月: 2021年8月

現在の政治体制・制度
レバノン
2021年8月31日

レバノン/現在の政治体制・制度

シリアの西方、イスラエルの北方に位置するレバノンは、面積10,452平方キロメートル(日本の岐阜県ほど)、人口およそ600万人という小さなアラブ国家である。首都はベイルート。公用語はアラビア語であるが、英語やフランス語も多くの地域で通じる。

宗教とエスニシティの観点から見れば、レバノンは18の公認宗派、そして多様なエスニック・グループが共存するモザイク国家である。宗派毎に見ると、相対多数派としてマロン派キリスト教徒、スンナ派イスラーム教徒、シーア派イスラーム教徒が存在し、その他の少数派として、ギリシャ・カトリック、アルメニア教徒、ドゥルーズ派、アラウィー派などが存在する(宗派毎の人口比に関しては表1を参照)。エスニック・グループとしては、人口の約90%を占めるアラブ人がいて、これ以外にアルメニア人、クルド人、チェルケス人などの小さなエスニック・グループが存在している。

さらに、正確な数字は不明ではあるが、レバノン国外には国内のおよそ10倍ものレバノン人あるいはレバノン起源の移民が居住しているとされる。その多くはフランス、カナダ、オーストラリア、メキシコ、ブラジル、湾岸産油国、西アフリカ沿岸諸国、米国などに在住しており、なかにはそれぞれの国や地域でビジネスを成功させ、巨額の財を築いた者も少なくない。2019年末の国外逃亡劇で世間を騒がせた日産自動車のカルロス・ゴーン元会長などもブラジル出身でレバノンに起源を持つマロン派キリスト教徒である。

1943年11月に仏領委任統治からの独立を果たして以降、1970年代初頭に至るまで、レバノンはアジアとヨーロッパを繋ぐ中継地としての地政学的重要性、外国語を自由に操る国際的な貿易商の存在、レッセ・フェール(自由放任)を基礎とした政治経済体制、そして風光明媚な自然環境も相まって、金融・観光部門を中心に「中東のパリ」とも呼ばれるほどの栄華を誇った。だが、1975年から15年もの長きにわたって戦われた凄惨な内戦の影響で、国土は極度に荒廃、経済は完全に破綻し、知識や技術を持った貴重な人材の多くが国外へと去っていった。 

内戦終結以降から2005年までの期間、レバノンは隣国シリアによる実効支配を受けることになる。内戦初期の1976年、シリアはレバノンに対して大規模な軍事介入に踏み切っており、内戦終結以降もレバノンが国防能力と治安維持能力を回復するまでという名目で軍と治安部隊を引き続き駐留させ続け、レバノンに巨大な政治的影響力を行使し続けた。また、内戦の最中に台頭したシーア派政治組織/対イスラエル抵抗運動組織であり、シリア・イランと密接な同盟関係にあるヒズブッラー(ヒズボラ)は、イスラエルの脅威は依然として消えていないとの論理によって内戦終結以降も唯一武装解除を免れた(その軍事力は今では国軍を遥かに凌いでいる)。シリアによる実効支配はレバノンに一応の安定をもたらしたものの、隣国に対する長引く実効支配とヒズブッラーに対する援助は国際的な批判をうけることにもなった。

そうしたなかで2005年2月、レバノンの大富豪で元首相、同国復興の立役者でもあるラフィーク・ハリーリー氏が暗殺された(実行犯は未だに明らかとはなっていないが、シリア当局の関与が強く疑われている)ことを契機に、レバノン国内では反シリアを掲げる国民運動、いわゆる「杉の木革命」が急速な盛り上がりを見せた。そうした動きを受けて、同年5月、シリアはレバノンからの完全撤退を決断する。

しかしながら、シリアという「重石」が取り除かれたことで、レバノン政治は再び深刻な政情不安に陥ることになり、2008〜09年頃には再び内戦の足音が聞こえてくるまでに事態は悪化した。ただ、このときはシリアやサウジアラビアをはじめとする外国勢力が再びレバノン政局に介入し、一応の秩序をもたらすことに成功した。だが、2011年以降はシリア内戦や地域情勢の不安定化の影響を強く受けることとなり(レバノンには現在まででトルコに次いで2番目に多い約150万人ものシリア難民が押し寄せたといわれている)、同国はまたもや深刻な困難を背負うこととなってしまった。 

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最近の政治変化
レバノン
2021年8月31日

レバノン/最近の政治変化

政治・社会

独立以降、現在に至るまで、レバノンの政治・社会は基本的に「宗派主義制度」と「パトロン・クライアント関係」(親分・子分関係)の二点によって特徴付けられてきた。 

第一の「宗派主義」に関して、レバノンが18もの公認宗派集団によって構成されるモザイク国家であることは既に述べた。そんなレバノンでは歴史的に、国民を識別する第一義的な要素を「宗派」とし、国家権力・利権はある特定の宗派集団によって独占されるのではなく主要宗派間で共有されなければならないとする考え方、つまり「宗派主義」が基本理念として保持されてきた。そして、この理念を制度化したものが「宗派主義制度」と呼ばれる現行の権力分有システムである。この制度の下では宗派は事実上の「利権集団」として扱われ、あらゆる公的機関のポストはあらかじめ各宗派に定数配分されることになっている。たとえば大統領はマロン派、首相はスンナ派、国会議長はシーア派とするといったように憲法には明記されている。また総議席128の国民議会議席数も宗派ごとにあらかじめ定数が割り当てられている(表を参照)。

また、レバノン政治においては、重要度の高い法案や政策の可決に議会や内閣における3分の2以上の賛成票が必要とされる(「拒否権を行使できる3分の1」条項)。だが、実際のところ、宗派ごと/派閥ごとに細切れにされた同国政治においては、3分の2以上の議席を1つの勢力が握ることはきわめて困難である。

このような各宗派/派閥の権力を均衡させ、多数決ではなく合議/談合によって意思決定を行うことを意図したこうした制度の下では、これまでに宗派間の利害が鋭く対立するような争点をめぐって政治過程はしばしば麻痺状態に陥った。また、宗派単位で細切れにされた行政機関はしばしばその非効率性・硬直性を露呈してきた。

ついで、第二の「パトロン・クライアント関係」とは、要するに日本の文脈における利益誘導政治の一種と考えて良い。つまり、レバノンにおいては宗派ごとに「ザイーム」と呼ばれる派閥領袖(親分)らが存在し、彼らは政治家として国家機構内外の権力を独占的に占有し続け、そこから得られた恩恵を自らの庇護下の人々に便宜供与というかたち(たとえば政策的な便宜を図る、就職先を斡旋する、ビジネスの機会を提供するなど)で提供する。他方、庇護下の人々(子分)は、その見返りとしてザイームに対する政治献金、選挙における投票、そして有事に際しては民兵としての奉仕などを求められる。こうした慣行は世界各国にある程度普遍的に見られる現象ではあるが、レバノンの場合はそうした「公的権力の私物化」(つまりは政治腐敗)があまりに度を越しており、ザイームたちは政治や公共政策をあたかも彼らのファミリー・ビジネスかのように扱ってきたとしばしば批判されてきた1

レバノンの公認18宗派の人口比と議席配分

 宗派名人口比議席数
1932年2010年1960~92年1992年~
キリスト教諸派マロン派28.218.253034
ギリシャ正教9.781114
ギリシャ・カトリック5.94.568
アルメニア正教3.22.7545
アルメニア・カトリック0.711
プロテスタント0.9111
マイノリティ
(アッシリア正教、カルディア正教、
ラテン教会、シリア教会、
シリア・カトリック、コプト教)
11
小計50.834.55464
イスラーム諸派スンナ派22.4292027
シーア派19.6331927
ドルーズ派6.85.6368
アラウィー派0.8902

1990〜2005年、すなわちシリア軍・治安機関がレバノンに駐留していた期間においては、シリア政府が権威主義的支配をレバノンにまで拡大し、レバノン政界における事実上の支配者として最終的な裁定を行ってきた。これによってレバノンでは一定の秩序が維持されたが、同時に多くの国際的批判を受けてきたことは上述の通りである。だが、シリア軍・治安機関が撤退して以降、上述の2つの政治・社会的特徴が急速に表面化し、様々な政治・社会・経済問題を引き起こすようになった。

実際、2005年から2008年にかけては、シリア政府との関係をめぐってレバノン政局が「3月8日勢力」(ヒズブッラーなどによって構成される、いわゆる「親シリア派」)と「3月14日勢力」(ムスタクバル潮流などによって構成される、いわゆる「反シリア派」)という2つの勢力に分断され、政治の場や街頭において(内戦時代を想起させるような)激しい政治・武力闘争を繰り広げた。2008年5月にアラブ連盟とカタルの仲介によって「ドーハ合意」と呼ばれる和平合意が成立するも、両勢力間の対立の火種が解消したわけでは決してなかった。

2011年以降は内戦状況に陥ったシリア政府との関係をめぐってレバノン政局は再び深刻な分断・麻痺状況に陥り、政治的に重要な議案や争点はことごとく先送りされるようになっていった。たとえば2013年6月には国民議会議員(任期4年)の任期満了に伴う議会選挙が実施されるはずであったが、選挙制度に関する議論が最後までまとまらず、結局、任期切れの議員たちが2018年5月まで居座ることとなった。また、2014年5月にはミシェル・スライマーン大統領が任期満了で退任するも議会では後継大統領が決まらず、結局、2016年10月にミシェル・アウン氏が新大統領に選出されるまで大統領職は空位のままであった。こうした「憲政上の空白」とも呼びうる異常状態においては重要な意思決定を行うことなど到底不可能であり、実際、年度ごとの予算案などは2005年度以降12年間にわたって議会で可決されてこなかった。2016年頃から政治過程が僅かなりとも前に進むようになってきたのは、レバノンの根源的問題が解決されたからではなく、単にシリア情勢がバッシャール・アサド政権優位で終結の兆しを見せ始めたからに過ぎない。 

かねてより非効率性・硬直性が指摘され続けてきたレバノンの行政機構もまた、2011年以降はこうした政局の影響を大きく受け、まったくの機能不全に陥ってしまった。そもそもレバノンの行政機構に関する問題は数え上げればキリがないほどだが、たとえば2015年以降、政府が固形廃棄物の処理計画とその財源をいつまでも策定できなかったために国全体がゴミの山で溢れかえるようになった問題は、こうした状況を象徴していた。この問題はその後、放置されたゴミから放たれる悪臭と政治家たちの腐敗をかけた「おまえたちは臭う(You Stink)」という名の市民による抗議運動につながった。

2020年8月にはベイルート港湾部の倉庫が突如として爆発した。爆発はキノコ雲と数キロ先まで到達するほどの爆風を伴う大規模なもので、200人以上の死者、6,500人以上の負傷者、30万人もの避難者を出し、経済的損失も180〜200億ドルに上ると推計された。爆発したのは2013年9月に政府によって違法な貨物船から没収され保管されていたおよそ2,750トンもの硝酸アンモニウムであった。その直接的な原因(「事故」なのか「事件」なのか)は依然として調査中であるとはいえ、この危険な物質が2013年から6年にわたって杜撰な管理下で放置されてきたことは事実であり、その意味でこの爆発は間違いなく「人災」であった(少なくともレバノン国民からはそう認識された)。そして実際、事件から4日後にはベイルート中心部で政府の責任を追及する激しい抗議デモが発生し、暴徒化した市民が外務省ビルを占拠し「革命」を呼びかける事態となった。

加えて、次項で詳述するように、レバノンは現在、内戦後最悪とも言われるきわめて深刻な経済・財政危機に直面しており、それに対する政府の無策、そしてその背景にある深刻な腐敗問題に対して、2019年以降、レバノン各地で大規模な反政府デモが散発的に続いている。2020年3月には外貨建て国債の返済延期が表明され(同国による債務不履行〔デフォルト〕は今回が初めて)、同年4月には財政支援を受けるべくIMFとの協議に着手する旨が表明された。しかしながら、相変わらず腐敗と汚職が蔓延し、さらには(米国によって「国際テロ組織」に指定されている)ヒズブッラーが大きな発言権を持つレバノン政府に対してIMFが融資を躊躇していること、そしてヒズブッラーの側もIMFの介入を米国主導の「イラン/ヒズブッラー包囲網」と認識し、それに強い抵抗感を示していることから、レバノン政府とIMFとのあいだの交渉は依然として難航している。

経済・財政

2018年の世界銀行の調査によると、レバノンの経済規模はおよそ570億ドル、一人当たりGDPは9,251ドルと、経済規模は小さいながら中高位所得国に位置付けられている。2007年から2010年にかけては8~10%の経済成長を達成したが、2011年以降はシリア内戦や中東全域の混乱、そして海外からの資本流入の減少などにより急減速し、ここ数年は1~2%で推移した後、2019年はゼロ成長に落ち込んだ(図を参照)。2019年の時点で公的債務残高は国内総生産(GDP)の150%以上に達し、これは債務対GDP比で世界3番目に大きい数字である(なお、レバノンの上はギリシアと日本である)。また、経済格差という点で言えば、レバノンでは上位1%の最裕福層が GDPのおよそ25%を稼ぎだす一方、下位50%の人々の収入は合計してもGDPの10%足らずという、いわゆる「中間層」がすっぽり抜け落ちた、世界で最も不平等な国の一つとなっている。

レバノン経済の中心はサービス部門であり、とりわけ貿易・観光・金融部門はレバノンにおける最も重要な経済部門で主要な外貨獲得源となっている。2008年から2018年までの期間において、GDPに占めるこうしたサービス部門の割合は平均でおよそ73%であった一方、工業・建設業といった製造業と農業は合わせてもGDPの中で平均およそ19%を占めるに過ぎなかった。こうしたことからレバノンでは、経済成長を続けるにつれて輸入が増加するという構造にあり、加えて原油やガスといったエネルギー資源のすべて輸入に依存していることもあり、貿易収支は常に赤字基調にある(WTOのレポートによると、2017年の総輸出額は40.26億ドル、総輸入額は201.09億ドルであり、貿易収支は160.83億ドルの赤字となっている)。

こうした経常赤字はこれまで主として観光などを始めとするサービス業、および在外レバノン人からの送金や外国直接投資(FDI)によって補填されてきた。長期に渡った内戦を境に地域経済・金融のハブとしての地位を湾岸諸国へ譲り渡すことにはなったが、英・仏・アラビア語が通じ、美しい自然や様々な世界遺産、そして豊かな食文化とアルコール(この点は特に湾岸産油国の富豪たちにとって重要である)を楽しめるレバノンは、依然として多くの観光客を魅了し続けている。GDPに占める観光部門の割合は例年15~20%であり、2009年にはおよそ200万人の観光客を受け入れて戦前の最多記録を塗り替えた。

他方で、在外レバノン人からの国内への送金額は巨額に上り、2018年の世界銀行のデータによると、その額は年間でおよそ70億ドル(GDPのおよそ12.7%に相当)と推計されている。また、FDIに関しては、内戦終結以降、政府は国家再建のために非常に高い金利を設定し、為替売買や資本移動に関する規制をほとんど設けず、銀行の秘匿権を厳密に保証しており、これによって海外、とりわけ産油国からのオイルマネーを集めることに尽力した。内戦終結以降のベイルートにおける建設ブームと不動産価格の高騰とも相まって、こうした手法は短期的には功を奏した。以降、政府は同様の手法を続け、いわゆる「不労所得経済」に大きく依存する経済構造が確立していく。だが、こうして集められた外貨は結局、不透明なかたちで政治家の懐に入るだけで、政府によって有効に有用・投資されることはなかった。また、こうしたバブル的な経済構造は当然、大きなリスクをはらむものでもあった。

