「政党」カテゴリーの記事一覧

2020年10月3日

シリア/政党

既述のように、現憲法はバアス党の指導的立場を規定していないが、2012年以降に3回実施された国会議員選挙結果に見られたように、同党がサルトーリの言うところの「支配政党」である実態は変化していない。

バアス党は、ミシェル・アフラク(ギリシャ正教徒)及びサラーフッディーン・アル=ビタール(スンナ派ムスリム)らが1940年代初期に、ダマスカスで活動を開始したアラブ民族主義の勉強会を母体とする1。その後、1947年には結党大会が開かれ、政党として正式に発足するなかで、その党綱領である「統一、自由、社会主義」は下位中産階級に広くアピールした2。当時16歳であったH・アサドは学生党員として加わり、党内で以後めきめきと頭角を現していき、1963年のシリアにおける「バアス革命」に際しては、ダマスカス当方のドゥマイル空軍基地攻略作戦を主導し、革命の成功に大きな役割を果たした3。この結果、シリアでは現在に至るまで57年間バアス党政権が続いているが、「バアス革命」後しばらくの間は党内で熾烈な権力闘争が発生した。そうしたなかで、H・アサドが最終的に勝ち残り、1970年のクーデタでバアス党内における実権を掌握した。以後、バアス党内での権力闘争は影を潜め、H・アサド大統領、さらにはB・アサド大統領の権威に対する目立った挑戦は党内からは発生していない。

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2020年6月10日

イラン/政党

2020年4月29日、イラン内務省は、新たに3政党を承認し、今日のイランにおいて認可を受け活動している政治結社の数は118(活動範囲全国レベル87、州レベル31)になったことを発表した。しかしこれらの政治組織は、必ずしも「党」を名乗るものばかりではなく、「協会」、「結社」、「集団」、「同盟」、「組織」、「機構」など様々な名称を採用している。

イラン・イスラーム共和国の憲法第26条は、「政党、協会、政治団体、職能団体、イスラーム協会、および認定された宗教少数派の協会」の結成を認めており、1981年8月には国会が、「政党・結社活動法」(正式名称は、「政党・協会・政治団体・職能団体・イスラーム協会・宗教少数派団体活動法」、以下、政党法)を可決している。

しかし1981年の政党法に基づき、初めて政党・結社に対する活動認可が出されたのは、1989年7月のことである。1980年代の前半、新体制の定着過程においては、革命実現のために1979年2月に設立されたイスラーム共和党(IRP)以外の政党は、徐々に解党処分に追い込まれるなど淘汰されていった。革命の過程では共に闘っていたイラン自由運動(党首は革命暫定政権首相のバーザルガーン)も、宗教指導者シャリーアトマダーリー師のムスリム人民共和党も、武装イスラーム組織モジャーヘディーネ・ハルク(MKO)も、トゥーデ党(共産党)も、1983年2月までには全て、段階的に排除された。その後1987年6月IRP幹部が「当初の目的(イスラーム共和制の確立)が達成された」と発表し、IRPは活動を停止した。 活動停止の一因には内部分裂があるとも指摘されている。

その後1989年7月には、1981年政党法に基づいて初めて、4団体(「闘う聖職者集団(MRM)」、「フェダーイーヤーネ・エスラーム協会」、「ムスリム作家芸術家協会」、「イラン・イスラーム共和国女性連盟」)が認可を受けた。これらの団体の設立申請書類の審査を行ったのは、1981年政党法の第10条に定められている、通称「第10条委員会」である。政党法第10条は、政党・結社の活動申請を審査し、またその活動を監督する委員会を内務省に設置すること、また、そのメンバーは、検察庁、司法最高評議会、内務省から1名ずつ、及び国会から2名の代表計5名で構成されることを定めている。

1989年7月に活動を開始して以降、第10条委員会は一貫して政党・結社の認可に関わっており、政党・結社の活動内容を不当と見なした場合には、当該政党に対し解党命令も下している。たとえば2010年4月、第10条委員会は、2009年6月の大統領選挙以降の混乱を「主導した」として、改革派の主要政党イスラーム・イラン参加戦線(IIPF)、及びイスラーム革命モジャーヘディーン機構(IRMO)を解党処分とした。

主要政党・政治団体

右派・保守派

闘う聖職者協会(JRM)

1977年、王制打倒を目指す聖職者たちにより結成。亡命中のホメイニー師の演説を、主にカセットテープなどを通じ、モスク、大学、バーザールなどに広め、様々なデモ・集会も組織し、革命の達成に重要な役割を果たす。結成時の中心的なメンバーは、組織の取りまとめに力を発揮したベヘシュティー師、および革命のイデオローグと呼ばれたモタッハリー師であり、他にもハーメネイー現最高指導者、ラフサンジャーニー師(元大統領、元体制利益判別評議会議長)、バーホナル師(ラジャーイー政権首相)、マフダヴィー・キャニー師、ナーテグヌーリー師などが結成メンバーに名を連ねた。JRMは今日、イスラーム連合協会、イスラーム・エンジニア協会、ゼイナブ協会などを「同傾向の」組織と位置づけ、これらの組織と密接な協力関係を維持しているが、内務省の認可は受けていない。事務総長は2018年5月からモスタファー・プールモハンマディー師(元内務大臣、法務大臣)が務める。

政党HP https://rohaniatmobarez.ir/

イスラーム連合協会

1960年代に結成され、バーザールを拠点としてホメイニーの反体制活動を支持するデモなどを組織する。1964年にホメイニーが逮捕・国外追放されて以降は地下活動を開始し、モタッハリー師らの支援を受けて、反体制活動を継続する。革命後はIRP内部で活動するが、87年のIRP解党後は独自の活動を継続し、今日も原理派勢力の重要な一角を成す。2019年2月にアサドッラー・バーダームチアーン(2期、8期国会議員)が新事務総長に選出された。機関紙『ショマー』を発行。

政党HP https://motalefeh.ir/

イスラーム・エンジニア協会

1988年結成。認可年1991年。事務局長はモハンマド・レザー・バーホナル(第8期国会副議長)が務め、アフマディーネジャード大統領もメンバーに名を連ねる。その他の有力メンバーは、モルテザー・ナバヴィー、アリー・ラーリージャーニー(第8、9、10期国会議長)、モハンマド・ジャヴァード・ラーリージャーニー、モフセン・ラフィークドゥースト、アリー・ナギー・ハームーシー(前イラン商工鉱会議所会頭)などがいる。今日では開発者連合の一角を構成している。

政党HP http://www.mohandesin.ir/

イスラーム革命献身者協会

2005年結成。その源流は、1979年月に結成されたイスラーム革命モジャーヘディーン機構の右派系勢力に求められると言われている。2017年9月事務局長ジャヴァード・アーメリーが務める。アフマディーネジャード元大統領と同じ「原理派」に属するが、2005年の第9期大統領選挙ではガーリーバーフ候補を支持しており、アフマディーネジャードに対しては批判的なスタンスを維持している。

イスラーム・イラン開発者連合(アーバードギャラーン)

革命の理想に忠実で、かつ「イスラーム的イラン」の開発・繁栄を実現する実務能力を有することを掲げる、保守派系政治団体の連合体。2003年の第2期地方評議会選挙に際して結成され、第2期地方評議会選挙及び翌2004年の第7期国会選挙で勝利を収め、2005年のアフマディーネジャード大統領誕生の素地を作った。

イスラーム革命永続戦線(パーイダーリー)

2011年7月に設立され2014年9月に内務省の認可を受ける。2009年に生じた大規模な不正選挙デモのような混乱を阻止し、革命の理想、イスラーム体制の安定を目指し設立されたとされる。モルテザー・アーガーテヘラーニーが現在まで事務局長を務める。2013年、2017年の大統領選挙ではそれぞれ現ロウハーニーの対抗候補を支持した。

政党HP:http://www.jebhepaydari.ir/main/

左派・改革派

闘う聖職者集団(MRM)

1988年に結成され、1989年7月に内務省の認可を受ける。JRMと袂を分かった「左派」系ウラマーたちにより結成された。ハータミー元大統領もメンバーの一人。初代事務総長は、2000年選出の第6期国会で議長を務めたキャッルービー師。その後2005年にキャッルービー師がMRMを脱退すると、同年6月、モハンマド・ムーサヴィー・ホイーニーハー師(1979年11月の在テヘラン米国大使館占拠事件を主導した学生達の精神的指導者)が新たな事務総長に選出された。

イラン・イスラーム革命モジャーヘディーン機構(IRMO)

1991年に設立され、同年認可を受ける。その源流は、王制打倒という目的のもと共闘していた7つのイスラーム主義組織が革命直後(1979年4月)に結成した、イスラーム革命モジャーヘディーン機構(86年解散)の左派系勢力に求められる。1994年から発行を開始した機関紙『アスレ・マー』は、MRMのホイーニーハー師が発行する日刊紙『サラーム』に並ぶ、左派(改革派)勢力のマウスピースとなった。第10期大統領選挙ではムーサヴィー元首相を支持したものの敗北し、選挙後にはベフザード・ナバヴィー及びモスタファー・タージザーデなどの主要メンバーが軒並み逮捕された。2010年4月、2009年6月の第9期大統領選挙後の混乱を扇動したとして、第10条委員会から解党命令が出された。 

イスラーム・イラン参加戦線(IIPF)

1998年に、97年に大統領に選出されたハータミー師の選挙キャンペーンを支えた活動家たちにより設立される。その中心的なメンバーには、1979年11月の在イラン米国大使館占拠事件に関与した「イマームの路線を支持する学生たち」の元メンバーも含まれた。1999年認可。初代事務総長はハータミー前大統領の実弟であるモハンマド・レザー・ハータミーが務めた。2006年、第6期国会の外交・安全保障委員会委員長を務めたモフセン・ミールダーマーディが第2代事務局長に就任。しかしミールダーマーディは、2009年6月に実施された第10期大統領選挙後の混乱を扇動したとして、懲役6年(及び10年間政治活動禁止)の実刑判決を受け、IIPF自体に対しても、2010年4月、第10条委員会から解党命令が出された。 

国民信頼(エッテマーデ・メッリー)党

2005年6月の第9期大統領選挙においてMRMの支持を得られず落選し、MRMと袂を分かったキャッルービー元国会議長により、同2005年に設立された。改革派を名乗りつつ、(IIPFなどの)「急進」改革派(「急進」とは、体制の枠組み自体を疑問視することを意味する)とは一線を画すと明言している。2008年の第8期国会選挙では改革派連合には加わらず、独自のリストを作成した。日刊紙『エッテマーデ・メッリー』紙を発行していたが、同紙は2009年8月、発行停止処分を受けた。

イスラーム労働党

1996年に、労働組合(「労働者の家」)の指導者たちにより設立。1999年認可。アリーレザー・マフジューブ(5、7-10期国会議員)が現在党首を務めている。ニュースサイトILNA(Iran Labor News Agency)を運営。

政党HP http://workerhouse.ir/

中道派・現実派

建設の奉仕者党

1996年1月、当時のラフサンジャーニー政権の閣僚ら16名が結成宣言を行った「建設に仕える者たち」を原型とする政党。この宣言では「建設に仕える者たち」が、同96年3月に予定される第5期国会選挙に積極的に関与していくことが明言された。その後、このグループの旗揚げに加わった現職大臣は身を引き、改めて「建設の奉仕者たち(カールゴザーラーン)」という名称が採用され、さらに、1999年8月に内務省の認可を受けるに際し、名称は「建設の奉仕者党」と改められた。建設の奉仕者党を構成するのはラフサンジャーニー政権時代の閣僚経験者を含むテクノクラートであり、党首は元テヘラン市長のゴラーム・ホセイン・キャルバースチーが務めている。 中央評議会メンバーの1人であるモハンマド・アトリヤーンファルは、2009年大統領選挙でムーサヴィー氏支持に回ったが、選挙後に「体制転覆を企てた」として逮捕された。

政党HP https://www.kargozaran.net/fa/

中庸発展党

1999年設立。党首はモハンマド・バーゲル・ノウバフト(ロウハーニー政権期副大統領)が務める。中心メンバーはノウバフトの他、アクバル・トルカーン元国防軍需相(第1期ラフサンジャーニー政権)、モルテザー・モハンマド・ハーン元経済財務相(第2期ラフサンジャーニー政権)など閣僚経験のあるテクノクラートが占める。 ロウハーニー現大統領を指導者とする。

政党HP http://www.hezbet.ir/

イスラーム・イラン公正発展党

レザー・タラーイーニーク元国会議員が党首を務める。タラーイーニークは2006年の国会選挙では「包括連合」の旗上げに関わり、テヘラン選挙区から出馬したが、落選した。タラーイーニークは現在、体制利益判別評議会司法・評議会担当書記を務める。

<注>

本稿は、坂梨祥「イラン・イスラーム共和国」松本弘編『中東・イスラーム諸国 民主化ハンドブック2014 第1巻 中東編』人間文化研究機構「イスラーム地域研究」東京大学拠点, 2015, pp. 37-54. を最新のものに更新したものである。

<資料>

政党リストは以下の内務省HPからダウンロード可

https://www.moi.ir/Files/MOI/Files/9c/9c8af850-6540-4e22-8220-40dc8c779a9a.pdf

政党法第10条

https://rc.majlis.ir/fa/law/show/90226

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2019年11月18日

インドネシア/政党

総選挙に参加できる政党は全国規模の組織を有する必要がある。政党法に定められた要件を満たした法人として法務・人権省に登録した上で、2012年改正の政党法ではすべて州に支部を設置し、その州内の4分の3以上の県・市に支部を設置することなどが義務づけられている。2004年総選挙では24政党、2009年総選挙では38政党が参加した。2009年総選挙より、歴史的経緯からナングロ・アチェ・ダルサラーム州に限り地方政党の選挙参加が認められた。2014年総選挙では12政党が参加、10政党が議席獲得、直近の2019年総選挙では20政党が参加、9政党が議席を獲得した。得票率および議会占有率が2割を超える政党はない、多党化傾向が常態化している。

