月: 2021年8月

パキスタン
政党
2021年8月31日

パキスタン/政党

パキスタン正義運動党PTI(Pakistan Tehreek-e-Insaaf)

1996年、元クリケットのパキスタン代表キャプテンを務めたイムラン・ハーンによって結成され、2018年から与党となった。政治傾向は中道であり、政権樹立以来、「新しいパキスタン」という標語を掲げ、福祉国家の建設を目標に掲げている。

ハーン党首はクリケット選手として抜群の知名度があったが、政党として支持を集めるまでには年月を要した。結党後最初の選挙であった1997年には一議席も獲得できず、2002年選挙でハーン党首だけが初当選し、2008年の選挙はボイコットという経緯を辿って、2013年に初めて第3党として躍進した。次の2018年の選挙では若年層からの強い支持を基盤に、とくにKP州、パンジャーブ州などで支持を集めて与党となり、ハーン党首が首相に就任した。2021年8月現在、パンジャーブ州およびKP州議会、ギルギット・バルティスタンおよびアーザード・ジャンムー・カシュミール議会の与党となっている。

パキスタン・ムスリム連盟ナワーズ派(PML-N:Pakistan Muslim League Nawas Faction)

1993年、イスラーム民主連合(Islamic Democratic Alliance)が解散して独立した政党で、ナワーズ・シャリーフが設立し、2017年まで党首を務めた。ナワーズ・シャリーフはイスラーム民主連合時代の1990年以来、3回にわたって首相を務めた。政治的な立場は中道右派。

イスラーム民主連合とは、1985年にジアーウル・ハク大統領が選挙を実施するにあたり、その支持政党としてムハンマド・ハーン・ジュネジョーが結成したムスリム連盟から、1988年ハク大統領の死後、フィダ・ムハンマド・ハーンが多数の党員を伴って分裂し、右派政党や宗教政党結成した連合である。イスラーム民主連合は1990年の選挙に勝利してナワーズ・シャリーフが首相となった。1993年にイスラーム連合は解散し、パキスタン・ムスリム連盟ナワーズ派と称した。パキスタン人民党(PPP)とともに1990年代民主化時代の二大政党制を担った。シャリーフ家の地元であるパンジャーブ州ラーホールを拠点とする。

結党以来党首を務めたナワーズ・シャリーフは過去3回にわたって首相を務めたが、汚職や脱税などで訴追を受け、2017年に党首の資格なしとの最高裁判決を受けたため、弟でパンジャーブ州知事シャハーバーズ・シャリーフが党首となった。2018年の選挙では下院の議席を大幅に失い下野した。地盤であるパンジャーブでも敗北を喫し、州議会の与党の座も失った。

パキスタン人民党(PPP:Pakistan Peoples Party)

1967年ズルフィカル・アリー・ブットーが結成した。中道左派、社会民主主義を理念とする。1970年以降5回にわたって政権党となった(1970年、1977年、1988年、1993年、2008年)。ズルフィカル・アリーが1977年ジアーウル・ハクによるクーデタで政権を追われ処刑された後は娘のベーナジールが党首を務めたが、ベーナジールが2007年に暗殺されると、夫ザルダリと長男ビラーワルが共同総裁に就任した。現在はザルダリが総裁、ビラーワルが議長となっている。

1988年にジアーウル・ハク大統領が飛行機事故死した後、民主政回復を牽引する政党となり、ナワーズ・シャリーフのイスラーム民主連合(後にパキスタン・ムスリム連盟ナワーズ派)とともに二大政党制を確立した。1999年10月のクーデタ以降は、ムシャッラフ政権に対抗する民主勢力として2008年にはムシャッラフ大統領を辞任に追い込み、史上初めて議会の力で軍政を終結させる中心勢力となった。2012年にギーラーニー首相が法廷侮辱罪で失職した後、影響力が後退し始め、2013年、2018年の選挙では野党となった。

統一民族運動(MQM: Muttahida Qaumi Movement–Pakistan)

学生運動組織を母体として、1984年にアルターフ・フセインによって創設されたムハージル民族運動(Muhajir Qaumi Movement)を前身とする。1991年までにカラチを中心とするスィンド州のウルドゥー話者コミュニティーの圧倒的代表政党となった。1997年に名称の「ムハージル(分離独立時のインドからの移民を意味する)」をムッタヒダ(統一)に改め、統一民族運動とした。ムシャッラフ政権下では与党PML-Qと強調した。

2017年にファルーク・サッタルがアルターフ・フセインとたもとを分かち、統一民族運動(パキスタン)となり、アルターフ・フセインの党は統一民族運動(ロンドン)となった。

統一行動評議会(MMA)Muttahida Majlis-e-Amal

2002年の選挙に際して、イスラーム党Jamaat-e-Islam、イスラーム・ウラマー党Jamiat Ulema-e-Islam (F)などの宗教政党が連合して結成した政党で、党首はウラマー党のファズルル・ラフマーン、政治傾向は右派から極右に位置する。当時のムシャッラフ政権がアメリカの同時多発テロ後の対テロ戦争に協力したことに反対して、2002年の選挙に宗教勢力を立候補・当選させることを目的として結成された。

パキスタン・ムスリム連盟(カーエデアーザム派)Pakistan Muslim League-Quaid-e-Azam

2001年にムハンマド・アズハルが中心となって、ナワーズ派から分裂して結成された。当時のムシャッラフ軍事政権を支持する政党として、2002年の選挙で大勝した。2004年にさらにたのPML分派と合流して与党として勢力を確立したが、2008年の選挙ではPPP、PML-Nに敗北し、下野した。党首は、チョウドリー・シュッジャード・フセインが務める。

アワーミー国民党Awami National Party

パシュトゥーンの民族政党として、ワリー・ハーンを党首として1986年に結成された。ワリー・ハーンは独立運動期にインド国民会議を支持したアブドゥル・ガッファール・ハーンの息子で、当時も現在も明確な政教分離主義をとる。パシュトゥーンが居住するKP州とバローチスターン州の一部を地盤としていたが、2018年の選挙ではPTIの躍進によりKP州の下院選挙区と州議会議席の多くを失った。

バロチスタン国民党Balochistan National Party

バロチスタンの民族政党で、平和的な方法でバロチスタン州に自治の拡大を求める。現党首はアクタル・メンガル。

バロチスタン人民党Balochistan Awami Party

2018年にPML-NとPML-Qの支援を受けてバロチスタンで結成された。同年に行われた選挙でバロチスタン州最大勢力となり、連邦議会と州議会で連立政権の一翼を担う。また、隣のKP州にも議員を4人出している。党首はジャーム・カマル・ハーン。

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現在の政治体制・制度
アラブ首長国連邦
2021年8月30日

アラブ首長国連邦/現在の政治体制・制度

アラブ首長国連邦(UAE)は、7つの君主制の首長国から構成される連邦国家である。1971年12月2日に英国の保護領から独立し、現在に至る。政治体制は、UAE 恒久憲法(以下憲法)において規定されている。

政治体制は憲法第1条において、「UAEは独立した、主権を有する、連邦制の国家」と定められている。連邦を構成する首長国は、アブダビ、ドバイ、シャルジャ、アジュマーン、ウンム・アル=クワイン、ラアス・アル=ハイマ、フジャイラが列記されている。各首長国には、長年同地を支配してきた首長家が存在し、首長位は首長家内で移譲されてきた。また憲法第45条により、連邦機関は①連邦最高評議会(al-Majlis al-’U‘lā li-l-Ittiḥād/The Federal Supreme Council)、②連邦大統領および副大統領、③連邦閣僚評議会(Majlis Wuzarā’ al-Ittiḥād/The Council of Ministers of the Federation)、④連邦国民評議会(al-Majlis al-Waṭanī al-Ittiḥādī/The Federal National Council; FNC)、⑤連邦司法、の5つから構成されることが定められている。

連邦政府の最高意思決定機関は、7首長によって構成されている連邦最高評議会である。連邦最高評議会の互選により、国家元首である連邦の大統領と副大統領が一名ずつ選出される。アブダビ首長が連邦大統領を務め、ドバイ首長が連邦副大統領と首相を務めることが慣習となっている。また大統領は首相を任命し、首相が組閣する。首相や閣僚の就任については、議会の承認を必要としていない。制度的には各首長国は対等な地位にあるものの、実態としては政治・経済の面でUAEの建国や発展を主導してきたアブダビとドバイが優位である体制が続いている。

UAEにおいて三権は分立されておらず、立法権と行政権は形式的に連邦最高評議会の監督・承認を受けるものとされている。

立法権は憲法第110条によって「閣僚評議会が法律案を起草し、連邦国民評議会に提出する。閣僚評議会は法律案を大統領および最高評議会に提出する。連邦大統領は、連邦最高評議会による承認を経たのち、法律に署名し、公布する」と定められている。閣僚評議会で起草された法案はFNCで審議・承認を受け、審議結果や勧告は閣僚評議会に提出される。ただし、閣僚評議会の決定はFNCの審議に左右されない。法律は最終的に大統領が署名し、その後公布される。

行政権は憲法第60条によって「閣僚評議会は、その連邦の行政機関としての資格並びに連邦大統領及び最高評議会の最高の監督に基づいて、この憲法及び連邦法に従い、連邦の権限内にあるすべての対内および対外事項を処理する責任を負うものとする」と規定されている。

司法権については、「司法は、統治の基礎である。裁判官は、独立であって、その職務遂行にあたり、法律および良心以外のいかなる権威にも服さない」(第94条)と規定される。また、最高裁判所の裁判官は、最高評議会の同意を得たのちに大統領命令によって任命される(第96条)。

