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バハレーン/現在の政治体制・制度
概要
現在の政治体制は、2002年に制定された憲法に基づいており、国王が強い権力を持つ立憲君主制である。正式な国号はバハレーン王国Mamlakat al-Bahrain、国王malikはハマド・ビン・イーサー・アール・ハリーファHamad bin Isa Al Khalifa、皇太子は国王の長男であるサルマーン・ビン・ハマド・ビン・イーサー・アール・ハリーファSalman bin Hamad bin Isal Al Khalifaである。バハレーンは1971年に英国保護領から独立し、制憲議会選挙を経て1973年に憲法が制定され、国号はバハレーン国Dawlat al-Bahrain、君主は首長amirを称していた。同年に国民議会選挙が実施されたが、1975年の議会解散および憲法停止により首長親政となった。1999年に即位したハマド首長(現国王)は、国民行動憲章を策定して国民投票に付した。2001年2月14日・15日に実施された国民投票によって国民行動憲章が承認されたことを受け、新憲法の制定に着手し、2002年2月14日に公布した。憲法は、2011年のアラブの春による反政府デモと、その後開催された国民対話集会の答申を受け、議長の権限拡大を中心とした修正がなされ、2012年5月3日にハマド国王により修正憲法が公布された。
立法権
立法権は、国王と議会に付与され、法律は国王の裁可を得て公布される。議会は二院制で、議員を普通選挙で選出する下院(代議院Majlis al-Nuwab)と、国王が任命する上院(諮問院Majlis al-Sura)から成る。上下両院は対等な立法権を有する。上下両院とも議員定数は40議席で任期は4年である。下院議長は下院にて選挙により選出し、上院議長は国王が任命する。
全ての法律は下院から上院への順で議決を経て成立するが、両院の議決が異なった場合は両院合同会議である国民議会Majlis al-Wataniでの議決を経て成立し、国王へ裁可のため送付される。国王による裁可が6カ月を経てもなされない場合は、国王による裁可がなされたものとみなされ、法律として公布される。国王は議会で議決により承認された法律案を再審議のため議会に返付する権限を持つ。議会に返付された法律案が総議員数の3分の2以上の賛成によって改めて議決・承認された場合、1カ月以内に国王は裁可・公布する。
国王は法律案の提出権および憲法修正案の提出権を有する。議会の休会中または解散中には法律と同等の効力を有する勅令を発することができるが、議会の再開時または新しい議会が召集された時には議会の議決による承認が必要である。議会が承認しなかった場合、勅令は発布に遡って失効する。また、内閣(閣僚評議会Majlis al-Wuzara)が提出する財政に関する法律案および緊急の審議を要求する法律案については、下院と上院でそれぞれ15日以内に議決される。両院の議決が異なる場合には、国民議会にて15日以内に議決される。この期間中に議決できなかった場合、国王はその法律案について勅令として発布できる。
下院は、大臣に対する罷免権をもつ。下院で大臣に対する問責質問istijwabが行なわれたのち、不信任決議案が下院議員の3分の2以上の賛成で議決された場合、その大臣は辞職したものとみなされる。首相に対しては不信任決議案を提出することはできないが、下院議員の3分の2以上が首相に協力できないと判断した場合、国民議会に諮られ、全議員の3分の2以上が同意した場合、議会が首相への協力を拒否したとみなされ、国王が新しい首相を任命(内閣総辞職)または下院を解散する。議会の解散権は国王のみが有する。
いずれにせよ、国王任命による上院のため、国王および政府の意向に反する下院の議決が国民議会で承認される可能性はほとんどなく、勅令が否決されることもない。国王による勅令の頻繁な発布や内閣が提出する法律案の緊急審議規定に加え、上院と下院は同じ議場で曜日を変えて本会議を開催しており、議会での審議には時間的な制約が大きい。そのため、野党は議会に実質的な権能はなく、単なる勅令の追認機関だと批判している。
