政党は公式には認められておらず、各種の政治団体が活動している。2002年選挙時は、政治団体の選挙への関与は厳しく制限された。立候補者の所属政治団体は公式には明らかにされず、また政治団体による立候補者への支援も禁じられていた。しかし、2005年7月に制定された政治団体法(法律2005年第26号)により政治団体の選挙への関与(政治団体からの立候補や立候補者への支援など)が可能となり、実質的な政党として機能している。しかしながら、2011年の大規模抗議デモ以降、与党系であったスンナ派イスラーム主義系も含む政治団体の活動に対する政府の抑圧が続いている。野党系の団体は裁判所による活動禁止および解散命令を受けているが、ツイッターなどのアカウントは閉鎖されずに継続している。

シーア派イスラーム主義

イスラーム国民協約協会Jamaiat al-Wifaq al-Watani al-Islamiyah(ウィファーク)

バハレーン最大の政治団体であり、国民の多数派を占めるシーア派を支持基盤とする野党である。創設者は1990年代のバハレーン蜂起において有力な指導者であったアブドルワッハーブ・フサインAbd al-Wahhab Husain Ali Ahmad Ismailであった。2005年に彼が代表を退いた後、代表には12イマーム派法学ウラマーのアリー・サルマーンAli Salman Ahmad Salmanが、実質的な最終権限を有する30名の評議員からなるウィファーク評議会により選出されてきた。彼は2010年の第3回下院選挙には出馬しなかったため、議会内での会派代表はアブドゥルジャリール・ハリールAbd al-Jalil Khalil Ibrahim Hasanが務めた。ウィファークの宗教権威・精神的指導者としては、1973年議会の宗教会派の代表を務めていたイーサー・カーシムの影響力が強い。イデオロギー的にはイランの「ヴィラーヤテ・ファギーフ(法学者の統治)」を理想としているともいわれるが、同時にバハレーンにおける民主化の進展として議院内閣制の実現も求めており、12イマーム派のウラマー(ターバン組)のイスラーム主義と、実務家(背広組)の民主化推進派の両面を有する。

2002年憲法改正が国民投票にかけられなかったことや、憲法改正による民主化が不十分であったことに抗議して、2002年の第1回選挙をボイコットした。2006年の第2回選挙には参加し、シーア派が多数を占める18の選挙区で所属候補17名と、支援する無所属候補1名を当選させ、比較第一党となった。支持基盤は、マナーマ、北部県と旧中部県の東部(シトラ地区)。選挙後の議会開会に際して議長職を求めたが、無所属議員も含めた全体でスンナ派がシーア派を上回ったため、議長にはスンナ派の議員が選出された。副議長への選出を辞退し、議長に選出されなかったことに抗議して、国王が参加する議会開会式への出席をボイコットした。2010年の第3回選挙では、擁立した18名全員が1次投票で当選を決めた。2010年選挙後の議会の開会では、議長職を要求せず、副議長への選出を受け入れて、ハリール・マルズークKhalil Ibrahim al-Marzuqが副議長に選出された。2011年1月12日には、議長に代わって、ハリール・マルズークが初めて議事進行を担った。

議会における比較第一党であり、反体制派から穏健的な野党へと、政府との過度な対立を避ける現実的な姿勢をとっていたが、2011年2月14日の「怒りの日」抗議デモ隊への治安部隊の弾圧による死者の発生に抗議して議会審議のボイコットを宣言した。同16日の真珠広場のデモ参加者の強制排除および実弾発砲による弾圧に抗議して、他の野党系団体と合同政治委員会を設置し、同18日に政府に対する改革を要求して全議員が辞職を表明した。3 月14日のデモ鎮圧後、ハマド国王の意向を受け、改革と国内融和のためにサルマーン皇太子が主導して7月2日から開催された国民対話に参加した。しかし、国内各界代表300名の枠のうち、野党側には25名、そのうちウィファークには5名しか与えられず、野党側の意見が反映されない状況や、参加に対する支持層の批判の高まりを受け国民対話から離脱した。その後、野党系4団体とともに、政府に改革を求める「マナーマ文書」を発表した。同文書では、民選の政府、公正な選挙制度、一院制の議会(上院の廃止)、シーア派住民に対する差別の撤廃を求めている。特に差別の撤廃に関しては、政府が政治的理由による外国人帰化を進めて、スンナ派に有利なように人口動態のバランスを変えようとしていると批判している。

国民対話を離脱後も、サルマーン皇太子を通じた対話と改革の可能性を模索する執行部に対する支持層からの批判、特に若年層からの突き上げに苦慮する一方、2014年選挙をボイコットして以降は騒乱の責任をウィファークに求める軍と警察による弾圧が強まった。2014年12月28日、4期目の代表に選出されたアリー・サルマーンが逮捕された。一審判決は無罪であったが、二審では憎悪を煽動し、不服従を助長し、公的機関を「侮辱」したとして刑期5年の有罪判決を受けた。のちに9年に刑期が延長されたうえ、2018年11月4日にはこじつけともいえるカタルへのスパイ協力を理由に終身刑を宣告された。組織としては2016年6月14日に裁判所から活動停止命令を受け、同年7月17日には解散命令を受けて、事務所建物と銀行口座を接収された。

自由と民主主義のための権利運動Harakat Haqq Harakat al-Hurriyat wa al-Dimuqratiyah (ハック)

