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2019年1月18日

インドネシア/政党

総選挙に参加できる政党は全国規模の組織を有する必要がある。政党法に定められた要件を満たした法人として法務・人権省に登録した上で、2012年改正の政党法ではすべて州に支部を設置し、その州内の4分の3以上の県・市に支部を設置することなどが義務づけられている。2004年総選挙では24政党、2009年総選挙では38政党が参加した。2009年総選挙より、歴史的経緯からナングロ・アチェ・ダルサラーム州に限り地方政党の選挙参加が認められた。2014年総選挙では参加政党は12まで減ったが、議席獲得政党は10に上った。同選挙では得票率2割を超える政党はなく、国会は一層の多党化が進んだ。

2008年の選挙法改正では代表阻止条項が規定する最低得票率が従来の1.5%から2.5%、2012年には3.5%に引き上げられ、小規模政党は一層不利になった。従来の制度では最低得票率に満たない政党は次回の総選挙への参加を禁じられていたが政党名を変えるだけで済み、多党化を防ぐ実質的な効果はなかった。2009年総選挙に際しては得票率2.5%以下の政党は議席も配分されなくなった。この結果、1999年総選挙から参加を続けていた月星党は国会で議席を失った。

インドネシアの政党は大きく世俗ナショナリスト系とイスラーム系に区分されてきた。1955年総選挙では国民党と共産党、マシュミ党とNU党が四大政党を形成した。こうした区分は依然として有効であるものの、両者の境界は曖昧になりつつある。ナショナリスト系政党は敬虔さをアピールし、イスラーム系政党は国家や社会のイスラーム化よりも反汚職や大衆の福祉などを訴えるようになった。ジョコ・ウィドド政権では、闘争民主党、ゴルカル党、民族覚醒党、開発統一党、ナスデム党、ハヌラ党が与党連合、グリンドラ党、福祉正義党が野党連合を組んでいる。野党連合は在野のイスラーム急進派を取り込み、政権批判を強めているが、与党連合にもイスラーム系政党が存在する。

2014年選挙の結果国会に議席を獲得したのは以下の政党である。このうち民主主義者党は2004年、グリンドラ党とハヌラ党は2009年、国民民主党は2014年に初参加した新党である。

闘争民主党(Partai Demokrasi Indonesia Perjuangan, 略称PDI-P)

スハルト時代の野党インドネシア民主党を前身とする。インドネシア民主党は1973年の「政党簡素化」によって、世俗ナショナリスト系やキリスト教系の諸政党が統合されたものである。1997年総選挙に際し、影響力を強めつつあったスカルノ初代大統領の娘メガワティが体制側の介入によって党首の座を解任された。闘争民主党はこのメガワティを中心とした分派によって結党された。1999年総選挙では第1党になり、2001年のワヒド大統領罷免を受けてメガワティが大統領に就任した。しかし、メガワティの大統領としての資質、同党の未熟な議員による汚職事件や私兵組織による廃退行為が失望や反発を生み、2004年総選挙では大幅に得票を減らした。メガワティは2004年、2009年の大統領選挙に出馬したが、いずれもユドヨノに敗れている。ジョコ・ウィドドを大統領候補に戦った2014年総選挙では第一党に復帰したが、得票率は2割に満たなかった。2014年10月に成立したジョコ・ウィドド政権ではメガワティの後継者と目される娘のプアン・マハラニが初めて入閣した。

ゴルカル党(Partai Golongan Karya, 略称Golkar) 

1964年にインドネシア共産党に対抗して設立され、スハルト時代には翼賛組織として独占的な「与党」となったゴルカル(職能集団)は民主化後、「党(Partai)」を組織名に加えて再出発した。2009年総選挙まで毎回得票を減らしたが、地方まで浸透する最も安定的な党組織と支持層を維持している。非ムスリムの国会議員もつねに1~2割は存在するが、とりわけジャワ以外ではスハルト体制期の長年の支配によって、イスラーム団体関係者も党内に多く抱える。ユスフ・カラの大統領選敗北後、2009年10月に実業家で前国民福祉担当調整相のアブリザル・バクリが党首に選出された。2014年大統領選挙では、ジョコ・ウィドドの副大統領候補となったユスフ・カラではなく、プラボウォ組を支持、野党連合に加わった。ジョコ・ウィドド政権発足後、ゴルカル党は政権支持をめぐって分裂したが、結局与党連合に加わった。近年は闘争民主党への依存を減らしたいジョコ・ウィドド大統領との接近が顕著である。

グリンドラ党(Partai Gerakan Indonesia Raya[大インドネシア運動党] , 略称Gerindra)

2007年結成の農民漁民党を前身とする。大統領選挙出馬を目指していたスハルトの娘婿で元陸軍戦略予備司令官のプラボウォが加わって、2008年4月に現在の党名に変更された。豊富な資金力を背景にテレビCMを大規模に展開して有権者への浸透を図った。そこで売り出したのは庶民の味方というポピュリスト的なイメージであり、かつてのプラボウォによる人権侵害への批判や強権的なイメージを払拭しようとした。2009年大統領選挙ではメガワティの副大統領候補として立候補したが、第1回投票で敗れた。2014年総選挙では、イメージ戦略に加え、前選挙で議席を得られなかった小政党を吸収して勢力を拡大、退役軍人のネットワークを活用、各地で地方有力者を取り込んで全選挙区で一議席を確保して第三党に躍進した。プラボウォは2014年大統領選挙に敗れ、福祉正義党と共に野党連合を形成、2019年の次期大統領選に向け、政権との対立姿勢を明確にしている。

民主主義者党(Partai Demokrat, 略称PD

2004年総選挙に際して、スシロ・バンバン・ユドヨノを大統領に擁立すべく設立された政党。ユドヨノの人気によって2009年には第1党に成長したが、既存の大政党に比較して党組織は脆弱でとりわけ地方の人材が不足しているといわれる。2009年選挙のスローガンは「宗教的ナショナリズム」であり、ユドヨノ大統領自身とともに、「穏健だが、宗教的」なイメージを売り込んだ。2009年選挙で当選した同党国会議員の6割以上が経済界出身者であった。2014年総選挙では、次世代のリーダーと目された指導者たちの汚職容疑による逮捕、ユドヨノの人気凋落とともに党勢を半減させた。

ジョコ・ウィドド政権発足後は、与野党連合から共に距離を置いている。またユドヨノは自身の後継者として、軍人だった息子のアグス・ユドヨノを退役させ、2017年2月のジャカルタ州知事選に立候補させた。

民族覚醒党(Partai Kebangkitan Bangsa, 略称PKB)

最大のイスラーム団体ナフダトゥル・ウラマー(NU)を支持母体とする政党。NUの元議長で2000年に大統領となったアブドゥルラフマン・ワヒドのイニシアティブによって結党された。イスラーム団体を基盤としながらも、「民族」を掲げて国民政党を目指した。「覚醒」(kebangkitan)はNUの「ナフダトゥル」(アラビア語で覚醒)を想起させるインドネシア語、ロゴマークもNUに類似している。宗教的にNUへの親近感が強く、NU系のプサントレン(イスラーム寄宿学校)指導者の影響力が強い東ジャワ州と中ジャワ州の一部に支持者が多い。「改革派」として期待された1999年総選挙では12.6%を獲得したが、内紛を繰り返し、勢力を弱めている。2009年総選挙に際しては、ワヒド派とムハイミン・イスカンダール(現党首)派との分裂が法廷闘争に持ち込まれ、正当性を認められなかったワヒド派は選挙をボイコットするに至った。2014年総選挙では分裂状態を解消して党勢を回復したが、得票率は1割を切っている。2014年大統領選挙ではジョコ・ウィドドを支持し、与党連合の一角を占めている。

国民信託党(Partai Amanat Nasitional, 略称PAN)

 NUに次ぐイスラーム団体ムハマディヤの元会長で1998年の民主化運動の指導者の一人アミン・ライスを中心に設立された政党。ロゴマークはムハマディヤのマークに類似しているが、「国民」を掲げ、キリスト教徒も幹部に迎えた。総選挙では都市部を中心につねに得票率6〜7%台の安定的な支持を受けている。アミン・ライスは2004年大統領選挙に立候補したが、第1回投票で敗れた。ビジネス出身の現党首ハッタ・ラジャサは、2009年大統領選挙ではいち早く再選を目指すユドヨノを支持し、第二次ユドヨノ政権の経済担当調整大臣を務めた。ハッタ・ラジャサは2014年大統領選挙ではプラボウォの副大統領候補になったが、接戦の上、敗退した。ジョコ・ウィドド政権発足後、一時は与党連合入りを表明して大臣職も得たが、野党連合とも近い関係を維持している。

福祉正義党(Partai Keadilan Sejahtera, 略称PKS)

ムスリム同胞団をモデルとした大学キャンパスにおける宣教運動が発展して1998年に結成された正義党を前身とする。正義党は1999年総選挙で代表阻止条項の最低得票率(1.5%)を下回ったため、2004年総選挙前に福祉正義党が新たに結党された。2004年総選挙では、既存政党への不信感を背景に清廉潔白なイメージを売る福祉正義党への期待が高まり、都市部で躍進、ジャカルタ特別州では約23%を得票して第1党になった。2009年総選挙は微増、2014年総選挙では初めて得票率を減らした。そのイデオロギー的背景と組織的性格から、排他的との批判を受ける一方で、2004年以降は日和見主義的との評価もなされるようになった。10年間のユドヨノ体制下では3つの大臣ポストを維持した。とりわけ2005年に地方首長選挙が有権者の直接投票となると、多数派工作のためにあらゆる政党と連立を組んだ。2010年7月には「開かれた政党」となることを宣言し、さらに現実主義を強めている。しかし2013年には当時の党首ルトゥフィ・ハサン・イシャクが汚職で逮捕され、大きなイメージダウンになった。2014年大統領選挙では、プラボウォ陣営に付き、ジョコ・ウィドド体制下では野党になった。

 2015年8月に指導体制を一新し、ソヒブル・イマンが党首、サリム・セガフ・ジュフリが宗教評議会議長に就任した。ソヒブル・イマンは学部から博士課程まで日本で教育を受けている。

国民民主党(Partai NasDem, 略称NasDem)

元ゴルカル党政治家でテレビ局MetroTVなどを所有するスルヤ・パロが2011年7月に設立した政党。2014年総選挙では唯一新党として参加が認められ、得票率6.7%の支持を得た。同年の大統領選挙ではいち早くジョコ・ウィドドへの支持を表明し、MetroTVも活用して当選に貢献した。内閣などの戦略的ポストに複数の党員を配置している。ジョコ・ウィドドの再選も一貫して支持、地方首長選挙でも大衆的人気が高い候補の擁立に貢献する戦略で、小党にも関わらず大きな影響力を持っている。

開発統一党(Partai Persatuan dan Pembangnan, 略称PPP)

 スハルト時代の1973年に「政党簡素化」によって、イスラーム諸政党を統合して結成された。「開発」と「統一」という体制イデオロギーを政党名に背負わされ、また度重なる体制側の介入と内紛に悩まされた。婚姻法の制定などイスラームに関係する議題で政府に反対して存在感を示すこともあった。1987年選挙に際しては党内最大勢力のNUが同党の公式な支持を取りやめ、得票が落ち込んだ。1998年以降、ロゴマークをカーバ神殿、党原則をイスラームに戻してイスラーム色を明確にした。NUの一部ウラマーなどから根強い支持がある。しかし、結党以来の派閥争いは解消されず、2004年選挙前に改革の星党と分裂した他、2009年大統領選挙でも候補擁立(ユドヨノかメガワティか)において二転三転した。2014年大統領選挙ではプラボウォを支持したが、ジョコ・ウィドド政権成立直前に与党連合へ加わり、二つの党執行部に分裂した。その後、政権支持側が裁判で勝ち、与党連合の一員となった。

ハヌラ党(Partai Hati Nurani[民衆の真心党], 略称Hanura)

スハルト体制末期に国軍司令官、国防治安相を務め、2004年大統領選挙ではゴルカル党から立候補(第1回投票で落選)したウィラントが退役軍人らと共に2006年12月に設立した政党。ウィラントは2009年大統領選ではユスフ・カラ(当時のゴルカル党首、副大統領)と組んで、副大統領候補となったが第1回投票で敗れた。 2014年総選挙ではテレビ局RCTIなどを所有する華人のメディア王ハリー・タヌスディビジョを副党首、ウィラントの副大統領候補に迎えたが得票率は5.3%に留まった。大統領選挙ではハヌラ党はジョコ・ウィドドを支持したが、ハリー・タヌスディビジョは党と袂を分かってプラボウォ側に付いた。ハリー・タヌスディビジョは2015年2月にインドネシア統一党(略称Perindo)を設立し、紆余曲折のうえ、ジョコウィ政権支持を表明している。

参考文献

  • 森下明子「2009年国会議員にみるインドネシアの政党政治家と政党の変化」、本名純・川村晃一編『2009年インドネシアの選挙―ユドヨノ再選の背景と第2期政権の展望―』アジア経済研究所、2010年、91-108ページ。 
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2019年1月18日

バングラデシュ/政党

 (1)Awami League:アワミ連盟

アワミ連盟は、パキスタン分離独立後の1949年に東パキスタンにおいて結成された。アワミ連盟の創始者はマオラナ・バシャニーとH・S・スフラワルディとされているが、リーダーとして認知されているのはシェイク・ムジブル・ラフマンである。結党当初からパキスタン政府の打ち出したウルドゥー語を公用語とする政策に強く反対し、パキスタンからのバングラデシュ独立に指導的な役割を果たした。

独立後、アワミ連盟は新国家バングラデシュの舵取りを担ったが、独立戦争によって国土が荒れていた上に度重なるサイクロンや洪水の被害により国民は飢餓に苦しみ、国家を安定的に導くことができなかった。また、ムジブル・ラフマンは初代首相(後に大統領)に就任したが、次第に強権的性格を強め、1975年の青年将校による軍事クーデターによって家族数十人とともに暗殺された。後継者には、クーデター当時ヨーロッパに滞在中で難を逃れた長女のシェイク・ハシナ(現首相)が総裁に就任した。

その後、アワミ連盟は1995年の総選挙に勝利し、政権を奪取するまでの20年間、野党の立場にあった。2001年総選挙には敗れるものの、2009年、2014年の選挙には勝利した。

アワミ連盟はパキスタンから独立を果たす際、インドからの支援を受けた経緯から、歴史的に親インドであり、特にインド国民会議派との関係は深い。独立戦争直後は社会主義と政教分離主義を柱とするなど、明確な左派政党であったが、近年では中道左派的な政策指向に変化している。国立大学に強力な学生支持団体を持ち、ヒンドゥー教徒や少数民族にも支持基盤をもつ。

(2) Bangladesh Nationalist Party (BNP):バングラデシュ民族主義党

BNPは、1978年にジヤウル・ラフマンによって設立された。ジヤウル・ラフマンは軍人出身で、独立戦争のリーダーだったムジブル・ラフマンを積極的に支持した。1975年の軍部青年将校によるムジブル・ラフマン暗殺事件のあと、クーデターを起こして事態を収拾し、そのまま政権を担った。その後、民政移管にむけてBNPを設立したが、1981年に軍内部の対立から暗殺された。

ジヤウル・ラフマンの暗殺事件後は、妻のカレダ・ジアが総裁に就任し、現在にいたっている。BNPは1990年および2001年の国会総選挙に勝利し、カレダ・ジア総裁は過去に2度首相を経験している。

BNPは、親インドで左派的な政策を指向するアワミ連盟への対抗上、親パキスタン、親イスラームの立場をとる。2001年の選挙からイスラーム主義政党であるジャマティ・イスラミと連立を組んでいる。2014年の総選挙では選挙のプロセスをめぐり与党アワミ連盟と対立し、選挙をボイコットした。BNP不参加のまま選挙が実施されてしまったため、現在国会に議席をもっていないが、依然として民衆からは強い支持をうけている。

(3) Jatiya Party(JP):ジャティオ・パーティ

JPは、1981年に起きたジヤウル・ラフマン暗殺事件の後、戒厳令司令官として軍政を掌握したH・M・エルシャドが1986年に設立した。当時、欧米諸国の外的圧力もあり、エルシャドは民主的な総選挙をおこない国会に議席をもつことで政府の正統性を国内外に示す必要があった。その受け皿として設立されたのがJPである。1986年の総選挙では勝利したが、さまざまな選挙工作疑惑がもたれている。実質的な民主化がなされた1991年の選挙以降は第3政党となっている。

(4) Jamaat-e-Islami(JI):ジャマアテ・イスラーミー(イスラーム協会)

JIは1941年にイギリス植民地時代のインドにおいて結成された。パキスタンからバングラデシュが独立した際にBangladesh Jamaat-e-Islamiとして再結党された。イスラーム主義政党で農村部貧困層に強い支持基盤をもつ。議席数は多くないものの、過去にアワミ連盟とも、BNPとも連立政権を組んだ経験があるなど、強固な政治基盤をもとに政界に影響力を与えている。パキスタンからの独立戦争当時はパキスタン側についていたため、一時非合法政党となっていたこともある。2009年の総選挙に勝利したアワミ連盟により、独立戦争当時戦争犯罪を裁く、国際戦争犯罪裁判が設置され、JIの幹部の多くが有罪判決をうけた。2013年12月にそのうち一人が処刑されたことからアワミ連盟とは厳しい緊張関係にある。

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2019年1月18日

マレーシア/政党

1957年の独立から61年間続いたBN体制下でのマレーシアの政党システムは、エスニック集団別および地域別に組織された政党が連立を組む形態が基本となってきた。2018年総選挙で政権交代が起こってBN体制が崩壊した現在でもエスニック集団や地域に沿った政党が連立を組む形態は基本的には変わっていない。ただし、新たに与党となったPKRやDAPなどの政党はマルチ・エスニック政党を自称し、複数のエスニック集団を党員とする政党を構成している。近年、マレーシアの政党システムは少しずつだが、マルチ・エスニックな様相を示し始めている。

2018年総選挙の後、政党および政党連合の離合集散が起こっており、2018年現在は移行期にあたるといえるだろう。

(1) 希望連盟(PH)の構成政党

政党連合の希望連盟(Pakatan Harapan: PH)は2018年総選挙でマレーシア史上初の政権交代を果たした。PHは2015年に前身の人民連盟(Pakatan Rakyat: PR)が活動停止状態になった後、以下で説明するPKR、DAP、Amanahの3党によって発足した。その後2017年に公式にPPBMが加入して4党体制となった。

PHの前身にあたるPRは2008年から2015年まで連邦下院での野党連合として活動し、スランゴール州、ペナン州、クダ州(2008-2013年)、ペラ州(2008-2009年)でPRが連立して州政権も運営していた。しかし、後述するAmanahやPASの項で説明するように、構成政党間の対立によってPRは活動を停止してしまう。中でもイスラーム主義政党のPASと主に非ムスリムに支持基盤をおく世俗政党のDAPとの対立がPR瓦解の最大の要因である。

PASとDAPの対立はPRの前身にあたり、1999年総選挙に向けて野党が連合した政党連合の代替戦線(Barisan Alternatif: BA)でも起こり、BAが事実上活動を停止する原因となっている。

①人民公正党(Parti Keadilan Rakyat: PKR)

1990年代末のレフォルマシ運動の時代にアンワル・イブラヒムの妻のワン・アジザを代表に結成された国民公正党(PKN)をベースに、1955年にマレー人左派を中心に結成され、社会主義を掲げたマレーシア人民党(PRM)が2003年に合併してできた政党。マルチ・エスニックな政党として組織されている。現在の総裁はワン・アジザだが、実際は党のアドバイザーの地位にあるアンワルが長年事実上の総裁として実権を握ってきた(ただし、2018年11月の党内選挙でアンワルが無投票でPKRの党総裁に就任することが本稿執筆時点で決まっている)。