事実、シリア内戦をきっかけとして、2012〜13年頃からレバノン経済は深刻な財政危機に陥いるようになっていった。FDIに大きく依存するレバノンにおいては国外からの投資を積極的に呼び込むため極端に高い金利が設定され、これまで同国の商業銀行は大口預金者に対して法外な利息を約束し支払ってきたが、その元手は投資・運用によって得た利益ではなくあくまでリスクの低い政府への貸し付けで得た利息である場合が多く(ある報道によるとレバノンの商業銀行が中央銀行に預けた預金は2017年から2019年の間に70%以上増加しているともいわれる)、そのしわ寄せは当然納税者の国民に向かうことになる。「巨大なポンジ・スキーム」(いわゆる出資金詐欺)と揶揄されることも多いこうした金融システムにおいては、外貨が流入し続けているうちは良いが、一旦外貨引き上げの兆候が見られると途端に負債が雪だるま式に増大していく。ここ数年のレバノン経済はまさにこのような悪循環の只中にある。

加えて、レバノンの風土病とも言いうる腐敗も、経済システムの基本構造と指摘して良いだろう。たとえば「腐敗認知指数」2019年度版によるとレバノンの汚職度合いは180ヵ国中137位であり、また世界銀行の2020年の研究によると同国での「ビジネスのしやすさ」は190ヵ国中143位(他の中東諸国、たとえばトルコは33位、バハレーンは43位、サウジアラビアは62位)であった。そして、レバノンにおけるビジネス環境の順位を著しく落としている最大の要因が「非効率で腐敗にまみれた官僚機構」であるとされ、煩雑な手続きや腐敗があらゆる形態・場所で蔓延し、贈収賄、縁故・恩顧主義、談合などが日常的に観察されるとされている。

世銀による1995年の調査は、レバノンにおいてビジネスを行う際の困難さを、次のように的確に表現している。「国際的なビジネス社会には[レバノン経済に関して]、私的取引、贈収賄、恩顧、圧力のために、法を超越して、[既得権益]保護のネットワークにおいて腐敗が制度化されているとの認識が存在している。潜在的な投資家たちは、こうした状況が継続するならば、党派的・家族的な忠誠心が経済的参入や成功を独断的に決定するようになると予想している。結果として、国際的なビジネス社会は、法的要求や国家機構への信頼無しに、自分たちが知っており、出来事やアクターをコントロールできる範囲においてのみリスクを引き受けるようになる」2。 レバノンでは2019年10月中旬以降、悪化する一方の経済状況と、それに対して何らの対処策も打ち出せない無能で腐敗した政府に対して、大規模な抗議デモが続いている。2020年3月にはレバノン史上初となる債務不履行(デフォルト)が宣言され、その後も現在に至るまで深刻な債務危機は解決の見通しも立たないままである。そうしたなかでレバノン・リラ(LL)も急落し、1ドル1,500LLが正規レートであるにもかかわらず、現時点では街の両替商のレートは2,300LLで1ドルとなっている。外貨準備も極端に不足しており、ほとんどの銀行は1週間の引き出し上限を200ドルに制限するに至った。

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選挙
レバノン
2021年8月31日

レバノン/選挙

上述のようにレバノンでは宗派主義制度に基づく特殊な形態の議会制民主主義が採用されており、立法府たる国民議会は一院制で総議席数は128(内戦以前は99)、議席配分は宗派ごとに予め設定されている(表を参照)。任期は4年である。内戦終結以降、これまでに6度の国政選挙が行われた(1992年、1996年、2000年、2005年、2009年、2018年)。

選挙制度については宗派主義に基づく特殊な形態の大選挙区制(定数は2~10)が採用されており、議席は宗派ごとの定数内で相対多数を獲得した候補者に与えられる。有権者は候補者個人に投票し、定数の上限まで投票することができる。選挙区割りに関しては、「選挙区は県を単位とする」と明確に規定されているにもかかわらず、実際には有力者たち――シリア軍・治安部隊による実効支配期(1986~2005年)においてはシリア当局、それ以降はレバノン政界における有力政治家たち(派閥の領袖クラス)――にとって有利になるよう選挙ごとに恣意的に操作されてきた。特に2000年の第16期国民議会選挙における選挙法は「ガーズィー・カナアーン1の法」としばしば呼ばれ、これは操作次第では親シリアの政治家にとって極端に有利となり得る仕組みであった。

有権者(21歳以上)は各選挙区において、自らが属する宗派以外の候補者(25歳以上)を含む定数分の候補者に投票する権利を有している。例えば2009年選挙においては、ベイルート県第三区の定数は10(スンナ派5、シーア派1、ドルーズ派1、ギリシャ正教1、福音派1、マイノリティ1)であり、有権者は割当議席数分の投票権(同選挙区では10票)を持つ。なお有権者は、定数分の投票権を有するも、それに満たない数の票を投じることも可能となっている(例えば、どうしても他宗派の事情は分からないという有権者は、自宗派分の票のみを投ずるだけでも良い)。

投票の結果、各宗派内で相対多数の票を獲得した候補者が当選を果たす。これは換言すれば、候補者にとってライバルは他宗派にではなく自宗派内に存在することを意味する。こうしたことから、各候補者は当選を確実にするために自らの宗派を超え、同一選挙区で他宗派に属する有権者からの票をあまねく獲得する必要性が生じてくる。それゆえに各政治主体は、他宗派からの得票を目指し、しばしば政策やイデオロギーを無視したかたちで宗派横断的な選挙協力――ないしは「選挙前談合」――を企てるのである。この帰結が、選挙公示後に各選挙区で作成される選挙リストである。

選挙リストとは、各選挙区に割り当てられた総議席数分を、議席が配分されている各宗派の候補者を網羅するかたちである種の大連合を形成した、「セットメニュー」のようなものだと考えればよいだろう。

選挙前談合によってリストを作成するに際しては、政策的・イデオロギー的親和性とは全く無関係の次元、すなわち選挙に出馬する各ザイームが動員可能な票の数と資金力、ならびにザイーム同士で選挙戦以前に行っていた非公式・水面下の「約束」が鍵となる。前節で確認したように、レバノンにおけるザイーム支配は伝統的かつ非常に強固であり、こうした支配構造の下、有権者はもっぱら「政策」ではなく「人物」に票を投じる(より正確には、投じざるを得ない)。それゆえ、各選挙区の登録有権者数と照らし合わせることで、選挙時に各々のザイームが動員可能な票の数は事前に概ね予想がつく。そこで、派閥の領袖であるアクタブは、各選挙区の事情とそれぞれのザイームの集票能力等を勘案し、選挙前談合によって他のアクタブと取引・調整を行ったり、選挙後のブロック形成や組閣作業といった政治過程に関する非公式な水面下の「約束」を取り決めたりすることで、リストを作成していく。またその際に、事実として立証することは非常に困難ではあるものの、買収や賄賂といった形で多額の不透明な資金が流れていることは、選挙戦を実際に観察していれば容易に想像がつく。

こうした過程によってリストが作成されるため、各立候補者の当落は選挙前にほぼ予想でき、実際に、たとえば2009年選挙ではおよそ128議席中110議席は選挙前に予め結果が予想できた。それゆえ有力政治家たちは自身の当選の正当性を高めるべく「高い投票率」と「盛り上がり」を国内外に演出するために、ただ挑発的な言動で有権者の「宗派対立」を煽ったり巨額の資金をばらまいたりすることで、投票所や街頭に人を集めるだけでよいことになる。

なお、2018年選挙では選挙制度が改正され、それまでの大選挙区制・複数記入制から15選挙区での比例制に変更された。これによって事前の予測通り、ヒズブッラーと同党と連携する諸派の議席が伸び、他方でムスタクバル運動の議席が減少する結果となった。ただし、レバノンでは、結局、個々の候補者が属する政党、選挙の際に組まれる選挙リスト、そして選挙後の議会で編成される会派がそれぞれまったくの別物であり、政策やイデオロギーなどとは関係なくその時々の政局次第でいくらでも呉越同舟が成立する。ゆえに、選挙の結果を見ただけではその後の政治過程を予測することはほとんど不可能であると言える。

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現在の政治体制・制度
イラン
2021年8月31日

イラン/現在の政治体制・制度

現在のイランの政治体制、すなわちイスラーム共和制の来歴は1979年の革命にさかのぼる。反王政運動は1960年代米国の提言を受けて始まった「白色革命」の影響を受けるとされるが、それは主に二つの主要アクターに影響を及ぼしたとされる。一つは労働者である。大地主所有者の解体と工業化を柱とする「白色革命」によって地方と都市、都市部の労働者の所得格差が拡大したことで1970年代に労働者による抗議運動が頻発するようになった(Parsa 1989:141-144)。所得格差の要因が米国による対外投資の増加にあるとの考えが市中に広まると「反米」が反王政運動のスローガンの一つとなったのである(Keddi 2006:148-169)。もう一つは宗教勢力である。近代教育制度の普及を目指す「白色革命」を受けてイランの宗教勢力は社会的役割が低下するとの懸念を抱くようになる(Brumberg 2001: 73)。それに対して宗教勢力は近代的な教養とイスラーム法学の両方を身につけた若年の知識人の育成に力を入れた(嶋本2011:52-55; Fischer 1980: 76-86)。この宗教学院での教育が後に新体制の創設において宗教勢力が他の勢力を制圧し権力の中枢を掌握する背景である[1]

イスラーム法学者が国を統治するイランの政治制度の根底には革命で指導的な役割を果たしたホメイニー師が唱えた「イスラーム法学者の統治(ヴェラーヤテ・ファギーフ)」論がある(Arjomand 1988: 177-188)。これはホメイニー師が革命前から提唱していた考えである。その論点は、第12代イマームがお隠れで不在の間、外国植民地主義による反イスラームの攻勢に直面するイスラーム世界を救済するためには、イスラーム法を正しく解釈し執行できる統治者が必要であるというものである(吉村2005: 80)。

イラン・イスラーム共和国憲法には「イスラーム法学者の統治」論を具現化するための様々な条項が盛り込まれている。憲法第1条は、イランの政体がイスラーム共和制であり、この体制には「全有権者の98.2%が」賛成票を投じたことを明記している。第2条は主権が神にあることを謳っており、第4条ではイスラーム共和国におけるあらゆる法律はイスラームの原理に基づくことが定められている。そして第5条では、イマームがお隠れでいる間は、「公正で徳高く実社会に関する知識を有し、勇敢で有能な」イスラーム法学者(ファギーフ)が、イスラーム共和国を指導するとされている。

憲法第56条によれば、主権は神にあるものの、その神は人間を、自らの社会的運命を決定する権利を持つ存在として創造した。よって何者も、神から人間に与えられたこの権利を奪うことはできない。そのように定めた上で憲法は、イラン・イスラーム共和国の統治権力は立法権、行政権および司法権からなり、相互に独立するこれらの三権はいずれも最高指導者の導きのもとに、憲法の諸原則に基づき行使されることを定めている。

以上の憲法の特徴を踏まえ、イランの政治体制は神権政治と共和制という一見相反する特徴を備えた政治体制だとする指摘がなされている(Ghobadzadeh and Rahim 2016; Abdolmohammadi and Cama 2015)。

以下、イスラーム共和制を構成する主要機関を紹介する。各機関の説明に入る前にイランの政治体制の二元構造について説明しておきたい。イランの国家機構には日々の行政を担当する大統領(1989年までは首相)と内閣を中心とする行政府が存在する[2]。民選機関である議会は行政府が執行するための法を制定し、行政府の活動を監視している。他方、イランには最高指導者を頂点とする宗教政治の構造が併存するという特徴がある。それには金曜礼拝指導者、さらには警察、革命防衛隊、社会福祉[3]、開発機関[4]、国営メディア、公立大学などにおける最高指導者名代が含まれる(Matsunaga 2009: 478-479)。選挙で政権の派閥が変わると政策選好も変化することが指摘されている(Randjbar-Daemi 2018)。しかしながら大統領が率いる機関と最高指導者が率いる機関の権力関係は制度的にも実践的にも不平等である(Abdolmohammadi and Cama 2015)ことに注意する必要がある。

なお本稿はイランの政治体制の制度的側面を解説することを目的とするため、最高指導者、および三権を担う機構に絞る。また以下の憲法とは1989年の改正憲法を意味する。

最高指導者

イラン・イスラーム共和国の最高指導者は、「宗教的かつ政治的」な統治権を有する(憲法第107条)。初代最高指導者は、カリスマ的な革命の指導者ホメイニー師が努めたが、ホメイニー師の亡き後、最高指導者は国民の直接投票により選ばれる専門家会議メンバーにより決定されることになっている。 初代最高指導者であるホメイニー師が1989年6月に逝去すると、当時大統領を務めていたアリー・ハーメネイー師が、専門家会議の決定により最高指導者に就任した。

(1) 最高指導者に求められる資質(憲法第109条)

イスラーム法学上の様々な問題にまつわる法判断に必要とされる学識

イスラーム共同体を導くのに必要とされる公正さと敬虔さ

指導者に必要とされる適切な政治的・社会的洞察力、慎重さ、勇気、権威、国家運営能力

(2) 最高指導者の権限(憲法第110条)

  • 体制利益判別評議会との協議をふまえたイラン・イスラーム共和国体制の施政方針の決定
  • 体制の施政方針の適正な遂行の監督
  • 国民投票の実施宣言
  • 統帥権
  • 宣戦布告、和平の受諾、軍の動員
  • 以下の者の任命、解任、辞任の受理
    • 監督者評議会メンバーのイスラーム法学者6名
    • 司法長官
    • イラン国営放送総裁
    • 全軍統合参謀長
    • イスラーム革命防衛隊総司令官
    • 国軍及び治安維持軍の総司令官
  • 三権間の対立の解消と調整
  • 通常の方法では解決が不可能な込み入った問題の体制利益判別評議会を通じた解決
  • 国民により選ばれた大統領の認証
  • 最高裁判所が大統領による違反行為を認定した場合、あるいは国会が大統領は不適格との決定を下した場合、これに基づく大統領の罷免
  • 司法長官の推薦を受けての恩赦および減刑の実施

立法府

イラン・イスラーム共和国において、立法権は国民による直接投票で選出された議員から構成される国会により行使される。憲法はまた、「非常に重要な経済的、政治的、社会的、文化的問題については」、国民投票により立法権が行使されることもあることを定めている。国民投票は、国会議員全員の3分の2の承認を得て実施される。

(1) 国会の構成

  • 任期4年
  • 定数290
    • 憲法憲法第 64 条は定数270と定めている。ただし1989年の国民投票以降、10 年毎に人口、政治、地理その他の要因を考慮に入れて、最大30名まで議員を増員できる。
    • この規定に基づき、2000年に実施された第6期国会選挙から、国会議員の定数は290名に増員された。
  • 宗教少数派5議席
    • ゾロアスター教徒は1名、ユダヤ教徒も1名、アッシリア系およびカルデア系キリスト教徒はあわせて1名、南部及び北部のアルメニア人キリスト教徒はそれぞれ1名の議員を選出することになっている(憲法第64条)。

