「現在の政治体制・制度」カテゴリーの記事一覧

2021年8月20日

シリア/現在の政治体制・政治制度

シリアでは1963年の「バアス革命」以来、バアス党政権が今日に至るまで続いている。そうしたなかで、ハーフィズ・アル=アサド(H・アサド)が1970年に無血クーデタを引き起こして全権を掌握し、翌(1971)年に大統領に就任して以来、アサド家が大統領職を独占しており、2000年以降はH・アサドの次男であるバッシャール・アル=アサド(B・アサド)がその任に就いている。

そのアサド政権に関しては、現代シリアの政治・外交を専門とするレイモンド・ヒンネブッシュが、H・アサド時代の統治形態を「大統領君主制」と形容した1が、現在も基本的にはB・アサドの手に権力が集中している状況となっている。

大統領職の主な権能に関しては、現憲法に以下のように規定されている2。大統領と首相は、「憲法が規定する範囲内で国民を代表して行政権を行使する」(第83条)と規定され、大統領は自らが主宰する会議において、「国家の基本政策を立案し、その履行を監督する」(第98条)ことになっている。具体的には、法律に則って諸々の法令、決定、そして命令を発布し(第101条)、人民議会(すなわち国会)の同意を得た後の宣戦布告、国民総動員、そして和平締結を行う(第102条)のである。また、第97条に則り、大統領は首相、副首相、大臣、そして次官を任免する権限を持っており、更には「自らを議長とする閣議を召集できる」(第99条)のである。なお、大統領は「全軍の最高司令官である」(第105条)と規定されている。

このように、シリアにおいては、大統領が内政と外交、さらには軍事を司ることが、旧憲法と同様に現憲法においても規定されている。それでは、こうしたシリアの政治制度を基盤とする同国の現実の政治体制については、どのような見方をとることが可能であろうか。ここでは、政治体制論の「古典」とも言えるロバート・ダールの『ポリアーキー』に依拠して考えてみたい。ダールは、「公的異議申立て」及び「選挙に参加し公職につく権利」が、それぞれ実現されている程度から、現実の政治体制を分類している。その結果、「公的異議申立て」及び「選挙に参加し公職につく権利」の実現度合いが共に高い「ポリアーキー」以外に、「公的異議申立て」及び「選挙に参加し公職につく権利」の実現度合いが共に低い「閉鎖的抑圧体制」、「公的異議申立て」の実現度合いは高い一方で「選挙に参加し公職につく権利」の実現度合いは低い「競争的寡頭体制」、「公的異議申立て」の実現度合いは低いが他方で「選挙に参加し公職につく権利」の実現度合いは高い「包括的抑圧体制」、といった4つの類型を提示しているのである3。さらに、「公的異議申立て」を「市民的・政治的自由」に、「選挙に参加し公職につく権利」を「普通選挙制度」に、それぞれ読み替えるならば、シリアでは「普通選挙制度」に関しては現実にほぼ機能してきていると見なせるものの、「市民的・政治的自由」に関しては後述するように大幅な制約が加えられていることから、同国の政治体制は「包括的抑圧体制」であると判定できよう。

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2021年8月20日

ヨルダン/現在の政治体制・制度

正式国名
ヨルダン・ハーシム王国
政治体制
立憲君主制
国家元首
アブドゥッラー2世国王
首相(兼国防相)(国王の指名による)
ビシャル・ハサーウナ
外相(首相の指名 国王の承認による 他の閣僚も同様)
アイマン・サファディー
内相(同上)
マーゼン・アブドゥッラー
議会
二院制
  • 下院(定数130名, 宗教・エスニシティ枠12、女性議席15議席(各行政区に1議席確保)、普通選挙, 任期4年)
  • 上院(定数65名, 国王の指名, 任期4年)
司法
普通裁判所, 宗教裁判所, 特別裁判所

現在のヨルダンの政治体制は、立憲君主制であり、ハーシム家出身のアブドゥッラー2世が国王として大きな権限を持っている。現憲法は、1952年1月8日に制定されたが、その後改正を重ねてきた(1954, 1955, 1958, 1960, 1965, 1973, 1974, 1976, 1984,2011,2012, 2016年改正)。行政権は、国王と内閣に付与される。国王が全ての法律に署名し、それを執行する。国王の法律承認の拒否権は、上・下両院の3分の2の投票で覆される。国王は布告により、裁判官を解任することができ、憲法改正を承認し、宣戦布告し、軍を率いることができる。憲法では三権分立の原則が導入され、市民には、言論・出版・集会・学問的自由・結社・宗教的自由・国会議員及び地方議会議員選出の権利が保証されている。

議会(国民議会)は、国王の指名によって選ばれる上院(65名、任期4年)と18歳以上の男女による普通投票で選ばれる下院(定数130議席、うち15議席は女性議席、12議席は宗派・マイノリティ議席。任期4年)からなる。 

国王は首相指名権を持っている。内閣は組閣後、議会に施政方針を発表するが、議会の絶対多数による不信任で解散する。また、閣僚は議会の絶対多数による不信任で更迭される。他方、国王は下院の解散権を有している。民主化要求の動きに応じて、2011年42項目にわたる憲法改正が行われ、その中で、国王の権限(選挙の延期の大権、下院の無期限解散権、政府の保護、首相の再指名など)制限にかかわる動きがあった。その中でも最も注目されたのは、首相の指名権であったが、国王の首相指名権は剥奪されず、議論の余地を残している。

司法面では憲法に基づき、裁判官は国王の指名を受けるが「法以外の何の権威にも従わない」と司法の独立性が謳われている。裁判所は、普通裁判所(初級裁判所、治安判事裁判所、上訴裁判所、最高裁判所)、宗教裁判所(シャリーア法廷、宗教共同体委員会)、特別裁判所(警察法廷、軍事評議会、関税法廷、国家治安法廷)が設置される。行政に対する審査は、特別高等法廷で行われる。

