「地域別」カテゴリーの記事一覧

2021年8月20日

シリア/政党

既述のように、現憲法はバアス党の指導的立場を規定していないが、2012年以降に3回実施された国会議員選挙結果に見られたように、同党がサルトーリの言うところの「支配政党」である実態は変化していない。

バアス党は、ミシェル・アフラク(ギリシャ正教徒)及びサラーフッディーン・アル=ビタール(スンナ派ムスリム)らが1940年代初期に、ダマスカスで活動を開始したアラブ民族主義の勉強会を母体とする1。その後、1947年には結党大会が開かれ、バアス党が政党として正式に発足し、その党綱領である「統一、自由、社会主義」は下位中産階級に広くアピールした2。バアス党結党時に16歳であったH・アサドは学生党員として加わり、党内で以後めきめきと頭角を現していき、1963年のシリアにおける「バアス革命」に際しては、ダマスカス当方のドゥマイル空軍基地攻略作戦を主導し、革命の成功に大きな役割を果たした3。この結果、シリアでは現在に至るまで58年間バアス党政権が続いているが、「バアス革命」後しばらくの間は党内で熾烈な権力闘争が発生した。そうしたなかで、H・アサドが最終的に勝ち残り、1970年のクーデタでバアス党内における実権を掌握した。以後、バアス党内での権力闘争は影を潜め、H・アサド大統領、さらにはB・アサド大統領の権威に対する目立った挑戦は、H・アサドの入院に伴い、実弟リフアト・アル=アサドが実権掌握を試みた結果生じた「兄弟間の対立」(1983年秋~1984年春)以外に、バアス党内からは発生していないのである。

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2021年8月20日

ヨルダン/現在の政治体制・制度

正式国名
ヨルダン・ハーシム王国
政治体制
立憲君主制
国家元首
アブドゥッラー2世国王
首相(兼国防相)(国王の指名による)
ビシャル・ハサーウナ
外相(首相の指名 国王の承認による 他の閣僚も同様)
アイマン・サファディー
内相(同上)
マーゼン・アブドゥッラー
議会
二院制
  • 下院(定数130名, 宗教・エスニシティ枠12、女性議席15議席(各行政区に1議席確保)、普通選挙, 任期4年)
  • 上院(定数65名, 国王の指名, 任期4年)
司法
普通裁判所, 宗教裁判所, 特別裁判所

現在のヨルダンの政治体制は、立憲君主制であり、ハーシム家出身のアブドゥッラー2世が国王として大きな権限を持っている。現憲法は、1952年1月8日に制定されたが、その後改正を重ねてきた(1954, 1955, 1958, 1960, 1965, 1973, 1974, 1976, 1984,2011,2012, 2016年改正)。行政権は、国王と内閣に付与される。国王が全ての法律に署名し、それを執行する。国王の法律承認の拒否権は、上・下両院の3分の2の投票で覆される。国王は布告により、裁判官を解任することができ、憲法改正を承認し、宣戦布告し、軍を率いることができる。憲法では三権分立の原則が導入され、市民には、言論・出版・集会・学問的自由・結社・宗教的自由・国会議員及び地方議会議員選出の権利が保証されている。

議会(国民議会)は、国王の指名によって選ばれる上院(65名、任期4年)と18歳以上の男女による普通投票で選ばれる下院(定数130議席、うち15議席は女性議席、12議席は宗派・マイノリティ議席。任期4年)からなる。 

国王は首相指名権を持っている。内閣は組閣後、議会に施政方針を発表するが、議会の絶対多数による不信任で解散する。また、閣僚は議会の絶対多数による不信任で更迭される。他方、国王は下院の解散権を有している。民主化要求の動きに応じて、2011年42項目にわたる憲法改正が行われ、その中で、国王の権限(選挙の延期の大権、下院の無期限解散権、政府の保護、首相の再指名など)制限にかかわる動きがあった。その中でも最も注目されたのは、首相の指名権であったが、国王の首相指名権は剥奪されず、議論の余地を残している。

司法面では憲法に基づき、裁判官は国王の指名を受けるが「法以外の何の権威にも従わない」と司法の独立性が謳われている。裁判所は、普通裁判所(初級裁判所、治安判事裁判所、上訴裁判所、最高裁判所)、宗教裁判所(シャリーア法廷、宗教共同体委員会)、特別裁判所(警察法廷、軍事評議会、関税法廷、国家治安法廷)が設置される。行政に対する審査は、特別高等法廷で行われる。

地方行政は、行政区の長官は国王に指名され内務省の管轄下に置かれるが、地方への開発政策等の実施に関しては州政府が権限を持つ。

政治体制発展略史

ヨルダンはイギリスの委任統治領パレスチナの管轄下におかれる一種の保護国トランスヨルダンを前身とし、1946年トランスヨルダン王国として独立した。トランスヨルダンは1948年のパレスチナ戦争(第一次中東戦争)をきっかけに、パレスチナの一部と見なされるヨルダン川西岸を占領し、その後、西岸の親ヨルダン的パレスチナ人有力者の要請を受ける形で(1950年ジェリコ宣言)、西岸を自国の領土として統合した(その時点でヨルダン・ハーシム王国と改称)。ヨルダンは、西岸の領有やヨルダン国民の6割程度を占めると見なされるパレスチナ系住民の扱いをめぐってPLOやアラブ民族主義勢力との間で、長らく緊張関係にあった。ヨルダンのパレスチナ系住民はヨルダン国籍を付与され、法的にはヨルダン国民と同等の権利を認められている。しかし、社会的には一般に不利な立場に置かれ、特に政府関係の職業に関しては差別を受けてきたと言われる。

1950年代下院は、西岸と東岸それぞれ同数(20名ずつ40議席、後に30名ずつ60議席に変更)の議員が選出される事になっていた。第三次中東戦争(1967年)後、西岸がイスラエルの占領下に置かれ、通常の選挙実施が不可能になった事を理由にヨルダン政府は選挙を凍結した(1957年以降の戒厳令により、すでに政治活動は実質的に凍結されていた)。イスラエルの占領が長期化し、また西岸のパレスチナへの帰属がアラブ世界や国際社会で承認されるようになり、1974年のラバト・アラブサミットでパレスチナ人の代表がPLOであることが確認されると、ヨルダン政府は凍結されてきた議会の解散を決定した。その後ヨルダン政府は、西岸選挙区を除く東岸のみの代表からなる議会とそのための選挙法改正を実施してきた。1988年にヨルダンは政治的な理由から、西岸の領有を正式に放棄する「西岸との法的・行政的関係の断絶宣言」を行った。これにより西岸を巡る選挙法上の問題点がなくなり、普通選挙の実施条件が整った。

1989年には1967年以来の下院議員選挙が実施された。更に、1991年に戒厳令が解除され、1992年に政党法により一定の条件を満たす政党の活動が許可された。しかし、投票方法を連記制から単記制に変更する事を決めた1993年の選挙法改正が、野党、特にイスラーム行動戦線(IAF)に不利に働いたとの批判を呼んだ。この投票方法が、一票の重さや選挙区割りの問題と合わせてその後の政府と野党の主な対立点となった。1997年には選挙法の改正に反対するIAFと他の野党の一部が選挙をボイコットした。その後の2001年の新選挙法では選挙区や票の重さの問題に関する多少の変更は見られたが、投票方法の見直しはされなかった。国政の場から離れることで多くの問題に直面した経験から、その後行われた2003年、2007年の選挙に野党は選挙に参加したものの、2009年の改正選挙法でも女性枠の拡大(6議席増)と若干の都市部の議員枠拡大(アンマン2、イルビド1、ザルカ1議席増)以外、対立点は解消せず、再びIAFや野党の一部の選挙ボイコットがあった。さらに、2012年の選挙法改正では、全国区の政党枠(政党以外の政治団体も参加可能)を導入し議会における政党代表率を18%とした。しかし、代表率を最低でも30%にすることを要求するIAFなどの野党勢力はこれを不十分とし、IAFは再び選挙をボイコットした。なお、2012年改正選挙法では、女性枠がさらに3議席拡大され、またバルカとカラク選挙区でキリスト教徒議席枠がそれぞれ1議席増やされた。

2016年の選挙法改正(2016年第6号選挙法)では、オープンリスト方式の比例代表制を採用した。これは、SNTV(単記制)から連記制への投票方法の変更を意味していた。候補者は各選挙区の中で3人以上(選挙区の定数を超えない範囲)で構成されるリストに登録し、投票者は、リスト全体、1つのリストの異なる候補者、または選択したリストのすべての候補者に投票できる。すなわち、オープンリストシステムにより、異なるリスト間および各リストの候補間で競合が発生する。また選挙区の範囲を行政区レベルまで拡大することで(アンマン、ザルカ、イルビドは例外)、選挙区は45から23に減少した。定数が20議席縮小されたが、以前の15議席が維持されたため、女性の代表率は上昇した。投票リストへの登録手続きを簡素化(受動的登録制)した。また投票権は投票日の90日前の段階で18歳であることを条件とするように変更され、投票権は若干拡大された。この制度は2020年の総選挙でも踏襲された。

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2021年8月20日

ヨルダン/最近の政治変化

民主化の前提

ヨルダンの民主化は、三つの側面から説明できる。(a)民主主義への国内的条件:ヨルダンは独立後、立憲君主制下で近代化を志向した。1947年には初めての総選挙が実施された。また1952年憲法には、民主主義的原則が反映されており、同憲法下で政党活動は活発に展開され、また議会も政府に対する影響力を示していた。しかし、国王は国内的混乱を「外からの介入」によるものと判断し、1957年から政党活動の禁止と戒厳令の施行により、自由な政治活動は困難となった。その後、ヨルダン川西岸のイスラエルによる占領(1967年)を契機に、選挙そのものも凍結された。しかし、このような民主主義の経験は、その後の民主化の重要な初期条件を提供した。(b)国際的政治経済構造変動の影響:ヨルダンは、1988年に経済構造の脆弱性が表面化し、依拠していた外国からの十分な支援も受けられず、経済危機に陥った。先進国による構造調整は、政治改革の要請を伴っていたため、民主化への外的条件を提供した。また構造調整の求める緊縮財政は、ヨルダン・ディナールの下落、生活基本物資の価格値上げなどによる、市民の反発を呼び、1989年には南部地方での大規模な物価値上げ反対暴動を引き起こし、これが内的な改革・民主化への圧力となった。(c)ヨルダンの法的条件の変化:ヨルダンはパレスチナの一部であるヨルダン川西岸の領有権を主張してきたが、西岸の自立志向の拡大(インティファーダ発生など)の政治的影響を考慮した結果(国内のパレスチナ系住民の政治化)、1988年に西岸との法的・行政的な関係を断絶した。これは自国領土の占領という選挙法上の問題(自国領土たる西岸の代表を選べない)を解消した。 以上の3点以外に、2010年以降の中東域内のアラブ諸国の民主化運動の影響で、憲法や選挙法改正の議論が活性化したことが新たな民主化への条件を提供している。

上記に加え、ヨルダンの民主化をめぐる王政と国民の関係に関する特殊事情に注目することが必要である。政府は、国民生活に負担を強いる経済構造改革を実施するためにも、国民の理解を得やすい透明性のある政治運営を行う事で、国民の支持を得ようとした。しかし、過去の経験から、民主化による(外部からの政治的介入による)政治状況の混乱を避けたいという国王側の危機感があった。かたや民主化を求めてきた改革派エリートの中には、過去の民主主義導入による政治的混乱が結局、ヨルダンの民主主義の長い中断をもたらしたという経験を重視する傾向が見られた。そのような事情から、ヨルダンではフセイン国王を筆頭に、体制側と(反体制派を含む)政治エリート間の協議に基づいて、民主化のチャートとしての「国民憲章」(1991年)が起草される事になった。ここにヨルダンの「上から」でも「下から」でもない、妥協による民主化の構想が成立した。その後、多くの対立点を抱えながら、民主化プロセスが継続してきた背景には、このような国内におけるいわば現実的判断が作用していると見ることも可能である。