2008年総選挙では連邦下院議席を31議席獲得して最も躍進した政党であったが、その後は離党者が続出し、2011年8月には下院24議席(協力関係にあるマレーシア社会主義者党の議員を除けば23議席)にまで減少した。しかし、2013年総選挙では30議席に回復し、2018年総選挙では47議席にまで議席を増やして新たに政権についたPH政権の中で最大の連邦下院議員を擁する政党となった。

PKRは2008年以降、首都で連邦直轄地のクアラルンプールを取り囲む、マレーシアで最も経済的に発展したスランゴール州の州政権の州首相を輩出してきた。また、2013年総選挙ではPRが新たに州政権を獲得したヌグリスンビラン州の州首相もPKRから輩出されることとなった。現在のスランゴール州の州首相はアミルディン・シャーリで、ヌグリスンビラン州の州首相はアミヌディン・ハルンである。PKRの支持者はマレー人、華人、インド人の全ての層にまたがっており、マルチ・エスニック政党を自称している。とはいえ、支持者や指導層の中核を占めるのはマレー人である。PKRの最も重要な支持基盤はスランゴール州にあり、その他にマレー半島の西海岸沿いの州の都市部を中心に支持を集めている。

PKRの党内にはアンワルおよびその一家が党の顔となっている中で、2つの派閥が存在する。一方の派閥は2010年からPKRの副総裁であり、2014年から2018年の4年間スランゴール州の州首相を務めていたモハメド・アズミン・アリの派閥である。2018年総選挙後にアズミンは連邦政府の経済担当大臣となった。50代前半のアズミンはマハティールとアンワルの後に続く首相候補であるとの声も高まっている。もう一方の派閥は、モハマド・ラフィジ・ラムリの派閥である。ラフィジの名声を最初に高めたのは彼が2011年から2012年にかけて当時の女性・家族・コミュニティ開発大臣のシャリザ・アブドゥル・ジャリルの夫の関与した全国飼育場社(National Feedlot Corporation: NFC)をめぐるスキャンダルを内部告発者からの情報や独自調査をもとにして暴いたときである。その後、ラフィジはPKRの党序列3位の副総裁補に昇りつめながら、自らが設立に関与したNGOなどと連携して政府や与党の関与するスキャンダルの暴露や選挙監視ボランティアの組織化などを手掛けて注目を集めた。アンワルとその一家は、アズミンの党内での影響力を削ぐためにラフィジの方に近い立場をとっているともいわれている。2018年11月に予定されているPKRの党内選挙や今後のPHの政治をみる際のポイントの1つがアンワル、アズミンとラフィジという党内の主要政治家の動向になることは間違いない。

②民主行動党(Democratic Action Party: DAP)

1965年のシンガポールのマレーシア離脱に伴い、シンガポールを拠点に設立されていた人民行動党(People’s Action Party: PAP)の元党員がマレーシアで結党した。党の路線として社会民主主義を標榜する。マルチ・エスニック政党であり、党自体も「マレーシア人のマレーシア(a Malaysian Malaysia)」を主張し、BNのエスニック集団に基づく差別政策を批判してきたが、実態は非マレー人、特に華人に強い支持基盤を持ち、彼らの利益に基づく活動を行うことで、主に都市部の華人在住地域で議席を確保してきた。しかし、近年では華人の党であるとのイメージを刷新するため、マレー人の若手党員や指導者の育成に力を入れている。

2008年総選挙では、PASやPKRと連合を組んでペナン州で(連邦下院議席と州議会議席)の大量当選者を出し、当時BNを構成していたグラカンから州政権を奪った。2013年総選挙では、それまでBNの牙城だったジョホール州に、60年代から90年代末まで幹事長として名を馳せて、党の顔でもあるリム・キッシャンや若手の有力政治家を候補者として立てることで、BNの牙城の一部を崩すことに成功した。この成果により、DAPはPR構成政党の中でも2008年総選挙から唯一議席を増加させた政党となり、PRの第一党、連邦下院議会でもUMNOに次ぐ第2党に躍進した。2018年総選挙後は与党となったPH内で第二党として重要な位置を占めている。DAPの長年の支持基盤はペナン州などマレー半島西海岸の華人の多い都市部であったが、近年は東マレーシアのサラワク州などでも勢力を拡大している。

党役員では代表にあたる議長は、タン・コックワイ。しかし、党内では上述のリム・キッシャンが強い影響力を持つほか、実質的な指導者は党幹事長でリム・キッシャンの息子であるリム・グァンエンである。リム・グァンエンは2008年から2018年までペナン州の州首相を務めた後、2018年総選挙でPHが政権を獲得するとマハティール内閣の財務大臣に就任した。華人の財務大臣就任は1974年以来初めてのことである。DAPが州政権を運営するペナン州の現在の州首相は2018年5月に就任したチョウ・コンヨウである。

③マレーシア統一プリブミ党(Parti Pribumi Bersatu Malaysia: PPBM)

マハティールやムヒディン・ヤシン元副首相ら主にUMNOからの離党組によって2016年に結成された政党。PPBMが設立された背景として、2014年から2015年にかけて当時のナジブ首相にマハティール前首相が批判を強めていたことがある。マハティール首相が批判をしたのは、最初は財務省傘下の国営投資会社のワン・マレーシア開発公社(1 Malaysia Development Berhad: 1MDB)の巨額債務問題だった。さらに、2015年7月に『ウォール・ストリート・ジャーナル』紙が26億リンギ(日本円で780億円)の巨額資金が1MDBからナジブ首相の個人口座に流れたとの報道をした後は、マハティールの批判はさらに強まった。1MDB関連のスキャンダルの追及から逃れるために、ナジブ首相は閣内で自らに批判的なムヒディン副首相を解任。その後はマハティール、ムヒディンやマハティールの息子のムクリズ・マハティール前クダ州首相らはUMNO党内でナジブの追い落としを図ったが果たせず、彼らはUMNOから離党し、PPBM結党に至った。

PPBMが公式にPHに加入したのは2017年に入ってからである。結党後最初の総選挙となった2018年総選挙でPPBMはマハティールの生誕地で長年の選挙区であるクダ州や、ムヒディンが過去に州首相を務めたことがあるジョホール州で勢力を拡大した。この両州についてはPPBMが州政権を担当し、クダ州ではムクリズ、ジョホール州ではオスマン・サピアンが州首相である。

④国民信託党(Parti Amanah Negara: Amanah)

2015年にPASからの離党組が結成した政党。PASの項で後述するように2013年総選挙以降、PASはクランタン州でのハッド刑の導入を本格的に検討し始め、当時の野党連合のPRの内部で対立を生んでいた。この対立が高じて2015年にPRは連立解消に至った。PAS内ではPKRやDAPとの協調路線をとろうとする非ウラマーの勢力が2015年の党内選挙で敗退したが、この勢力は同年6月にPASを離党して社会運動組織の新希望運動(Gerakan Harapan Baru: GHB)を結成した。GHBは当初から政党結成を目指して組織されていた。GHBは1970年代から休眠状態にあったマレーシア労働者党(Parti Pekerja-Pekerja Malaysia)の政党登録を利用し、党名を改名して現在のAmanahとなった。その後、AmanahはPKRやDAPと連立を組んでPHを結成した。

2018年総選挙ではAmanahは11議席を獲得した。総選挙でAmanahはPASが強い勢力を保ってきたマレー半島の東海岸や北部に候補者を多く立てたが、実際に当選者を出すことができたのはマレー半島の西海岸だった。この選挙結果から示されるように、Amanahは現在でもマレー人居住者の比率が高いマレー半島の東海岸や北部でPASに対抗できるほどの支持基盤を築くことができていない。Amanahの支持者の多くはクアラルンプール周辺の都市部に住むマレー人である。

Amanahの党総裁は、モハマド・サブ(通称、マット・サブ)である。モハマド・サブはPAS離党前にはPASの副総裁を務めていたこともある。現在、モハマド・サブは2018年5月に発足したマハティール内閣で国防大臣の地位にある。マハティール内閣ではAmanahは大臣5人、副大臣5人を送り込み、所属下院議員の11人のうち10人が内閣のポストを有するという優遇されている状況にある。Amanahはムラカ州の州政権も担当している。現在のムラカ州の州首相はアドリ・ザハリである。

(2)PHと同盟関係

サバ伝統党(Parti Warisan Sabah: WARISAN)

2016年に結成されたサバの地域政党である。現在、PHには加入していないものの、PHと同盟関係にあって2018年に発足したマハティール内閣にも3人の大臣を出している。WARISAN結成のきっかけは、2015年から1MDBスキャンダルの渦中でUMNOのナンバースリーの副総裁補で、農村・地域開発大臣でもあったシャフィ・アプダルが反ナジブの姿勢を見せて閣僚を解任され、その後、UMNOから離党したことによる。シャフィは自らを代表とするサバの地域政党を立ち上げて総選挙に備えた。

2018年総選挙でWARISANはサバ州で連邦下院議席を8議席獲得する一方、サバ州の州議会で21議席を獲得した。サバ州議会選挙結果の内訳は、WARISANがPH構成政党のPKRおよびDAPが獲得した8議席と合わせて29議席を確保したが、UMNOが同じく29議席を獲得したため、PHと同盟したWARISANと、UMNOが同数となった。残りの州議会の議席はサバの地域政党の故郷連帯党(Parti Solidariti Tanah Airku: STAR)が2議席を獲得したが、STARはUMNOと連立を組む意向を示したため、総選挙直後はUMNO主導の州政権が発足する見込みであった。しかし、UMNOからの6人の離党者がWARISANに入党したため、WARISAN総裁のシャフィを州首相とする州政権が発足した。

(3)BNの構成政党

①統一マレー人国民組織(United Malays National Organization: UMNO)

植民地統治下の1946年に宗主国イギリスが提出したマラヤ連合案に反対するマレー人組織が集まって結成される。結党時の党規約にも示されているとおり、マレー人の権利の擁護を目的に設立された政党であり、マレー人に党員が限定されたエスニック政党である。2018年総選挙で敗れて下野するまで61年間政権を握り続けた政党連合BN(その前身の連盟)の中核政党で、歴代の内閣の総理、副総理は慣例的にそれぞれUMNOの総裁と副総裁が就任してきた。近年まで農村部や公務員の間に比較的強い支持基盤を持ち、長い与党経験の中で構築されてきた政府の統治機構と一体化した強力な選挙マシーンを有してきた。

NEPに伴って70年代から90年代にかけて政府主導でマレー人企業に手厚い保護が実施される中で、UMNOは与党としての立場を利用した与党ビジネスを本格化させていった。1980年代から1990年代にはUMNOの与党ビジネスは最盛期を迎え、UMNO系企業が建設、ホテル、メディア、不動産開発など様々な分野で大きな経済的影響力を持ち、巨大ビジネス・グループを形成し、党運営における豊富な資金源となる一方、こうしたビジネスとUMNOとのつながりは、党内の派閥闘争を深刻化させ、外部から金権政治や汚職体質を批判されるようになった。しかし、1990年代末のアジア経済危機によって与党ビジネスが深刻な打撃を被り、企業グループの整理や政府主導の再建が進む中で、UMNOが直接的に影響力を行使する企業はメディアなどの一部の分野に留まるようになった。

2018年総選挙の結果はUMNOにとって衝撃であった。UMNO結党の地であり長年にわたって地盤としてきたジョホール州や、1990年代から経済開発の実績と将来的な約束を通じて強固な地盤を築いているとみられていたサバ州のほか、これまで野党の州政権を経験したことがないムラカ州やヌグリスンビラン州などでもUMNOは議席を大きく減少させた。2018年総選挙によって連邦下院の議席数は前回総選挙よりも34議席を減らして54議席となり、州議会選挙でもクダ州、ペラ州、ムラカ州、ヌグリスンビラン州、ジョホール州の州政権を失った。サバ州の州政権も総選挙後に所属議員がUMNOからWARISANに寝返ったためにUMNOの確保できた州政権はプルリス州とパハン州の2州のみとなった。

2018年5月の総選挙で政権を失った後、UMNOは党役員人事選挙を6月に実施した。役員人事選挙では、UMNO副総裁で前副首相のアフマド・ザヒド・ハミディ、UMNO青年部長で前青年・スポーツ大臣のカイリ・ジャマルディン、元財務大臣のラザレイ・ハムザらが総裁職を争った。総裁選ではカイリがUMNOの党員をマレー人以外にも求める可能性も示唆したが、選挙結果はナジブ時代からの継続の色が強いザヒドが総裁に選出された。

②マレーシア華人協会(Malaysian Chinese Association: MCA)

1949年に当時のイギリス植民地マラヤを代表する華人企業家のタン・チェンロックの主導により結成。華人に党員が限定されたエスニック政党。設立以来、華人ビジネス界との関係を比較的強く有している一方、MCA自体もビジネスに直接関与している。最もよく知られたMCAのビジネスとして、マレーシア最大の英語紙『スター』の発行がある。独立から2018年まで与党の地位についてきたが、2008年総選挙で議席が半減しただけでなく、その後の党内を2分する派閥抗争によって党勢は大きく落ち込んだ。その後、2013年総選挙ではさらに議席数を7議席まで減らし、2018年総選挙では僅か1議席しか確保できずに、壊滅的な打撃を受けた。

MCAは本稿執筆の2018年8月時点ではBNに残留しているものの、党内の一部や華人社会からは政権を失ったBNから離脱すべきだとの声もあがっている。党総裁はリョウ・ティオンライだが連邦下院選挙で議席を失ったために、唯一議席を確保できた副総裁のウィー・カッションが党を主導する場面が多くなっている。

③マレーシア・インド人会議(Malaysian Indian Congress: MIC)

1946年結党。インド人に党員を限定したエスニック政党。UMNO、MCAと同様に連盟の時から続く与党連合の一角を占めてきた政党である。しかし、2008年総選挙で議席を大幅に減らしたことで大きな打撃を受けた。2013年総選挙では、ナジブ政権によって選挙前に発表されたインド人社会への支援策や、反政府的な立場に立っていた社会運動のヒンドゥー権利行動隊(Hindraf)のBNへの取り込みなどで4議席を確保することができた。しかし、2018年総選挙ではBNが政権を失う中でMICも議席を減らし、2議席と低迷している。現在の総裁は、V.サナシー。

(4)PHとBN以外の独立系政党(連合)

①汎マレーシア・イスラーム党(Parti Islam SeMalaysia: PAS)

1956年に設立されたイスラーム主義政党。PASは伝統的にUMNOのライバルとしてマレー人票をめぐって争ってきた。PASの支持基盤はマレー半島の東海岸のクランタン州やトレンガヌ州であり、近年ではマレー半島北部のクダ州でも支持を拡大してきた。結党時からイスラームの擁護と促進がPASの党規約の基本的な項目として挙げられていたが、党のイスラーム主義へのシフトが一層本格化したのは80年代からである。これ以前の党指導者は、イスラームを重視するものの、マレー人の地位向上を目指すマレー・ナショナリズムを党の路線の中心に据えていた。だが、70年代のBNの一時加入とそれに伴う党の分裂で党勢が大きく後退し、PASが野党として再出発する際、中東留学によってイスラーム法学を修めたウラマーが1982年の党役員人事選挙で台頭し、文字通りイスラーム主義が党の基本路線となった。

PASの党機構でユニークなのは、党総裁が主催して日々の党運営を司る党中央運営員会(Jawatankuasa Kerja Pusat)の上位に選挙で非選出のウラマーからなるウラマー評議会(Majlis Syura Ulamak)が置かれ、党の最高意思決定機関としての地位を与えられている点である。ウラマー評議会を率いる議長はPASの精神的指導者(Mursyidul Am)と呼ばれて党の方針に大きな影響力を持つ。1991年から2015年まで精神的指導者としてPASだけでなくマレー人社会の中で広く敬意を受けていたのがニック・アジズであった。PASの指導体制は2000年代に入ってから2013年総選挙直後までは、ニック・アジズと2002年に総裁に就任したハディ・アワンの双方がPASをリードしていく体制であった。特にニック・アジズは当時の与党だったUMNOへの不信感を持ち、PASが野党として活動していくことを重視していた。

しかし、ニック・アジズが2015年に死去すると、PASは総裁のハディ・アワンの下で自党が政権を運営するクランタン州でのハッド刑の導入を図るため、連邦政府を握るUMNOに接近していった。ハッドとは飲酒、姦通、窃盗などコーランに処罰が記載された犯罪である。この犯罪に対する刑罰がハッド刑と呼ばれており、例えば、窃盗を行った者に対して四肢を切断する刑などが定められている。クランタン州で州法としてハッド刑を導入するためには、刑事罰の規定を定め、州法の上位にある連邦法を改正しなければならない。そのため、PASには当時連邦政府を担っていたUMNOに接近する動機があったのである。

PASがクランタン州でのハッド刑導入を進めようとUMNOに接近したことは、党内のみならず、当時PASが連立を組んでいたPRの構成パートナーとの間に対立を生み出した。PAS内部には伝統的に、イスラームの宗教教育を受けたウラマーを中心とするイスラーム主義を社会に厳格に適用していこうとする勢力と、非ウラマーで高度な世俗教育を受けたリーダーを中心としてムスリム以外とも妥協を図りながらイスラーム主義を段階的に適用していこうとする勢力との間の対立が長年存在していた。このウラマー勢力と非ウラマー勢力との対立は、2015年当時にはPASが所属していた野党連合のPR内でPKRやDAPと協力関係を続けて連立を維持するか、それとも連邦政府を担っていたUMNOと協力するか、という路線対立とも重なってPAS内の対立をさらに深めた。

ニック・アジズ死去後の2015年のPASの内紛は、非ウラマーを中心としたPR内でPKRやDAPと共闘を志向する勢力が6月の党内選挙で敗北し、彼らが離党して新たにAmanahを結成することで決着がついた。総裁のハディに率いられて勝者となったウラマー勢力が強くなったPASに対し、DAPがPRの連立を解消することを宣言し、PRは活動を停止した。

その後、PASはUMNOに接近しながらも野党として活動し、2018年総選挙に向けてBNとPHとは異なる第三極を目指してイスラーム系の政党と政党連合の平穏構想(Gagasan Sejahatera: GS)を結成した。ただし、PAS以外のGS構成政党は長年にわたり非常に小規模な活動しかしておらず、GSは事実上PASであるといってよかった。2018年総選挙でPASは、連邦下院議席を前回選挙よりも3議席減らして18議席となった。しかし、1991年から担当してきたクランタン州の州政権を維持したほか、新たにトレンガヌ州の州政権も確保してマレー半島の東海岸で確固たる地位を築いた。2018年総選挙後のPASは、補選などの機会を通じて野党となったUMNOとさらなる協力関係を深める姿勢を見せている。

②マレーシア人民運動(Parti Gerakan Rakyat Malaysia: Gerakan)

1968年設立、通称、Gerakan(グラカン)。設立当初は野党として活動していたが、後に新たに設立された政党連合のBNに加入し、2018年まで与党の構成政党となった。特定のエスニック集団に党員を限定しないマルチ・エスニック政党であるものの、実態は華人に主要な支持基盤を持つ。結党時からペナン州に強い支持基盤を持ち、歴代の州首相を輩出することで、ペナンの州政権を握っていた。しかし、2008年総選挙で大敗し、連邦下院議席の大幅減少だけでなく、ペナン州の州政権も野党に奪われた。2013年総選挙でも党勢を回復することはできず、連邦下院議席も僅か1議席と低迷した。さらに、2018年総選挙では1議席も取れなかった。2018年総選挙での大敗を受けて、6月にグラカンはBNから離脱した。

