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ヨルダン/政党
ヨルダンの政党制度の変化
ヨルダンの政党制度は、1950年代に基礎ができたが、主に周辺諸国に拡大するアラブ民族主義や左翼勢力は国家の枠組みを超えた影響を持ち、その影響下にある国内の各政治勢力は時としてハーシム王制そのものを反動的体制として批判・攻撃の対象とした。このため、国王は政党活動を1957年以降禁止し、1992年までヨルダンを戒厳令下に置いた。政党活動が盛んな1950年代には、バース党やナーセル主義の影響力を受けたアラブ民族主義政党が影響力を持ち、それに対するカウンターバランスとしてハーシム王制はムスリム同胞団に依拠した。しかし、政党活動の禁止後は、イスラエルの西岸占領によって選挙も停止され、健全な政治的新陳代謝が不可能になる中で、各種職能組合が国民の意見表出機能を一部代替し、政党の機能を担った。その間、例外的に慈善団体として組織的活動を許されたヨルダンのムスリム同胞団は、社会活動における影響力拡大を政治的力にして、影響力を拡大した。
1992年の政党法は、政党設立の諸条件を規定しているが最も重要な条件として、ヨルダン以外の国の政党のメンバーであったり他の国を拠点にする政党であったりしてはならないということが規定されている。これは、1950年代の政治的経験によるものと考えられる。この規定により、シリアやエジプトやパレスチナとのつながりの深い政党は、党のヨルダン化を行わなければならなかった。1989年の第11期議会の選挙の時点では、政党が認められていなかったが、注目される政治的潮流としては1950年代にも見られたアラブ民族主義系、イスラーム系、左翼系の勢力で、唯一、同胞団が公認の組織としての強みを発揮する事になった。1992年の政党法以降は、上記傾向の諸政党が設立され、ムスリム同胞団も新政党法に合致するようにイスラーム行動戦線(IAF)を設立した(ムスリム同胞団も福祉団体として存続)。
ヨルダンの政党制度の最大の問題は、政党に対する有権者の期待の低さに現れている。選挙において政党に基づいて投票した有権者の割合が極端に少ない事がヨルダンの民主主義の問題点を示している。野党側は、選挙制度の改変(投票方法の連記制から単記制への変更)が政党からの立候補者に不利に働いた事を指摘する。その指摘が正しかったとしても、もともとのヨルダンの政党全体に対する支持率の低さは説明できない。問題点の一つとして、各政党がイデオロギーや信仰などの抽象的問題にあまりにこだわり、国民の日常的な関心を議論の中心に据え、具体的な提案や対応を行ってこなかった事も考えられる。ヨルダン大学戦略問題研究所の世論調査では、「支持政党あり」と答えた割合が2004年に9.8%、2005年に6%、2006年に6.8%、2007年に9.7%、2008年に5%という数字しか示していない事や、「政党が(国民のためでなく)党のために働いている」と感じた市民が、上記年にそれぞれ49.1%、53.3%、58.7%、61.5%、59%という数字に上っている事が問題の一端を示している。
2016年の総選挙における政党(登録数40)からの立候補者は、1252人中215人であり、候補者の17%に相当する。これは結果的に2013年に採用され2016年に廃止された全国区の「政党枠」の全議席に対する代表率18%に近い数字である。そして選挙の結果、40名が政党からの立候補により当選した。形式的には近年では最も政党による当選者が拡大した。しかし内実は、イスラーム系22議席、左派民族主義2議席、その他は保守派政党からの当選者であった。2020年の総選挙では、41政党から389名の立候補があり、政党からの立候補者は増えたものの当選者は、イスラーム系10議席、その他2議席、党友としての当選者は6議席(政治傾向は不明)であった。なお、2016年の政党参加の背景として、参加政党には経済的な誘因が作用したことも考えられる。たとえば、3つの選挙区に6人の候補者を立てた政党は2万JD(約2万8千ドル)の助成金を獲得し、さらに女性候補者や35歳以下の若手候補者を立てると15%の増額が認められることになっていた。全投票数の1%を得た政党にはさらに助成金が交付されることになっていた。保守派政党の内実はほとんどが特定の影響力のある政治家が中心となり運営されており特記すべき政策は見られない。なお政党に関心を持たない有権者に関しては、部族や血縁関係に日常的要求実現を求めるのか、宗教組織に求めるのか、あるいは新たなNGOの機能に実現を求めるのか、無党派層の内実にも注目すべきである。
ヨルダンの主要政党
ヨルダンの主要政党はイスラーム系、左翼系、アラブ民族主義系、中道・レベラル、保守と分かれる。その中で左翼系とアラブ民族主義系の政党は(共産党を除いて)主張が重なるところも多く、時には両方の要素が混合した政党も見られる。その中でも、議会に議員を一定数送り込み、実質的に党としての活動をしているのは、IAFのみと見なされる。他方国王は、民主主義の定着の証としての政党政治の重要性を謳っており、それは2012年や2016年の選挙法にも表れている。
(a)イスラーム系
イスラーム行動戦線党
- Hizb Jabhah al-‘Amal al-Islami
- (Islamic Action Front Party)
- 1992公認
- 発起人353人
一般には、ムスリム同胞団(1947)の政治部門とされる。しかし、行動戦線側では人的交流の深さを認めつつも、あくまでも別組織であり、ムスリム同胞団出身者以外のメンバーも多いとしている。1992年ムスリム同胞団の幹部と独立イスラーム主義者によって設立会議が開かれた。発起人には、元自治環境大臣や元法相など閣僚経験者も含まれている。選挙制度(単記制)への反発から2010年の総選挙をボイコットし、また新たな制度である政党ベースの全国区の議席率が少ないことに反対し、2013年の総選挙をボイコットした。選挙に復帰した2016年の選挙では15名、2020年には10名が当選した。
イスラーム的生活の回復とシャリーアの適用、シオニストや帝国主義に対するジハードの遂行とアラブ・イスラームの復興をめざす。国民統合、民主主義とシューラーに基礎をおく体制、自由の獲得をめざす。そのために、市民のためにあらゆる政治勢力との対話を行い、ヨルダンの政治・行政・経済の腐敗を除去し、国の安定を目差す。女性・青年の権利を守る努力をする。シューラー会議は、選挙で選ばれた120人の議員(4年任期)によって半年ごとに開催され、党の方針を決め、指導部も選出する(2年ごと)。党員は教育省関係者が多い。1991年にムスリム同胞団メンバーが史上初めて閣僚入りしたが、内閣参加への反対派(ハンマーム・サイードら)と賛成派(アブドゥッラー・アカーイレら)の間の対立も生まれた。また、独立系の党員からはムスリム同胞団の党への影響力関与への批判もある。
国民会議党(Zamzam)
- Zamzam
- Jordanian National Conference Party
- 公認2016年
ザムザムは穏健イスラーム政党であり、ヨルダンのムスリム同胞団を離脱したメンバー(レイル・ガラーイバが発起人)により構成される。2016年総選挙では5名が当選した。メンバーは党が市民中心で、党派的でなく、包括的で真に国民的な目標を達成し、民主主義と法の支配を達成することを目指す。ガラーイバは、「われわれは既存の宗教的・エスニック的・排他的なイデオロギーから離れたコンセンサスを渇望している」と述べた。(Jordan Times,26 March 2016)
イスラーム・ワサト党
- Hizb al-Wast al-Islami
- (The Islamic Middle Party)
- 2001年公認
Muhammad Al-Qudahを指導者とし、2001年IAFから離脱した者で結成された。党首、諮問評議会、諮問評議会事務局、General Assembly, General Conference、中央委員会、中央裁判所、訴追裁判所、約400人のメンバーがいるとみられる。シャリーアを柔軟に解釈し、民主的改革と政治的多元主義を重視し、政府の権力と市民の自由のバランスを取るように求める。議会で他の世俗政党とともに国民運動ブロックを形成している。また欧米諸国と公然と協力する姿勢を示し過激主義を批判している。
(b)左翼
ヨルダン共産党
- Al-Hizb al-Shyu‘ii al-’Urduni
- (Jordanian Communist Party)
- 1993年公認
- 発起人70人
イスラエルの成立後も西岸で活動を続けたパレスチナ解放運動組織の連合により、1951年ヨルダンに創設された。アラブ各国の大学で学ぶヨルダン人を中心に構成されていた。1950年代には「反共法」に基づき、治安当局からの取締りを受けた。秘密に発行される機関紙「ジャマーヒール(大衆)」紙により党員の連絡を保つ一方、労働組合・女性組織・学生組織・青年組織などの中で影響力維持を図った。共産党はその後、分裂も経験した。1980年代初めには、西岸のパレスチナ人共産主義者が離脱し、「パレスチナ共産党」を宣言した。また80年代初めに、ヤコブ・ズィヤッディーンが書記長に選出されると、古くからの党員で幹部のイーサー・マダナートが党を割った。社会主義圏の崩壊にもかかわらず、党は原則を主張しつづけている。労働組合などでの量的影響力は低下しているが、一般的な尊敬を引き続き集めているとも言われる。IMFの構造調整に反対し、イスラエルとの和平条約に反対を表明し、また協定後はイスラエルへの門戸開放に抵抗し、アラブ諸国間の協力関係強化を主張している。 現在議席は持っていない。
(c)アラブ民族主義
アラブ・バース進歩党
- Hizb al-Ba‘ath al-‘Arabi al-Taqaddumi
- (The Arab Ba‘ath Progressive Party)
- 1993年公認
- 党員約200人
シリア・バース党系。法と憲法による統治とともに民主主義の拡大を追求している。人民の意思の支配を払しょくし、人民のための政治的・経済的利益の達成を求める。一神教の信仰と民族的遺産の尊重とアラブ民族の統一を尊重する。国内制度の安定とアラブの経済的統合の達成を目指す。政党としては規模が小さいが、書記長であるフアド・ダッブールの外交問題に関する発言がメディアで取り上げられることが多く党の知名度を上げることに貢献している。 ライバルであるイラク・バース党系のヨルダン・アラブ・バース社会主義党より規模が小さいとみられる。
ヨルダン人民民主党
- Hizb al-Sha‘ab al-Dimqrati al-’Urdni (Hashd)
- (Jordanian People’s Democratic Party)
- 1993年公認
- 発起人100人
1989年、DFLPがヨルダン内に自立性を持つ政党を作る方針を出したことにより、設立された。1993年DFLPメンバー・労働組合員・職能組合員・女性運動家・青年組織・知識人などからなる創設機関が作られ、1989年の総選挙では1人当選者を出した。週刊の党機関紙「アルアハーリー」がある。1970年代から80年代にかけてはパレスチナ人が党の基盤となったが、1991年と1994年に党は分裂し、影響力を弱めた。2010年の選挙では女性枠で事務局長のアブラ・アブー・オルベ(アンマン第1区)が当選し、1994年以降初めての議員となるとともに、第16期議会の唯一の野党議員となった。その後の議会では当選者は出ていない。
(d)左翼+アラブ民族主義
ヨルダン民主左翼党
- Al-Hizb al-Yasar al-Dimuqrati
- (Jordanian Democratic Leftist Party)
- 1994年公認
1997年、ヨルダン民主統一党 Al-Hizb al-Dimqrati al-Wahdawi (The Jordanian Democratic Unitary Party)より改称した。左翼とアラブ民族主義諸派の連合で構成されている。党側は自らを左翼政党ではなく、民主主義政党としているが、むしろ革新的左翼の主張に近い。以下の政党及び政治グループから成る。
(i)社会民主党Al-Hizb al-Dimuqrati al-Ishtiraki
イーサー・マダナートが率いる。ヨルダン共産党から、スターリン主義的傾向を持つ党の方針に反対し、民主主義やアラブや世界との交流を主張し、離脱した。第12期下院に1人当選した。
(ii)ヨルダン民主アラブ党 Al-Hizb al-‘Arabi al-Dimqurati al-’Urduni
マーゼン・サーキトMazin al-Sakit が率いる。バアス主義者、共産党員、パレスチナ政治グループの多様な派の集まり。アラブ民族主義・ヨルダン国民主義・社会主義・穏健な自由主義などの混合が見られる。
(iii)ヨルダン民主進歩党 Al-Hizb al-Taqaddumi al-Dimqurati al-’Urduni
ヨルダン人民民主党(Hashd)から分離した勢力によるもの。1991年にDFLPを脱退したヤーセル・アブドラッボ派に近く、「刷新と民主主義」をスローガンとしている。
(iv)ヨルダン人民民主党民主派Al-Taiyar al-Dimuqrati fi Hizb al-Sha‘ab al-Dimqrati al-’Urduni (Hashd)
1994年ヨルダン人民民主党(Hashd)から分離した。同党のバッサーム・ハッダーディーン Bassam Haddadinは89年と93年の選挙で下院議員に当選以降、6期にわたって議員を務め、議会・政治開発担当大臣(2012‐13)をつとめた。
(e)中道・リベラル
未来党
- Hizb al-Mustaqbal
- (Future Party)
- 1992年公認
1980年代に内務相などを務めたスレイマン・アラール Sulaiman ‘Ararが中心となり、1992年中道の政党としては初めて登録した。スレイマン・アラールはまた、1989年から90年11期下院の議長を務めている。ヨルダン国民主義とアラブ民族主義の中間の政治方針を持っているが、政府の金融政策とイスラエルとの政治経済的な平和の構築を支持した。しかし、最近の民主化や選挙法改正に関する政府批判に同調し、1997年選挙はボイコットした。1989年の第11期議会には3人、1993年の第12期議会には1名議員を当選させている。結党当初から発行されていた機関紙は、発行停止になった。
(f)保守
国民潮流党
- Hizb al-Tayar al-Watani
- (National Current Party)
- 2009年公認
党の基本的方針としては、国民的統一、政治的忠誠心、公正、節度、寛容の価値の推進、市民の参加の拡大、法の統治の構築、政治改革によるガバナンスの強化、そのための法による自由や市民の保護と政府による安全や政策の展開との調和を掲げている。第16期議会選挙では、マジャーリー指揮下に国民潮流党の名のもとに、8名、第17期選挙では1人、第18期選挙では4人当選している。政党の形をとっているが、部族的背景で当選した者も多く、保守派と無党派の境界領域にあるもの、とみなすこともできる。
国民連合党
- Hizb al-Ittihad al-Watani
- (The Jordanian National Union party)
- 2011年公認
組織:総会、議長、事務局長、事務局、経済局、会計局、専門局(議会、政党、選挙、人権、女性等) 政党、選挙等に関する政治関係法への市民の関心を喚起することを目的とする。民主主義推進のための適切な環境を整備する。各種会議への参加を通して、ヨルダンのアラブ諸国や域内、国際社会での役割を強化する。表現の自由、集会、平和的デモの権利を確立しそれへの障害を取り除く。憲法の原則を維持し、それに反する法律や規定を排除する。法の統治を確立する。第18期選挙では、7名の当選者をだした。
インドネシア/政党
総選挙に参加できる政党は全国規模の組織を有する必要がある。政党法に定められた要件を満たした法人として法務・人権省に登録した上で、2012年改正の政党法ではすべて州に支部を設置し、その州内の4分の3以上の県・市に支部を設置することなどが義務づけられている。2004年総選挙では24政党、2009年総選挙では38政党が参加した。2009年総選挙より、歴史的経緯からナングロ・アチェ・ダルサラーム州に限り地方政党の選挙参加が認められた。2014年総選挙では12政党が参加、10政党が議席獲得、直近の2019年総選挙では20政党が参加、9政党が議席を獲得した。得票率および議会占有率が2割を超える政党はない、多党化傾向が常態化している。
2008年の選挙法改正では代表阻止条項が規定する最低得票率が従来の1.5%から2.5%、2012年には3.5%に引き上げられ、小規模政党は一層不利になった。従来の制度では最低得票率に満たない政党は次回の総選挙への参加を禁じられていたが政党名を変えるだけで済み、多党化を防ぐ実質的な効果はなかった。2009年総選挙に際しては得票率2.5%以下の政党は議席も配分されなくなった。この結果、1999年総選挙から参加を続けていた月星党は国会で議席を失った。2019年総選挙では最低得票率が4%にまで引き上げられ、2009、14年選挙で議席を持っていたハヌラ党が国会から消えた。
インドネシアの政党は大きく世俗ナショナリスト系とイスラーム系に区分されてきた。1955年総選挙では国民党と共産党、マシュミ党とNU党が四大政党を形成した。こうした区分は依然として有効であるものの、両者の境界はかなり曖昧になっている。ナショナリスト系政党は敬虔さをアピールし、イスラーム系政党は国家や社会のイスラーム化よりも反汚職や大衆の福祉などを訴えるようになった。第一次ジョコ・ウィドド(以下ジョコウィ)政権では、闘争民主党、ゴルカル党、民族覚醒党、開発統一党、国民民主(ナスデム)党、ハヌラ党が与党連合、グリンドラ党、福祉正義党が野党連合を組んでいる。野党連合は在野のイスラーム急進派を取り込み、政権批判を強めたが、与党連合にもイスラーム系政党(民族覚醒党、開発統一党)が含まれる。
