「クウェート」カテゴリーの記事一覧
クウェート/現在の政治体制・制度
憲法の概要
現在クウェートの政治体制はサバーフ家が首長位を世襲する立憲君主制であり、政治制度は1962年に公布されたクウェート国憲法に基づいている。同憲法は1976年から1981年と、1986年から1991年の二度にわたって停止され、1982年から1983年にかけて、政府が改正案を提案したこともあったが、現在まで改正はなされておらず、クウェートにおける政治のルールとして定着している。
クウェート国憲法(以下、憲法と表記)は、選挙で選ばれた国民の代表と首長家代表が制憲議会での検討を重ねて制定された経緯から、君主の権力に制限をかけ、国民の政治参加と諸権利を保障する、当時としては民主的で画期的な憲法であった。1961年6月に英国保護領から独立したのち、アブドッゥラー・サーレムAbdullah al-Salim al-Mubarak al-Sabah首長(在位1950-1965年)が同年8月に制憲議会選挙実施のための法律案の起草委員会委員を任命し、12月に制憲議会の設立を宣言した。翌1962年1月に制憲議会選挙が実施され、クウェート人成年男子より選出された20名の民選議員と、首長が首長家一族から任命した暫定内閣の閣僚からなる制憲議会が開会した。起草委員会での審議と本会議での承認を経て、1962年11月11日にアブドッゥラー・サーレム首長の署名により、183条からなる憲法が発布された。アブドッゥラー・サーレム首長が憲法に署名するシーンを撮影した写真は、クウェート憲政・議会政治の始まりのアイコンとして多用されており、同首長はクウェート憲政の父と称されている。
憲法は、1950年代に隆盛したアラブ・ナショナリズム運動の影響もあり、第1条でクウェートがアラブ諸国のひとつであることが宣言されている。第2条では国教をイスラームとし、シャリーアが主要な法源であると位置づけられている。第4条では首長位を大ムバーラクと称されるムバーラク・サバーフMubarak al-Sabah首長(在位1896-1915年)の子孫が継承すること、皇太子(厳密には首長位継承予定者Wali al-Ahd)は、首長の指名と国民議会の過半数の承認に基づき、首長が任命することが規定されている。特徴的なのは、将来の首長となる皇太子の任命に対して議会が拒否権を有しており、首長が指名した人物が議会の承認を得られなかった場合、首長は大ムバーラクの子孫から少なくとも3名を指名し、その中から議会が忠誠を誓った人物を皇太子に任命することとなっている。第6条では国民主権に基づく民主的統治が明記されている。
立法権および国民議会の権能
立法権は首長と国民議会(以下、議会と表記)に付与されており(第51条)、立法に関して相互に牽制しあう制度設計となっている。湾岸アラブ君主制の中でも議員の法律案提出権や大臣に対する質問権、大臣の罷免権があるなど議会の権能が大きいのが特徴である。
議会は一院制で、議員定数は50議席である。議員は普通選挙および秘密投票により選出される。議員の任期は4年である。法律案の提出は首長と議員に認められている(第65条、議員立法・第109条)。定足数は総議員数の過半数であり、議会の議決は基本的に出席議員の過半数の賛成により成立する。選挙で選出されていない大臣も職制上の議員とみなされ、総議員数に含まれており、委員会人事と大臣の信任投票案の投票を除いて議会の採決に参加する(第80条)。大臣の人数は議員定数の3分の1を超えないこととされており(最大16名)、そのうち少なくとも1名は民選議員から任命することが定められているため(第56条)、過半数は最大で33名となる(民選議員から大臣に任命される人数によって変化する)。
議会に提出された法律案は、議決・承認されたのち、首長が30日以内に裁可することで法律として発効する。首長は議会に法律案を差し戻して再検討を求めることができるが、それに対して総議員数の3分の2以上の賛成によって法律案が改めて承認された場合には、首長は30日以内(緊急の場合は7日以内)に裁可・公布しなければならない。首長が法律案の再検討を求めず、裁可を30日以内に行わない場合は、法律案は裁可されたものとされ、発効する(第65条・第66条)。
首長は、議会の休会中または解散中に、憲法と予算法の見積もりに反しない範囲で、法律と同等の効力を有する緊急法令(緊急勅令)を発布することができる。緊急法令は、議会の再開または選挙後の新しい議会が召集されてから15日以内に議会に提出されのち、議決による承認を得なければならない。議会が承認しなかった場合、緊急法令は基本的に遡及的に無効となる(第71条)。