行政権
行政権は、国王と内閣に付与されている。首相および大臣は議会選挙の結果とは関係なく国王が任命しており、議院内閣制ではない。首相は1971年の独立以前から現国王の叔父であるハリーファ・ビン・サルマーン・アール・ハリーファKhalifa bin Salman Al Khalifaが半世紀にわたり務めていたが、同首相が2020年11月に亡くなったのち、後任にサルマーン皇太子が任命された。閣僚の定数は特に定められていないが、サルマーン皇太子の首相任命時の閣僚数は24名で、うち8名が王族から任命されている。
司法権
司法権は国王の名において行使され、国王を議長とする最高司法評議会が裁判官の人事を決定している。法律2002年第27号に基づき憲法裁判所が設置され、2004年より業務を開始している。憲法裁判所判事は7名でいずれも国王により任命される。
地方行政
法律2002年第17号「地方行政に関する勅令」に基づき、地方行政単位として首都県、ムハッラク県、北部県、中部県、南部県の5つの県が設置された。地方行政の所管官庁は労働地方行政都市計画省で、県知事は国王が任命する。各県にはそれぞれ地方評議会Majlis al-Baladiが設置され、各評議会の定数は下院選挙で各県に配分された小選挙区数と同数とされた。2006年の第2回下院議会選挙以来、地方評議会選挙は下院選挙と同じ小選挙区制で同じ日程で投票が行われている。地方評議会は条例などの議決権はなく、県が所管する行政や都市計画、予算についての助言と監督を行う。2014年9月の選挙区割り見直しの際に中部県が廃止され、現在は4県に再編されている。
バハレーン/最近の政治変化
2011年2月から3月にかけての大規模抗議デモが鎮圧された後、ハマド国王の意向を受けてサルマーン皇太子が国民対話を主導し、改革と国内対立の緩和に努めたが、王族内ではハワーリドと称されるハーリド・ビン・アフマドKhalid bin Ahmad Al Khalifa王宮府顧問とハリーファ・ビン・アフマドKhalifa bin Ahmad Al Khalifa国防軍総司令官の兄弟に代表される強硬派が優勢で、野党解散と代表の逮捕収監、メンバーや支持者の国籍剥奪による国外追放、一部街区の封鎖といった抑圧的な対応が続いている。強硬派には、野党がイランの影響下にあるとの認識が強く、改革の要求も宗派主義とイランの脅威に対応するという安全保障の脅威として捉えられており、弾圧の継続が正当化されている。国内情勢はおおむね安定化しているが、強硬派が優勢な政府の対応は国内対立の緩和を難しくしている。
2011年の大規模抗議デモ
チュニジアとエジプトの革命に影響されて、バハレーンでも、国民行動憲章が国民投票で承認された10周年にあたる2月14日に政府へ抗議と改革を要求する「怒りの日」デモの予告と参加の呼びかけがなされた。ハマド国王は各世帯に1千ディーナール(約22万円)の支給を発表し、不満の抑え込みをはかったが、2月14日にマナーマ市内やシトラ地区で、シーア派住民を中心に数百人から数千人規模の抗議デモが行われた。これに対し、治安部隊が催涙弾やゴム弾で鎮圧にあたり、2名が死亡した。翌15日には、マナーマ市街のサルマーニーヤ病院に死亡者の追悼に集まった千人規模の群衆に対して治安部隊が介入して実力行使により解散させようとして更に死者が生じたことから、抗議行動が拡大し、カイロのタハリール広場に倣って、マナーマ西部の真珠広場に集まり、座り込みを開始した。国王はテレビ演説で犠牲者への哀悼を表明し、ネット・メディアの規制緩和と、真相を調査する特別委員会の設置を表明した。一方、議会の比較第一党でシーア派が支持基盤であるイスラーム国民協約協会Jamaiat al-Wifaq al-Watani al-Isalmi(以下、ウィファーク)は議会審議のボイコットを宣言した。