地方行政は、行政区の長官は国王に指名され内務省の管轄下に置かれるが、地方への開発政策等の実施に関しては州政府が権限を持つ。

政治体制発展略史

ヨルダンはイギリスの委任統治領パレスチナの管轄下におかれる一種の保護国トランスヨルダンを前身とし、1946年トランスヨルダン王国として独立した。トランスヨルダンは1948年のパレスチナ戦争(第一次中東戦争)をきっかけに、パレスチナの一部と見なされるヨルダン川西岸を占領し、その後、西岸の親ヨルダン的パレスチナ人有力者の要請を受ける形で(1950年ジェリコ宣言)、西岸を自国の領土として統合した(その時点でヨルダン・ハーシム王国と改称)。ヨルダンは、西岸の領有やヨルダン国民の6割程度を占めると見なされるパレスチナ系住民の扱いをめぐってPLOやアラブ民族主義勢力との間で、長らく緊張関係にあった。ヨルダンのパレスチナ系住民はヨルダン国籍を付与され、法的にはヨルダン国民と同等の権利を認められている。しかし、社会的には一般に不利な立場に置かれ、特に政府関係の職業に関しては差別を受けてきたと言われる。

1950年代下院は、西岸と東岸それぞれ同数(20名ずつ40議席、後に30名ずつ60議席に変更)の議員が選出される事になっていた。第三次中東戦争(1967年)後、西岸がイスラエルの占領下に置かれ、通常の選挙実施が不可能になった事を理由にヨルダン政府は選挙を凍結した(1957年以降の戒厳令により、すでに政治活動は実質的に凍結されていた)。イスラエルの占領が長期化し、また西岸のパレスチナへの帰属がアラブ世界や国際社会で承認されるようになり、1974年のラバト・アラブサミットでパレスチナ人の代表がPLOであることが確認されると、ヨルダン政府は凍結されてきた議会の解散を決定した。その後ヨルダン政府は、西岸選挙区を除く東岸のみの代表からなる議会とそのための選挙法改正を実施してきた。1988年にヨルダンは政治的な理由から、西岸の領有を正式に放棄する「西岸との法的・行政的関係の断絶宣言」を行った。これにより西岸を巡る選挙法上の問題点がなくなり、普通選挙の実施条件が整った。

1989年には1967年以来の下院議員選挙が実施された。更に、1991年に戒厳令が解除され、1992年に政党法により一定の条件を満たす政党の活動が許可された。しかし、投票方法を連記制から単記制に変更する事を決めた1993年の選挙法改正が、野党、特にイスラーム行動戦線(IAF)に不利に働いたとの批判を呼んだ。この投票方法が、一票の重さや選挙区割りの問題と合わせてその後の政府と野党の主な対立点となった。1997年には選挙法の改正に反対するIAFと他の野党の一部が選挙をボイコットした。その後の2001年の新選挙法では選挙区や票の重さの問題に関する多少の変更は見られたが、投票方法の見直しはされなかった。国政の場から離れることで多くの問題に直面した経験から、その後行われた2003年、2007年の選挙に野党は選挙に参加したものの、2009年の改正選挙法でも女性枠の拡大(6議席増)と若干の都市部の議員枠拡大(アンマン2、イルビド1、ザルカ1議席増)以外、対立点は解消せず、再びIAFや野党の一部の選挙ボイコットがあった。さらに、2012年の選挙法改正では、全国区の政党枠(政党以外の政治団体も参加可能)を導入し議会における政党代表率を18%とした。しかし、代表率を最低でも30%にすることを要求するIAFなどの野党勢力はこれを不十分とし、IAFは再び選挙をボイコットした。なお、2012年改正選挙法では、女性枠がさらに3議席拡大され、またバルカとカラク選挙区でキリスト教徒議席枠がそれぞれ1議席増やされた。

2016年の選挙法改正(2016年第6号選挙法)では、オープンリスト方式の比例代表制を採用した。これは、SNTV(単記制)から連記制への投票方法の変更を意味していた。候補者は各選挙区の中で3人以上(選挙区の定数を超えない範囲)で構成されるリストに登録し、投票者は、リスト全体、1つのリストの異なる候補者、または選択したリストのすべての候補者に投票できる。すなわち、オープンリストシステムにより、異なるリスト間および各リストの候補間で競合が発生する。また選挙区の範囲を行政区レベルまで拡大することで(アンマン、ザルカ、イルビドは例外)、選挙区は45から23に減少した。定数が20議席縮小されたが、以前の15議席が維持されたため、女性の代表率は上昇した。投票リストへの登録手続きを簡素化(受動的登録制)した。また投票権は投票日の90日前の段階で18歳であることを条件とするように変更され、投票権は若干拡大された。この制度は2020年の総選挙でも踏襲された。

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2020年10月4日

スーダン/現在の政治体制・制度

スーダンの政治体制は、大統領共和制である。2019年4月、約30年間続いたバシール政権が崩壊した。国軍が立ち上げた暫定軍事評議会(Transitional Military Council: TMC)と民政移管を求める市民の代表からなる「自由と変化勢力」(Force of Free and Change: FFC)の交渉により、暫定的な統治機構が設立されるに行ったった。スーダンでは、2005年7月以降、暫定国家憲法(Interim National Constitution)により政治体制が定められていたが、2019年8月4日に、移行期間のための憲法宣言(Constitutional Declaration for the Transitional Period)が署名され、3年3か月間の暫定期間は、2005年の暫定国民憲法に替わって使用されることが決定した。同憲法宣言第2章第7条第9項において、暫定期間中に、スーダンの恒久憲法策定に向けたメカニズムが構築されるべきこととなっている。

なお、スーダンでは1956年1月1日の独立以降、4つの憲法が、政変により作り替えられてきた。1956年のスーダン移行憲法、1973年のスーダン恒久憲法、1998年のスーダン共和国憲法、2005年のスーダン暫定国民憲法である。軍政と民政がたびたび入れ替わり、国内で反乱勢力が蜂起し政治的要求をする中で、あらゆる立場にあるスーダン国民のための恒久憲法策定は、スーダンの歴史上、重要課題であり続けている。

ここからは、2019年の憲法宣言の内容から、主要な移行政府機関についてまとめる。憲法宣言第3章第9条は、移行政府機関を次の3つから成ると定める。(1)主権の象徴である「主権評議会(Sovereignty Council)」、(2)国家の最高行政権を有する「内閣」、(3)立法権を有し、行政機構の活動を監視する「移行立法評議会(Transitional Legislative Council)」である。行政府・立法府に加えて、憲法宣言第8章で(4)司法府も規定される。以下ではこれらの4つについて、憲法宣言の内容を抜粋する。