③サラワク政党連合(Gabungan Parti Sarawak: GPS)

2018年まで続いたBNの長期政権下で、サラワク州は13州のうち唯一UMNOが進出していない州だった。しかし、サラワク州の4党の地域政党がBNに加入して、与党の地位を享受してきた。その4政党とは、サラワク統一ブミプトラ・プサカ党(Parti Pesaka Bumiputera Bersatu: PBB)、サラワク統一人民党(Sarawak United People’s Parti: SUPP)、進歩民主党(Progressive Democratic Party: PDP)、サラワク人民党(Parti Rakyat Sarawak: PRS)であった。

サラワク州では、PBB総裁だったタイブ・マフムドが33年間にわたって州首相を務めてきたが、長期政権に伴う深刻な汚職問題が長年取りざたされてきた。タイブは2014年に州首相とPBB総裁を辞任して、象徴的な地位にある州元首の地位についたが、依然としてサラワク州の政治に強い影響力をもっているとみられている。

タイブが2014年に州首相を退いた後、州首相とPBB総裁を引き継いだのはアデナン・サテムである。アデナンはサラワクの独自性を主張して時には連邦政府とも対立を招きかねないスタンスで政治に臨んだ。彼のスタンスはサラワクの人々から大きな支持を受け、2016年5月のサラワク州選挙ではサラワクのBN構成政党の4党は前回2011年の州議会選挙から17議席を増やす大勝を収めた。しかし、2017年にアデナンが死去し、その後の地位をアバン・ジョハリ・オペンが継ぐとBNの勢いは弱まり、2018年総選挙ではBN構成政党の4党はいずれも下院議席を減少させた。

2018年総選挙でBNが大敗し、連邦政府を失うと、サラワクの旧BN構成政党4党はBNから離脱し、6月に新たにサラワク政党連合(Gabungan Parti Sarawak: GPS)を結成して引き続きサラワク州の州政権を担っていくことになった。

④サバ州の旧BN構成政党

2018年総選挙以前にはサバ州ではBNの中核政党であるUMNOのほか、地域政党であるサバ統一党(Parti Bersatu Sabah: PBS)、自由民主党(Liberal Democratic Party: LDP)、サバ人民統一党(Pari Bersatu Rakyat Sabah: PBRS)、パソモモグン・カダザンドゥスン・ムルット統一組織(United Pasokmomogun Kadazandusun Murut Organisation: UPKO)がBNの構成政党となって与党を形成していた。

しかし、2018年総選挙でBNが連邦政府の政権を失い、サバ州の州政権もWARISANが担うようになると(WARISANの項を参照)、サバ州のUMNO以外のBN構成政党は次々とBNを離脱した。

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2019年1月18日

モロッコ/政党

(1) 政党制度

2011年に改定された憲法では、第7条で、「政党は男女両方の市民の政治的枠組・組織であり、市民の国民生活への参加を促進し、公的な事項の運営をおこなう。また政党は、憲法の枠組に沿って、民主的な手段で、多元主義と政権交代を基盤として、有権者の意思の表明に協力し、権力の行使に参加する。政党の綱領と政党活動は、憲法と法律を尊重している限り、自由である」と定められている。また同じく第7条で、一党制は合法ではないと定めている。

2006年に公布された政党法では、「いかなる政党も、特定の宗教・言語・民族・地域を基盤にすることはできない。またあらゆる形態の差別に基づいたり、人権に反することはできない」(第4条)と定められている。特定の地域の利益擁護に偏った政党が誕生することを避けるために、政党法第8条では、創設時に必要とされる300名以上の党員の住所が、全国の半数以上の地域にあり、一つの地域における党員の割合が5%以上であることが、新党結成条件の一つとされている。政党法第57条では、武装してデモを行うこと、武装部門や民兵を組織すること、体制転覆やイスラーム、王制および領土の一体性への攻撃を目的とした場合は、内務省はラバトの行政裁判所に要請し、その政党を解党することができると定められている。

(2) 政党

現在モロッコには30を超える政党があり、様々な綱領をかかげている。以下、主要政党に関する情報をまとめておく。

イスティクラール党(Hizb al-Istiqlal, Parti Istiqlal ) 

政党HP: http://www.partistiqlal.org/ 

1944年に設立された民族主義政党。「イスティクラール」は「独立」の意。現在の政治路線は保守系で、1998年2月から党首はアッバース・エルファースィー。

1934年にモロッコ最初の政党として国民行動連合(Kutla al- ‘Amal al-Watani, Comité de l’Action Nationale)が誕生した。国民行動連合は、保護領政府が出したベルベル勅令に反対して、モロッコの独立運動を指導したアッラール・ファースィーやアフマド・バラフレージュらが結成した政党で、保護領政府に対して政治や社会改革案を提出したが、指導者らは弾圧され、党は非合法化された。アッラール・ファースィーらは、1937年に国民行動連合に代わって、国民改革党を結成し、これが後にイスティクラール党へと発展した。

2007年9月7日の議会選挙では、52議席を獲得し第一党となり、国王は同年9月19日にイスティクラール党党首であるアッバース・エルファースィーを首相に任命した。アッバース・エルファースィー首相は、ムハンマド六世が国王になってから任命した二人目の首相であるが、前任者であるイドリース・ジェットゥは過去に国務大臣をつとめ、政治的なキャリアもあるものの、どの党にも属していない実業家であり、首相任命の前に行われた2002年9月の議会選挙では、大衆社会主義勢力連合、イスティクラール党、公正発展党、国民独立連合の順で議席を獲得しており、ジェットゥ氏の首相任命は選挙結果を尊重したものとはいえなかった。

大衆諸勢力社会主義連合(al-Ittihad al-Ishtiraki lil-Qwat al-Sha‘biya, USFP:Union socialiste des forces populaires)  

政党HP:

  • http://www.usfp.ma/index_ar.php (アラビア語) 
  • http://www.usfp.ma/ (フランス語)

1975年にUNFP(Union Nationale des ForcesPopulaires)から分離して設立された左派政党。2008年11月、当時のアッバース・エルファースィー内閣で法相をつとめていたアブドゥルワヒド・ラーディーが党首に選出された。同党は、1998年から2002年まで、当時のアブドゥルラフマーン・アル・ユースフィー党首が首相をつとめ、政権を担当した。   

アブドゥルラフマーン・アル・ユースフィーは、もともとイスティクラール党のメンバーで、イスティクラール党の左派グループに属していたマフディ・ベン・バルカ、アブドゥルラヒーム・ブアビド、アブダッラー・イブラヒームらと共に1959年にUNFPを設立した。UNFP は王制にとっての反対勢力であったため、ユースフィーも逮捕され、その後釈放されたが、マフディ・ベン・バルカがパリで行方不明になった事件の裁判に参加するためパリを訪れたことをきっかけに、1965年から15年間パリで亡命生活を送る。1980年に恩赦を受けてモロッコに帰国。1992年からUSFPの党首となる。1997年の議会選挙で、USFPは第一党となり、1998年より首相をつとめた。当時の国王ハサン二世が、かつて敵対していたユースフィーを首相に任命したことは、大きな話題となった。

2007年の議会選挙では、38議席を獲得するにとどまり、第5党となった。2011年の議会選挙でも、獲得議席数は39で、同じく第5党となった。

公正発展党(Hizb al-‘Adala wa at-Tanmiya , PJD:Parti de la justice et du développement)  

政党HP:http://www.pjd.ma/

1998年に設立されたイスラーム主義的傾向の政党。2007年より党首はアブディッラー・ベンキラン。1967年に設立された大衆立憲民主運動(MPCD:Mouvement populaire, constitutionnel et démocratique )を前身としている。

2007年の議会選挙では、46議席を獲得する躍進をみせ、イスティクラール党に次ぐ第2党となった。

2011年11月25日に実施された議会選挙では、107議席を獲得し、第1党となった。2011年に発布された新憲法で定められた通り、下院第一党となった同党の党首であるベンキランが首相に就任した。  

大衆運動党(Hizb al-Haraka al-Sha‘biya , MP:Mouvement populaire)  

政党HP:http://www.alharaka.ma/ 

1957年設立の中道左派政党。現在の党首は、モハンド・ラエンセル。

1958年の公的自由に関する勅令によって、1959年に合法な政党となった。立憲王制、領土の一体性を支持する。またモロッコ国王の一側面である「信徒の指揮者」としての役割は、モロッコ社会の安定に不可欠であるとするが、他宗教の共存はモロッコの伝統であるとし、あらゆる形での過激主義や宗教の政治利用に反対している。またアマジグ(ベルベル)文化は、モロッコの文化的な源であるとし、アマジグの言語も、モロッコの国語として憲法に明記されることを要求している。

2007年9月7日の議会選挙では、41議席を獲得し、第3党となったが、2011年の議会選挙では、32議席まで議席を減らし、第6党となった。

国民独立連合(Hizb al-Tajammu‘al-Watani  lil-Ahrar , RNI:Rassemblement national des indépendants)  

1978年(1979年)に設立した中道右派政党。党首は、経済財政大臣であるサラハッディーン・メズワール(2010年1月就任)が務めている。党の創設者であるアフマド・オスマンは、1972年~1979年まで首相をつとめた後、1984年~1992年まで国会議長をつとめた。

2007年9月7日の議会選挙では、39議席を獲得し、第4党となった。2011年の議会選挙では、獲得議席数を52に増やし、第3党となった。

立憲連合(al-Ittihad al-Dusturi, UC:Union constitutionnelle) 

1983年に設立された保守・リベラル政党。創設者のマアティ・ブアビドは、1979年から1983年まで首相をつとめた。現在の党首は、ムハンマド・アビド。2007年の議会選挙では、27議席、2011年の議会選挙では23議席を獲得した。

正統近代党(Hizb al-Asala wal-Mu‘asila , PAM:Parti authencité et modernité) 

政党HP:http://www.pam.ma/

2009年から党首は、ドリス・ジェットゥ内閣で保健大臣をつとめたムハンマド・シェイフ・ビアディッラー。

2008年に、アハド党(le Parti al ahd), 環境開発党(le Parti de l’environnement et du développement)、自由同盟(l’Alliance des libertés)、開発のための市民イニシアティブ(le Parti initiative citoyenne pour le développement)、国民民主党(PND: Le Parti national démocrate)の五つの政党を連合して設立された。設立には、現国王であるムハンマド六世の親しい友人であるフアド・アリー・アル・ヒンマが深くかかわっている。設立の翌年2009年に実施された地方選挙では、イスティクラール党や国民独立連合を抜いて、第一党となり、全議席の21.7%にあたる計6015議席を獲得した。初の議会選挙となった2011年の選挙では、47議席を獲得し、第4党となっている。

その他の諸政党

  • 進歩社会主義党(PPS: Parti du progrès et du socialisme )
  • モロッコ共産党(PCM:Parti communiste marocain)は1943年に設立されたが、1952年に非合法化され、1969年に解放社会主義党(PLS: Parti de la libération et du socialisme)として再結成され、1974年に進歩社会主義党(PPS: Parti du progrès et du socialisme )として合法化された。
  • 民主独立党(PDI:Parti démocratique et de l’independence)イスティクラール党から分離して、1946年に設立。
  • 行動党(PA: le Parti de l’action)1974年設立の社会主義政党。
  • 中央社会党(PCS: le Parti du centre social)1984年設立の社会主義政党。
  • 前衛民主社会党(PADS :le Parti de l’avant garde démocratique et social)1991年設立の社会主義政党。
  • 民主社会運動(MDS: le Mouvement démocrate social )1996年設立の社会主義政党。
  • 民主勢力前線(FFD:le Parti du front des forces démocratiques)1997年設立。
  • 希望党(PE :Parti de l’espoir)1999年設立。
  • 市民勢力党(PFC :le Parti des forces citoyennes)2001年設立。
  • 統一国民会議(CNI: le Congrès national ittihadi )2001年設立。
  • 改革発展党(PRD: le Parti de la réforme et du développement)2001年設立。
  • 再生平等党(PRE:le Parti du renouveau et de l’equité)2002年設立。
  • モロッコ自由党(PML: le Parti marocain libéral)2002年設立。
  • 労働党(PT :Parti travailliste) 2005年設立。
  • 復興善行党(PRV:Parti de la renaissance et de la vertu) 2005年設立。
  • 社会主義統一党連合(PSU:Parti socialiste unifié )2005年設立。2002年、民主大衆行動機構(OADP:l’Organisation de l’action démocratique et populaire)、民主独立運動(MDI:le Mouvement des démocrates indépendants)、民主運動(MPD:le Mouvement pour la démocratie)が連合して、統一左派社会主義党(PGSU:le Parti de la gauche socialiste unifiée)を創設。2005年にPGSUがPSUに発展解消。
  • 社会党(PS:Parti socialiste) 2006年設立。
  • 民主社会党(PSD:Parti de la société démocratique) 2007年設立
  • 環境と持続可能な発展党(PEDD:Parti de l’environnement et du développement durable) 2009年設立。

上記の政党と統合した諸政党

  • 国民民主党(PND: Le Parti national démocrate)1979年設立。後に正統近代党(PAM)に統合。
  • 国民大衆運動(MNP:le Mouvement national populaire)1991年に設立され、2002年の議会選挙で18議席を獲得したが、後に大衆運動党(MP)に統合。
  • 社会民主党(PSD: le Parti socialiste démocratique )1996年設立。後にUSFPに統合。
  • 民主連合(UD:l’Union démocratique)2001年に設立。後に大衆運動党(MP)に統合。
  • 自由同盟(ADL:l’Alliance des libertés)、開発のための市民イニシアティブ(ICD: Initiatives citoyennes pour le développement)、アハド党(le Parti Al Ahd)、環境開発党(PED :le Parti de l’environnement et du développement )はいずれも2002年設立され、後に正統近代党(PAM)に統合。
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2019年1月18日

イラク/政党

サーイルーン(54議席)

宗教法学者ムクタダ・サドルが率いる政治潮流サドル派は、これまでにも選挙に参加し、議会や政府の一角を占めてきたが、決して政界の主流派ではなく、野党に近い立場で政権の汚職などを批判してきた。そして、2015年から2016年にかけて市民の抗議デモが広がった際にはその動員力を駆使して大きな存在感を示し、一部の閣僚をテクノクラートと交代させるまでに至った。2018年の選挙でも改革を旗印に掲げたサドル派の政党連合「サーイルーン」を率いて躍進し、2014年の獲得議席である34議席 を大幅に上回る54議席を得た。

だが、2018年のサドル派の得票数を2014年と比較すると、それほど大きく伸びたわけではなく、全国的に投票率が低迷した結果、固い支持基盤を持ち支持者を動員することができたサドル派が相対的に立場を上昇させたと見られる。なお、抵投票率に表れているように、既存政治家に対する市民の不信感はかなり高い。そうした声に敏感なムクタダは、選挙を前にしてこれまでサドル派の主要政党だったアフラール党を解党し、新党「イスティカーマ党」を立ち上げたが、この時に新党に横滑りすることができたアフラール党の現職議員はわずか3名だった。そのうちの一人が、5万5184票を集めて全国8位、女性候補者としてはトップ当選だったマージダ・タミーミ議員である。このように、勝てる候補者を絞り込み、ほとんど新顔を擁立するという戦略があたったと言える。

サーイルーンはイスティカーマ党を中心としつつも、政治改革という理念を共有する共産党など世俗政党も参加している。ただし、サーイルーンが獲得した54議席のうち、51議席がイスティカーマ党の議席である。

ファタハ連合(48議席)

ファタハ連合の母体は、対IS戦において軍事面で活躍した義勇兵組織、人民動員部隊である。シーア派民兵の中でもイランとの関係が深いグループが多い。ファタハ連合には18政党が参加している。政党法では政党が武装組織を持つことは禁じられており、多くが武装組織とは異なる名称の政党名を冠しているが実態は同じと見られている。

ファタハ連合が得た48議席の内訳を見ると、まず、代表のハーディ・アーミリ司令官率いるバドル組織が21議席を占めて強さを見せた。ただし、2014年の選挙においても、バドル組織はマーリキ首相(当時)率いる法治国家連合に参加して22議席を得ていたため、それを比べると1議席減である。次に、AAH(アサーイブ・アフルルハック)の政治組織「サーディクーン」がバグダードと南部で幅広く得票して15議席を得た。2014年の選挙でのサーディクーンの議席が1であったことからすると、大きな躍進である。また、人民動員部隊の報道官だったアフマド・アサディ率いる「イマームの兵士旅団」が「イラクにおけるイスラーム潮流」の政党名で2議席を獲得した。

なお、これまでシーア派主要政党の一つであった「イラク・イスラーム最高評議会(ISCI)」は、党首のアンマール・ハキームが新党「ヒクマ潮流」を形成して離党したことで壊滅的な打撃を受け、今回の選挙ではわずか2議席の獲得にとどまった。ファタハ連合内では、この他、7党がそれぞれ1~2議席を得た。

人民動員部隊は、対IS戦を機に中西部も含めてシーア派住民地域以外にも展開するようになった。2018年の選挙では、彼らが傘下に置く部族ハシュドと呼ばれるスンナ派の自警団的な武装組織が、ファタハ連合の集票に寄与する可能性が注目されていたが、サラーハッディーン県で人民動員部隊の第51旅団を率いるヤズン・ジュブーリなど、主だったスンナ派民兵候補者は落選した。したがって、ファタハ連合の集票は総じて、バドル組織やAAHなどの中心勢力のシーア派コミュニティ内部での動員力に負っていると言える。

勝利連合(42議席)

アバーディ首相はダアワ党所属だが、党首のマーリキとの折り合いが悪く、2018年の選挙にはダアワ党は党として特定の政党連合に所属せず、党員は各々個別の政党連合に所属して出馬することになった。アバーディ首相が率いた政党連合が「勝利連合」である。過去4年間近く、イラク軍を率いて対IS戦の中心人物となってきたことから選挙での勝利が予想されていたが、選挙では投票率が低迷し、市民の支持を得票に繋げられなかった。特に票田であるはずのバグダードや南部において、組織力を持つサーイルーンやファタハ連合に水をあけられたことで伸び悩んだ。加えて、アバーディ首相が所属するダアワ党は前任のマーリキ、ジャァファリと合わせて、2005年以降常に首相を輩出しイラク政界の中心にいたことで、既存のエスタブリッシュメント政治への逆風を受けた。バスラ、マイサーン、ナジャフ、ディーカールの各県の勝利連合立候補者リストのトップはいずれもダアワ党現職議員が占めていたが、4名とも落選した。むしろ当選したのは、ジャッバール・ルアイビ石油相、アドナーン・ズルフィ元ナジャフ県知事、スハーム・アカイリ・マイサーン県議会議員など、非ダアワ党員の方だった。

他方、勝利連合はバグダード、南部9県、ディヤーラ県で合計約84万票を得票する一方、シーア派住民が少ないその他4県(アンバール、サラーハッディーン、キルクーク、ニナワ)でも約29万票を獲得している。この29万票という数字は、他のシーア派主要政党の中では抜きん出て多く、スンナ派の各党や世俗政党連合ワタニーヤも凌いだ。ニナワ県のトップ当選者は勝利連合から立候補したスンナ派のハーリド・オベイディ元国防相であり、サラーハッディーン県でもアンマール・ユースィフ元県議会議長が1万票を集めて当選した。

KDP(クルディスタン民主党、25議席)

