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2021年8月30日

イラン/政党

革命後のイランにおける政党は極めて脆弱である。王制下のイランでは「復興党」(前身「新イラン党」)と称する国王が設立した官製与党が存在し、与党政党員が行政から立法まで国家機構をほぼ独占していた。革命後のイランでは、「復興党」は解党されその党首(兼首相)が法廷で処刑された。さらに旧与党政党員は全ての選挙での立候補資格が法律で禁じられている(Abrahamian 1982)。旧与党を粛清した後、イスラーム共和制において新たに官製与党が設立されることはなかった。つまりイスラーム共和制下のイラでは大統領選挙で必ず勝利する、あるいは各種議会を独占するような覇権政党が存在しないのである(Brownlee 2007: 64)[1]

このような政党の脆弱性はイランにおける政党の乱立に見て取れる。2011年までに200を超える政治組織が内務省によって政党の認可を受けてきた[2]。換言すれば政党申請をしている政党数は少なくとも200を超えるということである。これらの政治組織は、必ずしも「党」を名乗るものばかりではなく、「協会」、「結社」、「集団」、「同盟」、「組織」、「機構」など様々な名称を採用している。イランにおける政党の活動とは各種選挙における推薦候補の発表である。その意味で政党とは選挙において提示される公式のラベルによって識別され、選挙を通じて候補者を公職に就けることができる政治団体であるとする政党の最小限定義には当てはまる。しかし、イランの政党はいずれも単独で勝利(大統領選挙だと過半数を獲得)するだけの有権者の支持層が不在であり、短命に終わるか、分裂、結合を繰り返している。このような背景からイランの政党は名ばかりの政党にしか過ぎず、政党政治が定着していないという見方がイラン国内外の研究で示されている(Naqībzāde and Soleimānī 1388; Razavi 2010; 松永2002) 。

イラン・イスラーム共和国の憲法第26条は、「政党、協会、政治団体、職能団体、イスラーム協会、および認定された宗教少数派の協会」の結成を認めており、1981年8月には国会が、「政党・結社活動法」(正式名称は、「政党・協会・政治団体・職能団体・イスラーム協会・宗教少数派団体活動法」、以下、政党法)を可決している。

しかし1981年の政党法に基づき、初めて政党・結社に対する活動認可が出されたのは、1989年7月のことである。1980年代の前半、新体制の定着過程においては、革命実現のために1979年2月に設立されたイスラーム共和党(IRP)以外の政党は、徐々に解党処分に追い込まれるなど淘汰されていった。革命の過程では共に闘っていたイラン自由運動(党首は革命暫定政権首相のバーザルガーン)も、宗教指導者シャリーアトマダーリー師のムスリム人民共和党も、武装イスラーム組織モジャーヘディーネ・ハルク(MKO)も、トゥーデ党(共産党)も、1983年2月までには全て、段階的に排除された。その後1987年6月IRP幹部が「当初の目的(イスラーム共和制の確立)が達成された」と発表し、IRPは活動を停止した。 活動停止の一因には内部分裂があるとも指摘されている。

その後1989年7月には、1981年政党法に基づいて初めて、4団体(「闘う聖職者集団(MRM)」、「フェダーイーヤーネ・エスラーム協会」、「ムスリム作家芸術家協会」、「イラン・イスラーム共和国女性連盟」)が認可を受けた。これらの団体の設立申請書類の審査を行ったのは、1981年政党法の第10条に定められている、通称「第10条委員会」である。政党法第10条は、政党・結社の活動申請を審査し、またその活動を監督する委員会を内務省に設置すること、また、そのメンバーは、検察庁、司法最高評議会、内務省から1名ずつ、及び国会から2名の代表計5名で構成されることを定めている。

1989年7月に活動を開始して以降、第10条委員会は一貫して政党・結社の認可に関わっており、政党・結社の活動内容を不当と見なした場合には、当該政党に対し解党命令も下している。たとえば2010年4月、第10条委員会は、2009年6月の大統領選挙以降の混乱を「主導した」として、改革派の主要政党イスラーム・イラン参加戦線(IIPF)、及びイスラーム革命モジャーヘディーン機構(IRMO)を解党処分とした。旧IIPF、IRMO政党員は2016年第10期国会選挙前候補者を擁立するために「国民連合党」を設立し内務省の認可を受けたが、「国民連帯党」のほとんどの政党員が事前の立候補資格審査で失格になるなど政党として脆弱なままである。

以下、イランの主な政党を右派(保守派、原理派)、左派(改革派)、それらの間をとる中道派の三つに分けて紹介する。派閥毎に分ける理由は、イラン研究では政党政治よりも派閥政治(factional politics)が分析対象となる傾向(Dārabī 1397)があるからである。特にポスト・ホメイニー期において政治権力の分極化(decentralization)が進んだという議論(Buchta 2000; Moslem 2002; Almadari 2005)や、体制内エリート(保守派)の内部分裂(Bakhtiari 1993; Sarabi 1994; Wells 1999; Fairbanks 1998; Fazili 2010)、体制外エリート(改革派)の結束力・組織力の低下(Kadivar 2013; Bayat 2017; Rivetti 2019)によって派閥政治が選挙毎に多様化する過程が指摘されている。


主要政党・政治団体

右派・保守派

闘う聖職者協会(JRM)

1977年、王制打倒を目指す聖職者たちにより結成。亡命中のホメイニー師の演説を、主にカセットテープなどを通じ、モスク、大学、バーザールなどに広め、様々なデモ・集会も組織し、革命の達成に重要な役割を果たす。結成時の中心的なメンバーは、組織の取りまとめに力を発揮したベヘシュティー師、および革命のイデオローグと呼ばれたモタッハリー師であり、他にもハーメネイー現最高指導者、ラフサンジャーニー師(元大統領、元体制利益判別評議会議長)、バーホナル師(ラジャーイー政権首相)、マフダヴィー・キャニー師、ナーテグヌーリー師などが結成メンバーに名を連ねた。JRMは今日、イスラーム連合協会、イスラーム・エンジニア協会、ゼイナブ協会などを「同傾向の」組織と位置づけ、これらの組織と密接な協力関係を維持しているが、内務省の認可は受けていない。事務総長(党首)はモヴァッヘディーケルマーニー師が2014年10月の死去まで務めていた。後継はメフダヴィーカーニー師である。新党首メフダヴィーカーニーは1992年から2005年まで最高指導者ハーメネイー師の革命防衛隊における名代を務めていた。

政党HP https://rohaniatmobarez.ir/

イスラーム連合協会

1960年代に結成され、バーザールを拠点としてホメイニーの反王制活動を支持するデモなどを組織した。1964年にホメイニーが逮捕・国外追放されて以降は地下活動を開始し、モタッハリー師らの支援を受けて、反王制活動を継続した。革命後はIRP内部で活動するが、87年のIRP解党後は独自の活動を継続し、今日も原理派勢力の重要な一角を成す。2019年2月にアサドッラー・バーダームチアーン(2期、8期国会議員)が新事務総長に選出された。機関紙『ショマー』を発行。

政党HP https://motalefeh.ir/

イスラーム・エンジニア協会

1988年結成。認可年1991年。事務局長はモハンマド・レザー・バーホナル(第8期国会副議長)が務め、アフマディーネジャード大統領もメンバーに名を連ねる。その他の有力メンバーは、モルテザー・ナバヴィー、アリー・ラーリージャーニー(第8、9、10期国会議長)、モハンマド・ジャヴァード・ラーリージャーニー、モフセン・ラフィークドゥースト、アリー・ナギー・ハームーシー(前イラン商工鉱会議所会頭)などがいる。今日では開発者連合の一角を構成している。

政党HP http://www.mohandesin.ir/

イスラーム革命献身者協会

2005年結成。その源流は、1979年月に結成されたイスラーム革命モジャーヘディーン機構の右派系勢力に求められると言われている。2017年9月事務局長ジャヴァード・アーメリーが務める。アフマディーネジャード元大統領と同じ「原理派」に属するが、2005年の第9期大統領選挙ではガーリーバーフ候補を支持しており、アフマディーネジャードに対しては批判的なスタンスを維持している。

イスラーム・イラン開発者連合

革命の理想に忠実で、かつ「イスラーム的イラン」の開発・繁栄を実現する実務能力を有することを掲げる、保守派系政治団体の連合体。2003年の第2期地方評議会選挙に際して結成され、第2期地方評議会選挙及び翌2004年の第7期国会選挙で勝利を収め、2005年のアフマディーネジャード大統領誕生の素地を作った。

イスラーム革命永続戦線

2011年7月に設立され2014年9月に内務省の認可を受ける。2009年に生じた大規模な不正選挙デモのような混乱を阻止し、革命の理想、イスラーム体制の安定を目指し設立されたとされる。モルテザー・アーガーテヘラーニーが現在まで事務局長を務める。2013年、2017年の大統領選挙ではそれぞれ現ロウハーニーの対抗候補を支持した。

政党HP:http://www.jebhepaydari.ir/main/

左派・改革派

闘う聖職者集団(MRM)

1988年に結成され、1989年7月に内務省の認可を受ける。JRMと袂を分かった「左派」系ウラマーたちにより結成された。ハータミー元大統領もメンバーの一人。初代事務総長は、2000年選出の第6期国会で議長を務めたキャッルービー師。その後2005年にキャッルービー師がMRMを脱退すると、同年6月、モハンマド・ムーサヴィー・ホイーニーハー師(1979年11月の在テヘラン米国大使館占拠事件を主導した学生達の精神的指導者)が新たな事務総長に選出された。

イラン・イスラーム革命モジャーヘディーン機構(IRMO)

1991年に設立され、同年認可を受ける。その源流は、王制打倒という目的のもと共闘していた7つのイスラーム主義組織が革命直後(1979年4月)に結成した、イスラーム革命モジャーヘディーン機構(86年解散)の左派系勢力に求められる。1994年から発行を開始した機関紙『アスレ・マー』は、MRMのホイーニーハー師が発行する日刊紙『サラーム』に並ぶ、左派(改革派)勢力のマウスピースとなった。第10期大統領選挙ではムーサヴィー元首相を支持したものの敗北し、選挙後にはベフザード・ナバヴィー及びモスタファー・タージザーデなどの主要メンバーが軒並み逮捕された。2010年4月、2009年6月の第9期大統領選挙後の混乱を扇動したとして、第10条委員会から解党命令が出された。 

イスラーム・イラン参加戦線(IIPF)

1998年に、97年に大統領に選出されたハータミー師の選挙キャンペーンを支えた活動家たちにより設立される。その中心的なメンバーには、1979年11月の在イラン米国大使館占拠事件に関与した「イマームの路線を支持する学生たち」の元メンバーも含まれた。1999年認可。初代事務総長はハータミー前大統領の実弟であるモハンマド・レザー・ハータミーが務めた。2006年、第6期国会の外交・安全保障委員会委員長を務めたモフセン・ミールダーマーディが第2代事務局長に就任。しかしミールダーマーディは、2009年6月に実施された第10期大統領選挙後の混乱を扇動したとして、懲役6年(及び10年間政治活動禁止)の実刑判決を受け、IIPF自体に対しても、2010年4月、第10条委員会から解党命令が出された。 

国民信頼党

2005年6月の第9期大統領選挙においてMRMの支持を得られず落選し、MRMと袂を分かったキャッルービー元国会議長により、同2005年に設立された。改革派を名乗りつつ、(IIPFなどの)「急進」改革派(「急進」とは、体制の枠組み自体を疑問視することを意味する)とは一線を画すと明言している。2008年の第8期国会選挙では改革派連合には加わらず、独自のリストを作成した。日刊紙『エッテマーデ・メッリー』紙を発行していたが、同紙は2009年8月、発行停止処分を受けた。

イスラーム労働党

1996年に、労働組合(「労働者の家」)の指導者たちにより設立。1999年認可。アリーレザー・マフジューブ(5、7-10期国会議員)が現在党首を務めている。ニュースサイトILNA(Iran Labor News Agency)を運営。

政党HP http://workerhouse.ir/

中道派・現実派

建設の奉仕者党

1996年1月、当時のラフサンジャーニー政権の閣僚ら16名が結成宣言を行った「建設に仕える者たち」を原型とする政党。この宣言では「建設に仕える者たち」が、同96年3月に予定される第5期国会選挙に積極的に関与していくことが明言された。その後、このグループの旗揚げに加わった現職大臣は身を引き、改めて「建設の奉仕者たち(カールゴザーラーン)」という名称が採用され、さらに、1999年8月に内務省の認可を受けるに際し、名称は「建設の奉仕者党」と改められた。建設の奉仕者党を構成するのはラフサンジャーニー政権時代の閣僚経験者を含むテクノクラートであり、党首は元テヘラン市長のゴラーム・ホセイン・キャルバースチーが務めている。 中央評議会メンバーの1人であるモハンマド・アトリヤーンファルは、2009年大統領選挙でムーサヴィー氏支持に回ったが、選挙後に「体制転覆を企てた」として逮捕された。

政党HP https://www.kargozaran.net/fa/

中庸発展党

1999年設立。党首はモハンマド・バーゲル・ノウバフト(ロウハーニー政権期副大統領)が務める。中心メンバーはノウバフトの他、アクバル・トルカーン元国防軍需相(第1期ラフサンジャーニー政権)、モルテザー・モハンマド・ハーン元経済財務相(第2期ラフサンジャーニー政権)など閣僚経験のあるテクノクラートが占める。 

政党HP http://www.hezbet.ir/

イスラーム・イラン公正発展党

レザー・タラーイーニーク元国会議員が党首を務める。タラーイーニークは2006年の国会選挙では「包括連合」の旗上げに関わり、テヘラン選挙区から出馬したが、落選した。タラーイーニークは現在、体制利益判別評議会司法・評議会担当書記を務める。

[1] ただし選挙で選ばれない最高指導者の任命機関(例:司法府、監督者評議会、軍・大学・メディアなどにおける最高指導者名代)はJRMとJMHEQの政党員が独占している。また民選機関であるが高位のイスラーム法学者のみ立候補を許される専門家会議(最高指導者の選出・諮問機関)もこれら二つの政党で占められている。

[2] 2011年10月14日イラン国内メティア「ハバルオンライン」による政党活動の分析(https://www.khabaronline.ir/photo/177829/)を参照。

参考文献

Abrahamian, Ervand. 1982. Iran between Two Revolutions. Princeton: Princeton University Press.

Almadari, Kazem. 2005. “The Power Structure of the Islamic Republic of Iran: Transition from Populism to Clientelism, and Militarization of the Government.” Third World Quarterly 26(8):1285-1301.

Bakhtiari, Bahman. 1993. “Parliamentary Elections in Iran.” Iranian Studies 26(3/4): 375-388.

Bayat, Asef. 2017. Revolution without Revolutionaries: Making Sense of The Arab Spring. Stanford: Stanford University Press.

Brownlee, Jason. 2007. Authoritarianism in an Age of Democratization. Cambridge: Cambridge University Press.

Buchta, Wilfried. 2000. Who Rules Iran? The Structure of Power in the Islamic Republic. Washington D.C.: Washington Institute for Near East Policy.

Dārabī, ʻAlī. 1397. Jaryān Shenāsī-e Siyāsī dar Īrān. Tehrān: Sāzmān-e Enteshārāt-e Pazhūheshgāh-e Farhangī va Andīshe-ye Eslāmī.

Fairbanks, Stephen. 1998. “Theocracy versus Democracy: Iran Considers Political Parties.” The Middle East Journal 52(1):17-31.

Fazili, Yousra. 2010. “Between Mullahs’ Robes and Absolutism: Conservatism in Iran.” SAIS Review XXX(1):49-55.

Kadivar, Mohammad-Ali. 2013. “Alliance and Perception Profiles in the Iranian Reform Movement, 1997 to 2005.” American Sociological Review 78(6):1063-1086.

Moslem, Mehdi. 2002. Factional Politics in Post-revolutionary Iran. New York: Syracuse University Press.

Naqībzāde, Aḥmad and Gholamʻalī Soleimānī. 1388. “Nowsāzī-ye Siyāsī va Shoklgīrī-ye Aḥzāb dar Jomuhūrī-ye Eslāmī Īrān.” Faslnāme-ye Siyāst Majalle-ye Dāneshkade-ye Ḥoqūq va ʻOlūm-e Siyāsī 39(4):367-347.

Razavi, Reza. 2010. “The Road to Party Politics in Iran (1979-2009).” Middle Eastern Studies 46 (1): 79-96.

Rivetti, Paola. 2019. “Political Activism in Iran: Strategies for Survival, Possibilities for Resistance and Authoritarianism.” Democratization 24(6):1178-1194.

Sarabi, Farzin. 1994. “The Post-Khomeini Era in Iran: The Elections of the Fourth Islamic Majlis.” The Middle East Journal 48(1): 89-107.

Wells, Matthew. 1999. “Thermion in the Islamic Republic of Iran: The Rise of Muhammad Khatami.” British Journal of Middle Eastern Studies 26(1):27-39.

松永泰行(2002)「イスラーム体制下における宗教と政党-イラン・イスラーム共和国の場合」日本比較政治学会編『現代宗教と政党-比較のなかのイスラーム』早稲田大学出版部、67-95.

