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2019年1月18日

イラク/現在の政治体制・制度

現在のイラクの政治体制は、2005年10月に国民投票で承認された新憲法によると、「共和制、代議制(議会制)、民主制」(第1条)と定義されている。世俗主義を党是としていたバアス党が2003年に倒れた後、宗教政党が大きく躍進したが、イラン型の「法学者の統治」は受け入れられておらず、宗教法学者は最高政治権力者である首相の座にはつかないことが暗黙の了解となっている。

新憲法は、大統領の役割を「国家の長、国家統一のシンボルであり、国家の主権を体現する」(第67条)と定める一方、首相は「国家の政策を遂行する責任者、軍の指揮官」(第78条)であるとしている。首相の選出は大統領の指名によって行われるが、その人選は、与党となる議会の最大政党が行うとされており(第76条第1項)、首相が閣僚を指名した後、議会の絶対過半数の賛成を経て内閣が発足する。従って、大統領は存在するが、制度としては議院内閣制に近い。国民議会は大統領・首相を罷免できるが、大統領・首相に国民議会の解散権はない。議会自体が解散を決定することは可能だが、2003年以降解散したことはなく、毎回4年の任期満了に伴って選挙が実施されている。

移行措置として、憲法制定後の最初の国民議会の任期(2006年からの4年間)に限って、大統領と副大統領2名で構成される「大統領評議会」が設けられ、議会を通過した法案に対する拒否権が付与されるなど大統領に一定の権限が存在した。しかし、これは当初から事前措置であり、現在はこうした権限はなくなっている。大統領は名誉職であるため、仮に法案に反対して署名せずとも、法律としては有効となる。

イラク戦争後に占領統治を行っていたCPA(連合国暫定当局)が設立した統治評議会(2003年7月発足)や暫定政府(2004年6月発足)が民族・宗派別の数合わせによる構成であったことや、2005年の議会選挙結果において、宗派・民族ごとのエスニック政党(特定のエスニック集団を基盤として形成され、かつその特定のエスニック集団からの支持に全面的に依存する政党)の躍進が顕著なものとなったことから、2006年に発足した初の正式政府である第一次マーリキ政権においては、挙国一致内閣との建前のもと、主要政党がほぼすべて与党に入り、議席数に応じてポストを分け合うクオータ・システムに依ることとなった。その後の政権に構成においても、首相はシーア派、国会議長はスンナ派、大統領はクルドから選出され、大臣ポストを分け合うことが慣例的に続いてきた。

2018年5月に行われた国民議会選挙では、一部のシーア派政党からスンナ派政治家が立候補し、スンナ派住民からの票を獲得するなど、宗派横断的な現象も見られた。しかしその背景には、2014~2018年の対IS掃討作戦で中心となったシーア派政党の勢力が増す一方で、分裂傾向が激しいスンナ派政党は特定の選挙区(県)に依存したごく狭い支持基盤でしか集票できなくなっているという現実があり、上記の宗派横断的な現象は、イラク全土を代表する政党が出現したことを意味していない。また、北部のクルド人自治区では、イラク国民議会選挙であっても非クルド政党はほとんど得票できず、クルド政党間の争いとなっている。

参考文献

  • イラク憲法 (http://www.parliament.iq/)
  • 移行期間のためのイラク国家施政法
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2019年1月18日

イラク/最近の政治変化

イラクの民主化は、2003年3月のイラク戦争による旧フセイン政権の崩壊という劇的な形でもたらされた。しかし、戦後の占領統治を主導した米国が明確な統治プランを持っていなかったことから、戦後統治は迷走を極めた。CPA(連合国暫定当局)は、2003年7月にイラク人の代表組織として、亡命政治家を中心に25名からなる統治評議会を発足させたものの、正統性の確保に失敗し、また反米武装勢力の攻撃も次第に増加していったことから、2003年11月に、従来の政策を変更して占領統治体制終了を前倒しすることを統治評議会と合意した。 この合意に基づき、2004年3月8日に、イラク暫定政府に主権が移譲されてから恒久憲法の公布を経て正式政権の樹立に至るまでの政治プロセスを定めた「移行期間のためのイラク国家施政法」(基本法)が成立した。このスケジュールに従って、2005年に新憲法の起草や国民投票、二度の国民議会選挙が執り行われ、2006年5月の正式政権の発足をもって「民主化」プロセスは終了した。

しかし、こうした一連の民主化プロセスは、イラクに安定的な民主主義をもたらさなかった。理由の一つは、2005年1月 の制憲国民議会選挙の際、スンナ派住民が多い中部では極端に投票率が低かったことで、憲法にスンナ派政治勢力の意見が反映されなかった点にある。その後予定されていた憲法改正も棚上げ状態となり、イラク国家のあり方に対し、国内における合意の形成ができていない。さらに、2003年夏から反米武装闘争が活発化したことに加えて、2005年頃からは宗派間対立も顕著になった。米軍やイラク政府に協力する一般市民・政治家らを狙うスンナ派の武装勢力・過激派と、主として警察組織に浸透したシーア派民兵との間で報復攻撃がじわじわと拡大し、特に2006年以降、内乱状態に陥ったことは、イラク政界における政党・政治家間の協調を極めて難しくしたことが指摘できる。

他方、そうした内乱状況は結果的に勝者を生み出さなかった。過激派と地元の武装勢力間の亀裂、米軍の増派戦略、民兵間の停戦合意などを経て、治安状況は2007年後半から徐々に回復に向かった。イラク政府や議会はしばしば機能不全に陥りながらも完全には崩壊せず、国民議会は4年の任期を満了して2010年3月、さらに2014年4月は再度、国民議会選挙が実施された。しかしながら、2013年初頃から、マーリキ首相の強権統治に反発したスンナ派住民が中部で反政府デモを度々組織するようになり、市民の不満を利用する形で過激な武装勢力が再び力をつけ始め、隣国シリアの内戦の影響もあり、ついに2014年6月にはモスルなど中部の複数の主要都市が陥落するに至った。混乱の中で2014年9月にハイダル・アバーディを首相とする新政権が発足し、イラク政府は隣国イランや米国政府からの軍事支援を得て、その後3年以降をかけてようやくISをイラク国内から掃討した。

この過程で、敗退したイラク軍・警察に変わってシーア派民兵が国内外からの支援を得て軍事的に活躍し、人民動員部隊として半公的な立場を確保するに至った。また、北部クルド地域のクルド兵士ペシュメルガも、欧米からの支援を得てISの駆逐と同時に支配領域を拡張させた他、自警団的なスンナ派組織も形成されている。このように、ISの掃討は実現したものの、半公的な様々な武装集団の間で指揮命令系統が極めて複雑化するという状況が生まれている。

また、2003年以降のイラクが宗派・民族間でポストを分け合うクオータ・システムを採用した背景には、挙国一致という体裁をとることで少数派を決定的に排除することを防ぐという理由があった。しかしながら、野党不在の総与党体制となったことで政権へのチェック機能が働かなくなるという問題が生じている。その最たる問題とみられているのは汚職問題である。イラク戦争から10年以上が経ち、2010年代半ばまで原油価格が高い水準で推移したにもかかわらず、イラク全土の復興ペースが極めて遅く、市民が満足できるレベルの公共サービスが提供されていないことに極めて大きな不満が募っている。クオータ・システムの結果として、政界では、仮に汚職疑惑で大臣が離任しても後任はその大臣ポスト枠を持つ同じ政党から選出されるなど、説明責任の問われていない。加えて、汚職の追及自体が政争化する傾向にある。こうしたことから新たな政治システムが必要だとの認識が広まっている。しかし、選挙の時点で各党はスローガン以上の詳細な政策を戦わせているわけでもなく、一定の政策を軸に政党が形成されているわけでもないことから、機能的な政府のあり方について合意ができているとは言えない状況が続いている。

<イラク戦争後の政治プロセス>
  • 2004年3月:基本法制定
  • 2004年6月:暫定政府組閣、主権移譲
  • 2004年8月:国民大会議開催、諮問評議会議員選出
  • 2005年1月:制憲議会選挙
  • 2005年5月:移行政府組閣
  • 2005年8月:憲法草案を議会承認
  • 2005年10月:憲法草案の国民投票
  • 2005年12月:国民議会選挙
  • 2006年5月:本格政権(第一次マーリキ政権)発足
  • 2010年3月:国民議会選挙
  • 2010年12月:第二次マーリキ政権発足
  • 2014年4月:国民議会選挙
  • 2014年9月:アバーディ政権発足
  • 2018年5月:国民議会選挙

参考文献

  • 移行期間のためのイラク国家施政法
  • 中東経済研究所『イラク 中東諸国の政府機構と人脈等に関する調査』2005年3月
  • 吉岡明子「イラク-戦後統治体制をめぐる迷路」『中東の新たな秩序』(松尾昌樹・岡野内正・吉川卓郎編著)ミネルヴァ書房、2016年
  • 吉岡明子「2018年イラク国民議会選挙分析-低投票率と不正疑惑からみる民主化の課題-」『中東動向分析』日本エネルギー経済研究所中東研究センター、2018年6月
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2019年1月18日

イラク/選挙

イラク戦争後、イラク暫定政府に主権が移譲されてから恒久憲法の公布を経て正式政権の樹立に至るまでの政治プロセスを定めた「移行期間のためのイラク国家施政法」(基本法、2004年3月8日成立)に則り、2005年1月30日と、2005年12月15日に国民議会選挙が行われた。最初の選挙は、憲法起草のための制憲議会選挙であり、2度目は通常の議会選挙となっているため、議会の役割は必ずしも同じではなく、その正式名称も最初の制憲議会がal-Jam’iya al-Wataniya、2度目の通常議会がMajlis al-Nuwwabと区別されている。しかし、2度の議会選挙はその参加政党や国民にとって連続性のあるものと捉えられていると言える。その後、議会任期満了を経て2010年3月、2014年4月、2018年5月に国民議会選挙が実施されている。

<選挙制度:2005年1月>

2005年1月までの選挙実施のために、2004年3月から5月にかけて、国連スタッフがイラク国内で選挙管理委員会や政治家、宗教関係者らと会合を行い、いくつかの選挙制度を提示した。2000万 以上の人口を抱える国で、人口統計も不備な中、半年強の準備期間で国政選挙を行わなければならないことから、選挙制度の選択にあたってはその実現可能性が もっとも考慮され、最終的にイラク選挙管理委員会が全国一区の比例代表制を採用することを決定した。その後、統治評議会の認可を得て、2004年6月のCPA Order第96号「選挙法」に盛り込まれた。議席数は275議 席。選挙に出馬する政党は、「政治団体」として選管に登録されなければならず、個人としての立候補も可能である。登録された政党は、単独あるいは 他政党と連合を組んで候補者リストを選管に提出するが、主要政党はいずれも政党連合を形成した。選挙はクローズド・リスト(拘束名簿式比例代表制)で行われ、有権者は政党にのみ投票する。政党が獲得した票数に応じて議席数が決定され、当選者は各政党が前もって作成した候補者リストの上位から掲載順に当選が決まる。選管への提出後に順位を変更することはできない。なお、憲法によって4分の1以上の女性議員比率を実現することを求められているため(第46条第4条)、リストの掲載順を決定する際、必ず3名ごとに最低1名の女性を含まなければならないとされた。

<選挙制度:2005年12月>

2005年1月の選挙で採用された、全国一区の比例代表制という選挙制度がもたらした問題は、2005年1月の選挙でスンナ派住民が多い中部の投票率が極めて低かった結果、シーア派とクルドの票が人口比以上に議席に反映されたことであった。シーア派宗教勢力を中心とする統一イラク連合(140議席)と、クルドの二大政党が中心となって形成したクルディスタン同盟(75議席)の上位2政党だけで議席の78%を占める結果となった。この問題への対応から、12月の選挙で採用された選挙法では、全国を一区とするのではなく18県をそれぞれ一選挙区して設定することになった。制度としては引き続き、クローズド・リスト(拘束名簿式比例代表制)で実施された。

正確な有権者数が不明であったことから、各県への議席の配分は食糧配給名簿に基づいて行われ、合計230議席が18選挙区に割り当てられた。残る45議席については、補償議席として各選挙区で議席獲得に至らなかった小党に優先的に配分される(さらにその残りは、前回同様全国区比例代表制で各党に配分される)。しかし、実際にこの補償議席の仕組みによって議席を獲得することが可能となった政党は1つで、1議席のみであった。

<選挙制度:2010年3月>

およそ4年ぶりに国民議会選挙を実施するにあたって、選挙法にいくつかの変更がなされた。まず、クローズド・リスト方式(拘束名簿式比例代表制)からオープン・リスト方式(非拘束名簿式比例代表制)となり、有権者は、党とその党に所属する個人の両方に投票できるようになった。オープン・リスト方式は2009年1月 に行われた県議会選挙で初めて実施されたが、その際、比例名簿上位の候補者の落選が相次ぐ結果となった。そのため、多くの政党は国政選挙でのオープン・リスト採用に本音では 否定的だったが、透明性のある選挙を求める世論に押される形で採用が決まった。党が得た得票総数で獲得議席数が決まり、個々の立候補者の得票数に応じて当選者が決まる仕組みである。なお、憲法上4分の1以上の女性議員比率を実現する必要があるため、女性候補は獲得票数が少なくとも優先的に当選することなる。

また、「人口10万人につき1議席」との憲法上の規定に基づき、人口増加を反映して議席が拡大された。正確な人口統計が存在していないため、各県へ増加議席を分配するにあたって国民議会における議論は紛糾を極め、結局議席数は275議席から325議席まで膨らむこととなった。このうち、各県ごとの選挙区に310議席が割り当てられ、キリスト教徒などのマイノリティ枠として5県において計8議席が配分されることになった。補償議席は7議席設けられたが、この議席は各県ごとの選挙区で1議席以上獲得した政党間で、全国の得票数に応じて配分されることになっており、小党救済のための議席という位置付けではなくなっている。

<選挙制度:2014年4月>

引き続きオープン・リスト方式が採用されたが、議席配分方式がヘア式から修正サンラグ方式へと変更された。前年の2013年県議会選挙の際に、従来から使われていたヘア式が大政党に有利との批判から、より小党に有利なサンラグ方式へと変更されていた。しかし、この改正によって議席数減を余儀なくされた主要政党が国民議会選挙の選挙法改正時に巻き返しをはかり、その結果、修正サンラグ方式に変わった。

また、補償議席が撤廃され、かわりに北部3県を含む10県に1議席ずつ議席数が追加された。この背景には、クルディスタン地域の3県が他地域よりも総じて投票率が高いという事実を背景に、クルド政党が北部3県の議席増を求めたことがある。これにより総議席数は328議席となった。マイノリティ枠8議席は維持された。

なお、選挙連合、単独政党、個人など様々な資格で同等に選挙に出馬できる点は前回の選挙と同様だが、今回の選挙の特徴として、シーア派やクルド、スンナ派といった宗派民族ごとの大連合よりも、より細分化した小規模な政党連合ないしは単独政党が出馬する傾向にあり、その結果、議席獲得政党も倍以上に増加した。

<選挙制度:2018年5月>

前回同様、オープン・リスト方式、修正サンラグ方式が採用されたが、選挙法の制定にあたっては、修正サンラグ方式において議席計算に使用される除数の数値(大きいほど大政党有利となる)をめぐって激しい論争が続き、法案交渉が長引く要因となった。結局、2017年8月に成立した法案では、除数は1.7と前回の2014年と同じ数値が維持されることになった。議席数はマイノリティ枠の1議席増加して9議席となり、全体では329議席となった。

なお、今回初めて自動集計システム(有権者が投票用紙にマーキングし、それをスキャナで読み込んで投票箱に入れる)が採用された。毎回、投票結果の集計に数週間を要していたことが理由であり、このシステムの導入で、投票から2日で開票率95~97%の暫定結果、1週間後には開票率100%の選挙結果の発表が可能になった。しかしながら、ハッキングによる選挙不正が行われたのではないかという疑惑が拡大し、判事が選管委員と交代したり、異議申し立てがあった投票箱の手作業による再集計が行われたり、その間にも放火とみられる火事で一部の投票箱が焼失したり、混乱が拡大する要因にもなった。諸々の混乱を経て選挙結果が確定したのは8月19日と、選挙から3ヶ月以上が経ってからだった。なお、再集計による議席変動は1議席にとどまり、組織的な不正やハッキングがあったのかどうかは定かではない。

選挙連合については、前回同様、シーア派、スンナ派、クルドのそれぞれの内部でより細分化する傾向が続いている。さらに新たなトレンドとして、宗派の枠を越えて、アバーディ首相率いるシーア派政党からスンナ派政治家が立候補し、モスルなどのスンナ派住民地域で大きな得票を得るというケースが見られたことが特筆される。これは、2014~2017年の対IS戦においてスンナ派政党が実質的な役割を果たせなかったとい失望の裏返しであると考えられるが、こうしたトレンドは今後も続くのかどうかが注目される。

<選挙結果:2005年1月>

以下は、2005年1月30日に実施された国民議会選挙の結果である。

投票総数は855万571票で、うち有効投票数は845万6266票であった。

政党グループ獲得議席得票
統一イラク連合シーア派140 4,075,295 
クルディスタン同盟クルド75 2,175,551 
イラク・リストアラブ世俗派40 1,168,943 
イラク人たちアラブ世俗派150,680 
イラク・トルコマン戦線トルコマン69,938 
独立国民エリート集団シーア派69,938 
人民連合アラブ世俗派69,920 
クルド・イスラーム集団クルド60,292 
イスラミック・アマルシーア派43,205 
民主国民同盟スンナ派36,795 
国民ラーフィダイン・リストアッシリア33,255 
和解解放団体スンナ派30,796 

<選挙結果:2005年12月>

以下は、2005年12月15日に実施された国民議会選挙の結果である。

投票総数は1239万6631票で、うち有効投票数は1219万1133票であった。

政党グループ獲得議席得票
統一イラク連合シーア派128 5,021,137 
クルディスタン同盟クルド53 2,642,172 
イラク合意戦線スンナ派44 1,840,216 
国民イラク・リストアラブ世俗派25 977,325 
国民対話イラク戦線スンナ派11 499,963 
クルド・イスラーム同盟クルド157,688 
和解解放団体スンナ派129,847 
リサーリーユーンシーア派145,028 
イラク・トルコマン戦線トルコマン87,993 
ラーフィダイン・リストアッシリア47,263 
イラク国家のためのミサール・アルーシーのリストスンナ派32,245 
改革・発展のためのヤジーディ運動ヤジーディ21,908 

<選挙結果:2010年3月>

以下は、2010年3月7日に実施された国民議会選挙の結果である。

有効投票数は1162万1998票であった。

政党獲得議席得票
イラーキーヤ912,849,803
法治国家連合892,794,038
INA(イラク国民連合)702,092,683
クルディスタン同盟431,686,344*
ゴラン8487,181*
イラク合意6303,057
イラク統一連合4314,823*
KIU(クルディスタン・イスラーム連盟)4247,366*
KIG(クルディスタン・イスラーム集団)2153,640*
マイノリティ枠8

注:*印については、バグダード県における再集計後の結果が発表されていないため、再集計前の暫定得票数である。

<選挙結果:2014年4月>

以下は、2014年4月30日に実施された国民議会選挙の結果である(3議席以上獲得した政党の一覧)。

有効投票数は1301万3765票であった。

政党獲得議席
法治国家連合95
サドル派34
市民連合31
ムッタヒドゥーン27
KDP25
PUK21
ワタニーヤ連合21
アラビーヤ連合11
ゴラン9
国民改革潮流6
ファディーラ党6
イラク連合5
市民民主連合4
KIU(クルディスタン・イスラーム連盟)4
KIG(クルディスタン・イスラーム集団)3
アンバール忠誠連合3
その他15
マイノリティ枠8
合計328

注:サドル派はアフラール連合、国民参加集団、エリート潮流の3リストの合計。市民民主連合には、独立民主連合の議席を含む。

注:選挙区によって相乗りしているケースがあるため、各党の全国レベルでの得票数の集計はできなくなっている。

<選挙結果:2018年5月>

以下は、2018年5月12日に実施された国民議会選挙の結果である(4議席以上獲得した政党の一覧)。

有効投票数は1034万3279票であった。

政党獲得議席
サーイルーン54
ファタハ連合48
勝利連合42
KDP25
ワタニーヤ21
ヒクマ潮流19
PUK 18
イラクの決定連合14
アンバールは我々のアイデンティティ6
ゴラン5
新世代4
その他24
マイノリティ枠9
合計329

注:選挙区によって相乗りしているケースがあるため、各党の全国レベルでの得票数の集計はできなくなっている。

参考文献

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2019年1月18日

イラク/政党

サーイルーン(54議席)

宗教法学者ムクタダ・サドルが率いる政治潮流サドル派は、これまでにも選挙に参加し、議会や政府の一角を占めてきたが、決して政界の主流派ではなく、野党に近い立場で政権の汚職などを批判してきた。そして、2015年から2016年にかけて市民の抗議デモが広がった際にはその動員力を駆使して大きな存在感を示し、一部の閣僚をテクノクラートと交代させるまでに至った。2018年の選挙でも改革を旗印に掲げたサドル派の政党連合「サーイルーン」を率いて躍進し、2014年の獲得議席である34議席 を大幅に上回る54議席を得た。

だが、2018年のサドル派の得票数を2014年と比較すると、それほど大きく伸びたわけではなく、全国的に投票率が低迷した結果、固い支持基盤を持ち支持者を動員することができたサドル派が相対的に立場を上昇させたと見られる。なお、抵投票率に表れているように、既存政治家に対する市民の不信感はかなり高い。そうした声に敏感なムクタダは、選挙を前にしてこれまでサドル派の主要政党だったアフラール党を解党し、新党「イスティカーマ党」を立ち上げたが、この時に新党に横滑りすることができたアフラール党の現職議員はわずか3名だった。そのうちの一人が、5万5184票を集めて全国8位、女性候補者としてはトップ当選だったマージダ・タミーミ議員である。このように、勝てる候補者を絞り込み、ほとんど新顔を擁立するという戦略があたったと言える。

サーイルーンはイスティカーマ党を中心としつつも、政治改革という理念を共有する共産党など世俗政党も参加している。ただし、サーイルーンが獲得した54議席のうち、51議席がイスティカーマ党の議席である。

ファタハ連合(48議席)

ファタハ連合の母体は、対IS戦において軍事面で活躍した義勇兵組織、人民動員部隊である。シーア派民兵の中でもイランとの関係が深いグループが多い。ファタハ連合には18政党が参加している。政党法では政党が武装組織を持つことは禁じられており、多くが武装組織とは異なる名称の政党名を冠しているが実態は同じと見られている。

ファタハ連合が得た48議席の内訳を見ると、まず、代表のハーディ・アーミリ司令官率いるバドル組織が21議席を占めて強さを見せた。ただし、2014年の選挙においても、バドル組織はマーリキ首相(当時)率いる法治国家連合に参加して22議席を得ていたため、それを比べると1議席減である。次に、AAH(アサーイブ・アフルルハック)の政治組織「サーディクーン」がバグダードと南部で幅広く得票して15議席を得た。2014年の選挙でのサーディクーンの議席が1であったことからすると、大きな躍進である。また、人民動員部隊の報道官だったアフマド・アサディ率いる「イマームの兵士旅団」が「イラクにおけるイスラーム潮流」の政党名で2議席を獲得した。

なお、これまでシーア派主要政党の一つであった「イラク・イスラーム最高評議会(ISCI)」は、党首のアンマール・ハキームが新党「ヒクマ潮流」を形成して離党したことで壊滅的な打撃を受け、今回の選挙ではわずか2議席の獲得にとどまった。ファタハ連合内では、この他、7党がそれぞれ1~2議席を得た。

人民動員部隊は、対IS戦を機に中西部も含めてシーア派住民地域以外にも展開するようになった。2018年の選挙では、彼らが傘下に置く部族ハシュドと呼ばれるスンナ派の自警団的な武装組織が、ファタハ連合の集票に寄与する可能性が注目されていたが、サラーハッディーン県で人民動員部隊の第51旅団を率いるヤズン・ジュブーリなど、主だったスンナ派民兵候補者は落選した。したがって、ファタハ連合の集票は総じて、バドル組織やAAHなどの中心勢力のシーア派コミュニティ内部での動員力に負っていると言える。

勝利連合(42議席)

アバーディ首相はダアワ党所属だが、党首のマーリキとの折り合いが悪く、2018年の選挙にはダアワ党は党として特定の政党連合に所属せず、党員は各々個別の政党連合に所属して出馬することになった。アバーディ首相が率いた政党連合が「勝利連合」である。過去4年間近く、イラク軍を率いて対IS戦の中心人物となってきたことから選挙での勝利が予想されていたが、選挙では投票率が低迷し、市民の支持を得票に繋げられなかった。特に票田であるはずのバグダードや南部において、組織力を持つサーイルーンやファタハ連合に水をあけられたことで伸び悩んだ。加えて、アバーディ首相が所属するダアワ党は前任のマーリキ、ジャァファリと合わせて、2005年以降常に首相を輩出しイラク政界の中心にいたことで、既存のエスタブリッシュメント政治への逆風を受けた。バスラ、マイサーン、ナジャフ、ディーカールの各県の勝利連合立候補者リストのトップはいずれもダアワ党現職議員が占めていたが、4名とも落選した。むしろ当選したのは、ジャッバール・ルアイビ石油相、アドナーン・ズルフィ元ナジャフ県知事、スハーム・アカイリ・マイサーン県議会議員など、非ダアワ党員の方だった。

他方、勝利連合はバグダード、南部9県、ディヤーラ県で合計約84万票を得票する一方、シーア派住民が少ないその他4県(アンバール、サラーハッディーン、キルクーク、ニナワ)でも約29万票を獲得している。この29万票という数字は、他のシーア派主要政党の中では抜きん出て多く、スンナ派の各党や世俗政党連合ワタニーヤも凌いだ。ニナワ県のトップ当選者は勝利連合から立候補したスンナ派のハーリド・オベイディ元国防相であり、サラーハッディーン県でもアンマール・ユースィフ元県議会議長が1万票を集めて当選した。

KDP(クルディスタン民主党、25議席)

クルド民族主義政党で、エルビルやドホークなどを地盤とする。KDPが主導して2017年10月に実施されたクルディスタン地域の独立を問う住民投票が、国内外からの反発を受けて結果的に失敗に終わったことで、マスード・バルザーニは自治政府大統領の職を辞したが、今もKDP党首の座にとどまっている。政界におけるKDPのライバルかつパートナーであるPUKが、2000年代半ばから党内の分裂を食い止められず党勢が衰退していることをうけて、KDPは自治政府の要職を独占するなど、事実上、自治区はKDPの一党支配体制になりつつある。

自治区内では、2010年代半ばから原油価格下落や対IS戦の影響、イラク政府との間の予算配分問題などによって経済状況が極めて悪化しており、独立住民投票の失敗もあって、2018年の選挙では、与党であるKDPは議席を減らす可能性が指摘されていた。しかし、結果は2014年と同じ25議席を維持し、安定的な力を見せた。その背景には、特にドホーク県とエルビル県ではバルザーニ家への支持者の忠誠心や、強固に張り巡らされた党のパトロン・ネットワークの存在があるとみられる。

ワタニーヤ(21議席)

アッラーウィ副大統領率いる世俗政党だが、2018年の選挙ではサリーム・ジュブーリ国会議長率いる「改革のための市民集会」、サーレハ・ムトゥラク元副首相率いる「国民対話戦線」など、複数のスンナ派政党を取り込んで参戦した。それでも、獲得議席数は21議席と2014年と変わらず、ジュブーリ国会議長も落選した。アッラーウィ自身の個人得票数も2014年の23万票から今回は2.8万票へと激減しており、影響力の低下は免れないだろう。

ヒクマ潮流(19議席)

ISCI(イラク・イスラーム最高評議会)党首のアンマール・ハキームが2017年7 月に立ち上げた新党。ハキームは新党を若者、女性のための党で、近代的で、イラク社会の全てに開かれた党だとしている。結成時に30名強のISCI 議員のうち、20 名が新党に移ったとみられている。

