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2019年1月18日

イエメン/最近の政治変化

1990年5月22日、南北イエメンは統合を発表し、イエメン共和国が成立した。統一以前の南イエメンは、中東で唯一マルクス・レーニン主義を標榜する共産主義国家であり、イエメン社会党(YSP)一党独裁下でソ連型の国家体制を続けていた。北イエメンでは政党が禁止されていたが、国民全体会議(GPC)が唯一の公認政治団体として存在し、その大政翼賛的な性格をもって、実質的に単独支配政党の役割を果たしていた。冷戦構造崩壊に伴う北イエメン主導の統一においては、統一が実現する絶対条件としての「対等合併」が強調され、実際にそれを基本とする政治体制が形成された。

統一に際し、アデンで開催された第1回議会(北の議会議員159名と南の最高人民会議議員111名に任命議員31名を加えた301名)は、1981年に南北イエメン統一憲法合同委員会(1977年国境衝突の停戦合意であるクウェート協定に基づき設置)が作成した憲法案を、そのまま統一国家の憲法として承認した。同時に議会および政府は、その第39条に規定されていた「団体結成の自由」を複数政党制の承認と解釈し、その導入を決定した。政府の最高意思決定機関としては、5名からなる最高評議会(GPCから3名、YSPから2名)が設置され、その議長(北のアリー・アブドッラー・サーレハ大統領)が大統領、副議長(南のアリー・サーレム・ベイドYSP書記長)が副大統領とされた。GPC・YSPによる連立内閣の下、首相には南のアッタース最高人民会議幹部会議長(大統領)が就任し、大臣・次官ポストは南北出身者がそれぞれ同数を占め、それはすべての省において南北出身者による組み合わせとなった。

翌1991年5月に憲法は国民投票で承認され、正式に公布された。また、同年には政党・政治団体法(1991年66号法)が施行され、複数政党制に移行した。これによりGPCは正式な政党となったが、同時に保守派や左派(ナセル主義やバアス主義)が分離して新党を結成し、その大政翼賛的な性格を失った。南イエメンにおいても複数の新党が結成され、政党数は一時40を超えた。1992年には選挙法(1992年41号法)が施行され、1993年4月に第1回総選挙(301議席、任期4年)が実施された。選挙結果は、サーレハ大統領を党首とするGPCが122議席で第一党であったが、YSPは56議席で第三党に転落した。代わって第二党となったのは、63議席を獲得したイエメン改革党(イスラーハ)であった。これは、GPCから離脱した保守派の議員が北のハーシド部族連合長アブドッラー・ビン・フサイン・アハマルを党首に迎えて結成したもので、北イエメン北部の部族勢力と南部のウラマー層(ムスリム同胞団系)が合体したイスラーム政党であった。

いずれの政党も過半数に達しなかったため、サーレハ大統領はGPC・YSP・イスラーハによる三党連立内閣を発足させた。最高評議会はGPCとYSPが各2名にイスラーハが1名、閣僚はGPCが15名、YSPが9名、イスラーハが6名となり、首相はYSPのアッタースが留任し、議会の議長にはイスラーハ党首のアハマルが選出された。これは統一間もない政治状況のなかで、挙国一致態勢を確立しようとしたものであったが、それは逆に「政治危機」と呼ばれる事態を招く結果に陥った。YSPは、党中央委員会で社会主義放棄を決定したものの、党内の不一致から党大会を開催できず、その左派的傾向を強く残していた。それゆえ、保守的なイスラーハとはもともと水と油の関係であったが、連立政権でともに政策に関わるようになると、一気にその対立関係が表面化した。北イエメンでは、ハーシドおよびバキールと呼ばれる2つの部族連合を中心とする北部の部族勢力に対し、サーレハ政権が長く優遇・懐柔政策を続けていた。部族勢力はその民兵力を背景に大きな政治的影響力を有しており、政権の維持には彼らの暗黙の了解が不可欠とされている。YSPがこの部族勢力優遇に反対して急進的な政治改革を求め、それにイスラーハが強く反発したことが、対立の主たる要因であるといわれる。この対立は、イスラーハ支持者によるYSP幹部への襲撃事件を続発させ、1993年8月にベイド副大統領が職務放棄してアデンに引きこもったことから、「政治危機」に発展した。 

「政治危機」に対しては様々な和解や仲介が試みられたが、その最中にも各地に駐屯する旧南北の軍部隊間で武力衝突が頻発し、結局彼らは翌1994年5月に内戦に突入してしまう。アッタース首相らのYSP最高幹部はアデンのベイド副大統領に合流し、南イエメンの分離・独立(イエメン民主共和国)を宣言した。しかし、YSP議員の大半はサナアに残り、南イエメンでもアビヤンやハドラマウトなどの各地方が、彼らに同調しなかった。サーレハ政権は優勢を保ちつつ戦局を進め、7月にベイドらが国外に逃亡して、内戦は2ヶ月で統一維持派の勝利に終わった。内戦に際し、YSPは連立政権からはずれ、党本部を含む資産を凍結されたが、その政党活動やサナアに残留した議員53名の身分および政治活動は維持された。 

内戦終結後の1994年9月、議会は憲法を改正し、翌10月にサーレハを大統領に選出した。改正憲法では最高評議会が廃止され、大統領制の導入およびその権限強化(副大統領は大統領の任命など)、大統領公選制の導入がなされるとともに、シャリーアを法源とする規定や諮問評議会の導入、地方評議会・地方選挙の導入(後述)などが新たに盛り込まれた。ただし、この時の議会による憲法改正および大統領選出は、内戦後の非常事態による例外的措置とされ、議会による承認のみで国民投票は行われなかった。サーレハ大統領は、南イエメン出身のアブドッラッボ・マンスール・ハーディー(1986年アデン内戦で敗退し、北イエメンに亡命後GPCに参加)を副大統領に指名し、GPCとイスラーハによる二党連立内閣を成立させた。 

内戦により国民経済が破綻寸前の危機に陥ったイエメンは、1994年からIMF・世銀と構造調整受け入れのための協議を開始し、翌1995年から構造調整による大規模な融資および政治経済改革が始まった。これにより国家再建が進んだが、民営化や都市部での起業にかかわる利権では、サーレハ支持層である退役軍人や部族長などが優遇され、サーレハの権力基盤が強化された。

1997年4月、任期満了に伴なう第2回総選挙が実施され、301議席中GPCが過半数の187議席(65議席増)を獲得し、初めて単独政権を樹立した。イスラーハは10議席減の53議席にとどまり、YSPは党資産凍結の継続などに抗議して選挙をボイコットし、無所属で4候補が当選した。その他の無所属は51議席、諸派(2党)は5議席。 

1999年9月、イエメンで初めての大統領直接選挙が実施された。大統領選挙候補者は議会議員の10%(31名)以上の推薦を必要とし、議会は2名以上の候補者を指名しなければならない規定であったが、最大野党のイスラーハは候補者を出さない決定を行ない、YSPと他の野党は「政府・GPCより議員に対し、YSPから大統領候補を出さないよう圧力があった」として、選挙のボイコットを表明した。結局、GPC議員が推薦して指名された現職のサーレハ大統領と、無所属議員が推薦して指名されたナジーブ・カハターン・シャアビー(1967年南イエメン独立時に初代大統領となり、1969年に失脚したカハターン・シャアビーの息子)の候補者2名による選挙となった。しかし、南イエメン出身とはいえ、支持基盤を持たないシャアビー候補者には支持が集まらず、選挙自体は完全な「無風」と化して、サーレハ大統領が有効投票数の96.3%を獲得して再選された。1994年10月の議会によるサーレハ大統領の指名は内戦後の例外措置とされたため、サーレハ大統領の任期はこれが正式な大統領選挙を経た1期目とされた。 

翌2000年1月に地方自治法が公布された。地方自治法は、94年改正憲法において規定された地方評議会の設置に基づくもので、それは以下のように規定している。州知事およびムディール(州より下位の行政区域ムディーリーヤの長)はそれまで通り中央政府により任命され、それぞれの地方評議会の議長を務める。州評議会の議員は、州を構成する各ムディーリーヤから1名ずつが選出される。ムディーリーヤ評議会の議員は、住民の規模に応じ17~27名が各ムディーリーヤにて選出される(任期はともに4年)。両評議会はそれぞれ、その選出議員の中から事務総長を選出する。

また同年8月には、大統領より議会に対し憲法改正が提案された。議会はその審議を続け、同年11月に憲法改正案を賛成多数で可決した。その内容は、大統領および議会議員任期の2年延長(それぞれ5年から7年、4年から6年)、大統領の議会解散権強化、諮問評議会の拡充、自由主義経済体制の明記などであった。諮問評議会は立法機関ではないが、議会に準ずるものとされる。これは、1994年改正憲法でその設置が規定されたもので、有識者が大統領および議会に対し必要な提言を行なう機関とされた(憲法改正後にそのメンバー59名が大統領より任命)。改正案ではそのメンバー数(111名に増加)および職務が拡充され、各種の提言とともに、議会との合同会合において大統領選挙候補者の指名や開発計画の承認、条約の批准を行なうこととなった。改正案において、大統領選挙候補者の指名に関わる規定は、議会と諮問評議会の合同会合メンバーの5%(21名)以上の推薦と候補者3名以上に変更された(大統領選挙において過半数を獲得した候補者がいない場合は、上位2名による決選投票を行なう規定には変更なし)。 

2001年2月、憲法改正案に関わる国民投票とイエメン初の地方選挙が同時に実施された。憲法改正に関する国民投票では、賛成が77.42%(201万8527票)であった。国民投票での憲法改正案承認を受け、サーレハ大統領は同年4月に諮問評議会メンバーを任命している。地方評議会選挙では、州評議会(19州と首都特別区の20評議会、全401議席)選挙でGPCが277議席を獲得(得票率69%)、ムディーリーヤ評議会(全6213議席)選挙でもGPCが3771議席を獲得(60%)して勝利した。イスラーハは州評議会で78議席(19%)、ムディーリーヤ評議会で1433議席(23%)、YSPが州評議会で16議席(4%)、ムディーリーヤ評議会で218議席(4%)となっている。これら3党以外の州評議会議員はすべて無所属で30議席(7%)、ムディーリーヤ評議会議員は諸派6党で42議席(1%)、無所属で749議席(12%)であった。 

2001年憲法改正により議会の任期が2年延長となったことから、第3回総選挙は2003年4月に実施された。GPCは全301議席中229議席を獲得して圧勝し、以下イスラーハの46議席、YSPの7議席、諸派(2党)の5議席、無所属14議席と続いた。政権与党GPCの42議席増に対し、最大野党イスラーハは7議席減となり、またYSPの巻き返しもならなかったことから、サーレハ大統領率いるGPCの安定政権がより固定化された結果となった。また、このときイスラーハ党首のアハマルはGPCからも公認を受け、イスラーハとGPCに両属する議員として当選し、引き続き議長に選出された。 

2005年7月、翌年の大統領選挙への出馬と当選が確実視されていたサーレハ大統領は、突然選挙への不出馬を表明した。統一前の北イエメンで1978年に大統領に就任して以降、統一後を合わせてこの時点で27年間も大統領職にあることから、後進に道を譲りたいとの理由であった。しかし、その後GPCはサーレハ以外の大統領候補を擁立せず、2006年6月24日以降にサナアや地方都市でサーレハ出馬を求めるデモが続いた。このデモを受け、サーレハは7月5日に大統領候補への登録を行なった。 

2006年9月20日、第2回大統領選挙と第2回地方評議会選挙が同時に実施された。大統領選挙では、議会と諮問評議会の合同会議において5名の候補者が指名された。現職のサーレハ候補の独走と見られたが、著名な実業家であるファイサル・ビン・シャムラーン候補(野党のイスラーハ、YSP、ナセル統一、ハック党、イエメン人民勢力同盟の推薦)が集会などで予想外の動員力を発揮し、選挙戦は両者の一騎打ちとなった。しかし、結果はサーレハ候補が有効投票の77.17%を獲得して2期目の大統領に就任し、シャムラーン候補の得票は21.82%にとどまった。 

地方評議会選挙では、州評議会(20州と首都特別区の21評議会、全431議席)選挙でGPCが315議席を獲得(得票率74.12%)、ムディーリーヤ評議会(333評議会、全6869議席)選挙でもGPCが5078議席を獲得(73.75%)して大勝した。他の政党は、イスラーハが州評議会で28議席(6.59%)、ムディーリーヤ評議会で794議席(11.50%)、YSPが州評議会で10議席(2.35%)、ムディーリーヤ評議会で171議席(2.48%)、無所属が州評議会で20議席(4.71%)、ムディーリーヤ評議会で571議席(8.27%)となっている(そのほかは諸派)。 

それまで大統領による任命であった州知事および首都サナア市長が、地方評議会からの間接選挙によって選出されることとなり、2007年5月17日にその選挙が実施された。州知事20人およびサナア市長の計21人のうち、18人が与党GPCによって占められ、3州(マーリブ、ベイダー、ジョウフ)の知事が無所属であった。当選者は、現職の知事のみならず、現職の副知事や中央政府の現職や元職の閣僚、次官、与党幹部、元大使、元軍幹部などであった。州知事の直接選挙を要求していた諸野党は、選挙のボイコットを宣言したが、投票に参加した野党の地方評議会議員もいた。

2007年、議会議長・イスラーハ党首・ハーシド部族連合長のアブッドラー・アハマルが死去し、長男のサーディク・アハマルがハーシド部族連合を継いだ。イスラーハ党首には、ムスリム同胞団のムハンマド・ビン・アブドッラー・ヤドゥーミーが就任し、議会議長は翌2008年に、GPCのヤヒヤー・アリー・ラーイが選出された。

2009年4月、議会は同年に予定されていた第4回総選挙の2年間延期を可決した。延期の理由は、比例代表制の導入を含む一連の議会・選挙制度改革のためであった。しかし、選挙人登録に多数の不正が発覚したための延期であるとの報道や、ホーシー派(2004年以降、サアダ州で政府軍と武力衝突。イラン革命防衛隊の支援を受ける)、南部運動(通称ヒラーク。2007年以降、旧南イエメンの平和的な再分離独立を求める諸組織の総称)、イスラーム過激派の活動、ソマリア沖海賊への対処など、問題山積の状況がこの総選挙延期に影響しているとの観測もある。

2011年4月に 予定される第4回総選挙のあと、議会において大統領任期と議会議員任期を2年間短縮して元の5年と4年に戻す、選挙制度に比例代表制を導入するなどの憲法改正を行なう予定であったが、2010年12月に与党GPCより、これに大統領の三選禁止規定廃止を加える新たな憲法改正案が提示された。野党は強く反発し、これに反対するデモを呼びかけたが、参加者が集まらず不発に終わった。

しかし、2011年1月、チュニジアの政変に触発されたサーレハ退陣を求める大規模なデモが発生した。サナアでの反政府デモは長期化、常態化し、同様なデモは国内各都市にも波及した。5月以降、部族勢力やイスラーム過激派(アラビア半島のアルカーイダAQAP)と政府軍との戦闘も続き、事態の混迷に拍車をかけた。ホーシー派は、サアダ州に加えて隣接するハッジャ州、ジョウフ州を掌握し、南部では新たなイスラーム過激派であるアンサール・シャリーアが、内陸部で勢力圏を確保して実質的な自治を始めた。サーレハ政権はサウジアラビアに仲介を依頼し、サウジアラビアはGCC外相会議においてこの問題を協議して、GCCイニシアチブ(アブドッラッボ・マンスール・ハーディー副大統領への権限移譲、挙国一致内閣、サーレハ大統領への訴追免除など)を提示した。11月23日、サーレハ大統領はこの調停案に署名し、ハーディー副大統領に権限を委譲。12月7日には、野党勢力のムハンマド・バーシンドアを首相とする挙国一致内閣が成立した。2012年1月21日、議会はGCCイニシアチブに沿ってサーレハ訴追免除のための法案を可決し、ハーディー副大統領を大統領選挙の単独候補に指名した。2月21日に実施された大統領選挙で、ハーディーが当選した(信任投票)。大統領選挙後の2年間を移行期間として、その間に憲法改正、議会選挙、大統領選挙が行われる予定となった。2012年4月、ハーディー政権はサーレハの長男アハマド・サーレハ(精鋭の共和国防衛隊司令官)や異父弟アリー・ムフシン(精鋭の第一機甲旅団長。2004年からホーシー派との戦闘を指揮。2011年にサーレハ辞任を求めるデモに合流)を含む、サーレハ親族の軍高官を更迭した。

しかし、憲法改正などに関わる方針を各政治勢力の代表によって協議する機関とされた包括的国民対話会議の設置が大幅に遅れ、2013年3月にようやく設置された。2014年1月、包括的国民対話会議は連邦制導入などを骨子とする合意文書を発表し、移行期間を1年延長して憲法制定と議会選挙、大統領選挙を1年以内に実施することとした。 

