マレーシアの政治体制は、民主主義と権威主義の中間のグレーゾーンの体制か権威主義体制の亜種として長く認識されてきた。つまり、マレーシアの政治体制は、独立以降、一貫して複数政党が参加する競争的な選挙が定期的に実施されている一方で、選挙の公平性、言論・表現や集会の自由に関わる市民的自由などの点で疑問符がつく体制であり、その体制が長期にわたり続いてきたのである。
2018年に政権交代が起こるまでの60年間以上、与党の地位にあったのは、民族と地域をもとにした政党から構成される政党連合の国民戦線(BN)とその前身の政党連合にあたる連盟(Alliance)である。連盟およびBNによる統治は2018年総選挙で政党連合の希望連盟(PH)が勝利することで終焉を迎えた。第4首相だったマハティールを再び第7代首相に首班指名して発足したPH政権は国民からの政治や社会の改革への高い期待を背景に発足したが、PH内で指導者間の対立と分裂が深まるなかで、2年も経たずに内紛で崩壊した。その後はPHから離脱したマレーシア統一プリブミ党(Bersatu)がBNの中核政党であった統一マレー人国民組織(UMNO)と連立を組んでムヒディン・ヤシン(Bersatu総裁、前内務大臣)を首相とする政権が結成された。しかし、ムヒディン首相は与党内の内紛により政権を維持できなくなって2021年8月に首相を辞任し、新たにUMNOからイスマイル・サブリ・ヤコブ前副首相兼防衛大臣(UMNO副総裁補)が首相に就任した。UMNOを中核とする連盟/BNによる統治体制が2018年に崩壊して以降、政党システム、政治体制や民主化の行方が流動化し、不安定さを増している。
マレーシアの体制変動と民主化を理解する際には、(Ⅰ)60年以上続いた連盟およびBNによる統治の時代、(Ⅱ)2018年総選挙で起こった選挙を通じたPH政権の成立、そして、(Ⅲ)PH政権崩壊からの流動的状況、の3つの時期を取り扱う必要がある。そこで、マレーシアの「民主化(と政治体制を巡る問題)」を考える際には、以下のように、独立以降の歴史を5つの期間、(1)独立から「5月13日事件」までの期間(1957~1969年)、(2)BN体制の成立期(1970年代)、(3)マハティール政権期(1981年~2003年)、(4)BN体制内改革とその反動の期間(2003年~2018年)、(5) PHによる統治の期間(2018~2020年)、(6) ムヒディン政権(2020年3月~2021年8月)、 (7)イスマイル政権―UMNOの首相ポスト奪還(2021年8月~現在)に区切って見ていくことで理解が容易になる。
(Ⅰ)連盟とBNによる長期与党体制
(1) 独立から「5月13日事件」までの期間(1957~1969年)-コンソシエーショナル・デモクラシーの時代
1957年のイギリスからのマラヤ連邦独立を達成した「独立の父」で初代首相トゥンク・アブドゥル・ラーマンが率いたのは、与党連合の連盟である。UMNO、華人政党のマラヤ華人協会(MCA、後にマレーシア華人協会)、インド人政党のマラヤ・インド人会議(MIC、後にマレーシア・インド人会議)の3党の民族政党から構成された連盟は、独立時の憲法に明記されたマレー人と(華人が中心の)非マレー人との間の「取り引き(bargain)」を政治的に担保する仕組みであった。その「取り引き」とは、移民である華人やインド人の市民権を与える代わりに、先住民とされたマレー人に、文化上の優位性(イスラームの国教化やマレー語の国語化など)と憲法153条で規定された社会・経済上の特権(公務員任用、高等教育機会、事業ライセンス付与におけるクォータ枠など)を確保することにあった。
連盟の統治は、UMNO、MCA、MICという各民族集団を代表する与党の幹部の個人的な紐帯と協調関係に支えられていた一方で、歴代の首相、内務大臣、国防大臣、教育大臣など政治・文化系の大臣ポストはUMNOから、財務大臣や商工大臣など経済系の大臣ポストはMCAから輩出され続けたことから分かるように、各民族集団間で領域ごとの権力の分有が行われていた。これは、政治学者のレイプハルトがコンソシエーショナル・デモクラシー(多極共存型民主主義)と呼んだ民主主義の在り方に極めて近いものであった。しかしながら、「独立の父」ラーマン首相に率いられた連盟の統治は、1969年に起こった民族暴動によって終焉を迎えることになる。
(2) BN結成(1970年代)-BN体制下のUMNOのヘゲモニーの確立
1969年5月13日に首都クアラルンプールで起こったマレー人と華人との衝突(「5月13日事件」)の責任をとる形で初代首相ラーマンが退任し、第二代首相にラザクが就任すると、政治体制の大きな転換が起こる。ラザク政権は、マレー人が華人を中心とする非マレー人に対して経済的に劣位に置かれていることが5月13日事件の背景にあると見なし、マレー人(と一部の先住民)への経済的支援に積極的に乗り出した。ラザク政権がこの時に20年間の国家政策として打ち出したのが新経済政策(New Economic Policy: NEP)であり、NEPはその後のマレー人優遇政策の柱となった。このNEPを、安定した政治環境の下で達成するために憲法や扇動法の改正が図られ、「センシティブ・イシューズ(sensitive issues)」と呼ばれる、市民権、マレー人の特権、国語としてのマレー語、スルタンの地位などを公的に議論することが禁止され、言論・表現の自由に箍がはめられた。
