された国民対話に参加した。しかし、国内各界代表300名の枠のうち、野党側には25名、そのうちウィファークには5名しか与えられず、野党側の意見が反映されない状況や、参加に対する支持層の批判の高まりを受け国民対話から離脱した。その後、野党系4団体とともに、政府に改革を求める「マナーマ文書」を発表した。同文書では、民選の政府、公正な選挙制度、一院制の議会(上院の廃止)、シーア派住民に対する差別の撤廃を求めている。特に差別の撤廃に関しては、政府が政治的理由による外国人帰化を進めて、スンナ派に有利なように人口動態のバランスを変えようとしていると批判している。
国民対話を離脱後も、サルマーン皇太子を通じた対話と改革の可能性を模索する執行部に対する支持層からの批判、特に若年層からの突き上げに苦慮する一方、2014年選挙をボイコットして以降は騒乱の責任をウィファークに求める軍と警察による弾圧が強まった。2014年12月28日、4期目の代表に選出されたアリー・サルマーンが逮捕された。一審判決は無罪であったが、二審では憎悪を煽動し、不服従を助長し、公的機関を「侮辱」したとして刑期5年の有罪判決を受けた。のちに9年に刑期が延長されたうえ、2018年11月4日にはこじつけともいえるカタルへのスパイ協力を理由に終身刑を宣告された。組織としては2016年6月14日に裁判所から活動停止命令を受け、同年7月17日には解散命令を受けて、事務所建物と銀行口座を接収された。
自由と民主主義のための権利運動Harakat Haqq Harakat al-Hurriyat wa al-Dimuqratiyah (ハック)
ウィファークの2006年選挙参加に反対し、ウィファークから離脱した勢力が設立した政治団体で、2006年以降、選挙には参加していない。メンバーの多くは共和制を主張し、民主化以前には海外追放状態であった。多くは民主化開始とともに帰国したが、議会選挙への参加をめぐって国内活動組と意見が一致できずに離脱した。政府からは非合法組織扱いされ、指導者層は国外へ逃れ、国内の活動家は多くが政治犯として収監されている。2011年2月26日、指導者のハサン・ムシャイマHasan Mushaymaが恩赦によりロンドンから帰国し、真珠広場の抗議デモに加わったことは、王政打倒の主張とともに、デモ隊の要求が過激化する一因ともなった。
イスラーム連帯協会Jamaiat al-Rabitah al-Isalmiyah(ラービタ)
ウィファークに次ぐシーア派の政治団体。政府批判の姿勢もとるが、シーア派イスラーム主義のなかでは穏健派で、2002年議会では与党系とみなされ、創設者のスレイマーン・アルマダニーSulayman Madani(法学ウラマー)は政府と近い関係を有していたともいわれている。2002年選挙では3議席獲得し、イスラーム会派に属していた。
イスラーム行動協会Jamaiat al-Amal al-Islami(アマル)
上記ラービタから離脱した勢力が設立した政治団体。より教条的といわれる。政治的志向ではウィファークに近く、2002年選挙をボイコットした。2006年選挙以降はウィファークの候補者を支援した。支持基盤は北部県が中心。2011年2月の抗議デモを支持し、ウィファーク、ワアドを中心とする合同政治委員会に加わった。ハマド国王が退位するまで対話に応じない姿勢を示したため、主なメンバーは逮捕され、組織も解体された。
スンナ派イスラーム主義
イスラーム国民フォーラムJamiat al-Minbar al-Watani al-Islami(ミンバル)
バハレーンのムスリム同胞団を母体とする政治団体。1928年にエジプトのムスリム同胞団がバハレーンに接触して以降、長くその勢力を維持している。イスラミストのなかでは穏健派で、与党系とされていたが、アルコール販売規制等でウィファークと共闘する場面もあった。2002年選挙で7議席、2006年選挙で7議席、2010年選挙で2議席獲得。支持基盤はムハッラク県と旧中部県の一部。
イスラーム真正協会Jamaiat al-Asalah al-Isalmiyah(アサーラ)
シャリーア(イスラーム法)の適用を厳格に求めるサラフ主義(サラフィー)の政治団体。与党系とみられるが、政府に対する批判も多い。2002年選挙で5議席、2006年選挙で5議席、2010年選挙で3議席獲得。支持基盤はムハッラク県と南部県。
イスラーム評議会協会Jamaiat al-Shura al-Islamiyah
1992〜2002年の諮問評議会におけるスンナ派ウラマー層が設立した団体。2002年選挙で2議席獲得した。2006年選挙で当選者はなかったが、選挙後に代表は上院議員に任命された。2019年8月に自主解散を決定。
世俗リベラル主義
国民民主行動協会Jamaiat al-Amal al-Watani al-Dimuqrati(ワアド)
