「アルメニア」カテゴリーの記事一覧
アルメニア/現在の政治体制・政治制度
アルメニアは、中東では珍しいキリスト教(東方教会系)国で、しかもソ連時代に世俗主義の政治が定着したことが、独立後の政治体制にも大きく影響している。独立後のアルメニア共和国においては信仰や結社の自由が認められ、宗教などの伝統的価値観を尊重する政党はあるものの、世俗主義的な政治体制が受け入れられている。
アルメニア共和国の政体は、ソ連邦末期の制度改革以来、久しく直接選挙によって選出される大統領を国家元首とする共和制をとってきた。一方で、内閣制度も併存し、大統領が直接選挙によって選ばれる国民議会内の多数派の中から首相を任命することが慣例となっていた。ただし、議会多数派が大統領を党首とした政党である時期が大半で、そうでないコチャリアン政権も、最大政党アルメニア共和党が大統領を支持して政権与党化したため、フランスのような保革共存政権になることはなかった。
現行憲法は1995年6月の国民投票を経て制定され、2005年11月に一部条項を改定したもの(本稿に直接かかわる規定の変更に関しては民主化の経緯の項を参照のこと。)が土台になっているが、2015年12月の国民投票を経て、準大統領制から議院内閣制に移行する大幅な政治制度の変更がなされた。実際、これに従い2018年3月に大統領の任期が切れたセルジュ・サルキスィアンが、翌月首相に就任したところ、選挙を経ないで実質的な政権の延命を図ろうとする政治手法を批判した野党の抗議運動で政権が崩壊した。(詳細は、民主化の経緯(最近の政治変化)の項目を参照のこと。)
なお、現行憲法が制定されるまでは、1991年末日にアルメニアが独立した後も1978年のアルメニア・ソヴィエト社会主義共和国憲法(実質的には、前年に制定されたソ連憲法~ブレジネフ憲法~のアルメニア版)が、独立後制定された法律で補正しながら、流用されていた。以下、三権のシステムについて解説する。
1.大統領と内閣
2015年の憲法改正までは、行政府の長は大統領で、任期は5年であった。大統領は国民議会の法案の拒否ならびに議会そのものの解散、首相や検事総長の任免が可能で、しかも国軍の最高司令官であるなど絶大な権限を有した(2015年改定前の憲法第55条)。さらに、議会の同意を得ないで政令(大統領令)を発布することも出来た(同第56条)。大統領は、首相の提案に基づいて閣僚を任免するほか、外交政策を統括し、国際条約を締結する権限を有する(同第55条)ため、現実政治においては、内政一般を内閣が、外交並びに安全保障を大統領が分担していた。
なお、三権分立を明確化するため、国民議会の議員が閣僚に任命された際には、その任期中議員の資格は停止していた。また、大統領が職務遂行不能の状態に陥った際には、新たに大統領が選出されるまで、国民議会の議長、それが不可能な場合には首相が職務を代行することになっていた(同第60条)。実際、1998年2月にカラバフ紛争の和平プロセスをめぐって当時の大統領テル・ペトロスィアンと閣僚が対立して大統領が辞任に追い込まれた際には、当時首相だったコチャリアンが大統領代行となっている。
これに対し、新制度では、大統領は議会で選出される儀礼的な元首で、任期7年となった。また、政党に属さない、不偏不党の立場が求められている。(2015年改正後の第125条。)しかし、現実には、内閣が行政命令を執行する際に大統領が署名を拒否して首相の決定を覆すなど、決して儀礼的存在とは言えない。(同第129条では、国会で成立した法律と最高裁判所の決定には、大統領が21日以内に署名しないといけない規定になっているが、首相の政令に関しては、特に規定がない。)特に、アルメン・サルキスィアン現大統領は、2018年春、当時の共和党政権下で選出された人物であるため、2020年の第二次ナゴルノ・カラバフ紛争でアルメニアが敗北して政局が流動化して以来、パシニアン首相の政治姿勢を公然と批判するようになっている。基本的には、首相が政治の主導権を握っているとはいえ、大統領と首相の間では「保革共存」状態である。
2.議会
現行憲法下において、立法府である国民議会は131名定員の一院制で、任期は5年である(2015年の改正後の第90条。なお、2012年の改正前までは任期4年)。国民議会は、議長の提案に基づき、中央銀行の総裁ならびに副総裁を任命するほか、憲法裁判所の判事ならびにその長官を任免することが出来る。(第83条)また、多数決によって政府に対し不信任を表明した場合には、首相は辞任しなければならない(第74条)が、現状では議会多数派から首相が任命されているため、こうした状況は起こりにくい。
3.司法機関
司法は、独立後に大きな制度改変が見られ、第一審裁判所、控訴裁判所、破毀裁判所の三審制となり、憲法裁判所に上訴された事案を除けば破毀裁判所が最高裁の役割を担っている。(第163条)一般の裁判所の他に、経済裁判所などの法律で定める係争を専門的に扱う裁判所も存在する。
また、現行憲法では司法機関の独立が謳われている点も、大きな特徴である。もっとも、1995年の制定時の規定では、判事の人事は司法評議会によって決定されるが、この評議会は判事会から選ばれた9人の委員、国民議会の任命した法学者による2人の委員とならんで大統領の任命した法学者による2人の委員から構成されるうえ、憲法裁判所以外の判事の人事は大統領の同意事項でもあったため(2015年改正前の第94条)、行政が司法に介入する余地は残されていた。
2015年度の憲法改正で大統領制から議院内閣制に移行することが決定されたことに合わせ、裁判官の選任にも議会の関与するようになった。憲法裁判所の9名の判事のうち、3名が大統領推薦、3名が内閣推薦、3名が司法評議会による推薦で、これが国民議会で信任されて、任官されることになった。(任期は12年と定められた。)一方、破棄院の判事は、司法評議会の推薦の上で、大統領が指名し、任期は6年である(第166条)。このように、大統領も判事の任免をめぐって、一定程度影響力を残している。