2019年総選挙は、大統領への支持をめぐる与野党の対立が、社会の「分極化」といわれるほど高まるなか、大統領選挙と初めて同日に行われた。ジョコウィ、プラボウォを担いだ闘争民主党とグリンドラ党がそれぞれ票を伸ばしたが、いずれも2割には届かなかった(グリンドラ党はゴルカル党に次ぐ第3党)。大統領選挙の結果が確定すると、両陣営は早々に和解し、グリンドラ党も第二次ジョコウィ政権の連立に加わった。明確な野党は福祉正義党のみになった。
2019年選挙の結果国会に議席を獲得したのは以下の9政党である。このうち民主主義者党は2004年、グリンドラ党は2009年、国民民主党は2014年に国政選挙に初参加した。
闘争民主党(Partai Demokrasi Indonesia Perjuangan, 略称PDI-P)
スハルト時代の野党インドネシア民主党(PDI)を前身とする。インドネシア民主党は1973年の「政党簡素化」によって、世俗ナショナリスト系やキリスト教系の諸政党が統合されたものである。1997年総選挙に際し、影響力を強めつつあったスカルノ初代大統領の娘メガワティが体制側の介入によって党首の座を解任された。闘争民主党はこのメガワティを中心とした分派によって結党された。1999年総選挙では第1党になり、2001年のワヒド大統領罷免を受けてメガワティが大統領に就任した。しかし、メガワティの大統領としての資質、同党の未熟な議員による汚職事件や私兵組織による廃退行為が失望や反発を生み、2004年総選挙では大幅に得票を減らした。メガワティは2004年、2009年の大統領選挙に出馬したが、いずれもユドヨノに敗れている。メガワティが後継者として期待する娘のプアン・マハラニは、2019年選出の国会で議長となった。
ジョコウィを大統領候補に戦った2014年総選挙では第1党に復帰、2019年選挙でも第1党を維持した。なお、ジョコウィは当初から党員ではなく、大統領と闘争民主党の間にはつねに緊張感がある。2024年の大統領選候補としては、プアンと中ジャワ州知事のガンジャル・プラノウォが争っている状況であるが、ジョコウィの3選論も根強い。
ゴルカル党(Partai Golongan Karya, 略称Golkar)
1964年にインドネシア共産党に対抗して設立され、スハルト時代には翼賛組織として独占的な「与党」となったゴルカル(職能集団)は民主化後、「党(Partai)」を組織名に加えて再出発した。2009年総選挙まで毎回得票を減らしたが、地方まで浸透する最も安定的な党組織と支持層を維持している。非ムスリムの国会議員もつねに1~2割は存在するが、とりわけジャワ以外ではスハルト体制期の長年の支配によって、イスラーム組織関係者も党内に多く抱える。ユスフ・カラの大統領選敗北後、2009年10月に実業家で前国民福祉担当調整相のアブリザル・バクリが党首に選出された。2014年大統領選挙では、ジョコ・ウィドドの副大統領候補となったユスフ・カラではなく、プラボウォ組を支持、野党連合に加わった。ジョコウィ政権発足後、ゴルカル党は政権支持をめぐって分裂したが、結局与党連合に加わった。近年は闘争民主党への依存を減らしたいジョコウィとの接近が顕著である。前党首の汚職事件での逮捕を経て、2017年末から党首の座にあるアイルランガ・ハルタルトは、第一次ジョコウィ政権の途中から産業大臣に、第二次政権では経済部門の調整大臣の要職に就いている。
グリンドラ党(Partai Gerakan Indonesia Raya[大インドネシア運動党] , 略称Gerindra)
2007年結成の農民漁民党を前身とする。大統領選挙出馬を目指していたスハルトの娘婿で元陸軍戦略予備司令官のプラボウォが加わって、2008年4月に現在の党名に変更された。豊富な資金力を背景にテレビCMを大規模に展開して有権者への浸透を図った。そこで売り出したのは庶民の味方というポピュリスト的なイメージであり、かつてのプラボウォによる人権侵害への批判や強権的なイメージを払拭しようとした。プラボウォは2009年大統領選挙ではメガワティの副大統領候補として立候補したが、第1回投票で敗れた。2014年総選挙では、イメージ戦略に加え、前選挙で議席を得られなかった小政党を吸収して勢力を拡大、退役軍人のネットワークを活用、各地で地方有力者を取り込んで全選挙区で一議席を確保して第三党に躍進した。第一次ジョコウィ政権を通して、福祉正義党と共に野党連合として政権との対立姿勢を明確にしたが、2019年10月発足の第二次ジョコウィ政権では与党に加わり、プラボウォは国防相に就任した。
プラボウォが政権入りする一方で、副党首のファドリ・ゾンは政権批判を続けている。2024年大統領選では、プラボウォがまた出馬するのか否かが注目される。ジャカルタ州知事のアニス・バスウェダンも有力候補の一人である。
民主主義者党(Partai Demokrat, 略称PD)
2004年総選挙に際して、スシロ・バンバン・ユドヨノを大統領に擁立すべく設立された政党。ユドヨノの人気によって2009年には第1党に成長したが、既存の大政党に比較して党組織は脆弱でとりわけ地方の人材が不足しているといわれる。2009年選挙のスローガンは「宗教的ナショナリズム」であり、ユドヨノ大統領自身とともに、「穏健だが、宗教的」なイメージを売り込んだ。2009年選挙で当選した同党国会議員の6割以上が経済界出身者であった。2014年総選挙では、次世代のリーダーと目された指導者たちの汚職容疑による逮捕、ユドヨノの人気凋落とともに党勢を半減させた。2019年総選挙でもさらに支持を減らしている。なお2019年大統領選では最終的にプラボウォ側に付いたものの、選挙後はすぐにジョコウィ政権と連立交渉を行なった。しかし、ユドヨノが自身の後継者として期待を寄せる息子のアグス・ユドヨノの入閣は叶わなかった。
2021年3月には、ジョコウィ政権の大統領首席補佐官であるムルドコ元国軍司令官がクーデターを仕掛け、党首就任を宣言した。この策謀は失敗に終わったが、アグスのリーダーシップと党組織の脆弱性を印象付けた。
民族覚醒党(Partai Kebangkitan Bangsa, 略称PKB)
最大のイスラーム団体ナフダトゥル・ウラマー(NU)を支持母体とする政党。NUの元議長で2000年に大統領となったアブドゥルラフマン・ワヒドのイニシアティブによって結党された。イスラーム団体を基盤としながらも、「民族」を掲げて国民政党を目指した。「覚醒」(kebangkitan)はNUの「ナフダトゥル」(アラビア語で覚醒)を想起させるインドネシア語、ロゴマークもNUに類似している。NUのプサントレン(イスラーム寄宿学校)指導者の影響力が強い東ジャワ州と中ジャワ州に支持者が多い。「改革派」として期待された1999年総選挙では12.6%を獲得したが、内紛を繰り返し、勢力を弱めた。2009年総選挙に際しては、ワヒド派とムハイミン・イスカンダール(現党首)派との分裂が法廷闘争に持ち込まれ、正当性を認められなかったワヒド派は選挙をボイコットするに至った。2014年総選挙では分裂状態を解消して党勢を回復、2019年総選挙でも票を伸ばしたが、得票率10%に届いていない。2014、2019年大統領選挙ではジョコウィを支持し、連立与党の一角を占めている。とくに2019年はジョコウィが、副大統領候補にNU総裁のマアルフ・アミンを立てたため、民族覚醒党もジョコウィの当選に尽力した。
2005年から党首を務めるムハイミンが党内を掌握してきたが、2021年4月にはワヒドの娘イェニー・ワヒドを担ぐ動きがあることが明らかになった。
国民信託党(Partai Amanat Nasitional, 略称PAN)
NUに次ぐイスラーム団体ムハマディヤの元会長で1998年の民主化運動の指導者の一人アミン・ライスを中心に設立された政党。ロゴマークはムハマディヤのマークに類似しているが、「国民」を掲げ、結党当初はキリスト教徒も幹部に迎えた。総選挙では都市部を中心につねに得票率6〜7%台の安定的な支持を受けている。アミン・ライスは2004年大統領選挙に立候補したが、第1回投票で敗れた。ビジネス出身の現党首ハッタ・ラジャサは、2009年大統領選挙ではいち早く再選を目指すユドヨノを支持し、第二次ユドヨノ政権の経済担当調整大臣を務めた。ハッタ・ラジャサは2014年大統領選挙ではプラボウォの副大統領候補になったが、接戦の上、敗退した。ジョコ・ウィドド政権発足後、一時は与党連合入りを表明して大臣職も得たが、野党連合とも近い関係を維持、2019年大統領選ではプラボウォを支持した。選挙後はやはりジョコウィ政権に接近したものの態度ははっきりしていない。2021年8月現在、次期大統領選に向けた動向が活発化するなかで、正式な連立政権への加入と大臣職の配分が取り沙汰されている。
福祉正義党(Partai Keadilan Sejahtera, 略称PKS)
ムスリム同胞団をモデルとした大学キャンパスにおける宣教運動が発展して1998年に政党となった。正義党として結成されたが1999年総選挙で代表阻止条項の最低得票率(1.5%)を下回ったため、2004年総選挙前に福祉正義党が新たに結党された。2004年総選挙では、既存政党への不信感を背景に清廉潔白なイメージを売る福祉正義党への期待が高まり、都市部で躍進、ジャカルタ特別州では約23%を得票して第1党になった。2009年総選挙は微増、2014年総選挙では初めて得票率を減らした。そのイデオロギー的背景と組織的性格から、排他的との批判を受ける一方で、2004年以降は日和見主義的との評価もなされるようになった。10年間のユドヨノ体制下では3つの大臣ポストを維持した。とりわけ2005年に地方首長選挙が有権者の直接投票となると、多数派工作のためにあらゆる政党と連立を組んだ。2010年7月には「開かれた政党」となることを宣言し、さらに現実主義を強めている。しかし2013年には当時の党首が汚職で逮捕され、大きなイメージダウンになった。2014年大統領選挙では、プラボウォ陣営に付き、ジョコ・ウィドド体制下では下野した。2019年大統領選でもプラボウォを支持、第2次ジョコウィ政権では唯一明確な野党となった。
2015年8月に指導体制を一新し、ソヒブル・イマンが党首、サリム・セガフ・ジュフリが宗教評議会議長に就任した。ソヒブル・イマンは学部から博士課程まで日本で教育を受けている。他方のサリム・セガフはサウディアラビアのマディナ大学で博士号を得ている。理系と宗教エリートという福祉正義党特有の組み合わせである。2020年10月には、地方議会からの叩き上げであるアフマド・シャイフが党首に就任した。
国民民主党(Partai NasDem, 略称NasDem)
元ゴルカル党政治家でテレビ局MetroTVなどを所有するスルヤ・パロが2011年7月に設立した政党。2014年総選挙では唯一新党として参加が認められ、得票率6.7%の支持を得た。同年の大統領選挙ではいち早くジョコ・ウィドドへの支持を表明し、MetroTVも活用して当選に貢献した。内閣などの戦略的ポストに複数の党員を配置している。ジョコ・ウィドドの再選も一貫して支持、地方首長選挙でも大衆的人気が高い候補の擁立に貢献する戦略で、小党にも関わらず大きな影響力を持ってきた。2019年総選挙ではやはり効果的な候補者擁立で9%まで得票を伸ばした。
開発統一党(Partai Persatuan dan Pembangnan, 略称PPP)
スハルト時代の1973年に「政党簡素化」によって、イスラーム諸政党を統合して結成された。「開発」と「統一」という体制イデオロギーを政党名に背負わされ、また度重なる体制側の介入と内紛に悩まされた。他方、婚姻法の制定などイスラームに関係する議題で政府に反対して存在感を示すこともあった。1987年選挙に際しては党内最大勢力のNUが同党の公式な支持を取りやめ、得票が落ち込んだ。1998年以降、ロゴマークをカーバ神殿、党原則をイスラームに戻してイスラーム色を明確にした。NUの一部ウラマーなどから根強い支持がある。しかし、結党以来の派閥争いは解消されず、2004年選挙前に改革の星党と分裂した他、2009年大統領選挙でも候補擁立(ユドヨノかメガワティか)において二転三転した。2014年大統領選挙ではプラボウォを支持したが、ジョコウィ政権成立直前に与党連合へ加わり、二つの党執行部に分裂した。その後、政権支持側が裁判で勝ち、与党連合の一員となった。選挙直前に党首が逮捕された2019年総選挙では4.5%(前回6.5%)まで落ち込み、風前の灯である。
バングラデシュ/政党
(1)Awami League:アワミ連盟
アワミ連盟は、パキスタン分離独立後の1949年に東パキスタンにおいて結成された。アワミ連盟の創始者はマオラナ・バシャニーとH・S・スフラワルディとされているが、リーダーとして認知されているのはシェイク・ムジブル・ラフマンである。結党当初からパキスタン政府の打ち出したウルドゥー語を公用語とする政策に強く反対し、パキスタンからのバングラデシュ独立に指導的な役割を果たした。
独立後、アワミ連盟は新国家バングラデシュの舵取りを担ったが、独立戦争によって国土が荒れていた上に度重なるサイクロンや洪水の被害により国民は飢餓に苦しみ、国家を安定的に導くことができなかった。また、ムジブル・ラフマンは初代首相(後に大統領)に就任したが、次第に強権的性格を強め、1975年の青年将校による軍事クーデターによって家族数十人とともに暗殺された。後継者には、クーデター当時ヨーロッパに滞在中で難を逃れた長女のシェイク・ハシナ(現首相)が総裁に就任した。
その後、アワミ連盟は1995年の総選挙に勝利し、政権を奪取するまでの20年間、野党の立場にあった。2001年総選挙には敗れたものの、2009年、2014年、2018の選挙に勝利し、三期連続の政権党となった。
アワミ連盟はパキスタンから独立を果たす際、インドからの支援を受けた経緯から、歴史的に親インドであり、特にインド国民会議派との関係は深い。独立戦争直後は社会主義と政教分離主義を柱とするなど、明確な左派政党であったが、近年では中道左派的な政策指向に変化している。国立大学に強力な学生支持団体を持ち、ヒンドゥー教徒や少数民族にも支持基盤をもつ。
(2) Bangladesh Nationalist Party (BNP):バングラデシュ民族主義党
BNPは、1978年にジヤウル・ラフマンによって設立された。ジヤウル・ラフマンは軍人出身で、独立戦争のリーダーだったムジブル・ラフマンを積極的に支持した。1975年の軍部青年将校によるムジブル・ラフマン暗殺事件のあと、クーデターを起こして事態を収拾し、そのまま政権を担った。その後、民政移管にむけてBNPを設立したが、1981年に軍内部の対立から暗殺された。
ジヤウル・ラフマンの暗殺事件後は、妻のカレダ・ジアが総裁に就任し、現在にいたっている。BNPは1990年および2001年の国会総選挙に勝利し、カレダ・ジア総裁は過去に2度首相を経験している。
BNPは、親インドで左派的な政策を指向するアワミ連盟への対抗上、親パキスタン、親イスラームの立場をとる。2001年の選挙からイスラーム主義政党であるジャマティ・イスラミと連立を組んでいる。2014年の総選挙では選挙のプロセスをめぐり与党アワミ連盟と対立し、選挙をボイコットしたことから、BNPは国会の議席を失い、急速に政治力を低下させた。2018年の総選挙では野党連合として選挙に参加したが、連合全体でわずか7議席を獲得するにとどまった。
(3) Jatiya Party(JP):ジャティオ・パーティ
JPは、1981年に起きたジヤウル・ラフマン暗殺事件の後、戒厳令司令官として軍政を掌握したH・M・エルシャドが1986年に設立した。当時、欧米諸国の外的圧力もあり、エルシャドは民主的な総選挙をおこない国会に議席をもつことで政府の正統性を国内外に示す必要があった。その受け皿として設立されたのがJPである。1986年の総選挙では勝利したが、さまざまな選挙工作疑惑がもたれている。実質的な民主化がなされた1991年の選挙以降は第3政党となっている。
(4) Jamaat-e-Islami(JI):ジャマアテ・イスラーミー(イスラーム協会)
JIは1941年にイギリス植民地時代のインドにおいて結成された。パキスタンからバングラデシュが独立した際にBangladesh Jamaat-e-Islamiとして再結党された。イスラーム主義政党で農村部貧困層に強い支持基盤をもつ。議席数は多くないものの、過去にアワミ連盟とも、BNPとも連立政権を組んだ経験があるなど、強固な政治基盤をもとに政界に影響力を与えている。パキスタンからの独立戦争当時はパキスタン側についていたため、一時非合法政党となっていたこともある。
2009年の国民議会選挙に勝利したアワミ連盟により、独立戦争当時戦争犯罪を裁く、国際戦争犯罪裁判が設置され、JIの幹部の多くが有罪判決をうけた。2013年12月にそのうち一人が処刑されて以降、アワミ連盟とは厳しい緊張関係にあったが、2013年8月1日に党綱領が憲法および選挙法に違反するとの判決が下され、政治活動が禁止された。そのため2018年の国民議会選挙には党としての参加が認められず、一部が野党連合のもとで出馬したが全員落選した。
イラク/政党
サーイルーン(54議席)
宗教法学者ムクタダ・サドルが率いる政治潮流サドル派は、これまでにも選挙に参加し、議会や政府の一角を占めてきたが、決して政界の主流派ではなく、野党に近い立場で政権の汚職などを批判してきた。そして、2015年から2016年にかけて市民の抗議デモが広がった際にはその動員力を駆使して大きな存在感を示し、一部の閣僚をテクノクラートと交代させるまでに至った。2018年の選挙でも改革を旗印に掲げたサドル派の政党連合「サーイルーン」を率いて躍進し、2014年の獲得議席である34議席 を大幅に上回る54議席を得た。
だが、2018年のサドル派の得票数を2014年と比較すると、それほど大きく伸びたわけではなく、全国的に投票率が低迷した結果、固い支持基盤を持ち支持者を動員することができたサドル派が相対的に立場を上昇させたと見られる。なお、抵投票率に表れているように、既存政治家に対する市民の不信感はかなり高い。そうした声に敏感なムクタダは、選挙を前にしてこれまでサドル派の主要政党だったアフラール党を解党し、新党「イスティカーマ党」を立ち上げたが、この時に新党に横滑りすることができたアフラール党の現職議員はわずか3名だった。そのうちの一人が、5万5184票を集めて全国8位、女性候補者としてはトップ当選だったマージダ・タミーミ議員である。このように、勝てる候補者を絞り込み、ほとんど新顔を擁立するという戦略があたったと言える。