連邦政府

UAEは連邦体制をとっており、連邦政府と首長国政府の間では行政上の管轄が分かれている。憲法第120条では、連邦政府が外交や軍事、治安、連邦財政、教育、公衆衛生などの管轄権を保持することが定められており、第122条によって首長国政府がそれ以外の管轄権を保持することが定められている。なお、天然資源に関する管轄権・処分権は憲法第23条によって各首長国が保持することになっている。またアブダビやドバイなど財政力のある首長国政府は、例えば教育など連邦政府の管轄分野であっても、独自の政策を実施することが少なくない。

UAEの最高意思決定機関は連邦最高評議会である。歴史的には7首長が一堂に会して重要な政策について議論していた時期もあったが、次第に形骸化するようになった。今日では、連邦最高評議会はほとんど開かれておらず、12月2日の建国記念日やイードなどの祝賀行事、5年に一回の大統領改選の際に7首長が集まる程度である。したがって、閣僚評議会(内閣)が実質的な最高意思決定機関となっている。閣僚評議会は首相と副首相、各省庁の大臣(閣僚)、国務大臣、事務局長らから構成されている。

連邦財政については、憲法によって各首長国の規模に応じた分担が定められている。しかしながら、北部首長国には財政を負担する能力がないため、豊富な石油資源を有するアブダビ首長国が大部分を負担してきた。また財源多角化のために2018年1月から5%の付加価値税(VAT)が導入されており、その30%は連邦財政に組み込まれる。連邦政府は国内資源の再配分機能を有しており、とりわけ北部首長国の基幹インフラの整備や教育政策、保健政策などにおいては中心的役割を担っている。

首長国政府

各首長国は世襲の首長によって統治されている。首長、副首長、皇太子が政治の中心となり、また他の首長家メンバーも首長国政府機関の要職に就くことが多い。首長府や執行評議会と呼ばれる機関が意思決定と政策の中心となり、その下に連邦政府の省庁に相当する専門部局が設置されている。またアブダビとシャルジャにはそれぞれ諮問評議会が設置されており、地元住民の意見を吸い上げる仕組みがある。

首長国政府財政は独立しており、基本的に独自の財源で賄われている。上述の通り、天然資源は各首長国が管轄しているため、UAEの原油埋蔵量の9割を保持するアブダビが必然的に豊かになる。ただし、北部首長国は天然資源に乏しく財政基盤が脆弱なため、独自で債権を発行して資金調達を行ったり、何らかの形でアブダビからの支援を受けたりしていると考えられる。また、2018年に導入されたVATの70%は徴収した首長国の財政に組み込まれている。

連邦国民評議会

UAEの議会にあたる連邦国民評議会(FNC)は1972年に設立された。議会制度は憲法第4章「連邦国民評議会」(憲法第68条~第93条)によって明文化されている。政府に対する諮問的な役割を担っており、政府から提出された法案を審議したり、各種政策について担当大臣や省庁関係者を喚問し議論することができる。しかしながら、連邦国民評議会には立法権が認められていない。

FNCは全40議席からなっており、アブダビおよびドバイは各8議席、シャルジャおよびラアス・アル=ハイマは各6議席、アジュマーン、ウンム・アル=クワイン、フジャイラは各4議席が割り当てられている。議員の任期は4年(2008年の憲法改正により、それまでの2年から延長)で、会期は10月第3週からの7か月間と定められている。

議員は、長らく首長による勅選が行われてきた。その後、2005年にハリーファ大統領が翌2006年にFNC選挙を実施することを発表した。これにより、全議席の半数にあたる20議席は、選挙による選出へと変更された。2001年の米国同時多発テロ事件以降、湾岸諸国は欧米からの民主化・改革圧力がかかっていた。また指導者層のなかには現状を政治的な「遅れ」と見る向きもあり、ある程度の政治改革の必要性は自覚されていたと言えるだろう。

参考文献

  • 堀拔功二 2011. 「アラブ首長国連邦」松本弘(編)『中東・イスラーム諸国民主化ハンドブック』明石書店, pp. 338-353.
  • 堀拔功二 2020. 「アラブ首長国連邦」日本エネルギー経済研究所中東研究センター(編)『JIME中東基礎講座2020年版』, pp. 44-50. 
  • UAE Cabinet “The Constitution” <https://uaecabinet.ae/en/the-constitution>
  • UAE Ministry of Justice “Laws and Legislation Portal” <https://elaws.moj.gov.ae/engLEGI.aspx>
  • UAE Ministry of State for Federal National Council Affairs <https://www.mfnca.gov.ae/en/>
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アラブ首長国連邦
最近の政治変化
2021年8月30日

アラブ首長国連邦/最近の政治変化

UAE建国の父であるザーイド・ビン・スルターン・アール・ナヒヤーン大統領が2004年11月に死去すると、息子のハリーファ・ビン・ザーイド・アール・ナヒヤーン・アブダビ皇太子が首長に就任し、連邦最高評議会で大統領に選出された。また2006年にはムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥームが連邦副大統領兼首相に就任した。ハリーファ期には政治改革が漸進的に進められ、2006年にはFNC選挙が初めて実施された。またムハンマド・ビン・ラーシド首相の下で行政改革や政府の効率化が進められた。不定期に新内閣の立ち上げおよび内閣改造が行われており、首長国政府や政府系企業で頭角を現してきた人材がテクノクラートとして登用されるようになっている。2016年と2020年に省庁再編・政府機構改革が実施され、それに伴い新内閣の立ち上げも行われた。寛容・共生相や幸福担当国務相、青少年担当国務相など、国内の政治的・社会的課題に対応するためのポストも新設されている。

2010年末から翌年にかけて、中東で「アラブの春」が起こると、UAEでも政治改革を求める人々が声を上げた。2011年3月、UAE国内のリベラル派とイスラーム主義者から成る政治改革派が大統領および首長らに対して、包括的な政治改革を求める建白書を提出したのである。しかしながら、改革を求める声は体制に受け入れられず、建白書の取りまとめやインターネット上で政治活動を行っていた5人が逮捕された。当局による改革派への取り締まりは翌年以降も続き、ムスリム同胞団系組織「イスラーハ」のメンバーやその家族など200人以上が逮捕された。国民の多くは政治的関心が低く、また当局による厳しい言論監視も続いたため、改革派に対する支持は広がらなかった。

2014年頃から、国内政治にも新たな変化が見られた。同年、ハリーファ・ビン・ザーイド大統領が脳卒中で倒れ、政治の表舞台には顔を見せなくなった。その後、アブダビ皇太子であるムハンマド・ビン・ザーイド・アール・ナヒヤーンが、アブダビ首長国だけでなく連邦政府においても政治的影響力を行使するようになった。現在、ムハンマド・ビン・ザーイド・アブダビ皇太子がUAEの事実上の指導者であると見なされている。内政面では、ムハンマド・ビン・ラーシド首相は内閣改造の人事案についてムハンマド・ビン・ザーイド・アブダビ皇太子と相談するようになった。また両者は定期的に会談し、国家運営について意見交換を行っている。

ムハンマド・ビン・ザーイド・アブダビ皇太子の影響力は、外交・安全保障分野においても拡大している。UAEは近年、国際社会において外交的・経済的な存在感を強めており、ある種の大国意識を持つようになった。UAEの外交・安全保障戦略も、従来の国際協調路線から、次第に自国の戦略的利益を優先する拡張主義的なものへと変化している。その結果、UAEと域内諸国との対立も生じている。また、ムハンマド・ビン・ザーイド・アブダビ皇太子の「反イラン」「反イスラーム主義」という脅威認識も、安全保障戦略に色濃く反映されている。UAEは同盟国のサウジアラビアとともに、対イラン封じ込めやイエメン内戦への介入、対カタル断交などで連携した。また2020年のイスラエルとの国交正常化についても、ムハンマド・ビン・ザーイド・アブダビ皇太子のイニシアチブによって実現したと言えるだろう。

参考文献

  • 堀拔功二 2011. 「アラブ首長国連邦」松本弘(編)『中東・イスラーム諸国民主化ハンドブック』明石書店, pp. 338-353.
  • 堀拔功二 2012. 「UAEにおける政治改革運動と体制の危機認識――2011年の建白書事件を事例に――」アジア経済研究所機動研究報告『アラブの春とアラビア半島の将来』, pp. 1-14.
  • 堀拔功二 2016. 「ポスト・ハリーファ期を見据えるアブダビ政治の動向――ムハンマド皇太子の研究――」『中東動向分析』15(4): 1-16.
  • 堀拔功二 2018. 「MbZの外交:カタル危機をめぐるUAEの対米アプローチを事例に」『中東動向分析』16(11): 1-15. 
  • 堀拔功二 2020. 「アラブ首長国連邦」日本エネルギー経済研究所中東研究センター(編)『JIME中東基礎講座2020年版』, pp. 44-50. 
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アラブ首長国連邦
選挙
2021年8月30日

アラブ首長国連邦/選挙

UAEでは、FNCでこれまでに4回(2006年、2011年、2015年、2019年)の選挙が実施されている。また地方レベルでは、シャルジャ諮問評議会(al-Majlis al-Istishārī al-Imāra al-Shārqa/Consultative Council of Sharjah)でも2015/16年と2019年に選挙が実施された。