2月16日早朝、治安部隊は真珠広場を占拠していたデモ隊を強制排除し、更に強制排除に抗議したデモ隊に発砲した。更に実弾を使用していたことが判明したことから、シーア派住民を中心に、デモ参加者の政府に対する怒りが高まり、ウィファークは議員の辞職を表明し、2002年の第1回下院選挙をボイコットした国民民主行動協会Jamaiat al-Amal al-Watani al-Dimuqrati(以下、ワアド)やイスラーム行動協会Jamaiat al-Amal al-Islami(以下、アマル)など野党系6団体から成る合同政治委員会において、政府に対し、内務省の責任追及、ハリーファ首相(当時)の退陣と議院内閣制の実現、選挙制度改革、政治的帰化の中止、政治犯の釈放等を要求した。
政府側は、サルマーン皇太子が事態の対処にあたり、真珠広場からの軍・治安部隊の撤収や政治犯の釈放を決定した。しかしながら、ハリーファ首相の退陣要求に対しては、4閣僚の交代・横滑りでの対処に留まった。野党側はウィファークやワアドの指導者たちが、真珠広場で国民の連帯を呼びかける一方で、政府側の対応が不十分であるとして、要求が受け入れられるまで対話には応じない姿勢を示した。さらに、2月26日に、自由と民主主義のための権利運動Harakat Haqq Harakat al-Hurriyat wa al-Dimuqratiyah (以下、ハック)の代表であったハサン・ムシャイマHasan Mushaymaが恩赦により国外追放状態から帰国すると、王政打倒を主張する声が勢いづき、政府と野党および抗議デモ参加者との間で妥協点を見出すことが難しくなった。サルマーン皇太子の呼びかけに対し、野党指導者や抗議デモ参加者が応じる姿勢を見せない状態に対し、ハマド国王は治安維持のため湾岸協力会議(GCC)の合同部隊である「半島の盾」の介入を要請したうえで、3月14日に真珠広場のデモ参加者を強制排除して抗議デモを鎮圧した。
国民対話と野党の弾圧
デモ鎮圧後、ハマド国王の意向を受け、サルマーン皇太子が主導して改革と国内融和のための国民対話が7月2日から開催された。平行して、デモ参加者に対する政府の暴力・武力行使に関して真相究明のための独立調査委員会による調査も進められた。国民対話は国内各界代表300人を招いて開催され、まとめられた選挙制度や議会の権限強化についての答申が憲法修正に反映された。また、独立調査委員会は抗議デモの発生と大規模化、政府の治安行動への抵抗についてイランの関与はなかったことを公式に認めた。多数派を占めるシーア派を支持基盤とする野党側は国民対話において25名の枠しか認められず、国民の声が反映されない状況や対話への参加を安易な妥協とみなす支持層、とくに若年層からの批判が大きいこともあり、国民対話から離脱した後、抗議デモ時に結成した合同委員会の要求内容を改めて改革を要求する「マナーマ文書」を野党5団体連名で10月12日に発表した。
政府内では野党に対しやや穏健的な態度を取っていたサルマーン皇太子よりも、国内のシーア派政治団体がイランの影響下にあり、抗議デモの発生と拡大にイランの働きかけを疑い、国内のシーア派およびシーア派を主な支持基盤とする野党を安全保障上の脅威とみなす強硬派が優勢となり、民衆の扇動や現体制の否定、国家への侮辱といった罪状で野党指導者の逮捕や国籍剥奪による追放、野党の解散命令といった弾圧が続いている。
バハレーン/選挙
選挙制度
現在の選挙制度は、「政治的権利の行使に関する勅令」(法律2002年第14号)と「諮問院および代議院に関する勅令」(法律2002年第15号)に基づく。国政選挙は代議院(以下、下院と表記)のみ実施される。下院の定数は40議席であり、議員の任期は4年である。選挙権はバハレーン国籍を持つ21歳以上の男女にあるが、有権者登録が必要である。被選挙権は30歳以上のバハレーン国籍を持つ男女にある。下院選挙は小選挙区絶対多数制であり、1回目の投票で比較第1位の候補者の得票が有効投票数の過半数に満たない場合は、1週間後に上位2名による2次投票(決選投票)を行なう。立候補者が1名のみの場合は無投票当選となる。投票日は通常土曜日に設定されている。