議員は、法律案の提出だけでなく、政府の政策や問題に対する首相および所管の大臣への質問および、大臣の不信任決議案提出の前提となる問責質問を提出することが可能である。また、問責質問を経たのち、議員は10名の連署で大臣に対する不信任決議案を提出することができる。閣僚を除く過半数の民選議員の賛成により不信任決議案が議決された場合には、対象となる大臣は決議の日から辞職したものとされる(大臣の罷免権、第101条)。首相に対する不信任決議案の提出はできないが、代わりに議会から政府に対する非協力の通知として首長に送られ、首長が新たに首相を任命するか国会の解散と60日以内の選挙の実施を宣言する。議会の解散権は首長のみ有する。
行政権
行政権は首長と内閣(閣僚評議会Majlis al-Wuzara)、大臣に付与されている。首長は首相を任命し、首相の指名に基づいて大臣を任命する。議会に大臣の罷免権が認められているが、内閣は首長に責任を負う。首相が辞職する場合、他の大臣も辞職する(内閣総辞職)。
閣僚数は国民議会の民選議員定数である50名の3分の1を超えないことが憲法で規定されており、16名が最大である。大臣のうち少なくとも1名は民選議員から任命しなければならない。女性閣僚が2005年から任命されている。
司法権
司法権は、首長の名のもとにそれを行使する裁判所に付与されている。司法の独立が明記されており、裁判官人事については最高司法評議会の決定に基づいて首長が任命する。7名の裁判官からなる憲法裁判所が設置されている。
クウェート/最近の政治変化
ナゥワーフ首長の即位と議会の動向(2020年10月~)
2006年1月に即位したサバーフ・アフマド・ジャービル・サバーフSabah al-Ahmad al-Jabir al-Sabah首長が2020年9月29日、91歳で亡くなり、異母弟のナウワーフ・アフマド・ジャービル・サバーフNawwaf al-Ahmad al-Jabir al-Sabah皇太子が第16代当主・独立後6代目の首長に即位した。10月8日、ナゥワーフ首長は異母弟で国家警備隊副長官のミシュアル・アフマドMishal al-Ahmad al-Jabir al-Sabahを皇太子に指名し、翌8日に国民議会の承認を経て任命した。次の世代からの皇太子任命を期待する声もあったが、順当に第10代当主・アフマド・ジャービルAhmad al-Jabir al-Sabah首長の息子たちの間で継承された。首長と皇太子の年齢はともに80代であり、ミシュアル皇太子が存命中の兄弟では最年少となるため、世代交代の問題は依然として残っている。
2020年12月5日には第16回(無効化された選挙を含めれば18回目)となる国民議会選挙が実施された。2003年以来の任期満了に伴うものであったが、サバーフ首長の服喪期間もあり、当初の予定より約1カ月遅れての実施となった。選挙戦では、COVID-19感染予防のための外出禁止令によって打撃を受けた中小事業者の資金繰り支援や給与補填、家計負担増への対応といった直近の問題とともに、政府内での汚職問題が取り上げられた。選挙後の12月7日、当選した議員のうち36名(途中参加を含めて38名との報道もあり)がバドル・ダーフームBadr al-Dahum議員の呼びかけに応じて会合を持ち、政府の意向に従うマルズーク・ガーニムMarzuq al-Ghanimの議長再選を阻止すべく新議長の対立候補としてバドル・フマイディーBadr Humaidiを軸に調整を行った。しかし、新議会が招集された12月15日の議長選では、両名併記の無効票もあってバドル・フマイディーへの有効票は28票にとどまり、閣僚からの投票を含む34票を獲得したマルズーク・ガーニムが議長に再選された。バドル・フマイディーに投票した議員たちは野党として結束を強め、2021年1月5日の定例会で、バドル・ダーフーム議員ら3名の議員がサバーフ・ハーリド・ハマド・サバーフSabah al-Khalid al-Hamad al-Saba首相に対して不信任案提出の前段階となる問責質問を求める動議を提案すると、38名の議員が支持を表明した。首相に対する不信任案の提出が不可避の状況となり、サバーフ首相は1月13日にナウワーフ首長に辞表を提出し、新議会招集の前日の12月14日に発足した内閣は、わずか1カ月で総辞職した。