ISCI の前身のSCIRI(イラク・イスラーム革命最高評議会)は1982 年にイランで当時の反体制派を集めて、サイイド・ムハンマド・バーキル・ハキームの下で形成された(ムハ ンマド・バーキルは、1970 年に亡くなった大アーヤトッラ、ムフスィン・ハキームの息子)。 その後、分裂してSCIRI は反対派のグループの一つになり、イラク戦争後にイラクに帰国した。バーキル・ハキームは2003 年8 月のテロ事件で死亡し、兄弟のアブドゥル・アジーズ・ハキームが跡を継いだ後、ISCIに改称。2009 年にアブドゥル・アジーズ・ハキームが病死すると、その息子であり創設者の甥であるアンマール・ハキームが党首に就いた。アンマールは古参幹部よりも遥かに若く、さらに若手登用で幹部は不満を持つようになったと言われている。

2018年の総選挙ではISCIの獲得議席が2議席にとどまる一方、ヒクマ潮流は19議席を獲得した。ISCIがその支持の多くをハキーム家の威光に負っていたこと、アンマールがISCI のテレビ局や外郭団体などを連れて出たことなどが影響したとみられる。

PUK(クルディスタン愛国同盟、18議席)

スレイマニヤ県やキルクーク県を地盤とする。党の創設者であり長年党首を務めていたジャラール・タラバーニが2017年10月に死去したが、党内の分裂が激しく新党首を選出できていない。

2018年選挙では、幹部の一人バルハム・サーレハ元自治政府首相が離党し、新党CDJ(民主正義連合)を結成しており、他にもスレイマニヤを中心に新党が立ち上がっていたことや、経済危機に対する市民の不満が既存政党に向かう可能性から、2018年の選挙にあたっては、PUKはかなり議席を減らすことになるのではと憶測されていた。しかし、結果は18議席と3議席減にとどまった。

それに対してキルクーク県のアラブ政党やトルコマン政党、スレイマニヤ県のクルド政党が選挙不正の疑いを申し立て、選挙結果が紛糾する主要因となった。ただし、手作業による一部再集計を経ても、PUKの議席数は変わらなかった。仮に大規模な不正がなかったとするならば、PUKの善戦の理由として、タラバーニ家の威光を前面に押し出した選挙キャンペーン、投票率が低迷する中でのPUK支持者の動員、2006年にPUKから分裂して誕生した野党ゴランの失敗への市民の失望などが考えられる。

イラクの決定連合(14議席)

スンナ派政党は、スンナ派住民が多いバグダードと中部5県を中心に出馬しているものの、いずれも党としての歴史が浅く組織力も弱い。そのため、選挙のために県ごとに様々な政党連合が組まれ、入れ替わりも激しい。2018年選挙ではヌジャイフィ副大統領を代表として「イラクの決定連合」が形成され、政党連合としては14議席を得た。しかし、ヌジャイフィ自身が党首であるムッタヒドゥーンは、2014年の選挙では27議席を得てスンナ派政党の代表格となったものの、2018年は別の政党連合に参加して得た議席を合わせても3議席に過ぎず、大きく失速した。ニナワ県でのヌジャイフィの個人得票数も1万票強で、7万票以上を得たオベイディ元国防相(勝利連合から立候補)に大きく引き離された。

他のスンナ派政党についても、ジャマール・カルブーリ率いるハッル党、ハミース・ハンジャル率いるアラブ計画などが、複数の政党連合に参加して議席を得たが、いずれも一桁に留まっている。

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2019年1月18日

イエメン/現在の政治体制・制度

大統領制をとる共和制。現在の政治体制は、1990年憲法および1994年、2001年の憲法改正によって規定されている。行政権は、大統領と内閣に属する。大統領は直接選挙による公選制で、任期7年、三選禁止。大統領は当選後に、副大統領1名と首相を任命し、大統領と首相の協議により、首相が閣僚を任命する。大統領は議会で可決された法案を発布するが、法案の再審議を求めて議会に差し戻すことができる。差し戻された法案を議会が再度過半数により可決した場合、大統領はその法案を2週間以内に発布する。大統領は議会閉会中に、憲法と予算に反さない限りにおいて、法的効力を持つ大統領令を発することができるが、それは開会された議会に提出され、承認されなければならない。

立法権は議会に属する。議会は定数301名で、すべて小選挙区による選出と憲法に規定されている。また、議会のほかに大統領により議員が任命される諮問評議会がある。これは立法機関ではないが、議会に準ずるものとされ、有識者が大統領および議会に対し必要な提言を行なう。1994年憲法改正により設置され、2001年憲法改正により拡充された。定数は59名から111名に増員され、上記提言とともに、議会との合同会合において大統領選挙候補者の指名や開発計画の承認、条約の批准を行なうこととなった。これにより、大統領選挙候補者の指名に関わる規定は、議会と諮問評議会の合同会合メンバーの5%(21名)以上の推薦と候補者3名以上に変更された。

司法機関は、憲法により「法的、財政的、行政的に自立した機関」とされ、「検察当局は下部機関のひとつ」とされる。司法と検察の成員は、法により規定された条件を除いて解任されず、最高司法会議が裁判官の任命、昇進、解任を執行する。

2000年1月に、イエメン初の地方自治法が公布された。地方自治法は、1994年憲法改正において規定された地方評議会の設置に基づくもので、それは以下のように規定している。州知事およびムディール(州より下位の行政区域ムディーリーヤの長)はそれまで通り中央政府により任命され、それぞれの地方評議会の議長を務める。州評議会の議員は、州を構成する各ムディーリーヤから1名ずつが選出される。ムディーリーヤ評議会の議員は、住民の規模に応じ17~27名が各ムディーリーヤにて選出される(任期はともに4年)。両評議会はそれぞれ、その選出議員の中から事務総長を選出する(事務総長は慣習的に、それぞれ副知事、副ムディールと呼ばれている)。地方評議会に条例などの議決権はなく、その職務は当該行政区域における開発計画等の決定や予算の承認および監査であり、事務総長がそれらに関わる準備や調整を担当する。この地方評議会は行政機関の一部として、地元の民意を地方行政に反映させる、もしくは地方行政を監督するためのものと位置付けられている。 その後、州知事およびサナア市長は地方評議会による間接選挙で選出されることとなり、2008年5月17日に選出が行なわれた。 

2011年のサーレハ大統領辞任、2012年のハーディー大統領就任のあと、2013年3月から新憲法制定のための基本方針を決める包括的国民対話会議が始まった。包括的国民対話会議は2014年1月、連邦制導入などの方針を決定して閉幕したが、翌2015年3月以降の内戦により、憲法制定作業はなされていない。

参考文献

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2019年1月18日

イエメン/最近の政治変化

1990年5月22日、南北イエメンは統合を発表し、イエメン共和国が成立した。統一以前の南イエメンは、中東で唯一マルクス・レーニン主義を標榜する共産主義国家であり、イエメン社会党(YSP)一党独裁下でソ連型の国家体制を続けていた。北イエメンでは政党が禁止されていたが、国民全体会議(GPC)が唯一の公認政治団体として存在し、その大政翼賛的な性格をもって、実質的に単独支配政党の役割を果たしていた。冷戦構造崩壊に伴う北イエメン主導の統一においては、統一が実現する絶対条件としての「対等合併」が強調され、実際にそれを基本とする政治体制が形成された。

統一に際し、アデンで開催された第1回議会(北の議会議員159名と南の最高人民会議議員111名に任命議員31名を加えた301名)は、1981年に南北イエメン統一憲法合同委員会(1977年国境衝突の停戦合意であるクウェート協定に基づき設置)が作成した憲法案を、そのまま統一国家の憲法として承認した。同時に議会および政府は、その第39条に規定されていた「団体結成の自由」を複数政党制の承認と解釈し、その導入を決定した。政府の最高意思決定機関としては、5名からなる最高評議会(GPCから3名、YSPから2名)が設置され、その議長(北のアリー・アブドッラー・サーレハ大統領)が大統領、副議長(南のアリー・サーレム・ベイドYSP書記長)が副大統領とされた。GPC・YSPによる連立内閣の下、首相には南のアッタース最高人民会議幹部会議長(大統領)が就任し、大臣・次官ポストは南北出身者がそれぞれ同数を占め、それはすべての省において南北出身者による組み合わせとなった。

翌1991年5月に憲法は国民投票で承認され、正式に公布された。また、同年には政党・政治団体法(1991年66号法)が施行され、複数政党制に移行した。これによりGPCは正式な政党となったが、同時に保守派や左派(ナセル主義やバアス主義)が分離して新党を結成し、その大政翼賛的な性格を失った。南イエメンにおいても複数の新党が結成され、政党数は一時40を超えた。1992年には選挙法(1992年41号法)が施行され、1993年4月に第1回総選挙(301議席、任期4年)が実施された。選挙結果は、サーレハ大統領を党首とするGPCが122議席で第一党であったが、YSPは56議席で第三党に転落した。代わって第二党となったのは、63議席を獲得したイエメン改革党(イスラーハ)であった。これは、GPCから離脱した保守派の議員が北のハーシド部族連合長アブドッラー・ビン・フサイン・アハマルを党首に迎えて結成したもので、北イエメン北部の部族勢力と南部のウラマー層(ムスリム同胞団系)が合体したイスラーム政党であった。

いずれの政党も過半数に達しなかったため、サーレハ大統領はGPC・YSP・イスラーハによる三党連立内閣を発足させた。最高評議会はGPCとYSPが各2名にイスラーハが1名、閣僚はGPCが15名、YSPが9名、イスラーハが6名となり、首相はYSPのアッタースが留任し、議会の議長にはイスラーハ党首のアハマルが選出された。これは統一間もない政治状況のなかで、挙国一致態勢を確立しようとしたものであったが、それは逆に「政治危機」と呼ばれる事態を招く結果に陥った。YSPは、党中央委員会で社会主義放棄を決定したものの、党内の不一致から党大会を開催できず、その左派的傾向を強く残していた。それゆえ、保守的なイスラーハとはもともと水と油の関係であったが、連立政権でともに政策に関わるようになると、一気にその対立関係が表面化した。北イエメンでは、ハーシドおよびバキールと呼ばれる2つの部族連合を中心とする北部の部族勢力に対し、サーレハ政権が長く優遇・懐柔政策を続けていた。部族勢力はその民兵力を背景に大きな政治的影響力を有しており、政権の維持には彼らの暗黙の了解が不可欠とされている。YSPがこの部族勢力優遇に反対して急進的な政治改革を求め、それにイスラーハが強く反発したことが、対立の主たる要因であるといわれる。この対立は、イスラーハ支持者によるYSP幹部への襲撃事件を続発させ、1993年8月にベイド副大統領が職務放棄してアデンに引きこもったことから、「政治危機」に発展した。 

「政治危機」に対しては様々な和解や仲介が試みられたが、その最中にも各地に駐屯する旧南北の軍部隊間で武力衝突が頻発し、結局彼らは翌1994年5月に内戦に突入してしまう。アッタース首相らのYSP最高幹部はアデンのベイド副大統領に合流し、南イエメンの分離・独立(イエメン民主共和国)を宣言した。しかし、YSP議員の大半はサナアに残り、南イエメンでもアビヤンやハドラマウトなどの各地方が、彼らに同調しなかった。サーレハ政権は優勢を保ちつつ戦局を進め、7月にベイドらが国外に逃亡して、内戦は2ヶ月で統一維持派の勝利に終わった。内戦に際し、YSPは連立政権からはずれ、党本部を含む資産を凍結されたが、その政党活動やサナアに残留した議員53名の身分および政治活動は維持された。 

内戦終結後の1994年9月、議会は憲法を改正し、翌10月にサーレハを大統領に選出した。改正憲法では最高評議会が廃止され、大統領制の導入およびその権限強化(副大統領は大統領の任命など)、大統領公選制の導入がなされるとともに、シャリーアを法源とする規定や諮問評議会の導入、地方評議会・地方選挙の導入(後述)などが新たに盛り込まれた。ただし、この時の議会による憲法改正および大統領選出は、内戦後の非常事態による例外的措置とされ、議会による承認のみで国民投票は行われなかった。サーレハ大統領は、南イエメン出身のアブドッラッボ・マンスール・ハーディー(1986年アデン内戦で敗退し、北イエメンに亡命後GPCに参加)を副大統領に指名し、GPCとイスラーハによる二党連立内閣を成立させた。 

内戦により国民経済が破綻寸前の危機に陥ったイエメンは、1994年からIMF・世銀と構造調整受け入れのための協議を開始し、翌1995年から構造調整による大規模な融資および政治経済改革が始まった。これにより国家再建が進んだが、民営化や都市部での起業にかかわる利権では、サーレハ支持層である退役軍人や部族長などが優遇され、サーレハの権力基盤が強化された。

1997年4月、任期満了に伴なう第2回総選挙が実施され、301議席中GPCが過半数の187議席(65議席増)を獲得し、初めて単独政権を樹立した。イスラーハは10議席減の53議席にとどまり、YSPは党資産凍結の継続などに抗議して選挙をボイコットし、無所属で4候補が当選した。その他の無所属は51議席、諸派(2党)は5議席。 

1999年9月、イエメンで初めての大統領直接選挙が実施された。大統領選挙候補者は議会議員の10%(31名)以上の推薦を必要とし、議会は2名以上の候補者を指名しなければならない規定であったが、最大野党のイスラーハは候補者を出さない決定を行ない、YSPと他の野党は「政府・GPCより議員に対し、YSPから大統領候補を出さないよう圧力があった」として、選挙のボイコットを表明した。結局、GPC議員が推薦して指名された現職のサーレハ大統領と、無所属議員が推薦して指名されたナジーブ・カハターン・シャアビー(1967年南イエメン独立時に初代大統領となり、1969年に失脚したカハターン・シャアビーの息子)の候補者2名による選挙となった。しかし、南イエメン出身とはいえ、支持基盤を持たないシャアビー候補者には支持が集まらず、選挙自体は完全な「無風」と化して、サーレハ大統領が有効投票数の96.3%を獲得して再選された。1994年10月の議会によるサーレハ大統領の指名は内戦後の例外措置とされたため、サーレハ大統領の任期はこれが正式な大統領選挙を経た1期目とされた。 

翌2000年1月に地方自治法が公布された。地方自治法は、94年改正憲法において規定された地方評議会の設置に基づくもので、それは以下のように規定している。州知事およびムディール(州より下位の行政区域ムディーリーヤの長)はそれまで通り中央政府により任命され、それぞれの地方評議会の議長を務める。州評議会の議員は、州を構成する各ムディーリーヤから1名ずつが選出される。ムディーリーヤ評議会の議員は、住民の規模に応じ17~27名が各ムディーリーヤにて選出される(任期はともに4年)。両評議会はそれぞれ、その選出議員の中から事務総長を選出する。

また同年8月には、大統領より議会に対し憲法改正が提案された。議会はその審議を続け、同年11月に憲法改正案を賛成多数で可決した。その内容は、大統領および議会議員任期の2年延長(それぞれ5年から7年、4年から6年)、大統領の議会解散権強化、諮問評議会の拡充、自由主義経済体制の明記などであった。諮問評議会は立法機関ではないが、議会に準ずるものとされる。これは、1994年改正憲法でその設置が規定されたもので、有識者が大統領および議会に対し必要な提言を行なう機関とされた(憲法改正後にそのメンバー59名が大統領より任命)。改正案ではそのメンバー数(111名に増加)および職務が拡充され、各種の提言とともに、議会との合同会合において大統領選挙候補者の指名や開発計画の承認、条約の批准を行なうこととなった。改正案において、大統領選挙候補者の指名に関わる規定は、議会と諮問評議会の合同会合メンバーの5%(21名)以上の推薦と候補者3名以上に変更された(大統領選挙において過半数を獲得した候補者がいない場合は、上位2名による決選投票を行なう規定には変更なし)。 

2001年2月、憲法改正案に関わる国民投票とイエメン初の地方選挙が同時に実施された。憲法改正に関する国民投票では、賛成が77.42%(201万8527票)であった。国民投票での憲法改正案承認を受け、サーレハ大統領は同年4月に諮問評議会メンバーを任命している。地方評議会選挙では、州評議会(19州と首都特別区の20評議会、全401議席)選挙でGPCが277議席を獲得(得票率69%)、ムディーリーヤ評議会(全6213議席)選挙でもGPCが3771議席を獲得(60%)して勝利した。イスラーハは州評議会で78議席(19%)、ムディーリーヤ評議会で1433議席(23%)、YSPが州評議会で16議席(4%)、ムディーリーヤ評議会で218議席(4%)となっている。これら3党以外の州評議会議員はすべて無所属で30議席(7%)、ムディーリーヤ評議会議員は諸派6党で42議席(1%)、無所属で749議席(12%)であった。 

2001年憲法改正により議会の任期が2年延長となったことから、第3回総選挙は2003年4月に実施された。GPCは全301議席中229議席を獲得して圧勝し、以下イスラーハの46議席、YSPの7議席、諸派(2党)の5議席、無所属14議席と続いた。政権与党GPCの42議席増に対し、最大野党イスラーハは7議席減となり、またYSPの巻き返しもならなかったことから、サーレハ大統領率いるGPCの安定政権がより固定化された結果となった。また、このときイスラーハ党首のアハマルはGPCからも公認を受け、イスラーハとGPCに両属する議員として当選し、引き続き議長に選出された。 

2005年7月、翌年の大統領選挙への出馬と当選が確実視されていたサーレハ大統領は、突然選挙への不出馬を表明した。統一前の北イエメンで1978年に大統領に就任して以降、統一後を合わせてこの時点で27年間も大統領職にあることから、後進に道を譲りたいとの理由であった。しかし、その後GPCはサーレハ以外の大統領候補を擁立せず、2006年6月24日以降にサナアや地方都市でサーレハ出馬を求めるデモが続いた。このデモを受け、サーレハは7月5日に大統領候補への登録を行なった。 

2006年9月20日、第2回大統領選挙と第2回地方評議会選挙が同時に実施された。大統領選挙では、議会と諮問評議会の合同会議において5名の候補者が指名された。現職のサーレハ候補の独走と見られたが、著名な実業家であるファイサル・ビン・シャムラーン候補(野党のイスラーハ、YSP、ナセル統一、ハック党、イエメン人民勢力同盟の推薦)が集会などで予想外の動員力を発揮し、選挙戦は両者の一騎打ちとなった。しかし、結果はサーレハ候補が有効投票の77.17%を獲得して2期目の大統領に就任し、シャムラーン候補の得票は21.82%にとどまった。 

地方評議会選挙では、州評議会(20州と首都特別区の21評議会、全431議席)選挙でGPCが315議席を獲得(得票率74.12%)、ムディーリーヤ評議会(333評議会、全6869議席)選挙でもGPCが5078議席を獲得(73.75%)して大勝した。他の政党は、イスラーハが州評議会で28議席(6.59%)、ムディーリーヤ評議会で794議席(11.50%)、YSPが州評議会で10議席(2.35%)、ムディーリーヤ評議会で171議席(2.48%)、無所属が州評議会で20議席(4.71%)、ムディーリーヤ評議会で571議席(8.27%)となっている(そのほかは諸派)。 

それまで大統領による任命であった州知事および首都サナア市長が、地方評議会からの間接選挙によって選出されることとなり、2007年5月17日にその選挙が実施された。州知事20人およびサナア市長の計21人のうち、18人が与党GPCによって占められ、3州(マーリブ、ベイダー、ジョウフ)の知事が無所属であった。当選者は、現職の知事のみならず、現職の副知事や中央政府の現職や元職の閣僚、次官、与党幹部、元大使、元軍幹部などであった。州知事の直接選挙を要求していた諸野党は、選挙のボイコットを宣言したが、投票に参加した野党の地方評議会議員もいた。

2007年、議会議長・イスラーハ党首・ハーシド部族連合長のアブッドラー・アハマルが死去し、長男のサーディク・アハマルがハーシド部族連合を継いだ。イスラーハ党首には、ムスリム同胞団のムハンマド・ビン・アブドッラー・ヤドゥーミーが就任し、議会議長は翌2008年に、GPCのヤヒヤー・アリー・ラーイが選出された。

2009年4月、議会は同年に予定されていた第4回総選挙の2年間延期を可決した。延期の理由は、比例代表制の導入を含む一連の議会・選挙制度改革のためであった。しかし、選挙人登録に多数の不正が発覚したための延期であるとの報道や、ホーシー派(2004年以降、サアダ州で政府軍と武力衝突。イラン革命防衛隊の支援を受ける)、南部運動(通称ヒラーク。2007年以降、旧南イエメンの平和的な再分離独立を求める諸組織の総称)、イスラーム過激派の活動、ソマリア沖海賊への対処など、問題山積の状況がこの総選挙延期に影響しているとの観測もある。

2011年4月に 予定される第4回総選挙のあと、議会において大統領任期と議会議員任期を2年間短縮して元の5年と4年に戻す、選挙制度に比例代表制を導入するなどの憲法改正を行なう予定であったが、2010年12月に与党GPCより、これに大統領の三選禁止規定廃止を加える新たな憲法改正案が提示された。野党は強く反発し、これに反対するデモを呼びかけたが、参加者が集まらず不発に終わった。

しかし、2011年1月、チュニジアの政変に触発されたサーレハ退陣を求める大規模なデモが発生した。サナアでの反政府デモは長期化、常態化し、同様なデモは国内各都市にも波及した。5月以降、部族勢力やイスラーム過激派(アラビア半島のアルカーイダAQAP)と政府軍との戦闘も続き、事態の混迷に拍車をかけた。ホーシー派は、サアダ州に加えて隣接するハッジャ州、ジョウフ州を掌握し、南部では新たなイスラーム過激派であるアンサール・シャリーアが、内陸部で勢力圏を確保して実質的な自治を始めた。サーレハ政権はサウジアラビアに仲介を依頼し、サウジアラビアはGCC外相会議においてこの問題を協議して、GCCイニシアチブ(アブドッラッボ・マンスール・ハーディー副大統領への権限移譲、挙国一致内閣、サーレハ大統領への訴追免除など)を提示した。11月23日、サーレハ大統領はこの調停案に署名し、ハーディー副大統領に権限を委譲。12月7日には、野党勢力のムハンマド・バーシンドアを首相とする挙国一致内閣が成立した。2012年1月21日、議会はGCCイニシアチブに沿ってサーレハ訴追免除のための法案を可決し、ハーディー副大統領を大統領選挙の単独候補に指名した。2月21日に実施された大統領選挙で、ハーディーが当選した(信任投票)。大統領選挙後の2年間を移行期間として、その間に憲法改正、議会選挙、大統領選挙が行われる予定となった。2012年4月、ハーディー政権はサーレハの長男アハマド・サーレハ(精鋭の共和国防衛隊司令官)や異父弟アリー・ムフシン(精鋭の第一機甲旅団長。2004年からホーシー派との戦闘を指揮。2011年にサーレハ辞任を求めるデモに合流)を含む、サーレハ親族の軍高官を更迭した。

しかし、憲法改正などに関わる方針を各政治勢力の代表によって協議する機関とされた包括的国民対話会議の設置が大幅に遅れ、2013年3月にようやく設置された。2014年1月、包括的国民対話会議は連邦制導入などを骨子とする合意文書を発表し、移行期間を1年延長して憲法制定と議会選挙、大統領選挙を1年以内に実施することとした。 

2014年2月、ホーシー派がサアダ州からサナア北方のアムラーン州に進出し、7月には州都アムラーンを占拠した。8月、ホーシー派はサナア近郊に達し、9月に生活基礎物資値上げに抗議するデモに合流してサナア市内に進出した。その後、政府軍と衝突して一部の政府機関などを占拠した。 9月21日、政府とホーシー派は停戦に合意し、バーシンドア首相が辞任した。ハーディー大統領は10月7日にアフマド・アウド・ビン・ムバーラク大統領府長官を首相に任命したが、ホーシー派とGPCがこれを拒否した(本人も辞退)。10月13日、ハーディー大統領はハーリド・マフフーズ・バッハーフ国連大使(元石油相・首相。2011年にGPCを離脱して無所属)を首相に任命した(ホーシー派は拒否せず)。 ホーシー派のサナア占拠に際し、サーディク・ハーシド部族連合長やアリー・ムフシンはサウジアラビアに逃亡した。

 ホーシー派は、ハーディー大統領に対し憲法案作成や選挙準備、経済政策の実施などを要求したが、政府の対応は遅々として進まなかった。2015年1月、ホーシー派はハーディーを軟禁し、翌2月には「革命委員会」を組織して2年間の暫定統治を開始した。3月、ハーディーはサナアを脱出してアデンに向かい、自らの政権の正当性を主張した。その直後、サナアのモスクでAQAPによる大規模な爆弾テロが発生し、幹部を含む多数のホーシー派メンバーが死亡した。これを契機として、ホーシー派はサナアより南方に本格的な侵攻を開始した。3月、サウジアラビアのサルマーン新国王(2015年1月23日のアブドッラー国王死去により即位)はアラブ有志連合(サウジアラビア、クウェート、UAE、カタル、バハレーン、エジプト、スーダン、ヨルダン、モロッコ、パキスタンが参加)を組織し、ホーシー派への空爆を開始した。ホーシー派は4月にはアデン近郊に達し、アデンを巡る攻防戦が続いた。5月、サウジアラビアとUAEがアデンとマーリブ州に地上軍を派遣し、ホーシー派はサウジアラビアへの弾道ミサイルによる攻撃を始めた。一方、イスラーム過激派では、2014年にアンサール・シャリーアからイスラーム国が分派した。AQAPとイスラーム国は、南イエメンの内陸部や東部で勢力圏を拡大するとともに、ホーシー派とアデンのハーディー政権の双方に攻撃を仕掛けている。

2016年4月、アリー・ムフシンがハーディー政権の副大統領に就任し、首相もアハマド・オベイド・ビン・ダガル副首相(GPC、元通信相)に交代した。5月、UAEと米が支援する南部諸勢力(南部運動を背景とする複数の政治団体、武装勢力)が、ハドラマウト州の州都ムカッラをAPAQから奪還した。7月、サナアのホーシー派とサーレハ支持派は、革命委員会に代わる統治組織として「最高政治評議会」を設けた。

2017年1月、UAEが支援する南部諸勢力は紅海沿岸部に進出し、3月にはモカを掌握した。5月、南部諸勢力の中心的な組織である南部移行評議会STC(UAEが支援する武装組織)がアデンを掌握した(正副大統領は従前からサウジに在住)。12月、サーレハはGPC総会でサウジアラビアとの和平に言及し、サウジアラビアもこの発言を歓迎する意向を示したが、その2日後にホーシー派はサーレハを殺害した。サウジに在住していた長男アハマドは復讐を表明したが、イエメン国内に特段の動きはなかった。

 2018年1月、ハーディー政権が南部諸勢力による旧南イエメン分離独立のための集会を阻止しようとしたことから、ハーディー政権とセキュリティ・ベルト(略称ヒザーム、UAEが支援する武装組織、リーダーは上記STCの副代表を兼ねる)との武力衝突が発生。5月、紅海沿岸部を進撃していた南部諸勢力はホデイダ近郊に達し、イエメン最大の港湾都市ホデイダへの攻撃を開始した(一方、UAEはソコトラ島に地上軍を上陸させ占領)。しかし、ホデイダは陥落せず、戦線は膠着した。12月、国連の仲介によりホーシー派とハーディー政権は和平協議を行ない、ホデイダ州全域での停戦に合意した(ホデイダからの両派部隊の撤退はなされていない)。

 2019年5月12日、UAEフジャイラ港沖合でサウジアラビアのタンカーが攻撃を受け、6月13日にはオマーン湾で日本とノルウェーのタンカーが攻撃を受ける(米英はイランによる攻撃と主張)。7月、UAEはイエメンに派遣していた地上軍(5000人規模)の撤退を開始。8月、ホーシー派との戦闘で死亡したヒザームの指揮官の葬儀をきっかけに、7日からハーディー政権とSTC、ヒザームとの武力衝突が生じ、STCとヒザームは大統領宮殿やアデン市内の主要政府施設を占拠(その後、撤退)。同月13日、テヘランでイラン最高指導者ハーネメイー師がホーシー派広報のムハンマド・アブドッサラームと会談。同月17日、ホーシー派はサウジアラビアのシャイバ油田を無人機10機で攻撃したと声明。9月14日、サウジアラビアのアブーカイク油田とクライス油田が巡航ミサイルと無人機により攻撃される(ホーシー派が攻撃声明を出したが、米などはイランによる攻撃と主張)。同月、ホーシー派はサウジアラビアのナジュラン方面に侵攻し、武器と捕虜を獲得と声明。10月11日には、サウジアラビアのジェッダ沖でイランのタンカーが攻撃された。