アブドゥッラー2世国王治下10年後の2011年には、チュニジアやエジプトなどの体制変革を伴う中東各国の民主化運動のうねりの中で、国王は首相の交代により民意への対応姿勢を示すという従来の手法で対応してきた。しかし従来の古典的対応への批判もあり、不十分との批判はあるものの、憲法の改正と選挙法の改正による一歩踏み込んだ改革によって民意に応える姿勢を示さざるをえなくなった。

民主化プロセス

トランスヨルダン時代の1921年から戦間期をへて、7つの政党が主に英国からの独立と主権の確立を目指して活動してきた。しかし、これらの政党はエリート中心の組織にとどまり大衆的支持に基づいたものではなかった。1955年の政党法の下で、政党活動は活性化したが、野党と政府の対立やクーデタ未遂事件などを経て、戒厳令が敷かれ政党活動は長期にわたって凍結されることになった。

1989年には、22年ぶりの総選挙が実施された。この時点では、政党活動は認められていなかった。このため、福祉団体としての活動を認められてきたムスリム同胞団が、その組織力を選挙で圧勝し、80議席中22議席を獲得し、単独政治勢力としては第一党となった。この第11期議会の時、湾岸危機(1990年)が発生し、イラクへの多国籍軍介入反対の国内世論を背景にムスリム同胞団から初めて入閣者が出るなど、同砲団の議会内外での影響力は頂点に達した。しかし、その反動として、議会が政治的イデオロギーのやり取りで空転し、国民の一番の関心事である生活条件の改善に資する実質的な議論が全く進まず、議会に対する批判も芽生え始めた。湾岸戦争における親イラク外交があだとなって、国家運営上重要な援助国であるアメリカからの厳しい対応に苦慮した国王は、反米色を一向に弱めない同胞団を警戒するようになった。そのような中で1992年には政党法により、政党活動が公認され、1993年には新選挙法が施行された。

1993年11月の選挙では、ムスリム同胞団の後援の下に作られたイスラーム行動戦線(IAF)は、5議席減らす17議席しか票を獲得できなかった。この苦戦の原因を野党及びIAFは、1993年の選挙法改正の焦点である、投票方法の変更(連記制→SNTV(単記制))に求めている。その主張によると、部族的社会関係が強いヨルダンでは有権者は先ず身内の候補者に投票するが、連記制では次の人物として社会的活動の評価される候補者への投票が期待できたが、SNTVではそれが票に結びつくことが困難になるというものである。その説明の妥当性を判断するのは難しいが、この投票方法をめぐって、1997年には、IAFと野党の一部は選挙をボイコットするに至った。

1999年に民主化プロセスを開始したフセイン国王が死去し、息子のアブドゥッラー2世が国王に即位した。折から、西岸で起きた「アルアクサー・インティファーダ」などによる周辺の政治的混乱状況への対応などを背景に、アブドゥッラー2世国王は2001年に予定されていた選挙を延期したが、法的に延長の限界である2003年6月に選挙を実施した。また、アブドゥッラー2世国王は、イスラーム過激派に対しては即位直後から厳しい対応をしており、国内のハマース事務所を閉鎖し、政治指導者を国外追放したり、ブッシュ政権の「反テロ戦争」にいち早く全面協力を申し出たりするなど、フセイン国王より更に一歩踏み込んだ治安対策を特徴にしてきた。

2011年には、周辺の民主化の動きに刺激されて、民主化要求の動きが活性化した。その中で国王の権限縮小につながる憲法改正と懸案の選挙法改正が行われた。しかし首相指名をめぐる、国王の権限縮小問題では、モロッコの場合ほど大きな変革はなかった。選挙法に関してはSNTV改正と政党政治の推進が求められており、これに対しては2012年の選挙法改正によって、全国区の「政党枠」が設定され、有権者は地方選挙区で1票、全国区の「政党枠」で1票を投じることが決められ、部分的にSNTVに修正が加えられた。しかし、全国区の「政党枠」の代表率の低さ(議席の18%に相当)への批判と、地方の選挙区(1人区)においては実質的にSNTV方式が継続されたことへの批判が強く、イスラーム系で影響力のあるIAFやいくつかの有力野党勢力が選挙をボイコットした。2016年には、行政区と選挙区を一致させることをめざす選挙区の大幅な改正が実施され、3つの大都市部を除いては、住民は選挙リストへの投票とともに定員内であれば複数の候補者への投票を認められた。これによって長年議論の対象となってきたSNTV方式は廃止された。前回ボイコットしたIAFなどの多くの野党勢力は今回は候補者を擁立した。しかし、全国区の27議席が廃止された(その代わりに政党所属に関わらず候補者は政党リストを組み立候補する)ことに対し、政党政治浸透への努力が後退したという批判が寄せられた。また、15,000人以上の海外在住者の投票が廃止されたことも政治的権利の縮小と批判されている。同制度のもとにコロナ禍の2020年に実施された総選挙では、女性候補者や政党からの候補者増加など若干ポジティブな側面も見られたものの、投票率の低下、女性の当選者減少、IAFの議席減少など概して野党勢力の後退がみられた。

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2021年8月20日

ヨルダン/選挙

下院議員は18歳以上の男女による普通投票で選ばれる。下院は定数130議席、うち15議席は女性議席、12議席は宗派・マイノリティ議席(任期4年)からなる。被選挙権は30歳以上の国民であることが条件となる。2020年11月10日、コロナ禍にもかかわらず、第19期総選挙が実施された。投票率は過去最低の29%にとどまった。特徴としてはこれまでで最多の政党からの立候補と女性の立候補、さらに若者の参加率が高かった。しかし女性候補者は5議席減らし、最大野党IAFは5議席減らすことになった。

2011年以降、政治改革の要請にもとづき、政党指導者や法律家やジャーナリストによる包括的な検証を行うための国民対話委員会が設立された。委員会の提言に基づく2012年の選挙法は、SNTV方式の投票に部分的にメスを入れ、150議席中27議席に比例代表に基づく全国区の「政党枠」を導入したが、地方選挙区については1人区でSNTVによる投票が残されたので、SNTVの完全廃止を求める有権者からの評価は厳しかった。反対派からはせめて政党枠を全議席の50%にするべきであるとの声もあった。さらに、2016年の改正においては、SNTVが廃止され、1989年の選挙に近い形で、有権者は選挙区の候補者の数だけ投票することが可能になった。また、政党政治の観点からは、SNTVの場合には投票者が血縁や部族関係を優先して投票したのに対して、連記制への変更によって、2票目を支持する政党に投票することが可能になることで政党が有利になる。さらに、政党に所属する候補者も無所属の候補者も、選挙リストから立候補することが義務付けられた。そのため選挙リスト形成のプロセスで政治的議論が展開された。(EU選挙監視団の報告)

2016年の選挙法では、選挙区は2013年の45選挙区から23選挙区に縮小された。アンマン(5選挙区)、ザルカ(4選挙区)、イルビド(2選挙区)の都市部を除いて、すべての行政区で選挙区は1つになった。ただし、選挙区の再編(45から23への縮小および議席配分の変更)に関しては、人口・地理・発展状況などをめぐる具体的な根拠があいまいであり(EU選挙監視団の報告)、これまでも指摘されてきた都市部と地方の表の格差は依然として存在している(議員比率の偏り、参照)。概して都市部にはパレスチナ系住民の数が多く、またムスリム同胞団系の支持者が多いが、地方(特に南部)住民は保守系の体制派が多いとされる。このため、制度的に南部の地方への議席配分は体制側に有利なものになっているとの批判があった。この批判の論拠についてのさらに厳密な議論は必要であるが、都市部と地方の票の格差は依然として存在していることは事実である。

議員比率の偏り

2016年の選挙法では、人口440万人で国の42%を占めるアンマンには、28議席、人口150万で国の14.3%を占めるザルカには、12議席なのに対して、人口3万で国の1%のタフィーラには、4議席、人口35万で国の3.3%のカラクには、10議席が配分されている。このため、伝統的にアンマンやザルカの投票率が低くなっているものと考えられ、実際にこの2つの都市部では前回2016年の投票率よりさらに低い投票率となっている。アンマン第3選挙区においては、11.7%(2016年、19.2%)と低く、ザルカ第1選挙区では、14.3%(2016年、22.8%)と全国平均を下回っている。政府は新型コロナの影響を指摘するが、議会や政府に対する不信感の表れであるとの指摘もある。

政党の存在感

2020年の総選挙では1992年以来最も多い政党の参加があった。48政党中41政党が選挙に候補者を出し、全立候補者の23.2%にあたる389人が政党から立候補した。しかし12人の党員が当選し、6人の党との協力候補が当選したに過ぎなかった。もっとも有力な政治ブロックはイスラーム主義グループ主導の「改革のための国民連合」は2016年より5議席を減らし10議席にとどまった。左派・民族主義のブロックは1議席もとれなかった。このように、政党からの立候補者が少なく、当選者のほとんどは、実業家、部族基盤の候補者(20人の退役軍人を含む)であり、多くは「個人主義的であり、非政治的であり、サービス志向」(元閣僚の発言)であった。市民活動の立場からは、改革はあるものの、政党法は政党よりは部族基盤の候補者に有利な内容であり、投票行動も部族基盤の投票がつづいており、80%近くの当選者は政党と関与せず特定の政治的イデオロギーを持っていないと評されている(RASED指導者Amer Bani Amer)。制度的な限界に加え、市民から政党への不信感を払しょくするための政党側の対応が遅れていることも問題と考えられる。

女性当選者の減少

女性有権者は全国で464万人だが、多くは男性有権者と同じく、部族や家族への帰属感に基づいて投票しているとの指摘がある(Konrad-Adenauer-Stiftung e. V.)。女性の候補者は増加し、全1,674候補者中360候補者であったが、当選者は女性クオータ枠の15人にすぎなかった(2016年、20人)。全体的に女性の政治参加への関心が高まっているにも関わらず、同一選挙リストに有力な女性候補者が入ると自分が敗北する(2016年には実際に起きた)ことを恐れる男性候補者が他の男性候補者を推すことから、女性有権者の失望感を招いたことが指摘されている。

イスラーム系政党の動向

ムスリム同胞団の政党組織であるIAFは2016年の総選挙の15議席から5議席を減らして、10議席を獲得した。しかしその後、2名の女性議員が脱退したために、IAFのかかわる議会の改革リストのメンバーは8名になった。今回の選挙においては、IAFからの立候補者は14の選挙区で出馬し、全体の得票数の6.5%にあたる83,000票を獲得したが、これは2016年選挙における獲得票157,000票(全体の11.6%)に及ばなかった。伝統的にムスリム同胞団の影響力の強いアンマンやザルカにおいて、投票率は低かった。パレスチナ系住民の多い地域のため、一般的に投票は部族的基盤によるものではなかったが、今回はアンマンで投票率は15%(2016年、23%)にとどまった。ザルカにおいてはIAFの参加する「改革リスト」は1議席(2016年、2議席)しか獲得できなかった。この地域においては選挙結果はすでに概ね決まっているとの諦念や、議会そのものへの不信感がより強いものとみられる。他国や国際社会では同胞団がテロ組織認定を受ける中で、ムスリム同胞団の敗北は必ずしも予想外のことでもなかった。国内においても2016年にムスリム同胞団が非合法化され、さらに政府は同胞団が教員組合を支配し、2019年の教員ストを先導したと批判した(実際には、執行部10人中3人が同胞団員)。しかし同胞団は原則にこだわらず、組織の存続のために影響下のIAFが選挙をボイコットせず参加することを選択したのである。「同胞団は、プレーヤーであることを選びゲームを受け入れ、攻撃を避けるために敗北した」(Rami Adwan, Jordan Country Representative of the Netherlands Institute for Democracy)のである。