ナウワーフ首長は1月24日にサバーフ・ハーリド首相を再任し組閣を命じたが、組閣が長引いていたため憲法第106条を発動し、2月18日から1カ月間、議会の定例会を一時停止する首長令を発布した。同首相は野党からの批判が強かった4閣僚を交代させ、副首相にリベラル派のベテラン野党議員であったアブドゥッラー・ルーミーAbdullah Yusuf al-Rumi元議員を据える組閣を終え、首長による任命を受けて3月2日に新内閣を発足させた。しかし、議会再開直前の3月14日に、憲法裁判所がバドル・ダーフーム議員に対して、2013年にサバーフ前首長を侮辱して有罪判決を受けていたことを理由に憲法裁判所が議員資格を剥奪する決定を下し、マルズーク・ガーニム議長が議員資格審査の投票なしに議員資格の無効を宣言したことで、野党議員らは態度を硬化させた。野党議員らは、首相側が司法を通じて野党の中でも注目を集めていたバドル・ダーフーム議員を排除し、野党による絶対過半数確保の阻止と、本会議での首相に対する問責質問の阻止を狙ったものと受け止め、新内閣を認めない姿勢を示して内閣を退陣に追い込むべく、閣僚が議会で就任宣誓を行う本会議を定足数割れで流会に追い込もうと本会議のボイコットを宣言した。首相側は閣僚16名と民選議員18名でぎりぎりの過半数を確保し、3月30日に閣僚の就任宣誓を行った。また、同日の本会議でサバーフ・ハーリド首相は、コロナ対策や経済の立て直しなど懸案に取り組むために、本会議での問責質問の実施を2022年末まで延期することを提案し、出席議員34名のうち29名の賛成により承認された。本会議をボイコットした31名の野党議員は、2年近くの問責質問の延期を認めた投票は憲法が定めた要件を満たしておらず違憲で無効であると批判し、同日の本会議を「クウェート民主主義の暗黒日」と表現してサバーフ・ハーリド首相とマルズーク・ガーニム議長の解任を訴えた。
2021年4月以降、政府および政府寄りの立場をとるマルズーク・ガーニム議長と野党議員の対立はより深刻化した。野党議員側は、首相の問責質問が行われない限り、通常会での審議を拒否することで合意し、マルズーク・ガーニム議長を解任すべく、議会内規に議長解任に関する条文を追加する改正を提案した。また、4月7日には、23名の野党議員が、クウェート議会史上初となる議長解任のための審議を要求する動議を発した(動議は賛成少数で却下)。対する政府側は野党議員抜きで審議を行う一方、野党側が提案する議題や緊急の議案審議、首相および新型コロナへの対応をめぐるバーセル・フムード・ハマド・サバーフBasil Humud al-Hamad al-Sabah保健相への問責質問の要求には応じなかった。対立に嫌気して議員本来の役割が果たせないという理由で政府側の議員1名が議員辞職を表明し、辞表を提出したものの、補欠選挙は失職したバドル・ダーフームが選出された第5選挙区のみ実施することが4月13日に公示された。補欠選挙では、2012年2月議会の議員であったクウェート大学法学部教授のオベイド・ワスミーUbayd al-Wasmiが野党統一候補として、バドル・ダーフームの代理として推されて立候補した。野党側は、憲法と議会を弱体化させる試みに対し、民衆から拒否を突きつけようとキャンペーンを展開した。5月22日に行われた投票では、投票率が28%であったにもかかわらず、オベイド・ワスミーは投票者の約9割からクウェート議会選挙史上最多得票となる43801票を獲得して当選し、野党側を勢いづけた。
議会通常会の焦点となる2021/22年度政府予算は、予算委員会を含めてほとんど議会で審議することができない状態であったため、マルズーク・ガーニム議長は野党側の対応を批判し、親政府議員による特別会の招集要求に応じるという体裁で、予算承認のための会合を招集した。野党側は度重なる違憲行為と説明責任を果たそうとしない政府の態度と議長の対応を批判する一方、沈黙を守るナウワーフ首長との面会を求めて、審議の前日となる6月20日に野党議員から代表の3名がミシュアル皇太子と会談した。会談の内容は明らかにされていないが、6月21日の審議当日、野党側は議場の大臣席を占拠して審議の阻止を図った。サバーフ・ハーリド首相を含む閣僚は議場出入口付近に立ったままであったが、マルズーク・ガーニム議長は特別会の成立を宣言し、予算案承認のための採決を強行した。親政府議員と野党議員が揉み合い怒号が飛び交う中、閣僚が着席しないまま点呼による投票を行う前例のない形で、閣僚と親政府議員の過半数の賛成により、予算案は承認された。野党議員30名は採決への参加を拒否した。異常事態のまま、議長が会期終了を宣言し、政府および議長と野党議員の対立は次の会期が始まる10月まで持ち越されることとなった。
サバーフ首長のもとでの民主化の深化と反動(2006年1月~2020年9月)