参照:アルメニア共和国憲法(1995年版と2005年版)
アルメニア/最近の政治変化
1.ソヴィエト体制から独立へ
アルメニア社会には古くからコミュニティの自治を行うための民会が存在したが、本格的な代議員制が見られたのは20世紀に入ってからであり、しかもアルメニア人代議士が進出したオスマン帝国議会やロシア帝国国会、アルメニアの独立期(1918~1920年)の議会など、いずれも短命なものだった。
また、ソ連時代にはソヴィエト(成立当初は、労働者、兵士、農民からなる評議会)という疑似議会が存在し、1936年憲法(スターリン憲法)制定後は、18歳以上の男女すべてに普通選挙権が与えられていた。しかし、代議員の候補者は、共産党ないし各社会団体の推薦を得た候補が各選挙区に一名のみ配置されたため、選挙は単なる信任投票と化し、ソヴィエトの形骸化が進んだ。
アルメニアの現体制の確立は、ソ連末期の全連邦的な制度改革に端を発している。まず、ゴルバチョフ書記長によるペレストロイカの一環として、このソヴィエトの活性化が図られた。1988年の憲法修正で複数候補制が導入され、90年2月には複数政党制が容認された結果、ソヴィエトの内実は欧米の議会に近づくことになった。ついで、1990年3月の第3回臨時人民代議員大会で、ソ連邦に複数政党制と大統領制が導入されることが決定し、ゴルバチョフ共産党書記長が大統領に就任した。引き続いて、同じ年の4月には連邦から民族共和国の離脱手続きに関する法律と、連邦・共和国の権限区分法が採択された。これによって、政治的多元性、連邦構成共和国の主体的な政治改革が促進されることとなった。アルメニア・ソヴィエト社会主義共和国(以下、ソヴィエト・アルメニアと略記)では、90年5月に共和国最高会議の自由選挙がおこなわれ、非共産系政党のアルメニア全国民運動が勝利し、8月4日には全国民運動の代表レヴォン・テル=ペトロスィアンが最高ソヴィエト議長に選ばれた。91年2月26日には政治団体法が採択され、司法および治安関係者が在職中に社会政治団体に加入する、あるいは政党が国外の団体から指導を受けたり、それに加盟したり財政的・物質的援助を受けたりすることが禁止されたことで、共産党の活動が事実上禁止された。
以後、連邦の経済改革の混乱とともにバルト諸国やグルジアなど連邦構成共和国の自立化が目立つようになり、91年8月には連邦と共和国との間の新たな関係を規定した新連邦条約が締結されるはずだったが、8月19日の共産主義守旧派のクーデタで頓挫した。しかし、クーデタの失敗後、各共和国で一斉に独立宣言が出されるなど、急速に連邦の分解が進み、ソヴィエト・アルメニアでも9月21日に独立を問う国民投票が行われ、独立派が勝利した。さらに、アルメニアにもソ連政府を模した大統領制が導入され、10月17日にはテル=ペトロスィアン最高会議議長が大統領に選出された。そして、91年末の連邦崩壊に伴い、アルメニアは短い独立期(1918~1920年)以来、久方ぶりに独立国となる。
2.独立後の権威主義的傾向
独立後のアルメニア共和国では、政治活動の自由化は制度的に確立したが、1988年に発生したナゴルノ・カラバフをめぐるアゼルバイジャンとの紛争が激化したことで挙国一致体制の色彩を帯び、制度は有名無実化した。その典型が、テル=ペトロスィアン大統領とダシュナク党(アルメニア革命連盟)との対立である。ダシュナク党はアルメニアの短い独立期の政権党で、ソ連期には世界各地の在外アルメニア人コミュニティを活動拠点にし、1991年の大統領選では、テル=ペトロスィアンに対抗して、独自候補を立てた。カラバフ紛争では積極的な役割を果たして国民の支持を伸ばした。ところが、92年5月以後は戦線が膠着状態に陥り、大統領がカラバフ戦局の不拡大方針を打ち出すと、ダシュナク党がこれを批判したため、大統領は92年夏にダシュナク党の議長フライル・マルヒアンに国外退去を命じた。さらに、1994年12月には元エレヴァン市長の暗殺事件で政情不安が高まったことを口実に、ダシュナク党そのものの活動も禁じた。これによって95年5月の議会選挙ではダシュナク党を排除することに成功したものの、こうした大統領の政治手法が非民主的との批判を国内外から浴びるにいたった。
1998年2月にテル=ペトロスィアンが、94年のカラバフ紛争停戦後の和平交渉の方策がもとで大統領辞任に追い込まれると、当時首相だったカラバフ出身のロベルト・コチャリアンが、大統領代行を務めることとなった。コチャリアンはダシュナク党を再び合法化し、ダシュナク党の選挙参加を約束した。これは彼がカラバフの大統領時代に接近したといわれるダシュナク党を与党化する意図で行われた可能性が高い。
独立後の歴代政権下では、ソヴィエト期のような一党独裁制こそ復活しなかったものの、テル=ペトロスィアン政権ではアルメニア全国民運動、コチャリアン政権では共和党とダシュナク党というように、議会には大統領を翼賛する巨大与党(ないし与党連合)が出現し、政権が安定化するという傾向がみられる。また、有力な政敵が排除される事案も発生している。2003年3月の大統領選に対抗馬として期待されていたアメリカ人ラッフィ・ホヴァニスィアン元外相は、かねてから申請していたアルメニアへの帰化が再三裁判所で拒否され立候補できなかった。カラバフ出身のコチャリアンが、容易にアルメニア国籍が取得できたのとは対照的である。また、99年10月27日の議会内銃乱射事件で何名かの有力政治家が暗殺される事件が起こったが、これには政府の関与が疑われている。