行政府

行政府として、主権評議会と内閣がある。大統領ポストは、2019年4月のバシール大統領撤退以降、空席である。

主権評議会

主権評議会は、軍事評議会と文民勢力の間の権力分有協定として取り決めたものである。立法評議会は11人で構成され、5人はFFCが選出する文民、5人はTMCが選出する者、最後の1人は文民で、TMCとFFCが合意の下、選出する。主権評議会の議長は、暫定期間のはじめの21か月は同評議会の軍事メンバーが選出し、残る18カ月間の議長は評議会の文民メンバーが選出する文民が務める(憲法宣言第4章第10条)。

主権評議会は、次の能力と権限を有する。FFCが選出した首相の任命、首相が任命した閣僚、地方の長・州知事の承認、指名された立法評議会議員の承認、最高裁判所設置後の承認及び司法長官等の承認、内閣で指名された大使及び各国からの駐スーダン大使の承認、主要閣僚からなる安全保障・防衛評議会の勧告に基づく宣戦布告、等が定められている(憲法宣言第4章第11条)。

2020年9月現在、主権評議会議長はブルハン将軍(General Abd-al-Fatah al-BURHAN Abd-al-Rahman)である。2021年5月以降は、文民の議長に交代し2022年に選挙を迎える予定である。

内閣

内閣は、首相及び20人を超えない範囲で、FFCの閣僚候補者リストの中から首相が指名し、主権評議会で承認を受けた者からなる。ただし、国防大臣と内務大臣は、主権評議会の軍事メンバーが指名する。首相はFFCが選出し、主権評議会が承認する(第5章第14条)。

内閣は、次の能力と権限を有する。「自由と変化宣言」のプログラムに従って移行期間の任務を遂行すること。戦争・紛争を停止し、平和を構築すること。法律案、予算案、二国間お呼び多国間合意を早期に進めること。公的サービスのための計画や政策案を作成すること。公共サービスの長を指名し、国家機関の活動を監視すること。法の執行を監視すること、などである(第5章第15条)。

立法府

立法府として憲法宣言で規定されるのは移行立法評議会である。移行立法評議会は、独立の立法当局である。移行立法評議会員は、最大で300人であり、前政権に参加していた国民会議党などの政党を除いた、すべての勢力を代表する。女性の参加を全体の40%は確保すること、67%はFFCメンバーから、33%は、「自由と変化宣言」に署名していない勢力から選ばれる。移行立法評議会を構成する際には、「自由と変化宣言」に署名したか否かにかかわらず、スーダン国内で勘案すべき様々な要素を考慮すべき旨も明記されている(第7章23条)。

移行立法評議会は、次の能力と権限を有する。法律の制定、内閣の監視、国家予算の承認、二国間、地域間、国際合意や条約の批准、法律・規則の制定及び評議会の議長・副議長・専門委員会を選出する(第7章第24条)。首相が退任した際には、移行立法評議会が新首相を指名し、主権評議会が承認する。

この移行立法評議会は、2022年に予定される選挙まで存続する。

司法府

最高司法評議会(Supreme Judicial Council)が、国民司法サービス委員会に代わり設置され、権限を引き継ぐ。最高指標評議会は、憲法裁判所長官及び裁判官、司法長官及び副司法長官を選出する(第8章第28条)。

司法権は司法機関に委ねられる。司法機関は、主権評議会や立法評議会、その執行部局から独立して存在し、必要な財政的・行政的独立も維持する。司法長官は、司法機関の長であり、国民最高裁判所の長であり、最高司法評議会の下で司法機関の運営責任を有する(第8章第29条)。

憲法裁判所は、司法機関とは異なる独立した裁判所であり、法律や措置の合憲性を監視し、権利と自由を保護し、憲法上の係争を裁く。法律によって、憲法裁判所は設置され、その能力と権限が規定される(第8章第30条)。

参考文献

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2019年11月18日

インドネシア/現在の政治体制・制度

インドネシア共和国の政治体制の基本構造は1945年憲法に規定されている。すなわち5年を任期とする大統領を国家元首とし、最高議決機関は国民協議会(MPR)である。しかしその権力構造は時代によって大きな変化を遂げている。初代大統領スカルノは大衆動員を行い、イスラーム系政党と共産党を含めた翼賛体制を作ろうとしたが失敗、経済的な破綻と50万人とも言われる1965年の共産党員虐殺(9月30日事件)とともに体制が崩壊した。9月30日事件後の国軍を掌握、事態を収拾してスハルトが権力の座についた。大統領であるスハルトが、大統領を任命する国民協議会を握るなど、安定的な「開発独裁」体制を形成した。野党への法的政治的介入によって、議会では翼賛的な「与党」ゴルカルがつねに独占的な立場にあった。さらに、スハルト大統領は国会の承認が不要な大統領決定を多用し、法律もほとんど制定されなかった。

スハルト体制下における大統領への権力集中や構造的な汚職、政治的自由や言論の自由への抑圧は、国民の批判や反発を生んでいたが、体制への取り込みと厳しい取り締まりというアメとムチによって長期政権を揺るがすことはほとんどなかった。流れが変わったのは1997年のアジア通貨・金融危機以降である。通貨ルピアの下落による急速なインフレは国民生活を圧迫し、1998年に入ると学生を中心とした反体制デモが次第に激しさを増した。他方、高齢のスハルト大統領への退陣要求は政権エリートにも波及した。5月12日に首都ジャカルタのトリサクティ大学で治安部隊が学生デモに発砲した事件をきっかけに、スハルト退陣要求が勢いを増し、各地で暴動が発生した。事態を収拾できなくなったスハルトは5月21日に辞任した。この間、学生や知識人に主導された改革勢力は、デモのみならず、政府・国軍・議会の関係者との間で討論会や集会を開催して、政権内外のコミュニケーションが取られた。この過程でゴルカルのなかからも政治改革を進めようとするグループが現れ、スハルトに辞任勧告を行った。

スハルトの辞任を受けて、副大統領のハビビが大統領に昇格した。ハビビが正当性を示すためには民主化の推進以外に方策はなかった。1年あまりの間に、政治活動やメディアの自由化、国軍の政治機能の廃止、警察の国軍からの分離、地方分権の推進などの改革が行われた。これらの改革は憲法改正を伴って行われた。4度の憲法改正は事実上の新憲法制定といえるほどの大刷新だった。