 2019年11月5日、サウジアラビアの仲介により、リヤドでハーディー政権とSTCが和解した。両者は「権力分担協定」に署名し、ハーディー政権はSTCに複数の閣僚ポストを与え、STCの兵力(数万人規模)はハーディー政権の指揮下に入ることとなった。しかし、2020年4月26日、STCはアデン市と旧南イエメン各州の自治を宣言し、これを拒否するハーディー政権およびサウジアラビアとの対立関係が再燃した。ただし、実際に自治が行われているのは、アデン州とラヘジ州のみである模様。7月1日には、ハーディー政権またはSTCの勢力圏内にあるタイズ市で、サウジアラビアとUAEを非難するデモが生じた。12月18日、ハーディー政権とSTCは再び和解し、両者による連立内閣を発足させた。12月30日、新首相らを乗せた飛行機がアデン空港に着陸した直後、空港に攻撃があり、死傷者を出した(首相ら、政府関係者は無事)。

 2020年1月10日、米ポンペオ国務長官は、ホーシー派をテロ祖域に指定したが、その後に発足したバイデン政権により取り消された(ホーシー派要人への経済制裁は続行)。バイデン政権は2月4日、アラブ有志連合への軍事支援を停止すると発表するなど、トランプ政権の中東政策を転換する意向を示した。一方、ホーシー派は2月以降、サウジアラビア南部の軍事施設や東部の石油関連施設、首都リヤドに対するミサイルや無人機による攻撃を頻繁に繰り返し、3月9日には、サウジアラビアがイエメンの首都サナアに対する大規模な空爆を行なった。22日、サウジアラビア政府はホーシー派に対し、国連監視下での全土での戦闘停止やハーディー政権との和平協議などの停戦案を示した。しかし、ホーシー派は「サウジアラビアがイエメンへの攻撃を停止することが前提」と停戦案を拒否し、26日には無人機を用いたサウジ領への越境攻撃を行なった。

 2019年に自国の地上軍部隊をイエメンから撤退させたUAEは、自国に亡命したイエメン人に軍事訓練を施して民兵部隊を編成し、2021年12月にイエメンに派兵した。この民兵部隊はサウジアラビアと国境を接するマーリブ州、シャブワ州などで、一定の戦果を挙げた。これに対し、ホーシー派は2022年1月、3度にわたりアブダビの石油施設や米空軍が使用する空軍基地などに、無人機や弾道ミサイルによる攻撃をおこなった。このホーシー派の攻撃にアラブ有志連合は報復の空爆をサナアに行ない、2月には無人機を管制する衛星通信施設を爆破したと発表した。

参考文献

  • 松本弘「イエメンの民主化」『現代の中東』27号(1999年7月)、pp.27-41。
  • ―――「イエメン民主化の10年」『現代の中東』39号(2005年7月)、pp.24-39。
  • ―――「イエメン:政党政治の成立と亀裂」、間寧編『西・中央アジアにおける亀裂構造と政治体制』JETROアジア経済研究所、2006年、pp.95-158。
  • ―――「民主化と構造調整―イエメンの事例から―」『中東研究』500号(2008年6月)、pp.206-211。
  • ―――「イエメン―政変とイスラーム主義―」『中東研究』512号(2011年9月)、pp.17-28。
  • ―――「イエメンの混迷―その背景と特質―」『国際問題』605号(2011年10月)、pp.38-47。
  • ―――「イエメンの民主化と部族社会―変化の中の伝統―」、酒井啓子編『中東政治学』有斐閣、2012年、pp.67-80。
  • ―――「イエメン・ホーシー派の展開」、酒井啓子編『途上国における軍・政治権力・市民社会―21世紀の「新しい」政軍関係―』晃洋書房、2016年、pp.112-129。
  • ―――「イエメンにおける政治と部族」『中東研究』526号(2016年5月)、pp.33-43。
  • ―――「イエメン内戦の背景と特質」『海外事情』64巻9号(2016年9月)、pp.18-29。
  • ―――「イエメンの内戦と宗派」、酒井啓子編『現代中東の宗派問題―政治対立の「宗派化」と「新冷戦」』晃洋書房、2019年、pp.205-226。
  • 「特集 イエメン―忘れられた『アラブの春』の落とし子―」『アジ研ワールド・トレンド』248号(2016年5月)、pp.2-38。
  • ―――「イエメン内戦における国家観の不在―ホーシー派支持者の意識と傾向―」、末近浩太・遠藤貢編『紛争が変える国家(グローバル関係学4)』岩波書店、2020年、pp.44-63。
  • ―――「イエメン内戦―その要因と展開―」、近藤洋平編『アラビア半島の歴史・文化・社会』東京大学中東地域研究センター、2021年、pp.175-194。
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2019年1月18日

イエメン/選挙

憲法は、議会定数の301すべてを小選挙区により選出すると規定している。1992年に施行された選挙法(92年第41号法)では、選挙権(国籍を有し国内に居住する18歳以上の男女)、被選挙権(同25歳以上)、選挙人登録制、小選挙区単純多数制(比較第1位の候補者の得票が有効投票数の過半数に達しなくとも、そのまま当選。その場合の上位2名による第2回投票はない)、選挙区設置(301小選挙区、人口格差5%以内、選挙区は複数の州にまたがらない)、選挙の運営・管理を行う最高選挙委員会(政府および各政党の代表者を委員とする)の設置及びその職務が規定されている。

1993年4月に実施された第1回総選挙においては、当時の総人口1429万7500人をもとに1選挙区の人口が4万7500人±5%、州別の平均選挙区人口格差が同じく±5%と設定され、全国に301小選挙区(旧北245、旧南56)が設置された。総有権者数は629万900人で、選挙登録した選挙人総数は269万1064人(全有権者の42.8%、うち女性50万1591人)、投票率は登録選挙人の84.5%(全有権者の約36%)。以後の総選挙もこれと同様に実施され、選挙区は人口の変化に応じて選挙ごとに調整されている。議員の任期は当初4年であったが、2001年憲法改正で6年となった。

大統領は直接選挙による公選制で、任期7年、三選禁止。大統領選挙候補者(国籍を有し40歳以上で配偶者が外国人でない者)は、議会(301名)と諮問評議会(111名)の合同会議において定員の5%(21名)以上の推薦を受けなければならず、合同会議は3名以上の候補者を指名しなければならない(候補者が合同会議のメンバーである必要はない)。大統領選挙において、過半数の得票を得た候補者がいない場合は、上位2名による決選投票となる。 

選挙自体は種々の問題をはらみながらも、一般に自由との評価を受けている。しかし、選挙結果比較第1位の候補者がそのまま当選するため、大政党に有利で死票が多い選挙制度となっている。また、選挙のたびに一部の投票所で投票妨害のための暴力事件や混乱が起き、再投票や欠員が生じる事態となる。

2009年4月に予定されていた第4回総選挙は、比例代表制導入を含む議会・選挙制度改革を理由として、2009年4月に議会により2年間延長された。これにより、次回総選挙は2011年4月27日に予定されていた。しかし、2011年1月に始まった大規模な反政府デモにより、この総選挙は実施されず、サーレハ大統領辞任後の2012年2月に大統領選挙(ハーディー大統領信任)が実施された。2013年3月から、新憲法制定のための基本方針を決める包括的国民対話会議が始まった。包括的国民対話会議は2014年1月、連邦制導入などの方針を決定して閉幕した。しかし、翌2015年1月のホーシー派による「革命委員会」設置および3月以降の内戦により、その後はいかなる選挙も行われていない。

(1) 総選挙 

政党・無所属の獲得議席(議席定数301) 
政党199319972003*1
GPC122187229
イスラーハ635346
YSP5607
バアス党722
ハック党200
ナセル統一133
ナセル民主100
ナセル矯正100
無所属485414
301299*2301
  1. 2003年総選挙においてGPCとイスラーハの双方から公認を受け、当選したアハマル議会議長(イスラーハ党首)については、イスラーハの議席に加算した。
  2. 1997年総選挙では、投票の際の混乱により2つの選挙区で当選者を確定できず、2名の欠員となった。 
女性当選者
  • 1993年: 2名(YSP)
  • 1997年: 0名
  • 2003年: 1名(GPC)
1993年総選挙の得票・得票率
政党獲得議席 得票数 得票率 
GPC122640,52328.69%
イスラーハ63383,54517.18%
YSP56413,98418.54%
諸派19政党12142,0076.36%
無所属48600,62027.25%
  • 有権者総数:629万0900人
  • 登録選挙人総数:269万1064人
  • 投票総数:227万1185票
  • 有効投票総数:223万2573票 
1997年総選挙の得票・得票率
政党獲得議席 得票数 得票率 
GPC1871,175,24342.94%
イスラーハ53237,7278.69%
YSP(ボイコット)
諸派10政党5108,2543.96%
無所属54845,626 31,11% 
  • 登録選挙人総数: 454万6306人
  • 投票総数: 282万7369票
  • 有効投票総数: 272万6961票 
2003年総選挙の得票・得票率 
政党獲得議席 得票数 得票率 
GPC2293,465,11757.59%
イスラーハ461,349,48522.51%
YSP7291,5414.86%
諸派19政党5269,2914.49%
無所属14620,61510.35%
  1. GPCとイスラーハの双方から公認を受け、当選したアハマル議会議長(イスラーハ党首)については、イスラーハの得票に加算した。 
  • 登録選挙人総数: 809万7514人
  • 投票総数:620万1254票
  • 有効投票総数: 599万6049票

(2) 大統領選挙 

1999
候補者得票数得票率
アリー・アブドッラー・サーレハ3,583,79596.20%
ナジーブ・カタハーン・シャアビー141,4333.80%
  1. サーレハは現職でGPC公認。
  2. シャアビーはYSP所属の議会議員だが、大統領選は無所属。
  • 選挙人登録総数: 560万0119人
  • 有効投票総数: 377万2941票 
2006年 
候補者得票数得票率
アリー・アブドッラー・サーレハ4,149,67377.17% 
ファイサル・ビン・シャムラーン1,173,02521.82%
ファトヒー・アザブ 24,5240.46%
ヤアシーン・アブドゥ・サイード21,6420.40%
アフマド・マジュディー8,3240.15%
  1. サーレハは現職でGPC公認。
  2. シャムラーン(実業家)は、5野党(イスラーハ、YSP、ナセル統一、ハック党、イエメン人民勢力同盟)による「政党合同会議」の推薦。
  3. サイードは、そのほかの野党による「野党国民会議」の推薦。
  4. アザブおよびマジュディーは無所属。
  • 投票総数: 602万5818票
  • 有効投票総数: 537万7238票
2012年2月21日

アブドッラッボ・マンスール・ハーディー 信任票 662万1921票(信任99.80%)  

 選挙人登録総数 1024万3364人(人口2405万) 

有効投票総数 663万5192票(投票率64.78%) 

・2011年政変におけるGCCイニシアチブの規定に基づく大統領選挙。このイニシアチブには、ハーディー副大統領を唯一の大統領選挙候補とする旨記されており、かつイニシアチブの内容はイエメンの憲法および法律の代替をなし、イニシアチブに対する異議申し立てはできないと記されている。  

参考文献

  • 松本弘「イエメンの民主化」『現代の中東』27号(1999年7月)、pp.27-41。
  • ―――「イエメン民主化の10年」『現代の中東』39号(2005年7月)、pp.24-39。
  • ―――「イエメン:政党政治の成立と亀裂」間寧編『西・中央アジアにおける亀裂構造と政治体制』JETROアジア経済研究所、2006年、pp.95-158。
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2019年1月18日

イエメン/政党

1990年南北イエメン統一において、1981年に南北イエメン統一憲法合同委員会(77年南北国境衝突の停戦協定であるクウェート協定に基づき設立)が作成した統一憲法案が、そのままイエメン共和国の憲法案に採用された。イエメン共和国議会はこの憲法案を承認し、さらに同憲法第39条に規定された「政治団体の自由」を複数政党制の承認と解釈して、その導入を決定した。これにより政府は、統一と同時に複数政党制による総選挙実施を公約として発表した。議会で承認された憲法案は、翌91年5月に国民投票で承認されて正式に発布・施行され、同じ年に政党・政治団体法(91年第66号法)も公布された。 

政党・政治団体法では、政党・政治団体の結成の自由が明記されているが、それはイスラーム、イエメンの統一、旧南北イエメン革命および統一憲法の理念、政治的自由及び人権の尊重、アラブ民族の精神に合致するものとされている。また、特定の地域、言語、宗教などを基盤としてはならないとも規定されている。このほか、政党の結成手続きやその役員構成・会計などが規定され、政党・政治団体の認可・解散等を決定する政党・政治団体委員会(議会担当相を委員長とし、内務相、司法相などを委員とする)の設置およびその職務も規定されている。

法律上、政党の非認可および政党への解散命令は可能だが、現在までそのような例はない。たとえば、「イスラームに合致するもの」という規定と左派政党との関係、「特定の宗教を基盤としてはならない」という規定とイスラーム政党との関係、「特定の地域を基盤としてはならない」という規定と北部山岳地域を基盤とするザイド派イスラーム政党(エスニック政党)との関係などに問題の可能性はあるものの、これまで議論の対象となった形跡はなく、申請を行なった政党はすべて認可されている。また、1994年内戦で党幹部が旧南イエメン分離独立派に合流した諸政党(YSP、ナセル矯正、イエメン民族同盟)も、解散命令を受けていない。

2011年のサーレハ大統領辞任、2012年のハーディー大統領就任のあと、2013年3月から新憲法制定のための基本方針を決める包括的国民対話会議が始まった。包括的国民対話会議は2014年1月、連邦制導入などの方針を決定して閉幕したが、その後ハーディー政権は憲法案作成を行なわず、さらに翌2015年1月のホーシー派による「革命委員会」設置および3月以降の内戦により、政党政治は機能していない。

主要政党

国民全体会議(GPC)

イエメン・アラブ共和国(1990年南北イエメン統一以前の北イエメン)において、1982年にアリー・アブドッラー・サーレハ大統領により設立された同名の大政翼賛団体(各地方・職業団体からの選出700名、政府任命300名)を母体とする政党。統一以前の北イエメンでは政党が禁止されていたため、唯一の公認政治団体(実質的な単独支配政党)として、当時停止されていた議会の役割を果しながら、総選挙を準備する組織として位置づけられた。

統一後の政党・政治団体法施行に際し、政党申請を行なって一般から党員を募集する通常の政党となった(党首はサーレハ大統領)。もともと、アラブ民族主義を基調としながら、国内のさまざまな勢力や政治思想を包含する組織であったが、複数政党制の導入より左派(ナセル主義、バアス主義)や保守派が分離して新党を結成し、大政翼賛的な性格は失った。その後は、アラブ民族主義や革命理念の継承を掲げながらも、サーレハ政権を支持し、脱イデオロギー化のなかで国民経済の発展を優先する現実主義・実務志向の政党となっている。

1993年総選挙(定数301議席)で122議席(イスラーハ、YSPと三党連立内閣、1994年内戦後はイスラーハとの二党連立内閣)、1997年総選挙(単独内閣)で187議席、2003年総選挙で229議席(単独内閣)を獲得し、すべての総選挙で第一党となっている。また、2001年と2006年の地方選挙でも圧勝している。 

1995年に構造調整を受け入れて以降、マクロ経済の安定・拡大と補助金削減や財政再建などによる国民生活の負担増大との間で、政局の運営を続けている。生活基礎物資の価格上昇のたびにデモ・暴動が発生し、政府への強い不満・批判が噴出するものの、選挙では支持を拡大し続けていた。

イエメン改革党(イスラーハ、YIP)

統一後のGPCとYSPの協力関係やナセル主義、バアス主義の左派新党設立に警戒感を抱いた保守派議員がGPCを離脱し、GPCメンバーであった旧北イエメン北部のハーシド部族連合長アブドッラー・ビン・フセイン・アハマル(統一以降、2007年の死去まで議会議長)を党首に仰いで結成した政党。結成には、旧北イエメン南部のムスリム同胞団系のウラマー層も加わり、イエメン最大のイスラーム政党となった(北部部族はシーア派のザイド派に属し、南部はスンナ派のシャーフィイー法学派だが、宗派の違いはこれまで問題となっていない)。

1993年総選挙で63議席(GPC、YSPと三党連立内閣、1994年内戦後はGPCと二党連立内閣)、1997年総選挙で53議席(最大野党)、2003年総選挙で46議席(最大野党)を獲得し、すべての総選挙および地方選挙で、GPCに次ぐ第二党の位置を占める。 

イエメン最大最強の圧力団体とも言うべき保守的な北部部族勢力(ハーシド部族連合、バキール部族連合)を支持基盤とし、南部ウラマー層が政党としての思想や枠組みを提供する態勢をとっている。しかし、「イスラーハは動員力はあるが、集票力に欠ける」と評価されており、北部での支持は得票にはつながらず、議席の多くを南部に依存している。

党首はアハマル、党最高評議会議長はムスリム同胞団系の指導的ウラマーであるヤアシーン・アブドルアジーズ・クバーティー、党諮問委員長はサウジアラビアに近く、イエメン・イスラーム主義の教条派を代表するアブドルマジード・ジンダーニー(現イーマーン大学学長、党内では少数派)。アハマルもサウジアラビアと強い関係を有しており、アハマルとジンダーニーに着目すれば、イエメンにおける親サウジ政党ともいえる。

野党として経済・外交政策でGPCと激しく対立するものの、実質的にはサーレハ政権支持の姿勢を続けており、純粋な野党とは言いがたい。たとえば、1999年大統領選挙では対立候補を立てずにサーレハを支持し、2003年総選挙ではイスラーハ党首のアハマルがGPCからも公認を受け、イスラーハとGPCに両属する議員として当選して、引き続き議長に選出された。最大野党の党首が与党にも属して議長を務めることは、法律的にも政治倫理的にも問題とされておらず、イエメン政党政治の一面を象徴している。しかし、2006年大統領選挙では他の野党4党(YSP、ナセル統一、ハック党、イエメン人民勢力同盟)とサーレハの対立候補(実業家のシャムラーン)を擁立、支持し、活発な選挙戦を展開した。

2007年12月29日、アハマル党首が死去し、ムハンマド・ビン・アブドッラー・ヤドゥーミーが党首に就任した。

イエメン社会党(YSP)

イエメン民主主義人民共和国(統一前の南イエメン)における、マルクス・レーニン主義を掲げる単独支配政党。統一後の政党・政治団体法施行に際し、政党申請を行なって一般から党員を募集する通常の政党となった。ソ連崩壊と南北イエメン統一を背景に、党中央委員会は社会主義の放棄を決定したが、党内の混乱により党大会を開催できず、党の綱領自体は変わっていない。

1993年総選挙で56議席を獲得するが、GPC、イスラーハに次ぐ第三党に甘んじる(GPC、イスラーハと三党連立内閣)。党最高幹部が1994年内戦を引き起こし、旧南イエメンの分離独立(イエメン民主共和国の独立)を宣言したが、YSP議員の大半はこれに合流せず、首都サナアに残留した。内戦中にYSPは資産等を凍結され、連立内閣から排除されたが、内戦終結後も政党や議員としての活動には制限を加えられなかった。資産凍結の継続に抗議して、1997年総選挙をボイコット。2003年総選挙で復帰するも、7議席にとどまった。1999年大統領選挙では候補者を擁立できなかったが、2006年大統領選挙では他の野党4党(イスラーハ、ナセル統一、ハック党、イエメン人民勢力同盟)と候補者(実業家のシャムラーン)を擁立した。

旧北イエメンとの経済格差が解消されない旧南イエメンを支持基盤とする政党となるべき存在ではあるが、選挙では旧南イエメンでもGPCの得票が圧倒的となっている。 

アラブ・バアス社会主義党イエメン地域指導部(バアス党)

複数政党制の導入に伴い、バアス主義者がGPCから分離して、イラク系バアス党のイエメン支部として結党。結党時の党首は、ムジャーヒド・アブー・シャワーリブ(統一以前からのサーレハ大統領の側近で、アハマル・イスラーハ党首の義弟)だが、1994年内戦後に大統領顧問に任命され離党。その後、イラクのサッダーム・フセイン大統領(当時)に近いカーシム・サッラームが党首となる。しかし、党内対立からサッラームは離党して、新たにバアス民族党(総選挙での当選者なし)を設立した。

1993年総選挙で7議席、1997年および2003年総選挙では2議席を獲得。

ナセル人民統一組織(ナセル統一)

統一直前のアデンで結成された、旧北イエメンのハムディー大統領(在職1974~77年、南部を基盤とするリベラル派として北部部族勢力と対抗した)の支持勢力による政党。ナセル主義に基づく公正を訴え、旧北イエメン南部や旧南イエメンのアデン、アブヤンで一定の支持者を有する。1993年総選挙で1議席、1997年および2003年総選挙では、GPCと選挙協力を行なって3議席を獲得。 

ハック党

旧北イエメン北端のサアダを基盤とする、ザイド派(シーア派)カーディー(法学ウラマー)や旧サイイド層(シーア派初代イマーム・アリーの子孫。旧北イエメン革命前のイエメン・ムタワッキル王国における支配層。革命により特権剥奪)などが、GPCから分離して結成したザイド派のイスラーム政党であり、ホーシー家の活動を母体とする。1993年総選挙で2議席を獲得したが、その後は議席なし。 

その他
  • 民主ナセル党(ナセル民主。1993年総選挙で1議席のみ)
  • ナセル人民矯正組織(ナセル矯正。1993年総選挙で1議席のみ)
  • イエメン人民勢力同盟(ザイド派のイスラーム政党)
  • イエメン統一グループ(アデンの知識人層による政党)
  • イエメン民族同盟(旧南イエメン・ラヘジの保守層による政党)
  • 国民社会党
  • 人民民主同盟

政党以外の政治組織・政治勢力

ホーシー派(アンサール・アッラー)

1980年代、イエメン北部のザイド派地域(シーア派、信徒はハーシド部族連合とバキール部族連合に属する部族民)において、サウジアラビアが支援するワッハーブ派の布教活動拠点「ハディースの家」が設けられた。これに危機感を抱いたサイイド(預言者ムハンマドの子孫)のホーシー家(ザイド派ウラマーの家系)当主のバドルッディーン・ホーシーは、「信仰する若者」というザイド派の復興運動を開始した。これがホーシー派の起源とされる。1990年南北イエメン統一以降の民主化ではハック党を結成し、総選挙に参加した。

長男フサイン・ホーシーは、反ワッハーブ・反サウジの演説を繰り返したが、2003年のイラク戦争後に、それは反米の内容を多く含むようになり、多くの若者の支持を得た。しかし、2001年米同時多発テロ以降、米国の対テロ戦争に協力していたサーレハ大統領は、フセインに対し反米演説をしないよう求めたが、フセインは聞き入れなかった。2004年6月18日、サナアのアリー・アブドッラー・サーレハ・モスク前でフセインを支持する若者たちが反米のスローガンを叫び、拘束された(一説に640人)。サーレハは、説得のためにフセインをサナアに呼んだが、拒否された。7月、サーレハは治安部隊をフセイン拘束のために派遣したが、支持者と銃撃戦になって拘束に失敗。武力衝突が拡大したため、その後はアリー・ムフシン(サーレハの異父弟。現在はハーディー政権の副大統領)を司令官とする第一機甲旅団がその制圧にあたったが、ホーシー派を抑えることはできなかった。9月10日、フセインは銃撃戦の中で死亡した。父バドルッディーンも死亡したあとは、次男アブドルマリクなどの親族がホーシー派を率いた。その後、彼らはホーシー派と呼ばれるようになるが、彼ら自身は長く自称を持たず、2010年に自らを「アンサール・アッラー(アッラーの支援者)」と名乗った。2009年には、ホーシー派がサウジアラビアに対する越境攻撃を行ない、サウジはホーシー派を空爆している

イエメン政府は、ホーシー派はイラン流の「ウラマーによる政治」や「ザイド派イマーム(1918~1962年のイエメン・ムタワッキル王国国王)の復活」を求める集団であると喧伝したが、ホーシー派自身は特段の政治思想を展開せず、政府軍の攻撃に防御・反撃しているのみとの姿勢を取り続けた。ホーシー派に対するイランの革命防衛隊の支援については、不明な点が多い、イエメン政府やサウジアラビアは、2005年から支援が始まったとしているが、研究書の多くは、2011年の政変までイランのホーシー派支援にかかわる確たる証拠はないとしている。

当時、これはサアダ事件と呼ばれ、サアダ州の一部における衝突であったが、2011年の政変に乗じてホーシー派は北部3州(サアダ州、ハッジャ州、ジョウフ州)を掌握し、ハーディー政権下の包括的国民対話会議に参加した。しかし、2004年1月、包括的国民対話会議がホーシー派が反対する連邦制の導入に合意すると、翌2月より南下を開始し、同年9月にはサナアを占拠した。翌2015年1月、ホーシー派はハーディー大統領を軟禁下に置き、翌2月に「革命委員会」を組織して、2年間の暫定統治を宣言した。翌3月からはサナア以南に本格的な進攻を開始し、ハーディー政権およびそれを支援するサウジアラビア主導のアラブ有志連合との内戦に至った。

南部運動(ヒラーク)

2007年、アデン近郊で公務員解雇に反対するデモが生じた。その後、同様なデモが多発し、暴動に発展する例も増えた。1990年南北イエメン統一以降、政治経済の北部偏重に南部住民は大きな不満を持っており、これがデモや暴動の背景となっていた。そのような騒擾状態のなか、同年に旧南イエメンの平和的な再分離独立を求める南部運動(通称ヒラーク)が組織された。その内実は、さまざまな勢力や団体の集合体であり、まとまった組織とは呼べないものであったが、2011年政変後の包括的国民対話会議に参加し、連邦制の導入を主導した。

2015年以降の内戦では、この南部運動を背景とした複数の政治団体や武装勢力が南部諸勢力と呼ばれ、UAEの支援を受けて2016年以降の沿岸部での戦闘の主体となっている。ハーディー政権と対立し、2017年5月にアデンを掌握した南部移行評議会(Southern Transitional Council, STC)は、この南部諸勢力の中心的存在。ほかにも、ラヘジ州を基盤としてUAEの支援を受けるセキュリティ・ベルト(略称ヒザーム)があり、これが武装組織としては最大のものとみられている。

参考文献

  • 松本弘「イエメンの民主化」『現代の中東』27号(1999年7月)、pp.27-41。
  • ―――「イエメン民主化の10年」『現代の中東』39号(2005年7月)、pp.24-39。
  • ―――「イエメン:政党政治の成立と亀裂」間寧編『西・中央アジアにおける亀裂構造と政治体制』JETROアジア経済研究所、2006年、pp.95-158。
  • ―――「イエメン・ホーシー派の展開」、酒井啓子編『途上国における軍・政治権力・市民社会―21世紀の「新しい」政軍関係―』晃洋書房、2016年、pp.112-129。
  • ―――「イエメン内戦の背景と特質」『海外事情』64巻9号(2016年9月)、pp.18-29。
  • ―――「イエメンの内戦と宗派」、酒井啓子編『現代中東の宗派問題―政治対立の「宗派化」と「新冷戦」―』晃洋書房、2019年、pp.205-226。
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2019年1月18日

トルコ/最近の政治変化

(1) トルコ共和国の政治変動略史

トルコ共和国は1923年10月に樹立が宣言されて以降、1924年3月にカリフ制を廃止し、大統領を国家元首とし、西洋世界を見習って国民主権や世俗主義を柱とする国家建設を進めた。世俗主義は、国家の正当性原理に留まらず、国民アイデンティティの脱宗教化や、教育や法体系の世俗化(近代西洋的制度の導入)にまで及び、1937年には世俗主義条項が憲法に挿入された。加えて、オスマン帝国が民族分離独立運動によって瓦解した経緯から、建国エリートはトルコ民族文化への同化による国民建設こそが国家の存立基盤だと考えた。その結果、非トルコ系民族文化の主張や、国境を越える労働者の連帯活動を唱える共産主義運動は新生国家への主要脅威とみなされ、抑圧された。共和制樹立から1945年までは、共和人民党の一党制が敷かれ、体制基盤の確立に注力された。