選挙区は基本的に人口が集中する北部一帯に多くの選挙区が割り当てられている。2014年9月に地方行政区分の再編(中部県の廃止)とともに選挙区割りが再編されて、一票の格差は2倍以下となった。それ以前はムハッラク県の選挙区と南部県の選挙区で10倍以上の格差があったが、依然として南部の方が一票の価値が高い傾向にある。この南北の人口格差はバハレーンに固有の人口分布を背景とするが、南部に居住するスンナ派諸部族が最大の政府支持層で無投票当選者がいる一方、北部では人口で多数派を占めるシーア派が議席の獲得において不利となるような選挙区割りとなっている。野党側は政府によるゲリマンダー(意図的な選挙区操作)であると批判し、是正もしくは比例代表性の導入を要求している。
投開票については、各県ごとに選挙管理委員会が設置され、各投票所では裁判官が投開票を管理する。投票所は各選挙区に1箇所設けられ、会場は基本的に小学校が使用される。また、各選挙区内の投票所とは別に、「ゼネラル・センター」と呼ばれる選挙区外投票所が、空港やサウジアラビアとの連絡橋のサービス・エリア、ショッピング・モール、軍の病院など国内10箇所に設置されている。有権者登録がオンラインで照会できるため、どのセンターであっても、選挙人は自分の選挙区への投票ができる。在外公館での在外投票も可能である。各投票所内では、裁判官以外に立候補者が指定した代理人が1名のみ立ち会うことが可能であるが、ゼネラル・センターや在外投票所では、立候補者もしくは代理人が立ち会うことは認められていない。そのため、会場によっては外部からの監視の目が届きにくく、野党側は政府に都合の良い立候補者が当選するような得票・集計の操作がなされていると批判している。バハレーンでは、軍人や警察官も選挙権を行使でき、かつ多くがスンナ派の「政治的帰化」者であることから、野党の目が届かないゼネラル・センターでの、政府の動員による投票が疑われている。投票終了後は、裁判官の指揮の下に開票が行なわれ、各県の選挙管理委員会で集計結果が発表される。集計に対する異議申し立てなどはあるものの、いずれも却下されている。
第5回下院選挙2018年
一次投票 2018年11月24日 9議席確定 投票率(有権者登録ベース)67%
二次投票 2018年12月1日 31議席確定
最大野党のイスラーム国民協約協会Jamiyat al-Wifaq al-Watani al-Islamiyah(以下、通称であるウィファークと表記)をはじめ多くの野党の指導者が立候補を禁じられていたことを受け、野党は選挙のボイコットを呼びかけていた。立候補は無所属候補で、一次投票で過半数を獲得する有力候補が少なく、新人には大きな機会となった。女性候補は前回から倍の6名が当選し、ファウズィーア・ビント・アブドゥッラー・ザイナルFawzia bint Abdullah Zainalが初の女性議長に選出された。
第4回下院選挙2014年
一次投票 2014年11月22日 6議席確定 投票率(有権者登録ベース)54%
二次投票 2014年11月29日 34議席確定
アラブの春後初の下院選挙となった。告示前の2014年9月に地方行政区の再編とあわせて選挙区割りが大幅に変更され、1票の格差は2倍以内に緩和された。しかし、国民の多数派であるシーア派を支持基盤とする野党勢に不利な状況は変わらず、選挙手続きの透明性と公正さが確保されていないことを批判していたウィファークをはじめ野党は選挙のボイコットを呼びかけた。投票日当日は、北部県や首都県の一部で、治安部隊が厳重な警戒で投票所へのアクセスを遮断したり、逆にボイコットを呼びかける若者集団が投票所へ通じる道路を封鎖するといった光景がみられた。スンナ派イスラーム主義の政治団体は選挙に参加したものの結果はふるわず、ほぼ政府支持の無所属議員に占められた。女性は3名が当選した。
政治団体・会派名 | 獲得議席数 | 1次投票の得票率 |
---|---|---|
アサーラ(スンナ派) | 2 | |
ミンバル(スンナ派) | 1 | |
無所属(政府支持)* | 37 |
補欠選挙 2012年