大統領への権力集中への反省から、その権限が大きく縮小された。大統領の任期は2期10年と定められ、長期の権力保持ができなくなった。大統領に認められていた立法権も否定され、大統領は法案の提案権を持つのみになった。国会の解散権は明確に否定、人事権にも制限が加えられた。

国民協議会は2004年総選挙以降、国会(DPR)議員(2004~09年550人、2009~19年560人、2019年〜575人)と地方代表議会(DPD)議員(2004~09年150人、2009〜19年132人、2019年〜136人)から構成されている。民主化後多党化が進み、連立政権が常態化、権限を縮小された大統領は国民協議会や国会の運営に苦労することになった。2001年には第4党の民族覚醒党から大統領に選ばれたアブドゥルラフマン・ワヒドが国民協議会によって罷免されるに至った。しかし不安定な権力構造と国民協議会の行き過ぎた権力行使に対して批判が高まった。2002年の第4次憲法改正では国民協議会の優越性が否定され、また大統領が国民の直接選挙によって選出されることにより、大統領の正統性が再度高められることとなった。こうして2004年に初めて直接選挙によって大統領が選ばれたスシロ・バンバン・ユドヨノは2期10年の安定政権を築いた。続く2014年に選ばれたジョコ・ウィドド(以下通称のジョコウィ)も、2019年に再選され、2期目に入った。

独裁的な体制の一翼を担っていた国軍の政治的な機能も制限されるようになった。スハルト時代の国軍は軍務と政務を担当するという「二重機能」ドクトリンを掲げ、国会に任命議席を持っていた他、各地方に配置された軍管区は村レベルまで日常的な監視を行っていた。民主化後、二重機能の廃止、国防への専念、政治的中立などを求める国防法(2002年)、国軍法(2004年)が成立した。国軍の公式な政治からの撤退は定着し、クーデターの可能性は極めて低くなった。しかし国軍は非公式には依然強力な発言権を維持している。退役軍人は歴代政権に入閣している。また国軍は予算の半分以上を自己調達しているため、違法なビジネスへの関与が危惧されている。

民主化後のインドネシアにおける政治構造のいまひとつの特徴は急速な地方自治の拡大である。1999年に制定された地方行政法と地方財政法によって地方財政の裁量権が大幅に拡充された。利権の確保を目指し、あるいは地域主義の台頭などによって、多数の州や県が全国で新設された。2005年にはそれまで地方議会によって選ばれていた地方首長が直接選挙によって選出されるようになった。2014年10月に大統領に就任したジョコウィは、2005年に初めての直接選挙で中ジャワ州スラカルタ市の市長に選ばれると、その斬新なスタイルと行政改革などの政策で人気を呼び、2012年にジャカルタ州知事、そのわずか2年後に国政の頂点に立った。直接選挙の導入は、政党不信も相まって、有権者から直接支持を調達するポピュリスト型の地方首長を生むことになった。ジョコウィの大統領当選以降、地方首長選が大統領への登竜門として注目されるようになった。

参考文献

  • 川村晃一「政治制度から見る2004年総選挙―民主化の完了、新しい民主生活の始まり」、松井和久・川村晃一編著『メガワティからユドヨノへ―インドネシア総選挙と新政権の始動』明石書店、2005年、75-99ページ。
  • 川村晃一「2014年選挙の制度と管理」、川村晃一編『新興民主主義大国インドネシア―ユドヨノ政権の10年とジョコウィ大統領の誕生』アジア経済研究所、2015年、15-36ページ。
  • 本名純「インドネシア【政治・外交】」『新版 東南アジアを知る事典』平凡社、2008年、634-636ページ。
  • 増原綾子『スハルト体制のインドネシア―個人支配の変容と一九九八年政変』東京大学出版会、2010年。
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2019年1月18日

バングラデシュ/現在の政治体制・制度

バングラデシュは人口の9割をムスリムが占めている。同国の人口が1億6760万人(同国統計局による2020年度統計)であることを考えると、1億4000万人以上のムスリム人口をかかえていることとなり、実数でいえば、インドネシア、パキスタン、インドに次ぐ世界第4位のムスリム人口となる。そして、このような大多数のムスリム人口を背景とし、バングラデシュの国教はイスラームに規定されている。

現在バングラデシュでは、定数300名および、選出された議員の割合に応じて配分される女性留保議席50名の計350議席によって構成される、5年任期の一院制議会制度がとられている。しかし、議会制のもとでの民主主義の歴史は浅く、1975年から1990年までは、軍部出身の大統領に権限が集中し、国会が意味をなさない形骸化した議会制度、もしくは直接の軍政下にあった。バングラデシュ政治の実質的な民主化は、1990年にH・M・エルシャド政権が学生運動を主体とした民主化運動によって倒された後の憲法改正によって、大統領を元首とする議院内閣制度が確立した1991年になされたといえる。

現政権与党のアワミ連盟(Awami League)は2018年12月30日に実施された第11次国民議会選挙において、単独で全300議席中258議席を獲得し、民主化以降初の3期連続の政権党となった。しかしながら、野党支持者が暴力的に排除されたり、投票箱が持ち出されたりするなど、選挙の公正な実施に関しては疑問符がついた。以下に、現在のバングラデシュ政治体制に関する論点を整理したい。 

(1)政治体制・政治制度の概観

バングラデシュにおける現在の政治体制の柱は議院内閣制である。行政権は内閣総理大臣に与えられる。大統領は、国家の元首および軍の最高司令官として定められており、総理大臣、大臣、および最高裁判所裁判官の任命権を有する。しかし、大統領は首相の助言にしたがって行動しなければならない。また、交戦権の行使には議会の承認が必要である。

立法権は議会に属し、議会は任期5年の一院制である。内閣総理大臣は議会によって選出される。内閣総理大臣は内閣の人事権を有する。議席数は350議席で、直接選挙による300人定員の普通選挙に加えて、50人の女性留保議席がある。女性留保議席に関しては、普通選挙の得票率に従って政党ごとに割り当てられる。