第二次世界大戦の終結にともなって、民主主義が国際的な政治スローガンとなった。国内的にも準臨戦態勢で国民生活は疲弊し、体制への不満が高まっていた。そうした中で指導者層において、体制の枠組みが確立された上、西洋世界への仲間入りを目指す以上、複数政党制に移行するべきだとの議論が優勢となり、民主化が決定された。

1950年には選挙による政権交代が実現し、民主党政権が誕生した。選挙制度としては、大選挙区非拘束名簿式連記投票制による多数代表制が採用されたため、選挙区の第1位政党が当該選挙区議席を独占することになり、1950年代を通じて民主党は国会で圧倒的多数を維持した。しかし、1950年代後半には貧富の格差が拡大し、経済不況にも見舞われたため、民主党政権批判が高まった。政権維持のために民主党が、軍隊を動員して共和人民党の選挙活動を妨害し、政権批判を封じ込めるためにメディア全体への検閲体制を強めると、反政府感情は軍部の若手将校や学生らの間にも広がっていった。また、民主党は、かつて世俗化政策を進めた共和人民党を「無神論者」や「共産主義者」呼ばわりすることで、宗教感情の側面から国民の歓心を買おうとした。そしてついに、1960年5月に軍幹部が収拾に乗り出し、民主党幹部を逮捕し、党の解散、国会の停止を宣言した。

1960年5月から1961年10月にかけて続いた軍事政権は、その後のトルコの政治に重要な影響をもたらした。まず、軍が「民主主義の回復」と「公正な選挙による早期民政移管」を掲げて介入し、それを実現したことで、「民主主義体制擁護の貢献者としての軍部」として軍部の政治介入を正当化するイデオロギーが定着するきっかけとなった。軍事政権である国家統一委員会は、内部に軍政の恒久化を唱える強硬派を抱えていたが、結果的には、政治結社や言論の自由にも言及する1961年憲法を、国民投票による賛成多数を得た上で制定し、国会第一党の権力濫用を防ぐための制度改革を行った。国会には上院が新設され、立法府の活動をチェックできるように憲法裁判所も設置された。また、国会内で一定以上の野党勢力が存在し、与党をチェックできるように、中選挙区比例代表選挙制が導入された。その上で、1961年10月に民政移管のための総選挙を行った。

その一方で、軍事政権下では旧民主党幹部は懲役刑に、党首等3人は絞首刑に処せられた。また、国会を監督するために新設された上院で、国家統一委員会(すなわち軍幹部)の委員全員が終身議員に着任し、1980年代まで軍出身者が就任することになる大統領にも一定数の議員を選任する権限が付与された。さらに、軍幹部が主導する国家安全保障会議が新設された。これは、政権に対して国家安全保障の問題で強制力のある意見を述べる機関と位置づけられ、事実上、軍部が政治に直接介入することを許す憲法上の機関となった。国家安全保障会議は、国内の宗教的、民族的、イデオロギー的問題が体制の安全を脅かすと判断した場合には、一般に内政問題とみなされるものについても、強い影響力を発揮することになるのである。

こうして軍部は「民主主義の後見人」であるとの言説とイメージを創りだし、軍部の政治介入を正当化していった。さらには、軍部が民主主義の危機だと考える状況では政治に直接介入していくことになる。

例えば、トルコの1960年代から70年代は、左翼の労働運動や学生運動と、それへの対抗勢力としてトルコ民族主義やイスラム復興勢力がそれぞれ高揚し、大学構内や街中で抗争や衝突を繰り返すという不安定な時代であった。国会では、経済政策を巡って紛糾しては内閣が交替を繰り返しており、社会不安と政治的麻痺があからさまになっていた。そこで軍部は、1971年に、事態収拾のためには政権奪取もやむをえずとの書簡を政府に突きつけ、内閣総辞職と軍の後押しを受けた超党派内閣の承認を要求し、国会にそれを受け入れさせた。しかし、1970年代には各種イデオロギー運動はますます高まり、新選挙制度があだとなって、国会は小党分立に陥り、またもや政権交代が繰り返されていた。国民生活は年率100%を超えるハイパー・インフレで疲弊し、抗争の激化による社会不安も極大化する中、1980年9月に再び軍部が政権奪取を宣言した。以後、約3年の間、軍部による国家安全保障評議会が政治を行った。

この軍事政権もまた、民主主義が機能できるように、その阻害要因を取り除くことを公言して行われた。前回にも増して徹底的なパージが行われ、旧政党は全て非合法化されて幹部は懲役刑に処せられた上で参政権を剥奪された。また、1982年に新憲法が制定され、1983年には総選挙も実施されたが、軍事政権のチェックを通った政党と政治家のみが参加できる制限的な選挙となった。

さらに、1982年憲法でも、上院は廃止されたものの、軍部の政治介入を可能にする国家安全保障会議が再び設置され、1980年代を通じて軍部の政治的影響力が公然と発揮されることになった。まず、軍事政権内閣が大統領府評議会に改編され、以後6年にわたって、体制原理に関わると考える法律を審査する権限を与えられた。また、大統領には国家安全保障評議会議長が就任しており、7年の任期を約束された。さらに、1987年まで新憲法は国民投票にかけられなかった。1987年には1980年クーデターにより公職追放された政治家たちの公職復帰が許され、1987年の国政選挙を以て1980年クーデターの制度的遺産がある程度精算されたが、その後も何度かの条項改廃を経ながらも、1982年憲法がトルコの体制の枠組みを規定している。

しかし、その後も軍の政治介入は続いた。1997年に軍部がイニシアティブをとった政権交代劇が起きた。そもそも1995年選挙の結果、親イスラムの福祉党が国会で第一党となったが、軍幹部が大統領に対して第二党の中道右派政党に首班指名をするよう圧力を与え、成功したとされている。しかし、その時の国会第二党と第三党の連立が上手く機能しなかった上に、金銭スキャンダルも発覚し、1996年7月には福祉党を首班とする連立を認めないわけには行かない状況になった。しかし、福祉党連立政権はイスラム系諸国との外交に積極的になりすぎたことが軍を刺激し、1997年2月の国家安全保障会議で軍側からイスラム復興による体制の危機を宣告されるに至った。この会議がきっかけとなって、連立政権が崩壊した上、軍部はメディアや司法関係者、大学当局に対してイスラム復興対策を講じるように要請し、福祉党非合法化を始めとする復興勢力弾圧が実行されたのである。

世俗主義国家エスタブリッシュメントと、国是に批判的な党是を有する政党との対立はその後も続いてきた。しかし、2010年の憲法改正は世俗主義国家エスタブリッシュメントの権力基盤を揺るがすものとなった。軍部批判のタブーを覆しかねない条項改正として、1980年軍事政権メンバーを起訴することを禁じた条項が削除され、軍政期の拷問やパージ等の責任を司法的に問うことが可能となった。その他、軍内人事を決定する高等軍事会議の決定についても司法的救済の道が開かれ、思想・信条などを理由として軍から懲戒解雇された人々に文民法廷でその正当性を問う権利が認められた。また、司法人事組織の高等判事・検事会議の委員選出方法も変更され、下級判事の直接投票による選出枠が上級判事による選出枠を上回るなど、司法人事のあり方にも大きな変更が加えられた。

このようにこの20年間でかなりの民主化改革が進むとともに、従来の世俗主義国家エスタブリッシュメントと政党・議会との力関係にも本質的な変化が生じ始めている。それはアイデンティティや思想・信条の多様性を尊重する、成熟した民主主義へと展開していくと期待された。しかし、世俗主義とトルコ民族主義という二つの建国以来の国是の下で積み重ねられた抑圧は、それを是正しようとする局面になって、別の新たな抑圧に道を開いた。世俗主義の克服を目指した福祉党の流れをくむ公正と発展党は、一旦、権力を確立すると、批判を許さず、公正で清潔な政治から遠ざかり、強権化に傾くようになった。それは、「選挙」や「政治体制」の項目で詳述するように、国内で旧来エリートとは異なる文化資本を有する新興エリートが急速に富と権力を拡大したことによる権力バランスの反転が引き起こす摩擦や、シリア内戦を中心とした地域国際社会の政治変動とトルコのクルド問題が一体化してトルコ政治を揺るがすようになったという、国内外の大きな構造変動と関わっている。しかも、その構造変動は、アメリカが中東介入に及び腰になるのに対して、ロシアがシリア内戦へ関与を通じて中東でのプレゼンスを高めるというグローバル大国間の力関係の変化に敏感に反応しながら展開している。21世紀のトルコの政治変動は、国際的な政治変動を反映する鏡と言えるのかもしれない。

(2) EU加盟プロセスと民主化改革

1987年に選挙プロセスが大幅に民主化されたものの、民主化課題は山積していた。しかし、トルコが1987年にEU正式加盟を申請したことが契機となり、今日に至るまでEUの民主化基準を物差しとして民主化改革が進められた。

前項との関係で重要な改革は、軍部の政治関与を排除するものである。国家安全保障会議は文民政府代表の多数が確保され、同事務局長も文官出身者を任命するよう法改正された。また、高等教育やマスメディアを統制する委員会において軍代表常任委員ポストが廃止された。イスラム主義やクルド民族主義など国是と相容れない主義主張を掲げる人たちをも扱ってきた国家治安裁判所にも軍籍判事が常駐していたが、まず完全文民化された上で、最終的には裁判所自体が廃止された。2006年のEUによる進捗報告書は、軍幹部が政治的影響力を行使しようとして公式・非公式に政治的発言を行うことも重大な問題としているが、制度的には大幅に文民化が進んだといえる。

また、言論・思想の自由についても、特にマイノリティ言語での公的コミュニケーションが大幅に自由化された。1990年代冒頭に、クルド語での出版や音楽活動が解禁され、2000年以降には、マイノリティ言語での放送が始まり、2009年1月には国営放送にクルド語専門チャンネルが開設された。また、マイノリティ言語での命名や選挙活動も可能となった。

政治参加の自由化という面では、1995年の法改正によって、大学の学生や教員が政党の党員になる権利や、上級公務員が労組を結成する権利が認められた。政党側にも、青年組織や女性組織、海外動員組織を設立することが認められるとともに、2003年の法改正では、政党を非合法化するまでに、当該政党への警告発令など、いくつかの手続き的段階が設定され、政党側にも対応の余地が与えられることになった。

こうした改革の進展が認められ、トルコは2005年10月にEU加盟の最終段階である正式加盟交渉を開始した。つまり、制度的にはかなりEUの民主化基準に近づいてきていると認められたのである。

しかし、それにもかかわらずトルコの加盟交渉の道のりは厳しいものとなった。一つはトルコが対立してきたキプロス共和国が2004年にEUに加盟したことで、同国がトルコの加盟を承認しない限り、加盟が無理となったことである。また、EU側も東欧・バルカン諸国の加盟を矢継ぎ早に実施したことによる拡大疲れがあった。それは新規加盟の中進国に対する財政負担という面だけではなく、文化的アイデンティティの面で「ヨーロッパ」かどうかが近代以降、常に論争の的になってきたムスリム多数派国家のトルコを受け入れることへの抵抗という面も強かった。2005年に正式加盟交渉を開始する時点で、財政プランの面で少なくとも以後10年はトルコの加盟はあり得ない、ということが明示されており、その後も、欧州内のムスリム移民差別感情が盛り上がるたびに、EU・トルコ関係も軋んだ。ムスリム・アイデンティティを全面に押し出すエルドアン政権が強権化する過程と、シリア難民受け入れをめぐってEU世論が大きく揺れた時期、フランスなど欧州内大国の中心都市部で「イスラム国」の自爆攻撃が多発した時期が重なったために、こうした摩擦は、なおさらに厳しいものとなった。

2018年の大統領制移行によってトルコではエルドアンの強権化は制度化され、後戻りのできない地点に差し掛かっていると欧米では見られているため、もはやトルコのEU加盟はあり得ない、という雰囲気がEU世論では支配的にみえる。しかし、エルドアン新体制が発足してすぐにトランプ米大統領がトルコやイラン、中国など、今後の国際政治構造変動において鍵を握る国に制裁を発動し、それが欧州経済をも揺るがしかねない事態になっている。トルコも新体制の下で、多様な政治改革を行っていく一環として、EU基準での改革をEUとも協力しながら進めていく意向を示すなど、柔軟かつ多元主義的外交政策を志向することを示唆している。トルコ外交の基軸を作ってきた米国との同盟関係が揺らぐ一方で、シリア内戦をめぐってはロシアに翻弄され続けたトルコがロシアの覇権下に組み込まれてしまうような外交的選択をするとは考えられず、その際にはEUとの関係が必ずバランサーとして重要になってくるだろう。EUとの関係は、内政における民主化やその他の高度成長社会に向けた取り組み目標としてだけでなく、今後は変動する国際政治バランスのなかで巧みにかじ取りをしていくうえで、トルコにとってできるだけいい関係を築いておくべきアクターと位置付けられていくと思われる。

参考文献

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2019年1月18日

トルコ/選挙

(1) 選挙制度

選挙権

トルコでは、1934年に女性の国政参政権(地方参政権は1930年)が認められて以降、男女ともに1人1票の秘密投票権が付与されている。現在は18歳以上の男女が選挙権を持つ。ただし、兵役履行中の者、士官学校の学生、服役囚には選挙権は認められていない。また、禁治産者や、公務を禁じられている者は有権者とは認められていない。憲法により投票は国民の義務とされ、投票不履行者に罰金を科すことが定められているが、厳格に適用されてはいない。

投票は有権者台帳に記載された情報に基づいて行使される。有権者台帳は、かつては4年に1度、担当調査官が戸別訪問を行い、有権者の氏名、両親の名、生年月日、出生地、現住所を中心としたデータを収集し、各有権者に選挙人識別番号を交付して作成されていた。しかし最近では、内務省が管轄する住民登録データに基づき、高等選挙会議(Yüksek Seçim Kurulu)が、上述のような理由による選挙権の剥奪や再付与を選挙ごとに同定して選挙権保有者リストを作成・公表し、それを高等選挙会議の事務所やホームページなどで個々人が確認し、必要に応じて訂正する手順となっている。

トルコは欧州への移民を始めトルコ国籍を維持する在外居住者を多く抱えるため、従来、陸路や空路でのトルコ入国地点税関所在地に投票所を設置することで対応してきた。しかし、2012年の選挙法改正により、在外居住者が事前登録によって居住地至近の在外公館で投票することも可能となった。

大統領選挙

大統領は当初は国会議員の間接投票により、7年任期で再選不可だったものが、大統領公選制導入を決定した2007年の法改正で5年、最大2期までと変更されたが、大統領制移行にかかわる2017年の憲法改正により、5年任期で原則2期までとなった。また、大統領の被選挙権は40歳以上の高等教育修了者のうち議員被選挙権資格を有するトルコ国民であることが条件とされた。立候補には、従来は国会議員20名以上の推薦、もしくは直近の総選挙で各政党の得票率の合計が10%を超える政党の共同推薦を得ることが必要だったが、大統領制移行とともに、二つ目の条件が5%に引き下げられ、さらには10万人以上の有権者の署名を集めて立候補する道も開かれた。有効投票の単純多数(過半数)を獲得した候補が大統領に選出されるが、候補者がすべて50%以下の得票率の場合、最初の投票日から数えて2度目の日曜日に、初回得票率上位2名の候補者に対して第2回投票を行い、相対多数を得た候補者が選出される。もしも第2回投票において候補者辞退などで選挙の候補者が一人となった場合には、単純多数の得票が当選の条件となる。この投票で唯一の候補者が単純多数を獲得できない場合には、選挙が全体として仕切り直され、最後の投票結果の公式発表から45日を経過したのちの最初の日曜日に第1回投票が行われる。任期中に大統領職が空位になった場合には、残りの任期に応じて対応が変わる。次に述べるように新体制下では大統領選挙と国会議員選挙は同日実施が原則であることに鑑み、国会議員にとって任期満了までに1年以内の期間しかない場合は、その状況が発生した日から60日以内に両選挙が同時に実施される。もしも任期満了までに1年と1日以上の期間が残されている場合には、大統領選が補欠選挙として単独で実施される。その場合、補欠選挙で選出された大統領の任期は、本来の大統領の任期までとなり、その任期終了にあわせて国会議員選挙と同時に大統領も改選となる。補欠選挙で選ばれた大統領の任期は、大統領の3選禁止規定における算出根拠とはされない(補欠選挙による任期終了後にまだ2期、大統領を務めることが可能である)。

議院内閣制の時代には解散総選挙を発動する権利は国会が有する他、大統領も一定の条件下で行使できた。「政治体制」の項目で説明するとおり、大統領制への移行に伴い、大統領選の同日実施を条件として大統領に国会解散権は付与された。この決断は大統領の一存に委ねられる。対して国会も、議員定数3/5以上の賛成を得れば、国会の早期解散総選挙との同日選による大統領選挙実施を決定できる。このようにして、たとえば刑法犯罪以外の政治責任を任期中に大統領に問う道が開かれた。任期5年で原則3選禁止の大統領は自身の決断による早期選挙を実施した場合には、期数制限を超えて出馬できないが、2期目に国会の決定による早期選挙を強いられた場合には3期目への出馬が可能となる。戦争により選挙実施が困難だと国会が決定した場合には、選挙を1年間(その後も状況に応じて)延期できる。

国会議員選挙

1982年憲法下では国会は一院制で、議員の任期は2007年の法改正により5年から4年になったものの大統領制移行とともに再び5年に変更された。議員の被選挙権は18歳以上の小学校卒業以上の学歴を有するトルコ国民で、過去に特定の犯罪による有罪判決を受けた者等以外に認められている。

国会定数は大統領制移行にともない従来の550議席から600議席となった。選挙方式は従来どおりの大選挙区拘束名簿式の比例代表制(ドント方式)により議席配分が行われる。議席数は、原則、各県が1つの選挙区とされ、各県に最低1議席が保証された上で、当該選挙区の有権者数に比例して分配される。ただし、議席定数が19から35までの県は2つの、36以上の県は3つの選挙区に分割される。海外選挙区は存在しないため、在外の投票箱は現地で厳封されたままトルコに持ち込まれて開票され、政党別に海外票全体として集計された後、各党の国内得票総数に照らした選挙区別得票率に応じて海外票が配分され、各選挙区の各党総得票数に上乗せされる。各選挙区の選出議員は海外得票数配分後の各政党得票総数に応じて決定される。

1970年代の国会が小党分立で混乱したことを踏まえ、同様の事態を避けるために、1987年総選挙の際に議席獲得のための最低得票率が定められた。普通選挙においては得票率の全国平均が、補欠選挙においては選挙実施地域全体での得票率の平均が、それぞれ有効投票数の10%を越えない政党は議席を獲得できない。10%の全国平均最低得票率は大統領制移行後も維持されている。ただし、2018年大統領選でのエルドアンの過半数獲得と、同日実施の国会議員選挙における野党の民族主義行動党(MHP)の10%の得票が、ともに危ぶまれたことから、両者は国会議員選挙について「選挙協力法」(正式には「選挙の基本規定および有権者登録に関する法ならびにいくつかの法に関する改正」、2018年3月13日可決、法律第7102号)を成立させることで、そのリスクを回避しようとした。この法改正によれば、所定期間内に選挙協力協定書を高等選挙会議に提出することで、当該協定を結んだ政党の得票数を合算して全国平均最低得票率10%を超えるかどうかが判断されることになる。他方で、当該協定に参加する各党は党別候補者リストを提出し、党別得票数に応じて名簿上位からの議席配分をすることができる。本来、この法にはその他の小政党への配慮という意図は全くなかったが(そうであれば同最低得票率を引き下げるか撤廃すればよいのだが)、結果的には、野党側も選挙協力グループを結成できれば10%という足かせを克服できることになった。ただし、その場合も党単独での得票率がドント方式による議席配分の最低レベルに達しなければ、議席獲得には至らない。

議席に空席が生じた場合には、任期期間中に1度のみ、普通選挙から30ヶ月を過ぎた後に補欠選挙が実施される。ただし、空席が定数の5%を超えた場合には国会の決定により3ヶ月以内に補欠選挙が実施される。補欠選挙は次期普通選挙予定時期まで1年未満の場合には実施されない。

(2) 議院内閣制時代の選挙結果

1990年代の選挙概観

トルコ国民の投票行動は、1950年代以来、左右の政党支持が約2~3割対7~8割の割合で推移してきた。選挙の勝敗を左右してきたのは、国民の最大の関心事である経済状況に加え、政治スキャンダルや連立政権を混乱なく維持運営する能力の差であった。例えば、1995年選挙は、清廉さと社会的公正を追求するイメージで支持基盤を固めてきた社会民主人民主義党(SHP)の汚職が地方自治体で発覚した後であり、支持者からの信頼を失った上に、祖国党(ANAP)と正道党(DYP)という中道右派政党がそれぞれ政権を担当したにもかかわらず、高インフレと所得格差を是正できず、左右の主要政党に選択肢がない中で行われた。この選挙で僅差で第一党となったのは、それまで政権を担当した経験がないという点で有権者には試されていない選択肢であり、他方で地方行政では実績を上げ始めていた福祉党だった。

その福祉党(RP)が率いる連立政権は、イスラム色の強い外交や内政的パフォーマンスを展開したとの理由で、軍部のイニシアティブにより崩壊に導かれ、党自体も非合法化された。経済安定を望んで政治的不安定化を嫌う浮動票は福祉党を離れ、その代わりに1999年選挙で票を伸ばしたのは、左右の両立場からトルコ民族主義的主張を強調する民主左派党(DSP)と民族主義行動党(MÇP)だった。1990年代後半以降、国軍と左派クルド民族主義ゲリラのクルディスタン労働者党(PKK)との間で衝突が激化し、国軍に徴兵された青年たちにも多数の犠牲者と被害がでていたが、1999年選挙の直前になって、PKK党首のオジャランが逮捕されたことが、国民のなかにトルコ民族主義的高揚感を高めていた。トルコ系スンナ派ムスリムの優越を主張する極右民族主義の民族主義行動党が10%台後半の票を得たのはこれが初めてで、当時の世論のあり様を象徴している。 

2002年国政選挙

2002年選挙は、任期満了より1年半の前倒しで行われた。当時の連立政権を構成していた祖国党(ANAP)の複数の閣僚について2000年頃から、過去の経済政策の中で不当な利益を得たり収賄があったのではないかとの疑惑が国政を揺るがし続けていた上、そうした政治状況が金融市場に悪影響を及ぼし、経済危機の不安が常にささやかれていた。そして2001年2月には、連立内閣のエジェヴィト首相(民主左派党、DSP)とセゼル大統領(当時)が国家安全保障会議の冒頭で口論となり、首相が会議を放棄したことが株価の大暴落を引き起こし、ついに経済危機へと発展した。口論の原因は、大統領が議題に予定されていないにもかかわらず、政権の財政政策や汚職疑惑などについて首相を厳しく批判したためだといわれている。加えて70代後半のエジェヴィト首相は、2002年の春頃から入退院を繰り返し、健康不安説がメディアで公然と論じられるようになっていたにもかかわらず、首相ポストに固執し続けたため、連立相手の政党だけでなく、党内からも退陣要求が出始め、結局、解散総選挙の決定が下された。

2002年選挙では、それまでの連立政権を形成していたDSP、民族主義行動党(MHP)、ANAPがいずれも大幅に票を減らした。その代わりに票を伸ばしたのは、DSPの左派票を奪った共和人民党(CHP)と、右派票を幅広く獲得した新生の公正と発展党(AKP)である。

AKPは、1998年に非合法化された親イスラム系の福祉党、それを引き継いだものの2001年にやはり非合法化された美徳党(FP)の所属議員が結成した政党である。党首のエルドアンは、福祉党(RP)時代にイスタンブル大都市市長としてイスタンブルの都市開発と環境・基盤整備で実績を残し、国民的な人気を誇った。任期途中で世俗主義原理に反する詩を朗読したとの理由で逮捕され、ますます国民的人気を高めた。その後、エルドアンはRPからFPまで党の権力中枢を掌握していた古参幹部と袂を分かち、若手幹部とAKPを立ち上げ、若さと指導力に溢れるリーダーを待望する国民の期待を高めた。また、古参幹部が別に新党の至福党(SP)を結成したのに対し、エルドアンらAKP幹部がRPの政治路線を自己批判し、国民を包摂する中道路線の上に、民主化と経済安定を最優先させることを明示したことにより、AKPへの好感が増し、その大躍進を後押しした。

 AKP政権は国会の過半数を確保した安定政権を樹立し、積年の課題であったインフレも一桁まで低下させることに成功し、経済の上向き基調を維持した。また、外交的にも、前政権までの基本的な立場である欧米との協調路線を維持しながらも、イラク戦争では世論の反発を重視してアメリカ軍への協力を一部断り、EU加盟プロセスでも民主化改革をさらに進めた。その一方で、完全加盟に対する欧州諸国からの保留・妨害的態度には毅然と振る舞った。こうした協調と自律のバランスのとれた方針によってAKP政権はこの後、長期的な単独政権維持を可能にするだけの支持を維持していったのである。

2007年国政選挙

公正と発展党(AKP)は2007年秋に予定されていた任期満了総選挙によって二期目の単独安定政権を目指していたが、2007年5月の大統領選が混乱し、2007年7月22日に解散総選挙が実施された。

当時の憲法条文によれば第2回目までの投票で議員総数の2/3にあたる367票を獲得した候補が、それがかなわなかった場合には、第4回目までの投票で単純過半数の276票の獲得をした者が、それだけの票を得た時点で大統領に選出されるとの規定だった。つまり、国会で過半数の議席を有する政党があれば、最終的にはその政党が支持する候補は選出可能なはずであった。当時の議会でAKPは367議席には届いていないものの過半数は維持しており、第3回投票で単純過半数をもって同党の候補者が難なく選出される見込みだった。候補者には、当時、欧米諸国政府や国内の中道層で幅広く信頼を勝ち得ているギュル外相(当時)が擁立された。しかし、法案や政府人事への拒否権を有する大統領を与党勢力が獲得することは、政府と議会に対する統制メカニズムを失うことになると、軍部や当時のセゼル大統領、野党第一党の共和人民党(CHP)ら世俗主義勢力が恐れ、与党批判のキャンペーンを始めた。軍部や大統領が与党を批判する声明を発表し、世俗主義系市民団体が大都市を中心に全国各地で毎週末のようにデモを組織した。

このような状況において、野党のCHPは、大統領選出のための議会定足数も367であると主張して初回の投票をボイコットした。その上で、同党と世俗主義派で自身も憲法裁判所長官出身のセゼル大統領はそれぞれ、憲法裁判所に対して第1回投票の定足数不足による無効の認定を訴えた。そして憲法裁判所もこの訴えを認めたのである。第1回投票が成立しない限り、もはや新大統領選出は不可能なことから、 この国会での大統領選出は状況的に不可能と判断した与党が、それ以上の混乱をさけるために解散総選挙を決断した。  

それまでの政権としての実績からAKPの圧勝は間違いないと見込まれていたため、中道の左右諸政党は左派と右派という枠組みで合併もしくは選挙協力を模索した。右派ではともにかつて政権を担ったこともある祖国党(ANAP)と正道党(DYP)が合併を、左派では野党第一党のCHPと民主左派党(DSP)が選挙協力を目指した。後者は成立したものの、前者は一旦、トルコの保守政党の原点である民主党(DP)と同じ名前の下に合併することに合意したにもかかわらず、候補者リスト作成をめぐって対立し、合併に失敗しただけでなく、ANAPが選挙に候補を擁立することさえできなかった。こうして両党は選挙以前に国民の信頼を失い、中道政党としての基盤を盤石にしようともくろむAKPに対し、伝統的中道政党の没落を決定づけた選挙となった。