アラブ民族主義の政党。野党の中ではウィファークに次いで影響力が大きい。指導者はスンナ派であるが、支持者にはシーア派も多く、宗派を超えた国民の連帯を訴える上で、ワアドの指導者層の果たす役割は大きい。創設者はアブドゥッラフマン・ヌアイミーAbd al-Rahman al-Nuaimi。ウィファーク他とともに2002年選挙をボイコットし、2006年選挙と2010年選挙には参加したが、書記長(代表)のイブラーヒーム・シャリーフIbrahim Sharif、バハレーン大学教授・女性評議会の議長を務めたムニーラ・ファハロMunira Fakhruの有力候補がともに僅差で落選した。支持基盤はムハッラク県と旧中部県(イーサー・タウン)の一部。
2011年2月の抗議デモを支持し、ウィファークとともに合同政治委員会を設置して政府に改革を要求した。しかし、抗議デモが鎮圧されて間もなくの3月17日にイブラーヒーム・シャリーフが逮捕された。彼は2015年6月20日に恩赦により釈放されたものの、2016年の2月24日に政府に改革を求める演説を行い再び逮捕された。組織としては2017年5月31日に裁判所より解散命令を受けた。
進歩民主フォーラムHayat al-Minbar al-Dimuqrati al-Taqaddumi(タカッドミー)
旧共産主義勢力の政治団体。2002年選挙で3議席を獲得し、2006年選挙では、会派として国民統一戦線(ワフダ)を結成したが、当選者はなし。北部県の一部が支持基盤。2011年2月の反政府デモでは、ウィファーク、ワアドを中心とする合同政治委員会に加わった。
民主国民協会al-Tajammu al-Qawmi al-Dimuqrati(タガンムウ)
左派民族主義の政治団体。2002年選挙をボイコット。2006年選挙、2010年選挙での当選者はなし。2011年2月の反政府デモでは、ウィファーク、ワアドを中心とする合同政治委員会に加わった。
国民公正運動Harakat al-Adalah al-Wataniyah(アダーラ)
2006年5月にワアドから離脱した弁護士のアブドッラー・ハーシムAbdullah Hashimが創設。左派民族主義の団体。野党系であるが、ウィファークの対抗勢力となることを目指していたとされる。議会選挙での当選者はなし。支持基盤はムハッラク県。
国民行動憲章協会Jamaiat Mithaq al-Amal al-Watani(ミーサーク)
2002年選挙時に、政府支持層が設立した団体。選挙での当選者はないが、上院での最大勢力で、2006年選挙後の任命でも10名が上院議員に任命された。2011年の抗議デモには批判的な立場を表明した。
イラン/政党
革命後のイランにおける政党は極めて脆弱である。王制下のイランでは「復興党」(前身「新イラン党」)と称する国王が設立した官製与党が存在し、与党政党員が行政から立法まで国家機構をほぼ独占していた。革命後のイランでは、「復興党」は解党されその党首(兼首相)が法廷で処刑された。さらに旧与党政党員は全ての選挙での立候補資格が法律で禁じられている(Abrahamian 1982)。旧与党を粛清した後、イスラーム共和制において新たに官製与党が設立されることはなかった。つまりイスラーム共和制下のイラでは大統領選挙で必ず勝利する、あるいは各種議会を独占するような覇権政党が存在しないのである(Brownlee 2007: 64)[1]。
このような政党の脆弱性はイランにおける政党の乱立に見て取れる。2011年までに200を超える政治組織が内務省によって政党の認可を受けてきた[2]。換言すれば政党申請をしている政党数は少なくとも200を超えるということである。これらの政治組織は、必ずしも「党」を名乗るものばかりではなく、「協会」、「結社」、「集団」、「同盟」、「組織」、「機構」など様々な名称を採用している。イランにおける政党の活動とは各種選挙における推薦候補の発表である。その意味で政党とは選挙において提示される公式のラベルによって識別され、選挙を通じて候補者を公職に就けることができる政治団体であるとする政党の最小限定義には当てはまる。しかし、イランの政党はいずれも単独で勝利(大統領選挙だと過半数を獲得)するだけの有権者の支持層が不在であり、短命に終わるか、分裂、結合を繰り返している。このような背景からイランの政党は名ばかりの政党にしか過ぎず、政党政治が定着していないという見方がイラン国内外の研究で示されている(Naqībzāde and Soleimānī 1388; Razavi 2010; 松永2002) 。
イラン・イスラーム共和国の憲法第26条は、「政党、協会、政治団体、職能団体、イスラーム協会、および認定された宗教少数派の協会」の結成を認めており、1981年8月には国会が、「政党・結社活動法」(正式名称は、「政党・協会・政治団体・職能団体・イスラーム協会・宗教少数派団体活動法」、以下、政党法)を可決している。