マレー人優遇政策を安定した政治環境の下で達成するもう一つの政治的枠組みが、連盟を再編する形で1974年に結成されたBNであった。BNには従来の連盟の所属政党であるUMNO、MCA、MICに加え、ペナンに基盤を持ち、華人を中心とした非マレー人を主な支持層とするグラカン(Gerakan)、インド人の指導者を持ち、ペラで大きな勢力を誇った人民進歩党(PPP)や、UMNOの独立以来のライバルにあった汎マレーシア・イスラーム党(PAS)、サラワクの政党であるサラワク統一ブミプトラ伝統党(PBB)とサラワク統一人民党(SUPP)、サバからは統一サバ国民組織(USNO)といった政党がBN結成に参加し、一挙に巨大与党連合が出現した。
本稿では、このBNによる統治体制をBN体制と呼びたい。このBN体制による統治は、エ民族と(サバ州とサラワク州に代表される)地域に基づいた多様な政党がBNという傘の下に集結することで、全ての国民の利益が表出され、調整されるという論理に基づいて正当化されることとなった。初期のBNはマレー人優遇政策を実行していくうえでの政治的安定を維持するための装置として作られた一方で、全ての民族や地域の代表を集め、それを調整するための組織としての論理が埋め込まれていたのである。
マレー人優遇政策を実行に移すための制度の構築が進む中、BN内部でUMNOは連盟時代にも増して影響力を拡大し、ヘゲモニーを確立することになる。それを端的に示すのが、大臣ポスト配分の変化である。前述のように、独立以来MCAは伝統的に財務大臣と商工大臣という経済政策の決定の根幹に関わるポストを独占してきた。しかし、ラザク政権以降、財務大臣や商工大臣のポストはUMNOが独占し、MCAは運輸大臣や保健大臣などのポストを得るに留まった。このことは、これまでMCAが大きな影響力を持ってきた経済政策の決定に関しても、UMNOが決定権を握ることになったことを意味する。また、70年代以降、政府は国民文化政策を発表し、言語、教育、文化などの面におけるマレー文化の普及を推し進めたが、この過程においてマレー人の守護者を自他とも認めるUMNOの地位も一層揺るぎないものになっていった。
(3) 第一次マハティール政権期(1981年~2003年)-首相への権力集中とレフォルマシ運動
1981年に発足したマハティール政権は、2003年まで22年間続いた。民主化の観点から見れば、マハティール政権期とは、全体としては権威主義化が進む中で、行政権力を司る執政、つまり、マハティール首相への権力集中が進んだ時代であった。ただし、そうした中でも、マハティール政権の22年間は前半の80年代と、後半の90年代以降に分けることが可能である。
(3-a) 第一次マハティール政権前半期(80年代)
1981年に首相に就任した当初のマハティールは、「ルック・イースト政策」や民営化政策など次々と新たな政策を打ち出していったが、その政権基盤は必ずしも盤石なものではなかった。まず、マハティールは50年代から60年代の独立期にUMNOを直接指導した「第一世代」のリーダーではなく、70年代のラザク政権期に頭角を現した「第二世代」の政治家にあたり、またスルタンや貴族層の家系以外からの初めての首相であった。そのため、マハティールは、同じく「第二世代」指導層のライバルであるラザレイ・ハムザやムサ・ヒタムといった政治家を閣内に取り込みつつも、常に彼らを潜在的挑戦者として考慮しながら活動をせざるを得なかった。また、マハティール政権は、国王・スルタンや司法など政府を構成する諸組織との軋轢も経験している。さらに、80年代に入ると、ジャーナリストや弁護士などの専門職団体、環境や人権問題などを扱うNGOなど市民社会アクターの活動が活性化し、BNがほぼ完全にコントロールする議会や行政などの制度的装置の枠組みの外側から要求を突きつけ、政府・与党(関係者)の汚職や権力乱用を厳しく批判するようになった。このように、発足当初のマハティール政権は政府・与党の内外からの圧力に取り囲まれており、マハティール首相は強力な権力を握ってはいるものの、それを掣肘する制度的装置や(新旧の)アクターの活動も活発であった。
しかしながら、マハティール政権は、政府・与党内外の圧力に対応しながら、それを弱めてくことに成功していく。与党内のライバルに対しては、1987年のUMNOの党役員人事選挙での勝利、その後のUMNO分裂過程での反対派の排除を通じて、マハティールの党総裁としての権力が強化された。国王・スルタン制度に対しては、国王の立法権の制限(1983年)、スルタンの免責特権の廃止(1993年)、司法制度に対しては、最高裁判所長官の罷免(1988年)などを通じて介入した。活性化しつつあった市民社会アクターに対しては、印刷機・出版物法の制定(1984年)と改正(1987年)、国家機密法の改正(1986年)や国内治安法による主に野党指導者やNGO関係者の一斉逮捕と日刊紙3紙の一斉停刊(「オペラシ・ララン事件」1987年)などを通じて、その勢いを一時的に削ぐことに成功した。
以上のように、政府での執政としての首相権力の拡大、与党UMNO内での総裁支配の確立、市民社会からの圧力の一時的な後退などを受け、90年代初頭までにマハティール(とその周辺)への権力の集中が著しく進むことになった。