<注>

本稿は、坂梨祥「イラン・イスラーム共和国」松本弘編『中東・イスラーム諸国 民主化ハンドブック2014 第1巻 中東編』人間文化研究機構「イスラーム地域研究」東京大学拠点, 2015, pp. 37-54. を最新のものに更新したものである。

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2021年8月30日

イラン/選挙

イランでは1979年2月に革命が達成されて以降、大統領(任期4年)、国会議員(同4年)、及び専門家会議メンバー(同8年)を選ぶ選挙が定期的に行われてきている。国民投票もこれまで3回実施されており、1度目の国民投票では革命後の新体制の名称が問われ、2度目と3度目の国民投票ではそれぞれ、新憲法と改正憲法の承認が問われた。1999年には初めて、地方評議会(任期4年)選挙も実施された。 

選挙権

今日のイランでは、選挙権は18歳以上の男女に与えられている。革命当初、選挙権は16歳以上の男女に与えられ、その後選挙権年齢は一時15歳まで引き下げられたが、2007年1月2日選挙権年齢は15歳から18歳に引き上げられた。

立候補資格審査

今日のイランで選挙に立候補するためには、立候補の資格審査を通過しなければならない。大統領選挙と専門家会議選挙については、立候補の資格審査は監督者評議会が行っている。国会選挙の立候補資格審査は、まず選挙区ごとに設置される選挙実行委員会(内務省傘下の選挙本部の下に設置)が実施し、次いで監督者評議会が任命する州選挙監督委員会が実施する。選挙実行委員会の審査結果に不服の者は州選挙監督委員会に、州選挙監督委員会の審査結果に不服の者は監督者評議会に対し異議を申し立て、再審査を申請することができる。監督者評議会が再審査の実施後に行う最終結果発表によって、全立候補者が確定する。 確定した立候補者の名簿は内務省が発表する。 

大統領選挙

イランではこれまでに、合計12回の大統領選挙が行われてきた。1980年の第1期大統領選挙で選出されたバニーサドルは、1981年6月に国会より弾劾決議を受け、罷免された。これを受けて翌7月には第2期大統領選挙が行われ、バニーサドル大統領の下で首相を務めていたラジャーイーが当選した。しかしラジャーイー大統領は1981年8月末、大統領に就任して2週間あまりでバーホナル首相とともに暗殺され、これを受けて同年10月に実施された第3期大統領選挙ではハーメネイー師が当選し、第3代大統領に就任した。これ以降、大統領選挙は定期的に4年ごとに実施され、現ロウハーニー師まで5名の大統領は皆連続2期8年を務めてきている。

有権者数投票総数投票率当選者得票数得票率
11980120,993,64314,152,88767.42アボルハサン・バニーサドル10,709,33075.67
21981722,687,01714,573,80364.24ムハンマド・アリー・ラジャーイー13,001,76189.21
319811022,687,01716,847,71774.26アリー・ハーメネイー16,003,24294.99
41985825,993,80214,238,58754.7812,203,87085.71
51989730,139,59816,452,67754.59ハーシェミー・ラフサンジャーニー15,550,52894.52
61993633,156,05516,796,78750.6610,566,49962.91
71997536,466,48729,145,75479.92モハンマド・ハータミー20,138,78469.10
82001642,170,23028,081,93066.5921,654,32077.11
9(第1回)2005646,786,41829,400,85762.84 (決着がつかず決選投票へ) - -
9(第2回)2005646,786,41827,958,93159.76マフムード・アフマディーネジャード17,248,78261.69
102009646,199,99739,371,21485.22〃 24,527,51662.30
 112013650,483,19236,821,53872.94 ハサン・ロウハーニー18,613,32950.55
122017556,410,23441,366,08573.33〃 23,636,65257.14

出所: Iran data portal (https://irandataportal.syr.edu/presidential-elections)をもとに作成 

第9期大統領選挙

2005年6月17日、第9期大統領選挙が行われた。この選挙における有権者は15歳以上の男女全てであり、有権者数は4678万6418人(2005年6月16日付IRNA報道)であった。

この選挙の立候補登録者は1014名(うち女性は89名)に上り(立候補登録期間:5月10~14日)、監督者評議会は5月15日から資格審査を開始し、5月22日、審査結果を発表した。監督者評議会により資格を認められたのは、アフマディーネジャード・テヘラン市長、ラーリージャーニー元国営放送総裁、レザーイー体制利益判別評議会書記(元革命防衛隊総司令官)、ガーリーバーフ前治安維持軍司令官、キャッルービー前国会議長と、ラフサンジャーニー体制利益判別評議会議長の6名であった。この時点で、改革派の有力候補とされていたモイーン前科学技術相は失格処分とされた。 

これに対してハーメネイー最高指導者は、監督者評議会にモイーン前科学技術相とメフル・アリーザーデ副大統領(兼イラン・スポーツ連盟総裁)の立候補資格を再審査することを要請した。5月25日、監督者評議会は再審査の結果、同2名の立候補を承認したと発表し、立候補の有資格者は8名となった。しかし6月15日、レザーイー体制利益判別評議会書記は立候補を撤回したため、立候補者数は最終的に7名となった。 

5月24日から6月15日までの選挙運動期間を経て、6月17日の朝8時には、予定通り投票が開始された。第1回投票ではいずれの候補者も、「投票総数の過半数」の票を獲得することができず、上位2位を占めたラフサンジャーニー候補とアフマディーネジャード候補の2名が、6月24日の決選投票に臨むことになった。決選投票の結果、アフマディーネジャード候補が1724万8782票を獲得し(得票率61.69%)、ラフサンジャーニー師に700万票近い大差をつけて当選した。 

第10期大統領選挙

2009年6月12日、第10期大統領選挙が実施された。その日程は以下のとおり。 

イラン第10期大統領選挙日程

  • 5月5日~9日 立候補受付期間(今回よりインターネットで立候補登録を受付)
  • 5月9日夜~14日 監督者評議会による立候補資格審査
  • 5月15日~19日 監督者評議会による、立候補資格再審査
  • 5月20日・21日 国家選挙本部、立候補最終確定者を発表
  • 5月22日~6月10日 選挙運動期間(20日間)
  • 6月12日 投票日

5月10日、ダーネシュジュウ国家選挙本部長は、立候補の届出を行った者は合計で475名に上ると発表した。この発表によれば、インターネット上の選挙登録受付用サイトで登録を行った者は3,272名に上り、その14.5%にあたる475名が選挙本部に実際に出向き、立候補届出の手続きを完了させた。 

その後監督者評議会による立候補資格審査及び再審査を経て、5月20日、マフスーリー内務相は、アフマディーネジャード大統領、ムーサヴィー元首相、キャッルービー元国会議長、およびレザーイー体制利益判別評議会書記の4名が、大統領選挙の立候補資格を認められたと発表した。選挙当日、投票は、全国368の自治体に設置された合計4万8千ヶ所の投票所(うち1万4千ヶ所は「移動式」)で行われた。当初「朝8時から10時間」とされていた投票時間は、投票所によっては深夜12時まで延長された。

選挙の翌日である6月13日(土)の夕刻、マフスーリー内相は選挙結果を発表した。この発表によれば、今回の大統領選挙における投票総数は39,165,191票であり、投票率は85%に上った。マフスーリー内相が発表した開票結果は、以下のとおりである。ハーメネイー最高指導者は同13日、マフスーリー内相による選挙結果の発表を受けて直ちに声明を発表し、国民の選挙への広範な参加を讃え、アフマディーネジャード大統領の再選を祝福した。

立候補者得票数得票率
アフマディーネジャード大統領24,527,51662.63
ムーサヴィー元首相13,216,41133.75
レザーイー体制利益判別評議会書記678,2401.73
キャッルービー元国会議長333,6350.85
無効票409,3891.04

出所:イラン学生通信(ISNA)、2009.6.13/イラン内務省HP(6月14日付発表最終結果、6月13日(土)午後4時発表)

第11期大統領選挙

第11期大統領選挙は2013年6月14日に実施された。 内務省発表の公式選挙結果は以下のとおりである。ロウハーニー候補が総投票数の50.71%に相当する1861万3329票を獲得したことから、同師がイランの第7代大統領として就任することが決まった。内務省の発表によれば、投票率は72.7%に上った。

立候補者得票数得票率(%)
ハサン・ロウハーニー18,613,32950.71
モハンマド・バーゲル・ガーリーバーフ6,077,29216.56
サイード・ジャリーリー4,168,94611.36
モフセン・レザーイー 3,884,41210.58
 アリー・アクバル・ヴェラーヤティー2,268,753 6.18
モハンマド・ガラズィー446,0151.22

出所:イラン学生通信2013年6月15日、内務省発表の最終結果https://www.isna.ir/news/92032515237/(最終閲覧日2020年5月19日)

第12期大統領選挙

第12期大統領選挙は2017年5月19日に実施された。立候補登録者1,636人の中から、立候補資格を承認された候補者(立候補当時の肩書)は、モスタファー・ミールサリーム(元・文化・イスラーム指導相、1994-1997)、エスハーク・ジャハーンギーリー(現・第一副大統領、2013-)、ハサン・ロウハーニー(現・大統領、2013-)、エブラーヒーム・ライースィー(前・検事総長、2014-2016)、モハンマドバーゲル・ガーリーバーフ(現・テヘラン市長、2005-2017)モスタファー・ハーシェミータバー(元・副大統領、1994-2001)の6名であった。しかし、ガーリーバーフが5月15日にライースィー支持を、ジャハーンギーリーが5月16日にロウハーニー支持をそれぞれ表明し、撤退した。選挙の結果、ロウハーニーが23,636,652票で当選。2位のライースィーは15,835,794票であった。惜敗率66.99%という差でライースィーが2位落選となったが、下表のように州によってはライースィーの方が得票数が多い、僅差で敗戦となった州もあった。

 ロウハーニーライースィー惜敗率(%)
1コム219,443588,557
2南ホラーサーン159,433301,976
3ホラーサーン・ラザヴィー1,422,1101,885,838
4北ホラーサーン231,313272,697
5ザンジャーン259,981294,485
6セムナーン182,279200,658
7マルキャズィー376,905377,051
8コフギールーイェ・ヴァ・ボイラフマド183,941176,14095.76
9ハマダーン418,256383,28591.64
10ロレスターン455,277363,30079.80
11チャハールマハール・ヴァ・バフティヤーリー270,619213,60878.93
12フーゼスターン1,162,954896,18477.06
13ホルムズガーン480,743370,35977.04
14ガズヴィン395,911303,46976.65
15エスファハーン1,391,2331,038,53574.65
16イーラーム188,925133,02370.41
17ブーシェフル328,806223,27867.91
18ケルマーン242,540154,16363.56
19アルダビール412,735261,05663.25
20ファールス1,500,000900,00060.00
21ゴレスターン610,974358,10858.61
22マーザンダラーン1,256,362726,47857.82
23東アゼルバイジャン1,284,111661,62751.52
24ヤズド402,995206,51451.24
25アルボルズ832,050390,48846.93
26西アゼルバイジャン1,030,101473,78545.99
27ケルマーンシャー699,654313,89444.86
28テヘラン4,388,0121,918,11643.71
29ギーラーン1,043,285442,72842.44
30スィースターン・ヴァ・バローチェスターン878,398313,98535.75
31クルデスターン467,700155,03633.15

出所:『エッテラーアート』2017年5月24日

第13期大統領選挙

2021年6月イランでは第13期大統領選挙が実施された。今回の選挙前イラン国内メディアの時評で注目されたのは、①被選挙権の規則、②立候補資格審査であった。まず監督者評議会による被選挙権の制約追加から説明したい。立候補登録が始まる直前2021年5月1日、選挙監督を担う(実施は内務省)[1]監督者評議会が現行法よりも被選挙権を狭める決定を下した。資格の内容を述べる前に、この決定が今回の選挙限定であることに留意しておきたい。通常の法的手続きでは被選挙権を含むイランの大統領選挙法は、内閣提出法案(Lāyeḥe)または議会提出法案(Ṭarḥ)によって改正されることになっている。しかし、2021年選挙ではこれらの手続きを経て被選挙権に関する法律が改正されたわけではない。監督者評議会が大統領選挙の立候補資格に関する決定事項(Moṣavvabe)を内務省に通知し、立候補資格を決めたのであった。

前回までとの制度的違いは具体的に何であったのか。イラン国内メディアでは「実務者および管理職として有能であること」など現行法に定められた要件[2]の具体的な解釈に加えて、年齢制限(40歳~75歳)、公務員管理法71条[3]で定められた政府の要職、体制公益判別評議会、国家最高安全保障評議会、軍の少将以上などの職歴を合計4年以上有する者などが新たに追加されたことが取り上げられた[4]。「メフル通信」の論説によると、このような監督者評議会の決定によって革命防衛隊出身の政治家でも少将以上の経歴がないサイード・モハンマド[5]のような人物の出馬が阻まれたとされる[6]。また改革派の推薦候補の有力者の一人として選挙前に複数の国内メディアで出馬動向が着目された若手政治家モハンマド・ジャヴァード・アーザリージョフラミー(第二次ロウハーニー政権情報通信技術相)は合計4年という職歴に満たないため出馬が妨げられたとも報じられた[7]

次に立候補者登録である。2021年5月11日~15日の登録期間中、全国に設置された内務省の事務所において592人が登録した。登録者全員の詳細は不明であるが、資格審査結果を見ると保守派と改革派というイランの二大政治潮流から参加したようである。もっとも改革派から2名の候補が承認されているが、国外のペルシャ語メディアで改革派の政治活動家が選挙ボイコットを公言したことから、彼らの本命候補は失格になったか、そもそも立候補登録をボイコットしていたと考えられる[8]。以下の表は資格審査を通過した立候補者のリストである。イラン特有の役職もあるので立候補者の政治的バックグラウンドを簡単に紹介しておく。ライースィーの現職司法府長官とは最高指導者の任命ポストである。つまり最高指導者の最側近の候補であることが有権者に認知されていると言える。同様に最高指導者に近い役職はレザーイーの現職体制利益判別評議会書記である。体制公益判別評議会は立法過程における議会と監督者評議会の仲裁機関である。それに対してヘンマティーの現職ポスト中央銀行総裁とは大統領の任命ポストである。つまり現職大統領ロウハーニーに近い唯一の候補ということになる。

候補者名現職前職政党(派閥)結果
エブラーヒーム・ライースィー司法府長官JRM(保守派)17926345票
モフセン・レザーイー・ミールガーエド体制公益判別評議会書記IRGC総司令官無(保守派)3412712票
アブドゥルナーセル・ヘッマティー中央銀行総裁KS(改革派)2427201票
アミールホセイン・ガーズィーザーデ・ハーシェミー国会第一副議長持続戦線(保守派)999718票
モフセン・メフル・アリーザーデハータミー政権副大統領無(改革派)辞退
サイード・ジャリーリーIRGC、アフマディーネジャード政権SNSC書記持続戦線(保守派)辞退
アリーレザー・ザッカーニー
国会議員IRGC無(保守派)辞退

最後に投票結果を見ていきたい。2021年6月18日に投票が行われた。イランの有権者59,310,307人のうち28,933,004人(48.8%)が参加した[9]。その結果、当選条件である有効投票数の過半数を上回る約70%の得票率でライースィーが初当選した。票から有効投票を投じた有権者の中ではライースィーが圧倒的に支持されていることが分かる。この結果は全ての落選候補によって認められ、選挙後にデモなどの混乱が生じることはなかった。もっとも4位落選ガーズィーザーデ・ハーシェミーは投票日の数日前にイラン国営放送が彼の辞退を誤報したことをフェイクニュース(選挙不正)だと抗議したが、ライースィーの当選結果そのものには抗議しなかった[10]

選挙後イラン国内メディアで少々話題になったのは無効票の多さであった。次点候補レザーイーの得票数3,412,712票に対して、無効票はそれよりも多い3,726,870票であった。イランの選挙における無効票の多さは常でありイラン国内の学術論文でも当選ラインを左右する一因として注目されている(Khosravī 1399: 92)。なぜ今回は落選候補の得票を上回るほど無効票が多かったのであろうか。内務省の発表によると大統領選挙法第25条、第26条、第28条に定められた無効票の規則に基づき対処したとされる。具体的には、白票、投票用紙への落書(体制や政府に対する皮肉など)、間違った投票箱(同時開催された他二つの選挙の投票箱)への投票が含まれる[11]。この点、改革派の政治活動家も同意している。元IIPF(強制解体された改革派政党)のメンバーであるアッバース・アブディーも投票所において3つの選挙の同時開催がマネージされていない問題を指摘している[12]

参考文献(第13期大統領選挙)

Khosravī, Ḥasan. 1399. “Taḥlīl-e Natāyej-e Entekhābāt-e Dowre-ye Yāzdahom-e Majles-e Showrā-ye Eslāmi dar Parto-e Qāʻede-ye Aksarīyat.” Faslnāme-ye Jāmeʻeshenāsī-ye Īrān 3(3): 86-111.

鈴木優子(2018)「選挙と部族社会-第 12 回大統領選挙におけるコフギルイエ・ヴァ・ボイ ラフマド州の動向」山岸智子編『現代イランの社会と政治-つながる人びとと国家の挑戦』明石書店、68-116.

松永泰行(2002)「イラン・イスラーム共和国における選挙制度と政党」『中東諸国の選挙制度と政党』日本国際問題研究所、4-20.

松永泰行(2016)「イランにおける制度的弾圧と一般国民-抑圧的体制下の争議政治として の競合的選挙」酒井啓子編『軍・政治権力・市民社会-21 世紀における「新しい」政軍関係』晃洋書房、262-279.


[1] イランの大統領選挙における選挙管理構造の詳細は鈴木(2018:74)を参照。

[2] 大統領の被選挙人資格は憲法第115条および大統領選挙法第35条に定められている。①宗教的・政治的な「男性」であること、②出自的にイラン人であること、③イラン国籍を所持すること、④実務者および管理職として有能であること、⑤経歴、誠実さ、怖神態度が真正であること、⑥敬虔でイラン・イスラーム共和国の諸原則と国家の公式宗派の信奉者であること、の6つである(松永2016: 264; 松永2002: 5)。

[3] 法律全文は以下を参照https://rkj.mcls.gov.ir/fa/moghararaat/ghavanin/ghanoonkeshvari-%D9%85%D8%AA%D9%86-%DA%A9%D8%A7%D9%85%D9%84-%D9%82%D8%A7%D9%86%D9%88%D9%86-%D9%85%D8%AF%DB%8C%D8%B1%DB%8C%D8%AA-%D8%AE%D8%AF%D9%85%D8%A7%D8%AA-%DA%A9%D8%B4%D9%88%D8%B1%DB%8C

[4] 監督者評議会の発表内容は2021年5月8日掲載のイラン国内オンラインニュース「メフル通信」(https://www.mehrnews.com/news/5207317/)を参照。

[5] サイード・モハンマドはIRGC政治部門副官である。IRGC傘下の経済団体ハータム・アル・アンビアー司令官を立候補登録前に辞していたことから、立候補資格審査の担当側は彼の出馬を事前に予想できだと考えられる。なおIRGCの2021年大統領選挙の見通しに関する見解は2021年4月3日掲載「ファールス通信」(https://www.farsnews.ir/news/14000111000171/)を参照。結局サイード・モハンマドは出馬したが監督者評議会によって失格にされた。2021年5月27日掲載「ハバルオンライン」(https://www.khabaronline.ir/news/1519374/)を参照。

[6] 2021年5月5日掲載の報道(https://www.mehrnews.com/news/5205152/)を参照。

[7] なお、ロウハーニー政権最年少閣僚ジョフラミー(40歳)を改革派が擁立する可能性を否定する報道もなされている。改革派連合の選挙対策本部における推薦候補を決める投票でジョフラミーは10票(全46票)しか獲得できなかったためである。2021年5月10日の報道を参照(https://www.mashreghnews.ir/news/1215137/)。結局ジョフラミーは出馬しなかった。

[8] 2021年6月14日掲載BBC Persian(https://www.bbc.com/persian/iran-features-57469397)、2021年5月26日掲載「ゼイトゥーン」(https://www.zeitoons.com/87917)を参照。「ゼイトゥーン」はホメイニーとの対立で失脚した暫定政権首相バーザルガーン支持者によって運営されている。

[9] 投票数などはRadio Free Europeのペルシャ語版2021年6月21日掲載(https://www.radiofarda.com/a/31318891.html)を参照。

[10] 2021年6月16日掲載の「ハバルオンライン」(https://www.khabaronline.ir/news/1525981/)を参照。

[11] 例えば2021年6月28日掲載のBBC Persian(https://www.bbc.com/persian/iran-features-57603703)を参照。

[12] 改革派日刊紙「エッテマード」2021年6月22日p.1を参照

国会選挙

イランにおける国会選挙は、1980年3月に第1期国会選挙が行われて以降、定期的に4年ごとに実施されてきている。選挙区数は当初193であったものが1992年の第4期国会選挙で196に増えた。2000年に実施された第6期国会選挙で定数が270から290に引き上げられるのに伴い、選挙区数も196から207に増えた。選出議員の数は、選挙区の人口に応じて1から6議席が割り当てられている。イランの人口の約10%を占めるテヘラン選挙区では例外的に30議席が割り当てられている。なお全議席のうち5議席は宗教的少数派に割り当てられている。

イランの国会選挙の投票形式には優先順位付連記投票制度が採用されている。この制度では1回目の投票で有権者は各選挙区に割り当てられた議席数分の候補者名を記入する。第1回投票で当選ラインを上回る候補者が不在の選挙区では、第2回投票が行われる。各選挙区で第2回投票に進むのは第1回投票において多数票を獲得した候補者のうち残りの議席数の2倍に限られる。第2回投票では当選ラインは設けられておらず多数票を獲得した候補者が勝利する。第1回投票の当選ラインは1980年の国会選挙法では有効投票数の過半数と定められたが、その後の改正国会選挙法で33パーセント、1999年の改正国会選挙法で25パーセント、2016年の改正国会選挙法で20パーセントに変更された。

イランの国会選挙は必ずしも政党単位では戦われておらず、有権者は立候補者個人に投票することになっている。各政治団体はそれぞれが推薦候補者リストを作成し、有権者に配布するが、一人の候補者が複数の団体の推薦を受け、同一候補者の氏名が複数のリストに掲載される場合もある。このような理由から、選挙結果は政治団体ごとの得票数というよりは、革命初期からの大まかな対立軸である「右派」と「左派」の獲得議席数に、また、特に第6期国会選挙以降、「保守派(原理派)」系候補と「改革派」系候補の議席数を中心に、イラン国内外のメディアで報じられる傾向にある。 