しかし1981年の政党法に基づき、初めて政党・結社に対する活動認可が出されたのは、1989年7月のことである。1980年代の前半、新体制の定着過程においては、革命実現のために1979年2月に設立されたイスラーム共和党(IRP)以外の政党は、徐々に解党処分に追い込まれるなど淘汰されていった。革命の過程では共に闘っていたイラン自由運動(党首は革命暫定政権首相のバーザルガーン)も、宗教指導者シャリーアトマダーリー師のムスリム人民共和党も、武装イスラーム組織モジャーヘディーネ・ハルク(MKO)も、トゥーデ党(共産党)も、1983年2月までには全て、段階的に排除された。その後1987年6月IRP幹部が「当初の目的(イスラーム共和制の確立)が達成された」と発表し、IRPは活動を停止した。 活動停止の一因には内部分裂があるとも指摘されている。
その後1989年7月には、1981年政党法に基づいて初めて、4団体(「闘う聖職者集団(MRM)」、「フェダーイーヤーネ・エスラーム協会」、「ムスリム作家芸術家協会」、「イラン・イスラーム共和国女性連盟」)が認可を受けた。これらの団体の設立申請書類の審査を行ったのは、1981年政党法の第10条に定められている、通称「第10条委員会」である。政党法第10条は、政党・結社の活動申請を審査し、またその活動を監督する委員会を内務省に設置すること、また、そのメンバーは、検察庁、司法最高評議会、内務省から1名ずつ、及び国会から2名の代表計5名で構成されることを定めている。
1989年7月に活動を開始して以降、第10条委員会は一貫して政党・結社の認可に関わっており、政党・結社の活動内容を不当と見なした場合には、当該政党に対し解党命令も下している。たとえば2010年4月、第10条委員会は、2009年6月の大統領選挙以降の混乱を「主導した」として、改革派の主要政党イスラーム・イラン参加戦線(IIPF)、及びイスラーム革命モジャーヘディーン機構(IRMO)を解党処分とした。旧IIPF、IRMO政党員は2016年第10期国会選挙前候補者を擁立するために「国民連合党」を設立し内務省の認可を受けたが、「国民連帯党」のほとんどの政党員が事前の立候補資格審査で失格になるなど政党として脆弱なままである。
以下、イランの主な政党を右派(保守派、原理派)、左派(改革派)、それらの間をとる中道派の三つに分けて紹介する。派閥毎に分ける理由は、イラン研究では政党政治よりも派閥政治(factional politics)が分析対象となる傾向(Dārabī 1397)があるからである。特にポスト・ホメイニー期において政治権力の分極化(decentralization)が進んだという議論(Buchta 2000; Moslem 2002; Almadari 2005)や、体制内エリート(保守派)の内部分裂(Bakhtiari 1993; Sarabi 1994; Wells 1999; Fairbanks 1998; Fazili 2010)、体制外エリート(改革派)の結束力・組織力の低下(Kadivar 2013; Bayat 2017; Rivetti 2019)によって派閥政治が選挙毎に多様化する過程が指摘されている。
主要政党・政治団体
右派・保守派
闘う聖職者協会(JRM)
1977年、王制打倒を目指す聖職者たちにより結成。亡命中のホメイニー師の演説を、主にカセットテープなどを通じ、モスク、大学、バーザールなどに広め、様々なデモ・集会も組織し、革命の達成に重要な役割を果たす。結成時の中心的なメンバーは、組織の取りまとめに力を発揮したベヘシュティー師、および革命のイデオローグと呼ばれたモタッハリー師であり、他にもハーメネイー現最高指導者、ラフサンジャーニー師(元大統領、元体制利益判別評議会議長)、バーホナル師(ラジャーイー政権首相)、マフダヴィー・キャニー師、ナーテグヌーリー師などが結成メンバーに名を連ねた。JRMは今日、イスラーム連合協会、イスラーム・エンジニア協会、ゼイナブ協会などを「同傾向の」組織と位置づけ、これらの組織と密接な協力関係を維持しているが、内務省の認可は受けていない。事務総長(党首)はモヴァッヘディーケルマーニー師が2014年10月の死去まで務めていた。後継はメフダヴィーカーニー師である。新党首メフダヴィーカーニーは1992年から2005年まで最高指導者ハーメネイー師の革命防衛隊における名代を務めていた。
政党HP https://rohaniatmobarez.ir/
イスラーム連合協会
1960年代に結成され、バーザールを拠点としてホメイニーの反王制活動を支持するデモなどを組織した。1964年にホメイニーが逮捕・国外追放されて以降は地下活動を開始し、モタッハリー師らの支援を受けて、反王制活動を継続した。革命後はIRP内部で活動するが、87年のIRP解党後は独自の活動を継続し、今日も原理派勢力の重要な一角を成す。2019年2月にアサドッラー・バーダームチアーン(2期、8期国会議員)が新事務総長に選出された。機関紙『ショマー』を発行。