2014年2月、ホーシー派がサアダ州からサナア北方のアムラーン州に進出し、7月には州都アムラーンを占拠した。8月、ホーシー派はサナア近郊に達し、9月に生活基礎物資値上げに抗議するデモに合流してサナア市内に進出した。その後、政府軍と衝突して一部の政府機関などを占拠した。 9月21日、政府とホーシー派は停戦に合意し、バーシンドア首相が辞任した。ハーディー大統領は10月7日にアフマド・アウド・ビン・ムバーラク大統領府長官を首相に任命したが、ホーシー派とGPCがこれを拒否した(本人も辞退)。10月13日、ハーディー大統領はハーリド・マフフーズ・バッハーフ国連大使(元石油相・首相。2011年にGPCを離脱して無所属)を首相に任命した(ホーシー派は拒否せず)。 ホーシー派のサナア占拠に際し、サーディク・ハーシド部族連合長やアリー・ムフシンはサウジアラビアに逃亡した。

 ホーシー派は、ハーディー大統領に対し憲法案作成や選挙準備、経済政策の実施などを要求したが、政府の対応は遅々として進まなかった。2015年1月、ホーシー派はハーディーを軟禁し、翌2月には「革命委員会」を組織して2年間の暫定統治を開始した。3月、ハーディーはサナアを脱出してアデンに向かい、自らの政権の正当性を主張した。その直後、サナアのモスクでAQAPによる大規模な爆弾テロが発生し、幹部を含む多数のホーシー派メンバーが死亡した。これを契機として、ホーシー派はサナアより南方に本格的な侵攻を開始した。同じ3月、サウジアラビアはアラブ有志連合(サウジアラビア、クウェート、UAE、カタル、バハレーン、エジプト、スーダン、ヨルダン、モロッコ、パキスタンが参加)を組織し、ホーシー派への空爆を開始した。ホーシー派は4月にはアデン近郊に達し、アデンを巡る攻防戦が続いた。5月、サウジアラビアとUAEがアデンとマーリブ州に地上軍を派遣し、ホーシー派はサウジアラビアへの弾道ミサイルによる攻撃を始めた。一方、イスラーム過激派では、2014年にアンサール・シャリーアからイスラーム国が分派した。AQAPとイスラーム国は、南イエメンの内陸部や東部で勢力圏を拡大するとともに、ホーシー派とアデンのハーディー政権の双方に攻撃を仕掛けている。

2016年4月、アリー・ムフシンがハーディー政権の副大統領に就任し、首相もアハマド・オベイド・ビン・ダガル副首相(GPC、元通信相)に交代した。5月、UAEと米が支援する南部諸勢力(南部運動を背景とする複数の政治団体、武装勢力)が、ハドラマウト州の州都ムカッラをAPAQから奪還した。7月、サナアのホーシー派とサーレハ支持派は、革命委員会に代わる統治組織として「最高政治評議会」を設けた。

2017年1月、UAEが支援する南部諸勢力は紅海沿岸部に進出し、3月にはモカを掌握した。5月、南部諸勢力の中心的な組織である南部移行評議会STC(UAEが支援する武装組織)がアデンを掌握した(正副大統領は従前からサウジに在住)。12月、サーレハはGPC総会でサウジアラビアとの和平に言及し、サウジアラビアもこの発言を歓迎する意向を示したが、その2日後にホーシー派はサーレハを殺害した。サウジに在住していた長男アハマドは復讐を表明したが、イエメン国内に特段の動きはなかった。

 2018年1月、ハーディー政権が南部諸勢力による旧南イエメン分離独立のための集会を阻止しようとしたことから、ハーディー政権とセキュリティ・ベルト(略称ヒザーム、UAEが支援する武装組織、リーダーは上記STCの副代表を兼ねる)との武力衝突が発生。5月、紅海沿岸部を進撃していた南部諸勢力はホデイダ近郊に達し、イエメン最大の港湾都市ホデイダへの攻撃を開始した(一方、UAEはソコトラ島に地上軍を上陸させ占領)。しかし、ホデイダは陥落せず、戦線は膠着した。12月、国連の仲介によりホーシー派とハーディー政権は和平協議を行ない、ホデイダ州全域での停戦に合意した(ホデイダからの両派部隊の撤退はなされていない)。

 2019年5月12日、UAEフジャイラ港沖合でサウジアラビアのタンカーが攻撃を受け、6月13日にはオマーン湾で日本とノルウェーのタンカーが攻撃を受ける(米英はイランによる攻撃と主張)。7月、UAEはイエメンに派遣していた地上軍(5000人規模)の撤退を開始。8月、ホーシー派との戦闘で死亡したヒザームの指揮官の葬儀をきっかけに、7日からハーディー政権とSTC、ヒザームとの武力衝突が生じ、STCとヒザームは大統領宮殿やアデン市内の主要政府施設を占拠(その後、撤退)。同月13日、テヘランでイラン最高指導者ハーネメイー師がホーシー派広報のムハンマド・アブドッサラームと会談。同月17日、ホーシー派はサウジアラビアのシャイバ油田を無人機10機で攻撃したと声明。9月14日、サウジアラビアのアブーカイク油田とクライス油田が巡航ミサイルと無人機により攻撃される(ホーシー派が攻撃声明を出したが、米などはイランによる攻撃と主張)。同月、ホーシー派はサウジアラビアのナジュラン方面に侵攻し、武器と捕虜を獲得と声明。10月11日には、サウジアラビアのジェッダ沖でイランのタンカーが攻撃された。11月5日、サウジアラビアの仲介により、リヤドでハーディー政権とSTCが和解した。両者は「権力分担協定」に署名し、ハーディー政権はSTCに複数の閣僚ポストを与え、STCの兵力(数万人規模)はハーディー政権の指揮下に入ることとなった。

参考文献

  • 松本弘「イエメンの民主化」『現代の中東』27号(1999年7月)、pp.27-41。
  • ―――「イエメン民主化の10年」『現代の中東』39号(2005年7月)、pp.24-39。
  • ―――「イエメン:政党政治の成立と亀裂」、間寧編『西・中央アジアにおける亀裂構造と政治体制』JETROアジア経済研究所、2006年、pp.95-158。
  • ―――「民主化と構造調整―イエメンの事例から―」『中東研究』500号(2008年6月)、pp.206-211。
  • ―――「イエメン―政変とイスラーム主義―」『中東研究』512号(2011年9月)、pp.17-28。
  • ―――「イエメンの混迷―その背景と特質―」『国際問題』605号(2011年10月)、pp.38-47。
  • ―――「イエメンの民主化と部族社会―変化の中の伝統―」、酒井啓子編『中東政治学』有斐閣、2012年、pp.67-80。
  • ―――「イエメン・ホーシー派の展開」、酒井啓子編『途上国における軍・政治権力・市民社会―21世紀の「新しい」政軍関係―』晃洋書房、2016年、pp.112-129。
  • ―――「イエメンにおける政治と部族」『中東研究』526号(2016年5月)、pp.33-43。
  • ―――「イエメン内戦の背景と特質」『海外事情』64巻9号(2016年9月)、pp.18-29。
  • ―――「イエメンの内戦と宗派」、酒井啓子編『現代中東の宗派問題―政治対立の「宗派化」と「新冷戦」』晃洋書房、2019年、pp.205-226。
  • 「特集 イエメン―忘れられた『アラブの春』の落とし子―」『アジ研ワールド・トレンド』248号(2016年5月)、pp.2-38。
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2019年1月18日

イエメン/選挙

憲法は、議会定数の301すべてを小選挙区により選出すると規定している。1992年に施行された選挙法(92年第41号法)では、選挙権(国籍を有し国内に居住する18歳以上の男女)、被選挙権(同25歳以上)、選挙人登録制、小選挙区単純多数制(比較第1位の候補者の得票が有効投票数の過半数に達しなくとも、そのまま当選。その場合の上位2名による第2回投票はない)、選挙区設置(301小選挙区、人口格差5%以内、選挙区は複数の州にまたがらない)、選挙の運営・管理を行う最高選挙委員会(政府および各政党の代表者を委員とする)の設置及びその職務が規定されている。

1993年4月に実施された第1回総選挙においては、当時の総人口1429万7500人をもとに1選挙区の人口が4万7500人±5%、州別の平均選挙区人口格差が同じく±5%と設定され、全国に301小選挙区(旧北245、旧南56)が設置された。総有権者数は629万900人で、選挙登録した選挙人総数は269万1064人(全有権者の42.8%、うち女性50万1591人)、投票率は登録選挙人の84.5%(全有権者の約36%)。以後の総選挙もこれと同様に実施され、選挙区は人口の変化に応じて選挙ごとに調整されている。議員の任期は当初4年であったが、2001年憲法改正で6年となった。

大統領は直接選挙による公選制で、任期7年、三選禁止。大統領選挙候補者(国籍を有し40歳以上で配偶者が外国人でない者)は、議会(301名)と諮問評議会(111名)の合同会議において定員の5%(21名)以上の推薦を受けなければならず、合同会議は3名以上の候補者を指名しなければならない(候補者が合同会議のメンバーである必要はない)。大統領選挙において、過半数の得票を得た候補者がいない場合は、上位2名による決選投票となる。 

選挙自体は種々の問題をはらみながらも、一般に自由との評価を受けている。しかし、選挙結果比較第1位の候補者がそのまま当選するため、大政党に有利で死票が多い選挙制度となっている。また、選挙のたびに一部の投票所で投票妨害のための暴力事件や混乱が起き、再投票や欠員が生じる事態となる。

2009年4月に予定されていた第4回総選挙は、比例代表制導入を含む議会・選挙制度改革を理由として、2009年4月に議会により2年間延長された。これにより、次回総選挙は2011年4月27日に予定されていた。しかし、2011年1月に始まった大規模な反政府デモにより、この総選挙は実施されず、サーレハ大統領辞任後の2012年2月に大統領選挙(ハーディー大統領信任)が実施された。2013年3月から、新憲法制定のための基本方針を決める包括的国民対話会議が始まった。包括的国民対話会議は2014年1月、連邦制導入などの方針を決定して閉幕した。しかし、翌2015年1月のホーシー派による「革命委員会」設置および3月以降の内戦により、その後はいかなる選挙も行われていない。

(1) 総選挙 

政党・無所属の獲得議席(議席定数301) 
政党199319972003*1
GPC122187229
イスラーハ635346
YSP5607
バアス党722
ハック党200
ナセル統一133
ナセル民主100
ナセル矯正100
無所属485414
301299*2301
  1. 2003年総選挙においてGPCとイスラーハの双方から公認を受け、当選したアハマル議会議長(イスラーハ党首)については、イスラーハの議席に加算した。
  2. 1997年総選挙では、投票の際の混乱により2つの選挙区で当選者を確定できず、2名の欠員となった。 
女性当選者
  • 1993年: 2名(YSP)
  • 1997年: 0名
  • 2003年: 1名(GPC)
1993年総選挙の得票・得票率
政党獲得議席 得票数 得票率 
GPC122640,52328.69%
イスラーハ63383,54517.18%
YSP56413,98418.54%
諸派19政党12142,0076.36%
無所属48600,62027.25%
  • 有権者総数:629万0900人
  • 登録選挙人総数:269万1064人
  • 投票総数:227万1185票
  • 有効投票総数:223万2573票 
1997年総選挙の得票・得票率
政党獲得議席 得票数 得票率 
GPC1871,175,24342.94%
イスラーハ53237,7278.69%
YSP(ボイコット)
諸派10政党5108,2543.96%
無所属54845,626 31,11% 
  • 登録選挙人総数: 454万6306人
  • 投票総数: 282万7369票
  • 有効投票総数: 272万6961票 
2003年総選挙の得票・得票率 
政党獲得議席 得票数 得票率 
GPC2293,465,11757.59%
イスラーハ461,349,48522.51%
YSP7291,5414.86%
諸派19政党5269,2914.49%
無所属14620,61510.35%
  1. GPCとイスラーハの双方から公認を受け、当選したアハマル議会議長(イスラーハ党首)については、イスラーハの得票に加算した。 
  • 登録選挙人総数: 809万7514人
  • 投票総数:620万1254票
  • 有効投票総数: 599万6049票

(2) 大統領選挙 

1999
候補者得票数得票率
アリー・アブドッラー・サーレハ3,583,79596.20%
ナジーブ・カタハーン・シャアビー141,4333.80%
  1. サーレハは現職でGPC公認。
  2. シャアビーはYSP所属の議会議員だが、大統領選は無所属。
  • 選挙人登録総数: 560万0119人
  • 有効投票総数: 377万2941票 
2006年 
候補者得票数得票率
アリー・アブドッラー・サーレハ4,149,67377.17% 
ファイサル・ビン・シャムラーン1,173,02521.82%
ファトヒー・アザブ 24,5240.46%
ヤアシーン・アブドゥ・サイード21,6420.40%
アフマド・マジュディー8,3240.15%
  1. サーレハは現職でGPC公認。
  2. シャムラーン(実業家)は、5野党(イスラーハ、YSP、ナセル統一、ハック党、イエメン人民勢力同盟)による「政党合同会議」の推薦。
  3. サイードは、そのほかの野党による「野党国民会議」の推薦。
  4. アザブおよびマジュディーは無所属。
  • 投票総数: 602万5818票
  • 有効投票総数: 537万7238票
2012年2月21日

アブドッラッボ・マンスール・ハーディー 信任票 662万1921票(信任99.80%)  

 選挙人登録総数 1024万3364人(人口2405万) 

有効投票総数 663万5192票(投票率64.78%) 

・2011年政変におけるGCCイニシアチブの規定に基づく大統領選挙。このイニシアチブには、ハーディー副大統領を唯一の大統領選挙候補とする旨記されており、かつイニシアチブの内容はイエメンの憲法および法律の代替をなし、イニシアチブに対する異議申し立てはできないと記されている。  

参考文献

  • 松本弘「イエメンの民主化」『現代の中東』27号(1999年7月)、pp.27-41。
  • ―――「イエメン民主化の10年」『現代の中東』39号(2005年7月)、pp.24-39。
  • ―――「イエメン:政党政治の成立と亀裂」間寧編『西・中央アジアにおける亀裂構造と政治体制』JETROアジア経済研究所、2006年、pp.95-158。
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2019年1月18日

イエメン/政党

1990年南北イエメン統一において、1981年に南北イエメン統一憲法合同委員会(77年南北国境衝突の停戦協定であるクウェート協定に基づき設立)が作成した統一憲法案が、そのままイエメン共和国の憲法案に採用された。イエメン共和国議会はこの憲法案を承認し、さらに同憲法第39条に規定された「政治団体の自由」を複数政党制の承認と解釈して、その導入を決定した。これにより政府は、統一と同時に複数政党制による総選挙実施を公約として発表した。議会で承認された憲法案は、翌91年5月に国民投票で承認されて正式に発布・施行され、同じ年に政党・政治団体法(91年第66号法)も公布された。 

政党・政治団体法では、政党・政治団体の結成の自由が明記されているが、それはイスラーム、イエメンの統一、旧南北イエメン革命および統一憲法の理念、政治的自由及び人権の尊重、アラブ民族の精神に合致するものとされている。また、特定の地域、言語、宗教などを基盤としてはならないとも規定されている。このほか、政党の結成手続きやその役員構成・会計などが規定され、政党・政治団体の認可・解散等を決定する政党・政治団体委員会(議会担当相を委員長とし、内務相、司法相などを委員とする)の設置およびその職務も規定されている。

法律上、政党の非認可および政党への解散命令は可能だが、現在までそのような例はない。たとえば、「イスラームに合致するもの」という規定と左派政党との関係、「特定の宗教を基盤としてはならない」という規定とイスラーム政党との関係、「特定の地域を基盤としてはならない」という規定と北部山岳地域を基盤とするザイド派イスラーム政党(エスニック政党)との関係などに問題の可能性はあるものの、これまで議論の対象となった形跡はなく、申請を行なった政党はすべて認可されている。また、1994年内戦で党幹部が旧南イエメン分離独立派に合流した諸政党(YSP、ナセル矯正、イエメン民族同盟)も、解散命令を受けていない。

2011年のサーレハ大統領辞任、2012年のハーディー大統領就任のあと、2013年3月から新憲法制定のための基本方針を決める包括的国民対話会議が始まった。包括的国民対話会議は2014年1月、連邦制導入などの方針を決定して閉幕したが、その後ハーディー政権は憲法案作成を行なわず、さらに翌2015年1月のホーシー派による「革命委員会」設置および3月以降の内戦により、政党政治は機能していない。

主要政党

国民全体会議(GPC)

イエメン・アラブ共和国(1990年南北イエメン統一以前の北イエメン)において、1982年にアリー・アブドッラー・サーレハ大統領により設立された同名の大政翼賛団体(各地方・職業団体からの選出700名、政府任命300名)を母体とする政党。統一以前の北イエメンでは政党が禁止されていたため、唯一の公認政治団体(実質的な単独支配政党)として、当時停止されていた議会の役割を果しながら、総選挙を準備する組織として位置づけられた。

統一後の政党・政治団体法施行に際し、政党申請を行なって一般から党員を募集する通常の政党となった(党首はサーレハ大統領)。もともと、アラブ民族主義を基調としながら、国内のさまざまな勢力や政治思想を包含する組織であったが、複数政党制の導入より左派(ナセル主義、バアス主義)や保守派が分離して新党を結成し、大政翼賛的な性格は失った。その後は、アラブ民族主義や革命理念の継承を掲げながらも、サーレハ政権を支持し、脱イデオロギー化のなかで国民経済の発展を優先する現実主義・実務志向の政党となっている。

1993年総選挙(定数301議席)で122議席(イスラーハ、YSPと三党連立内閣、1994年内戦後はイスラーハとの二党連立内閣)、1997年総選挙(単独内閣)で187議席、2003年総選挙で229議席(単独内閣)を獲得し、すべての総選挙で第一党となっている。また、2001年と2006年の地方選挙でも圧勝している。 