左派は 前回並みの得票を確保することはできたが、全国平均最低得票率を超えた勢力が増加したあおりで、議席は大きく減らすことになった。

国会第3党として新しく議席を確保したのは、極右トルコ民族主義の民族主義行動党(MHP)である。同党の勢力バロメーターは左派クルド民族主義ゲリラのクルディスタン労働者党(PKK)の活発度である。国軍とPKKの交戦が激しさを増していた1990年代を通じて10%に迫る勢いを維持していたが、1999年の選挙直前にPKK党首が逮捕されたことを受けて国民のトルコ民族主義感情が高まり、MHPは得票を一気に伸ばした。その後、2003年のイラク戦争後にイラク北部のクルド自治区(クルディスタン地域政府)の安定と自律性が強まると、そこを拠点としたPKKのトルコ国軍への攻撃やトルコ主要都市での爆弾爆破事件が2004年頃から活発化し、トルコ国内での反クルド的トルコ民族主義・国家主義の世論が再び高揚してきた。こうした世論を背景として、MHPは再び票を伸ばした。

一方のクルド民族主義系政党はといえば、単独で議席獲得の条件である全国平均最低得票率を満たすことがなかなか難しく、民主社会党(DTP)は候補者は無所属で立候補するという方法をとった。無所属候補は各選挙区(県)において10%以上の得票率を獲得すれば、最低得票率を満たすことができるため、クルド系住民が大多数を占める東部・南東部地域での当選が確実視されるからである。党としては30議席以上を見込んでいたとの報道も見られたが、結局は20議席を獲得した。

全体としてみれば、選挙はAKPの勝利に終わった。それは、同党が選挙区トップを逃したのは14選挙区のみという圧勝だった。この結果は、世俗主義体制勢力との間に強い緊張をもたらすものであり、実際、新しい国会でギュル候補が再度、大統領選に立候補した際には、混乱が予想された。しかし、AKPは、一層の経済成長やEU加盟実現など多くの重要な政策課題に取り組むために安定した国会運営を行うとして、国民と野党に対して協力を求めた。また、そのためにも国内の多様な考えに配慮した政治を行うと宣言した。野党側も前回大統領選で政治的混乱を招いたことが国民の不興をかったことを踏まえ、国会において政策論で闘うとの立場をとった。こうした状況下で、ギュル候補が大統領に当選し、AKP系勢力が政府、議会の多数、大統領を独占することになった。ギュル大統領は、政治的緊張を和らげるため、政府とは独立した立場ですべての政党、あらゆる国民に対して中立的な大統領となることを宣言した。

2011年国政選挙 

2011年6月12日の任期満了に伴う国政選挙は、2002年から単独政権を率いてきた公正と発展党(AKP)の勝利が確実視されていたため、焦点は野党を含めた議席バランスとなった。AKP政権はそれまでの2期の間に一人あたりGDPを米ドル・ベースで約3倍にし、主要先進国が経済危機・不安に陥る中で年率7~9%の驚異的成長率を維持することに成功した。また、国際政治の舞台でも、中東地域の諸問題について仲介外交で存在感を見せ、国民の自信を高めた。そのため、選挙関連の世論調査では選挙直前半年は同党が安定して40%後半~50%前後の支持率を得ていた。AKPは、政権与党として選挙の度に得票率を伸ばすという、前例のない選挙結果をたたき出し、単独政権3期目に突入した。

議席バランスが注目を集めたのは、新国会での最大の課題と目されている新憲法の起草・採択にそれが重要な意味を持つためである。新憲法の要請は、AKP政権2期目以降、トルコの政治議題として断続的に浮上した。AKPは2007年選挙に至る過程で、軍部や司法による同党の政権運営や政治活動を妨害する動きのなかで(「2007年国政選挙」の項を参照)、立法府の優位を確立する政治構造を実現するためにも新憲法制定を主要政治課題と公言するようになった。同党は世俗的プロフィールで知られる高名な憲法学者グループに依頼して具体的な草案を作成させた。しかし、同党の主たる関心は、政軍関係における文民統制の確立と憲法体制における世俗主義イデオロギーの緩和にあったため、より自由な政治社会を志向する憲法草案を提示したにもかかわらず、世俗主義やトルコ国民の統合が脅威にさらされるとの反対世論がメディアで多く取り上げられると、新憲法制定への機運は一旦、遠のいた。

2011年選挙にあたって新憲法制定が再度浮上した背景には、その後の政治状況の新展開がある。まず、AKP政権の転覆をねらった世俗主義的政治グループの計画に、軍部の現役幹部が参加していたとして逮捕される事件が起きた。しかも、その政権転覆計画は、1990年代以降の多くの未解決暗殺事件や、宗教や民族の違いを理由として過激グループが起こしてきたとされたテロ事件をも含む、トルコ政治史に長年、影を落としてきた大規模な謀略の一部にすぎないのなのではないかとして、さらなる捜査や新しい逮捕劇が続く大事件へと発展した。社会的騒乱を軍幹部が関与して引き起こしていたとの疑いが濃厚になるなかで、世俗派の世論においても軍部への信頼が大幅に低下していった。こうして、そもそも1980年からの軍政下で成立した現行憲法を根本から作り直すべきだとの社会的合意が初めて生まれたのである。

もう一つの重要な背景はクルド問題である。政権1期目から政府はクルドの文化的権利の拡大を中心に改革を進めてきたが、特に2008年以降、イラク北部のクルディスタン地域政府とトルコの関係を大きく好転させて以降、国内のクルド問題についても根本的な解決に向けた取り組みを進めていた。2010年にはその集大成として民主的イニシアティブと名付けた政策パッケージを公表し、クルド語での政治活動解禁やゲリラの武装解除と社会への再統合も含めた、包括的な解決のプランを示した。これはトルコ民族主義的な国民アイデンティティのみを承認する現行憲法に比べて、より多元的なアイデンティティへの移行を目指したものである。しかし、より具体的にどこまで多様なアイデンティティ間の平等を法的・制度的に認めていくかをめぐって国内世論に大きな対立があり、国土の西部や中央部を中心に強いトルコ民族主義の世論を敵に回して政権の支持基盤を掘り崩しかねない問題でもあった。このため、2011年総選挙が視野に入ってくると、一転、トルコ民族主義的な世論を動員するためのレトリックが強調されるようになり、大きな改革が2期目に実現することはなかった。

こうした背景において、野党勢力の中でも特に注目されたのはクルド系左派の平和と民主主義党(BDP)である。10%の全国平均得票率を下回れば議席を得られないため、票田が東部・南東部およびイスタンブルに集中している同党はリスクを避けるために、無所属での出馬を決定した。また、かつて対立してきたクルド系左派の政治勢力やイスラム系の著名ジャーナリストとの選挙協力によって、議席を大きく伸ばした。(選挙後の報道によれば、29名の無所属議員がBDPに移籍した。他のクルド系小政党議員や政治犯としての有罪歴のある議員らはBDP党員とはならないが、統一会派を結成した。)BDP伸張の背景には、イラク北部でクルディスタン地域政府が成立して以降、クルド系の人々の間でクルド・アイデンティティと文化の権利の要求が具体性を増しながら定着してきたことがある(要求内容については「政党」の該当項目を参照)。AKP政権下で進んだ制度改革や国民意識の変化の結果、10年前にはタブーだったクルド問題を公に議論することができるようになり、クルド系マスメディアの自由化(国営テレビ・チャンネル、地方局の開設を含む)も進んだため、AKPのクルド系支持層の同党支持を強固にしたが、同時に、民主的政治プロセスにおいてクルドの権利を実現していこうとする機運も高まり、それがBDPへの支持を拡大したと考えられる。

その一方で、2期目後半のAKP政権下でBDP系の政治家や活動家が数千人規模で逮捕・勾留され始めたことや、BDPと支持基盤を共有する左派クルド民族主義ゲリラ組織のクルディスタン労働者党(PKK)が停戦を宣言しているにもかかわらず国軍による掃討作戦が続いていること、選挙時にもBDP系候補者の立候補が「テロ組織擁護の言動」を理由として逮捕・勾留中であることを理由に無効とされたことなどへの反発も、同党の支持拡大につながった。この側面は特に、PKK側から犠牲者が多く出ており、そのためにデモや治安当局との衝突が発生しているハッカリやディヤルバクル、ヴァンでの議席増として表れた。

近年の選挙では多様な候補の擁立が多くの政党によって宣伝材料として用いられるようになってきたが、今回はキリスト教系マイノリティが複数政党で擁立され、最終的にBDPの後押しでマルディン県からトルコ政治史上初のシリア・カトリック教徒の議員が誕生した。

BDPは多くの議員を輩出しながら、新国会での宣誓を数ヶ月間、拒否した。その理由は、投票日直前に「テロ組織擁護の言動」を理由として有罪判決を受けた候補者について当選後に当選取り消し処分(代わりにAKP候補が繰り上げ当選)となったことと、同じ理由で前述のように未決勾留中の当選者の釈放を司法当局が認めなかったためである。しかし、同党は一貫して新国会での憲法制定過程で役割を担うと主張し続け、10月の国会再開時には宣誓して議会活動を開始した。

この選挙で野党第1党になったのはCHPである。同党は党首交代を期に旧来の強硬なトルコ民族主義・世俗主義擁護からソフト路線に転じ、中道左派の世俗票を糾合して、1980年代以降の国政選挙で世俗派中道左派政党の得票率としては最多の結果を収めた。また、全国平均得票率が10%を超えない可能性が取りざたされたMHPも議席を獲得したことで、主要なイデオロギー・グループの代表を擁する国会が誕生した。しかも、与党が単独では新憲法を採択できない議席数に収まり、新憲法を審議するに相応しい議席バランスになった。しかし、国会での新憲法検討小委員会では、院内政党がそれぞれ同数の委員を出し合い、全会一致で改正条項案を決定するという運営方法をとったため、結局、もっとも紛糾する争点の国民の定義に関して折り合えず、2015年の選挙後の国会へと課題は持ち越されることとなった。

2015年国政選挙(6月実施)

2015年総選挙はOSCE 選挙監視報告書 (p.7)によれば20の政党と165人の無所属候補がたたかった。しかし、実質的には解散前に議会に議席を有していた4政党、すなわち公正と発展党(AKP)、共和人民党(CHP)、民族主義行動党(MHP)、諸人民の民主党(HDP)のたたかいとなった。

選挙結果は、AKPが41%の得票率を得て、2位のCHP(25%)を大きく引き離して4期連続の第1党となった。しかし、前回の2011年総選挙より9%も得票率を下げて初の過半数割れに陥った。後述のように、憲法上、党派的中立を要請されている大統領自らが、事実上の与党のための選挙活動を行うという異常な選挙戦を経ての結果だっただけに、同党にとって余計にショッキングな結果となった。

選挙に先立って、AKPが147頁、CHPが200頁もの膨大な公約文書を発表したように、主要政党が包括的な公約を掲げて臨んだが、選挙戦では各党が以下のような争点に的を絞って有権者に訴えた。総選挙で有権者の関心は通常、経済にもっとも集中するが、AKPは首相が全県を回った選挙演説では、これまでの政権の発展・開発政策実績を列挙し、今後も同様の政策を実行して各地に発展の恩恵をもたらすことを約束するにとどまり、トルコ経済がより先進国に近づくための経済的飛躍を期待する向きに対して肩透かしとなった。

それに対し、CHPはより具体的に、退職者への年金年額2か月分上乗せの約束と最低賃金の1500TL(現行約1000TL)への引き上げの他、「中心国家トルコ」プロジェクトと題して、グローバルな流通・金融センターをめざし、インフラ整備やテクノパーク建設、関連企業誘致の計画を打ち出した。CHPは従来のトルコ民族主義による国民統合と世俗主義の擁護というイデオロギー政党というイメージを脱するために、今選挙ではイデオロギー問題には基本的には触れず、分配重視の社会民主政策と経済発展の両立という、経済社会政策中心の選挙戦を戦い、AKPやAKP支持の選挙戦を事実上行う大統領と対決する姿勢をあえて示さないことで、政権担当能力を有権者にアピールすることを選んだ。CHPのプロジェクトはすでにAKP政権下で目指されている方向性と異なるものではなかったが、年金年額や最低賃金の引上げの公約は国民生活に直結するため関心を集めた。

AKPはそれに対して財源を問いただして実行困難を指摘するとともに、AKP政権がすでに実施してきた寡婦年金や障碍者・高齢者介護を行う世帯への扶助策などを持ち出して、社会保障・福祉政策を競った。選挙の1週間前に実施されたKONDA社 の世論調査 (pp.65-66)では、AKPは人口の1/3を占める主婦の4割近くの支持を集め(CHP26%)、人口の13%を占める退職者についてはAKPとCHPはそれぞれ37%、34%と両者が競る形となった。

今回は党擁立の候補者選定をめぐって新しい試みがあった。AKPはいつものように党本部、特に党首(首相)が中心に候補者リストを作成した。公的には党籍を離れたエルドアン大統領の対応が注目されたが、エルドアン大統領の意向を忖度したうえで、基本的には首相が決定したとされる。しかし、その過程でエルドアン大統領の介入が公然となる出来事もあった。クルド問題や中東諸国との関係で辣腕をふるってきたとされるフィダン国家情報局長は、ダヴトオール首相と事前に相談した上で、立候補を予定する公職従事者の公職辞任期限である2月初旬の段階で、公職を辞任していた。それにもかかわらず、彼の情報局長継続に固執する大統領が辞職を撤回させたのである。さらに、AKPでは国政や地方の首長や議員の親族は候補者にしないとされ、ほぼそれは守られたが、エルドアン大統領の女婿が当選確実なリスト順位で立候補を認められ、当選した。

また、AKPは党内規で4選禁止の規定のために自動的に立候補できなくなる70名に加え、さらに130名程度が擁立されず、現職の2/3を入れ替える候補者リストとなった。エルドアン大統領が以前から主張してきた若者世代の議席比率拡大という方針もあって、20代を含む新顔がリストの大半を占めたために、イスラム系メディアで長年、政治コラムを書いてきた人物をしてさえ、知らない候補者が多いと言わしめる内容となった。この状況は世代交代や党関連組織で党のために頑張ってきた中年以下の活動家に報いる意味もあったかもしれないが、他方で支持層からは自分たちの地域でよく知られている人物でないために、支持の熱意が減退するという逆効果もあったとみられている。

そうした中で、目を引いたのはスカーフ着用女性候補である。ある報道では99人の女性候補のうち42名がスカーフ着用だったという。そのうちには、スカーフ問題の被害者女性たちを組織化したり弁護士としての能力を生かして国際社会にアピールする活動をしてきたファトマ・ベンリ(Fatma Benli)や、1999年の総選挙で至福党から出馬して当選したものの、スカーフ着用をしたままでの議員宣誓を許されずに怒号の中を国会から追い出され、果てには国籍まで奪われたメルヴェ・カヴァクチュ(Merve Kavakçı)の妹、ラヴザ(Ravza)も含まれていた。当選したラヴザ・カヴァクチュは、姉が宣誓を認められなかったその日に着用していたスカーフをまとって登院し、宣誓した。今回は、スカーフをめぐる目立った論争は起きなかった。

CHPは今回初めて党員による立候補者選定選挙を行った。55%の投票率により、世俗主義的トルコ民族主義者(Ulusalcı)がかなり駆逐され、宗教マイノリティのアレヴィが多くの支持を集めたという 。CHPはこれを基礎に党幹部による任命候補を加えて候補者リストを作成し、支持層から好評を得た。マイノリティからの支持拡大を目指すHDPとの間でアレヴィ票をめぐる奪い合いが予想されたが、後述のように、アレヴィの多数はCHPを支持したとみられている。

HDPはこれ以前にも女性比率をできるだけ高める方針で候補者を擁立し、トルコ議会における女性議員比率向上の立役者となってきたが、この選挙では当選者の女性比率が4割になるように、候補者リストの順位づけを工夫し、実際に4割を達成した(後述)。また、多様な宗教・民族アイデンティティの候補者を、やはりその多様性が同党選出議員に反映されるような順位でリストを作成し、イスラム的アイデンティティで知られるトルコ系候補やクルド系候補、スカーフ着用候補、宗教マイノリティ候補、社会主義者候補などが実際に当選した。PKK党首オジャランの姪が擁立されて当選した。オジャランという苗字はクルド系メディア以外では長年、「テロリストの首領」「赤子殺し」という形容詞を伴ってきただけに、国民の代表としてその苗字を持つ議員が国会に送られ、さしたる世論や他会派議員の反発が起きなかったことは、PKKとの和平について国民や主要政党が冷静かつ前向きに受け止めている証だと思われた。

ただし、これをもって各党が従来のアイデンティティ政治的なイデオロギー的硬直性を脱して現実的な経済社会政策をめぐる競争に完全にシフトし、従来の各政党支持層もそれに応じて流動化可能なレベルにまで脱イデオロギー化したと結論付けるのは早計である。選挙の直前の6月2~3日にかけて行われた別の世論調査(A&G社、 6月11日Hürriyet報道 )によれば、3つまでの重複回答を可とする質問で、各党投票予定者に投票理由を聞いたところ、AKPを除く3党ではいずれもイデオロギーが第1位となった。それに対してAKPではイデオロギーは第3位の理由であり、第1位は政策実績であった。

従来の選挙とは異なり、今回、経済政策以上の焦点となったのは、左派クルド系諸政党の後継政党であるHDPが議席を獲得できるのかという問題(選挙後に調査を行なったIPSOS社のデータでは、トルコの最重要課題としてクルド問題が29%の第1位となり、経済の26%や汚職17%、民主主義12%を超えている)と、大統領制への移行を訴えて大統領自らが実質的な選挙活動を行ったことに対する有権者の反応だった。

まず、HDPについては、10%の全国平均得票率を得なければ政党は議席を獲得できないとの規定によって、従来、支持層が多い選挙区(県)で無所属の個人候補として戦うことを余儀なくされてきたが、今回、政党として選挙を戦うと決めたために、果たして議席を得ることができるのかが注目された。HDPは設立時よりクルド民族主義政党ではなく、トルコの文化的多様性の平等化と社会主義的な分配政策および自治組織化を主張して、クルド系以外の有権者にアピールし、トルコ全土で支持を拡大させることを目指してきた。2014年8月の大統領選においてデミルタシュ党首の個人的人気もあり、10%目前の得票を得たことを弾みとして、2015年総選挙では政党として選挙戦を戦うことを決定した。世論調査では2015年4月までは10%を超えたものがほぼないという状況だったが、結果的には13%もの得票を得た。

HDPはクルドの権利ではなくトルコの民主化とAKP政権の権威主義化を主題として展開し、Youtubeでランダムに視聴した同党選挙集会ではオジャランPKK党首の顔写真が印刷された旗やポスターはなく、トルコ国旗が掲げられた集会もあった。また、世俗派のドーアン・メディア・グループのような有力メディアがテレビや新聞でHDPを後押しするコンテンツ作りをした。こうした選挙戦を通じてHDPがどれほどクルド系以外に支持を拡大できたのかが注目されたが、選挙直前・直後の世論調査によれば、基本的には全国各地のクルド票を固めたことが10%越えの主要因であると言えそうである。選挙直前に行われたA&G社調査(6月9日Hürriyet 報道 )では、HDP投票者の82%がクルド系、15%がトルコ系の有権者であり、トルコ系投票者はHDPが獲得した13%の2ポイント分に相当するという。同様に、KONDA社調査(p.67)ではHDP投票者の84%がクルド系である。そして、2011年選挙の投票行動との比較に関する質問では、A&G社調査では、HDP獲得13%のうち約4ポイントを前回AKP投票者から、前回CHP投票者からは2ポイント程度を獲得し、前回投票しなかった人の1ポイント分と合わせて、前回の同系列政党であるBDP系無所属候補者の得票率と推計される6%弱を倍増させることになった。(KONDA、p.48)はAKPから3.5ポイント程度、2.5ポイント程度が前回無投票者および今回初めて投票権を得た若者であるとみている。投票終了時刻直後に調査を行ったIPSOS社もほぼ同様の結果(6月10日Hürriyet 報道 )を示している。

HDPの急伸は、左派クルド民族主義ゲリラのPKKとの和平問題を今後も前進させるためには国会にPKK系の合法政党が存在し続けなければならないとの危機感、つまり各勢力の民主的代表の対話を通じて和平へのコンセンサスをつくる機運を逃してはならないとの思いが背景にあった。また、2014年夏以降にシリア・トルコ国境のシリア側にあるクルド系住民多数派の町、コバニが「イスラム国」に包囲され、陥落寸前となった時に、トルコ政府から思うような精神的・物質的支援を得られなかったことへの怒りやショックも、クルド系の票固めやAKPのクルド系支持者の一部のHDPへの鞍替えにつながったと考えられる。

さらに、エルドアン大統領や政権内でPKKとの和平協議に携わってきた幹部が選挙期間中、HDPを批判のターゲットとし、HDPが10%を超えない方がいいとの発言さえする状況に幻滅した支持者もクルド系を中心に多かったと考えられる。AKPにとっては、HDPが10%を超えなければ、より多くの議席が配分されることになり、過半数以上の獲得、さらには憲法改正を有利に進められる議席数にできるだけ近づけることが可能になるという計算もあったと考えられる。しかし、AKPがHDPを徹底的に攻撃し続けたことで、選挙後に両党が連立を組んでクルド和平を一気に進めるという機運が失われただけでなく、HDP支持者のAKPへの不信を、コバニに関するショックに加えてさらに高めたと思われる。

コバニ以前に実施された、クルド人口の多い地域での世論調査に関する報道では、AKPとHDPのクルド系支持層は、クルド語での母語教育が公立校で実施されるべきだと考える点や、クルド問題の解決への支持で多くが一致していた。両者は75%程度がこれまでもその系列の政党にしか投票していないという固定支持層であるが、HDPにはかつての中道右派政党への支持層も加わっており、そもそもクルド系人口が宗教的に敬虔な人々が多いということもあり、HDPがより親イスラム的な政党になることを求めるHDP支持層は6割を超える。つまり、宗教性という点でもAKPとHDP支持層はそう遠いわけではない。では両者の違いはといえば、HDPの支持層では本人や近親者が差別、投獄や虐待での死傷、国軍のPKK掃討政策による強制移住(民家放火含む)など、クルド問題で直接的な被害を国家の側から受けた人が7割を超えるのに対し、AKP支持層では2割超にとどまっている。また、HDP支持層の方がAKP支持層に比べてより強い分権を志向する傾向が強かった(Radikal紙の2015年5月25 ,26日27 にかけての連載紹介記事) 。

トルコの選挙には多少の暴力事件はつきものであるが、選挙戦終盤に、アダナ県、メルスィン県、エルズルム県、ディヤルバクル県でHDPに対する爆弾死傷事件や深刻な殺傷事件が起きたことは異常な事態であり、HDPのクルド票をさらに積み増ししたとされる(選挙期間中のそうした事件に関する手短な報告についてはOSCE選挙監視団報告書(p.8)を参照)。上記各県は、クルド系人口が多い地域やその周辺のトルコ民族主義も同時に伸張傾向にある地域に位置している。

これらの理由が重なった結果、AKPは東部地域で著しく得票率を低下させ、2011年比で20%減となった。HDPは逆に同地域で25%近くの増加となった(KONDA, pp.16, 19)。

では、トルコのもう一つの主要なマイノリティであるアレヴィの投票動向をみると、A&G社結果(前出6月9日記事)ではアレヴィの75%がCHPに投票し、HDPには15%しか投票していない。KONDAも同様の傾向を示す(pp.68-69)。アレヴィは従来、スンナ派保守を脅威視するために世俗主義の主流派であるCHPの支持基盤となってきたとされてきたが、今回の選挙でもこの趨勢は変わっていないといえる。またA&G社結果では、宗派別投票動向については、ハネフィ、シャーフィー、アレヴィのいずれにも属さない「その他」の有権者は19%がAKPへ、41%がCHPへ、11%はMHP(民族主義行動党)へ、17% がHDPへ投票している。HDPは党組織のあらゆるレベルでジェンダーを含む多様なアイデンティティのメンバーを配置しようと努め、アレヴィや非ムスリムの候補者を擁立するなど、イメージや言説だけでなく、実質的なレベルでクルド政党脱却を図ってきた。しかし、この結果を見る限り、HDPはこの時点では多様なマイノリティの代表といえる状況にはなかったことがわかる。

クルド問題が今選挙最大の焦点となり、AKPがHDPを強く非難し続けたことは、AKPにクルド票減少というマイナス効果をもたらした。AKPがそこまでしなければMHPに支持層の一部が奪われてしまうと危惧するほどに、トルコ西部や中部のトルコ民族主義的感情が高まっていたのである。しかし結果的には、AKPはMHPへの支持流出を食い止めることはできなかった。A&G社調査(6月9日記事)によれば、2011年にAKPに投票した人の8.5%がHDPへ、6%がMHPへ投票した。KONDA社調査(pp.50-52)はMHPに7.5%(HDPに8.5%)としており、前出IPSOS社調査もMHPへの今回投票者の28%が前回はAKP投票者であるとする。つまりAKPは、HDPだけでなくMHPにもかなりの票を奪われたのである。

しかも、AKPは得票率という割合の減少だけでなく、票数という実質面でも支持減少を経験した。今回の選挙では、初めて投票権を獲得した若者や在外投票の導入によって、2011年選挙に比べて有権者総数が約400万人増加したが、AKPは前回比で300万票の純減となり、その分を約半々の割合でMHPとHDPに譲った。(AKPはこれに加え、国内すべての選挙区で得票数の純減という衝撃的な結果となった。)

クルド票の離反が、AKP政権のPKKとの和平への姿勢やクルド感情への配慮のなさに不満をもったためであるのに対し、MHPへの流出票はむしろ、PKKとの和平を、クルドに対する権利付与・妥協の連続ととらえ、それにもかかわらずPKKが武装放棄せずにますます要求を強めていると、トルコ民族主義的支持層が和平プロセスに対して反発を強めていることによる。AKPはもともと中西部のトルコ民族主義的世論をエルドアンら党幹部への信頼や経済発展実績などその他の評価要因によって誘導し、クルド和平を進めてきたが、この選挙でエルドアンも党幹部もHDPへの攻撃を全面に押し出すことによって支持層のトルコ民族主義的感情をむしろ煽ったといえる。選挙後に、トルコ民族主義的支持層とクルド系支持層とのバランスをどのように調整し、再び和平重視の方向性を打ち出せるのか、あるいは支持層をその方向性へと導けるのか、大きな課題を自ら作ってしまった。

MHPはこの選挙戦で最も注目度が低く、党としてもさして話題となることさえなかったにもかかわらず、前回選挙から3%以上の支持拡大となった。選挙結果判明後の世論調査でもAKP支持層は連立相手としてMHPを望む声が圧倒的であり(たとえばPolitic 社調査 では7割。対してHDPとの連立希望は4%)、AKP支持層においてHDPあるいはクルド和平への反発が相当、広範囲にわたっていることがうかがえる。A&G社結果によればMHPは前回AKP投票者から4%を得たほか、前回CHP投票者からも8%を得ている。CHP支持者からの投票獲得は、CHPが強硬な世俗主義的トルコ民族主義からリベラルな社会民主政党への転換に本腰を入れたことと、前述のように今回初めて党員投票による候補者選定システムを採用したことによって、世俗主義的トルコ民族主義の支持者がMHPに流出したと考えられる。

次に、大統領が自ら遊説活動を行って訴えた大統領制への移行問題である。AKPの選挙公約(p.11)では新憲法と関連付けて示されているが、ダヴトオール首相は選挙演説でほとんど触れることなく、その他の主要幹部も選挙の中心争点ではないとの見解を表明していた。それに対して、大統領を執政の中心とする新憲法によって自らが再び、さらに強化された政治権力を行使したいと望むエルドアンが、国家関連行事や過去12年間の政権を支持した有権者へのお礼行脚と称して、様々な機会をとらえて各地で実質的な政権への投票呼びかけ集会を行った。