イスラーム・エンジニア協会
1988年結成。認可年1991年。事務局長はモハンマド・レザー・バーホナル(第8期国会副議長)が務め、アフマディーネジャード大統領もメンバーに名を連ねる。その他の有力メンバーは、モルテザー・ナバヴィー、アリー・ラーリージャーニー(第8、9、10期国会議長)、モハンマド・ジャヴァード・ラーリージャーニー、モフセン・ラフィークドゥースト、アリー・ナギー・ハームーシー(前イラン商工鉱会議所会頭)などがいる。今日では開発者連合の一角を構成している。
政党HP http://www.mohandesin.ir/
イスラーム革命献身者協会
2005年結成。その源流は、1979年月に結成されたイスラーム革命モジャーヘディーン機構の右派系勢力に求められると言われている。2017年9月事務局長ジャヴァード・アーメリーが務める。アフマディーネジャード元大統領と同じ「原理派」に属するが、2005年の第9期大統領選挙ではガーリーバーフ候補を支持しており、アフマディーネジャードに対しては批判的なスタンスを維持している。
イスラーム・イラン開発者連合
革命の理想に忠実で、かつ「イスラーム的イラン」の開発・繁栄を実現する実務能力を有することを掲げる、保守派系政治団体の連合体。2003年の第2期地方評議会選挙に際して結成され、第2期地方評議会選挙及び翌2004年の第7期国会選挙で勝利を収め、2005年のアフマディーネジャード大統領誕生の素地を作った。
イスラーム革命永続戦線
2011年7月に設立され2014年9月に内務省の認可を受ける。2009年に生じた大規模な不正選挙デモのような混乱を阻止し、革命の理想、イスラーム体制の安定を目指し設立されたとされる。モルテザー・アーガーテヘラーニーが現在まで事務局長を務める。2013年、2017年の大統領選挙ではそれぞれ現ロウハーニーの対抗候補を支持した。
政党HP:http://www.jebhepaydari.ir/main/
左派・改革派
闘う聖職者集団(MRM)
1988年に結成され、1989年7月に内務省の認可を受ける。JRMと袂を分かった「左派」系ウラマーたちにより結成された。ハータミー元大統領もメンバーの一人。初代事務総長は、2000年選出の第6期国会で議長を務めたキャッルービー師。その後2005年にキャッルービー師がMRMを脱退すると、同年6月、モハンマド・ムーサヴィー・ホイーニーハー師(1979年11月の在テヘラン米国大使館占拠事件を主導した学生達の精神的指導者)が新たな事務総長に選出された。
イラン・イスラーム革命モジャーヘディーン機構(IRMO)
1991年に設立され、同年認可を受ける。その源流は、王制打倒という目的のもと共闘していた7つのイスラーム主義組織が革命直後(1979年4月)に結成した、イスラーム革命モジャーヘディーン機構(86年解散)の左派系勢力に求められる。1994年から発行を開始した機関紙『アスレ・マー』は、MRMのホイーニーハー師が発行する日刊紙『サラーム』に並ぶ、左派(改革派)勢力のマウスピースとなった。第10期大統領選挙ではムーサヴィー元首相を支持したものの敗北し、選挙後にはベフザード・ナバヴィー及びモスタファー・タージザーデなどの主要メンバーが軒並み逮捕された。2010年4月、2009年6月の第9期大統領選挙後の混乱を扇動したとして、第10条委員会から解党命令が出された。
イスラーム・イラン参加戦線(IIPF)
1998年に、97年に大統領に選出されたハータミー師の選挙キャンペーンを支えた活動家たちにより設立される。その中心的なメンバーには、1979年11月の在イラン米国大使館占拠事件に関与した「イマームの路線を支持する学生たち」の元メンバーも含まれた。1999年認可。初代事務総長はハータミー前大統領の実弟であるモハンマド・レザー・ハータミーが務めた。2006年、第6期国会の外交・安全保障委員会委員長を務めたモフセン・ミールダーマーディが第2代事務局長に就任。しかしミールダーマーディは、2009年6月に実施された第10期大統領選挙後の混乱を扇動したとして、懲役6年(及び10年間政治活動禁止)の実刑判決を受け、IIPF自体に対しても、2010年4月、第10条委員会から解党命令が出された。
国民信頼党
2005年6月の第9期大統領選挙においてMRMの支持を得られず落選し、MRMと袂を分かったキャッルービー元国会議長により、同2005年に設立された。改革派を名乗りつつ、(IIPFなどの)「急進」改革派(「急進」とは、体制の枠組み自体を疑問視することを意味する)とは一線を画すと明言している。2008年の第8期国会選挙では改革派連合には加わらず、独自のリストを作成した。日刊紙『エッテマーデ・メッリー』紙を発行していたが、同紙は2009年8月、発行停止処分を受けた。
イスラーム労働党