1995年に構造調整を受け入れて以降、マクロ経済の安定・拡大と補助金削減や財政再建などによる国民生活の負担増大との間で、政局の運営を続けている。生活基礎物資の価格上昇のたびにデモ・暴動が発生し、政府への強い不満・批判が噴出するものの、選挙では支持を拡大し続けていた。

イエメン改革党(イスラーハ、YIP)

統一後のGPCとYSPの協力関係やナセル主義、バアス主義の左派新党設立に警戒感を抱いた保守派議員がGPCを離脱し、GPCメンバーであった旧北イエメン北部のハーシド部族連合長アブドッラー・ビン・フセイン・アハマル(統一以降、2007年の死去まで議会議長)を党首に仰いで結成した政党。結成には、旧北イエメン南部のムスリム同胞団系のウラマー層も加わり、イエメン最大のイスラーム政党となった(北部部族はシーア派のザイド派に属し、南部はスンナ派のシャーフィイー法学派だが、宗派の違いはこれまで問題となっていない)。

1993年総選挙で63議席(GPC、YSPと三党連立内閣、1994年内戦後はGPCと二党連立内閣)、1997年総選挙で53議席(最大野党)、2003年総選挙で46議席(最大野党)を獲得し、すべての総選挙および地方選挙で、GPCに次ぐ第二党の位置を占める。 

イエメン最大最強の圧力団体とも言うべき保守的な北部部族勢力(ハーシド部族連合、バキール部族連合)を支持基盤とし、南部ウラマー層が政党としての思想や枠組みを提供する態勢をとっている。しかし、「イスラーハは動員力はあるが、集票力に欠ける」と評価されており、北部での支持は得票にはつながらず、議席の多くを南部に依存している。

党首はアハマル、党最高評議会議長はムスリム同胞団系の指導的ウラマーであるヤアシーン・アブドルアジーズ・クバーティー、党諮問委員長はサウジアラビアに近く、イエメン・イスラーム主義の教条派を代表するアブドルマジード・ジンダーニー(現イーマーン大学学長、党内では少数派)。アハマルもサウジアラビアと強い関係を有しており、アハマルとジンダーニーに着目すれば、イエメンにおける親サウジ政党ともいえる。

野党として経済・外交政策でGPCと激しく対立するものの、実質的にはサーレハ政権支持の姿勢を続けており、純粋な野党とは言いがたい。たとえば、1999年大統領選挙では対立候補を立てずにサーレハを支持し、2003年総選挙ではイスラーハ党首のアハマルがGPCからも公認を受け、イスラーハとGPCに両属する議員として当選して、引き続き議長に選出された。最大野党の党首が与党にも属して議長を務めることは、法律的にも政治倫理的にも問題とされておらず、イエメン政党政治の一面を象徴している。しかし、2006年大統領選挙では他の野党4党(YSP、ナセル統一、ハック党、イエメン人民勢力同盟)とサーレハの対立候補(実業家のシャムラーン)を擁立、支持し、活発な選挙戦を展開した。

2007年12月29日、アハマル党首が死去し、ムハンマド・ビン・アブドッラー・ヤドゥーミーが党首に就任した。

イエメン社会党(YSP)

イエメン民主主義人民共和国(統一前の南イエメン)における、マルクス・レーニン主義を掲げる単独支配政党。統一後の政党・政治団体法施行に際し、政党申請を行なって一般から党員を募集する通常の政党となった。ソ連崩壊と南北イエメン統一を背景に、党中央委員会は社会主義の放棄を決定したが、党内の混乱により党大会を開催できず、党の綱領自体は変わっていない。

1993年総選挙で56議席を獲得するが、GPC、イスラーハに次ぐ第三党に甘んじる(GPC、イスラーハと三党連立内閣)。党最高幹部が1994年内戦を引き起こし、旧南イエメンの分離独立(イエメン民主共和国の独立)を宣言したが、YSP議員の大半はこれに合流せず、首都サナアに残留した。内戦中にYSPは資産等を凍結され、連立内閣から排除されたが、内戦終結後も政党や議員としての活動には制限を加えられなかった。資産凍結の継続に抗議して、1997年総選挙をボイコット。2003年総選挙で復帰するも、7議席にとどまった。1999年大統領選挙では候補者を擁立できなかったが、2006年大統領選挙では他の野党4党(イスラーハ、ナセル統一、ハック党、イエメン人民勢力同盟)と候補者(実業家のシャムラーン)を擁立した。

旧北イエメンとの経済格差が解消されない旧南イエメンを支持基盤とする政党となるべき存在ではあるが、選挙では旧南イエメンでもGPCの得票が圧倒的となっている。 

アラブ・バアス社会主義党イエメン地域指導部(バアス党)

複数政党制の導入に伴い、バアス主義者がGPCから分離して、イラク系バアス党のイエメン支部として結党。結党時の党首は、ムジャーヒド・アブー・シャワーリブ(統一以前からのサーレハ大統領の側近で、アハマル・イスラーハ党首の義弟)だが、1994年内戦後に大統領顧問に任命され離党。その後、イラクのサッダーム・フセイン大統領(当時)に近いカーシム・サッラームが党首となる。しかし、党内対立からサッラームは離党して、新たにバアス民族党(総選挙での当選者なし)を設立した。

1993年総選挙で7議席、1997年および2003年総選挙では2議席を獲得。

ナセル人民統一組織(ナセル統一)

統一直前のアデンで結成された、旧北イエメンのハムディー大統領(在職1974~77年、南部を基盤とするリベラル派として北部部族勢力と対抗した)の支持勢力による政党。ナセル主義に基づく公正を訴え、旧北イエメン南部や旧南イエメンのアデン、アブヤンで一定の支持者を有する。1993年総選挙で1議席、1997年および2003年総選挙では、GPCと選挙協力を行なって3議席を獲得。 

ハック党

旧北イエメン北端のサアダを基盤とする、ザイド派(シーア派)カーディー(法学ウラマー)や旧サイイド層(シーア派初代イマーム・アリーの子孫。旧北イエメン革命前のイエメン・ムタワッキル王国における支配層。革命により特権剥奪)などが、GPCから分離して結成したザイド派のイスラーム政党であり、ホーシー家の活動を母体とする。1993年総選挙で2議席を獲得したが、その後は議席なし。 

その他
  • 民主ナセル党(ナセル民主。1993年総選挙で1議席のみ)
  • ナセル人民矯正組織(ナセル矯正。1993年総選挙で1議席のみ)
  • イエメン人民勢力同盟(ザイド派のイスラーム政党)
  • イエメン統一グループ(アデンの知識人層による政党)
  • イエメン民族同盟(旧南イエメン・ラヘジの保守層による政党)
  • 国民社会党
  • 人民民主同盟

政党以外の政治組織・政治勢力

ホーシー派(アンサール・アッラー)

1980年代、イエメン北部のザイド派地域(シーア派、信徒はハーシド部族連合とバキール部族連合に属する部族民)において、サウジアラビアが支援するワッハーブ派の布教活動拠点「ハディースの家」が設けられた。これに危機感を抱いたサイイド(預言者ムハンマドの子孫)のホーシー家(ザイド派ウラマーの家系)当主のバドルッディーン・ホーシーは、「信仰する若者」というザイド派の復興運動を開始した。これがホーシー派の起源とされる。1990年南北イエメン統一以降の民主化ではハック党を結成し、総選挙に参加した。

長男フサイン・ホーシーは、反ワッハーブ・反サウジの演説を繰り返したが、2003年のイラク戦争後に、それは反米の内容を多く含むようになり、多くの若者の支持を得た。しかし、2001年米同時多発テロ以降、米国の対テロ戦争に協力していたサーレハ大統領は、フセインに対し反米演説をしないよう求めたが、フセインは聞き入れなかった。2004年、サーレハは治安部隊をフセイン拘束のために派遣したが、支持者と銃撃戦になって拘束に失敗。武力衝突が拡大したため、その後はアリー・ムフシン(サーレハの異父弟。現在はハーディー政権の副大統領)を司令官とする第一機甲旅団がその制圧にあたったが、ホーシー派を抑えることはできなかった。父バドルッディーンと長男フセインが武力衝突のなかで死亡すると、次男アブドルマリクなどの親族が、ホーシー派を率いた。2005年以降は、イラン革命防衛隊の支援を受けている。その後、彼らはホーシー派と呼ばれるようになるが、彼ら自身は長く自称を持たず、のちに自らを「アンサール・アッラー(アッラーの支援者)」と名乗った。

イエメン政府は、ホーシー派はイラン流の「ウラマーによる政治」や「ザイド派イマーム(1918~1962年のイエメン・ムタワッキル王国国王)の復活」を求める集団であると喧伝したが、ホーシー派自身は特段の政治思想を展開せず、政府軍の攻撃に防御・反撃しているのみとの姿勢を取り続けた。

当時、これはサアダ事件と呼ばれ、サアダ州の一部における衝突であったが、2011年の政変に乗じてホーシー派は北部3州(サアダ州、ハッジャ州、ジョウフ州)を掌握し、ハーディー政権下の包括的国民対話会議に参加した。しかし、2004年1月、包括的国民対話会議がホーシー派が反対する連邦制の導入に合意すると、翌2月より南下を開始し、同年9月にはサナアを占拠した。翌2015年1月、ホーシー派はハーディー大統領を軟禁下に置き、翌2月に「革命委員会」を組織して、2年間の暫定統治を宣言した。翌3月からはサナア以南に本格的な進攻を開始し、ハーディー政権およびそれを支援するサウジアラビア主導のアラブ有志連合との内戦に至った。

南部運動(ヒラーク)

2007年、アデン近郊で公務員解雇に反対するデモが生じた。その後、同様なデモが多発し、暴動に発展する例も増えた。1990年南北イエメン統一以降、政治経済の北部偏重に南部住民は大きな不満を持っており、これがデモや暴動の背景となっていた。そのような騒擾状態のなか、同年に旧南イエメンの平和的な再分離独立を求める南部運動(通称ヒラーク)が組織された。その内実は、さまざまな勢力や団体の集合体であり、まとまった組織とは呼べないものであったが、2011年政変後の包括的国民対話会議に参加し、連邦制の導入を主導した。

2015年以降の内戦では、この南部運動を背景とした複数の政治団体や武装勢力が南部諸勢力と呼ばれ、UAEの支援を受けて2016年以降の沿岸部での戦闘の主体となっている。ハーディー政権と対立し、2017年5月にアデンを掌握した南部移行評議会(Southern Transitional Council, STC)は、この南部諸勢力の中心的存在。ほかにも、ラヘジ州を基盤としてUAEの支援を受けるセキュリティ・ベルト(略称ヒザーム)があり、これが武装組織としては最大のものとみられている。

参考文献

  • 松本弘「イエメンの民主化」『現代の中東』27号(1999年7月)、pp.27-41。
  • ―――「イエメン民主化の10年」『現代の中東』39号(2005年7月)、pp.24-39。
  • ―――「イエメン:政党政治の成立と亀裂」間寧編『西・中央アジアにおける亀裂構造と政治体制』JETROアジア経済研究所、2006年、pp.95-158。
  • ―――「イエメン・ホーシー派の展開」、酒井啓子編『途上国における軍・政治権力・市民社会―21世紀の「新しい」政軍関係―』晃洋書房、2016年、pp.112-129。
  • ―――「イエメン内戦の背景と特質」『海外事情』64巻9号(2016年9月)、pp.18-29。
  • ―――「イエメンの内戦と宗派」、酒井啓子編『現代中東の宗派問題―政治対立の「宗派化」と「新冷戦」―』晃洋書房、2019年、pp.205-226。
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2019年1月18日

トルコ/現在の政治体制・制度

(1)議院内閣制から大統領制へ:体制変更が内包する危うさ

トルコの政治体制は、2018年6月24日の選挙を以って議院内閣制から大統領制に移行した。この体制変更は、従来の1982年憲法に変えて新憲法を制定するのではなく、1982年憲法の関連条項を変更することにより実施された。また、国会や市民社会での熟議を通して、何のためにどのような制度が必要であるかについて、国民的総意を時間をかけて醸成するという段階を踏むことなく、エルドアン大統領の旗振りの下、国会における与党の公正と発展党の多数を頼みにして実現された。大統領制移行を国民に問うた2017年国民投票でも、2018年6月に実施された大統領選挙でも、エルドアンは50%を辛うじて超える支持によって望みを果たした。ただし、「選挙」の項目で説明するように、2018年選挙での勝利は、公正と発展党が野党の民族主義行動党と選挙協力を行ったことにより可能になったものであり、与党単独での得票率と国会議席比率は過半数に届かなかった。対して、主要野党は議院内閣制に戻すことも含めて政治体制を再検討することを主要マニフェストに掲げて選挙を戦った。

結果的にはエルドアンの勝利となり、大統領制移行が実現したが、他方で、エルドアンはすでにこの数年の間に権威主義的な大統領制を事実上、実践していたとみることも可能である。実質的に大統領の一存で執政を行い、政治権力を牽制しうる政治・社会的権威(司法機関やメディア、大学)の人事や経営方針にも介入や弾圧を行使し、後で詳述するように、折からの国内外の危機的状況への対応のために非常事態的な政治手法に訴えてきた。その意味では、大統領制に移行したところで、この数年の統治のあり方が統治機構の再編を伴いながらも続くに過ぎない、という見方も可能であろう。しかし、エルドアンの執政手法に強く反発する批判的世論が過半数に迫る状況が2015年選挙以来、固定化しており、大統領制に関わる法的根拠が整えられたところで、エルドアンの執政手法の正当性を高めるとは限らないという不安感が残る。また、市民社会的な各種自由が制限されるだけでなく、ソーシャル・メディア上でのエルドアン批判者へのリンチや法的・社会的制裁が拡大してきたなかで、こうした状況が新体制下でも継続・悪化した場合、2013年6月にイスタンブルから全国各地に飛び火した反政府デモに類似する抗議運動が発生し、政治社会的混乱を招く可能性も十分に考えられる。

(2)議院内閣制時代の大統領と大統領公選制導入の経緯

2014年の大統領選挙までは、国家元首は大統領だったが、議員内閣制をとり、大統領は行政権を憲法規定上は持たなかったため、法律上は大統領制や半大統領制とはいえなかった。しかし、2014年8月の第一回公選大統領選挙の結果、普通選挙によって選ばれた大統領として、憲法上の大統領権限を最大限に行使して執政に関与することを正当化するエルドアンが当選したことによって、議員内閣制から事実上の半大統領制に移行した。後述のように、現行憲法は大統領の意向次第で権限を拡大解釈できる文言となっていたため、エルドアンは憲法の関連条文を全く変更することなく、大統領選出方法を国会での間接選挙から国民直接選挙へと変更しただけで、大統領制的な執政を事実上、実施してきたのである。さらには、2017年4月の憲法改正国民投票と2018年6月大統領選を経て、法的にも大統領制への移行を実現した。

2007年以前は、大統領は国会議員である必要はなく、議員総数の5分の1以上の書面による推薦を以て立候補でき、国会議員定数の3分の2以上の多数(秘密投票、第1回および第2回投票で決まらない場合、第3回投票は過半数)により選出されていた。2007年10月21日の憲法改正国民投票により、任期は従来の7年(再選不可)から5年(2選まで可)に変更された。いずれにしても、議員が大統領に選出された場合には、議員辞職と党籍離脱によって党派的に中立的立場をとることが求められていた。

現行の1982年憲法では、1980年以前に国会が混乱し、政治機能を発揮できなかったことを反省し、議院内閣制であるにもかかわず、国会に対する大統領の立場が強化されていた。大統領は首相の指名・任命権を持つ他、必要に応じて国会を招集し、国会の混乱に際しては解散総選挙を宣言する権限を付与された。また、国会が可決した法案の再審議を要求して国会に差し戻したり、再審議後にそのまま可決された法案を国民投票に付託したり、憲法違反の疑いがあると考える法律や政令については憲法裁判所に合憲性を審査させる権限も有した。行政や司法に対しても、大統領は国家監督委員会委員や各種上級裁判所の幹部裁判官および検事の一部を選任する権限を有してきた。軍に対しては、統帥権を有し、参謀総長の任命と軍の出動命令権を持つが、有事の際には参謀総長が指揮を執ることが定められている。以上のような大統領の権限がどれだけ実践されるかは、実際には個々の大統領がどのように行使するかにかかっており、その意味で、大統領の個性に大きく依存してきたといえる。国会の決定にあまり介入しない大統領もいれば、たとえば、2000年から2007年まで大統領を務めたセゼルのように、イデオロギー的に対立する政府の政策や人事に次々と干渉することも可能だった。