また、エルドアンはHDPを公然と激しく非難した。HDPの10%越えが阻止できればAKPの過半数越えは確実と考えられ、同時にMHPへのトルコ民族主義的支持層の流出を食い止めるためであるにしても、選挙期間中におきたHDPへの暴力事件について発言はほとんどなく、ディヤルバクルで上述のHDP党首による選挙集会において爆弾殺傷事件が起きた日にはさすがに事件を批判し、HDPへの弔意を表明したものの、翌日にやはりクルド地域で行った演説でもHDP攻撃を緩めることはなかった。大統領の中立性をあからさまに侵害するこの言動に野党やその支持層は猛反発した。ある新聞記事によれば、5月1日以降にエルドアンは37県で遊説したが、そのうち15県でCHPとHDPが勝利した。また、IPSOS社調査ではAKPへの投票者の3割(他党では9割)がエルドアンの選挙戦中の言動を問題視し、同7割がエルドアンは野党への態度を見直すべきだと答えている。また同調査でAKP投票者の35%が大統領制はもはや政治議題ではないと答えたことからも察せられるように、こうしたエルドアンの遊説態度は大統領制の必要性について有権者やAKP支持者の理解を深めたとはいえない。

そのほか、2014年の大統領選においても選挙戦報道の中立性が問題となったが、今回も野党側の報道が民法で一部拡大したとはいえ、国営放送を中心として圧倒的に与党側に有利な報道状況となった。前出のOSCEの選挙監視団報告書(pp.9-10)によると、国営放送のメインチャンネルであるTRT1はニュースの46%の時間を与党に好意的な報道に使った。世俗派で平日夕方以降に報道や討論番組が充実しているチャンネル、CNN Türkは与党に18%、CHPに30%、HDPに27%、MHPに12%と、世俗派野党により多くの時間をかけた。ただし、このほかに、実質的に与党の選挙活動となった大統領の各地での演説がニュースの主要項目に入ってくることを考えれば、与党関連の報道は一層、突出したと考えられる。

また、今回から実質的に在外者投票が始まった。290万人という有権者数は有権者総数の5%に相当し、今回のように1%を競う事態では大きな意味を持つ。これまで欧州移民を中心とした在外者は選挙期間中にトルコに帰国した際に税関で投票する以外に投票権行使は不可能だったが、居住国の大使館や領事館で投票できることになった。実は、2014年大統領選挙でも在外者投票は導入されていたが、各地の大使館・領事館に事前に面会時間を予約していかなければ投票できないなど、煩雑な手続きが災いして、投票は低調だった。しかし、今回は期間中に自由に投票できるように制度が改善されたこと、少しの票数であっても大きな違いをもたらしうることが投票意識を高め、在外投票で32.5%、税関投票も含めると在外者の37%が投票した。在外投票では特に1970年代以来の動員組織網を持つAKPが50%、クルド系・左翼活動家のほか欧州の社会民主勢力に自己同定する移民の支持を集めたと思われるHDPが21%と国内以上の得票率を得た。

他方で、被選挙権の面では、少なくともHDPから欧州移民が2名、国会入りした。一人はドイツを中心にアレヴィ系移民の組織化でリーダーシップをとってきたトゥルグト・オケル(Turgut Öker)、もう一人はヤジード派移民家庭に生まれ、ドイツ語とクルド語、英語を話すがトルコ語をほとんど話せないフェラクナス・ウジャ(Felaknas Uca)前欧州議会議員である。ウジャはトルコ語での宣誓のために事前に練習を積んだとされ、宣誓の模様は注目の的となった。

トルコ国内出身者も含め、宗教・民族的マイノリティの議員は、少なくともMHP以外の3党から誕生した。アルメニア系は3党から、ロマ系は3党が候補を擁立したがCHPのみから、シリア・カトリックがHDPから、ヤズィード派系がHDPから当選した。アレヴィについては、そのアイデンティティが報道されていない候補・当選者も相当数いることを考えると、MHPやAKPからもいた可能性がある(ダヴトオール首相はAKPリストにアレヴィが複数名いると発言した)が、報道からわかる限りではCHPから多数、HDPからも複数が当選している。クルド系は言うまでもなくHDPを中心に多数、当選している。当選はしなかったが、HDPがLGBTの候補者を擁立したことも話題となった。

今回の選挙は女性議員数の増加も顕著であった。各党は積極的に女性候補を擁立し、その数は HDPが268人、CHPが103人、AKPが99人、MHPが40人だった。当選者 はAKPが41人(16%)、HDPが32人(40%)、CHPが21人(16%)、MHPが4人(5%)の合計98人(17.8%)となり、トルコ史上最高の人数となった。

 2015年早期総選挙(11月実施)

2015年11年早期総選挙は同年6月の任期満了に伴う総選挙後の政権樹立失敗を経て、実施が決定された。6月総選挙の結果、2002年以来、議会単独過半数と単独政権を維持してきた公正と発展党(AKP)は初めての過半数割れに陥った(「2015年国政選挙(6月実施)」の項参照)。形式的には一応、AKPは共和人民党(CHP)と民族主行動党(MHP)と連立協議のための接触を行ったものの、具体的な連立協議が行われた様子のないままに法定期間をぎりぎりまで消費した。AKPとCHPの党首はいずれも連立に前向きだったといわれるが、連立によって政権への統制力が弱まることを嫌ったエルドアン大統領が連立合意をしないようにダヴトオール党首に裏で圧力をかけたと考えられる。ダヴトオールが法的手続きに基づいて、形式上、大統領に連立工作失敗の報告をすると、大統領は国会第2位の議席を得たCHPに政権樹立を試みるよう求めるという、通常の議院内閣制で想定される手順を踏むことなく、総選挙の決断を下した。

6月選挙では2つの点が注目された。一つは、エルドアン大統領が望む大統領制移行を実現するために、国会での法案可決による憲法改正に必要な議席数、つまり定数の3分の2(376議席)、ないしは国民投票を経ての改正が可能となる議席定数の5分の3(330議席)のどちらかをAKPが獲得できるかどうかだった。もう一つは、クルド系左派の諸人民の民主党(HDP)が10%の全国平均得票率という議席獲得最低要件を満たして、議席を獲得できるのかどうかだった。この2点は関連しており、HDPが議席を獲得できなければ、その分、AKPの獲得議席が増加すると予想されために、AKPは執拗にHDPを批判する選挙キャンペーンを展開した。これに対してHDPも、大統領制反対やエルドアン批判を主要な争点として、激しい選挙戦を繰り広げた。

そのつけは選挙後に顕著になった。AKPは連立政権あるいは野党の閣外協力を得ての少数与党政権のいずれかを模索せざるを得なかったが、選挙戦時の激しい相互非難のために、AKPとHDPは互いにそのような協力に切り替える雰囲気になかった。AKPは結党以来、クルド問題の改善や紛争状態の終結に明確に尽力してきた。また、この選挙でHDPの議席獲得がこれほどの焦点となった理由は、クルド問題の最終解決に向けた合意形成の場が、ついに戦闘ではなくトルコ系やクルド系の政治家、政党からなる国会に移るのかどうかが、HDPの躍進度合いにかかっているとの見方があった。AKPとHDPの議席合計は330を上回るため、両党が連立すれば国民投票による憲法改正に手が届く計算になる。しかし、上述のような激しい選挙戦を経て、そのような機運はしぼんでいた。

残る院内政党のうち、最大野党のCHPとAKPは長く世俗主義を巡って対立してきた経緯のために、特にAKP支持者側が連立に消極的だったほか、AKP関連の汚職疑惑の解明を求めてくると予想された。極右トルコ民族主義のMHPは、クルドの諸権利拡大やPKK壊滅によらない和平に反対していたために、連立政権が成立したとしても、クルド問題解決の見通しや、クルド問題も含めた包括的民主化をめざす新憲法制定という面で、多大な懸念が予想された。結局、こうした問題点とともに前述のエルドアンの思惑もあり、積極的な連立工作がなされないまま、事実上の選挙やり直しの決定が大統領によって下されたのである。

11月早期総選挙の最大争点は、①AKPが単独過半数を獲得して単独政権を樹立できるのか、あるいは再び連立政権以外の選択肢がない院内政党議席比となるのか、②クルド問題にどう対処すべきなのか、の2点であった。特にクルド問題については、7月後半にPKKとの停戦状況が崩れ、PKKの国軍および警察、国立医療機関関係者らに対する襲撃と、それに対する国軍の大規模な徹底掃討作戦が繰り返されるようになり、6月選挙とは全く異なる状況にあった。国軍兵士らの殉死のニュースが毎日のようにトップニュースとなり、国土の西側では反クルド、反HDP、トルコ民族主義の感情が急激に高まった。9月上旬に大量の殉死者がでると、国土の中西部を中心に、反クルド民族主義デモから暴徒化した群衆による襲撃や放火がHDPの本部・支部やクルド系民間人の商店に対して公然と行われ、東部・南東部地域を拠点にする長距離バスへの投石事件も多発した。HDP支持者のみならずクルド系の多くにとって、トルコ民族主義的な世論のみならず、こうした犯罪行為への断固たる非難と取締り、事前警戒の姿勢を見せない政府への不信感を高める結果となった。

他方で、HDPとCHPという左翼・世俗派支持層が行っていた、国内クルド問題やシリア内戦との関わりでクルド勢力とトルコの協力・融和を求める市民活動が2度にわたって「イスラム国」シンパによる自爆攻撃の標的となり、多数の死者を出した。PKKの武力攻撃再開の口実とされた最初の事件は、シリアとの国境をはさんでコバニと向かい合うスルチュ市で7月20日に発生し、30人以上の犠牲者を出した。10月10日には首都アンカラで紛争終結を求めるデモ参加者が標的となり、100名を超す死者が出た。特にアンカラでの事件は、政府と野党が分断と対立を超えて緊急時の団結と平和を目指す協調政治のきっかけにする絶好の機会だったにもかかわらず、特にAKPとHDPとの間で激しい非難合戦が起きた。

加えて、8月以降、東部・南東部地域のHDP系の地方自治体の中から、オジャランの政治理論でもある「民主的自治」(彼ら自身の言葉では「自己統治」。詳しくは澤江(2012)を参照。)を宣言して、現行法制下での地方自治の権限範囲を逸脱し、「自己防衛」の名のもとに警察・準軍的防衛行為をも自らが行使しようとする地域が現れた。そうした地区では、PKKの指導を受けた若者グループが、軍や警察が地区に立ち入ることを阻止しようと、バリケードを設置し、塹壕を掘り、地雷を埋め、見通しを遮るために毛布等で地区入り口の道路に目隠しを設置し、機関銃や携帯型ロケット弾で武装した。政府はそうした地区で何日にもわたる外出禁止令、つまり事実上の兵糧攻めを行うとともに武力行使を行った。その結果、双方から多数の犠牲者が出るとともに、民間人も外出禁止の影響で病死者や攻撃によるケガの治療に地区から出ることができず、死傷者が出た。

こうした文脈においてAKPは再びHDPを激しく非難しつつ、PKKへの断固たる対応を主張し、また実施した。CHPはAKPに対してこの状況を乗り越えるために協力を惜しまないと訴えたほか、6月選挙同様に社会の分断をあおることを自重して、経済政策中心の選挙戦を展開し、責任政党の印象付け戦略を維持した。

今回の選挙でまたもや存在感を発揮できなかったのがMHPである。トルコ民族主義感情が高揚している時期にもかかわらず、また、6月選挙後にAKP支持層にとっては最も連立が望まれる政党だと世論調査やメディアで指摘されたにもかかわらず、積極的に連立に持ち込む姿勢を見せず、トルコ民族主義のお株もAKPに奪われた状況を打開できなかった。MHPは支持を大幅に減らした。

選挙でのAKPの大躍進は選挙前の世評や世論調査を裏切るものだった。多くは6月選挙同様の結果を予想しており、AKP幹部さえもこれほどの大勝は予想外と発言するほどだった。6月選挙で全選挙区で得票率・数ともに減少させたのに対し、今回はほぼ全選挙区で増加させた。そもそも前回選挙での支持大幅減の理由としては、①クルド系支持層を中心にHDPの10%越えのためのHDPへの投票、②クルド系も含めてクルド問題解決から遠ざかるような幹部の発言や権威主義化への批判表明としての棄権、の二点が指摘できる。それに加えて、選挙疲れで草の根動員組織活動が滞りがちであったり、4選禁止の党規のために、有名政治家に替えて無名の新人候補が多数の候補者リストになったために、党組織の士気低下や広く党支持層一般での選挙への関心の低下を招いたことも無視できない要因とされた。そのため、AKPは党規を改正して4選禁止規定を廃止するとともに、前回立候補できなかった元議員や地元で名の知られた人物を、前回僅差で議席を失った選挙区を中心に重点的に配置した。(CNN Türkの2015年11月 3日放送の討論番組“Her Şey”によればAKPは6月選挙から候補者総数の半数近い235人を変えてきたという。)

11月選挙でのAKPの得票大幅増加の要因としては、IPSOS社実施の選挙直後の世論調査 や選挙区別得票数分析結果(Çirek Ağcı , Cuma Çiçek ) から、以下の指摘が可能である。第1に、AKP支持層の前回棄権者や、前回、HDPの10%越えの手助けとしてHDPに流れたAKP支持層の一部がAKPに投票したとみられる。また、そもそも新規増加分有権者数以上に6月選挙よりも投票者数が増加(投票率も国内、海外居住者の双方で上昇)したことを考慮すれば、とにかくAKP単独安定政権の成立を望む声が高まったと考えられる。つまり、不安定な可能性のある連立政権ではなく、内政安定と治安維持優先、それに依拠した経済安定・発展政策を実現してきたAKPが引き続き単独政権下でその再現に励む人たちが、AKPに投票したのである。MHPと、親イスラム系少数政党のSP(至福党)からもこの文脈で多くの票がAKPに流れた。

他方で、AKP支持層だったクルド系有権者については、6月選挙でHDPに流れた票のほんの一部分しかAKPには戻っておらず、多くはHDP支持か棄権を選んだとみられる。HDPが圧倒的な強さを誇る東部・南東部の地域では、投票率が減少したが、AKP支持が以前のレベルに回復したところはほとんどない。前述のように、AKPはこの間の情勢の変化を受けて、クルド政策を対話重視から武力制圧に完全に切り替えていた。武装対立再燃による犠牲の拡大は、HDP支持層を一層強固にHDPに繋ぎ止め、従来のクルド系AKP支持層のAKP回帰を逡巡させ、棄権に向かわせたと思われる。ただし、非PKK系クルド世論、とりわけ都市中間層や商工業関係者の間には、一般市民を巻き込み、地域の社会経済活動に打撃を与えることが分かっていながら、実力行使を伴う「自己統治」に踏み出したPKKやHDP系自治体への批判も多くある。AKP政権への反発は強く、それに対してHDPを支持することに迷いはなくとも、HDPとPKKの関係や武装活動を放棄できないPKKへの批判的なまなざしも高まっている。このことは、長期的な和平プロセスの展開を考える上で、忘れてはならない点であろう。

要約すれば、AKPは、前回は「灸をすえる」ために棄権した支持層に加え、安定政権を望む無党派層、MHPら右派政党からの票の取り込みを中心に得票を増やした。それに対して、HDPは他党への支持流出よりも、反発表明のための支持者の棄権によって支持率を下げた。つまり、クルド問題に関しては、分断を和らげつつ対話や非暴力路線中心での和平を強く後押しするような機運は見えず、むしろ6月選挙時に深まった、クルド系世論とトルコ系あるいは政府系支持層との分断は、この間の事態の悪化と相まって、改善の糸口を見いだせない状況にあった。

選挙前の数か月の間は、常に国軍とPKKの戦闘や「自己統治」を巡る紛争や、「イスラム国」による自爆攻撃とそれへの対策はどうあるべきかが世論の関心をほぼ独占していた。それに対して、数年来の争点である大統領も含めた政府の汚職問題や、それとも絡んだ政府による言論規制や警察・司法組織人事への介入問題は、主要争点にならなかった。後者は、かつて与党のパートナーであり、もはや完全な政敵となったイスラム系のギュレン・グループと与党との権力闘争とも関わっており(ギュレン派については「2014年大統領選挙」の項を参照)、ギュレン派の警察や司法関係者が盗聴や職権乱用などあらゆる手段を用いてエルドアン大統領やAKP政権の追い落としをしようとしているとの見方が世論を席巻していた。かといって、政権側の潔白を信じる向きも政権支持層でさえ少なかったが、エルドアンとAKPが権力喪失の危機に直面していると受け止めたAKP支持層は、6月選挙後の過半数割れによってその危機があわや実現しそうになるやいなや、断固としたAKP支持の態度を11月選挙で示したのである。政権はギュレン派の司法関係者や警察関係者のパージやギュレン派の資金源となっている系列企業や広告塔のメディアに対して締め付けを実施していた。選挙前にはその上に、系列メディアをケーブルテレビ網から締め出し、系列財閥に対して経営権剥奪と経営代理人指名を行った。財閥への経営代理人は傘下メディアの報道方針にさっそく介入し、それまでの政府批判方針を一転、親政権方針に転換した。これはギュレン派への断固たる締め付け策を選挙後も維持し続ける意志を誇示する、政府による示威行為であった。さらに、選挙直前には、アンカラ自爆攻撃を大なった「イスラム国」シンパやPKK幹部と並んで、ギュレンは最高ランクの指名手配犯とされ、懸賞金が掛けられた。野党勢力は主要メディアも含めて政府を強く批判したが、上述のように危機感に駆られて結束を強めた支持基盤を中心にして、AKPは49.5%という高得票率を収めたのである。

他党がクルド問題などのアイデンティティに関わる争点をめぐって支持を糾合しようとしたのに対し、CHPは前回同様、世俗主義を含め、アイデンティティ問題への言及を封印し、具体的な社会経済政策の他、AKPの権威主義化やシリア政策を批判した。AKP政権下での経済発展や社会政策の充実、その期間に育った若者世代に対して、旧来のケマリズムや世俗主義を掲げるイデオロギー政治を訴えてもアピールできないことは2013年のゲズィ・デモ以来、最大の課題だった。2014年の大統領選以来、党イメージや政策の刷新に努め、脱イデオロギー的な責任政党路線を追求してきた。国内状況が混乱する中で社会分断により支持層固めに走るAKPやエルドアン大統領に対し、政策重視かつ社会分断や相互非難・中傷の波に飲み込まれない姿勢は、一部のAKP派論客にも評価されるほどで、この混乱状況においてCHPがどこまで支持を伸ばせるのかも注目された。しかし、多くの事前世論調査で数%の支持増が予測されたにもかかわらず、結果的には横ばいであった。トルコ社会が過去の世俗主義をめぐる分断の歴史を簡単に忘却し、中道右派の浮動票がCHPを投票可能な対象とみることはそう簡単ではないことが再度、明らかになった。つまり、AKP政権期だけでなく、より長期的視点でトルコ共和国の政治史全体について、あらゆる政治社会勢力が批判的にとらえなおし、過去の反省や償い、未来に向けた建設的な姿勢を示すべき段階に入ったのである。CHPについていえば、政権担当可能な政党であるためには、クルド問題解決に関する明確な政策を打ち出す必要があるが、それは党史の総括に位置付けながら新しい党是を説得的に打ち出すことが不可欠であり、それは非常に困難なことでもあろう。

AKPは選挙戦を通じて、新憲法の必要性を説いた。大統領制は選挙期間中の論戦で主要テーマにはならず、今回は前回の反省にたってエルドアンはあからさまな選挙運動を控えた。しかし、AKPの選挙公約では前回以上にスペースを割いて、新憲法における大統領制移行を主張しており、選挙後に大統領制を新憲法制定と絡めて提案する流れがつくられた。ただし、前出IPSOS社の選挙後調査では、大統領制移行賛成が31%に対して議院内閣制支持が57%である他、エルドアン大統領は選挙後に全政党に対して中立であるべきだとの主張が82%に達していた。しかしこの後、「イスラム国」やPKKにおる自爆攻撃の多発や、2016年7月のクーデタ実行未遂事件をうけて、強権化の流れは加速していった。そしてエルドアンは国論を二分したまま大統領制移行を実現することになる。

OSCEの選挙監視報告書 によれば、選挙では16政党と無所属候補者21名が戦い、候補者の24%が女性だったが、女性当選者は6月選挙から15減の83名、全議席の15%となった(pp.2-3)。マイノリティ議員に関する報道はあまり見られなかったが、数名のアレヴィ活動家が議席を失ったことが話題となった。いずれもHDPの議席減に加え、各党が女性議員増加よりも得票に直結しそうな男性候補者擁立を優先させたためとみられる。また、メディアの選挙報道の不公正さは前回同様であり、国営放送のTRTはニュースの7割をAKPに好意的な報道に割いた(p.10)。民放局もAKPに関する報道の多さは同様の傾向であるが、内容については好意的な局と批判的な局に大きく分かれた。先述のように、ギュレン派のテレビ局がケーブル網から除外されたほか、クルド系のウェブサイトへのアクセス制限など、政府批判勢力への報道や言論が制限された。

PKKとの戦闘の再開や「イスラム国」の自爆攻撃の影響により、選挙活動は自粛気味となったほか、有権者の選挙疲れや、そもそも選挙をやり直す必要性についても説得的な理由の見当たらない状況のなかで、選挙戦は低調だった。特にHDPの関係者の主要各局への出演は6月選挙に比べて大幅に減った。これは局側の自主規制とともに、そうした不公平な選挙戦の条件に反発するHDP側のボイコットの結果である(この頃から、新聞テレビへの政府規制やメディアの自主規制に反発するジャーナリストらが、携帯電話のビデオ撮影機能を利用したコンテンツ作成とネット放映を始めており、その番組に出演したHDPのデミルタシュ共同党首の発言 による。)また、9月上旬の全国各地での党組織やクルド系民間人への物理的攻撃に象徴されるような反HDP的な雰囲気の中で、特にHDPの支持基盤が弱い地域では、選挙事務所を賃貸することが困難だったり、HDPの看板を掲げること自体が危険を伴うとの判断により、事務所を構えられず、大っぴらな選挙活動をできなかった地域もあった。

このように選挙活動のさまざまな側面で不公平さが顕著な選挙となったが、開票プロセスについては概ね信頼できる公正な選挙だったと言えそうである。今回は、野党勢力を中心とした市民選挙監視運動「票とその先」(Oy ve Ötesi)が立ち上げられ、投票所での開票作業以降への立ち合いが多くの投票所で実施された。事後報告書 によれば、全国各地で総勢6万人以上のボランティアが監視活動に参加して不正や間違いが起こらないように見張った。野党勢力によるこの活動は、AKPの圧倒的勝利という野党側には不本意かつ事前予想を大幅に裏切る選挙結果だったにも関わらず、不公平な選挙戦の後の開票作業自体はおおむね公正だったと認証する機能を果たした。

国政選挙結果

    選挙年 政党名(設立-解党年) 得票率%(議席数)
1987 1991 1995 1999 2002 2007 2011 2015.06 2015.11
祖国党・ANAP (83-09) 36.3 (292) 24.0 (115) 19.7 (132)*3 13.2 (86) 5.1 (0)        
正道党・DYP (83-07) 19.1 (59) 27.0 (178) 19.2 (135) 12.0 (85) 9.5 (0)        
/民主党・DP (07-)           5.4 (0) 0.7 (0)    
福祉党・RP (84-98) 7.2 (0) 16.9 (62)*1 21.3 (158)            
/美徳党・FP (97-01)       15.4 (111)          
/公正と発展党・AKP (01)         34.3 (363) 46.4 (341) 49.8 (327*8) 40.9 (258) 49.5 (317)
民族主義労働党・MÇP(89-93) 2.9 (0) *1              
/民族主義行動党・MHP (93-)     8.2 (0) 18.0 (129) 8.4 (0) 14.3 (70) 13.0 (53) 16.3 (80) 11.9 (40)
民主左派党・DSP (85-) 8.5 (0) 10.8 (7) 14.6 (76) 22.2 (136) 1.2 (0) *4 0.3 (0)    
社会民主人民主義党・SHP (85-95) 24.8 (99) 20.8*2 (88)              
社会民主人民党・SHP (02-)                
共和人民党・CHP (91-)     10.7 (49) 8.7 (0) 19.4 (178) 20.9*4 (112) 26.0 (135) 25.0 (132) 25.3 (134)
人民の労働党・HEP (90-93)                
/民主主義党・DEP (93-94)                  
/人民の民主主義党・HADEP (94-03)     4.2 (0) 4.7 (0) 6.2 (0)        
/民主人民党・DEHAP (97-05)                 
/民主社会党・DTP (05-09)                  
/平和と民主主義党・BDP (08-14)                
/諸人民の民主党・HDP (12-)               13.1 (80) 10.8 (59)
無所属 0.4(0) 0.1(0) 0.5(0) 0.9(3) 1.0(9) 5.2(26) 6.6(35*8) 1.1(0) 0.1(0)
議員数合計 (450) (450) (550) (550) (550) (549)*5 (550) (550) (550)
女性議員総計 (6) (8) (13) (23) (24) (50) (80) (98)   (83)
投票率 93.3 83.9 85.2 87.1 79.1 84.3 83.2 83.92 85.23
  1. 91年選挙で民族主義行動党は福祉党および改革民主党と選挙協力し19議席獲得。
  2. 91年選挙で人民の労働党は社会民主人民主義党と選挙協力し20議席を獲得。
  3. 95年選挙で祖国党は大統一党と選挙協力した。大統一党は7議席獲得。
  4. 07年選挙で共和人民党は民主左派党と選挙協力し、民主左派党は13議席獲得。
  5. 07年選挙で民族主義者行動党選出議員が選挙直後に交通事故で死亡したため、高等選挙会議は繰り上げ当選や補選を実施せず、欠員1の状態を公式選挙結果として発表した。
  6. 07年選挙で民主社会党は無所属候補を擁立し、20議席獲得。
  7. 祖国党は民主党に吸収合併。
  8. 2011年6月9日に最高裁で有罪判決が確定したことをうけて、本選挙で無所属からの当選者1名が当選取り消しとなったことにより、公正と発展党候補者が繰り上げ当選となったことを反映しての確定議席数。
  9. 各選挙結果は末尾参考文献の官報掲載データによる。
 2014年大統領選挙 
①選挙時の政治的状況 

2014年8月10日に実施されたトルコ共和国史上初の公選の大統領選は、2003年以来、一貫して首相としてトルコを率いてきたエルドアンが勝利した。過半数の得票率をかろうじて越え、決選投票を待つことなく勝利を決めた。

選挙は前年以来、政治的危機や外交的難題がつぎつぎと政府に降りかかる中で行われた。2013年春に政府と左派クルド民族主義ゲリラのPKKとの間で合意が成立し、5月からはいよいよゲリラの国外退去が始まった。このプロセスが完了すれば、ゲリラの社会統合やPKKの武装解除に向けて、さらなる前進がみられるだろうと期待された。しかしそれもつかの間、政府の主張によればシリア政権側の陰謀による、シリア国境の町での爆破テロで多数の死傷者が出た。また、5月末からはイスタンブル中心街の公園再開発問題を発端に、いわゆるゲズィ・デモが一月以上も続き、全国各地に飛び火して、多数の死傷者を出した(ゲズィ・デモについては朝日新聞ウェブ版上の連載記事「トルコのタクスィム・デモを読む(1)~(4)」 (朝日新聞記事データベース「聞蔵Ⅱビジュアル」にて検索) を参照)。また、12月には、エルドアンの息子や閣僚らに関する汚職疑惑が次々と持ち上がった。この汚職疑惑に対して、エルドアンは、ギュレン・グループによる陰謀であると主張した。同グループは、トルコで最も幅広い動員力を持ち、高級官僚や司法、警察でのシンパ浸透によってそうした領域でかなりの影響力を有すると噂されてきた。エルドアンは、警察や司法を中心に同グループのシンパに対するパージを開始した。