司法権は、行政・立法権から独立する旨の憲法規定があるが、議会の3分の2以上の賛成で裁判官の罷免が可能である。裁判所は最高裁判所(Supreme Court)、高等裁判所(High Court)、下級裁判所(Subordinate Court)が憲法により定められている。これとは別に、軽度の民事訴訟においては村裁判によって裁判がおこなわれることもある。

(2)2大政党対立による政情不安

1991年の民主化以降、バングラデシュにおいては、アワミ連盟とBNPが交互に政権を担ってきた。そして、政権が交代する度に、野党側が「不正選挙」結果の取り消し要求、長期間にわたる議会ボイコットや政党傘下の学生組織を動員しての街頭デモやホルタル(ゼネスト)など、激しい反政府活動を展開し、国政を混乱させてきた。与党側も政策決定過程において実質的に野党を排除し、前政権の汚職の摘発や要職者の逮捕などをつうじて、野党の力を弱めようと画策した。また、中央から末端の地方行政、国立大学にまでおよぶ役職人事を政治的に任命し、影響力を強めてきた。2大政党のどちらが政権の座についても、同様のパターンが繰り返されており、今日までバングラデシュの政情混迷の主要因となっている。

国内で最も長い歴史を誇るアワミ連盟は、パキスタン時代にムジブル・ラフマン総裁を中心に自治権拡大運動を展開した。独立後、ムジブル・ラフマン総裁は初代首相(後に大統領)に就任したが、次第に強権的性格を強め、1975年の軍事クーデターによって暗殺された。後継者として、長女のシェイク・ハシナ(現首相)が総裁に就任した。

一方のBNPは、1975年の軍事クーデターの主導者の一人である、ジヤウル・ラフマン陸軍参謀長(77年に大統領)が、民政移管に備え1978年に結成した官製政党である。ジヤウル・ラフマン大統領もまた、1981年に軍内部の対立から暗殺され、その後はカレダ・ジア夫人が総裁に就任した。

このように、両党の現総裁は、過去に大統領であった近親者を軍事クーデターによって暗殺されている。特に、初代大統領のムジブル・ラフマン暗殺の際には、大統領本人だけでなく一族の大半が殺害された(ハシナ現総裁は外遊中で殺害を免れた)。そしてクーデターの後に、軍部内の権力闘争に勝ち抜いて、自らBNPを結成し政権の座についたのがジヤウル・ラフマンであったことから、両総裁の間には晴れることのない遺恨が存在する。 

現在では、両党の間には、支持基盤や理念に違いはみられるものの、政策的には大きな差異はなく、むしろ党首間の心情的確執や利権の争奪、権力への強い固執からくる泥仕合的な対立が目立っている(村山2012)。現段階では上記二大政党に割って入るだけの支持基盤と強いリーダーシップを持つ政党・政治家が存在しないことから、国民はどちらかに国政を託すしかないのが現状である。2008年総選挙実施にあたり、ノーベル平和賞受賞者であるグラミン銀行のムハマド・ユヌス総裁が新党立ち上げを画策したが、実現しなかった。また、国政・地方に関わらず、選挙の不正に関する報道はあとをたたず、バングラデシュの議会制民主主義は、民意を反映する仕組みとしてはいまだ未成熟であるといえる。

(3)軍の影響

1991年の民主化以降、軍の間にも二大政党の対立が浸透しているといわれているが、軍の中立的姿勢と実行力は、2007年から2008年にかけての非政党選挙管理内閣を経て、国民の高い支持を得るにいたった。

2006年10月、2001年より国政を担っていたBNP政権が任期満了で退陣し、解散後90日以内に国会選挙を実施するために設けられる、非政党選挙管理内閣が発足した。1996年の憲法改正で導入されたこの制度は、与野党どちらの側にも与しない中立的な立場の暫定内閣を組閣し、選挙管理委員会を支援・監視することにより、国会選挙の公正性を担保することを目的としている。しかし、内閣人事などを巡り政党間の対立が激化し、国内の治安が悪化したため、同内閣のイアデュッディン大統領は2007年1月11日、バングラデシュ全土に向けて非常事態宣言を発令するとともに、全土に夜間外出禁止令を出した。そして軍の後援のもと、翌12日にファクルッディン・アーメド元中央銀行総裁を首班とする非政党選挙内閣が再発足した。

ファクルッディン政権は、これまで2大政党のどちらもが自らの足下への波及を恐れて着手してこなかった政治改革を断行した。特に、汚職の一掃にむけた取り組みは、大々的に実施され、元閣僚を含む政治家や官僚、企業家を矢継ぎ早に逮捕した。その対象は政治の中枢にまでおよび、BNPのカレダ・ジア総裁、アワミ連盟のシェイク・ハシナ総裁も汚職容疑で逮捕される事態となった(08年6月にハシナ総裁は海外での病気治療を理由に仮釈放され、ジア総裁も08年9月に保釈された)。報道によれば、400人以上におよぶ汚職容疑者リストは軍部によって用意されたとされる。そのため、軍部は、汚職のない環境制度作りに寄与し、2大政党による利益誘導型の政治にメスを入れたとして国民の高い支持を受けた。一方で、選挙実施にむけたロードマップ作成の遅れから、アメリカをはじめとする欧米諸国から、軍の強い影響下にある非政党選挙管理内閣が長期化することへの危惧が示されたが、結果として2年後の2009年12月に議会選挙が実施され、無事民政移管が果たされた。

このように、バングラデシュ政治における軍部の影響力は、国民の支持を背景に決して小さくないが、現状では軍部が全面にでて長期間政治運営をおこなうことは困難であると思われる。一つには外国援助依存がきわめて高いバングラデシュにおいては、欧米のドナー諸国の意向、とりわけ民主化促進、基本的人権の擁護を求める外的圧力が働き、軍政をしくこと自体が難しくなっている。また、軍の関心は、機微な舵取りと利害調整が求められ、時として軍内部でのクーデターに発展する恐れのある国内政治への関与から、議会制民主主義のもと民主化が前提となっている国連平和維持軍の派遣によって得られる経済的利益に移行していると考えられる。バングラデシュは2018年5月の段階でPKOミッションに7099人を派遣しており、世界第2位の派遣国である。バングラデシュにとっては、外貨と軍組織の維持費獲得、そして国際的な地位向上という派遣へのインセンティブがある。また、将兵個々人の経済的メリットも大きく、派遣兵士の平均月給は約75、680TK(約1、100USドル)となっている。この額は少尉クラスの基本給10、000TK、准将クラスの基本給38、565TKに比べると格段に高い(IWGIA 2012)。軍のリクルートサイトには海外勤務での手厚い追加手当てがうたわれており、国軍兵士を目指す動機付けとなっている。