このような大統領の権限にかんする曖昧さがそもそも存在する上に、2007年5月に憲法の大統領選出条項が改正され、国会議員による間接選挙ではなく、国民の直接選挙によることになった。そのような憲法条項改正のきっかけになったのは、2002年総選挙以降、国会の過半数を優に上回る議席を得ていた公正と発展党から大統領が選出されることを阻止しようと、当時の唯一の院内野党だった共和人民党が軍部、憲法裁判所など、伝統的に世俗主義勢力を構成してきた国家機関と画策し、従来の法解釈に反する方法に訴えて、与党の大統領候補(当時のギュル外相)の選出を阻んだことである。公正と発展党の議席数は最初の2回の投票での選出に必要な議会定数の3分の2には達していなかったが、3回目の決選投票で単純過半数によって選出されることが確実視されていた。しかし、第1回投票をボイコットした共和人民党と、憲法裁判所出身の当時のセゼル大統領が、憲法裁判所に第1回投票の無効を訴え、憲法裁判所もそれを認める判決を下した。投票の定足数について特別の規定がないため、通常なら国会議員定数の3分の1のはずであるが、共和人民党らは国会議員定数の3分の2が定足数であると主張し、憲法裁判所もそれを認めたのである。つまり、共和人民党が投票をボイコットする限り、第1回投票は成立しないことになるため、新大統領選出はその状況では不可能となった。これを不当とする公正と発展党は、早期解散総選挙に打って出るとともに、大統領選の定足数を3分の1と明記する憲法条項改正を行い、さらに早期総選挙で再び国会過半数を制し、ギュル大統領の選出を達成した。その上で、国民の直接選挙で大統領が選出されるよう、憲法も改正した。こうして、憲法における大統領と三権、特に首相や政府との関係について一切の見直しや議論がされないまま、ギュル大統領が任期満了となる2014年をもって、公選大統領の時代に移行することとなった。

2014年大統領選で勝利したエルドアンは、そもそも半大統領制あるいは大統領制に前向きで、大統領として積極的に政治的リーダーシップを発揮したいとの意向をしばしば示してきた。大統領就任とともに法律上は党籍離脱し、議員辞職を強いられたが、大統領選出まで3期にわたり首相を務める間に、党組織人事と選挙候補者リスト選定を通じて党内で自派閥を形成していった。自身のライバル候補は結党以前から政治運動を共に作りあげてきた仲間であっても容赦なく排除していった。公正と発展党結成プロセス以来、トルコ政治を共に動かしてきたギュル元大統領や、公正と発展党政権期の外交政策の青写真を描き、自身が首相にまで抜擢したダウトオールは象徴的例である。しかし、その強権的で自己中心主義的な政治手法は全体としては、エルドアン首相期前半にトルコが経験した高度経済成長と生活水準の向上、国際社会での発言力向上といった、肯定的側面と結びつけて受け止められた。そうした手法に対して仲間や支持基盤から批判が漏れ聞こえては来るものの、トルコのさらなる発展や危機回避には彼のような強いリーダーが必要だと考える人々にとっては、エルドアン首相期後半以降の危機と権威主義化の時代において、彼を結局は支持する主要な理由になっている。

2014年の大統領就任以来、エルドアンは事実上の半大統領制を敷いて内政と外交を統率し、閣僚や党内の人事、選挙候補者リストもエルドアンのチェックと承認なしには首相は決定できないという状況だった。それは、かつて世俗主義派のセゼル大統領が公正と発展党政権の人事に介入したレベルをはるかに上回っていた。なによりもセゼルは裁判官出身であり、政党や議会に内側から働きかける権力基盤を有していなかった。エルドアンはその両者を有しており、しかもそれを独占しようとしてきた。例えば、ギュル大統領の任期満了に伴ってエルドアンが大統領に選出された際、世論調査でエルドアンを上回る人気を誇っていたギュルの党首と首相就任を妨げるために(http://www.internethaber.com/ankette-erdogan-ve-gul-soku-548550h.htm)、当時外相だったダウトオールを自ら首相(それゆえに党首)に抜擢した。しかし2年後にはそのダウトオールに対して首相辞任を強いた。ダウトオールは「清潔政治法」制定を公言して政治家の汚職疑惑解明に積極な姿勢を見せることで、与党政治家の汚職疑惑に対して野党だけでなく与党支持基盤からも高まっていた反発に応えようとしていた。また、2015年6月国政選挙で得票率と議席比率の双方で過半数を割り込みながらも国会第1党の座を守った際には、長年の政治的・イデオロギー的ライバルである共和人民党との連立政権樹立に前向きだったとされる。エルドアンは、前者については自身や自身の家族への疑惑が取りざたされていたこともあって阻止し、後者については連立協議のイニシアチブを党首らに任せることなく連立不成立の機運へと導き、そのまま異例の早期解散総選挙へと持ち込んだ。2015年11月には公正と発展党は議席比率で過半数を回復し、単独政権を維持することに成功した。ダウトオールはある意味、選挙の洗礼を受けずにトップダウンで首相の座に座っていたが、この二つの選挙を通じて首相として国民の信任を得たはずであった。それにもかかわらず、2016年5月にエルドアンによって辞任を強いられたのである。

代わりに1990年代のイスタンブル市長時代から側近として彼を支え、公正と発展党政権下で長く交通・海運・通信大臣を務めてきたビナリ・ユルドゥルムが首相に据えられ、大統領制移行までの最後の首相を務めた。

2013年春以降、エルドアン政権は多くの国内外の政治的危機に直面してきた。2013年5月末からの反政府デモとそれへの過度な暴力的鎮圧政策に対する国内外からの批判、同年秋移行から年末にかけてのギュレン派との対立激化と政府要人やその親族の汚職疑惑、2014年秋のコバニの戦闘に象徴される、内戦中のシリアにおけるクルド自治地域宣言と連動したトルコ内でのクルド武装組織(PKK)の活動活発化やシリアで勢力拡大する「イスラム国」へのトルコ政府支援に関する国際的疑念の高まり、トルコ・ルートによるシリア難民の欧州流入をめぐるEUとの関係悪化、こうした過程全体を通じての、政府に批判的メディアや市民組織の弾圧・閉鎖、政治・市民活動家や学術研究者の不当な逮捕や長期拘留、パージが深刻化してきた。2016年5月にはクルド系左派の諸人民の民主党議員のパージを主目的として、当時、起訴されながらも不逮捕特権のゆえに裁判が行われていない議員について、その時点で起訴された案件を有する議員だけに限定して不逮捕特権を解除する時限憲法改正を実現した。この後、同党共同党首を始め多くの議員が逮捕され、有罪判決を受けて留置されることになる。2016年7月の失敗したクーデタはこうした流れをさらに加速させた。非常事態が宣言され、パージや政府批判への弾圧は空前の規模に達した。こうした背景の下、2017年1月に大統領制移行のための憲法改正法案が国会で可決され、同年4月の国民投票によって僅差で承認された。

(3)2017年憲法改正による大統領制の特徴

2017年国民投票により導入された大統領制の概要は次の通りである。具体的には2018年6月の大統領選挙後に、大統領令によって新しい体制が次第に整えられていくことになる。

大統領と国会議員の任期と選挙(詳しくは「選挙制度」の項を参照)

大統領(40歳以上の高等教育修了者)と国会議員(一院制、定数600名、18歳以上に被選挙権)は同日選を基本とし、任期5年とされる。国会には大統領や内閣不信任決議の権利がない代わりに、定数の3/5(360)以上の議員の賛成を以って早期解散総選挙を行い、任期途中の大統領に選挙を強いることができる。大統領は原則3選禁止であるが、2期目に国会の早期解散総選挙によって任期が短縮された場合に限って3期目に立候補することができる。逆に大統領は、いかなる理由であれ、何時でも大統領選挙を決断できる。例えば、国会における党勢の改善を試みるたの解散総選挙も可能である。

大統領の権能

大統領は国家元首であり執政府の長として以下の権限を有する。国会が可決した法律を公布したり、国会に再審議のために差し戻したり、国会内規や憲法に反しているとして憲法裁判所に廃止を求める裁判を起こすことができる。国会議員被選挙権を有する国民の間から副大統領や閣僚を任免する。幹部職官僚を任免する。国際条約を批准し公布する。国家安全保障政策を策定し、必要な対策をとる。トルコ国軍の出動を命じる。受刑者の病気や障害、高齢を理由として量刑を減免する。予算と決算の法案を国会に提出する。

また非常に重要な権限として、執政にかかわる大統領令を発布でき、そこには、省庁設立・廃止、目的と権限、組織構造、省庁の中央と地方の組織設立の決定も含まれる。大統領令は国会の承認を必要としないため、大統領は大統領令を以ってほとんどありとあらゆる執政を単独の意思で行うことができる。管見の限り、憲法による大統領令発布制限要件は以下のとおりである。憲法の人権や個人の権利義務にかかわる政治的権利義務と関連すること、特に法によって規定すると憲法が定めていること、既存の法律に明文規定があること、である。大統領令と法律が矛盾する場合、法律が優先する。大統領令の規定と同じ事柄について法律を制定した場合、法律が優先する。ただし、このような大統領令制限を要する条件が生起した場合に、どのような手続きで制限を実行するのかは憲法では定められていない。大統領が人権等にかかわる憲法上の規定に反する執政を許されるのは、非常事態宣言下で発令する大統領令によってである。ただし、そのような大統領令は、3か月以内に国会の承認を得る必要があり、さもなくば3か月をもって自動的に無効となる。換言すれば、3か月を上限とする人権侵害が大統領の単独の判断で可能となる。

司法との権力分立は以前に増して大統領の影響が大きくなった。判事と検事の人事を司る判事・検事高等会議の名称が判事・検事会議と改められ、委員数は22名から13名へと削減された。法務大臣と法務次官が職権の一部として会議構成員となることが規定されているが、この2名は大統領の政治任用による。その他、大統領は判事と検事の中から4名を選ぶことが規定された。直接的に選出できることになる。他方で、国会は4名を最高裁判所や行政最高裁の判事から、3名を大学の法学部教授と弁護士から、計7名を選ぶ。国会は当然ながら数的に勝る与党の意向が反映されやすく、大統領と同じイデオロギー的立場の委員や大統領が御しやすい委員が多数を占めやすい懸念がある。

大統領制移行は2018年6月の大統領選挙を以って行われたが、大統領が選出後も党籍を維持することを認める改正は、2017年国民投票後に直ちに施行された。2014年の大統領当選に伴って党籍を離れていたエルドアンは、2017年5月に公正と発展党の党籍を回復し、同時に党首に就任した。

<国会の権能

国会は立法、予算と決算の法案の審議と承認、通貨発行、交戦権発動、国際条約批准の承認、定数の3/5以上の賛成による恩赦が特に憲法改正法案で明記されている。他方で、大統領令という立法に基づかない執政手法に広大な執政領域が付与されているために、立法府として行政上のルールを整え、執行府をチェックするという一般的な存在理由が事実上はどれだけあるのか疑問である。選挙制度の項目で説明するように、新体制においても従来通りのドント式の大選挙区制がとられており、議会の過半数が大統領の所属政党の議員で占められている場合、国会は形式的存在となる可能性が強い。また、民主的体制では国会には執政府のチェック機関としての役割が期待されるところであるが、前述のように大統領不信任決議の権限はなく、自らの任期を犠牲にして大統領選挙を前倒しさせる以外に大統領の政治責任を問う手段はない。

大統領に対する刑事的訴追権については以下の通りである。大統領が刑法上の犯罪を行ったとして国会の過半数が訴追を提案し、定数の3/5以上の秘密投票により可決した場合、会派勢力比に応じて訴追委員会が結成される。同委員会は2か月以内に訴追報告書を国会議長に提出する。訴追報告書は国会で審議されたのちに、定数の2/3以上の賛成(秘密投票)をもって弾劾法廷(実質は憲法裁判所)に送致される。訴追プロセス中の大統領は早期選挙決定権を行使できず、弾劾法廷で有罪となった大統領は失職する。大統領就任中に犯したとされる犯罪行為については、退任後も上記の訴追手続きが適用される。現行の制度では、大統領が党首として党内人事と国会議員候補者リスト選定の権力を一手に握っている。ために、大統領所属政党が2/5以上の議席を占める国会では、訴追による大統領解任はかなり困難である。ちなみに、副大統領と大臣についても職務に関連して行ったとされる犯罪の訴追については大統領と同じ手続きが適用される。職務と無関係の犯罪行為については議員の不逮捕特権規定が適用されるとされ、就任中の司法的処罰適用は国会の決定による。離任後は不逮捕特権は終了し、就任期間は時効期間に参入されないため、副大統領や大臣に対して任期後に刑事責任を問う可能性は広く開かれている。これに対して、職務関連かどうかにかかわりなく大統領の就任中のあらゆる犯罪行為について訴刑事責任を問うためにクリアーすべき条件はかなり厳しい。

2017年憲法改正案は大統領制への急な移行のために用意されたため、10年以上にわたって国会や市民社会で議論されてきた、軍事政権が制定した現行憲法を市民的かつ民主的な精神に基づいた新憲法に置き換えるという精神とは程遠い内容の、既存憲法の部分的変更にとどまった。しかも、大統領制移行による制度改編の全貌もはっきりしないままに、さらにいえば国家機構改編という強大な権限が一任された大統領に、権威主義化を強める現職大統領がが選出された。大統領をチェックするための権力分立の回避が意図された制度だとして、トルコ国内では「トルコ風大統領制」とも呼ばれるが、危機に際してトップダウンで迅速な執政を目指したものだとしても、国内外の危機や不安を長期的に収束するものとして機能するか、未知数である。

(4)大統領制による内閣発足後の動きについて

エルドアン新体制は7月10日に最初の大統領令(Cumhurbaşkanlığı Kararnamesi)を発布(議会の承認不要)して始動した。これにより、旧来の26省体制を16省に整理するとともに、省以外の主要組織の位置づけや責任関係が明文化された。

主要閣僚の配置

同大統領令と同時に閣僚名簿も発表された。改選前の内務相、法務相、外相の留任、選挙前の国軍参謀総長の国防相就任という布陣から、国内外のクルド問題やシリア内戦をはじめとする外交政策での現状維持路線が予測される。また、国庫・財務大臣には、改選前にエネルギー相だった娘婿のべラット・アルバイラク(Berat Albayrak)が横滑りした。アルバイラクは経営学で博士号を取得し、エルドアン政権との結びつきの深さで知られるチャルク財閥(Çalık Holding)で経営責任者を務めるなど、経営畑を歩んできた。しかし、自らを抜擢してくれたカリスマ的な義父の意向に反した政策が財政政策的に不可欠と思われる場合に、エルドアンに意見することは恐らく困難である。エルドアンは、不況脱出という火急の問題への対応に加え、国家予算執行全般についても、自らの意向が最もスムーズに反映できる体制を整えたといえる。

軍に対する文民統制の完成

大統領制移行に伴う省庁再編は、エルドアンやトルコのイスラム復興勢力の多くにとって積年の課題だった、軍部に対する文民統制の完成という点でも、大きな意味をもった。まず、大統領令第4号により国防省の管轄下に軍が置かれることが明記された(第799条i項)。この大統領令以前には、トルコ国軍は多くの国に一般的な国防省の管轄下ではなく、議院内閣制における最高政治責任者としての首相に対して、内閣が策定した軍事政策の実施に関わる責任を負っていた。他方で2013年夏に「国軍内規に関する法」(Türk Silahlı Kuvvetleri İç Hizmet Kanunu)が改正されるまでは、対外脅威に対する国土防衛と並んで、「憲法に規定されたトルコ共和国体制を守ること」が国軍の主要任務であった。これはイスラム復興運動やクルド民族主義運動が従来の政治体制の変更、つまり、世俗主義を放棄してイスラム的政策を容認したり、トルコ民族主義的中央集権体制を緩和して国民の多様なアイデンティティに応じた多元主義的・地方分権的統治システムを取り入れる、といった政治要求の高まりを阻止するために、内政に干渉し、場合によってはクーデタを実行して軍事政権を敷き、そうした「国内的脅威」を除去することも、軍の主要任務であることを意味する。実際、内政への軍の介入は様々な形で実施され、トルコの民主主義の成熟という点で、長く主要な課題とされてきた。

この内政に関わる任務が政権や国会に対する政治監督者の地位を意味したがゆえに、軍は政権や司法に対して事実上は高度な自律性を維持してきた。2002年以来続いた公正と発展党単独政権が一歩ずつ実現してきたのが、このような軍の高度な自律的地位をはく奪し、文民統制を法的にも実際的にも確立することだった。二つの象徴的変化を取り上げるとすれば、一つは、かつて軍が憲法上の多様なメカニズムを通じて「国内的脅威」の排除に務めてきたが、そのメカニズムを着実に切り崩してきたことである。高等教育や放送に関わる大枠を設定する会議体に憲法規定として配置されていた軍代表ポストが2004年にまず廃止された。上述の2013年の法改正では、「国内的脅威」から体制を守ることが軍の主要任務から削除された。

また、より短期的な安保・治安政策を策定する国家安全保障会議と、軍に関わる法規定やより中長期的安保政策について議論する高等軍事評議会は、かつては圧倒的に軍中心のメンバー構成だったが、文民優位の構成へと再編されてきた。特に後者については、思想・イデオロギー的理由から軍人のパージを決定する会議体としても長く機能してきたが、2016年クーデタ後の対応として組織改編がなされた際にようやくその機能は廃止された。同時に、かつては首相と国防相のみの文民委員に対して参謀総長以下、ジャンダルマを含む4軍司令官やその他の陸・海・空軍大将(orgeneral、oramiral)などが居並んでいたものを、クーデタ後に軍委員を削減し、代わりに外務や内務、法務など主要閣僚を配置して人員バランスを調整していたが、今回の大統領令ではさらに国庫・財務相、国民教育相が新たな常任委員に加わった。従来、軍は予算に関してもかなりの自律性を持っていたと言われるが、文民委員の布陣は、予算に関しても文民政権の介入が始まる可能性を示唆している。