ギュレン・グループのリーダーである宗教家フェトフッラー・ギュレンは、1997年以降のイスラム派弾圧(2月28日キャンペーン)をきっかけに、アメリカに事実上、亡命していた。ギュレンと公正と発展党(AKP)につらなる親イスラム政党とは、軍部など世俗主義体制派との関係を、おもねったり妥協しながら活動の余地を確保・拡大していくのか(ギュレンの方針)、全面的に批判・対決していくのかという点で折り合わず、また、ギュレン派がよりトルコ民族主義的なのに対して、AKPの前身政党はよりウンマ的志向が強いといった違いもあると指摘されてきた。しかし、エルドアンのもと、AKPは選挙のたびに得票率を伸ばしながら不動の政権基盤を築き、EU加盟交渉過程も利用しながら、世俗主義体制の擁護者を自任する軍部の政治介入の法的根拠や心理的正当性を確実に切り崩していき、成熟した民主主義を求める左右の幅広い層の支持を取り付けていた。こうした政治的風向きの変化の中、ギュレン・グループもエルドアン政権の民主化改革を支援する姿勢を明らかにし、エルドアン政権下でシンパの政治家や官僚、司法関係者、大学教員などを各方面で要職につけることに成功したといわれる。

ただし、ギュレンとエルドアンは同志というよりは、それぞれに権力を争うライバルでありつつ、共通の敵を排除し、自らの勢力拡大に資するなら協力・援助しあうという関係をAKP政権期に築いただけだとみられる。すでに1990年代末以降にスカーフ問題が深刻化した時に、ギュレンはスカーフ着用禁止をめぐって世俗主義派の権力機関と対立したエルドアンを批判し、自派の女性たちにはスカーフ着用にこだわる必要はないと語り掛けており、エルドアンの属する「ムスリム国民の視座運動」(Milli Görüş Hareketi)との間に深い溝ができていた。また、ギュレンは、国際的な覇権国であるアメリカおよびアメリカの同盟国であるイスラエルに対してエルドアンが敵対を厭わないことも批判してきた。パレスチナ擁護をムスリムとしての国際的大義ととらえるエルドアンや彼の支持層は、こうしたギュレン派の態度に対して批判的だったが、両者の感情的対立は、ブルー・マルマラ号事件の際に、ギュレンがイスラエルではなく支援団体とトルコ政府を批判したことで決定的となった。同事件では、与党支持層の国際援助団体がガザに支援船を派遣した際にイスラエル国軍の急襲をうけ、死傷者が出ていた。また、クルド問題に関しても、両者それぞれに一般的にはクルド言語文化への規制を克服する方向の取り組みを進めていたにもかかわらず、PKK問題をめぐっては両者の決別以前には異なる考えを持っているとみられてきた。たとえば、真相は未解明であるが、2012年2月にPKKとの秘密交渉をエルドアンの肝いりで取り仕切る国家情報局長官が検察出頭命令を受けた事件については、それをきっかけにギュレン派司法関係者が国家背任罪で長官を有罪とし、その職務内容を与えたエルドアンの責任をも問おうとしていたとのうわさが政権関係者や支持層周辺でまことしやかに話されてきた。そして2013年秋にエルドアンが教育改革の一環として打ち出した学習塾制度の廃止によって、ギュレン側は大打撃を受けた。ギュレン・グループは全国チェーンの有名学習塾を大規模に展開しており、塾はグループの主要な財源となるとともに、メンバーやシンパの勤め先かつ、次世代動員、肯定的イメージの社会への浸透ツールともなっていたからである。これをきっかけにギュレン・グループは最終的な政権追い落としを決断し、汚職追及を始め、系列メディアでもエルドアン政権の権威主義化を糾弾するキャンペーンを張った。

汚職捜査の開始は、時期的には2014年3月末の統一地方選挙を3か月後に控えた時期であり、政権の動揺は大きかった。エルドアンはギュレン派との徹底対立姿勢を打ち出した。汚職捜査はギュレン派によるクーデタの試みであるとし、世俗主義派による政治介入をようやく克服したトルコはギュレン派の政治介入の試みに対しても断固としてそれを退け、民主主義を守らねばならないとの論陣をはり、警察や司法関係者の徹底的なギュレン派パージを正当化した。与党支持層には汚職があったと考える人々も少なくなかったが、ギュレン派に対する反感や疑念も広く浸透していたこともあり、エルドアンが、「民主的政治活動を通じた政策実現をめざす与党」vs.「民主的プロセスに乗らずに政治を思うままに動かそうとする陰謀勢力のギュレン派」という対立図式を強調すると、政府が本当に民主的かどうかはさておき、ギュレン派による政権転覆企図だとの見方は、幅広い受け皿を見出した。他方で、汚職捜査の妨害行為に他ならないこのパージは、2013年のゲズィ・デモ以来、世俗派を中心に強まったエルドアン憎悪に油を注ぐことになった。ギュレン派だけでなくゲズィ・デモ支持層からもソーシャル・メディアを中心にエルドアンやその家族を批判・中傷する発言が増加した。またこの間、汚職の証拠とされる電話の盗聴音声がネット上でリークされた。政府はそれまでも内外から批判を受けてきた報道メディアへの圧力に加え、ソーシャル・メディア規制にも乗り出した。一時はツイッターやフェイスブックへの接続が遮断される異常事態となった。

このような騒然とした政治社会状況で突入した3月の統一地方選では、地方選であるにもかかわらず、エルドアン政権信任投票の色彩を帯びた。批判勢力からのエルドアン攻撃を前に、エルドアンを守らねばならないとの与党キャンペーンが効果を発揮し、与党は基礎票固めをするとともに、一連の「エルドアンおろし」はクルド和平の妨害工作だと考えるクルド票や、ギュレン・グループのアメリカやイスラエルとの関係を疑う民族主義行動党支持層の一部からも支持を得て、与党は地方選挙の過去の実績に比較して最も高い得票率(43.4%)を獲得した。 エルドアンはその後もこの対立図式を強調し続けて大統領選挙に突入した。

②各候補の選挙活動と結果

大統領選に出馬したのは、与党からエルドアン、PKK系の左派クルド民族主義運動を支持基盤とする諸人民の民主党(HDP)党首デミルタシュ、世俗主義派の共和人民党(CHP)およびムスリム・アイデンティティをより強調する民族主義行動党(MHP)という二つのトルコ民族主義系の主要野党が共同で擁立したイフサンオールの3名だった。

イフサンオール擁立の発表は、驚きとともにもしやエルドアン支持基盤から支持獲得がありうるのではとの期待や懸念を各政治勢力に呼び起こした。イフサンオールは、イスラム世界での影響力拡大を狙っていたAKP政権が、イスラム協力機構(2011年までイスラーム諸国会議機構)の事務総長に就任させようと尽力した人物だった。イフサンオールは青年時代に宗教保守のトルコ民族主義系組織に属したことがあるとされ、右派に幅広く受け入れられる素地があった。そのため、AKP支持層を切り崩せる候補とみられたのである。特にゲズィ・デモ以降に顕在化した、エルドアンの強権的手法(警察の暴力的デモ取り締まりや、メディア規制など)に対する与党支持層内の批判層を取り込むことが期待された。また、彼はイスラム文明論の博士号を持ち、アラビア語やペルシャ語の他、英語や仏語にも堪能であることから、世俗派を含むインテリ層にアピールすると期待された。しかし、カイロ生まれで外国語生活が長い彼のトルコ語は、一般庶民が親しみを感じたり、エルドアンの持つトルコ語での演説力に太刀打ちできるレベルでなく、最後までシンパシーを呼び起こすことができなかったとされる。

また、選挙戦初期に彼が選挙スローガンとした「パン(ekmek)のためにエクメレッディン(Ekmeleddin)」という、彼の名前にかけたゴロ合わせのフレーズは不評をかった。トルコ語でekmekとは、パンという名詞のほかにも、植えるという動詞でもあり、緊張が高まるトルコの政治社会に敬意や一体感を植えるという意味も込められていた。しかし小麦畑をトルコの国土の形に切り取ったロゴマークは何よりもパンを想起させた。彼は政治家の経験がなく、個人的にもパンのための政治を想像させるような庶民性よりも国際的に活躍する知識人イメージで出馬したこと、さらには議員内閣制と併存する公選大統領の職務がパン(庶民の日常生活)とどう関係するのかも不明で、有権者に彼がどのような大統領を目指すのかを明確に示せなかったからである。結局、彼は最後まで、この点でなんらかのイメージを作ることができなかった。

あるトルコ日刊紙に発表された出口調査 によると、彼の宗教的アイデンティティ故に、CHP支持者には積極的に支持したい候補ではなく、現在はよりリベラルな政治主張を持つ故に、十分にトルコ民族主義的でないとして、MHPの支持者の支持も十分に取り付けることができなかった。また、イフサンオールへの投票者の37%は他の候補者に反対なので彼に投票したといい、36%は完全に支持するわけではないが、自分により近いと感じて、と答えており、消極的な支持の多さが目立った。同じ調査によれば、CHPの支持者は79%が投票に行ったものの、MHPの支持者は72%にとどまっている。MHP支持者の一部はエルドアンに投票したことが考えられるため、与党弱体化を共通目標とする両党にとって、各党の支持基盤を投票に駆り立てられる候補者という側面を犠牲にしてまでイフサンオールを擁立したことは戦略的失敗だったことが明らかとなった。

選挙で最低の得票率だったにもかかわらず、エルドアンにつぐ2人目の「勝者」との評が目立ったのが、デミルタシュである。彼は10%に迫る得票率で、彼の所属政党の系譜が過去に獲得したことのない支持を得た。10%が重要なのは、それが国政選挙で政党が国会で議席を得るために要求される全国平均最低得票率であり、彼が率いるHDPがこの勢いで党の支持を拡大できれば、2015年総選挙で、これまでの選挙のように無所属の個人としてではなく、政党として選挙戦を戦える見通しが立つという意味で、重要なメルクマールだからである。選挙資金としての寄付金総額に大差があり、政権政党、多数の自治体の力を使って精力的なメディア宣伝を繰り広げるエルドアンに対し、全国メディアでの露出が圧倒的に少なかったデミルタシュだが、ユーモアあふれる演説や、クルド・アイデンティティをあまり強調せずに、これまで抑圧されてきたあらゆる人々の権利を擁護し、クルド地域のみならずトルコ全土で支持層を持つ政党に脱皮しようとしていることを印象付けることに成功し、ほとんどの県で得票率を上昇させた。

デミルタシュが大統領選出というよりはトルコ系有権者のシンパシー増大と10%突破を目標とし、イフサンオールがなかなか有権者の関心を呼び起こせないなかで、選挙戦後半までにはエルドアンが決選投票に持ち越したとしても勝利することは確実視されるようになっていた。そこに、断食月やその後の祝祭日が重なったこともあって、選挙戦は低調だった。野党陣営は選挙の不公平さ(メディア露出の不公平さ、寄付金額の圧倒的差、選挙法に違反して投票日数日前にエルドアンが50%台後半の得票率で勝利との世論調査結果が発表されて、エルドアン反対派に選挙に行っても無駄だと思わせたとの批判、最後の2%の開票速報発表に異常に時間がかかっており、デミルタシュが10%を超えないように票集計操作が行われたとのデミルタシュ陣営の疑念)を選挙戦最中から選挙後まで取り上げ続けた。また、CHP支持層は伝統的に所得階層が高く、西欧的生活様式を好むため、8月には長期バカンスに出かけて、選挙のためにわざわざ自宅に帰らなかったことが影響しており、もしも彼らが投票に行っていれば、エルドアンの得票率はもっと下がったはずとの主張も多くなされた。しかし、先ほど紹介した出口調査によると、支持政党別投票率はHDPが87%と最も高く、次がCHP(79%)、AKP(73%)、MHP(72%)である(ちなみにこの調査を発表した日刊紙Radikalは世俗派リベラルであり、ゲズィ・デモ以来、もっとも激しくエルドアン批判を繰り広げる新聞の一つである)。夏の間、季節労働者として農産物の収穫のために居所をはなれて家族総出で移動する低所得者層にも投票に行けなかった人が多いと考えられるが、彼らはエルドアンかデミルタシュに投票した可能性も十分ある。

エルドアンは、過去12年の政権実績を選挙での訴えの基調としながら、その上でギュレン派への激しい非難によってイスラム系の票を固めるとともに、クルド和平はエルドアンのリーダーシップによってのみ可能だと考えるクルド系の票、エルドアンを追い落とそうとするギュレン派はアメリカやイスラエルと協力関係にあり、トルコの国益や名誉に背いていると考えるトルコ民族主義的国粋主義者からも票を得たと見られる。他方でイスラム系支持者のうち、エルドアンの強権手法に反発するとともにクルド系の権利向上による和平実現を支持する人々にはデミルタシュに投票する人もいた。その他、特にエルドアン勝利には女性票が影響したとの見方 もある。エルドアン政権の社会保障政策によって、女性のインフォーマル労働市場の中核をなす家事代行業従事者について、最低賃金保障や社会保障加入が雇用者に義務付けられた。また、自宅で障碍者や老齢家族、子供の世話をしなければならないために外に働きに出て所得を得ることができない女性に対し、国家が介護・保育職給与の名目で低額ではあるが手当を支払うとともに、そこから社会保険料を天引きすることで年金の権利を付与したり、夫と死別して生活に苦しい女性に寡婦年金を出す政策も実施され始めた。この政策の影響もあってか、この調査によれば、エルドアンへの投票者は男女比で女性が7ポイント近くも多かったという。

③2014年大統領選挙の意味

この選挙を通じて、トルコ政治が大きな転換点を通過しつつあることが明らかになった。第一に、ケマリズムの衰退である。CHPはイフサンオール擁立によって、親イスラム派に開かれなければ、支持拡大は難しいと判断するところまで追い詰められたということである。世俗主義とならんでケマリズムのもう一つの柱であるトルコ民族主義は根強いが、自身もクルド系のクルチダルオール党首のリーダーシップの下でリベラルな社会民主勢力に脱皮する方針は、選挙で負けた後も維持された。

第二に、デミルタシュの得票拡大が何を意味するかである。それは、デミルタシュ個人の資質に負っており、政党ベースで戦う国会議員選挙ではこれほどの得票は無理だとの見方もあるが、デミルタシュは少なくともその可能性を刻んだ。また彼がクルド・アイデンティティを強調せずに票を伸ばしたこと、つまり、平和と民主主義党(BDP)という前身政党がクルド民族主義運動を代表する政党だったのに比べて、明確にトルコ全国区政党化を目指して設立されたHDPの方向性を体現する選挙戦を戦って支持を拡大したことは、同党の方向転換が現段階ではうまくいっていることを示した。同党の方針転換については、トルコ主流社会への統合だとして歓迎する向きがトルコ系リベラル層の間では強かった。さらにはそれが、同様にリベラルな社会民主勢力として党の再構築を図ろうとするCHPとのイデオロギー的ポジション争いに発展すれば、CHPをさらにリベラル化へと促す可能性がそこに見いだせたからである。ただし、執筆者が選挙後に東部・南東部地域を訪れた際には、クルド・アイデンティティ承認欲求はかつてなく高まっていると感じた。特にシリアのPKK系列クルド勢力の状況は、「イスラム国」勢力拡大とともにめまぐるしく変わっており、それは党支持基盤のクルドの人々の感情はもちろん、それと関連しつつ党の戦略も影響することが必至であった。つまり、そう簡単に政党のアイデンティティ形成におけるクルド・アイデンティティの後退とトルコ全国区の社会民主勢力化が定着するとは楽観できないと思わせるほどに、クルド民族主義は高まってきた。

  2014年大統領選挙は、AKPおよびエルドアン一強の状況が続く中で、野党側に新しいダイナミズムが兆していることを垣間見せるものとなった。

2014年大統領選選挙結果一覧

立候補者名(生年) 総得票数 得票率(%)
レジェプ・タイップ・エルドアン(1954) 21,000,143 51.79
セラハッティン・デミルタシュ(1973) 3,958,048 9.76
エクメレッディン・メフメト・イフサンオール(1943) 15,587,720 38.44

末尾参考文献の官報掲載データによる。 有権者総数55,692,841 、投票者総数41,283,627 、有効投票総数40,505,911 、無効投票総数737,716、投票率74.13% 

(3) 大統領制時代の選挙結果

2018年選挙

①選挙に向けた政治的状況の展開と選挙活動

2011年以降のシリア内戦の泥沼化、2013年初夏の反政府デモの拡大、同年末ギュレン派との対立の公然化、2014年夏以降のシリア内戦北部戦線における「イスラム国」優勢とシリアのクルド系勢力への西洋諸国の軍事的協力関係構築および西洋世論の親近感の広がり、シリア難民のトルコ経由での欧州殺到をめぐるトルコ・EU諸国関係の悪化、同年夏の大統領選および2015年6月総選挙でのクルド左派勢力の躍進とエルドアンおよび公正と発展党(AKP)の辛勝、2015年夏以降の国内クルド系多数派地域市街地でのクルド系ゲリラPKKと警察の武力対立、同11月のやり直し選挙での与党支持率の盛り返しとクルド系左派の後退と、短期間に国内外の情勢がめまぐるしく揺れ動いた。さらに、2015年夏から2017年年初までの「イスラム国」とPKKによるトルコ国内各地での自爆攻撃頻発や2016年7月のクーデタ実行未遂事件など、複数の国内外勢力による事件がそうした不安定化に拍車をかけた。2018年1月からはシリア北部にトルコ陸軍が軍事侵攻して、PKK系列のシリア系クルド勢力を当地から一掃しようとする中で、多数の殉職者が出ている。この数年の国内でのPKK系のトルコ軍や警察を標的とした自爆攻撃や軍・警察のPKK掃討作戦による継続的殉職者発生と相まって、トルコ系世論を中心にトルコ民族主義と国家主義はこの上なく強固になってきている。

また、国際的にもこうした危機の時代において迅速な決定を下せる強い政治的リーダーシップがトレンドとなり、上述のようなトルコ国内外での危機的状況の目まぐるしい展開が続く中、エルドアンは権威主義的手法に急速に傾倒していった。自身への批判を抑圧するためにメディア監視・弾圧を強め、ウィキペディアなど一部のサイトへの接続を禁止し、権力におもねる司法や警察権力は反対勢力の政治家・評論家・ジャーナリスト・研究者らを不当に逮捕・勾留・有罪とした。特に2016年クーデタ後に非常事態宣言が発布された後は、この傾向は一段と強まった。特にクルド左派の諸人民の民主党(HDP)が地盤とする東部・南東部地域では、同党と分業協力関係にあって東部・南東部地域の地方自治体を治める民主的諸地域党(DBP)の首長が逮捕され、代わりに政府が選任した暫定首長が任命された。国政ではすでに、2017年5月には、その他野党の協力も得て、HDP議員を主たる標的として議員の不逮捕特権をはく奪する暫定条項を憲法に追加する法律が成立しており、その後、同党党首ら多数の議員が逮捕・勾留されている。

この政治社会的緊張状態は、短期間に選挙が繰り返されることにより、一層その激しさを増した。2014年3月から2018年6月までの間に、国民投票と統一地方選挙も加えれば6回も選挙が実施された。しかも、国政選挙と国民投票では政府支持の下落傾向が明らかになる中、与党は野党・反政府勢力を「非国民」扱いし、「我々」と「彼ら」に国民を二分して自身への支持を強いる言説を強めてきた。こうした分断的言説は、政府に批判的なメディアが弾圧され、主要メディアの翼賛化が強まるのに伴って、社会を覆っていった。

人権や自由、民主的手続きよりも抑圧的手法が優先され、一度は前進しかけたクルド問題での和平の機運も完全にしぼむ中、政治の手詰まり感や社会の閉塞感が急速に強まってきた。権威主義化に伴う閉塞感はメディア上にとどまらず、政権支持層を含む日常の人間関係を蝕んでいった。ギュレン派やクルド問題にかかわる有無を言わせぬパージと逮捕が繰り返され、具体的理由が明示されないままの失職や逮捕・長期拘留件数が急増した。また、それと並行して、密告が日常生活に蔓延した。筆者が現地で頻繁に耳にしたのは、上述の政治的問題とは全く無関係に、私怨・腹いせや昇進等のためのライバル蹴落とし、自分がギュレン派やクルド左派支持でないと証明する手段としてなど、様々な理由・目的による密告である。それは職場や知人関係など日常の人間関係の中で発生し、しかも得票率が50%に近い政権の支持層の近辺で多発したために、その閉塞感の息苦しさは相当なものだった。イスラム的な人々にとっては、親族内でもギュレン派関係者とエルドアン支持派の両方がいることは珍しくなかった(より正確にいえば、社会の末端であればあるほど、ギュレン派は慈善活動や教育活動を通じてイスラム的社会実現に努力し、エルドアン政権に貢献している組織として、両者への支持に何の矛盾もなかった。両者の競合・対立が関わってくるのはより組織上部の問題だった)。またAKP政権はその前半期にはクルド問題を多元主義的政治文化や制度への移行によって解決しようとしてきたゆえに、クルド問題にコミットした人たちも少なくなく、クルド関連でも同様のことが起きていた。こうして、不特定多数の人がいる場所や職場はもちろん親族や友人関係においても政治的話題は避けられるようになった。皆、密告を恐れ、あるいは家族や長年の友人関係でさえ政治的理由で崩壊することを避けようとした。

政府批判ができるメディアはネット上か、イデオロギー的色彩が鮮明なマイナーなニュースチャンネルに限られてしまった。人気ドラマなど娯楽番組を制作・放送する資本力のある大手テレビ局の政治系討論番組や系列日刊紙での自由な政府批判はもはや不可能となっていた。大手メディアは政府に批判的な評論家や記者との契約を打ち切り、毎日のようにエルドアンの演説がどこかで始まれば直ちに生放送に切り替え、翼賛放送局の様相を呈した。そのため、テレビの政治討論番組を好んで視聴し、政治に関する話題を親族・友人関係で議論するのが一般的だった人たちでさえ、多様な立場からの論戦が消えて翼賛化したメディアへの不信を募らせ、政治関連番組から遠ざかるようになっていった。こうした状況の中でエルドアンは大統領制への移行を決断し、そのための憲法改正を問う国民投票を2017年4月に行った。国民投票では辛うじて賛成が過半数を超え、次の選挙での大統領制移行が決まった。しかし、この国民投票の選挙期間はメディア報道内容・時間の点で反対論に圧倒的に不利なものだった(詳しくはOSCE報告書の特にp.19にリンクされた資料を参照。)また、開票時の不正も疑われた(同報告書、p.21。この国民投票のあり方自体の問題については末尾参考資料のBostan-Unsalを参照)。

国民投票は事実上、エルドアンが権力集中の度合いを強めた大統領になることをイメージしての、賛否を問う選挙となった。大統領制への移行を問うものではあったが、既存の憲法の限定的改正であり、議会選挙を現行システムから変更するのか(たとえば小選挙区制にしたり、全国最低得票率を下げるなど)どうかなど、権力分立や権力チェックのメカニズムについて細部をつめないまま、従来の首相の機能を大統領のそれに移行・統合させることで後者の権限拡大だけが突出した改正となった。大統領と議会過半数が同一政党に握られた場合、大統領をチェックできるメカニズムは、司法(の一部)や大学学長の人事でさえ大統領の管轄となった今、公的制度としてはもはや存在しないのではないかと思われる。大統領は大統領令を通じて広範な制度設計や政策を実施できる。クーデタ後の非常事態宣言下で反政府的な市民社会組織が多数閉鎖された(前出OSCE報告書(p.3)にはその数が1583に上るとある。)欧米由来の国際市民社会ネットワークのトルコ拠点も本来の批判的市民社会的活動はほとんど停止している。

このように、エルドアンは大統領制移行前の段階で既に、事実上は大統領制的な政治を、政府批判を抑圧しながら行っていた。それにもかかわらず、2019年の任期満了まで1年を残して早期選挙による大統領制への正式移行を急いだ理由は、この間に経済状況の悪化がとどまるところを知らず、有効な景気回復・浮揚策が見つからない中、任期満了を待っては再選が危ういと判断したからだと思われる。

こうした状況下で、「(1)選挙制度」の項目で説明したように、大統領選挙と国会議員選挙の双方で、与党過半数割れが懸念されたため、エルドアンは極右の民族主義行動党(MHP)と選挙協力することを決めた。両党の支持層はムスリム・アイデンティティとトルコ民族主義の点で重なり合っており、エルドアンは急速に 国内クルド政策とシリア内戦介入政策でトルコ民族主義的主張を強めてMHPへ接近した。他方で、バフチェリMHP党首は以前に政府の助けも借りて党内の幹部刷新の動きを回避したという借りがあったうえに(「政党」項目内のMHPの説明を参照)、政権への協力を通じた権力拡大期待もあった。 選挙協力によってエルドアンの大統領選出に貢献することで、MHPの議席獲得と自身のMHP内権力掌握を確実にし、さらにはトルコ民族主義的政治へとエルドアンを促し、党支持者への利益誘導も実現しようと目論んだのである。両党の選挙協力関係は「共和連合」(Cumhur İttifakı)と名付けられ、大統領選ではエルドアンだけを擁立し、バフチェリは国会議員に立候補した。選挙期間中、バフチェリの肖像がプリントされた選挙用横断幕が、与党系地方自治体が管轄する陸橋など、街中の人目につきやすい場所に掲げられるなど、与党の事実上の連立相手であると印象付ける選挙キャンペーンが行われた。この他、トルコ民族主義とイスラム主義を同等に重視する大統一党(Büyük Birlik Partisi, BBP)は得票率の低さから独自候補者リストでは議席確保が難しいため、直接、AKPの候補者リストから出馬させてもらうことで議席確保を狙った。得票率が1%前後の泡沫政党にも関わらず、エルドアンはBBP党首をAKPリストの選出確実な順位を与えてまでも、そのわずかな支持層の票を確保しようとしたのである。こうして「共和連合」はかなりトルコ民族主義色が際立つ政党連合となった。

2017年の国民投票時から権力集中型の大統領制への反対を中心に、是々非々の共闘関係を形成しつつあった一部の野党勢力も、10%の全国最低得票率を克服するために「国民連合」(Millet İttifakı)と名付けた選挙協力を立ち上げた。同連合に参加したのは、野党第1党の共和人民党(CHP)、MHPから分離して結党された良好党(IP)、AKPとルーツを共にする至福党(SP)の3党である。この3党のうち、独自得票率によっては議員選出が難しいと見込まれるSPは、CHPの独自候補者リストにも6名のSP候補者をリストアップしてもらい、融和関係を演出した。同様に、IPは90年代には中道右派の主要政党だったにもかかわらずAKPの中道政党化に押されて存在感をなくしていた正道党(DYP)の党首を選出可能性が高い順位で党独自リストに加えることで、トルコ民族主義勢力に加えて、政権に批判的な中道右派層の掘り起こしを目指した。

エルドアン政権の終焉、言論の自由と人権の保障、権力分立が機能する政治システムという主張で一致する野党勢力の大連合の可能性が模索されたものの、クルド左派のHDPは「国民連合」に参加することはかなわなかった。その代りに、クルド系の極小勢力の候補を含めた統一候補者リストがHDPリストとして提出された。

国民投票時から主要野党間でエルドアン政権の権威主義化に対して共同で対抗する流れが形成されており、それは国民投票後も続いていた。それを象徴するのは、2017年にCHP党首のクルチダルオールが「公正のための行進」(Adalet Yürüyüşü)と銘打って始めた徒歩によるデモ行進である。断食月中の6月15日にアンカラを出発し、約一か月をかけてイスタンブルを目指した行進では、自身は左翼のアレヴィであるにもかかわらず、断食月中はスンナ派の断食規定を遵守しながら行進を続けた。アレヴィは、保守的スンナ派からは伝統的に異端的イスラムとして差別されてきた。近年は、左翼当事者の間で非イスラム的独自思想文化であるとのアイデンティティ構築が進められており、断食をしない人も多い。また、トルコ政治史上では、極右トルコ民族主義からも真のトルコ民族ではないとして迫害対象とされてきた。クルチダルオールが党首を務めるCHPは、世俗主義を掲げ、そうした勢力と対立してきた象徴的存在であるが、アレヴィで左翼のCHP党首が、断食月に断食をしながら「公正」というムスリムの正義感にも鋭くアピールするスローガンを掲げて歩き続けるという行為からは、様々な意図が読み取れた。一つには、イスラム実践に熱心な国民を蔑視し弾圧してきた世俗主義的エリート、つまり国民の大多数と価値観や利害を共有しない、特権階級の代表である、とのCHPに関する固定観念を打ち破る意図が見える。また、そうした社会の固定的分断を克服し、政府批判勢力を、政府支持層のスンナ派保守の人たちも含めて幅広く糾合できる、新しい時代の政治運動を始めなければならないとのメッセージも読み取れる。そうした新しい政治運動は、国民の宗教的、民族的、イデオロギー的な多様性、自由な意見の表明に寛容でありつつ、公正さに依拠する民主的政治という原理原則において結集すべきであるとの主張である。