サーイルーンはイスティカーマ党を中心としつつも、政治改革という理念を共有する共産党など世俗政党も参加している。ただし、サーイルーンが獲得した54議席のうち、51議席がイスティカーマ党の議席である。
ファタハ連合(48議席)
ファタハ連合の母体は、対IS戦において軍事面で活躍した義勇兵組織、人民動員部隊である。シーア派民兵の中でもイランとの関係が深いグループが多い。ファタハ連合には18政党が参加している。政党法では政党が武装組織を持つことは禁じられており、多くが武装組織とは異なる名称の政党名を冠しているが実態は同じと見られている。
ファタハ連合が得た48議席の内訳を見ると、まず、代表のハーディ・アーミリ司令官率いるバドル組織が21議席を占めて強さを見せた。ただし、2014年の選挙においても、バドル組織はマーリキ首相(当時)率いる法治国家連合に参加して22議席を得ていたため、それを比べると1議席減である。次に、AAH(アサーイブ・アフルルハック)の政治組織「サーディクーン」がバグダードと南部で幅広く得票して15議席を得た。2014年の選挙でのサーディクーンの議席が1であったことからすると、大きな躍進である。また、人民動員部隊の報道官だったアフマド・アサディ率いる「イマームの兵士旅団」が「イラクにおけるイスラーム潮流」の政党名で2議席を獲得した。
なお、これまでシーア派主要政党の一つであった「イラク・イスラーム最高評議会(ISCI)」は、党首のアンマール・ハキームが新党「ヒクマ潮流」を形成して離党したことで壊滅的な打撃を受け、今回の選挙ではわずか2議席の獲得にとどまった。ファタハ連合内では、この他、7党がそれぞれ1~2議席を得た。
人民動員部隊は、対IS戦を機に中西部も含めてシーア派住民地域以外にも展開するようになった。2018年の選挙では、彼らが傘下に置く部族ハシュドと呼ばれるスンナ派の自警団的な武装組織が、ファタハ連合の集票に寄与する可能性が注目されていたが、サラーハッディーン県で人民動員部隊の第51旅団を率いるヤズン・ジュブーリなど、主だったスンナ派民兵候補者は落選した。したがって、ファタハ連合の集票は総じて、バドル組織やAAHなどの中心勢力のシーア派コミュニティ内部での動員力に負っていると言える。
勝利連合(42議席)
アバーディ首相はダアワ党所属だが、党首のマーリキとの折り合いが悪く、2018年の選挙にはダアワ党は党として特定の政党連合に所属せず、党員は各々個別の政党連合に所属して出馬することになった。アバーディ首相が率いた政党連合が「勝利連合」である。過去4年間近く、イラク軍を率いて対IS戦の中心人物となってきたことから選挙での勝利が予想されていたが、選挙では投票率が低迷し、市民の支持を得票に繋げられなかった。特に票田であるはずのバグダードや南部において、組織力を持つサーイルーンやファタハ連合に水をあけられたことで伸び悩んだ。加えて、アバーディ首相が所属するダアワ党は前任のマーリキ、ジャァファリと合わせて、2005年以降常に首相を輩出しイラク政界の中心にいたことで、既存のエスタブリッシュメント政治への逆風を受けた。バスラ、マイサーン、ナジャフ、ディーカールの各県の勝利連合立候補者リストのトップはいずれもダアワ党現職議員が占めていたが、4名とも落選した。むしろ当選したのは、ジャッバール・ルアイビ石油相、アドナーン・ズルフィ元ナジャフ県知事、スハーム・アカイリ・マイサーン県議会議員など、非ダアワ党員の方だった。
他方、勝利連合はバグダード、南部9県、ディヤーラ県で合計約84万票を得票する一方、シーア派住民が少ないその他4県(アンバール、サラーハッディーン、キルクーク、ニナワ)でも約29万票を獲得している。この29万票という数字は、他のシーア派主要政党の中では抜きん出て多く、スンナ派の各党や世俗政党連合ワタニーヤも凌いだ。ニナワ県のトップ当選者は勝利連合から立候補したスンナ派のハーリド・オベイディ元国防相であり、サラーハッディーン県でもアンマール・ユースィフ元県議会議長が1万票を集めて当選した。
KDP(クルディスタン民主党、25議席)
クルド民族主義政党で、エルビルやドホークなどを地盤とする。KDPが主導して2017年10月に実施されたクルディスタン地域の独立を問う住民投票が、国内外からの反発を受けて結果的に失敗に終わったことで、マスード・バルザーニは自治政府大統領の職を辞したが、今もKDP党首の座にとどまっている。政界におけるKDPのライバルかつパートナーであるPUKが、2000年代半ばから党内の分裂を食い止められず党勢が衰退していることをうけて、KDPは自治政府の要職を独占するなど、事実上、自治区はKDPの一党支配体制になりつつある。
自治区内では、2010年代半ばから原油価格下落や対IS戦の影響、イラク政府との間の予算配分問題などによって経済状況が極めて悪化しており、独立住民投票の失敗もあって、2018年の選挙では、与党であるKDPは議席を減らす可能性が指摘されていた。しかし、結果は2014年と同じ25議席を維持し、安定的な力を見せた。その背景には、特にドホーク県とエルビル県ではバルザーニ家への支持者の忠誠心や、強固に張り巡らされた党のパトロン・ネットワークの存在があるとみられる。
ワタニーヤ(21議席)
アッラーウィ副大統領率いる世俗政党だが、2018年の選挙ではサリーム・ジュブーリ国会議長率いる「改革のための市民集会」、サーレハ・ムトゥラク元副首相率いる「国民対話戦線」など、複数のスンナ派政党を取り込んで参戦した。それでも、獲得議席数は21議席と2014年と変わらず、ジュブーリ国会議長も落選した。アッラーウィ自身の個人得票数も2014年の23万票から今回は2.8万票へと激減しており、影響力の低下は免れないだろう。
ヒクマ潮流(19議席)
ISCI(イラク・イスラーム最高評議会)党首のアンマール・ハキームが2017年7 月に立ち上げた新党。ハキームは新党を若者、女性のための党で、近代的で、イラク社会の全てに開かれた党だとしている。結成時に30名強のISCI 議員のうち、20 名が新党に移ったとみられている。
ISCI の前身のSCIRI(イラク・イスラーム革命最高評議会)は1982 年にイランで当時の反体制派を集めて、サイイド・ムハンマド・バーキル・ハキームの下で形成された(ムハ ンマド・バーキルは、1970 年に亡くなった大アーヤトッラ、ムフスィン・ハキームの息子)。 その後、分裂してSCIRI は反対派のグループの一つになり、イラク戦争後にイラクに帰国した。バーキル・ハキームは2003 年8 月のテロ事件で死亡し、兄弟のアブドゥル・アジーズ・ハキームが跡を継いだ後、ISCIに改称。2009 年にアブドゥル・アジーズ・ハキームが病死すると、その息子であり創設者の甥であるアンマール・ハキームが党首に就いた。アンマールは古参幹部よりも遥かに若く、さらに若手登用で幹部は不満を持つようになったと言われている。
2018年の総選挙ではISCIの獲得議席が2議席にとどまる一方、ヒクマ潮流は19議席を獲得した。ISCIがその支持の多くをハキーム家の威光に負っていたこと、アンマールがISCI のテレビ局や外郭団体などを連れて出たことなどが影響したとみられる。
PUK(クルディスタン愛国同盟、18議席)
スレイマニヤ県やキルクーク県を地盤とする。党の創設者であり長年党首を務めていたジャラール・タラバーニが2017年10月に死去したが、党内の分裂が激しく新党首を選出できていない。
2018年選挙では、幹部の一人バルハム・サーレハ元自治政府首相が離党し、新党CDJ(民主正義連合)を結成しており、他にもスレイマニヤを中心に新党が立ち上がっていたことや、経済危機に対する市民の不満が既存政党に向かう可能性から、2018年の選挙にあたっては、PUKはかなり議席を減らすことになるのではと憶測されていた。しかし、結果は18議席と3議席減にとどまった。
それに対してキルクーク県のアラブ政党やトルコマン政党、スレイマニヤ県のクルド政党が選挙不正の疑いを申し立て、選挙結果が紛糾する主要因となった。ただし、手作業による一部再集計を経ても、PUKの議席数は変わらなかった。仮に大規模な不正がなかったとするならば、PUKの善戦の理由として、タラバーニ家の威光を前面に押し出した選挙キャンペーン、投票率が低迷する中でのPUK支持者の動員、2006年にPUKから分裂して誕生した野党ゴランの失敗への市民の失望などが考えられる。
イラクの決定連合(14議席)
スンナ派政党は、スンナ派住民が多いバグダードと中部5県を中心に出馬しているものの、いずれも党としての歴史が浅く組織力も弱い。そのため、選挙のために県ごとに様々な政党連合が組まれ、入れ替わりも激しい。2018年選挙ではヌジャイフィ副大統領を代表として「イラクの決定連合」が形成され、政党連合としては14議席を得た。しかし、ヌジャイフィ自身が党首であるムッタヒドゥーンは、2014年の選挙では27議席を得てスンナ派政党の代表格となったものの、2018年は別の政党連合に参加して得た議席を合わせても3議席に過ぎず、大きく失速した。ニナワ県でのヌジャイフィの個人得票数も1万票強で、7万票以上を得たオベイディ元国防相(勝利連合から立候補)に大きく引き離された。
他のスンナ派政党についても、ジャマール・カルブーリ率いるハッル党、ハミース・ハンジャル率いるアラブ計画などが、複数の政党連合に参加して議席を得たが、いずれも一桁に留まっている。
イエメン/政党
1990年南北イエメン統一において、1981年に南北イエメン統一憲法合同委員会(77年南北国境衝突の停戦協定であるクウェート協定に基づき設立)が作成した統一憲法案が、そのままイエメン共和国の憲法案に採用された。イエメン共和国議会はこの憲法案を承認し、さらに同憲法第39条に規定された「政治団体の自由」を複数政党制の承認と解釈して、その導入を決定した。これにより政府は、統一と同時に複数政党制による総選挙実施を公約として発表した。議会で承認された憲法案は、翌91年5月に国民投票で承認されて正式に発布・施行され、同じ年に政党・政治団体法(91年第66号法)も公布された。
政党・政治団体法では、政党・政治団体の結成の自由が明記されているが、それはイスラーム、イエメンの統一、旧南北イエメン革命および統一憲法の理念、政治的自由及び人権の尊重、アラブ民族の精神に合致するものとされている。また、特定の地域、言語、宗教などを基盤としてはならないとも規定されている。このほか、政党の結成手続きやその役員構成・会計などが規定され、政党・政治団体の認可・解散等を決定する政党・政治団体委員会(議会担当相を委員長とし、内務相、司法相などを委員とする)の設置およびその職務も規定されている。
法律上、政党の非認可および政党への解散命令は可能だが、現在までそのような例はない。たとえば、「イスラームに合致するもの」という規定と左派政党との関係、「特定の宗教を基盤としてはならない」という規定とイスラーム政党との関係、「特定の地域を基盤としてはならない」という規定と北部山岳地域を基盤とするザイド派イスラーム政党(エスニック政党)との関係などに問題の可能性はあるものの、これまで議論の対象となった形跡はなく、申請を行なった政党はすべて認可されている。また、1994年内戦で党幹部が旧南イエメン分離独立派に合流した諸政党(YSP、ナセル矯正、イエメン民族同盟)も、解散命令を受けていない。
2011年のサーレハ大統領辞任、2012年のハーディー大統領就任のあと、2013年3月から新憲法制定のための基本方針を決める包括的国民対話会議が始まった。包括的国民対話会議は2014年1月、連邦制導入などの方針を決定して閉幕したが、その後ハーディー政権は憲法案作成を行なわず、さらに翌2015年1月のホーシー派による「革命委員会」設置および3月以降の内戦により、政党政治は機能していない。
主要政党
国民全体会議(GPC)
イエメン・アラブ共和国(1990年南北イエメン統一以前の北イエメン)において、1982年にアリー・アブドッラー・サーレハ大統領により設立された同名の大政翼賛団体(各地方・職業団体からの選出700名、政府任命300名)を母体とする政党。統一以前の北イエメンでは政党が禁止されていたため、唯一の公認政治団体(実質的な単独支配政党)として、当時停止されていた議会の役割を果しながら、総選挙を準備する組織として位置づけられた。
統一後の政党・政治団体法施行に際し、政党申請を行なって一般から党員を募集する通常の政党となった(党首はサーレハ大統領)。もともと、アラブ民族主義を基調としながら、国内のさまざまな勢力や政治思想を包含する組織であったが、複数政党制の導入より左派(ナセル主義、バアス主義)や保守派が分離して新党を結成し、大政翼賛的な性格は失った。その後は、アラブ民族主義や革命理念の継承を掲げながらも、サーレハ政権を支持し、脱イデオロギー化のなかで国民経済の発展を優先する現実主義・実務志向の政党となっている。
1993年総選挙(定数301議席)で122議席(イスラーハ、YSPと三党連立内閣、1994年内戦後はイスラーハとの二党連立内閣)、1997年総選挙(単独内閣)で187議席、2003年総選挙で229議席(単独内閣)を獲得し、すべての総選挙で第一党となっている。また、2001年と2006年の地方選挙でも圧勝している。
1995年に構造調整を受け入れて以降、マクロ経済の安定・拡大と補助金削減や財政再建などによる国民生活の負担増大との間で、政局の運営を続けている。生活基礎物資の価格上昇のたびにデモ・暴動が発生し、政府への強い不満・批判が噴出するものの、選挙では支持を拡大し続けていた。
イエメン改革党(イスラーハ、YIP)
統一後のGPCとYSPの協力関係やナセル主義、バアス主義の左派新党設立に警戒感を抱いた保守派議員がGPCを離脱し、GPCメンバーであった旧北イエメン北部のハーシド部族連合長アブドッラー・ビン・フセイン・アハマル(統一以降、2007年の死去まで議会議長)を党首に仰いで結成した政党。結成には、旧北イエメン南部のムスリム同胞団系のウラマー層も加わり、イエメン最大のイスラーム政党となった(北部部族はシーア派のザイド派に属し、南部はスンナ派のシャーフィイー法学派だが、宗派の違いはこれまで問題となっていない)。
1993年総選挙で63議席(GPC、YSPと三党連立内閣、1994年内戦後はGPCと二党連立内閣)、1997年総選挙で53議席(最大野党)、2003年総選挙で46議席(最大野党)を獲得し、すべての総選挙および地方選挙で、GPCに次ぐ第二党の位置を占める。
イエメン最大最強の圧力団体とも言うべき保守的な北部部族勢力(ハーシド部族連合、バキール部族連合)を支持基盤とし、南部ウラマー層が政党としての思想や枠組みを提供する態勢をとっている。しかし、「イスラーハは動員力はあるが、集票力に欠ける」と評価されており、北部での支持は得票にはつながらず、議席の多くを南部に依存している。
党首はアハマル、党最高評議会議長はムスリム同胞団系の指導的ウラマーであるヤアシーン・アブドルアジーズ・クバーティー、党諮問委員長はサウジアラビアに近く、イエメン・イスラーム主義の教条派を代表するアブドルマジード・ジンダーニー(現イーマーン大学学長、党内では少数派)。アハマルもサウジアラビアと強い関係を有しており、アハマルとジンダーニーに着目すれば、イエメンにおける親サウジ政党ともいえる。
野党として経済・外交政策でGPCと激しく対立するものの、実質的にはサーレハ政権支持の姿勢を続けており、純粋な野党とは言いがたい。たとえば、1999年大統領選挙では対立候補を立てずにサーレハを支持し、2003年総選挙ではイスラーハ党首のアハマルがGPCからも公認を受け、イスラーハとGPCに両属する議員として当選して、引き続き議長に選出された。最大野党の党首が与党にも属して議長を務めることは、法律的にも政治倫理的にも問題とされておらず、イエメン政党政治の一面を象徴している。しかし、2006年大統領選挙では他の野党4党(YSP、ナセル統一、ハック党、イエメン人民勢力同盟)とサーレハの対立候補(実業家のシャムラーン)を擁立、支持し、活発な選挙戦を展開した。
2007年12月29日、アハマル党首が死去し、ムハンマド・ビン・アブドッラー・ヤドゥーミーが党首に就任した。
イエメン社会党(YSP)
イエメン民主主義人民共和国(統一前の南イエメン)における、マルクス・レーニン主義を掲げる単独支配政党。統一後の政党・政治団体法施行に際し、政党申請を行なって一般から党員を募集する通常の政党となった。ソ連崩壊と南北イエメン統一を背景に、党中央委員会は社会主義の放棄を決定したが、党内の混乱により党大会を開催できず、党の綱領自体は変わっていない。
1993年総選挙で56議席を獲得するが、GPC、イスラーハに次ぐ第三党に甘んじる(GPC、イスラーハと三党連立内閣)。党最高幹部が1994年内戦を引き起こし、旧南イエメンの分離独立(イエメン民主共和国の独立)を宣言したが、YSP議員の大半はこれに合流せず、首都サナアに残留した。内戦中にYSPは資産等を凍結され、連立内閣から排除されたが、内戦終結後も政党や議員としての活動には制限を加えられなかった。資産凍結の継続に抗議して、1997年総選挙をボイコット。2003年総選挙で復帰するも、7議席にとどまった。1999年大統領選挙では候補者を擁立できなかったが、2006年大統領選挙では他の野党4党(イスラーハ、ナセル統一、ハック党、イエメン人民勢力同盟)と候補者(実業家のシャムラーン)を擁立した。
旧北イエメンとの経済格差が解消されない旧南イエメンを支持基盤とする政党となるべき存在ではあるが、選挙では旧南イエメンでもGPCの得票が圧倒的となっている。
アラブ・バアス社会主義党イエメン地域指導部(バアス党)
複数政党制の導入に伴い、バアス主義者がGPCから分離して、イラク系バアス党のイエメン支部として結党。結党時の党首は、ムジャーヒド・アブー・シャワーリブ(統一以前からのサーレハ大統領の側近で、アハマル・イスラーハ党首の義弟)だが、1994年内戦後に大統領顧問に任命され離党。その後、イラクのサッダーム・フセイン大統領(当時)に近いカーシム・サッラームが党首となる。しかし、党内対立からサッラームは離党して、新たにバアス民族党(総選挙での当選者なし)を設立した。