(2)国会の権限

  • イスラーム教の原則及び憲法に違反しない範囲であらゆる問題に関わる法律を審議・制定できる(憲法第71条)。
  • 最小限15名の議員の賛同があれば法案を議会に上程できる(憲法第74条)。
  • 国際間の条約、議定書、協定及び同意書の承認(憲法第77条)
  • 政府が国内外の借款または無償の協力を受けるための承認(憲法第80条)
  • 大統領による内閣組閣後、行政権行使前の信任投票(憲法第87条)。信任には投票総数の過半数の賛成が必要。
  • 閣僚の罷免
    • 閣僚の喚問動議は最低10名の議員の署名により上程される。動議の対象となった閣僚は10日以内に議会に出席し、動議に対する答弁を行う。信任投票が得られなかった場合、閣僚は免職となる(憲法第89条)。
  • 大統領の罷免
    • 大統領の喚問動議は3分の1以上の議員の決議により行われる。大統領は1ヶ月以内に議会に出席し、動議に対する答弁を行う。3分の2以上の議員が大統領を無能と票決すれば、罷任の理由を最高指導者に通知する。
  • 行政府及び司法府の執行方法に対する苦情処理(憲法第90条)

(3) 監督者評議会による立法の監督

  • 監督者評議会の構成(憲法第91条)
    • 公正かつ時代の要請及び問題点に精通するイスラーム法学者6名(最高指導者が任命)
    • 法律の各分野に精通する法学者6名(最高指導者が任命する司法長官が指名し、国会が承認)
    • 任期6年(憲法第92条)
  • 監督者評議会の権限
    • 国会が可決する法律がイスラームの原則に適っているか否かは、監督者評議会が判定する。国会で可決された議事事項がイスラームの原則に抵触しないとの判定は監督者評議会中のイスラーム法学者の過半数により、また違憲性がないとの判定は監督者評議会メンバー全員の過半数による(憲法第96条)
    • 憲法の解釈権限。監督者評議会メンバーの4分の3の賛成により解釈が決定される(憲法第98条)

(4) 体制利益判別評議会による裁定(憲法第112条)

  • 体制利益判別評議会は1988年2月に設置された。メンバーは最高指導が任命する。
  • 国会で可決された法案を、監督者評議会が承認せず、その法案をめぐる国会と監督者評議会の間の対立が解消されない場合、法案は「体制の利益」という観点から最終的な判断を下す権限を有する。

行政府

イラン・イスラーム共和国において、大統領は最高指導者に次ぐ第2の権力者である。大統領の任期は4年であり、継続的な再選は1回に限り許される(第114条)。

(1) 大統領に求められる資質(憲法第115条)

  • 宗教的及び政治的に優れた人格を有する卓越した人物
  • 生粋のイラン人でイラン国籍を持ち、管理能力があり慎重で、評判がよく正直かつ敬虔で、イスラーム共和国の原則と国教を信じ、これに忠実である者

(2) 大統領の権限

  • 複数の副大統領の任命(憲法第130条)
  • 議会の決議事項に署名する(憲法第123条)。大統領に拒否権はない。
  • 閣僚の議会への紹介(憲法第133条)
  • 大臣の解任(憲法第136条)

司法府

イラン・イスラーム共和国において、司法権内で最高の地位を占める司法長官は最高指導者により任命される。司法長官は「公正で司法に通暁し、管理能力を有しており、かつ有能な」イスラーム法学者であることが求められ、その任期は5年である。司法府長官は検事総長と最高裁判所長官の任命権限を持つ(憲法第162条) 。またイランでは内閣任命は大統領の権限であるが法務大臣のみ司法長官が任命する(憲法第160条)。

イランの司法府は憲法では中立・独立機関と規定されている。しかし、司法長官は最高指導者により直接任命されるため、実際の法執行では最高指導者の提示する政治方針に従う傾向がある(Shambayati 2008: 301; Künkler 2009)。司法府の傘下には、最高裁判所、検察庁、軍事法廷、行政裁判所、各州司法局が置かれている。加えて、聖職者の政治犯を裁くための聖職者のための特別法廷や反体制的なジャーナリストを裁くための報道法廷も設置されている(Entessar 2002: 29-34)。

<注>

本稿は、坂梨祥「イラン・イスラーム共和国」松本弘編『中東・イスラーム諸国 民主化ハンドブック2014 第1巻 中東編』人間文化研究機構「イスラーム地域研究」東京大学拠点, 2015, pp. 37-54. を基にしている。

参考文献

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Arjomand, Amir. 2009. After Khomeini: Iran under His Successor, Oxford: Oxford University Press. Bakhash, Shaul. 1984. The Reign of The Ayatollahs: Iran and The Islamic Revolution, New York: Basic Books, Inc.

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Künkler, Mirjam, The Special Court of the Clergy (Dādgāh-Ye Vizheh-Ye Ruhāniyat) and the Repression of Dissident Clergy in Iran (May 13, 2009). Available at SSRN: https://ssrn.com/abstract=1505542 or http://dx.doi.org/10.2139/ssrn.1505542

Lob, Eric. 2018. “Construction Jihad: State-building and Development in Iran and Lebanon’s Shi’i Territories,” Third World Quarterly, 39(11): 2103-2125.

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Shambayati, Hootan. 2008. “Courts in Semi-Democratic/ Authoritarian Regimes: The Judicialization of Turkish (and Iranian) Politics,” in Tom Ginsburg and Tamir Moustafa eds., Rule by Law: The Politics of Courts in Authoritarian Regimes, Cambridge: Cambridge University Press, 283-303.

Taheri, Amir. The Spirit of Ayatollah: Khomeini and The Islamic Revolution. Bethesda. Adler and Adler Publisher.

嶋本隆光(2011)『イスラーム革命の精神』京都大学出版会

吉村慎太郎(2005)『イラン・イスラーム共和国体制とは何か:革命・戦争・改革の歴史から』書肆心水


[1] 革命成功の他の要因は、反王政勢力に対する妥協と抑圧を用いた王政の対応の一貫性の欠如(Rasler 1996)、米国で人権政策を重視するカーター政権の発足(Taheri 1986: 210-211)が指摘されている。また革命から1980年代初頭のホメイニー派の宗教勢力と他の勢力との権力闘争の歴史についてはBakhash(1986)、対MKOに着目する歴史研究はAbrahamian(1989)、80年代の各種法廷における政治犯の処罰の歴史はAbrahamian(1990)に詳しい。

[2] 1989年の憲法改正に伴いそれまで首相が掌握していた行政権が大統領に一本化された(Arjomand 2009: 38-39)。

[3] イスラーム共和制下のイランの社会福祉政策が王政期とは対照的に貧困層の救済に重点がおかれ国民を国家に包括する役割を担うという議論はHarris (2017)を参照。

[4] 革命防衛隊傘下の開発ジハードによるインフラ事業、それによる全国的な雇用機会の提供についてはLob(2018)を参照

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現在の政治体制・制度
マレーシア
2021年8月31日

マレーシア/現在の政治体制・制度

マレーシアの政体は、1957年のマラヤ独立憲法と、それを継承する1963年のマレーシア連邦憲法に規定され、連邦制の下での立憲君主制が採用されている。イギリスの旧植民地であったことも影響し、統治制度は、議院内閣制が採用されている。

(1) 元首と連邦制

マレーシアの国家元首の地位にあるのは国王(Yang di-Pertuan Agong)である。国王は、各州レベルでの元首に相当する統治者によって構成される統治者会議(Majilis Raja-Raja)を通じて5年ごとに選挙によって選出される。候補者として国王に就任する資格を持つのは、マレー半島部の9州の世襲の統治者である(憲法32条、38条)。ただし、これまでの国王は慣例として9州から輪番制で選出されている。国王は「連邦の第一人者(憲法32条1項)」で、連邦の行政権は国王に付与されている(憲法39条)。国王は同時に国教であるイスラームの長で、陸海空の3軍を統率する。ただし、国王の行政権や軍の運用等は首相或いは首相を筆頭とする内閣の助言に基づいて行使されるため、実質的な権限は首相が有している(憲法40条)。マレーシアに独特な国王に関する憲法規定は、第153条のマレー人及びサバ、サラワクの先住民の社会・経済上の特権に関わる規定であり、国王にはこの特権を守る責任があることが規定されている(「民主化の経緯」の箇所も参照)。

連邦制をとるマレーシアでは、13の州から構成され、そのうちのクダ、クランタン、トレンガヌ、パハン、ペラ、スランゴール、ヌグリスンビラン、ジョホールの7州にはスルタン、ヌグリスンビラン州にはヤン・ディプルトゥアン・ブサール、プルリス州にはラジャが君臨しており、これらの9州の世襲の統治者は上述の国王になる資格を持つ。あとの4州(ペナン、マラッカ、サバ、サラワク)には国王が任命する州元首(Yang di-Pertua Negeri)が世襲の統治者に代わって置かれている。また、この13州の他にクアラルンプール、プトラジャヤ、ラブアンが連邦直轄地となっている。各州では、一院制の州議会が立法権を司り、州元首に任命された州首相(スルタン等が存在する9州ではMentei Besar、他の4州ではKetua Menteri)に率いられる州執行評議会(EXCO)が行政権を司る。

マレーシアの地方制度は上から連邦政府、州政府、自治体の三層構造になっている。地方自治体は特別市、一般市、町の3つの分類がある。自治体の長と議員は1960年代まで選挙で選出されていたが、現在では選挙が中止され、州政府による任命制となっている。連邦と州の権限配分は憲法第9付表に規定され、州はイスラーム法、マレー人の生活習慣、土地、農林業、地方自治などが主な権限となっている。連邦は国防、外交、教育など幅広い権限を持ち、連邦と州の権限が重複する場合は連邦に優先権がある。州は自治体に対して、全般的な監督権限があるものの、連邦は憲法95A条に規定された組織である国家地方自治評議会(Majlis Negara bagi Kerajaan Tempatan)を通じて自治体をコントロールすることが可能になっている。  

(2) 立法権

連邦の立法権を付与されているのは、連邦議会である(44条)。連邦議会は上院(Dewan Negara)と下院(Dewan Rakyat)の二院から構成される。上院は、各州から2名ずつ選ばれる26名と国王によって任命される44名の計70名(任期3年)によって構成される。下院は、小選挙区で選出される222名(任期5年)から構成される。旧宗主国のイギリスの制度を受け継ぎ、下院が首相選出、予算、法案審議などで優越する。

(3) 行政権

連邦の行政権は国王に属しているものの、実際は首相及び内閣の助言に基づいて行使されるため、実質的には首相及び内閣が行政権を行使している。連邦下院議会で多数の信任を得ている議員が国王によって内閣の長である首相に任命される。各大臣は首相の勧告に基づいて国王が任命するが、連邦の上院あるいは下院のいずれかの議員である必要がある。

(4) 司法権

司法制度は3審制をとっており、上から連邦裁判所、控訴裁判所、高等裁判所があり、下級裁判所としてセッションズ裁判所とマジストレート裁判所がある。連邦元首や州元首に関わる裁判事項は特別法廷で扱われる。これらの裁判所以外にも、半島部にはムスリム間の親族・相続関係、イスラーム道徳などに関する領域を扱うシャリーア裁判所が存在する。 

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マレーシア
最近の政治変化
2021年8月31日

マレーシア/最近の政治変化

マレーシアの政治体制は、民主主義と権威主義の中間のグレーゾーンの体制か権威主義体制の亜種として長く認識されてきた。つまり、マレーシアの政治体制は、独立以降、一貫して複数政党が参加する競争的な選挙が定期的に実施されている一方で、選挙の公平性、言論・表現や集会の自由に関わる市民的自由などの点で疑問符がつく体制であり、その体制が長期にわたり続いてきたのである。

2018年に政権交代が起こるまでの60年間以上、与党の地位にあったのは、民族と地域をもとにした政党から構成される政党連合の国民戦線(BN)とその前身の政党連合にあたる連盟(Alliance)である。連盟およびBNによる統治は2018年総選挙で政党連合の希望連盟(PH)が勝利することで終焉を迎えた。第4首相だったマハティールを再び第7代首相に首班指名して発足したPH政権は国民からの政治や社会の改革への高い期待を背景に発足したが、PH内で指導者間の対立と分裂が深まるなかで、2年も経たずに内紛で崩壊した。その後はPHから離脱したマレーシア統一プリブミ党(Bersatu)がBNの中核政党であった統一マレー人国民組織(UMNO)と連立を組んでムヒディン・ヤシン(Bersatu総裁、前内務大臣)を首相とする政権が結成された。しかし、ムヒディン首相は与党内の内紛により政権を維持できなくなって2021年8月に首相を辞任し、新たにUMNOからイスマイル・サブリ・ヤコブ前副首相兼防衛大臣(UMNO副総裁補)が首相に就任した。UMNOを中核とする連盟/BNによる統治体制が2018年に崩壊して以降、政党システム、政治体制や民主化の行方が流動化し、不安定さを増している。

マレーシアの体制変動と民主化を理解する際には、(Ⅰ)60年以上続いた連盟およびBNによる統治の時代、(Ⅱ)2018年総選挙で起こった選挙を通じたPH政権の成立、そして、(Ⅲ)PH政権崩壊からの流動的状況、の3つの時期を取り扱う必要がある。そこで、マレーシアの「民主化(と政治体制を巡る問題)」を考える際には、以下のように、独立以降の歴史を5つの期間、(1)独立から「5月13日事件」までの期間(1957~1969年)、(2)BN体制の成立期(1970年代)、(3)マハティール政権期(1981年~2003年)、(4)BN体制内改革とその反動の期間(2003年~2018年)、(5) PHによる統治の期間(2018~2020年)、(6) ムヒディン政権(2020年3月~2021年8月)、 (7)イスマイル政権―UMNOの首相ポスト奪還(2021年8月~現在)に区切って見ていくことで理解が容易になる。

(Ⅰ)連盟とBNによる長期与党体制

 (1)  独立から「5月13日事件」までの期間(1957~1969年)-コンソシエーショナル・デモクラシーの時代 

1957年のイギリスからのマラヤ連邦独立を達成した「独立の父」で初代首相トゥンク・アブドゥル・ラーマンが率いたのは、与党連合の連盟である。UMNO、華人政党のマラヤ華人協会(MCA、後にマレーシア華人協会)、インド人政党のマラヤ・インド人会議(MIC、後にマレーシア・インド人会議)の3党の民族政党から構成された連盟は、独立時の憲法に明記されたマレー人と(華人が中心の)非マレー人との間の「取り引き(bargain)」を政治的に担保する仕組みであった。その「取り引き」とは、移民である華人やインド人の市民権を与える代わりに、先住民とされたマレー人に、文化上の優位性(イスラームの国教化やマレー語の国語化など)と憲法153条で規定された社会・経済上の特権(公務員任用、高等教育機会、事業ライセンス付与におけるクォータ枠など)を確保することにあった。