青年層の傾向

30歳以下の若者はヨルダンの63%をしめ、多数派である。選挙直前の世論調査で、40%の若者は、部族的要素が自分たちの投票行動に影響すると答えた。また、被選挙権を30歳から25歳まで下げるべきであるとの意見を持っている。若者の多くは主に就職、公正な機会、将来への不安の除去を望んでいるが、新コロナの影響で若者の経済環境は悪化し、ヨルダンの大学卒業生の45%が海外で働く希望を持っているような状況である(中東の中でも突出している)。これはヨルダンの政治改革への無関心や失望の背景になっている。

2020年第19期総選挙 選挙区と議席配分・候補者数

行政区など選挙区一般議席チェルケスクリスチャン女性枠合計
アンマン52521129
イルビド41801120
ザルカ21011113
バルカ1802111
カラク1802111
マアン140015
マフラク140015
タフィーラ140015
マダバ130115
ジェラシ140015
アジュルン130115
アカバ130014
北部ベドウィン130014
中部ベドウィン130014
南部ベドウィン130014
合計231033915130

投票率

200320072010201320162020
58.6%57.1%53%56.6%37%29%

当選者の政治的傾向

議会実施年左派保守イスラーム主義合計
第2期1950142640
第3期1951182240
第4期1954332540
第5期19561520540
第11期1989582280
第12期19937561780
第13期1997769480
第14期200328517110 (6)
第15期2007098110(6)
第16期201011031120(12)
第17期2013 013317150(15)
第18期2016296[18]22130(15)
第19期20200118[2]10(8*)130(15)

注)合計の( )は女性枠、[ ]は保守系政党からの当選者。*その後、2名の女性議員が脱退。

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2021年8月20日

ヨルダン/政党

ヨルダンの政党制度の変化

ヨルダンの政党制度は、1950年代に基礎ができたが、主に周辺諸国に拡大するアラブ民族主義や左翼勢力は国家の枠組みを超えた影響を持ち、その影響下にある国内の各政治勢力は時としてハーシム王制そのものを反動的体制として批判・攻撃の対象とした。このため、国王は政党活動を1957年以降禁止し、1992年までヨルダンを戒厳令下に置いた。政党活動が盛んな1950年代には、バース党やナーセル主義の影響力を受けたアラブ民族主義政党が影響力を持ち、それに対するカウンターバランスとしてハーシム王制はムスリム同胞団に依拠した。しかし、政党活動の禁止後は、イスラエルの西岸占領によって選挙も停止され、健全な政治的新陳代謝が不可能になる中で、各種職能組合が国民の意見表出機能を一部代替し、政党の機能を担った。その間、例外的に慈善団体として組織的活動を許されたヨルダンのムスリム同胞団は、社会活動における影響力拡大を政治的力にして、影響力を拡大した。

1992年の政党法は、政党設立の諸条件を規定しているが最も重要な条件として、ヨルダン以外の国の政党のメンバーであったり他の国を拠点にする政党であったりしてはならないということが規定されている。これは、1950年代の政治的経験によるものと考えられる。この規定により、シリアやエジプトやパレスチナとのつながりの深い政党は、党のヨルダン化を行わなければならなかった。1989年の第11期議会の選挙の時点では、政党が認められていなかったが、注目される政治的潮流としては1950年代にも見られたアラブ民族主義系、イスラーム系、左翼系の勢力で、唯一、同胞団が公認の組織としての強みを発揮する事になった。1992年の政党法以降は、上記傾向の諸政党が設立され、ムスリム同胞団も新政党法に合致するようにイスラーム行動戦線(IAF)を設立した(ムスリム同胞団も福祉団体として存続)。 

ヨルダンの政党制度の最大の問題は、政党に対する有権者の期待の低さに現れている。選挙において政党に基づいて投票した有権者の割合が極端に少ない事がヨルダンの民主主義の問題点を示している。野党側は、選挙制度の改変(投票方法の連記制から単記制への変更)が政党からの立候補者に不利に働いた事を指摘する。その指摘が正しかったとしても、もともとのヨルダンの政党全体に対する支持率の低さは説明できない。問題点の一つとして、各政党がイデオロギーや信仰などの抽象的問題にあまりにこだわり、国民の日常的な関心を議論の中心に据え、具体的な提案や対応を行ってこなかった事も考えられる。ヨルダン大学戦略問題研究所の世論調査では、「支持政党あり」と答えた割合が2004年に9.8%、2005年に6%、2006年に6.8%、2007年に9.7%、2008年に5%という数字しか示していない事や、「政党が(国民のためでなく)党のために働いている」と感じた市民が、上記年にそれぞれ49.1%、53.3%、58.7%、61.5%、59%という数字に上っている事が問題の一端を示している。

2016年の総選挙における政党(登録数40)からの立候補者は、1252人中215人であり、候補者の17%に相当する。これは結果的に2013年に採用され2016年に廃止された全国区の「政党枠」の全議席に対する代表率18%に近い数字である。そして選挙の結果、40名が政党からの立候補により当選した。形式的には近年では最も政党による当選者が拡大した。しかし内実は、イスラーム系22議席、左派民族主義2議席、その他は保守派政党からの当選者であった。2020年の総選挙では、41政党から389名の立候補があり、政党からの立候補者は増えたものの当選者は、イスラーム系10議席、その他2議席、党友としての当選者は6議席(政治傾向は不明)であった。なお、2016年の政党参加の背景として、参加政党には経済的な誘因が作用したことも考えられる。たとえば、3つの選挙区に6人の候補者を立てた政党は2万JD(約2万8千ドル)の助成金を獲得し、さらに女性候補者や35歳以下の若手候補者を立てると15%の増額が認められることになっていた。全投票数の1%を得た政党にはさらに助成金が交付されることになっていた。保守派政党の内実はほとんどが特定の影響力のある政治家が中心となり運営されており特記すべき政策は見られない。なお政党に関心を持たない有権者に関しては、部族や血縁関係に日常的要求実現を求めるのか、宗教組織に求めるのか、あるいは新たなNGOの機能に実現を求めるのか、無党派層の内実にも注目すべきである。 

ヨルダンの主要政党

ヨルダンの主要政党はイスラーム系、左翼系、アラブ民族主義系、中道・レベラル、保守と分かれる。その中で左翼系とアラブ民族主義系の政党は(共産党を除いて)主張が重なるところも多く、時には両方の要素が混合した政党も見られる。その中でも、議会に議員を一定数送り込み、実質的に党としての活動をしているのは、IAFのみと見なされる。他方国王は、民主主義の定着の証としての政党政治の重要性を謳っており、それは2012年や2016年の選挙法にも表れている。

(a)イスラーム系

イスラーム行動戦線党

  • Hizb Jabhah al-‘Amal al-Islami
  • (Islamic Action Front Party)
  • 1992公認
  • 発起人353人

一般には、ムスリム同胞団(1947)の政治部門とされる。しかし、行動戦線側では人的交流の深さを認めつつも、あくまでも別組織であり、ムスリム同胞団出身者以外のメンバーも多いとしている。1992年ムスリム同胞団の幹部と独立イスラーム主義者によって設立会議が開かれた。発起人には、元自治環境大臣や元法相など閣僚経験者も含まれている。選挙制度(単記制)への反発から2010年の総選挙をボイコットし、また新たな制度である政党ベースの全国区の議席率が少ないことに反対し、2013年の総選挙をボイコットした。選挙に復帰した2016年の選挙では15名、2020年には10名が当選した。

イスラーム的生活の回復とシャリーアの適用、シオニストや帝国主義に対するジハードの遂行とアラブ・イスラームの復興をめざす。国民統合、民主主義とシューラーに基礎をおく体制、自由の獲得をめざす。そのために、市民のためにあらゆる政治勢力との対話を行い、ヨルダンの政治・行政・経済の腐敗を除去し、国の安定を目差す。女性・青年の権利を守る努力をする。シューラー会議は、選挙で選ばれた120人の議員(4年任期)によって半年ごとに開催され、党の方針を決め、指導部も選出する(2年ごと)。党員は教育省関係者が多い。1991年にムスリム同胞団メンバーが史上初めて閣僚入りしたが、内閣参加への反対派(ハンマーム・サイードら)と賛成派(アブドゥッラー・アカーイレら)の間の対立も生まれた。また、独立系の党員からはムスリム同胞団の党への影響力関与への批判もある。

国民会議党(Zamzam)

  • Zamzam 
  • Jordanian National Conference Party
  • 公認2016年

ザムザムは穏健イスラーム政党であり、ヨルダンのムスリム同胞団を離脱したメンバー(レイル・ガラーイバが発起人)により構成される。2016年総選挙では5名が当選した。メンバーは党が市民中心で、党派的でなく、包括的で真に国民的な目標を達成し、民主主義と法の支配を達成することを目指す。ガラーイバは、「われわれは既存の宗教的・エスニック的・排他的なイデオロギーから離れたコンセンサスを渇望している」と述べた。(Jordan Times,26 March 2016) 

イスラーム・ワサト党

  • Hizb al-Wast al-Islami
  • (The Islamic Middle Party)
  • 2001年公認

Muhammad Al-Qudahを指導者とし、2001年IAFから離脱した者で結成された。党首、諮問評議会、諮問評議会事務局、General Assembly, General Conference、中央委員会、中央裁判所、訴追裁判所、約400人のメンバーがいるとみられる。シャリーアを柔軟に解釈し、民主的改革と政治的多元主義を重視し、政府の権力と市民の自由のバランスを取るように求める。議会で他の世俗政党とともに国民運動ブロックを形成している。また欧米諸国と公然と協力する姿勢を示し過激主義を批判している。

(b)左翼

ヨルダン共産党

  • Al-Hizb al-Shyu‘ii al-’Urduni
  • (Jordanian Communist Party)
  • 1993年公認
  • 発起人70人

イスラエルの成立後も西岸で活動を続けたパレスチナ解放運動組織の連合により、1951年ヨルダンに創設された。アラブ各国の大学で学ぶヨルダン人を中心に構成されていた。1950年代には「反共法」に基づき、治安当局からの取締りを受けた。秘密に発行される機関紙「ジャマーヒール(大衆)」紙により党員の連絡を保つ一方、労働組合・女性組織・学生組織・青年組織などの中で影響力維持を図った。共産党はその後、分裂も経験した。1980年代初めには、西岸のパレスチナ人共産主義者が離脱し、「パレスチナ共産党」を宣言した。また80年代初めに、ヤコブ・ズィヤッディーンが書記長に選出されると、古くからの党員で幹部のイーサー・マダナートが党を割った。社会主義圏の崩壊にもかかわらず、党は原則を主張しつづけている。労働組合などでの量的影響力は低下しているが、一般的な尊敬を引き続き集めているとも言われる。IMFの構造調整に反対し、イスラエルとの和平条約に反対を表明し、また協定後はイスラエルへの門戸開放に抵抗し、アラブ諸国間の協力関係強化を主張している。 現在議席は持っていない。 