軍部の政府との責任関係という観点からいえば、大統領令第4号により参謀本部が国防省所管となったことは述べたが、参謀本部だけでなく、陸・海・空軍司令部(komutanlıklar)はそれぞれが個別に(つまり参謀本部とも別個に)国防省所管となり、それぞれのトップは個別に(つまり参謀総長経由ではなく、直接的に)国防相に対して責任を負うことが規定された。ジャンダルマは2016年クーデタ後にすでに内務省所管になっていたため、今回のこの組織関係再編によって、軍全体の文民政府に対する一体としての自律性が法的には解体されることになった。人事権も、幹部階級の将官(general、amiral)については大統領の(大統領令第3号第9条)、その下の階級の士官(subay)については国防相の権限となった。従来、NATOの首脳会議や国防相会議に参謀総長はプロトコルの上下関係が曖昧だったために参加しなかったが、こうして文民統制の組織間関係が確定したことに伴い、今後は文民政治家を背後から補佐する役割で参加するとみられる。参照

もう一つの文民統制強化への変化としては、軍を司法的にも文民システムに組み込むことが目指された。1961年以降、トルコでは軍関連の裁判所が複数設立され、いわゆる軍内部の規律に関わる案件以外についても、何らかの点で軍に関わる限り、全てこれらの裁判所で扱われてきた。例えば、軍の敷地で発生したが、他国であれば一般の刑事事件として文民裁判所で扱われる案件であっても、軍内部の裁判所の管轄とされた。つまり、軍関連の裁判所の管轄は非常に広範で、文民裁判所はその軍関連裁判所の管轄事項について別途、審理を進めることはできなかった。しかし、2004年の国家治安裁判所廃止を皮切りに、2010年には軍幹部が憲法裁判所における弾劾法廷で裁かれる道が開かれ、軍内部司法機関の管轄から民間人の関与する案件が除外されることになるなど、軍の司法的自律性は浸食されてきた。2017年の大統領制移行に関する憲法改正案には、残る軍関連裁判所にかかるすべての憲法規定が削除される条項が盛り込まれており、しかも国民投票により承認されたのちには直ちに適用される条項とされたため、国民投票の承認後に軍関連裁判所は早速、廃止されている。

こうした文民統制の確立期に政府と軍部の結節点である国防相人事は大統領と軍の双方に信頼関係があり、経験に依拠した権威を示せる人物である必要がある。その要職には前参謀総長のフルスィ・アカル(Hulusi Akar)が任命された。トルコ国軍は世俗主義の擁護者を自任し、しばしば内政や組閣人事に介入し、文民政権からほとんど独立して作戦を実行する伝統を有していたが、エルゲネコン裁判による軍幹部パージ以降、政権とイデオロギー的に近い軍幹部が登用されてきた。アカルもそうした一人であるが、2016年クーデタを起こした組織のトップとしての責任追及を免れていた。それは逆に言えば、政権とイデオロギー的に近い幹部の手薄さを示すとも言えよう。当面は、エルドアン大統領を前参謀総長の新国防相が補佐しながら、人事面でも精査しながら新しいトルコ国軍の再編的立て直しが進められていくことになる。

非常事態宣言の終了

選挙後の7月21日をもって非常事態は終了した。2016年7月の失敗したクーデタ後に非常事態宣言が発布されて以降、政権は3か月ごとに更新してきたが、新体制発足後に政権がその更新手続きを取らなかったことによる自動的な終了であった。選挙までと比べて、治安に関わる状況が大きく変わったわけでは特になく、むしろ選挙戦を非常事態宣言下で行うことが政権に有利に働くために、漫然と延長し続けたという見方もできよう。他方で、クーデタやクルド問題にかかわる警察の取り締まりや司法手続き・判断に非常事態宣言終了が大きな意味をもつかもはっきりしない。新体制下で政府批判勢力に対してどのような対応がとられていくのか、現段階で見通すのは難しい。

参考文献

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2019年1月18日

トルコ/最近の政治変化

(1) トルコ共和国の政治変動略史

トルコ共和国は1923年10月に樹立が宣言されて以降、1924年3月にカリフ制を廃止し、大統領を国家元首とし、西洋世界を見習って国民主権や世俗主義を柱とする国家建設を進めた。世俗主義は、国家の正当性原理に留まらず、国民アイデンティティの脱宗教化や、教育や法体系の世俗化(近代西洋的制度の導入)にまで及び、1937年には世俗主義条項が憲法に挿入された。加えて、オスマン帝国が民族分離独立運動によって瓦解した経緯から、建国エリートはトルコ民族文化への同化による国民建設こそが国家の存立基盤だと考えた。その結果、非トルコ系民族文化の主張や、国境を越える労働者の連帯活動を唱える共産主義運動は新生国家への主要脅威とみなされ、抑圧された。共和制樹立から1945年までは、共和人民党の一党制が敷かれ、体制基盤の確立に注力された。

第二次世界大戦の終結にともなって、民主主義が国際的な政治スローガンとなった。国内的にも準臨戦態勢で国民生活は疲弊し、体制への不満が高まっていた。そうした中で指導者層において、体制の枠組みが確立された上、西洋世界への仲間入りを目指す以上、複数政党制に移行するべきだとの議論が優勢となり、民主化が決定された。

1950年には選挙による政権交代が実現し、民主党政権が誕生した。選挙制度としては、大選挙区非拘束名簿式連記投票制による多数代表制が採用されたため、選挙区の第1位政党が当該選挙区議席を独占することになり、1950年代を通じて民主党は国会で圧倒的多数を維持した。しかし、1950年代後半には貧富の格差が拡大し、経済不況にも見舞われたため、民主党政権批判が高まった。政権維持のために民主党が、軍隊を動員して共和人民党の選挙活動を妨害し、政権批判を封じ込めるためにメディア全体への検閲体制を強めると、反政府感情は軍部の若手将校や学生らの間にも広がっていった。また、民主党は、かつて世俗化政策を進めた共和人民党を「無神論者」や「共産主義者」呼ばわりすることで、宗教感情の側面から国民の歓心を買おうとした。そしてついに、1960年5月に軍幹部が収拾に乗り出し、民主党幹部を逮捕し、党の解散、国会の停止を宣言した。

1960年5月から1961年10月にかけて続いた軍事政権は、その後のトルコの政治に重要な影響をもたらした。まず、軍が「民主主義の回復」と「公正な選挙による早期民政移管」を掲げて介入し、それを実現したことで、「民主主義体制擁護の貢献者としての軍部」として軍部の政治介入を正当化するイデオロギーが定着するきっかけとなった。軍事政権である国家統一委員会は、内部に軍政の恒久化を唱える強硬派を抱えていたが、結果的には、政治結社や言論の自由にも言及する1961年憲法を、国民投票による賛成多数を得た上で制定し、国会第一党の権力濫用を防ぐための制度改革を行った。国会には上院が新設され、立法府の活動をチェックできるように憲法裁判所も設置された。また、国会内で一定以上の野党勢力が存在し、与党をチェックできるように、中選挙区比例代表選挙制が導入された。その上で、1961年10月に民政移管のための総選挙を行った。

その一方で、軍事政権下では旧民主党幹部は懲役刑に、党首等3人は絞首刑に処せられた。また、国会を監督するために新設された上院で、国家統一委員会(すなわち軍幹部)の委員全員が終身議員に着任し、1980年代まで軍出身者が就任することになる大統領にも一定数の議員を選任する権限が付与された。さらに、軍幹部が主導する国家安全保障会議が新設された。これは、政権に対して国家安全保障の問題で強制力のある意見を述べる機関と位置づけられ、事実上、軍部が政治に直接介入することを許す憲法上の機関となった。国家安全保障会議は、国内の宗教的、民族的、イデオロギー的問題が体制の安全を脅かすと判断した場合には、一般に内政問題とみなされるものについても、強い影響力を発揮することになるのである。

こうして軍部は「民主主義の後見人」であるとの言説とイメージを創りだし、軍部の政治介入を正当化していった。さらには、軍部が民主主義の危機だと考える状況では政治に直接介入していくことになる。

例えば、トルコの1960年代から70年代は、左翼の労働運動や学生運動と、それへの対抗勢力としてトルコ民族主義やイスラム復興勢力がそれぞれ高揚し、大学構内や街中で抗争や衝突を繰り返すという不安定な時代であった。国会では、経済政策を巡って紛糾しては内閣が交替を繰り返しており、社会不安と政治的麻痺があからさまになっていた。そこで軍部は、1971年に、事態収拾のためには政権奪取もやむをえずとの書簡を政府に突きつけ、内閣総辞職と軍の後押しを受けた超党派内閣の承認を要求し、国会にそれを受け入れさせた。しかし、1970年代には各種イデオロギー運動はますます高まり、新選挙制度があだとなって、国会は小党分立に陥り、またもや政権交代が繰り返されていた。国民生活は年率100%を超えるハイパー・インフレで疲弊し、抗争の激化による社会不安も極大化する中、1980年9月に再び軍部が政権奪取を宣言した。以後、約3年の間、軍部による国家安全保障評議会が政治を行った。

この軍事政権もまた、民主主義が機能できるように、その阻害要因を取り除くことを公言して行われた。前回にも増して徹底的なパージが行われ、旧政党は全て非合法化されて幹部は懲役刑に処せられた上で参政権を剥奪された。また、1982年に新憲法が制定され、1983年には総選挙も実施されたが、軍事政権のチェックを通った政党と政治家のみが参加できる制限的な選挙となった。

さらに、1982年憲法でも、上院は廃止されたものの、軍部の政治介入を可能にする国家安全保障会議が再び設置され、1980年代を通じて軍部の政治的影響力が公然と発揮されることになった。まず、軍事政権内閣が大統領府評議会に改編され、以後6年にわたって、体制原理に関わると考える法律を審査する権限を与えられた。また、大統領には国家安全保障評議会議長が就任しており、7年の任期を約束された。さらに、1987年まで新憲法は国民投票にかけられなかった。1987年には1980年クーデターにより公職追放された政治家たちの公職復帰が許され、1987年の国政選挙を以て1980年クーデターの制度的遺産がある程度精算されたが、その後も何度かの条項改廃を経ながらも、1982年憲法がトルコの体制の枠組みを規定している。

しかし、その後も軍の政治介入は続いた。1997年に軍部がイニシアティブをとった政権交代劇が起きた。そもそも1995年選挙の結果、親イスラムの福祉党が国会で第一党となったが、軍幹部が大統領に対して第二党の中道右派政党に首班指名をするよう圧力を与え、成功したとされている。しかし、その時の国会第二党と第三党の連立が上手く機能しなかった上に、金銭スキャンダルも発覚し、1996年7月には福祉党を首班とする連立を認めないわけには行かない状況になった。しかし、福祉党連立政権はイスラム系諸国との外交に積極的になりすぎたことが軍を刺激し、1997年2月の国家安全保障会議で軍側からイスラム復興による体制の危機を宣告されるに至った。この会議がきっかけとなって、連立政権が崩壊した上、軍部はメディアや司法関係者、大学当局に対してイスラム復興対策を講じるように要請し、福祉党非合法化を始めとする復興勢力弾圧が実行されたのである。

世俗主義国家エスタブリッシュメントと、国是に批判的な党是を有する政党との対立はその後も続いてきた。しかし、2010年の憲法改正は世俗主義国家エスタブリッシュメントの権力基盤を揺るがすものとなった。軍部批判のタブーを覆しかねない条項改正として、1980年軍事政権メンバーを起訴することを禁じた条項が削除され、軍政期の拷問やパージ等の責任を司法的に問うことが可能となった。その他、軍内人事を決定する高等軍事会議の決定についても司法的救済の道が開かれ、思想・信条などを理由として軍から懲戒解雇された人々に文民法廷でその正当性を問う権利が認められた。また、司法人事組織の高等判事・検事会議の委員選出方法も変更され、下級判事の直接投票による選出枠が上級判事による選出枠を上回るなど、司法人事のあり方にも大きな変更が加えられた。

このようにこの20年間でかなりの民主化改革が進むとともに、従来の世俗主義国家エスタブリッシュメントと政党・議会との力関係にも本質的な変化が生じ始めている。それはアイデンティティや思想・信条の多様性を尊重する、成熟した民主主義へと展開していくと期待された。しかし、世俗主義とトルコ民族主義という二つの建国以来の国是の下で積み重ねられた抑圧は、それを是正しようとする局面になって、別の新たな抑圧に道を開いた。世俗主義の克服を目指した福祉党の流れをくむ公正と発展党は、一旦、権力を確立すると、批判を許さず、公正で清潔な政治から遠ざかり、強権化に傾くようになった。それは、「選挙」や「政治体制」の項目で詳述するように、国内で旧来エリートとは異なる文化資本を有する新興エリートが急速に富と権力を拡大したことによる権力バランスの反転が引き起こす摩擦や、シリア内戦を中心とした地域国際社会の政治変動とトルコのクルド問題が一体化してトルコ政治を揺るがすようになったという、国内外の大きな構造変動と関わっている。しかも、その構造変動は、アメリカが中東介入に及び腰になるのに対して、ロシアがシリア内戦へ関与を通じて中東でのプレゼンスを高めるというグローバル大国間の力関係の変化に敏感に反応しながら展開している。21世紀のトルコの政治変動は、国際的な政治変動を反映する鏡と言えるのかもしれない。

(2) EU加盟プロセスと民主化改革

1987年に選挙プロセスが大幅に民主化されたものの、民主化課題は山積していた。しかし、トルコが1987年にEU正式加盟を申請したことが契機となり、今日に至るまでEUの民主化基準を物差しとして民主化改革が進められた。

前項との関係で重要な改革は、軍部の政治関与を排除するものである。国家安全保障会議は文民政府代表の多数が確保され、同事務局長も文官出身者を任命するよう法改正された。また、高等教育やマスメディアを統制する委員会において軍代表常任委員ポストが廃止された。イスラム主義やクルド民族主義など国是と相容れない主義主張を掲げる人たちをも扱ってきた国家治安裁判所にも軍籍判事が常駐していたが、まず完全文民化された上で、最終的には裁判所自体が廃止された。2006年のEUによる進捗報告書は、軍幹部が政治的影響力を行使しようとして公式・非公式に政治的発言を行うことも重大な問題としているが、制度的には大幅に文民化が進んだといえる。

また、言論・思想の自由についても、特にマイノリティ言語での公的コミュニケーションが大幅に自由化された。1990年代冒頭に、クルド語での出版や音楽活動が解禁され、2000年以降には、マイノリティ言語での放送が始まり、2009年1月には国営放送にクルド語専門チャンネルが開設された。また、マイノリティ言語での命名や選挙活動も可能となった。

政治参加の自由化という面では、1995年の法改正によって、大学の学生や教員が政党の党員になる権利や、上級公務員が労組を結成する権利が認められた。政党側にも、青年組織や女性組織、海外動員組織を設立することが認められるとともに、2003年の法改正では、政党を非合法化するまでに、当該政党への警告発令など、いくつかの手続き的段階が設定され、政党側にも対応の余地が与えられることになった。

こうした改革の進展が認められ、トルコは2005年10月にEU加盟の最終段階である正式加盟交渉を開始した。つまり、制度的にはかなりEUの民主化基準に近づいてきていると認められたのである。

しかし、それにもかかわらずトルコの加盟交渉の道のりは厳しいものとなった。一つはトルコが対立してきたキプロス共和国が2004年にEUに加盟したことで、同国がトルコの加盟を承認しない限り、加盟が無理となったことである。また、EU側も東欧・バルカン諸国の加盟を矢継ぎ早に実施したことによる拡大疲れがあった。それは新規加盟の中進国に対する財政負担という面だけではなく、文化的アイデンティティの面で「ヨーロッパ」かどうかが近代以降、常に論争の的になってきたムスリム多数派国家のトルコを受け入れることへの抵抗という面も強かった。2005年に正式加盟交渉を開始する時点で、財政プランの面で少なくとも以後10年はトルコの加盟はあり得ない、ということが明示されており、その後も、欧州内のムスリム移民差別感情が盛り上がるたびに、EU・トルコ関係も軋んだ。ムスリム・アイデンティティを全面に押し出すエルドアン政権が強権化する過程と、シリア難民受け入れをめぐってEU世論が大きく揺れた時期、フランスなど欧州内大国の中心都市部で「イスラム国」の自爆攻撃が多発した時期が重なったために、こうした摩擦は、なおさらに厳しいものとなった。

2018年の大統領制移行によってトルコではエルドアンの強権化は制度化され、後戻りのできない地点に差し掛かっていると欧米では見られているため、もはやトルコのEU加盟はあり得ない、という雰囲気がEU世論では支配的にみえる。しかし、エルドアン新体制が発足してすぐにトランプ米大統領がトルコやイラン、中国など、今後の国際政治構造変動において鍵を握る国に制裁を発動し、それが欧州経済をも揺るがしかねない事態になっている。トルコも新体制の下で、多様な政治改革を行っていく一環として、EU基準での改革をEUとも協力しながら進めていく意向を示すなど、柔軟かつ多元主義的外交政策を志向することを示唆している。トルコ外交の基軸を作ってきた米国との同盟関係が揺らぐ一方で、シリア内戦をめぐってはロシアに翻弄され続けたトルコがロシアの覇権下に組み込まれてしまうような外交的選択をするとは考えられず、その際にはEUとの関係が必ずバランサーとして重要になってくるだろう。EUとの関係は、内政における民主化やその他の高度成長社会に向けた取り組み目標としてだけでなく、今後は変動する国際政治バランスのなかで巧みにかじ取りをしていくうえで、トルコにとってできるだけいい関係を築いておくべきアクターと位置付けられていくと思われる。