ところで、2005年11月にアルメニア共和国憲法の一部条項をめぐって国民投票が行われ、憲法改正が施された。これは2001年に欧州議会からの要求で、人権規約や制度的民主化を促進させる必要にアルメニア政府が迫られていたことが背景にある。主な点は、思想信条に基づく差別の禁止(第14条第1項)、公正な裁判を受ける権利(第19条)、報道の自由の保障(第27条)が追加されたこと、大統領が司法人事に与える影響力が減じられたことが挙げられる。その一方で、大統領は在職期間中、職務上の行為に関して訴追を免れる(第56条)ことが認められ、行政の裁量権が拡大した。
こうした国民の権利拡大が図られながらも、コチャリアン政権期には野党のデモを武力で鎮圧する事件が二度起こっている。憲法改正が議論されていた2005年春にアルメニア国民民主連合の議長ヴァズゲン・マヌキアン、アルメニア人民党のステパン・デミルチアンらが会派「正義」(Ardatut‘yun)を結成した。2003年にグルジア、2004年にウクライナ、そして2005年クルグスで発生した一連の「色革命」の影響を受け、政権交代に向けて座り込みストを行うと3月24日に決定した。しかし、与党だけでなく統一労働党も野党連合に非協力的であったため、4月9日に野党連合は支持者約8000名とともにデモや議会での座り込みを行うものの、それ以上には拡大しなかった。12日になると野党会派の議員が警察に身柄を拘束され、13日の未明にはデモ関係者が強制的に解散させられた。
第二の武力鎮圧事件は政権の最末期に起こった。大統領職を2期務めたコチャリアンは、憲法で大統領の三選禁止が規定されているため、2008年2月の大統領選では同じカラバフ出身のセルジュ・サルキスィアンを後継者に指名した。そして、ロシア大統領選に見られたプーチン、メドヴェージェフの二枚看板を模倣した広報活動を行い、勝利した。(ただし、ロシアの場合と違い、コチャリアンは、サルキスィアンが大統領に就任すると政治の表舞台からは身を引いた。)ところが、この選挙に不正があったとして、対立候補のテル=ペトロスィアン元大統領の支持者が抗議を続けていたが、3月1日には約8000人のデモ隊と警察が衝突し、多数の死傷者が出た。そのため、コチャリアン大統領はその日の夜に非常事態を宣言してデモ隊を強制的に排除したばかりでなく、この事件に関する報道も著しく制限した。
概して、アルメニア共和国では、多党制も制度的に認められ、政権交代も起こっているものの、大統領の権威主義体制が正当化されやすい環境にあるといえよう。こうした体制が容易に生み出される背景として、隣国アゼルバイジャンとのナゴルノ・カラバフ地域をめぐる対立、さらに隣国トルコとの不正常な関係といった対外的な緊張があり、強い権力を行使する大統領を国民が容認しているためと考えられる。
3.2018年の政変と民主化の課題
2018年3月に2期8年間の大統領任期を終えたセルジュ・サルキスィアンは、2015年の憲法改正で国政を議院内閣制に移行することが予定されていたので、それに則った首相に横滑りしようと画策したところ、野党の党首ニコル・パシニアン率いる反政府デモ隊の抗議活動に押されて、4月23日に首相を辞任し、翌月パシニアンが首相に指名された。首相は、エレヴァン市長のタロン・マルカリアンの所得隠しや市長の運営する財団への利益誘導疑惑を利用して辞任に追い込んだ。そうした旧政権の腐敗を追求するネガティヴ・キャンペーンを張ったうえで、2018年12月に実施された議会の出直し選挙では、与党共和党の議席が消滅し、パシニアンを中心に結集した選挙連合「我が一歩」ブロックが大勝した。
ところが、昨年9月27日から始まった第二次ナゴルノ・カラバフ紛争では、ドローンなどの最新兵器を投入したアゼルバイジャン軍が優勢で、アルメニア政府が11月10日に停戦した際にまだアルメニア側が押さえていた保障占領地域を引き渡しただけでなく、「カラバフ共和国」の領土も縮小したため、パシニアンの辞任を求めるデモが連日起こった。結局、2021年6月に繰り上げ議会選挙が行われたが、ダシュナク党がコチャリアン元大統領、復活を目指した共和党がサルキスィアン元大統領を担ぎ出して、パシニアン首相の失策を厳しく追及した。結果的には、パシニアン率いる「我が一歩」ブロックが過半数をわずかに上回って勝利したものの、投票率が49.37パーセントと国政選挙にしては低く、国民の4分の1しか首相の続投を信任していない実態が露わになった格好である。
参照
- L.Chorbajian, ed. The Making of Nagorno-Karabagh, Chippenham, 2001
- M.P.Croissant, The Armenia-Azerbaijan Conflict, West Port, 1998
- G.E.Curtis ed., Armenia, Azerbaijan, and Georgia: country studies, Washington D.C., 1995
- D.Golovanov, Armenia: constitution amended, http://merlin.obs.coe.int/iris/2006/2/article8.en.html
- E.Herzig, The New Caucasus, New York, 1999
- J.R.Masih&R.O.Krikorian, Armenia at the Crossroads, Amsterdam, 1999
- C.Mouradian, L’Arménie, Paris, 1996
- R.G.Suny, Looking toward Ararat, Bloomington & Indianapolis, 1993
- Российский институт стратегических исследований, Армения, Москва, 1998