現職議員のガーニム・ブアイナインGhanim al-Buainainが外務担当国務相に任命されたことにより空席になった議席の補欠選挙が2012年6月16日に実施された。
補欠選挙 2011年
一次投票 2011年9月24日 9議席確定(4議席は無投票当選)
二次投票 2011年10月1日 9議席確定
2011年2月27日に真珠広場でのデモに対する政府の暴力に抗議してウィファーク所属議員18名が辞職したことに伴う補欠選挙が行われた。立候補者はすべて無所蔵で、3名の女性が当選した。
第3回下院選挙2010年
一次投票 10月23日 31議席確定 投票率(有権者登録ベース) 67.7%
二次投票 10月30日 9議席確定
前回に続き野党も参加し、ウィファークはシーア派が多数を占める18の選挙区すべてに候補者を立て、すべての議席を獲得した。比較第一党であったが議長職は政府支持の無所属に譲り、副議長職を獲得した。
政治団体・会派名 | 獲得議席数 | 1次投票の得票率 |
---|---|---|
ウィファーク(シーア派) | 18 | 48.5% |
アサーラ(スンナ派) | 3 | 3.3% |
ミンバル(スンナ派) | 2 | 7.1% |
無所属(政府支持)* | 17 |
* ウィファークの得票総数は79313票(1選挙区で無投票当選あり・有効投票数の48.5%)
* 無所属は全てスンナ派
* 女性議員:1(ムスタクバル→無所属。南部州から選出、立候補者1名による無投票当選)
州 | スンナ派 | シーア派 | 計 |
---|---|---|---|
首都県(マナーマ) | 2 | 6 | 8 |
ムハッラク県 | 7 | 1 | 8 |
北部県 | 2 | 9 | 9 |
中部県 | 5 | 4 | 9 |
南部県 | 6 | 0 | 6 |
計 | 22 | 18 | 40 |
第2回下院選挙2006
一次投票 2006年11月25日 30議席確定 投票率(登録有権者ベース)73%
二次投票 2006年12月2日 10議席確定 投票率(同上)69%
前回ボイコットしていた反政府勢力は、2005年に制定された政治団体法に基づき野党として参加した。最大野党のウィファークはシーア派が多数をしめる18選挙区のうち17選挙区に所属候補を立て、1選挙区で協力する無所属候補を支援し、いずれも議席を獲得した。
政治団体・会派名 | 獲得議席数 | 1次投票の得票率 |
---|---|---|
ウィファーク(シーア派) | 17 | 61.8% |
ミンバル(スンナ派) | 7 | 11.0% |
アサーラ(スンナ派) | 5 | 7.4% |
無所属(与党系) ムスタクバル | 10 (4) | |
無所属(野党系) | 1 |
* ウィファークの得票総数は86405票(有効投票数の61.76%)。
* 与党系無所属はいずれもスンナ派。うち4名は2008年にムスタクバルを結成。
* 野党系無所属はワアド系のスンナ派だが、ウィファークの支援を受けた。
* 女性議員:1(無所属→ムスタクバル。南部州から選出、立候補者1名による無投票当選)
県 | スンナ派 | シーア派 | 計 |
---|---|---|---|
首都県(マナーマ) | 3 | 5 | 8 |
ムハッラク県 | 7 | 1 | 8 |
北部県 | 2 | 9 | 9 |
中部県 | 5 | 4 | 9 |
南部県 | 6 | 0 | 6 |
計 | 23 | 17 | 40 |
第1回下院選挙2002年
一次投票 2002年10月24日 19議席確定 投票率(登録有権者ベース)53.48%
二次投票 2002年10月31日 21議席確定 投票率(同上)43%
新憲法下での初めての選挙であった。反政府勢力は憲法の内容およびその制定手続きが国民行動憲章の精神から後退していると批判し、選挙への参加をボイコットした。
政治団体・会派名 | 獲得議席数 | 1次投票の得票率 |
---|---|---|
ミンバル(スンナ派) | 5 | 12.6% |
アサーラ(スンナ派) | 7 | 12.2% |
イスラーム会派 ラービタ(シーア派) シューラー協会(スンナ派) | 8 (3) (2) | 4.4% |