参考文献

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2019年1月18日

トルコ/選挙

(1) 選挙制度

選挙権

トルコでは、1934年に女性の国政参政権(地方参政権は1930年)が認められて以降、男女ともに1人1票の秘密投票権が付与されている。現在は18歳以上の男女が選挙権を持つ。ただし、兵役履行中の者、士官学校の学生、服役囚には選挙権は認められていない。また、禁治産者や、公務を禁じられている者は有権者とは認められていない。憲法により投票は国民の義務とされ、投票不履行者に罰金を科すことが定められているが、厳格に適用されてはいない。

投票は有権者台帳に記載された情報に基づいて行使される。有権者台帳は、かつては4年に1度、担当調査官が戸別訪問を行い、有権者の氏名、両親の名、生年月日、出生地、現住所を中心としたデータを収集し、各有権者に選挙人識別番号を交付して作成されていた。しかし最近では、内務省が管轄する住民登録データに基づき、高等選挙会議(Yüksek Seçim Kurulu)が、上述のような理由による選挙権の剥奪や再付与を選挙ごとに同定して選挙権保有者リストを作成・公表し、それを高等選挙会議の事務所やホームページなどで個々人が確認し、必要に応じて訂正する手順となっている。

トルコは欧州への移民を始めトルコ国籍を維持する在外居住者を多く抱えるため、従来、陸路や空路でのトルコ入国地点税関所在地に投票所を設置することで対応してきた。しかし、2012年の選挙法改正により、在外居住者が事前登録によって居住地至近の在外公館で投票することも可能となった。

大統領選挙

大統領は当初は国会議員の間接投票により、7年任期で再選不可だったものが、大統領公選制導入を決定した2007年の法改正で5年、最大2期までと変更されたが、大統領制移行にかかわる2017年の憲法改正により、5年任期で原則2期までとなった。また、大統領の被選挙権は40歳以上の高等教育修了者のうち議員被選挙権資格を有するトルコ国民であることが条件とされた。立候補には、従来は国会議員20名以上の推薦、もしくは直近の総選挙で各政党の得票率の合計が10%を超える政党の共同推薦を得ることが必要だったが、大統領制移行とともに、二つ目の条件が5%に引き下げられ、さらには10万人以上の有権者の署名を集めて立候補する道も開かれた。有効投票の単純多数(過半数)を獲得した候補が大統領に選出されるが、候補者がすべて50%以下の得票率の場合、最初の投票日から数えて2度目の日曜日に、初回得票率上位2名の候補者に対して第2回投票を行い、相対多数を得た候補者が選出される。もしも第2回投票において候補者辞退などで選挙の候補者が一人となった場合には、単純多数の得票が当選の条件となる。この投票で唯一の候補者が単純多数を獲得できない場合には、選挙が全体として仕切り直され、最後の投票結果の公式発表から45日を経過したのちの最初の日曜日に第1回投票が行われる。任期中に大統領職が空位になった場合には、残りの任期に応じて対応が変わる。次に述べるように新体制下では大統領選挙と国会議員選挙は同日実施が原則であることに鑑み、国会議員にとって任期満了までに1年以内の期間しかない場合は、その状況が発生した日から60日以内に両選挙が同時に実施される。もしも任期満了までに1年と1日以上の期間が残されている場合には、大統領選が補欠選挙として単独で実施される。その場合、補欠選挙で選出された大統領の任期は、本来の大統領の任期までとなり、その任期終了にあわせて国会議員選挙と同時に大統領も改選となる。補欠選挙で選ばれた大統領の任期は、大統領の3選禁止規定における算出根拠とはされない(補欠選挙による任期終了後にまだ2期、大統領を務めることが可能である)。

議院内閣制の時代には解散総選挙を発動する権利は国会が有する他、大統領も一定の条件下で行使できた。「政治体制」の項目で説明するとおり、大統領制への移行に伴い、大統領選の同日実施を条件として大統領に国会解散権は付与された。この決断は大統領の一存に委ねられる。対して国会も、議員定数3/5以上の賛成を得れば、国会の早期解散総選挙との同日選による大統領選挙実施を決定できる。このようにして、たとえば刑法犯罪以外の政治責任を任期中に大統領に問う道が開かれた。任期5年で原則3選禁止の大統領は自身の決断による早期選挙を実施した場合には、期数制限を超えて出馬できないが、2期目に国会の決定による早期選挙を強いられた場合には3期目への出馬が可能となる。戦争により選挙実施が困難だと国会が決定した場合には、選挙を1年間(その後も状況に応じて)延期できる。

国会議員選挙

1982年憲法下では国会は一院制で、議員の任期は2007年の法改正により5年から4年になったものの大統領制移行とともに再び5年に変更された。議員の被選挙権は18歳以上の小学校卒業以上の学歴を有するトルコ国民で、過去に特定の犯罪による有罪判決を受けた者等以外に認められている。

国会定数は大統領制移行にともない従来の550議席から600議席となった。選挙方式は従来どおりの大選挙区拘束名簿式の比例代表制(ドント方式)により議席配分が行われる。議席数は、原則、各県が1つの選挙区とされ、各県に最低1議席が保証された上で、当該選挙区の有権者数に比例して分配される。ただし、議席定数が19から35までの県は2つの、36以上の県は3つの選挙区に分割される。海外選挙区は存在しないため、在外の投票箱は現地で厳封されたままトルコに持ち込まれて開票され、政党別に海外票全体として集計された後、各党の国内得票総数に照らした選挙区別得票率に応じて海外票が配分され、各選挙区の各党総得票数に上乗せされる。各選挙区の選出議員は海外得票数配分後の各政党得票総数に応じて決定される。

1970年代の国会が小党分立で混乱したことを踏まえ、同様の事態を避けるために、1987年総選挙の際に議席獲得のための最低得票率が定められた。普通選挙においては得票率の全国平均が、補欠選挙においては選挙実施地域全体での得票率の平均が、それぞれ有効投票数の10%を越えない政党は議席を獲得できない。10%の全国平均最低得票率は大統領制移行後も維持されている。ただし、2018年大統領選でのエルドアンの過半数獲得と、同日実施の国会議員選挙における野党の民族主義行動党(MHP)の10%の得票が、ともに危ぶまれたことから、両者は国会議員選挙について「選挙協力法」(正式には「選挙の基本規定および有権者登録に関する法ならびにいくつかの法に関する改正」、2018年3月13日可決、法律第7102号)を成立させることで、そのリスクを回避しようとした。この法改正によれば、所定期間内に選挙協力協定書を高等選挙会議に提出することで、当該協定を結んだ政党の得票数を合算して全国平均最低得票率10%を超えるかどうかが判断されることになる。他方で、当該協定に参加する各党は党別候補者リストを提出し、党別得票数に応じて名簿上位からの議席配分をすることができる。本来、この法にはその他の小政党への配慮という意図は全くなかったが(そうであれば同最低得票率を引き下げるか撤廃すればよいのだが)、結果的には、野党側も選挙協力グループを結成できれば10%という足かせを克服できることになった。ただし、その場合も党単独での得票率がドント方式による議席配分の最低レベルに達しなければ、議席獲得には至らない。

議席に空席が生じた場合には、任期期間中に1度のみ、普通選挙から30ヶ月を過ぎた後に補欠選挙が実施される。ただし、空席が定数の5%を超えた場合には国会の決定により3ヶ月以内に補欠選挙が実施される。補欠選挙は次期普通選挙予定時期まで1年未満の場合には実施されない。

(2) 議院内閣制時代の選挙結果

1990年代の選挙概観

トルコ国民の投票行動は、1950年代以来、左右の政党支持が約2~3割対7~8割の割合で推移してきた。選挙の勝敗を左右してきたのは、国民の最大の関心事である経済状況に加え、政治スキャンダルや連立政権を混乱なく維持運営する能力の差であった。例えば、1995年選挙は、清廉さと社会的公正を追求するイメージで支持基盤を固めてきた社会民主人民主義党(SHP)の汚職が地方自治体で発覚した後であり、支持者からの信頼を失った上に、祖国党(ANAP)と正道党(DYP)という中道右派政党がそれぞれ政権を担当したにもかかわらず、高インフレと所得格差を是正できず、左右の主要政党に選択肢がない中で行われた。この選挙で僅差で第一党となったのは、それまで政権を担当した経験がないという点で有権者には試されていない選択肢であり、他方で地方行政では実績を上げ始めていた福祉党だった。

その福祉党(RP)が率いる連立政権は、イスラム色の強い外交や内政的パフォーマンスを展開したとの理由で、軍部のイニシアティブにより崩壊に導かれ、党自体も非合法化された。経済安定を望んで政治的不安定化を嫌う浮動票は福祉党を離れ、その代わりに1999年選挙で票を伸ばしたのは、左右の両立場からトルコ民族主義的主張を強調する民主左派党(DSP)と民族主義行動党(MÇP)だった。1990年代後半以降、国軍と左派クルド民族主義ゲリラのクルディスタン労働者党(PKK)との間で衝突が激化し、国軍に徴兵された青年たちにも多数の犠牲者と被害がでていたが、1999年選挙の直前になって、PKK党首のオジャランが逮捕されたことが、国民のなかにトルコ民族主義的高揚感を高めていた。トルコ系スンナ派ムスリムの優越を主張する極右民族主義の民族主義行動党が10%台後半の票を得たのはこれが初めてで、当時の世論のあり様を象徴している。 

2002年国政選挙

2002年選挙は、任期満了より1年半の前倒しで行われた。当時の連立政権を構成していた祖国党(ANAP)の複数の閣僚について2000年頃から、過去の経済政策の中で不当な利益を得たり収賄があったのではないかとの疑惑が国政を揺るがし続けていた上、そうした政治状況が金融市場に悪影響を及ぼし、経済危機の不安が常にささやかれていた。そして2001年2月には、連立内閣のエジェヴィト首相(民主左派党、DSP)とセゼル大統領(当時)が国家安全保障会議の冒頭で口論となり、首相が会議を放棄したことが株価の大暴落を引き起こし、ついに経済危機へと発展した。口論の原因は、大統領が議題に予定されていないにもかかわらず、政権の財政政策や汚職疑惑などについて首相を厳しく批判したためだといわれている。加えて70代後半のエジェヴィト首相は、2002年の春頃から入退院を繰り返し、健康不安説がメディアで公然と論じられるようになっていたにもかかわらず、首相ポストに固執し続けたため、連立相手の政党だけでなく、党内からも退陣要求が出始め、結局、解散総選挙の決定が下された。

2002年選挙では、それまでの連立政権を形成していたDSP、民族主義行動党(MHP)、ANAPがいずれも大幅に票を減らした。その代わりに票を伸ばしたのは、DSPの左派票を奪った共和人民党(CHP)と、右派票を幅広く獲得した新生の公正と発展党(AKP)である。

AKPは、1998年に非合法化された親イスラム系の福祉党、それを引き継いだものの2001年にやはり非合法化された美徳党(FP)の所属議員が結成した政党である。党首のエルドアンは、福祉党(RP)時代にイスタンブル大都市市長としてイスタンブルの都市開発と環境・基盤整備で実績を残し、国民的な人気を誇った。任期途中で世俗主義原理に反する詩を朗読したとの理由で逮捕され、ますます国民的人気を高めた。その後、エルドアンはRPからFPまで党の権力中枢を掌握していた古参幹部と袂を分かち、若手幹部とAKPを立ち上げ、若さと指導力に溢れるリーダーを待望する国民の期待を高めた。また、古参幹部が別に新党の至福党(SP)を結成したのに対し、エルドアンらAKP幹部がRPの政治路線を自己批判し、国民を包摂する中道路線の上に、民主化と経済安定を最優先させることを明示したことにより、AKPへの好感が増し、その大躍進を後押しした。

 AKP政権は国会の過半数を確保した安定政権を樹立し、積年の課題であったインフレも一桁まで低下させることに成功し、経済の上向き基調を維持した。また、外交的にも、前政権までの基本的な立場である欧米との協調路線を維持しながらも、イラク戦争では世論の反発を重視してアメリカ軍への協力を一部断り、EU加盟プロセスでも民主化改革をさらに進めた。その一方で、完全加盟に対する欧州諸国からの保留・妨害的態度には毅然と振る舞った。こうした協調と自律のバランスのとれた方針によってAKP政権はこの後、長期的な単独政権維持を可能にするだけの支持を維持していったのである。

2007年国政選挙

公正と発展党(AKP)は2007年秋に予定されていた任期満了総選挙によって二期目の単独安定政権を目指していたが、2007年5月の大統領選が混乱し、2007年7月22日に解散総選挙が実施された。

当時の憲法条文によれば第2回目までの投票で議員総数の2/3にあたる367票を獲得した候補が、それがかなわなかった場合には、第4回目までの投票で単純過半数の276票の獲得をした者が、それだけの票を得た時点で大統領に選出されるとの規定だった。つまり、国会で過半数の議席を有する政党があれば、最終的にはその政党が支持する候補は選出可能なはずであった。当時の議会でAKPは367議席には届いていないものの過半数は維持しており、第3回投票で単純過半数をもって同党の候補者が難なく選出される見込みだった。候補者には、当時、欧米諸国政府や国内の中道層で幅広く信頼を勝ち得ているギュル外相(当時)が擁立された。しかし、法案や政府人事への拒否権を有する大統領を与党勢力が獲得することは、政府と議会に対する統制メカニズムを失うことになると、軍部や当時のセゼル大統領、野党第一党の共和人民党(CHP)ら世俗主義勢力が恐れ、与党批判のキャンペーンを始めた。軍部や大統領が与党を批判する声明を発表し、世俗主義系市民団体が大都市を中心に全国各地で毎週末のようにデモを組織した。

このような状況において、野党のCHPは、大統領選出のための議会定足数も367であると主張して初回の投票をボイコットした。その上で、同党と世俗主義派で自身も憲法裁判所長官出身のセゼル大統領はそれぞれ、憲法裁判所に対して第1回投票の定足数不足による無効の認定を訴えた。そして憲法裁判所もこの訴えを認めたのである。第1回投票が成立しない限り、もはや新大統領選出は不可能なことから、 この国会での大統領選出は状況的に不可能と判断した与党が、それ以上の混乱をさけるために解散総選挙を決断した。  

それまでの政権としての実績からAKPの圧勝は間違いないと見込まれていたため、中道の左右諸政党は左派と右派という枠組みで合併もしくは選挙協力を模索した。右派ではともにかつて政権を担ったこともある祖国党(ANAP)と正道党(DYP)が合併を、左派では野党第一党のCHPと民主左派党(DSP)が選挙協力を目指した。後者は成立したものの、前者は一旦、トルコの保守政党の原点である民主党(DP)と同じ名前の下に合併することに合意したにもかかわらず、候補者リスト作成をめぐって対立し、合併に失敗しただけでなく、ANAPが選挙に候補を擁立することさえできなかった。こうして両党は選挙以前に国民の信頼を失い、中道政党としての基盤を盤石にしようともくろむAKPに対し、伝統的中道政党の没落を決定づけた選挙となった。

左派は 前回並みの得票を確保することはできたが、全国平均最低得票率を超えた勢力が増加したあおりで、議席は大きく減らすことになった。

国会第3党として新しく議席を確保したのは、極右トルコ民族主義の民族主義行動党(MHP)である。同党の勢力バロメーターは左派クルド民族主義ゲリラのクルディスタン労働者党(PKK)の活発度である。国軍とPKKの交戦が激しさを増していた1990年代を通じて10%に迫る勢いを維持していたが、1999年の選挙直前にPKK党首が逮捕されたことを受けて国民のトルコ民族主義感情が高まり、MHPは得票を一気に伸ばした。その後、2003年のイラク戦争後にイラク北部のクルド自治区(クルディスタン地域政府)の安定と自律性が強まると、そこを拠点としたPKKのトルコ国軍への攻撃やトルコ主要都市での爆弾爆破事件が2004年頃から活発化し、トルコ国内での反クルド的トルコ民族主義・国家主義の世論が再び高揚してきた。こうした世論を背景として、MHPは再び票を伸ばした。

一方のクルド民族主義系政党はといえば、単独で議席獲得の条件である全国平均最低得票率を満たすことがなかなか難しく、民主社会党(DTP)は候補者は無所属で立候補するという方法をとった。無所属候補は各選挙区(県)において10%以上の得票率を獲得すれば、最低得票率を満たすことができるため、クルド系住民が大多数を占める東部・南東部地域での当選が確実視されるからである。党としては30議席以上を見込んでいたとの報道も見られたが、結局は20議席を獲得した。