非政党選挙管理内閣を支援したモイーン・アフマド陸軍参謀長は、自身の回顧録において、国連の平和維持軍担当の事務次長から、すべての与野党が参加したもとでの公正な選挙が実施されない場合には、バングラデシュ軍を平和維持軍から外すことを検討するとの警告があったとしたうえで、平和維持軍への機会が奪われた場合、限られた収入しかない兵士たちの不満を抑えるのは難しいと指摘した(堀口2009)。実際、2009年2月には平和維持軍への参加資格のない準軍事的組織である国境警備隊(BDR)が、平和維持軍への参加を含めた待遇改善を求めて反乱をおこし、軍関係者57人が殺害される事件が発生している。

軍政を引くと紛争国として扱われ、PKOへの参加資格を失うことから、現状のバングラデシュにおいては、PKOミッションという国外での役割が軍部に国内で政治に干渉することを思いとどまらせているといえる。また、2011年の第15次憲法改正によって、軍による国家権力の掌握と憲法停止に対して、極刑を含む厳しい処罰に処することが規定された。これは、2007年から2008年の軍後援の非政党選挙管理内閣下において、両党総裁を含む政治家多数が汚職容疑で逮捕された経験から、軍の介入を警戒してアワミ連盟がうった布石である。これらのことからも、今後軍が積極的に政権運営に介入することの政治的合理性はないといえる。

(4)イスラームと政治

BNPを創設したジヤウル・ラフマン大統領は、憲法から政教分離を削除し、コーランの一文を挿入するなど、イスラームに対して寛容な姿勢をとった。そして、独立戦争時にパキスタンに与した政治家の起用や、イスラーム政党の解禁を通じて、イスラーム勢力を取り込む政治姿勢を示した。続くエルシャド政権は、休日を日曜日ら金曜日に変更し、1988年には、憲法改正によってイスラームを国教化した。このようなジヤウル・ラフマン、エルシャドの両軍人政権を通じて、イスラームへの配慮の姿勢を示すことが重要視される政治的土壌がつくられたといえる。

1991年の民主化以降は、イスラーム主義政党が2大政党の間でたびたびキャスティンボードをにぎることによって、その存在感を示すようになった。主な政党としてイスラーム協会(Jamaat-e-Islami、Bangladesh:以下JI)とイスラーム統一戦線(Islami Oikiya Jote)がある。これらの政党は、イスラーム国家の実現や市民法に代わってイスラーム法を導入することなどを主張しており、イスラーム原理主義的傾向が強い。二大政党の中では、近年BNPがイスラーム主義政党と共同戦線を張る傾向がみられる。1996年の総選挙では、BNPとJIの離反がアワミ連盟の勝利へと結びついた。一方で2001年の総選挙では、BNPがイスラーム主義政党と共闘することによってアワミ連盟に勝利し、イスラーム主義政党が政権与党の一角を占めるにいたった。

しかしながら、BNPとイスラーム主義政党の連立政権下においては、非合法イスラーム武装主義勢力による爆弾事件が頻発したことから、武装主義勢力との関係が噂されるイスラーム主義政党や、連立政権を組むBNPは国民の支持を得られなくなり、2008年の総選挙では惨敗した。

代わって政権を奪取したアワミ連盟は、独立戦争時の戦争犯罪を裁く国際戦争犯罪法廷を設置し、イスラーム主義政党への攻勢を強めた。1971年の独立戦争当時、パキスタン軍に協力して独立運動を弾圧したとされる「戦争犯罪者」の中にはJIのメンバーが多く含まれている。国際戦争犯罪法廷の目的がJI指導者を裁判にかけることにあり、総選挙を視野にいれた野党勢力の切り崩しであるとしてBNPやイスラーム主義政党は批判を強めた(補足参照 )。

参考文献

  • アジア経済研究所編『アジア動向年報(各年版)』アジア経済研究所.
  • 日下部尚徳「バングラデシュの政治情勢:国内で抗議デモが頻発、暴動も-JI副総裁に死刑判決-」『金融財政ビジネス』、10316号、pp.10-14、時事通信社
  • 日下部尚徳「バングラデシュ総選挙をめぐる情勢不安-民主的で穏健なイスラム国家の行方-」『金融財政ビジネス』、10386号、pp.16-19、時事通信社
  • 佐藤宏編著『バングラデシュ: 低開発の政治構造』アジア経済研究所.
  • 佐藤宏「国をめぐる模索」『バングラデシュを知るための60章』pp. 23-26、 明石書店.
  • 佐藤宏「議会制民主主義のゆくえ」『バングラデシュを知るための60章』pp. 40-43、 明石書店.
  • 高田峰夫『バングラデシュ民衆社会のムスリム意識の変動-デシュとイスラーム-』明石書店.
  • 村山真弓「憲法第15次改正で再選への布石」『アジア動向年報2012』pp. 440-464、アジア経済研究所
  • 堀口松城『バングラデシュの歴史』明石書店.
  • A. T. Rafiqur Rahman. 2008. “Bangladesh Election 2008 and Beyond: Reforming Institutions and Political Culture for a Sustainable Democracy”. The University Press Limited.  
  • IWGIA. 2012. “Militarization in the Chittagong Hill Tracts、Bangladesh”. IWGIA・Organising Commitee CHT Campaign・SHIMIN GAIKOU CENTRE.
  • Mudud Ahmed. 2012.“Bangladesh: A Study of the Democratic Regimes”. The University Press Limited.