独立会派 エコノミスト | 8 (3) | 2.8% |
諸派(世俗リベラル) | 3 | 2.8% |
無所属 | 9 |
* ボイコット:ウィファーク、ワアド、アマル、タガンムウ
* 諸派(世俗リベラル)は旧共産系・民族主義のタカッドミーほか。2006年選挙前にワフダ(国民連合)として会派結成。
* 独立会派のうち3名が2006年選挙前にエコノミスト会派を結成。
* 女性議員:0
県 | スンナ派 | シーア派 | 計 |
---|---|---|---|
首都県(マナーマ) | 4 | 4 | 8 |
ムハッラク県 | 7 | 1 | 8 |
北部県 | 5 | 4 | 9 |
中部県 | 6 | 3 | 9 |
南部県 | 6 | 0 | 6 |
計 | 28 | 12 | 40 |
バハレーン/政党
政党は公式には認められておらず、各種の政治団体が活動している。2002年選挙時は、政治団体の選挙への関与は厳しく制限された。立候補者の所属政治団体は公式には明らかにされず、また政治団体による立候補者への支援も禁じられていた。しかし、2005年7月に制定された政治団体法(法律2005年第26号)により政治団体の選挙への関与(政治団体からの立候補や立候補者への支援など)が可能となり、実質的な政党として機能している。しかしながら、2011年の大規模抗議デモ以降、与党系であったスンナ派イスラーム主義系も含む政治団体の活動に対する政府の抑圧が続いている。野党系の団体は裁判所による活動禁止および解散命令を受けているが、ツイッターなどのアカウントは閉鎖されずに継続している。
シーア派イスラーム主義
イスラーム国民協約協会Jamaiat al-Wifaq al-Watani al-Islamiyah(ウィファーク)
バハレーン最大の政治団体であり、国民の多数派を占めるシーア派を支持基盤とする野党である。創設者は1990年代のバハレーン蜂起において有力な指導者であったアブドルワッハーブ・フサインAbd al-Wahhab Husain Ali Ahmad Ismailであった。2005年に彼が代表を退いた後、代表には12イマーム派法学ウラマーのアリー・サルマーンAli Salman Ahmad Salmanが、実質的な最終権限を有する30名の評議員からなるウィファーク評議会により選出されてきた。彼は2010年の第3回下院選挙には出馬しなかったため、議会内での会派代表はアブドゥルジャリール・ハリールAbd al-Jalil Khalil Ibrahim Hasanが務めた。ウィファークの宗教権威・精神的指導者としては、1973年議会の宗教会派の代表を務めていたイーサー・カーシムの影響力が強い。イデオロギー的にはイランの「ヴィラーヤテ・ファギーフ(法学者の統治)」を理想としているともいわれるが、同時にバハレーンにおける民主化の進展として議院内閣制の実現も求めており、12イマーム派のウラマー(ターバン組)のイスラーム主義と、実務家(背広組)の民主化推進派の両面を有する。
2002年憲法改正が国民投票にかけられなかったことや、憲法改正による民主化が不十分であったことに抗議して、2002年の第1回選挙をボイコットした。2006年の第2回選挙には参加し、シーア派が多数を占める18の選挙区で所属候補17名と、支援する無所属候補1名を当選させ、比較第一党となった。支持基盤は、マナーマ、北部県と旧中部県の東部(シトラ地区)。選挙後の議会開会に際して議長職を求めたが、無所属議員も含めた全体でスンナ派がシーア派を上回ったため、議長にはスンナ派の議員が選出された。副議長への選出を辞退し、議長に選出されなかったことに抗議して、国王が参加する議会開会式への出席をボイコットした。2010年の第3回選挙では、擁立した18名全員が1次投票で当選を決めた。2010年選挙後の議会の開会では、議長職を要求せず、副議長への選出を受け入れて、ハリール・マルズークKhalil Ibrahim al-Marzuqが副議長に選出された。2011年1月12日には、議長に代わって、ハリール・マルズークが初めて議事進行を担った。