全体としてみれば、選挙はAKPの勝利に終わった。それは、同党が選挙区トップを逃したのは14選挙区のみという圧勝だった。この結果は、世俗主義体制勢力との間に強い緊張をもたらすものであり、実際、新しい国会でギュル候補が再度、大統領選に立候補した際には、混乱が予想された。しかし、AKPは、一層の経済成長やEU加盟実現など多くの重要な政策課題に取り組むために安定した国会運営を行うとして、国民と野党に対して協力を求めた。また、そのためにも国内の多様な考えに配慮した政治を行うと宣言した。野党側も前回大統領選で政治的混乱を招いたことが国民の不興をかったことを踏まえ、国会において政策論で闘うとの立場をとった。こうした状況下で、ギュル候補が大統領に当選し、AKP系勢力が政府、議会の多数、大統領を独占することになった。ギュル大統領は、政治的緊張を和らげるため、政府とは独立した立場ですべての政党、あらゆる国民に対して中立的な大統領となることを宣言した。

2011年国政選挙 

2011年6月12日の任期満了に伴う国政選挙は、2002年から単独政権を率いてきた公正と発展党(AKP)の勝利が確実視されていたため、焦点は野党を含めた議席バランスとなった。AKP政権はそれまでの2期の間に一人あたりGDPを米ドル・ベースで約3倍にし、主要先進国が経済危機・不安に陥る中で年率7~9%の驚異的成長率を維持することに成功した。また、国際政治の舞台でも、中東地域の諸問題について仲介外交で存在感を見せ、国民の自信を高めた。そのため、選挙関連の世論調査では選挙直前半年は同党が安定して40%後半~50%前後の支持率を得ていた。AKPは、政権与党として選挙の度に得票率を伸ばすという、前例のない選挙結果をたたき出し、単独政権3期目に突入した。

議席バランスが注目を集めたのは、新国会での最大の課題と目されている新憲法の起草・採択にそれが重要な意味を持つためである。新憲法の要請は、AKP政権2期目以降、トルコの政治議題として断続的に浮上した。AKPは2007年選挙に至る過程で、軍部や司法による同党の政権運営や政治活動を妨害する動きのなかで(「2007年国政選挙」の項を参照)、立法府の優位を確立する政治構造を実現するためにも新憲法制定を主要政治課題と公言するようになった。同党は世俗的プロフィールで知られる高名な憲法学者グループに依頼して具体的な草案を作成させた。しかし、同党の主たる関心は、政軍関係における文民統制の確立と憲法体制における世俗主義イデオロギーの緩和にあったため、より自由な政治社会を志向する憲法草案を提示したにもかかわらず、世俗主義やトルコ国民の統合が脅威にさらされるとの反対世論がメディアで多く取り上げられると、新憲法制定への機運は一旦、遠のいた。

2011年選挙にあたって新憲法制定が再度浮上した背景には、その後の政治状況の新展開がある。まず、AKP政権の転覆をねらった世俗主義的政治グループの計画に、軍部の現役幹部が参加していたとして逮捕される事件が起きた。しかも、その政権転覆計画は、1990年代以降の多くの未解決暗殺事件や、宗教や民族の違いを理由として過激グループが起こしてきたとされたテロ事件をも含む、トルコ政治史に長年、影を落としてきた大規模な謀略の一部にすぎないのなのではないかとして、さらなる捜査や新しい逮捕劇が続く大事件へと発展した。社会的騒乱を軍幹部が関与して引き起こしていたとの疑いが濃厚になるなかで、世俗派の世論においても軍部への信頼が大幅に低下していった。こうして、そもそも1980年からの軍政下で成立した現行憲法を根本から作り直すべきだとの社会的合意が初めて生まれたのである。

もう一つの重要な背景はクルド問題である。政権1期目から政府はクルドの文化的権利の拡大を中心に改革を進めてきたが、特に2008年以降、イラク北部のクルディスタン地域政府とトルコの関係を大きく好転させて以降、国内のクルド問題についても根本的な解決に向けた取り組みを進めていた。2010年にはその集大成として民主的イニシアティブと名付けた政策パッケージを公表し、クルド語での政治活動解禁やゲリラの武装解除と社会への再統合も含めた、包括的な解決のプランを示した。これはトルコ民族主義的な国民アイデンティティのみを承認する現行憲法に比べて、より多元的なアイデンティティへの移行を目指したものである。しかし、より具体的にどこまで多様なアイデンティティ間の平等を法的・制度的に認めていくかをめぐって国内世論に大きな対立があり、国土の西部や中央部を中心に強いトルコ民族主義の世論を敵に回して政権の支持基盤を掘り崩しかねない問題でもあった。このため、2011年総選挙が視野に入ってくると、一転、トルコ民族主義的な世論を動員するためのレトリックが強調されるようになり、大きな改革が2期目に実現することはなかった。

こうした背景において、野党勢力の中でも特に注目されたのはクルド系左派の平和と民主主義党(BDP)である。10%の全国平均得票率を下回れば議席を得られないため、票田が東部・南東部およびイスタンブルに集中している同党はリスクを避けるために、無所属での出馬を決定した。また、かつて対立してきたクルド系左派の政治勢力やイスラム系の著名ジャーナリストとの選挙協力によって、議席を大きく伸ばした。(選挙後の報道によれば、29名の無所属議員がBDPに移籍した。他のクルド系小政党議員や政治犯としての有罪歴のある議員らはBDP党員とはならないが、統一会派を結成した。)BDP伸張の背景には、イラク北部でクルディスタン地域政府が成立して以降、クルド系の人々の間でクルド・アイデンティティと文化の権利の要求が具体性を増しながら定着してきたことがある(要求内容については「政党」の該当項目を参照)。AKP政権下で進んだ制度改革や国民意識の変化の結果、10年前にはタブーだったクルド問題を公に議論することができるようになり、クルド系マスメディアの自由化(国営テレビ・チャンネル、地方局の開設を含む)も進んだため、AKPのクルド系支持層の同党支持を強固にしたが、同時に、民主的政治プロセスにおいてクルドの権利を実現していこうとする機運も高まり、それがBDPへの支持を拡大したと考えられる。

その一方で、2期目後半のAKP政権下でBDP系の政治家や活動家が数千人規模で逮捕・勾留され始めたことや、BDPと支持基盤を共有する左派クルド民族主義ゲリラ組織のクルディスタン労働者党(PKK)が停戦を宣言しているにもかかわらず国軍による掃討作戦が続いていること、選挙時にもBDP系候補者の立候補が「テロ組織擁護の言動」を理由として逮捕・勾留中であることを理由に無効とされたことなどへの反発も、同党の支持拡大につながった。この側面は特に、PKK側から犠牲者が多く出ており、そのためにデモや治安当局との衝突が発生しているハッカリやディヤルバクル、ヴァンでの議席増として表れた。

近年の選挙では多様な候補の擁立が多くの政党によって宣伝材料として用いられるようになってきたが、今回はキリスト教系マイノリティが複数政党で擁立され、最終的にBDPの後押しでマルディン県からトルコ政治史上初のシリア・カトリック教徒の議員が誕生した。

BDPは多くの議員を輩出しながら、新国会での宣誓を数ヶ月間、拒否した。その理由は、投票日直前に「テロ組織擁護の言動」を理由として有罪判決を受けた候補者について当選後に当選取り消し処分(代わりにAKP候補が繰り上げ当選)となったことと、同じ理由で前述のように未決勾留中の当選者の釈放を司法当局が認めなかったためである。しかし、同党は一貫して新国会での憲法制定過程で役割を担うと主張し続け、10月の国会再開時には宣誓して議会活動を開始した。

この選挙で野党第1党になったのはCHPである。同党は党首交代を期に旧来の強硬なトルコ民族主義・世俗主義擁護からソフト路線に転じ、中道左派の世俗票を糾合して、1980年代以降の国政選挙で世俗派中道左派政党の得票率としては最多の結果を収めた。また、全国平均得票率が10%を超えない可能性が取りざたされたMHPも議席を獲得したことで、主要なイデオロギー・グループの代表を擁する国会が誕生した。しかも、与党が単独では新憲法を採択できない議席数に収まり、新憲法を審議するに相応しい議席バランスになった。しかし、国会での新憲法検討小委員会では、院内政党がそれぞれ同数の委員を出し合い、全会一致で改正条項案を決定するという運営方法をとったため、結局、もっとも紛糾する争点の国民の定義に関して折り合えず、2015年の選挙後の国会へと課題は持ち越されることとなった。

2015年国政選挙(6月実施)

2015年総選挙はOSCE 選挙監視報告書 (p.7)によれば20の政党と165人の無所属候補がたたかった。しかし、実質的には解散前に議会に議席を有していた4政党、すなわち公正と発展党(AKP)、共和人民党(CHP)、民族主義行動党(MHP)、諸人民の民主党(HDP)のたたかいとなった。

選挙結果は、AKPが41%の得票率を得て、2位のCHP(25%)を大きく引き離して4期連続の第1党となった。しかし、前回の2011年総選挙より9%も得票率を下げて初の過半数割れに陥った。後述のように、憲法上、党派的中立を要請されている大統領自らが、事実上の与党のための選挙活動を行うという異常な選挙戦を経ての結果だっただけに、同党にとって余計にショッキングな結果となった。

選挙に先立って、AKPが147頁、CHPが200頁もの膨大な公約文書を発表したように、主要政党が包括的な公約を掲げて臨んだが、選挙戦では各党が以下のような争点に的を絞って有権者に訴えた。総選挙で有権者の関心は通常、経済にもっとも集中するが、AKPは首相が全県を回った選挙演説では、これまでの政権の発展・開発政策実績を列挙し、今後も同様の政策を実行して各地に発展の恩恵をもたらすことを約束するにとどまり、トルコ経済がより先進国に近づくための経済的飛躍を期待する向きに対して肩透かしとなった。

それに対し、CHPはより具体的に、退職者への年金年額2か月分上乗せの約束と最低賃金の1500TL(現行約1000TL)への引き上げの他、「中心国家トルコ」プロジェクトと題して、グローバルな流通・金融センターをめざし、インフラ整備やテクノパーク建設、関連企業誘致の計画を打ち出した。CHPは従来のトルコ民族主義による国民統合と世俗主義の擁護というイデオロギー政党というイメージを脱するために、今選挙ではイデオロギー問題には基本的には触れず、分配重視の社会民主政策と経済発展の両立という、経済社会政策中心の選挙戦を戦い、AKPやAKP支持の選挙戦を事実上行う大統領と対決する姿勢をあえて示さないことで、政権担当能力を有権者にアピールすることを選んだ。CHPのプロジェクトはすでにAKP政権下で目指されている方向性と異なるものではなかったが、年金年額や最低賃金の引上げの公約は国民生活に直結するため関心を集めた。

AKPはそれに対して財源を問いただして実行困難を指摘するとともに、AKP政権がすでに実施してきた寡婦年金や障碍者・高齢者介護を行う世帯への扶助策などを持ち出して、社会保障・福祉政策を競った。選挙の1週間前に実施されたKONDA社 の世論調査 (pp.65-66)では、AKPは人口の1/3を占める主婦の4割近くの支持を集め(CHP26%)、人口の13%を占める退職者についてはAKPとCHPはそれぞれ37%、34%と両者が競る形となった。

今回は党擁立の候補者選定をめぐって新しい試みがあった。AKPはいつものように党本部、特に党首(首相)が中心に候補者リストを作成した。公的には党籍を離れたエルドアン大統領の対応が注目されたが、エルドアン大統領の意向を忖度したうえで、基本的には首相が決定したとされる。しかし、その過程でエルドアン大統領の介入が公然となる出来事もあった。クルド問題や中東諸国との関係で辣腕をふるってきたとされるフィダン国家情報局長は、ダヴトオール首相と事前に相談した上で、立候補を予定する公職従事者の公職辞任期限である2月初旬の段階で、公職を辞任していた。それにもかかわらず、彼の情報局長継続に固執する大統領が辞職を撤回させたのである。さらに、AKPでは国政や地方の首長や議員の親族は候補者にしないとされ、ほぼそれは守られたが、エルドアン大統領の女婿が当選確実なリスト順位で立候補を認められ、当選した。

また、AKPは党内規で4選禁止の規定のために自動的に立候補できなくなる70名に加え、さらに130名程度が擁立されず、現職の2/3を入れ替える候補者リストとなった。エルドアン大統領が以前から主張してきた若者世代の議席比率拡大という方針もあって、20代を含む新顔がリストの大半を占めたために、イスラム系メディアで長年、政治コラムを書いてきた人物をしてさえ、知らない候補者が多いと言わしめる内容となった。この状況は世代交代や党関連組織で党のために頑張ってきた中年以下の活動家に報いる意味もあったかもしれないが、他方で支持層からは自分たちの地域でよく知られている人物でないために、支持の熱意が減退するという逆効果もあったとみられている。

そうした中で、目を引いたのはスカーフ着用女性候補である。ある報道では99人の女性候補のうち42名がスカーフ着用だったという。そのうちには、スカーフ問題の被害者女性たちを組織化したり弁護士としての能力を生かして国際社会にアピールする活動をしてきたファトマ・ベンリ(Fatma Benli)や、1999年の総選挙で至福党から出馬して当選したものの、スカーフ着用をしたままでの議員宣誓を許されずに怒号の中を国会から追い出され、果てには国籍まで奪われたメルヴェ・カヴァクチュ(Merve Kavakçı)の妹、ラヴザ(Ravza)も含まれていた。当選したラヴザ・カヴァクチュは、姉が宣誓を認められなかったその日に着用していたスカーフをまとって登院し、宣誓した。今回は、スカーフをめぐる目立った論争は起きなかった。

CHPは今回初めて党員による立候補者選定選挙を行った。55%の投票率により、世俗主義的トルコ民族主義者(Ulusalcı)がかなり駆逐され、宗教マイノリティのアレヴィが多くの支持を集めたという 。CHPはこれを基礎に党幹部による任命候補を加えて候補者リストを作成し、支持層から好評を得た。マイノリティからの支持拡大を目指すHDPとの間でアレヴィ票をめぐる奪い合いが予想されたが、後述のように、アレヴィの多数はCHPを支持したとみられている。

HDPはこれ以前にも女性比率をできるだけ高める方針で候補者を擁立し、トルコ議会における女性議員比率向上の立役者となってきたが、この選挙では当選者の女性比率が4割になるように、候補者リストの順位づけを工夫し、実際に4割を達成した(後述)。また、多様な宗教・民族アイデンティティの候補者を、やはりその多様性が同党選出議員に反映されるような順位でリストを作成し、イスラム的アイデンティティで知られるトルコ系候補やクルド系候補、スカーフ着用候補、宗教マイノリティ候補、社会主義者候補などが実際に当選した。PKK党首オジャランの姪が擁立されて当選した。オジャランという苗字はクルド系メディア以外では長年、「テロリストの首領」「赤子殺し」という形容詞を伴ってきただけに、国民の代表としてその苗字を持つ議員が国会に送られ、さしたる世論や他会派議員の反発が起きなかったことは、PKKとの和平について国民や主要政党が冷静かつ前向きに受け止めている証だと思われた。

ただし、これをもって各党が従来のアイデンティティ政治的なイデオロギー的硬直性を脱して現実的な経済社会政策をめぐる競争に完全にシフトし、従来の各政党支持層もそれに応じて流動化可能なレベルにまで脱イデオロギー化したと結論付けるのは早計である。選挙の直前の6月2~3日にかけて行われた別の世論調査(A&G社、 6月11日Hürriyet報道 )によれば、3つまでの重複回答を可とする質問で、各党投票予定者に投票理由を聞いたところ、AKPを除く3党ではいずれもイデオロギーが第1位となった。それに対してAKPではイデオロギーは第3位の理由であり、第1位は政策実績であった。

従来の選挙とは異なり、今回、経済政策以上の焦点となったのは、左派クルド系諸政党の後継政党であるHDPが議席を獲得できるのかという問題(選挙後に調査を行なったIPSOS社のデータでは、トルコの最重要課題としてクルド問題が29%の第1位となり、経済の26%や汚職17%、民主主義12%を超えている)と、大統領制への移行を訴えて大統領自らが実質的な選挙活動を行ったことに対する有権者の反応だった。

まず、HDPについては、10%の全国平均得票率を得なければ政党は議席を獲得できないとの規定によって、従来、支持層が多い選挙区(県)で無所属の個人候補として戦うことを余儀なくされてきたが、今回、政党として選挙を戦うと決めたために、果たして議席を得ることができるのかが注目された。HDPは設立時よりクルド民族主義政党ではなく、トルコの文化的多様性の平等化と社会主義的な分配政策および自治組織化を主張して、クルド系以外の有権者にアピールし、トルコ全土で支持を拡大させることを目指してきた。2014年8月の大統領選においてデミルタシュ党首の個人的人気もあり、10%目前の得票を得たことを弾みとして、2015年総選挙では政党として選挙戦を戦うことを決定した。世論調査では2015年4月までは10%を超えたものがほぼないという状況だったが、結果的には13%もの得票を得た。