- 上野俊彦「ロシアの選挙民主主義――ペレストロイカ期における競争選挙の導入――」、皆川修吾編『移行期のロシア政治』、渓水社、1999
- 塩川伸明『多民族国家ソ連の興亡Ⅱ 国家の構築と解体』、岩波書店、2007
- 吉村貴之『アルメニア近現代史』(ユーラシアブックレット)、東洋書店、2009
- 吉村貴之「アルメニアの現代政治」(特集「ソ連解体から30年を経た現在」)、『ユーラシア研究』No.64、2021、23-25頁
アルメニア/選挙
1.選挙制度
中央選管の統轄の下、アルメニア共和国の11の行政区、さらには有権者数に応じて等分された各選挙区それぞれに支部が配置される三層構造である。選挙権は18歳以上のすべてのアルメニア共和国国民が有しているが、兵役中ないし軍務に服している場合には、議会選挙の選挙区ならびに自治体選挙では投票できない一方で、国外在住市民の在外投票は認められている。
共和国議会選挙には、憲法裁判所のメンバー、裁判官、警察治安関係者、税務・税関職員、刑務官ならびに軍関係者を除く、25歳以上のアルメニア共和国国民が立候補することが可能である。(ただし、二重国籍者は不可。)1999年選挙より議会の定員が131名となり、2007年選挙では41名が選挙区制、90名が政党名簿式比例代表制で選出された。なお、比例代表制での議席獲得には「5パーセント条項」が課せられているが、近年、少数政党が選挙連合を組むことが多く、その場合は「7パーセント条項」が適用される。
また、2015年の憲法改正までは、アルメニア共和国は直接選挙による大統領制を採用していたが、その大統領選挙には、アルメニア共和国に10年以上居住する35歳以上のアルメニア共和国国民が立候補できた。(共和国議会同様、二重国籍者は不可。大統領の三選条項あり。)
共和国議会選および大統領選には、共和国選挙管理委員会だけでなく、OSCE(欧州安全保障協力機構)の選挙監視団も入り、おおむね公正な選挙だと認定されている。しかし、95年の議会選挙のようにダシュナク党の候補者受付を妨害したうえで選挙を行ったため、その正統性が当のOSCEからも疑問視されたうえ、大統領選では毎回のように投票用紙の不正操作が取り沙汰され、敗北した候補者の陣営が不正選挙を主張してデモを組織するなど、アルメニアに自由選挙が定着するには課題が多い。
2.共和国議会選挙
アルメニアの独立後、共和国最高ソヴィエトは共和国議会にそのまま移行していたが、議事の定足数が全議員の半数の124であるのに対し、法案を可決するための有効な票数が単純過半数の125と規定されていたばかりでなく、定員260名のうち160名以上の議員がしばしば欠席したため、議事運営が滞った。1995年4月にアルメニア共和国の選挙法が採択されたのに伴い、その年の7月に議会選挙が行われた。
・1995年7月5日実施の選挙結果
投票総数:1,217,531 (投票率55.6%)
政党または会派 | 比例得票率(%) | 獲得議席 | うち選挙区分 |
---|---|---|---|
共和ブロック(アルメニア全国民運動系) | 42.66 | 119 | 99 |
シャミラム女性党 | 16.88 | 8 | 0 |
共産党 | 12.10 | 6 | 1 |
国民民主連合 | 7.51 | 3 | 2 |
国民自決連合 | 5.57 | 3 | 0 |
アルメニア民主自由党(ラムカヴァル党) | 2.52 | 0 | 1 |
科学産業市民連合 | 1.29 | 0 | 1 |
ダシュナク党 | – | 0 | 1 |
独立諸派 | – | 45 | 45 |
合計 | ‐ | 190 | 150 |
・1999年5月30日実施の選挙結果
投票総数:1,137,133 (52 %)
政党または会派 | 比例得票率(%) | 獲得議席 | うち選挙区分 | 改選による増減 |
---|---|---|---|---|
「統一」ブロック(アルメニア共和党、アルメニア人民党) | 41.45 | 62 | 33 | +61 |
共産党 | 12.04 | 10 | 2 | 0 |
「権利と統一」ブロック | 7.93 | 7 | 1 | 初当選 |
ダシュナク党 | 7.79 | 8 | 3 | +7 |
法治国家 | 5.25 | 6 | 2 | 初当選 |
国民民主連合 | 5.14 | 6 | 2 | -3 |
独立諸派 | 20.40 | 32 | 32 | -61 |
合計 | – | 131 | 75 | -59 |
・2003年5月25日実施の選挙結果
投票総数:1,234,925(51.5 %)
政党または会派 | 比例得票率(%) | 獲得議席 | うち選挙区分 | 改選による増減 |
---|---|---|---|---|
アルメニア共和党 | 23.37 | 33 | 10 | +2 |
正義 | 13.60 | 14 | 0 | 初当選 |
法治国家 | 12.33 | 19 | 7 | +17 |
ダシュナク党 | 11.36 | 11 | 0 | +3 |
国民の統一 | 8.79 | 9 | 0 | 初当選 |
統一労働党 | 5.63 | 6 | 0 | 初当選 |
全アルメニア労働党 | – | 1 | 1 | 初当選 |
アルメニア共産党 | 2.08 | 0 | 0 | -10 |
共和国党 | – | 1 | 1 | 初当選 |
独立諸派 | – | 37 | 37 | +5 |
(6月14、15日再選挙分) | (3) | |||
合計 | – | 131 | 56 | 0 |
・2007年5月12日実施の選挙結果
投票総数:1,375,733 (59.35%)
政党または会派 | 比例得票率(%) | 獲得議席 | うち選挙区分 | 改選による増減 |