FNC選挙制度

選挙はFNC40議席の半数にあたる20議席を対象に各首長国で実施される。2019年選挙時点において完全な普通選挙は実施されていない。それぞれの首長国で首長が選挙人団(al-Hay’a al-Intikhābīya/Electoral College)を選出し、リストに登録されたUAE国民だけが投票および立候補の資格を有することになる。選挙人団の数は、各首長国がもつ配分議席の300倍以上(2006年は100倍以上)と定められており、上限はない。現在のところ、各首長による選挙人団選出過程は、選挙権・被選挙権をめぐる事実上の事前審査となっている。

選挙人団に選出された者は、選挙への立候補が認められ、審査手続きを経て正式な出馬となる。被選挙権は憲法第70条によって定められており、①UAE国民であること、②25歳以上、③品行方正で犯罪歴がないこと、④読み書きのできる者、となっている。また議員就任中は閣僚を含む他の公的な役職との兼任が禁止されている。

選挙期間や活動規定などは、国家選挙委員会が別途定めている。国家選挙委員会は関係省庁大臣や事務次官、有識者などから構成されており、各首長国にも支部が設置される。同委員会は選挙の円滑な実施を管理するとともに、国民への選挙啓発キャンペーンなども行う。

有権者は1人1票を、選挙人団として登録されている首長国の候補者へ投票することができる(ただし、2006年選挙と2011年は1人4票まで投票することができた)。投票は秘密投票で、2006年および2011年選挙はコンピュータ上で候補者を選択して投票用紙に出力し、それを投票した。2015年選挙からは完全な電子投票に変更されている。投票所は各首長国に設置され、主要な公的施設やショッピングセンターなどが利用されている。即日開票され、同日中に当選者が明らかになる。当選者が発表されたあと、落選者は48時間以内に選挙管理委員会に異議申し立てを行うことができる。その後、異議の審査を経て最終的な当選確定リストが発表される。

1FNC選挙(2006年)

UAE史上初となるFNC選挙は、2006年12月に実施された。選挙実施に至る経緯を整理すると、連邦最高評議会が8月10日に決定2006年第4号を発布し、FNC議員の選出方法について改めた。これにより、各首長国に割り当てられた議員の半数は選挙人団から選出されることになり、また選挙人団の数は各首長国の割り当て議席の100倍以上とした。そして、残りの議席については、首長による勅撰とすることが定められた。8月15日には大統領決定2006年第3号が発布され、議員選出の手続きが定められ、国家選挙委員会が組織される。そして、10月1日に選挙人団が発表され、UAE人口(当時)の約0.8%にあたる6,595人(うち女性は1,162人)が選挙人団に選出された。

具体的な選挙プロセスは11月になって本格化した。11月19日から22日にかけて立候補者登録が行われ、資格審査を経て11月30日に最終的な候補者リストが発表された。その結果、456人(うち女性は65人)が選挙に立候補することになった。12月1日から2週間の選挙キャンペーンが行われ、各候補者はポスター、新聞広告、メディア、インターネットを使って選挙戦を展開した。また国家選挙委員会も、国民全体に選挙についての意義を伝えるべく、啓発活動を行った。なお、選挙キャンペーン中に18人が立候補を取りやめて選挙戦から撤退している。

投票は3日間にわたり行われた。12月16日にアブダビとフジャイラで、18日にドバイとラアアス・アル=ハイマで、20日にシャルジャ、アジュマーン、ウンム・アル=クワインで投票が行われた。選挙の結果、女性1名(アブダビ)を含む20人がFNC議員として当選した。投票率は、UAE全体で74%となっている。

第1回目の選挙は直接投票に参加できた人数が、国民人口に比してあまりに小さいため、政治参加を求める市民からは大きな不満が出た。また、FNCにはそもそも立法権が付与されていないので、選挙実施の意義についても問われた。最も大きな問題は、選挙への関心が一部の層に留まっていたことであり、国民全体の政治的関心の低さも指摘されている。

首長国選挙議席数選挙人団
(人)
立候補者数
[女性](人)
投票者数
(人)
投票率
アブダビ41,741100[14]1,03859.6%
ドバイ41,52082[15]1,08071.1%
シャルジャ31,017101[29]83682.2%
ラアス・アル=ハイマ31,06183[3]82377.6%
アジュマーン243624[2]37185.1%
ウンム・アル=クワイン240329[1]35888.8%
フジャイラ241737[1]37790.4%
合計・平均206,595456[65]4,88374.0%
第1回FNC選挙(2006年)

2FNC選挙(2011年)

2008年に憲法改正が行われ、FNC議員の任期がそれまでの2年から4年へ延長された。これにともない、第2回FNC選挙は2011年に行われた。この年、中東諸国は「アラブの春」による政治変動の影響を受けており、UAEでも政治改革を求める建白書が改革派から大統領と首長宛に提出された。建白書では包括的な政治改革の必要性を訴えており、とくに普通選挙の実施とFNCへの立法権の付与を求めていた。第2回選挙では、改革派が求めたいずれの主張についても受け入れられなかったものの、選挙人団については「各首長国の割り当て議席の300倍以上」へと大幅に引き上げられた。その結果、13万人近い国民が選挙人団として登録され、女性も46%を占めた。

2011年2月にFNC会期が終了すると、9月24日に第2回選挙の投票が行われることが発表された。国家選挙委員会は2011年7月10日、全国で129,274人の選挙人団が登録されたことを発表した。国家選挙委員会はその後、各地で選挙人団に対する説明会を実施し、8月中旬から立候補の受け付けが始まった。全国で469人(うち女性は85人)の立候補があったが、最終的に19人の立候補を取りやめている。9月4日から選挙戦が始まり、候補者は新聞広告やインターネット、SNSなどを駆使して選挙キャンペーンを行った。しかしながら、FNCの政治的権限が制限されていることもあり、候補者の公約は総花的で具体性に欠けるものであった。そのため、有権者である選挙人団の反応は芳しくなかった。投票直前の週には、ハリーファ大統領ら政府首脳が選挙人団に投票を促す異例の声明が発表されるほどであった。

9月24日に全国で投票が行われ、翌25日に女性1人を含む20人の当選が発表された。投票率は全国平均で27.8%と非常に低かった。また前回に続き、選挙議席数の数十倍もの立候補があったため、票が分散して大量の死票が発生した。その一方で、アブダビでは4議席中3議席をアーミリー部族の出身者が当選し、アジュマーンもシャームシー部族が2議席を獲得するなど、特定部族による議席の独占が見られた。このように、UAEでは「アラブの春」において政治改革を求める声は上がったものの、それらの意見は一部に留まっており、低い投票率からは一般国民の薄い政治的関心が示唆される。

首長国選挙議席数選挙人団
(人)
立候補者数
[女性](人)
投票者数
(人)
投票率
アブダビ447,444117[22]10,10921.3%
ドバイ437,514124[26]9,26824.7%
シャルジャ313,93794[16]5,89042.3%
ラアス・アル=ハイマ316,85060[9]5,08530.2%
アジュマーン23,92034[5]1,56239.8%
ウンム・アル=クワイン23,28519[4]1,79654.7%
フジャイラ26,32421[3]2,16734.3%
合計・平均20129,274469[85]35,87727.8%
第2回FNC選挙(2011年)

3FNC選挙(2015年)

第3回FNC選挙の準備は、2015年2月頃から始まった。4月29日には同年10月3日に投票を実施することが発表され、また投票数も従来の1人4票から1票へと変更された。国家選挙委員会は、前回選挙時の投票率の低さを反省し、各地でセミナーを実施したりメディアやSNSを通じた広報活動が強化された。投票率の向上を目指すため、今回の選挙から在外投票と期日前投票も導入されている。

国家選挙委員会は7月5日、選挙人団の規模について前回より約10万人多い224,279人とすることを発表した。8月13日に公示が行われ、同16日から立候補者の登録が行われた。そして、8月31日に341人の立候補者(うち女性は76人)が発表された。本来であれば9月6日から選挙戦が始まる予定であったが、この直前にイエメンに駐留するUAE軍兵士45人がフーシー派の攻撃により戦死する出来事があったため、選挙戦の開始は8日に延期された。

今回から導入された在外投票は、各国の在外公館で9月20日から21日にかけて実施された。また期日前投票は各首長国の主要投票所で、9月28日から30日まで行われている。そして10月3日の投票日には、全国39か所で投票が行われた。2015年選挙からIDカードを用いた電子投票システムが導入されたことにより、投票が締め切られてから30分程度で開票結果が発表された。ドバイでは現職議員2名が再選を果たすなど、議員活動の実績が評価されている様子が伺えた。また、第3回選挙でも女性の候補者は苦戦し、ラアス・アル=ハイマで1人の女性候補者が当選するに留まった。懸念されていた投票率は前回選挙に比べてわずかに上向いた。投票者の半数が在外投票や期日前投票を利用しており、新制度の導入が投票率の向上に有効であったと言える。

首長国選挙議席数選挙人団
(人)
立候補者数
[女性](人)
投票者数
(人)
投票率
アブダビ490,40896[24]35,04638.8%
ドバイ453,56862[22]11,76022.0%
シャルジャ331,76661[11]9,58530.2%
ラアス・アル=ハイマ327,45541[5]11,44441.7%
アジュマーン26,09023[4]2,96548.7%
ウンム・アル=クワイン24,10520[3]2,88270.2%
フジャイラ210,88738[7]5,47550.3%
合計・平均20224,279341[76]79,15735.3%
第3回FNC選挙(2015年)

4FNC選挙(2019年)