2006年1月29日、第5代首長(第15代当主)として、首相職にあったサバーフ・アフマド・ジャービル・サバーフSabah al-Ahmad al-Jabir al-Sabahが首長に即位した。2006年1月15日にジャービル・アフマド・ジャービル・サバーフJabir al-Ahmad al-Jabir al-Sabah首長が亡くなった後、皇太子であったサアド・アブドゥッラー・サーリム・サバーフSaad al-Abdullah al-Salim al-Sabahが首長に即位していたが、病状が執務に堪えられないとの判断から廃位し、議会の推戴による即位であった。サバーフ首長の即位期前半(2006年~2012年)は、女性参政権の実現や野党主導による選挙制度改革、集会法やメディア・出版の規制緩和等にみられる政治的自由の拡大期であった。議員活動が活発化し、議員が政治的な志向性に応じて会派を結成し、議会政治の活性化と議会への更なる権力移譲を目指すという展開もみられ、1992年の議会復活以来の「民主化」はピークに達した。しかし、議員活動の活発化によって政府と議会の対立は深刻化し、度重なる内閣総辞職と議会解散・選挙によって政治的な意思決定が停滞し、行政の麻痺や周辺の湾岸諸国に対して経済成長で後れをとる負の側面も顕在化した。
サバーフ首長の即位期後半(2012年~2020年)は、一転して主要な野党議員と関係者の収監やSNSを中心としたメディア規制の強化といった反動化が進む一方、首長府主導による開発投資・インフラ整備が急速に進められた。反動化の予兆としては、2010年12月の野党議員の集会に対する警察の介入や、ナーセル・ムハンマド・アフマド・ジャービル・サバーフNasir al-Muhammad al-Ahmad al-Jabil al-Sabah首相の辞任を要求するデモ隊が2011年11月16日に議会議場に突入した事件など、政府と野党側双方に実力行使を厭わない不穏さがあった。転機は2012年2月の選挙において、野党側が閣僚を含む総議員数の過半数となる34議席を獲得し、新たに任命されたジャービル・ムバーラク・ハマド・サバーフJabir al-Mubarak al-Hamad al-Sabah首相に対して閣僚評議会の過半数となる9つの閣僚ポストを要求したことであった。首長および首相は野党側の要求を拒否したが、議会運営が野党側の手に握られ、政府提出法律案や予算案の成立が困難な状況にあった。事態を動かしたのは憲法裁判所であった。2012年6月20日に憲法裁判所が前年12月6日の議会解散手続きに不備があったとして、2012年2月2日の選挙およびその後の議会は無効であるとの判断を下した。以降、憲法裁判所が政府の意向に沿った判断を下す事案が増加した。政府および首長は2009年議会の議員を改めて招集しようとしたが、大半の議員が憲法裁判所の判断に抗議して招集を拒否したため定足数を満たすことができず、10月6日に改めて議会を解散した。野党側は抗議デモを展開して一連の対応を強く批判し、サバーフ首長に対して独裁化を警告する演説を行った野党指導者のムサッラム・バッラークMusallam al-Barrak前議員が首長侮辱罪で一時拘束された。政府および首長は緊急法令によって選挙法を改正し、12月1日に選挙を行った。野党側の選挙のボイコットをにより親政府議員が過半数を占めたが、選挙法の改正手続きに不備があったとして、2013年6月16日に憲法裁判所は再び選挙と議会の無効化を宣言した。同年7月23日に行われた選挙も引き続き野党側がボイコットしたため、同選挙後の議会も親政府議員が過半数を占めた。
政府は議会の安定的な運営を取り戻したかに見えたが、石油価格の低迷が政府予算を圧迫する状況が続いているため、国内のガソリン価格や行政手数料の引き上げ、補助金の削除を実施し、付加価値税の導入に手をつけたことが議員の反発を招いた。また、国民負担が増加する一方、首長府主導の積極的な開発投資・インフラ整備とともに、公金詐取やマネーロンダリングなどの汚職も深刻化し、政府に対する国民の不満も高まっていた。2015年6月のモスク爆破テロ事件以来、治安対策やSNS上での発言の取り締まり強化とともに、野党側の元議員や活動家に対する弾圧を強化した。先述のムサッラム・バッラークのほか、2009年議会における野党の中心的な会派であった「発展と改革会派Kutlat al-Tanmiya wa al-Islah」所属議員らが、2011年11月のデモ隊の議場突入事件で首長を批判する演説を行いデモ隊の若者たちを扇動したとして送検され、破棄院で有罪判決が確定したため、収監前にトルコへ亡命した。サバーフ首長は2016年10月16日に安全保障上の理由で議会を解散し、11月23日に選挙が行われた。野党側はボイコットを止めて選挙に参加したが、主だった元議員が被選挙権を停止されていたため、30-40代の新人議員が多数当選し、議員構成が大幅に若返った。