(c)アラブ民族主義

アラブ・バース進歩党

  • Hizb al-Ba‘ath al-‘Arabi al-Taqaddumi
  • (The Arab Ba‘ath Progressive Party)
  • 1993年公認
  • 党員約200人

シリア・バース党系。法と憲法による統治とともに民主主義の拡大を追求している。人民の意思の支配を払しょくし、人民のための政治的・経済的利益の達成を求める。一神教の信仰と民族的遺産の尊重とアラブ民族の統一を尊重する。国内制度の安定とアラブの経済的統合の達成を目指す。政党としては規模が小さいが、書記長であるフアド・ダッブールの外交問題に関する発言がメディアで取り上げられることが多く党の知名度を上げることに貢献している。 ライバルであるイラク・バース党系のヨルダン・アラブ・バース社会主義党より規模が小さいとみられる。

ヨルダン人民民主党

  • Hizb al-Sha‘ab al-Dimqrati al-’Urdni (Hashd)
  • (Jordanian People’s Democratic Party)
  • 1993年公認
  • 発起人100人

1989年、DFLPがヨルダン内に自立性を持つ政党を作る方針を出したことにより、設立された。1993年DFLPメンバー・労働組合員・職能組合員・女性運動家・青年組織・知識人などからなる創設機関が作られ、1989年の総選挙では1人当選者を出した。週刊の党機関紙「アルアハーリー」がある。1970年代から80年代にかけてはパレスチナ人が党の基盤となったが、1991年と1994年に党は分裂し、影響力を弱めた。2010年の選挙では女性枠で事務局長のアブラ・アブー・オルベ(アンマン第1区)が当選し、1994年以降初めての議員となるとともに、第16期議会の唯一の野党議員となった。その後の議会では当選者は出ていない。

(d)左翼+アラブ民族主義

ヨルダン民主左翼党

  • Al-Hizb al-Yasar al-Dimuqrati
  • (Jordanian Democratic Leftist Party)
  • 1994年公認

1997年、ヨルダン民主統一党 Al-Hizb al-Dimqrati al-Wahdawi (The Jordanian Democratic Unitary Party)より改称した。左翼とアラブ民族主義諸派の連合で構成されている。党側は自らを左翼政党ではなく、民主主義政党としているが、むしろ革新的左翼の主張に近い。以下の政党及び政治グループから成る。

(i)社会民主党Al-Hizb al-Dimuqrati al-Ishtiraki

イーサー・マダナートが率いる。ヨルダン共産党から、スターリン主義的傾向を持つ党の方針に反対し、民主主義やアラブや世界との交流を主張し、離脱した。第12期下院に1人当選した。 

(ii)ヨルダン民主アラブ党 Al-Hizb al-‘Arabi al-Dimqurati al-’Urduni

マーゼン・サーキトMazin al-Sakit が率いる。バアス主義者、共産党員、パレスチナ政治グループの多様な派の集まり。アラブ民族主義・ヨルダン国民主義・社会主義・穏健な自由主義などの混合が見られる。

(iii)ヨルダン民主進歩党 Al-Hizb al-Taqaddumi al-Dimqurati al-’Urduni

ヨルダン人民民主党(Hashd)から分離した勢力によるもの。1991年にDFLPを脱退したヤーセル・アブドラッボ派に近く、「刷新と民主主義」をスローガンとしている。

(iv)ヨルダン人民民主党民主派Al-Taiyar al-Dimuqrati fi Hizb al-Sha‘ab al-Dimqrati al-’Urduni (Hashd)

1994年ヨルダン人民民主党(Hashd)から分離した。同党のバッサーム・ハッダーディーン Bassam Haddadinは89年と93年の選挙で下院議員に当選以降、6期にわたって議員を務め、議会・政治開発担当大臣(2012‐13)をつとめた。 

(e)中道・リベラル

未来党

  • Hizb al-Mustaqbal
  • (Future Party)
  • 1992年公認

1980年代に内務相などを務めたスレイマン・アラール Sulaiman ‘Ararが中心となり、1992年中道の政党としては初めて登録した。スレイマン・アラールはまた、1989年から90年11期下院の議長を務めている。ヨルダン国民主義とアラブ民族主義の中間の政治方針を持っているが、政府の金融政策とイスラエルとの政治経済的な平和の構築を支持した。しかし、最近の民主化や選挙法改正に関する政府批判に同調し、1997年選挙はボイコットした。1989年の第11期議会には3人、1993年の第12期議会には1名議員を当選させている。結党当初から発行されていた機関紙は、発行停止になった。

(f)保守

国民潮流党

  • Hizb al-Tayar al-Watani
  • (National Current Party)
  • 2009年公認

党の基本的方針としては、国民的統一、政治的忠誠心、公正、節度、寛容の価値の推進、市民の参加の拡大、法の統治の構築、政治改革によるガバナンスの強化、そのための法による自由や市民の保護と政府による安全や政策の展開との調和を掲げている。第16期議会選挙では、マジャーリー指揮下に国民潮流党の名のもとに、8名、第17期選挙では1人、第18期選挙では4人当選している。政党の形をとっているが、部族的背景で当選した者も多く、保守派と無党派の境界領域にあるもの、とみなすこともできる。

国民連合党

  • Hizb al-Ittihad al-Watani
  • (The Jordanian National Union party)
  • 2011年公認

組織:総会、議長、事務局長、事務局、経済局、会計局、専門局(議会、政党、選挙、人権、女性等) 政党、選挙等に関する政治関係法への市民の関心を喚起することを目的とする。民主主義推進のための適切な環境を整備する。各種会議への参加を通して、ヨルダンのアラブ諸国や域内、国際社会での役割を強化する。表現の自由、集会、平和的デモの権利を確立しそれへの障害を取り除く。憲法の原則を維持し、それに反する法律や規定を排除する。法の統治を確立する。第18期選挙では、7名の当選者をだした。

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2020年10月4日

スーダン/現在の政治体制・制度

スーダンの政治体制は、大統領共和制である。2019年4月、約30年間続いたバシール政権が崩壊した。国軍が立ち上げた暫定軍事評議会(Transitional Military Council: TMC)と民政移管を求める市民の代表からなる「自由と変化勢力」(Force of Free and Change: FFC)の交渉により、暫定的な統治機構が設立されるに行ったった。スーダンでは、2005年7月以降、暫定国家憲法(Interim National Constitution)により政治体制が定められていたが、2019年8月4日に、移行期間のための憲法宣言(Constitutional Declaration for the Transitional Period)が署名され、3年3か月間の暫定期間は、2005年の暫定国民憲法に替わって使用されることが決定した。同憲法宣言第2章第7条第9項において、暫定期間中に、スーダンの恒久憲法策定に向けたメカニズムが構築されるべきこととなっている。

なお、スーダンでは1956年1月1日の独立以降、4つの憲法が、政変により作り替えられてきた。1956年のスーダン移行憲法、1973年のスーダン恒久憲法、1998年のスーダン共和国憲法、2005年のスーダン暫定国民憲法である。軍政と民政がたびたび入れ替わり、国内で反乱勢力が蜂起し政治的要求をする中で、あらゆる立場にあるスーダン国民のための恒久憲法策定は、スーダンの歴史上、重要課題であり続けている。

ここからは、2019年の憲法宣言の内容から、主要な移行政府機関についてまとめる。憲法宣言第3章第9条は、移行政府機関を次の3つから成ると定める。(1)主権の象徴である「主権評議会(Sovereignty Council)」、(2)国家の最高行政権を有する「内閣」、(3)立法権を有し、行政機構の活動を監視する「移行立法評議会(Transitional Legislative Council)」である。行政府・立法府に加えて、憲法宣言第8章で(4)司法府も規定される。以下ではこれらの4つについて、憲法宣言の内容を抜粋する。

行政府

行政府として、主権評議会と内閣がある。大統領ポストは、2019年4月のバシール大統領撤退以降、空席である。

主権評議会

主権評議会は、軍事評議会と文民勢力の間の権力分有協定として取り決めたものである。立法評議会は11人で構成され、5人はFFCが選出する文民、5人はTMCが選出する者、最後の1人は文民で、TMCとFFCが合意の下、選出する。主権評議会の議長は、暫定期間のはじめの21か月は同評議会の軍事メンバーが選出し、残る18カ月間の議長は評議会の文民メンバーが選出する文民が務める(憲法宣言第4章第10条)。

主権評議会は、次の能力と権限を有する。FFCが選出した首相の任命、首相が任命した閣僚、地方の長・州知事の承認、指名された立法評議会議員の承認、最高裁判所設置後の承認及び司法長官等の承認、内閣で指名された大使及び各国からの駐スーダン大使の承認、主要閣僚からなる安全保障・防衛評議会の勧告に基づく宣戦布告、等が定められている(憲法宣言第4章第11条)。

2020年9月現在、主権評議会議長はブルハン将軍(General Abd-al-Fatah al-BURHAN Abd-al-Rahman)である。2021年5月以降は、文民の議長に交代し2022年に選挙を迎える予定である。

内閣

内閣は、首相及び20人を超えない範囲で、FFCの閣僚候補者リストの中から首相が指名し、主権評議会で承認を受けた者からなる。ただし、国防大臣と内務大臣は、主権評議会の軍事メンバーが指名する。首相はFFCが選出し、主権評議会が承認する(第5章第14条)。

内閣は、次の能力と権限を有する。「自由と変化宣言」のプログラムに従って移行期間の任務を遂行すること。戦争・紛争を停止し、平和を構築すること。法律案、予算案、二国間お呼び多国間合意を早期に進めること。公的サービスのための計画や政策案を作成すること。公共サービスの長を指名し、国家機関の活動を監視すること。法の執行を監視すること、などである(第5章第15条)。

立法府

立法府として憲法宣言で規定されるのは移行立法評議会である。移行立法評議会は、独立の立法当局である。移行立法評議会員は、最大で300人であり、前政権に参加していた国民会議党などの政党を除いた、すべての勢力を代表する。女性の参加を全体の40%は確保すること、67%はFFCメンバーから、33%は、「自由と変化宣言」に署名していない勢力から選ばれる。移行立法評議会を構成する際には、「自由と変化宣言」に署名したか否かにかかわらず、スーダン国内で勘案すべき様々な要素を考慮すべき旨も明記されている(第7章23条)。

移行立法評議会は、次の能力と権限を有する。法律の制定、内閣の監視、国家予算の承認、二国間、地域間、国際合意や条約の批准、法律・規則の制定及び評議会の議長・副議長・専門委員会を選出する(第7章第24条)。首相が退任した際には、移行立法評議会が新首相を指名し、主権評議会が承認する。

この移行立法評議会は、2022年に予定される選挙まで存続する。

司法府

最高司法評議会(Supreme Judicial Council)が、国民司法サービス委員会に代わり設置され、権限を引き継ぐ。最高指標評議会は、憲法裁判所長官及び裁判官、司法長官及び副司法長官を選出する(第8章第28条)。

司法権は司法機関に委ねられる。司法機関は、主権評議会や立法評議会、その執行部局から独立して存在し、必要な財政的・行政的独立も維持する。司法長官は、司法機関の長であり、国民最高裁判所の長であり、最高司法評議会の下で司法機関の運営責任を有する(第8章第29条)。

憲法裁判所は、司法機関とは異なる独立した裁判所であり、法律や措置の合憲性を監視し、権利と自由を保護し、憲法上の係争を裁く。法律によって、憲法裁判所は設置され、その能力と権限が規定される(第8章第30条)。