第4回FNC選挙では、女性の政治参加が積極的に推進された。ハリーファ・ビン・ザーイド大統領は2019年6月22日に大統領決定2019年第1号を発布し、FNC議員の半数を女性にすることを義務付けたのである。選挙・勅選による女性議員の選出方法については各首長国に任せられ、アブダビ、ドバイ、アジュマーン、ウンム・アル=クワイン、フジャイラでは選挙議席の半数(2議席)を女性に割り当てた。またシャルジャとラアス・アル=ハイマでは、選挙での女性枠は設けず、もし選挙によって女性が当選しない場合は首長が任命することになった。

国家選挙委員会は6月30日、第4回FNC選挙の選挙人団を337,738人とすることを発表した。8月18日から22日にかけて立候補の受け付けが行われ、9月3日に495人の立候補(うち女性は180人)が発表された。女性議員増加の方針を受けて、女性立候補者の数も前回選挙の22%から36%へと増えた。例年通り、少ない議席数に対して多くの候補者が乱立したため、票が割れることが想定された。選挙キャンペーンは9月9日から10月4日まで行われ、今回からは投票日前日までの選挙活動が認められるようになった。

投票は在外投票から行われ、9月22日から23日にかけて世界118か所の在外公館などで投票が行われた。その後、10月1日から3日にかけて期日前投票が行われる。そして、10月5日に国内39か所で投票が行われた。投票者数は選挙人団の拡大により増加したものの、投票率は全国平均で34.8%と前回の35.3%より微減した。アブダビやドバイに比べると、北部首長国の投票率が全体的に高かったのが特徴である。投票の結果、ドバイとフジャイラでは現職議員がそれぞれ1人ずつ再選を果たした。また女性候補者は、アブダビ、ドバイ、アジュマーン、ウンム・アル=クワイン、フジャイラで7人誕生した。シャルジャおよびラアス・アル=ハイマにおいて女性の当選はなかった。その後、首長によって女性議員が3人ずつ任命されている。なお、シャルジャで首長により任命された女性議員は、選挙で敗れはしたものの得票数が上位の3人であったことから、結果として「民意」が反映されたことになる。

首長国選挙議席数選挙人団
(人)
立候補者数
[女性*](人)
投票者数
(人)
投票率
アブダビ4101,549133[47]35,79035.2%
ドバイ460,77288[37]12,89121.2%
シャルジャ364,293114[39]22,45134.9%
ラアス・アル=ハイマ355,28961[20]22,17240.1%
アジュマーン210,16526[5]4,39343.2%
ウンム・アル=クワイン26,65320[8]3,77856.8%
フジャイラ239,01753[20]16,11741.3%
合計・平均20337,738495[176]117,59234.8%
*立候補者数の女性内訳人数は最終候補者リストの数になる。そのため女性立候補者の合計は当初発表の180人より4人減っている。

第4回FNC選挙(2019年)

シャルジャ諮問評議会選挙

シャルジャ諮問評議会は、1999年に設置されたシャルジャ首長国に関する行政、社会、文化、経済開発に関して諮問する機関である。また首長国内で施行される法律を策定する立法権も有している。スルターン・カースィミー首長が2015年6月に選挙の実施を発表した。諮問評議会の議席の半分を選挙で選出し、残りの議席を首長の任命によって選出する。21歳以上のシャルジャ市民の男女が選挙人団として登録することができ、25歳以上が選挙に立候補することができる。議員の任期は4年で、これまでに2015/16年と2019年に選挙が実施されている。選挙区と議席の割り当ては、シャルジャ市(6議席)、アル=ザイド市(3議席)、ハウル・アル=ファカーン市(3議席)、カルバー市(3議席)、ディッバ・アル=ヒスン(2議席)、アル=マダーム(1議席)、アル=ハムリーヤ(1議席)、アル=バターイフ(1議席)、マライハ(1議席)となっている。なお、2019年選挙では定数が50議席に増やされ、これに伴いシャルジャ市(9議席)とアル=マダーム(2議席)の議席数が変更された。

第1回選挙(2015/16年)は、42議席の半分が選挙によって争われた。2015年12月6日から17日にかけて選挙人団の登録が行われ、21歳以上人口の78,457人のうち、31.8%にあたる24,952人(男性13,794人、女性11,158人)が登録された。その後12月27日から29日かけて立候補受付が行われた。そして、2016年1月12日に最終候補者リストが発表され、各選挙区から合計195人(うち女性は43人)が立候補した。1月17日から28日かけて選挙キャンペーンが行われ、1月30日と31日に投票が行われた。女性候補者はハムリーヤ選挙区で1人が当選したのみで、後日スルターン首長が6人の女性を勅撰議員として任命した。

選挙区選挙議席数選挙人団
(人)
立候補者数投票者数
(人)
投票率
シャルジャ市69,937925,74257.8%
アル=ザイド市31,368111,03976.0%
ハウル・アル=ファカーン市34,944303,48870.6%
カルバー市33,759232,71772.3%
ディッバ・アル=ヒスン市21,862101,35973.0%
アル=マダーム11,087888081.0%
アル=バターイフ1620641667.1%
マライハ1854974987.7%
アル=ハムリーヤ1521640677.9%
合計・平均2124,95219516,79667.3%
合計・平均2124,95219516,79667.3%
第1回シャルジャ諮問評議会選挙(2015/16年)

第2回選挙(2019年)は諮問評議会の定数が50議席に増えたことにより、その半数の25議席が選挙で争われることになった。2019年9月1日から選挙人団の登録がオンライン上で始まり、同15日からは各地での登録も行われた。登録作業は9月30日まで続けられ、44,758人が選挙人団として登録された。10月9日に告示が行われ、10月20日から22日にかけて立候補者の受け付けが行われた。そして、10月31日に最終候補者リストが発表され、189人(うち女性は41人)が立候補した。選挙戦は11月3日から18日にかけて行われ、投票は11月20日から23日にかけて実施された。なお、今回の選挙から電子投票・集計システムが導入されている。投票終了後から開票作業が行われ、翌11月24日に当選結果が発表された。今回の選挙において女性議員は、シャルジャ市、バターイフ、ハムリーヤでそれぞれ1人ずつの当選があった。

選挙区選挙議席数選挙人団
(人)
立候補者数投票者数
(人)
投票率
シャルジャ市919,074699,61350.4%
アル=ザイド市32,273131,73376.2%
ハウル・アル=ファカーン市38,401365,63467.1%
カルバー市37,117214,09057.5%
ディッバ・アル=ヒスン市23,659172,56770.2%
アル=マダーム21,491121,00767.5%
アル=バターイフ1797658172.9%
マライハ11,240996377.7%
アル=ハムリーヤ1706641258.4%
合計・平均2544,75818926,60059.4%
第2回シャルジャ諮問評議会選挙(2019年)

参考文献

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アラブ首長国連邦
政党
2021年8月30日

アラブ首長国連邦/政党

政党の設立は認められていない。2012年8月に、ムスリム同胞団系組織イスラーハ元メンバーのハサン・ドッキーがUAEウンマ党(Hizb al-‘Umma al-Imārāt)の設立を宣言した。しかし、本人はその後トルコに亡命しており、政治活動はオンライン上で行っている。

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現在の政治体制・制度
クウェート
2021年8月30日

クウェート/現在の政治体制・制度

憲法の概要

現在クウェートの政治体制はサバーフ家が首長位を世襲する立憲君主制であり、政治制度は1962年に公布されたクウェート国憲法に基づいている。同憲法は1976年から1981年と、1986年から1991年の二度にわたって停止され、1982年から1983年にかけて、政府が改正案を提案したこともあったが、現在まで改正はなされておらず、クウェートにおける政治のルールとして定着している。

クウェート国憲法(以下、憲法と表記)は、選挙で選ばれた国民の代表と首長家代表が制憲議会での検討を重ねて制定された経緯から、君主の権力に制限をかけ、国民の政治参加と諸権利を保障する、当時としては民主的で画期的な憲法であった。1961年6月に英国保護領から独立したのち、アブドッゥラー・サーレムAbdullah al-Salim al-Mubarak al-Sabah首長(在位1950-1965年)が同年8月に制憲議会選挙実施のための法律案の起草委員会委員を任命し、12月に制憲議会の設立を宣言した。翌1962年1月に制憲議会選挙が実施され、クウェート人成年男子より選出された20名の民選議員と、首長が首長家一族から任命した暫定内閣の閣僚からなる制憲議会が開会した。起草委員会での審議と本会議での承認を経て、1962年11月11日にアブドッゥラー・サーレム首長の署名により、183条からなる憲法が発布された。アブドッゥラー・サーレム首長が憲法に署名するシーンを撮影した写真は、クウェート憲政・議会政治の始まりのアイコンとして多用されており、同首長はクウェート憲政の父と称されている。

憲法は、1950年代に隆盛したアラブ・ナショナリズム運動の影響もあり、第1条でクウェートがアラブ諸国のひとつであることが宣言されている。第2条では国教をイスラームとし、シャリーアが主要な法源であると位置づけられている。第4条では首長位を大ムバーラクと称されるムバーラク・サバーフMubarak al-Sabah首長(在位1896-1915年)の子孫が継承すること、皇太子(厳密には首長位継承予定者Wali al-Ahd)は、首長の指名と国民議会の過半数の承認に基づき、首長が任命することが規定されている。特徴的なのは、将来の首長となる皇太子の任命に対して議会が拒否権を有しており、首長が指名した人物が議会の承認を得られなかった場合、首長は大ムバーラクの子孫から少なくとも3名を指名し、その中から議会が忠誠を誓った人物を皇太子に任命することとなっている。第6条では国民主権に基づく民主的統治が明記されている。