連盟の統治は、UMNO、MCA、MICという各民族集団を代表する与党の幹部の個人的な紐帯と協調関係に支えられていた一方で、歴代の首相、内務大臣、国防大臣、教育大臣など政治・文化系の大臣ポストはUMNOから、財務大臣や商工大臣など経済系の大臣ポストはMCAから輩出され続けたことから分かるように、各民族集団間で領域ごとの権力の分有が行われていた。これは、政治学者のレイプハルトがコンソシエーショナル・デモクラシー(多極共存型民主主義)と呼んだ民主主義の在り方に極めて近いものであった。しかしながら、「独立の父」ラーマン首相に率いられた連盟の統治は、1969年に起こった民族暴動によって終焉を迎えることになる。 

(2) BN結成(1970年代)-BN体制下のUMNOのヘゲモニーの確立 

1969年5月13日に首都クアラルンプールで起こったマレー人と華人との衝突(「5月13日事件」)の責任をとる形で初代首相ラーマンが退任し、第二代首相にラザクが就任すると、政治体制の大きな転換が起こる。ラザク政権は、マレー人が華人を中心とする非マレー人に対して経済的に劣位に置かれていることが5月13日事件の背景にあると見なし、マレー人(と一部の先住民)への経済的支援に積極的に乗り出した。ラザク政権がこの時に20年間の国家政策として打ち出したのが新経済政策(New Economic Policy: NEP)であり、NEPはその後のマレー人優遇政策の柱となった。このNEPを、安定した政治環境の下で達成するために憲法や扇動法の改正が図られ、「センシティブ・イシューズ(sensitive issues)」と呼ばれる、市民権、マレー人の特権、国語としてのマレー語、スルタンの地位などを公的に議論することが禁止され、言論・表現の自由に箍がはめられた。 

マレー人優遇政策を安定した政治環境の下で達成するもう一つの政治的枠組みが、連盟を再編する形で1974年に結成されたBNであった。BNには従来の連盟の所属政党であるUMNO、MCA、MICに加え、ペナンに基盤を持ち、華人を中心とした非マレー人を主な支持層とするグラカン(Gerakan)、インド人の指導者を持ち、ペラで大きな勢力を誇った人民進歩党(PPP)や、UMNOの独立以来のライバルにあった汎マレーシア・イスラーム党(PAS)、サラワクの政党であるサラワク統一ブミプトラ伝統党(PBB)とサラワク統一人民党(SUPP)、サバからは統一サバ国民組織(USNO)といった政党がBN結成に参加し、一挙に巨大与党連合が出現した。 

本稿では、このBNによる統治体制をBN体制と呼びたい。このBN体制による統治は、エ民族と(サバ州とサラワク州に代表される)地域に基づいた多様な政党がBNという傘の下に集結することで、全ての国民の利益が表出され、調整されるという論理に基づいて正当化されることとなった。初期のBNはマレー人優遇政策を実行していくうえでの政治的安定を維持するための装置として作られた一方で、全ての民族や地域の代表を集め、それを調整するための組織としての論理が埋め込まれていたのである。

マレー人優遇政策を実行に移すための制度の構築が進む中、BN内部でUMNOは連盟時代にも増して影響力を拡大し、ヘゲモニーを確立することになる。それを端的に示すのが、大臣ポスト配分の変化である。前述のように、独立以来MCAは伝統的に財務大臣と商工大臣という経済政策の決定の根幹に関わるポストを独占してきた。しかし、ラザク政権以降、財務大臣や商工大臣のポストはUMNOが独占し、MCAは運輸大臣や保健大臣などのポストを得るに留まった。このことは、これまでMCAが大きな影響力を持ってきた経済政策の決定に関しても、UMNOが決定権を握ることになったことを意味する。また、70年代以降、政府は国民文化政策を発表し、言語、教育、文化などの面におけるマレー文化の普及を推し進めたが、この過程においてマレー人の守護者を自他とも認めるUMNOの地位も一層揺るぎないものになっていった。  

(3) 第一次マハティール政権期(1981年~2003年)-首相への権力集中とレフォルマシ運動

1981年に発足したマハティール政権は、2003年まで22年間続いた。民主化の観点から見れば、マハティール政権期とは、全体としては権威主義化が進む中で、行政権力を司る執政、つまり、マハティール首相への権力集中が進んだ時代であった。ただし、そうした中でも、マハティール政権の22年間は前半の80年代と、後半の90年代以降に分けることが可能である。

(3-a) 第一次マハティール政権前半期(80年代) 

1981年に首相に就任した当初のマハティールは、「ルック・イースト政策」や民営化政策など次々と新たな政策を打ち出していったが、その政権基盤は必ずしも盤石なものではなかった。まず、マハティールは50年代から60年代の独立期にUMNOを直接指導した「第一世代」のリーダーではなく、70年代のラザク政権期に頭角を現した「第二世代」の政治家にあたり、またスルタンや貴族層の家系以外からの初めての首相であった。そのため、マハティールは、同じく「第二世代」指導層のライバルであるラザレイ・ハムザやムサ・ヒタムといった政治家を閣内に取り込みつつも、常に彼らを潜在的挑戦者として考慮しながら活動をせざるを得なかった。また、マハティール政権は、国王・スルタンや司法など政府を構成する諸組織との軋轢も経験している。さらに、80年代に入ると、ジャーナリストや弁護士などの専門職団体、環境や人権問題などを扱うNGOなど市民社会アクターの活動が活性化し、BNがほぼ完全にコントロールする議会や行政などの制度的装置の枠組みの外側から要求を突きつけ、政府・与党(関係者)の汚職や権力乱用を厳しく批判するようになった。このように、発足当初のマハティール政権は政府・与党の内外からの圧力に取り囲まれており、マハティール首相は強力な権力を握ってはいるものの、それを掣肘する制度的装置や(新旧の)アクターの活動も活発であった。

しかしながら、マハティール政権は、政府・与党内外の圧力に対応しながら、それを弱めてくことに成功していく。与党内のライバルに対しては、1987年のUMNOの党役員人事選挙での勝利、その後のUMNO分裂過程での反対派の排除を通じて、マハティールの党総裁としての権力が強化された。国王・スルタン制度に対しては、国王の立法権の制限(1983年)、スルタンの免責特権の廃止(1993年)、司法制度に対しては、最高裁判所長官の罷免(1988年)などを通じて介入した。活性化しつつあった市民社会アクターに対しては、印刷機・出版物法の制定(1984年)と改正(1987年)、国家機密法の改正(1986年)や国内治安法による主に野党指導者やNGO関係者の一斉逮捕と日刊紙3紙の一斉停刊(「オペラシ・ララン事件」1987年)などを通じて、その勢いを一時的に削ぐことに成功した。

以上のように、政府での執政としての首相権力の拡大、与党UMNO内での総裁支配の確立、市民社会からの圧力の一時的な後退などを受け、90年代初頭までにマハティール(とその周辺)への権力の集中が著しく進むことになった。 

(3-b) 第一次マハティール政権後半期(90年代以降) 

首相への権力の集中をみた90年代以降のマハティール政権下では、2020年までに先進国入りする目標を掲げた2020年ビジョンの策定、新空港や行政首都プトラジャヤの建設、先端情報通信技術導入を進めるためのマルチメディア・スーパー・コリドー計画など国家主導の大規模プロジェクトやビジョンが次々と打ち出されるとともに、経済的にも好況が持続したため、政権は90年代半ばまで大きく安定した。 

しかし、90年代末になると、マハティール政権は大きく動揺する。1998年にアジア通貨危機から発展した経済危機からの回復策をめぐってアンワル副首相兼財務大臣がマハティール首相と対立し、最終的に政府・与党から追放され、汚職と異常性愛の罪で投獄される。これをきっかけに、BN体制下での汚職、権力乱用や権威主義的な法などを問題として取り上げ、政治と社会の変革を求めるレフォルマシ(改革)運動が広がった。 

レフォルマシ運動は投獄されたアンワルへのマレー人を中心とした自然発生的な同情から始まったが、野党はそうした人々の感情を糾合し、与党BNに対抗していくための組織づくりを進めていった。最終的には、1999年11月に実施された総選挙の前月に、野党4党が合意して野党連合の代替戦線(BA)が結成されることになる。BA結成の意義は、これまでイスラーム主義を信奉し、マレー人に支持基盤を持つPASと、社会民主主義を党の基本理念として非マレー人に支持基盤を持つ、民主行動党(DAP)が、アンワルの妻が代表を務める国民公正党(PKN)などを仲立ちにして、BNに対抗する一つの野党グループを結成したことにある。野党を糾合する試みは80年代末にもあったものの、PASとDAPが同じ旗の下で政党連合を組むことは初めてであった。BAは、1999年総選挙で主にPASの躍進を可能にした原動力の1つであった(3の選挙の箇所の表も参照)。1999年総選挙後のBAは、イスラーム国家を巡る問題でPASとDAPが対立し、BAからのDAPの離脱を引き起こして、事実上その役割を終えていく。ただし、後述する2008年総選挙での新たな野党連合結成の方向性を決定づけたものとして評価することができる。

(4) BN体制内改革とその反動の期間(2003年~2018年)-改革の試みと市民社会の活性化  

レフォルマシ運動を経て1999年総選挙では、マレー人有権者のUMNOに対する反発の高まりの中で、UMNOは議席を大きく減少させた。UMNOの立て直しが急務となったが、その期待を背負ったのは、マハティールの後を継いだ第5代首相のアブドゥラ・バダウィと第6代首相のナジブ・ラザクである。

その権威主義的な政治姿勢への反発も強かったマハティールは22年の在任期間を経て2003年に首相を退任した。マハティールの後に首相に就任したのは、第5代首相となったアブドゥラ・アフマド・バダウィと第6代首相となったナジブ・ラザクである。アブドゥラとナジブが首相だった時代はレフォルマシ運動の影響を受けて始まったBN体制内からの改革の時代であり、それが部分的な成果にとどまる中で改革が挫折していく時代でもあった。

(4-a) アブドゥラ政権期(2003年~2009年) 

20年近く首相の座にあり、一部ではその権威主義的政治スタイルに対する反発も強かったマハティールの後継者の問題は、敬虔なムスリムであると同時に中華文化や西洋文化への理解を示す「新しいマレー人」指導者の代表格として高い人気を誇り、後継者として確実視されていたはずのアンワルが失脚しただけに、BN体制に深刻な動揺を与えた。そこで、マハティールは後継者として、当時、ミスター・クリーンと呼ばれ、そのソフトな人当りや飾らない人柄が評価されていたアブドゥラを指名した。

アブドゥラは、首相就任後、政府・与党の汚職の根絶、警察制度の改革、大規模プロジェクトの廃止、農業の振興など前政権の課題に取り組むとともに、独自の路線を打ち出した。発足当初の新政権の姿勢は国民に改革への期待を抱かせ、翌2004年3月に実施された第11回総選挙ではBNは連邦下院議席の9割以上を獲得し、圧勝した。国民からの圧倒的支持を得て、2004年総選挙後のアブドゥラ政権は、課題となっている政府・与党の制度改革に乗り出そうとしたが、改革が実行に移せないまま、アブドゥラ首相のリーダーシップへの不満が高まっていった。

アブドゥラ政権期は、新聞やテレビに代表される主流メディアについての政府の規制が前政権期よりも緩和されるとともに、インターネットを使ったニュース・サイトやブログなどのオンライン・メディアが国民の間に浸透していった時期でもある。特にオンライン・メディアは、これまで政府や与党が実施してきたメディア統制でカバーしきれない新たな情報源と言論空間を作り出し、野党やNGOの活動にとって以前よりも有利な状況を作り出した。 

さらに、アブドゥラ政権末期から専門の調査会社や大学による世論調査が実施され、メディアがその結果を報道するようになっていく。また、本格化するのは次のナジブ政権からとなるが、首相の演説のライブ放送や、与党政治家も含めた政治家によるツイッターやフェイスブックでの情報提供が行われるなど、情報化が進む中で、政治的コミュニケーションの方法に新たな展開が見られるようになった。

他にも重要な点として、アブドゥラ政権期は半ばを過ぎると、90年代末のレフォルマシ運動以来の大規模な街頭での抗議デモが散見され始めるようになった。以上の点を踏まえれば、アブドゥラ政権期には前政権よりも確実に政治・社会的な自由化が進んだと言える。

以上のような政治・社会的な自由化が政治的コミュニケーションの変化とともに進んでいった一方で、アブドゥラ政権は抑圧的な法の改正や70年代からBNが掲げてきたマレー人優遇政策の転換など具体的な改革の成果を国民の前に提示することには失敗した。改革を実行に移せない政権への国民の不満の高まりと、前政権期よりも相対的に自由な政治・社会が根づいていく中で実施された2008年3月の第12回総選挙では、与党BNは結成以来はじめて、連邦下院議席の3分の2の議席を割り込む歴史的な後退を経験するだけでなく、経済的に最も発展した地域であるマレー半島西海岸部の4州の州政権(スランゴール州、ペラ州、クダ州、ペナン州)を野党に奪われることになった(ただし、ペラの州政権は野党からの離反者が出たために2009年に与党が再び奪回)。 

この2008年総選挙では、PAS、DAP、人民公正党(PKR)の野党3党は、候補者の調整や選挙区での協力体制を進め、総選挙後の4月1日には新たな野党連合の人民連盟(PR)を結成した。2008年総選挙でのPRの大躍進によって、マレーシアはBNとPRという2大政党(連合)が政権をめぐって争う新たな段階に突入した。

(4-b) 第一次ナジブ政権期(2009年~2013年) 

2008年総選挙でのBNの大幅な勢力後退の責任を取る形で、アブドゥラは首相を退任した。そのあとを継いで第6代首相に就任したのは、第2代首相のアブドゥル・ラザクを父に持つナジブである。ナジブ政権は2013年総選挙の前後で政権の方針や性格が異なる。2009年から2013年の第一次ナジブ政権期には部分的な政治的自由化や経済改革が進むこととなったが、2013年総選挙後の第二次ナジブ政権期には政治的自由化や改革が後退する反動の時代を迎えることになる。まずは第一次ナジブ政権期からみていことにしよう

2009年にアブドゥラから政権を引き継いで第6代首相に就任したナジブにとって、2008年の第12回総選挙で失われたBNへの支持を回復させることが至上命題であり、政権運営は常に次の選挙を意識したものとなった。しかし、世論調査会社のムルデカ・センターの調べでは、ナジブ首相の就任時の支持率は45%であり、歴代首相と比べても非常に低い支持率からの政権スタートであった。逆風の中からのスタートとなったナジブ政権は「1つのマレーシア、国民第一、即実行(One Malaysia, People First, Performance Now)」のスローガンの下、前政権が実行できなかった政治・経済改革に取り組んでいくことになる。

ナジブ政権は2010年に、行政改革のプログラムとして政府変革プログラム(GTP)、経済改革の指針としての新経済モデル(NEM)とその手段である経済変革プログラム(ETP)を発表した。GTPでは国家重点達成分野(NKRAs)として、犯罪減少、汚職撲滅、教育の機会と質の向上、低所得者の所得水準引き上げ、村落部の基礎的インフラ改善、都市部の公共交通機関の改善の6分野(後に生活費上昇への対策を含め7分野)で新政策を打ち出した。NEMでは、マレーシアが直面している「中所得国の罠」から抜け出して2020年までの先進国入りを果たすため、「高所得」、「包括性」、「持続性」をキーワードとして市場経済をより重視した政策を採用することを謳った。重要なのは、NEMでは、従来の民族を基準にした貧困者対策から所得を基準にする対策への転換が謳われたことであり、これまで続けられてきたマレー人優遇政策の見直しを図ったのである。