2008年の選挙法改正では代表阻止条項が規定する最低得票率が従来の1.5%から2.5%、2012年には3.5%に引き上げられ、小規模政党は一層不利になった。従来の制度では最低得票率に満たない政党は次回の総選挙への参加を禁じられていたが政党名を変えるだけで済み、多党化を防ぐ実質的な効果はなかった。2009年総選挙に際しては得票率2.5%以下の政党は議席も配分されなくなった。この結果、1999年総選挙から参加を続けていた月星党は国会で議席を失った。2019年総選挙では最低得票率が4%にまで引き上げられ、2009、14年選挙で議席を持っていたハヌラ党が国会から消えた。

インドネシアの政党は大きく世俗ナショナリスト系とイスラーム系に区分されてきた。1955年総選挙では国民党と共産党、マシュミ党とNU党が四大政党を形成した。こうした区分は依然として有効であるものの、両者の境界は曖昧になりつつある。ナショナリスト系政党は敬虔さをアピールし、イスラーム系政党は国家や社会のイスラーム化よりも反汚職や大衆の福祉などを訴えるようになった。第一次ジョコ・ウィドド(以下ジョコウィ)政権では、闘争民主党、ゴルカル党、民族覚醒党、開発統一党、国民民主(ナスデム)党、ハヌラ党が与党連合、グリンドラ党、福祉正義党が野党連合を組んでいる。野党連合は在野のイスラーム急進派を取り込み、政権批判を強めたが、与党連合にもイスラーム系政党が存在する。

2019年総選挙は、大統領への支持をめぐる与野党の対立が、社会の分極化に至るほど高まるなか、大統領選挙と初めて同日に行われた。ジョコウィ、プラボウォを担いだ闘争民主党とグリンドラ党がそれぞれ票を伸ばしたが、いずれも2割には届かなかった(グリンドラ党はゴルカル党に次ぐ第3党)。大統領選挙の結果が確定すると、両陣営は早々に和解し、グリンドラ党も第二次ジョコウィ政権の連立に加わった。明確な野党は福祉正義党のみになった。

2019年選挙の結果国会に議席を獲得したのは以下の9政党である。このうち民主主義者党は2004年、グリンドラ党は2009年、国民民主党は2014年に国政選挙に初参加した。

闘争民主党(Partai Demokrasi Indonesia Perjuangan, 略称PDI-P)

スハルト時代の野党インドネシア民主党を前身とする。インドネシア民主党は1973年の「政党簡素化」によって、世俗ナショナリスト系やキリスト教系の諸政党が統合されたものである。1997年総選挙に際し、影響力を強めつつあったスカルノ初代大統領の娘メガワティが体制側の介入によって党首の座を解任された。闘争民主党はこのメガワティを中心とした分派によって結党された。1999年総選挙では第1党になり、2001年のワヒド大統領罷免を受けてメガワティが大統領に就任した。しかし、メガワティの大統領としての資質、同党の未熟な議員による汚職事件や私兵組織による廃退行為が失望や反発を生み、2004年総選挙では大幅に得票を減らした。メガワティは2004年、2009年の大統領選挙に出馬したが、いずれもユドヨノに敗れている。メガワティが後継者として期待する娘のプアン・マハラニは、2019年選出の国会で議長となった。

ジョコウィを大統領候補に戦った2014年総選挙では第1党に復帰、2019年選挙でも第1党を維持した。なお、ジョコウィは当初から党員ではなく、大統領と闘争民主党の間にはつねに緊張感がある。

ゴルカル党(Partai Golongan Karya, 略称Golkar) 

1964年にインドネシア共産党に対抗して設立され、スハルト時代には翼賛組織として独占的な「与党」となったゴルカル(職能集団)は民主化後、「党(Partai)」を組織名に加えて再出発した。2009年総選挙まで毎回得票を減らしたが、地方まで浸透する最も安定的な党組織と支持層を維持している。非ムスリムの国会議員もつねに1~2割は存在するが、とりわけジャワ以外ではスハルト体制期の長年の支配によって、イスラーム組織関係者も党内に多く抱える。ユスフ・カラの大統領選敗北後、2009年10月に実業家で前国民福祉担当調整相のアブリザル・バクリが党首に選出された。2014年大統領選挙では、ジョコ・ウィドドの副大統領候補となったユスフ・カラではなく、プラボウォ組を支持、野党連合に加わった。ジョコウィ政権発足後、ゴルカル党は政権支持をめぐって分裂したが、結局与党連合に加わった。近年は闘争民主党への依存を減らしたいジョコウィとの接近が顕著である。前党首の汚職事件での逮捕を経て、2017年末から党首の座にあるアイルランガ・ハルタルトは、第一次ジョコウィ政権の途中から産業大臣に、第二次政権では経済部門の調整大臣の要職に就いている。

グリンドラ党(Partai Gerakan Indonesia Raya[大インドネシア運動党] , 略称Gerindra)

2007年結成の農民漁民党を前身とする。大統領選挙出馬を目指していたスハルトの娘婿で元陸軍戦略予備司令官のプラボウォが加わって、2008年4月に現在の党名に変更された。豊富な資金力を背景にテレビCMを大規模に展開して有権者への浸透を図った。そこで売り出したのは庶民の味方というポピュリスト的なイメージであり、かつてのプラボウォによる人権侵害への批判や強権的なイメージを払拭しようとした。プラボウォは2009年大統領選挙ではメガワティの副大統領候補として立候補したが、第1回投票で敗れた。2014年総選挙では、イメージ戦略に加え、前選挙で議席を得られなかった小政党を吸収して勢力を拡大、退役軍人のネットワークを活用、各地で地方有力者を取り込んで全選挙区で一議席を確保して第三党に躍進した。第一次ジョコウィ政権を通して、福祉正義党と共に野党連合として政権との対立姿勢を明確にしたが、2019年10月発足の第二次ジョコウィ政権では与党に加わった。プラボウォは国防相に就任した。プラボウォが国軍にいかなる影響力を発揮するのか、2024年大統領選挙に再び立候補するとしてそのために国家機関をどう利用するのか、第二次ジョコウィ政権を見るうえで重要なテーマである。

民主主義者党(Partai Demokrat, 略称PD

2004年総選挙に際して、スシロ・バンバン・ユドヨノを大統領に擁立すべく設立された政党。ユドヨノの人気によって2009年には第1党に成長したが、既存の大政党に比較して党組織は脆弱でとりわけ地方の人材が不足しているといわれる。2009年選挙のスローガンは「宗教的ナショナリズム」であり、ユドヨノ大統領自身とともに、「穏健だが、宗教的」なイメージを売り込んだ。2009年選挙で当選した同党国会議員の6割以上が経済界出身者であった。2014年総選挙では、次世代のリーダーと目された指導者たちの汚職容疑による逮捕、ユドヨノの人気凋落とともに党勢を半減させた。2019年総選挙でもさらに支持を減らしている。なお2019年大統領選では最終的にプラボウォ側に付いたものの、選挙後はすぐにジョコウィ政権と連立交渉を行なった。しかし、ユドヨノが自身の後継者として期待を寄せる息子のアグス・ユドヨノの入閣は叶わなかった。

民族覚醒党(Partai Kebangkitan Bangsa, 略称PKB)

最大のイスラーム団体ナフダトゥル・ウラマー(NU)を支持母体とする政党。NUの元議長で2000年に大統領となったアブドゥルラフマン・ワヒドのイニシアティブによって結党された。イスラーム団体を基盤としながらも、「民族」を掲げて国民政党を目指した。「覚醒」(kebangkitan)はNUの「ナフダトゥル」(アラビア語で覚醒)を想起させるインドネシア語、ロゴマークもNUに類似している。宗教的にNUへの親近感が強く、NU系のプサントレン(イスラーム寄宿学校)指導者の影響力が強い東ジャワ州と中ジャワ州に支持者が多い。「改革派」として期待された1999年総選挙では12.6%を獲得したが、内紛を繰り返し、勢力を弱めた。2009年総選挙に際しては、ワヒド派とムハイミン・イスカンダール(現党首)派との分裂が法廷闘争に持ち込まれ、正当性を認められなかったワヒド派は選挙をボイコットするに至った。2014年総選挙では分裂状態を解消して党勢を回復、2019年総選挙でも票を伸ばしたが、得票率10%に届いていない。2014、2019年大統領選挙ではジョコウィを支持し、連立与党の一角を占めている。とくに2019年はジョコウィが、副大統領候補にNU総裁のマアルフ・アミンを立てたため、民族覚醒党もジョコウィの当選に尽力した。

国民信託党(Partai Amanat Nasitional, 略称PAN)

 NUに次ぐイスラーム団体ムハマディヤの元会長で1998年の民主化運動の指導者の一人アミン・ライスを中心に設立された政党。ロゴマークはムハマディヤのマークに類似しているが、「国民」を掲げ、結党当初はキリスト教徒も幹部に迎えた。総選挙では都市部を中心につねに得票率6〜7%台の安定的な支持を受けている。アミン・ライスは2004年大統領選挙に立候補したが、第1回投票で敗れた。ビジネス出身の現党首ハッタ・ラジャサは、2009年大統領選挙ではいち早く再選を目指すユドヨノを支持し、第二次ユドヨノ政権の経済担当調整大臣を務めた。ハッタ・ラジャサは2014年大統領選挙ではプラボウォの副大統領候補になったが、接戦の上、敗退した。ジョコ・ウィドド政権発足後、一時は与党連合入りを表明して大臣職も得たが、野党連合とも近い関係を維持、2019年大統領選ではプラボウォを支持した。選挙後はやはりジョコウィ政権に接近した。

福祉正義党(Partai Keadilan Sejahtera, 略称PKS)

ムスリム同胞団をモデルとした大学キャンパスにおける宣教運動が発展して1998年に政党となった。正義党として結成されたが1999年総選挙で代表阻止条項の最低得票率(1.5%)を下回ったため、2004年総選挙前に福祉正義党が新たに結党された。2004年総選挙では、既存政党への不信感を背景に清廉潔白なイメージを売る福祉正義党への期待が高まり、都市部で躍進、ジャカルタ特別州では約23%を得票して第1党になった。2009年総選挙は微増、2014年総選挙では初めて得票率を減らした。そのイデオロギー的背景と組織的性格から、排他的との批判を受ける一方で、2004年以降は日和見主義的との評価もなされるようになった。10年間のユドヨノ体制下では3つの大臣ポストを維持した。とりわけ2005年に地方首長選挙が有権者の直接投票となると、多数派工作のためにあらゆる政党と連立を組んだ。2010年7月には「開かれた政党」となることを宣言し、さらに現実主義を強めている。しかし2013年には当時の党首が汚職で逮捕され、大きなイメージダウンになった。2014年大統領選挙では、プラボウォ陣営に付き、ジョコ・ウィドド体制下では下野した。2019年大統領選でもプラボウォを支持、第2次ジョコウィ政権では唯一明確な野党となった。

2015年8月に指導体制を一新し、ソヒブル・イマンが党首、サリム・セガフ・ジュフリが宗教評議会議長に就任した。ソヒブル・イマンは学部から博士課程まで日本で教育を受けている。他方のサリム・セガフはサウディアラビアのマディナ大学で博士号を得ている。理系と宗教エリートという福祉正義党特有の組み合わせである。

国民民主党(Partai NasDem, 略称NasDem)

元ゴルカル党政治家でテレビ局MetroTVなどを所有するスルヤ・パロが2011年7月に設立した政党。2014年総選挙では唯一新党として参加が認められ、得票率6.7%の支持を得た。同年の大統領選挙ではいち早くジョコ・ウィドドへの支持を表明し、MetroTVも活用して当選に貢献した。内閣などの戦略的ポストに複数の党員を配置している。ジョコ・ウィドドの再選も一貫して支持、地方首長選挙でも大衆的人気が高い候補の擁立に貢献する戦略で、小党にも関わらず大きな影響力を持ってきた。2019年総選挙ではやはり効果的な候補者擁立で9%まで得票を伸ばした。

開発統一党(Partai Persatuan dan Pembangnan, 略称PPP)

 スハルト時代の1973年に「政党簡素化」によって、イスラーム諸政党を統合して結成された。「開発」と「統一」という体制イデオロギーを政党名に背負わされ、また度重なる体制側の介入と内紛に悩まされた。他方、婚姻法の制定などイスラームに関係する議題で政府に反対して存在感を示すこともあった。1987年選挙に際しては党内最大勢力のNUが同党の公式な支持を取りやめ、得票が落ち込んだ。1998年以降、ロゴマークをカーバ神殿、党原則をイスラームに戻してイスラーム色を明確にした。NUの一部ウラマーなどから根強い支持がある。しかし、結党以来の派閥争いは解消されず、2004年選挙前に改革の星党と分裂した他、2009年大統領選挙でも候補擁立(ユドヨノかメガワティか)において二転三転した。2014年大統領選挙ではプラボウォを支持したが、ジョコウィ政権成立直前に与党連合へ加わり、二つの党執行部に分裂した。その後、政権支持側が裁判で勝ち、与党連合の一員となった。選挙直前に党首が逮捕された2019年総選挙では4.5%(前回6.5%)まで落ち込み、風前の灯である。

参考文献

  • 森下明子「2009年国会議員にみるインドネシアの政党政治家と政党の変化」、本名純・川村晃一編『2009年インドネシアの選挙―ユドヨノ再選の背景と第2期政権の展望―』アジア経済研究所、2010年、91-108ページ。 
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2019年10月7日