(3-b) 第一次マハティール政権後半期(90年代以降)
首相への権力の集中をみた90年代以降のマハティール政権下では、2020年までに先進国入りする目標を掲げた2020年ビジョンの策定、新空港や行政首都プトラジャヤの建設、先端情報通信技術導入を進めるためのマルチメディア・スーパー・コリドー計画など国家主導の大規模プロジェクトやビジョンが次々と打ち出されるとともに、経済的にも好況が持続したため、政権は90年代半ばまで大きく安定した。
しかし、90年代末になると、マハティール政権は大きく動揺する。1998年にアジア通貨危機から発展した経済危機からの回復策をめぐってアンワル副首相兼財務大臣がマハティール首相と対立し、最終的に政府・与党から追放され、汚職と異常性愛の罪で投獄される。これをきっかけに、BN体制下での汚職、権力乱用や権威主義的な法などを問題として取り上げ、政治と社会の変革を求めるレフォルマシ(改革)運動が広がった。
レフォルマシ運動は投獄されたアンワルへのマレー人を中心とした自然発生的な同情から始まったが、野党はそうした人々の感情を糾合し、与党BNに対抗していくための組織づくりを進めていった。最終的には、1999年11月に実施された総選挙の前月に、野党4党が合意して野党連合の代替戦線(BA)が結成されることになる。BA結成の意義は、これまでイスラーム主義を信奉し、マレー人に支持基盤を持つPASと、社会民主主義を党の基本理念として非マレー人に支持基盤を持つ、民主行動党(DAP)が、アンワルの妻が代表を務める国民公正党(PKN)などを仲立ちにして、BNに対抗する一つの野党グループを結成したことにある。野党を糾合する試みは80年代末にもあったものの、PASとDAPが同じ旗の下で政党連合を組むことは初めてであった。BAは、1999年総選挙で主にPASの躍進を可能にした原動力の1つであった(3の選挙の箇所の表も参照)。1999年総選挙後のBAは、イスラーム国家を巡る問題でPASとDAPが対立し、BAからのDAPの離脱を引き起こして、事実上その役割を終えていく。ただし、後述する2008年総選挙での新たな野党連合結成の方向性を決定づけたものとして評価することができる。
(4) BN体制内改革とその反動の期間(2003年~2018年)-改革の試みと市民社会の活性化
レフォルマシ運動を経て1999年総選挙では、マレー人有権者のUMNOに対する反発の高まりの中で、UMNOは議席を大きく減少させた。UMNOの立て直しが急務となったが、その期待を背負ったのは、マハティールの後を継いだ第5代首相のアブドゥラ・バダウィと第6代首相のナジブ・ラザクである。
その権威主義的な政治姿勢への反発も強かったマハティールは22年の在任期間を経て2003年に首相を退任した。マハティールの後に首相に就任したのは、第5代首相となったアブドゥラ・アフマド・バダウィと第6代首相となったナジブ・ラザクである。アブドゥラとナジブが首相だった時代はレフォルマシ運動の影響を受けて始まったBN体制内からの改革の時代であり、それが部分的な成果にとどまる中で改革が挫折していく時代でもあった。
(4-a) アブドゥラ政権期(2003年~2009年)
20年近く首相の座にあり、一部ではその権威主義的政治スタイルに対する反発も強かったマハティールの後継者の問題は、敬虔なムスリムであると同時に中華文化や西洋文化への理解を示す「新しいマレー人」指導者の代表格として高い人気を誇り、後継者として確実視されていたはずのアンワルが失脚しただけに、BN体制に深刻な動揺を与えた。そこで、マハティールは後継者として、当時、ミスター・クリーンと呼ばれ、そのソフトな人当りや飾らない人柄が評価されていたアブドゥラを指名した。
アブドゥラは、首相就任後、政府・与党の汚職の根絶、警察制度の改革、大規模プロジェクトの廃止、農業の振興など前政権の課題に取り組むとともに、独自の路線を打ち出した。発足当初の新政権の姿勢は国民に改革への期待を抱かせ、翌2004年3月に実施された第11回総選挙ではBNは連邦下院議席の9割以上を獲得し、圧勝した。国民からの圧倒的支持を得て、2004年総選挙後のアブドゥラ政権は、課題となっている政府・与党の制度改革に乗り出そうとしたが、改革が実行に移せないまま、アブドゥラ首相のリーダーシップへの不満が高まっていった。
アブドゥラ政権期は、新聞やテレビに代表される主流メディアについての政府の規制が前政権期よりも緩和されるとともに、インターネットを使ったニュース・サイトやブログなどのオンライン・メディアが国民の間に浸透していった時期でもある。特にオンライン・メディアは、これまで政府や与党が実施してきたメディア統制でカバーしきれない新たな情報源と言論空間を作り出し、野党やNGOの活動にとって以前よりも有利な状況を作り出した。
さらに、アブドゥラ政権末期から専門の調査会社や大学による世論調査が実施され、メディアがその結果を報道するようになっていく。また、本格化するのは次のナジブ政権からとなるが、首相の演説のライブ放送や、与党政治家も含めた政治家によるツイッターやフェイスブックでの情報提供が行われるなど、情報化が進む中で、政治的コミュニケーションの方法に新たな展開が見られるようになった。