立法権および国民議会の権能

立法権は首長と国民議会(以下、議会と表記)に付与されており(第51条)、立法に関して相互に牽制しあう制度設計となっている。湾岸アラブ君主制の中でも議員の法律案提出権や大臣に対する質問権、大臣の罷免権があるなど議会の権能が大きいのが特徴である。

議会は一院制で、議員定数は50議席である。議員は普通選挙および秘密投票により選出される。議員の任期は4年である。法律案の提出は首長と議員に認められている(第65条、議員立法・第109条)。定足数は総議員数の過半数であり、議会の議決は基本的に出席議員の過半数の賛成により成立する。選挙で選出されていない大臣も職制上の議員とみなされ、総議員数に含まれており、委員会人事と大臣の信任投票案の投票を除いて議会の採決に参加する(第80条)。大臣の人数は議員定数の3分の1を超えないこととされており(最大16名)、そのうち少なくとも1名は民選議員から任命することが定められているため(第56条)、過半数は最大で33名となる(民選議員から大臣に任命される人数によって変化する)。

議会に提出された法律案は、議決・承認されたのち、首長が30日以内に裁可することで法律として発効する。首長は議会に法律案を差し戻して再検討を求めることができるが、それに対して総議員数の3分の2以上の賛成によって法律案が改めて承認された場合には、首長は30日以内(緊急の場合は7日以内)に裁可・公布しなければならない。首長が法律案の再検討を求めず、裁可を30日以内に行わない場合は、法律案は裁可されたものとされ、発効する(第65条・第66条)。

首長は、議会の休会中または解散中に、憲法と予算法の見積もりに反しない範囲で、法律と同等の効力を有する緊急法令(緊急勅令)を発布することができる。緊急法令は、議会の再開または選挙後の新しい議会が召集されてから15日以内に議会に提出されのち、議決による承認を得なければならない。議会が承認しなかった場合、緊急法令は基本的に遡及的に無効となる(第71条)。

議員は、法律案の提出だけでなく、政府の政策や問題に対する首相および所管の大臣への質問および、大臣の不信任決議案提出の前提となる問責質問を提出することが可能である。また、問責質問を経たのち、議員は10名の連署で大臣に対する不信任決議案を提出することができる。閣僚を除く過半数の民選議員の賛成により不信任決議案が議決された場合には、対象となる大臣は決議の日から辞職したものとされる(大臣の罷免権、第101条)。首相に対する不信任決議案の提出はできないが、代わりに議会から政府に対する非協力の通知として首長に送られ、首長が新たに首相を任命するか国会の解散と60日以内の選挙の実施を宣言する。議会の解散権は首長のみ有する。

行政権

行政権は首長と内閣(閣僚評議会Majlis al-Wuzara)、大臣に付与されている。首長は首相を任命し、首相の指名に基づいて大臣を任命する。議会に大臣の罷免権が認められているが、内閣は首長に責任を負う。首相が辞職する場合、他の大臣も辞職する(内閣総辞職)。

閣僚数は国民議会の民選議員定数である50名の3分の1を超えないことが憲法で規定されており、16名が最大である。大臣のうち少なくとも1名は民選議員から任命しなければならない。女性閣僚が2005年から任命されている。

司法権

司法権は、首長の名のもとにそれを行使する裁判所に付与されている。司法の独立が明記されており、裁判官人事については最高司法評議会の決定に基づいて首長が任命する。7名の裁判官からなる憲法裁判所が設置されている。

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最近の政治変化
クウェート
2021年8月30日

クウェート/最近の政治変化

ナゥワーフ首長の即位と議会の動向(2020年10月~)

2006年1月に即位したサバーフ・アフマド・ジャービル・サバーフSabah al-Ahmad al-Jabir al-Sabah首長が2020年9月29日、91歳で亡くなり、異母弟のナウワーフ・アフマド・ジャービル・サバーフNawwaf al-Ahmad al-Jabir al-Sabah皇太子が第16代当主・独立後6代目の首長に即位した。10月8日、ナゥワーフ首長は異母弟で国家警備隊副長官のミシュアル・アフマドMishal al-Ahmad al-Jabir al-Sabahを皇太子に指名し、翌8日に国民議会の承認を経て任命した。次の世代からの皇太子任命を期待する声もあったが、順当に第10代当主・アフマド・ジャービルAhmad al-Jabir al-Sabah首長の息子たちの間で継承された。首長と皇太子の年齢はともに80代であり、ミシュアル皇太子が存命中の兄弟では最年少となるため、世代交代の問題は依然として残っている。

2020年12月5日には第16回(無効化された選挙を含めれば18回目)となる国民議会選挙が実施された。2003年以来の任期満了に伴うものであったが、サバーフ首長の服喪期間もあり、当初の予定より約1カ月遅れての実施となった。選挙戦では、COVID-19感染予防のための外出禁止令によって打撃を受けた中小事業者の資金繰り支援や給与補填、家計負担増への対応といった直近の問題とともに、政府内での汚職問題が取り上げられた。選挙後の12月7日、当選した議員のうち36名(途中参加を含めて38名との報道もあり)がバドル・ダーフームBadr al-Dahum議員の呼びかけに応じて会合を持ち、政府の意向に従うマルズーク・ガーニムMarzuq al-Ghanimの議長再選を阻止すべく新議長の対立候補としてバドル・フマイディーBadr Humaidiを軸に調整を行った。しかし、新議会が招集された12月15日の議長選では、両名併記の無効票もあってバドル・フマイディーへの有効票は28票にとどまり、閣僚からの投票を含む34票を獲得したマルズーク・ガーニムが議長に再選された。バドル・フマイディーに投票した議員たちは野党として結束を強め、2021年1月5日の定例会で、バドル・ダーフーム議員ら3名の議員がサバーフ・ハーリド・ハマド・サバーフSabah al-Khalid al-Hamad al-Saba首相に対して不信任案提出の前段階となる問責質問を求める動議を提案すると、38名の議員が支持を表明した。首相に対する不信任案の提出が不可避の状況となり、サバーフ首相は1月13日にナウワーフ首長に辞表を提出し、新議会招集の前日の12月14日に発足した内閣は、わずか1カ月で総辞職した。

ナウワーフ首長は1月24日にサバーフ・ハーリド首相を再任し組閣を命じたが、組閣が長引いていたため憲法第106条を発動し、2月18日から1カ月間、議会の定例会を一時停止する首長令を発布した。同首相は野党からの批判が強かった4閣僚を交代させ、副首相にリベラル派のベテラン野党議員であったアブドゥッラー・ルーミーAbdullah Yusuf al-Rumi元議員を据える組閣を終え、首長による任命を受けて3月2日に新内閣を発足させた。しかし、議会再開直前の3月14日に、憲法裁判所がバドル・ダーフーム議員に対して、2013年にサバーフ前首長を侮辱して有罪判決を受けていたことを理由に憲法裁判所が議員資格を剥奪する決定を下し、マルズーク・ガーニム議長が議員資格審査の投票なしに議員資格の無効を宣言したことで、野党議員らは態度を硬化させた。野党議員らは、首相側が司法を通じて野党の中でも注目を集めていたバドル・ダーフーム議員を排除し、野党による絶対過半数確保の阻止と、本会議での首相に対する問責質問の阻止を狙ったものと受け止め、新内閣を認めない姿勢を示して内閣を退陣に追い込むべく、閣僚が議会で就任宣誓を行う本会議を定足数割れで流会に追い込もうと本会議のボイコットを宣言した。首相側は閣僚16名と民選議員18名でぎりぎりの過半数を確保し、3月30日に閣僚の就任宣誓を行った。また、同日の本会議でサバーフ・ハーリド首相は、コロナ対策や経済の立て直しなど懸案に取り組むために、本会議での問責質問の実施を2022年末まで延期することを提案し、出席議員34名のうち29名の賛成により承認された。本会議をボイコットした31名の野党議員は、2年近くの問責質問の延期を認めた投票は憲法が定めた要件を満たしておらず違憲で無効であると批判し、同日の本会議を「クウェート民主主義の暗黒日」と表現してサバーフ・ハーリド首相とマルズーク・ガーニム議長の解任を訴えた。

2021年4月以降、政府および政府寄りの立場をとるマルズーク・ガーニム議長と野党議員の対立はより深刻化した。野党議員側は、首相の問責質問が行われない限り、通常会での審議を拒否することで合意し、マルズーク・ガーニム議長を解任すべく、議会内規に議長解任に関する条文を追加する改正を提案した。また、4月7日には、23名の野党議員が、クウェート議会史上初となる議長解任のための審議を要求する動議を発した(動議は賛成少数で却下)。対する政府側は野党議員抜きで審議を行う一方、野党側が提案する議題や緊急の議案審議、首相および新型コロナへの対応をめぐるバーセル・フムード・ハマド・サバーフBasil Humud al-Hamad al-Sabah保健相への問責質問の要求には応じなかった。対立に嫌気して議員本来の役割が果たせないという理由で政府側の議員1名が議員辞職を表明し、辞表を提出したものの、補欠選挙は失職したバドル・ダーフームが選出された第5選挙区のみ実施することが4月13日に公示された。補欠選挙では、2012年2月議会の議員であったクウェート大学法学部教授のオベイド・ワスミーUbayd al-Wasmiが野党統一候補として、バドル・ダーフームの代理として推されて立候補した。野党側は、憲法と議会を弱体化させる試みに対し、民衆から拒否を突きつけようとキャンペーンを展開した。5月22日に行われた投票では、投票率が28%であったにもかかわらず、オベイド・ワスミーは投票者の約9割からクウェート議会選挙史上最多得票となる43801票を獲得して当選し、野党側を勢いづけた。