クウェート/選挙
概要
クウェートでは1963年の第1回国民議会選挙から、直近の2020年12月選挙までに16回、憲法裁判所の違憲判断により無効となった2012年2月選挙と2012年12月選挙も含めると18回の国政選挙が実施されている。この他、議会解散・憲法停止中の1990年6月に立法権のない諮問評議会選挙が実施された。女性参政権は1999年に首長令によって付与されたものの議会で承認されず、その後、2005年に選挙法の改正が議会で承認されたことで認められ、2006年6月選挙で実現した。女性議員は2009年5月選挙で初めて4名選出されたが、2016年11月選挙では1名のみ、直近の2020年12月選挙では0となった。
選挙制度
国民議会の議員定数は憲法で50名と定められている。選挙法(法律1962年第35号)に基づく選挙制度は、10選挙区、各定数5の完全連記制であった。1980年に首長令により改正され、25選挙区、各定数2の完全連記制となり、1981年選挙から2006年選挙まで適用された。1980年の改正は、1981年に議会を再開するにあたって、あらかじめ政府側が安定的に過半数を維持できるよう、首長および首長家に忠誠を誓う部族代表の当選を容易にし、他方でイラン革命の影響を受けて政治的要求を強めるシーア派住民の代表の当選を抑えるべく、選挙区を街区単位で細分化したものであった。しかし、当選に必要な最低得票数が少ないため、票の買収が容易で横行する、議員の関心が街区への住民サービスや利益誘導に偏る、人口動態の変化で一票の格差が最大6倍を超えるなど弊害が目立ったことから、選挙法改正の議論が本格化し、2006年6月選挙の争点となった。
2006年選挙の結果、野党側が推す改正案が通り、5選挙区、各定数10、4名までの制限連記制となり、2008年5月選挙から2012年2月選挙まで適用された。選挙区の統合拡大により当選に必要な最低得票数が引き上げられ、1票の格差も約2倍に緩和された。選挙制度は野党有利に働き、議員の議会活動の活発化につながったが、それによって政府と議会の対立も深刻化した。2012年10月には緊急法令(首長令)により投票方法が4名までの制限連記制から1人1票の単記非移譲式に変更された。
選挙権は21歳以上のクウェート人にあり、毎年2月に有権者登録が行われる。被選挙権は憲法で30歳以上とされており、アラビア語の読み書き能力が十分にあることが必要である。軍人と警察官は選挙権・被選挙権とも行使できない。また、帰化による国籍取得者も国籍取得後20年間は選挙権・被選挙権とも行使できない。首長家一族は選挙権・被選挙権の行使を法的に制限されておらず、投票は行うが立候補はしないことが慣例となっている。女性参政権は上述の通り2006年6月選挙で実現した。期日前投票制度は無い。在外投票制度は2020年12月で実現した。
選挙管理に関しては、最高司法評議会により最高選挙管理委員会が設置され、各投票所では裁判官が選挙管理の責を担い、会場設営や有権者登録の確認などの手続きは内務省選挙局の職員が担当する。立候補の登録は2020年12月選挙から、それまでの50KD(クウェート・ディーナール)から500KDへと大幅に引き上げられた。予備選挙は禁止されているが、部族単位で、部族代表の選出と本投票における票割のために予備選挙が公然と行われている。選挙活動について、活動資金の規制や支出内訳報告義務は無い。屋外広告掲示については、交通の妨げにならない範囲で規制されているが、新聞広告やテレビのスポットCM出稿に規制はない。選挙活動は投票日前日の午後8時までとなっているが、実際は投票日当日にも投票所周辺で運動員や候補者本人が投票を呼びかける様子が見られる。
補欠選挙 2021年5月22日投開票
第5選挙区選出のバドル・ダーフーム議員が憲法裁判所により議員資格無効の決定を下され、マルズーク・ガーニム議長により議員資格喪失・失職を宣言されたことにより実施された。選挙は2021年4月13日に公示され、15名が立候補を届け出た。バドル・ダーフームの代理として、2012年2月議会の議員であったクウェート大学法学部教授のオベイド・ワスミーUbayd al-Wasmiが野党統一候補に推されて立候補した。野党側は、憲法と議会を弱体化させる試みに対し、民衆から拒否を突きつけようとキャンペーンを展開した。投票率が28%であったにもかかわらず、オベイド・ワスミーは投票者の約9割からクウェート議会選挙史上最多得票となる43801票を獲得して当選した。