議会における比較第一党であり、反体制派から穏健的な野党へと、政府との過度な対立を避ける現実的な姿勢をとっていたが、2011年2月14日の「怒りの日」抗議デモ隊への治安部隊の弾圧による死者の発生に抗議して議会審議のボイコットを宣言した。同16日の真珠広場のデモ参加者の強制排除および実弾発砲による弾圧に抗議して、他の野党系団体と合同政治委員会を設置し、同18日に政府に対する改革を要求して全議員が辞職を表明した。3 月14日のデモ鎮圧後、ハマド国王の意向を受け、改革と国内融和のためにサルマーン皇太子が主導して7月2日から開催された国民対話に参加した。しかし、国内各界代表300名の枠のうち、野党側には25名、そのうちウィファークには5名しか与えられず、野党側の意見が反映されない状況や、参加に対する支持層の批判の高まりを受け国民対話から離脱した。その後、野党系4団体とともに、政府に改革を求める「マナーマ文書」を発表した。同文書では、民選の政府、公正な選挙制度、一院制の議会(上院の廃止)、シーア派住民に対する差別の撤廃を求めている。特に差別の撤廃に関しては、政府が政治的理由による外国人帰化を進めて、スンナ派に有利なように人口動態のバランスを変えようとしていると批判している。
国民対話を離脱後も、サルマーン皇太子を通じた対話と改革の可能性を模索する執行部に対する支持層からの批判、特に若年層からの突き上げに苦慮する一方、2014年選挙をボイコットして以降は騒乱の責任をウィファークに求める軍と警察による弾圧が強まった。2014年12月28日、4期目の代表に選出されたアリー・サルマーンが逮捕された。一審判決は無罪であったが、二審では憎悪を煽動し、不服従を助長し、公的機関を「侮辱」したとして刑期5年の有罪判決を受けた。のちに9年に刑期が延長されたうえ、2018年11月4日にはこじつけともいえるカタルへのスパイ協力を理由に終身刑を宣告された。組織としては2016年6月14日に裁判所から活動停止命令を受け、同年7月17日には解散命令を受けて、事務所建物と銀行口座を接収された。
自由と民主主義のための権利運動Harakat Haqq Harakat al-Hurriyat wa al-Dimuqratiyah (ハック)
ウィファークの2006年選挙参加に反対し、ウィファークから離脱した勢力が設立した政治団体で、2006年以降、選挙には参加していない。メンバーの多くは共和制を主張し、民主化以前には海外追放状態であった。多くは民主化開始とともに帰国したが、議会選挙への参加をめぐって国内活動組と意見が一致できずに離脱した。政府からは非合法組織扱いされ、指導者層は国外へ逃れ、国内の活動家は多くが政治犯として収監されている。2011年2月26日、指導者のハサン・ムシャイマHasan Mushaymaが恩赦によりロンドンから帰国し、真珠広場の抗議デモに加わったことは、王政打倒の主張とともに、デモ隊の要求が過激化する一因ともなった。
イスラーム連帯協会Jamaiat al-Rabitah al-Isalmiyah(ラービタ)
ウィファークに次ぐシーア派の政治団体。政府批判の姿勢もとるが、シーア派イスラーム主義のなかでは穏健派で、2002年議会では与党系とみなされ、創設者のスレイマーン・アルマダニーSulayman Madani(法学ウラマー)は政府と近い関係を有していたともいわれている。2002年選挙では3議席獲得し、イスラーム会派に属していた。
イスラーム行動協会Jamaiat al-Amal al-Islami(アマル)
上記ラービタから離脱した勢力が設立した政治団体。より教条的といわれる。政治的志向ではウィファークに近く、2002年選挙をボイコットした。2006年選挙以降はウィファークの候補者を支援した。支持基盤は北部県が中心。2011年2月の抗議デモを支持し、ウィファーク、ワアドを中心とする合同政治委員会に加わった。ハマド国王が退位するまで対話に応じない姿勢を示したため、主なメンバーは逮捕され、組織も解体された。
スンナ派イスラーム主義