1996年に、労働組合(「労働者の家」)の指導者たちにより設立。1999年認可。アリーレザー・マフジューブ(5、7-10期国会議員)が現在党首を務めている。ニュースサイトILNA(Iran Labor News Agency)を運営。
中道派・現実派
建設の奉仕者党
1996年1月、当時のラフサンジャーニー政権の閣僚ら16名が結成宣言を行った「建設に仕える者たち」を原型とする政党。この宣言では「建設に仕える者たち」が、同96年3月に予定される第5期国会選挙に積極的に関与していくことが明言された。その後、このグループの旗揚げに加わった現職大臣は身を引き、改めて「建設の奉仕者たち(カールゴザーラーン)」という名称が採用され、さらに、1999年8月に内務省の認可を受けるに際し、名称は「建設の奉仕者党」と改められた。建設の奉仕者党を構成するのはラフサンジャーニー政権時代の閣僚経験者を含むテクノクラートであり、党首は元テヘラン市長のゴラーム・ホセイン・キャルバースチーが務めている。 中央評議会メンバーの1人であるモハンマド・アトリヤーンファルは、2009年大統領選挙でムーサヴィー氏支持に回ったが、選挙後に「体制転覆を企てた」として逮捕された。
政党HP https://www.kargozaran.net/fa/
中庸発展党
1999年設立。党首はモハンマド・バーゲル・ノウバフト(ロウハーニー政権期副大統領)が務める。中心メンバーはノウバフトの他、アクバル・トルカーン元国防軍需相(第1期ラフサンジャーニー政権)、モルテザー・モハンマド・ハーン元経済財務相(第2期ラフサンジャーニー政権)など閣僚経験のあるテクノクラートが占める。
イスラーム・イラン公正発展党
レザー・タラーイーニーク元国会議員が党首を務める。タラーイーニークは2006年の国会選挙では「包括連合」の旗上げに関わり、テヘラン選挙区から出馬したが、落選した。タラーイーニークは現在、体制利益判別評議会司法・評議会担当書記を務める。
[1] ただし選挙で選ばれない最高指導者の任命機関(例:司法府、監督者評議会、軍・大学・メディアなどにおける最高指導者名代)はJRMとJMHEQの政党員が独占している。また民選機関であるが高位のイスラーム法学者のみ立候補を許される専門家会議(最高指導者の選出・諮問機関)もこれら二つの政党で占められている。
[2] 2011年10月14日イラン国内メティア「ハバルオンライン」による政党活動の分析(https://www.khabaronline.ir/photo/177829/)を参照。
参考文献
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<注>
本稿は、坂梨祥「イラン・イスラーム共和国」松本弘編『中東・イスラーム諸国 民主化ハンドブック2014 第1巻 中東編』人間文化研究機構「イスラーム地域研究」東京大学拠点, 2015, pp. 37-54. を最新のものに更新したものである。
モロッコ/政党
(1) 政党制度
2011年に改定された憲法では、第7条で、「政党は男女両方の市民の政治的枠組・組織であり、市民の国民生活への参加を促進し、公的な事項の運営をおこなう。また政党は、憲法の枠組に沿って、民主的な手段で、多元主義と政権交代を基盤として、有権者の意思の表明に協力し、権力の行使に参加する。政党の綱領と政党活動は、憲法と法律を尊重している限り、自由である」と定められている。また同じく第7条で、一党制は合法ではないと定めている。
2006年に公布された政党法では、「いかなる政党も、特定の宗教・言語・民族・地域を基盤にすることはできない。またあらゆる形態の差別に基づいたり、人権に反することはできない」(第4条)と定められている。特定の地域の利益擁護に偏った政党が誕生することを避けるために、政党法第8条では、創設時に必要とされる300名以上の党員の住所が、全国の半数以上の地域にあり、一つの地域における党員の割合が5%以上であることが、新党結成条件の一つとされている。政党法第57条では、武装してデモを行うこと、武装部門や民兵を組織すること、体制転覆やイスラーム、王制および領土の一体性への攻撃を目的とした場合は、内務省はラバトの行政裁判所に要請し、その政党を解党することができると定められている。
(2) 政党
現在モロッコには30を超える政党があり、様々な綱領をかかげている。以下、主要政党に関する情報をまとめておく。
イスティクラール党(Hizb al-Istiqlal, Parti Istiqlal )
政党HP: http://www.partistiqlal.org/
1944年に設立された民族主義政党。「イスティクラール」は「独立」の意。現在の政治路線は保守系で、2017年11月から党首はニザール・バラカ。。