- 有権者数 男性84,777名 女性81,445名 計165,222名
- 立候補者数 15名
- 投票率 28%
第16回選挙 2020年12月5日投開票
2003年以来、(1999年議会以来)の任期満了にともなう選挙となった。2020年9月にサバーフ首長が亡くなったことによる服喪期間のため、当初の予定より1カ月ほど遅れて実施された。19名が再選、7名の元職が復帰。ムスリム同胞団の政治団体であるイスラーム立憲運動(ICM)が3議席を獲得。シーア派議員は6名が当選。女性の当選は0。
- 有権者数 男性273,940名 女性293,754名 計567,694名
- 立候補者数 326名(うち女性33名)
- 投票率 69.4%
選挙の結果は、野党優位の議会構成となった。選挙後、政府の意向に従うマルズーク・ガーニムの議長再選を阻むべく、36名(途中参加を含めて38名との報道もあり)の議員が会合を持ち、新議長候補として元公共事業大臣のバドル・フマイディーBadr al-Humaidiに投票することに37名の議員が合意した。しかし、実際の議長選では両名併記の無効票が3票あり、バドル・フマイディーの得票は28票にとどまり、34票を獲得したマルズーク・ガーニムが議長に再選された。議長選でバドル・フマイディーに投票した議員は野党として結束を深めつつあり、大臣を含む総議員の絶対過半数には届かないものの、民選議員の過半数を占めているため、大臣に対する不信任決議案が提出された場合の対応で政府側が不利な状況となっている。
第15回選挙 2016年11月26日投開票
石油価格の下落に伴う緊縮財政の一環として、補助金削除とガソリン価格の引き上げを図る政府に対し、野党議員が批判を強め、財務大臣と司法大臣に辞任を求めて不信任決議案の前段階となる問責質問を求めたことで、サバーフ首長は2016年10月19日に議会を解散した(公式には安全保障上の理由として解散)。投票方式の変更(4人までの制限連記制から単記非移譲式への変更)とその手続きについて異議を唱え、2012年12月選挙と2013年7月選挙をボイコットしていた野党勢力が復帰参加したことにより、投票率が過去2回に比べ大きく上昇した。
- 有権者数 男性230,430名 女性252,756名 計483,136名
- 立候補者数 293名(うち女性14名)
- 投票率 70%
選挙結果について、野党側は24議席を獲得した。ムスリム同胞団の政治団体であるイスラーム立憲運動(ICM)が4議席を獲得した。議員全体では20名が再選を果たした。シーア派議員は6名が当選。女性の当選は1名であった。有力部族の代表が議席を減らす一方、30歳で歴代最年少議員となるナセール・ドゥサリーNasir al-Dawsariをはじめ若い世代からの選出が増えた。選挙後、野党側は議長候補の調整に苦慮し、マルズーク・ガーニムが48票を獲得して2013年議会に引き続き議長に選出された。
クウェート/政党
概要
憲法では結社の自由が認められているものの、政党法は制定されておらず、法的規定はないが、ほぼ政党としての組織と活動実態をもつ政治団体が存在している。このような政治団体は社会事項省が所管する市民団体と同列の位置づけにあり、政治活動については、集会法や出版法に基づいて規制・監督されている。議員立法による政党法の提案は市民団体の後押しもあり繰り返されているが、政府の反対もあり未だ上程されていない。政府および首長家側には、政党法の制定によって党派主義による社会の分断が進むことへの懸念や、首長の権能を制限する議院内閣制への移行につながりかねないとの警戒がみられる。政治団体の側も、政党(アラビア語でhizb)とは名乗らない背景に、バアス党のような一党独裁と結びついたイメージへの忌避感や党派主義による国内社会の分断への懸念への配慮がある。実際に、議会内で政治団体に所属している議員は少数派であり、半数以上は無所属議員である。議員はそれぞれ自らに意思決定の裁量があることに重きを置いており、有権者も選挙では議員個人の資質を重視する傾向がある。しかし、議員たちが政府に対して連携する必要性を認め、議会内で一定の勢力を示すために、政治的志向性や政策目標に応じて会派を結成する場合もある。