第7期国会選挙

2004年2月20日に実施された第7期国会選挙では、監督者評議会が改革派系の有力議員を軒並み失格処分とし、その結果保守派勢力が圧勝した。 

2004年1月11日、監督者評議会は第7期国会議員立候補登録者8157名のうち、83名の現職議員を含む3605名を失格処分とした。これに先立つ1月3日には、内務省傘下の選挙実行委員会が、立候補登録者の「92.88%」の立候補資格を認めていたため、監督者評議会独自の判断に基づく大量失格処分には、非難の嵐が巻き起こった。 

これを受けてハーメネイー最高指導者は監督者評議会に立候補資格の再審査を命じ、その結果監督者評議会は、当初失格処分とした申請者のうち1160名の資格を承認した。しかし1回目の審査で失格とされた(改革派系)現職議員の大半は、結局立候補を認められなかった。

これに対してハーメネイー師は再び、監督者評議会に対し再審査を命じるが、最終的に立候補が認められたのは5625名であり、現職議員80名を含む約2500名は失格となった。これを受けて、12名の現職国会議員を含む888名の立候補登録者が、立候補は認められながら出馬を辞退し、選挙をボイコットすることを発表した。

2月20日の投票は、改革派の最大政党イスラーム・イラン参加戦線(IIPF)がボイコットを維持する中行われ、投票率はイラン全土で50.57%、首都テヘランでは25%と低迷した。第1回投票において投票総数の4分の1以上の獲得により確定した議席数は、保守派154議席、改革派39議席、無所属31議席であった。宗教少数派に割り当てられた5議席も確定した。 

5月7日に行われた第2回投票では、さらに57議席が確定した(第1回投票の結果を監督者評議会が承認しなかった4議席の投票は後日に持ち越された)。第2回投票では保守派が40議席、改革派が8議席を獲得し、(残りは無所属)、第7期国会において保守派勢力は「少なくとも」194議席を、改革派勢力は47議席を占めることになった。 

5月27日、第7期国会が召集された。第7期国会議長には、テヘラン選挙区で888,276票を獲得してトップ当選を果たしたハッダード・アーデルが選出された。 

第8期国会選挙

2008年3月14日、第8期国会選挙が実施された。選挙の立候補登録は1月5日に開始され、11日に締め切られた。3月9日の監督者評議会の発表によれば、立候補資格審査の結果、全7597名の立候補登録者のうち、4755人(約6割)が立候補を認められた。3月14日の投票は、朝8時に開始され、投票時間は夜11時まで延長された。 

4月6日に行われた内務省の発表によれば、第8期国会選挙の投票率は60%と、前回選挙時の51%に比べて上昇した。立候補者は合計3863名、うち308名は女性であったが、このうち第1回投票で当選が確定したのは209名(うち83名が現職、5名は女性)であった。第2回投票へは、残る81議席の2倍の人数である162名がコマを進め、4月25日には53の選挙区で、第2回投票が実施された。第2回投票の投票率は、「26%以上」と発表された。 

第8期国会選挙において、保守派(原理派)勢力は「統一戦線」なるグループを立ち上げ、ともに選挙戦を戦おうとした。しかし選挙直前になり、アフマディーネジャード大統領に対してより批判的な「包括連合」なるグループが統一戦線から離脱し、独自の候補者リストの作成をこころみた。しかし結局のところ、統一戦線リストと包括連合リストには重複も多く(第1回投票では統一戦線と包括連合の共通候補が40議席近くを獲得した)、また、包括連合と改革派のリストの間にも重複が見られた(包括連合と改革派の共通候補は第1回投票で7議席を獲得)。選挙結果の確定後、イラン国内メディアは、最終的には保守派が「200議席近く」、改革派が「45議席程度」を獲得、残りは無所属の候補が獲得したと報じた。

5月27日、第8期国会が召集され、翌28日、コムでトップ当選を果たした(239,436票を獲得)アリー・ラーリージャーニーが、国会議長に就任した。

第9期国会選挙

第9期国会選挙は、2012年3月2日に実施された。 政府の発表によれば、今回の選挙の有権者数は48,288,799名であり、全国47,665ヵ所に投票所が設置され、投票が行われた。立候補登録者数は5,395人であり、うち女性立候補者数は260人であった。現職議員290人のうち、再選を目指して立候補した議員の数は260人に上った。 

立候補登録を行った候補者のうち、内務省による立候補資格審査を通過した者は3,703人、監督者評議会による資格審査を通過した者は3,444人であった。選挙後に内務省が発表した今回の選挙の投票率は64.20%に上り、選挙区内の総投票数の4分の1以上の得票により第1回投票で確定した議席数は、全290議席中225議席に上った。 

5月4日に、3月2日に実施された第1回投票では確定しなかった65議席をめぐる決選投票が行われ、残り65議席が確定した。 

しかしその後5月28日、監督者評議会は第2回投票で確定した議席のうち2議席(イーラーム州とハマダーン州のそれぞれ1議席)に関し、選挙結果は無効であると判断した。監督者評議会は4月5日には、ラームサルとダマーヴァンド選挙区の結果を「無効」と判断しており、その結果第9期国会は、(定数の290議席より4議席少ない)286議席でスタートすることになった。 

第9期国会選挙においては、保守本流勢力により構成される「統一戦線」と、アフマディーネジャード大統領により近い(しかし大統領の腹心であるマシャーイー大統領執務室長には批判的な)「永続戦線」が別々のリストを作成し、選挙戦を戦った。選挙の結果、統一戦線リストからは126名が当選を果たし、 統一戦線が第9期国会の最大会派を構成することになった。 

第10期国会選挙

第10期国会選挙の第1回投票は2016年2月26日に実施された。有権者数は54,915,024人であり、投票率は61.64%であった。2016年4月29日に実施された第2回投票では残り68議席が136人によって競われた。第1回投票でテヘラン選挙区30人全員が決まったのは初めてである。30人全員「希望リスト」と呼ばれるロウハーニー大統領の政策、特に2015年の核合意を支持する改革派系リストから当選した。対して、第9期の現職議員(ハッダード・アーデルを筆頭)とする保守派系のリスト30人は全員落選する結果となった。国会議長選挙では「希望リスト」の筆頭候補であったアーレフが現職の保守穏健派ラリージャニー(コム選挙区から選出)に挑んだが、ラーリージャーニーの再選に終わった。

第11期国会選挙

第11期国会選挙の登録期間は2019年12月1日~8日であった。現国会議長のラーリージャーニー、第10期国会の改革派会派をまとめるアーレフなど有力者が登録しなかった。16,033人登録し、うち800人が立候補を取り下げ、1,300人が内務省管轄下の選挙実施委員会によって失格になった。2020年1月12日、監督者評議会の発表によると7,148人が承認された。290人中249人の現職議員が再選出馬したが90人が失格になった。監督者評議会キャドホダーイー報道官によると、現職議員の主な失格理由は汚職とされる。

第1回投票は2020年2月21日に実施された。テヘラン選挙区では元テヘラン市長で革命防衛隊の空軍司令官であったガーリーバーフを筆頭とする保守派系リストから30人全員が当選する結果となった。投票率は、内務省の発表ではテヘランではわずか25.4%、全国平均でも42.57%にとどまり、過去最低を記録した。第2回投票(残り11議席)はもともと2020年4月に予定されていたが、感染症の影響で2020年9月11日に延期された。

2020年5月28日に実施された国会議長選挙では、ガーリーバーフが267票中230票を獲得し、他2人の候補を寄せ付けず、圧勝した。第一副議長にアミールホセイン・ガーゼィーザーデ・ハーシェミー(9期議員)が208票、第二副議長にはアリー・ニクザード(アフマディーネジャード政権期の官僚)が196票で選ばれた。

地方評議会選挙

  地方評議会選挙は1999年2月に導入され、この選挙を通じ、4年ごとに全国の市町村の評議会メンバーが選出されている。大統領選挙や国会選挙とは異なり二回投票制ではなく一回投票制で多数決で選出される。

第3期地方評議会議選挙

2006年12月15日、第4期専門家会議選挙と同日に、第3期地方評議会選挙が実施された。この選挙ではアフマディーネジャード大統領を支持する勢力が独自の候補者リストを作成し、投票に臨んだが、思うように票を伸ばすことができなかった。たとえばテヘラン市評議会では、アフマディーネジャード大統領支持派は定数15議席のうち2議席しか確保できなかった。テヘラン市評議会では結局、「改革派」勢力が4議席を獲得し、残り8議席は「原理派大連合」(アフマディーネジャード大統領支持派以外の「保守派(原理派)」勢力)が獲得した(残り1名は無所属)。 

第4期地方評議会議選挙

地方評議会の任期は4年であり、第4期地方評議会選挙は予定では、2010年末から2011年初め頃に実施される予定であった。しかし選挙にかかる経費節減のため、第4期地方評議会選挙は第11期大統領選挙と同日に実施すべきであるという案が出され、2010年7月に、この「選挙統一法案」が承認された。これを受けて第4期地方評議会選挙は、2013年に予定される第11期大統領選挙と同時に、2013年6月14日に実施されることになった。 

結果、大統領選挙では改革派と伝統保守派の支持を受けたロウハーニーが当選した一方で、地方評議会選挙では保守派が全国的な議席の過半数以上を占めた。後者はメフディー・チャムラーン(テヘラン市議)が第4期州最高評議会(地方評議会の総会)議長選挙で70票中45票を獲得して選出された[1]ことから推測できる。


[1] 2014年1月21日掲載のISNA(https://www.isna.ir/photo/92110100841/)参照。

第5期地方評議会選挙

2017年5月第12期大統領選挙と同時開催された。全国的に改革派が保守派に対して多数議席を獲得したと見られる。そのように判断できる理由は2017年12月に開催された第5期州最高評議会の1年目の議長選挙である。この選挙ではテヘラン市議会議員でKS政党員モルテザー・アルヴィーリーが全75票のうち38票を獲得し初当選した。次点は(ファールス州)シーラーズ市議会議員で改革派系の教師協会シーラーズ支部の責任者アブドゥルラッザーグ・ムーサヴィーの33票であった[1]


[1] 投票結果は2017年12月31日掲載の「テジャーラトニュース」(https://tejaratnews.com/%D9%85%D8%B1%D8%AA%D8%B6%DB%8C-%D8%A7%D9%84%D9%88%DB%8C%D8%B1%DB%8C-%D8%B1%D8%A6%DB%8C%D8%B3-%D8%B4%D9%88%D8%B1%D8%A7%DB%8C-%D8%B9%D8%A7%D9%84%DB%8C-%D8%A7%D8%B3%D8%AA%D8%A7%D9%86%E2%80%8C%D9%87%D8%A7)参照。シーラーズ市議会議員ムーサヴイーの経歴は(http://www.kazeroonnema.ir/fa/news/14877/)を参照。

第6期地方評議会選挙

2021年6月第13期大統領選挙と同時開催された。2021年8月の本稿執筆時点で州最高評議会議長選挙が開催されていないため全国的な議席を占める派閥の割合を推定することはできない。ここではテヘラン市議会選挙の結果のみ紹介しておきたい。テヘラン市議会の全21議席は「連合評議会」と自称する保守派リストによって独占された。1位当選は現職候補チャムラーン486,282票であった。「共和国」と自称する改革派リストの中で最多票を獲得した現職候補アリー・エッターは得票数32,618、22位落選であった。保守派リストの21位当選候補が265,607票獲得していることを踏まえると、改革派は第6期テヘラン市議会選挙で保守派に大敗したと解すことができる[1]


[1] 2021年6月24日掲載「マシュレグニュース」(https://www.mashreghnews.ir/news/1236599/)参照

専門家会議選挙

最高指導者を選出し、また、最高指導者による任務遂行が不可能になった場合にそれを見極める任務を持つ専門家会議の選挙は、1982年の第1期から2006年の第4期まで8年ごとに実施されてきた。第5期は2016年の第10期国会選挙と同日開催になった。選挙制度上、先述した3つの選挙と大きく異なるのは立候補資格である。ムジュタヒド(イジュテハードとよばれるイスラーム法解釈などができる能力と資格を持つ者)レベルのイスラーム法学者に限定される(専門家会議選挙法第3条)。また大統領、官僚、国会議員、司法関係ポストに就く者の立候補規制もない。

 実施日有権者数投票総数投票率議席数
第1期1982.12.10232777811801306177.3882
第2期1990.10.8312800841160261337.0983
第3期1998.10.23385505971785786946.3286
第4期2006.12.154654924228,321,27060.8486
第5期2016.2.2654,915,02433,480,54860.9788

出所:イラン内務省 

第4期専門家会議選挙

2006年12月15日、第4期専門家会議選挙が実施された。この選挙には493名が立候補登録を行ったが、監督者評議会による、筆記試験(イスラーム法学)を含む資格審査の結果、最終的には166名が、立候補資格を認められた。 

この選挙の有権者数は4654万9242名であり、投票率は66%に上った。選挙の結果、「協会」リスト(テヘラン闘う聖職者協会とコム神学校教師協会の合同リスト)の推薦者が、全86議席中67議席を占めた。キャッルービー前国会議長が設立した国民信頼党の推薦を受けた候補は10名が当選し、「協会」と「国民信頼党」の双方から推薦を受けた候補は32名が当選した。

今回の選挙で最も多くの票を獲得したのは、2005年6月の大統領選挙ではアフマディーネジャード候補に大差で敗れたラフサンジャーニー体制利益判別評議会議長であった。ラフサンジャーニー師はテヘラン選挙区で156万票を獲得し、トップ当選を果たした(2位で当選したメシュキーニー師の得票数は84万票であった)。 

第5期専門家会議選挙

2016年2月26日、第10期国会選挙と同日に開催された。801人の立候補登録者の中から166人が承認された。過去の選挙でも競争倍率は定数に対して約2倍と低い。また、定数と同じ人数しか残らない選挙区(州)もあるので競争性は低い。2016年は、西アゼルバイジャン(3議席)、アルダビール(2議席)、ブーシェフル(1議席)、北ホラーサーン(1議席)、セムナーン(1議席)、ホルムズガーン(1議席)がそれに該当する。失格者の中には初代最高指導者ホメイニー師の孫アフマド・ホメイニーも含まれていた。選挙の結果、88議席中「テヘラン闘う聖職者協会」と「コム神学校教師協会」の合同リストの推薦者が64議席を占めた。

<注>

本稿は、坂梨祥「イラン・イスラーム共和国」松本弘編『中東・イスラーム諸国 民主化ハンドブック2014 第1巻 中東編』人間文化研究機構「イスラーム地域研究」東京大学拠点, 2015, pp. 37-54. を最新のデータに更新したものである。

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2021年8月30日

イラン/最近の政治変化

1979年の革命から現在まで続くイランのイスラーム共和制下では、国家元首である最高指導者をはじめとするイスラーム法学者が軍や司法府など国家の治安機構全てを掌握している。すなわち、国家に対する抗議行動には容赦のない弾圧が待ち受けている。それにもかかわらず、イランではこれまで幾度も大規模な抗議運動が発生してきた。

革命後最大規模の抗議運動と言われているのが、2009年6月第10期大統領選挙後の不正選挙を訴えるデモである。アフマディーネジャードの再選が報じられた後、落選候補であるムーサビー(元首相)、キャッロビー(元国会議長)の選挙陣営が結果を認めず、彼らの支持者数千人が首都テヘランや主要都市においてデモに参加した。だが、デモの要求(選挙のやり直し)は認められず、体制による弾圧で幕を閉じた。デモを扇動した罪でムーサビー、キャッロビーは逮捕され、自宅軟禁に置かれ政界から遠ざけられた。さらに彼らを支持する主要政治家も逮捕の対象となり、次回以降の選挙で立候補資格を剥奪されるケースが相次いだ。

2019年11月〜2020年1月:3つの路上抗議運動

直近の抗議運動としては、2019年11月に発生したガソリン値上げに対するデモが挙げられる。これは2009年とは対照的に、指導者が不在で、動員力に欠けるものの、銀行の焼き討ちなど暴力的な方法で抗議がなされた。治安部隊との衝突も激しく、国際人権団体アムネスティの発表によると抗議運動初期の11月15日~18日だけで死者数300、負傷者数千人に上るとされる。デモ発生を受けて体制は、デモ拡大を抑制するために、11月16日から1週間~10日にわたりイラン全国のインターネット接続を遮断した。

これらの抗議運動は、大多数の国民が現体制に不満を抱いていることを象徴するものである。一方で、体制側も国民が体制を支持していることを国内外に示すために、大衆動員を行ってきた。大衆動員のために体制が使うスローガンは主に「反米」、「反イスラエル」である。すなわち、イスラーム共和制を批判する米国やイスラエルによる体制転覆という「陰謀」を阻止するために、国民が体制を支持していることを示す必要があるというわけである。例えば、毎年革命記念日(2月11日)や在テヘラン米国大使館人質事件(11月4日)などで反米デモが扇動されてきた。さらに選挙も体制への信任投票と位置づけられ、最高指導者をはじめとする体制指導部は、選挙参加を強く呼びかけてきた。また2020年1月イラン革命防衛隊ゴッツ部隊の司令官であったガーセム・ソレイマーニーが米国によりイラクで殺害される事件が発生した後、テヘラン、コム、ケルマーンで国葬が行われ、革命記念日以上の国民が参加したとされる。このように官製の(ただしソレイマーニーの国葬は自発的参加者も多い)大衆動員に参加する国民が実際に体制を支持しているかは定かではないが、少なくともイランの体制指導部は体制が多くの国民に支持されていることを装うことに重要な意義を見出している、と言える。

第13期大統領選挙の展望

イランの2021年大統領選挙は何を含意するのか。このテーマを扱う講演会が日本国内外でいくつか開催されてきた。ここでは資料が公開されている二つの講演会の要点を紹介したい。いずれも3人のイラン専門家が登壇した。

The Woodrow Wilson Center とthe U.S. Institute of Peace が主催した講演会では、事前の立候補資格審査におけるアリー・ラーリージャーニー元国会議長の監督者評議会による失格に着目し、それが体制内エリートの分裂を象徴し、ハーメネイー最高指導者の支持層を狭める狙いがあるとの見解が示された。またライースィーの当選はハーメネイーが最高指導者に就任して以降、初めて最高指導者の任命ポスト経験者が政権を掌握した出来事であるとも指摘された。それによって、体制内エリート間においてある程度の対立が存在するとしても、最高指導者の狭い支持層の結束力は強化されたと論じられた。

また講演会ではライースィー政権の外交政策の見通しについても議論された。欧州諸国などとの核交渉、サウジアラビアとの周辺国でのいわゆる代理戦争に対するイランの態度は、保守穏健派のロウハーニーから保守強硬派のライースィーに政権が変わったからといって大きく変化する可能性は低いという意見がほとんどの専門家から提示された。なぜなら核交渉や域内諸国との安全保障問題は体制の安全保障(レジームセキュリティ)に直結する問題であり、そうした政策の意思決定は大統領ではなく(革命防衛隊などの軍権を握る)最高指導者が主導するからである。加えて米国の研究機関のイラン専門家からは、ライースィーのこれまでの司法府機関における政治犯処罰の経歴が人権侵害と見なされていることから、それが人権を重視するバイデン政権の対イラン政策に影響を及ぼすのではないかとの意見も述べられた。

Italian Institute for International Political Studies (ISPI)が主催した講演会では、過去最低の投票率、有権者の投票参加の意味について議論された。ライースィーに投票した有権者は、彼の個人的な支持層ではなく、体制の支持層である可能性が高い。そのためライースィーが大統領として経済政策などで何らかの成果を達成しない限り、ライースィーに票を投じた有権者との距離を縮めることは難しいとの見方が示された。一方、新型ウイルス感染拡大やそれに伴う経済不況にもかかわらず、選挙に参加し、かつ最高指導者の意中の候補ライースィーが最多票を獲得したことは、少なくとも強固に体制を支持するイラン国民が全有権者の4分の1以上は存在することを示唆さるという指摘もなされた。