---|---|---|---|---|
アルメニア共和党 | 33.91 | 64 | 18 | +33 |
「繁栄のアルメニア」党 | 15.13 | 18 | 7 | +18 |
ダシュナク党 | 13.16 | 16 | 0 | +5 |
法治国家 | 7.05 | 9 | 2 | –10 |
遺産 | 6.00 | 7 | 0 | +7 |
統一労働党 | 4.39 | 0 | 0 | –6 |
国民の統一 | 3.58 | 0 | 0 | –9 |
共和国党 | 1.65 | – | 0 | -1 |
独立諸派 | – | 13 | 13 | –24 |
合計 | – | 131 | 41 | 0 |
・2012年5月6日実施の選挙結果
投票総数1,559,939 (61.83%)
政党または会派 | 比例得票率(%) | 獲得議席 | うち選挙区分 | 改選による増減 |
---|---|---|---|---|
アルメニア共和党 | 44.12 | 62 | 22 | +3 |
「繁栄のアルメニア」党 | 30.19 | 35 | 7 | +10 |
アルメニア国民会議 | 7.10 | 7 | 0 | +7 |
遺産 | 5.78 | 5 | 0 | -2 |
ダシュナク党 | 5.68 | 5 | 0 | -11 |
法治国家 | 5.52 | 6 | 1 | -4 |
共和国党 | 4.23 | 2 | 2 | +2 |
アルメニア全国民運動 | 3.77 | 1 | 1 | +1 |
独立諸派 | – | 8 | 8 | -5 |
合計 | – | 131 | 41 | 0 |
・2017 年4月2日実施の選挙結果
投票総数:1,575,382 (60.86%)
政党または会派 | 得票率(%) | 獲得議席 | 改選による増減 |
---|---|---|---|
アルメニア共和党 | 49.17 | 58 | -11 |
ツァルキアン連合(「繁栄のアルメニア」党、連合党、伝道党) | 27.35 | 31 | -2 |
出口連合(「輝けるアルメニア」、共和国党、市民協約) | 7.78 | 9 | 初当選 |
ダシュナク党 | 6.58 | 7 | +2 |
アルメニアのルネサンス(法治国家、「団結されたるアルメニア人」党) | 3.72 | 0 | -6 |
ORO連合(遺産、統一党)* | 2.07 | 0 | -5 |
アルメニア国民会議・アルメニア人民党連合 | 1.66 | 0 | -7 |
合計 | – | 105 | -26 |
*選挙連合名の由来は、2016年のナゴルノ・カラバフでのアルメニア軍とアゼルバイジャン軍との軍事衝突の責任を取らされ、国防大臣を更迭されたセイラン・オハニアンを、「遺産」の党首ラフィ・ホヴァニスィアン元外相と統一党の党首ヴァルタン・オスカニアン元外相が引き込んだことから、この3名の名前または苗字の頭文字を取って付けたことにある。
・2018 年12月9日実施の出直し選挙結果
投票総数:1,260,847 (48.62%)
政党または会派 | 得票率(%) | 獲得議席 | 改選による増減 |
---|---|---|---|
「我が一歩」連合(市民協約、伝導党、諸派) | 70.44 | 88 | +83 |
繁栄のアルメニア | 8.26 | 26 | -5 |
輝けるアルメニア | 6.37 | 18 | +15 |
アルメニア共和党 | 4.70 | 0 | -58 |
ダシュナク党 | 3.89 | 0 | -7 |
「我ら」連合(共和国党、自由民主主義者) | 2.00 | 0 | -1 |
合計 | – | 132 | +27 |
・2021 年6月20日実施の出直し選挙結果
投票総数:1,276,693 (49.37%)
政党または会派 | 得票率(%) | 獲得議席 | 改選による増減 |
---|---|---|---|
市民協約 | 53.95 | 71 | -17 |
アルメニア連合(ダシュナク党、「再生アルメニア」)* | 21.11 | 29 | 初当選(ダシュナク党は議会復帰) |
「我に誉れあり」連合(アルメニア共和党、祖国党) | 5.22 | 7 | 初当選(共和党は議会復帰) |
繁栄のアルメニア | 3.95 | 0 | -26 |
輝けるアルメニア | 1.22 | 0 | -18 |
合計 | – | 107 | -25 |
*代表は、ロベルト・コチャリアン元大統領
3.大統領選挙
ソ連末期の1991年に大統領に選出されたテル=ペトロスィアン大統領は、アルメニアの独立後もその職に留まり、96年には大統領に再選されたが、二期目の途中98年に辞任した。ついで、その年の出直し選挙で当選したコチャリアンは、2003年の選挙で再選され、二期目を全うした。この独立後3回の選挙に共通するのは、有力な対抗馬が出現して、96年選挙はテル=ペトロスィアンが過半数をわずか2ポイント弱上回って辛勝、98年、03年選挙はともにコチャリアンが第一回投票で過半数に達せず、決選投票に持ち込まれたことである。候補者登録の手続きや投票制度に問題があることが指摘されているとはいえ、政権に対する批判がある程度選挙で反映されることが分かる。なお、08年選挙では、03年選挙に続いて最有力対抗馬であるアルメニア系アメリカ人ホヴァニスィアンの帰化が拒否されて立候補できず、再出馬したテル=ペトロスィアン前大統領に対する国民の不信感が十分払拭されていなかったこともあり、サルキスィアンがテル=ペトロスィアンにダブルスコアで勝利した。もっとも、サルキスィアンも、アルメニア共和国の首相まで務め、コチャリアンの後継者として大々的に宣伝された割には、過半数を3ポイント弱上回っただけである。コチャリアンに引き続き、ナゴルノ・カラバフという、形式的にはアゼルバイジャンから独立した「外国」出身者だと野党側が批判していたことも、有権者の投票行動にある程度影響したと考えられる。コチャリアン路線を引き継いだサルキスィアンは、議会の最大会派アルメニア共和党の党首も務めたことで政権が安定し、以後10年に亘って政権を担当することになる。