クルチダルオールの行進に芸能関係者や政治評論家、ジャーナリスト、政治活動家らが参加した。党首として参加した人はいなかったが、IP、SP、HDPは党幹部が賛同するメッセージを発したり、著名な党活動家たちが参加し、政府の権威主義化への批判に対する連帯姿勢を示した。ここに名を連ねた政党は、イデオロギー的にいえば、トルコの主要イデオロギー勢力のすべてを包摂している。つまり、左派勢力に加え、与党連合とイデオロギー的に競合する右派勢力を擁しており、与党連合以上のイデオロギー的広がりを有していた。CHPは世俗主義者や世俗派リベラルの都市中間層に、IPは中道右派から極右トルコ民族主義に、SPはイスラム系の保守系と革新系の両方の層を、HDPは左右のクルド系にアピールし得た。そのため、これらの政党が民主的原理で協力しつつ勢力を拡大することは、トルコが権威主義に急速に傾く中で、それへのアンチテーゼを体現するという観点で意義深いことだった。

クルチダルオールはこのように従来のトルコ社会の分断を克服する大連合の可能性に向けて努力を重ねてきたが、2018年選挙との関連では、もう一つ特筆に値する行動に出た。2018年4月20日に6月早期選挙が突如として決定されたため、結党から間もないIPが選挙参加資格を満たせない可能性が濃厚だった。先述のようにエルドアンにとっては自身の再選のためには経済状況がさらに悪化する前に選挙を済ませたいという事情があったが、選挙協力相手のバフチェリにとっては、自身の党内権力に挑戦して分派政党を作るに至ったIPが自党の支持基盤をかなり奪う可能性があり、IPが党勢を確立する前に、そしてできれば選挙参加資格を満たす前に選挙を済ませたいとの思惑があったと考えられる。政党法によれば、新党が国政選挙に参加するには、41県以上で選挙の6か月以上前に政党法に依拠して地方組織を設立済みであり、かつ党大会を開催していることが必要である。ただし、地方組織設立という条件と党大会開催という条件が個別に満たされれば済むのか、地方組織の条件を満たした後に開催された党大会から6か月が経過している必要があるのか、法の文言はどちらともとれ、後者の解釈ではIPは資格を満たさない状況だった。トルコでは中立であるはずの司法や高等選挙会議が、政治権力の意向を忖度して決定を下してきた歴史がある。IPは、MHPばかりでなくAKP支持層に食い込む可能性を秘めていた。IPの選挙参加資格を審査する高等選挙会議が、政権の意向をくみ取って資格なしとする可能性は大いにあった。そこで、クルチダルオールは新党の選挙参加を可能にするもう一つの十分条件、つまり、20名以上の国会議員を擁することという条件を、CHP選出議員をIPに一時的に移籍させることで満たそうと申し出た。IPもそれを受け入れ、選挙参加資格を確保した。ただし、IPは単独で10%を超えられるかの不安があった。また、他の野党勢力にしても、得票率が10%に迫ると見込まれるIPの得票が死票になるよりは、選挙協力によって国会で数十議席を獲得させることで、与党連合の過半数獲得阻止の可能性をそれだけ高めることができるとの思惑があった。こうしてIPも「国民連合」に参加することになった。

クルチダルオールは、クルド左派のHDPをも「国民連合」に参加させるべく模索した。同党もIP同様に10%獲得が確実とは言えないが、それに迫る支持は確実と思われた。しかし、トルコ系有権者が8割以上を占めると想定され、冒頭のようにトルコ民族主義がクルド排斥感情として先鋭化している状況下では、「国民連合」に参加するいずれの党にとっても、自身の支持層が反発し、離反するリスクが高かった。結局、HDPとの選挙協力はならなかった。それでも「国民連合」への参加政党はみな、HDPが党首以下、国政と地方の主要政治家の大量逮捕・勾留という状況下で選挙活動を強いられていることを批判し、有罪が確定していない候補者は釈放の上、自由な選挙活動を認められるべきだと声をそろえた。また、各党が長期的な党勢拡大を目指してクルド票の掘り起こしも試みたことは、後に述べる各党擁立大統領候補の活動から伺える。

野党の選挙協力模索過程では、エルドアン再選を阻止するために野党側も単独候補によって大統領選を戦うべく、適任候補が模索された。具体的には、世俗的世論、イスラム的世論、クルド系世論のいずれもが受け入れやすい、実績ある政治家として、ギュル前大統領の擁立が検討された。しかし、IP党首のアクシェネルが自身の出馬決意を曲げず、結局、各党がそれぞれに候補を擁立することになった。クルチダルオールは前述のように宗教少数派の出自ゆえに右派世論の支持を獲得しにくいと思われた。そこで、CHPは田舎町の保守的な家族に生まれ育ちながらも世俗主義派の政治家となったムハッレム・インジェ(Muharrem İnce)を擁立した。彼の母親は伝統的なトルコの母親像を思わせるスカーフの着用の仕方をしており、選挙活動では彼も母親を引き合いに出しては、自分はスカーフを見下すことも世俗主義的なイスラム抑圧を再度実施することもないと強調した。また、選挙期間中にクルド左派のHDP党首デミルタシュを獄中に訪れたり、彼の妻を自宅に表敬訪問するなど、クルド票掘り起こしも試みた。その一方で、クルド系多数派地域での訪問都市は4か所にとどまり、同地域での組織的基盤の薄さを印象付けた。

SPは党首のカラモッラオールを擁立した。彼はAKPにとってもルーツとなる「ムスリム国民の視座運動」(Milli Görüş Hareketi)を母体とする政党に1970年代から参加し、政治家活動の経験も長い。穏健な人柄で、英国留学経験と英国出身の妻をもつため、イデオロギー的分断を超えて協力を模索する状況下では、イスラム的世論と世俗派世論をつなぐ役割が期待された。彼はことさらにイスラムを持ち出すことなく、民主的で公正な国家、多様性を包摂する政治を説くことで、現政権への批判的態度を示し、党派を超えて野党支持層に好感を与えた。クルド問題については、クルド系多数派地域の中心都市であるディヤルバクルで、党の公式政策方針として「クルド報告書」を公表した。そこでは、母語による教育の権利を含めクルド語使用のあらゆる権利が認められるべきであること、クルド系多数派地域の経済開発に特化した政策が必要なこと、PKK問題解決にはゲリラや支持者もトルコ社会の一部であり、彼らを死に追いやることなく平和を実現する方法を模索するべきこと、が主要方針として掲げられた。かつてAKPがクルド系有権者の半数以上の支持を得ていた時期があったことを考えると、クルド系の親イスラム票をどれだけ獲得できるかも注目された。

政権支持層においてもここ数年、エルドアンと翼賛的メディアが数年にわたって国民の分断と対立を煽ることで支持を糾合しようとする度合いを強めてきたことに対して、反発や「エルドアン疲れ」ともいえる疲弊感を生んでいたため、このような野党側の大連合形成の兆しは、何か大きなうねりとして選挙結果に表れるのではないかとの期待が野党側で大きく膨らんだ。そのため、野党側メディアでは、エルドアンは勝てるとしても二巡目だろうとか、与党連合は国会議席過半数割れの可能性が高いといった、希望的観測が席巻した。

選挙戦は圧倒的に「共和連合」のが突出する、つまり野党の声がメディアからほとんど聞こえてこないほど、与党に有利な条件で戦われた。それにもかかわらず、あるいはそれ故に逆に、エルドアンと与党の手詰まり感が露呈した選挙戦となった。どのようにして現在の不況を克服するのか、国民を納得させるビジョンの提示はなかった。政治的・経済的危機を覆すような説得的処方箋を示せないなか、与党側の選挙演説は過去の実績の列挙(AKP政権前半の高度経済成長や社会福祉・保障制度の拡大・改善、高速道路・高速鉄道網の整備・拡張、スコッター地域の集合住宅地への転換と中下層階級への住宅供給政策など)や、それに類似する都市開発・インフラ整備事業の公約に終始した。

また、種々のアンケート結果に直接的に出てくることはないが、政権支持層も含めて、シリア難民がトルコ国民の本来享受すべき社会保障予算を圧迫しているとか、彼らが非正規の低賃金で働くことが国民の職を奪い、彼らの流入した地域の住宅賃料を押し上げているとして、政府のシリア難民受け入れ政策に批判的な声も蔓延していた。筆者が選挙期間中のアンカラで直接目にした例であるが、物乞いのために歩道上に座り込んでいる老婆の前を通り過ぎたとき、ちょうど後ろから追い越していった男性が、「トルコ国民がこうして困難な状況に置かれているのに、シリア人は気楽に暮らしている」と、携帯電話で話していた。こうした不満は時として社会不安の暴力的表出として現れている。たとえば、路上でのちょっとした諍いや、シリア難民が強姦事件を起こしたなどのデマをきっかけとして、住宅街でシリア難民へのリンチ事件が散発してきた。そうした状況がどう改善されるのか、選挙戦で明確なメッセージが発せられることはなかった。さらにいえば、トルコ民族主義的世論からすれば、トルコ軍兵士がシリア内戦で犠牲を払っているのに、シリア難民はなぜトルコで保護されているのか、という不満もある。これはシリア側からすれば、越境侵犯しているトルコ軍が撤退すればいい、ということになりそうだが、トルコ民族主義的世論にしてみれば、シリアとトルコのPKK系クルド系勢力が、欧米諸国と連携して自治や将来的独立を画策していると考えられるため、シリアに軍事介入して現地のクルド系武装勢力を一掃し、シリアでの自治獲得に勢いを得てトルコを含む周辺各国のクルド民族主義がさらに高揚することを何としても防がねばならないのである。つまり、シリアのPKK系クルド勢力の勢力拡大は、トルコの国家安全保障を揺るがしかねない最大級の脅威と認識されているのである。それゆえに、越境作戦による殉職者が多く出ているにもかかわらず、そしてそれ自体は政府にとっては支持低下のリスクを伴うにもかかわらず、シリア内戦後の秩序がトルコのクルド問題との関連で受け入れられるものだと確信できない限りは、もはやそう簡単に撤退できない問題となっている。

その一方で、シリア内戦にしてもトルコ国内におけるクルド問題にしても、トルコ政府の思うようには展開しそうにない。かつてはトルコの外交的存在感の高まりがAKPの国民的人気を下支えしたが、その再現は難しそうである。AKPは、パレスチナやソマリア、ロヒンギャなど、ムスリムが困難に見舞われているにもかかわらず、国際的に有効な解決策が打てていない問題での国際支援の実績、つまりトルコが中東を超えて、グローバルなムスリム・リーダー国だとのイメージを喚起し、イスラム系世論に訴えるしかなかった。

他方で、野党の選挙公約も経済政策という国民の一大関心事において説得的ビジョンを示せなかった。それでも政権交代という一点で野党側の目標は一致しており、2017年国民投票がほぼ5分5分だったことから、僅差での実現という期待は開票結果が明らかになるまで失われることはなかった。特に、CHPの大統領候補のインジェが選挙戦の締めくくりに行った国内三大都市の集会では、参加者が広大な会場を埋め尽くした。アンカラとイスタンブルの参加者数をインジェはそれぞれ200万人と500万人と主張し、エルドアンは警察発表として7.5万人と30万人と主張したが、いずれにしても高揚感溢れる締めくくりとなった。しかし、その最後の盛り上がりのなかで、イスラム勢力への敵対という文脈で世俗主義派が使用してきたスローガン「我々はムスタファ・ケマル(アタテュルク)の兵隊だ」を叫ぶ人がいた。、筆者がAKP支持者から聞いたところでは、野党がどれほど過去の世俗主義的イスラム弾圧の時代は終わったと強調しようとも、一部の過激な世俗主義者が「選挙で我々が勝利した場合にはイスラム主義者は覚悟をしておけ」といったツイートをしており、そういった情報はAKP支持層の間で瞬時に共有されるため、エルドアンに全面賛成でなくとも、現時点での政権交代はダメだと思わせ、AKPの支持固めの機能を果たしているという。(類似の指摘として以下の記事も参照。)こうしたことも手伝って、結局、次項で見るように、国会議員選挙も大統領選挙も与党側が勝利して終わることになった。

ただし、メディアと選挙という点では、この選挙も不公平さが圧倒した。上述のインジェの大規模集会さえ、生中継はもちろんなく、ニュースとしての扱いも限定的だった。エルドアン始めAKPは公式な選挙演説だけでなく、公共事業等の起工式や竣工式などの政権党として利用しうる様々な機会を事実上の選挙キャンペーンの場に代えていた。それは公務であるが故、国家予算がカバーする移動手段が最大限に利用され、国営テレビ含め主要メディアが直ちに生中継に切り替えて延々と放送した。対する野党勢力は、テレビや新聞など、従来型の主流メディアがほぼ政権の翼賛メディアと化したために、そうしたメディアへの露出は極度に制限された。それは野党党首が主要テレビ局の番組に出演することが特別なニュースとなるほどに極端な不公平さだった。選挙監視を行ったOSCEの報告書によれば、野党側の報道は国営テレビを含む主要テレビ局では扱いが少ないだけでなく、取り上げ方も概ね野党候補者に否定的だった。与党連合の双方の支持基盤を切り崩す恐れのあるIPに至っては、ほとんど取り上げられないという状況だった。それでも家庭からのネット接続率が8割に達していることもあり、野党勢力は都市部中間層をターゲットにインターネット上の新聞や放送、ソーシャル・メディアを通じての選挙活動を精力的に展開した。

クルド左派のHDPの置かれた状況は、野党勢力のなかでも特殊だった。2017年12月のHDPによる報告書では、地方政治に特化したHDP系列の政党であるDBPが首長を輩出した自治体のうち、東部・南東部地域を中心に94自治体で首長がテロ支援の罪で逮捕・勾留され、政府任命の首長代理が据えられている。(AKP系シンクタンクのレポートでは、2018年2月現在で93自治体となっている。)同報告書によれば、免職処分となった首長のほとんどは逮捕され、その後一部は釈放されたものの70名が有罪とされて収監中であった。同様に、改選前の2018年2月時点の新聞報道によれば、同党選出国会議員のうち13名が議員資格をはく奪され、うち6名が実刑判決や審理中のために収監されていた。その13人には当時の党共同代表二人がともに含まれており、党活動家らも頻繁に逮捕・尋問・勾留の対象とされ、党の組織も組織活動も大きな打撃を受けていた。共同代表の一人で未決囚だったデミルタシュは、その後の党大会で共同代表選出馬を辞退して共同代表を降りたが、獄中にいながらにして大統領選への出馬を決意した。獄中から自由な選挙活動は望むべくもなく、選挙法で認められた国営テレビでの2度の演説枠(各10分)だけを、しかも2度分を同日の事前収録ですませねばならない、という制約の中で行使しただけとなった。さらに、同党の選挙活動は、時には内務・警察など行政側のサボタージュの下で妨害された。たとえば、エルドアンの選挙集会と同じ日に実施が決まっていた同党のアンカラでの選挙集会を、HDP集会の警備体制が整わないとして、当日になってアンカラ県知事がHDP集会の許可を撤回している。

このように、選挙戦は平等性と公正性が大きく損なわれたものとなった。

②国会議員選挙および大統領選結果

大統領制移行に伴い、今後は大統領選挙と国会議員選挙は補欠選挙を除いては同日選となり、さらには、投票所で一つの封筒に両方の投票用紙を入れることになった。また、大統領令公布によって大統領が国会の承認を得ずに広範な政策を実行できるようになり、国会がどのような存在意義をもつようになっていくのかがまだ見通せない段階の今回の選挙と、数年の経験を経た後の次回以降の選挙では、有権者の投票行動には違いが出てくる可能性がある。そのため大統領選と国会議員選の結果の相関については、何度かの選挙を経なければ有意な指摘はできないが、今回の選挙に限って言えば、投票率や、国会議員選挙における与党系の「共和連合」の得票率・得票数と、大統領選挙で同連合が擁立したエルドアン候補の得票率・得票数は概ね一致することとなった。他方で、野党勢力については二つの選挙結果の得票率は大きく異なった。

2018年国会議員選挙結果(投票率:86.22%)

政党名 選挙協力 得票数 得票率(%) 議席数* 議席数
(女性数)**
公正と発展党
(AKP)
共和連合 21,338,693 42.56 295 290
(53)
民族主義行動党(MHP) 5,565,331 11.10 49 49  (4)
共和人民党
(CHP)
国民連合 11,354,190 22.65 146 144
(18)
良好党(IP) 4,993,479 9.96 43 42  (3)
至福党(SP) 672,139 1.34 0 2  (0)
諸人民の民主党(HDP)   5,867,302 11.70 67 67 (26)
合計   50,137,175 100.00 600 596***(104)

注* 政党候補者リストによる議席配分数。末尾参考文献の官報掲載データによる。

注** 選挙時の女性議員数および2018年8月9日閲覧時点での政党別議席数は、トルコ大国民議会の以下のサイトによる。

注*** 選挙時の議席数と2018年8月9日時点での議席数の違いは二つの理由による。一つは、選挙協力によって別の政党候補者リストからいくつかの政党が議席を獲得したことによる。至福党は至福党自身の候補者リストからは当選者が出なかったが、共和人民党リストから2名が、民主党は良好党リストから1名が、大統一党は公正と発展党リストから1名が、それぞれ当選した。二つ目に、大統領制において、大臣は国会議員との兼務ができないため、大統領によって大臣に指名された公正と発展党選出議員4名が議員辞職をしたことによる。

2018年大統領選挙結果(投票率:86.24%)

大統領候補者名(所属政党名) 得票数 得票率(%)
レジェプ・タイップ・エルドアン(公正と発展党) 26,330,823 52.59
ムハッレム・インジェ(共和人民党) 15,340,321 30.64
セラハッティン・デミルタシュ(諸人民の民主党) 4,205,794 8.40
メラル・アクシェネル(良好党) 3,649,030 7.29
テメル・カラモッラオール(至福党) 443,704 0.89
ドーウ・ペリンチェク(愛国党) 98,955 0.20
合計 50,068,627 100.00

末尾参考文献の官報掲載データによる。

総選挙の結果は、野党勢力の「国民連合」側にとっては、大統領選でエルドアンの過半数獲得を阻止して第2回投票に持ち込むという目算さえはずれ、失意をもたらした。大方の予想を覆したのは、トルコ民族主義票の強さだった。MHPから分離したIPがMHPからどれだけの票を奪うかが注目されていたが、IPもかなりの支持を得たにもかかわらず、MHPもそれほど票を減らさなかったのである。

世論調査組織が選挙後に実施した二つの投票行動アンケートは、IPへの投票者が前回(2015年11月総選挙)どの党に投票したかについて、若干異なる結果を示している。KONDA社調査(p.32)によれば、IPの得票の6割はMHP支持者からきており、1/4ほどはCHPから流れてきている。IPSOS社の結果では、MHPとCHPからの鞍替えがそれぞれ3割、AKPからが2割、前回棄権者が1割となっている。 KONDA社調査はさらに地域、文化的特性、階層面での特徴にも言及している(pp.8-10, 37-40)。IPは、西部沿岸部に住む世俗的で上流中産階級に属するトルコ民族主義者から、MHPは、内陸アナトリアを中心に、より保守的なトルコ民族主義者で下層中産階級に属する人が多いという傾向を示す。IPSOS社は各党投票者の重視した争点も調査している。それによれば、MHPは国家一体性保持と対テロ政策を、IPは経済と教育を重視する人たちの支持を得ており、IPはトルコ民族主義者の中でより中道右派的位置取りをし、MHPは伝統的な極右のポジションを維持しているとみることができる。

AKP支持者は宗教保守で階層的には下の層が中心であるが、ほとんどの地域で第1党の座を維持しており、政権を獲得した2002年以降のトルコで唯一の国民的政党の位置づけを維持していることが分かる。今回もその点は変わらないものの、AKPの得票率は前回選挙から7%の減少となった。KONDA社は、そのほぼすべてがMHPに乗り換えたとみる(p.32)。IPSOS社はより複雑な票の行き来を指摘する。AKPの前回支持者はMHPを中心にCHPやIPに流れ、しかし、AKPにもMHPやCHP、HDPに前回投票した人たちの一部が鞍替えをしているという。IPSOS社による投票行動と注目争点の調査によれば、AKPへの投票者は過去の政策や経済的公約を重視しており、政権として経済政策で活路を見いだせないなかで、それでも過去の実績に照らせば、政権交代をリスクととらえる人々を繋ぎ止めたことが分かる。しかし、トルコの10大都市のすべてで前回選挙より大きく支持を減らしており、2015年6月総選挙での勢力減退や、2017年国民投票でのMHPとの協力による僅差の勝利などと併せると、確実に凋落傾向にあることが分かる。エルドアンの権威主義化はある意味、それへの危機感の裏返しであるともいえる。

大統領選におけるエルドアンの得票率は「共和連合」の得票率合計とほぼ一致し、上述の二つの調査は「共和連合」への投票者がほぼエルドアンに投票したと示している。他方で、CHP候補のインジェは同党の得票率を8%上回り、IP候補のアクシェネルとHDP候補のデミルタシュが党の得票率を2~3%ほど下回っている。両調査はいずれも、IPとHDPの一部がインジェに投票したことを示す。大統領選が第2回投票にもつれ込んだ場合に備えて、インジェ候補の勢いを付けておこうとしたものだと理解できる。他方で、IPSOS社の調査では、IP投票者の3割、HDPとMHPへの投票者それぞれ2割、CHP投票者の1割が、この選挙に限っての投票行動であり、固定的支持層ではない、と答えており、多様な投票動機を予想させる。HDPは10%を超えなければ死票となる。そのため、エルドアン大統領が当選した場合にも、せめて国会で「共和連合」を抑制できるようにとHDPの議席獲得を応援しようとするものや、トルコがイデオロギー的、民族的な分断を克服し、成熟した民主的社会に移行するためには、クルド民族主義の声を民主的に代表させる国会を死守しなければならないと考える人々が、HDPに投票したと思われる。IPについては、改革や経済発展を通じて中道勢力を惹きつけてきたAKPが急速に権威主義化を強める中で、その流れに批判的なトルコ系中道右派票を糾合したものの、新興政党として組織や支持基盤が未確立であることを、3割という数値は示しているとみられる。

HDPは、トルコ全土の民主化・文化多元主義化を主張するものの、支持層の観点からいえば、圧倒的にクルド政党である。しかし、KONDA社は選挙直前の調査を根拠に、トルコのクルド人の大多数を占めるクルマンジ語系(本人の母語がトルコ語に同化していても自認としてここに含まれる者もいる。全人口14%程度と推定)の53%、クルド少数派のザザ語系(全人口の2%程度と推定)の23%はHDPを支持したが、クルマンジ語系の24%、ザザ語系の31%はAKPを支持したと推定する。ちなみに、シリア国境地域に多くが住むアラブ系住民のうちHDP支持は6%にすぎず、AKPが37%、CHPが29%を支持していた(前掲文献pp.40, 103)。

今回の選挙では投票率が1990年代以降の国政選挙で最高となったにもかかわらず、クルド系人口が多数の東部・南東部地域では軒並み投票率が低下した。その理由としてまず考えられることとして、非常事態宣言下で投票所の安全と称して、この地域の僻地の投票所設置場所が住民の利便性を無視して遠隔地の投票所に統合され、自前の交通手段を持たない場合は数時間歩かなくては投票できない、という地域があったことや、政府の権威主義的傾向が強まる中で投開票作業の公正さへの疑念が大きくなり棄権を選ぶ人が増えた可能性がある。また、2015年の夏以降に、PKKがこの地域の都市部市街地で国軍や警察と武力対立を繰り広げた結果、一般市民も大きな犠牲を強いられるなか、HDPが事態を打開するためのPKKに対して自律的・建設的役割を担うことができず、PKKと政府の双方に対して働きかける国政政党としての存在意義がないとの反発を受ける一方、その他に投票に値する政党があるわけではないことから、棄権するしかなかったという理由も考えられる。

こうした状況と政党の得票との関連でいえば、前述の、HDP系首長が逮捕され、代わりに政府が首長代理を任命した自治体では、KONDA社調査(pp.78-82)によれば、AKPやMHPの支持率が若干ながら上昇したところもあり、そうした地域ではHDPは支持を減らしている。各選挙区の有権者プロフィールをある程度知っている人によっては、これまで棄権してきた地元のトルコ系マイノリティが今回は投票に行ったのだ、とか、地域の治安対策のために軍や警察関係者が多数配置されたために、彼らの票が「共和連合」の支持率上昇をもたらしたなどの指摘がある。KONDA社(p.32)は前回選挙でHDPに投票した人の5%は棄権したと推定する。このあたりについてのより詳細は、投票所別の選挙結果と世論調査やフィールド調査を組み合わせた分析を待つ必要があるだろう。

最後にKONDA社調査より、投票の実数の推移にかかる指摘を紹介しておきたい(p.27)。それによれば、寿命の伸びもあり、有権者数は2011年総選挙との比較で約500万人増加した。しかし、AKP、CHP、MHPの得票数は若干の増減はあるものの、2011年とほぼ同数にとどまっている(それぞれ2000万、1100万、550万)。投票率が2011年の83%に対して今回は88%と高まっており、その増加分も含めると2011年比で投票者数は800万人増となった。さらにIPとHDP以外の既存政党や無所属候補の得票減分は総計約100万票だった。この計900万票の半分以上は、新設のIP(500万票)が獲得した。残り400万票は、HDPが獲得した。HDPは2011年の200万票から得票を3倍に押し上げたことになる。HDPは2015年6月総選挙、同年11月総選挙でもそれぞれ600万票、500万票を得ており、クルドを巡る状況に大きな変化がない限り、これだけの固定的支持層を確立したと見て間違いなさそうである。他方で、IPは選挙後すぐに有力幹部が離党するなど基盤が確立しておらず、はやくも危機に直面している。今回初めて選挙権を得た有権者の3割はAKPを支持しているが、学生を中心に2~3割は棄権の可能性も高い浮動票であり(pp.28, 102)、大都市部でAKPの支持が一貫して後退している傾向を考えると、今後は、各党が固定支持層を手堅くまとめながら、どのように都市部を中心とした若年浮動票にアピールしていくかがカギとなりそうである。

参考文献

  • Erol Tuncer, Osmanlı’dan Günümüze Seçimler (1877-2002), (Genişletilmiş 2. Baskı) TESAV, 2003.
  • 澤江史子『現代トルコの民主政治とイスラーム』ナカニシヤ出版、2005年。
  • 澤江史子「トルコの選挙制度と政党」(日本国際問題研究所編『中東諸国の選挙制度と政党』、2002年)。
  • 間寧「トルコ2002年総選挙と親イスラム政権の行方」『現代の中東』35、2003年。
  • 官報より2007年総選挙結果 (サイト内左下リンク先にあるワードファイル) 。
  • 澤江史子「トルコ大統領選の行方」、「トルコ総選挙後の議席状況と潜在的混乱要因」、「二期目に向かう公正と発展党政権」( (財)日本エネルギー経済研究所・中東研究センター会員限定データベース所収、2007。)
  • 澤江史子「煮詰まるトルコのクルド問題解決策」『海外事情』2012年11月号、114-121頁。
  • Fatma Bostan-Unsal, “Turkey at a Crossroads? The 2017 Referendum’s Challenges and Opportunities,”Review of Middle East Studies 52(1):5-15.
  • 官報より2011年総選挙結果 。
  • 官報より2014年大統領選挙結果 。
  • 官報より2015年総選挙結果
  • 官報より2015年早期総選挙結果。
  • 官報より2018年国会議員選挙および大統領選挙結果。
  • Seçimlerin Temel Hükümleri ve Seçmen Kütükleri hakkında Kanun (選挙の基本規定および有権者登録に関する法。1961年4月26日成立。)http://www.mevzuat.gov.tr/MevzuatMetin/1.4.298.pdf#search=%27secim+kanunu%27
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