参考文献

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2020年10月4日

スーダン/最近の政治変化

バシール政権崩壊と移行政権の樹立

2019年4月11日、1989年6月から約30年間の長きにわたったオマル・アル=バシール(Omar al-Bashir)政権が崩壊した。強権的なイスラーム主義を貫いたバシール大統領に対しては、市民からの不満も大きかった。2018年後半の経済危機は、パンや燃料の値上げなど、市民の日常生活に直接的な影響を及ぼした。市民は、バシール大統領の退陣を要求し、12月中旬から、首都ハルツームのみならず地方都市においても、反政府デモを開始した。政府は、催涙ガスを使用したり、デモの首謀者を逮捕するなどして反政府デモを弾圧したが、死者が発生しても、市民による要求は止まらなかった。なお、この経済危機の背景には、2011年の南スーダン独立に伴い、同地域で産出される石油による収入が激減したことや、1997年以降2017年まで続いた米国による経済制裁の影響もある。なお、米国のテロ支援国家リストからスーダンの国名を外すことが次の二国間の課題となっている。2020年8月24日、マイク・ポンペオ米国務長官がスーダンを訪問した際に、ハムドゥーク首相とテロ支援国家指定解除も協議したとされる。テロ支援国家指定解除がされれば、米・スーダン関係の改善や対外投資等の政治・経済面で改善が期待される。ただし、国内では、2020年初め以降世界的に広がる新型コロナウィルスの感染のみならず、未曽有の洪水や、通貨の急速な下落に伴う経済的緊急事態も宣言されるなど、移行政権はさまざまな課題に直面している。

まず、バシール政権崩壊に至る過程からその後の経緯を整理する。2019年1月1日、バシール大統領の退任を求める、市民や反乱勢力の連合である「自由と変化」勢力(Force of Free and Change: FFC)の発足が宣言された。4月6日には、市民がハルツームの軍本部前で座り込みのデモを開始した。市民運動が盛り上がり続ける中、4月11日に軍が無血クーデタによりバシール大統領を退任に追い込んだ。クーデタを起こした軍部は、暫定軍事評議会(Transitional Military Council: TMC)を発足させた。これまで非暴力運動を展開してきた市民は、TMCは市民がこれまで抵抗してきた政府とほとんど変わらないと非難し、TMCに即時の民政移管を求めた。アフリカ連合(AU)平和・安全保障委員会は、4月15日、軍事力を使った、憲法に反する手法での政変を拒否・非難するとともに、スーダンに対し、15日以内に文民主導の政府に移管しなければ、AU加盟国としてのAUの活動への参加を停止すると決定した。

その後約2か月間はTMCとFFCの間で大きな動きは見られなかった。しかし、軍本部前で座り込みを続ける市民や民主化の高い要求を行うFFCに対し、TMCはいら立ちを募らせ、6月3日に軍本部前で座り込みをする市民の強制排除に出た強制排除の中で行われた残虐な暴行は国内外に衝撃を与え、エチオピアの仲介により、TMCとFFCが話し合いを始めることとなった。詳細は、アブディン(2020)による論考を参照されたい。デモの残虐な強制排除の経験によりデモの再開が現実的でなくなったことから、FFCは市民にゼネストを呼びかけた。さらに6月30日、欧米諸国や人権団体への働き掛けも功を奏し、TMCが暴力を控える中で、百万人規模のデモを成功させた。これ以降、TMCとFCは交渉を進め、8月に、移行期間のための憲法宣言が合意され、アブダッラー・ハムドゥークが首相に就任し、文民をトップとする移行政府が発足した。

スーダンの「現在の政治体制・政治制度」に記載した移行憲法宣言の条項に基づいて、ハムドゥーク首相の下、2019年9月8日に18人の大臣が就任した。ハムドゥーク首相自身が国連アフリカ経済委員会の副事務局長であるなど国際的に活動する経済学者であること、外務大臣他4名が女性であることや、財務・経済大臣は世界銀行勤務経験があることなども含め、注目の閣僚人事となった。

経済の立て直し、民政移管、スーダン和平の実現が急務とされたが、スーダンの市民は、新内閣の改革プロセスが遅々として進んでいないと不満を持っていた。2019年6月30日の大規模デモから1年にあたる2020年6月30日には、全世界的な新型コロナウィルス感染拡大の中、スーダンでもロックダウン中であったにもかかわらず、市民はSNSを使って連帯を呼びかけ、スーダン各地で大規模なデモを展開した。デモにより1人が死亡し、負傷者も発生した。この結果、7月上旬、ハムドゥーク首相は、警察長官及び副長官を解雇した他、財務・経済、外務、エネルギー担当、保健担当大臣等を外し、内閣改造を行った。以上のような内政状況に加えて、ナイル川の洪水により、2020年9月4日に、以降政権は、3か月間の緊急事態宣言を宣言した。続いて、9月11日には、通貨の急落により、経済緊急事態を宣言した。スーダン移行政権はさまざまな課題に直面している。政権に声を上げてきた市民の代表であるFFCについても、2020年7月には「スーダン専門職能者連合(Sudanese Professional Association)」がFFCから離脱するなどの課題がみられる。

なお、スーダンでは、バシール政権崩壊以前にも、民衆蜂起により軍事政権が倒されてきた過去がある。アッブード軍事政権(1958年-1964年)は、労働者、農民、専門職者(医師、弁護士、技術者等)、知識人を中心とする国民の抵抗運動(10月革命)により転覆した。ヌマイリー政権(1969年-1985年)も、経済不安定化及び生活必需品の値上げの後に、民衆による決起(インティファーダ)により打倒された。2011年のアラブの春で民衆が独裁政権を非暴力で転覆させ、スーダンでも「アラブの春」が発生する可能性も議論されたが、その際、スーダンで政権を牛耳る者たちは、スーダンではすでにアラブの春は経験済みであると認識していた。ただし、過去の民衆運動がそれぞれ5日、10日程度で政権を崩壊に至らしめたのとは対照的に、バシール政権崩壊までは4か月かかった。反対に、過去の軍事政権転覆時には問題にならなかった、国内紛争との反乱軍の活動があり、スーダンの国内政治を複雑化させているという面もある。国内政治の複雑さを象徴する動きとして、例えば2014年12月には、バシール大統領の一党独裁状態に対して、バシール大統領の退陣を求めるために共闘する、政党連合(NCF)・市民運動・反乱軍連合(SRF)が、隣国エチオピア・アジスアベバで、「スーダン・コール(Sudan Call)」なる同盟関係を結んだことがあげられる。国内紛争と反乱勢力については、次の「スーダン和平」で解説する。

<参考:スーダンの政治体制>

  • 1953年 自治選挙(self-government election)※植民地における自国民による選挙
  • 1956-1958年 スーダン独立、第一民主政権期
  • 1958-1964年 アッブード軍事政権期
  • 1964-1969年 「10月革命」によりアッブード政権崩壊、第二民主政権期
  • 1969-1985年 「5月革命」、ヌマイリー軍事政権
  • 1985-1989年 インティファーダ、ヌマイリー政権崩壊、第三民主政権期
  • 1989-2019年 「救済革命」、アル=バシールが政権奪取、NIF→NCPによる支配
  • 2019-2022年 バシール政権崩壊、暫定軍事評議会発足、移行政府発足、
  • 2022年 民政移管完了予定

スーダン和平

軍事部門対非軍事の市民という対立に加えて、スーダンでは、ハルツームを中心とする中央政府対周辺地域の反乱軍という構図で、複数の紛争が展開してきた。最も長く続いたのは、南北スーダン内戦である。1956年元日のスーダンの独立前日から1972年まで続いた第一次スーダン内戦、1983年から2005年までの第二次スーダン内戦は、主に北部に位置する中央政府及び国軍と南部スーダンの反乱軍の戦いであった。長い内戦の後、2005年にスーダン包括和平合意(Comprehensive Peace Agreement: CPA)が締結され、合意の履行結果のひとつとして2011年7月に南スーダンが独立することになった。他にも、スーダン西部に位置するダルフールでは、2003年以降、ダルフール紛争が続いてきた。加えて、2011年1月の南部スーダン住民投票で同地域の独立が決まると、スーダン・南スーダンの国境線沿いの北部に位置する、南コルドファン州と青ナイル州(いわゆる2州)でも反乱軍が蜂起した。ダルフール紛争及び2州の紛争をどのように平和的に解決するかも、現在の重要課題である。

スーダン政府に対峙する主要な反乱軍として次の勢力があげられる。ダルフールでは、「正義と平等」運動(Justice and Equality Movement: JEM)、スーダン解放運動/軍(Sudan Liberation Movement/Army: SLM/A)があった。SLM/Aは、2006年のダルフール和平合意をめぐり、署名か署名拒否かで内部分裂が起こり、それぞれ指導者の名前を付けて、SLM/Aミナウィ派とSLM/Aアブドゥルワーヒド派に分派した。同合意に署名したSLM/Aミナウィ派はダルフール地域における重要ポストを与えられたが、2011年2月にはダルフール和平合意から正式に手を引いた。2州では、第二次スーダン内戦に際して、アイデンティティは北部スーダンにあるものの、南部の反乱軍であるスーダン人民解放運動/軍(Sudan People’s Liberation Movement/Army: SPLM/A)側で北部の中央政府と戦った者が多い地域である。2011年に南スーダン独立が決まると、2005年のCPAの内容が2州ではほとんど実現されていないことや、2011年の同州での選挙結果等への不満も相まって、SPLM/A北部(SPLM/A-North)として蜂起した。2011年11月には、JEM、SLM/Aミナウィ派、SLM/Aアブドゥルワーヒド派、SPLM/A北部が集まって、スーダン革命戦線(Sudan Revolutionary Front: SRF)を発足させ、バシール政権に対し、解放のための武力闘争を行う旨宣言し、共闘を続けてきた。

バシール政権崩壊後、2019年8月に署名された移行憲法宣言の第7条第1項で包括的な和平を達成するべきことが掲げられ、第15章で「包括和平の課題」について具体的な内容が規定さた。同憲法宣言合意より6か月以内に包括和平を達成するという条項が盛り込まれている。これに関連する動きとして、翌月9月には、南スーダン・ジュバにて、ハムドゥーク首相率いるスーダン政府とSRFの間でジュバ原則宣言(Juba Declaration of Principles)が締結され、包括和平合意に至るロードマップとされた。ただし、SRFは一枚岩ではない。SRF傘下の一勢力であるSPLM/A北部の内部では、2017年3月にアブデルアズィーズ・アルヘルウ率いる一部が分派し、 SPLM/A北部アガール派とアルヘルウ派に分かれた。SPLM/A北部アルヘルウ派は、ジュバ原則宣言に署名しなかった。また、SLM/Aアブドゥルワーヒド派も、スーダンとの和平の道を選んだSRFから離脱し、同宣言への署名を拒否した。このように包括的な和平へプロセス実現を阻む動きも見られる。2019年10月には、スーダン政府とSRFの間で第2回目の和平交渉が実施され、同時にスーダン政府とSPLM-Nアルヘルウ派との間で別の交渉が行われ、南コルドファン州に関する和平交渉のロードマップが合意された。