※参考文献は全項目に共通

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2019年1月18日

モロッコ/現在の政治体制・制度

現在の政治制度は立憲君主制である。現在の国王は、前国王ハサン二世の死去によって、1999年7月23日に即位したムハンマド六世である。

(1) 国王

モロッコの憲法第42条では、国王は「国家元首」であり、「国民統合の象徴」「国家の永続性を擁護する者」であると定められている。また、第41条では、「アミール・アル・ムーミニーン(信徒の指揮者)」と規定され、国民に対して精神的な面での権威も有している。

王位の継承については、憲法第43条で、原則として直系男子の長子相続が定められている。現在のハサン皇太子は、ムハンマド六世の長男である。

また皇太子が未成年で国王に即位するような事態が起こった場合は、国王が満18歳に達するまで、複数の構成員(議長を憲法裁判所裁判長がつとめ、首相、上下院議長、司法権高等評議会議長、ウラマー高等評議会事務局長、その他国王が任命した10名で構成)からなる摂政評議会が憲法改正を除いて、憲法で定められている国王の諸権利・諸権力を行使する(憲法第44条)。

国王は不可侵で神聖である(憲法第46条)と定められている。

国王は首相の任命権を持つ(憲法第47条)。但し、2011年の新憲法では、首相として任命されるのは、下院選挙で第一党となった政党から任命すると明記されている。

閣議の議長は国王である(憲法第48条)。

国王は、法律が採択され政府に送られてから30日以内に法律を公布する(憲法50条)。また、国王は、憲法第96条、97条および98条に従って、勅令によって、上下院両方またはいずれかを解散させることができる(憲法第51条)。

国王は、国民と議会に向けてメッセージを発することができる。メッセージは上下院それぞれで読まれ、いかなる議論の対象にもすることはできない(憲法第52条)。

国王は、国軍の最高司令官である(憲法第53条)。

国王は外国および国際機関に駐劄する大使に信任状を渡して派遣する。また、モロッコに駐劄する外国または国際機関の大使を信任する。条約への署名と批准をおこなう。ただし、国境に関する条約、通商条約、および国家財政に関する条約は、法律によって事前に承認がなければ、批准することはできない。また憲法の条項に触れる恐れのある条約は、憲法改定の後でなければ条約の批准はできない。(憲法第55条)

国王は、高等司法評議会の議長をつとめる。(憲法第56条)

国王は、高等司法評議会の司法官を任命する。(憲法第57条)

国王は、恩赦の権利を行使する。(憲法第58条)

国土の一体性が脅かされたとき、または立憲体制の機能を阻害する恐れのある出来事が起こった場合、国王は、首相、上下院議長、憲法評議会議長と協議し、国民にメッセージを発した後、勅令によって非常事態を宣言することができる。その場合、国王は領土の一体性の擁護、立憲諸機関の機能回復、国事の遂行に必要な措置をとることができる。

非常事態は議会の解散を伴わない。非常事態の終了は、発令と同じ手続きでおこなわれる。(憲法第59条)

(2) 立法権:議会

1963年の国会開設以来、時期によって一院制と二院制両方の制度が採用された。現在は、二院制である。

1963年に、下院と上院からなる二院制の国会が開設された。(下院議員は、4年ごとの直接普通選挙で選出。上院議員は、6年ごとの間接普通選挙で選出。3分の2は、地方議会の代表から、3分の1は商工会議所および労働組合の代表から選出。)

この議会の会期は、20か月継続した。その後1965年から、新憲法が採択される1970年までの5年間にわたって非常事態が続き、国会不在の時期が続いた。

1970年7月31日に改正された憲法では二院制は廃止され、任期6年の一院制となった。1972年に再度改正された憲法でも一院制は維持された。1972年の改正憲法では、直接選挙で3分の1、間接選挙で3分の2を選出することを第43条に明記した。この割合は、1980年の43条改正によって、直接選挙で3分の2、間接選挙で3分の1と変更された。しかし、モロッコ国内外は不安定な時期を迎え、1971年末から1977年10月まで議会は停止されている。

1977、1984年から始まる会期、そして1992年に憲法が改正された後の1993年から始まる会期でも一院制が維持された。

1996年9月13日に改正された憲法では、二院制が再度採用された。この改正された憲法では、法案が両院それぞれで審議されることが定められた。両院間で異なる審議結果となった場合、内閣は両院から同数の代表からなる委員会を設置し、法案の採択に努めなければならない。同委員会の設置したのちも、調整がつかない場合は、下院の審議結果が優先される。

2011年7月29日に公布された新憲法でも、二院制は維持されている。

下院議員は直接選挙で選ばれ、任期は5年。人数は法律によって定められることになっている(憲法62条)。上院議員は、間接選挙で選ばれ、任期は6年である。人数は90名から120名までと定められている(憲法63条)

議会の権限は、立法と政府の行為の監視である(憲法70条)。法案の発議権は、首相と議員の両方にあり、法案はまず下院事務局に提出される。しかし、国土の一体性、地域開発、社会に関する事項については、最初に上院事務局に提出される(憲法78条)  

(3) 行政権:政府

首相は任命されたのち、両院で施政方針演説をおこなう。首相の説明した方針は両院で議論され、下院で採決される(憲法第88条)。

内閣不信任案について、下院が提出する場合は、議員の少なくとも5分の1の議員の賛成が必要である。不信任案の決議には、下院議員の絶対過半数が賛成する必要がある(憲法第105条)。上院が提出する場合は、議員の少なくとも5分の1の賛成が必要であり、決議には絶対過半数の議員の賛成が必要である(憲法第106条)。

(4) 司法権:裁判所

 モロッコの憲法は第107条で、司法権は立法権および行政権から独立していると定めている。2011年の憲法改定では、「国王は司法権独立を保障する」という一文が加えられている。また、裁判官は罷免されない(憲法第108条)。

 裁判官の昇進や懲罰を監督する司法高等評議会の議長は国王で、構成員は以下の通りである。(憲法第115条)

  • 最高裁判所長官(議長代理)
  • 最高裁判所付き国王代理検事
  • 最高裁判所第一法廷主席判事
  • 高等裁判所判事から4名
  • 第一級法廷判事から6名(高等裁判所判事からの4名と第一級法廷判事からの6名の計10名には必ず女性が含まれなければならないとしている。)
  • 調停者
  • 国立人権評議会議長
  • 「能力、不偏性、誠実さを兼ね備え、司法の独立と権利の優越に資する人物」として国王が任命した5名。この5名の中に、国王高等ウラマー評議会事務局長が提案した人物1名を含む。
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2019年1月18日