現在活動する政治団体の多くは、1991年に国民議会の復活が決定されたことを受けて結成された。さらに、これらの団体の源流は、1989年に本格化した「立憲運動(Harakat al-Dusturiyah)」の経験にある。立憲運動は1985年議会の議長であったアフマド・サアドゥーンAhmad Abd al-Aziz al-Sadunを中心に元議員たちが憲法と議会の復活を要求し、国民的な民主化要求運動へと展開した。1991年以降、クウェートにおける政治文脈におけるイデオロギーや政治的目標、社会的亀裂に応じた政治団体が結成され、1999年議会から2009年議会では無所属議員も加わった会派(ブロック)という形で議員の組織化が進んでいた。2012年以降は野党の選挙ボイコットや投票方式の変更の影響もあり、議会内での議員の組織化は振り出しに戻っている。
世俗的・リベラル志向
クウェート民主フォーラムKuwait Democratic Forum(KDF)al-Minbar al-Dimuqrati
1991年に、議会参加を目指して結成された。アラブ・ナショナリズム・社会主義の影響が強い。前身は1962年議会に参加したアラブ・ナショナリズム運動(Arab Nationalist Movement/ Ḥarakat al-Qawmīyīn al-‘Arabī)および1971年に改組した民主進歩的クウェート人運動(Movement of Kuwaiti Democratic Progressives/ Ḥarakat al-Taqaddumiyīn al-Dimqurāṭiyīn al-Kuwaytiyīn) である。もともと、都市部住民や知識人層を支持基盤としていたが、バアス党に近いメンバーも加わっていたため、2002年に穏健派が離脱して、後述する国民民主同盟を結成した。
国民民主同盟National Democratic Alliance(NDA)al-Tahalf al-Watani al-Dimuqrati
KDFの左翼主義的傾向を嫌った、西欧型リベラル・デモクラシーを志向する都市部住民が2002年に結成した。伝統的な有力商人層が結成した護憲連合(下記参照)の流れをくんでおり、経済の自由化・市場化志向がみられる。
護憲連合Constitutional Alliance(CA)al-Tajammu al-Dusturi
クウェートの伝統的な有力商人層が中心となって1991年に結成した団体であり、議会発足以来の野党の伝統を受け継いでいる。前身は1980年代の国民会派(al-Kutlat al-Watani)であるが、商工会議所のメンバーが多いため、商人政党(ḥizb al-tijār)、ブルジョワ政党(ḥizb al-burjuwazīyah)とも称されていた。女性参政権の完全な実現や政党の公認化と議院内閣制(民選議員の首相任命)の実現を掲げていた。1996年選挙前に、所属のジャーセム・ハマド・サグルJasim Hamad al-Saqr議員が引退して以降は議席を持たず、組織や支持基盤は2002年に上述のNDAへ継承された。
国民行動会派National Action Bloc(NAB)Kutlat al-Amal al-Watani
1999年議会における議員連合「7+1」、および2003年議会における「リベラル会派」を経て、2006年議会において8名の議員が党議拘束を含む合意文書に署名して発足した会派。2008年選挙で当選したNDA所属議員が中心となり、2009年議会まで存続した。
民族主義的・ポピュリズム志向
代議員会派Bloc of Deputies(BD)al-Takattul al-Nuwwab
1989年の憲政運動に加わっていた1985年議会の元議員で、1992年選挙で再選を果たした議員が、アフマド・サアドゥーンを中心に1992年議会において結成した会派。政党内閣の実現を目指していた。1990-91年のイラクによる占領中のクウェート・ナショナリズムの高揚と、イラク侵攻時、真っ先に首長家一族と有力商人が脱出を図ったことへの批判から、主に都市部住民の新興中間層および下層や一部の部族住民の支持を獲得した。経済政策をめぐって政府や有力商人層と対立しており、分配政策や外資規制、資源ナショナリズムを主張した。
人民行動会派 Popular Action Bloc(PAB)Kutlat al-Amal al-Shabi
1999年議会において、アフマド・サアドゥーンを代表に結成された会派で、労働者・都市中間層に対する分配と政治的権利の拡大を求め、首長家による石油の富の独占や外資による資源開発に強く反発する。政府とは対立関係にあり、野党連合の中心となる存在である。上述の代議員会派の流れを汲み、シーア派を含む都市部住民の新興中間層および下層や部族住民など広範な支持基盤をもつ。2006年議会以降は最多得票により当選を重ねたムサッラム・バッラークMusarram al-Barrakが中心的な存在となった。2012年12月選挙と2013年7月選挙はボイコットした。2014年にムサッラム・バッラークが首長批判により逮捕・収監されるなど、政府による弾圧を受けた。同じ2014年には政治団体として立憲人民運動Constitutional Popular Movement/ Harakat al-Shabiyah al-Dusturiyahを結成し、2021年現在も活動中である。