1993年総選挙で7議席、1997年および2003年総選挙では2議席を獲得。
ナセル人民統一組織(ナセル統一)
統一直前のアデンで結成された、旧北イエメンのハムディー大統領(在職1974~77年、南部を基盤とするリベラル派として北部部族勢力と対抗した)の支持勢力による政党。ナセル主義に基づく公正を訴え、旧北イエメン南部や旧南イエメンのアデン、アブヤンで一定の支持者を有する。1993年総選挙で1議席、1997年および2003年総選挙では、GPCと選挙協力を行なって3議席を獲得。
ハック党
旧北イエメン北端のサアダを基盤とする、ザイド派(シーア派)カーディー(法学ウラマー)や旧サイイド層(シーア派初代イマーム・アリーの子孫。旧北イエメン革命前のイエメン・ムタワッキル王国における支配層。革命により特権剥奪)などが、GPCから分離して結成したザイド派のイスラーム政党であり、ホーシー家の活動を母体とする。1993年総選挙で2議席を獲得したが、その後は議席なし。
その他
- 民主ナセル党(ナセル民主。1993年総選挙で1議席のみ)
- ナセル人民矯正組織(ナセル矯正。1993年総選挙で1議席のみ)
- イエメン人民勢力同盟(ザイド派のイスラーム政党)
- イエメン統一グループ(アデンの知識人層による政党)
- イエメン民族同盟(旧南イエメン・ラヘジの保守層による政党)
- 国民社会党
- 人民民主同盟
政党以外の政治組織・政治勢力
ホーシー派(アンサール・アッラー)
1980年代、イエメン北部のザイド派地域(シーア派、信徒はハーシド部族連合とバキール部族連合に属する部族民)において、サウジアラビアが支援するワッハーブ派の布教活動拠点「ハディースの家」が設けられた。これに危機感を抱いたサイイド(預言者ムハンマドの子孫)のホーシー家(ザイド派ウラマーの家系)当主のバドルッディーン・ホーシーは、「信仰する若者」というザイド派の復興運動を開始した。これがホーシー派の起源とされる。1990年南北イエメン統一以降の民主化ではハック党を結成し、総選挙に参加した。
長男フサイン・ホーシーは、反ワッハーブ・反サウジの演説を繰り返したが、2003年のイラク戦争後に、それは反米の内容を多く含むようになり、多くの若者の支持を得た。しかし、2001年米同時多発テロ以降、米国の対テロ戦争に協力していたサーレハ大統領は、フセインに対し反米演説をしないよう求めたが、フセインは聞き入れなかった。2004年6月18日、サナアのアリー・アブドッラー・サーレハ・モスク前でフセインを支持する若者たちが反米のスローガンを叫び、拘束された(一説に640人)。サーレハは、説得のためにフセインをサナアに呼んだが、拒否された。7月、サーレハは治安部隊をフセイン拘束のために派遣したが、支持者と銃撃戦になって拘束に失敗。武力衝突が拡大したため、その後はアリー・ムフシン(サーレハの異父弟。現在はハーディー政権の副大統領)を司令官とする第一機甲旅団がその制圧にあたったが、ホーシー派を抑えることはできなかった。9月10日、フセインは銃撃戦の中で死亡した。父バドルッディーンも死亡したあとは、次男アブドルマリクなどの親族がホーシー派を率いた。その後、彼らはホーシー派と呼ばれるようになるが、彼ら自身は長く自称を持たず、2010年に自らを「アンサール・アッラー(アッラーの支援者)」と名乗った。2009年には、ホーシー派がサウジアラビアに対する越境攻撃を行ない、サウジはホーシー派を空爆している
イエメン政府は、ホーシー派はイラン流の「ウラマーによる政治」や「ザイド派イマーム(1918~1962年のイエメン・ムタワッキル王国国王)の復活」を求める集団であると喧伝したが、ホーシー派自身は特段の政治思想を展開せず、政府軍の攻撃に防御・反撃しているのみとの姿勢を取り続けた。ホーシー派に対するイランの革命防衛隊の支援については、不明な点が多い、イエメン政府やサウジアラビアは、2005年から支援が始まったとしているが、研究書の多くは、2011年の政変までイランのホーシー派支援にかかわる確たる証拠はないとしている。
当時、これはサアダ事件と呼ばれ、サアダ州の一部における衝突であったが、2011年の政変に乗じてホーシー派は北部3州(サアダ州、ハッジャ州、ジョウフ州)を掌握し、ハーディー政権下の包括的国民対話会議に参加した。しかし、2004年1月、包括的国民対話会議がホーシー派が反対する連邦制の導入に合意すると、翌2月より南下を開始し、同年9月にはサナアを占拠した。翌2015年1月、ホーシー派はハーディー大統領を軟禁下に置き、翌2月に「革命委員会」を組織して、2年間の暫定統治を宣言した。翌3月からはサナア以南に本格的な進攻を開始し、ハーディー政権およびそれを支援するサウジアラビア主導のアラブ有志連合との内戦に至った。
南部運動(ヒラーク)
2007年、アデン近郊で公務員解雇に反対するデモが生じた。その後、同様なデモが多発し、暴動に発展する例も増えた。1990年南北イエメン統一以降、政治経済の北部偏重に南部住民は大きな不満を持っており、これがデモや暴動の背景となっていた。そのような騒擾状態のなか、同年に旧南イエメンの平和的な再分離独立を求める南部運動(通称ヒラーク)が組織された。その内実は、さまざまな勢力や団体の集合体であり、まとまった組織とは呼べないものであったが、2011年政変後の包括的国民対話会議に参加し、連邦制の導入を主導した。
2015年以降の内戦では、この南部運動を背景とした複数の政治団体や武装勢力が南部諸勢力と呼ばれ、UAEの支援を受けて2016年以降の沿岸部での戦闘の主体となっている。ハーディー政権と対立し、2017年5月にアデンを掌握した南部移行評議会(Southern Transitional Council, STC)は、この南部諸勢力の中心的存在。ほかにも、ラヘジ州を基盤としてUAEの支援を受けるセキュリティ・ベルト(略称ヒザーム)があり、これが武装組織としては最大のものとみられている。
参考文献
- 松本弘「イエメンの民主化」『現代の中東』27号(1999年7月)、pp.27-41。
- ―――「イエメン民主化の10年」『現代の中東』39号(2005年7月)、pp.24-39。
- ―――「イエメン:政党政治の成立と亀裂」間寧編『西・中央アジアにおける亀裂構造と政治体制』JETROアジア経済研究所、2006年、pp.95-158。
- ―――「イエメン・ホーシー派の展開」、酒井啓子編『途上国における軍・政治権力・市民社会―21世紀の「新しい」政軍関係―』晃洋書房、2016年、pp.112-129。
- ―――「イエメン内戦の背景と特質」『海外事情』64巻9号(2016年9月)、pp.18-29。
- ―――「イエメンの内戦と宗派」、酒井啓子編『現代中東の宗派問題―政治対立の「宗派化」と「新冷戦」―』晃洋書房、2019年、pp.205-226。
トルコ/政党
(1) 政党制度
党の設立や活動についての規定は、政党法により定められている。同法では、全ての政党は、内務省に届け出を出さねばならない他、党本部をアンカラに置くこと等が義務づけられている。党員資格は、満18歳以上で参政権を有する者と規定されているが、裁判官、検察官、高等教育機関の教員、上級公務員、大学入学前の学生、軍人、過去にテロに関与したとして逮捕された者などは党員になることを禁じられている。
党の活動資金は、政党交付金(国政選挙で10%以上の全国平均得票率を獲得して国会議員を輩出した政党に加え、議員を輩出できなかったとしても政党法に規定された割合以上の得票率を得た政党には支給される。後者については2014年の法改正により、従来の全国平均7%以上の規定が3%以上に引き下げられた)の他、党員年会費、各種議員年会費、党関連商品収益(旗、バッジ等)、党出版物収益、党主催パーティー収益、党所有物からの収益、寄付などによることが規定されている。
トルコの体制が、世俗主義を中心とする特定の不可侵の原則に立脚し、軍部の政治的プレゼンスに支えられていることを既に述べたが、同様に、以下のような原則を遵守することが政党に対しても義務付けられている。
国土の一体性の保全、世俗主義を遵守し、アタテュルクに敬意を示さねばならない。
宗教・人種・言語・地域的な差違に基づく分離独立主義や差別主義を標榜してはならない。
こうした規定は、思想活動の自由に抵触するものであるが、政党法だけでなく、憲法においてさえ繰り返し規定されている。その他、共産主義、無政府主義、ファシスト、神権政治、国家社会主義、宗教・人種・宗派・地域の名称(あるいは主旨が同じもの)を党名に掲げた政党の結成が事実上、禁じられてきたが、EU加盟プロセスの加速や政権党に対する非合法化裁判などが、政党非合法化を一般論としては非民主的だとする認識を後押ししてきた。
政党の非合法化については、法律に違反したと共和国主席検事が判断した場合や、内閣の決定に基づいて法務大臣が要請した場合などに、憲法裁判所で解党の可否を決定することになっている。2017年12月末日時点で、1923年の共和国設立以来、合法的に存在した政党は合計340あり、そのうち解散・自然消滅・非合法化など多様な理由のためにもはや存在しない政党は全部で252にのぼる(Tuncel 2018, p.25)。政党法に基づく政党は2019年2月11日時点で77である。非合法化された政党の数は Tuncel (2018, p.29) の調査時点では、共和国設立以来、61政党にのぼる。クーデタにより軍事政権が樹立された際に非合法化されたものもあれば、国是に反する政治目標を掲げているとして裁判によって閉鎖されたものも少なくない。後者の例としては、共産主義を奉じるトルコ労働者党や親クルドの人民の労働党、親イスラムの福祉党や美徳党などがある。その一方で、そのような法律の運用は弾力的で、その時々の体制側の政治的判断に任されているといえる。例えば、1960年代の共産主義勢力の流れを汲む社会主義権力党(Sosyalist İktidar Partisi)が2001年11月にトルコ共産党(Türkiye Komünist Partisi)と改称したが、現在まで非合法化に向けた手続きは始められていない。2010年の憲法改正で、解党裁判は、国会が起訴を承認しなければ憲法裁判所は審理できないことになった。また、非合法化の原因と認定される言動をとった議員は、従来は政党の非合法化とともに議員資格を喪失したが、憲法改正によって、その後も議員活動を継続できることになった。クルド問題で揺れる社会状況を背景にして、なかなか一足飛びに政党非合法化という非民主的慣行にけりをつけられない状況での折衷的憲法改正といえる。
その一方で、クルド系政党やクルド系世論の要求を汲んで、2014年には選挙期間中の宣伝活動について、クルド語を含めあらゆる言語や方言で行うことが合法的行為と認められ、それ以降、クルド語での選挙活動はクルド系人口が多い地域では一般的となった。 しかし、言論の自由がどこまで保証されるかが政治情勢によって大きく左右される状況は脱していない。中道右派のイスラム系政権がトルコ民族主義と権威主義を結びつけながら強めていった2015年夏以降には、クルド民族主義的な言論の自由は大きく制限され、クルド系人口の半数以上の支持を固めるに至ったクルド系左派の諸人民の民主党の政治家やシンパの知識人に逮捕や公職追放を含む厳しい抑圧政策がとられている。
政党が選挙に参加するためには、投票日の6ヶ月前までに全国の半数以上の県において各県内の3分の1以上の自治体に支部を開設した上に党大会を開催済みであるか、もしくは国会に会派を有していることが条件とされている。選挙制度の項で説明したように、単独もしくは選挙協力を行った政党との合算による全国平均得票率が10%を超えなければ、国会に議席を得ることはできない。
(2) 主要政党の解説
現在、トルコの政党の多くはインターネット上に公式サイトを持っており、情報量に差はあるものの英語サイトを運営しているところも少なくなく、比較的情報は集めやすい。以下に、現在、議会に議席を有する政党を中心に、1980年代以降の国会に議員を擁した実績のある主要政党の基本情報をまとめておく。 政党の記載順は基本は2018年国会議員選挙における得票率順であるが、それらの政党から派生した政党で議席を獲得している党については、便宜的に得票率の大小にかかわらず、派生した党のすぐ次に掲載している。
公正と発展党(AKP)
2002年8月設立の親イスラム政党。党首は2017年5月よりレジェプ・タイップ・エルドアン(Recep Tayyip Erdoğan)。
1970年にネジメッティン・エルバカン(Necmettin Erbakan)を党首として設立された国民秩序党に始まり、クーデタや憲法裁判所の判決による解党と後継政党の設立を繰り返してきたイスラム政党の末裔。国民秩序党はナクシュバンディー系の教団の後押しを受けて設立され、内陸アナトリアを中心とした反体制イスラム復興勢力を糾合した。トルコでの世俗主義国家樹立とその後の世俗化・欧化政策を批判し、イスラム的な規範に依拠した体制や政策を通じて社会的公正と経済発展を両立できると説く綱領「ムスリム国民の視座」(Milli Görüş)を掲げた。イスラム復興勢力を支持基盤とするが、党の政策のレベルではイスラム国家の内容を具体的に示して政策立案をするというよりは、より現実的に、宗教活動の自由化、宗教教育の拡充、中小企業の振興による地域的経済格差の是正を訴えた。国民秩序党以来、宗教保守的な中小の商工業者を支持基盤としてきたが、1990年代には都市部で女性支持者をも巻き込んだ動員組織網を築き、都市貧困層の支持を拡大した結果、1995年総選挙では議会第一党となった。1996年7月にはエルバカンを首相とする連立政権が正道党とともに樹立されたが、軍部を中心とする体制派勢力の圧力に屈し、翌年の6月に連立政権は崩壊した。福祉党は世俗主義に反しているとして1998年2月に解党され、エルバカンは政治活動を禁じられたが、事前に設立されていた美徳党にほとんどの議員が移籍し、エルバカンの意向を受けたレジャイ・クタン(Recai Kutan)が党首となった。
しかし、2001年6月に美徳党も解散判決を受けた後、古参幹部率いる至福党と、次代のリーダーと目され大衆的人気を誇るレジェプ・タイップ・エルドアンを党首とする公正と発展党に分裂した。エルドアンら公正と発展党を設立したグループは、党幹部の世代交代や時代に対応した新しい思想や政策方針の必要性を主張し、美徳党までの支持層に加えて中道右派やリベラルな層からも支持を集めることに成功した。2002年総選挙で公正と発展党が議会第一党に大躍進したのに対し、至福党は大敗(得票率2.5%)を喫した。
エルドアンは国民秩序党結成当時の活動家の典型ともいえる。イスタンブルの下町の貧しい家庭に育ち、イマーム・ハティーブ学校を卒業した後、就職などを経て大学の経済行政学部に進学している。前後して、党の青年部で活動を始め、党内組織で上昇し、エルバカンの秘蔵っ子的存在となった。イスタンブルでの草の根動員組織立ち上げなど、独自の活動で党の台頭に貢献し、1994年からは国内最大の都市イスタンブルで大都市市長としてイスタンブルの近代的都市化を成し遂げて、国民的な人気を獲得した。
公正と発展党は、福祉党と美徳党が非合法化されて政治活動を続けられなくなった上、その際に非合法化が非民主的だとの国民的擁護を得られなかったことを反省し、エルバカンが率いてきた「ムスリム国民の視座」運動が、結局は、イスラム的言説を用いて国民の一部に疎外感や警戒感を与えたり、イスラムを政治的に利用しているとの反感を招いただけだったと結論づけた。そして、新党では、「保守民主主義」をイデオロギー的立場に掲げ、イスラム政党ではないと主張している。公正と発展党が擁護する「保守民主主義」とは、社会の伝統文化に根ざしながらも、急進的ではなく漸進的な変化を通じて社会の近代化や変化を遂げようとする立場だと説明されている。また、特定宗教や民族、イデオロギーを強制することは社会に分断や対立をもたらすことになると批判し、社会や文化の多様性を認めるような多元主義的な民主政治を実現することで、トルコの政治社会の発展と国際的な寛容や相互理解を促すことができると主張する。そして、社会の多様な立場を仲裁し、妥協点を見出させることのできる制度として政教分離を擁護している。また、党のイデオローグには、西洋のキリスト教民主党に類似した「ムスリム民主政党」ではないとの主張もあるが、社会の価値観や伝統文化に根ざした政策の実現として、家族の保護強化やイスラムの価値観と一致する政策が志向されており、党がイスラム的価値規範に依拠していることは、否定できない。例えば、2004年には刑法に姦通罪規定を盛り込もうとの意見が出されたり、地方の公正と発展党市政においては、市営の公共施設で酒類の販売を取りやめた自治体も出てきている。ただし、公正と発展党政権は、ユニセフから支援を得て女子児童就学促進キャンペーンを行ったり、女性への虐待を防止するための取り組みも始めており、イスラム的価値規範と伝統的慣習を精査峻別しながら女性に関連する領域についても社会改革を進めてきた。
2014年8月にエルドアンが大統領に選出されたのを機に、憲法規定に則り党籍を離脱した。これに伴い、新党首および新首相にはエルドアン政権を外交顧問や外相として支え続けてきたアフメト・ダヴトオール(Ahmet Davutoğlu)が就任した。エルドアンの大統領選出に伴って、前大統領のギュルが大統領職のために離れていた党に復籍し、党首および首相に就任する、という可能性もあった。しかし、多くの世論調査で自身をしのぐ国民的人気を集めていたギュルが党内権力を確立することを妨げるために、エルドアンはギュルから大統領職を引き継ぐ前日、つまりギュルが復党できる前日に党大会を開くことを決定し、そこでダヴトオールに党首および首相の任を任せることにした。2013年のゲズィ・デモ以来、エルドアンが首相として野党勢力や批判勢力を強硬な手段で弾圧したり、「非国民」とレッテルをはって国民の分断と批判勢力の弾圧を正当化する言説を強めてきた中で、ギュルはエルドアンに対する表立っての対立は避けながらも、そうした分断政治を和らげ、民主的な政治運営を求める発言をしており、野党勢力からは一定の評価を得ていた。そのため、その後、権威主義化が強まる中で、ギュルや彼に同調する勢力の党内権力掌握と、政権掌握を期待する声が、野党側メディアで繰り返し現れた。2018年大統領選においてもギュルを、国会議員選挙での選挙協力では一致した野党連合の「国民連合」の共同候補とする動きが起こったものの、同連合を構成する良好党の反対で実現しなかった。ギュルも野党勢力が一致して推すという条件が満たされた場合のみ出馬要請を受け入れるとしていたため、立候補には至らなかった。この間、エルドアンは、ギュルの学生時代からの友人である参謀総長(当時)と、公正と発展党政権下で長く首相顧問や大統領補佐官を務め、ギュルの信頼もあつい人物を使者に立て、立候補見送りを要請している。