議会通常会の焦点となる2021/22年度政府予算は、予算委員会を含めてほとんど議会で審議することができない状態であったため、マルズーク・ガーニム議長は野党側の対応を批判し、親政府議員による特別会の招集要求に応じるという体裁で、予算承認のための会合を招集した。野党側は度重なる違憲行為と説明責任を果たそうとしない政府の態度と議長の対応を批判する一方、沈黙を守るナウワーフ首長との面会を求めて、審議の前日となる6月20日に野党議員から代表の3名がミシュアル皇太子と会談した。会談の内容は明らかにされていないが、6月21日の審議当日、野党側は議場の大臣席を占拠して審議の阻止を図った。サバーフ・ハーリド首相を含む閣僚は議場出入口付近に立ったままであったが、マルズーク・ガーニム議長は特別会の成立を宣言し、予算案承認のための採決を強行した。親政府議員と野党議員が揉み合い怒号が飛び交う中、閣僚が着席しないまま点呼による投票を行う前例のない形で、閣僚と親政府議員の過半数の賛成により、予算案は承認された。野党議員30名は採決への参加を拒否した。異常事態のまま、議長が会期終了を宣言し、政府および議長と野党議員の対立は次の会期が始まる10月まで持ち越されることとなった。

サバーフ首長のもとでの民主化の深化と反動(2006年1月~2020年9月)

2006年1月29日、第5代首長(第15代当主)として、首相職にあったサバーフ・アフマド・ジャービル・サバーフSabah al-Ahmad al-Jabir al-Sabahが首長に即位した。2006年1月15日にジャービル・アフマド・ジャービル・サバーフJabir al-Ahmad al-Jabir al-Sabah首長が亡くなった後、皇太子であったサアド・アブドゥッラー・サーリム・サバーフSaad al-Abdullah al-Salim al-Sabahが首長に即位していたが、病状が執務に堪えられないとの判断から廃位し、議会の推戴による即位であった。サバーフ首長の即位期前半(2006年~2012年)は、女性参政権の実現や野党主導による選挙制度改革、集会法やメディア・出版の規制緩和等にみられる政治的自由の拡大期であった。議員活動が活発化し、議員が政治的な志向性に応じて会派を結成し、議会政治の活性化と議会への更なる権力移譲を目指すという展開もみられ、1992年の議会復活以来の「民主化」はピークに達した。しかし、議員活動の活発化によって政府と議会の対立は深刻化し、度重なる内閣総辞職と議会解散・選挙によって政治的な意思決定が停滞し、行政の麻痺や周辺の湾岸諸国に対して経済成長で後れをとる負の側面も顕在化した。

サバーフ首長の即位期後半(2012年~2020年)は、一転して主要な野党議員と関係者の収監やSNSを中心としたメディア規制の強化といった反動化が進む一方、首長府主導による開発投資・インフラ整備が急速に進められた。反動化の予兆としては、2010年12月の野党議員の集会に対する警察の介入や、ナーセル・ムハンマド・アフマド・ジャービル・サバーフNasir al-Muhammad al-Ahmad al-Jabil al-Sabah首相の辞任を要求するデモ隊が2011年11月16日に議会議場に突入した事件など、政府と野党側双方に実力行使を厭わない不穏さがあった。転機は2012年2月の選挙において、野党側が閣僚を含む総議員数の過半数となる34議席を獲得し、新たに任命されたジャービル・ムバーラク・ハマド・サバーフJabir al-Mubarak al-Hamad al-Sabah首相に対して閣僚評議会の過半数となる9つの閣僚ポストを要求したことであった。首長および首相は野党側の要求を拒否したが、議会運営が野党側の手に握られ、政府提出法律案や予算案の成立が困難な状況にあった。事態を動かしたのは憲法裁判所であった。2012年6月20日に憲法裁判所が前年12月6日の議会解散手続きに不備があったとして、2012年2月2日の選挙およびその後の議会は無効であるとの判断を下した。以降、憲法裁判所が政府の意向に沿った判断を下す事案が増加した。政府および首長は2009年議会の議員を改めて招集しようとしたが、大半の議員が憲法裁判所の判断に抗議して招集を拒否したため定足数を満たすことができず、10月6日に改めて議会を解散した。野党側は抗議デモを展開して一連の対応を強く批判し、サバーフ首長に対して独裁化を警告する演説を行った野党指導者のムサッラム・バッラークMusallam al-Barrak前議員が首長侮辱罪で一時拘束された。政府および首長は緊急法令によって選挙法を改正し、12月1日に選挙を行った。野党側の選挙のボイコットをにより親政府議員が過半数を占めたが、選挙法の改正手続きに不備があったとして、2013年6月16日に憲法裁判所は再び選挙と議会の無効化を宣言した。同年7月23日に行われた選挙も引き続き野党側がボイコットしたため、同選挙後の議会も親政府議員が過半数を占めた。

政府は議会の安定的な運営を取り戻したかに見えたが、石油価格の低迷が政府予算を圧迫する状況が続いているため、国内のガソリン価格や行政手数料の引き上げ、補助金の削除を実施し、付加価値税の導入に手をつけたことが議員の反発を招いた。また、国民負担が増加する一方、首長府主導の積極的な開発投資・インフラ整備とともに、公金詐取やマネーロンダリングなどの汚職も深刻化し、政府に対する国民の不満も高まっていた。2015年6月のモスク爆破テロ事件以来、治安対策やSNS上での発言の取り締まり強化とともに、野党側の元議員や活動家に対する弾圧を強化した。先述のムサッラム・バッラークのほか、2009年議会における野党の中心的な会派であった「発展と改革会派Kutlat al-Tanmiya wa al-Islah」所属議員らが、2011年11月のデモ隊の議場突入事件で首長を批判する演説を行いデモ隊の若者たちを扇動したとして送検され、破棄院で有罪判決が確定したため、収監前にトルコへ亡命した。サバーフ首長は2016年10月16日に安全保障上の理由で議会を解散し、11月23日に選挙が行われた。野党側はボイコットを止めて選挙に参加したが、主だった元議員が被選挙権を停止されていたため、30-40代の新人議員が多数当選し、議員構成が大幅に若返った。

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選挙
クウェート
2021年8月30日

クウェート/選挙

概要

クウェートでは1963年の第1回国民議会選挙から、直近の2020年12月選挙までに16回、憲法裁判所の違憲判断により無効となった2012年2月選挙と2012年12月選挙も含めると18回の国政選挙が実施されている。この他、議会解散・憲法停止中の1990年6月に立法権のない諮問評議会選挙が実施された。女性参政権は1999年に首長令によって付与されたものの議会で承認されず、その後、2005年に選挙法の改正が議会で承認されたことで認められ、2006年6月選挙で実現した。女性議員は2009年5月選挙で初めて4名選出されたが、2016年11月選挙では1名のみ、直近の2020年12月選挙では0となった。

選挙制度

国民議会の議員定数は憲法で50名と定められている。選挙法(法律1962年第35号)に基づく選挙制度は、10選挙区、各定数5の完全連記制であった。1980年に首長令により改正され、25選挙区、各定数2の完全連記制となり、1981年選挙から2006年選挙まで適用された。1980年の改正は、1981年に議会を再開するにあたって、あらかじめ政府側が安定的に過半数を維持できるよう、首長および首長家に忠誠を誓う部族代表の当選を容易にし、他方でイラン革命の影響を受けて政治的要求を強めるシーア派住民の代表の当選を抑えるべく、選挙区を街区単位で細分化したものであった。しかし、当選に必要な最低得票数が少ないため、票の買収が容易で横行する、議員の関心が街区への住民サービスや利益誘導に偏る、人口動態の変化で一票の格差が最大6倍を超えるなど弊害が目立ったことから、選挙法改正の議論が本格化し、2006年6月選挙の争点となった。

2006年選挙の結果、野党側が推す改正案が通り、5選挙区、各定数10、4名までの制限連記制となり、2008年5月選挙から2012年2月選挙まで適用された。選挙区の統合拡大により当選に必要な最低得票数が引き上げられ、1票の格差も約2倍に緩和された。選挙制度は野党有利に働き、議員の議会活動の活発化につながったが、それによって政府と議会の対立も深刻化した。2012年10月には緊急法令(首長令)により投票方法が4名までの制限連記制から1人1票の単記非移譲式に変更された。

選挙権は21歳以上のクウェート人にあり、毎年2月に有権者登録が行われる。被選挙権は憲法で30歳以上とされており、アラビア語の読み書き能力が十分にあることが必要である。軍人と警察官は選挙権・被選挙権とも行使できない。また、帰化による国籍取得者も国籍取得後20年間は選挙権・被選挙権とも行使できない。首長家一族は選挙権・被選挙権の行使を法的に制限されておらず、投票は行うが立候補はしないことが慣例となっている。女性参政権は上述の通り2006年6月選挙で実現した。期日前投票制度は無い。在外投票制度は2020年12月で実現した。

選挙管理に関しては、最高司法評議会により最高選挙管理委員会が設置され、各投票所では裁判官が選挙管理の責を担い、会場設営や有権者登録の確認などの手続きは内務省選挙局の職員が担当する。立候補の登録は2020年12月選挙から、それまでの50KD(クウェート・ディーナール)から500KDへと大幅に引き上げられた。予備選挙は禁止されているが、部族単位で、部族代表の選出と本投票における票割のために予備選挙が公然と行われている。選挙活動について、活動資金の規制や支出内訳報告義務は無い。屋外広告掲示については、交通の妨げにならない範囲で規制されているが、新聞広告やテレビのスポットCM出稿に規制はない。選挙活動は投票日前日の午後8時までとなっているが、実際は投票日当日にも投票所周辺で運動員や候補者本人が投票を呼びかける様子が見られる。