リビア/政党

内戦後のリビアでは政党活動が盛んではなく、政治における政党の役割も限定的である。その理由はいくつか考えられるが、カッザーフィー政権期(1969〜2011年)だけでなくその前のリビア王国期(1951〜1969年)にも政党活動が禁じられており、政党政治の歴史が浅いことが要因だと考えられる。比例代表方式による選挙が行われたのは2012年の国民議会選挙のみであり、政党政治の文化は広まっていない。

また、政変後のリビアで要人の暗殺・誘拐、民兵組織による政府機関やインフラ施設の襲撃などが頻発し、議論や政策でなく暴力によって政治が決定されてきた経緯から、リビア国民の政治に対する期待感が低下したといえる。

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2019年9月30日

ヨルダン/政党

ヨルダンの政党制度の変化

ヨルダンの政党制度は、1950年代に基礎ができたが、主に周辺諸国に拡大するアラブ民族主義や左翼勢力は国家の枠組みを超えた影響を持ち、その影響下にある国内の各政治勢力は時としてハーシム王制そのものを反動的体制として批判・攻撃の対象とした。このため、国王は政党活動を1957年以降禁止し、1992年までヨルダンを戒厳令下に置いた。政党活動が盛んな1950年代には、バース党やナーセル主義の影響力を受けたアラブ民族主義政党が影響力を持ち、それに対するカウンターバランスとしてハーシム王制はムスリム同胞団に依拠した。しかし、政党活動の禁止後は、イスラエルの西岸占領によって選挙も停止され、健全な政治的新陳代謝が不可能になる中で、各種職能組合が国民の意見表出機能を一部代替し、政党の機能を担った。その間、例外的に慈善団体として組織的活動を許されたヨルダンのムスリム同胞団は、社会活動における影響力拡大を政治的力にして、影響力を拡大した。

1992年の政党法は、政党設立の諸条件を規定しているが最も重要な条件として、ヨルダン以外の国の政党のメンバーであったり他の国を拠点にする政党であったりしてはならないということが規定されている。これは、1950年代の政治的経験によるものと考えられる。この規定により、シリアやエジプトやパレスチナとのつながりの深い政党は、党のヨルダン化を行わなければならなかった。1989年の第11期議会の選挙の時点では、政党が認められていなかったが、注目される政治的潮流としては1950年代にも見られたアラブ民族主義系、イスラーム系、左翼系の勢力で、唯一、同胞団が公認の組織としての強みを発揮する事になった。1992年の政党法以降は、上記傾向の諸政党が設立され、ムスリム同胞団も新政党法に合致するようにイスラーム行動戦線(IAF)を設立した(ムスリム同胞団も福祉団体として存続)。 

ヨルダンの政党制度の最大の問題は、政党に対する有権者の期待の低さに現れている。選挙において政党に基づいて投票した有権者の割合が極端に少ない事がヨルダンの民主主義の問題点を示している。野党側は、選挙制度の改変(投票方法の連記制から単記制への変更)が政党からの立候補者に不利に働いた事を指摘する。その指摘が正しかったとしても、もともとのヨルダンの政党全体に対する支持率の低さは説明できない。問題点の一つとして、各政党がイデオロギーや信仰などの抽象的問題にあまりにこだわり、国民の日常的な関心を議論の中心に据え、具体的な提案や対応を行ってこなかった事も考えられる。ヨルダン大学戦略問題研究所の世論調査では、「支持政党あり」と答えた割合が2004年に9.8%、2005年に6%、2006年に6.8%、2007年に9.7%、2008年に5%という数字しか示していない事や、「政党が(国民のためでなく)党のために働いている」と感じた市民が、上記年にそれぞれ49.1%、53.3%、58.7%、61.5%、59%という数字に上っている事が問題の一端を示している。

2016年の総選挙における政党(登録数40)からの立候補者は、1252人中215人であり、候補者の17%に相当する。これは結果的に2013年に採用され2016年に廃止された全国区の「政党枠」の全議席に対する代表率18%に近い数字である。そして選挙の結果、40名が政党からの立候補により当選した。形式的には近年では最も政党による当選者が拡大した。しかし内実は、イスラーム系22議席、左派民族主義2議席、その他は保守派政党からの当選者であった。保守派政党の内実はほとんどが特定の影響力のある政治家が中心となり運営されており特記すべき政策は見られない。有権者は、部族や血縁関係に日常的要求実現を求めるのか、宗教組織に求めるのか、あるいは新たなNGOの機能に実現を求めるのか、無党派層の内実にも注目すべきである。 

ヨルダンの主要政党

ヨルダンの主要政党はイスラーム系、左翼系、アラブ民族主義系、中道・レベラル、保守と分かれる。その中で左翼系とアラブ民族主義系の政党は(共産党を除いて)主張が重なるところも多く、時には両方の要素が混合した政党も見られる。その中でも、議会に議員を一定数送り込み、実質的に党としての活動をしているのは、IAFのみと見なされる。他方国王は、民主主義の定着の証としての政党政治の重要性を謳っており、それは2012年や2016年の選挙法にも表れている。

(a)イスラーム系

イスラーム行動戦線党

  • Hizb Jabhah al-‘Amal al-Islami
  • (Islamic Action Front Party)
  • 1992公認
  • 発起人353人

一般には、ムスリム同胞団(1947)の政治部門とされる。しかし、行動戦線側では人的交流の深さを認めつつも、あくまでも別組織であり、ムスリム同胞団出身者以外のメンバーも多いとしている。1992年ムスリム同胞団の幹部と独立イスラーム主義者によって設立会議が開かれた。発起人には、元自治環境大臣や元法相など閣僚経験者も含まれている。選挙制度(単記制)への反発から2010年の総選挙をボイコットし、また新たな制度である政党ベースの全国区の議席率が少ないことに反対し、2013年の総選挙をボイコットした。選挙に復帰した2016年の選挙では、10名が当選した。

イスラーム的生活の回復とシャリーアの適用、シオニストや帝国主義に対するジハードの遂行とアラブ・イスラームの復興をめざす。国民統合、民主主義とシューラーに基礎をおく体制、自由の獲得をめざす。そのために、市民のためにあらゆる政治勢力との対話を行い、ヨルダンの政治・行政・経済の腐敗を除去し、国の安定を目差す。女性・青年の権利を守る努力をする。シューラー会議は、選挙で選ばれた120人の議員(4年任期)によって半年ごとに開催され、党の方針を決め、指導部も選出する(2年ごと)。党員は教育省関係者が多い。1991年にムスリム同胞団メンバーが史上初めて閣僚入りしたが、内閣参加への反対派(ハンマーム・サイードら)と賛成派(アブドゥッラー・アカーイレら)の間の対立も生まれた。また、独立系の党員からはムスリム同胞団の党への影響力関与への批判もある。

国民会議党(Zamzam)

  • Zamzam 
  • Jordanian National Conference Party
  • 公認2016年

ザムザムは穏健イスラーム政党であり、ヨルダンのムスリム同胞団を離脱したメンバー(レイル・ガラーイバが発起人)により構成される。2016年総選挙では5名が当選した。メンバーは党が市民中心で、党派的でなく、包括的で真に国民的な目標を達成し、民主主義と法の支配を達成することを目指す。ガラーイバは、「われわれは既存の宗教的・エスニック的・排他的なイデオロギーから離れたコンセンサスを渇望している」と述べた。(Jordan Times,26 March 2016) 

イスラーム・ワサト党

  • Hizb al-Wast al-Islami
  • (The Islamic Middle Party)
  • 2001年公認

Muhammad Al-Qudahを指導者とし、2001年IAFから離脱した者で結成された。党首、諮問評議会、諮問評議会事務局、General Assembly, General Conference、中央委員会、中央裁判所、訴追裁判所、約400人のメンバーがいるとみられる。シャリーアを柔軟に解釈し、民主的改革と政治的多元主義を重視し、政府の権力と市民の自由のバランスを取るように求める。議会で他の世俗政党とともに国民運動ブロックを形成している。また欧米諸国と公然と協力する姿勢を示し過激主義を批判している。

(b)左翼

ヨルダン共産党

  • Al-Hizb al-Shyu‘ii al-’Urduni
  • (Jordanian Communist Party)
  • 1993年公認
  • 発起人70人

イスラエルの成立後も西岸で活動を続けたパレスチナ解放運動組織の連合により、1951年ヨルダンに創設された。アラブ各国の大学で学ぶヨルダン人を中心に構成されていた。1950年代には「反共法」に基づき、治安当局からの取締りを受けた。秘密に発行される機関紙「ジャマーヒール(大衆)」紙により党員の連絡を保つ一方、労働組合・女性組織・学生組織・青年組織などの中で影響力維持を図った。共産党はその後、分裂も経験した。1980年代初めには、西岸のパレスチナ人共産主義者が離脱し、「パレスチナ共産党」を宣言した。また80年代初めに、ヤコブ・ズィヤッディーンが書記長に選出されると、古くからの党員で幹部のイーサー・マダナートが党を割った。社会主義圏の崩壊にもかかわらず、党は原則を主張しつづけている。労働組合などでの量的影響力は低下しているが、一般的な尊敬を引き続き集めているとも言われる。IMFの構造調整に反対し、イスラエルとの和平条約に反対を表明し、また協定後はイスラエルへの門戸開放に抵抗し、アラブ諸国間の協力関係強化を主張している。 現在議席は持っていない。 

(c)アラブ民族主義

アラブ・バース進歩党

  • Hizb al-Ba‘ath al-‘Arabi al-Taqaddumi
  • (The Arab Ba‘ath Progressive Party)
  • 1993年公認
  • 党員約200人

シリア・バース党系。法と憲法による統治とともに民主主義の拡大を追求している。人民の意思の支配を払しょくし、人民のための政治的・経済的利益の達成を求める。一神教の信仰と民族的遺産の尊重とアラブ民族の統一を尊重する。国内制度の安定とアラブの経済的統合の達成を目指す。政党としては規模が小さいが、書記長であるフアド・ダッブールの外交問題に関する発言がメディアで取り上げられることが多く党の知名度を上げることに貢献している。 ライバルであるイラク・バース党系のヨルダン・アラブ・バース社会主義党より規模が小さいとみられる。

ヨルダン人民民主党

  • Hizb al-Sha‘ab al-Dimqrati al-’Urdni (Hashd)
  • (Jordanian People’s Democratic Party)
  • 1993年公認
  • 発起人100人

1989年、DFLPがヨルダン内に自立性を持つ政党を作る方針を出したことにより、設立された。1993年DFLPメンバー・労働組合員・職能組合員・女性運動家・青年組織・知識人などからなる創設機関が作られ、1989年の総選挙では1人当選者を出した。週刊の党機関紙「アルアハーリー」がある。1970年代から80年代にかけてはパレスチナ人が党の基盤となったが、1991年と1994年に党は分裂し、影響力を弱めた。2010年の選挙では女性枠で事務局長のアブラ・アブー・オルベ(アンマン第1区)が当選し、1994年以降初めての議員となるとともに、第16期議会の唯一の野党議員となった。 第18期議会では当選者は出なかった。

(d)左翼+アラブ民族主義

ヨルダン民主左翼党

  • Al-Hizb al-Yasar al-Dimuqrati
  • (Jordanian Democratic Leftist Party)
  • 1994年公認

1997年、ヨルダン民主統一党 Al-Hizb al-Dimqrati al-Wahdawi (The Jordanian Democratic Unitary Party)より改称した。左翼とアラブ民族主義諸派の連合で構成されている。党側は自らを左翼政党ではなく、民主主義政党としているが、むしろ革新的左翼の主張に近い。以下の政党及び政治グループから成る。

(i)社会民主党Al-Hizb al-Dimuqrati al-Ishtiraki

イーサー・マダナートが率いる。ヨルダン共産党から、スターリン主義的傾向を持つ党の方針に反対し、民主主義やアラブや世界との交流を主張し、離脱した。第12期下院に1人当選した。 

(ii)ヨルダン民主アラブ党 Al-Hizb al-‘Arabi al-Dimqurati al-’Urduni

マーゼン・サーキトMazin al-Sakit が率いる。バアス主義者、共産党員、パレスチナ政治グループの多様な派の集まり。アラブ民族主義・ヨルダン国民主義・社会主義・穏健な自由主義などの混合が見られる。

(iii)ヨルダン民主進歩党 Al-Hizb al-Taqaddumi al-Dimqurati al-’Urduni

ヨルダン人民民主党(Hashd)から分離した勢力によるもの。1991年にDFLPを脱退したヤーセル・アブドラッボ派に近く、「刷新と民主主義」をスローガンとしている。

(iv)ヨルダン人民民主党民主派Al-Taiyar al-Dimuqrati fi Hizb al-Sha‘ab al-Dimqrati al-’Urduni (Hashd)

1994年ヨルダン人民民主党(Hashd)から分離した。同党のバッサーム・ハッダーディーン Bassam Haddadinは89年と93年の選挙で下院議員に当選した。 

(e)中道・リベラル

未来党

  • Hizb al-Mustaqbal
  • (Future Party)
  • 1992年公認

1980年代に内務相などを務めたスレイマン・アラール Sulaiman ‘Ararが中心となり、1992年中道の政党としては初めて登録した。スレイマン・アラールはまた、1989年から90年11期下院の議長を務めている。ヨルダン国民主義とアラブ民族主義の中間の政治方針を持っているが、政府の金融政策とイスラエルとの政治経済的な平和の構築を支持した。しかし、最近の民主化や選挙法改正に関する政府批判に同調し、1997年選挙はボイコットした。1989年の第11期議会には3人、1993年の第12期議会には1名議員を当選させている。結党当初から発行されていた機関紙は、発行停止になった。