なお、2015年の憲法改正で議院内閣制に移行し、大統領は国民議会が選出することが決定した。これにより、2018年3月2日の国民議会内の選挙で、アルメニア共和党が推挙したアルメン・サルキスィアン元駐英大使が大統領に当選した。
・1991年10月17日実施の選挙結果
投票総数:1,260,433 (70%)
候補者と所属政党 | 得票数 | 得票率(%) |
---|---|---|
レヴォン・テルペトロスィアン(アルメニア全国民運動) | 1,046,159 | 83.0 |
パルイル・ハイリキアン(国民自決同盟) | 90,751 | 7.2 |
ソス・サルキスィアン(ダシュナク党) | 54,198 | 4.3 |
アショト・ナヴァサルディアン(アルメニア共和党) | ||
ラファエル・ガザリアン(無所属) | ||
ゾリ・バラヤン(無所属) |
・1996年9月22日実施の選挙結果
投票総数:1,308,548 (60.3%)
候補者と所属政党 | 得票数 | 得票率(%) |
---|---|---|
レヴォン・テル=ペトロスィアン(アルメニア全国民運動) | 646,888 | 51.75 |
ヴァズゲン・マヌキアン(国民民主連合) | 516.129 | 41.29 |
セルゲイ・バダリアン(共産党) | 79.347 | 6.34 |
アショト・マヌチャリアン(無所属) | 7.529 | 0.6 |
・1998年3月19日、30日実施の選挙結果
投票総数:1,456,109 (63.48%)(第1回投票)、1,567,702 (68.14%)(第2回投票)
候補者と所属政党 | 第一回投票での得票数 | 得票率(%) | 第二回投票での得票数 | 得票率(%) |
---|---|---|---|---|
ロベルト・コチャリアン(無所属) | 545,938 | 38.50 | 908,613 | 58.91 |
カレン・デミルチアン(元共産党) | 431,967 | 30.46 | 618,764 | 40.12 |
ヴァズゲン・マヌキアン(国民民主連合) | 172,449 | 12.16 | ||
セルゲイ・バダリアン(共産党) | 155,023 | 10.93 | ||
パルイル・ハイリキアン(国民自決連合) | 76,212 | 5.37 | ||
その他諸候補(諸派) | 26,434 | 1.86 |
・2003年2月19日、3月5日実施の選挙結果
投票総数:1,463,499 (63.21%)(第1回投票)、1,563,071 (67.04%)(第2回投票)
候補者と所属政党 | 第一回投票での得票数 | 得票率(%) | 第二回投票での得票数 | 得票率(%) |
---|---|---|---|---|
ロベルト・コチャリアン(無所属) | 710,674 | 49.48 | 1,044,591 | 67.45 |
ステパン・デミルチアン(アルメニア人民党) | 399,757 | 28.22 | 504,011 | 32.55 |
アルタシェス・ゲガミアン(国民の統一) | 250,145 | 17.66 | ||
アラム・カラぺティアン(無所属) | 41,795 | 2.95 | ||
ヴァズゲン・マヌキアン(国民民主連合) | 12,904 | 0.91 | ||
ルベン・アヴァギアン(統一アルメニア人党) | 5,788 | 0.41 | ||
アラム・サルキスィアン(アルメニア民主党) | 3,034 | 0.21% | ||
ガルニク・マルカリアン(祖国と尊厳) | 1,272 | 0.09 | ||
アラム・ハルテュニアン(国民協調党) | 854 | 0.06 |
・2008年2月19日実施の選挙結果
投票総数:1,668,464 (72.14%)
候補者と所属政党 | 得票数 | 得票率(%) |
---|---|---|
セルジュ・サルキスィアン(アルメニア共和党) | 862,369 | 52.82 |
レヴォン・テル=ペトロスィアン(無所属) | 351,222 | 21.50 |
アルトゥル・バグダサリアン(法治国家) | 272,427 | 17.70 |
ヴァハン・ホヴァニスィアン(ダシュナク党) | 100,966 | 6.20 |
ヴァズゲン・マヌキアン(国民民主連合) | 21,075 | 1.30 |
ティグラン・カラぺティアン(人民党) | 9,792 | 0.60 |
アルタシェス・ゲガミアン(国民の統一) | 7,524 | 0.46 |
アルマン・メリキアン(無所属) | 4,399 | 0.27 |
アラム・ハルテュニアン(国民協調党) | 2,892 | 0.17 |
・2013年2月18日選挙
投票総数:1,519,603 (60.09%)
候補者と所属政党 | 得票数 | 得票率(%) |
---|---|---|
セルジュ・サルキスィアン(アルメニア共和党) | 861,160 | 58.64 |
ラフィ・ホヴァニスィアン(遺産) | 539,672 | 36.75 |
フラント・バグラティアン(自由党) | 31,643 | 2.15 |
パルイル・ハイリキアン(国民自決同盟) | 18,093 | 1.23 |
アンドリアス・グカスィアン(無所属) | 8,328 | 0.57 |
ヴァルタン・セドラキアン(無所属) | 6,203 | 0.42 |
アルマン・ミカエリアン(無所属) | 3,516 | 0.24 |
参照
