ソ連時代の一党独裁制が崩れると、多党制に移行し、「アルメニア人が2人集まると3つの派閥ができる」という冗談が出るほどの百花繚乱ぶりである。ただ、党の団結が党首の強烈な個性に依存しているせいもあって政党の離合集散が多く、政局に影響を与える政党はわずかしかない。本稿では、第一次大戦以降のアルメニア社会に大きな役割を果たした政党を含めて、現代のアルメニア共和国の主要政党について解説する。(なお、政党のアルメニア語表記は、読者の便宜に鑑み、ラテン文字に転写してある。)

アルメニア全国民運動

Hayots‘ hamazgayin sharzhum

1989年にナゴルノ・カラバフ運動(ソヴィエト・アゼルバイジャン内のアルメニア人集住地域ナゴルノ・カラバフ自治州とソヴィエト・アルメニアとが合併するのが目標)の指導者レヴォン・テル=ペトロスィアンが設立した政党だが、前年に成立したカラバフ委員会の流れを汲むという説もある。テル・ペトロスィアンが政権の座に就いてからは与党として議会の多数派を占めたが、98年に大統領が辞任してからは党勢が急速に衰え、その後の議会選でも議席が取れない期間が続き、2012年の議会選で辛うじて1議席を獲得したものの、2013年に解党した。

ダシュナク党(アルメニア革命連盟)

Hay heghap‘okhakan dashnakts‘ut‘yun

1890年にチフリス(現:ジョージアのトビリシ)で複数の民族主義勢力が結集して成立した。1907年にロシアの人民主義政党エスエル(社会革命党あるいは社会主義者革命家党)と活動提携を結び、民族主義的社会主義を模索した。アルメニアにソヴィエト政権が成立した後、党内の反共グループは国外に亡命した。1925年以降は反共路線を打ち出し、在外アルメニア人コミュニティを根城にソヴィエト政権と厳しく対立した。ソ連邦末期にアルメニアに帰還し、カラバフ紛争に積極的に介入して国民の支持を伸ばしたが、対トルコ関係や94年のカラバフ紛争停戦後の対アゼルバイジャン政策をめぐってテル・ペトロスィアン政権と対立し、94年末からは非合法化され、98年の大統領辞任の直後、コチャリアン臨時大統領によって合法化された。コチャリアン政権期は事実上の与党として大統領を支えていたが、サルキスィアン政権が2009年春に打ち出したトルコとの国交樹立路線に反発して政権を離脱し、アルメニア人虐殺の謝罪をトルコ政府から勝ち取るまでトルコとの国交回復は容認しないとしている。2018年春の政変を受けた同年末の出直し議会選挙では、共和党とパシニアン新首相率いる「我が一歩」ブロックの対決の陰に隠れ、全議席を失ったが、第二次カラバフ紛争後の政局の混乱を収めるために行われた2021年6月の繰り上げ議会選では、「再生されるアルメニア」党と組み、かつて与党時代に関係の良かったコチャリアン元大統領を代表とした「アルメニア連合」ブロックを形成し、議席を奪還した。現議会では、この選挙ブロックで29議席を有する。

http://www.arfd.info/

アルメニア共和党

Hayastani Hanrapetakan kusakts‘ut‘yun

1990年結党。思想的にはダシュナク党右派のガレギン・ヌジュデ(1886~1955)および1967年から87年にかけてソヴィエト・アルメニアで非合法に活動していた民族統一党の流れを汲むという。99年に暗殺されたヴァズゲン・サルキスィアン元首相、2007年に急死したアンドラニク・マルカリアン元首相も党首を務めたことがある。現在の党議長はセルジュ・サルキスィアン前大統領。2018年末の出直し議会選挙では、パシニアン新首相率いる「我が一歩」連合の政治腐敗一掃キャンペーンが功を奏し、全議席を失ったが、2021年6月の繰り上げ議会選では、新設の祖国党と「我に誇りあり」ブロックを組んで、パシニアン首相のカラバフ紛争での失政を批判し、議席を回復した。現議会では7議席を有する。

http://www.hhk.am/eng/index.php?page=program

「市民協約」

K’aghak’ats’iakan paymanagir

ジャーナリストのニコル・パシニアンが、それまで支持していたテル・ペトロスィアン元大統領と袂を分かって、2013年に設立した。当時のサルキスィアン政権の打倒と完全自由選挙を目指した。しかし、急ごしらえの政治団体だったため、2015年に政党として登録した後も、他党との連携で選挙に臨んだ。2017年の議会選では、「輝けるアルメニア」や共和国党(与党共和党とは別団体)と「出口連合」ブロックを形成、選挙連合全体で9議席獲得した。2018年春のパシニアンが主導した民衆革命でパシニアン内閣が成立したことを受けた同年末の出直し議会選では伝導党と「我が一歩」ブロックを形成、共和党との対決姿勢で88議席を獲得し、名実ともに与党化した。しかし、2021年の繰り上げ議会選では、第二次カラバフ紛争の失政を野党から厳しく追及され、71議席に減らしたものの、「市民協約」の単独過半数となり、引き続き与党を担っている。