(f)保守

国民潮流党

  • Hizb al-Tayar al-Watani
  • (National Current Party)
  • 2009年公認

党の基本的方針としては、国民的統一、政治的忠誠心、公正、節度、寛容の価値の推進、市民の参加の拡大、法の統治の構築、政治改革によるガバナンスの強化、そのための法による自由や市民の保護と政府による安全や政策の展開との調和を掲げている。第16期議会選挙では、マジャーリー指揮下に国民潮流党の名のもとに、8名、第17期選挙では1人、第18期選挙では4人当選している。政党の形をとっているが、部族的背景で当選した者も多く、保守派と無党派の境界領域にあるもの、とみなすこともできる。

国民連合党

  • Hizb al-Ittihad al-Watani
  • (The Jordanian National Union party)
  • 2011年公認

組織:総会、議長、事務局長、事務局、経済局、会計局、専門局(議会、政党、選挙、人権、女性等) 政党、選挙等に関する政治関係法への市民の関心を喚起することを目的とする。民主主義推進のための適切な環境を整備する。各種会議への参加を通して、ヨルダンのアラブ諸国や域内、国際社会での役割を強化する。表現の自由、集会、平和的デモの権利を確立しそれへの障害を取り除く。憲法の原則を維持し、それに反する法律や規定を排除する。法の統治を確立する。第18期選挙では、7名の当選者をだした。

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2019年1月18日

バングラデシュ/政党

 (1)Awami League:アワミ連盟

アワミ連盟は、パキスタン分離独立後の1949年に東パキスタンにおいて結成された。アワミ連盟の創始者はマオラナ・バシャニーとH・S・スフラワルディとされているが、リーダーとして認知されているのはシェイク・ムジブル・ラフマンである。結党当初からパキスタン政府の打ち出したウルドゥー語を公用語とする政策に強く反対し、パキスタンからのバングラデシュ独立に指導的な役割を果たした。

独立後、アワミ連盟は新国家バングラデシュの舵取りを担ったが、独立戦争によって国土が荒れていた上に度重なるサイクロンや洪水の被害により国民は飢餓に苦しみ、国家を安定的に導くことができなかった。また、ムジブル・ラフマンは初代首相(後に大統領)に就任したが、次第に強権的性格を強め、1975年の青年将校による軍事クーデターによって家族数十人とともに暗殺された。後継者には、クーデター当時ヨーロッパに滞在中で難を逃れた長女のシェイク・ハシナ(現首相)が総裁に就任した。

その後、アワミ連盟は1995年の総選挙に勝利し、政権を奪取するまでの20年間、野党の立場にあった。2001年総選挙には敗れたものの、2009年、2014年、2018の選挙に勝利し、三期連続の政権党となった。

アワミ連盟はパキスタンから独立を果たす際、インドからの支援を受けた経緯から、歴史的に親インドであり、特にインド国民会議派との関係は深い。独立戦争直後は社会主義と政教分離主義を柱とするなど、明確な左派政党であったが、近年では中道左派的な政策指向に変化している。国立大学に強力な学生支持団体を持ち、ヒンドゥー教徒や少数民族にも支持基盤をもつ。

(2) Bangladesh Nationalist Party (BNP):バングラデシュ民族主義党

BNPは、1978年にジヤウル・ラフマンによって設立された。ジヤウル・ラフマンは軍人出身で、独立戦争のリーダーだったムジブル・ラフマンを積極的に支持した。1975年の軍部青年将校によるムジブル・ラフマン暗殺事件のあと、クーデターを起こして事態を収拾し、そのまま政権を担った。その後、民政移管にむけてBNPを設立したが、1981年に軍内部の対立から暗殺された。

ジヤウル・ラフマンの暗殺事件後は、妻のカレダ・ジアが総裁に就任し、現在にいたっている。BNPは1990年および2001年の国会総選挙に勝利し、カレダ・ジア総裁は過去に2度首相を経験している。

BNPは、親インドで左派的な政策を指向するアワミ連盟への対抗上、親パキスタン、親イスラームの立場をとる。2001年の選挙からイスラーム主義政党であるジャマティ・イスラミと連立を組んでいる。2014年の総選挙では選挙のプロセスをめぐり与党アワミ連盟と対立し、選挙をボイコットしたことから、BNPは国会の議席を失い、急速に政治力を低下させた。2018年の総選挙では野党連合として選挙に参加したが、連合全体でわずか7議席を獲得するにとどまった。

(3) Jatiya Party(JP):ジャティオ・パーティ

JPは、1981年に起きたジヤウル・ラフマン暗殺事件の後、戒厳令司令官として軍政を掌握したH・M・エルシャドが1986年に設立した。当時、欧米諸国の外的圧力もあり、エルシャドは民主的な総選挙をおこない国会に議席をもつことで政府の正統性を国内外に示す必要があった。その受け皿として設立されたのがJPである。1986年の総選挙では勝利したが、さまざまな選挙工作疑惑がもたれている。実質的な民主化がなされた1991年の選挙以降は第3政党となっている。

(4) Jamaat-e-Islami(JI):ジャマアテ・イスラーミー(イスラーム協会)

JIは1941年にイギリス植民地時代のインドにおいて結成された。パキスタンからバングラデシュが独立した際にBangladesh Jamaat-e-Islamiとして再結党された。イスラーム主義政党で農村部貧困層に強い支持基盤をもつ。議席数は多くないものの、過去にアワミ連盟とも、BNPとも連立政権を組んだ経験があるなど、強固な政治基盤をもとに政界に影響力を与えている。パキスタンからの独立戦争当時はパキスタン側についていたため、一時非合法政党となっていたこともある。2009年の総選挙に勝利したアワミ連盟により、独立戦争当時戦争犯罪を裁く、国際戦争犯罪裁判が設置され、JIの幹部の多くが有罪判決をうけた。2013年12月にそのうち一人が処刑されて以降、アワミ連盟とは厳しい緊張関係にある。

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2019年1月18日

マレーシア/政党

1957年の独立から61年間続いたBN体制下でのマレーシアの政党システムは、エスニック集団別および地域別に組織された政党が連立を組む形態が基本となってきた。2018年総選挙で政権交代が起こってBN体制が崩壊した現在でもエスニック集団や地域に沿った政党が連立を組む形態は基本的には変わっていない。ただし、新たに与党となったPKRやDAPなどの政党はマルチ・エスニック政党を自称し、複数のエスニック集団を党員とする政党を構成している。近年、マレーシアの政党システムは少しずつだが、マルチ・エスニックな様相を示し始めている。

2018年総選挙の後、政党および政党連合の離合集散が起こっており、2018年現在は移行期にあたるといえるだろう。

(1) 希望連盟(PH)の構成政党

政党連合の希望連盟(Pakatan Harapan: PH)は2018年総選挙でマレーシア史上初の政権交代を果たした。PHは2015年に前身の人民連盟(Pakatan Rakyat: PR)が活動停止状態になった後、以下で説明するPKR、DAP、Amanahの3党によって発足した。その後2017年に公式にPPBMが加入して4党体制となった。

PHの前身にあたるPRは2008年から2015年まで連邦下院での野党連合として活動し、スランゴール州、ペナン州、クダ州(2008-2013年)、ペラ州(2008-2009年)でPRが連立して州政権も運営していた。しかし、後述するAmanahやPASの項で説明するように、構成政党間の対立によってPRは活動を停止してしまう。中でもイスラーム主義政党のPASと主に非ムスリムに支持基盤をおく世俗政党のDAPとの対立がPR瓦解の最大の要因である。

PASとDAPの対立はPRの前身にあたり、1999年総選挙に向けて野党が連合した政党連合の代替戦線(Barisan Alternatif: BA)でも起こり、BAが事実上活動を停止する原因となっている。

①人民公正党(Parti Keadilan Rakyat: PKR)

1990年代末のレフォルマシ運動の時代にアンワル・イブラヒムの妻のワン・アジザを代表に結成された国民公正党(PKN)をベースに、1955年にマレー人左派を中心に結成され、社会主義を掲げたマレーシア人民党(PRM)が2003年に合併してできた政党。マルチ・エスニックな政党として組織されている。現在の総裁はワン・アジザだが、実際は党のアドバイザーの地位にあるアンワルが長年事実上の総裁として実権を握ってきた(ただし、2018年11月の党内選挙でアンワルが無投票でPKRの党総裁に就任することが本稿執筆時点で決まっている)。

2008年総選挙では連邦下院議席を31議席獲得して最も躍進した政党であったが、その後は離党者が続出し、2011年8月には下院24議席(協力関係にあるマレーシア社会主義者党の議員を除けば23議席)にまで減少した。しかし、2013年総選挙では30議席に回復し、2018年総選挙では47議席にまで議席を増やして新たに政権についたPH政権の中で最大の連邦下院議員を擁する政党となった。

PKRは2008年以降、首都で連邦直轄地のクアラルンプールを取り囲む、マレーシアで最も経済的に発展したスランゴール州の州政権の州首相を輩出してきた。また、2013年総選挙ではPRが新たに州政権を獲得したヌグリスンビラン州の州首相もPKRから輩出されることとなった。現在のスランゴール州の州首相はアミルディン・シャーリで、ヌグリスンビラン州の州首相はアミヌディン・ハルンである。PKRの支持者はマレー人、華人、インド人の全ての層にまたがっており、マルチ・エスニック政党を自称している。とはいえ、支持者や指導層の中核を占めるのはマレー人である。PKRの最も重要な支持基盤はスランゴール州にあり、その他にマレー半島の西海岸沿いの州の都市部を中心に支持を集めている。

PKRの党内にはアンワルおよびその一家が党の顔となっている中で、2つの派閥が存在する。一方の派閥は2010年からPKRの副総裁であり、2014年から2018年の4年間スランゴール州の州首相を務めていたモハメド・アズミン・アリの派閥である。2018年総選挙後にアズミンは連邦政府の経済担当大臣となった。50代前半のアズミンはマハティールとアンワルの後に続く首相候補であるとの声も高まっている。もう一方の派閥は、モハマド・ラフィジ・ラムリの派閥である。ラフィジの名声を最初に高めたのは彼が2011年から2012年にかけて当時の女性・家族・コミュニティ開発大臣のシャリザ・アブドゥル・ジャリルの夫の関与した全国飼育場社(National Feedlot Corporation: NFC)をめぐるスキャンダルを内部告発者からの情報や独自調査をもとにして暴いたときである。その後、ラフィジはPKRの党序列3位の副総裁補に昇りつめながら、自らが設立に関与したNGOなどと連携して政府や与党の関与するスキャンダルの暴露や選挙監視ボランティアの組織化などを手掛けて注目を集めた。アンワルとその一家は、アズミンの党内での影響力を削ぐためにラフィジの方に近い立場をとっているともいわれている。2018年11月に予定されているPKRの党内選挙や今後のPHの政治をみる際のポイントの1つがアンワル、アズミンとラフィジという党内の主要政治家の動向になることは間違いない。

②民主行動党(Democratic Action Party: DAP)

1965年のシンガポールのマレーシア離脱に伴い、シンガポールを拠点に設立されていた人民行動党(People’s Action Party: PAP)の元党員がマレーシアで結党した。党の路線として社会民主主義を標榜する。マルチ・エスニック政党であり、党自体も「マレーシア人のマレーシア(a Malaysian Malaysia)」を主張し、BNのエスニック集団に基づく差別政策を批判してきたが、実態は非マレー人、特に華人に強い支持基盤を持ち、彼らの利益に基づく活動を行うことで、主に都市部の華人在住地域で議席を確保してきた。しかし、近年では華人の党であるとのイメージを刷新するため、マレー人の若手党員や指導者の育成に力を入れている。

2008年総選挙では、PASやPKRと連合を組んでペナン州で(連邦下院議席と州議会議席)の大量当選者を出し、当時BNを構成していたグラカンから州政権を奪った。2013年総選挙では、それまでBNの牙城だったジョホール州に、60年代から90年代末まで幹事長として名を馳せて、党の顔でもあるリム・キッシャンや若手の有力政治家を候補者として立てることで、BNの牙城の一部を崩すことに成功した。この成果により、DAPはPR構成政党の中でも2008年総選挙から唯一議席を増加させた政党となり、PRの第一党、連邦下院議会でもUMNOに次ぐ第2党に躍進した。2018年総選挙後は与党となったPH内で第二党として重要な位置を占めている。DAPの長年の支持基盤はペナン州などマレー半島西海岸の華人の多い都市部であったが、近年は東マレーシアのサラワク州などでも勢力を拡大している。

党役員では代表にあたる議長は、タン・コックワイ。しかし、党内では上述のリム・キッシャンが強い影響力を持つほか、実質的な指導者は党幹事長でリム・キッシャンの息子であるリム・グァンエンである。リム・グァンエンは2008年から2018年までペナン州の州首相を務めた後、2018年総選挙でPHが政権を獲得するとマハティール内閣の財務大臣に就任した。華人の財務大臣就任は1974年以来初めてのことである。DAPが州政権を運営するペナン州の現在の州首相は2018年5月に就任したチョウ・コンヨウである。

③マレーシア統一プリブミ党(Parti Pribumi Bersatu Malaysia: PPBM)

マハティールやムヒディン・ヤシン元副首相ら主にUMNOからの離党組によって2016年に結成された政党。PPBMが設立された背景として、2014年から2015年にかけて当時のナジブ首相にマハティール前首相が批判を強めていたことがある。マハティール首相が批判をしたのは、最初は財務省傘下の国営投資会社のワン・マレーシア開発公社(1 Malaysia Development Berhad: 1MDB)の巨額債務問題だった。さらに、2015年7月に『ウォール・ストリート・ジャーナル』紙が26億リンギ(日本円で780億円)の巨額資金が1MDBからナジブ首相の個人口座に流れたとの報道をした後は、マハティールの批判はさらに強まった。1MDB関連のスキャンダルの追及から逃れるために、ナジブ首相は閣内で自らに批判的なムヒディン副首相を解任。その後はマハティール、ムヒディンやマハティールの息子のムクリズ・マハティール前クダ州首相らはUMNO党内でナジブの追い落としを図ったが果たせず、彼らはUMNOから離党し、PPBM結党に至った。