ウィファークの2006年選挙参加に反対し、ウィファークから離脱した勢力が設立した政治団体で、2006年以降、選挙には参加していない。メンバーの多くは共和制を主張し、民主化以前には海外追放状態であった。多くは民主化開始とともに帰国したが、議会選挙への参加をめぐって国内活動組と意見が一致できずに離脱した。政府からは非合法組織扱いされ、指導者層は国外へ逃れ、国内の活動家は多くが政治犯として収監されている。2011年2月26日、指導者のハサン・ムシャイマHasan Mushaymaが恩赦によりロンドンから帰国し、真珠広場の抗議デモに加わったことは、王政打倒の主張とともに、デモ隊の要求が過激化する一因ともなった。

イスラーム連帯協会Jamaiat al-Rabitah al-Isalmiyah(ラービタ)

ウィファークに次ぐシーア派の政治団体。政府批判の姿勢もとるが、シーア派イスラーム主義のなかでは穏健派で、2002年議会では与党系とみなされ、創設者のスレイマーン・アルマダニーSulayman Madani(法学ウラマー)は政府と近い関係を有していたともいわれている。2002年選挙では3議席獲得し、イスラーム会派に属していた。

イスラーム行動協会Jamaiat al-Amal al-Islami(アマル)

上記ラービタから離脱した勢力が設立した政治団体。より教条的といわれる。政治的志向ではウィファークに近く、2002年選挙をボイコットした。2006年選挙以降はウィファークの候補者を支援した。支持基盤は北部県が中心。2011年2月の抗議デモを支持し、ウィファーク、ワアドを中心とする合同政治委員会に加わった。ハマド国王が退位するまで対話に応じない姿勢を示したため、主なメンバーは逮捕され、組織も解体された。

スンナ派イスラーム主義

イスラーム国民フォーラムJamiat al-Minbar al-Watani al-Islami(ミンバル)

バハレーンのムスリム同胞団を母体とする政治団体。1928年にエジプトのムスリム同胞団がバハレーンに接触して以降、長くその勢力を維持している。イスラミストのなかでは穏健派で、与党系とされていたが、アルコール販売規制等でウィファークと共闘する場面もあった。2002年選挙で7議席、2006年選挙で7議席、2010年選挙で2議席獲得。支持基盤はムハッラク県と旧中部県の一部。

イスラーム真正協会Jamaiat al-Asalah al-Isalmiyah(アサーラ)

シャリーア(イスラーム法)の適用を厳格に求めるサラフ主義(サラフィー)の政治団体。与党系とみられるが、政府に対する批判も多い。2002年選挙で5議席、2006年選挙で5議席、2010年選挙で3議席獲得。支持基盤はムハッラク県と南部県。

イスラーム評議会協会Jamaiat al-Shura al-Islamiyah

1992〜2002年の諮問評議会におけるスンナ派ウラマー層が設立した団体。2002年選挙で2議席獲得した。2006年選挙で当選者はなかったが、選挙後に代表は上院議員に任命された。2019年8月に自主解散を決定。

世俗リベラル主義

国民民主行動協会Jamaiat al-Amal al-Watani al-Dimuqrati(ワアド)

アラブ民族主義の政党。野党の中ではウィファークに次いで影響力が大きい。指導者はスンナ派であるが、支持者にはシーア派も多く、宗派を超えた国民の連帯を訴える上で、ワアドの指導者層の果たす役割は大きい。創設者はアブドゥッラフマン・ヌアイミーAbd al-Rahman al-Nuaimi。ウィファーク他とともに2002年選挙をボイコットし、2006年選挙と2010年選挙には参加したが、書記長(代表)のイブラーヒーム・シャリーフIbrahim Sharif、バハレーン大学教授・女性評議会の議長を務めたムニーラ・ファハロMunira Fakhruの有力候補がともに僅差で落選した。支持基盤はムハッラク県と旧中部県(イーサー・タウン)の一部。

2011年2月の抗議デモを支持し、ウィファークとともに合同政治委員会を設置して政府に改革を要求した。しかし、抗議デモが鎮圧されて間もなくの3月17日にイブラーヒーム・シャリーフが逮捕された。彼は2015年6月20日に恩赦により釈放されたものの、2016年の2月24日に政府に改革を求める演説を行い再び逮捕された。組織としては2017年5月31日に裁判所より解散命令を受けた。

進歩民主フォーラムHayat al-Minbar al-Dimuqrati al-Taqaddumi(タカッドミー) 

旧共産主義勢力の政治団体。2002年選挙で3議席を獲得し、2006年選挙では、会派として国民統一戦線(ワフダ)を結成したが、当選者はなし。北部県の一部が支持基盤。2011年2月の反政府デモでは、ウィファーク、ワアドを中心とする合同政治委員会に加わった。

民主国民協会al-Tajammu al-Qawmi al-Dimuqrati(タガンムウ)

左派民族主義の政治団体。2002年選挙をボイコット。2006年選挙、2010年選挙での当選者はなし。2011年2月の反政府デモでは、ウィファーク、ワアドを中心とする合同政治委員会に加わった。

国民公正運動Harakat al-Adalah al-Wataniyah(アダーラ)

2006年5月にワアドから離脱した弁護士のアブドッラー・ハーシムAbdullah Hashimが創設。左派民族主義の団体。野党系であるが、ウィファークの対抗勢力となることを目指していたとされる。議会選挙での当選者はなし。支持基盤はムハッラク県。

国民行動憲章協会Jamaiat Mithaq al-Amal al-Watani(ミーサーク)

2002年選挙時に、政府支持層が設立した団体。選挙での当選者はないが、上院での最大勢力で、2006年選挙後の任命でも10名が上院議員に任命された。2011年の抗議デモには批判的な立場を表明した。