他にも重要な点として、アブドゥラ政権期は半ばを過ぎると、90年代末のレフォルマシ運動以来の大規模な街頭での抗議デモが散見され始めるようになった。以上の点を踏まえれば、アブドゥラ政権期には前政権よりも確実に政治・社会的な自由化が進んだと言える。
以上のような政治・社会的な自由化が政治的コミュニケーションの変化とともに進んでいった一方で、アブドゥラ政権は抑圧的な法の改正や70年代からBNが掲げてきたマレー人優遇政策の転換など具体的な改革の成果を国民の前に提示することには失敗した。改革を実行に移せない政権への国民の不満の高まりと、前政権期よりも相対的に自由な政治・社会が根づいていく中で実施された2008年3月の第12回総選挙では、与党BNは結成以来はじめて、連邦下院議席の3分の2の議席を割り込む歴史的な後退を経験するだけでなく、経済的に最も発展した地域であるマレー半島西海岸部の4州の州政権(スランゴール州、ペラ州、クダ州、ペナン州)を野党に奪われることになった(ただし、ペラの州政権は野党からの離反者が出たために2009年に与党が再び奪回)。
この2008年総選挙では、PAS、DAP、人民公正党(PKR)の野党3党は、候補者の調整や選挙区での協力体制を進め、総選挙後の4月1日には新たな野党連合の人民連盟(PR)を結成した。2008年総選挙でのPRの大躍進によって、マレーシアはBNとPRという2大政党(連合)が政権をめぐって争う新たな段階に突入した。
(4-b) 第一次ナジブ政権期(2009年~2013年)
2008年総選挙でのBNの大幅な勢力後退の責任を取る形で、アブドゥラは首相を退任した。そのあとを継いで第6代首相に就任したのは、第2代首相のアブドゥル・ラザクを父に持つナジブである。ナジブ政権は2013年総選挙の前後で政権の方針や性格が異なる。2009年から2013年の第一次ナジブ政権期には部分的な政治的自由化や経済改革が進むこととなったが、2013年総選挙後の第二次ナジブ政権期には政治的自由化や改革が後退する反動の時代を迎えることになる。まずは第一次ナジブ政権期からみていことにしよう
2009年にアブドゥラから政権を引き継いで第6代首相に就任したナジブにとって、2008年の第12回総選挙で失われたBNへの支持を回復させることが至上命題であり、政権運営は常に次の選挙を意識したものとなった。しかし、世論調査会社のムルデカ・センターの調べでは、ナジブ首相の就任時の支持率は45%であり、歴代首相と比べても非常に低い支持率からの政権スタートであった。逆風の中からのスタートとなったナジブ政権は「1つのマレーシア、国民第一、即実行(One Malaysia, People First, Performance Now)」のスローガンの下、前政権が実行できなかった政治・経済改革に取り組んでいくことになる。
ナジブ政権は2010年に、行政改革のプログラムとして政府変革プログラム(GTP)、経済改革の指針としての新経済モデル(NEM)とその手段である経済変革プログラム(ETP)を発表した。GTPでは国家重点達成分野(NKRAs)として、犯罪減少、汚職撲滅、教育の機会と質の向上、低所得者の所得水準引き上げ、村落部の基礎的インフラ改善、都市部の公共交通機関の改善の6分野(後に生活費上昇への対策を含め7分野)で新政策を打ち出した。NEMでは、マレーシアが直面している「中所得国の罠」から抜け出して2020年までの先進国入りを果たすため、「高所得」、「包括性」、「持続性」をキーワードとして市場経済をより重視した政策を採用することを謳った。重要なのは、NEMでは、従来の民族を基準にした貧困者対策から所得を基準にする対策への転換が謳われたことであり、これまで続けられてきたマレー人優遇政策の見直しを図ったのである。
ナジブ政権は上記のような行政・経済改革案を政権主導で次々と提示することにより、ナジブ首相の改革者としてのイメージを国民に浸透させていこうとした。その結果、政権運営が安定してきたことも相まって、首相の支持率も6割を越え、2010年5月には72%を記録した(2014年1月段階で72%はナジブ政権で最も高い支持率である)。
その一方で、第一期ナジブ政権の政治的民主化については、野党や市民社会が主導し、それを政権が受け入れる場面が目立つようになる。本稿の選挙の項目でもふれるように、選挙制度改革を求める社会運動が2010年から活性化し、2011年と2012年に大規模な街頭デモを行った。特に2011年7月に行われたデモの後、支持率の急落(59%)に直面したナジブ政権は、国内治安法や扇動法など一連の抑圧的な法の廃止や改正を9月15日のマレーシア・デイのテレビ中継のスピーチで約束し、翌年からそれらの法の廃止や改正を実施していった。
2013年に実施された第13回総選挙でBNは政権を維持したものの、BN体制を揺るがす不安定要素が露呈することになった。第一に、連邦下院の議席数はBNが133議席でPRと89議席となってBNが過半数を維持したが、得票数ではBNが47%でPRが51%となり、PRがBNを逆転した。得票数で逆転されているにもかかわらず、BNが議席数で大きくPRを引き離して政権を維持した原因は、選挙の項目で後述するように小選挙区制と「一票の格差」に求めることができる。