PPBMが公式にPHに加入したのは2017年に入ってからである。結党後最初の総選挙となった2018年総選挙でPPBMはマハティールの生誕地で長年の選挙区であるクダ州や、ムヒディンが過去に州首相を務めたことがあるジョホール州で勢力を拡大した。この両州についてはPPBMが州政権を担当し、クダ州ではムクリズ、ジョホール州ではオスマン・サピアンが州首相である。

④国民信託党(Parti Amanah Negara: Amanah)

2015年にPASからの離党組が結成した政党。PASの項で後述するように2013年総選挙以降、PASはクランタン州でのハッド刑の導入を本格的に検討し始め、当時の野党連合のPRの内部で対立を生んでいた。この対立が高じて2015年にPRは連立解消に至った。PAS内ではPKRやDAPとの協調路線をとろうとする非ウラマーの勢力が2015年の党内選挙で敗退したが、この勢力は同年6月にPASを離党して社会運動組織の新希望運動(Gerakan Harapan Baru: GHB)を結成した。GHBは当初から政党結成を目指して組織されていた。GHBは1970年代から休眠状態にあったマレーシア労働者党(Parti Pekerja-Pekerja Malaysia)の政党登録を利用し、党名を改名して現在のAmanahとなった。その後、AmanahはPKRやDAPと連立を組んでPHを結成した。

2018年総選挙ではAmanahは11議席を獲得した。総選挙でAmanahはPASが強い勢力を保ってきたマレー半島の東海岸や北部に候補者を多く立てたが、実際に当選者を出すことができたのはマレー半島の西海岸だった。この選挙結果から示されるように、Amanahは現在でもマレー人居住者の比率が高いマレー半島の東海岸や北部でPASに対抗できるほどの支持基盤を築くことができていない。Amanahの支持者の多くはクアラルンプール周辺の都市部に住むマレー人である。

Amanahの党総裁は、モハマド・サブ(通称、マット・サブ)である。モハマド・サブはPAS離党前にはPASの副総裁を務めていたこともある。現在、モハマド・サブは2018年5月に発足したマハティール内閣で国防大臣の地位にある。マハティール内閣ではAmanahは大臣5人、副大臣5人を送り込み、所属下院議員の11人のうち10人が内閣のポストを有するという優遇されている状況にある。Amanahはムラカ州の州政権も担当している。現在のムラカ州の州首相はアドリ・ザハリである。

(2)PHと同盟関係

サバ伝統党(Parti Warisan Sabah: WARISAN)

2016年に結成されたサバの地域政党である。現在、PHには加入していないものの、PHと同盟関係にあって2018年に発足したマハティール内閣にも3人の大臣を出している。WARISAN結成のきっかけは、2015年から1MDBスキャンダルの渦中でUMNOのナンバースリーの副総裁補で、農村・地域開発大臣でもあったシャフィ・アプダルが反ナジブの姿勢を見せて閣僚を解任され、その後、UMNOから離党したことによる。シャフィは自らを代表とするサバの地域政党を立ち上げて総選挙に備えた。

2018年総選挙でWARISANはサバ州で連邦下院議席を8議席獲得する一方、サバ州の州議会で21議席を獲得した。サバ州議会選挙結果の内訳は、WARISANがPH構成政党のPKRおよびDAPが獲得した8議席と合わせて29議席を確保したが、UMNOが同じく29議席を獲得したため、PHと同盟したWARISANと、UMNOが同数となった。残りの州議会の議席はサバの地域政党の故郷連帯党(Parti Solidariti Tanah Airku: STAR)が2議席を獲得したが、STARはUMNOと連立を組む意向を示したため、総選挙直後はUMNO主導の州政権が発足する見込みであった。しかし、UMNOからの6人の離党者がWARISANに入党したため、WARISAN総裁のシャフィを州首相とする州政権が発足した。

(3)BNの構成政党

①統一マレー人国民組織(United Malays National Organization: UMNO)

植民地統治下の1946年に宗主国イギリスが提出したマラヤ連合案に反対するマレー人組織が集まって結成される。結党時の党規約にも示されているとおり、マレー人の権利の擁護を目的に設立された政党であり、マレー人に党員が限定されたエスニック政党である。2018年総選挙で敗れて下野するまで61年間政権を握り続けた政党連合BN(その前身の連盟)の中核政党で、歴代の内閣の総理、副総理は慣例的にそれぞれUMNOの総裁と副総裁が就任してきた。近年まで農村部や公務員の間に比較的強い支持基盤を持ち、長い与党経験の中で構築されてきた政府の統治機構と一体化した強力な選挙マシーンを有してきた。

NEPに伴って70年代から90年代にかけて政府主導でマレー人企業に手厚い保護が実施される中で、UMNOは与党としての立場を利用した与党ビジネスを本格化させていった。1980年代から1990年代にはUMNOの与党ビジネスは最盛期を迎え、UMNO系企業が建設、ホテル、メディア、不動産開発など様々な分野で大きな経済的影響力を持ち、巨大ビジネス・グループを形成し、党運営における豊富な資金源となる一方、こうしたビジネスとUMNOとのつながりは、党内の派閥闘争を深刻化させ、外部から金権政治や汚職体質を批判されるようになった。しかし、1990年代末のアジア経済危機によって与党ビジネスが深刻な打撃を被り、企業グループの整理や政府主導の再建が進む中で、UMNOが直接的に影響力を行使する企業はメディアなどの一部の分野に留まるようになった。

2018年総選挙の結果はUMNOにとって衝撃であった。UMNO結党の地であり長年にわたって地盤としてきたジョホール州や、1990年代から経済開発の実績と将来的な約束を通じて強固な地盤を築いているとみられていたサバ州のほか、これまで野党の州政権を経験したことがないムラカ州やヌグリスンビラン州などでもUMNOは議席を大きく減少させた。2018年総選挙によって連邦下院の議席数は前回総選挙よりも34議席を減らして54議席となり、州議会選挙でもクダ州、ペラ州、ムラカ州、ヌグリスンビラン州、ジョホール州の州政権を失った。サバ州の州政権も総選挙後に所属議員がUMNOからWARISANに寝返ったためにUMNOの確保できた州政権はプルリス州とパハン州の2州のみとなった。

2018年5月の総選挙で政権を失った後、UMNOは党役員人事選挙を6月に実施した。役員人事選挙では、UMNO副総裁で前副首相のアフマド・ザヒド・ハミディ、UMNO青年部長で前青年・スポーツ大臣のカイリ・ジャマルディン、元財務大臣のラザレイ・ハムザらが総裁職を争った。総裁選ではカイリがUMNOの党員をマレー人以外にも求める可能性も示唆したが、選挙結果はナジブ時代からの継続の色が強いザヒドが総裁に選出された。

②マレーシア華人協会(Malaysian Chinese Association: MCA)

1949年に当時のイギリス植民地マラヤを代表する華人企業家のタン・チェンロックの主導により結成。華人に党員が限定されたエスニック政党。設立以来、華人ビジネス界との関係を比較的強く有している一方、MCA自体もビジネスに直接関与している。最もよく知られたMCAのビジネスとして、マレーシア最大の英語紙『スター』の発行がある。独立から2018年まで与党の地位についてきたが、2008年総選挙で議席が半減しただけでなく、その後の党内を2分する派閥抗争によって党勢は大きく落ち込んだ。その後、2013年総選挙ではさらに議席数を7議席まで減らし、2018年総選挙では僅か1議席しか確保できずに、壊滅的な打撃を受けた。

MCAは本稿執筆の2018年8月時点ではBNに残留しているものの、党内の一部や華人社会からは政権を失ったBNから離脱すべきだとの声もあがっている。党総裁はリョウ・ティオンライだが連邦下院選挙で議席を失ったために、唯一議席を確保できた副総裁のウィー・カッションが党を主導する場面が多くなっている。

③マレーシア・インド人会議(Malaysian Indian Congress: MIC)

1946年結党。インド人に党員を限定したエスニック政党。UMNO、MCAと同様に連盟の時から続く与党連合の一角を占めてきた政党である。しかし、2008年総選挙で議席を大幅に減らしたことで大きな打撃を受けた。2013年総選挙では、ナジブ政権によって選挙前に発表されたインド人社会への支援策や、反政府的な立場に立っていた社会運動のヒンドゥー権利行動隊(Hindraf)のBNへの取り込みなどで4議席を確保することができた。しかし、2018年総選挙ではBNが政権を失う中でMICも議席を減らし、2議席と低迷している。現在の総裁は、V.サナシー。

(4)PHとBN以外の独立系政党(連合)

①汎マレーシア・イスラーム党(Parti Islam SeMalaysia: PAS)

1956年に設立されたイスラーム主義政党。PASは伝統的にUMNOのライバルとしてマレー人票をめぐって争ってきた。PASの支持基盤はマレー半島の東海岸のクランタン州やトレンガヌ州であり、近年ではマレー半島北部のクダ州でも支持を拡大してきた。結党時からイスラームの擁護と促進がPASの党規約の基本的な項目として挙げられていたが、党のイスラーム主義へのシフトが一層本格化したのは80年代からである。これ以前の党指導者は、イスラームを重視するものの、マレー人の地位向上を目指すマレー・ナショナリズムを党の路線の中心に据えていた。だが、70年代のBNの一時加入とそれに伴う党の分裂で党勢が大きく後退し、PASが野党として再出発する際、中東留学によってイスラーム法学を修めたウラマーが1982年の党役員人事選挙で台頭し、文字通りイスラーム主義が党の基本路線となった。

PASの党機構でユニークなのは、党総裁が主催して日々の党運営を司る党中央運営員会(Jawatankuasa Kerja Pusat)の上位に選挙で非選出のウラマーからなるウラマー評議会(Majlis Syura Ulamak)が置かれ、党の最高意思決定機関としての地位を与えられている点である。ウラマー評議会を率いる議長はPASの精神的指導者(Mursyidul Am)と呼ばれて党の方針に大きな影響力を持つ。1991年から2015年まで精神的指導者としてPASだけでなくマレー人社会の中で広く敬意を受けていたのがニック・アジズであった。PASの指導体制は2000年代に入ってから2013年総選挙直後までは、ニック・アジズと2002年に総裁に就任したハディ・アワンの双方がPASをリードしていく体制であった。特にニック・アジズは当時の与党だったUMNOへの不信感を持ち、PASが野党として活動していくことを重視していた。

しかし、ニック・アジズが2015年に死去すると、PASは総裁のハディ・アワンの下で自党が政権を運営するクランタン州でのハッド刑の導入を図るため、連邦政府を握るUMNOに接近していった。ハッドとは飲酒、姦通、窃盗などコーランに処罰が記載された犯罪である。この犯罪に対する刑罰がハッド刑と呼ばれており、例えば、窃盗を行った者に対して四肢を切断する刑などが定められている。クランタン州で州法としてハッド刑を導入するためには、刑事罰の規定を定め、州法の上位にある連邦法を改正しなければならない。そのため、PASには当時連邦政府を担っていたUMNOに接近する動機があったのである。

PASがクランタン州でのハッド刑導入を進めようとUMNOに接近したことは、党内のみならず、当時PASが連立を組んでいたPRの構成パートナーとの間に対立を生み出した。PAS内部には伝統的に、イスラームの宗教教育を受けたウラマーを中心とするイスラーム主義を社会に厳格に適用していこうとする勢力と、非ウラマーで高度な世俗教育を受けたリーダーを中心としてムスリム以外とも妥協を図りながらイスラーム主義を段階的に適用していこうとする勢力との間の対立が長年存在していた。このウラマー勢力と非ウラマー勢力との対立は、2015年当時にはPASが所属していた野党連合のPR内でPKRやDAPと協力関係を続けて連立を維持するか、それとも連邦政府を担っていたUMNOと協力するか、という路線対立とも重なってPAS内の対立をさらに深めた。

ニック・アジズ死去後の2015年のPASの内紛は、非ウラマーを中心としたPR内でPKRやDAPと共闘を志向する勢力が6月の党内選挙で敗北し、彼らが離党して新たにAmanahを結成することで決着がついた。総裁のハディに率いられて勝者となったウラマー勢力が強くなったPASに対し、DAPがPRの連立を解消することを宣言し、PRは活動を停止した。

その後、PASはUMNOに接近しながらも野党として活動し、2018年総選挙に向けてBNとPHとは異なる第三極を目指してイスラーム系の政党と政党連合の平穏構想(Gagasan Sejahatera: GS)を結成した。ただし、PAS以外のGS構成政党は長年にわたり非常に小規模な活動しかしておらず、GSは事実上PASであるといってよかった。2018年総選挙でPASは、連邦下院議席を前回選挙よりも3議席減らして18議席となった。しかし、1991年から担当してきたクランタン州の州政権を維持したほか、新たにトレンガヌ州の州政権も確保してマレー半島の東海岸で確固たる地位を築いた。2018年総選挙後のPASは、補選などの機会を通じて野党となったUMNOとさらなる協力関係を深める姿勢を見せている。

②マレーシア人民運動(Parti Gerakan Rakyat Malaysia: Gerakan)