この数年、エルドアンや彼の取り巻きによって、これまでの政権運営や党活動における功績を否定し、すべての功績はエルドアン一人の力によるものであるかのような言説づくりが進められており、その過程で、ギュルや彼に同調する旧幹部たちは、名誉や権威を失墜させるような発言やメディア活動にさらされてきた。ギュルらは未だに党籍は維持しているが、エルドアンとの関係は冷え切っており、エルドアン後が模索される度に、エルドアン批判勢力によってギュルの名前が取り沙汰されている。ただし、彼がエルドアンの権威主義化に対して公然と批判し、自らがそれを正すために打って出ることはなかった。強いリーダーを求めるトルコの政治文化において、ギュルへの期待がいつまで続くのかは未知数である。
ダヴトオールも、公正と発展党政権期を通じてその外交政策を策定してきた点で貢献は非常に大きかったものの、こうした権謀術数のなかでエルドアンのおかげで政治権力を得たにすぎず、党内や政権での権力基盤は脆弱だった。大学教授から政治家になったこともあり、公正と発展党に連なる政治運動や政党組織の内部から経験と人脈を蓄積してきた政治家ではなかった。ダヴトオールは彼なりにエルドアンから自立した国家運営を目指したものの、エルドアンがダヴトオールの党内や政権内で独自色や権力基盤を構築することを許すはずはなかった。党幹部選定はもちろんのこと、選挙候補者リストや閣僚リストの作成をめぐってエルドアンとの激しい確執が繰り広げられた。ギュレン派との対立の過程でエルドアンの親族を含む汚職事件が政権を揺るがした際にも、野党だけでなく党内支持基盤からも党関係者の汚職一般に関する批判が噴出する中で、弾劾裁判実施や汚職防止法の制定を目指したものの、エルドアンがそれを遮る発言をすると引き下がらざるをえなかった。対立が激しさを増す中で、エルドアンによって引き立てられたメンバーが牛耳る党幹部会において、党首の地方組織人事権を停止する決定が急になされたのをきっかけに、ダヴトオールは党首および首相辞任を決意した。
ダヴトオールにとって代わったのは、エルドアンがイスタンブル市長をしていた1990年代から腹心として彼を支えてきたビナリ・ユルドゥルム(Binali Yıldırım)である。ユルドゥルムは公正と発展党政権期の運輸・海運・通信相をほぼ独占的に務め、トルコのインフラ発展を象徴する政治家となった。大統領制移行にともない、首相職は廃止となったため、2018年国会議員選挙に立候補して当選し、新体制では国会議長としてエルドアン政権を支えている。
2017年4月に大統領制移行をかけた憲法改正国民投票が実施され、辛くも過半数を得られたが、その際に承認された憲法改正条項には、大統領就任に伴う党籍離脱規定を廃止する条項が含まれていた。従来はすべての政党に対して中立的であるべく大統領就任とともに党籍離脱が要請されていた。しかも、この規定は、大統領制移行と同時適用ではなく、国民投票結果が公的になり次第、一足先に実施されることとされていた。これを受けて同5月に早速、公正と発展党臨時党大会が開催され、2014年の大統領就任時に党籍を離脱していたエルドアンの復党および党首就任が承認された。
エルドアンは、自らは首相から大統領へ鞍替えし、大統領職もシステム変更によって2選禁止の適用をかわして権力ポストを維持しつづけている。その一方で、党が継続的・漸進的に人員刷新や世代交代を進める必要を説いて、国会議員の4選を党規で禁止し、現役議員の1/2から2/3を選挙の度に候補者リストから外し、被選挙権年齢を引き下げてきた(最新状況は18歳)。しかしこれは同時に、党組織や国会議員候補選定という人事をエルドアンが掌握し続けながら、ライバル候補の権力ポジションでの滞留を防ぐという効果(おそらく意図)もある。これは党や国政、地方行政にまつわる利権の受益者が全体として増加することを意味しており、そのおこぼれにあずかろうとする潜在的待機者の支持を取り付け、自分や親族がそこから弾かれないように批判を自己規制する人々を繋ぎ止めるのに役立ってきた。しかし、かつての「ムスリム国民の視座」運動の精神を根っこのところで共有しない中道右派やトルコ民族主義の人々、公正と発展党政権が利権政治の旨みを享受する時代に育った若い世代が、党の主流となることを懸念する声も、その時代を経験してきた世代からは漏れ聞こえてくる。
公正と発展党がイデオロギー的にどのような位置取りをするに至ったのかは、批判勢力からはイスラム的権威主義だとのレッテル張りが目立つが、イスラム的価値規範を重視する批判勢力からはイスラムから遠ざかっているとの批判を受けている。トルコ国内と国際的な政治経済・価値規範のヒエラルキーにおいて世俗主義や西洋中心主義が支配的であることを批判し、ムスリム・アイデンティティに巧みに訴えながら支持を糾合しつつも、同党の成長政策には欧米や日本がかつて行ってきた近代的な都市生活と技術開発をめざす点で目新しいものはない。環境破壊や汚職など、先発の高度発展社会が踏んできた轍もしっかり踏んでいる点で、アイデンティティという面を超えて、ムスリムであるということがどのような代替的規範として統治において作用しているのかは見えにくい。
2019年統一地方選における大都市部での敗北を受けて、エルドアンは足元を固めるために党内批判派への締め付けをますます強めている。2019年秋口に元首相のダヴトオールと、外相、EU担当相、経済担当相などを歴任したアリ・ババジャン (Ali Babacan)がそれぞれ年内の新党結成を目指して公に活動を開始した。両者は党綱領におけるイスラームの位置づけ、強調という点で、全く正反対の方針を取ると言われる。ダヴトオールは国家アイデンティティと外交政策においてムスリム・アイデンティティを重視するのに対し、ババジャンはリベラル路線を貫くことで欧米中心の国際社会からの信頼回復による経済の上向きと国内のマイノリティー問題の改善を目指す。最終的な党綱領と幹部の顔ぶれがどのようになるか、次の選挙がどのような政治社会情勢でいつ行われるかが、党勢を規定していくと思われるが、国内外でその政治手腕が評価を集めた実績をそれぞれに持つゆえに、AKPだけでなく野党からも一定の支持層獲得が見込まれる。
至福党(SP)
2002年7月に結成された至福党は、当時、エルバカンが政治活動を禁止されていたため、エルバカンを取り巻きとして常に支えてきたレジャイ・クタンが初代党首に就任した。その後、エルバカンの禁が解かれると、エルバカンが党首となったが、検察が党の政治資金の収支の不透明さを指摘したのをきっかけに、至福党がエルバカンに連座して再度、非合法化されるのを防ぐためとして党首を辞し、党籍を離れた。2006年4月から2008年10月までの間、隠然たるエルバカンの影響力のもと、再びクタンが党を率いたが、彼が引退を表明し、2008年10月からはヌーマン・クルトゥルムシュ(Numan Kurtulmuş)が党首に就任し、世代交代を果たした。クルトゥルムシュは2010年7月の党大会で結果的には再選されたが、エルバカンが影響力維持を目論んで、エルバカンの子供たちや娘婿を含む党幹部対抗リストを提出したために混乱した。その混乱が後を引き、その後、クルトゥルムシュは離党を決断した。その後、至福党ではエルバカンが党首に選出され、クルトゥルムシュは一緒に離党した仲間たちと2010年11月に人民の声党(Halkın Sesi Partisi)を旗揚げした。しかし2011年総選挙では至福党の得票率を超えることさえできず、2012年9月にエルドアン首相の呼びかけに応じる形で、党大会で解党を決議し、公正と発展党に幹部・党員の多くが移籍した。クルトゥルムシュは、公正と発展党副党首を経て、ダヴトオール政権で副首相を務めた。至福党では、2011年2月にエルバカンが逝去したのに伴い、党首はムスタファ・カマラク(Mustafa Kamalak)に引き継がれたのち、2016年10月以降はテメル・カラモッラオール(Temel Karamollaoğlu)が務める。至福党はいまでも「ムスリム国民の視座」を党是に掲げている。
公正と発展党政権が中道からイスラームやトルコ民族主義までを広く包摂する右派全体で圧倒的支持率を誇るなかで、至福党は存在感を示せないでいた。しかし、人民の声党解党後に行き場を失っていた、イスタンブルやアンカラといった都市部インテリ層を中心としたイスラム左派的市民運動潮流が、特に2013年の反政府デモ以降に共和人民党や諸人民の民主党のなかの、多元的政治アイデンティティの承認や社会民主主義に依拠した民主的で福祉国家的なトルコを目指すグループと共闘する基盤を模索する中、至福党もその流れに乗ることで党勢立て直しを図った。政権の権威主義化を批判し、イスラムは民族主義を否定し、人権を擁護するはずだとの主張によって存在感を示そうとしたのである。
それは、2018年6月選挙戦では至福党は支持率に比して多大な関心を集めることになった。ムスリム世論において政権の社会分断を煽る言説や汚職に対する不満が蓄積していることがしばしばメディアを賑わしていたことから、世俗派を中心に、至福党が与党支持基盤の不満を吸い上げて躍進し、政権交代か少なくとも議会過半数割れが起きてほしいとの期待が高まったのである。カラモッラオール党首の温厚な人柄も、対立的政治言説に疲れていた人々に好意的に受け入れられた。至福党は、共和人民党という、長きにわたってケマリズムを代表し、イスラム復興運動の担い手からは自らを弾圧する政治勢力の代表と目されてきた政党と選挙協力を実現し、さらには自党の候補者を共和人民党候補者リストから出馬させることにより、国会に2議席を確保した。
しかし至福党への関心はあくまで一時的なものであり、しかも有権者のほとんどには現実的な投票選択肢とは映らなかったようである。前回比で得票実数・比率ともに2倍にしたものの、過去の最大得票率である2.5%には大きく届かない1.3%にとどまった。また、共和人民党と是々非々で協力する流れは都市部の高学歴層を中心に支持されているが、全体としては至福党の支持層は地方都市や農村部などの宗教保守層が中心とみられる。そのため、個人の自由や多様なアイデンティティの承認を主柱とした主張がどれだけ党勢拡大につながるかについては、今回の選挙結果から見る限り、肯定的な評価をするのは難しい。
共和人民党(CHP)
1991年設立の中道左派政党。党首はケマル・クルチダルオール(Kemal Kılıçdaroğlu)。
建国以来、アタテュルクの指導の下で共和国体制を築いてきた共和人民党の流れを汲み、体制の基本原理である世俗化・西欧化による近代化を目指す。1965年に当時の共和人民党が左翼の労働運動や学生運動の高揚に対応して、従来の体制派の幹部政党から労働者階級に支持基盤を求める「中道左派」に路線変更を宣言した。「中道左派」は共産主義や社会主義とは一線を画し、共和国体制の遵守を掲げた。それ以後、体制派エリートおよび地方の名望家という旧来の支持基盤に加えて、都市の低所得階層の支持を獲得し、1970年代には、共和人民党は三度、連立政権を率いた。
1980年クーデタに際して非合法化された後、クーデタ以前の政党名での政党結成が1991年まで禁じられていたため、旧共和人民党勢力は社会民主人民主義党と民主左派党に分裂して活動していたが、1990年代の左翼勢力の低迷に対する一つの打開策として、「中道左派宣言」(1965年)以前の共和人民党の精神を再生することを主張したデニズ・バイカル(Deniz Baykal)率いる派閥が、社会民主人民主義党を辞して設立した。1995年には逆に社会民主人民主義党を統合したが、カリスマ性に欠け、時代の変化に対応した新機軸を打ち出せない指導層の下で低迷し、1999年選挙ではついに国会の議席を失った。しかし、2002年選挙では、エジェヴィト率いる民主左派党政権の失政に失望した左派勢力を糾合して大躍進し、公正と発展党と議席を二分する議会第二党となった。2007年選挙でも議会第2位を維持している。2010年5月の党大会でもバイカルが単独候補として党首を維持する見込みだったが、党大会直前になってバイカルの不倫動画がネットに流出したためにバイカルは党首辞任を余儀なくされた。代わりに急遽、単独候補として選出されたのがクルチダルオールである。
クルチダルオールは、トゥンジェリ県出身のアレヴィ系クルドであるが、かつては世俗的トルコ国民アイデンティティのもとでの国家と国民の一体性を主張するアタテュルク主義を擁護していた。しかし、バイカル党首期に強硬なアタテュルク主義路線で公正と発展党に対抗しようとしたことが政治的混乱を招き、国内外のリベラルな世俗派の不信を招く結果になったことを顧みて、党首就任演説では世俗主義体制擁護を持ち出すことなく、失業や貧困問題を訴えた。それ以降、福祉社会的国家をグローバル化する経済のなかでどのように実現できるのかを説得的に提示することを最優先課題とし、社会民主的党是の下に多様な宗教的信仰の人々やクルドの人々をも積極的に包摂する政党へと長期的に脱皮することを目指す幹部らが、クルチダルオールの指導下で党綱領の改定を目指してきた。
その一方で、クルチダルオール党首は党幹部にウルサルジュ(Ulusalcı)と呼ばれる、アタテュルク主義を絶対視し、それと矛盾する親イスラム的勢力やクルド主義勢力の排除を主張する人物も配し、当初は党の路線と幹部選出の一貫性よりは既存の支持基盤を維持する調和路線をとっていた。また、2014年1月に社会民主派の国会議員や党幹部にインタビューしたところでは、党綱領にあるアタテュルク主義や世俗主義を現段階でどのように定義・理解するのかについて、党内で理性的な議論ができる状態にないとの認識を示した。
2014年8月の大統領選挙では、親イスラムのアイデンティティで知られるイフサンオールを擁立して失敗したことへの批判が、ウルサルジュらを中心として党内で盛り上った。その結果、臨時党大会が開催され、党首および党幹部の選挙が行われた。結果はクルチダルオールの圧勝ではあったが、その際に、旧福祉党議員で、近年、「反資本主義ムスリム」(イスラムに依拠してグローバルおよび国内の階級格差やネオリベラリズムに根差した政策を批判する立場)を自称するメフメト・ベキャルオール(Mehmet Bekaroğlu)を党幹部に招き入れたことに反発して、ウルサルジュの重鎮であるエミネ・ウルケル・タルハンが離党した。彼女はアナトリア党(Anadolu Partisi)を設立し、党首となった。しかし、アナトリア党に現職議員が移籍することはなく、ウルサルジュの議員はほとんど共和人民党に残った
これは2013年初夏のゲズィ・デモが激しい弾圧を受け、その後急速に権威主義化を強める政権に対して批判を高めていこうとする時期のことであり、それ以降も、クルチダルオールはベキャルオールと近い関係にあるイスラム左派の潮流との関係構築に努めてきた。政治アイデンティティの多元主義と人権、社会民主主義的経済社会政策で折り合えるイスラム政治運動との信頼関係醸成を通じて、イスラム的価値を重視する人たちを長く共和人民党から遠ざけてきたレッテル、つまりイスラムを弾圧し蔑むエリート主義政党だとの強固な否定的固定観念に風穴を開けようとの試みである。それは、2018年選挙の項で触れたように、「公正のための行進」以降、一定の成果を結んだ。2018年選挙でそうしたイスラム左派を都市部で抱える至福党との選挙協力が可能になったのである。しかし、選挙結果から明らかなように、イスラム左派はイスラム復興の流れをくむ有権者を、公正と発展党から奪うだけの説得力を持ち得ていない。
2018年大統領選は結局、野党もそれぞれの候補者を擁立することになったが、クルチダルオールはクルド系アレヴィという自身のアイデンティティがトルコ系有権者を糾合するのは難しいとの判断から、2014年臨時党大会で党首の座を争ったライバルであるムハッレム・インジェ(Muharrem İnce)に白羽の矢を立てた。彼がアナトリアの農村の伝統的なイスラム的家庭の出身であり、母親がスカーフ着用者であることを選挙戦では強調した。また、自身は世俗的イデオロギー立場を共有する妻と家庭を築いていることも、西部大都市部での集会で一緒に登壇して示した。収監中の諸人民の民主党党首への面会やその妻を自宅に訪問し、クルド系有権者にもアピールしようとした。さらには、シリア難民にはシリアに戻ってもらおうと公言することで、トルコ社会で渦巻く難民受け入れにまつわる不満をすくい上げようとした。もともとウルサルジュの潮流に属するとみなされていたために、イスラムやクルドにまつわる問題で積極姿勢を見せたことは、リベラル派に嬉しい驚きとなり、大統領選の初回投票でエルドアンの過半数得票阻止の期待を高めた。結局はそうはならなかったものの、共和人民党の国会議員選挙での得票率を約8%も上回る得票率を獲得した。この得票率の差は、インジェ個人の人気、つまり彼が共和人民党党首だったら同じだけの得票率を党も国会議員選挙で収めることができたというよりは、エルドアンの当選阻止に望みをかける野党勢力(特に、良好党と諸人民の民主党の支持層)が、どう転んでも自党党首が大統領になる可能性はなさそうだとふんで、初回からインジェの勢いを示すために投票したと考えるほうが妥当だと思われる。しかし、インジェは、クルチダルオールの目指す方向性に賛同しない党内勢力の代表として党首選を戦った過去があり、この票差を理由として、早速、クルチダルオールに揺さぶりをかけた。しかし、アメリカとの摩擦のためにトルコリラが急落し、トルコ発の国際経済危機が心配される状況で、党内派閥争いを繰り広げることは半年後に予定されている統一地方選への悪影響を招きかねないと判断し、一旦は矛を収めることになった。また、クルチダルオールは国会議員選挙で当選したが大統領選で落選したインジェは公職にないこと、前回の党首選でクルチダルオールはインジェの倍の支持を得ていることから、インジェがクルチダルオールをそう簡単には覆せない可能性は強い。また、クルチダルオールがこの選挙のプロセスを通じて党利党略や私的利害を超えてトルコの民主主義の危機を軽減するために方策を尽くし、その一環としてインジェの擁立がなったことを考慮すれば、今後の党内勢力分布やより広くトルコ世論による評価を上述の得票率の差だけから見通すのは拙速であろう。