ナジブ政権は上記のような行政・経済改革案を政権主導で次々と提示することにより、ナジブ首相の改革者としてのイメージを国民に浸透させていこうとした。その結果、政権運営が安定してきたことも相まって、首相の支持率も6割を越え、2010年5月には72%を記録した(2014年1月段階で72%はナジブ政権で最も高い支持率である)。 

その一方で、第一期ナジブ政権の政治的民主化については、野党や市民社会が主導し、それを政権が受け入れる場面が目立つようになる。本稿の選挙の項目でもふれるように、選挙制度改革を求める社会運動が2010年から活性化し、2011年と2012年に大規模な街頭デモを行った。特に2011年7月に行われたデモの後、支持率の急落(59%)に直面したナジブ政権は、国内治安法や扇動法など一連の抑圧的な法の廃止や改正を9月15日のマレーシア・デイのテレビ中継のスピーチで約束し、翌年からそれらの法の廃止や改正を実施していった。 

2013年に実施された第13回総選挙でBNは政権を維持したものの、BN体制を揺るがす不安定要素が露呈することになった。第一に、連邦下院の議席数はBNが133議席でPRと89議席となってBNが過半数を維持したが、得票数ではBNが47%でPRが51%となり、PRがBNを逆転した。得票数で逆転されているにもかかわらず、BNが議席数で大きくPRを引き離して政権を維持した原因は、選挙の項目で後述するように小選挙区制と「一票の格差」に求めることができる。

第二に、133議席を獲得したBNだが、その内訳をみれば深刻な問題が既に浮上していた。BNの133議席のうち88議席を占めるUMNOは前回2008年総選挙から議席を9議席増やした。その一方で、マレー半島が基盤の華人政党のMCAは前回よりも8議席を減らして7議席しか獲得できず、同様に主に華人が支持基盤であるマレーシア人民運動(GERAKAN)は1議席しか獲得できなかった。BNのインド人政党であるMICは前回選挙より1議席増やしたものの、4議席の獲得に留まった。BN構成政党のうちサラワク州で活動する華人政党のサラワク統一人民党(SUPP)も前回選挙より5議席を減らして1議席の獲得に留まった。2013年総選挙結果を受けてナジブ首相は「華人ツナミ」が起こったと評したが、BN支持の華人票が総崩れとなったという意味で正しかった。BNに対する非マレー人からの支持の減少は2008年総選挙のときから止まらない継続的なトレンドであり、2013年総選挙ではそのトレンドがいっそう露わになったといえる。BN体制はこれまで全ての民族と地域の代表としての論理に基づいて統治を行ってきた。しかし、2008年と2013年総選挙を経て非マレー人からの支持の大幅な支持の減少が誰の目にも明らかになったことで、これまで体制が対外的に誇ってきた「全てのエスクック集団と地域の代弁者」としてのBN統治の論理の正当性が大きく揺らぐことになった

華人を含めた非マレー人からのBNに対する支持が大きく後退する中で、BN体制を維持するうえでの防護壁となったのは東マレーシアのサバ州とサラワク州である。2013年総選挙でマレー半島の選挙区に限ったBNとPRの連邦下院選挙での戦績は85対80の議席数でほぼ拮抗していた(偶然ながら、2008年総選挙時の結果と全く同じ)。2013年総選挙で最終的なBNの133議席とPRの89議席の差をもたらした大きな部分はサバ州とサラワク州の議席であったともいえる。

(4-c) 第二次ナジブ政権期(2013年~2018年)

2013年総選挙後の第二次ナジブ政権は第一次の政権が行ってきた改革の後退がみられる一方で、国民の増加がみられるようになった。政治的自由化の面では、市民的自由を抑圧する方向で法律の制定や改正が行われた。具体的な制定・改正が行われたのは、扇動法改正、刑法改正、犯罪防止法、テロリズム防止法、国家安全保障審議会法などである。このうち、テロリズム防止法は最長2年間の被疑者の拘禁を認めており、形を変えて国内治安法が復活したともみることができる。さらに、国家安全保障審議会法によって首相を長とする8名の閣僚からなる国家安全審議会の設置が可能となった。首相はこの審議会での決定に沿って国王の認可なしに非常事態宣言を出して事実上無制限に市民的権利を制約することができるようになった。第一次ナジブ政権が抑圧的法律を廃止・改正した時には、市民的自由の根本的な改善については疑問符が付くものの、自由を拡大する方向へ前進はしていた。しかし、2013年総選挙後の第二次ナジブ政権は、抑圧的法律を新たに制定・改正したことで明確に政治的自由化から後退した。さらに、2014年から2015年にかけて、政府は野党政治家、大学教授、弁護士、漫画家など政府に批判的な立場の人々を扇動法によって相次いで逮捕していった。

経済面では、ブミプトラ経済エンパワーメント・プログラムが2013年9月に発表された。その内容は、①人的資本、②株式所有、③(住宅や工業用地などの)非金融資産、④企業家育成とビジネス支援、⑤行政サービスの5分野を特に重視してブミプトラへの支援を行うというものであった。第一期ナジブ政権がワン・マレーシアのスローガンを掲げてNEMを発表し、ブミプトラ政策の緩和を発表したことを考えれば、経済改革が後退したことは否定できない。同時に、選挙前ということで延期されてきた石油や砂糖など生活必需品への補助金の廃止および削減、電気料金や首都圏の高速道路通行料の値上げ、2015年4月からの物品・サービス税の導入といったように家計に負担の増加を強いる政策が総選挙後は次々と発表された。

改革の後退が目立つようになる中で、ナジブ政権、ひいてはBN体制そのものを大きく揺るがす政治スキャンダルが起こる。ワン・マレーシア開発公社(1MDB)にまつわる政治資金スキャンダルである。1MDBは2009年以前にはトレンガヌ州の州営投資会社であったものをナジブ政権が連邦政府の財務省傘下の国営投資会社としたところからスタートしており、電力、土地開発、観光、アグリビジネスなどの分野で外国企業とも協力しながら国内外で大型の投資を行ってきた。しかし、1MDBは巨額の負債を抱えていることが2014年頃から明らかになり、2015年初頭には負債が420億リンギットに拡大した。そうした中で2015年7月にはナジブ首相の個人口座に1MDBが出所であるとされる26億リンギットもの資金が流れたとの報道がなされた。現役の首相が関与したとされる1MDBスキャンダルによってマレーシアの政界には激震が走った。

逮捕され失職する危機に直面したナジブ首相は政治的生き残りをかけて自らに批判的な副首相や大臣を更迭し、1MDB関連の捜査を行っていた法務長官、マレーシア反汚職委員会、インテリジェンス関連の任務を司る警察の特別部隊など独立機関の幹部を次々に左遷や辞任に追い込んだ。さらに、連邦下院の公会計委員会の1MDBスキャンダルの調査も事実上停止させた。メディアについても1MDBスキャンダル関連の調査報道を行った週刊紙『ジ・エッジ』が一時的に停刊されている。UMNO内部からマハティール元首相がナジブ首相の退任を求めて批判の声をあげたが党内でナジブ批判は大きな力とならず、マハティールは離党してUMNOの外からナジブ退任を求める活動を本格化させていった。

2013年総選挙後には1MDBスキャンダルで政府・与党が混乱する中で野党側も各党間の連携が乱れていた。野党連合のPRが構成政党のPASとDAPの対立によって2015年に活動を停止したのである。後継の野党連合としてDAPとPKR、そしてPASから離党したグループが結成した国民信託党(Amanah)の3党によって新たな野党連合の希望連盟(PH)が結成された。しかし、PASはPHとは一線を画する独自路線を模索することになる。野党が政党連合のPHとUMNOとの連携も視野に入れつつ独自色を強めるPASの2大勢力で分裂する中で、PHにはマハティールやナジブに副首相を解任されてUMNOを離党したムヒディン・ヤシンらが結成したマレーシア統一プリブミ党(Bersatu)が合流して4党による政党連合となった。Bersatuの合流後、PHはマハティールを次期首相候補として選挙戦を戦ってマレーシア史上初の政権交代を果たすことになる(2018年総選挙に関しては直近の総選挙の項で説明)。

(Ⅱ)史上初の政権交代とPHによる短期政権

(5) PH政権(2018年5月~2020年2月)

2018年5月9日に実施された総選挙でマレーシア史上初の政権交代が起った。BNは独立から61年間維持していた政権を失い、PHが新たな与党となった。新首相には第4代首相だったマハティールが15年ぶりに再び首相に返り咲いて92歳の年齢で第7代首相となった。新政権は選挙期間中に公表したマニフェストに沿って政策を実施することを約束した。そのマニュフェストの中には物品・サービス税の撤廃や警察や司法の改革、市民的自由を抑圧する法律の廃止、首相の任期制限など様々な改革案が提示されていた。しかし、これらの改革案の多くはPH政権が2年も続かなかったために結果として成果が出ないままになってしまう。

PH政権の崩壊を直接的にもたらしたのは、PH内の内紛である。特に崩壊をもたらした最大の要因はマハティール首相の後継問題だった。2018年総選挙の前にマハティールは1990年代末に対立の末、汚職と異常性愛の罪で政府と自党から追放したかつての仇敵のアンワル元首相と和解をすることになった。1990年代末以降の野党の活動においてアンワルが果たしてきた役割を評価し、野党勢力を糾合するためにアンワルと手を握る必要があったためである。アンワルは2015年2月に確定したソドミーの罪によって服役していたため、総選挙を前にして野党勢力を代表して次期首相候補となったのはマハティールだった。90歳を超える高齢だったマハティールは2018年総選挙前に、仮に政権交代が起こって自らが首相となったとしても2年程度で退任し、その後の首相をアンワルに任せるとの約束を当時の野党指導者たちと交わした。

実際に政権交代が起こり、PHが政権を担当するようになると、マハティールは国王にアンワルへの恩赦を求めた。恩赦によって自由の身となったアンワルは、2018年の補選で下院議員に復帰し、当時PH内で最大与党だったPKRの総裁にも就任してマハティールから首相職の禅譲を準備した。しかし、これまで慣例的に次期首相と目されてきた副首相のポストもPH政権発足以来、アンワルの妻のワン・アジザが務め続けており、アンワルが入閣する気配もなかった。PH内では次第にマハティールはアンワルに政権を禅譲すべきでないという意見が公に出てきたり、そこまでいかなくとも次期総選挙までマハティールがPH政権を率いるべきだとの意見も出てくるようになった。他方でPH内のアンワル支持派の方では政権前の約束通り、アンワルへの首相禅譲を求める声が公に出てくるようになり、PHの結束が揺らぐことになった。アンワルが総裁を務めるPKRでナンバーツーの副総裁のポストに就いていたアズミン・アリもアンワルと対立し、アンワルの次期首相就任に反対の立場に立っており、PHの対立は政権交代後わずか1年で既に誰の目にも明らかになりつつあった。このようなマハティールの後継首相をめぐるPH内の対立に加え、史上初の政権交代の熱気から覚めた国民の間ではPHへの支持が急速に失われていった。ある世論調査によれば、PH政権発足直後にはマハティール首相への支持率が83%でPH政権には79%が支持を与えた。しかし、政権交代から1年も経たない2019年3月には、それぞれ46%と39%にまで低下している1

こうした内紛と国民からの支持急落に苦しむPH政権の終焉は2020年2月23日からの1週間で進行した政変によって決した。2月23日の日曜日にシェラトン・ホテルにて当時の野党だったUMNOやPASなどの代表と、与党からBersatuやPKRの一部の幹部などの密会が行われた。この「シェラトンの策謀」とも呼ばれる会合の結果、政党連合の組み換えと下院議員の政党所属の変更が起こり、PH政権が崩壊して新たにBersatuの総裁だったムヒディン・ヤシンを首相とする政権が2020年3月1日に発足した。Bersatuはシェラトンの策謀以降、議長であるマハティールと総裁であるムヒディンとの対立が深まっていったが、ムヒディンが主導でPHからの離脱を決めて新たな政権を発足させることになった。政変でムヒディンに敗れた形となったマハティールは少数の議員をつれてBersatuから離党してムヒディン政権と対峙する野党議員となった。さらに、PKRではアンワルに対立するアズミン・アリ副総裁が率いる10人の下院議員がPKRを離党し、Bersatuに入党した。

(Ⅲ)PH政権崩壊からの政治の流動化

(6)ムヒディン政権(2020年3月~2021年8月)

2020年2月の「シェラトンの策謀」を経て3月に発足したムヒディン政権を支えたのは、新たに発足した政党連合の国民連盟(PN)とUMNOが主導する政党連合のBN、サラワク州の地方政党連合のサラワク政党連合(GPS)と、サバ州の地方政党であった。このうち、PNを構成したのは、PHから離脱したBersatuと、イスラーム主義政党のPAS、サバの地方政党などであった。PH政権下ではBNを主導するUMNOと、イスラーム主義政党PASとは「国民調和」(Muafakat Nasional)と呼ぶ政党間同盟を結び、ともにPHから政権を奪還するために協力してきた。PNに加入しなかったUMNOに対して、PNに加入しつつ、野党時代に結んだUMNOとの同盟関係も維持するPASは、UMNOとBersatuの間でキャスティングボードを握る立場ともなった。

以上のようなムヒディン政権を支える与党の構成には、マレー人を支持基盤とする与党間で支持者を求めて競合する構造的問題が存在した。半島部マレーシアではUMNOと、もともとはUMNOからの離党者によって結党されたBersatu、そしてムスリムのマレー人を支持者とするPASは選挙では同一選挙区で競合する可能性が非常に高い。実際に、2018年総選挙では同じ選挙区内でこの3党がマレー人票を奪い合って競合する構図がみられた。2020年2月には連邦レベルでの連立の組み換えおよび下院議員の政党移動によって政権交代が起こった。しかし、特にUMNOとBersatuの間では、連邦レベルでムヒディン政権を支える与党だったにもかかわらず、前述の支持基盤の競合から州レベルでの政党組織間での深刻な対立が存在していた。実際にそうした対立によって2020年12月にペラ州では、BersatuとUMNOの州レベルでの対立が表面化し、UMNO所属の州首相がUMNO所属の州首相へと変更になる事件も起こった。ジョホール州や2020年9月に州選挙が実施されたサバ州では、UMNOとBersatuの地方政党組織間での対立が表面化した。

このように与党内での構造的な対立を抱えたままスタートしたムヒディン政権だったが、野党との議席数も接近しており、安定性を常に欠いていた。ムヒディン政権を支持したのは全連邦下院議議員の222の過半数をわずかに超える113議員だけであり、野党となったPHからの引き抜き工作や、予算案を人質に取ったムヒディン政権への事実上の信任決議にも直面している。このように与党内での対立構造と、議席数が接近した野党側からの攻勢を前にしたムヒディン政権が史上最短とはいえ、なぜ17か月間政権を維持できたのか。その答えはムヒディン政権の発足とほぼ同時に深刻化していった新型コロナウイルスの感染拡大(とその対策)にある。とはいえ、コロナの感染拡大はムヒディン政権初期には本来的に不安定な政権が継続した理由である一方で、後述するように、1年が経過するあたりから政権崩壊を急速に促進させる理由ともなった。