第二に、133議席を獲得したBNだが、その内訳をみれば深刻な問題が既に浮上していた。BNの133議席のうち88議席を占めるUMNOは前回2008年総選挙から議席を9議席増やした。その一方で、マレー半島が基盤の華人政党のMCAは前回よりも8議席を減らして7議席しか獲得できず、同様に主に華人が支持基盤であるマレーシア人民運動(GERAKAN)は1議席しか獲得できなかった。BNのインド人政党であるMICは前回選挙より1議席増やしたものの、4議席の獲得に留まった。BN構成政党のうちサラワク州で活動する華人政党のサラワク統一人民党(SUPP)も前回選挙より5議席を減らして1議席の獲得に留まった。2013年総選挙結果を受けてナジブ首相は「華人ツナミ」が起こったと評したが、BN支持の華人票が総崩れとなったという意味で正しかった。BNに対する非マレー人からの支持の減少は2008年総選挙のときから止まらない継続的なトレンドであり、2013年総選挙ではそのトレンドがいっそう露わになったといえる。BN体制はこれまで全ての民族と地域の代表としての論理に基づいて統治を行ってきた。しかし、2008年と2013年総選挙を経て非マレー人からの支持の大幅な支持の減少が誰の目にも明らかになったことで、これまで体制が対外的に誇ってきた「全てのエスクック集団と地域の代弁者」としてのBN統治の論理の正当性が大きく揺らぐことになった
華人を含めた非マレー人からのBNに対する支持が大きく後退する中で、BN体制を維持するうえでの防護壁となったのは東マレーシアのサバ州とサラワク州である。2013年総選挙でマレー半島の選挙区に限ったBNとPRの連邦下院選挙での戦績は85対80の議席数でほぼ拮抗していた(偶然ながら、2008年総選挙時の結果と全く同じ)。2013年総選挙で最終的なBNの133議席とPRの89議席の差をもたらした大きな部分はサバ州とサラワク州の議席であったともいえる。
(4-c) 第二次ナジブ政権期(2013年~2018年)
2013年総選挙後の第二次ナジブ政権は第一次の政権が行ってきた改革の後退がみられる一方で、国民の増加がみられるようになった。政治的自由化の面では、市民的自由を抑圧する方向で法律の制定や改正が行われた。具体的な制定・改正が行われたのは、扇動法改正、刑法改正、犯罪防止法、テロリズム防止法、国家安全保障審議会法などである。このうち、テロリズム防止法は最長2年間の被疑者の拘禁を認めており、形を変えて国内治安法が復活したともみることができる。さらに、国家安全保障審議会法によって首相を長とする8名の閣僚からなる国家安全審議会の設置が可能となった。首相はこの審議会での決定に沿って国王の認可なしに非常事態宣言を出して事実上無制限に市民的権利を制約することができるようになった。第一次ナジブ政権が抑圧的法律を廃止・改正した時には、市民的自由の根本的な改善については疑問符が付くものの、自由を拡大する方向へ前進はしていた。しかし、2013年総選挙後の第二次ナジブ政権は、抑圧的法律を新たに制定・改正したことで明確に政治的自由化から後退した。さらに、2014年から2015年にかけて、政府は野党政治家、大学教授、弁護士、漫画家など政府に批判的な立場の人々を扇動法によって相次いで逮捕していった。
経済面では、ブミプトラ経済エンパワーメント・プログラムが2013年9月に発表された。その内容は、①人的資本、②株式所有、③(住宅や工業用地などの)非金融資産、④企業家育成とビジネス支援、⑤行政サービスの5分野を特に重視してブミプトラへの支援を行うというものであった。第一期ナジブ政権がワン・マレーシアのスローガンを掲げてNEMを発表し、ブミプトラ政策の緩和を発表したことを考えれば、経済改革が後退したことは否定できない。同時に、選挙前ということで延期されてきた石油や砂糖など生活必需品への補助金の廃止および削減、電気料金や首都圏の高速道路通行料の値上げ、2015年4月からの物品・サービス税の導入といったように家計に負担の増加を強いる政策が総選挙後は次々と発表された。
改革の後退が目立つようになる中で、ナジブ政権、ひいてはBN体制そのものを大きく揺るがす政治スキャンダルが起こる。ワン・マレーシア開発公社(1MDB)にまつわる政治資金スキャンダルである。1MDBは2009年以前にはトレンガヌ州の州営投資会社であったものをナジブ政権が連邦政府の財務省傘下の国営投資会社としたところからスタートしており、電力、土地開発、観光、アグリビジネスなどの分野で外国企業とも協力しながら国内外で大型の投資を行ってきた。しかし、1MDBは巨額の負債を抱えていることが2014年頃から明らかになり、2015年初頭には負債が420億リンギットに拡大した。そうした中で2015年7月にはナジブ首相の個人口座に1MDBが出所であるとされる26億リンギットもの資金が流れたとの報道がなされた。現役の首相が関与したとされる1MDBスキャンダルによってマレーシアの政界には激震が走った。
逮捕され失職する危機に直面したナジブ首相は政治的生き残りをかけて自らに批判的な副首相や大臣を更迭し、1MDB関連の捜査を行っていた法務長官、マレーシア反汚職委員会、インテリジェンス関連の任務を司る警察の特別部隊など独立機関の幹部を次々に左遷や辞任に追い込んだ。さらに、連邦下院の公会計委員会の1MDBスキャンダルの調査も事実上停止させた。メディアについても1MDBスキャンダル関連の調査報道を行った週刊紙『ジ・エッジ』が一時的に停刊されている。UMNO内部からマハティール元首相がナジブ首相の退任を求めて批判の声をあげたが党内でナジブ批判は大きな力とならず、マハティールは離党してUMNOの外からナジブ退任を求める活動を本格化させていった。