クルド民族主義政党で、エルビルやドホークなどを地盤とする。KDPが主導して2017年10月に実施されたクルディスタン地域の独立を問う住民投票が、国内外からの反発を受けて結果的に失敗に終わったことで、マスード・バルザーニは自治政府大統領の職を辞したが、今もKDP党首の座にとどまっている。政界におけるKDPのライバルかつパートナーであるPUKが、2000年代半ばから党内の分裂を食い止められず党勢が衰退していることをうけて、KDPは自治政府の要職を独占するなど、事実上、自治区はKDPの一党支配体制になりつつある。

自治区内では、2010年代半ばから原油価格下落や対IS戦の影響、イラク政府との間の予算配分問題などによって経済状況が極めて悪化しており、独立住民投票の失敗もあって、2018年の選挙では、与党であるKDPは議席を減らす可能性が指摘されていた。しかし、結果は2014年と同じ25議席を維持し、安定的な力を見せた。その背景には、特にドホーク県とエルビル県ではバルザーニ家への支持者の忠誠心や、強固に張り巡らされた党のパトロン・ネットワークの存在があるとみられる。

ワタニーヤ(21議席)

アッラーウィ副大統領率いる世俗政党だが、2018年の選挙ではサリーム・ジュブーリ国会議長率いる「改革のための市民集会」、サーレハ・ムトゥラク元副首相率いる「国民対話戦線」など、複数のスンナ派政党を取り込んで参戦した。それでも、獲得議席数は21議席と2014年と変わらず、ジュブーリ国会議長も落選した。アッラーウィ自身の個人得票数も2014年の23万票から今回は2.8万票へと激減しており、影響力の低下は免れないだろう。

ヒクマ潮流(19議席)

ISCI(イラク・イスラーム最高評議会)党首のアンマール・ハキームが2017年7 月に立ち上げた新党。ハキームは新党を若者、女性のための党で、近代的で、イラク社会の全てに開かれた党だとしている。結成時に30名強のISCI 議員のうち、20 名が新党に移ったとみられている。

ISCI の前身のSCIRI(イラク・イスラーム革命最高評議会)は1982 年にイランで当時の反体制派を集めて、サイイド・ムハンマド・バーキル・ハキームの下で形成された(ムハ ンマド・バーキルは、1970 年に亡くなった大アーヤトッラ、ムフスィン・ハキームの息子)。 その後、分裂してSCIRI は反対派のグループの一つになり、イラク戦争後にイラクに帰国した。バーキル・ハキームは2003 年8 月のテロ事件で死亡し、兄弟のアブドゥル・アジーズ・ハキームが跡を継いだ後、ISCIに改称。2009 年にアブドゥル・アジーズ・ハキームが病死すると、その息子であり創設者の甥であるアンマール・ハキームが党首に就いた。アンマールは古参幹部よりも遥かに若く、さらに若手登用で幹部は不満を持つようになったと言われている。

2018年の総選挙ではISCIの獲得議席が2議席にとどまる一方、ヒクマ潮流は19議席を獲得した。ISCIがその支持の多くをハキーム家の威光に負っていたこと、アンマールがISCI のテレビ局や外郭団体などを連れて出たことなどが影響したとみられる。

PUK(クルディスタン愛国同盟、18議席)

スレイマニヤ県やキルクーク県を地盤とする。党の創設者であり長年党首を務めていたジャラール・タラバーニが2017年10月に死去したが、党内の分裂が激しく新党首を選出できていない。

2018年選挙では、幹部の一人バルハム・サーレハ元自治政府首相が離党し、新党CDJ(民主正義連合)を結成しており、他にもスレイマニヤを中心に新党が立ち上がっていたことや、経済危機に対する市民の不満が既存政党に向かう可能性から、2018年の選挙にあたっては、PUKはかなり議席を減らすことになるのではと憶測されていた。しかし、結果は18議席と3議席減にとどまった。

それに対してキルクーク県のアラブ政党やトルコマン政党、スレイマニヤ県のクルド政党が選挙不正の疑いを申し立て、選挙結果が紛糾する主要因となった。ただし、手作業による一部再集計を経ても、PUKの議席数は変わらなかった。仮に大規模な不正がなかったとするならば、PUKの善戦の理由として、タラバーニ家の威光を前面に押し出した選挙キャンペーン、投票率が低迷する中でのPUK支持者の動員、2006年にPUKから分裂して誕生した野党ゴランの失敗への市民の失望などが考えられる。

イラクの決定連合(14議席)

スンナ派政党は、スンナ派住民が多いバグダードと中部5県を中心に出馬しているものの、いずれも党としての歴史が浅く組織力も弱い。そのため、選挙のために県ごとに様々な政党連合が組まれ、入れ替わりも激しい。2018年選挙ではヌジャイフィ副大統領を代表として「イラクの決定連合」が形成され、政党連合としては14議席を得た。しかし、ヌジャイフィ自身が党首であるムッタヒドゥーンは、2014年の選挙では27議席を得てスンナ派政党の代表格となったものの、2018年は別の政党連合に参加して得た議席を合わせても3議席に過ぎず、大きく失速した。ニナワ県でのヌジャイフィの個人得票数も1万票強で、7万票以上を得たオベイディ元国防相(勝利連合から立候補)に大きく引き離された。

他のスンナ派政党についても、ジャマール・カルブーリ率いるハッル党、ハミース・ハンジャル率いるアラブ計画などが、複数の政党連合に参加して議席を得たが、いずれも一桁に留まっている。

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2019年1月18日

イエメン/政党

1990年南北イエメン統一において、1981年に南北イエメン統一憲法合同委員会(77年南北国境衝突の停戦協定であるクウェート協定に基づき設立)が作成した統一憲法案が、そのままイエメン共和国の憲法案に採用された。イエメン共和国議会はこの憲法案を承認し、さらに同憲法第39条に規定された「政治団体の自由」を複数政党制の承認と解釈して、その導入を決定した。これにより政府は、統一と同時に複数政党制による総選挙実施を公約として発表した。議会で承認された憲法案は、翌91年5月に国民投票で承認されて正式に発布・施行され、同じ年に政党・政治団体法(91年第66号法)も公布された。 

政党・政治団体法では、政党・政治団体の結成の自由が明記されているが、それはイスラーム、イエメンの統一、旧南北イエメン革命および統一憲法の理念、政治的自由及び人権の尊重、アラブ民族の精神に合致するものとされている。また、特定の地域、言語、宗教などを基盤としてはならないとも規定されている。このほか、政党の結成手続きやその役員構成・会計などが規定され、政党・政治団体の認可・解散等を決定する政党・政治団体委員会(議会担当相を委員長とし、内務相、司法相などを委員とする)の設置およびその職務も規定されている。

法律上、政党の非認可および政党への解散命令は可能だが、現在までそのような例はない。たとえば、「イスラームに合致するもの」という規定と左派政党との関係、「特定の宗教を基盤としてはならない」という規定とイスラーム政党との関係、「特定の地域を基盤としてはならない」という規定と北部山岳地域を基盤とするザイド派イスラーム政党(エスニック政党)との関係などに問題の可能性はあるものの、これまで議論の対象となった形跡はなく、申請を行なった政党はすべて認可されている。また、1994年内戦で党幹部が旧南イエメン分離独立派に合流した諸政党(YSP、ナセル矯正、イエメン民族同盟)も、解散命令を受けていない。

2011年のサーレハ大統領辞任、2012年のハーディー大統領就任のあと、2013年3月から新憲法制定のための基本方針を決める包括的国民対話会議が始まった。包括的国民対話会議は2014年1月、連邦制導入などの方針を決定して閉幕したが、その後ハーディー政権は憲法案作成を行なわず、さらに翌2015年1月のホーシー派による「革命委員会」設置および3月以降の内戦により、政党政治は機能していない。

主要政党

国民全体会議(GPC)

イエメン・アラブ共和国(1990年南北イエメン統一以前の北イエメン)において、1982年にアリー・アブドッラー・サーレハ大統領により設立された同名の大政翼賛団体(各地方・職業団体からの選出700名、政府任命300名)を母体とする政党。統一以前の北イエメンでは政党が禁止されていたため、唯一の公認政治団体(実質的な単独支配政党)として、当時停止されていた議会の役割を果しながら、総選挙を準備する組織として位置づけられた。

統一後の政党・政治団体法施行に際し、政党申請を行なって一般から党員を募集する通常の政党となった(党首はサーレハ大統領)。もともと、アラブ民族主義を基調としながら、国内のさまざまな勢力や政治思想を包含する組織であったが、複数政党制の導入より左派(ナセル主義、バアス主義)や保守派が分離して新党を結成し、大政翼賛的な性格は失った。その後は、アラブ民族主義や革命理念の継承を掲げながらも、サーレハ政権を支持し、脱イデオロギー化のなかで国民経済の発展を優先する現実主義・実務志向の政党となっている。

1993年総選挙(定数301議席)で122議席(イスラーハ、YSPと三党連立内閣、1994年内戦後はイスラーハとの二党連立内閣)、1997年総選挙(単独内閣)で187議席、2003年総選挙で229議席(単独内閣)を獲得し、すべての総選挙で第一党となっている。また、2001年と2006年の地方選挙でも圧勝している。 

1995年に構造調整を受け入れて以降、マクロ経済の安定・拡大と補助金削減や財政再建などによる国民生活の負担増大との間で、政局の運営を続けている。生活基礎物資の価格上昇のたびにデモ・暴動が発生し、政府への強い不満・批判が噴出するものの、選挙では支持を拡大し続けていた。

イエメン改革党(イスラーハ、YIP)

統一後のGPCとYSPの協力関係やナセル主義、バアス主義の左派新党設立に警戒感を抱いた保守派議員がGPCを離脱し、GPCメンバーであった旧北イエメン北部のハーシド部族連合長アブドッラー・ビン・フセイン・アハマル(統一以降、2007年の死去まで議会議長)を党首に仰いで結成した政党。結成には、旧北イエメン南部のムスリム同胞団系のウラマー層も加わり、イエメン最大のイスラーム政党となった(北部部族はシーア派のザイド派に属し、南部はスンナ派のシャーフィイー法学派だが、宗派の違いはこれまで問題となっていない)。

1993年総選挙で63議席(GPC、YSPと三党連立内閣、1994年内戦後はGPCと二党連立内閣)、1997年総選挙で53議席(最大野党)、2003年総選挙で46議席(最大野党)を獲得し、すべての総選挙および地方選挙で、GPCに次ぐ第二党の位置を占める。 

イエメン最大最強の圧力団体とも言うべき保守的な北部部族勢力(ハーシド部族連合、バキール部族連合)を支持基盤とし、南部ウラマー層が政党としての思想や枠組みを提供する態勢をとっている。しかし、「イスラーハは動員力はあるが、集票力に欠ける」と評価されており、北部での支持は得票にはつながらず、議席の多くを南部に依存している。

党首はアハマル、党最高評議会議長はムスリム同胞団系の指導的ウラマーであるヤアシーン・アブドルアジーズ・クバーティー、党諮問委員長はサウジアラビアに近く、イエメン・イスラーム主義の教条派を代表するアブドルマジード・ジンダーニー(現イーマーン大学学長、党内では少数派)。アハマルもサウジアラビアと強い関係を有しており、アハマルとジンダーニーに着目すれば、イエメンにおける親サウジ政党ともいえる。

野党として経済・外交政策でGPCと激しく対立するものの、実質的にはサーレハ政権支持の姿勢を続けており、純粋な野党とは言いがたい。たとえば、1999年大統領選挙では対立候補を立てずにサーレハを支持し、2003年総選挙ではイスラーハ党首のアハマルがGPCからも公認を受け、イスラーハとGPCに両属する議員として当選して、引き続き議長に選出された。最大野党の党首が与党にも属して議長を務めることは、法律的にも政治倫理的にも問題とされておらず、イエメン政党政治の一面を象徴している。しかし、2006年大統領選挙では他の野党4党(YSP、ナセル統一、ハック党、イエメン人民勢力同盟)とサーレハの対立候補(実業家のシャムラーン)を擁立、支持し、活発な選挙戦を展開した。

2007年12月29日、アハマル党首が死去し、ムハンマド・ビン・アブドッラー・ヤドゥーミーが党首に就任した。

イエメン社会党(YSP)

イエメン民主主義人民共和国(統一前の南イエメン)における、マルクス・レーニン主義を掲げる単独支配政党。統一後の政党・政治団体法施行に際し、政党申請を行なって一般から党員を募集する通常の政党となった。ソ連崩壊と南北イエメン統一を背景に、党中央委員会は社会主義の放棄を決定したが、党内の混乱により党大会を開催できず、党の綱領自体は変わっていない。

1993年総選挙で56議席を獲得するが、GPC、イスラーハに次ぐ第三党に甘んじる(GPC、イスラーハと三党連立内閣)。党最高幹部が1994年内戦を引き起こし、旧南イエメンの分離独立(イエメン民主共和国の独立)を宣言したが、YSP議員の大半はこれに合流せず、首都サナアに残留した。内戦中にYSPは資産等を凍結され、連立内閣から排除されたが、内戦終結後も政党や議員としての活動には制限を加えられなかった。資産凍結の継続に抗議して、1997年総選挙をボイコット。2003年総選挙で復帰するも、7議席にとどまった。1999年大統領選挙では候補者を擁立できなかったが、2006年大統領選挙では他の野党4党(イスラーハ、ナセル統一、ハック党、イエメン人民勢力同盟)と候補者(実業家のシャムラーン)を擁立した。

旧北イエメンとの経済格差が解消されない旧南イエメンを支持基盤とする政党となるべき存在ではあるが、選挙では旧南イエメンでもGPCの得票が圧倒的となっている。 

アラブ・バアス社会主義党イエメン地域指導部(バアス党)

複数政党制の導入に伴い、バアス主義者がGPCから分離して、イラク系バアス党のイエメン支部として結党。結党時の党首は、ムジャーヒド・アブー・シャワーリブ(統一以前からのサーレハ大統領の側近で、アハマル・イスラーハ党首の義弟)だが、1994年内戦後に大統領顧問に任命され離党。その後、イラクのサッダーム・フセイン大統領(当時)に近いカーシム・サッラームが党首となる。しかし、党内対立からサッラームは離党して、新たにバアス民族党(総選挙での当選者なし)を設立した。

1993年総選挙で7議席、1997年および2003年総選挙では2議席を獲得。

ナセル人民統一組織(ナセル統一)

統一直前のアデンで結成された、旧北イエメンのハムディー大統領(在職1974~77年、南部を基盤とするリベラル派として北部部族勢力と対抗した)の支持勢力による政党。ナセル主義に基づく公正を訴え、旧北イエメン南部や旧南イエメンのアデン、アブヤンで一定の支持者を有する。1993年総選挙で1議席、1997年および2003年総選挙では、GPCと選挙協力を行なって3議席を獲得。 

ハック党

旧北イエメン北端のサアダを基盤とする、ザイド派(シーア派)カーディー(法学ウラマー)や旧サイイド層(シーア派初代イマーム・アリーの子孫。旧北イエメン革命前のイエメン・ムタワッキル王国における支配層。革命により特権剥奪)などが、GPCから分離して結成したザイド派のイスラーム政党であり、ホーシー家の活動を母体とする。1993年総選挙で2議席を獲得したが、その後は議席なし。 

その他
  • 民主ナセル党(ナセル民主。1993年総選挙で1議席のみ)
  • ナセル人民矯正組織(ナセル矯正。1993年総選挙で1議席のみ)
  • イエメン人民勢力同盟(ザイド派のイスラーム政党)
  • イエメン統一グループ(アデンの知識人層による政党)
  • イエメン民族同盟(旧南イエメン・ラヘジの保守層による政党)
  • 国民社会党
  • 人民民主同盟

政党以外の政治組織・政治勢力

ホーシー派(アンサール・アッラー)

1980年代、イエメン北部のザイド派地域(シーア派、信徒はハーシド部族連合とバキール部族連合に属する部族民)において、サウジアラビアが支援するワッハーブ派の布教活動拠点「ハディースの家」が設けられた。これに危機感を抱いたサイイド(預言者ムハンマドの子孫)のホーシー家(ザイド派ウラマーの家系)当主のバドルッディーン・ホーシーは、「信仰する若者」というザイド派の復興運動を開始した。これがホーシー派の起源とされる。1990年南北イエメン統一以降の民主化ではハック党を結成し、総選挙に参加した。

長男フサイン・ホーシーは、反ワッハーブ・反サウジの演説を繰り返したが、2003年のイラク戦争後に、それは反米の内容を多く含むようになり、多くの若者の支持を得た。しかし、2001年米同時多発テロ以降、米国の対テロ戦争に協力していたサーレハ大統領は、フセインに対し反米演説をしないよう求めたが、フセインは聞き入れなかった。2004年、サーレハは治安部隊をフセイン拘束のために派遣したが、支持者と銃撃戦になって拘束に失敗。武力衝突が拡大したため、その後はアリー・ムフシン(サーレハの異父弟。現在はハーディー政権の副大統領)を司令官とする第一機甲旅団がその制圧にあたったが、ホーシー派を抑えることはできなかった。父バドルッディーンと長男フセインが武力衝突のなかで死亡すると、次男アブドルマリクなどの親族が、ホーシー派を率いた。2005年以降は、イラン革命防衛隊の支援を受けている。その後、彼らはホーシー派と呼ばれるようになるが、彼ら自身は長く自称を持たず、のちに自らを「アンサール・アッラー(アッラーの支援者)」と名乗った。

イエメン政府は、ホーシー派はイラン流の「ウラマーによる政治」や「ザイド派イマーム(1918~1962年のイエメン・ムタワッキル王国国王)の復活」を求める集団であると喧伝したが、ホーシー派自身は特段の政治思想を展開せず、政府軍の攻撃に防御・反撃しているのみとの姿勢を取り続けた。

当時、これはサアダ事件と呼ばれ、サアダ州の一部における衝突であったが、2011年の政変に乗じてホーシー派は北部3州(サアダ州、ハッジャ州、ジョウフ州)を掌握し、ハーディー政権下の包括的国民対話会議に参加した。しかし、2004年1月、包括的国民対話会議がホーシー派が反対する連邦制の導入に合意すると、翌2月より南下を開始し、同年9月にはサナアを占拠した。翌2015年1月、ホーシー派はハーディー大統領を軟禁下に置き、翌2月に「革命委員会」を組織して、2年間の暫定統治を宣言した。翌3月からはサナア以南に本格的な進攻を開始し、ハーディー政権およびそれを支援するサウジアラビア主導のアラブ有志連合との内戦に至った。

南部運動(ヒラーク)

2007年、アデン近郊で公務員解雇に反対するデモが生じた。その後、同様なデモが多発し、暴動に発展する例も増えた。1990年南北イエメン統一以降、政治経済の北部偏重に南部住民は大きな不満を持っており、これがデモや暴動の背景となっていた。そのような騒擾状態のなか、同年に旧南イエメンの平和的な再分離独立を求める南部運動(通称ヒラーク)が組織された。その内実は、さまざまな勢力や団体の集合体であり、まとまった組織とは呼べないものであったが、2011年政変後の包括的国民対話会議に参加し、連邦制の導入を主導した。

2015年以降の内戦では、この南部運動を背景とした複数の政治団体や武装勢力が南部諸勢力と呼ばれ、UAEの支援を受けて2016年以降の沿岸部での戦闘の主体となっている。ハーディー政権と対立し、2017年5月にアデンを掌握した南部移行評議会(Southern Transitional Council, STC)は、この南部諸勢力の中心的存在。