最新の展開として、2020年8月31日、南スーダン・ジュバにて、サルヴァ・キール南スーダン大統領の仲介の下、スーダン移行政府(ハムドゥーク首相)と反乱勢力の間で7つの議定書からなる和平合意が締結された(富の分配、権力分有、避難民及び難民、土地所有、補償及び復興、アカウンタビリティー及び和解、遊牧問題)。主要な反乱勢力として、JEM、 SLM/Aミナウィ派、SPLM/A北部アガール派が署名した。ただし、SPLM/A北部アルヘルウ派及びSLM/Aアブドゥルワーヒド派は署名を拒否した。スーダン和平を支援してきたトロイカ(米・英・ノルウェー)は声明を出し、和平合意の締結を祝福するとともに、署名しなかったSPLM/A北部アルヘルウ派及びSLM/Aアブドゥルワーヒド派に対し、和平プロセスへの参加を呼び掛けた。9月3日、移行政権とSPLM/A北部アルヘルウ派は、停戦遵守などを盛り込んだ共同宣言に合意した。同共同宣言では、将来策定される憲法は宗教と分離されること、憲法策定まで、南コルドファン州および青ナイル州(2州)の自決権が認められることなどを合意した。

国際平和活動及び仲介活動

上述のスーダン和平実現のため、また文民を保護するため、スーダンには複数の国際平和活動が展開してきた。2003年に紛争が激化し、「世界最悪の人道危機」が発生しているとしてダルフールが注目を集めると、2004年に締結されたダルフール人道的停戦合意の履行監視目的で、同年、AUの平和維持活動であるスーダン・アフリカミッション(Africa Mission in Sudan: AMIS)が立ち上がった。AMISは、2007年に国連・アフリカ連合合同ミッション(UN/African Union Hybrid Mission in Darfur: UNAMID)に引き継がれた。国連とAUという2つの国際組織の「ハイブリッド」型として発足当時は注目を集めたが、報告系統が二重になること、予算の配分、機動性など、様々な面で課題も指摘された。UNAMIDがダルフールに展開する中、2005年のCPA履行監視を目的として、国連スーダン・ミッション(United Nations Mission in Sudan: UNMIS)が発足した。首都ハルツームに本部司令部、南部スーダン・ジュバに地域事務所を設置した。2011年に南スーダンの独立が決まると、UNMISは任務を終えることとなり、北部スーダンからUNMIS部隊は撤収することになった。南スーダンには、UNMISの後継ミッションである国連南スーダン・ミッション(United Nations Mission in South Sudan: UNMISS)が設置された。スーダンと南スーダンの係争地であるアビエイ(Abyei)地域には、国連暫定治安部隊(United Nations Interim Security Force in Abyei: UNISFA)が立ち上げられた。スーダン側に位置する2州では武力衝突が発生したため、引き続き平和維持活動の展開する案が出されたが、スーダン政府はこの案を拒否した。よって、2011年以降、国際平和活動が展開する地域はダルフールとアビエイのみであった。UNAMIDは、設立当初から約5年間は、約2万6000名の軍事要員の展開を認める国連平和維持活動最大規模のミッションであったが、2012年移行段階的に要員数は減らされ、2017年からはダルフールからの撤退を見越したさらなる軍事要員の削減が行われ、要員数は約6,500名まで減少した。

国際的な仲介活動に目を向けると、2009年には、タボ・ムベキ(Thabo Mbeki)元南アフリカ大統領を議長とする、AUハイレベル履行パネル(African Union High-Level Implementation Panel for Sudan: AUHIP)が、2006年に締結されたダルフール和平合意と2005年の南北スーダン包括和平合意履行支援を任務に設置され、スーダンの主要な紛争解決に向けて仲介を続けている。2014年には、解決の目途が立たないダルフールと2州という2つの問題を1つのプロセスに取り込んで、国民対話を通じて包括的解決を目指すという「1つのプロセス2つのトラック(one process, two tracks)」がAUから提案され、実施されてきた。2016年3月には、スーダン政府、ダルフール及び2州の反乱軍(JEM,、SLMミナウィ派、SPLM北部)とAUHIPがロードマップ合意を締結し、ダルフールと2州での紛争終結プロセスを促進していくことに合意した。ロードマップ合意では、一時的な停戦を恒久的な停戦合意としていくための交渉再開を合意した。ロードマップ合意以降、政府や主要な反乱軍は一方的停戦を宣言し、過去数年間は一部の例外を除き、軍事情勢は落ち着きを見せている。なお、2005年の南北スーダンCPAに導いたのは、東アフリカ地域の準地域機構である政府間開発機構(IGAD)であるが、AUHIPとは仲介スタイルに違いがある。IGADはケニアのスンベイウォ将軍(Gen. Lazaro Sumbeiywo)を仲介の長として、交渉の両当事者に強く合意を迫る傾向があった。合意をしなければ会議場から出てはいけない、という指示をすることさえあったとされる。強権的な仲介の下では、決められた合意には至るが、当事者が不満や禍根を残すという側面もある。一方で、ムベキ議長率いるAUHIPの仲介方針は、辛抱強く当事者が合意に至ることを待つスタイルであるとされる。なかなか成果が出ないために、「待つ」仲介方針は非難されたこともある。しかし、2009年以降、継続して仲介をし、以上のような成果も見せている。AUでは「アフリカの問題にはアフリカ的解決を」というスローガンも掲げられ、AUHIPによるスーダンでの仲介活動が注目される。

2019年4月のバシール政権崩壊後の最新の動きとして、2020年6月に、国連の特別政治ミッション(軍事部門を持たない平和活動)として、国連スーダン統合以降支援ミッション(United nations Integrated Transition Assistance Mission in Sudan: UNITAMS)の設立が国連安全保障理事会決議で決定した(S/RES/2524(2020))。UNAMIDについても同日にもう1つの国連安保理決議が採択され、2020年末までの任期延長が認められた(S/RES/2525(2020))。スーダン政府は、UNAMIDの活動終了を希望している。そのため、一方では、2020年末頃に任務を終えて、スーダン政府がダルフール地方の安全を守る責任を持ち、UNITAMSが限定的な任務を引き継ぐと予想される。他方、安保理決議第2525号はUNAMIDが2021年以降も小規模に展開する余地を残したともいわれる。軍事部門を持たないUNITAMSであるが、首都での民政移管支援に加え、ダルフールや2州での和平促進支援等、様々な課題を抱えることになる。

参考文献

  • アブディン・モハメド「バシール政権崩壊から暫定政府発足に至るスーダンの政治プロセス――地域大国の思惑と内部政治主体間の権力関係――」『アフリカレポート』第58巻、2020年、41-58頁。
  • アフリカ日本協議会「栗田禎子さんに聞く2: 南スーダンの独立歴史的背景と今後の展望」『アフリカNOW』No. 97, 2013年。
  • Louisa Brooke-Holland, “Sudan: December 2017 Update,” House of Commons Library, Briefing Paper, No. 08180, December 15, 2017, https://researchbriefings.files.parliament.uk/documents/CBP-8180/CBP-8180.pdf (last accessed September 2020).
  • Andrew McCutchen, “The Sudan Revolutionary Front: Its Formation and Development,” Small Arms Survey, Graduate Institute of International and Development Studies, Geneva, October 2014, http://www.smallarmssurveysudan.org/fileadmin/docs/working-papers/HSBA-WP33-SRF.pdf (last accessed September 3, 2020).
  • Daniel Forti, “Navigating Crisis and Opportunity: The Peacekeeping Transition in Darfur,” International Peace Institute, December 2019, https://www.ipinst.org/wp-content/uploads/2019/12/1912_Transition-in-Darfur.pdf (last accessed September 3, 2020).
  • United Nations Security Council, “Report of the Secretary-General on the situation in the Sudan and the activities of the United Nations Integrated Transition Assistance Mission in the Sudan,” S/2020/912, September 17, 2020.
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2020年10月4日

スーダン/選挙

スーダンでは、独立前の1953年以降、選挙制度が導入されてきた。1989年にバシール大統領が政権を奪取して以降は、1996年、2000年、2010年、2015年に総選挙、1998年に憲法改正を問う国民投票、2011年に南部スーダン住民投票(南部の分離独立が決定)が行われた。バシール大統領は、いずれの選挙でも、高い得票率で大統領の座を維持してきた。立法府の下院にあたる国民立法議会においても、常に与党NCPが圧倒的に多くの議席数を獲得してきた。

2019年の政変により、バシール大統領は失脚し、NCPは11月に解体された。2019年8月の憲法宣言(第23条)では、今後立ち上げられる移行立法評議会においては、スーダンの変革に参加するすべての勢力の代表が含まれるようにすることを明記しつつ、バシール政権参加にあったNCPや関連勢力は排除することも盛り込まれた。2022年に予定される選挙が注目される。

選挙権

選挙権は、スーダン国籍を持ち、18歳以上であり、有権者登録を済ませており、市民及び政治的権利を享受していること、そして健全な心の持ち主であること、の条件を満たす者に認められる。海外在住者は、大統領選挙及び国民投票のための有権者登録はできるが、議会選挙はできない。以上は、2008年国民選挙法(2014年改正)に規定されている。

立候補資格

議会選挙立候補者として認められるのは、スーダン国籍を持ち、21歳以上であり、健康で読み書きができ、立候補前の7年間にわたって犯罪で有罪を受けたことがなく、州議会・州政府メンバーでなく、大臣職にも就いていない人物である。

今後立ち上げられる移行立法評議会の立候補資格もほぼ同様の内容である(2019年憲法宣言第25条)。

大統領選挙

大統領は、直接選挙により過半数を獲得することで当選する。必要に応じて2回投票が行われる。任期は5年である。南スーダン独立を決める住民投票前の2010年に実施された大統領選挙では、候補者は乱立するも、実質的にはバシール大統領(与党NCP)と南部スーダンの主力政党であるSPLM候補者であるヤーセル・アルマーンの対決となった。しかし、アルマーンが立候補を辞退したこともあり、結果としてバシール大統領68.2%、アルマーン候補21.7%(辞退により無効)となった。2010年の選挙の後、バシール大統領は次の大統領選には出馬しないことを表明したが、党内・政権内の世代交代が思ったように進まず、2014年10月にはNCPは、バシール氏を正式な大統領候補として選出することを決定した。 2015年4月13-16日に行われた大統領選挙では、バシール大統領が94.1%、他の15人の候補者は5.9%という得票率で、バシール大統領の再選となった。ただし、こうした選挙実施期間になると、投票箱のすり替えや選挙権を持たないものが投票する、無効な投票用紙が計上されている、などの不正や工作が報じられることがしばしばある。

なお、首相は大統領の氏名により選出されるが、1989年6月30日以降、バシール政権以下では首相ポストは廃止されていた。2015年から2016年の国民対話プロセスにおいて、首相ポストの復活がなされ、バシール大統領は2017年3月にサーレハ(Bakri Hassan Salih)首相を指名した。2019 年8月21日、FFCがハムドゥークを移行政府の首相に指名し、現在に至る。移行期間が終了する2022年に次の大統領選挙が実施される見込みである。

議会選挙

2005年から2019年4月までの暫定憲法において立法府と規定されていた全州評議会(上院)と国民立法議会(下院)があった。国民立法議会は、「自由かつ公平な」直接選挙によって議員が選出される。また、全州評議会は、州議会による間接選挙によって各州から3名ずつ選出される。両議会とも、任期は5年である。

最近では、2015年4月に国民立法議会選挙が、同年6月1日に全州評議会選挙が実施された。国民立法議会選挙では、バシール大統領率いる与党国民会議党(NCP)が426議席中323議席、続いて民主統一党(DUP)が25議席を獲得した。無党派の独立候補者19名も議席を獲得した。ただし、主要な野党勢力であるウンマ党や人民会議党などはこの選挙をボイコットした。国民立法議会における女性議員率は31%であった。全州評議会では18州の各州議会から3名ずつ、合計54名が間接選挙で選ばれた。加えて、係争地アビエイ地域議会から2名が、全州評議会で投票権のないオブザーバーとして選ばれた。全集評議会における女性の比率は35%であった。