1968年設立、通称、Gerakan(グラカン)。設立当初は野党として活動していたが、後に新たに設立された政党連合のBNに加入し、2018年まで与党の構成政党となった。特定のエスニック集団に党員を限定しないマルチ・エスニック政党であるものの、実態は華人に主要な支持基盤を持つ。結党時からペナン州に強い支持基盤を持ち、歴代の州首相を輩出することで、ペナンの州政権を握っていた。しかし、2008年総選挙で大敗し、連邦下院議席の大幅減少だけでなく、ペナン州の州政権も野党に奪われた。2013年総選挙でも党勢を回復することはできず、連邦下院議席も僅か1議席と低迷した。さらに、2018年総選挙では1議席も取れなかった。2018年総選挙での大敗を受けて、6月にグラカンはBNから離脱した。

③サラワク政党連合(Gabungan Parti Sarawak: GPS)

2018年まで続いたBNの長期政権下で、サラワク州は13州のうち唯一UMNOが進出していない州だった。しかし、サラワク州の4党の地域政党がBNに加入して、与党の地位を享受してきた。その4政党とは、サラワク統一ブミプトラ・プサカ党(Parti Pesaka Bumiputera Bersatu: PBB)、サラワク統一人民党(Sarawak United People’s Parti: SUPP)、進歩民主党(Progressive Democratic Party: PDP)、サラワク人民党(Parti Rakyat Sarawak: PRS)であった。

サラワク州では、PBB総裁だったタイブ・マフムドが33年間にわたって州首相を務めてきたが、長期政権に伴う深刻な汚職問題が長年取りざたされてきた。タイブは2014年に州首相とPBB総裁を辞任して、象徴的な地位にある州元首の地位についたが、依然としてサラワク州の政治に強い影響力をもっているとみられている。

タイブが2014年に州首相を退いた後、州首相とPBB総裁を引き継いだのはアデナン・サテムである。アデナンはサラワクの独自性を主張して時には連邦政府とも対立を招きかねないスタンスで政治に臨んだ。彼のスタンスはサラワクの人々から大きな支持を受け、2016年5月のサラワク州選挙ではサラワクのBN構成政党の4党は前回2011年の州議会選挙から17議席を増やす大勝を収めた。しかし、2017年にアデナンが死去し、その後の地位をアバン・ジョハリ・オペンが継ぐとBNの勢いは弱まり、2018年総選挙ではBN構成政党の4党はいずれも下院議席を減少させた。

2018年総選挙でBNが大敗し、連邦政府を失うと、サラワクの旧BN構成政党4党はBNから離脱し、6月に新たにサラワク政党連合(Gabungan Parti Sarawak: GPS)を結成して引き続きサラワク州の州政権を担っていくことになった。

④サバ州の旧BN構成政党

2018年総選挙以前にはサバ州ではBNの中核政党であるUMNOのほか、地域政党であるサバ統一党(Parti Bersatu Sabah: PBS)、自由民主党(Liberal Democratic Party: LDP)、サバ人民統一党(Pari Bersatu Rakyat Sabah: PBRS)、パソモモグン・カダザンドゥスン・ムルット統一組織(United Pasokmomogun Kadazandusun Murut Organisation: UPKO)がBNの構成政党となって与党を形成していた。

しかし、2018年総選挙でBNが連邦政府の政権を失い、サバ州の州政権もWARISANが担うようになると(WARISANの項を参照)、サバ州のUMNO以外のBN構成政党は次々とBNを離脱した。

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2019年1月18日

モロッコ/政党

(1) 政党制度

2011年に改定された憲法では、第7条で、「政党は男女両方の市民の政治的枠組・組織であり、市民の国民生活への参加を促進し、公的な事項の運営をおこなう。また政党は、憲法の枠組に沿って、民主的な手段で、多元主義と政権交代を基盤として、有権者の意思の表明に協力し、権力の行使に参加する。政党の綱領と政党活動は、憲法と法律を尊重している限り、自由である」と定められている。また同じく第7条で、一党制は合法ではないと定めている。

2006年に公布された政党法では、「いかなる政党も、特定の宗教・言語・民族・地域を基盤にすることはできない。またあらゆる形態の差別に基づいたり、人権に反することはできない」(第4条)と定められている。特定の地域の利益擁護に偏った政党が誕生することを避けるために、政党法第8条では、創設時に必要とされる300名以上の党員の住所が、全国の半数以上の地域にあり、一つの地域における党員の割合が5%以上であることが、新党結成条件の一つとされている。政党法第57条では、武装してデモを行うこと、武装部門や民兵を組織すること、体制転覆やイスラーム、王制および領土の一体性への攻撃を目的とした場合は、内務省はラバトの行政裁判所に要請し、その政党を解党することができると定められている。

(2) 政党

現在モロッコには30を超える政党があり、様々な綱領をかかげている。以下、主要政党に関する情報をまとめておく。

イスティクラール党(Hizb al-Istiqlal, Parti Istiqlal ) 

政党HP: http://www.partistiqlal.org/ 

1944年に設立された民族主義政党。「イスティクラール」は「独立」の意。現在の政治路線は保守系で、1998年2月から党首はアッバース・エルファースィー。

1934年にモロッコ最初の政党として国民行動連合(Kutla al- ‘Amal al-Watani, Comité de l’Action Nationale)が誕生した。国民行動連合は、保護領政府が出したベルベル勅令に反対して、モロッコの独立運動を指導したアッラール・ファースィーやアフマド・バラフレージュらが結成した政党で、保護領政府に対して政治や社会改革案を提出したが、指導者らは弾圧され、党は非合法化された。アッラール・ファースィーらは、1937年に国民行動連合に代わって、国民改革党を結成し、これが後にイスティクラール党へと発展した。

2007年9月7日の議会選挙では、52議席を獲得し第一党となり、国王は同年9月19日にイスティクラール党党首であるアッバース・エルファースィーを首相に任命した。アッバース・エルファースィー首相は、ムハンマド六世が国王になってから任命した二人目の首相であるが、前任者であるイドリース・ジェットゥは過去に国務大臣をつとめ、政治的なキャリアもあるものの、どの党にも属していない実業家であり、首相任命の前に行われた2002年9月の議会選挙では、大衆社会主義勢力連合、イスティクラール党、公正発展党、国民独立連合の順で議席を獲得しており、ジェットゥ氏の首相任命は選挙結果を尊重したものとはいえなかった。

大衆諸勢力社会主義連合(al-Ittihad al-Ishtiraki lil-Qwat al-Sha‘biya, USFP:Union socialiste des forces populaires)  

政党HP:

  • http://www.usfp.ma/index_ar.php (アラビア語) 
  • http://www.usfp.ma/ (フランス語)

1975年にUNFP(Union Nationale des ForcesPopulaires)から分離して設立された左派政党。2008年11月、当時のアッバース・エルファースィー内閣で法相をつとめていたアブドゥルワヒド・ラーディーが党首に選出された。同党は、1998年から2002年まで、当時のアブドゥルラフマーン・アル・ユースフィー党首が首相をつとめ、政権を担当した。   

アブドゥルラフマーン・アル・ユースフィーは、もともとイスティクラール党のメンバーで、イスティクラール党の左派グループに属していたマフディ・ベン・バルカ、アブドゥルラヒーム・ブアビド、アブダッラー・イブラヒームらと共に1959年にUNFPを設立した。UNFP は王制にとっての反対勢力であったため、ユースフィーも逮捕され、その後釈放されたが、マフディ・ベン・バルカがパリで行方不明になった事件の裁判に参加するためパリを訪れたことをきっかけに、1965年から15年間パリで亡命生活を送る。1980年に恩赦を受けてモロッコに帰国。1992年からUSFPの党首となる。1997年の議会選挙で、USFPは第一党となり、1998年より首相をつとめた。当時の国王ハサン二世が、かつて敵対していたユースフィーを首相に任命したことは、大きな話題となった。

2007年の議会選挙では、38議席を獲得するにとどまり、第5党となった。2011年の議会選挙でも、獲得議席数は39で、同じく第5党となった。

公正発展党(Hizb al-‘Adala wa at-Tanmiya , PJD:Parti de la justice et du développement)  

政党HP:http://www.pjd.ma/

1998年に設立されたイスラーム主義的傾向の政党。2007年より党首はアブディッラー・ベンキラン。1967年に設立された大衆立憲民主運動(MPCD:Mouvement populaire, constitutionnel et démocratique )を前身としている。

2007年の議会選挙では、46議席を獲得する躍進をみせ、イスティクラール党に次ぐ第2党となった。

2011年11月25日に実施された議会選挙では、107議席を獲得し、第1党となった。2011年に発布された新憲法で定められた通り、下院第一党となった同党の党首であるベンキランが首相に就任した。  

大衆運動党(Hizb al-Haraka al-Sha‘biya , MP:Mouvement populaire)  

政党HP:http://www.alharaka.ma/ 

1957年設立の中道左派政党。現在の党首は、モハンド・ラエンセル。

1958年の公的自由に関する勅令によって、1959年に合法な政党となった。立憲王制、領土の一体性を支持する。またモロッコ国王の一側面である「信徒の指揮者」としての役割は、モロッコ社会の安定に不可欠であるとするが、他宗教の共存はモロッコの伝統であるとし、あらゆる形での過激主義や宗教の政治利用に反対している。またアマジグ(ベルベル)文化は、モロッコの文化的な源であるとし、アマジグの言語も、モロッコの国語として憲法に明記されることを要求している。

2007年9月7日の議会選挙では、41議席を獲得し、第3党となったが、2011年の議会選挙では、32議席まで議席を減らし、第6党となった。

国民独立連合(Hizb al-Tajammu‘al-Watani  lil-Ahrar , RNI:Rassemblement national des indépendants)  

1978年(1979年)に設立した中道右派政党。党首は、経済財政大臣であるサラハッディーン・メズワール(2010年1月就任)が務めている。党の創設者であるアフマド・オスマンは、1972年~1979年まで首相をつとめた後、1984年~1992年まで国会議長をつとめた。

2007年9月7日の議会選挙では、39議席を獲得し、第4党となった。2011年の議会選挙では、獲得議席数を52に増やし、第3党となった。

立憲連合(al-Ittihad al-Dusturi, UC:Union constitutionnelle) 

1983年に設立された保守・リベラル政党。創設者のマアティ・ブアビドは、1979年から1983年まで首相をつとめた。現在の党首は、ムハンマド・アビド。2007年の議会選挙では、27議席、2011年の議会選挙では23議席を獲得した。

正統近代党(Hizb al-Asala wal-Mu‘asila , PAM:Parti authencité et modernité) 

政党HP:http://www.pam.ma/

2009年から党首は、ドリス・ジェットゥ内閣で保健大臣をつとめたムハンマド・シェイフ・ビアディッラー。

2008年に、アハド党(le Parti al ahd), 環境開発党(le Parti de l’environnement et du développement)、自由同盟(l’Alliance des libertés)、開発のための市民イニシアティブ(le Parti initiative citoyenne pour le développement)、国民民主党(PND: Le Parti national démocrate)の五つの政党を連合して設立された。設立には、現国王であるムハンマド六世の親しい友人であるフアド・アリー・アル・ヒンマが深くかかわっている。設立の翌年2009年に実施された地方選挙では、イスティクラール党や国民独立連合を抜いて、第一党となり、全議席の21.7%にあたる計6015議席を獲得した。初の議会選挙となった2011年の選挙では、47議席を獲得し、第4党となっている。

その他の諸政党

  • 進歩社会主義党(PPS: Parti du progrès et du socialisme )
  • モロッコ共産党(PCM:Parti communiste marocain)は1943年に設立されたが、1952年に非合法化され、1969年に解放社会主義党(PLS: Parti de la libération et du socialisme)として再結成され、1974年に進歩社会主義党(PPS: Parti du progrès et du socialisme )として合法化された。
  • 民主独立党(PDI:Parti démocratique et de l’independence)イスティクラール党から分離して、1946年に設立。
  • 行動党(PA: le Parti de l’action)1974年設立の社会主義政党。
  • 中央社会党(PCS: le Parti du centre social)1984年設立の社会主義政党。
  • 前衛民主社会党(PADS :le Parti de l’avant garde démocratique et social)1991年設立の社会主義政党。
  • 民主社会運動(MDS: le Mouvement démocrate social )1996年設立の社会主義政党。
  • 民主勢力前線(FFD:le Parti du front des forces démocratiques)1997年設立。
  • 希望党(PE :Parti de l’espoir)1999年設立。
  • 市民勢力党(PFC :le Parti des forces citoyennes)2001年設立。
  • 統一国民会議(CNI: le Congrès national ittihadi )2001年設立。
  • 改革発展党(PRD: le Parti de la réforme et du développement)2001年設立。
  • 再生平等党(PRE:le Parti du renouveau et de l’equité)2002年設立。
  • モロッコ自由党(PML: le Parti marocain libéral)2002年設立。
  • 労働党(PT :Parti travailliste) 2005年設立。
  • 復興善行党(PRV:Parti de la renaissance et de la vertu) 2005年設立。
  • 社会主義統一党連合(PSU:Parti socialiste unifié )2005年設立。2002年、民主大衆行動機構(OADP:l’Organisation de l’action démocratique et populaire)、民主独立運動(MDI:le Mouvement des démocrates indépendants)、民主運動(MPD:le Mouvement pour la démocratie)が連合して、統一左派社会主義党(PGSU:le Parti de la gauche socialiste unifiée)を創設。2005年にPGSUがPSUに発展解消。
  • 社会党(PS:Parti socialiste) 2006年設立。
  • 民主社会党(PSD:Parti de la société démocratique) 2007年設立
  • 環境と持続可能な発展党(PEDD:Parti de l’environnement et du développement durable) 2009年設立。