2013年総選挙後には1MDBスキャンダルで政府・与党が混乱する中で野党側も各党間の連携が乱れていた。野党連合のPRが構成政党のPASとDAPの対立によって2015年に活動を停止したのである。後継の野党連合としてDAPとPKR、そしてPASから離党したグループが結成した国民信託党(Amanah)の3党によって新たな野党連合の希望連盟(PH)が結成された。しかし、PASはPHとは一線を画する独自路線を模索することになる。野党が政党連合のPHとUMNOとの連携も視野に入れつつ独自色を強めるPASの2大勢力で分裂する中で、PHにはマハティールやナジブに副首相を解任されてUMNOを離党したムヒディン・ヤシンらが結成したマレーシア統一プリブミ党(Bersatu)が合流して4党による政党連合となった。Bersatuの合流後、PHはマハティールを次期首相候補として選挙戦を戦ってマレーシア史上初の政権交代を果たすことになる(2018年総選挙に関しては直近の総選挙の項で説明)。
(Ⅱ)史上初の政権交代とPHによる短期政権
(5) PH政権(2018年5月~2020年2月)
2018年5月9日に実施された総選挙でマレーシア史上初の政権交代が起った。BNは独立から61年間維持していた政権を失い、PHが新たな与党となった。新首相には第4代首相だったマハティールが15年ぶりに再び首相に返り咲いて92歳の年齢で第7代首相となった。新政権は選挙期間中に公表したマニフェストに沿って政策を実施することを約束した。そのマニュフェストの中には物品・サービス税の撤廃や警察や司法の改革、市民的自由を抑圧する法律の廃止、首相の任期制限など様々な改革案が提示されていた。しかし、これらの改革案の多くはPH政権が2年も続かなかったために結果として成果が出ないままになってしまう。
PH政権の崩壊を直接的にもたらしたのは、PH内の内紛である。特に崩壊をもたらした最大の要因はマハティール首相の後継問題だった。2018年総選挙の前にマハティールは1990年代末に対立の末、汚職と異常性愛の罪で政府と自党から追放したかつての仇敵のアンワル元首相と和解をすることになった。1990年代末以降の野党の活動においてアンワルが果たしてきた役割を評価し、野党勢力を糾合するためにアンワルと手を握る必要があったためである。アンワルは2015年2月に確定したソドミーの罪によって服役していたため、総選挙を前にして野党勢力を代表して次期首相候補となったのはマハティールだった。90歳を超える高齢だったマハティールは2018年総選挙前に、仮に政権交代が起こって自らが首相となったとしても2年程度で退任し、その後の首相をアンワルに任せるとの約束を当時の野党指導者たちと交わした。
実際に政権交代が起こり、PHが政権を担当するようになると、マハティールは国王にアンワルへの恩赦を求めた。恩赦によって自由の身となったアンワルは、2018年の補選で下院議員に復帰し、当時PH内で最大与党だったPKRの総裁にも就任してマハティールから首相職の禅譲を準備した。しかし、これまで慣例的に次期首相と目されてきた副首相のポストもPH政権発足以来、アンワルの妻のワン・アジザが務め続けており、アンワルが入閣する気配もなかった。PH内では次第にマハティールはアンワルに政権を禅譲すべきでないという意見が公に出てきたり、そこまでいかなくとも次期総選挙までマハティールがPH政権を率いるべきだとの意見も出てくるようになった。他方でPH内のアンワル支持派の方では政権前の約束通り、アンワルへの首相禅譲を求める声が公に出てくるようになり、PHの結束が揺らぐことになった。アンワルが総裁を務めるPKRでナンバーツーの副総裁のポストに就いていたアズミン・アリもアンワルと対立し、アンワルの次期首相就任に反対の立場に立っており、PHの対立は政権交代後わずか1年で既に誰の目にも明らかになりつつあった。このようなマハティールの後継首相をめぐるPH内の対立に加え、史上初の政権交代の熱気から覚めた国民の間ではPHへの支持が急速に失われていった。ある世論調査によれば、PH政権発足直後にはマハティール首相への支持率が83%でPH政権には79%が支持を与えた。しかし、政権交代から1年も経たない2019年3月には、それぞれ46%と39%にまで低下している1。
こうした内紛と国民からの支持急落に苦しむPH政権の終焉は2020年2月23日からの1週間で進行した政変によって決した。2月23日の日曜日にシェラトン・ホテルにて当時の野党だったUMNOやPASなどの代表と、与党からBersatuやPKRの一部の幹部などの密会が行われた。この「シェラトンの策謀」とも呼ばれる会合の結果、政党連合の組み換えと下院議員の政党所属の変更が起こり、PH政権が崩壊して新たにBersatuの総裁だったムヒディン・ヤシンを首相とする政権が2020年3月1日に発足した。Bersatuはシェラトンの策謀以降、議長であるマハティールと総裁であるムヒディンとの対立が深まっていったが、ムヒディンが主導でPHからの離脱を決めて新たな政権を発足させることになった。政変でムヒディンに敗れた形となったマハティールは少数の議員をつれてBersatuから離党してムヒディン政権と対峙する野党議員となった。さらに、PKRではアンワルに対立するアズミン・アリ副総裁が率いる10人の下院議員がPKRを離党し、Bersatuに入党した。