2020年3月からコロナ患者が急増したことから、政府は活動制限令(MCO)を発令して国民の移動制限や企業の操業規制を含む事実上の全土でのロックダウン措置を実施した。MCOにともなってマレーシア人の自宅外での活動が厳しく制限されるなかで、2020年5月18日に開催された連邦下院議会は1日だけの開催となり、ムヒディン政権に不信任を突きつけようとした野党側はその機会を得ることができなかった。2020年11月に開催された連邦下院議会での2021年度予算案の審議に際して、野党側は予算案への反対を通じてムヒディン政権の倒閣を目指した。しかし、コロナ感染者が拡大するなかで、国民の間でコロナ対策予算のスムーズな成立を望む声が多く、さらには国王も予算案に賛成するように下院議員に呼びかけたこともあって野党側の予算案の審議を通じた倒閣の試みはうまくいかなかった。

2020年後半からのコロナ感染者の拡大は、ムヒディン首相が国王への助言を通じて憲法150条に基づく非常事態宣言の発令を求めることにつながった。ムヒディン首相はコロナ拡大を理由として最初は2020年10月に非常事態宣言の発令を求めたが、この時は国王が発令を拒否した。しかし、2021年1月にムヒディン首相が再度、国王に非常事態宣言の発令を求めたときには2021年8月1日までの期限で認められた。この憲法に規定された非常事態宣言に基づいて出された6つの非常事態令(emergency ordinance)により、連邦下院議会や州議会は停止され、予定されていた補選も延期となった。ほかにも連邦及び州の政府は当初予算を超えて予算を使用する場合でも議会の承認なしで使用が可能となった。これは政府が議会のチェックアンドバランスなしで事実上の行動のフリーハンドを得たことを意味する。コロナ対策を理由として出された非常事態宣言によりムヒディン政権は連邦下院議会を開くことなく限定された期間ながら非常に強力な権限を手にいれた。非常事態宣言の継続は当初2021年1月から8月までと期間を限定されていたが、ムヒディン政権は一時期、8月を超えても非常事態宣言を延長する可能性を示唆していた。

非常事態宣言の発令によって強力な権限を得て、議会を通じた野党からの圧力に直接的にさらされることがなくなったムヒディン政権だが、2021年6月頃から国民からの支持を失うとともに、UMNOの一部からムヒディン政権への支持を撤回する議員たちが登場して政権崩壊の危機が一気に現実化していく。比較的信頼できるある世論調査結果によると、2020年5月から2021年4月までのムヒディン首相への国民からの支持率はそれほど悪くない。最も支持が高かったのは2020年6月と7月で支持率は74%だった。逆に最も支持率が低かったのは2021年1月の63%である。2021年4月には支持率は67%だった2。本稿を執筆している2021年8月の段階では同じ世論調査機関による2021年4月以降の支持率が判明していないが、5月末から6月にかけてムヒディン政権への国民の支持が急減していったのではないかと予測ができる。支持減少の理由はコロナ感染拡大を食い止めるために6月1日から全土で実施されたロックダウンである。このロックダウンによって国民に半径10キロ圏内を超える不要な移動を禁じたり、特定の企業活動以外を禁じた非常に厳しい規制策が導入されたものの、新規のコロナ感染者数の拡大はとどまることがなかった。コロナ感染者数の継続的拡大の最大の原因はデルタ株が流行したためであるとみられる。マレーシアのコロナの新規感染者数は2021年8月に入って2万人を超え、8月26日には過去最大となる2万4599人を数えていた3。国民の間では政府が2020年3月以降、1年を超える厳しい規制を強いているにもかかわらず、感染拡大を止めることのできないムヒディン政権への不満が噴出し始めた。2021年4月までのムヒディン首相への比較的高い支持率は、政府がコロナ感染拡大を抑え込むことができているとの国民の認識に基づいていたと考えられるため、ムヒディン政権がコロナ対応に「失敗」しているとの認識が国民の間でのムヒディン首相や政権への支持が剥離していく原因となったとみられる。

国民の間でムヒディン政権のコロナ対応への「失敗」の認識が広がると同時に政治エリートの間でもムヒディン首相への批判が高まっていった。2021年7月に入るとムヒディン首相を支えるはずの与党UMNOからはトップである総裁のアフマド・ザヒド・ハミディがムヒディン首相への支持を撤回すると表明した。この時、UMNOは倒閣を目指すザヒド総裁と、UMNO副総裁補(内閣では副首相)で政権継続を求めるイスマイル・サブリ・ヤコブとの間でムヒディン政権の支持をめぐって分裂していた。ザヒドらUMNOの一部議員の間でのムヒディン首相への支持撤回が起こった背景には、前述のUMNOとBersatuの支持層が重なり合う構造的な問題に加えて、国王や各州の元首にあたるスルタンやラジャなどの統治者がムヒディン首相に非常事態宣言の延長はせず、停止されている議会を一刻も早く再開させるよう公式に求めたことがある。こうした国王や統治者からの公式の圧力もUMNO内でムヒディン首相への支持撤回が表面化するきっかけとなった。結局、連邦下院議会は7月26日に再開されたが、非常事態宣言下で発令されていた非常事態令の撤廃をめぐっても国王とムヒディン内閣の間でいざこざが持ち上がり、ザヒドUMNO総裁に同調してムヒディン政権への支持を公に撤回する連邦下院議員が増えた。与党であるはずのUMNOから10人以上の離反者が出たことで連邦下院議会での過半数の議員数を確保できないと悟ったムヒディン首相は国王に辞任を申し出た。

(7)イスマイル政権―UMNOの首相ポスト奪還(2021年8月~現在) 

与野党の勢力が伯仲するなかでのムヒディンの首相辞任によって首相選出は困難が予想されたもののムヒディン政権下で与党を形成したUMNO、Bersatu、PASなどの政党は従来の与党の枠組みを崩さず、副首相でUMNO副総裁補のイスマイル・サブリ・ヤコブを首相に選出することとした。イスマイル首相の選出で3年ぶりにUMNOが首相職を取り戻した。首相に選出されたイスマイルは組閣を実施したが、ムヒディン政権の大臣や副大臣の大半を留任させて前政権との継続性を確保した。イスマイル政権はコロナ対策を中心に野党にも協力を求める姿勢を示している。

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マレーシア
政党
2021年8月31日

マレーシア/政党

1957年の独立から61年間続いた連盟/BN体制下でのマレーシアの政党システムは、民族別および地域別に組織された政党が連合を組む形態が基本となってきた。2018年総選挙で政権交代が起こって連盟/BN体制が崩壊したが、その後も民族や地域に沿った政党が連合を組む形態は基本的には変わっていない。ただし、多民族政党を自称し、複数の民族が党員となっている政党も存在する。2018年総選挙の後、政党(連合)間の連立や政党連合の組み換えが起こっており、本稿執筆時の2021年8月でもそうした政党システムの変動はいつでもおこりうる。2018年以降のマレーシアの政党および政党システムは流動化したといえる。

(1) 政党連合・国民連盟(PN)の主要構成政党

 PH政権の崩壊に至った2020年2月の政変によって成立したムヒディン政権を支える与党連合が国民連盟(PN)だった。PNを構成する政党はムヒディン首相が総裁のマレーシア統一プリブミ党(Bersatu)、汎マレーシア・イスラーム党、祖国連帯党(STAR)とサバ進歩党(SAPP)というサバ州を基盤とする2党の小規模地方政党、マレーシア人民運動である。これらの構成政党のうち、2021年8月時点で連邦下院に議席を有しているのは、Bersatu(31議席)、PAS(18議席)、STAR(1議席)であり、その他の2党は議席を有していない。

①マレーシア統一プリブミ党(Parti Pribumi Bersatu Malaysia: Bersatu)

マハティールやムヒディン・ヤシン元副首相(後の第8代首相)ら主にUMNOからの離党組によって2016年に結成された政党。Bersatuが設立された背景として、2014年から2015年にかけて当時のナジブ首相にマハティール前首相が批判を強めていたことがある。マハティール首相が批判をしたのは、最初は財務省傘下の国営投資会社のワン・マレーシア開発公社(1MDB)の巨額債務問題だった。さらに、2015年7月に『ウォール・ストリート・ジャーナル』紙が26億リンギ(日本円で780億円)の巨額資金が1MDBからナジブ首相の個人口座に流れたとの報道をした後は、マハティールの批判はさらに強まった。1MDB関連のスキャンダルの追及から逃れるために、ナジブ首相は閣内で自らに批判的なムヒディン副首相を解任した。その後はマハティール、ムヒディンやマハティールの息子のムクリズ・マハティール前クダ州首相らはUMNO党内でナジブの追い落としを図ったが果たせず、彼らはUMNOから離党し、Bersatu結党に至った。

結成間もないBersatuが政党連合のPHに公式加入したのは2017年に入ってからである。結党後最初の総選挙となった2018年総選挙でBersatuはマハティールの生誕地で長年の選挙区であるクダ州や、ムヒディンが過去に州首相を務めたことがあるジョホール州で勢力を拡大した。2018年から2020年に連邦でPHが政権を担当している間、この両州とペラ州ではBersatuが州首相のポストを確保した。しかし、2020年2月の「シェラトンの策謀」に始まる政変でPH政権が崩壊し、Bersatu総裁のムヒディンを首相とする政権が発足すると、ジョホール州ではUMNOがクダ州ではPASが州首相ポストを担当するようになった。ペラ州では連邦で与党を構成していたUMNOとBersatuの地方組織の対立が2020年12月に表面化し、州首相ポストはBersatuからUMNOへと移った。PNが経験した初めての大規模な選挙である2020年9月のサバ州選挙の結果、Bersatuはサバ州の州首相ポストを確保した。

2020年2月の「シェラトンの策謀」によってBersatu内ではムヒディン総裁派とマハティール議長派が対立したが、その後は2020年3月1日に首相となったムヒディンがBersatuを掌握した。2020年5月にマハティールは自分の息子のムクリズ・マハティールら4人の連邦下院議員とともにBersatuの党員資格を停止されたことでBersatuと袂を分かって祖国闘士党(PEJUANG)を結成することとなった。2018年総選挙でのBersatuの連邦下院議会での獲得議席は13議席だったが、その後は他党の離党者を受け入れることで本稿を執筆した2021年8月時点では31議席にまで議席を増やしている。

②汎マレーシア・イスラーム党(Parti Islam SeMalaysia: PAS)

1956年に設立されたイスラーム主義政党。PASは伝統的にUMNOのライバルとしてマレー人票をめぐって争ってきた。PASの支持基盤はマレー半島の東海岸のクランタン州やトレンガヌ州であり、近年ではマレー半島北部のクダ州でも支持を拡大してきた。結党時からイスラームの擁護と促進がPASの党規約の基本的な項目として挙げられていたが、党のイスラーム主義へのシフトが一層本格化したのは80年代からである。これ以前の党指導者は、イスラームを重視するものの、マレー人の地位向上を目指すマレー・ナショナリズムを党の路線の中心に据えていた。だが、70年代のBNの一時加入とそれに伴う党の分裂で党勢が大きく後退し、PASが野党として再出発する際、中東留学によってイスラーム法学を修めたウラマーが1982年の党役員人事選挙で台頭し、文字通りイスラーム主義が党の基本路線となった。

PASの党機構でユニークなのは、党総裁が主催して日々の党運営を司る党中央運営員会(Jawatankuasa Kerja Pusat)の上位に選挙で非選出のウラマーからなるウラマー評議会(Majlis Syura Ulamak)が置かれ、党の最高意思決定機関としての地位を与えられている点である。ウラマー評議会を率いる議長はPASの精神的指導者(Mursyidul Am)と呼ばれて党の方針に大きな影響力を持つ。1991年から2015年まで精神的指導者としてPASだけでなくマレー人社会の中で広く敬意を受けていたのがニック・アジズであった。PASの指導体制は2000年代に入ってから2013年総選挙直後までは、ニック・アジズと2002年に総裁に就任したハディ・アワンの双方がPASをリードしていく体制であった。特にニック・アジズは当時の与党だったUMNOへの不信感を持ち、PASが野党として活動していくことを重視していた。

しかし、ニック・アジズが2015年に死去すると、PASは総裁のハディ・アワンの下で自党が政権を運営するクランタン州でのハッド刑の導入を図るため、連邦政府を握るUMNOに接近していった。ハッドとは飲酒、姦通、窃盗などコーランに処罰が記載された犯罪である。この犯罪に対する刑罰がハッド刑と呼ばれており、例えば、窃盗を行った者に対して四肢を切断する刑などが定められている。クランタン州で州法としてハッド刑を導入するためには、刑事罰の規定を定め、州法の上位にある連邦法を改正しなければならない。そのため、PASには当時連邦政府を担っていたUMNOに接近する動機があったのである。

PASがクランタン州でのハッド刑導入を進めようとUMNOに接近したことは、党内のみならず、当時PASが連合を組んでいたPRの構成パートナーとの間に対立を生み出した。PAS内部には伝統的に、イスラームの宗教教育を受けたウラマーを中心とするイスラーム主義を社会に厳格に適用していこうとする勢力と、非ウラマーで高度な世俗教育を受けたリーダーを中心としてムスリム以外とも妥協を図りながらイスラーム主義を段階的に適用していこうとする勢力との間の対立が長年存在していた。このウラマー勢力と非ウラマー勢力との対立は、2015年当時にはPASが所属していた野党連合のPR内でPKRやDAPと協力関係を維持するか、それとも連邦政府を担っていたUMNOと協力するか、という路線対立とも重なってPAS内の対立をさらに深めた。

ニック・アジズ死去後の2015年のPASの内紛は、非ウラマーを中心としたPR内でPKRやDAPと共闘を志向する勢力が6月の党内選挙で敗北し、彼らが離党して新たにAmanahを結成することで決着がついた。総裁のハディに率いられて勝者となったウラマー勢力が強くなったPASに対し、DAPがPRの政党連合を解消することを宣言し、PRは活動を停止した。

その後、PASはUMNOに接近しながらも野党として活動し、2018年総選挙に向けてBNとPHとは異なる第三極を目指してイスラーム系の政党と政党連合の平穏構想(Gagasan Sejahatera: GS)を結成した。ただし、PAS以外のGS構成政党は長年にわたり非常に小規模な活動しかしておらず、GSは事実上PASであるといってよかった。2018年総選挙でPASは、連邦下院議席を前回選挙よりも3議席減らして18議席となった。しかし、1991年から担当してきたクランタン州の州政権を維持したほか、新たにトレンガヌ州の州政権も確保してマレー半島の東海岸で確固たる地位を築いた。2018年総選挙後のPASは、野党となったUMNOと補選などの機会を通じて選挙協力を深め、「国民調和」(Muafakat Nasional)と呼ぶUMNOとの政党間の同盟関係に発展させた。

2020年月の「シェラトンの策謀」を経てムヒディン政権が成立すると、PASはPNを構成する与党の一角となり、BNを主導するUMNOとBersatuとの間でキャスティングボードを握る立場になった。

③マレーシア人民運動(Parti Gerakan Rakyat Malaysia: Gerakan) 