上記の政党と統合した諸政党

  • 国民民主党(PND: Le Parti national démocrate)1979年設立。後に正統近代党(PAM)に統合。
  • 国民大衆運動(MNP:le Mouvement national populaire)1991年に設立され、2002年の議会選挙で18議席を獲得したが、後に大衆運動党(MP)に統合。
  • 社会民主党(PSD: le Parti socialiste démocratique )1996年設立。後にUSFPに統合。
  • 民主連合(UD:l’Union démocratique)2001年に設立。後に大衆運動党(MP)に統合。
  • 自由同盟(ADL:l’Alliance des libertés)、開発のための市民イニシアティブ(ICD: Initiatives citoyennes pour le développement)、アハド党(le Parti Al Ahd)、環境開発党(PED :le Parti de l’environnement et du développement )はいずれも2002年設立され、後に正統近代党(PAM)に統合。
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2019年1月18日

イラク/政党

サーイルーン(54議席)

宗教法学者ムクタダ・サドルが率いる政治潮流サドル派は、これまでにも選挙に参加し、議会や政府の一角を占めてきたが、決して政界の主流派ではなく、野党に近い立場で政権の汚職などを批判してきた。そして、2015年から2016年にかけて市民の抗議デモが広がった際にはその動員力を駆使して大きな存在感を示し、一部の閣僚をテクノクラートと交代させるまでに至った。2018年の選挙でも改革を旗印に掲げたサドル派の政党連合「サーイルーン」を率いて躍進し、2014年の獲得議席である34議席 を大幅に上回る54議席を得た。

だが、2018年のサドル派の得票数を2014年と比較すると、それほど大きく伸びたわけではなく、全国的に投票率が低迷した結果、固い支持基盤を持ち支持者を動員することができたサドル派が相対的に立場を上昇させたと見られる。なお、抵投票率に表れているように、既存政治家に対する市民の不信感はかなり高い。そうした声に敏感なムクタダは、選挙を前にしてこれまでサドル派の主要政党だったアフラール党を解党し、新党「イスティカーマ党」を立ち上げたが、この時に新党に横滑りすることができたアフラール党の現職議員はわずか3名だった。そのうちの一人が、5万5184票を集めて全国8位、女性候補者としてはトップ当選だったマージダ・タミーミ議員である。このように、勝てる候補者を絞り込み、ほとんど新顔を擁立するという戦略があたったと言える。

サーイルーンはイスティカーマ党を中心としつつも、政治改革という理念を共有する共産党など世俗政党も参加している。ただし、サーイルーンが獲得した54議席のうち、51議席がイスティカーマ党の議席である。

ファタハ連合(48議席)

ファタハ連合の母体は、対IS戦において軍事面で活躍した義勇兵組織、人民動員部隊である。シーア派民兵の中でもイランとの関係が深いグループが多い。ファタハ連合には18政党が参加している。政党法では政党が武装組織を持つことは禁じられており、多くが武装組織とは異なる名称の政党名を冠しているが実態は同じと見られている。

ファタハ連合が得た48議席の内訳を見ると、まず、代表のハーディ・アーミリ司令官率いるバドル組織が21議席を占めて強さを見せた。ただし、2014年の選挙においても、バドル組織はマーリキ首相(当時)率いる法治国家連合に参加して22議席を得ていたため、それを比べると1議席減である。次に、AAH(アサーイブ・アフルルハック)の政治組織「サーディクーン」がバグダードと南部で幅広く得票して15議席を得た。2014年の選挙でのサーディクーンの議席が1であったことからすると、大きな躍進である。また、人民動員部隊の報道官だったアフマド・アサディ率いる「イマームの兵士旅団」が「イラクにおけるイスラーム潮流」の政党名で2議席を獲得した。

なお、これまでシーア派主要政党の一つであった「イラク・イスラーム最高評議会(ISCI)」は、党首のアンマール・ハキームが新党「ヒクマ潮流」を形成して離党したことで壊滅的な打撃を受け、今回の選挙ではわずか2議席の獲得にとどまった。ファタハ連合内では、この他、7党がそれぞれ1~2議席を得た。

人民動員部隊は、対IS戦を機に中西部も含めてシーア派住民地域以外にも展開するようになった。2018年の選挙では、彼らが傘下に置く部族ハシュドと呼ばれるスンナ派の自警団的な武装組織が、ファタハ連合の集票に寄与する可能性が注目されていたが、サラーハッディーン県で人民動員部隊の第51旅団を率いるヤズン・ジュブーリなど、主だったスンナ派民兵候補者は落選した。したがって、ファタハ連合の集票は総じて、バドル組織やAAHなどの中心勢力のシーア派コミュニティ内部での動員力に負っていると言える。

勝利連合(42議席)

アバーディ首相はダアワ党所属だが、党首のマーリキとの折り合いが悪く、2018年の選挙にはダアワ党は党として特定の政党連合に所属せず、党員は各々個別の政党連合に所属して出馬することになった。アバーディ首相が率いた政党連合が「勝利連合」である。過去4年間近く、イラク軍を率いて対IS戦の中心人物となってきたことから選挙での勝利が予想されていたが、選挙では投票率が低迷し、市民の支持を得票に繋げられなかった。特に票田であるはずのバグダードや南部において、組織力を持つサーイルーンやファタハ連合に水をあけられたことで伸び悩んだ。加えて、アバーディ首相が所属するダアワ党は前任のマーリキ、ジャァファリと合わせて、2005年以降常に首相を輩出しイラク政界の中心にいたことで、既存のエスタブリッシュメント政治への逆風を受けた。バスラ、マイサーン、ナジャフ、ディーカールの各県の勝利連合立候補者リストのトップはいずれもダアワ党現職議員が占めていたが、4名とも落選した。むしろ当選したのは、ジャッバール・ルアイビ石油相、アドナーン・ズルフィ元ナジャフ県知事、スハーム・アカイリ・マイサーン県議会議員など、非ダアワ党員の方だった。

他方、勝利連合はバグダード、南部9県、ディヤーラ県で合計約84万票を得票する一方、シーア派住民が少ないその他4県(アンバール、サラーハッディーン、キルクーク、ニナワ)でも約29万票を獲得している。この29万票という数字は、他のシーア派主要政党の中では抜きん出て多く、スンナ派の各党や世俗政党連合ワタニーヤも凌いだ。ニナワ県のトップ当選者は勝利連合から立候補したスンナ派のハーリド・オベイディ元国防相であり、サラーハッディーン県でもアンマール・ユースィフ元県議会議長が1万票を集めて当選した。

KDP(クルディスタン民主党、25議席)

クルド民族主義政党で、エルビルやドホークなどを地盤とする。KDPが主導して2017年10月に実施されたクルディスタン地域の独立を問う住民投票が、国内外からの反発を受けて結果的に失敗に終わったことで、マスード・バルザーニは自治政府大統領の職を辞したが、今もKDP党首の座にとどまっている。政界におけるKDPのライバルかつパートナーであるPUKが、2000年代半ばから党内の分裂を食い止められず党勢が衰退していることをうけて、KDPは自治政府の要職を独占するなど、事実上、自治区はKDPの一党支配体制になりつつある。

自治区内では、2010年代半ばから原油価格下落や対IS戦の影響、イラク政府との間の予算配分問題などによって経済状況が極めて悪化しており、独立住民投票の失敗もあって、2018年の選挙では、与党であるKDPは議席を減らす可能性が指摘されていた。しかし、結果は2014年と同じ25議席を維持し、安定的な力を見せた。その背景には、特にドホーク県とエルビル県ではバルザーニ家への支持者の忠誠心や、強固に張り巡らされた党のパトロン・ネットワークの存在があるとみられる。

ワタニーヤ(21議席)

アッラーウィ副大統領率いる世俗政党だが、2018年の選挙ではサリーム・ジュブーリ国会議長率いる「改革のための市民集会」、サーレハ・ムトゥラク元副首相率いる「国民対話戦線」など、複数のスンナ派政党を取り込んで参戦した。それでも、獲得議席数は21議席と2014年と変わらず、ジュブーリ国会議長も落選した。アッラーウィ自身の個人得票数も2014年の23万票から今回は2.8万票へと激減しており、影響力の低下は免れないだろう。

ヒクマ潮流(19議席)

ISCI(イラク・イスラーム最高評議会)党首のアンマール・ハキームが2017年7 月に立ち上げた新党。ハキームは新党を若者、女性のための党で、近代的で、イラク社会の全てに開かれた党だとしている。結成時に30名強のISCI 議員のうち、20 名が新党に移ったとみられている。

ISCI の前身のSCIRI(イラク・イスラーム革命最高評議会)は1982 年にイランで当時の反体制派を集めて、サイイド・ムハンマド・バーキル・ハキームの下で形成された(ムハ ンマド・バーキルは、1970 年に亡くなった大アーヤトッラ、ムフスィン・ハキームの息子)。 その後、分裂してSCIRI は反対派のグループの一つになり、イラク戦争後にイラクに帰国した。バーキル・ハキームは2003 年8 月のテロ事件で死亡し、兄弟のアブドゥル・アジーズ・ハキームが跡を継いだ後、ISCIに改称。2009 年にアブドゥル・アジーズ・ハキームが病死すると、その息子であり創設者の甥であるアンマール・ハキームが党首に就いた。アンマールは古参幹部よりも遥かに若く、さらに若手登用で幹部は不満を持つようになったと言われている。

2018年の総選挙ではISCIの獲得議席が2議席にとどまる一方、ヒクマ潮流は19議席を獲得した。ISCIがその支持の多くをハキーム家の威光に負っていたこと、アンマールがISCI のテレビ局や外郭団体などを連れて出たことなどが影響したとみられる。

PUK(クルディスタン愛国同盟、18議席)

スレイマニヤ県やキルクーク県を地盤とする。党の創設者であり長年党首を務めていたジャラール・タラバーニが2017年10月に死去したが、党内の分裂が激しく新党首を選出できていない。

2018年選挙では、幹部の一人バルハム・サーレハ元自治政府首相が離党し、新党CDJ(民主正義連合)を結成しており、他にもスレイマニヤを中心に新党が立ち上がっていたことや、経済危機に対する市民の不満が既存政党に向かう可能性から、2018年の選挙にあたっては、PUKはかなり議席を減らすことになるのではと憶測されていた。しかし、結果は18議席と3議席減にとどまった。

それに対してキルクーク県のアラブ政党やトルコマン政党、スレイマニヤ県のクルド政党が選挙不正の疑いを申し立て、選挙結果が紛糾する主要因となった。ただし、手作業による一部再集計を経ても、PUKの議席数は変わらなかった。仮に大規模な不正がなかったとするならば、PUKの善戦の理由として、タラバーニ家の威光を前面に押し出した選挙キャンペーン、投票率が低迷する中でのPUK支持者の動員、2006年にPUKから分裂して誕生した野党ゴランの失敗への市民の失望などが考えられる。

イラクの決定連合(14議席)

スンナ派政党は、スンナ派住民が多いバグダードと中部5県を中心に出馬しているものの、いずれも党としての歴史が浅く組織力も弱い。そのため、選挙のために県ごとに様々な政党連合が組まれ、入れ替わりも激しい。2018年選挙ではヌジャイフィ副大統領を代表として「イラクの決定連合」が形成され、政党連合としては14議席を得た。しかし、ヌジャイフィ自身が党首であるムッタヒドゥーンは、2014年の選挙では27議席を得てスンナ派政党の代表格となったものの、2018年は別の政党連合に参加して得た議席を合わせても3議席に過ぎず、大きく失速した。ニナワ県でのヌジャイフィの個人得票数も1万票強で、7万票以上を得たオベイディ元国防相(勝利連合から立候補)に大きく引き離された。

他のスンナ派政党についても、ジャマール・カルブーリ率いるハッル党、ハミース・ハンジャル率いるアラブ計画などが、複数の政党連合に参加して議席を得たが、いずれも一桁に留まっている。

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2019年1月18日

イエメン/政党

1990年南北イエメン統一において、1981年に南北イエメン統一憲法合同委員会(77年南北国境衝突の停戦協定であるクウェート協定に基づき設立)が作成した統一憲法案が、そのままイエメン共和国の憲法案に採用された。イエメン共和国議会はこの憲法案を承認し、さらに同憲法第39条に規定された「政治団体の自由」を複数政党制の承認と解釈して、その導入を決定した。これにより政府は、統一と同時に複数政党制による総選挙実施を公約として発表した。議会で承認された憲法案は、翌91年5月に国民投票で承認されて正式に発布・施行され、同じ年に政党・政治団体法(91年第66号法)も公布された。 

政党・政治団体法では、政党・政治団体の結成の自由が明記されているが、それはイスラーム、イエメンの統一、旧南北イエメン革命および統一憲法の理念、政治的自由及び人権の尊重、アラブ民族の精神に合致するものとされている。また、特定の地域、言語、宗教などを基盤としてはならないとも規定されている。このほか、政党の結成手続きやその役員構成・会計などが規定され、政党・政治団体の認可・解散等を決定する政党・政治団体委員会(議会担当相を委員長とし、内務相、司法相などを委員とする)の設置およびその職務も規定されている。

法律上、政党の非認可および政党への解散命令は可能だが、現在までそのような例はない。たとえば、「イスラームに合致するもの」という規定と左派政党との関係、「特定の宗教を基盤としてはならない」という規定とイスラーム政党との関係、「特定の地域を基盤としてはならない」という規定と北部山岳地域を基盤とするザイド派イスラーム政党(エスニック政党)との関係などに問題の可能性はあるものの、これまで議論の対象となった形跡はなく、申請を行なった政党はすべて認可されている。また、1994年内戦で党幹部が旧南イエメン分離独立派に合流した諸政党(YSP、ナセル矯正、イエメン民族同盟)も、解散命令を受けていない。

2011年のサーレハ大統領辞任、2012年のハーディー大統領就任のあと、2013年3月から新憲法制定のための基本方針を決める包括的国民対話会議が始まった。包括的国民対話会議は2014年1月、連邦制導入などの方針を決定して閉幕したが、その後ハーディー政権は憲法案作成を行なわず、さらに翌2015年1月のホーシー派による「革命委員会」設置および3月以降の内戦により、政党政治は機能していない。