https://www.civilcontract.am/hy

「繁栄のアルメニア」党

Vargavatsh Hayastani kusakts‘ut‘yun

2004年結党だが、この党が注目されるようになったのは、2006年夏に実業家でアームレスリング選手のガギク・ツァルキアンが党首に就いてからである。手広く事業を行う実業家が突如として政界入りして急速に党勢を拡張させたため、共和党に次ぐ第二与党を育成しようという大統領の思惑を訝る観測もあるが、実態は不明。実際、共和党政権に協力的な態度を示した。2018年春の政変を受けた同年末の出直し議会選挙では、共和党とパシニアン新首相率いる「我が一歩」連合の対決の中でも議席を守ったものの、第二次カラバフ紛争後の政局の混乱を収めるために行われた2021年6月の繰り上げ議会選では、パシニアン首相を批判する元大統領を擁する選挙連合が2つも現れたことで存在感が薄れ、全議席を失った。

http://www.bhk.am/

「輝けるアルメニア」

Lusavor Hayastan

2015年に法律家のエドモン・マヌキアンが設立した政党で、EUとの関係を重視している。2017年の議会選挙では、パシニアンの率いる「市民協約」などと「出口連合」ブロックを形成して、3議席を確保し、続く2018年の出直し議会選では、単独で18議席を獲得し、第3会派に躍り出た。しかし、2021年6月の繰り上げ議会選では、パシニアン首相を批判する元大統領を擁する選挙連合が他に2つも現れたことで存在感が薄れ、全議席を失った。

https://brightarmenia.am/

「法治国家」

Orinats‘ yerkir

1998年に法律家のアルトゥル・バグダサリアン議員が中心になって創設されたEUとの関係を重視する政党。2003年のコチャリアン大統領再選後に与党となるが、2006年末メツァモル原発の民営化問題をめぐって政府と対立し、政権から離脱した。2008年の大統領選では党首が立候補し、第3位となった。その後、サルキスィアン政権誕生時に再び与党入りした。しかし、2017年の議会選で議席を失って以来、党勢は回復していない。

http://www.oek.am/main/free_text/home_page.php?lng=1

「遺産」

Zharangut‘yun

アルメニアの体制転換時の1991、92年に外相を務めたラッフィ・ホヴァニスィアンが、2002年に設立した。党首がアメリカ合衆国生まれということもあり、欧米型の政治経済制度をアルメニアに定着させることを目指している。2007年の議会選挙で7議席を獲得した。しかし、2018年の出直し議会選で議席を失って以来、党勢は回復していない。

http://www.heritage.am/indexeng.htm

アルメニア共産党

Hayastani komunistakan kusakts‘ut‘yun

アルメニア共産党はソ連末期に解体分裂したが、その中で後継政党を自任する。2003年の議会選で議席を失って以来、党勢は回復していない。

アルメニア統一共産党

Hayastani miavorvatz komunistakan kusakts‘ut‘yun

旧共産党系の諸政党、アルメニア新共産党、アルメニア労働共産党、アルメニア統一労働党、アルメニア共産主義者同盟、アルメニア・マルクス主義者党、知識人党が、2003年7月に結集して成立したが、2007年の議会選挙で議席を失った。

民主自由党

Ramkavar azatakan kusakts‘ut‘yun

1908年にイスタンブル(現トルコ)で結成された。支持者にはオスマン帝国の高級官僚、富裕な商人や銀行家が多く、当時零細商工業者や下級聖職者出身者が多かったダシュナク党とは対照的な政党であった。民主自由党は、第一次大戦時にオスマン帝国下でアルメニア人虐殺が起こってから、この事件後に世界に四散したアルメニア人のコミュニティに根を下ろした。ソヴィエト・アルメニア成立後は、在外アルメニア人コミュニティに進出してきたダシュナク党に対抗し、一貫してソヴィエト政権を支持した。アルメニアの独立後は、「本国」政界にも進出したが、1999年の議会選で議席を失って以来、党勢拡大は見られない。

http://www.ramgavar.org/index.php?lang=en

(社会民主主義)フンチャク党

Sots‘ial democrat hnch‘akyan kusakts‘ut‘yun

フンチャク(「鐘」の意)党は、1887年夏にスイスのジュネーヴで結成されたアルメニア最初の社会主義政党である。創設者は西欧で教育を受けたマルクス主義者であった。1896年にオスマン帝国のアルメニア人社会の実情に鑑みれば社会主義は時期尚早とするグループが脱落したため党勢を縮小したものの、各地のアルメニア人コミュニティに活動拠点を築いていった。1920年代以降は、ソヴィエト・アルメニアを支持する派閥として、民主自由党と協力しつつ、ダシュナク党と対立した。アルメニアが独立した後はテル=ペトロスィアン政権を支持する立場を示していたが、サルキスィアン政権に批判的だった。

http://www.hunchak.org.au/aboutus/historical_turabian.html

国民民主連合

Azgayin demokratakan miut‘yun

ソヴィエト・アルメニア末期の1990~91年にアルメニア全国民運動政権時に首相を務めたヴァズゲン・マヌキアンが、91年にテル・ペトロスィアンと袂を分かってこの党を創設した。党首マヌキアンが1996、98、2003、2008年と大統領選に出馬するなど、野党を貫いている。また、2003年に会派「正義」を結成するなど、マヌキアンは野党結集に奔走したが、2007年の議会選挙でこの党は議席を失った。

「国民の統一」

Azgayin miabanut‘yun

1997年に元共産党員で、エレヴァン市長も務めたアルタシェス・ゲガミアンが1997年に設立した。党首ゲガミアンが2003年、2008年の大統領選に出馬するなど、野党を貫いている。2003年の議会選挙では議席を獲得したものの、2007年の議会選挙で議席を失った。