また、半数以上のイラン国民が選挙ボイコットをしたことについて、これは必ずしも(改革派支持層の)イラン国民が政治そのものへの関心を失ったわけではない、という指摘もなされた。選挙参加と政治参加の関心は全く別ものだとされる。つまり、イランの有権者は選挙制度を通した改革を諦めただけであって、政治や社会の改革要求そのものを完全に失ったわけではないとされた。しかしながら、イランの有権者の大部分を占める中産階級の人々は暴力的な方法での改革は望んでおらず、今後すぐに革命のような社会運動が生じる可能性はないと指摘された。加えて、これまで体制内エリート(保守派)が労働者による経済不況に対する抗議活動ですら(参加者の意図とは異なる)体制の安全保障を脅かす抗議活動と結びつけてきたことが、経済状況のさらなる悪化が予想される今後のイランにおいて自ら首を絞める事態を招く可能性があるとの見解も示された。

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2021年8月30日

トルコ/現在の政治体制・制度

 (1)議院内閣制から大統領制へ:体制変更が内包する危うさ

トルコの政治体制は、2018年6月24日の選挙を以って議院内閣制から大統領制に移行した。この体制変更は、従来の1982年憲法に変えて新憲法を制定するのではなく、1982年憲法の関連条項を変更することにより実施された。また、国会や市民社会での熟議を通して、何のためにどのような制度が必要であるかについて、国民的総意を時間をかけて醸成するという段階を踏むことなく、エルドアン大統領の旗振りの下、国会における与党の公正と発展党の多数を頼みにして実現された。大統領制移行を国民に問うた2017年国民投票でも、2018年6月に実施された大統領選挙でも、エルドアンは50%を辛うじて超える支持によって望みを果たした。ただし、「選挙」の項目で説明するように、2018年選挙での勝利は、公正と発展党が野党の民族主義行動党と選挙協力を行ったことにより可能になったものであり、与党単独での得票率と国会議席比率は過半数に届かなかった。対して、主要野党は議院内閣制に戻すことも含めて政治体制を再検討することを主要マニフェストに掲げて選挙を戦った。

結果的にはエルドアンの勝利となり、大統領制移行が実現したが、他方で、エルドアンはすでにこの数年の間に権威主義的な大統領制を事実上、実践していたとみることも可能である。実質的に大統領の一存で執政を行い、政治権力を牽制しうる政治・社会的権威(司法機関やメディア、大学)の人事や経営方針にも介入や弾圧を行使し、後で詳述するように、折からの国内外の危機的状況への対応のために非常事態的な政治手法に訴えてきた。その意味では、大統領制に移行したところで、この数年の統治のあり方が統治機構の再編を伴いながらも続くに過ぎない、という見方も可能であろう。しかし、エルドアンの執政手法に強く反発する批判的世論が過半数に迫る状況が2015年選挙以来、固定化しており、大統領制に関わる法的根拠が整えられたところで、エルドアンの執政手法の正当性を高めるとは限らないという不安感が残る。また、市民社会的な各種自由が制限されるだけでなく、ソーシャル・メディア上でのエルドアン批判者へのリンチや法的・社会的制裁が拡大してきたなかで、こうした状況が継続・悪化した場合、2013年6月にイスタンブルから全国各地に飛び火した反政府デモに類似する抗議運動が発生し、政治社会的混乱を招く可能性も十分に考えられる。

(2)議院内閣制時代の大統領と大統領公選制導入の経緯

2014年の大統領選挙までは、国家元首は大統領だったが、議員内閣制をとり、大統領は行政権を憲法規定上は持たなかったため、法律上は大統領制や半大統領制とはいえなかった。しかし、2014年8月の第一回公選大統領選挙の結果、普通選挙によって選ばれた大統領として、憲法上の大統領権限を最大限に行使して執政に関与することを正当化するエルドアンが当選したことによって、議員内閣制から事実上の半大統領制に移行した。後述のように、現行憲法は大統領の意向次第で権限を拡大解釈できる文言となっていたため、エルドアンは憲法の関連条文を全く変更することなく、大統領選出方法を国会での間接選挙から国民直接選挙へと変更しただけで、大統領制的な執政を事実上、実施してきたのである。さらには、2017年4月の憲法改正国民投票と2018年6月大統領選を経て、法的にも大統領制への移行を実現した。 

2007年以前は、大統領は国会議員である必要はなく、議員総数の5分の1以上の書面による推薦を以て立候補でき、国会議員定数の3分の2以上の多数(秘密投票、第1回および第2回投票で決まらない場合、第3回投票は過半数)により選出されていた。2007年10月21日の憲法改正国民投票により、任期は従来の7年(再選不可)から5年(2選まで可)に変更された。いずれにしても、議員が大統領に選出された場合には、議員辞職と党籍離脱によって党派的に中立的立場をとることが求められていた。

現行の1982年憲法では、1980年以前に国会が混乱し、政治機能を発揮できなかったことを反省し、議院内閣制であるにもかかわず、国会に対する大統領の立場が強化されていた。大統領は首相の指名・任命権を持つ他、必要に応じて国会を招集し、国会の混乱に際しては解散総選挙を宣言する権限を付与された。また、国会が可決した法案の再審議を要求して国会に差し戻したり、再審議後にそのまま可決された法案を国民投票に付託したり、憲法違反の疑いがあると考える法律や政令については憲法裁判所に合憲性を審査させる権限も有した。行政や司法に対しても、大統領は国家監督委員会委員や各種上級裁判所の幹部裁判官および検事の一部を選任する権限を有してきた。軍に対しては、統帥権を有し、参謀総長の任命と軍の出動命令権を持つが、有事の際には参謀総長が指揮を執ることが定められている。以上のような大統領の権限がどれだけ実践されるかは、実際には個々の大統領がどのように行使するかにかかっており、その意味で、大統領の個性に大きく依存してきたといえる。国会の決定にあまり介入しない大統領もいれば、たとえば、2000年から2007年まで大統領を務めたセゼルのように、イデオロギー的に対立する政府の政策や人事に次々と干渉することも可能だった。

このような大統領の権限にかんする曖昧さがそもそも存在する上に、2007年5月に憲法の大統領選出条項が改正され、国会議員による間接選挙ではなく、国民の直接選挙によることになった。そのような憲法条項改正のきっかけになったのは、2002年総選挙以降、国会の過半数を優に上回る議席を得ていた公正と発展党から大統領が選出されることを阻止しようと、当時の唯一の院内野党だった共和人民党が軍部、憲法裁判所など、伝統的に世俗主義勢力を構成してきた国家機関と画策し、従来の法解釈に反する方法に訴えて、与党の大統領候補(当時のギュル外相)の選出を阻んだことである。公正と発展党の議席数は最初の2回の投票での選出に必要な議会定数の3分の2には達していなかったが、3回目の決選投票で単純過半数によって選出されることが確実視されていた。しかし、第1回投票をボイコットした共和人民党と、憲法裁判所出身の当時のセゼル大統領が、憲法裁判所に第1回投票の無効を訴え、憲法裁判所もそれを認める判決を下した。投票の定足数について特別の規定がないため、通常なら国会議員定数の3分の1のはずであるが、共和人民党らは国会議員定数の3分の2が定足数であると主張し、憲法裁判所もそれを認めたのである。つまり、共和人民党が投票をボイコットする限り、第1回投票は成立しないことになるため、新大統領選出はその状況では不可能となった。これを不当とする公正と発展党は、早期解散総選挙に打って出るとともに、大統領選の定足数を3分の1と明記する憲法条項改正を行い、さらに早期総選挙で再び国会過半数を制し、ギュル大統領の選出を達成した。その上で、国民の直接選挙で大統領が選出されるよう、憲法も改正した。こうして、憲法における大統領と三権、特に首相や政府との関係について一切の見直しや議論がされないまま、ギュル大統領が任期満了となる2014年をもって、公選大統領の時代に移行することとなった。

2014年大統領選で勝利したエルドアンは、そもそも半大統領制あるいは大統領制に前向きで、大統領として積極的に政治的リーダーシップを発揮したいとの意向をしばしば示してきた。大統領就任とともに法律上は党籍離脱し、議員辞職を強いられたが、大統領選出まで3期にわたり首相を務める間に、党組織人事と選挙候補者リスト選定を通じて党内で自派閥を形成していった。自身のライバル候補は結党以前から政治運動を共に作りあげてきた仲間であっても容赦なく排除していった。公正と発展党結成プロセス以来、トルコ政治を共に動かしてきたギュル元大統領や、公正と発展党政権期の外交政策の青写真を描き、自身が首相にまで抜擢したダウトオールは象徴的例である。しかし、その強権的で自己中心主義的な政治手法は全体としては、エルドアン首相期前半にトルコが経験した高度経済成長と生活水準の向上、国際社会での発言力向上といった、肯定的側面と結びつけて受け止められた。そうした手法に対して仲間や支持基盤から批判が漏れ聞こえては来るものの、トルコのさらなる発展や危機回避には彼のような強いリーダーが必要だと考える人々にとっては、エルドアン首相期後半以降の危機と権威主義化の時代において、彼を結局は支持する主要な理由になっている。

2014年の大統領就任以来、エルドアンは事実上の半大統領制を敷いて内政と外交を統率し、閣僚や党内の人事、選挙候補者リストもエルドアンのチェックと承認なしには首相は決定できないという状況だった。それは、かつて世俗主義派のセゼル大統領が公正と発展党政権の人事に介入したレベルをはるかに上回っていた。なによりもセゼルは裁判官出身であり、政党や議会に内側から働きかける権力基盤を有していなかった。エルドアンはその両者を有しており、しかもそれを独占しようとしてきた。例えば、ギュル大統領の任期満了に伴ってエルドアンが大統領に選出された際、世論調査でエルドアンを上回る人気を誇っていたギュルの党首と首相就任を妨げるために(http://www.internethaber.com/ankette-erdogan-ve-gul-soku-548550h.htm)、当時外相だったダウトオールを自ら首相(それゆえに党首)に抜擢した。しかし2年後にはそのダウトオールに対して首相辞任を強いた。ダウトオールは「清潔政治法」制定を公言して政治家の汚職疑惑解明に積極な姿勢を見せることで、与党政治家の汚職疑惑に対して野党だけでなく与党支持基盤からも高まっていた反発に応えようとしていた。また、2015年6月国政選挙で得票率と議席比率の双方で過半数を割り込みながらも国会第1党の座を守った際には、長年の政治的・イデオロギー的ライバルである共和人民党との連立政権樹立に前向きだったとされる。エルドアンは、前者については自身や自身の家族への疑惑が取りざたされていたこともあって阻止し、後者については連立協議のイニシアチブを党首らに任せることなく連立不成立の機運へと導き、そのまま異例の早期解散総選挙へと持ち込んだ。2015年11月には公正と発展党は議席比率で過半数を回復し、単独政権を維持することに成功した。ダウトオールはある意味、選挙の洗礼を受けずにトップダウンで首相の座に座っていたが、この二つの選挙を通じて首相として国民の信任を得たはずであった。それにもかかわらず、2016年5月にエルドアンによって辞任を強いられたのである。

代わりに1990年代のイスタンブル市長時代から側近として彼を支え、公正と発展党政権下で長く交通・海運・通信大臣を務めてきたビナリ・ユルドゥルムが首相に据えられ、大統領制移行までの最後の首相を務めた。

2013年春以降、エルドアン政権は多くの国内外の政治的危機に直面してきた。2013年5月末からの反政府デモとそれへの過度な暴力的鎮圧政策に対する国内外からの批判、同年秋移行から年末にかけてのギュレン派との対立激化と政府要人やその親族の汚職疑惑、2014年秋のコバニの戦闘に象徴される、内戦中のシリアにおけるクルド自治地域宣言と連動したトルコ内でのクルド武装組織(PKK)の活動活発化やシリアで勢力拡大する「イスラム国」へのトルコ政府支援に関する国際的疑念の高まり、トルコ・ルートによるシリア難民の欧州流入をめぐるEUとの関係悪化、こうした過程全体を通じての、政府に批判的メディアや市民組織の弾圧・閉鎖、政治・市民活動家や学術研究者の不当な逮捕や長期拘留、パージが深刻化してきた。2016年5月にはクルド系左派の諸人民の民主党議員のパージを主目的として、当時、起訴されながらも不逮捕特権のゆえに裁判が行われていない議員について、その時点で起訴された案件を有する議員だけに限定して不逮捕特権を解除する時限憲法改正を実現した。この後、同党共同党首を始め多くの議員が逮捕され、有罪判決を受けて留置されることになる。2016年7月の失敗したクーデタはこうした流れをさらに加速させた。非常事態が宣言され、パージや政府批判への弾圧は空前の規模に達した。こうした背景の下、2017年1月に大統領制移行のための憲法改正法案が国会で可決され、同年4月の国民投票によって僅差で承認された。

非常事態宣言は、大統領制への移行をなす2018年の大統領と国会の同日選挙を終えた後、7月21日をもって終了した。2016年7月の失敗したクーデタ後に非常事態宣言が発布されて以降、政権は3か月ごとに更新してきたが、新体制発足後に政権がその更新手続きを取らなかったことによる自動的な終了であった。選挙までと比べて、治安に関わる状況が大きく変わったわけでは特になく、むしろ選挙戦を非常事態宣言下で行うことが政権に有利に働くために、漫然と延長し続けたという見方もできる。他方で、クーデタやクルド問題にかかわる警察の取り締まりや司法手続き・判断に非常事態宣言終了が大きな意味をもったのかもはっきりしないほど、その後の民主的権利や市民的自由の状況は厳しい。

(3)2017年憲法改正による大統領制の特徴

2017年国民投票により導入された大統領制の概要は次の通りである。具体的には2018年6月の大統領選挙で新制度の大統領となったエルドアンが大統領令を通じて新しい体制を整え、彼の執政スタイルが新しい体制がどのように動いていくのかを決めてきたといえる。以下に、まずは法律上の制度について説明し、その後で実際の執政スタイルの特徴についてみていく。

大統領と国会議員の任期と選挙(詳しくは「選挙制度」の項を参照)

大統領(40歳以上の高等教育修了者)と国会議員(一院制、定数600名、18歳以上に被選挙権)は同日選を基本とし、任期5年とされる。国会には大統領や内閣不信任決議の権利がない代わりに、定数の3/5(360)以上の議員の賛成を以って早期解散総選挙を行い、任期途中の大統領に選挙を強いることができる。大統領は原則3選禁止であるが、2期目に国会の早期解散総選挙によって任期が短縮された場合に限って3期目に立候補することができる。逆に大統領は、いかなる理由であれ、何時でも大統領選挙を決断できる。例えば、国会における党勢の改善を試みるたの解散総選挙も可能である。

大統領の権能

大統領は国家元首であり執政府の長として以下の権限を有する。国会が可決した法律を公布したり、国会に再審議のために差し戻したり、国会内規や憲法に反しているとして憲法裁判所に廃止を求める裁判を起こすことができる。国会議員被選挙権を有する国民の間から副大統領や閣僚を任免する。幹部職官僚を任免する。国際条約を批准し公布する。国家安全保障政策を策定し、必要な対策をとる。トルコ国軍の出動を命じる。受刑者の病気や障害、高齢を理由として量刑を減免する。予算と決算の法案を国会に提出する。

また非常に重要な権限として、執政にかかわる大統領令を発布でき、そこには、省庁設立・廃止、目的と権限、組織構造、省庁の中央と地方の組織設立の決定も含まれる。大統領令は国会の承認を必要としないため、大統領は大統領令を以ってほとんどありとあらゆる執政を単独の意思で行うことができる。憲法による大統領令発布制限要件は以下のとおりである。憲法の人権や個人の権利義務にかかわる政治的権利義務と関連すること、特に法によって規定すると憲法が定めていること、既存の法律に明文規定があること、である。大統領令と法律が矛盾する場合、法律が優先する。大統領令の規定と同じ事柄について法律を制定した場合、法律が優先する。ただし、このような大統領令制限を要する条件が生起した場合に、どのような手続きで制限を実行するのかは憲法では定められていない。大統領が人権等にかかわる憲法上の規定に反する執政を許されるのは、非常事態宣言下で発令する大統領令によってである。ただし、そのような大統領令は、3か月以内に国会の承認を得る必要があり、さもなくば3か月をもって自動的に無効となる。換言すれば、3か月を上限とする人権侵害が大統領の単独の判断で可能となる。

司法との権力分立は以前に増して大統領の影響が大きくなった。判事と検事の人事を司る判事・検事高等会議の名称が判事・検事会議と改められ、委員数は22名から13名へと削減された。法務大臣と法務次官が職権の一部として会議構成員となることが規定されているが、この2名は大統領の政治任用による。その他、大統領は判事と検事の中から4名を選ぶことが規定された。直接的に選出できることになる。他方で、国会は4名を最高裁判所や行政最高裁の判事から、3名を大学の法学部教授と弁護士から、計7名を選ぶ。国会は当然ながら数的に勝る与党の意向が反映されやすく、大統領と同じイデオロギー的立場の委員や大統領が御しやすい委員が多数を占めやすい懸念がある。

大統領制移行は2018年6月の大統領選挙を以って行われたが、大統領が選出後も党籍を維持することを認める改正は、2017年国民投票後に直ちに施行された。2014年の大統領当選に伴って党籍を離れていたエルドアンは、2017年5月に公正と発展党の党籍を回復し、同時に党首に就任した。

国会の権能

国会は立法、予算と決算の法案の審議と承認、通貨発行、交戦権発動、国際条約批准の承認、定数の3/5以上の賛成による恩赦が特に憲法改正法案で明記されている。他方で、大統領令という立法に基づかない執政手法に広大な執政領域が付与されているために、立法府として行政上のルールを整え、執行府をチェックするという一般的な存在理由が事実上はどれだけあるのか疑問である。選挙制度の項目で説明するように、新体制においても従来通りのドント式の大選挙区制がとられており、議会の過半数が大統領の所属政党の議員で占められている場合、国会は形式的存在となる可能性が強い。また、民主的体制では国会には執政府のチェック機関としての役割が期待されるところであるが、前述のように大統領不信任決議の権限はなく、自らの任期を犠牲にして大統領選挙を前倒しさせる以外に大統領の政治責任を問う手段はない。さらに、大統領が提出する予算案の可決についても、国会が法定期限までに承認しない場合には、前年度予算案を踏襲して大統領は執政を継続できるとされ、米国で見られたような、大統領と議会が対立して政治が麻痺するという事態は回避されている。換言すれば、議会は大統領に対して予算案否決という手段で対抗することもできないということになる。

大統領に対する刑事的訴追権については以下の通りである。大統領が刑法上の犯罪を行ったとして国会の過半数が訴追を提案し、定数の3/5以上の秘密投票により可決した場合、会派勢力比に応じて訴追委員会が結成される。同委員会は2か月以内に訴追報告書を国会議長に提出する。訴追報告書は国会で審議されたのちに、定数の2/3以上の賛成(秘密投票)をもって弾劾法廷(実質は憲法裁判所)に送致される。訴追プロセス中の大統領は早期選挙決定権を行使できず、弾劾法廷で有罪となった大統領は失職する。大統領就任中に犯したとされる犯罪行為については、退任後も上記の訴追手続きが適用される。現行の制度では、大統領が党首として党内人事と国会議員候補者リスト選定の権力を一手に握っている。ために、大統領所属政党が2/5以上の議席を占める国会では、訴追による大統領解任はかなり困難である。ちなみに、副大統領と大臣についても職務に関連して行ったとされる犯罪の訴追については大統領と同じ手続きが適用される。職務と無関係の犯罪行為については議員の不逮捕特権規定が適用されるとされ、就任中の司法的処罰適用は国会の決定による。離任後は不逮捕特権は終了し、就任期間は時効期間に参入されないため、副大統領や大臣に対して任期後に刑事責任を問う可能性は広く開かれている。これに対して、職務関連かどうかにかかわりなく大統領の就任中のあらゆる犯罪行為について訴刑事責任を問うためにクリアーすべき条件はかなり厳しい。