(Ⅲ)PH政権崩壊からの政治の流動化
(6)ムヒディン政権(2020年3月~2021年8月)
2020年2月の「シェラトンの策謀」を経て3月に発足したムヒディン政権を支えたのは、新たに発足した政党連合の国民連盟(PN)とUMNOが主導する政党連合のBN、サラワク州の地方政党連合のサラワク政党連合(GPS)と、サバ州の地方政党であった。このうち、PNを構成したのは、PHから離脱したBersatuと、イスラーム主義政党のPAS、サバの地方政党などであった。PH政権下ではBNを主導するUMNOと、イスラーム主義政党PASとは「国民調和」(Muafakat Nasional)と呼ぶ政党間同盟を結び、ともにPHから政権を奪還するために協力してきた。PNに加入しなかったUMNOに対して、PNに加入しつつ、野党時代に結んだUMNOとの同盟関係も維持するPASは、UMNOとBersatuの間でキャスティングボードを握る立場ともなった。
以上のようなムヒディン政権を支える与党の構成には、マレー人を支持基盤とする与党間で支持者を求めて競合する構造的問題が存在した。半島部マレーシアではUMNOと、もともとはUMNOからの離党者によって結党されたBersatu、そしてムスリムのマレー人を支持者とするPASは選挙では同一選挙区で競合する可能性が非常に高い。実際に、2018年総選挙では同じ選挙区内でこの3党がマレー人票を奪い合って競合する構図がみられた。2020年2月には連邦レベルでの連立の組み換えおよび下院議員の政党移動によって政権交代が起こった。しかし、特にUMNOとBersatuの間では、連邦レベルでムヒディン政権を支える与党だったにもかかわらず、前述の支持基盤の競合から州レベルでの政党組織間での深刻な対立が存在していた。実際にそうした対立によって2020年12月にペラ州では、BersatuとUMNOの州レベルでの対立が表面化し、UMNO所属の州首相がUMNO所属の州首相へと変更になる事件も起こった。ジョホール州や2020年9月に州選挙が実施されたサバ州では、UMNOとBersatuの地方政党組織間での対立が表面化した。
このように与党内での構造的な対立を抱えたままスタートしたムヒディン政権だったが、野党との議席数も接近しており、安定性を常に欠いていた。ムヒディン政権を支持したのは全連邦下院議議員の222の過半数をわずかに超える113議員だけであり、野党となったPHからの引き抜き工作や、予算案を人質に取ったムヒディン政権への事実上の信任決議にも直面している。このように与党内での対立構造と、議席数が接近した野党側からの攻勢を前にしたムヒディン政権が史上最短とはいえ、なぜ17か月間政権を維持できたのか。その答えはムヒディン政権の発足とほぼ同時に深刻化していった新型コロナウイルスの感染拡大(とその対策)にある。とはいえ、コロナの感染拡大はムヒディン政権初期には本来的に不安定な政権が継続した理由である一方で、後述するように、1年が経過するあたりから政権崩壊を急速に促進させる理由ともなった。
2020年3月からコロナ患者が急増したことから、政府は活動制限令(MCO)を発令して国民の移動制限や企業の操業規制を含む事実上の全土でのロックダウン措置を実施した。MCOにともなってマレーシア人の自宅外での活動が厳しく制限されるなかで、2020年5月18日に開催された連邦下院議会は1日だけの開催となり、ムヒディン政権に不信任を突きつけようとした野党側はその機会を得ることができなかった。2020年11月に開催された連邦下院議会での2021年度予算案の審議に際して、野党側は予算案への反対を通じてムヒディン政権の倒閣を目指した。しかし、コロナ感染者が拡大するなかで、国民の間でコロナ対策予算のスムーズな成立を望む声が多く、さらには国王も予算案に賛成するように下院議員に呼びかけたこともあって野党側の予算案の審議を通じた倒閣の試みはうまくいかなかった。
2020年後半からのコロナ感染者の拡大は、ムヒディン首相が国王への助言を通じて憲法150条に基づく非常事態宣言の発令を求めることにつながった。ムヒディン首相はコロナ拡大を理由として最初は2020年10月に非常事態宣言の発令を求めたが、この時は国王が発令を拒否した。しかし、2021年1月にムヒディン首相が再度、国王に非常事態宣言の発令を求めたときには2021年8月1日までの期限で認められた。この憲法に規定された非常事態宣言に基づいて出された6つの非常事態令(emergency ordinance)により、連邦下院議会や州議会は停止され、予定されていた補選も延期となった。ほかにも連邦及び州の政府は当初予算を超えて予算を使用する場合でも議会の承認なしで使用が可能となった。これは政府が議会のチェックアンドバランスなしで事実上の行動のフリーハンドを得たことを意味する。コロナ対策を理由として出された非常事態宣言によりムヒディン政権は連邦下院議会を開くことなく限定された期間ながら非常に強力な権限を手にいれた。非常事態宣言の継続は当初2021年1月から8月までと期間を限定されていたが、ムヒディン政権は一時期、8月を超えても非常事態宣言を延長する可能性を示唆していた。