民族主義行動党(MHP)
1993年に、民族主義労働党(Milliyetçi Çalışma Partisi)から改称されたトルコ民族主義政党。党創設者で極右トルコ民族主義運動のカリスマ的指導者だったアルパルスラン・テュルケシュ(Alparslan Türkeş)が1997年に死去したのを受けて、デヴレト・バフチェリ(Devlet Bahçeli)が党首に選出された。
1980年9月の軍事クーデタにより政党は全て非合法化されたが、1983年に政党活動が解禁された際に、それ以前に存在した政党名を使用することが禁じられていた。党名の改称は、その法律が1992年に撤廃されたことに伴って行われた。
民族主義労働党は1985年に旧民族主義行動党の後継政党として、当時政治活動を禁じられていたテュルケシュの隠然たる指導のもとで設立された。1960年クーデタの首謀者でもあった退役陸軍大佐のテュルケシュは、軍政内部の抗争の結果、国外左遷に遭ったが、帰国・退役後に1965年に共和主義農民国民党(Cumhriyetçi Köylü Millet Partisi)党首に就任し、1969年に党名を民族主義行動党と改称した。 テュルケシュは、支持者の間では、イスラム化以前のトルコ族が中央アジアから破竹の勢いで勢力を広げていた頃の豪壮なイメージを彷彿とさせる「首領」(başbuğ)という愛称で親しまれた。
同党のトルコ民族主義は、ナチスの影響を受けたトルコ民族の「人種的優位」思想や国家社会主義、中央アジアまでを射程に入れた汎トルコ主義を主柱とする極右思想に立脚する。また、こうした思想を「理想」(ülkü)と奉じる勢力が、「トルコ人の炉辺」(Türk Ocağı)や「理想の炉辺」(Ülkü Ocağı)といった文化団体を各地に設立して国民への浸透を図った。こうした団体は正式に党の組織に組み込まれている訳ではないが、党のシンパ養成の役割を担ってきた。
党は、1960年代から70年代には反共の攻撃部隊と化した極右の学生・労働者組織と連動し、政治社会の混乱を引き起こした。党の支持層にはこの時期の反共右翼運動から分岐した世俗的民族主義とイスラム的な民族主義という二つの勢力を抱えているが、政策レベルでは体制護持が優先されるためか、宗教的な観点から世俗主義勢力を刺激することはほとんどない。
支持基盤は都市の中下層階層の他、中小の商工業者である。クルド地域である南東部や東部への最前線であり、アレヴィ(異端・習合的なムスリム少数派)人口も比較的多いといわれるアナトリア中央部で得票率が高い。ここに、単に言語的な排他主義ではなく、宗教アイデンティティの面でも少数派を排斥しようとする志向が窺える。1980年代以降は、トルコ民族主義勢力が文化省や国民教育省を始めとする官僚機構に浸透をはかり、文化・教育政策に重要な影響を与えたといわれている。しかし、こうした文化・教育政策は、政権を握っていた祖国党の政策の一環として実施された。
冷戦後にイデオロギー政治の時代が過ぎ去る中で、党の支持率は1999年選挙まで低迷したが、1999年選挙では、直前にPKK党首のオジャランが逮捕されたことで盛り上がっていたトルコ民族主義的国民感情が奏功して議会第2位に大躍進した。しかし、同党も参加した連立政権が経済危機などによって安定しない中、2002年総選挙では全国平均得票率が10%を下回る大敗を喫し、院外政党に転落した。これに対し、2007年選挙では、再び活発化するクルド系ゲリラ活動に対してトルコ・ナショナリズム感情が高まっていたという世相を反映し、議会第3党となるなど、クルド問題の展開とのかかわりでトルコ系国民のトルコ民族主義感情が強まっている中で、安定的に国会に議席を獲得できている。その一方で、公正と発展党政権もトルコ民族主義的言説を強めることで政権基盤を盤石化しようとし始めたため、2015年11月選挙と2018年選挙では11~12%程度に党勢は停滞している。
2015年11月選挙での党勢後退を受けて、20年に近づくバフチェリ体制に挑戦する動きが党内で高まり、バフチェリが拒否すると、法規定に従って臨時党大会開催と党首選実施のために充分な署名を集め、裁判所の承認を得るため司法手続きを行った。しかしバフチェリは、同様に支持縮小傾向の不安を覚え始めたエルドアン大統領に対し、彼が大統領制移行による大統領就任によってより強大かつ長期的な権力掌握が可能になるように協力を行うことと引き換えに、その代わりに司法に圧力をかけてバフチェリに対する党内挑戦勢力の動きを妨げるよう、取引を行ったとみられる。民族主義行動党の臨時党大会は開催が妨げられ、バフチェリ批判勢力は離党して良好党を設立した。
バフチェリはその後、エルドアンと密に連携しながら大統領制移行に向けて布石を打っていき、実際に移行が実現される上での立役者となった。2018年の大統領選挙では、他の主要野党党首が大統領候補として出馬する中、バフチェリは出馬せずにエルドアン支持を公言した。同日実施の国会議員選挙でも公正と発展党と選挙協力を行った。エルドアンは民族主義行動党の支持のおかげで大統領当選ラインの単純過半数の得票率と、国会での両党合計議席数における過半数獲得を実現した。バフチェリは、エルドアンの政治権力維持にはなくてはならない協力相手であることを思い知らせた形となり、エルドアンが大統領制で発揮するとみられる強い執政府の政治の方向性がトルコ民族主義からぶれないように、圧力をかけていくものと思われる。
良好党
・İyi Parti
2017年10月設立の中道右派的トルコ民族主義政党。党首はメラル・アクシェネル(Meral Akşener)。民族主義行動党のバフチェリ党首が万年野党に甘んじる中で党首交代を求める党内ライバルグループの動きを封じようとした際に、除名処分や自主的離党で党籍を離れた幹部たちにより結成された。
アクシェネル自身は民族主義行動党に近い思想傾向の家庭で育ったが、1990年代には中道右派の正道党から国会議員となり、福祉党との連立政権においては一時、内務相を務めるなど、若手女性幹部として早くから頭角を示していた。しかし、その後、公正と発展党結成プロセスで中道勢力が同党に結集する見込みとなると、同党に合流するために正道党を離党したものの、結局は同党幹部の主流派のイスラム主義的方向性とは相いれないと判断し、民族主義行動党に入党した。
良好党結成へのプロセスでは自分たちこそが民族主義行動党の奉じるトルコ民族主義の正当な継承者であると主張したが、2018年選挙において、トルコ民族主義と権威主義化を強め、民族主義行動党と選挙協力して党勢を維持拡大しようとする政権への批判勢力を糾合するために、クルド民族主義を公然と攻撃することは避けた。また、「我らが国民との契約」と題した選挙公約文書でもhttp://www.iyiparti.org.tr/assets/pdf/secim_beyani.pdf、平均的なトルコ民族主義を逸脱するほどの、多様なアイデンティティの排斥を表立って主張することはなく、多元主義と民主的参加による政治や、すべての国民が宗教や人種、言語やジェンダーによって差別されることなく国家予算から平等に恩恵を受ける権利、思想や言論の自由が保障されねばならないと述べている。ただし、基本的にはトルコ民族としてのトルコ国民という発想で政策が考えられていることは、北キプロス・トルコ共和国への言及や、在外トルコ系移民へのトルコ語とトルコ文化教育の支援の明言などに見て取れる。対して、クルド問題の焦点の一つである、非トルコ系母語話者への母語による教育の権利には全くふれていない。かといってクルド民族主義の盛り上がりを牽制するような、威圧的な国家主義的言説がことさらに強調されているわけでもない。せいぜい、公約冒頭で、「世界で最も偉大な国民が暮らす、世界で最も美しい国であるトルコ」というフレーズに極右民族主義の面影を、しかし民族名をきっぱりと排除した文面で、忍ばせているにすぎない。それさえも、伝統的なトルコの中道政治勢力が当然視してきた一般的なナショナリズムの範囲にとどまっているといえる。ただし、民族主義行動党の支持基盤を可能な限り継承するために、クルド系の諸人民の民主党を含めた選挙協力の動きに対しては断固として反対した。
2018年選挙では大統領選でアクシェネルは惨敗したが、国会議員選挙では10%に迫る得票率を収め、結党間もない政党としては好成績を収めたといえる。しかし、大統領選で野党の統一候補擁立にも断固として反対して出馬したにもかかわらず、国会議員選挙の得票率を下回る支持しか集められなかった責任を取るとして、選挙後に一旦、党首辞任の意向を公表した。その後、結局は党首継続の運びとなったが、その間にも、複数の重鎮的ポジションの結党メンバーが党内権力争いやクルド民族主義をめぐる党の方針をめぐる対立のために、離党していった。今後予想される政界再編においてどのような党勢となっていくか、予断を許さないが、これまでのところ、都市部、中間層以上、高学歴、若者といった特徴を有する層を中心に一定の支持を得ており、選挙での同党の動きが鍵を握る位置づけとなっている。
民主党(DP)
1983年設立の中道右派政党。党首はギュルテキン・ウイサル(Gültekin Uysal) 。
1945年の複数政党制導入の際に、共和人民党内の経済自由化論者が分派して設立した民主党(Demokrat Parti)とその後継の公正党(Adalet Partisi)、正道党(Doğru Yol Partisi)の流れを汲む、トルコの伝統的な中道右派政党である。初代の民主党以来、国家が主要な民間企業を保護・育成しつつ民間セクター主導で発展を目指した他、大規模農業開発を中心とした農村部の発展やイスラムへの寛容を基調としてきた。公共セクター重視で世俗主義政策を断行してきた共和人民党への対抗政党として、経済界、農村部の地主層、反体制でない宗教保守層の支持を得てきた。1964年以降、1993年の大統領就任により党籍を離れるまで、1980年クーデタによる政治活動禁止の期間を除いて、党首として一連の党を牽引したのはスレイマン・デミレル(Süleyman Demirel)である。彼は、若き日には大規模ダム開発で名を挙げ「ダム王」と呼ばれていたが、貧農の出にも関わらず出世し、七度も首相を務めた政治的存在感と田舎訛りの残る親しみやすい演説で大衆的な人気を博し、後年は「お父さん」(baba)の愛称で呼ばれた。
デミレルに代わって党首に就任したのは、アメリカ帰りのエリート女性経済学教授のふれ込みで、最新の経済的知見を活用した政策が期待されたタンス・チッレル(Tansu Çiller)だった。しかし、彼女が首相を務めた政権下で経済は乱高下を続け、親族を含めた汚職疑惑が次々に出ていた上に、1996年に福祉党と連立政権を組んだことを批判して影響力のある議員たちが離党し、求心力を失った。 正道党は2002年の総選挙で大敗し、議席を獲得できなかった。
チッレルに代わり党を率いたのがメフメト・アール(Mehmet Ağar)である。彼は、警察官僚の出世街道にのってチッレル政権下で警察庁長官を務めた後、正道党選出議員として福祉党連立政権では内務大臣に就任している。彼は、警察官僚としての特権や内部情報を最大限に利用してマフィアとの癒着も噂されたが、巧みに政界の荒波をかわしてきた。2002年選挙を無所属で当選した後すぐに正道党に移籍した。
大統領選と総選挙が実施される2007年に入っても、政権与党の公正と発展党の支持率は堅調であるのに対し、またもや 10%の全国平均最低得票率を超えられそうにない正道党と祖国党は、大統領選で与党候補に非協力の態度で共同歩調をとったのをきっかけに、トルコの中道右派政党の源流である民主党の名の下に合併を目指すことでも合意した。前回の得票率が高かった正道党が党首を出すことを機軸に、中央と地方組織の役員数を拡大することで、ポスト争いを予め封じることも決定された。この合意に則って、2007年5月27日に開催された正道党の党大会で、党名の変更が決定された。しかし、その後、総選挙での立候補者リストをめぐって合意に達しなかったことなどから、合併交渉は決裂した。結局、正道党の名称が変更されただけとなった。
2007年の総選挙では、結局、同党は全国平均最低得票率を超えることができず、アールは引責辞任の意向を表明した。それを受けて開催された臨時党大会の結果、1969年生まれの スュレイマン・ソイル(Süleyman Soylu) が後を託されることになった。 しかし、2009年5月の党大会で、ソイルを破って古参のヒュサメッティン・ジンドルク(Hüsamettin Cindoruk)が新党首に選出された。 1933年生まれのジンドルクは、かつての民主党時代から党の中心メンバーとして活躍してきた重鎮で、親交深いデミレル前大統領のバックアップを受けての出馬となった。ジンドルク党首はその知名度と経験を生かして分裂した中道右派の再統合を訴え、2009年には祖国党の吸収合併を実現させた。ジンドルクが不出馬を宣言した2011年1月の党大会では6名の候補の中からナムク・ケマル・ゼイベク (Namık Kemal Zeybek)が選出された。2012年党大会からはウイサルが党首を務める。
2018年国会議員選挙で良好党との選挙協力により、同党の候補者リストに4名の民主党候補者名を書き入れてもらい、党首のウイサルが当選を果たした。2007年から2年間、党首を務めたソイルは2012年に公正と発展党に移籍し、2015年6月以降、同党の国会議員となり、同年11月以降には労働・社会保障相と内務相も歴任した。2018年選挙でも国会議員に当選したが、エルドアン大統領が内務相に指名したため、大統領制の下で国会議員を辞職し、内務相に就任している。
諸人民の民主党(HDP)
2012年10月に設立されたクルド系中心の左派政党。男女1人ずつからなる共同代表は2018年2月からぺルヴィン・ブルダン(㊛Pervin Buldan)およびセザイ・テメッリ(㊚Sezai Temelli)。2016年11月に前共同代表だったセラハッティン・デミルタシュ(㊚Selahattin Demirtaş)とフィゲン・ユクセクダー(㊛Figen Yüksekdağ)がともにテロ支援の容疑で国会議員不逮捕特権はく奪の上、収監され、ユクセクダーは有罪判決に伴って国会で除名処分となるとともに政党法の規定によって党籍を自動的に喪失するという異常事態に陥った。ユクセクダーの代わりには、直ちにセルピル・ケマルバイ(㊛Serpil Kemalbay)が選出されたが、デミルタシュは司法プロセスが遅々として進展しない中で収監状態が続くまま共同代表の職を続けていた。現共同代表が選出された後も、デミルタシュは収監中である。
同党は、PKKリーダーのオジャランの指導のもと、トルコ東部・南東部のクルド地域およびクルド人口を多く抱える大都市イスタンブルを除けば、平和と民主主義党が国会議員を輩出できないという状況を克服するために設立された。つまり「左派クルド政党」という実情を脱皮して全国区の政党として発展することが目指されたのである(平和と民主主義党およびそれが受け継いできた政党の系譜については、次の民主的諸地域党の項を参照のこと)。党名にある「人民」が複数形のHalklarとなっている理由は、共産主義理論に基づいて、多様なアイデンティティ(民族のほか宗教・宗派やジェンダー・セクシュアリティの多様性も含む)や職場やエコロジスト共同体、 既存の左翼やクルド系の極小政党や市民社会組織など、多様な観点で形成される細胞組織による下からの積み上げ的動員の総体としての党や理想社会を目指していることを、複数形で明示するためである。加えて、本来的には同党の精神的リーダーであるPKKリーダーのオジャランが描く「民主的自治」は、トルコ周辺国とも国境に分断されてはいるが地続きで広がっているクルド人多数派地域全体について、既存の主権国家から独立することなしに、同様の積み上げ的組織化を通じて民主的意志決定と政治を地域的に行うことを主眼としたことも背景にある。その点ではトルコ国境をまたぐトランスナショナルなクルド政治運動という企図がそもそもの出発点にあったことは確かであり、その実践は諸人民の民主党に先立つ2000年代半ばから試行錯誤されてきた(他方で、この試行錯誤においては、同地域における多様なアイデンティティ集団を包摂するとしながらも、イデオロギーやリーダーシップの面でPKKと対立する勢力はクルド系であっても排除されがちである)。
諸人民の民主党の党名の複数形と、同党がトルコの政党として主張する民主的自治との関係については、筆者は2013年12月に、当時、 ディヤルバクル市中心の旧市街に相当するスル(Sur)区長であり、諸人民の民主党と 民主的諸地域党 を包摂する左派クルド運動の若手幹部の一人だったデミルバシュ氏(Abdullah Demirbaş )にインタビューする機会をもてた。同氏は、この理念の浸透とそれに依拠した組織化が試みられてはいるものの、支持層外はもちろん支持層内でも、しばしば「人民」(halk)とは民族を指すと理解されがちであること、クルド人の抑圧の歴史とそれが故に現在、民族主義が高まっていることを考えれば、そのような理解が根強いことはやむを得ない面もあるが、だからこそ、クルド人が人口的に支配的な東部・南東部地域を中心とした民主的諸地域党とは別に、トルコの全国政党として諸人民の民主党が国政でその理念を主張して民主化と多様性の共存のために活動していくことが重要なのだと述べた。つまり、諸人民の民主党は理論上は、クルド問題・地域だけではなく、トルコ全体について、多様なアイデンティティや集団の草の根的組織化から立ち上げて国政へとつなげていく下からの政治的営みを通じて、トルコの国家主義やトルコ民族主義を解体し、多様性に依拠する市民社会の活性化を通じた民主主義の実践を目指す政党であった。しかし、現実には、そのような理念の支持層への浸透は困難で、それに加えて、2014年秋以降のシリア情勢(特に「イスラム国」の支配地域拡大によってシリアのクルド人多数派地域が脅かされたり、シリアのPKK系列組織が米軍の地上部隊として「イスラム国」らと闘ったこと)や、2015年秋以降のPKKとトルコ国軍の武力対立再燃やその後の政治運動への弾圧強化を通じて、クルド民族主義がかつてなく高揚しており、諸人民の民主党はますますクルド民族主義政党の様相を呈するようになっている(「選挙」の項目の2015年の6月と11月の二つの国会議員選挙の項も参照のこと)。