2017年憲法改正案は大統領制への急な移行のために用意されたため、既存憲法の部分的変更にとどまった。しかも、10年以上にわたって国会や市民社会で議論されてきた、軍事政権が制定した現行憲法を市民的かつ民主的な精神に基づいた新憲法に置き換えるという大義を叶えるには程遠い内容となった。ひたすらにエルドアンにより強大な権限を付与することを目的として体制変更を急いだために、大統領制移行による制度改編の全貌を理解しているのはエルドアンとその取り巻きの一握りという状態で、憲法改正へ突き進んだというのが実情である。大統領を抑制するための権力分立の回避が意図された制度だとして、トルコ国内では「トルコ風大統領制」とも呼ばれるが、政治的な危機が続く中で、トップダウンで迅速な執政を目指したものだとしても、エルドアンの事実上の独裁体制の道具となってしまうことが大いに危惧され、実際に西洋諸国との外交関係悪化とも関連しながら、国内的な政治経済的危機や不安がむしろ強まる結果になってしまったといえる。

大統領令による政治

そのような強権的な大統領制を象徴するのが、中銀総裁人事である。中銀は政権からの独立が国家の経済的信用度にも大きく影響するとされるにもかかわらず、エルドアンは大統領制移行以前より、中銀への介入を続けてきた。主流派の経済学に基づけば近年のトルコの経済的局面では金融引き締めが適切とされる状況であるが、エルドアンは金融緩和に固執し、中銀に圧力をかけるだけでなく、逆らう中銀総裁のすげ替えを繰り返してきた。しかし、大統領制移行後は、その頻度が増し、政権発足後3年足らずの現在、すでに総裁は4人目である。現総裁は、エルドアンに従順な人物と評されているが、国際的な信用への悪影響のために、経済的にはより不安定化している。

この中銀総裁を含め、前述の通り、閣僚や省庁幹部、大学学長などの任免、さらに国際条約の批准は、議会の承認を要さず、大統領令によりエルドアンが単独で行使できる権限である。つまり、形式として議会での説明や議論が不要であり、エルドアンが決めるタイミングで大統領令が公布されればこと足りるということになる。実際、エルドアンは真夜中に上記要職の人事や、2021年3月に国際的にも議論の的となった、いわゆる「イスタンブル条約」(欧州評議会による「女性への暴力およびDV防止条約」)からの脱退も、真夜中の大統領令発布により実行してきた。大統領制移行以前も、エルドアンに物申す政府や党の重鎮が更迭され、イエスマンが要職に置かれて、議会でもエルドアンの意向に応じて賛否の投票をする傾向は非常に強まっていたが、それでも形式的には、閣議や国会内各種委員会、国会で説明をする必要があった。しかしもはや、大統領令による政治にはそうした説明という工程は存在せず、エルドアンがその気になった時に取り巻きの記者の質問に答えるだけで、物事が進んでいく事態に陥っている。また、政府要職にある人々も、真夜中にホームページに発表される大統領令を見て、自身の罷免を知る、という状況であり、政治の不透明感は極めて深刻な状態となっている。

特に2016年7月のクーデタ実行未遂事件以降のエルドアンは、非常事態宣言も利用しながら批判的メディアの弾圧を徹底したが、同宣言終了後もそれは続いてきた。最近ではシンパによる直接的暴力事件もジャーナリストだけでなく野党政治家に対しても発生しているが、警察や司法の動きは鈍く、エルドアンもそうした事件について沈黙しており、事実上の黙認と受け取られている。また、ソーシャルメディアなどでエルドアンの政敵などに誹謗中傷活動を先導するグループの一人とされ、「荒らしの女王」とも揶揄される人物が国営放送局の理事会役員に任命され、物議を醸した。

大統領令による説明なき政治と批判勢力への見せしめ的リンチに依拠する政治は、2013年のイスタンブル・ゲズィ公園デモ以来の閉塞感を一層強めている。2021年夏は、前年からのコロナ・ウイルス禍の継続に加えて、異常気象による各地での水害・大規模山火事・干ばつが相次いでおり、経済不況に加えて農作物不足による物価上昇が一層進行するとみられる。シリア難民受け入れの負担感が解消されないなかで、アフガニスタンからの米軍撤退に伴うアフガン難民流入もメディアで取りざたされており、任期満了となる2023年まで現状を維持できるのか、全く予断を許さない状況である。

(4)大統領制発足後の動きについて

エルドアン新体制は7月10日に最初の大統領令(Cumhurbaşkanlığı Kararnamesi)を発布(議会の承認不要)して始動した。旧来の26省体制を16省に整理するとともに、省以外の主要組織の位置づけや責任関係が明文化された。2021年8月末時点では、さらなる再編を経て、17省体制である。

注目閣僚の配置と政治腐敗の深刻化

第一号の大統領令と同時に閣僚名簿も発表された。改選前の内務相、法務相、外相の留任、選挙前の国軍参謀総長の国防相就任という布陣から、国内外のクルド問題やシリア内戦をはじめとする外交政策での現状維持路線と、イエスマンの布陣継続が明らかとなった。また、国庫・財務大臣には、改選前にエネルギー相だった娘婿のべラット・アルバイラク(Berat Albayrak)が横滑りした。アルバイラクは経営学で博士号を取得し、エルドアン政権との結びつきの深さで知られるチャルク財閥(Çalık Holding)で経営責任者を務めるなど、経営畑を歩んできた。自らを抜擢してくれたカリスマ的な義父の意向に反した政策が財政政策的に不可欠と思われる場合に、エルドアンに意見することは困難だろうと予想されたが、結局、経済状況が悪化する中で有効な政策を打ち出すことができないまま、2020年11月に突如としてインスタグラムへの辞意表明文をアップした。エルドアンも辞意をインスタグラムを通じて知ったと噂された。表向きは健康理由での執務困難が示されたが、国政に関する面でいえば、金融政策などでのエルドアンとの見解の相違が取りざたされたが、エルドアンの娘である妻との不仲も報じられており、実際のところは不明である。

エルドアンの女婿の大臣任命は大統領制移行以前から与党支持層も含めて批判の的となっていたが、大統領制下でのエルドアン政権ではエルドアン自身の身内や取り巻きの身内の重用が以前にもまして目立っている。最近の例では、現職大臣の息子が国営放送局の理事会役員に任命された他、大使の娘二人がともに大統領顧問となっている。これは公職への抜擢の例であるが、民間企業や財団として公共事業参画を通じて事業を拡大し、経営陣として多大な利益や利権を手にしていると考えられる政治家親族はエルドアンの子供も含めて多数にのぼる。前通商相に至っては任期中に、夫と共同経営する会社として、通商省への物品納入案件を落札していたことが報道されたのがきっかけで、任を解かれている。この他にも、少なからずの政権幹部が、いくつもの公的組織の委員を務めて多くの収入を得ているのではないかと報道されるなど、政治倫理に関わる目は、市民生活が困窮を極める中で、非常に厳しくなっている。しかし、政府批判を繰り広げることは、ネットメディアをのぞけば、マスメディアでは非常に難しい他、イデオロギー的にメディア市場の棲み分けが進んでいる状態で、政府系のテレビ局や新聞しか目にしない有権者に、こういった問題が与える影響は限定的だと考えられている。

軍に対する文民統制の完成

大統領制移行に伴う省庁再編は、エルドアンやトルコのイスラム復興勢力の多くにとって積年の課題だった、軍部に対する文民統制の完成という点でも、大きな意味をもった。まず、大統領令第4号により国防省の管轄下に軍が置かれることが明記された(第799条i項)。この大統領令以前には、トルコ国軍は多くの国に一般的な国防省の管轄下ではなく、議院内閣制における最高政治責任者としての首相に対して、内閣が策定した軍事政策の実施に関わる責任を負っていた。他方で2013年夏に「国軍内規に関する法」(Türk Silahlı Kuvvetleri İç Hizmet Kanunu)が改正されるまでは、対外脅威に対する国土防衛と並んで、「憲法に規定されたトルコ共和国体制を守ること」が国軍の主要任務であった。これはイスラム復興運動やクルド民族主義運動が従来の政治体制の変更、つまり、世俗主義を放棄してイスラム的政策を容認したり、トルコ民族主義的中央集権体制を緩和して国民の多様なアイデンティティに応じた多元主義的・地方分権的統治システムを取り入れる、といった政治要求の高まりを阻止するために、内政に干渉し、場合によってはクーデタを実行して軍事政権を敷き、そうした「国内的脅威」を除去することも、軍の主要任務であることを意味する。実際、内政への軍の介入は様々な形で実施され、トルコの民主主義の成熟という点で、長く主要な課題とされてきた。

この内政に関わる任務が政権や国会に対する政治監督者の地位を意味したがゆえに、軍は政権や司法に対して事実上は高度な自律性を維持してきた。2002年以来続いた公正と発展党単独政権が一歩ずつ実現してきたのが、このような軍の高度な自律的地位をはく奪し、文民統制を法的にも実際的にも確立することだった。二つの象徴的変化を取り上げるとすれば、一つは、かつて軍が憲法上の多様なメカニズムを通じて「国内的脅威」の排除に務めてきたが、そのメカニズムを着実に切り崩してきたことである。高等教育や放送に関わる大枠を設定する会議体に憲法規定として配置されていた軍代表ポストが2004年にまず廃止された。上述の2013年の法改正では、「国内的脅威」から体制を守ることが軍の主要任務から削除された。

また、より短期的な安保・治安政策を策定する国家安全保障会議と、軍に関わる法規定やより中長期的安保政策について議論する高等軍事評議会は、かつては圧倒的に軍中心のメンバー構成だったが、文民優位の構成へと再編されてきた。特に後者については、思想・イデオロギー的理由から軍人のパージを決定する会議体としても長く機能してきたが、2016年クーデタ後の対応として組織改編がなされた際にようやくその機能は廃止された。同時に、かつては首相と国防相のみの文民委員に対して参謀総長以下、ジャンダルマを含む4軍司令官やその他の陸・海・空軍大将(orgeneral、oramiral)などが居並んでいたものを、クーデタ後に軍委員を削減し、代わりに外務や内務、法務など主要閣僚を配置して人員バランスを調整していたが、今回の大統領令ではさらに国庫・財務相、国民教育相が新たな常任委員に加わった。従来、軍は予算に関してもかなりの自律性を持っていたと言われるが、文民委員の布陣は、予算に関しても文民政権の優位を示唆している。

軍部の政府との責任関係という観点からいえば、大統領令第4号により参謀本部が国防省所管となったことは述べたが、参謀本部だけでなく、陸・海・空軍司令部(komutanlıklar)はそれぞれが個別に(つまり参謀本部とも別個に)国防省所管となり、それぞれのトップは個別に(つまり参謀総長経由ではなく、直接的に)国防相に対して責任を負うことが規定された。ジャンダルマは2016年クーデタ後にすでに内務省所管になっていたため、今回のこの組織関係再編によって、軍全体の文民政府に対する一体としての自律性が法的には解消されることになった。人事権も、幹部階級の将官(general、amiral)については大統領の(大統領令第3号第9条)、その下の階級の士官(subay)については国防相の権限となった。(https://www.hurriyet.com.tr/gundem/cumhurbaskanligindan-7-kararname-savunmada-yeni-donem-40897980

もう一つの文民統制強化への変化としては、軍を司法的にも文民システムに組み込むことが目指された。1961年以降、トルコでは軍関連の裁判所が複数設立され、いわゆる軍内部の規律に関わる案件以外についても、何らかの点で軍に関わる限り、全てこれらの裁判所で扱われてきた。例えば、軍の敷地で発生したが、他国であれば一般の刑事事件として文民裁判所で扱われる案件であっても、軍内部の裁判所の管轄とされた。つまり、軍関連の裁判所の管轄は非常に広範で、文民裁判所はその軍関連裁判所の管轄事項について別途、審理を進めることはできなかった。しかし、2004年の国家治安裁判所廃止を皮切りに、2010年には軍幹部が憲法裁判所における弾劾法廷で裁かれる道が開かれ、軍内部司法機関の管轄から民間人の関与する案件が除外されることになるなど、軍の司法的自律性は浸食されてきた。2017年の大統領制移行に関する憲法改正案には、残る軍関連裁判所にかかるすべての憲法規定が削除される条項が盛り込まれており、しかも国民投票により承認されたのちには直ちに適用される条項とされたため、国民投票の承認後に軍関連裁判所は早速、廃止されている。

こうした文民統制の確立期に政府と軍部の結節点である国防相人事は大統領と軍の双方に信頼関係があり、経験に依拠した権威を示せる人物である必要がある。その要職には前参謀総長のフルスィ・アカル(Hulusi Akar)が任命された。トルコ国軍は世俗主義の擁護者を自任し、しばしば内政や組閣人事に介入し、文民政権からほとんど独立して作戦を実行する伝統を有していたが、エルゲネコン裁判による軍幹部パージ以降、政権とイデオロギー的に近い軍幹部が登用されてきた。アカルもそうした一人である。彼は本来は、2016年クーデタを起こした組織のトップとして責任追及を免れ得ない立場であったが(また、実はクーデタのプロセスにおける彼の立ち位置について不透明なところも少なくないが)、政権とイデオロギー的に近い幹部の手薄さ故か、現在に至るまで国防相を務めている。いずれにしろ、現在、軍は指揮命令系統上は、完全にエルドアンの支配下にあると言える。

参考文献 

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2021年8月26日

モロッコ/最近の政治変化

(1) ムハンマド五世:調停役としての国王

1956年独立を達成したモロッコ最初の国王は、ムハンマド五位であった。彼はアラウィ一朝第15代君主として1927年11月18日に即位したが、政治の実権を回復したのは、モロッコ独立後である。

彼は王制の「調停役」としての役割を強調した国王であった。保護領政府統治下のモロッコで、独立運動にとってムハンマド五世の王位回復は「独立の象徴」であった。保護領政府に対する抵抗スローガン”Thawra al-Malik wa as-Sha’b(王と国民の革命)にみられるように亡命中の王が王位に復帰することが、モロッコの独立を意味した。

「調停者」としての国王を支えたのは、独立後に創設された軍と警察の、国王に対する絶対的忠誠であり、さらに省庁と軍の大臣・長官や高級官僚の人事権を首相ではなく、国王が一手に握ったことで、国王の権力はさらに強化された。

省庁のうちで、国王権力の強化に最も直接的に関与したのは内務省である。1956年3月20日発令の勅令で、「カーイド及び知事の任命、昇進、辞職、降格、懲戒、転勤はすべて勅令によって発令されることとする」と定め、内務省の官僚および内務省管轄の役人の人事は国王がおこなった。

さらにその内務省の活動を支えたのは、軍である。軍の活動は、内務省と連動して行われ、内務省の地方役人は、その地に駐屯する軍の分団を治安維持のために発動させることができた。軍の果たすべき役割は、防衛や治安維持だけにとどまらず、中央官僚や地方役人として行政に参加することも含まれていた。軍の編成実務の責任者は皇太子、そして国王が軍人事に関する最終的裁量権を持っている。

王制にとって潜在的な脅威であるイスラーム運動を監視することも重要な内務省の職務である。この監視は、内務省が宗教省や「公的なイスラーム」を代表するウラマー協会と協力しておこなった。

立憲君主制の準備段階として、モロッコ国家諮問会議(Le Conseil national consultatif marocain)が1956年8月3日の勅令によって設立されたが、この会議は三年間しか続かなかった。

なお、ムハンマド五世は宗教的な権威を示す「アミール・アル・ムーミニーン(信徒の指揮者)」の称号を、独立後も、破棄することはなかった。独立の可視的な象徴となったことで、彼は世俗と聖の両方を、つまり保護領統治以前から有していた「アミール・アル・ムーミニーン」と独立後の近代的な意味での国家の長という二つの機能を体現することとなった。後述するように、この聖俗両面での権威を、国王があわせもつ状況は、現在に至るまで続いており、イスラーム運動への対抗手段としても重要な役割を果たしている。

(2) ハサン二世:憲法改正と権力の分配

モロッコの政治的場を構成する諸集団の間の「調停役」としての役割を推進することで、聖・俗両方の最高権威者としての国王権力の強大化を進めたムハンマド五世の後を継いだハサン二世(1961-1999年)は、憲法改正という法的手段を利用した、権力の巧みな分配によって、国王権力の強化をはかった。

独立後のモロッコ最初の憲法は1962年に制定された。1962年のアブドゥッラー・イブラヒーム内閣解散後に誕生したこの憲法では、「権力分立」とはほど遠く、国王の手にあらゆる権力が集中していた。憲法の条文をみると、モロッコは民主社会的王制(第1条)であり、憲法にかなった方法で設立された機関を通して行使される主権を有するのは国民である(第2条)と明記されている。しかし、閣僚の人事権を有するのは国王(第24条)であった。

国王は「アミール・アル・ムーミニーン」、国民の最高代表者、国家統合の象徴、国家の存在と継続の守護者であった。また信仰の擁護者であり、憲法尊重の守護者でもあった。国王は市民・共同体・組織の権利と自由を守る責任を有し、国家独立を守り、国土防衛の保障者(第19条)でもあった。しかし、緊急事態の際、介入する権利が国王に保障されていた(第35条)。どのような状況が「非常事態」であるのか、いつまでが「非常事態」なのかを判断するのは国王であり、「憲法体制を正常に再び機能させるために(第35条)」国王は、事実上無期限に無制限の権力を発動することが可能であった。実際1965年、ハサン二世は、「このまま空虚な議論を続けさせれば、モロッコの民主主義、倫理的価値観、創造への意志が失われてしまう」ことを理由に、議会を停止している。

1962年憲法では、議会は二院制と定められた(第36条)。下院議員は普通選挙で、上院議員は農商工会議所や労働組合が選出した(第44、45条)。新法が国王によって発布される前には、議会の承認か国民投票による承認が必要とされ(第26、62、73、75条)、立法権は、憲法上は議会に属していたのだが、実際は国王が「助言」することが度々であった。この憲法の文言では、国王の手に行政権を委ね、国王の立法権は制限されていた。しかし、立法権に関しても「助言」という形で、国王が大きな影響力を有していたのである。

1970年の憲法改正によって、国王権力はさらに強化された。首相の行政権の行使は、例外的な場合に制限され、しかも国王のイニシアティブによるものとされた(第29条および第62条)。この改正で、国王の行政権が強化された。また二院制が一院制に改められた(第36条)。議員の任期は6年で、直接選挙によるものと、商工会議所や職能組合を通した間接選挙によるものという二種類の選出方法が定められたが、直接・間接選挙による選出の具体的な

割合は、憲法では定められていない(第43条)。この憲法改正の直後に議会選挙が実施されたが、再度憲法改正を実施することを理由に、1971年末には1970年に開始した会期の議会が停止されている。

1972年、二度目の憲法改正が行われた。この改正では「1962年憲法と1970年憲法に定められた中間的なところ」に議会を位置づけた。一院制のままであったが、3分の1の議員を直接選挙で、3分の2の議員を間接選挙で選出することを憲法に明記し(第43条、なおこの条文は1980年5月30日の国民投票で、3分の2を直接選挙で、3分の1を間接選挙での選出に変更)、二院制放棄を補完するものとした。行政権は国王と政府に与えられていたが、国王は立法案や政府計画について「新しい解釈」を要求することが可能であり(第66条)、この国王の要求を政府が拒否することは認められていなかった(第67条)。

首相を含む閣僚全員の人事権を国王が握っていることからも、議会が国王にコントロールされる機関であったことは明白である。さらに内閣不信任案の提出に必要な議員数は、1962年憲法では総議員の10分の1であったのが1972年憲法では4分の1に引き上げられた(第75条)。この改正で、政党が政府の政策に対して不信任案を提出することはほぼ不可能となった。