- G.E.Curtis ed., Armenia, Azerbaijan, and Georgia: country studies, Washington D.C., 1995
- http://www.parliament.am/
- http://www.elections.am/Default.aspx
- http://www.ipu.org/parline-e/reports/2013_arc.htmhttp://www.electionguide.org/
アルメニア/政党
ソ連時代の一党独裁制が崩れると、多党制に移行し、「アルメニア人が2人集まると3つの派閥ができる」という冗談が出るほどの百花繚乱ぶりである。ただ、党の団結が党首の強烈な個性に依存しているせいもあって政党の離合集散が多く、政局に影響を与える政党はわずかしかない。本稿では、第一次大戦以降のアルメニア社会に大きな役割を果たした政党を含めて、現代のアルメニア共和国の主要政党について解説する。(なお、政党のアルメニア語表記は、読者の便宜に鑑み、ラテン文字に転写してある。)
アルメニア全国民運動
Hayots‘ hamazgayin sharzhum
1989年にナゴルノ・カラバフ運動(ソヴィエト・アゼルバイジャン内のアルメニア人集住地域ナゴルノ・カラバフ自治州とソヴィエト・アルメニアとが合併するのが目標)の指導者レヴォン・テル=ペトロスィアンが設立した政党だが、前年に成立したカラバフ委員会の流れを汲むという説もある。テル・ペトロスィアンが政権の座に就いてからは与党として議会の多数派を占めたが、98年に大統領が辞任してからは党勢が急速に衰え、その後の議会選でも議席が取れない期間が続き、2012年の議会選で辛うじて1議席を獲得したものの、2013年に解党した。
ダシュナク党(アルメニア革命連盟)
Hay heghap‘okhakan dashnakts‘ut‘yun
1890年にチフリス(現:ジョージアのトビリシ)で複数の民族主義勢力が結集して成立した。1907年にロシアの人民主義政党エスエル(社会革命党あるいは社会主義者革命家党)と活動提携を結び、民族主義的社会主義を模索した。アルメニアにソヴィエト政権が成立した後、党内の反共グループは国外に亡命した。1925年以降は反共路線を打ち出し、在外アルメニア人コミュニティを根城にソヴィエト政権と厳しく対立した。ソ連邦末期にアルメニアに帰還し、カラバフ紛争に積極的に介入して国民の支持を伸ばしたが、対トルコ関係や94年のカラバフ紛争停戦後の対アゼルバイジャン政策をめぐってテル・ペトロスィアン政権と対立し、94年末からは非合法化され、98年の大統領辞任の直後、コチャリアン臨時大統領によって合法化された。コチャリアン政権期は事実上の与党として大統領を支えていたが、サルキスィアン政権が2009年春に打ち出したトルコとの国交樹立路線に反発して政権を離脱し、アルメニア人虐殺の謝罪をトルコ政府から勝ち取るまでトルコとの国交回復は容認しないとしている。2018年春の政変を受けた同年末の出直し議会選挙では、共和党とパシニアン新首相率いる「我が一歩」ブロックの対決の陰に隠れ、全議席を失ったが、第二次カラバフ紛争後の政局の混乱を収めるために行われた2021年6月の繰り上げ議会選では、「再生されるアルメニア」党と組み、かつて与党時代に関係の良かったコチャリアン元大統領を代表とした「アルメニア連合」ブロックを形成し、議席を奪還した。現議会では、この選挙ブロックで29議席を有する。
アルメニア共和党
Hayastani Hanrapetakan kusakts‘ut‘yun
1990年結党。思想的にはダシュナク党右派のガレギン・ヌジュデ(1886~1955)および1967年から87年にかけてソヴィエト・アルメニアで非合法に活動していた民族統一党の流れを汲むという。99年に暗殺されたヴァズゲン・サルキスィアン元首相、2007年に急死したアンドラニク・マルカリアン元首相も党首を務めたことがある。現在の党議長はセルジュ・サルキスィアン前大統領。2018年末の出直し議会選挙では、パシニアン新首相率いる「我が一歩」連合の政治腐敗一掃キャンペーンが功を奏し、全議席を失ったが、2021年6月の繰り上げ議会選では、新設の祖国党と「我に誇りあり」ブロックを組んで、パシニアン首相のカラバフ紛争での失政を批判し、議席を回復した。現議会では7議席を有する。
http://www.hhk.am/eng/index.php?page=program
「市民協約」
K’aghak’ats’iakan paymanagir
ジャーナリストのニコル・パシニアンが、それまで支持していたテル・ペトロスィアン元大統領と袂を分かって、2013年に設立した。当時のサルキスィアン政権の打倒と完全自由選挙を目指した。しかし、急ごしらえの政治団体だったため、2015年に政党として登録した後も、他党との連携で選挙に臨んだ。2017年の議会選では、「輝けるアルメニア」や共和国党(与党共和党とは別団体)と「出口連合」ブロックを形成、選挙連合全体で9議席獲得した。2018年春のパシニアンが主導した民衆革命でパシニアン内閣が成立したことを受けた同年末の出直し議会選では伝導党と「我が一歩」ブロックを形成、共和党との対決姿勢で88議席を獲得し、名実ともに与党化した。しかし、2021年の繰り上げ議会選では、第二次カラバフ紛争の失政を野党から厳しく追及され、71議席に減らしたものの、「市民協約」の単独過半数となり、引き続き与党を担っている。
https://www.civilcontract.am/hy
「繁栄のアルメニア」党
Vargavatsh Hayastani kusakts‘ut‘yun