補欠選挙 2021年5月22日投開票

第5選挙区選出のバドル・ダーフーム議員が憲法裁判所により議員資格無効の決定を下され、マルズーク・ガーニム議長により議員資格喪失・失職を宣言されたことにより実施された。選挙は2021年4月13日に公示され、15名が立候補を届け出た。バドル・ダーフームの代理として、2012年2月議会の議員であったクウェート大学法学部教授のオベイド・ワスミーUbayd al-Wasmiが野党統一候補に推されて立候補した。野党側は、憲法と議会を弱体化させる試みに対し、民衆から拒否を突きつけようとキャンペーンを展開した。投票率が28%であったにもかかわらず、オベイド・ワスミーは投票者の約9割からクウェート議会選挙史上最多得票となる43801票を獲得して当選した。

  • 有権者数 男性84,777名 女性81,445名 計165,222名
  • 立候補者数 15名
  • 投票率 28%

第16回選挙 2020年12月5日投開票

2003年以来、(1999年議会以来)の任期満了にともなう選挙となった。2020年9月にサバーフ首長が亡くなったことによる服喪期間のため、当初の予定より1カ月ほど遅れて実施された。19名が再選、7名の元職が復帰。ムスリム同胞団の政治団体であるイスラーム立憲運動(ICM)が3議席を獲得。シーア派議員は6名が当選。女性の当選は0。

  • 有権者数 男性273,940名 女性293,754名 計567,694名
  • 立候補者数 326名(うち女性33名)
  • 投票率 69.4%

選挙の結果は、野党優位の議会構成となった。選挙後、政府の意向に従うマルズーク・ガーニムの議長再選を阻むべく、36名(途中参加を含めて38名との報道もあり)の議員が会合を持ち、新議長候補として元公共事業大臣のバドル・フマイディーBadr al-Humaidiに投票することに37名の議員が合意した。しかし、実際の議長選では両名併記の無効票が3票あり、バドル・フマイディーの得票は28票にとどまり、34票を獲得したマルズーク・ガーニムが議長に再選された。議長選でバドル・フマイディーに投票した議員は野党として結束を深めつつあり、大臣を含む総議員の絶対過半数には届かないものの、民選議員の過半数を占めているため、大臣に対する不信任決議案が提出された場合の対応で政府側が不利な状況となっている。

第15回選挙 2016年11月26日投開票

石油価格の下落に伴う緊縮財政の一環として、補助金削除とガソリン価格の引き上げを図る政府に対し、野党議員が批判を強め、財務大臣と司法大臣に辞任を求めて不信任決議案の前段階となる問責質問を求めたことで、サバーフ首長は2016年10月19日に議会を解散した(公式には安全保障上の理由として解散)。投票方式の変更(4人までの制限連記制から単記非移譲式への変更)とその手続きについて異議を唱え、2012年12月選挙と2013年7月選挙をボイコットしていた野党勢力が復帰参加したことにより、投票率が過去2回に比べ大きく上昇した。

  • 有権者数 男性230,430名 女性252,756名 計483,136名
  • 立候補者数 293名(うち女性14名)
  • 投票率 70%

選挙結果について、野党側は24議席を獲得した。ムスリム同胞団の政治団体であるイスラーム立憲運動(ICM)が4議席を獲得した。議員全体では20名が再選を果たした。シーア派議員は6名が当選。女性の当選は1名であった。有力部族の代表が議席を減らす一方、30歳で歴代最年少議員となるナセール・ドゥサリーNasir al-Dawsariをはじめ若い世代からの選出が増えた。選挙後、野党側は議長候補の調整に苦慮し、マルズーク・ガーニムが48票を獲得して2013年議会に引き続き議長に選出された。

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政党
クウェート
2021年8月30日

クウェート/政党

概要

憲法では結社の自由が認められているものの、政党法は制定されておらず、法的規定はないが、ほぼ政党としての組織と活動実態をもつ政治団体が存在している。このような政治団体は社会事項省が所管する市民団体と同列の位置づけにあり、政治活動については、集会法や出版法に基づいて規制・監督されている。議員立法による政党法の提案は市民団体の後押しもあり繰り返されているが、政府の反対もあり未だ上程されていない。政府および首長家側には、政党法の制定によって党派主義による社会の分断が進むことへの懸念や、首長の権能を制限する議院内閣制への移行につながりかねないとの警戒がみられる。政治団体の側も、政党(アラビア語でhizb)とは名乗らない背景に、バアス党のような一党独裁と結びついたイメージへの忌避感や党派主義による国内社会の分断への懸念への配慮がある。実際に、議会内で政治団体に所属している議員は少数派であり、半数以上は無所属議員である。議員はそれぞれ自らに意思決定の裁量があることに重きを置いており、有権者も選挙では議員個人の資質を重視する傾向がある。しかし、議員たちが政府に対して連携する必要性を認め、議会内で一定の勢力を示すために、政治的志向性や政策目標に応じて会派を結成する場合もある。 

現在活動する政治団体の多くは、1991年に国民議会の復活が決定されたことを受けて結成された。さらに、これらの団体の源流は、1989年に本格化した「立憲運動(Harakat al-Dusturiyah)」の経験にある。立憲運動は1985年議会の議長であったアフマド・サアドゥーンAhmad Abd al-Aziz al-Sadunを中心に元議員たちが憲法と議会の復活を要求し、国民的な民主化要求運動へと展開した。1991年以降、クウェートにおける政治文脈におけるイデオロギーや政治的目標、社会的亀裂に応じた政治団体が結成され、1999年議会から2009年議会では無所属議員も加わった会派(ブロック)という形で議員の組織化が進んでいた。2012年以降は野党の選挙ボイコットや投票方式の変更の影響もあり、議会内での議員の組織化は振り出しに戻っている。

世俗的・リベラル志向

クウェート民主フォーラムKuwait Democratic Forum(KDF)al-Minbar al-Dimuqrati

1991年に、議会参加を目指して結成された。アラブ・ナショナリズム・社会主義の影響が強い。前身は1962年議会に参加したアラブ・ナショナリズム運動(Arab Nationalist Movement/ Ḥarakat al-Qawmīyīn al-‘Arabī)および1971年に改組した民主進歩的クウェート人運動(Movement of Kuwaiti Democratic Progressives/ Ḥarakat al-Taqaddumiyīn al-Dimqurāṭiyīn al-Kuwaytiyīn) である。もともと、都市部住民や知識人層を支持基盤としていたが、バアス党に近いメンバーも加わっていたため、2002年に穏健派が離脱して、後述する国民民主同盟を結成した。

国民民主同盟National Democratic Alliance(NDA)al-Tahalf al-Watani al-Dimuqrati

KDFの左翼主義的傾向を嫌った、西欧型リベラル・デモクラシーを志向する都市部住民が2002年に結成した。伝統的な有力商人層が結成した護憲連合(下記参照)の流れをくんでおり、経済の自由化・市場化志向がみられる。

護憲連合Constitutional Alliance(CA)al-Tajammu al-Dusturi

クウェートの伝統的な有力商人層が中心となって1991年に結成した団体であり、議会発足以来の野党の伝統を受け継いでいる。前身は1980年代の国民会派(al-Kutlat al-Watani)であるが、商工会議所のメンバーが多いため、商人政党(ḥizb al-tijār)、ブルジョワ政党(ḥizb al-burjuwazīyah)とも称されていた。女性参政権の完全な実現や政党の公認化と議院内閣制(民選議員の首相任命)の実現を掲げていた。1996年選挙前に、所属のジャーセム・ハマド・サグルJasim Hamad al-Saqr議員が引退して以降は議席を持たず、組織や支持基盤は2002年に上述のNDAへ継承された。

国民行動会派National Action Bloc(NAB)Kutlat al-Amal al-Watani

 1999年議会における議員連合「7+1」、および2003年議会における「リベラル会派」を経て、2006年議会において8名の議員が党議拘束を含む合意文書に署名して発足した会派。2008年選挙で当選したNDA所属議員が中心となり、2009年議会まで存続した。

民族主義的・ポピュリズム志向

代議員会派Bloc of Deputies(BD)al-Takattul al-Nuwwab

1989年の憲政運動に加わっていた1985年議会の元議員で、1992年選挙で再選を果たした議員が、アフマド・サアドゥーンを中心に1992年議会において結成した会派。政党内閣の実現を目指していた。1990-91年のイラクによる占領中のクウェート・ナショナリズムの高揚と、イラク侵攻時、真っ先に首長家一族と有力商人が脱出を図ったことへの批判から、主に都市部住民の新興中間層および下層や一部の部族住民の支持を獲得した。経済政策をめぐって政府や有力商人層と対立しており、分配政策や外資規制、資源ナショナリズムを主張した。

人民行動会派 Popular Action Bloc(PAB)Kutlat al-Amal al-Shabi

1999年議会において、アフマド・サアドゥーンを代表に結成された会派で、労働者・都市中間層に対する分配と政治的権利の拡大を求め、首長家による石油の富の独占や外資による資源開発に強く反発する。政府とは対立関係にあり、野党連合の中心となる存在である。上述の代議員会派の流れを汲み、シーア派を含む都市部住民の新興中間層および下層や部族住民など広範な支持基盤をもつ。2006年議会以降は最多得票により当選を重ねたムサッラム・バッラークMusarram al-Barrakが中心的な存在となった。2012年12月選挙と2013年7月選挙はボイコットした。2014年にムサッラム・バッラークが首長批判により逮捕・収監されるなど、政府による弾圧を受けた。同じ2014年には政治団体として立憲人民運動Constitutional Popular Movement/ Harakat al-Shabiyah al-Dusturiyahを結成し、2021年現在も活動中である。