また1971年ラバト郊外のスヒラートの王宮で発生したクーデター、そして1972年に発生したウフキール将軍が首謀者とされるクーデターは、いずれも未遂に終わったものの、70年、72年の憲法改正への不信を象徴する事件であった。

1972年のクーデター未遂について、ウフキール将軍はハサン二世の乗る飛行機を襲撃した首謀者とされ、後に「自殺」したとされる。「反乱を企てた、あるいは反乱を起こす可能性のある」者の最期の近似例としては、1980年代サハラ問題で功績を挙げたアフマド・ドゥリーミー将軍が卓越した人気を得るようになった後、不可解な自動車事故で亡くなった事件がある。ドゥリーミー将軍の事件以後、軍の司令官級の人物は、国王のライバルとなる程に個人的に賞賛をうけることは事実上タブーとなった。

1970年代のモロッコは、二度のクーデター未遂を経験し、隣国アルジェリアとの関係も西サハラ問題をめぐって緊迫化した。また、大衆諸勢力全国連合(UNFP:Union nationale des forces populaires)内部の対立が1972年頃から表面化し、1975年にはUNFP から分裂した大衆諸勢力社会主義連合(USFP:Union socialistes des forces populaires)が党を結成したが、同年USFPの指導者の一人で、モロッコ全国学生連合(UNEM : l’Union nationale des étudiants du Maroc)、モロッコ労働組合(UMT: l’Union marocaine du travail)の指導的立場にもあったオマル・ベンジャルーンが暗殺されるなど、国内外の政治・社会状況は不安定なものとなった。

このような状況の中で、72年の憲法改正後の1972年4月30日に予定されていた議会選挙は延期され、結局実施されたのは1977年6月3日で、1971年末に停止された議会は、1977年10月に再開されるまで空白の期間が続いた。

前述したように、省庁のなかでも内務省は王制の番人とでもいうべき存在であったが、特にその役割が強調されるようになったのは、1979年イドリース・バスリーが内務大臣に就任してからである。首相は頻繁に交代し、様々な政党の出身者が就任したのに対して、バスリーは、1999年に現国王ムハンマド六世によって解任されるまで20年間にわたって内相の職にあり、西サハラ問題など、必ずしも内務省の管轄ではない重要な政策決定にも関わった。

1992年の改正では、国王が任命した首相による他の閣僚人事の提案を受けて、国王が任命するよう変更され(第24条)、1993年の内閣組閣に際してラムラーニー新首相に国王が実際に閣僚リストの提出を求めた。ただこの内閣の閣僚には国会議員はまったく含まれておらず、主権者であるはずの国民の意思が「憲法で定められた諸機関(第2条)」の代表的機関である国会を通じて政策に反映されるような状況とは程遠かった。

また「非常事態においても国会は解散されない」と明記された(第35条)。しかし、この憲法改正により新たに設置された憲法評議会の議長、首相、国会議長に諮ったのち、非常事態を宣言し、あらゆる必要な措置を国王自身がとる権限は何ら制限されていない。

1996年、一院制を二院制に変更するための憲法改正が国民投票で承認された。

1997年11月の選挙に続いて、大衆諸勢力社会主義連合(USFP:Union socialistes des forces populaires)党首アブドゥルラフマーン・アルユースフィーの首相任命は、左翼に権力を分配することで、近い将来の皇太子(現国王ムハンマド六世)の王位継承を円滑にする布石の一つであったとも考えられよう。 

以上、これまで四度に渡った憲法改正のうち最初の二度の改正によって、行政・立法両方の権限を国王に集中させたうえで、後の二度の改正で憲法評議会の設置や非常事態での国会維持という「譲歩」、二院制の復活をおこない、そして長年国王と敵対関係にあった左翼政党党首を首相に任命して、国王権力の維持に「有益な」形で権力分配をおこなったといえよう。

(3) ムハンマド六世:経済的発展と「民主化」

1999年7月23日に、ハサン二世の死去により、皇太子がムハンマド六世として36歳で即位した。軍のコーディネーターであった皇太子時代、大衆は概ね彼に親しみやすい印象を抱いていた。

ムハンマド六世が強調しようとした国王像は「リベラルな改革者」である。スピーチで、「立憲君主制を堅持し、複数政党制、自由経済、地方分権化、法の支配、人権尊重、個人の自由を推進する」と明言した。また「父ハサン二世のすすめてきた教育改革計画と連動させて雇用問題の改善に尽くす」ど、モロッコで最も深刻な社会問題の一つである失業問題にも言及した。このスピーチは、ハサン二世即位時のものに比較するとはるかに具体性があった。ハサン二世のスピーチでは、イスラームの擁護と領土保全についての国王の決意が述べられた後、国民の義務についてのみ言及されている。当時の諸社会問題の解決などはまったく触れられることはなかった。

政治面では、バスリーに代わってアブマド・ミダーウィーが内務大臣に任命された。バスリーの内相退任を世論は非常に歓迎した。実際、前述したようにバスリーは1979年から20年間内相を務め、モロッコの「治安維持」に大きな影響力をふるった人物であり、この退任はモロッコの政治展開を民主化の方向にひきよせる契機となった。

モロッコ王制を今後揺るがしかねないほどの国民の不満を生む可能性が最も高い問題は、ムハンマド六位があえてスピーチでも言及した失業問題であろう。

失業問題は、都市部では特に深刻である。ハサン二世の死の直前、1999年7月初めにも、ラバトで大学を卒業して失業している若者たちが職を求めて抗議行動をおこした。また、大学あるいは大学院を卒業したが職のない、高学歴の失業者たちは「高学歴失業者組合(L’Association nationale des chômeurs diplomés)」を結成した。このラバトでの抗議デモは直接的には内務省を、間接的に王制に圧力を与えることとなり、ハサン二世は遅まきながら、失業問題を領土問題に次いで重要視することになった。前述したようにハサン二世は、イスラーム運動の対抗を視野に入れ、王制の宗教的正当性として「アミール・アル・ムーミニーン」としての側面の強調につとめた。ムハンマド六世もラマダーン期間中に、イスラーム世界各地から招聘された学者らが国王の前で講義をする「ドゥルース・ハサニーヤ」(その様子はテレビ中継される)を継承するなど、宗教的指導者として自己を演出する場はハサン二世のときと同様に維持している。しかし、イスラーム運動が社会的弱者の救済を担う限り、「アミール・アル・ムーミニーン」であることを強調するだけでは、有効なイスラーム運動対策とはなり得ない。ハサン二世の宗教的正当性の強調という策の裏面は内務省と警察による「治安維持」であり、すでに1992年の憲法改正で国際社会を意識して「人権の擁護」が前文に掲げられたように、人権問題を無視できる時代は過ぎた。ムハンマド六世は社会的弱者救済、具体的にはまず失業問題の解決を図ることなしには、イスラーム運動が王制の宗教的正当性を脅かす存在であり続けるだろう。即位後すぐのスピーチで国王自ら述べたように、社会・経済分野で国民に満足を与えうる「リベラルな改革者」という新たなる正当性を確立することがムハンマド六世の今後の課題となろう。

(4) イスラーム主義の挑戦

イスラーム運動は、ムハンマド六世の改革にとって障害となる可能性のある存在である。モロッコ最大のイスラーム運動である「公正と慈善の集団(Jama’ al-‘Adlwal Ikhsan)」の指導者アブドゥッサラーム・ヤースィーンは、モロッコの大衆がイスラームの教えに忠実になり、徳を備えた指導者を戴くことができれば、モロッコの諸問題は解決されると考えている。彼は欧米流の「民主主義」や「近代化」には批判的で、同時に国内の社会的不正義や汚職、政治的腐敗について、ムハンマド六世の父、ハサン二世に対して公開書簡を送って自宅軟禁となるなど体制批判を繰り返している。ただ、ヤースィーンにとって、指導者一人の手に権力が集中していても、その指導者が宗教的倫理を尊重している限り、その存在は受容できるものである。欧米流の「近代化」については、「『近代化』のイスラーム化」を目指している。ムスリムはイスラームの倫理的枠組みと社会秩序を維持する限りにおいて、欧米の科学技術や思想を借りることができる、とヤースィーンは考えている。宗教を私的空間に限定し、公的空間では法の支配を強化しようとする近代化・民主化推進に対するこのようなイスラーム運動の抵抗は、ムハンマド六世が、保護領化される以前のモロッコに比べればかなり形式的になったとはいえ、預言者ムハンマドの子孫であるシャリーフとしての側面、そして「信徒の指揮者」としての側面といった宗教的正当性を維持している限りは、王制にとって決定的な脅威とはなり得ないだろう。

モロッコでは新たに国王が即位すると、バイアの儀式がおこなわれる。ただかつてはモロッコ各地の共同体の代表者たち、宗教学者、有力者たちがバイアをおこなったが、現在では多くが政府高官、政府に雇われている宗教学者たち、官僚、宮廷に勤めている人々で、彼らと国王との関係は平等ではないため、かつてのように君主に対する要求を盛り込む余地がほとんどなく、バイヤは儀礼的なものとなる。このような原則と現実の落差に、イスラーム運動が存在する場が生まれる。しかし共同体の成員と代表者はともに良いムスリムで、常に共同体の利益を考えて行動するといったイスラーム運動の考える政治的代表の概念もまたユートピア的である点で、現実との落差があることは否定できないだろう。

ムハンマド六世が即位してから約10年が経過した。その間、これまでのモロッコ政府内での汚職や弾圧などについて積極的に摘発をおこない、2004年に公正と和解委員会(L’Instance équité et réconciliation)を設置し、ハサン二世の時代に、国王に反対する人々に対して行われた人権侵害について調査を開始したことについて、モロッコのメディアは大きく報じ歓迎した。またモロッコ史上では初めて自らの妃の姿を公にし、最近は国内だけではなく、愛知万博訪問なども含め妃単独での海外公務も増えている。

現在、英国などの西欧諸国の立憲君主制とはかなり内容が異なるが、中東諸国のなかでモロッコとヨルダンのみが憲法と国会を伴った「立憲君主制」を有している。前述したように、モロッコの場合、独立後ムハンマド五世が、保護領期以前から君主たちが依拠してきた宗教的権威を基盤に、王制を諸政治勢力の「調停役」として位置づけることで国王の権力強化をはかった。続くハサン二世は憲法改正によって、国王-権力を集中させたのち、漸次的に諸政治勢力へ権力を分配し王制の安定化をはかった。この安定化のプロセスは、王制にとって「潜在的脅威」であるイスラーム運動の対抗策としての、1970年代なかばから宗教的正当性の強調と並行してすすむこととなった。

その結果、中東地域で共和制を採用する諸国と比較して、モロッコは「安定した」社会を維持している。しかし識字率は依然国民の6割程度にとどまり、失業問題は深刻である。経済・社会面での満足感が生まれる状況をつくりだせるか否か、という点が、今後社会が王制に正当性を認める交換材料となるだろう。

(5) 国家人間開発イニシアティブ(INDH: Initiative nationale pour le développement humain)

前述のように、モロッコにおける最大の課題は、失業問題と貧困である。失業問題は特に都市部で、そして貧困問題は特に地方村落部で深刻であり、1999年に即位した国王のムハンマド六世は、家族法を改正し女性の地位向上を推進するなど、積極的に自国の抱える社会・経済状況の改革に取り組んでいった。2005年には国家人間開発イニシアティブ(INDH)を発表し、貧困対策と地域間・社会的格差の是正を目標として取り組んでいる。このイニシアティブは当初2006年から2010年までの5カ年を目途に開始されたが、現在も継続している。(国家人間開発イニシアティブについては、中川[2010]を参照。)

(6) 「アラブの春」と憲法改定

2010年末に、チュニジアに端を発した「アラブの春」の影響は、モロッコでは限定的なものとなった。2011年2月20日と3月20日に若者を中心とした抗議運動が、モロッコでも行われ、彼らの運動は「2月20日運動」として継続することとなった。

国王は、2011年3月9日に、包括的改革として憲法改定を呼びかけた。提案には、

  1. 選挙で選ばれた議会に対する国王自らの権限の縮小: 現在、首相は国王の任命であるが、それを選挙結果に基づいて国会で選ぶようにし、国王の役割を、アミール・アル・ムーミニーン(信徒の指揮者)、そして「調停者」としての役割に限定する。
  2. 権力分立の強化、特に司法の独立の強化:司法に対する政治の介入をなくす。これまで公正と和解委員会を設置して人権擁護に取り組んできたがそれをさらに推し進め、政治、経済、社会、文化、環境と発展、すべての側面において、人権システムを改革することで、個人や集団単位での自由の拡大や国家権の安定化をはかる。
  3. 地方分権:これまで中央が任命していた地方の知事を地方議会が選び、地方行政の意思決定を各地域が行うようにする。
  4. 文化の多様性の尊重:アラビア語と並んでアマジグ語を公用語とする。

その他に、個人の自由と人権の尊重、両性の法的な平等などが盛り込こまれていた。  

この憲法改定案について、2011年7月1日に国民投票が実施された。国内での投票率は73%、有効投票(在外投票分を含む)1006万3423票の98.46%を占める990万9356票の賛成を得て可決され、新憲法は7月29日に公布された。  

モロッコの場合、「アラブの春」が発生した時点で、国王によるイニシアティブで、女性の地位向上、貧困撲滅、人権、権力分立の強化など、さまざまな改革がすでに進められていた。一連の改革は、チュニジアやエジプトのような大衆の力による改革要求から発した民主化ではないが、広く国民の支持を得ていたといえる。

つまり、モロッコでも、2011年2月以降、のちに「2月20日運動」と名付けられた若者を中心とした抗議運動があり、3月20日には、首都ラバトのほかに、カサブランカやその他の都市で、35000人が参加する規模となったものの、抗議の内容は、政府に対する批判であり、王制批判の声は、一部の極左を除いて、ほとんど出ていない。4月末にも抗議デモがあったが、そこでの主張は、一部の政府高官が持つ実業界への強い影響力の排除、汚職撲滅、失業問題の改善、司法改革などであり、国王が3月9日にスピーチした内容が実現されるまで「戦う」という形での抗議運動であった。

一般国民や政党の多くは、国王の提案した憲法改革の方向性を支持し、歓迎の意を表明した。昔の共産党系の人々の中には、国王の権限をより制限したものにして、国教としてのイスラームの記載を削除することを求めている人々もいるものの、非常に少数派である。

モロッコの場合、一度デモがモロッコで起こったタイミングで、国王が憲法改革についてスピーチを行ったことで、その後の「抗議運動」にとって、いわば議論のたたき台・枠組みを提供する形となったといえる。言い換えれば、抗議運動の要求の限界を定めたことにもなったといえる。また失業や汚職といった問題、社会の上の方の階層にいる人々の社会的流動性の低さといったモロッコの根本的な問題は、憲法改定だけでは解決することは難しく、それが憲法改定案発表後に、政府高官の退任を要求する声につながったと考えられる。

(7) 穏健イスラーム政党「公正発展党」の勝利

新憲法のもとでの初めての議会選挙が、2011年11月25日に実施された。結果は、「3.選挙(3)近年の選挙 ③2011年議会選挙」に記載した通りで、公正発展党(PJD) が、107議席(27.08%)を獲得して圧勝し、同党のベンキラン党首が首相に任命された。PJDは、獲得議席数第2位のイスティクラール党(PI:60議席、)第6位の大衆運動党(MP:32議席)、第8位の進歩社会主義党(PPS:18議席)と連立政権を組むに至った。この第一次ベンキーラン内閣では、首相を除く23の閣僚ポストのうち、10をPJD選出の議員が占めた。

2013年7月に、連立政権からイスティクラール党が離脱し、第二次ベンキラン内閣が同年10月10日に発足する。第二次ベンキラン内閣には、2011年の議会選挙で第3位の議席数(52議席)を獲得した国民独立連合(RNI)が新たに連立政権に加わった。

(8) オトマーニー内閣の発足

2016年10月の議会選挙で公正発展党(PJD)は125議席を獲得し第1党となったが、その後5ヶ月間、他党との間で連立を組む合意に至らず、翌2017年3月17日、国王ムハンマド六世は、同じく公正発展党のサアードディーン・オトマーニー氏を首相として新たに任命した。

同月25日、公正発展党(PJD)、国民独立連合(RNI)、進歩社会主義党(PPS)、大衆運動(MP)、立憲連合(UC)、大衆諸勢力社会主義連合(USFP)の間で、連立を組む合意が成立し、4月5日オトマーニー内閣が発足した。2019年10月9日に第二次オトマーニー内閣が発足し、現在に至っている。第二次オトマーニー内閣では、第一次オトマーニー内閣に参加していたPPSが連立から離脱し、PJDを含む5つの党による連立となった。

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2021年8月26日

モロッコ/政党

(1) 政党制度

2011年に改定された憲法では、第7条で、「政党は男女両方の市民の政治的枠組・組織であり、市民の国民生活への参加を促進し、公的な事項の運営をおこなう。また政党は、憲法の枠組に沿って、民主的な手段で、多元主義と政権交代を基盤として、有権者の意思の表明に協力し、権力の行使に参加する。政党の綱領と政党活動は、憲法と法律を尊重している限り、自由である」と定められている。また同じく第7条で、一党制は合法ではないと定めている。

2006年に公布された政党法では、「いかなる政党も、特定の宗教・言語・民族・地域を基盤にすることはできない。またあらゆる形態の差別に基づいたり、人権に反することはできない」(第4条)と定められている。特定の地域の利益擁護に偏った政党が誕生することを避けるために、政党法第8条では、創設時に必要とされる300名以上の党員の住所が、全国の半数以上の地域にあり、一つの地域における党員の割合が5%以上であることが、新党結成条件の一つとされている。政党法第57条では、武装してデモを行うこと、武装部門や民兵を組織すること、体制転覆やイスラーム、王制および領土の一体性への攻撃を目的とした場合は、内務省はラバトの行政裁判所に要請し、その政党を解党することができると定められている。

(2) 政党

現在モロッコには30を超える政党があり、様々な綱領をかかげている。以下、主要政党に関する情報をまとめておく。

イスティクラール党(Hizb al-Istiqlal, Parti Istiqlal ) 

政党HP: http://www.partistiqlal.org/ 

1944年に設立された民族主義政党。「イスティクラール」は「独立」の意。現在の政治路線は保守系で、2017年11月から党首はニザール・バラカ。。

1934年にモロッコ最初の政党として国民行動連合(Kutla al- ‘Amal al-Watani, Comité de l’Action Nationale)が誕生した。国民行動連合は、保護領政府が出したベルベル勅令に反対して、モロッコの独立運動を指導したアッラール・ファースィーやアフマド・バラフレージュらが結成した政党で、保護領政府に対して政治や社会改革案を提出したが、指導者らは弾圧され、党は非合法化された。アッラール・ファースィーらは、1937年に国民行動連合に代わって、国民改革党を結成し、これが後にイスティクラール党へと発展した。

2007年9月7日の議会選挙では、52議席を獲得し第一党となり、国王は同年9月19日にイスティクラール党党首であるアッバース・エルファースィーを首相に任命した。アッバース・エルファースィー首相は、ムハンマド六世が国王になってから任命した二人目の首相であるが、前任者であるイドリース・ジェットゥは過去に国務大臣をつとめ、政治的なキャリアもあるものの、どの党にも属していない実業家であり、首相任命の前に行われた2002年9月の議会選挙では、大衆社会主義勢力連合、イスティクラール党、公正発展党、国民独立連合の順で議席を獲得しており、ジェットゥ氏の首相任命は選挙結果を尊重したものとはいえなかった。

大衆諸勢力社会主義連合(al-Ittihad al-Ishtiraki lil-Qwat al-Sha‘biya, USFP:Union socialiste des forces populaires)  