参考文献

  • 松本弘「イエメンの民主化」『現代の中東』27号(1999年7月)、pp.27-41。
  • ―――「イエメン民主化の10年」『現代の中東』39号(2005年7月)、pp.24-39。
  • ―――「イエメン:政党政治の成立と亀裂」間寧編『西・中央アジアにおける亀裂構造と政治体制』JETROアジア経済研究所、2006年、pp.95-158。
  • ―――「イエメン・ホーシー派の展開」、酒井啓子編『途上国における軍・政治権力・市民社会―21世紀の「新しい」政軍関係―』晃洋書房、2016年、pp.112-129。
  • ―――「イエメン内戦の背景と特質」『海外事情』64巻9号(2016年9月)、pp.18-29。
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2019年1月18日

トルコ/政党

(1) 政党制度

党の設立や活動についての規定は、政党法により定められている。同法では、全ての政党は、内務省に届け出を出さねばならない他、党本部をアンカラに置くこと等が義務づけられている。党員資格は、満18歳以上で参政権を有する者と規定されているが、裁判官、検察官、高等教育機関の教員、上級公務員、大学入学前の学生、軍人、過去にテロに関与したとして逮捕された者などは党員になることを禁じられている。

党の活動資金は、政党交付金(国政選挙で10%以上の全国平均得票率を獲得して国会議員を輩出した政党に加え、議員を輩出できなかったとしても政党法に規定された割合以上の得票率を得た政党には支給される。後者については2014年の法改正により、従来の全国平均7%以上の規定が3%以上に引き下げられた)の他、党員年会費、各種議員年会費、党関連商品収益(旗、バッジ等)、党出版物収益、党主催パーティー収益、党所有物からの収益、寄付などによることが規定されている。

トルコの体制が、世俗主義を中心とする特定の不可侵の原則に立脚し、軍部の政治的プレゼンスに支えられていることを既に述べたが、同様に、以下のような原則を遵守することが政党に対しても義務付けられている。

国土の一体性の保全、世俗主義を遵守し、アタテュルクに敬意を示さねばならない。

宗教・人種・言語・地域的な差違に基づく分離独立主義や差別主義を標榜してはならない。

こうした規定は、思想活動の自由に抵触するものであるが、政党法だけでなく、憲法においてさえ繰り返し規定されている。その他、共産主義、無政府主義、ファシスト、神権政治、国家社会主義、宗教・人種・宗派・地域の名称(あるいは主旨が同じもの)を党名に掲げた政党の結成が事実上、禁じられてきたが、EU加盟プロセスの加速や政権党に対する非合法化裁判などが、政党非合法化を一般論としては非民主的だとする認識を後押ししてきた。

政党の非合法化については、法律に違反したと共和国主席検事が判断した場合や、内閣の決定に基づいて法務大臣が要請した場合などに、憲法裁判所で解党の可否を決定することになっている。2017年12月末日時点で、1923年の共和国設立以来、合法的に存在した政党は合計340あり、そのうち解散・自然消滅・非合法化など多様な理由のためにもはや存在しない政党は全部で252にのぼる(Tuncel 2018, p.25)。政党法に基づく政党は2018年7月19日時点で84ある。https://www.yargitaycb.gov.tr/sayfa/faaliyette-olan-siyasi-partiler/documents/Spartiler19072018.pdfである。非合法化された政党の数は共和国設立以来、61政党である(Tuncel 2018, p.29)。クーデタにより軍事政権が樹立された際に非合法化されたものもあれば、国是に反する政治目標を掲げているとして裁判によって閉鎖されたものも少なくない。後者の例としては、共産主義を奉じるトルコ労働者党や親クルドの人民の労働党、親イスラムの福祉党や美徳党などがある。その一方で、そのような法律の運用は弾力的で、その時々の体制側の政治的判断に任されているといえる。例えば、1960年代の共産主義勢力の流れを汲む社会主義権力党(Sosyalist İktidar Partisi)が2001年11月にトルコ共産党(Türkiye Komünist Partisi)と改称したが、現在まで非合法化に向けた手続きは始められていない。2010年の憲法改正で、解党裁判は、国会が起訴を承認しなければ憲法裁判所は審理できないことになった。また、非合法化の原因と認定される言動をとった議員は、従来は政党の非合法化とともに議員資格を喪失したが、憲法改正によって、その後も議員活動を継続できることになった。クルド問題で揺れる社会状況を背景にして、なかなか一足飛びに政党非合法化という非民主的慣行にけりをつけられない状況での折衷的憲法改正といえる。

その一方で、クルド系政党やクルド系世論の要求を汲んで、2014年には選挙期間中の宣伝活動について、クルド語を含めあらゆる言語や方言で行うことが合法的行為と認められ、それ以降、クルド語での選挙活動はクルド系人口が多い地域では一般的となった。 しかし、言論の自由がどこまで保証されるかが政治情勢によって大きく左右される状況は脱していない。中道右派のイスラム系政権がトルコ民族主義と権威主義を結びつけながら強めていった2015年夏以降には、クルド民族主義的な言論の自由は大きく制限され、クルド系人口の半数以上の支持を固めるに至ったクルド系左派の諸人民の民主党の政治家やシンパの知識人に逮捕や公職追放を含む厳しい抑圧政策がとられている。

  政党が選挙に参加するためには、投票日の6ヶ月前までに全国の半数以上の県において各県内の3分の1以上の自治体に支部を開設した上に党大会を開催済みであるか、もしくは国会に会派を有していることが条件とされている。選挙制度の項で説明したように、単独もしくは選挙協力を行った政党との合算による全国平均得票率が10%を超えなければ、国会に議席を得ることはできない。

(2) 主要政党の解説

現在、トルコの政党の多くはインターネット上に公式サイトを持っており、情報量に差はあるものの英語サイトを運営しているところも少なくなく、比較的情報は集めやすい。以下に、現在、議会に議席を有する政党を中心に、1980年代以降の国会に議員を擁した実績のある主要政党の基本情報をまとめておく。 政党の記載順は基本は2018年国会議員選挙における得票率順であるが、それらの政党から派生した政党で議席を獲得している党については、便宜的に得票率の大小にかかわらず、派生した党のすぐ次に掲載している。

公正と発展党(AKP)

2002年8月設立の親イスラム政党。党首は2017年5月よりレジェプ・タイップ・エルドアン(Recep Tayyip Erdoğan)。

1970年にネジメッティン・エルバカン(Necmettin Erbakan)を党首として設立された国民秩序党に始まり、クーデタや憲法裁判所の判決による解党と後継政党の設立を繰り返してきたイスラム政党の末裔。国民秩序党はナクシュバンディー系の教団の後押しを受けて設立され、内陸アナトリアを中心とした反体制イスラム復興勢力を糾合した。トルコでの世俗主義国家樹立とその後の世俗化・欧化政策を批判し、イスラム的な規範に依拠した体制や政策を通じて社会的公正と経済発展を両立できると説く綱領「ムスリム国民の視座」(Milli Görüş)を掲げた。イスラム復興勢力を支持基盤とするが、党の政策のレベルではイスラム国家の内容を具体的に示して政策立案をするというよりは、より現実的に、宗教活動の自由化、宗教教育の拡充、中小企業の振興による地域的経済格差の是正を訴えた。国民秩序党以来、宗教保守的な中小の商工業者を支持基盤としてきたが、1990年代には都市部で女性支持者をも巻き込んだ動員組織網を築き、都市貧困層の支持を拡大した結果、1995年総選挙では議会第一党となった。1996年7月にはエルバカンを首相とする連立政権が正道党とともに樹立されたが、軍部を中心とする体制派勢力の圧力に屈し、翌年の6月に連立政権は崩壊した。福祉党は世俗主義に反しているとして1998年2月に解党され、エルバカンは政治活動を禁じられたが、事前に設立されていた美徳党にほとんどの議員が移籍し、エルバカンの意向を受けたレジャイ・クタン(Recai Kutan)が党首となった。

しかし、2001年6月に美徳党も解散判決を受けた後、古参幹部率いる至福党と、次代のリーダーと目され大衆的人気を誇るレジェプ・タイップ・エルドアンを党首とする公正と発展党に分裂した。エルドアンら公正と発展党を設立したグループは、党幹部の世代交代や時代に対応した新しい思想や政策方針の必要性を主張し、美徳党までの支持層に加えて中道右派やリベラルな層からも支持を集めることに成功した。2002年総選挙で公正と発展党が議会第一党に大躍進したのに対し、至福党は大敗(得票率2.5%)を喫した。

エルドアンは国民秩序党結成当時の活動家の典型ともいえる。イスタンブルの下町の貧しい家庭に育ち、イマーム・ハティーブ学校を卒業した後、就職などを経て大学の経済行政学部に進学している。前後して、党の青年部で活動を始め、党内組織で上昇し、エルバカンの秘蔵っ子的存在となった。イスタンブルでの草の根動員組織立ち上げなど、独自の活動で党の台頭に貢献し、1994年からは国内最大の都市イスタンブルで大都市市長としてイスタンブルの近代的都市化を成し遂げて、国民的な人気を獲得した。

公正と発展党は、福祉党と美徳党が非合法化されて政治活動を続けられなくなった上、その際に非合法化が非民主的だとの国民的擁護を得られなかったことを反省し、エルバカンが率いてきた「ムスリム国民の視座」運動が、結局は、イスラム的言説を用いて国民の一部に疎外感や警戒感を与えたり、イスラムを政治的に利用しているとの反感を招いただけだったと結論づけた。そして、新党では、「保守民主主義」をイデオロギー的立場に掲げ、イスラム政党ではないと主張している。公正と発展党が擁護する「保守民主主義」とは、社会の伝統文化に根ざしながらも、急進的ではなく漸進的な変化を通じて社会の近代化や変化を遂げようとする立場だと説明されている。また、特定宗教や民族、イデオロギーを強制することは社会に分断や対立をもたらすことになると批判し、社会や文化の多様性を認めるような多元主義的な民主政治を実現することで、トルコの政治社会の発展と国際的な寛容や相互理解を促すことができると主張する。そして、社会の多様な立場を仲裁し、妥協点を見出させることのできる制度として政教分離を擁護している。また、党のイデオローグには、西洋のキリスト教民主党に類似した「ムスリム民主政党」ではないとの主張もあるが、社会の価値観や伝統文化に根ざした政策の実現として、家族の保護強化やイスラムの価値観と一致する政策が志向されており、党がイスラム的価値規範に依拠していることは、否定できない。例えば、2004年には刑法に姦通罪規定を盛り込もうとの意見が出されたり、地方の公正と発展党市政においては、市営の公共施設で酒類の販売を取りやめた自治体も出てきている。ただし、公正と発展党政権は、ユニセフから支援を得て女子児童就学促進キャンペーンを行ったり、女性への虐待を防止するための取り組みも始めており、イスラム的価値規範と伝統的慣習を精査峻別しながら女性に関連する領域についても社会改革を進めてきた。

2014年8月にエルドアンが大統領に選出されたのを機に、憲法規定に則り党籍を離脱した。これに伴い、新党首および新首相にはエルドアン政権を外交顧問や外相として支え続けてきたアフメト・ダヴトオール(Ahmet Davutoğlu)が就任した。エルドアンの大統領選出に伴って、前大統領のギュルが大統領職のために離れていた党に復籍し、党首および首相に就任する、という可能性もあった。しかし、多くの世論調査で自身をしのぐ国民的人気を集めていたギュルが党内権力を確立することを妨げるために、エルドアンはギュルから大統領職を引き継ぐ前日、つまりギュルが復党できる前日に党大会を開くことを決定し、そこでダヴトオールに党首および首相の任を任せることにした。2013年のゲズィ・デモ以来、エルドアンが首相として野党勢力や批判勢力を強硬な手段で弾圧したり、「非国民」とレッテルをはって国民の分断と批判勢力の弾圧を正当化する言説を強めてきた中で、ギュルはエルドアンに対する表立っての対立は避けながらも、そうした分断政治を和らげ、民主的な政治運営を求める発言をしており、野党勢力からは一定の評価を得ていた。そのため、その後、権威主義化が強まる中で、ギュルや彼に同調する勢力の党内権力掌握と、政権掌握を期待する声が、野党側メディアで繰り返し現れた。2018年大統領選においてもギュルを、国会議員選挙での選挙協力では一致した野党連合の「国民連合」の共同候補とする動きが起こったものの、同連合を構成する良好党の反対で実現しなかった。ギュルも野党勢力が一致して推すという条件が満たされた場合のみ出馬要請を受け入れるとしていたため、立候補には至らなかった。この間、エルドアンは、ギュルの学生時代からの友人である参謀総長(当時)と、公正と発展党政権下で長く首相顧問や大統領補佐官を務め、ギュルの信頼もあつい人物を使者に立て、立候補見送りを要請している。

この数年、エルドアンや彼の取り巻きによって、これまでの政権運営や党活動における功績を否定し、すべての功績はエルドアン一人の力によるものであるかのような言説づくりが進められており、その過程で、ギュルや彼に同調する旧幹部たちは、名誉や権威を失墜させるような発言やメディア活動にさらされてきた。ギュルらは未だに党籍は維持しているが、エルドアンとの関係は冷え切っており、エルドアン後が模索される度に、エルドアン批判勢力によってギュルの名前が取り沙汰されている。ただし、彼がエルドアンの権威主義化に対して公然と批判し、自らがそれを正すために打って出ることはなかった。強いリーダーを求めるトルコの政治文化において、ギュルへの期待がいつまで続くのかは未知数である。

ダヴトオールも、公正と発展党政権期を通じてその外交政策を策定してきた点で貢献は非常に大きかったものの、こうした権謀術数のなかでエルドアンのおかげで政治権力を得たにすぎず、党内や政権での権力基盤は脆弱だった。大学教授から政治家になったこともあり、公正と発展党に連なる政治運動や政党組織の内部から経験と人脈を蓄積してきた政治家ではなかった。ダヴトオールは彼なりにエルドアンから自立した国家運営を目指したものの、エルドアンがダヴトオールの党内や政権内で独自色や権力基盤を構築することを許すはずはなかった。党幹部選定はもちろんのこと、選挙候補者リストや閣僚リストの作成をめぐってエルドアンとの激しい確執が繰り広げられた。ギュレン派との対立の過程でエルドアンの親族を含む汚職事件が政権を揺るがした際にも、野党だけでなく党内支持基盤からも党関係者の汚職一般に関する批判が噴出する中で、弾劾裁判実施や汚職防止法の制定を目指したものの、エルドアンがそれを遮る発言をすると引き下がらざるをえなかった。対立が激しさを増す中で、エルドアンによって引き立てられたメンバーが牛耳る党幹部会において、党首の地方組織人事権を停止する決定が急になされたのをきっかけに、ダヴトオールは党首および首相辞任を決意した。

ダヴトオールにとって代わったのは、エルドアンがイスタンブル市長をしていた1990年代から腹心として彼を支えてきたビナリ・ユルドゥルム(Binali Yıldırım)である。ユルドゥルムは公正と発展党政権期の運輸・海運・通信相をほぼ独占的に務め、トルコのインフラ発展を象徴する政治家となった。大統領制移行にともない、首相職は廃止となったため、2018年国会議員選挙に立候補して当選し、新体制では国会議長としてエルドアン政権を支えている。

2017年4月に大統領制移行をかけた憲法改正国民投票が実施され、辛くも過半数を得られたが、その際に承認された憲法改正条項には、大統領就任に伴う党籍離脱規定を廃止する条項が含まれていた。従来はすべての政党に対して中立的であるべく大統領就任とともに党籍離脱が要請されていた。しかも、この規定は、大統領制移行と同時適用ではなく、国民投票結果が公的になり次第、一足先に実施されることとされていた。これを受けて同5月に早速、公正と発展党臨時党大会が開催され、2014年の大統領就任時に党籍を離脱していたエルドアンの復党および党首就任が承認された。

エルドアンは、自らは首相から大統領へ鞍替えし、大統領職もシステム変更によって2選禁止の適用をかわして権力ポストを維持しつづけている。その一方で、党が継続的・漸進的に人員刷新や世代交代を進める必要を説いて、国会議員の4選を党規で禁止し、現役議員の1/2から2/3を選挙の度に候補者リストから外し、被選挙権年齢を引き下げてきた(最新状況は18歳)。しかしこれは同時に、党組織や国会議員候補選定という人事をエルドアンが掌握し続けながら、ライバル候補の権力ポジションでの滞留を防ぐという効果(おそらく意図)もある。これは党や国政、地方行政にまつわる利権の受益者が全体として増加することを意味しており、そのおこぼれにあずかろうとする潜在的待機者の支持を取り付け、自分や親族がそこから弾かれないように批判を自己規制する人々を繋ぎ止めるのに役立ってきた。しかし、かつての「ムスリム国民の視座」運動の精神を根っこのところで共有しない中道右派やトルコ民族主義の人々、公正と発展党政権が利権政治の旨みを享受する時代に育った若い世代が、党の主流となることを懸念する声も、その時代を経験してきた世代からは漏れ聞こえてくる。

公正と発展党がイデオロギー的にどのような位置取りをするに至ったのかは、批判勢力からはイスラム的権威主義だとのレッテル張りが目立つが、イスラム的価値規範を重視する批判勢力からはイスラムから遠ざかっているとの批判を受けている。トルコ国内と国際的な政治経済・価値規範のヒエラルキーにおいて世俗主義や西洋中心主義が支配的であることを批判し、ムスリム・アイデンティティに巧みに訴えながら支持を糾合しつつも、同党の成長政策には欧米や日本がかつて行ってきた近代的な都市生活と技術開発をめざす点で目新しいものはない。環境破壊や汚職など、先発の高度発展社会が踏んできた轍もしっかり踏んでいる点で、アイデンティティという面を超えて、ムスリムであるということがどのような代替的規範として統治において作用しているのかは見えにくい。

至福党(SP)

  ・Saadet Partisi

2002年7月に結成された至福党は、当時、エルバカンが政治活動を禁止されていたため、エルバカンを取り巻きとして常に支えてきたレジャイ・クタンが初代党首に就任した。その後、エルバカンの禁が解かれると、エルバカンが党首となったが、検察が党の政治資金の収支の不透明さを指摘したのをきっかけに、至福党がエルバカンに連座して再度、非合法化されるのを防ぐためとして党首を辞し、党籍を離れた。2006年4月から2008年10月までの間、隠然たるエルバカンの影響力のもと、再びクタンが党を率いたが、彼が引退を表明し、2008年10月からはヌーマン・クルトゥルムシュ(Numan Kurtulmuş)が党首に就任し、世代交代を果たした。クルトゥルムシュは2010年7月の党大会で結果的には再選されたが、エルバカンが影響力維持を目論んで、エルバカンの子供たちや娘婿を含む党幹部対抗リストを提出したために混乱した。その混乱が後を引き、その後、クルトゥルムシュは離党を決断した。その後、至福党ではエルバカンが党首に選出され、クルトゥルムシュは一緒に離党した仲間たちと2010年11月に人民の声党(Halkın Sesi Partisi)を旗揚げした。しかし2011年総選挙では至福党の得票率を超えることさえできず、2012年9月にエルドアン首相の呼びかけに応じる形で、党大会で解党を決議し、公正と発展党に幹部・党員の多くが移籍した。クルトゥルムシュは、公正と発展党副党首を経て、ダヴトオール政権で副首相を務めた。至福党では、2011年2月にエルバカンが逝去したのに伴い、党首はムスタファ・カマラク(Mustafa Kamalak)に引き継がれたのち、2016年10月以降はテメル・カラモッラオール(Temel Karamollaoğlu)が務める。至福党はいまでも「ムスリム国民の視座」を党是に掲げている。