イスラーム国民フォーラムJamiat al-Minbar al-Watani al-Islami(ミンバル)
バハレーンのムスリム同胞団を母体とする政治団体。1928年にエジプトのムスリム同胞団がバハレーンに接触して以降、長くその勢力を維持している。イスラミストのなかでは穏健派で、与党系とされていたが、アルコール販売規制等でウィファークと共闘する場面もあった。2002年選挙で7議席、2006年選挙で7議席、2010年選挙で2議席獲得。支持基盤はムハッラク県と旧中部県の一部。
イスラーム真正協会Jamaiat al-Asalah al-Isalmiyah(アサーラ)
シャリーア(イスラーム法)の適用を厳格に求めるサラフ主義(サラフィー)の政治団体。与党系とみられるが、政府に対する批判も多い。2002年選挙で5議席、2006年選挙で5議席、2010年選挙で3議席獲得。支持基盤はムハッラク県と南部県。
イスラーム評議会協会Jamaiat al-Shura al-Islamiyah
1992〜2002年の諮問評議会におけるスンナ派ウラマー層が設立した団体。2002年選挙で2議席獲得した。2006年選挙で当選者はなかったが、選挙後に代表は上院議員に任命された。2019年8月に自主解散を決定。
世俗リベラル主義
国民民主行動協会Jamaiat al-Amal al-Watani al-Dimuqrati(ワアド)
アラブ民族主義の政党。野党の中ではウィファークに次いで影響力が大きい。指導者はスンナ派であるが、支持者にはシーア派も多く、宗派を超えた国民の連帯を訴える上で、ワアドの指導者層の果たす役割は大きい。創設者はアブドゥッラフマン・ヌアイミーAbd al-Rahman al-Nuaimi。ウィファーク他とともに2002年選挙をボイコットし、2006年選挙と2010年選挙には参加したが、書記長(代表)のイブラーヒーム・シャリーフIbrahim Sharif、バハレーン大学教授・女性評議会の議長を務めたムニーラ・ファハロMunira Fakhruの有力候補がともに僅差で落選した。支持基盤はムハッラク県と旧中部県(イーサー・タウン)の一部。
2011年2月の抗議デモを支持し、ウィファークとともに合同政治委員会を設置して政府に改革を要求した。しかし、抗議デモが鎮圧されて間もなくの3月17日にイブラーヒーム・シャリーフが逮捕された。彼は2015年6月20日に恩赦により釈放されたものの、2016年の2月24日に政府に改革を求める演説を行い再び逮捕された。組織としては2017年5月31日に裁判所より解散命令を受けた。
進歩民主フォーラムHayat al-Minbar al-Dimuqrati al-Taqaddumi(タカッドミー)
旧共産主義勢力の政治団体。2002年選挙で3議席を獲得し、2006年選挙では、会派として国民統一戦線(ワフダ)を結成したが、当選者はなし。北部県の一部が支持基盤。2011年2月の反政府デモでは、ウィファーク、ワアドを中心とする合同政治委員会に加わった。
民主国民協会al-Tajammu al-Qawmi al-Dimuqrati(タガンムウ)
左派民族主義の政治団体。2002年選挙をボイコット。2006年選挙、2010年選挙での当選者はなし。2011年2月の反政府デモでは、ウィファーク、ワアドを中心とする合同政治委員会に加わった。
国民公正運動Harakat al-Adalah al-Wataniyah(アダーラ)
2006年5月にワアドから離脱した弁護士のアブドッラー・ハーシムAbdullah Hashimが創設。左派民族主義の団体。野党系であるが、ウィファークの対抗勢力となることを目指していたとされる。議会選挙での当選者はなし。支持基盤はムハッラク県。
国民行動憲章協会Jamaiat Mithaq al-Amal al-Watani(ミーサーク)
2002年選挙時に、政府支持層が設立した団体。選挙での当選者はないが、上院での最大勢力で、2006年選挙後の任命でも10名が上院議員に任命された。2011年の抗議デモには批判的な立場を表明した。