主要政党

国民全体会議(GPC)

イエメン・アラブ共和国(1990年南北イエメン統一以前の北イエメン)において、1982年にアリー・アブドッラー・サーレハ大統領により設立された同名の大政翼賛団体(各地方・職業団体からの選出700名、政府任命300名)を母体とする政党。統一以前の北イエメンでは政党が禁止されていたため、唯一の公認政治団体(実質的な単独支配政党)として、当時停止されていた議会の役割を果しながら、総選挙を準備する組織として位置づけられた。

統一後の政党・政治団体法施行に際し、政党申請を行なって一般から党員を募集する通常の政党となった(党首はサーレハ大統領)。もともと、アラブ民族主義を基調としながら、国内のさまざまな勢力や政治思想を包含する組織であったが、複数政党制の導入より左派(ナセル主義、バアス主義)や保守派が分離して新党を結成し、大政翼賛的な性格は失った。その後は、アラブ民族主義や革命理念の継承を掲げながらも、サーレハ政権を支持し、脱イデオロギー化のなかで国民経済の発展を優先する現実主義・実務志向の政党となっている。

1993年総選挙(定数301議席)で122議席(イスラーハ、YSPと三党連立内閣、1994年内戦後はイスラーハとの二党連立内閣)、1997年総選挙(単独内閣)で187議席、2003年総選挙で229議席(単独内閣)を獲得し、すべての総選挙で第一党となっている。また、2001年と2006年の地方選挙でも圧勝している。 

1995年に構造調整を受け入れて以降、マクロ経済の安定・拡大と補助金削減や財政再建などによる国民生活の負担増大との間で、政局の運営を続けている。生活基礎物資の価格上昇のたびにデモ・暴動が発生し、政府への強い不満・批判が噴出するものの、選挙では支持を拡大し続けていた。

イエメン改革党(イスラーハ、YIP)

統一後のGPCとYSPの協力関係やナセル主義、バアス主義の左派新党設立に警戒感を抱いた保守派議員がGPCを離脱し、GPCメンバーであった旧北イエメン北部のハーシド部族連合長アブドッラー・ビン・フセイン・アハマル(統一以降、2007年の死去まで議会議長)を党首に仰いで結成した政党。結成には、旧北イエメン南部のムスリム同胞団系のウラマー層も加わり、イエメン最大のイスラーム政党となった(北部部族はシーア派のザイド派に属し、南部はスンナ派のシャーフィイー法学派だが、宗派の違いはこれまで問題となっていない)。

1993年総選挙で63議席(GPC、YSPと三党連立内閣、1994年内戦後はGPCと二党連立内閣)、1997年総選挙で53議席(最大野党)、2003年総選挙で46議席(最大野党)を獲得し、すべての総選挙および地方選挙で、GPCに次ぐ第二党の位置を占める。 

イエメン最大最強の圧力団体とも言うべき保守的な北部部族勢力(ハーシド部族連合、バキール部族連合)を支持基盤とし、南部ウラマー層が政党としての思想や枠組みを提供する態勢をとっている。しかし、「イスラーハは動員力はあるが、集票力に欠ける」と評価されており、北部での支持は得票にはつながらず、議席の多くを南部に依存している。

党首はアハマル、党最高評議会議長はムスリム同胞団系の指導的ウラマーであるヤアシーン・アブドルアジーズ・クバーティー、党諮問委員長はサウジアラビアに近く、イエメン・イスラーム主義の教条派を代表するアブドルマジード・ジンダーニー(現イーマーン大学学長、党内では少数派)。アハマルもサウジアラビアと強い関係を有しており、アハマルとジンダーニーに着目すれば、イエメンにおける親サウジ政党ともいえる。

野党として経済・外交政策でGPCと激しく対立するものの、実質的にはサーレハ政権支持の姿勢を続けており、純粋な野党とは言いがたい。たとえば、1999年大統領選挙では対立候補を立てずにサーレハを支持し、2003年総選挙ではイスラーハ党首のアハマルがGPCからも公認を受け、イスラーハとGPCに両属する議員として当選して、引き続き議長に選出された。最大野党の党首が与党にも属して議長を務めることは、法律的にも政治倫理的にも問題とされておらず、イエメン政党政治の一面を象徴している。しかし、2006年大統領選挙では他の野党4党(YSP、ナセル統一、ハック党、イエメン人民勢力同盟)とサーレハの対立候補(実業家のシャムラーン)を擁立、支持し、活発な選挙戦を展開した。

2007年12月29日、アハマル党首が死去し、ムハンマド・ビン・アブドッラー・ヤドゥーミーが党首に就任した。

イエメン社会党(YSP)

イエメン民主主義人民共和国(統一前の南イエメン)における、マルクス・レーニン主義を掲げる単独支配政党。統一後の政党・政治団体法施行に際し、政党申請を行なって一般から党員を募集する通常の政党となった。ソ連崩壊と南北イエメン統一を背景に、党中央委員会は社会主義の放棄を決定したが、党内の混乱により党大会を開催できず、党の綱領自体は変わっていない。

1993年総選挙で56議席を獲得するが、GPC、イスラーハに次ぐ第三党に甘んじる(GPC、イスラーハと三党連立内閣)。党最高幹部が1994年内戦を引き起こし、旧南イエメンの分離独立(イエメン民主共和国の独立)を宣言したが、YSP議員の大半はこれに合流せず、首都サナアに残留した。内戦中にYSPは資産等を凍結され、連立内閣から排除されたが、内戦終結後も政党や議員としての活動には制限を加えられなかった。資産凍結の継続に抗議して、1997年総選挙をボイコット。2003年総選挙で復帰するも、7議席にとどまった。1999年大統領選挙では候補者を擁立できなかったが、2006年大統領選挙では他の野党4党(イスラーハ、ナセル統一、ハック党、イエメン人民勢力同盟)と候補者(実業家のシャムラーン)を擁立した。

旧北イエメンとの経済格差が解消されない旧南イエメンを支持基盤とする政党となるべき存在ではあるが、選挙では旧南イエメンでもGPCの得票が圧倒的となっている。 

アラブ・バアス社会主義党イエメン地域指導部(バアス党)

複数政党制の導入に伴い、バアス主義者がGPCから分離して、イラク系バアス党のイエメン支部として結党。結党時の党首は、ムジャーヒド・アブー・シャワーリブ(統一以前からのサーレハ大統領の側近で、アハマル・イスラーハ党首の義弟)だが、1994年内戦後に大統領顧問に任命され離党。その後、イラクのサッダーム・フセイン大統領(当時)に近いカーシム・サッラームが党首となる。しかし、党内対立からサッラームは離党して、新たにバアス民族党(総選挙での当選者なし)を設立した。

1993年総選挙で7議席、1997年および2003年総選挙では2議席を獲得。

ナセル人民統一組織(ナセル統一)

統一直前のアデンで結成された、旧北イエメンのハムディー大統領(在職1974~77年、南部を基盤とするリベラル派として北部部族勢力と対抗した)の支持勢力による政党。ナセル主義に基づく公正を訴え、旧北イエメン南部や旧南イエメンのアデン、アブヤンで一定の支持者を有する。1993年総選挙で1議席、1997年および2003年総選挙では、GPCと選挙協力を行なって3議席を獲得。 

ハック党

旧北イエメン北端のサアダを基盤とする、ザイド派(シーア派)カーディー(法学ウラマー)や旧サイイド層(シーア派初代イマーム・アリーの子孫。旧北イエメン革命前のイエメン・ムタワッキル王国における支配層。革命により特権剥奪)などが、GPCから分離して結成したザイド派のイスラーム政党であり、ホーシー家の活動を母体とする。1993年総選挙で2議席を獲得したが、その後は議席なし。 

その他
  • 民主ナセル党(ナセル民主。1993年総選挙で1議席のみ)
  • ナセル人民矯正組織(ナセル矯正。1993年総選挙で1議席のみ)
  • イエメン人民勢力同盟(ザイド派のイスラーム政党)
  • イエメン統一グループ(アデンの知識人層による政党)
  • イエメン民族同盟(旧南イエメン・ラヘジの保守層による政党)
  • 国民社会党
  • 人民民主同盟

政党以外の政治組織・政治勢力

ホーシー派(アンサール・アッラー)

1980年代、イエメン北部のザイド派地域(シーア派、信徒はハーシド部族連合とバキール部族連合に属する部族民)において、サウジアラビアが支援するワッハーブ派の布教活動拠点「ハディースの家」が設けられた。これに危機感を抱いたサイイド(預言者ムハンマドの子孫)のホーシー家(ザイド派ウラマーの家系)当主のバドルッディーン・ホーシーは、「信仰する若者」というザイド派の復興運動を開始した。これがホーシー派の起源とされる。1990年南北イエメン統一以降の民主化ではハック党を結成し、総選挙に参加した。

長男フサイン・ホーシーは、反ワッハーブ・反サウジの演説を繰り返したが、2003年のイラク戦争後に、それは反米の内容を多く含むようになり、多くの若者の支持を得た。しかし、2001年米同時多発テロ以降、米国の対テロ戦争に協力していたサーレハ大統領は、フセインに対し反米演説をしないよう求めたが、フセインは聞き入れなかった。2004年6月18日、サナアのアリー・アブドッラー・サーレハ・モスク前でフセインを支持する若者たちが反米のスローガンを叫び、拘束された(一説に640人)。サーレハは、説得のためにフセインをサナアに呼んだが、拒否された。7月、サーレハは治安部隊をフセイン拘束のために派遣したが、支持者と銃撃戦になって拘束に失敗。武力衝突が拡大したため、その後はアリー・ムフシン(サーレハの異父弟。現在はハーディー政権の副大統領)を司令官とする第一機甲旅団がその制圧にあたったが、ホーシー派を抑えることはできなかった。9月10日、フセインは銃撃戦の中で死亡した。父バドルッディーンも死亡したあとは、次男アブドルマリクなどの親族がホーシー派を率いた。その後、彼らはホーシー派と呼ばれるようになるが、彼ら自身は長く自称を持たず、2010年に自らを「アンサール・アッラー(アッラーの支援者)」と名乗った。2009年には、ホーシー派がサウジアラビアに対する越境攻撃を行ない、サウジはホーシー派を空爆している

イエメン政府は、ホーシー派はイラン流の「ウラマーによる政治」や「ザイド派イマーム(1918~1962年のイエメン・ムタワッキル王国国王)の復活」を求める集団であると喧伝したが、ホーシー派自身は特段の政治思想を展開せず、政府軍の攻撃に防御・反撃しているのみとの姿勢を取り続けた。ホーシー派に対するイランの革命防衛隊の支援については、不明な点が多い、イエメン政府やサウジアラビアは、2005年から支援が始まったとしているが、研究書の多くは、2011年の政変までイランのホーシー派支援にかかわる確たる証拠はないとしている。

当時、これはサアダ事件と呼ばれ、サアダ州の一部における衝突であったが、2011年の政変に乗じてホーシー派は北部3州(サアダ州、ハッジャ州、ジョウフ州)を掌握し、ハーディー政権下の包括的国民対話会議に参加した。しかし、2004年1月、包括的国民対話会議がホーシー派が反対する連邦制の導入に合意すると、翌2月より南下を開始し、同年9月にはサナアを占拠した。翌2015年1月、ホーシー派はハーディー大統領を軟禁下に置き、翌2月に「革命委員会」を組織して、2年間の暫定統治を宣言した。翌3月からはサナア以南に本格的な進攻を開始し、ハーディー政権およびそれを支援するサウジアラビア主導のアラブ有志連合との内戦に至った。

南部運動(ヒラーク)

2007年、アデン近郊で公務員解雇に反対するデモが生じた。その後、同様なデモが多発し、暴動に発展する例も増えた。1990年南北イエメン統一以降、政治経済の北部偏重に南部住民は大きな不満を持っており、これがデモや暴動の背景となっていた。そのような騒擾状態のなか、同年に旧南イエメンの平和的な再分離独立を求める南部運動(通称ヒラーク)が組織された。その内実は、さまざまな勢力や団体の集合体であり、まとまった組織とは呼べないものであったが、2011年政変後の包括的国民対話会議に参加し、連邦制の導入を主導した。

2015年以降の内戦では、この南部運動を背景とした複数の政治団体や武装勢力が南部諸勢力と呼ばれ、UAEの支援を受けて2016年以降の沿岸部での戦闘の主体となっている。ハーディー政権と対立し、2017年5月にアデンを掌握した南部移行評議会(Southern Transitional Council, STC)は、この南部諸勢力の中心的存在。ほかにも、ラヘジ州を基盤としてUAEの支援を受けるセキュリティ・ベルト(略称ヒザーム)があり、これが武装組織としては最大のものとみられている。

参考文献

  • 松本弘「イエメンの民主化」『現代の中東』27号(1999年7月)、pp.27-41。
  • ―――「イエメン民主化の10年」『現代の中東』39号(2005年7月)、pp.24-39。
  • ―――「イエメン:政党政治の成立と亀裂」間寧編『西・中央アジアにおける亀裂構造と政治体制』JETROアジア経済研究所、2006年、pp.95-158。
  • ―――「イエメン・ホーシー派の展開」、酒井啓子編『途上国における軍・政治権力・市民社会―21世紀の「新しい」政軍関係―』晃洋書房、2016年、pp.112-129。
  • ―――「イエメン内戦の背景と特質」『海外事情』64巻9号(2016年9月)、pp.18-29。
  • ―――「イエメンの内戦と宗派」、酒井啓子編『現代中東の宗派問題―政治対立の「宗派化」と「新冷戦」―』晃洋書房、2019年、pp.205-226。
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