公正と発展党政権が中道からイスラームやトルコ民族主義までを広く包摂する右派全体で圧倒的支持率を誇るなかで、至福党は存在感を示せないでいた。しかし、人民の声党解党後に行き場を失っていた、イスタンブルやアンカラといった都市部インテリ層を中心としたイスラム左派的市民運動潮流が、特に2013年の反政府デモ以降に共和人民党や諸人民の民主党のなかの、多元的政治アイデンティティの承認や社会民主主義に依拠した民主的で福祉国家的なトルコを目指すグループと共闘する基盤を模索する中、至福党もその流れに乗ることで党勢立て直しを図った。政権の権威主義化を批判し、イスラムは民族主義を否定し、人権を擁護するはずだとの主張によって存在感を示そうとしたのである。

それは、2018年6月選挙戦では至福党は支持率に比して多大な関心を集めることになった。ムスリム世論において政権の社会分断を煽る言説や汚職に対する不満が蓄積していることがしばしばメディアを賑わしていたことから、世俗派を中心に、至福党が与党支持基盤の不満を吸い上げて躍進し、政権交代か少なくとも議会過半数割れが起きてほしいとの期待が高まったのである。カラモッラオール党首の温厚な人柄も、対立的政治言説に疲れていた人々に好意的に受け入れられた。至福党は、共和人民党という、長きにわたってケマリズムを代表し、イスラム復興運動の担い手からは自らを弾圧する政治勢力の代表と目されてきた政党と選挙協力を実現し、さらには自党の候補者を共和人民党候補者リストから出馬させることにより、国会に2議席を確保した。

しかし至福党への関心はあくまで一時的なものであり、しかも有権者のほとんどには現実的な投票選択肢とは映らなかったようである。前回比で得票実数・比率ともに2倍にしたものの、過去の最大得票率である2.5%には大きく届かない1.3%にとどまった。また、共和人民党と是々非々で協力する流れは都市部の高学歴層を中心に支持されているが、全体としては至福党の支持層は地方都市や農村部などの宗教保守層が中心とみられる。そのため、個人の自由や多様なアイデンティティの承認を主柱とした主張がどれだけ党勢拡大につながるかについては、今回の選挙結果から見る限り、肯定的な評価をするのは難しい。

共和人民党(CHP)

1991年設立の中道左派政党。党首はケマル・クルチダルオール(Kemal Kılıçdaroğlu)。

建国以来、アタテュルクの指導の下で共和国体制を築いてきた共和人民党の流れを汲み、体制の基本原理である世俗化・西欧化による近代化を目指す。1965年に当時の共和人民党が左翼の労働運動や学生運動の高揚に対応して、従来の体制派の幹部政党から労働者階級に支持基盤を求める「中道左派」に路線変更を宣言した。「中道左派」は共産主義や社会主義とは一線を画し、共和国体制の遵守を掲げた。それ以後、体制派エリートおよび地方の名望家という旧来の支持基盤に加えて、都市の低所得階層の支持を獲得し、1970年代には、共和人民党は三度、連立政権を率いた。

1980年クーデタに際して非合法化された後、クーデタ以前の政党名での政党結成が1991年まで禁じられていたため、旧共和人民党勢力は社会民主人民主義党と民主左派党に分裂して活動していたが、1990年代の左翼勢力の低迷に対する一つの打開策として、「中道左派宣言」(1965年)以前の共和人民党の精神を再生することを主張したデニズ・バイカル(Deniz Baykal)率いる派閥が、社会民主人民主義党を辞して設立した。1995年には逆に社会民主人民主義党を統合したが、カリスマ性に欠け、時代の変化に対応した新機軸を打ち出せない指導層の下で低迷し、1999年選挙ではついに国会の議席を失った。しかし、2002年選挙では、エジェヴィト率いる民主左派党政権の失政に失望した左派勢力を糾合して大躍進し、公正と発展党と議席を二分する議会第二党となった。2007年選挙でも議会第2位を維持している。2010年5月の党大会でもバイカルが単独候補として党首を維持する見込みだったが、党大会直前になってバイカルの不倫動画がネットに流出したためにバイカルは党首辞任を余儀なくされた。代わりに急遽、単独候補として選出されたのがクルチダルオールである。

クルチダルオールは、トゥンジェリ県出身のアレヴィ系クルドであるが、かつては世俗的トルコ国民アイデンティティのもとでの国家と国民の一体性を主張するアタテュルク主義を擁護していた。しかし、バイカル党首期に強硬なアタテュルク主義路線で公正と発展党に対抗しようとしたことが政治的混乱を招き、国内外のリベラルな世俗派の不信を招く結果になったことを顧みて、党首就任演説では世俗主義体制擁護を持ち出すことなく、失業や貧困問題を訴えた。それ以降、福祉社会的国家をグローバル化する経済のなかでどのように実現できるのかを説得的に提示することを最優先課題とし、社会民主的党是の下に多様な宗教的信仰の人々やクルドの人々をも積極的に包摂する政党へと長期的に脱皮することを目指す幹部らが、クルチダルオールの指導下で党綱領の改定を目指してきた。

その一方で、クルチダルオール党首は党幹部にウルサルジュ(Ulusalcı)と呼ばれる、アタテュルク主義を絶対視し、それと矛盾する親イスラム的勢力やクルド主義勢力の排除を主張する人物も配し、当初は党の路線と幹部選出の一貫性よりは既存の支持基盤を維持する調和路線をとっていた。また、2014年1月に社会民主派の国会議員や党幹部にインタビューしたところでは、党綱領にあるアタテュルク主義や世俗主義を現段階でどのように定義・理解するのかについて、党内で理性的な議論ができる状態にないとの認識を示した。

2014年8月の大統領選挙では、親イスラムのアイデンティティで知られるイフサンオールを擁立して失敗したことへの批判が、ウルサルジュらを中心として党内で盛り上った。その結果、臨時党大会が開催され、党首および党幹部の選挙が行われた。結果はクルチダルオールの圧勝ではあったが、その際に、旧福祉党議員で、近年、「反資本主義ムスリム」(イスラムに依拠してグローバルおよび国内の階級格差やネオリベラリズムに根差した政策を批判する立場)を自称するメフメト・ベキャルオール(Mehmet Bekaroğlu)を党幹部に招き入れたことに反発して、ウルサルジュの重鎮であるエミネ・ウルケル・タルハンが離党した。彼女はアナトリア党(Anadolu Partisi)を設立し、党首となった。しかし、アナトリア党に現職議員が移籍することはなく、ウルサルジュの議員はほとんど共和人民党に残った

これは2013年初夏のゲズィ・デモが激しい弾圧を受け、その後急速に権威主義化を強める政権に対して批判を高めていこうとする時期のことであり、それ以降も、クルチダルオールはベキャルオールと近い関係にあるイスラム左派の潮流との関係構築に努めてきた。政治アイデンティティの多元主義と人権、社会民主主義的経済社会政策で折り合えるイスラム政治運動との信頼関係醸成を通じて、イスラム的価値を重視する人たちを長く共和人民党から遠ざけてきたレッテル、つまりイスラムを弾圧し蔑むエリート主義政党だとの強固な否定的固定観念に風穴を開けようとの試みである。それは、2018年選挙の項で触れたように、「公正のための行進」以降、一定の成果を結んだ。2018年選挙でそうしたイスラム左派を都市部で抱える至福党との選挙協力が可能になったのである。しかし、選挙結果から明らかなように、イスラム左派はイスラム復興の流れをくむ有権者を、公正と発展党から奪うだけの説得力を持ち得ていない。

2018年大統領選は結局、野党もそれぞれの候補者を擁立することになったが、クルチダルオールはクルド系アレヴィという自身のアイデンティティがトルコ系有権者を糾合するのは難しいとの判断から、2014年臨時党大会で党首の座を争ったライバルであるムハッレム・インジェ(Muharrem İnce)に白羽の矢を立てた。彼がアナトリアの農村の伝統的なイスラム的家庭の出身であり、母親がスカーフ着用者であることを選挙戦では強調した。また、自身は世俗的イデオロギー立場を共有する妻と家庭を築いていることも、西部大都市部での集会で一緒に登壇して示した。収監中の諸人民の民主党党首への面会やその妻を自宅に訪問し、クルド系有権者にもアピールしようとした。さらには、シリア難民にはシリアに戻ってもらおうと公言することで、トルコ社会で渦巻く難民受け入れにまつわる不満をすくい上げようとした。もともとウルサルジュの潮流に属するとみなされていたために、イスラムやクルドにまつわる問題で積極姿勢を見せたことは、リベラル派に嬉しい驚きとなり、大統領選の初回投票でエルドアンの過半数得票阻止の期待を高めた。結局はそうはならなかったものの、共和人民党の国会議員選挙での得票率を約8%も上回る得票率を獲得した。この得票率の差は、インジェ個人の人気、つまり彼が共和人民党党首だったら同じだけの得票率を党も国会議員選挙で収めることができたというよりは、エルドアンの当選阻止に望みをかける野党勢力(特に、良好党と諸人民の民主党の支持層)が、どう転んでも自党党首が大統領になる可能性はなさそうだとふんで、初回からインジェの勢いを示すために投票したと考えるほうが妥当だと思われる。しかし、インジェは、クルチダルオールの目指す方向性に賛同しない党内勢力の代表として党首選を戦った過去があり、この票差を理由として、早速、クルチダルオールに揺さぶりをかけた。しかし、アメリカとの摩擦のためにトルコリラが急落し、トルコ発の国際経済危機が心配される状況で、党内派閥争いを繰り広げることは半年後に予定されている統一地方選への悪影響を招きかねないと判断し、一旦は矛を収めることになった。また、クルチダルオールは国会議員選挙で当選したが大統領選で落選したインジェは公職にないこと、前回の党首選でクルチダルオールはインジェの倍の支持を得ていることから、インジェがクルチダルオールをそう簡単には覆せない可能性は強い。また、クルチダルオールがこの選挙のプロセスを通じて党利党略や私的利害を超えてトルコの民主主義の危機を軽減するために方策を尽くし、その一環としてインジェの擁立がなったことを考慮すれば、今後の党内勢力分布やより広くトルコ世論による評価を上述の得票率の差だけから見通すのは拙速であろう。

民族主義行動党(MHP)

1993年に、民族主義労働党(Milliyetçi Çalışma Partisi)から改称されたトルコ民族主義政党。党創設者で極右トルコ民族主義運動のカリスマ的指導者だったアルパルスラン・テュルケシュ(Alparslan Türkeş)が1997年に死去したのを受けて、デヴレト・バフチェリ(Devlet Bahçeli)が党首に選出された。

 1980年9月の軍事クーデタにより政党は全て非合法化されたが、1983年に政党活動が解禁された際に、それ以前に存在した政党名を使用することが禁じられていた。党名の改称は、その法律が1992年に撤廃されたことに伴って行われた。

 民族主義労働党は1985年に旧民族主義行動党の後継政党として、当時政治活動を禁じられていたテュルケシュの隠然たる指導のもとで設立された。1960年クーデタの首謀者でもあった退役陸軍大佐のテュルケシュは、軍政内部の抗争の結果、国外左遷に遭ったが、帰国・退役後に1965年に共和主義農民国民党(Cumhriyetçi Köylü Millet Partisi)党首に就任し、1969年に党名を民族主義行動党と改称した。 テュルケシュは、支持者の間では、イスラム化以前のトルコ族が中央アジアから破竹の勢いで勢力を広げていた頃の豪壮なイメージを彷彿とさせる「首領」(başbuğ)という愛称で親しまれた。

同党のトルコ民族主義は、ナチスの影響を受けたトルコ民族の「人種的優位」思想や国家社会主義、中央アジアまでを射程に入れた汎トルコ主義を主柱とする極右思想に立脚する。また、こうした思想を「理想」(ülkü)と奉じる勢力が、「トルコ人の炉辺」(Türk Ocağı)や「理想の炉辺」(Ülkü Ocağı)といった文化団体を各地に設立して国民への浸透を図った。こうした団体は正式に党の組織に組み込まれている訳ではないが、党のシンパ養成の役割を担ってきた。

 党は、1960年代から70年代には反共の攻撃部隊と化した極右の学生・労働者組織と連動し、政治社会の混乱を引き起こした。党の支持層にはこの時期の反共右翼運動から分岐した世俗的民族主義とイスラム的な民族主義という二つの勢力を抱えているが、政策レベルでは体制護持が優先されるためか、宗教的な観点から世俗主義勢力を刺激することはほとんどない。

 支持基盤は都市の中下層階層の他、中小の商工業者である。クルド地域である南東部や東部への最前線であり、アレヴィ(異端・習合的なムスリム少数派)人口も比較的多いといわれるアナトリア中央部で得票率が高い。ここに、単に言語的な排他主義ではなく、宗教アイデンティティの面でも少数派を排斥しようとする志向が窺える。1980年代以降は、トルコ民族主義勢力が文化省や国民教育省を始めとする官僚機構に浸透をはかり、文化・教育政策に重要な影響を与えたといわれている。しかし、こうした文化・教育政策は、政権を握っていた祖国党の政策の一環として実施された。

冷戦後にイデオロギー政治の時代が過ぎ去る中で、党の支持率は1999年選挙まで低迷したが、1999年選挙では、直前にPKK党首のオジャランが逮捕されたことで盛り上がっていたトルコ民族主義的国民感情が奏功して議会第2位に大躍進した。しかし、同党も参加した連立政権が経済危機などによって安定しない中、2002年総選挙では全国平均得票率が10%を下回る大敗を喫し、院外政党に転落した。これに対し、2007年選挙では、再び活発化するクルド系ゲリラ活動に対してトルコ・ナショナリズム感情が高まっていたという世相を反映し、議会第3党となるなど、クルド問題の展開とのかかわりでトルコ系国民のトルコ民族主義感情が強まっている中で、安定的に国会に議席を獲得できている。その一方で、公正と発展党政権もトルコ民族主義的言説を強めることで政権基盤を盤石化しようとし始めたため、2015年11月選挙と2018年選挙では11~12%程度に党勢は停滞している。

2015年11月選挙での党勢後退を受けて、20年に近づくバフチェリ体制に挑戦する動きが党内で高まり、バフチェリが拒否すると、法規定に従って臨時党大会開催と党首選実施のために充分な署名を集め、裁判所の承認を得るため司法手続きを行った。しかしバフチェリは、同様に支持縮小傾向の不安を覚え始めたエルドアン大統領に対し、彼が大統領制移行による大統領就任によってより強大かつ長期的な権力掌握が可能になるように協力を行うことと引き換えに、その代わりに司法に圧力をかけてバフチェリに対する党内挑戦勢力の動きを妨げるよう、取引を行ったとみられる。民族主義行動党の臨時党大会は開催が妨げられ、バフチェリ批判勢力は離党して良好党を設立した。

バフチェリはその後、エルドアンと密に連携しながら大統領制移行に向けて布石を打っていき、実際に移行が実現される上での立役者となった。2018年の大統領選挙では、他の主要野党党首が大統領候補として出馬する中、バフチェリは出馬せずにエルドアン支持を公言した。同日実施の国会議員選挙でも公正と発展党と選挙協力を行った。エルドアンは民族主義行動党の支持のおかげで大統領当選ラインの単純過半数の得票率と、国会での両党合計議席数における過半数獲得を実現した。バフチェリは、エルドアンの政治権力維持にはなくてはならない協力相手であることを思い知らせた形となり、エルドアンが大統領制で発揮するとみられる強い執政府の政治の方向性がトルコ民族主義からぶれないように、圧力をかけていくものと思われる。

良好党

 ・İyi Parti

2017年10月設立の中道右派的トルコ民族主義政党。党首はメラル・アクシェネル(Meral Akşener)。民族主義行動党のバフチェリ党首が万年野党に甘んじる中で党首交代を求める党内ライバルグループの動きを封じようとした際に、除名処分や自主的離党で党籍を離れた幹部たちにより結成された。

アクシェネル自身は民族主義行動党に近い思想傾向の過程で育ったが、1990年代には中道右派の正道党から国会議員となり、福祉党との連立政権においては一時、内務相を務めるなど、若手女性幹部として早くから頭角を示していた。しかし、その後、公正と発展党結成プロセスで中道勢力が同党に結集する見込みとなると、同党に合流するために正道党を離党したものの、結局は同党幹部の主流派のイスラム主義的方向性とは相いれないと判断し、民族主義行動党に入党した。

良好党結成へのプロセスでは自分たちこそが民族主義行動党の奉じるトルコ民族主義の正当な継承者であると主張したが、2018年選挙において、トルコ民族主義と権威主義化を強め、民族主義行動党と選挙協力して党勢を維持拡大しようとする政権への批判勢力を糾合するために、クルド民族主義を公然と攻撃することは避けた。また、「我らが国民との契約」と題した選挙公約文書でもhttp://www.iyiparti.org.tr/assets/pdf/secim_beyani.pdf、平均的なトルコ民族主義を逸脱するほどの、多様なアイデンティティの排斥を表立って主張することはなく、多元主義と民主的参加による政治や、すべての国民が宗教や人種、言語やジェンダーによって差別されることなく国家予算から平等に恩恵を受ける権利、思想や言論の自由が保障されねばならないと述べている。ただし、基本的にはトルコ民族としてのトルコ国民という発想で政策が考えられていることは、北キプロス・トルコ共和国への言及や、在外トルコ系移民へのトルコ語とトルコ文化教育の支援の明言などに見て取れる。対して、クルド問題の焦点の一つである、非トルコ系母語話者への母語による教育の権利には全くふれていない。かといってクルド民族主義の盛り上がりを牽制するような、威圧的な国家主義的言説がことさらに強調されているわけでもない。せいぜい、公約冒頭で、「世界で最も偉大な国民が暮らす、世界で最も美しい国であるトルコ」というフレーズに極右民族主義の面影を、しかし民族名をきっぱりと排除した文面で、忍ばせているにすぎない。それさえも、伝統的なトルコの中道政治勢力が当然視してきた一般的なナショナリズムの範囲にとどまっているといえる。ただし、民族主義行動党の支持基盤を可能な限り継承するために、クルド系の諸人民の民主党を含めた選挙協力の動きに対しては断固として反対した。

2018年選挙では大統領選でアクシェネルは惨敗したが、国会議員選挙では10%に迫る得票率を収め、結党間もない政党としては好成績を収めたといえる。しかし、大統領選で野党の統一候補擁立にも断固として反対して出馬したにもかかわらず、国会議員選挙の得票率を下回る支持しか集められなかった責任を取るとして、選挙後に一旦、党首辞任の意向を公表した。その後、結局は党首継続の運びとなったが、その間にも、複数の重鎮的ポジションの結党メンバーが党内権力争いやクルド民族主義をめぐる党の方針をめぐる対立のために、離党していった。2019年3月には任期満了による統一地方選が予定されており、そこでどのようなイデオロギー的位置づけと言説で戦うのかが、次の党にとっての山場となる。

民主党(DP)

1983年設立の中道右派政党。党首はギュルテキン・ウイサル(Gültekin Uysal) 。

1945年の複数政党制導入の際に、共和人民党内の経済自由化論者が分派して設立した民主党(Demokrat Parti)とその後継の公正党(Adalet Partisi)、正道党(Doğru Yol Partisi)の流れを汲む、トルコの伝統的な中道右派政党である。初代の民主党以来、国家が主要な民間企業を保護・育成しつつ民間セクター主導で発展を目指した他、大規模農業開発を中心とした農村部の発展やイスラムへの寛容を基調としてきた。公共セクター重視で世俗主義政策を断行してきた共和人民党への対抗政党として、経済界、農村部の地主層、反体制でない宗教保守層の支持を得てきた。1964年以降、1993年の大統領就任により党籍を離れるまで、1980年クーデタによる政治活動禁止の期間を除いて、党首として一連の党を牽引したのはスレイマン・デミレル(Süleyman Demirel)である。彼は、若き日には大規模ダム開発で名を挙げ「ダム王」と呼ばれていたが、貧農の出にも関わらず出世し、七度も首相を務めた政治的存在感と田舎訛りの残る親しみやすい演説で大衆的な人気を博し、後年は「お父さん」(baba)の愛称で呼ばれた。