1934年にモロッコ最初の政党として国民行動連合(Kutla al- ‘Amal al-Watani, Comité de l’Action Nationale)が誕生した。国民行動連合は、保護領政府が出したベルベル勅令に反対して、モロッコの独立運動を指導したアッラール・ファースィーやアフマド・バラフレージュらが結成した政党で、保護領政府に対して政治や社会改革案を提出したが、指導者らは弾圧され、党は非合法化された。アッラール・ファースィーらは、1937年に国民行動連合に代わって、国民改革党を結成し、これが後にイスティクラール党へと発展した。
2007年9月7日の議会選挙では、52議席を獲得し第一党となり、国王は同年9月19日にイスティクラール党党首であるアッバース・エルファースィーを首相に任命した。アッバース・エルファースィー首相は、ムハンマド六世が国王になってから任命した二人目の首相であるが、前任者であるイドリース・ジェットゥは過去に国務大臣をつとめ、政治的なキャリアもあるものの、どの党にも属していない実業家であり、首相任命の前に行われた2002年9月の議会選挙では、大衆社会主義勢力連合、イスティクラール党、公正発展党、国民独立連合の順で議席を獲得しており、ジェットゥ氏の首相任命は選挙結果を尊重したものとはいえなかった。
大衆諸勢力社会主義連合(al-Ittihad al-Ishtiraki lil-Qwat al-Sha‘biya, USFP:Union socialiste des forces populaires)
政党HP:
- http://www.usfp.ma/index_ar.php (アラビア語)
- http://www.usfp.ma/ (フランス語)
1975年にUNFP(Union Nationale des ForcesPopulaires)から分離して設立された左派政党。2008年11月、当時のアッバース・エルファースィー内閣で法相をつとめていたアブドゥルワヒド・ラーディーが党首に選出された。同党は、1998年から2002年まで、当時のアブドゥルラフマーン・アル・ユースフィー党首が首相をつとめ、政権を担当した。
アブドゥルラフマーン・アル・ユースフィーは、もともとイスティクラール党のメンバーで、イスティクラール党の左派グループに属していたマフディ・ベン・バルカ、アブドゥルラヒーム・ブアビド、アブダッラー・イブラヒームらと共に1959年にUNFPを設立した。UNFP は王制にとっての反対勢力であったため、ユースフィーも逮捕され、その後釈放されたが、マフディ・ベン・バルカがパリで行方不明になった事件の裁判に参加するためパリを訪れたことをきっかけに、1965年から15年間パリで亡命生活を送る。1980年に恩赦を受けてモロッコに帰国。1992年からUSFPの党首となる。1997年の議会選挙で、USFPは第一党となり、1998年より首相をつとめた。当時の国王ハサン二世が、かつて敵対していたユースフィーを首相に任命したことは、大きな話題となった。
2007年の議会選挙では、38議席を獲得するにとどまり、第5党となった。2011年の議会選挙でも、獲得議席数は39で、同じく第5党となった。 党首は2012年12月からイドリース・ラシュガル。同氏は2010年1月から2012年1月まで、アッバース・エル・ファースィー内閣で議会関係担当大臣を務めた。
公正発展党(Hizb al-‘Adala wa at-Tanmiya , PJD:Parti de la justice et du développement)
政党HP:http://www.pjd.ma/
1998年に設立されたイスラーム主義的傾向の政党。2007年より党首はアブディッラー・ベンキラン。1967年に設立された大衆立憲民主運動(MPCD:Mouvement populaire, constitutionnel et démocratique )を前身としている。
2007年の議会選挙では、46議席を獲得する躍進をみせ、イスティクラール党に次ぐ第2党となった。
2011年11月25日に実施された議会選挙では、107議席を獲得し、第1党となった。2011年に発布された新憲法で定められた通り、下院第一党となった同党の党首であるベンキランが首相に就任した。
現在の党首は、サアードディーン・オトマーニー現首相がつとめる。
大衆運動党(Hizb al-Haraka al-Sha‘biya , MP:Mouvement populaire)
政党HP:http://www.alharaka.ma/
1957年設立の中道左派政党。現在の党首は、モハンド・ラエンセル。
1958年の公的自由に関する勅令によって、1959年に合法な政党となった。立憲王制、領土の一体性を支持する。またモロッコ国王の一側面である「信徒の指揮者」としての役割は、モロッコ社会の安定に不可欠であるとするが、他宗教の共存はモロッコの伝統であるとし、あらゆる形での過激主義や宗教の政治利用に反対している。またアマジグ(ベルベル)文化は、モロッコの文化的な源であるとし、アマジグの言語も、モロッコの国語として憲法に明記されることを要求している。