政党HP:

  • http://www.usfp.ma/index_ar.php (アラビア語) 
  • http://www.usfp.ma/ (フランス語)

1975年にUNFP(Union Nationale des ForcesPopulaires)から分離して設立された左派政党。2008年11月、当時のアッバース・エルファースィー内閣で法相をつとめていたアブドゥルワヒド・ラーディーが党首に選出された。同党は、1998年から2002年まで、当時のアブドゥルラフマーン・アル・ユースフィー党首が首相をつとめ、政権を担当した。   

アブドゥルラフマーン・アル・ユースフィーは、もともとイスティクラール党のメンバーで、イスティクラール党の左派グループに属していたマフディ・ベン・バルカ、アブドゥルラヒーム・ブアビド、アブダッラー・イブラヒームらと共に1959年にUNFPを設立した。UNFP は王制にとっての反対勢力であったため、ユースフィーも逮捕され、その後釈放されたが、マフディ・ベン・バルカがパリで行方不明になった事件の裁判に参加するためパリを訪れたことをきっかけに、1965年から15年間パリで亡命生活を送る。1980年に恩赦を受けてモロッコに帰国。1992年からUSFPの党首となる。1997年の議会選挙で、USFPは第一党となり、1998年より首相をつとめた。当時の国王ハサン二世が、かつて敵対していたユースフィーを首相に任命したことは、大きな話題となった。

2007年の議会選挙では、38議席を獲得するにとどまり、第5党となった。2011年の議会選挙でも、獲得議席数は39で、同じく第5党となった。 党首は2012年12月からイドリース・ラシュガル。同氏は2010年1月から2012年1月まで、アッバース・エル・ファースィー内閣で議会関係担当大臣を務めた。

公正発展党(Hizb al-‘Adala wa at-Tanmiya , PJD:Parti de la justice et du développement)  

政党HP:http://www.pjd.ma/

1998年に設立されたイスラーム主義的傾向の政党。2007年より党首はアブディッラー・ベンキラン。1967年に設立された大衆立憲民主運動(MPCD:Mouvement populaire, constitutionnel et démocratique )を前身としている。

2007年の議会選挙では、46議席を獲得する躍進をみせ、イスティクラール党に次ぐ第2党となった。

2011年11月25日に実施された議会選挙では、107議席を獲得し、第1党となった。2011年に発布された新憲法で定められた通り、下院第一党となった同党の党首であるベンキランが首相に就任した。  

現在の党首は、サアードディーン・オトマーニー現首相がつとめる。

大衆運動党(Hizb al-Haraka al-Sha‘biya , MP:Mouvement populaire)  

政党HP:http://www.alharaka.ma/ 

1957年設立の中道左派政党。現在の党首は、モハンド・ラエンセル。

1958年の公的自由に関する勅令によって、1959年に合法な政党となった。立憲王制、領土の一体性を支持する。またモロッコ国王の一側面である「信徒の指揮者」としての役割は、モロッコ社会の安定に不可欠であるとするが、他宗教の共存はモロッコの伝統であるとし、あらゆる形での過激主義や宗教の政治利用に反対している。またアマジグ(ベルベル)文化は、モロッコの文化的な源であるとし、アマジグの言語も、モロッコの国語として憲法に明記されることを要求している。

2007年9月7日の議会選挙では、41議席を獲得し、第3党となったが、2011年の議会選挙では、32議席まで議席を減らし、第6党となった。

国民独立連合(Hizb al-Tajammu‘al-Watani  lil-Ahrar , RNI:Rassemblement national des indépendants)  

政党HP:https://rni.ma/fr/

1978年(1979年)に設立された中道右派政党。党首は、2016年10月からアズィーズ・アハンヌーシュ。同氏は2007年から2017年まで農業・海洋漁業大臣を、2017年から現在まで農業・海洋漁業・地域開発・水資源・森林大臣を務めている。党の創設者であるアフマド・オスマンは、1972年~1979年まで首相をつとめた後、1984年~1992年まで国会議長をつとめた。

2007年9月7日の議会選挙では、39議席を獲得し、第4党となった。2011年の議会選挙では、獲得議席数を52に増やし、第3党となった。

立憲連合(al-Ittihad al-Dusturi, UC:Union constitutionnelle) 

1983年に設立された保守・リベラル政党。創設者のマアティ・ブアビドは、1979年から1983年まで首相をつとめた。現在の党首は、ムハンマド・アビド。2007年の議会選挙では、27議席、2011年の議会選挙では23議席を獲得した。 党首は、2015年からムハンマド・サージド。同氏は2017年から2019年まで観光・航空運輸・手工業・社会経済大臣を務めた。

正統近代党(Hizb al-Asala wal-Mu‘asila , PAM:Parti authencité et modernité) 

政党HP:http://www.pam.ma/

党首は、2020年2月から弁護士のアブドゥラティーフ・ワフビ。

2008年に、アハド党(le Parti al ahd), 環境開発党(le Parti de l’environnement et du développement)、自由同盟(l’Alliance des libertés)、開発のための市民イニシアティブ(le Parti initiative citoyenne pour le développement)、国民民主党(PND: Le Parti national démocrate)の五つの政党を連合して設立された。設立には、現国王であるムハンマド六世の親しい友人であるフアド・アリー・アル・ヒンマが深くかかわっている。設立の翌年2009年に実施された地方選挙では、イスティクラール党や国民独立連合を抜いて、第一党となり、全議席の21.7%にあたる計6015議席を獲得した。初の議会選挙となった2011年の選挙では、47議席を獲得し、第4党となっている。

その他の諸政党

  • 進歩社会主義党(PPS: Parti du progrès et du socialisme ) は1974年にアリー・ヤータが設立した左派政党。党首は2010年からムハンマド・ナビール・ベンアブダッラー。同氏は第一次、第二次ベンキラン内閣で2012年から2017年まで住宅関連大臣を、第一次オトマーニ内閣で国土整備・都市化・住宅・都市政策担当大臣をつとめた。
  • モロッコ共産党(PCM:Parti communiste marocain)は1943年に設立されたが、1952年に非合法化され、1969年に解放社会主義党(PLS: Parti de la libération et du socialisme)として再結成され、1974年に進歩社会主義党(PPS: Parti du progrès et du socialisme )として合法化された。
  • 民主独立党(PDI:Parti démocratique et de l’independence)イスティクラール党から分離して、1946年に設立。
  • 行動党(PA: le Parti de l’action)1974年設立の社会主義政党。
  • 中央社会党(PCS: le Parti du centre social)1984年設立の社会主義政党。
  • 前衛民主社会党(PADS :le Parti de l’avant garde démocratique et social)1991年設立の社会主義政党。
  • 民主社会運動(MDS: le Mouvement démocrate social )1996年設立の社会主義政党。
  • 民主勢力前線(FFD:le Parti du front des forces démocratiques)1997年設立。
  • 希望党(PE :Parti de l’espoir)1999年設立。
  • 市民勢力党(PFC :le Parti des forces citoyennes)2001年設立。
  • 統一国民会議(CNI: le Congrès national ittihadi )2001年設立。
  • 改革発展党(PRD: le Parti de la réforme et du développement)2001年設立。
  • 再生平等党(PRE:le Parti du renouveau et de l’equité)2002年設立。
  • モロッコ自由党(PML: le Parti marocain libéral)2002年設立。
  • 労働党(PT :Parti travailliste) 2005年設立。
  • 復興善行党(PRV:Parti de la renaissance et de la vertu) 2005年設立。
  • 社会主義統一党連合(PSU:Parti socialiste unifié )2005年設立。2002年、民主大衆行動機構(OADP:l’Organisation de l’action démocratique et populaire)、民主独立運動(MDI:le Mouvement des démocrates indépendants)、民主運動(MPD:le Mouvement pour la démocratie)が連合して、統一左派社会主義党(PGSU:le Parti de la gauche socialiste unifiée)を創設。2005年にPGSUがPSUに発展解消。
  • 社会党(PS:Parti socialiste) 2006年設立。
  • 民主社会党(PSD:Parti de la société démocratique) 2007年設立
  • 環境と持続可能な発展党(PEDD:Parti de l’environnement et du développement durable) 2009年設立。
  • 緑の左派党(PGV : Parti de la gauche verte)2010年設立。
  • 新民主党(PND : Parti des Néo-Démocrates)2014年設立。

上記の政党と統合した諸政党

  • 国民民主党(PND: Le Parti national démocrate)1979年設立。後に正統近代党(PAM)に統合。
  • 国民大衆運動(MNP:le Mouvement national populaire)1991年に設立され、2002年の議会選挙で18議席を獲得したが、後に大衆運動党(MP)に統合。
  • 社会民主党(PSD: le Parti socialiste démocratique )1996年設立。後にUSFPに統合。
  • 民主連合(UD:l’Union démocratique)2001年に設立。後に大衆運動党(MP)に統合。
  • 自由同盟(ADL:l’Alliance des libertés)、開発のための市民イニシアティブ(ICD: Initiatives citoyennes pour le développement)、アハド党(le Parti Al Ahd)、環境開発党(PED :le Parti de l’environnement et du développement )はいずれも2002年設立され、後に正統近代党(PAM)に統合。

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2021年8月20日

シリア/現在の政治体制・政治制度

シリアでは1963年の「バアス革命」以来、バアス党政権が今日に至るまで続いている。そうしたなかで、ハーフィズ・アル=アサド(H・アサド)が1970年に無血クーデタを引き起こして全権を掌握し、翌(1971)年に大統領に就任して以来、アサド家が大統領職を独占しており、2000年以降はH・アサドの次男であるバッシャール・アル=アサド(B・アサド)がその任に就いている。

そのアサド政権に関しては、現代シリアの政治・外交を専門とするレイモンド・ヒンネブッシュが、H・アサド時代の統治形態を「大統領君主制」と形容した1が、現在も基本的にはB・アサドの手に権力が集中している状況となっている。

大統領職の主な権能に関しては、現憲法に以下のように規定されている2。大統領と首相は、「憲法が規定する範囲内で国民を代表して行政権を行使する」(第83条)と規定され、大統領は自らが主宰する会議において、「国家の基本政策を立案し、その履行を監督する」(第98条)ことになっている。具体的には、法律に則って諸々の法令、決定、そして命令を発布し(第101条)、人民議会(すなわち国会)の同意を得た後の宣戦布告、国民総動員、そして和平締結を行う(第102条)のである。また、第97条に則り、大統領は首相、副首相、大臣、そして次官を任免する権限を持っており、更には「自らを議長とする閣議を召集できる」(第99条)のである。なお、大統領は「全軍の最高司令官である」(第105条)と規定されている。

このように、シリアにおいては、大統領が内政と外交、さらには軍事を司ることが、旧憲法と同様に現憲法においても規定されている。それでは、こうしたシリアの政治制度を基盤とする同国の現実の政治体制については、どのような見方をとることが可能であろうか。ここでは、政治体制論の「古典」とも言えるロバート・ダールの『ポリアーキー』に依拠して考えてみたい。ダールは、「公的異議申立て」及び「選挙に参加し公職につく権利」が、それぞれ実現されている程度から、現実の政治体制を分類している。その結果、「公的異議申立て」及び「選挙に参加し公職につく権利」の実現度合いが共に高い「ポリアーキー」以外に、「公的異議申立て」及び「選挙に参加し公職につく権利」の実現度合いが共に低い「閉鎖的抑圧体制」、「公的異議申立て」の実現度合いは高い一方で「選挙に参加し公職につく権利」の実現度合いは低い「競争的寡頭体制」、「公的異議申立て」の実現度合いは低いが他方で「選挙に参加し公職につく権利」の実現度合いは高い「包括的抑圧体制」、といった4つの類型を提示しているのである3。さらに、「公的異議申立て」を「市民的・政治的自由」に、「選挙に参加し公職につく権利」を「普通選挙制度」に、それぞれ読み替えるならば、シリアでは「普通選挙制度」に関しては現実にほぼ機能してきていると見なせるものの、「市民的・政治的自由」に関しては後述するように大幅な制約が加えられていることから、同国の政治体制は「包括的抑圧体制」であると判定できよう。

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2021年8月20日

シリア/最近の政治変化

(1)現況概観

「アラブの春」の動きとして2011年3月から始まったシリアにおける反体制運動は当初、現体制の枠内での「改革」による「民主化」を要求し、平和的手段による目的達成を意図していた。しかしながら、アサド政権が「民主化」要求にある程度は応えつつも、デモ行進や集会に対する強硬的な態度を取ったことから、反体制勢力は次第に「体制転換」を求めるようになり、政権側の弾圧措置を招く一方、反政府武装闘争がシリア各地に広がっていくことになった。

それでは、バアス党政権が1963年以来続き、また1971年以降はアサド父子が大統領職を独占して「世襲支配」を行ってきているシリアにおいて、「民主化」とは具体的に何を意味するのであろうか。ここで、既述のダールによる政治体制の類型化の議論を思い起こすと、シリアの政治体制は「包括的抑圧体制」であることから、この体制から「ポリアーキー」に至る民主化プロセスは必然的に「市民的・政治的自由」の拡大を伴うことになる。

だが、反体制運動が開始されてからのアサド政権による「市民的・政治的自由」の拡大措置は、反体制勢力を満足させることが出来なかった。例えば、B・アサド大統領は内閣の決定に基づき、1963年以来施行されてきた「国家非常事態」の解除及び「最高国家治安裁判所」の廃止を命令する大統領令に、2011年4月21日に署名した1。しかしながら同時に、治安部隊メンバーの行動に対して免責特権を与える大統領令や、スンナ派のイスラーム組織「ムスリム同胞団」に所属することは死罪に値するとの同令が同時に公布された2。また、2012年2月26日には、現憲法が国民投票によって承認され、憲法改正が実現した3

アサド政権はこのように、国家非常事態の解除や最高国家治安裁判所の廃止、さらには現憲法における「政治的多元主義」の導入(第8条)といったように、一方ではシリアにおける「市民的・政治的自由」を漸進させてきた。特に、「バアス党が国家、社会の指導的党である」と旧憲法では規定されていた(第8条)ことから、シリアの政党制の実態がジョヴァンニ・サルトーリの言うところの「ヘゲモニー政党制」に分類可能な状況において4、「政治的多元主義」が現憲法で保障されたことは「民主化」への第一歩と見なされるものであった。

しかしながら、反体制勢力に対する治安部隊の強硬措置を大統領令で認めたうえに、アラブ世界で影響力を増していたムスリム同胞団を敵視し続けたことは、アサド政権の「民主化」努力が茶番に過ぎないものであるとの印象を、反体制勢力並びに多くのアラブ・欧米諸国に植え付けることになった。さらに、「包括的抑圧体制」から「ポリアーキー」に至る径路が、「少数の比較的同質的なエリートの間ではなく、社会諸階層と、政治思想をたとえ全部ではなくともほとんど反映する広範な代表者間で、相互安全保障の体系を創出することを必要としている」5との指摘があるなかで、アサド政権は基本的に反体制勢力との対話を拒否してきた。

以上のようなアサド政権の対応により、シリアにおける反政府武装闘争は2011年後半以降、激しさを増した。アサド政権は一時期、軍事的にかなり追い詰められたものの、2015年9月以降のロシア軍による大規模な軍事支援で態勢を立て直し、シリア各地を武力で次々と平定していった結果、現在はシリア領土のおよそ3分の2を支配下に置いており、実質的な戦闘はイドリブ地域にほぼ限定されている。他方、シリア領土の残り3分の1に関しては、その大半をクルド勢力が支配下に収めており、それ以外は反体制勢力や「イスラーム国」(IS)などの支配領域となっている。なお、ISの支配領域は現在、大幅に縮小しており、ISはシリオ沙漠地帯の狭い領域(「ポケット」)で孤立している(各勢力の支配領域は以下の地図6が示す通りである)。

(2)諸外国の介入

上述した4つの国内主要アクター(アサド政権、クルド勢力、反体制勢力、そしてIS)のなかで、アサド政権に対しては、政治・軍事・経済面では主にロシアやイランが支援し、政治・経済面では中国も支援している。また、クルド勢力に対しては、米主導の有志連合が軍事支援をしてきたが、ドナルド・トランプ大統領は2018年12月19日に、米軍のシリア完全撤退に関して言及し、さらに一昨(2019)年10月6日に、米軍(1000人規模)のシリア北東部からの撤退宣言を行った。その結果、米軍のプレゼンスはシリア北東部のクルド勢力支配地域において大幅に縮小し、上記の地図が示すように、タナク油田やオマール油田にごくわずかの兵力を残すまでとなっている。他方、反体制勢力に関しては、様々な武装組織が存在し、「穏健勢力」と「過激勢力」に大別される。「穏健勢力」の代表例がシリア国民軍(SNA:旧自由シリア軍)系諸組織であり、後者の代表例がシャーム解放委員会(HTS:旧ヌスラ戦線)である。シリア北西部のイドリブ地域並びにアフリーン地区、及びシリア北東部のユーフラテス北東岸地域におけるSNA系諸組織に対しては、トルコが軍事支援を与えており、さらにはトルコ軍がこれら地域に駐留して作戦も共にしている。また、シリア南東部のタンフ地域におけるSNA系諸組織に対しては、米軍基地の縮小が報じられたこともあり、米国による軍事支援は減少傾向にあると見られている。

このように、主に米国、ロシア、トルコ、そしてイランがシリア国内の各勢力に様々な対外支援を行っていることから、同国はこれら諸国によるパワー・ポリティックスが展開される場となっている。シリアは、2011年3月までは地域政治の「主体」として対外的な影響力を行使してきたが、今や「客体」として諸外国による影響力の行使を受ける場となっているのである。

そこで、シリアにおける米露、米土、米イラン、露土、露イラン、そして土イランの各関係について概略する。米露関係に関しては、米国が反体制勢力を支援し、ロシアがアサド政権を支援していることから、両国は基本的には対立関係にある。だが、クルド勢力をめぐる米露関係は少々複雑である。なぜならば、米国がクルド勢力を見捨てた形になっていることから、クルド勢力はアサド政権、さらにはロシアとの関係を強化しているのである。しかしながら、シリア全土の完全掌握を目指しているアサド政権と、シリア北東部における自治の維持さらには拡大を望んでいるクルド勢力との間では、双方の利害が一致していない状況である。そこで、アサド政権及びクルド勢力双方とのパイプを持つロシアによる調停の役割が期待されるところであるが、ロシアとアサド政権との長年に渡る親密な関係や、ロシアとトルコが近年その関係を強化していることに鑑みると、ロシアがクルド勢力の意向に沿った動きを取るのかは不明である。ゆえに、クルド勢力はアサド政権及びロシアに対するカウンターバランスとして、米国と完全に縁を切るわけにはいかないのである。

米土関係に関しては、両国共に反体制勢力に対する支援を対シリア政策の柱としてきた一方で、クルド勢力に対する両国の政策は相反しており、二面性を有していると言える。すなわち、トルコが「シリア民主軍」(SDF)や「シリア民主評議会」(SDC)といったクルド勢力を「テロ組織」と見なしてきたのに対して、米国はクルド勢力と同盟関係を築いてきた。だが、トランプ大統領が一昨(2019)年10月に米軍のシリア北東部からの撤退宣言を行った直後に、トルコ軍及びSNA系勢力が対クルド勢力軍事作戦「平和の春」を発動した際には、米国はトルコの行動を強く非難する声明を発したものの、その行動を止めるための具体的な手立ては、限定的な経済制裁を例外として、殆ど講じなかった。これは、後述するような露土関係の緊密化といった事態を前にして、米国がトルコとの関係悪化を出来るだけ避けたいとする意思表示であったと言える。また、トルコ軍がこの作戦により、タッル・アブヤドからラス・アインに至る地域に「安全地帯」を確立するなかで、同年10月17日に出された米土共同宣言では、同地帯の治安がトルコ軍によって第一に担われることとされるなど、米土関係は「平和の春」作戦に伴いさらなる悪化が懸念されたものの、決定的な亀裂には至らなかったのである。