イスラーム主義
イスラーム立憲運動Islamic Constitutional Movement(ICM)Harakat al-Dusturiyah al-Islamiyah
クウェートのムスリム同胞団である社会改革協会Social Reform Society/ Jamiyat al-Islah al-Ijtimaiの政治活動部門として1991年に結成。ムスリム同胞団出身の議員は1963年の第1期議会から存在していた。公務員、特に学校や医療福祉関係と、石油関連事業の労働組合が主要な支持基盤となっており、都市系住民を中心としつつ、全国区で支持を獲得している。湾岸戦争を機に本家であるエジプトのムスリム同砲団とは独立した立場を採っている。段階的な社会改革により、最終的にはイスラームのシャリーアに基づく統治を掲げているが、実際の議会活動は現実主義で、他の政治団体および会派との協力に積極的であり、シーア派との関係もおおむね良好であった。政府を批判する野党の立場にありながら、メンバーが大臣として政府に加わったこともあり、後述のサラフィー主義やPABからは野党としての一貫性のなさを批判されたこともあった。2012年12月と2013年7月の選挙はボイコットしたが、2016年選挙以降は復帰し、議席を獲得している。
サラフィー・イスラーム連合Salafi Islamic Alliance(SIA)al-Tajammu al-Islami al-Salafi
上述の社会改革協会に対抗する形で結成されたサラフ主義団体であるイスラーム遺産復興協会Islamic Heritage Revival Society/ Jamiyat Ihya al-Turath al-Islamiの政治活動部門として、1991年に結成された人民イスラーム連合Popular Islamic Alliance/ al-Tajammu al-Islami al-Shabiが1994年に改称した。サラフ主義を掲げ、伝統墨守・復古主義的立場から伝統的サラフィーとも称されている。上述のICMに対抗する形で議会選挙に参加し、議席を獲得していたが、2012年12月と2013年7月選挙への参加をめぐって所属議員の対応が分かれた。もともとサラフ主義は組織化や政治参加に積極的ではないこともあり、政党については反対の立場を採っている。
発展と改革会派Development and Reform Bloc (DRB)Kutlat al-Tammiyah wa al-Islah
イスラーム主義の議員による連携を組織化すべく、2008年から結成について検討が進められ、2010年に当時唯一のICM所属議員であったジャムアーン・ハルブシュJaman al-Harbush、サラフ主義の有力な無所属議員であるフィサル・ミスリムFaisal al-Mislim、ワリード・タブタバーイーWalid al-Tabtabaiらが結成した会派で、PABとともに野党の中心的な勢力となった。2012年議会選挙では9議席(ICM所属6名を含む)を獲得した。2012年12月と2013年7月の選挙をボイコットした。2013年以降の政府の弾圧により上記3名をはじめ多くの元議員がトルコに亡命している。ワリード・タブタバーイーは2019年11月、母親の葬儀のために帰国し、政治活動を行わないことを条件に恩赦を受けた。
国民イスラーム連合National Islamic Alliance(NIA) al-Tahalf al-Islami al-Watani
シーア派のイスラーム主義団体である社会文化協会Social Culture Society/ al-Jamaiya al-Thaqafiyah al-Ijtimaiyahの 政治活動部門として、1991年に結成された。1980年代はイラン・イスラーム革命の影響を受けて、シーア派イスラーム主義勢力は首長制の打倒を訴えていた時代もあったが、湾岸戦争後は穏健化した。女性参政権には賛成の立場を採り、スンナ派イスラーム主義勢力が主張する、シャリーアに基づく統治には反対の立場である。ICMとは連携することもあったが、サラフ主義者からはクウェート・ヒズブッラーと称され、忌避されていた。2008年議会までは所属議員がPABに合流していた。