デミレルに代わって党首に就任したのは、アメリカ帰りのエリート女性経済学教授のふれ込みで、最新の経済的知見を活用した政策が期待されたタンス・チッレル(Tansu Çiller)だった。しかし、彼女が首相を務めた政権下で経済は乱高下を続け、親族を含めた汚職疑惑が次々に出ていた上に、1996年に福祉党と連立政権を組んだことを批判して影響力のある議員たちが離党し、求心力を失った。 正道党は2002年の総選挙で大敗し、議席を獲得できなかった。

チッレルに代わり党を率いたのがメフメト・アール(Mehmet Ağar)である。彼は、警察官僚の出世街道にのってチッレル政権下で警察庁長官を務めた後、正道党選出議員として福祉党連立政権では内務大臣に就任している。彼は、警察官僚としての特権や内部情報を最大限に利用してマフィアとの癒着も噂されたが、巧みに政界の荒波をかわしてきた。2002年選挙を無所属で当選した後すぐに正道党に移籍した。

大統領選と総選挙が実施される2007年に入っても、政権与党の公正と発展党の支持率は堅調であるのに対し、またもや 10%の全国平均最低得票率を超えられそうにない正道党と祖国党は、大統領選で与党候補に非協力の態度で共同歩調をとったのをきっかけに、トルコの中道右派政党の源流である民主党の名の下に合併を目指すことでも合意した。前回の得票率が高かった正道党が党首を出すことを機軸に、中央と地方組織の役員数を拡大することで、ポスト争いを予め封じることも決定された。この合意に則って、2007年5月27日に開催された正道党の党大会で、党名の変更が決定された。しかし、その後、総選挙での立候補者リストをめぐって合意に達しなかったことなどから、合併交渉は決裂した。結局、正道党の名称が変更されただけとなった。

2007年の総選挙では、結局、同党は全国平均最低得票率を超えることができず、アールは引責辞任の意向を表明した。それを受けて開催された臨時党大会の結果、1969年生まれの スュレイマン・ソイル(Süleyman Soylu) が後を託されることになった。 しかし、2009年5月の党大会で、ソイルを破って古参のヒュサメッティン・ジンドルク(Hüsamettin Cindoruk)が新党首に選出された。 1933年生まれのジンドルクは、かつての民主党時代から党の中心メンバーとして活躍してきた重鎮で、親交深いデミレル前大統領のバックアップを受けての出馬となった。ジンドルク党首はその知名度と経験を生かして分裂した中道右派の再統合を訴え、2009年には祖国党の吸収合併を実現させた。ジンドルクが不出馬を宣言した2011年1月の党大会では6名の候補の中からナムク・ケマル・ゼイベク (Namık Kemal Zeybek)が選出された。2012年党大会からはウイサルが党首を務める。

2018年国会議員選挙で良好党との選挙協力により、同党の候補者リストに4名の民主党候補者名を書き入れてもらい、党首のウイサルが当選を果たした。2007年から2年間、党首を務めたソイルは2012年に公正と発展党に移籍し、2015年6月以降、同党の国会議員となり、同年11月以降には労働・社会保障相と内務相も歴任した。2018年選挙でも国会議員に当選したが、エルドアン大統領が内務相に指名したため、大統領制の下で国会議員を辞職し、内務相に就任している。

諸人民の民主党(HDP)

2012年10月に設立されたクルド系中心の左派政党。男女1人ずつからなる共同代表は2018年2月からぺルヴィン・ブルダン(㊛Pervin Buldan)およびセザイ・テメッリ(㊚Sezai Temelli)。2016年11月に前共同代表だったセラハッティン・デミルタシュ(㊚Selahattin Demirtaş)とフィゲン・ユクセクダー(㊛Figen Yüksekdağ)がともにテロ支援の容疑で国会議員不逮捕特権をはく奪されて収監され、ユクセクダーは有罪判決に伴って国会で除名処分となるとともに政党法の規定によって党籍を自動的に喪失するという異常事態に陥った。ユクセクダーの代わりには、直ちにセルピル・ケマルバイ(㊛Serpil Kemalbay)が選出されたが、デミルタシュは司法プロセスが遅々として進展しない中で収監状態が続くまま共同代表の職を続けていた。

同党は、PKKリーダーのオジャランの指導のもと、トルコ東部・南東部のクルド地域およびクルド人口を多く抱える大都市イスタンブルを除けば、平和と民主主義党が国会議員を輩出できないという状況を克服するために設立された。つまり「左派クルド政党」という実情を脱皮して全国区の政党として発展することが目指された(平和と民主主義党およびそれが受け継いできた政党の系譜については、次の民主的諸地域党の項を参照のこと)。民族、宗教・宗派などのアイデンティティ多元主義と、そうした多様なアイデンティティ毎の組織化や既存の左翼やクルド系の極小政党や市民社会組織を、下からの民主的積み上げによって階層的に代表していくという理想像を訴える。

2014年の地方選直後に平和と民主主義党に残っていた議員をほぼすべて移籍させ、その後、平和と民主主義党の地方組織も吸収した。このタイミングで有名国会議員の移籍を行ったのは、2014年3月の統一地方選挙にクルド系多数派地域では平和と民主主義党が、トルコ系多数派地域では諸人民の民主党が、それぞれの地域により適した言説を用いるという地域的役割分担を行うためだった。また、これはちょうど2013年5月末以降、イスタンブル中心部の公園再開発政策への小規模な左翼環境保護グループの反対デモが、政府の過度に暴力的な鎮圧活動をきっかけとして、多様なイデオロギー的な市民を巻き込む全国的な反政府デモに発展するという経験を経た時期であり、そうしたデモを直接・間接に支持した幅広い層を糾合するチャンスと見てとっての対応でもある。このデモが起きた際には、平和と民主主義党はオジャランと政府の合意によりちょうど本格的に始まったばかりのクルド和平プロセス(PKK武装解除の第一段階であるゲリラの国外撤退が5月に開始)への悪影響を懸念して、デモ参加には慎重な姿勢を見せた。ただし、諸人民の民主党に移籍したイスタンブル選出議員のスッル・スレイヤ・オンデル(Sırrı Sürreya Önder)がデモが拡大する直前からデモを支持し、政府側の強硬な鎮圧策に体をはって抗議する活動を行うなど、同党の政治家や支持基盤の市民グループなどがそれぞれの資格で参加し、政府批判を強める左派やリベラルな世論における共感の足掛かりをつかんでいた。デモ終息後には、オジャランがデモの精神への共感や支持を、PKK幹部がデモに積極的に参加すべきだったとの反省をそれぞれ示した。こうした流れの中で、諸人民の民主党はクルド民族主義の地域的政党を脱却し、全国レベルで市民社会の多元主義的な代表を目指すことが党是として認知されるようになっていった。

その組織面での反映として、特に特徴的な2点を指摘できる。一つは、平和と民主主義党が代表してきた左翼を中心としたクルド民族主義勢力に加えて、より広くトルコの多様な左派やリベラル派、さらには宗教や性的マイノリティをも糾合することが目指された。特に、2013年の反政府デモの参加者の多様性を取り込もうと、党の最高決定機関である党議会(Parti Meclisi)委員には、環境保護活動家やLGBT活動家、公正と発展党に批判的なイスラム派女性活動家ら、デモ参加者らが登用された他、アルメニア系作家など非イスラム系マイノリティの委員も選ばれている。(反政府デモについては、Asahi中東マガジン掲載「トルコのタクスィム・デモを読む」( )、( )、( )、( )を参照。)

もう1点は多様な代表ポストにおけるジェンダー平等を目指した取り組みである。他のPKK系列組織同様に諸人民の民主党も、男女1人ずつからなる共同代表制を採用している。組織内のポストだけでなく、系列地方自治体幹部職でも共同代表制や男女同数を目指した人事を行ってきた。国会議員も男女同数を目標にした候補者リストで戦い、国会議員の女性議員比率向上に大きく貢献してきた。

ただし、現実には、下からの決定の積み上げによる民主的組織とはいかず、トップダウンの権威主義的組織構造であることが、党内外からしばしば批判されてもきた。しかも、党幹部や議員候補者リスト選定もPKK中枢部を中心に行われてきたといわれる。その軋みは、運動のリーダーであるオジャランが逮捕されて以降、カリスマとしてのオジャラン、武装活動によって血を実際に流してきたという点で説得力を持つPKKの幹部たち、合法政党幹部として弾圧に立ち向かいながら言論活動を通じて党勢拡大の立役者となった若きカリスマのデミルタシュ、という3者のバランスのなかで、合法政党リーダーとしてトルコ世論とクルド世論の両方に対する説明責任を負わされるデミルタシュに重くのしかかってきた。

そこに、2014年秋以降のシリア内戦にかかわる新しい展開が覆いかぶさってきた。シリアのクルド地域がISの猛攻にさらされ、それを欧米諸国の軍事支援によってPKK系列の武装勢力が跳ね返し、逆にIS掃討地上部隊として米軍と協力しながら支配地域を伝統的なクルド地域の外にまで広げたプロセスでは、クルド民族主義がトルコのクルド系国民の間でこの上なく高まった。そのプロセスと関連して、トルコ国内でも、2015年夏以降、クルド系多数派地域でPKKと国軍や機動隊との武装対立が再燃し、PKK支持層以外のクルド系市民にも大きな被害をもたらした。そのために、諸人民の民主党系地方自治体が事実上、武装対立の当事者となったことに対する党支持基盤以外のクルド系市民の間で反発を招いた。また他方で、2016年夏のクーデタ実行未遂事件後には、諸人民の民主党やその支持層に対して包括的弾圧政策が実施され、党組織と地方自治体という合法的組織活動の基盤が切り崩された。デミルタシュも同年秋にはテロ組織支援の容疑で逮捕され、司法手続きが遅々として進まないなかで拘留され続けている。これらはそれぞれに複雑な、しかもクルド問題を大きく超えた射程のなかで多様な要素と関連して展開するダイナミズムを内包しているだけに、こうした展開になる以前に想定されたレベルをはるかに凌駕する軋みとなって党にのしかかっている。

かつては、全国区政党として成功するにはクルド民族主義色を薄めねばならず、そうすれば中核支持層のクルド民族主義感情に背き、場合によっては離反を招きかねないというジレンマにおいてどのようなバランスをとるかが主要な懸念材料だった。また、トルコのリベラル左派政党という側面を強調しすぎると、敬虔なムスリムのクルド層の反発を招く可能性が心配された。そのため、2014年8月の大統領選に立候補したデミルタシュは、クルド・アイデンティティを全面に出すのではなく、むしろクルドを含むあらゆる抑圧されてきた人々の権利擁護を訴えて支持を拡大した(「選挙」の「2014年大統領選挙」の項目を参照)。しかし、上述の2015年以降の目まぐるしい事態の変化のなかで、そしてとりわけエルドアン政権がトルコ民族主義的で分断を煽る言説を強めるにつれて、諸人民の民主党支持層だけでなくクルド系世論全般においてクルド民族主義が、トルコ系世論のトルコ民族主義の強硬化と相乗するかたちで強まっている。党やシンパの市民活動家をめぐる非常事態的状況が今後も悪化の一途をたどり、軋轢の度合いが極限に達した場合に、そのひずみのエネルギーがどのような形と震度となって現れるのか、想像を絶する状況だといえる。

このように党の政治活動環境は、トルコ政府との関係においても、PKKとの関係においても、非常に厳しいものとなっている。この状況において、デミルタシュが当選の可能性はほぼないにもかかわらず大統領選出馬を決め、それゆえ国会議員に再選されて不逮捕特権を回復できる可能性を放棄したことは、デミルタシュ以外に彼ほどの存在感を示せる市民政治家を現状では擁さない同党にとって、今後大きな痛手となる可能性がある。デミルタシュは少なくとも有罪判決が確定するまでは党籍を維持できることから、党幹部の一人であり続けることはできる。しかし、党内序列を乱すような発言をすることは、それがPKKの活動方針に沿わない場合には難しいだろう。PKKに対して自律的発言力を有する左翼クルド政治家がほとんど見当たらない中で、トルコ全国区政党としての存在意義が今後、大きく試されることになる。あるいは実はすでに2015年以降の展開自体がひずみを蓄積すると同時に解放するプロセスとしても機能しており、今後もこの厳しい対立構造のなかで行きつくところまでいくだけである、という可能性もある。

2018年国会議員選挙では、党は10%の全国平均得票率を超えて野党第2位の議席を確保した。同選挙ではクルド系世論を代表する党が国会に存在することが民主主義のために欠かせないとの考えや、それが政権党の議席数の相対的比率を低めるとの考えから、トルコ系の票も左翼や世俗主義派、リベラル派を中心に限定的ながらも獲得し、積み増しをしたと考えられる。また、大統領選では同党支持基盤からエルドアンへの最有力対抗馬と考えられた共和人民党候補に一定数の支持が流れ込んだと思われる。こうした民族的区分を超えた投票行動が起こるうちは、まだ民主的プロセスの望みはあるといえるかもしれない。しかし、クルド人口多数派地域での投票率低下傾向は、トルコの民主的プロセスに意味を見出せなくなった国民の増加を示している可能性もある。合法政党として武装組織とは明確に異なる存在意義をどのようにして示していくのか、大きな試練に直面していることは確かである。

民主的諸地域党(DBP)

  2014年7月に設立されたクルド系の左派政党。党首はセバハト・トゥンジェル(㊛Sebahat Tuncel)とメフメト・アルスラン(㊚Mehmet Arslan)。前身の平和と民主主義党(Barış ve Demokrasi Partisi)の党名変更によるが、それに伴って地方自治を主要活動領域とした。国政レベルで活動する系列政党については諸人民の民主党の項を参照のこと。

同党の共同代表制は、平和と民主主義党のさらに前身の民主社会党(Demokratik Toplum Partisi)で実践され始め、政党法規定の党組織構造に反しているとして最高裁が警告したこともあった共同代表制度であるが、2014年の政党法改正により合法的政党組織形態として認められた。

平和と民主主義党は、院内政党だった民主社会党に対する非合法化の司法過程が始まったのを期に2008年5月に設立されたが、クルド多数派地域に限定的な地域政党を脱してトルコ全国区化を目指すにあたり、諸人民の民主党に国会議員が移籍して、国政活動の中心は諸人民の民主党に場を移した。民主的諸地域党の国会議員は党名変更当時の共同代表だったエミネ・アイナ(㊛Emine Ayna)1人だった。ただし、そうした実験的役割分担の実施にあたり、諸人民の民主党設立後の最初の統一地方選となる2014年3月の選挙では、民主的諸地域党への党名変更をせず、平和と民主主義党として諸人民の民主党と地域的役割分担を行った。つまり、すでに国民にPKK系のクルド民族主義政党としてイメージが浸透している前者は東部・南東部のクルド系多数派地域で、新設の諸人民の民主党はトルコ系多数派地域でクルド民族主義色を強く出さず、アイデンティティ多元主義の社会民主主義政党としての浸透をはかった。結果として、クルド系多数派地域で戦った平和と民主主義党は100近くの地方自治体首長選で勝利したが、諸人民の民主党は首長選全敗となった。選挙後の7月に党名変更がされ、平和と民主主義党は民主的諸地域党の名の地方自治専門の政党に切り替わった。

民主的諸地域党は、非合法のクルディスタン労働者党(PKK)リーダーのアブドゥッラー・オジャラン(Abdullah Öcalan)が近年、統治システムとして主張する「民主的自治」を地方自治レベルで実践にうつす目的で設立された。党名変更後間もない2014年8月に筆者が党関係者にインタビューしたところでは、政党活動というよりは、政治家教育や「民主的自治」の考え方の浸透を目指す「アカデミー」との位置づけを当面、与えられていた(と理解されていた)。なぜ諸人民の民主党があるのに、別に政党として組織を作るのかについては、インタビュー相手毎に異なる答えが返ってきたリ、実は目的に関して組織内でさえ浸透してないという点では一致した回答を得たほどに、党名変更当初は党の目的の理解はあやふやだった。しかし、その後の経過を見れば、あえて国政レベルで全国区政党を目指す諸人民の民主党を別途設立して、実質的には平和と民主主義党の国政政党としての機能はそちらに引き継がせたにも関わらず、あえて後者の党名を民主的諸地域という、「民主的自治」の領域的基盤を彷彿とさせる名前に変更して合法政党としての地位を引き継がせた理由は明らかである。「民主的自治」という統治理論を、同党が圧倒的支持率を誇る地域を中心に実験的に実践に移すことを目指したのである。

https://www.dw.com/tr/hendek-sava%C5%9Flar%C4%B1nda-sona-gelindi/a-19291491
https://www.bbc.com/turkce/haberler/2015/09/150913_cizre_hendek_hatice_kamer

2015年6月総選挙で系列の諸人民の民主党が大幅に支持率を伸ばした後、国軍とPKKの間で武力対立が再燃し始めていた。それ以前から民主的諸地域党系の複数の自治体で、地域の中心市街地で警察や軍が立ち入れないようにバリケードや塹壕を掘る一方で、武器備蓄に励んでいたとも噂されるが、同8月にいずれもイラク国境沿いのシュルナク市とユクセクオヴァ市が民主的自治宣言をしたことを直接的なきっかけとして、民主的諸地域党系自治体への警察や軍、機動隊による直接介入が始まった。それは市街地のPKKシンパだけでなく一般の市民をも巻き込み、多大な人命や市街地破壊に至る事実上の市街戦に転化していく。その後も「民主的自治」を宣言する系列自治体が続き、同様の市街戦や、同党や系列自治体への弾圧が拡大した。2016年7月クーデタ実行未遂事件後には非常事態宣言が発布され、クーデタに直接連座した者だけでなく、政府と対立する勢力を根こそぎにする政策がとられた。民主的諸地域党系の自治体では首長や党幹部らが次々と逮捕され、代わりに政府が直接、代理首長を任命した。例えば、党共同代表のトゥンジェルは2016年11月から、アルスランも2018年2月からそれぞれ逮捕・勾留されている。

トゥンジェルは2017年7月の党大会では拘留中であるにもかかわらず引き続き共同代表に選ばれた。PKK系列組織での慣例がこの党大会でも踏襲され、共同代表ならびに党幹部に関する単独候補者リストの承認投票による選出だった。2019年3月に予定されている統一地方選は、クルド系多数派地域での同党の支持基盤の強固さを示す重要な機会であるが、選挙に参加できるのか、できたとしてどのような結果を有権者が示すのか、いずれにしても非常に困難な状況にある。

一連の党の原点は1990年に社会民主人民主義党から分派したグループ、人民の労働党(Halkın Emek Partisi)に遡る。人民の労働党はその後、非合法化されて民主主義党(Demokrasi Partisi)が結成されるが、それも再び非合法化されると、人民の民主主義党(Halkın Demokrasi Partisi)が結成された。