2004年結党だが、この党が注目されるようになったのは、2006年夏に実業家でアームレスリング選手のガギク・ツァルキアンが党首に就いてからである。手広く事業を行う実業家が突如として政界入りして急速に党勢を拡張させたため、共和党に次ぐ第二与党を育成しようという大統領の思惑を訝る観測もあるが、実態は不明。実際、共和党政権に協力的な態度を示した。2018年春の政変を受けた同年末の出直し議会選挙では、共和党とパシニアン新首相率いる「我が一歩」連合の対決の中でも議席を守ったものの、第二次カラバフ紛争後の政局の混乱を収めるために行われた2021年6月の繰り上げ議会選では、パシニアン首相を批判する元大統領を擁する選挙連合が2つも現れたことで存在感が薄れ、全議席を失った。
「輝けるアルメニア」
Lusavor Hayastan
2015年に法律家のエドモン・マヌキアンが設立した政党で、EUとの関係を重視している。2017年の議会選挙では、パシニアンの率いる「市民協約」などと「出口連合」ブロックを形成して、3議席を確保し、続く2018年の出直し議会選では、単独で18議席を獲得し、第3会派に躍り出た。しかし、2021年6月の繰り上げ議会選では、パシニアン首相を批判する元大統領を擁する選挙連合が他に2つも現れたことで存在感が薄れ、全議席を失った。
「法治国家」
Orinats‘ yerkir
1998年に法律家のアルトゥル・バグダサリアン議員が中心になって創設されたEUとの関係を重視する政党。2003年のコチャリアン大統領再選後に与党となるが、2006年末メツァモル原発の民営化問題をめぐって政府と対立し、政権から離脱した。2008年の大統領選では党首が立候補し、第3位となった。その後、サルキスィアン政権誕生時に再び与党入りした。しかし、2017年の議会選で議席を失って以来、党勢は回復していない。
http://www.oek.am/main/free_text/home_page.php?lng=1
「遺産」
Zharangut‘yun
アルメニアの体制転換時の1991、92年に外相を務めたラッフィ・ホヴァニスィアンが、2002年に設立した。党首がアメリカ合衆国生まれということもあり、欧米型の政治経済制度をアルメニアに定着させることを目指している。2007年の議会選挙で7議席を獲得した。しかし、2018年の出直し議会選で議席を失って以来、党勢は回復していない。
http://www.heritage.am/indexeng.htm
アルメニア共産党
Hayastani komunistakan kusakts‘ut‘yun
アルメニア共産党はソ連末期に解体分裂したが、その中で後継政党を自任する。2003年の議会選で議席を失って以来、党勢は回復していない。
アルメニア統一共産党
Hayastani miavorvatz komunistakan kusakts‘ut‘yun
旧共産党系の諸政党、アルメニア新共産党、アルメニア労働共産党、アルメニア統一労働党、アルメニア共産主義者同盟、アルメニア・マルクス主義者党、知識人党が、2003年7月に結集して成立したが、2007年の議会選挙で議席を失った。
民主自由党
Ramkavar azatakan kusakts‘ut‘yun
1908年にイスタンブル(現トルコ)で結成された。支持者にはオスマン帝国の高級官僚、富裕な商人や銀行家が多く、当時零細商工業者や下級聖職者出身者が多かったダシュナク党とは対照的な政党であった。民主自由党は、第一次大戦時にオスマン帝国下でアルメニア人虐殺が起こってから、この事件後に世界に四散したアルメニア人のコミュニティに根を下ろした。ソヴィエト・アルメニア成立後は、在外アルメニア人コミュニティに進出してきたダシュナク党に対抗し、一貫してソヴィエト政権を支持した。アルメニアの独立後は、「本国」政界にも進出したが、1999年の議会選で議席を失って以来、党勢拡大は見られない。
http://www.ramgavar.org/index.php?lang=en
(社会民主主義)フンチャク党
Sots‘ial democrat hnch‘akyan kusakts‘ut‘yun
フンチャク(「鐘」の意)党は、1887年夏にスイスのジュネーヴで結成されたアルメニア最初の社会主義政党である。創設者は西欧で教育を受けたマルクス主義者であった。1896年にオスマン帝国のアルメニア人社会の実情に鑑みれば社会主義は時期尚早とするグループが脱落したため党勢を縮小したものの、各地のアルメニア人コミュニティに活動拠点を築いていった。1920年代以降は、ソヴィエト・アルメニアを支持する派閥として、民主自由党と協力しつつ、ダシュナク党と対立した。アルメニアが独立した後はテル=ペトロスィアン政権を支持する立場を示していたが、サルキスィアン政権に批判的だった。
http://www.hunchak.org.au/aboutus/historical_turabian.html
国民民主連合
Azgayin demokratakan miut‘yun
ソヴィエト・アルメニア末期の1990~91年にアルメニア全国民運動政権時に首相を務めたヴァズゲン・マヌキアンが、91年にテル・ペトロスィアンと袂を分かってこの党を創設した。党首マヌキアンが1996、98、2003、2008年と大統領選に出馬するなど、野党を貫いている。また、2003年に会派「正義」を結成するなど、マヌキアンは野党結集に奔走したが、2007年の議会選挙でこの党は議席を失った。
「国民の統一」
Azgayin miabanut‘yun
1997年に元共産党員で、エレヴァン市長も務めたアルタシェス・ゲガミアンが1997年に設立した。党首ゲガミアンが2003年、2008年の大統領選に出馬するなど、野党を貫いている。2003年の議会選挙では議席を獲得したものの、2007年の議会選挙で議席を失った。