非常事態宣言の発令によって強力な権限を得て、議会を通じた野党からの圧力に直接的にさらされることがなくなったムヒディン政権だが、2021年6月頃から国民からの支持を失うとともに、UMNOの一部からムヒディン政権への支持を撤回する議員たちが登場して政権崩壊の危機が一気に現実化していく。比較的信頼できるある世論調査結果によると、2020年5月から2021年4月までのムヒディン首相への国民からの支持率はそれほど悪くない。最も支持が高かったのは2020年6月と7月で支持率は74%だった。逆に最も支持率が低かったのは2021年1月の63%である。2021年4月には支持率は67%だった2。本稿を執筆している2021年8月の段階では同じ世論調査機関による2021年4月以降の支持率が判明していないが、5月末から6月にかけてムヒディン政権への国民の支持が急減していったのではないかと予測ができる。支持減少の理由はコロナ感染拡大を食い止めるために6月1日から全土で実施されたロックダウンである。このロックダウンによって国民に半径10キロ圏内を超える不要な移動を禁じたり、特定の企業活動以外を禁じた非常に厳しい規制策が導入されたものの、新規のコロナ感染者数の拡大はとどまることがなかった。コロナ感染者数の継続的拡大の最大の原因はデルタ株が流行したためであるとみられる。マレーシアのコロナの新規感染者数は2021年8月に入って2万人を超え、8月26日には過去最大となる2万4599人を数えていた3。国民の間では政府が2020年3月以降、1年を超える厳しい規制を強いているにもかかわらず、感染拡大を止めることのできないムヒディン政権への不満が噴出し始めた。2021年4月までのムヒディン首相への比較的高い支持率は、政府がコロナ感染拡大を抑え込むことができているとの国民の認識に基づいていたと考えられるため、ムヒディン政権がコロナ対応に「失敗」しているとの認識が国民の間でのムヒディン首相や政権への支持が剥離していく原因となったとみられる。
国民の間でムヒディン政権のコロナ対応への「失敗」の認識が広がると同時に政治エリートの間でもムヒディン首相への批判が高まっていった。2021年7月に入るとムヒディン首相を支えるはずの与党UMNOからはトップである総裁のアフマド・ザヒド・ハミディがムヒディン首相への支持を撤回すると表明した。この時、UMNOは倒閣を目指すザヒド総裁と、UMNO副総裁補(内閣では副首相)で政権継続を求めるイスマイル・サブリ・ヤコブとの間でムヒディン政権の支持をめぐって分裂していた。ザヒドらUMNOの一部議員の間でのムヒディン首相への支持撤回が起こった背景には、前述のUMNOとBersatuの支持層が重なり合う構造的な問題に加えて、国王や各州の元首にあたるスルタンやラジャなどの統治者がムヒディン首相に非常事態宣言の延長はせず、停止されている議会を一刻も早く再開させるよう公式に求めたことがある。こうした国王や統治者からの公式の圧力もUMNO内でムヒディン首相への支持撤回が表面化するきっかけとなった。結局、連邦下院議会は7月26日に再開されたが、非常事態宣言下で発令されていた非常事態令の撤廃をめぐっても国王とムヒディン内閣の間でいざこざが持ち上がり、ザヒドUMNO総裁に同調してムヒディン政権への支持を公に撤回する連邦下院議員が増えた。与党であるはずのUMNOから10人以上の離反者が出たことで連邦下院議会での過半数の議員数を確保できないと悟ったムヒディン首相は国王に辞任を申し出た。
(7)イスマイル政権―UMNOの首相ポスト奪還(2021年8月~現在)
与野党の勢力が伯仲するなかでのムヒディンの首相辞任によって首相選出は困難が予想されたもののムヒディン政権下で与党を形成したUMNO、Bersatu、PASなどの政党は従来の与党の枠組みを崩さず、副首相でUMNO副総裁補のイスマイル・サブリ・ヤコブを首相に選出することとした。イスマイル首相の選出で3年ぶりにUMNOが首相職を取り戻した。首相に選出されたイスマイルは組閣を実施したが、ムヒディン政権の大臣や副大臣の大半を留任させて前政権との継続性を確保した。イスマイル政権はコロナ対策を中心に野党にも協力を求める姿勢を示している。
脚注
- Merkeka Center, 2019 (April 26). National Voter Sentiments: Excerpt of Principal Indicators. (https://merdeka.org/v2/download/news-release-26-april-2019-getting-into-one-year-after-ge14-pms-approval-rating-at-46-government-at-39/) 2021年8月29日確認。
- Merdeka Center, 2021(April 23). Peninsular Malaysia Voter Perceptions on Issues, the Economy and Leadership: 31 March – 12 April 2021. (https://merdeka.org/v2/9552-2/) 2021年8月29日確認。
- Kementerian Kesihatan Malaysia (https://covid-19.moh.gov.my/) 2021年8月29日確認。