2019年8月の憲法宣言により、2022年の選挙実施まで、立法府としてはこれらの両議会に代わって移行立法評議会が設立されることとなった。ただし、2020年9月現在、移行立法評議会は発足していない。

<参考:スーダンの選挙>

  • 1953年 複数政党「自治」議会選挙
  • 1958年 複数政党議会選挙
  • 1965年 複数政党憲法議会選挙(北部スーダン)
  • 1967年 複数政党憲法議会選挙(南部スーダン)
  • 1968年 複数政党憲法議会選挙
  • 1971年 大統領に関する国民投票(ヌマイリーのみが候補)
  • 1972年 単一政党による人民議会選挙
  • 1974年 単一政党による人民議会選挙
  • 1977年 大統領に関する国民投票(ヌマイリーのみが候補)
  • 1978年 単一政党による人民議会選挙
  • 1980年 単一政党による人民議会選挙
  • 1983年 大統領に関する国民投票(ヌマイリーのみが候補)
  • 1984年 単一政党による人民議会選挙
  • 1986年 複数政党議会選挙
  • 1996年 単一政党/複数候補者による大統領選挙
  • 1998年 憲法改正に関する国民投票
  • 2000年 複数候補者による大統領・議会選挙、主要政党がボイコット
  • 2010年 複数候補者による大統領・議会選挙、主要政党がボイコット
  • 2015年 複数候補者による大統領・議会選挙
  • 2022年 選挙実施予定

今後の見通し

2019年8月の憲法宣言にて、スーダンの移行期間後の2022年後半に民政移管を完了させるため、選挙の実施もされる予定が記載されている。なお、同宣言は、主権評議会の議長やメンバー、州知事、各地方の首長らが、2022年に実施予定の選挙に出馬することを禁止している。2022年の民政移管完了に向け、選挙実施に向けた準備が急務となっている。

参考文献

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2019年11月18日

インドネシア/政党

総選挙に参加できる政党は全国規模の組織を有する必要がある。政党法に定められた要件を満たした法人として法務・人権省に登録した上で、2012年改正の政党法ではすべて州に支部を設置し、その州内の4分の3以上の県・市に支部を設置することなどが義務づけられている。2004年総選挙では24政党、2009年総選挙では38政党が参加した。2009年総選挙より、歴史的経緯からナングロ・アチェ・ダルサラーム州に限り地方政党の選挙参加が認められた。2014年総選挙では12政党が参加、10政党が議席獲得、直近の2019年総選挙では20政党が参加、9政党が議席を獲得した。得票率および議会占有率が2割を超える政党はない、多党化傾向が常態化している。

2008年の選挙法改正では代表阻止条項が規定する最低得票率が従来の1.5%から2.5%、2012年には3.5%に引き上げられ、小規模政党は一層不利になった。従来の制度では最低得票率に満たない政党は次回の総選挙への参加を禁じられていたが政党名を変えるだけで済み、多党化を防ぐ実質的な効果はなかった。2009年総選挙に際しては得票率2.5%以下の政党は議席も配分されなくなった。この結果、1999年総選挙から参加を続けていた月星党は国会で議席を失った。2019年総選挙では最低得票率が4%にまで引き上げられ、2009、14年選挙で議席を持っていたハヌラ党が国会から消えた。

インドネシアの政党は大きく世俗ナショナリスト系とイスラーム系に区分されてきた。1955年総選挙では国民党と共産党、マシュミ党とNU党が四大政党を形成した。こうした区分は依然として有効であるものの、両者の境界はかなり曖昧になっている。ナショナリスト系政党は敬虔さをアピールし、イスラーム系政党は国家や社会のイスラーム化よりも反汚職や大衆の福祉などを訴えるようになった。第一次ジョコ・ウィドド(以下ジョコウィ)政権では、闘争民主党、ゴルカル党、民族覚醒党、開発統一党、国民民主(ナスデム)党、ハヌラ党が与党連合、グリンドラ党、福祉正義党が野党連合を組んでいる。野党連合は在野のイスラーム急進派を取り込み、政権批判を強めたが、与党連合にもイスラーム系政党(民族覚醒党、開発統一党)が含まれる。

2019年総選挙は、大統領への支持をめぐる与野党の対立が、社会の「分極化」といわれるほど高まるなか、大統領選挙と初めて同日に行われた。ジョコウィ、プラボウォを担いだ闘争民主党とグリンドラ党がそれぞれ票を伸ばしたが、いずれも2割には届かなかった(グリンドラ党はゴルカル党に次ぐ第3党)。大統領選挙の結果が確定すると、両陣営は早々に和解し、グリンドラ党も第二次ジョコウィ政権の連立に加わった。明確な野党は福祉正義党のみになった。

2019年選挙の結果国会に議席を獲得したのは以下の9政党である。このうち民主主義者党は2004年、グリンドラ党は2009年、国民民主党は2014年に国政選挙に初参加した。

闘争民主党(Partai Demokrasi Indonesia Perjuangan, 略称PDI-P)

スハルト時代の野党インドネシア民主党(PDI)を前身とする。インドネシア民主党は1973年の「政党簡素化」によって、世俗ナショナリスト系やキリスト教系の諸政党が統合されたものである。1997年総選挙に際し、影響力を強めつつあったスカルノ初代大統領の娘メガワティが体制側の介入によって党首の座を解任された。闘争民主党はこのメガワティを中心とした分派によって結党された。1999年総選挙では第1党になり、2001年のワヒド大統領罷免を受けてメガワティが大統領に就任した。しかし、メガワティの大統領としての資質、同党の未熟な議員による汚職事件や私兵組織による廃退行為が失望や反発を生み、2004年総選挙では大幅に得票を減らした。メガワティは2004年、2009年の大統領選挙に出馬したが、いずれもユドヨノに敗れている。メガワティが後継者として期待する娘のプアン・マハラニは、2019年選出の国会で議長となった。

ジョコウィを大統領候補に戦った2014年総選挙では第1党に復帰、2019年選挙でも第1党を維持した。なお、ジョコウィは当初から党員ではなく、大統領と闘争民主党の間にはつねに緊張感がある。2024年の大統領選候補としては、プアンと中ジャワ州知事のガンジャル・プラノウォが争っている状況であるが、ジョコウィの3選論も根強い。

ゴルカル党(Partai Golongan Karya, 略称Golkar) 

1964年にインドネシア共産党に対抗して設立され、スハルト時代には翼賛組織として独占的な「与党」となったゴルカル(職能集団)は民主化後、「党(Partai)」を組織名に加えて再出発した。2009年総選挙まで毎回得票を減らしたが、地方まで浸透する最も安定的な党組織と支持層を維持している。非ムスリムの国会議員もつねに1~2割は存在するが、とりわけジャワ以外ではスハルト体制期の長年の支配によって、イスラーム組織関係者も党内に多く抱える。ユスフ・カラの大統領選敗北後、2009年10月に実業家で前国民福祉担当調整相のアブリザル・バクリが党首に選出された。2014年大統領選挙では、ジョコ・ウィドドの副大統領候補となったユスフ・カラではなく、プラボウォ組を支持、野党連合に加わった。ジョコウィ政権発足後、ゴルカル党は政権支持をめぐって分裂したが、結局与党連合に加わった。近年は闘争民主党への依存を減らしたいジョコウィとの接近が顕著である。前党首の汚職事件での逮捕を経て、2017年末から党首の座にあるアイルランガ・ハルタルトは、第一次ジョコウィ政権の途中から産業大臣に、第二次政権では経済部門の調整大臣の要職に就いている。

グリンドラ党(Partai Gerakan Indonesia Raya[大インドネシア運動党] , 略称Gerindra)

2007年結成の農民漁民党を前身とする。大統領選挙出馬を目指していたスハルトの娘婿で元陸軍戦略予備司令官のプラボウォが加わって、2008年4月に現在の党名に変更された。豊富な資金力を背景にテレビCMを大規模に展開して有権者への浸透を図った。そこで売り出したのは庶民の味方というポピュリスト的なイメージであり、かつてのプラボウォによる人権侵害への批判や強権的なイメージを払拭しようとした。プラボウォは2009年大統領選挙ではメガワティの副大統領候補として立候補したが、第1回投票で敗れた。2014年総選挙では、イメージ戦略に加え、前選挙で議席を得られなかった小政党を吸収して勢力を拡大、退役軍人のネットワークを活用、各地で地方有力者を取り込んで全選挙区で一議席を確保して第三党に躍進した。第一次ジョコウィ政権を通して、福祉正義党と共に野党連合として政権との対立姿勢を明確にしたが、2019年10月発足の第二次ジョコウィ政権では与党に加わり、プラボウォは国防相に就任した。

プラボウォが政権入りする一方で、副党首のファドリ・ゾンは政権批判を続けている。2024年大統領選では、プラボウォがまた出馬するのか否かが注目される。ジャカルタ州知事のアニス・バスウェダンも有力候補の一人である。

民主主義者党(Partai Demokrat, 略称PD

2004年総選挙に際して、スシロ・バンバン・ユドヨノを大統領に擁立すべく設立された政党。ユドヨノの人気によって2009年には第1党に成長したが、既存の大政党に比較して党組織は脆弱でとりわけ地方の人材が不足しているといわれる。2009年選挙のスローガンは「宗教的ナショナリズム」であり、ユドヨノ大統領自身とともに、「穏健だが、宗教的」なイメージを売り込んだ。2009年選挙で当選した同党国会議員の6割以上が経済界出身者であった。2014年総選挙では、次世代のリーダーと目された指導者たちの汚職容疑による逮捕、ユドヨノの人気凋落とともに党勢を半減させた。2019年総選挙でもさらに支持を減らしている。なお2019年大統領選では最終的にプラボウォ側に付いたものの、選挙後はすぐにジョコウィ政権と連立交渉を行なった。しかし、ユドヨノが自身の後継者として期待を寄せる息子のアグス・ユドヨノの入閣は叶わなかった。

2021年3月には、ジョコウィ政権の大統領首席補佐官であるムルドコ元国軍司令官がクーデターを仕掛け、党首就任を宣言した。この策謀は失敗に終わったが、アグスのリーダーシップと党組織の脆弱性を印象付けた。

民族覚醒党(Partai Kebangkitan Bangsa, 略称PKB)

最大のイスラーム団体ナフダトゥル・ウラマー(NU)を支持母体とする政党。NUの元議長で2000年に大統領となったアブドゥルラフマン・ワヒドのイニシアティブによって結党された。イスラーム団体を基盤としながらも、「民族」を掲げて国民政党を目指した。「覚醒」(kebangkitan)はNUの「ナフダトゥル」(アラビア語で覚醒)を想起させるインドネシア語、ロゴマークもNUに類似している。NUのプサントレン(イスラーム寄宿学校)指導者の影響力が強い東ジャワ州と中ジャワ州に支持者が多い。「改革派」として期待された1999年総選挙では12.6%を獲得したが、内紛を繰り返し、勢力を弱めた。2009年総選挙に際しては、ワヒド派とムハイミン・イスカンダール(現党首)派との分裂が法廷闘争に持ち込まれ、正当性を認められなかったワヒド派は選挙をボイコットするに至った。2014年総選挙では分裂状態を解消して党勢を回復、2019年総選挙でも票を伸ばしたが、得票率10%に届いていない。2014、2019年大統領選挙ではジョコウィを支持し、連立与党の一角を占めている。とくに2019年はジョコウィが、副大統領候補にNU総裁のマアルフ・アミンを立てたため、民族覚醒党もジョコウィの当選に尽力した。