米イラン関係に関しては、トランプ政権がイランの核政策や対外政策などを問題視し、同国に敵対政策をとっているなかで、米国は反体制勢力を、そしてイランはアサド政権を、それぞれ支援している。そして、イランが「イラン革命防衛隊」(IRGC)やヒズブッラーなどの軍事プレゼンスを、アサド政権支配地区に維持していることに対して、米国は、イランがこうしたイラン系勢力を利用して、テヘランからバグダード及びダマスカスを経由してベイルートに至る「シーア派回廊」を構築して覇権を追求している、と見なしているのである。ただ、米国はシリアにおいてイラン系勢力に対する直接的な軍事行動を日常的にはとっておらず、米国の同盟国であるイスラエルがこうしたイラン系勢力に対する軍事行動を頻繁に起こしている。

露土関係に関しては、アサド政権支援のロシアと、反体制勢力支援のトルコとは、本来は対立関係にある。だが、ロシア主導のシリア包括和平を目指す試みである「アスタナ会合」(後述)が2017年1月に開始されて以降、トルコは「三保障国」(他はロシア及びイラン)の一員として同会合を支持している。さらに、2018年9月17日の露土首脳会談においては、イドリブ地域における大規模戦闘を回避するために「イドリブ合意」が成立した。その後、「イドリブ合意」は現在に至るまで殆ど実現されておらず、アサド政権がイドリブ地域再掌握に向けての大規模攻撃に着手し、ロシア軍がシリア政府軍(SAA)に対して主に空爆支援を行うなかで、トルコは同地域に対する増派を行い、SNA系勢力に対する支援を強化している。このように、ロシアとトルコはイドリブ地域において敵対的な軍事行動を行う一方で、ウラジミール・プーチン大統領とレジェップ・タイップ・エルドアン大統領はしばしば電話協議を行うなど、事態がエスカレーションしないように出来る限り協力する姿勢をも見せている。ロシアとトルコはS400ミサイルの購入や天然ガスの供給などでも関係を深めており、それゆえに両国共に米国との関係が決して手放しで良好であるとは言えないことから、シリアでは軍事的に対立する局面が存在する一方で、事態鎮静化に受けて協力可能な時はそのようにするなど、両国関係は二面性を持っているのである。

露イラン関係に関しては、両国共にアサド政権を政治・軍事・経済的に支援している意味では、同盟関係にある。また、イランは「アスタナ会合」における「三保障国」の一員であることから、ロシア主導の和平の試みにコミットしていると言える。だが、ロシアとイランの間には、シリア国家の在り方に関する根本的な相違があると言わざるを得ない。すなわち、ロシアは自軍が展開するタルトゥースの海軍基地やフマイミームの空軍基地が安泰であるように、「パックス・ロシアーナ」(ロシア主導の平和)のもとでシリア国内を可能な限り安定化させることにプライオリティを置いていると想定される。ゆえに、ロシアはシリア政府(具体的にはアサド政権)の統治能力回復、さらには強化を望ましいことと考えていると推察され、SAAの再建を自らの利益と見なすであろう。他方、米国やイスラエルからの軍事攻撃の可能性に常に晒されているイランにとって、シリアは軍事作戦上の要衝であり、同国内でIRGCやヒズブッラーがフリーハンドで行動可能な状況が望ましい。ゆえにイランはこれら勢力に対する制約要因となりかねないSAAの再建には消極的とならざるを得ないであろう。また、アサド政権が支配領域を再掌握し、復興計画の策定・実施に乗り出すなかで、ロシアの企業とイランの企業がライバル関係になることも想定可能であり、両国関係には悪化の種が隠れていると言えるのである。

土イラン関係に関しては、トルコが反体制勢力を、イランがアサド政権を、それぞれ支援していることから、両国は対シリア政策を異にしている。だが、トルコ及びイラン共に、「アスタナ会合」を「三保障国」の一員として支援しており、シリア情勢に関して協議する場を有している。また、イランはトルコとコンタクトを持つのみならず、アサド政権と緊密な関係にあることから、イドリブ情勢が国際的な注目を集める状況において、イラン外務省は昨(2020)年2月8日に、同国がトルコとアサド政権との仲介役を担う意向であることを表明した7

(3)和平に向けた国際的な動き

上記のように、シリアに対する各国の思惑が異なることは、結果として紛争解決プロセスを機能不全にさせ、内戦が長引くことになった。それでは、シリアにおいてはこれまで、どのように国際的な和平の試みがなされてきているのであろうか。ここでは、国連主催の「ジュネーブ協議」及びロシア主導の「アスタナ会合」を軸に考察する。

シリアで反体制運動が勃発し、事態収拾の目途が立たない状況において、安保理は米露対立により機能麻痺に陥った。そこで、アラブ連盟は2011年12月に160人規模の停戦監視団を派遣したものの、アサド政権と反体制勢力との武力の応酬はむしろエスカレートし、2012年2月に派遣終了が決定された。他方、同年2月にはコフィ・アナン元国連事務総長が国連・アラブ連盟合同シリア担当特使に就任し、4月には300人規模の停戦監視団の派遣が安保理で決定された。しかしながら、ロシアの反対により、停戦の実現に寄与するような強制措置が安保理決議に盛り込まれなかったことから、アサド政権と反体制勢力との武力対立は止むことなく、監視団活動は8月に終了した。

このように戦闘が拡大する状況において、アナン特使は2012年6月末に、安保理常任理事国やシリア周辺諸国の外相などをジュネーブに集め、事態打開に向けた協議を行った(「ジュネーブ1」)。その結果、アサド政権のメンバーを含む「移行政府」の樹立提案を含む「ジュネーブ・コミュニケ」8が6月30日に成立したものの、B・アサド大統領の退陣を要求する反体制勢力の支持を得ることは出来なかった。加えて、米国が2012年11月に、反体制勢力の統括組織としての「シリア国民評議会」の後継組織として、「シリア国民連合」の樹立を強力に後押ししたことから、米露間の溝は開く一方であり、シリア情勢解決の見通しが立たない状態が続いた。

このように、「ジュネーブ協議」は米露間の対立により、当初から暗礁に乗り上げたものの、アナンの後任としてアフダル・ブラーヒーミー(元国連アフガニスタン特別代表)が国連・アラブ連盟合同シリア担当特使に2012年9月に就任し、会議の実現に向けて積極的な外交を展開した結果、「ジュネーブ2」は2014年1月から2月にかけて2ラウンドに分けて開催されるに至った。しかしながら、B・アサドの処遇をめぐり、アサド政権と反体制勢力が真っ向から対立し、妥協点は見いだされなかった。

その後、ブラーヒーミーの後任としてステファン・デ・ミストゥーラ(元国連アフガニスタン支援団代表)が国連・アラブ連盟合同シリア担当特使に2014年7月に就任し、「ジュネーブ3」が2016年2月になって開催されたものの、3日に会議の一時延期及び25日の再開が発表された9。だが、これは実現せずに終わり、1年余りの中断の後に、2017年2月から3月にかけて開催された「ジュネーブ4」においても、アサド政権と反体制勢力の直接対話は行われなかった。同年3月に開催された「ジュネーブ5」も大きな成果なく終了し、「ジュネーブ6」(同年5月)では、「憲法および法律に関する技術的コンサルティブ・メカニズム」の設置が合意された。しかしながら、同メカニズムの設置に対する具体的な進展はその後見られず、「ジュネーブ7」(同年7月)、「ジュネーブ8」(同年11月~12月、2ラウンドに分けて開催)、そして「ジュネーブ9」(2018年1月、但しウィーンで開催)共に、実質的成果なく終了した。

このように、「ジュネーブ協議」が大きな成果を生み出すことなく、事実上休止状態に至っている背景には、アサド政権と反体制勢力との間にプライオリティの違いが存在することがある。すなわち、「ジュネーブ協議」における4つの主要議題(ガバナンス、憲法、選挙、テロとの戦い)の中で、政権側はテロ問題を優先すべきと考えているのに対し、反体制側は政権移行に繋がるような他のイシューに重きを置いているのである。また、「ジュネーブ8」においては、反体制勢力が合同代表団を形成10して参加したが、B・アサドの退陣に依然として拘ったことは政権側の不興を買った。さらに、後述する「アスタナ会合」の開催以降、とりわけロシアが「ジュネーブ協議」に関心を失っていることも、戦局で優位に立っているアサド政権側に譲歩を促す方向に作用せず、反体制勢力との溝を広める結果となったのである。

ロシアは、2015年1月及び4月に、アサド政権及び同政権によって許容されているシリア国内の反体制勢力が参加する和平協議をモスクワで開催したが、大きな成果なく終了した。その後、「ジュネーブ3」が中断されたままの状況において、プーチン大統領とエルドアン大統領は2016年12月16日に、カザフスタンの首都アスタナ(当時、現在のヌルスルタン)での、米国や国連が関与しない形での新たなシリア和平交渉の開催意向を表明した。そして、国連が12月31日に、安保理決議第2336号により、ロシア及びトルコ主導の停戦並びに和平会議開催支持を表明した結果、アスタナでの和平協議(通称「アスタナ会合」)は国際的なお墨付きを得ることになったのである。

「アスタナ会合」は現在に至るまで、ロシアを筆頭に、トルコ及びイランが主導するシリア包括和平を目指す試みとして15回開催されており、「アスタナ1」(2017年1月)、「アスタナ2」(同年2月)、「アスタナ3」(同年3月)においては、「アスタナ2」でアサド政権と反体制勢力の直接交渉が短時間行われた以外、大きな成果なく終了した。その後、「アスタナ4」(同年5月)において、ロシア、トルコ、及びイランを停戦の「保障国」とする「緊張緩和地帯」の設置が決まった。同地帯は、イドリブ地域、ホムス北部、ダマスカス郊外東グータ、シリア南部に設置され、イドリブ地域以外では同年7月から8月にかけて停戦が発効した。しかしながら、ホムス北部及びシリア南部では、露軍が展開してしばらくは停戦が概ね維持されたものの、アサド政権によって「テロ組織」認定されているHTSやISの拠点がこれら地域に存在していることを理由に、最終的にはSAAが攻撃に着手し、露軍が見て見ぬふりをするなかで、掌握するに至った。また、東グータでは2018年春に、SAAに加えて露軍が、HTSが拠点を有していることを理由に空爆を中心とする猛攻撃を実施し、人道危機が深刻化するとともに、化学兵器攻撃事案も発生した。この結果、アサド政権は2018年春までに、イドリブ地域を除く「緊張緩和地帯」を掌握したが、アサド政権による攻撃が続くなかでもトルコは「アスタナ会合」に参加し続けた。その背景には、ホムス北部、東グータ、そしてシリア南部のいずれにおいても、トルコが強力に支援していた反体制勢力が存在していなかったことがあった。

「アスタナ5」(2017年7月)、「アスタナ6」(同年9月)、「アスタナ7」(同年10月)、「アスタナ8」(同年12月)、「アスタナ9」(2018年5月)、そして「アスタナ10」(2018年7月、但しソチで開催)共に、大きな成果なく終了した。「アスタナ11」(同年11月)においては、9月の露土首脳会談で設置が決まった、イドリブ地域における「非武装地帯」設置に関して協議が行われた。だが、協議終了後に具体的な進展は見られず、同地域で露軍支援のSAAと、トルコ軍支援の反体制勢力との間で戦闘が行われているのは既述の通りである。また、一昨(2019)年には3回(4月の「アスタナ12」、8月の「アスタナ13」、そして12月の「アスタナ14」)開かれ、本(2021)年2月には「アスタナ15」が開催されたものの、何れも成果は殆どなく終了した。

ロシアは他方で、アサド政権及び反体制勢力関係者を集めた「国民対話会議」を2018年1月にソチで主宰し、その結果として「憲法委員会」の設置が決まった。「憲法委員会」は、アサド政権、反体制勢力、そして「独立系」のメンバー各50人から構成されることとなっており、アサド政権及び「シリア交渉委員会」(SNC、旧「高等交渉員会」(HNC)であり、反体制勢力の統括政治組織)は各々、メンバーの候補者リストをデ・ミストゥーラに手渡した。だが、デ・ミストゥーラが同年9月11日に、「独立系」メンバー候補者リストをロシア、トルコ、そしてイラン政府関係者に提示したところ、ロシアとイランは事前に相談を受けていなかったことを理由に、そのリストを即座に拒否した。デ・ミストゥーラは12月に辞任し、後任にはゲイル・ペデルセン(国連ノルウェー政府代表部元大使)が国連シリア担当特使に就任した。

ペデルセンが「憲法委員会」の発足に向けた外交的努力を重ねた結果、一昨(2019)年9月にようやく人選の完了と設置が宣言された。同年10月末から第1ラウンドが翌11月上旬にかけて開催されたものの、同下旬の開幕が予定されていた第2ラウンドは実現しなかった。その後、昨(2020)年8月に開催された第3ラウンド、同年11月から12月にかけて開催された第4ラウンド、そして本(2021)年1月に開催された第5ラウンドは、何れも小規模会合であったものの、成果は上がらなかった。アサド政権側が「憲法委員会」を現憲法の改正のための協議の場と捉えているのに対して、SNC側は同委員会を新憲法の制定のための協議の場と見なしていることにより、双方の見解の隔たりが大きいのが実情である。

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2021年8月20日

シリア/選挙

(1)2014年大統領選挙

旧憲法のもとでは、シリアにおける内政と外交、さらには軍事を司っている大統領を選出するプロセスは、「バアス党シリア地域指導部」が推挙した候補者に対して国民が投票を行うというものであった。すなわち、バアス党員のみが大統領職への「パスポート」を有しており、「包括的抑圧体制」のもとで「市民的・政治的自由」に大幅な制約が加えられているなかでは、結果的に「信任投票」が行われてきたのである。 

しかしながら、シリアにおける反体制運動の高揚には、こうしたバアス党の優越的地位に対する批判が重要な役割を果たしたことから、現憲法においては、第85条で大統領職に対する複数立候補制が導入された。また、大統領職における任期制限(最大2期14年)も第88条で規定された。他方、大統領職への立候補要件を定めている第84条には、年齢(40歳以上)や国籍(シリア国民)といった要件に加え、候補者として推挙される(第85条の規定により、少なくとも国会議員35名の支持を得る必要がある)時点までに、シリア国内に最低10年間継続して住み続けていなければならないとの要件(旧憲法には存在せず)も含まれていた。この居住要件は、反体制勢力の政治指導者の多くがシリアから国外に逃れているなかで、そうした指導者の立候補を阻止するために導入されたものである。したがって、有力な対立候補が存在せず、B・アサド大統領の再選が当初から確実視される状況にあっては、実質的にはこれまでの「信任投票」と大きく変わることがなかったことから、反体制勢力及びその後ろ盾である欧米・湾岸アラブ諸国は、大統領選挙そのものを「茶番」と見なし、同選挙の正当性を認めないとの立場をとった。

結局のところ、政権支配地域のみで実施された2014年6月3日の選挙においては、最高憲法裁判所による立候補者資格審査を経た結果、B・アサド以外に「泡沫候補」である2名が立候補した。公式発表によると、B・アサドは、88.7%の得票率(投票率は73.42%)でもって再選され1、7月16日から3期目の政権をスタートさせた。そして、B・アサドは自らの再選に勢いを得て、北のアレッポからホムス、ダマスカスを経て南のダラアーに至るシリア随一の基幹エリア「南北回廊」と、アサド家の本拠地である北西部ラタキアに焦点を当て、これら地域に位置する反体制勢力の拠点に対し、空爆を中心とした猛攻をSAAに指示した。この結果、大統領選挙は政治・軍事両面において、アサド政権と反体制勢力並びに欧米・湾岸アラブ諸国との溝を広げる方向に作用したのである。

(2)2021年大統領選挙

前回と同様に、政権支配地域のみで実施された本(2021)年5月26日の選挙においては、最高憲法裁判所による立候補者資格審査を経た結果、B・アサド以外に「泡沫候補」である2名が立候補した。公式発表によると、B・アサドは、95.1%の得票率(投票率は78.64%)でもって再選され2、7月17日から4期目の政権をスタートさせた。欧米諸国が大統領選挙を自由かつ公正ではないとして非難した一方で、ロシアはB・アサドの勝利を歓迎した3

(3)2012年国会議員選挙

2012年の憲法改正により、「政治的多元主義」及び複数政党制が第8条(旧憲法ではバアス党の「指導的立場」が規定されていた)で規定され、同年5月7日には、現憲法下で初めての国会議員選挙が実施された。だが、SAA並びに治安部隊と反体制勢力との間で武力衝突が続く状況であり、ゆえにアサド政権の支配地区でのみ選挙が行われ、反体制勢力は選挙に参加しなかった。結局のところ、定数250に対して7195人が立候補するなかで、バアス党主体の与党連合「国民進歩戦線」が150議席を獲得する一方、バアス党寄りの人物が独立系候補として立候補し、90議席を獲得した。また、公式発表によると、投票率は51.26%であった4

(3)2016年国会議員選挙

現憲法の第56条において、議員任期は通常4年と定められている。そこで、2016年4月13日に国会議員選挙が行われたものの、前回の2012年選挙と同様に、武力衝突が続いている状況であったことから、アサド政権の支配地区でのみ選挙が行われ、反体制勢力は選挙に参加しなかった。結局のところ、定数250に対して約3500人が立候補するなかで、バアス党主体の与党連合「国民進歩戦線」が200議席を獲得した。また、公式発表によると、投票率は57.56%であった5

(4)2020年国会議員選挙

新型コロナウィルス感染症の拡大により、昨(2020)年4月以降2度にわたり延期されていた国会議員選挙は、同年7月19日に実施された。国土の7割程度を掌握していると見なされているアサド政権の支配地区でのみ選挙が行われ、反体制勢力は選挙に参加しなかった。結局のところ、定数250に対して1656人が立候補する6なかで、バアス党主体の与党連合「進歩国民戦線」が177議席を獲得した7。また、投票時間は午後11時まで4時間延長され8、公式発表によると、投票率は33.17%であった9。なお、ヒシャーム・シャアル法相は選挙後に、投票率の低さの要因として、新型コロナウィルス感染症の拡大及び同感染症の勃発に伴う国境並びに空港閉鎖による在外シリア人の投票権の行使不可能などを挙げた10

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2021年8月20日

シリア/政党

既述のように、現憲法はバアス党の指導的立場を規定していないが、2012年以降に3回実施された国会議員選挙結果に見られたように、同党がサルトーリの言うところの「支配政党」である実態は変化していない。

バアス党は、ミシェル・アフラク(ギリシャ正教徒)及びサラーフッディーン・アル=ビタール(スンナ派ムスリム)らが1940年代初期に、ダマスカスで活動を開始したアラブ民族主義の勉強会を母体とする1。その後、1947年には結党大会が開かれ、バアス党が政党として正式に発足し、その党綱領である「統一、自由、社会主義」は下位中産階級に広くアピールした2。バアス党結党時に16歳であったH・アサドは学生党員として加わり、党内で以後めきめきと頭角を現していき、1963年のシリアにおける「バアス革命」に際しては、ダマスカス当方のドゥマイル空軍基地攻略作戦を主導し、革命の成功に大きな役割を果たした3。この結果、シリアでは現在に至るまで58年間バアス党政権が続いているが、「バアス革命」後しばらくの間は党内で熾烈な権力闘争が発生した。そうしたなかで、H・アサドが最終的に勝ち残り、1970年のクーデタでバアス党内における実権を掌握した。以後、バアス党内での権力闘争は影を潜め、H・アサド大統領、さらにはB・アサド大統領の権威に対する目立った挑戦は、H・アサドの入院に伴い、実弟リフアト・アル=アサドが実権掌握を試みた結果生じた「兄弟間の対立」(1983年秋~1984年春)以外に、バアス党内からは発生していないのである。

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