以下、結党以来の過程における様々な政治的事件との関連で、党の理念と組織化が現実にはどう変化してきたかをより具体的に述べる。話を結党後の党組織化に戻すならば、HDPは2014年の地方選直後に平和と民主主義党に残っていた議員をほぼすべて移籍させ、その後、平和と民主主義党の地方組織も吸収した。このタイミングで有名国会議員の移籍を行ったのは、2014年3月の統一地方選挙にクルド系多数派地域では平和と民主主義党が、トルコ系多数派地域では諸人民の民主党が、それぞれの地域により適した言説を用いるという地域的役割分担を行うためだった。また、これはちょうど2013年5月末以降、イスタンブル中心部の公園再開発政策への小規模な左翼環境保護グループの反対デモが、政府の過度に暴力的な鎮圧活動をきっかけとして、多様なイデオロギー的な市民を巻き込む全国的な反政府デモに発展するという経験を経た時期であり、そうしたデモを直接・間接に支持した幅広い層を糾合するチャンスと見てとっての対応でもある。このデモが起きた際には、平和と民主主義党はオジャランと政府の合意によりちょうど本格的に始まったばかりのクルド和平プロセス(PKK武装解除の第一段階であるゲリラの国外撤退が5月に開始)への悪影響を懸念して、デモ参加には慎重な姿勢を見せた。ただし、諸人民の民主党に移籍したイスタンブル選出議員のスッル・スレイヤ・オンデル(Sırrı Sürreya Önder)がデモが拡大する直前からデモを支持し、政府側の強硬な鎮圧策に体をはって抗議する活動を行うなど、同党の政治家や支持基盤の市民グループなどがそれぞれの資格で参加し、政府批判を強める左派やリベラルな世論における共感の足掛かりをつかんでいた。デモ終息後には、オジャランがデモの精神への共感や支持を、PKK幹部がデモに積極的に参加すべきだったとの反省をそれぞれ示した。こうした流れの中で、諸人民の民主党はクルド民族主義の地域的政党を脱却し、全国レベルで市民社会の多元主義的な代表を目指すことが党是として認知されるようになっていった。
その状況の組織面での反映として、特に特徴的な2点を指摘できる。一つは、平和と民主主義党が代表してきた左翼を中心としたクルド民族主義勢力に加えて、より広くトルコの多様な左派やリベラル派、さらには宗教や性的マイノリティをも糾合することが目指された。特に、2013年の反政府デモの参加者の多様性を取り込もうと、党の最高決定機関である党議会(Parti Meclisi)委員には、環境保護活動家やLGBT活動家、公正と発展党に批判的なイスラム派女性活動家ら、デモ参加者らが登用された他、アルメニア系作家など非イスラム系マイノリティの委員も選ばれている。 (ゲズィ・デモについては朝日新聞ウェブ版上の連載記事「トルコのタクスィム・デモを読む(1)~(4)」 (朝日新聞記事データベース「聞蔵Ⅱビジュアル」にて検索) を参照。)
もう1点は多様な代表ポストにおけるジェンダー平等を目指した取り組みである。他のPKK系列組織同様に諸人民の民主党も、男女1人ずつからなる共同代表制を採用している。組織内のポストだけでなく、系列地方自治体幹部職でも共同代表制や男女同数を目指した人事を行ってきた。国会議員も男女同数を目標にした候補者リストで戦い、国会議員の女性議員比率向上に大きく貢献してきた。
ただし、現実には、下からの決定の積み上げによる民主的組織とはいかず、トップダウンの権威主義的組織構造であることが、党内外からしばしば批判されてもきた。しかも、党幹部や議員候補者リスト選定もPKK中枢部を中心に行われてきたといわれる。その軋みは、運動のリーダーであるオジャランが逮捕されて以降、カリスマとしてのオジャラン、武装活動によって血を実際に流してきたという点で説得力を持つPKKの幹部たち、合法政党幹部として弾圧に立ち向かいながら言論活動を通じて党勢拡大の立役者となった若きカリスマのデミルタシュ、という3者のバランスのなかで、合法政党リーダーとしてトルコ世論とクルド世論の両方に対する説明責任を負わされるデミルタシュに重くのしかかってきた。
そこに、2014年秋以降のシリア内戦にかかわる新しい展開が覆いかぶさってきた。シリアのクルド地域がISの猛攻にさらされ、それを欧米諸国の軍事支援によってPKK系列の武装勢力が跳ね返し、逆にIS掃討地上部隊として米軍と協力しながら支配地域を伝統的なクルド地域の外にまで広げたプロセスでは、クルド民族主義がトルコのクルド系国民の間でこの上なく高まった。そのプロセスと関連して、トルコ国内でも、2015年夏以降、クルド系多数派地域でPKKと国軍や機動隊との武装対立が再燃し、PKK支持層以外のクルド系市民にも大きな被害をもたらした。そのために、諸人民の民主党系地方自治体が事実上、武装対立の当事者となったことに対する党支持基盤以外のクルド系市民の間で反発を招いた。また他方で、2016年夏のクーデタ実行未遂事件後には、諸人民の民主党やその支持層に対して包括的弾圧政策が実施され、党組織と地方自治体という合法的組織活動の基盤が切り崩された。デミルタシュも同年秋にはテロ組織支援の容疑で逮捕され、司法手続きが遅々として進まないなかで勾留され続けている。これらはそれぞれに複雑な、しかもクルド問題を大きく超えた射程のなかで多様な要素と関連して展開するダイナミズムを内包しているだけに、こうした展開になる以前に想定されたレベルをはるかに凌駕する軋みとなって党にのしかかっている。
かつては、全国区政党として成功するにはクルド民族主義色を薄めねばならず、そうすれば中核支持層のクルド民族主義感情に背き、場合によっては離反を招きかねないというジレンマにおいてどのようなバランスをとるかが主要な懸念材料だった。また、トルコのリベラル左派政党という側面を強調しすぎると、敬虔なムスリムのクルド層の反発を招く可能性が心配された。そのため、2014年8月の大統領選に立候補したデミルタシュは、クルド・アイデンティティを全面に出すのではなく、むしろクルドを含むあらゆる抑圧されてきた人々の権利擁護を訴えて支持を拡大した(「選挙」の「2014年大統領選挙」の項目を参照)。しかし、上述の2015年以降の目まぐるしい事態の変化のなかで、そしてとりわけエルドアン政権がトルコ民族主義的で分断を煽る言説を強めるにつれて、諸人民の民主党支持層だけでなくクルド系世論全般においてクルド民族主義が、トルコ系世論のトルコ民族主義の強硬化と相乗するかたちで強まっている。党やシンパの市民活動家をめぐる非常事態的状況が今後も悪化の一途をたどり、軋轢の度合いが極限に達した場合に、そのひずみのエネルギーがどのような形と震度となって現れるのか、想像を絶する状況だといえる。
このように党の政治活動環境は、トルコ政府との関係においても、PKKとの関係においても、非常に厳しいものとなっている。この状況において、デミルタシュは当選の可能性はほぼないにもかかわらず大統領選出馬を決め、それゆえ国会議員に再選されて不逮捕特権を回復できる可能性を放棄した。デミルタシュ以外に彼ほどの存在感を示せる市民政治家を現状では擁さない同党にとってこのことは大きな痛手であるが、デミルタシュは獄中から限られた機会をみつけてはメッセージを発することで、今も支持層内で一定の影響力を維持している。
2018年国会議員選挙では、党は10%の全国平均得票率を超えて野党第2位の議席を確保した。同選挙ではクルド系世論を代表する党が国会に存在することが民主主義のために欠かせないとの考えや、それが政権党の議席数の相対的比率を低めるとの考えから、トルコ系の票も左翼や世俗主義派、リベラル派を中心に限定的ながらも獲得し、積み増しをしたと考えられる。また、大統領選では同党支持基盤からエルドアンへの最有力対抗馬と考えられた共和人民党候補に一定数の支持が流れ込んだと思われる。こうした民族的区分を超えた投票行動が起こるうちは、まだ民主的プロセスの望みはあるといえるかもしれない。しかし、クルド人口多数派地域での投票率低下傾向は、トルコの民主的プロセスに意味を見出せなくなった国民の増加を示している可能性もある。合法政党として武装組織とは明確に異なる存在意義をどのようにして示していくのか、大きな試練に直面していることは確かである。
民主的諸地域党(DBP)
- Demokratik Bölgeler Partisi
2014年7月に設立されたクルド系の左派政党。党首はセバハト・トゥンジェル(㊛Sebahat Tuncel)とメフメト・アルスラン(㊚Mehmet Arslan)。前身の平和と民主主義党(Barış ve Demokrasi Partisi)の党名変更によるが、それに伴って地方自治を主要活動領域とした。国政レベルで活動する系列政党については諸人民の民主党の項を参照のこと。
同党の共同代表制は、平和と民主主義党のさらに前身の民主社会党(Demokratik Toplum Partisi)で実践され始め、政党法規定の党組織構造に反しているとして最高裁が警告したこともあった共同代表制度であるが、2014年の政党法改正により合法的政党組織形態として認められた。
平和と民主主義党は、院内政党だった民主社会党に対する非合法化の司法過程が始まったのを期に2008年5月に設立されたが、クルド多数派地域に限定的な地域政党を脱してトルコ全国区化を目指すにあたり、諸人民の民主党に国会議員が移籍して、国政活動の中心は諸人民の民主党に場を移した。民主的諸地域党の国会議員は党名変更当時の共同代表だったエミネ・アイナ(㊛Emine Ayna)1人だった。ただし、そうした実験的役割分担の実施にあたり、諸人民の民主党設立後の最初の統一地方選となる2014年3月の選挙では、民主的諸地域党への党名変更をせず、平和と民主主義党として諸人民の民主党と地域的役割分担を行った。つまり、すでに国民にPKK系のクルド民族主義政党としてイメージが浸透している前者は東部・南東部のクルド系多数派地域で、新設の諸人民の民主党はトルコ系多数派地域でクルド民族主義色を強く出さず、アイデンティティ多元主義の社会民主主義政党としての浸透をはかった。結果として、クルド系多数派地域で戦った平和と民主主義党は100近くの地方自治体首長選で勝利したが、諸人民の民主党は首長選全敗となった。選挙後の7月に党名変更がされ、平和と民主主義党は民主的諸地域党の名の地方自治専門の政党に切り替わった。
民主的諸地域党は、非合法のクルディスタン労働者党(PKK)リーダーのアブドゥッラー・オジャラン(Abdullah Öcalan)が近年、統治システムとして主張する「民主的自治」を地方自治レベルで実践にうつす目的で設立された。党名変更後間もない2014年8月に筆者が党関係者にインタビューしたところでは、政党活動というよりは、政治家教育や「民主的自治」の考え方の浸透を目指す「アカデミー」との位置づけを当面、与えられていた(と理解されていた)。なぜ諸人民の民主党があるのに、別に政党として組織を作るのかについては、インタビュー相手毎に異なる答えが返ってきたリ、実は目的に関して組織内でさえ浸透してないという点では一致した回答を得たほどに、党名変更当初は党の目的の理解はあやふやだった。しかし、その後の経過を見れば、あえて国政レベルで全国区政党を目指す諸人民の民主党を別途設立して、実質的には平和と民主主義党の国政政党としての機能はそちらに引き継がせたにも関わらず、あえて後者の党名を民主的諸地域という、「民主的自治」の領域的基盤を彷彿とさせる名前に変更して合法政党としての地位を引き継がせた理由は明らかである。「民主的自治」という統治理論を、同党が圧倒的支持率を誇る地域を中心に実験的に実践に移すことを目指したのである。
2015年6月総選挙で系列の諸人民の民主党が大幅に支持率を伸ばした後、国軍とPKKの間で武力対立が再燃し始めていた。それ以前から民主的諸地域党系の複数の自治体で、地域の中心市街地で警察や軍が立ち入れないようにバリケードや塹壕を掘る一方で、武器備蓄に励んでいたとも噂されるが、同8月にいずれもイラク国境沿いのシュルナク市とユクセクオヴァ市が民主的自治宣言をしたことを直接的なきっかけとして、民主的諸地域党系自治体への警察や軍、機動隊による直接介入が始まった。それは市街地のPKKシンパだけでなく一般の市民をも巻き込み、多大な人命や市街地破壊に至る事実上の市街戦に転化していく。その後も「民主的自治」を宣言する系列自治体が続き、同様の市街戦や、同党や系列自治体への弾圧が拡大した。2016年7月クーデタ実行未遂事件後には非常事態宣言が発布され、クーデタに直接連座した者だけでなく、政府と対立する勢力を根こそぎにする政策がとられた。民主的諸地域党系の自治体では首長や党幹部らが次々と逮捕され、代わりに政府が直接、代理首長を任命した。例えば、党共同代表のトゥンジェルは2016年11月から、アルスランも2018年2月からそれぞれ逮捕・勾留されている。
トゥンジェルは2017年7月の党大会では拘留中であるにもかかわらず引き続き共同代表に選ばれた。PKK系列組織での慣例がこの党大会でも踏襲され、共同代表ならびに党幹部に関する単独候補者リストの承認投票による選出だった。2019年3月に予定されている統一地方選は、クルド系多数派地域での同党の支持基盤の強固さを示す重要な機会であるが、選挙に参加できるのか、できたとしてどのような結果を有権者が示すのか、いずれにしても非常に困難な状況にある。
一連の党の原点は1990年に社会民主人民主義党から分派したグループ、人民の労働党(Halkın Emek Partisi)に遡る。人民の労働党はその後、非合法化されて民主主義党(Demokrasi Partisi)が結成されるが、それも再び非合法化されると、人民の民主主義党(Halkın Demokrasi Partisi)が結成された。
人民の民主主義党は、トルコ語とトルコ民族の歴史・文化を国民概念の中核に据える共和国の政策を批判し、体制内での非暴力的な活動を通じてクルド語による教育や出版・放送、文化活動の自由化を目指して活動した。反体制武装闘争を展開してきたPKKとは組織的に一線を画していたが、PKKへのそもそものシンパシーと、国軍によるクルド・ゲリラ掃討作戦に対する批判がクルド分離主義やPKKを擁護するものとみなされて、非常に厳しい体制の監視下に置かれた。クルド人が多数派である東部や南東アナトリア地域と、クルド移民が集住する一部の都市周辺地区に特化して強い支持基盤を有した。しかし、全国平均得票率が10%を越えなければ議席を獲得できないという1987年以降の選挙法のために、選挙協力無くして国会に議席を獲得することは極めて困難であった。過去には、たとえば1991年選挙では社会民主人民主義党との協力で人民の労働党が議席を獲得したことがある。選挙区での得票率のみが問題となる地方選挙では、東部・南東部地域で首長や地方議会議員を輩出した。人民の民主主義党は1999年選挙で、計37の選挙区で首長の座を獲得した。
人民の民主主義党は2002年選挙を前に、解党裁判が始まり、選挙への参加はかなわなかった。結局、2003年に非合法化されると、その代替となったのが、既に1997年に設立されていた民主人民党(Demokratik Halk Partisi)である。同党は、人民の民主主義党の陰に隠れて知名度が低く、得票率も非常に低かったために、非合法化を免れてきたと考えられるが、2002年選挙では人民の民主主義党の支持基盤を受け継いで6.4%の得票にとどまり、議席獲得はならなかった。
2005年11月の民主社会党設立の動きは、旧民主主義党幹部で投獄されていたレイラ・ザーナ(Leyla Zana)らの釈放とともに始まった。ザーナらは、1991年に社会民主人民主義党との選挙協力で議員に選出されたものの、国会での宣誓をクルド語で行ったために党籍を剥奪され、その後、民主主義党を設立したものの、1994年以来、PKKメンバーだとして党が非合法化されたのと同時に投獄されていた。そこで民主社会党の設立に際しては、ザーナらは公式の党幹部にはならず、クルド民族主義運動の外部から著名な左派トルコ人政治家を迎え入れることにより、両民族が協力し民主的で自由な政治社会の実現を目指す政党づくりをアピールしようとした。しかし、その試みは結局、実現せず、PKKシンパの政党というイメージを払拭できなかった。
2007年選挙に無所属で立候補するためにアフメト・テュルク(Ahmet Türk)前党首が辞任・離党したために、同年11月に行われた党首選挙では、当時35歳のヌレッティン・デミルタシュ(Nurettin Demirtaş、HDP前共同代表のセラハッティンの兄)が選出された。彼は、国家反逆罪の罪で終身刑を受けたPKKリーダーのオジャランの擁護が刑法罰の適用もありえる時代状況においてそれを公言するなど「タカ派的」存在として知られていた。国軍のPKK掃討作戦が続き、国内のトルコ民族主義感情が高まる中で、それに対抗する力づよく若き新リーダー育成という党指導部の思惑と、むしろ平穏な社会の中での確実なクルド民族文化の権利拡大を望む支持層世論との狭間で党内意見はまとまらず、党首選では、単独候補として出馬したにもかかわらず、過半数の得票を獲得できず、第3回投票でやっと投票総数の1/4余りをもって選出された。
2007年選挙では無所属で当選した議員20人が党に復帰し国会に議席と会派を有するにいたった。しかし、国家と国民の不可分の一体性という国是を脅かしているとして、デミルタシュ新党首誕生直後に非合法化を求める提訴がなされた他、党設立以来、オジャランに対する敬意やシンパシーの表明によって多くの党幹部が逮捕された。2008年7月の党大会以降は党首を再度、テュルクが務め、アメリカやイラクに党支部設立を計画するなど、存立基盤を国際的に強化しようとの試みも進んでいたが、2009年12月に憲法裁判所の全会一致の判断で解党が命じられた。
解党命令は、党首テュルクを始め37名に5年間の参政権剥奪をもたらした。しかし、21名の国会議員のうち有罪とされたのは2名のみである他、党員でないレイラ・ザーナ旧民主主義党幹部をも有罪としたり、党内でタカ派とされる議員や活動家が有罪とされないなど、判決の論理整合性や意図に疑念が残るとの指摘もメディアでなされた。有罪とならなかった国会議員や地方自治体の首長や議員らは、平和と民主主義党に移籍した。