イスラーム主義

イスラーム立憲運動Islamic Constitutional Movement(ICM)Harakat al-Dusturiyah al-Islamiyah

クウェートのムスリム同胞団である社会改革協会Social Reform Society/ Jamiyat al-Islah al-Ijtimaiの政治活動部門として1991年に結成。ムスリム同胞団出身の議員は1963年の第1期議会から存在していた。公務員、特に学校や医療福祉関係と、石油関連事業の労働組合が主要な支持基盤となっており、都市系住民を中心としつつ、全国区で支持を獲得している。湾岸戦争を機に本家であるエジプトのムスリム同砲団とは独立した立場を採っている。段階的な社会改革により、最終的にはイスラームのシャリーアに基づく統治を掲げているが、実際の議会活動は現実主義で、他の政治団体および会派との協力に積極的であり、シーア派との関係もおおむね良好であった。政府を批判する野党の立場にありながら、メンバーが大臣として政府に加わったこともあり、後述のサラフィー主義やPABからは野党としての一貫性のなさを批判されたこともあった。2012年12月と2013年7月の選挙はボイコットしたが、2016年選挙以降は復帰し、議席を獲得している。

サラフィー・イスラーム連合Salafi Islamic Alliance(SIA)al-Tajammu al-Islami al-Salafi

上述の社会改革協会に対抗する形で結成されたサラフ主義団体であるイスラーム遺産復興協会Islamic Heritage Revival Society/ Jamiyat Ihya al-Turath al-Islamiの政治活動部門として、1991年に結成された人民イスラーム連合Popular Islamic Alliance/ al-Tajammu al-Islami al-Shabiが1994年に改称した。サラフ主義を掲げ、伝統墨守・復古主義的立場から伝統的サラフィーとも称されている。上述のICMに対抗する形で議会選挙に参加し、議席を獲得していたが、2012年12月と2013年7月選挙への参加をめぐって所属議員の対応が分かれた。もともとサラフ主義は組織化や政治参加に積極的ではないこともあり、政党については反対の立場を採っている。

発展と改革会派Development and Reform Bloc (DRB)Kutlat al-Tammiyah wa al-Islah

イスラーム主義の議員による連携を組織化すべく、2008年から結成について検討が進められ、2010年に当時唯一のICM所属議員であったジャムアーン・ハルブシュJaman al-Harbush、サラフ主義の有力な無所属議員であるフィサル・ミスリムFaisal al-Mislim、ワリード・タブタバーイーWalid al-Tabtabaiらが結成した会派で、PABとともに野党の中心的な勢力となった。2012年議会選挙では9議席(ICM所属6名を含む)を獲得した。2012年12月と2013年7月の選挙をボイコットした。2013年以降の政府の弾圧により上記3名をはじめ多くの元議員がトルコに亡命している。ワリード・タブタバーイーは2019年11月、母親の葬儀のために帰国し、政治活動を行わないことを条件に恩赦を受けた。

国民イスラーム連合National Islamic Alliance(NIA) al-Tahalf al-Islami al-Watani

シーア派のイスラーム主義団体である社会文化協会Social Culture Society/ al-Jamaiya al-Thaqafiyah al-Ijtimaiyahの 政治活動部門として、1991年に結成された。1980年代はイラン・イスラーム革命の影響を受けて、シーア派イスラーム主義勢力は首長制の打倒を訴えていた時代もあったが、湾岸戦争後は穏健化した。女性参政権には賛成の立場を採り、スンナ派イスラーム主義勢力が主張する、シャリーアに基づく統治には反対の立場である。ICMとは連携することもあったが、サラフ主義者からはクウェート・ヒズブッラーと称され、忌避されていた。2008年議会までは所属議員がPABに合流していた。

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現在の政治体制・制度
バハレーン
2021年8月30日

バハレーン/現在の政治体制・制度

概要

現在の政治体制は、2002年に制定された憲法に基づいており、国王が強い権力を持つ立憲君主制である。正式な国号はバハレーン王国Mamlakat al-Bahrain、国王malikはハマド・ビン・イーサー・アール・ハリーファHamad bin Isa Al Khalifa、皇太子は国王の長男であるサルマーン・ビン・ハマド・ビン・イーサー・アール・ハリーファSalman bin Hamad bin Isal Al Khalifaである。バハレーンは1971年に英国保護領から独立し、制憲議会選挙を経て1973年に憲法が制定され、国号はバハレーン国Dawlat al-Bahrain、君主は首長amirを称していた。同年に国民議会選挙が実施されたが、1975年の議会解散および憲法停止により首長親政となった。1999年に即位したハマド首長(現国王)は、国民行動憲章を策定して国民投票に付した。2001年2月14日・15日に実施された国民投票によって国民行動憲章が承認されたことを受け、新憲法の制定に着手し、2002年2月14日に公布した。憲法は、2011年のアラブの春による反政府デモと、その後開催された国民対話集会の答申を受け、議長の権限拡大を中心とした修正がなされ、2012年5月3日にハマド国王により修正憲法が公布された。 

立法権

立法権は、国王と議会に付与され、法律は国王の裁可を得て公布される。議会は二院制で、議員を普通選挙で選出する下院(代議院Majlis al-Nuwab)と、国王が任命する上院(諮問院Majlis al-Sura)から成る。上下両院は対等な立法権を有する。上下両院とも議員定数は40議席で任期は4年である。下院議長は下院にて選挙により選出し、上院議長は国王が任命する。

全ての法律は下院から上院への順で議決を経て成立するが、両院の議決が異なった場合は両院合同会議である国民議会Majlis al-Wataniでの議決を経て成立し、国王へ裁可のため送付される。国王による裁可が6カ月を経てもなされない場合は、国王による裁可がなされたものとみなされ、法律として公布される。国王は議会で議決により承認された法律案を再審議のため議会に返付する権限を持つ。議会に返付された法律案が総議員数の3分の2以上の賛成によって改めて議決・承認された場合、1カ月以内に国王は裁可・公布する。

国王は法律案の提出権および憲法修正案の提出権を有する。議会の休会中または解散中には法律と同等の効力を有する勅令を発することができるが、議会の再開時または新しい議会が召集された時には議会の議決による承認が必要である。議会が承認しなかった場合、勅令は発布に遡って失効する。また、内閣(閣僚評議会Majlis al-Wuzara)が提出する財政に関する法律案および緊急の審議を要求する法律案については、下院と上院でそれぞれ15日以内に議決される。両院の議決が異なる場合には、国民議会にて15日以内に議決される。この期間中に議決できなかった場合、国王はその法律案について勅令として発布できる。

下院は、大臣に対する罷免権をもつ。下院で大臣に対する問責質問istijwabが行なわれたのち、不信任決議案が下院議員の3分の2以上の賛成で議決された場合、その大臣は辞職したものとみなされる。首相に対しては不信任決議案を提出することはできないが、下院議員の3分の2以上が首相に協力できないと判断した場合、国民議会に諮られ、全議員の3分の2以上が同意した場合、議会が首相への協力を拒否したとみなされ、国王が新しい首相を任命(内閣総辞職)または下院を解散する。議会の解散権は国王のみが有する。

いずれにせよ、国王任命による上院のため、国王および政府の意向に反する下院の議決が国民議会で承認される可能性はほとんどなく、勅令が否決されることもない。国王による勅令の頻繁な発布や内閣が提出する法律案の緊急審議規定に加え、上院と下院は同じ議場で曜日を変えて本会議を開催しており、議会での審議には時間的な制約が大きい。そのため、野党は議会に実質的な権能はなく、単なる勅令の追認機関だと批判している。

行政権

行政権は、国王と内閣に付与されている。首相および大臣は議会選挙の結果とは関係なく国王が任命しており、議院内閣制ではない。首相は1971年の独立以前から現国王の叔父であるハリーファ・ビン・サルマーン・アール・ハリーファKhalifa bin Salman Al Khalifaが半世紀にわたり務めていたが、同首相が2020年11月に亡くなったのち、後任にサルマーン皇太子が任命された。閣僚の定数は特に定められていないが、サルマーン皇太子の首相任命時の閣僚数は24名で、うち8名が王族から任命されている。

司法権

司法権は国王の名において行使され、国王を議長とする最高司法評議会が裁判官の人事を決定している。法律2002年第27号に基づき憲法裁判所が設置され、2004年より業務を開始している。憲法裁判所判事は7名でいずれも国王により任命される。

地方行政

法律2002年第17号「地方行政に関する勅令」に基づき、地方行政単位として首都県、ムハッラク県、北部県、中部県、南部県の5つの県が設置された。地方行政の所管官庁は労働地方行政都市計画省で、県知事は国王が任命する。各県にはそれぞれ地方評議会Majlis al-Baladiが設置され、各評議会の定数は下院選挙で各県に配分された小選挙区数と同数とされた。2006年の第2回下院議会選挙以来、地方評議会選挙は下院選挙と同じ小選挙区制で同じ日程で投票が行われている。地方評議会は条例などの議決権はなく、県が所管する行政や都市計画、予算についての助言と監督を行う。2014年9月の選挙区割り見直しの際に中部県が廃止され、現在は4県に再編されている。

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