イラク/現在の政治体制・制度

現在のイラクの政治体制は、2005年10月に国民投票で承認された新憲法によると、「共和制、代議制(議会制)、民主制」(第1条)と定義されている。世俗主義を党是としていたバアス党が2003年に倒れた後、宗教政党が大きく躍進したが、イラン型の「法学者の統治」は受け入れられておらず、宗教法学者は最高政治権力者である首相の座にはつかないことが暗黙の了解となっている。

新憲法は、大統領の役割を「国家の長、国家統一のシンボルであり、国家の主権を体現する」(第67条)と定める一方、首相は「国家の政策を遂行する責任者、軍の指揮官」(第78条)であるとしている。首相の選出は大統領の指名によって行われるが、その人選は、与党となる議会の最大政党が行うとされており(第76条第1項)、首相が閣僚を指名した後、議会の絶対過半数の賛成を経て内閣が発足する。従って、大統領は存在するが、制度としては議院内閣制に近い。国民議会は大統領・首相を罷免できるが、大統領・首相に国民議会の解散権はない。議会自体が解散を決定することは可能だが、2003年以降解散したことはなく、毎回4年の任期満了に伴って選挙が実施されている。

移行措置として、憲法制定後の最初の国民議会の任期(2006年からの4年間)に限って、大統領と副大統領2名で構成される「大統領評議会」が設けられ、議会を通過した法案に対する拒否権が付与されるなど大統領に一定の権限が存在した。しかし、これは当初から事前措置であり、現在はこうした権限はなくなっている。大統領は名誉職であるため、仮に法案に反対して署名せずとも、法律としては有効となる。

イラク戦争後に占領統治を行っていたCPA(連合国暫定当局)が設立した統治評議会(2003年7月発足)や暫定政府(2004年6月発足)が民族・宗派別の数合わせによる構成であったことや、2005年の議会選挙結果において、宗派・民族ごとのエスニック政党(特定のエスニック集団を基盤として形成され、かつその特定のエスニック集団からの支持に全面的に依存する政党)の躍進が顕著なものとなったことから、2006年に発足した初の正式政府である第一次マーリキ政権においては、挙国一致内閣との建前のもと、主要政党がほぼすべて与党に入り、議席数に応じてポストを分け合うクオータ・システムに依ることとなった。その後の政権に構成においても、首相はシーア派、国会議長はスンナ派、大統領はクルドから選出され、大臣ポストを分け合うことが慣例的に続いてきた。

2018年5月に行われた国民議会選挙では、一部のシーア派政党からスンナ派政治家が立候補し、スンナ派住民からの票を獲得するなど、宗派横断的な現象も見られた。しかしその背景には、2014~2018年の対IS掃討作戦で中心となったシーア派政党の勢力が増す一方で、分裂傾向が激しいスンナ派政党は特定の選挙区(県)に依存したごく狭い支持基盤でしか集票できなくなっているという現実があり、上記の宗派横断的な現象は、イラク全土を代表する政党が出現したことを意味していない。また、北部のクルド人自治区では、イラク国民議会選挙であっても非クルド政党はほとんど得票できず、クルド政党間の争いとなっている。

参考文献

  • イラク憲法 (http://www.parliament.iq/)
  • 移行期間のためのイラク国家施政法
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2019年1月18日

イエメン/現在の政治体制・制度

大統領制をとる共和制。現在の政治体制は、1990年憲法および1994年、2001年の憲法改正によって規定されている。行政権は、大統領と内閣に属する。大統領は直接選挙による公選制で、任期7年、三選禁止。大統領は当選後に、副大統領1名と首相を任命し、大統領と首相の協議により、首相が閣僚を任命する。大統領は議会で可決された法案を発布するが、法案の再審議を求めて議会に差し戻すことができる。差し戻された法案を議会が再度過半数により可決した場合、大統領はその法案を2週間以内に発布する。大統領は議会閉会中に、憲法と予算に反さない限りにおいて、法的効力を持つ大統領令を発することができるが、それは開会された議会に提出され、承認されなければならない。

立法権は議会に属する。議会は定数301名で、すべて小選挙区による選出と憲法に規定されている。また、議会のほかに大統領により議員が任命される諮問評議会がある。これは立法機関ではないが、議会に準ずるものとされ、有識者が大統領および議会に対し必要な提言を行なう。1994年憲法改正により設置され、2001年憲法改正により拡充された。定数は59名から111名に増員され、上記提言とともに、議会との合同会合において大統領選挙候補者の指名や開発計画の承認、条約の批准を行なうこととなった。これにより、大統領選挙候補者の指名に関わる規定は、議会と諮問評議会の合同会合メンバーの5%(21名)以上の推薦と候補者3名以上に変更された。

司法機関は、憲法により「法的、財政的、行政的に自立した機関」とされ、「検察当局は下部機関のひとつ」とされる。司法と検察の成員は、法により規定された条件を除いて解任されず、最高司法会議が裁判官の任命、昇進、解任を執行する。

2000年1月に、イエメン初の地方自治法が公布された。地方自治法は、1994年憲法改正において規定された地方評議会の設置に基づくもので、それは以下のように規定している。州知事およびムディール(州より下位の行政区域ムディーリーヤの長)はそれまで通り中央政府により任命され、それぞれの地方評議会の議長を務める。州評議会の議員は、州を構成する各ムディーリーヤから1名ずつが選出される。ムディーリーヤ評議会の議員は、住民の規模に応じ17~27名が各ムディーリーヤにて選出される(任期はともに4年)。両評議会はそれぞれ、その選出議員の中から事務総長を選出する(事務総長は慣習的に、それぞれ副知事、副ムディールと呼ばれている)。地方評議会に条例などの議決権はなく、その職務は当該行政区域における開発計画等の決定や予算の承認および監査であり、事務総長がそれらに関わる準備や調整を担当する。この地方評議会は行政機関の一部として、地元の民意を地方行政に反映させる、もしくは地方行政を監督するためのものと位置付けられている。 その後、州知事およびサナア市長は地方評議会による間接選挙で選出されることとなり、2008年5月17日に選出が行なわれた。 

2011年のサーレハ大統領辞任、2012年のハーディー大統領就任のあと、2013年3月から新憲法制定のための基本方針を決める包括的国民対話会議が始まった。包括的国民対話会議は2014年1月、連邦制導入などの方針を決定して閉幕したが、翌2015年3月以降の内戦により、憲法制定作業はなされていない。

参考文献

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