2007年9月7日の議会選挙では、41議席を獲得し、第3党となったが、2011年の議会選挙では、32議席まで議席を減らし、第6党となった。
国民独立連合(Hizb al-Tajammu‘al-Watani lil-Ahrar , RNI:Rassemblement national des indépendants)
政党HP:https://rni.ma/fr/
1978年(1979年)に設立された中道右派政党。党首は、2016年10月からアズィーズ・アハンヌーシュ。同氏は2007年から2017年まで農業・海洋漁業大臣を、2017年から現在まで農業・海洋漁業・地域開発・水資源・森林大臣を務めている。党の創設者であるアフマド・オスマンは、1972年~1979年まで首相をつとめた後、1984年~1992年まで国会議長をつとめた。
2007年9月7日の議会選挙では、39議席を獲得し、第4党となった。2011年の議会選挙では、獲得議席数を52に増やし、第3党となった。
立憲連合(al-Ittihad al-Dusturi, UC:Union constitutionnelle)
1983年に設立された保守・リベラル政党。創設者のマアティ・ブアビドは、1979年から1983年まで首相をつとめた。現在の党首は、ムハンマド・アビド。2007年の議会選挙では、27議席、2011年の議会選挙では23議席を獲得した。 党首は、2015年からムハンマド・サージド。同氏は2017年から2019年まで観光・航空運輸・手工業・社会経済大臣を務めた。
正統近代党(Hizb al-Asala wal-Mu‘asila , PAM:Parti authencité et modernité)
政党HP:http://www.pam.ma/
党首は、2020年2月から弁護士のアブドゥラティーフ・ワフビ。
2008年に、アハド党(le Parti al ahd), 環境開発党(le Parti de l’environnement et du développement)、自由同盟(l’Alliance des libertés)、開発のための市民イニシアティブ(le Parti initiative citoyenne pour le développement)、国民民主党(PND: Le Parti national démocrate)の五つの政党を連合して設立された。設立には、現国王であるムハンマド六世の親しい友人であるフアド・アリー・アル・ヒンマが深くかかわっている。設立の翌年2009年に実施された地方選挙では、イスティクラール党や国民独立連合を抜いて、第一党となり、全議席の21.7%にあたる計6015議席を獲得した。初の議会選挙となった2011年の選挙では、47議席を獲得し、第4党となっている。
その他の諸政党
- 進歩社会主義党(PPS: Parti du progrès et du socialisme ) は1974年にアリー・ヤータが設立した左派政党。党首は2010年からムハンマド・ナビール・ベンアブダッラー。同氏は第一次、第二次ベンキラン内閣で2012年から2017年まで住宅関連大臣を、第一次オトマーニ内閣で国土整備・都市化・住宅・都市政策担当大臣をつとめた。
- モロッコ共産党(PCM:Parti communiste marocain)は1943年に設立されたが、1952年に非合法化され、1969年に解放社会主義党(PLS: Parti de la libération et du socialisme)として再結成され、1974年に進歩社会主義党(PPS: Parti du progrès et du socialisme )として合法化された。
- 民主独立党(PDI:Parti démocratique et de l’independence)イスティクラール党から分離して、1946年に設立。
- 行動党(PA: le Parti de l’action)1974年設立の社会主義政党。
- 中央社会党(PCS: le Parti du centre social)1984年設立の社会主義政党。
- 前衛民主社会党(PADS :le Parti de l’avant garde démocratique et social)1991年設立の社会主義政党。
- 民主社会運動(MDS: le Mouvement démocrate social )1996年設立の社会主義政党。
- 民主勢力前線(FFD:le Parti du front des forces démocratiques)1997年設立。
- 希望党(PE :Parti de l’espoir)1999年設立。