民主社会党は欧州司法裁判所に提訴したが、民主社会党の前身である人民の民主主義党の裁判も結審しておらず、判決はかなり先のことになると見込まれる。ちなみに、人民の民主主義党以前に閉鎖された3党についてはいずれもトルコが敗訴している。
平和と民主主義党党首はムスタファ・アイズィト(Mustafa Ayzit)、デミル・チェリク(Demir Çelik)と続き、2010年1月よりセラハッティン・デミルタシュ(Selahattin Demirtaş、 民主社会党で党首を務めたヌレッティン・デミルタシュの弟)が党首となった。2011年総選挙で平和と民主主義党は、国会議員選出条件である全国平均最低得票率10%を超えられない場合に備えて無所属で臨むことを決定し、デミルタシュを含む候補者が党籍を離脱したため、ハミト・ゲイラニ(Hamit Geylani)が党首となったが、総選挙後に再当選したデミルタシュが復党し、党首に返り咲いた。2011年選挙では、クルド地域を中心に活動する左派、イスラム派の多様な勢力が選挙協力のために結集し、躍進した。東部、南東部地域はクルド民族主義勢力が公正と発展党と勢力を二分する形となり、無所属当選者が選挙後に移籍したことで、平和と民主主義党所属国会議員は最大時、29名を数えた。
平和と民主主義党を国政レベルで引き継いだ諸人民の民主党(Halkların Demokratik Partisi)は、党内組織のあらゆるレベルにおいて女性の幹部職就任および党員としての活動を奨励してきた。冒頭で述べた共同代表制はその一例である。共同代表の一人は必ず女性とし、党組織でも40%を女性に留保し、2011年総選挙の候補者リストでも40%の女性留保を行った。女性留保政策は同党のみならず、PKK系列の組織で採用されている。同党は国会の女性議員数上昇に大きく貢献している。また、2014年3月の地方選挙にあたっては、可能な限り男女半々の地方議会代表を送り出すため、報道によれば144の選挙区で男女を交互にならべた県議会、市議会、区議会候補者名簿を作成した。地方自治体首長は制度的には1名であるため、同党候補が首長に選出され、議員多数を構成する自治体では議会議長を事実上の共同代表として、首長とは異なる性別の議員から選定し、地方政治を運営していくつもりであるという。このような地方行政運営が従来の行政組織形態と実質的にどのような違いを生み出すかは未知数であるが、少なくとも同党が支配的な自治体ではジェンダー比については男女の代表比が一段と対等に近付いた。
平和と民主主義党が諸人民の民主党に移行した理由は以下の通りである。2000年代以降に、PKKリーダーのオジャランは、クルド地域やクルド人のみならず、トルコ全土に勢力を拡大したいと考え、特に合法政党の全国区化を目指してきたが、これまでは成果が出なかった。しかし、2011年総選挙での躍進をきっかけに、諸人民の民主会議(Halkların Demokratik Kongresi)というプラットフォームが選挙後に立ち上げられ、2012年10月15日には、来る選挙に備えるために諸人民の民主党(Halkların Demokratik Partisi)として公式に政党となった。オジャランは、2014年3月の統一地方選では同党がトルコ西部で候補者を擁立し、平和と民主主義党が東部・南東部地域で候補者を擁立する形で選挙協力を行い、2015年の国政選挙では諸人民の民主党が平和と民主主義党を吸収合併して単独で選挙に参加するように、獄中から指示した。平和と民主主義党内では議論もあったが、結局はこの方針が承認された。これを受けてまず、2013年10月開催の諸人民の民主党にとっては結党大会を意味した第1回臨時党大会が開かれ、3名の著名な平和と民主主義党議員が同党に移籍した。そして2014年統一地方選と2015年総選挙でもオジャランの支持の通りに選挙に参加した。
2014年統一地方選挙後の党大会で、平和と民主主義党は民主的諸地域党に改名し、地方自治でオジャランの理論を実践するための主体という位置づけを確立していった。しかし、前述のように、党幹部や系列自治体の首長や幹部らが逮捕・投獄され、自治体には政府が首長代理を任命するという異常事態になっており、「民主的自治」の実験はとん挫した。
民主左派党(DSP)
1985年11月設立の中道左派政党。党首は マースム・テュルケル(Masum Türker)。
共和国体制の護持を主張する点や、長く同党を率いたビュレント・エジェヴィト(Bülent Ecevit)が、トルコ民族の伝統・文化の純化を目指しつつ「トルコ国民国家」の発展を唱える文化運動の中心的人物であったことから、トルコ民族主義と通底するイデオロギー的傾向がある。
エジェヴィトは1972年に共和人民党の党首に就任したが、1980年のクーデタで政治活動を禁じられたため、妻のラフシャン・エジェヴィト(Rahşan Ecevit)が民主左派党を結成した。エジェヴィトは1987年に禁を解かれ、党首に就任した。エジェヴィトは質素な生活や服装と潔癖を通し、太った体に高価なスーツを着込んで親分的なイメージを売り物にする他の政治家の間にあって、清貧・清廉のイメージで一定の人気を確保していた。しかし、共和人民党の後継を主張する社会民主人民主義党や1991年に結成された共和人民党との競合や、冷戦後の左翼運動の衰退の結果、低迷していた。
1997年6月に、軍部が先頭に立って福祉党・正道党連立政権を崩壊に追い込むと、祖国党を首班とする連立政権に民主トルコ党とともに参加した。1998年に祖国党の閣僚が汚職で糾弾されたことをきっかけとして政局が混乱すると、代替政権の組閣が難航する中で、単独で少数党内閣を組閣した。政界の混迷が極まる中で突入した1999年選挙では、その直前に長年、ゲリラ活動を行ってきたクルド労働者党の党首が逮捕され、トルコ民族主義の感情が国内に蔓延していたことも奏功し、議会第一党に大躍進した。その後、民族主義行動党、祖国党とともに連立政権を率いたが、2001年秋頃よりエジェヴィトは時に執政に支障をきたすほどに体調を崩したにもかかわらず、首相ポストに固執したため、国民的な批判を招き、政局は再び混乱し始めた。結局、任期を一年半も残して解散総選挙を行う事態となり、2002年選挙では大敗を喫し、議席を失った。2004年から ゼキ・セゼル(Zeki Sezer)が党首を務め、2007年選挙で共和人民党との選挙協力により13議席を獲得、2009年3月の統一地方選でも前回より票をのばしたが、目標に達しなかった責任をとってセゼルは辞任した。2009年5月の党大会で テュルケルが新党首に選出された。
社会民主人民党(SHP)
- Sosyaldemokrat Halk Parti
2002年設立の中道左派政党。最後の党首はヒュセイン・エルギュン(Hüseyin Ergün) 。
1985年に設立された社会民主人民主義党の流れを汲む。社会民主人民主義党は民政移管後にいち早く設立された中道左派政党として、1991年の総選挙までは左派の最大政党だったが、イスタンブルなど地方自治体での汚職が発覚して、急速に支持を失い、1995年には共和人民党に吸収合併された。 党設立時の党首ムラト・カラヤルチン(Murat Karayalçın)は、社会民主人民主義党時代の1989年に地方選挙でアンカラ大都市市長に選出されて、若手リーダーとして頭角を現し、1991年選挙では国会議員に選出。1993年から二年間は外相を務めた。共和人民党に吸収された後も、国会議員として活動を続けていたが、1999年選挙での大敗や党内権力争いの結果、党を割り、社会民主人民党を立ち上げた。2005年3月に共和人民党選出議員が移籍し、院内政党となった。しかし2007年選挙では、他の左派政党との選挙協力を行わず、勝算が見込めないことから選挙自体にも参加しなかった。 カラヤルチンは2009年3月の統一地方選で公正と発展党に一矢報いるために共和人民党からアンカラ大都市市長選に出馬を決め、離党したものの、当選はならなかった。カラヤルチン離党後は、党幹事長だったウール・ジラスン(Uğur Cilasun)が党首を引き継ぎ、2009年6月にはエルギュンが党首に選出された。しかし、2010年3月に左派の再興を目指して立ち上げられる平等と民主主義党 (Eşitlik ve Demokrasi Partisi)に合流することになり、同党の設立とともに解散した。
平等と民主主義党の初代党首は社会民主人民党議員として大臣経験もあるジヤ・ハーリス(Ziya Halis)。党首自身もアレヴィであり、都市部クルドやアレヴィの支持をかねてより集めてきた自由と連帯党(Özgürlük ve Dayanışma Partisi)から鞍替えした支持者や、有力アレヴィ団体や左派労組も支持を表明していたが、公正と発展党政権の2010年9月憲法改正国民投票への賛成表明や、平和と民主主義党の要求するクルド語学校教育や地方自治権強化による文化的多様性への対応といった争点に理解を示したことで、離反も起きている。
祖国党(ANAP)
- Anavatan Partisi
1983年設立に設立され、2009年に民主党への統合により消滅した中道右派政党。最後の党首は サーリフ・ウズン(Salih Uzun) 。
1983年の民政移管後に、1970年代の4つの政治勢力(中道右派、親イスラム、トルコ民族主義、中道左派)を糾合し、トゥルグト・オザル(Turgut Özal)を党首として設立された。オザルは国家計画庁長官を務めた後に、国際通貨基金勤務を通じてアメリカの政財界に人脈を築いた親米派の経済官僚だったが、一方で、ナクシュバンディー教団の門徒としても知られていた。
こうしたプロフィールは、1983年から1991年までの祖国党政権の政策に如実に反映された。オザルは国際政治経済的な観点からトルコの取るべき戦略を考え、政治、社会、経済、貿易のあらゆる領域で自由化を進め、ヨーロッパ、中東を中心とするイスラム世界、環黒海地域、中央アジアのトルコ系諸国といった地域設定を行って新しい政治経済関係を開拓しようとした。また、イスラム銀行の設立といったイスラム的政策や、ムスリムとしてのトルコ国民意識の醸成を目指す文化・教育政策も行った。自由化政策は物質的な豊かさや自由な雰囲気をもたらしたが、消費主義の蔓延や所得格差の拡大に対する批判を招き、祖国党政権の終焉をも導いた。
オザルの大統領就任(1989年)後、党首にはユルドゥルム・アクブルト(Yıldırım Akbulut)が選ばれたが、体制を確立できないまま、祖国党創設メンバーで、オザル政権下で情報相や外相を歴任したメスット・ユルマズ(Mesut Yılmaz)に党首の座を奪われた。オザルの死(1993年)により、ユルマズは党内権力を掌握したが、世俗的な経済自由主義者であったため、党内のイスラム勢力が次々に党を去り、党はイスラム復興勢力の支持を失った。1995年選挙以降、議会第一党の福祉党と体制との軋轢が高まる中で連立政権を二度立ち上げて首相となったが、いずれも短命に終わった。1999年選挙後は民主左派党首班の連立政権に参加したが、逆にそこでイニシアティブを発揮できないままエジェヴィトの失権にも引きずられる形で、2002年選挙で議席を失った。
祖国党は2003年7月に、無所属で当選した議員が入党したのをきっかけに院内政党に復帰した。その後、2005年2月に公正と発展党を辞して祖国党に移籍した エルカン・ムムジュ(Erkan Mumcu) が同年の党大会で党首に選出された。ムムジュは1995年選挙で祖国党選出国会議員となり、党首顧問、党幹事長、副党首など党役員を歴任したほか、祖国党が参加した連立政権でも閣僚を務めたが、2002年選挙では公正と発展党から当選していた。同党でも閣僚に抜擢されたものの、政策内容や体制との関係をめぐって党と衝突して離党した。
2007年選挙では、正道党との合併により中道右派の盛り返しを目指したが、土壇場で話し合いが決裂した。祖国党は一旦、立候補者名簿を高等選挙会議に提出したものの、選挙戦不参加を決定した。祖国党の候補者名簿に記載されている主要政治家は、手続き上、無所属の立候補もできなくなった。 ムムジュは2008年9月に党首辞任を決意し、同年10月に ウズンが選出された。
2007年総選挙に続き、2009年3月の統一地方選挙でも惨敗した結果を受け、正道党から改名した民主党との合併協議を再度、本格化させ、7月には民主党への吸収合併が党首間で合意された。11月に祖国党臨時党大会で民主党への統合による党の解散が決定され、同時に同じ会場で開催されていた民主党党大会で即座に祖国党の吸収合併が承認された。
トルコ党
- Türkiye Partisi
2009年5月に設立され、寛容の精神と透明な行政を掲げる、中道右派政党。党首はアブデゥルラティフ・シェネル(Abdüllatif Şener)。シェネルは1991年に福祉党議員として当選して以来、美徳党、公正と発展党に籍を移しながら議員を続け、福祉党首班の連立政権時代には財務大臣、公正と発展党政権では国務大臣や副党首を歴任した。しかし、2007年の大統領選挙での候補者選定などの際に、世俗主義の国是をめぐる野党や軍部、司法機関との緊張関係を高めるような決定を党がなすことなどに批判を強め、2007年総選挙に出馬せず、公正と発展党から離党した。2008年9月にやはり公正と発展党から離党した国会議員のメフメト・ヤシャル・オズテュルク(Mehmet Yaşar Öztürk)も結党時に参加し、国会に議席を得た。
しかし、2011年の総選挙で国会の議席を失い、2012年8月には党を維持することが困難との判断から、自発的に解党された。シェネルはその後も公正と発展党政権批判を続けており、2018年総選挙で共和人民党から出馬し、現在、同党の国会議員の職にある。
人民の隆盛党
- Halkın Yükselişi Partisi
2005年2月に設立された、世俗主義とイスラムの融和を目指す政党。党首はヤシャル・ヌリ・オズテュルク(Yaşar Nuri Öztürk)。
共和人民党選出議員として2002年選挙で初めて政界入りしたオズテュルクが離党し、設立した。同党はリベラルなイスラム理解とアタテュルク信奉の総合によりトルコ社会の亀裂を克服しようと主張している。オズテュルクは、長年、神学部教授を努め、イスラム学の伝統やイスラム社会の伝統を経由することなく、直接、各信徒がクルアーンを参照して信仰実践のあり方を自主的に判断するべきだと主張する。また、平易な解説と、アタテュルク信奉者として体制とも問題がない神学者として、非宗教系テレビ局の宗教の解説や視聴者相談を行うテレビ番組にも頻繁に登場し、知名度が高い。しかし、リベラルなイスラム解釈 やアタテュルクへの態度の故に、イスラム復興勢力からは批判や反発も強い。2007年総選挙では再選を果たせなかった。 2016年にオズテュルクは亡くなり、党は2018年にケマリスト系泡沫政党の国民権利擁護運動党(Müdafaa-i Hukuk Hareketi Partisi )に吸収合併された。
参考文献
- T.C. Anayasası
- Commission of the European Communities, Turkey 2006 Progress Report, 2006.
- Mustafa Erdoğan, Türkiye’ de Anayasalar ve Siyaset (Genişletilmiş ve Gözden Geçirilmiş 4. Baskı), Ankara: Liberte Yayınları, 2003.
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- Erol Tuncel, 1923’den Günümüze Siyasi Partiler, Ankara: TESAV, 2018.
- Fumiko Sawae, “Development of Constitutional Democracy in Turkey: Constituent Power and Constitutional Identity in the Democratizing Process,” in Tsugitaka Sato ed., Development of Parliamentarism in the Modern Islamic World, The Toyo Bunko, 2009, pp. 220-245.
- M. Hakan Yavuz ed., The Emergence of a New Turkey, The University of Utah Press, 2006.
- 新井政美『トルコ近現代史:イスラム国家から国民国家へ』みすず書房、2001年。
- 澤江史子「トルコの選挙制度と政党」(日本国際問題研究所編『中東諸国の選挙制度と政党』、2002年)。
- ―――『現代トルコの民主政治とイスラーム』ナカニシヤ出版、2005年。
- ―――「トルコのEU加盟改革過程と内政力学」『中東研究』第3巻、第494号、中東調査会、2006/2007年、43-55頁。
- ―――「トルコ大統領選の行方」、「トルコ総選挙後の議席状況と潜在的混乱要因」、「二期目に向かう公正と発展党政権」((財)日本エネルギー経済研究所・中東研究センター会員限定データベース所収、2007。)
- ――― 「エルドアン政権「強権化」の構図」『外交』第39号、都市出版株式会社、2016年 、72-79頁 。
- ――― 「未完の東方問題」納家政嗣・永野隆行 『帝国の遺産と現代国際関係』勁草書房、2017年。
- ――― 「2019年3月31日統一地方選挙に向かうトルコ」『中東協力センターニュース』 巻 3号、2019年、10-17頁。
- ――― 「トルコの「クルド系政党」」 山口明彦編 『クルド人を知るための55章』明石書店、2019年。
- 間寧「トルコ2002年総選挙と親イスラム政権の行方」『現代の中東』35、2003年。
- 高等選挙会議ホームページより2007年総選挙結果および、政党別議席配分表。
- 高等選挙会議ホームページより2011年総選挙結果および政党別議席配分表。
- 高等選挙会議ホームページより2014年大統領選挙結果。
- 憲法裁判所ホームページより政党リスト (2019年2月11日現在)。