1968年設立、通称、Gerakan(グラカン)。設立当初は野党として活動していたが、後に新たに設立された政党連合のBNに加入し、2018年まで与党の構成政党となった。特定の民族に党員を限定しない多民族政党であるものの、実態は華人に主要な支持基盤を持つ。結党時からペナン州に強い支持基盤を持ち、歴代の州首相を輩出することで、ペナンの州政権を握っていた。しかし、2008年総選挙で大敗し、連邦下院議席の大幅減少だけでなく、ペナン州の州政権も野党に奪われた。2013年総選挙でも党勢を回復することはできず、連邦下院議席も僅か1議席と低迷した。さらに、2018年総選挙では1議席も取れなかった。2018年総選挙での大敗を受けて、6月にグラカンはBNから離脱した。Gerakanは2021年2月正式にPNに加入した。

(2)政党連合・国民戦線(BN)の主要構成政党

①統一マレー人国民組織(United Malays National Organization: UMNO) 

植民地統治下の1946年に宗主国イギリスが提出したマラヤ連合案に反対するマレー人組織が集まって結成される。結党時の党規約にも示されているとおり、マレー人の権利の擁護を目的に設立された政党であり、マレー人に党員が限定された民族政党である。2018年総選挙で敗れて下野するまで61年間政権を握り続けた政党連合BN(その前身の連盟)の中核政党で、歴代の内閣の総理、副総理は慣例的にそれぞれUMNOの総裁と副総裁が就任してきた。近年まで農村部や公務員の間に比較的強い支持基盤を持ち、長い与党経験の中で構築されてきた政府の統治機構と一体化した強力な選挙マシーンを有してきた。

NEPに伴って70年代から90年代にかけて政府主導でマレー人企業に手厚い保護が実施される中で、UMNOは与党としての立場を利用した与党ビジネスを本格化させていった。1980年代から1990年代にはUMNOの与党ビジネスは最盛期を迎え、UMNO系企業が建設、ホテル、メディア、不動産開発など様々な分野で大きな経済的影響力を持ち、巨大ビジネス・グループを形成し、党運営における豊富な資金源となる一方、こうしたビジネスとUMNOとのつながりは、党内の派閥闘争を深刻化させ、外部から金権政治や汚職体質を批判されるようになった。しかし、1990年代末のアジア経済危機によって与党ビジネスが深刻な打撃を被り、企業グループの整理や政府主導の再建が進む中で、UMNOが直接的に影響力を行使する企業はメディアなどの一部の分野に留まるようになった。

2018年総選挙の結果はUMNOにとって衝撃であった。UMNO結党の地であり長年にわたって地盤としてきたジョホール州や、1990年代から経済開発の実績と将来的な約束を通じて強固な地盤を築いているとみられていたサバ州のほか、これまで野党の州政権を経験したことがないムラカ州やヌグリスンビラン州などでもUMNOは議席を大きく減少させた。2018年総選挙によって連邦下院の議席数は前回総選挙よりも34議席を減らして54議席となり、州議会選挙でもクダ州、ペラ州、ムラカ州、ヌグリスンビラン州、ジョホール州の州政権を失った。サバ州の州政権も総選挙後に所属議員がUMNOからWARISANに寝返ったためにUMNOの確保できた州政権はプルリス州とパハン州の2州のみとなった。

2018年5月の総選挙で政権を失った後、UMNOは党役員人事選挙を6月に実施した。役員人事選挙では、UMNO副総裁で前副首相のアフマド・ザヒド・ハミディ、UMNO青年部長で前青年・スポーツ大臣のカイリ・ジャマルディン、元財務大臣のラザレイ・ハムザらが総裁職を争った。総裁選ではカイリがUMNOの党員をマレー人以外にも求める可能性も示唆したが、選挙結果はナジブ時代からの継続の色が強いザヒドが総裁に選出された。ザヒドは2021年2月時点で47 件(12件の背信容疑、8件の汚職容疑、27件の資金洗浄容疑) もの起訴に直面して裁判で争っている最中であることから政府の大臣職やその他の公職に就くことが困難である。

PH政権下ではUMNOはPASと「国民調和」と呼ぶ政党間同盟を結んで選挙協力を進めた。2020年2月の「シェラトンの策謀」によって起こった政変でPH政権が崩壊してムヒディン政権が成立したことで与党に復帰した。さらに2021年8月のムヒディン首相の辞任によってムヒディン内閣で副首相だったイスマイル・サブリ・ヤコブ防衛大臣(UMNO副総裁補)が首相に就任したことからUMNOは3年ぶりに首相ポストを奪回した。

②マレーシア華人協会(Malaysian Chinese Association: MCA) 

1949年に当時のイギリス植民地マラヤを代表する華人企業家のタン・チェンロックの主導により結成。華人に党員が限定された民族政党。設立以来、華人ビジネス界との関係を比較的強く有している一方、MCA自体もビジネスに直接関与している。最もよく知られたMCAのビジネスとして、マレーシア最大の英語紙『スター』の発行がある。独立から2018年まで与党の地位についてきたが、2008年総選挙で議席が半減しただけでなく、その後の党内を2分する派閥抗争によって党勢は大きく落ち込んだ。その後、2013年総選挙ではさらに議席数を7議席まで減らし、2018年総選挙では僅か1議席しか確保できずに、壊滅的な打撃を受けた。

MCAはBNに残留しているものの、2018年総選挙で唯一議席を確保できたウィー・カッションと2019年11月の連邦下院補選で当選したウィー・ジェックセンの2人しか連邦下院に議席を確保できず、2018年総選挙以前と比べると政界全体への政治的影響力のみならず、UMNOの主導するBN内での影響力も非常に小さいものとなっている。

③マレーシア・インド人会議(Malaysian Indian Congress: MIC) 

1946年結党。インド人に党員を限定した民族政党。UMNO、MCAと同様に連盟の時から続く与党連合の一角を占めてきた政党である。しかし、2008年総選挙で議席を大幅に減らしたことで大きな打撃を受けた。2013年総選挙では、ナジブ政権によって選挙前に発表されたインド人社会への支援策や、反政府的な立場に立っていた社会運動のヒンドゥー権利行動隊(Hindraf)のBNへの取り込みなどで4議席を確保することができた。しかし、2018年総選挙ではBNが政権を失うなかでMICも議席を減らし、1議席と低迷している。その後、PH政権の崩壊に伴い、与党に復帰するが、MCAと同じく政界全体への政治的影響力およびBN内での影響力は非常に小さいままとなっている。

(3)政党連合・希望連盟(PH)の構成政党

政党連合の希望連盟(Pakatan Harapan: PH)は2018年総選挙でマレーシア史上初の政権交代を果たした。PHは2015年に前身の人民連盟(Pakatan Rakyat: PR)が活動停止状態になった後、以下で説明するPKR、DAP、Amanahの3党によって発足した。その後2017年に公式にBersatuが加入して4党体制となった。しかし、2020年2月の「シェラトンの策謀」による政変を経てBersatuがPHを離脱し、PKRからも離党者がでたことからPHは政権を失った。

PHの前身にあたるPRは2008年から2015年まで連邦下院での野党連合として活動し、スランゴール州、ペナン州、クダ州(2008-2013年)、ペラ州(2008-2009年)でPRが州政権も運営していた。しかし、後述するAmanahやPASの項で説明するように、構成政党間の対立によってPRは活動を停止してしまう。中でもイスラーム主義政党のPASと主に非ムスリムに支持基盤をおく世俗政党のDAPとの対立がPR瓦解の最大の要因である。

PASとDAPの対立はPRの前身にあたり、1999年総選挙に向けて野党が連合した政党連合の代替戦線(Barisan Alternatif: BA)でも起こり、BAが事実上活動を停止する原因となっている。

①人民公正党(Parti Keadilan Rakyat: PKR) 

1990年代末のレフォルマシ運動の時代にアンワル・イブラヒムの妻のワン・アジザを代表に結成された国民公正党(PKN)をベースに、1955年にマレー人左派を中心に結成され、社会主義を掲げたマレーシア人民党(PRM)が2003年に合併してできた政党。実質的にはマレー人が主導する政党だが、公式には多民族政党として組織されている。現在の総裁は2018年11月の党選挙において無投票で当選したアンワル・イブラヒムである。

2008年総選挙では連邦下院議席を31議席獲得して最も躍進した政党であったが、その後は離党者が続出し、2011年8月には下院24議席(協力関係にあるマレーシア社会主義者党の議員を除けば23議席)にまで減少した。しかし、2013年総選挙では30議席に回復し、2018年総選挙では47議席にまで議席を増やして新たに政権についたPH政権の中で最大の連邦下院議員を擁する政党となった。しかし、2020年2月の「シェラトンの策謀」に始まる政変によってPHが政権を失ったことで野党となった。「シェラトンの策謀」では当時のPKR副総裁のアズミン・アリと彼を支持するグループの連邦下院議員が離党した。2018年総選挙ではPKRは47議席を獲得していたが、離党者がでたことで本稿を執筆している2021年8月の時点で連邦下院議席は35議席にまで減少している。

PKRは2008年以降、首都で連邦直轄地のクアラルンプールを取り囲む、マレーシアで最も経済的に発展したスランゴール州の州政権の州首相を輩出してきた。PKRの支持者はマレー人、華人、インド人の全ての層にまたがっており、多民族政党を自称している。とはいえ、支持者や指導層の中核を占めるのはマレー人である。PKRの最も重要な支持基盤はスランゴール州にあり、その他にマレー半島の西海岸沿いの州の都市部を中心に支持を集めている。

②民主行動党(Democratic Action Party: DAP) 

1965年のシンガポールのマレーシア離脱に伴い、シンガポールを拠点に設立されていた人民行動党(People’s Action Party: PAP)の元党員がマレーシアで結党した。党の路線として社会民主主義を標榜する。マルチ・民族政党であり、党自体も「マレーシア人のマレーシア(a Malaysian Malaysia)」を主張し、BNの民族に基づく差別政策を批判してきたが、実態は非マレー人、特に華人に強い支持基盤を持ち、彼らの利益に基づく活動を行うことで、主に都市部の華人在住地域で議席を確保してきた。しかし、近年では華人の党であるとのイメージを刷新するため、マレー人の若手党員や指導者の育成に力を入れている。

2008年総選挙では、PASやPKRと連合を組んでペナン州で(連邦下院議席と州議会議席)の大量当選者を出し、当時BNを構成していたグラカンから州政権を奪った。2013年総選挙では、それまでBNの牙城だったジョホール州に、60年代から90年代末まで幹事長として名を馳せて、党の顔でもあるリム・キッシャンや若手の有力政治家を候補者として立てることで、BNの牙城の一部を崩すことに成功した。この成果により、DAPはPR構成政党の中でも2008年総選挙から唯一議席を増加させた政党となり、PRの第一党、連邦下院議会でもUMNOに次ぐ第2党に躍進した。2018年総選挙後は与党となったPH内で第二党として重要な位置を占めている。DAPの長年の支持基盤はペナン州などマレー半島西海岸の華人の多い都市部であったが、近年は東マレーシアのサラワク州などでも勢力を拡大している。2020年2月の政変によってPH政権が崩壊すると野党となった。

党役員では代表にあたる議長は、タン・コックワイ。しかし、党内では上述のリム・キッシャンが強い影響力を持つほか、実質的な指導者は党幹事長でリム・キッシャンの息子であるリム・グァンエンである。リム・グァンエンは2008年から2018年までペナン州の州首相を務めた後、2018年総選挙でPHが政権を獲得するとマハティール内閣の財務大臣に就任した。華人の財務大臣就任は1974年以来初めてのことである。DAPが州政権を運営するペナン州の現在の州首相は2018年5月に就任したチョウ・コンヨウである。

③国民信託党(Parti Amanah Negara: Amanah)

2015年にPASからの離党組が結成した政党。PASの項で後述するように2013年総選挙以降、PASはクランタン州でのハッド刑の導入を本格的に検討し始め、当時の野党連合のPRの内部で対立を生んでいた。この対立が高じて2015年にPRは政党連合の解消に至った。PAS内ではPKRやDAPとの協調路線をとろうとする非ウラマーの勢力が2015年の党内選挙で敗退したが、この勢力は同年6月にPASを離党して社会運動組織の新希望運動(Gerakan Harapan Baru: GHB)を結成した。GHBは当初から政党結成を目指して組織されていた。GHBは1970年代から休眠状態にあったマレーシア労働者党(Parti Pekerja-Pekerja Malaysia)の政党登録を利用し、党名を改名して現在のAmanahとなった。その後、AmanahはPKRやDAPと政党連合のPHを結成した。

2018年総選挙ではAmanahは11議席を獲得した。総選挙でAmanahはPASが強い勢力を保ってきたマレー半島の東海岸や北部に候補者を多く立てたが、実際に当選者を出すことができたのはマレー半島の西海岸だった。この選挙結果から示されるように、Amanahは現在でもマレー人有権者の比率が高いマレー半島の東海岸や北部でPASに対抗できるほどの支持基盤を築くことができていない。Amanahの支持者の多くはクアラルンプール周辺の都市部に住むマレー人である。

Amanahの総裁は、モハマド・サブ(通称、マット・サブ)である。モハマド・サブはPAS離党前にはPAS副総裁を務めていたこともある。PH政権下でモハマド・サブは防衛大臣を務めた。2020年2月のPH政権崩壊で野党となった。

(4)PHと同盟関係

サバ伝統党(Parti Warisan Sabah: WARISAN)

2016年に結成されたサバの地域政党である。現在、PHには加入していないものの、PHと同盟関係にあって2018年に発足したマハティール内閣にも3人の大臣を出している。WARISAN結成のきっかけは、2015年から1MDBスキャンダルの渦中でUMNOのナンバースリーの副総裁補で、農村・地域開発大臣でもあったシャフィ・アプダルが反ナジブの姿勢を見せて閣僚を解任され、その後、UMNOから離党したことによる。シャフィは自らを代表とするサバの地域政党を立ち上げて総選挙に備えた。

2018年総選挙でWARISANはサバ州で連邦下院議席を8議席獲得する一方、サバ州の州議会で21議席を獲得した。サバ州議会選挙結果の内訳は、WARISANがPH構成政党のPKRおよびDAPが獲得した8議席と合わせて29議席を確保したが、UMNOが同じく29議席を獲得したため、PHと同盟したWARISANと、UMNOが同数となった。残りの州議会の議席はサバの地域政党の故郷連帯党(Parti Solidariti Tanah Airku: STAR)が2議席を獲得した。STARがUMNOに協力する意向を示したため、総選挙直後はUMNO主導の州政権が発足する見込みであった。しかし、UMNOからの6人の離党者がWARISANに入党したため、WARISAN総裁のシャフィを州首相とする州政権が発足した。

2020年2月の「シェラトンの策謀」に始まる政変によってPHが政権を失うと、WARISANも連邦レベルで野党となった。その後、WARISANは2020年7月までサバ州の州政権を維持したが、UMNOのムサ・アマン前州首相が新しい州政権を組織するのに十分な数の州議員の支持を得たと発表したことから、シャフィが州議会を解散して選挙に突入した。2020年9月のサバ州選挙の結果、WARISANは過半数の議席を確保することができず、連邦レベルで政権を担当するBersatuがUMNOと連立を組んでサバ州政権も獲得することになった。