- 市民勢力党(PFC :le Parti des forces citoyennes)2001年設立。
- 統一国民会議(CNI: le Congrès national ittihadi )2001年設立。
- 改革発展党(PRD: le Parti de la réforme et du développement)2001年設立。
- 再生平等党(PRE:le Parti du renouveau et de l’equité)2002年設立。
- モロッコ自由党(PML: le Parti marocain libéral)2002年設立。
- 労働党(PT :Parti travailliste) 2005年設立。
- 復興善行党(PRV:Parti de la renaissance et de la vertu) 2005年設立。
- 社会主義統一党連合(PSU:Parti socialiste unifié )2005年設立。2002年、民主大衆行動機構(OADP:l’Organisation de l’action démocratique et populaire)、民主独立運動(MDI:le Mouvement des démocrates indépendants)、民主運動(MPD:le Mouvement pour la démocratie)が連合して、統一左派社会主義党(PGSU:le Parti de la gauche socialiste unifiée)を創設。2005年にPGSUがPSUに発展解消。
- 社会党(PS:Parti socialiste) 2006年設立。
- 民主社会党(PSD:Parti de la société démocratique) 2007年設立
- 環境と持続可能な発展党(PEDD:Parti de l’environnement et du développement durable) 2009年設立。
- 緑の左派党(PGV : Parti de la gauche verte)2010年設立。
- 新民主党(PND : Parti des Néo-Démocrates)2014年設立。
上記の政党と統合した諸政党
- 国民民主党(PND: Le Parti national démocrate)1979年設立。後に正統近代党(PAM)に統合。
- 国民大衆運動(MNP:le Mouvement national populaire)1991年に設立され、2002年の議会選挙で18議席を獲得したが、後に大衆運動党(MP)に統合。
- 社会民主党(PSD: le Parti socialiste démocratique )1996年設立。後にUSFPに統合。
- 民主連合(UD:l’Union démocratique)2001年に設立。後に大衆運動党(MP)に統合。
- 自由同盟(ADL:l’Alliance des libertés)、開発のための市民イニシアティブ(ICD: Initiatives citoyennes pour le développement)、アハド党(le Parti Al Ahd)、環境開発党(PED :le Parti de l’environnement et du développement )はいずれも2002年設立され、後に正統近代党(PAM)に統合。
シリア/政党
既述のように、現憲法はバアス党の指導的立場を規定していないが、2012年以降に3回実施された国会議員選挙結果に見られたように、同党がサルトーリの言うところの「支配政党」である実態は変化していない。
バアス党は、ミシェル・アフラク(ギリシャ正教徒)及びサラーフッディーン・アル=ビタール(スンナ派ムスリム)らが1940年代初期に、ダマスカスで活動を開始したアラブ民族主義の勉強会を母体とする1。その後、1947年には結党大会が開かれ、バアス党が政党として正式に発足し、その党綱領である「統一、自由、社会主義」は下位中産階級に広くアピールした2。バアス党結党時に16歳であったH・アサドは学生党員として加わり、党内で以後めきめきと頭角を現していき、1963年のシリアにおける「バアス革命」に際しては、ダマスカス当方のドゥマイル空軍基地攻略作戦を主導し、革命の成功に大きな役割を果たした3。この結果、シリアでは現在に至るまで58年間バアス党政権が続いているが、「バアス革命」後しばらくの間は党内で熾烈な権力闘争が発生した。そうしたなかで、H・アサドが最終的に勝ち残り、1970年のクーデタでバアス党内における実権を掌握した。以後、バアス党内での権力闘争は影を潜め、H・アサド大統領、さらにはB・アサド大統領の権威に対する目立った挑戦は、H・アサドの入院に伴い、実弟リフアト・アル=アサドが実権掌握を試みた結果生じた「兄弟間の対立」(1983年秋~1984年春)以外に、バアス党内からは発生していないのである。