人民の民主主義党は、トルコ語とトルコ民族の歴史・文化を国民概念の中核に据える共和国の政策を批判し、体制内での非暴力的な活動を通じてクルド語による教育や出版・放送、文化活動の自由化を目指して活動した。反体制武装闘争を展開してきたPKKとは組織的に一線を画していたが、PKKへのそもそものシンパシーと、国軍によるクルド・ゲリラ掃討作戦に対する批判がクルド分離主義やPKKを擁護するものとみなされて、非常に厳しい体制の監視下に置かれた。クルド地域である東部や南東アナトリア地域と、クルド移民が集住する一部の都市周辺地区に特化して強い支持基盤を有した。しかし、全国平均得票率が10%を越えなければ議席を獲得できないという1987年以降の選挙法のために、選挙協力無くして国会に議席を獲得することは極めて困難であった。過去には、たとえば1991年選挙では社会民主人民主義党との協力で人民の労働党が議席を獲得したことがある。選挙区での得票率のみが問題となる地方選挙では、前述の地域で首長や地方議会議員を輩出した。人民の民主主義党は1999年選挙で、計37の選挙区で首長の座を獲得した。

人民の民主主義党は2002年選挙を前に、解党裁判が始まり、選挙への参加はかなわなかった。結局、2003年に非合法化されると、その代替となったのが、既に1997年に設立されていた民主人民党(Demokratik Halk Partisi)である。同党は、人民の民主主義党の陰に隠れて知名度が低く、得票率も非常に低かったために、非合法化を免れてきたと考えられるが、2002年選挙では人民の民主主義党の支持基盤を受け継いで6.4%の得票にとどまり、議席獲得はならなかった。

2005年11月の民主社会党設立の動きは、旧民主主義党幹部で投獄されていたレイラ・ザーナ(Leyla Zana)らの釈放とともに始まった。ザーナらは、1991年に社会民主人民主義党との選挙協力で議員に選出されたものの、国会での宣誓をクルド語で行ったために党籍を剥奪され、その後、民主主義党を設立したものの、1994年以来、PKKメンバーだとして党が非合法化されたのと同時に投獄されていた。そこで民主社会党の設立に際しては、ザーナらは公式の党幹部にはならず、クルド民族主義運動の外部から著名な左派トルコ人政治家を迎え入れることにより、両民族が協力し民主的で自由な政治社会の実現を目指す政党づくりをアピールしようとした。しかし、その試みは結局、実現せず、PKKシンパの政党というイメージを払拭できなかった。

2007年選挙に無所属で立候補するためにアフメト・テュルク(Ahmet Türk)前党首が辞任・離党したために、同年11月に行われた党首選挙では、当時35歳のヌレッティン・デミルタシュ(Nurettin Demirtaş)が選出された。彼は、国家反逆罪の罪で終身刑を受けたPKKリーダーのオジャランの擁護が刑法罰の適用もありえる時代状況においてそれを公言するなど「タカ派的」存在として知られていた。国軍のPKK掃討作戦が続き、国内のトルコ民族主義感情が高まる中で、それに対抗する力づよく若き新リーダー育成という党指導部の思惑と、むしろ平穏な社会の中での確実なクルド民族文化の権利拡大を望む支持層世論との狭間で党内意見はまとまらず、党首選では、単独候補として出馬したにもかかわらず、過半数の得票を獲得できず、第3回投票でやっと投票総数の1/4余りをもって選出された。

2007年選挙では無所属で当選した議員20人が党に復帰し国会に議席と会派を有するにいたった。しかし、国家と国民の不可分の一体性という国是を脅かしているとして、デミルタシュ新党首誕生直後に非合法化を求める提訴がなされた他、党設立以来、オジャランに対する敬意やシンパシーの表明によって多くの党幹部が逮捕された。2008年7月の党大会以降は党首を再度、テュルクが務め、アメリカやイラクに党支部設立を計画するなど、存立基盤を国際的に強化しようとの試みも進んでいたが、2009年12月に憲法裁判所の全会一致の判断で解党が命じられた。

解党命令は、党首テュルクを始め37名に5年間の参政権剥奪をもたらした。しかし、21名の国会議員のうち有罪とされたのは2名のみである他、党員でないレイラ・ザーナ旧民主主義党幹部をも有罪としたり、党内でタカ派とされる議員や活動家が有罪とされないなど、判決の論理整合性や意図に疑念が残るとの指摘もメディアでなされた。有罪とならなかった国会議員や地方自治体の首長や議員らは、平和と民主主義党に移籍した。

民主社会党は欧州司法裁判所に提訴したが、民主社会党の前身である人民の民主主義党の裁判も結審しておらず、判決はかなり先のことになると見込まれる。ちなみに、人民の民主主義党以前に閉鎖された3党についてはいずれもトルコが敗訴している。

平和と民主主義党党首はムスタファ・アイズィト(Mustafa Ayzit)、デミル・チェリク(Demir Çelik)と続き、2010年1月より民主社会党で党首を務めたデミルタシュの弟、セラハッティン・デミルタシュ(Selahattin Demirtaş)が党首となった。2011年総選挙で平和と民主主義党は、国会議員選出条件である全国平均最低得票率10%を超えられない場合に備えて無所属で臨むことを決定し、デミルタシュを含む候補者が党籍を離脱したため、ハミト・ゲイラニ(Hamit Geylani)が党首となったが、総選挙後に再当選したデミルタシュが復党し、党首に返り咲いた。2011年選挙では、クルド地域を中心に活動する左派、イスラム派の多様な勢力が選挙協力のために結集し、躍進した。東部、南東部地域はクルド民族主義勢力が公正と発展党と勢力を二分する形となり、無所属当選者が選挙後に移籍したことで、平和と民主主義党所属国会議員は最大時、29名を数えた。

平和と民主主義党を国政レベルで引き継いだ諸人民の民主党(Halkların Demokratik Partisi)は、党内組織のあらゆるレベルにおいて女性の幹部職就任および党員としての活動を奨励してきた。冒頭で述べた共同代表制はその一例である。共同代表の一人は必ず女性とし、党組織でも40%を女性に留保し、2011年総選挙の候補者リストでも40%の女性留保を行った。女性留保政策は同党のみならず、PKK系列の組織で採用されている。同党は国会の女性議員数上昇に大きく貢献している。また、2014年3月の地方選挙にあたっては、可能な限り男女半々の地方議会代表を送り出すため、報道によれば144の選挙区で男女を交互にならべた県議会、市議会、区議会候補者名簿を作成した。地方自治体首長は制度的には1名であるため、同党候補が首長に選出され、議員多数を構成する自治体では議会議長を事実上の共同代表として、首長とは異なる性別の議員から選定し、地方政治を運営していくつもりであるという。このような地方行政運営が従来の行政組織形態と実質的にどのような違いを生み出すかは未知数であるが、少なくとも同党が支配的な自治体ではジェンダー比については男女の代表比が一段と対等に近付いた。

平和と民主主義党が諸人民の民主党に移行した理由は以下の通りである。2000年代以降に、PKKリーダーのオジャランは、クルド地域やクルド人のみならず、トルコ全土に勢力を拡大したいと考え、特に合法政党の全国区化を目指してきたが、これまでは成果が出なかった。しかし、2011年総選挙での躍進をきっかけに、諸人民の民主会議(Halkların Demokratik Kongresi)というプラットフォームが選挙後に立ち上げられ、2012年10月15日には、来る選挙に備えるために諸人民の民主党(Halkların Demokratik Partisi)として公式に政党となった。オジャランは、2014年3月の統一地方選では同党がトルコ西部で候補者を擁立し、平和と民主主義党が東部・南東部地域で候補者を擁立する形で選挙協力を行い、2015年の国政選挙では諸人民の民主党が平和と民主主義党を吸収合併して単独で選挙に参加するように、獄中から指示した。平和と民主主義党内では議論もあったが、結局はこの方針が承認された。これを受けてまず、2013年10月開催の諸人民の民主党にとっては結党大会を意味した第1回臨時党大会が開かれ、3名の著名な平和と民主主義党議員が同党に移籍した。そして2014年統一地方選と2015年総選挙でもオジャランの支持の通りに選挙に参加した。

2014年統一地方選挙後の党大会で、平和と民主主義党は民主的諸地域党に改名し、地方自治でオジャランの理論を実践するための主体という位置づけを確立していった。しかし、前述のように、党幹部や系列自治体の首長や幹部らが逮捕・投獄され、自治体には政府が首長代理を任命するという異常事態になっており、「民主的自治」の実験はとん挫した。

民主左派党(DSP)

1985年11月設立の中道左派政党。党首は マースム・テュルケル(Masum Türker)。

共和国体制の護持を主張する点や、長く同党を率いたビュレント・エジェヴィト(Bülent Ecevit)が、トルコ民族の伝統・文化の純化を目指しつつ「トルコ国民国家」の発展を唱える文化運動の中心的人物であったことから、トルコ民族主義と通底するイデオロギー的傾向がある。

エジェヴィトは1972年に共和人民党の党首に就任したが、1980年のクーデタで政治活動を禁じられたため、妻のラフシャン・エジェヴィト(Rahşan Ecevit)が民主左派党を結成した。エジェヴィトは1987年に禁を解かれ、党首に就任した。エジェヴィトは質素な生活や服装と潔癖を通し、太った体に高価なスーツを着込んで親分的なイメージを売り物にする他の政治家の間にあって、清貧・清廉のイメージで一定の人気を確保していた。しかし、共和人民党の後継を主張する社会民主人民主義党や1991年に結成された共和人民党との競合や、冷戦後の左翼運動の衰退の結果、低迷していた。

1997年6月に、軍部が先頭に立って福祉党・正道党連立政権を崩壊に追い込むと、祖国党を首班とする連立政権に民主トルコ党とともに参加した。1998年に祖国党の閣僚が汚職で糾弾されたことをきっかけとして政局が混乱すると、代替政権の組閣が難航する中で、単独で少数党内閣を組閣した。政界の混迷が極まる中で突入した1999年選挙では、その直前に長年、ゲリラ活動を行ってきたクルド労働者党の党首が逮捕され、トルコ民族主義の感情が国内に蔓延していたことも奏功し、議会第一党に大躍進した。その後、民族主義行動党、祖国党とともに連立政権を率いたが、2001年秋頃よりエジェヴィトは時に執政に支障をきたすほどに体調を崩したにもかかわらず、首相ポストに固執したため、国民的な批判を招き、政局は再び混乱し始めた。結局、任期を一年半も残して解散総選挙を行う事態となり、2002年選挙では大敗を喫し、議席を失った。2004年から ゼキ・セゼル(Zeki Sezer)が党首を務め、2007年選挙で共和人民党との選挙協力により13議席を獲得、2009年3月の統一地方選でも前回より票をのばしたが、目標に達しなかった責任をとってセゼルは辞任した。2009年5月の党大会で  テュルケルが新党首に選出された。 

社会民主人民党(SHP)
  • Sosyaldemokrat Halk Parti  

2002年設立の中道左派政党。最後の党首はヒュセイン・エルギュン(Hüseyin Ergün) 。

1985年に設立された社会民主人民主義党の流れを汲む。社会民主人民主義党は民政移管後にいち早く設立された中道左派政党として、1991年の総選挙までは左派の最大政党だったが、イスタンブルなど地方自治体での汚職が発覚して、急速に支持を失い、1995年には共和人民党に吸収合併された。 党設立時の党首ムラト・カラヤルチン(Murat Karayalçın)は、社会民主人民主義党時代の1989年に地方選挙でアンカラ大都市市長に選出されて、若手リーダーとして頭角を現し、1991年選挙では国会議員に選出。1993年から二年間は外相を務めた。共和人民党に吸収された後も、国会議員として活動を続けていたが、1999年選挙での大敗や党内権力争いの結果、党を割り、社会民主人民党を立ち上げた。2005年3月に共和人民党選出議員が移籍し、院内政党となった。しかし2007年選挙では、他の左派政党との選挙協力を行わず、勝算が見込めないことから選挙自体にも参加しなかった。 カラヤルチンは2009年3月の統一地方選で公正と発展党に一矢報いるために共和人民党からアンカラ大都市市長選に出馬を決め、離党したものの、当選はならなかった。カラヤルチン離党後は、党幹事長だったウール・ジラスン(Uğur Cilasun)が党首を引き継ぎ、2009年6月にはエルギュンが党首に選出された。しかし、2010年3月に左派の再興を目指して立ち上げられる平等と民主主義党 (Eşitlik ve Demokrasi Partisi)に合流することになり、同党の設立とともに解散した。

平等と民主主義党の初代党首は社会民主人民党議員として大臣経験もあるジヤ・ハーリス(Ziya Halis)。党首自身もアレヴィであり、都市部クルドやアレヴィの支持をかねてより集めてきた自由と連帯党(Özgürlük ve Dayanışma Partisi)から鞍替えした支持者や、有力アレヴィ団体や左派労組も支持を表明していたが、公正と発展党政権の2010年9月憲法改正国民投票への賛成表明や、平和と民主主義党の要求するクルド語学校教育や地方自治権強化による文化的多様性への対応といった争点に理解を示したことで、離反も起きている。

祖国党(ANAP)
  • Anavatan Partisi

1983年設立に設立され、2009年に民主党への統合により消滅した中道右派政党。最後の党首は サーリフ・ウズン(Salih Uzun) 。

 1983年の民政移管後に、1970年代の4つの政治勢力(中道右派、親イスラム、トルコ民族主義、中道左派)を糾合し、トゥルグト・オザル(Turgut Özal)を党首として設立された。オザルは国家計画庁長官を務めた後に、国際通貨基金勤務を通じてアメリカの政財界に人脈を築いた親米派の経済官僚だったが、一方で、ナクシュバンディー教団の門徒としても知られていた。

こうしたプロフィールは、1983年から1991年までの祖国党政権の政策に如実に反映された。オザルは国際政治経済的な観点からトルコの取るべき戦略を考え、政治、社会、経済、貿易のあらゆる領域で自由化を進め、ヨーロッパ、中東を中心とするイスラム世界、環黒海地域、中央アジアのトルコ系諸国といった地域設定を行って新しい政治経済関係を開拓しようとした。また、イスラム銀行の設立といったイスラム的政策や、ムスリムとしてのトルコ国民意識の醸成を目指す文化・教育政策も行った。自由化政策は物質的な豊かさや自由な雰囲気をもたらしたが、消費主義の蔓延や所得格差の拡大に対する批判を招き、祖国党政権の終焉をも導いた。

オザルの大統領就任(1989年)後、党首にはユルドゥルム・アクブルト(Yıldırım Akbulut)が選ばれたが、体制を確立できないまま、祖国党創設メンバーで、オザル政権下で情報相や外相を歴任したメスット・ユルマズ(Mesut Yılmaz)に党首の座を奪われた。オザルの死(1993年)により、ユルマズは党内権力を掌握したが、世俗的な経済自由主義者であったため、党内のイスラム勢力が次々に党を去り、党はイスラム復興勢力の支持を失った。1995年選挙以降、議会第一党の福祉党と体制との軋轢が高まる中で連立政権を二度立ち上げて首相となったが、いずれも短命に終わった。1999年選挙後は民主左派党首班の連立政権に参加したが、逆にそこでイニシアティブを発揮できないままエジェヴィトの失権にも引きずられる形で、2002年選挙で議席を失った。

祖国党は2003年7月に、無所属で当選した議員が入党したのをきっかけに院内政党に復帰した。その後、2005年2月に公正と発展党を辞して祖国党に移籍した エルカン・ムムジュ(Erkan Mumcu) が同年の党大会で党首に選出された。ムムジュは1995年選挙で祖国党選出国会議員となり、党首顧問、党幹事長、副党首など党役員を歴任したほか、祖国党が参加した連立政権でも閣僚を務めたが、2002年選挙では公正と発展党から当選していた。同党でも閣僚に抜擢されたものの、政策内容や体制との関係をめぐって党と衝突して離党した。

2007年選挙では、正道党との合併により中道右派の盛り返しを目指したが、土壇場で話し合いが決裂した。祖国党は一旦、立候補者名簿を高等選挙会議に提出したものの、選挙戦不参加を決定した。祖国党の候補者名簿に記載されている主要政治家は、手続き上、無所属の立候補もできなくなった。 ムムジュは2008年9月に党首辞任を決意し、同年10月に ウズンが選出された。

2007年総選挙に続き、2009年3月の統一地方選挙でも惨敗した結果を受け、正道党から改名した民主党との合併協議を再度、本格化させ、7月には民主党への吸収合併が党首間で合意された。11月に祖国党臨時党大会で民主党への統合による党の解散が決定され、同時に同じ会場で開催されていた民主党党大会で即座に祖国党の吸収合併が承認された。

トルコ党

2009年5月に設立され、寛容の精神と透明な行政を掲げる、中道右派政党。党首はアブデゥルラティフ・シェネル(Abdüllatif Şener)。シェネルは1991年に福祉党議員として当選して以来、美徳党、公正と発展党に籍を移しながら議員を続け、福祉党首班の連立政権時代には財務大臣、公正と発展党政権では国務大臣や副党首を歴任した。しかし、2007年の大統領選挙での候補者選定などの際に、世俗主義の国是をめぐる野党や軍部、司法機関との緊張関係を高めるような決定を党がなすことなどに批判を強め、2007年総選挙に出馬せず、公正と発展党から離党した。2008年9月にやはり公正と発展党から離党した国会議員のメフメト・ヤシャル・オズテュルク(Mehmet Yaşar Öztürk)も結党時に参加し、国会に議席を得た。

人民の隆盛党

2005年2月に設立された、世俗主義とイスラムの融和を目指す政党。党首はヤシャル・ヌリ・オズテュルク(Yaşar Nuri Öztürk)。

共和人民党選出議員として2002年選挙で初めて政界入りしたオズテュルクが離党し、設立した。同党はリベラルなイスラム理解とアタテュルク信奉の総合によりトルコ社会の亀裂を克服しようと主張している。オズテュルクは、長年、神学部教授を努め、イスラム学の伝統やイスラム社会の伝統を経由することなく、直接、各信徒がクルアーンを参照して信仰実践のあり方を自主的に判断するべきだと主張する。また、平易な解説と、アタテュルク信奉者として体制とも問題がない神学者として、非宗教系テレビ局の宗教の解説や視聴者相談を行うテレビ番組にも頻繁に登場し、知名度が高い。しかし、リベラルなイスラム解釈 やアタテュルクへの態度の故に、イスラム復興勢力からは批判や反発も強い。2007年総選挙では再選を果たせなかった。

参考文献
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  • Commission of the European Communities, Turkey 2006 Progress Report, 2006.
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  • Erol Tuncel, 1923’den Günümüze Siyasi Partiler, Ankara: TESAV, 2018.
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  • M. Hakan Yavuz ed., The Emergence of a New Turkey, The University of Utah Press, 2006.
  • 新井政美『トルコ近現代史:イスラム国家から国民国家へ』みすず書房、2001年。
  • 澤江史子「トルコの選挙制度と政党」(日本国際問題研究所編『中東諸国の選挙制度と政党』、2002年)。
  • ―――『現代トルコの民主政治とイスラーム』ナカニシヤ出版、2005年。
  • ―――「トルコのEU加盟改革過程と内政力学」『中東研究』第3巻第494号、中東調査会、2006/2007年、43-55頁。
  • ―――「トルコ大統領選の行方」、「トルコ総選挙後の議席状況と潜在的混乱要因」、「二期目に向かう公正と発展党政権」((財)日本エネルギー経済研究所・中東研究センター http://jime.ieej.or.jp/htm/nr.htm、2007。)
  • 間寧「トルコ2002年総選挙と親イスラム政権の行方」『現代の中東』35、2003年。
  • 高等選挙会議ホームページより2007年総選挙結果および、政党別議席配分表
  • 高等選挙会議ホームページより2011年総選挙結果および政党別議席配分表
  • 高等選挙会議ホームページより2014年大統領選挙結果
  • 憲法裁判所ホームページより政党リスト
  • 2820 Sayılı Siyasi Partiler Kanununa Göre Kurulan ve Halen Faaliyette Bulunan Siyasi Partiler 
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