2005年から党首を務めるムハイミンが党内を掌握してきたが、2021年4月にはワヒドの娘イェニー・ワヒドを担ぐ動きがあることが明らかになった。

国民信託党(Partai Amanat Nasitional, 略称PAN)

 NUに次ぐイスラーム団体ムハマディヤの元会長で1998年の民主化運動の指導者の一人アミン・ライスを中心に設立された政党。ロゴマークはムハマディヤのマークに類似しているが、「国民」を掲げ、結党当初はキリスト教徒も幹部に迎えた。総選挙では都市部を中心につねに得票率6〜7%台の安定的な支持を受けている。アミン・ライスは2004年大統領選挙に立候補したが、第1回投票で敗れた。ビジネス出身の現党首ハッタ・ラジャサは、2009年大統領選挙ではいち早く再選を目指すユドヨノを支持し、第二次ユドヨノ政権の経済担当調整大臣を務めた。ハッタ・ラジャサは2014年大統領選挙ではプラボウォの副大統領候補になったが、接戦の上、敗退した。ジョコ・ウィドド政権発足後、一時は与党連合入りを表明して大臣職も得たが、野党連合とも近い関係を維持、2019年大統領選ではプラボウォを支持した。選挙後はやはりジョコウィ政権に接近したものの態度ははっきりしていない。2021年8月現在、次期大統領選に向けた動向が活発化するなかで、正式な連立政権への加入と大臣職の配分が取り沙汰されている。

福祉正義党(Partai Keadilan Sejahtera, 略称PKS)

ムスリム同胞団をモデルとした大学キャンパスにおける宣教運動が発展して1998年に政党となった。正義党として結成されたが1999年総選挙で代表阻止条項の最低得票率(1.5%)を下回ったため、2004年総選挙前に福祉正義党が新たに結党された。2004年総選挙では、既存政党への不信感を背景に清廉潔白なイメージを売る福祉正義党への期待が高まり、都市部で躍進、ジャカルタ特別州では約23%を得票して第1党になった。2009年総選挙は微増、2014年総選挙では初めて得票率を減らした。そのイデオロギー的背景と組織的性格から、排他的との批判を受ける一方で、2004年以降は日和見主義的との評価もなされるようになった。10年間のユドヨノ体制下では3つの大臣ポストを維持した。とりわけ2005年に地方首長選挙が有権者の直接投票となると、多数派工作のためにあらゆる政党と連立を組んだ。2010年7月には「開かれた政党」となることを宣言し、さらに現実主義を強めている。しかし2013年には当時の党首が汚職で逮捕され、大きなイメージダウンになった。2014年大統領選挙では、プラボウォ陣営に付き、ジョコ・ウィドド体制下では下野した。2019年大統領選でもプラボウォを支持、第2次ジョコウィ政権では唯一明確な野党となった。

2015年8月に指導体制を一新し、ソヒブル・イマンが党首、サリム・セガフ・ジュフリが宗教評議会議長に就任した。ソヒブル・イマンは学部から博士課程まで日本で教育を受けている。他方のサリム・セガフはサウディアラビアのマディナ大学で博士号を得ている。理系と宗教エリートという福祉正義党特有の組み合わせである。2020年10月には、地方議会からの叩き上げであるアフマド・シャイフが党首に就任した。

国民民主党(Partai NasDem, 略称NasDem)

元ゴルカル党政治家でテレビ局MetroTVなどを所有するスルヤ・パロが2011年7月に設立した政党。2014年総選挙では唯一新党として参加が認められ、得票率6.7%の支持を得た。同年の大統領選挙ではいち早くジョコ・ウィドドへの支持を表明し、MetroTVも活用して当選に貢献した。内閣などの戦略的ポストに複数の党員を配置している。ジョコ・ウィドドの再選も一貫して支持、地方首長選挙でも大衆的人気が高い候補の擁立に貢献する戦略で、小党にも関わらず大きな影響力を持ってきた。2019年総選挙ではやはり効果的な候補者擁立で9%まで得票を伸ばした。

開発統一党(Partai Persatuan dan Pembangnan, 略称PPP)

 スハルト時代の1973年に「政党簡素化」によって、イスラーム諸政党を統合して結成された。「開発」と「統一」という体制イデオロギーを政党名に背負わされ、また度重なる体制側の介入と内紛に悩まされた。他方、婚姻法の制定などイスラームに関係する議題で政府に反対して存在感を示すこともあった。1987年選挙に際しては党内最大勢力のNUが同党の公式な支持を取りやめ、得票が落ち込んだ。1998年以降、ロゴマークをカーバ神殿、党原則をイスラームに戻してイスラーム色を明確にした。NUの一部ウラマーなどから根強い支持がある。しかし、結党以来の派閥争いは解消されず、2004年選挙前に改革の星党と分裂した他、2009年大統領選挙でも候補擁立(ユドヨノかメガワティか)において二転三転した。2014年大統領選挙ではプラボウォを支持したが、ジョコウィ政権成立直前に与党連合へ加わり、二つの党執行部に分裂した。その後、政権支持側が裁判で勝ち、与党連合の一員となった。選挙直前に党首が逮捕された2019年総選挙では4.5%(前回6.5%)まで落ち込み、風前の灯である。

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2019年11月18日

インドネシア/現在の政治体制・制度

インドネシア共和国の政治体制の基本構造は1945年憲法に規定されている。すなわち5年を任期とする大統領を国家元首とし、最高議決機関は国民協議会(MPR)である。しかしその権力構造は時代によって大きな変化を遂げている。初代大統領スカルノは大衆動員を行い、イスラーム系政党と共産党を含めた翼賛体制を作ろうとしたが失敗、経済的な破綻と50万人とも言われる1965年の共産党員虐殺(9月30日事件)とともに体制が崩壊した。9月30日事件後の国軍を掌握、事態を収拾してスハルトが権力の座についた。大統領であるスハルトが、大統領を任命する国民協議会を握るなど、安定的な「開発独裁」体制を形成した。野党への法的政治的介入によって、議会では翼賛的な「与党」ゴルカルがつねに独占的な立場にあった。さらに、スハルト大統領は国会の承認が不要な大統領決定を多用し、法律もほとんど制定されなかった。

スハルト体制下における大統領への権力集中や構造的な汚職、政治的自由や言論の自由への抑圧は、国民の批判や反発を生んでいたが、体制への取り込みと厳しい取り締まりというアメとムチによって長期政権を揺るがすことはほとんどなかった。流れが変わったのは1997年のアジア通貨・金融危機以降である。通貨ルピアの下落による急速なインフレは国民生活を圧迫し、1998年に入ると学生を中心とした反体制デモが次第に激しさを増した。他方、高齢のスハルト大統領への退陣要求は政権エリートにも波及した。5月12日に首都ジャカルタのトリサクティ大学で治安部隊が学生デモに発砲した事件をきっかけに、スハルト退陣要求が勢いを増し、各地で暴動が発生した。事態を収拾できなくなったスハルトは5月21日に辞任した。この間、学生や知識人に主導された改革勢力は、デモのみならず、政府・国軍・議会の関係者との間で討論会や集会を開催して、政権内外のコミュニケーションが取られた。この過程でゴルカルのなかからも政治改革を進めようとするグループが現れ、スハルトに辞任勧告を行った。

スハルトの辞任を受けて、副大統領のハビビが大統領に昇格した。ハビビが正当性を示すためには民主化の推進以外に方策はなかった。1年あまりの間に、政治活動やメディアの自由化、国軍の政治機能の廃止、警察の国軍からの分離、地方分権の推進などの改革が行われた。これらの改革は憲法改正を伴って行われた。4度の憲法改正は事実上の新憲法制定といえるほどの大刷新だった。

大統領への権力集中への反省から、その権限が大きく縮小された。大統領の任期は2期10年と定められ、長期の権力保持ができなくなった。大統領に認められていた立法権も否定され、大統領は法案の提案権を持つのみになった。国会の解散権は明確に否定、人事権にも制限が加えられた。

国民協議会は2004年総選挙以降、国会(DPR)議員(2004~09年550人、2009~19年560人、2019年〜575人)と地方代表議会(DPD)議員(2004~09年150人、2009〜19年132人、2019年〜136人)から構成されている。民主化後多党化が進み、連立政権が常態化、権限を縮小された大統領は国民協議会や国会の運営に苦労することになった。2001年には第4党の民族覚醒党から大統領に選ばれたアブドゥルラフマン・ワヒドが国民協議会によって罷免されるに至った。しかし不安定な権力構造と国民協議会の行き過ぎた権力行使に対して批判が高まった。2002年の第4次憲法改正では国民協議会の優越性が否定され、また大統領が国民の直接選挙によって選出されることにより、大統領の正統性が再度高められることとなった。こうして2004年に初めて直接選挙によって大統領が選ばれたスシロ・バンバン・ユドヨノは2期10年の安定政権を築いた。続く2014年に選ばれたジョコ・ウィドド(以下通称のジョコウィ)も、2019年に再選され、2期目に入った。

独裁的な体制の一翼を担っていた国軍の政治的な機能も制限されるようになった。スハルト時代の国軍は軍務と政務を担当するという「二重機能」ドクトリンを掲げ、国会に任命議席を持っていた他、各地方に配置された軍管区は村レベルまで日常的な監視を行っていた。民主化後、二重機能の廃止、国防への専念、政治的中立などを求める国防法(2002年)、国軍法(2004年)が成立した。国軍の公式な政治からの撤退は定着し、クーデターの可能性は極めて低くなった。しかし国軍は非公式には依然強力な発言権を維持している。退役軍人は歴代政権に入閣している。また国軍は予算の半分以上を自己調達しているため、違法なビジネスへの関与が危惧されている。

民主化後のインドネシアにおける政治構造のいまひとつの特徴は急速な地方自治の拡大である。1999年に制定された地方行政法と地方財政法によって地方財政の裁量権が大幅に拡充された。利権の確保を目指し、あるいは地域主義の台頭などによって、多数の州や県が全国で新設された。2005年にはそれまで地方議会によって選ばれていた地方首長が直接選挙によって選出されるようになった。2014年10月に大統領に就任したジョコウィは、2005年に初めての直接選挙で中ジャワ州スラカルタ市の市長に選ばれると、その斬新なスタイルと行政改革などの政策で人気を呼び、2012年にジャカルタ州知事、そのわずか2年後に国政の頂点に立った。直接選挙の導入は、政党不信も相まって、有権者から直接支持を調達するポピュリスト型の地方首長を生むことになった。ジョコウィの大統領当選以降、地方首長選が大統領への登竜門として注目されるようになった。

参考文献

  • 川村晃一「政治制度から見る2004年総選挙―民主化の完了、新しい民主生活の始まり」、松井和久・川村晃一編著『メガワティからユドヨノへ―インドネシア総選挙と新政権の始動』明石書店、2005年、75-99ページ。
  • 川村晃一「2014年選挙の制度と管理」、川村晃一編『新興民主主義大国インドネシア―ユドヨノ政権の10年とジョコウィ大統領の誕生』アジア経済研究所、2015年、15-36ページ。
  • 本名純「インドネシア【政治・外交】」『新版 東南アジアを知る事典』平凡社、2008年、634-636ページ。
  • 増原綾子『スハルト体制のインドネシア―個人支配の変容と一九九八年政変』東京大学出版会、2010年。
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