(5)PN、BN、PH以外の独立系政党連合

サラワク政党連合(Gabungan Parti Sarawak: GPS)

2018年まで続いたBNの長期政権下で、サラワク州はマレーシアの全13州のうち唯一UMNOが進出していない州だった。しかし、サラワク州の4党の地域政党がBNに加入して、与党の地位を享受してきた。その4政党とは、サラワク統一ブミプトラ・プサカ党(Parti Pesaka Bumiputera Bersatu: PBB)、サラワク統一人民党(Sarawak United People’s Parti: SUPP)、進歩民主党(Progressive Democratic Party: PDP)、サラワク人民党(Parti Rakyat Sarawak: PRS)であった。

サラワク州では、PBB総裁だったタイブ・マフムドが1981年から33年間にわたって州首相を務めてきたが、長期政権に伴う深刻な汚職問題が長年取りざたされてきた。タイブは2014年に州首相とPBB総裁を辞任して、象徴的な地位にある州元首の地位についたが、依然としてサラワク州の政治に強い影響力をもっているとみられている。

タイブが2014年に州首相を退いた後、州首相とPBB総裁を引き継いだのはアデナン・サテムである。アデナンはサラワクの独自性を主張して時には連邦政府とも対立を招きかねないスタンスで政治に臨んだ。彼のスタンスはサラワクの人々から大きな支持を受け、2016年5月のサラワク州選挙ではサラワクのBN構成政党の4党は前回2011年の州議会選挙から17議席を増やす大勝を収めた。しかし、2017年にアデナンが死去し、その後の地位をアバン・ジョハリ・オペンが継ぐとBNの勢いは弱まり、2018年総選挙ではBN構成政党の4党はいずれも下院議席数を減少させた。2018年総選挙でBNが大敗し、連邦政府を失うと、サラワクの旧BN構成政党4党はBNから離脱し、6月に新たにサラワク政党連合(Gabungan Parti Sarawak: GPS)を結成した。GPSは連邦レベルでは野党となったものの、サラワク州では引き続き州政権を担っていくことになった。その後の2020年2月の「シェラトンの策謀」に始まる政変によってムヒディン政権が成立すると、GPSはムヒディン政権を支える与党となった。2021年8月のムヒディン政権退陣後に成立したイスマイル政権でもGPSは与党の一角を占めている。

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現在の政治体制・制度
パキスタン
2021年8月31日

パキスタン/現在の政治体制・制度

パキスタンは1947年8月14日に英領インド植民地から分離独立後、イスラーム国家をめぐる論争やムスリム連盟内部の東ベンガルと西パンジャーブの対立など、政争が続き、最優先課題であった憲法制定過程は停滞した。1956年3月にようやく最初の憲法が発効し、イギリスの自治領から、パキスタン・イスラーム共和国となり、憲法制定議会は国民議会に変わって、イスカンダル・ミルザー総督は初代パキスタン大統領として宣誓を行った。その後、軍事クーデタによる憲法の停止、1962年憲法を経て、1973年に制定されたのが現行憲法である。

議会は二院制をとっている。上院の定数は104、任期は6年で3年ごとに半数を改選する。下院は定数342、任期は5年である。ただし、2018年3月の半数改選後の5月に第25次憲法修正によって連邦直轄部族地域がハイバル・パフトゥンハー州に併合されることとなったため、上院の議席数は部族地域に割り当てられていた8議席が削減され、2021年に予想される改選では96議席となる。下院の342議席のうち、272議席が普通選挙で選出され、60議席は女性、10議席は宗教的少数派のための留保議席となっている。

選挙後、議会が招集されると議員の投票によって議長が選出され、次に同様に首相が選出され、選出された首相が内閣を構成する。大統領は上下院議員と4州の州議会議員の選挙によって選出される。軍事政権の大統領が権限拡大を目的として行った1985年の憲法修正によって大統領は議会解散権をはじめとする強い権限を持ったが、2011年の修正によって大幅にその権限が削減され、現在は首相と内閣に実権が戻されている。

1956年の憲法施行以来、制度的には議会制民主主義の形が整えられたものの、上に触れたとおり、パキスタンでは度々軍事クーデタにより、憲法によらない政権が成立し憲法が停止されるなどのことが起こってきた。軍事政権下にあった期間は以下のとおり。

(軍人が戒厳令司令官など実質的な最高権力をもった、もしくは大統領であった期間)

  • 1958年10月〜1971年12月(13年2か月)
    • アユーブ・ハーンおよびヤヒヤー・ハーン共に大統領
  • 1977年7月〜1988年8月(11年1か月)
    • ジアーウル・ハク戒厳令司令官のち大統領
  • 1999年10月〜2008年8月(9年1か月)
    • パルヴェーズ・ムシャッラフ行政長官のち大統領

2008年にパルヴェーズ・ムシャッラフ大統領が辞任して以後、軍人が最高権力者の地位に就くことはなく、5年ごとに下院選挙が実施され、議会制民主主義の体制は維持されている。しかし政党政治は依然として未熟な状態にあり、政治家の腐敗や怠慢など、国民の政治不信、政治家不信は残っている。無論、軍人が憲法を無視して政権を取るクーデタのような事態は否定されるものの、軍が隠然と政治家や政治そのものを支配しているという一般的な認識は根強く存在する。実態としても、テロの封じ込めから国内の政治的な紛争やデモへの対応に至るまで、最も有効な力を発揮してパキスタン社会の秩序を維持してきたのは軍であることは否めない。この間の憲法な変更としては、1985年に軍人であるジアーウル・ハク大統領が大統領権限を強化する憲法改正を行い、議会解散権を持った(第58条2項b)。この議会解散権は90年代の民主化した時代にあっても、大統領を通じて軍が議会と首相を押さえる手段として使われ、パキスタン人民党(PPP)とパキスタン・ムスリム連盟(PML)から交互に出た歴代首相は一度も任期を全うできず、任期半ばでの交代を繰り返した。PMLのナワーズ・シャリーフは二度目の首相在任中、こうした軍の力に対抗を企て、軍の人事に介入したものの経済政策の失敗で国民の支持を失った挙句、1999年10月に陸軍参謀長のクーデタによって首相の座を追われることとなった。

さらに軍とその出身者は多くの経済活動をも行い、近年では軍関連産業がGDPの20%を占めると推計する研究もある。パキスタンは体制としては立憲主義の議会制民主主義であるが、実質は軍を柱とする権威主義体制が続いていると考えられているのである。

それでは権威主義に対抗する可能性がどこにもないかといえば、2008年にムシャッラフ大統領を辞任に追い込んだ一連の政治変動は注目に値しよう。これはクーデタで政権を取った大統領と、その違憲性を問おうとする最高裁長官との間の権力闘争であったといえる。最高裁長官の違憲判決を恐れてムシャッラフが長官を職務停止としたことから、まず司法関係者がデモを行い、これに政党が乗る形で下院での大統領弾劾にまで発展した。弾劾に至る前に大統領が辞任したが、路上で行なわれていた反ムシャッラフ運動がやがて議会を動かし、クーデタで成立した政権を打倒することに成功した、というのはパキスタン憲政史上初めてのことであった。

2018年7月に行われた選挙で、これまで政権を交代で担当してきたPPPとPMLという二大政党を抑えて、パキスタン正義運動党(PTI)が初めて政権を取った。これもまた軍の合意のもとに実現した躍進だという評価が聞かれる。おそらくそれは正しく、イムラン・ハーン首相が軍から離れたり対抗したりできる政治手腕を発揮した成果ではないだろう。しかし、PTIは、70年代以来パキスタンの政治を動かしてきたPPPやPMLと違って、地主でも資本家でもない人物による新しい政党である。また軍も、国際社会との関わりの中で、軍政のようなあからさまな形の干渉から遠ざかっている。急速な展開は望めないにしても、パキスタンは実質的な民主化への緩やかな変化の過程にあると見られる。

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パキスタン
最近の政治変化
2021年8月31日

パキスタン/最近の政治変化

2018年3月に上院の半数改選が行われ、続いて5月末をもって下院が任期を終え、7月に総選挙が実施された。いずれの選挙においても、PTI(パキスタン正義運動党)が予想を上回る躍進を果たして第1党となり、イムラン・ハーン首相が誕生した。州議会においても、ハイバル・パフトゥンハー(KP)州とパンジャーブ州でPTIが与党となった。

また、9月に大統領が任期を終え、上下両院と州議会議員による大統領選挙が行われた。PTIのアリフ・アルヴィ、MMAのファズルル・ラフマーン、PPPのエーティザズ・アハサンの3人が立候補し、アリフ・アルヴィが53%の票を獲得して当選し、9日に宣誓式を行なって第13代大統領に就任した。

上院の半数改選は、52議席について州議会と下院の議員による投票が、3月3日に実施された。単独政党としては30議席を有するPML-Nが最多であるが、PTIが他の4政党すなわちバロチスタン人民党(BAP)、統一民族運動(MQM)、バロチスタン民族党(BNP)、民主大連合(GDA)と無所属議員とともに連立を組み、40議席で与党を構成することとなった。MQMやGDAはともにスィンドでPPPの地盤に挑戦する政党でありバロチスタンのBAPやBNPとともに、パンジャーブとスィンドを地盤とする大政党を下野させたことになる。

一方、下院は2018年5月31日をもって任期を満了し、6月1日に発足した選挙管理内閣の下、下院および州議会の選挙が7月25日に実施された。8月15日下院が召集され、下院議長にPTIのアサド・カイセルが選出された。つづいて17日には首相選挙が行われ、イムラン・ハーンがPML-Nのシャハバーズ・シャリーフを破って首相に選出された。PTIの連立政権は177議席となった(過半数は172)。

今回の選挙は、大政党のPML-NとPPPに新興のPTIを加えた3党を軸に、宗教勢力と地方政党をまじえて争う構図となった。PPPはベーナジール・ブットー暗殺(2007年)以後、夫のザルダリと長男ビラーワルが共同総裁を務め、2008年選挙では政権を担ったが、前回選挙(2013年)ではPML-Nに与党の座を譲り、全国的な指導力の低下が続いている。一方のPML-Nも、ナワーズ・シャリーフ党首が一族の不正蓄財疑惑などで責任を問われ、2018年2月から4月に、最高裁がナワーズ・シャリーフには党首の資格がなくさらに終身にわたって議員資格なしとの判決を下した上、禁固刑判決を受けたことによって事実上政治への復帰は難しくなった。

そのような中で第3の政党としてPTIが存在感を増していった。PTIはクリケットのナショナル・チーム主将であったイムラン・ハーンが1996年に結成した政党で、2002年にイムラン・ハーン自身が初当選し、前回2013年の選挙で初めて第3党となった。「現在の政治体制・制度」で述べたとおり、政治への軍の影響力は大きい。PTI政権が成立しえたのは軍が彼を容認したからだというのが大方の観測である。すなわちPPPとPML-Nに代わって軍の意向を代弁する民主勢力としてPTIが選ばれたのであろうという見方を否定することは難しい。なぜならイムラン・ハーン自身には政策的にも議会活動の面でも、ほとんど実績がなかったからである。

今般のcovid-19の感染爆発への対応でも、イムラン・ハーンが打ち出した地域を限定したロックダウンよりも、軍が主導した全面的なロックダウンをはじめとする対策が実効性を持ち、結局は軍主導の対策となった。

とはいえ、1971年の民主化以来PPPとPML-N以外の政党が与党となるのも、地主でも資本家でもない人物が首相の座に就くのも初めてのことである。「新しいパキスタン」という呼びかけ、あるいは汚職撲滅や教育、保険制度を重視する政策など、大規模なインフラ事業が多かったシャリーフ政権との対比もあって、彼が掲げる清新な公約への期待は大きい。イムラン・ハーンのような新しい政治家や政党の登場が、パキスタンの実質的な民主化へ向かう変化につながるかどうか、注目される。

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パキスタン
選挙
2021年8月31日

パキスタン/選挙

1970年以降の下院選挙実施年と第1党は【表1】のとおり。1970年は、バングラデシュ独立前年にあたり、のちにバングラデシュとして独立する東パキスタンの最大政党アワーミー連盟が最大議席を獲得した。また1985年と2002年の選挙は、事実上軍事政権下で行われ、軍事政権支持の政党が第1党となった。PPPが与党となった4回の選挙では、ズルフィカル・アリー・ブットーとベーナズィール・ブットー父娘が政権を取り、1990年以降でPMLが与党となった3回の選挙ではナワーズ・シャリーフが首相となっている。大地主と大資本家である党首が率いる二大政党のみが長くパキスタンの民主化時代を担ったことがわかる。この二大政党には汚職と縁故主義が付きまとい、国民の間に民主政治への不信を生んできた。2018年に初めて与党の座についたPTIは、初めて地主でも資本家でもない人物が、パキスタン政治の刷新と公正を旗印に掲げたことに、多くの支持が集まった。

また、2018年9月には大統領が任期を終え、上下両院と州議会議員による大統領選挙が行われた。PTIのアリフ・アルヴィ、MMAのファズルル・ラフマーン、PPPのエーティザズ・アハサンの3人が立候補し、アリフ・アルヴィが53%の票を獲得して当選し、9日に宣誓式を行なって第13代大統領に就任した。

実施年第1党
11970アワーミー連盟AL: Awami League
21977パキスタン人民党PPP: Pakistan Peoples Party
31985パキスタン・ムスリム連盟PML: Pakistan Muslim League
41988パキスタン人民党PPP
51990イスラーム民主同盟IJI: Islami Jamhoori Ittehad(中心はPML)
61993パキスタン人民党PPP
71997パキスタン・ムスリム連盟ナワーズ派PMLN: Pakistan Muslim League (Nawaz)
82002パキスタン・ムスリム連盟カーエデアーザム派PML-Q: Pakistan Muslim League (Quaid-i-Azam)
92008パキスタン人民党PPP
102013パキスタン・ムスリム連盟ナワーズ派PMLN
112018パキスタン正義運動党PTI: Pakistan Tehriq-e-Insaaf
【表1:下院選挙実施年と第1党】
2006年2009年2012年2015年2018年
PTI  0617
PML-N  21162630
PPP  27402720
MMA  9  6
MQM-P  6785
ANP  61271
BAP     11
BNP-M  2  11
PMAP  1  2
NP  1  5
GDA     1
IND  13  5
【表2:上院政党別議席数】
政党名政治的立場党首2002年2008年2013年2018年
パキスタン正義運動党(PTI)中道Imran Khan128156
パキスタン・ムスリム連盟ナワーズ派(PML-N)中道右派Shehbaz Sharif198916682
パキスタン人民党(PPP)中道左派Bilawal Bhutto Zardari811183355
統一民族運動 (MQM)左派Altaf Husain132524
統一民族運動パキスタン派(MQM-P)左派Khalid Maqbool Siddiqui7
パキスタン・ムスリム連盟(PML-Q)中道右派Shujaat Hussain1426025
統一行動評議会(MMA)極右Fazl-ur-Rehman6381416
パフトゥンハー大衆党(PMAP)左派Mahmood Khan Achakzai1032
アワーミー国民党ANP)左派Asfandyar Wali Khan1321
バロチスタン民族党(BAP)中道Jam Kamal Khan5
バロチスタン国民党(メンガル派)(BNP-M)中道右派Akhtar Mengal0104
【表3:下院政党別議席数】
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