HDPはクルドの権利ではなくトルコの民主化とAKP政権の権威主義化を主題として展開し、Youtubeでランダムに視聴した同党選挙集会ではオジャランPKK党首の顔写真が印刷された旗やポスターはなく、トルコ国旗が掲げられた集会もあった。また、世俗派のドーアン・メディア・グループのような有力メディアがテレビや新聞でHDPを後押しするコンテンツ作りをした。こうした選挙戦を通じてHDPがどれほどクルド系以外に支持を拡大できたのかが注目されたが、選挙直前・直後の世論調査によれば、基本的には全国各地のクルド票を固めたことが10%越えの主要因であると言えそうである。選挙直前に行われたA&G社調査(6月9日Hürriyet 報道 )では、HDP投票者の82%がクルド系、15%がトルコ系の有権者であり、トルコ系投票者はHDPが獲得した13%の2ポイント分に相当するという。同様に、KONDA社調査(p.67)ではHDP投票者の84%がクルド系である。そして、2011年選挙の投票行動との比較に関する質問では、A&G社調査では、HDP獲得13%のうち約4ポイントを前回AKP投票者から、前回CHP投票者からは2ポイント程度を獲得し、前回投票しなかった人の1ポイント分と合わせて、前回の同系列政党であるBDP系無所属候補者の得票率と推計される6%弱を倍増させることになった。(KONDA、p.48)はAKPから3.5ポイント程度、2.5ポイント程度が前回無投票者および今回初めて投票権を得た若者であるとみている。投票終了時刻直後に調査を行ったIPSOS社もほぼ同様の結果(6月10日Hürriyet 報道 )を示している。

HDPの急伸は、左派クルド民族主義ゲリラのPKKとの和平問題を今後も前進させるためには国会にPKK系の合法政党が存在し続けなければならないとの危機感、つまり各勢力の民主的代表の対話を通じて和平へのコンセンサスをつくる機運を逃してはならないとの思いが背景にあった。また、2014年夏以降にシリア・トルコ国境のシリア側にあるクルド系住民多数派の町、コバニが「イスラム国」に包囲され、陥落寸前となった時に、トルコ政府から思うような精神的・物質的支援を得られなかったことへの怒りやショックも、クルド系の票固めやAKPのクルド系支持者の一部のHDPへの鞍替えにつながったと考えられる。

さらに、エルドアン大統領や政権内でPKKとの和平協議に携わってきた幹部が選挙期間中、HDPを批判のターゲットとし、HDPが10%を超えない方がいいとの発言さえする状況に幻滅した支持者もクルド系を中心に多かったと考えられる。AKPにとっては、HDPが10%を超えなければ、より多くの議席が配分されることになり、過半数以上の獲得、さらには憲法改正を有利に進められる議席数にできるだけ近づけることが可能になるという計算もあったと考えられる。しかし、AKPがHDPを徹底的に攻撃し続けたことで、選挙後に両党が連立を組んでクルド和平を一気に進めるという機運が失われただけでなく、HDP支持者のAKPへの不信を、コバニに関するショックに加えてさらに高めたと思われる。

コバニ以前に実施された、クルド人口の多い地域での世論調査に関する報道では、AKPとHDPのクルド系支持層は、クルド語での母語教育が公立校で実施されるべきだと考える点や、クルド問題の解決への支持で多くが一致していた。両者は75%程度がこれまでもその系列の政党にしか投票していないという固定支持層であるが、HDPにはかつての中道右派政党への支持層も加わっており、そもそもクルド系人口が宗教的に敬虔な人々が多いということもあり、HDPがより親イスラム的な政党になることを求めるHDP支持層は6割を超える。つまり、宗教性という点でもAKPとHDP支持層はそう遠いわけではない。では両者の違いはといえば、HDPの支持層では本人や近親者が差別、投獄や虐待での死傷、国軍のPKK掃討政策による強制移住(民家放火含む)など、クルド問題で直接的な被害を国家の側から受けた人が7割を超えるのに対し、AKP支持層では2割超にとどまっている。また、HDP支持層の方がAKP支持層に比べてより強い分権を志向する傾向が強かった(Radikal紙の2015年5月25 ,26日27 にかけての連載紹介記事) 。

トルコの選挙には多少の暴力事件はつきものであるが、選挙戦終盤に、アダナ県、メルスィン県、エルズルム県、ディヤルバクル県でHDPに対する爆弾死傷事件や深刻な殺傷事件が起きたことは異常な事態であり、HDPのクルド票をさらに積み増ししたとされる(選挙期間中のそうした事件に関する手短な報告についてはOSCE選挙監視団報告書(p.8)を参照)。上記各県は、クルド系人口が多い地域やその周辺のトルコ民族主義も同時に伸張傾向にある地域に位置している。

これらの理由が重なった結果、AKPは東部地域で著しく得票率を低下させ、2011年比で20%減となった。HDPは逆に同地域で25%近くの増加となった(KONDA, pp.16, 19)。

では、トルコのもう一つの主要なマイノリティであるアレヴィの投票動向をみると、A&G社結果(前出6月9日記事)ではアレヴィの75%がCHPに投票し、HDPには15%しか投票していない。KONDAも同様の傾向を示す(pp.68-69)。アレヴィは従来、スンナ派保守を脅威視するために世俗主義の主流派であるCHPの支持基盤となってきたとされてきたが、今回の選挙でもこの趨勢は変わっていないといえる。またA&G社結果では、宗派別投票動向については、ハネフィ、シャーフィー、アレヴィのいずれにも属さない「その他」の有権者は19%がAKPへ、41%がCHPへ、11%はMHP(民族主義行動党)へ、17% がHDPへ投票している。HDPは党組織のあらゆるレベルでジェンダーを含む多様なアイデンティティのメンバーを配置しようと努め、アレヴィや非ムスリムの候補者を擁立するなど、イメージや言説だけでなく、実質的なレベルでクルド政党脱却を図ってきた。しかし、この結果を見る限り、HDPはこの時点では多様なマイノリティの代表といえる状況にはなかったことがわかる。

クルド問題が今選挙最大の焦点となり、AKPがHDPを強く非難し続けたことは、AKPにクルド票減少というマイナス効果をもたらした。AKPがそこまでしなければMHPに支持層の一部が奪われてしまうと危惧するほどに、トルコ西部や中部のトルコ民族主義的感情が高まっていたのである。しかし結果的には、AKPはMHPへの支持流出を食い止めることはできなかった。A&G社調査(6月9日記事)によれば、2011年にAKPに投票した人の8.5%がHDPへ、6%がMHPへ投票した。KONDA社調査(pp.50-52)はMHPに7.5%(HDPに8.5%)としており、前出IPSOS社調査もMHPへの今回投票者の28%が前回はAKP投票者であるとする。つまりAKPは、HDPだけでなくMHPにもかなりの票を奪われたのである。

しかも、AKPは得票率という割合の減少だけでなく、票数という実質面でも支持減少を経験した。今回の選挙では、初めて投票権を獲得した若者や在外投票の導入によって、2011年選挙に比べて有権者総数が約400万人増加したが、AKPは前回比で300万票の純減となり、その分を約半々の割合でMHPとHDPに譲った。(AKPはこれに加え、国内すべての選挙区で得票数の純減という衝撃的な結果となった。)

クルド票の離反が、AKP政権のPKKとの和平への姿勢やクルド感情への配慮のなさに不満をもったためであるのに対し、MHPへの流出票はむしろ、PKKとの和平を、クルドに対する権利付与・妥協の連続ととらえ、それにもかかわらずPKKが武装放棄せずにますます要求を強めていると、トルコ民族主義的支持層が和平プロセスに対して反発を強めていることによる。AKPはもともと中西部のトルコ民族主義的世論をエルドアンら党幹部への信頼や経済発展実績などその他の評価要因によって誘導し、クルド和平を進めてきたが、この選挙でエルドアンも党幹部もHDPへの攻撃を全面に押し出すことによって支持層のトルコ民族主義的感情をむしろ煽ったといえる。選挙後に、トルコ民族主義的支持層とクルド系支持層とのバランスをどのように調整し、再び和平重視の方向性を打ち出せるのか、あるいは支持層をその方向性へと導けるのか、大きな課題を自ら作ってしまった。

MHPはこの選挙戦で最も注目度が低く、党としてもさして話題となることさえなかったにもかかわらず、前回選挙から3%以上の支持拡大となった。選挙結果判明後の世論調査でもAKP支持層は連立相手としてMHPを望む声が圧倒的であり(たとえばPolitic 社調査 では7割。対してHDPとの連立希望は4%)、AKP支持層においてHDPあるいはクルド和平への反発が相当、広範囲にわたっていることがうかがえる。A&G社結果によればMHPは前回AKP投票者から4%を得たほか、前回CHP投票者からも8%を得ている。CHP支持者からの投票獲得は、CHPが強硬な世俗主義的トルコ民族主義からリベラルな社会民主政党への転換に本腰を入れたことと、前述のように今回初めて党員投票による候補者選定システムを採用したことによって、世俗主義的トルコ民族主義の支持者がMHPに流出したと考えられる。

次に、大統領が自ら遊説活動を行って訴えた大統領制への移行問題である。AKPの選挙公約(p.11)では新憲法と関連付けて示されているが、ダヴトオール首相は選挙演説でほとんど触れることなく、その他の主要幹部も選挙の中心争点ではないとの見解を表明していた。それに対して、大統領を執政の中心とする新憲法によって自らが再び、さらに強化された政治権力を行使したいと望むエルドアンが、国家関連行事や過去12年間の政権を支持した有権者へのお礼行脚と称して、様々な機会をとらえて各地で実質的な政権への投票呼びかけ集会を行った。

また、エルドアンはHDPを公然と激しく非難した。HDPの10%越えが阻止できればAKPの過半数越えは確実と考えられ、同時にMHPへのトルコ民族主義的支持層の流出を食い止めるためであるにしても、選挙期間中におきたHDPへの暴力事件について発言はほとんどなく、ディヤルバクルで上述のHDP党首による選挙集会において爆弾殺傷事件が起きた日にはさすがに事件を批判し、HDPへの弔意を表明したものの、翌日にやはりクルド地域で行った演説でもHDP攻撃を緩めることはなかった。大統領の中立性をあからさまに侵害するこの言動に野党やその支持層は猛反発した。ある新聞記事によれば、5月1日以降にエルドアンは37県で遊説したが、そのうち15県でCHPとHDPが勝利した。また、IPSOS社調査ではAKPへの投票者の3割(他党では9割)がエルドアンの選挙戦中の言動を問題視し、同7割がエルドアンは野党への態度を見直すべきだと答えている。また同調査でAKP投票者の35%が大統領制はもはや政治議題ではないと答えたことからも察せられるように、こうしたエルドアンの遊説態度は大統領制の必要性について有権者やAKP支持者の理解を深めたとはいえない。

そのほか、2014年の大統領選においても選挙戦報道の中立性が問題となったが、今回も野党側の報道が民法で一部拡大したとはいえ、国営放送を中心として圧倒的に与党側に有利な報道状況となった。前出のOSCEの選挙監視団報告書(pp.9-10)によると、国営放送のメインチャンネルであるTRT1はニュースの46%の時間を与党に好意的な報道に使った。世俗派で平日夕方以降に報道や討論番組が充実しているチャンネル、CNN Türkは与党に18%、CHPに30%、HDPに27%、MHPに12%と、世俗派野党により多くの時間をかけた。ただし、このほかに、実質的に与党の選挙活動となった大統領の各地での演説がニュースの主要項目に入ってくることを考えれば、与党関連の報道は一層、突出したと考えられる。

また、今回から実質的に在外者投票が始まった。290万人という有権者数は有権者総数の5%に相当し、今回のように1%を競う事態では大きな意味を持つ。これまで欧州移民を中心とした在外者は選挙期間中にトルコに帰国した際に税関で投票する以外に投票権行使は不可能だったが、居住国の大使館や領事館で投票できることになった。実は、2014年大統領選挙でも在外者投票は導入されていたが、各地の大使館・領事館に事前に面会時間を予約していかなければ投票できないなど、煩雑な手続きが災いして、投票は低調だった。しかし、今回は期間中に自由に投票できるように制度が改善されたこと、少しの票数であっても大きな違いをもたらしうることが投票意識を高め、在外投票で32.5%、税関投票も含めると在外者の37%が投票した。在外投票では特に1970年代以来の動員組織網を持つAKPが50%、クルド系・左翼活動家のほか欧州の社会民主勢力に自己同定する移民の支持を集めたと思われるHDPが21%と国内以上の得票率を得た。

他方で、被選挙権の面では、少なくともHDPから欧州移民が2名、国会入りした。一人はドイツを中心にアレヴィ系移民の組織化でリーダーシップをとってきたトゥルグト・オケル(Turgut Öker)、もう一人はヤジード派移民家庭に生まれ、ドイツ語とクルド語、英語を話すがトルコ語をほとんど話せないフェラクナス・ウジャ(Felaknas Uca)前欧州議会議員である。ウジャはトルコ語での宣誓のために事前に練習を積んだとされ、宣誓の模様は注目の的となった。

トルコ国内出身者も含め、宗教・民族的マイノリティの議員は、少なくともMHP以外の3党から誕生した。アルメニア系は3党から、ロマ系は3党が候補を擁立したがCHPのみから、シリア・カトリックがHDPから、ヤズィード派系がHDPから当選した。アレヴィについては、そのアイデンティティが報道されていない候補・当選者も相当数いることを考えると、MHPやAKPからもいた可能性がある(ダヴトオール首相はAKPリストにアレヴィが複数名いると発言した)が、報道からわかる限りではCHPから多数、HDPからも複数が当選している。クルド系は言うまでもなくHDPを中心に多数、当選している。当選はしなかったが、HDPがLGBTの候補者を擁立したことも話題となった。

今回の選挙は女性議員数の増加も顕著であった。各党は積極的に女性候補を擁立し、その数は HDPが268人、CHPが103人、AKPが99人、MHPが40人だった。当選者 はAKPが41人(16%)、HDPが32人(40%)、CHPが21人(16%)、MHPが4人(5%)の合計98人(17.8%)となり、トルコ史上最高の人数となった。

 2015年早期総選挙(11月実施)

2015年11年早期総選挙は同年6月の任期満了に伴う総選挙後の政権樹立失敗を経て、実施が決定された。6月総選挙の結果、2002年以来、議会単独過半数と単独政権を維持してきた公正と発展党(AKP)は初めての過半数割れに陥った(「2015年国政選挙(6月実施)」の項参照)。形式的には一応、AKPは共和人民党(CHP)と民族主行動党(MHP)と連立協議のための接触を行ったものの、具体的な連立協議が行われた様子のないままに法定期間をぎりぎりまで消費した。AKPとCHPの党首はいずれも連立に前向きだったといわれるが、連立によって政権への統制力が弱まることを嫌ったエルドアン大統領が連立合意をしないようにダヴトオール党首に裏で圧力をかけたと考えられる。ダヴトオールが法的手続きに基づいて、形式上、大統領に連立工作失敗の報告をすると、大統領は国会第2位の議席を得たCHPに政権樹立を試みるよう求めるという、通常の議院内閣制で想定される手順を踏むことなく、総選挙の決断を下した。

6月選挙では2つの点が注目された。一つは、エルドアン大統領が望む大統領制移行を実現するために、国会での法案可決による憲法改正に必要な議席数、つまり定数の3分の2(376議席)、ないしは国民投票を経ての改正が可能となる議席定数の5分の3(330議席)のどちらかをAKPが獲得できるかどうかだった。もう一つは、クルド系左派の諸人民の民主党(HDP)が10%の全国平均得票率という議席獲得最低要件を満たして、議席を獲得できるのかどうかだった。この2点は関連しており、HDPが議席を獲得できなければ、その分、AKPの獲得議席が増加すると予想されために、AKPは執拗にHDPを批判する選挙キャンペーンを展開した。これに対してHDPも、大統領制反対やエルドアン批判を主要な争点として、激しい選挙戦を繰り広げた。

そのつけは選挙後に顕著になった。AKPは連立政権あるいは野党の閣外協力を得ての少数与党政権のいずれかを模索せざるを得なかったが、選挙戦時の激しい相互非難のために、AKPとHDPは互いにそのような協力に切り替える雰囲気になかった。AKPは結党以来、クルド問題の改善や紛争状態の終結に明確に尽力してきた。また、この選挙でHDPの議席獲得がこれほどの焦点となった理由は、クルド問題の最終解決に向けた合意形成の場が、ついに戦闘ではなくトルコ系やクルド系の政治家、政党からなる国会に移るのかどうかが、HDPの躍進度合いにかかっているとの見方があった。AKPとHDPの議席合計は330を上回るため、両党が連立すれば国民投票による憲法改正に手が届く計算になる。しかし、上述のような激しい選挙戦を経て、そのような機運はしぼんでいた。

残る院内政党のうち、最大野党のCHPとAKPは長く世俗主義を巡って対立してきた経緯のために、特にAKP支持者側が連立に消極的だったほか、AKP関連の汚職疑惑の解明を求めてくると予想された。極右トルコ民族主義のMHPは、クルドの諸権利拡大やPKK壊滅によらない和平に反対していたために、連立政権が成立したとしても、クルド問題解決の見通しや、クルド問題も含めた包括的民主化をめざす新憲法制定という面で、多大な懸念が予想された。結局、こうした問題点とともに前述のエルドアンの思惑もあり、積極的な連立工作がなされないまま、事実上の選挙やり直しの決定が大統領によって下されたのである。

11月早期総選挙の最大争点は、①AKPが単独過半数を獲得して単独政権を樹立できるのか、あるいは再び連立政権以外の選択肢がない院内政党議席比となるのか、②クルド問題にどう対処すべきなのか、の2点であった。特にクルド問題については、7月後半にPKKとの停戦状況が崩れ、PKKの国軍および警察、国立医療機関関係者らに対する襲撃と、それに対する国軍の大規模な徹底掃討作戦が繰り返されるようになり、6月選挙とは全く異なる状況にあった。国軍兵士らの殉死のニュースが毎日のようにトップニュースとなり、国土の西側では反クルド、反HDP、トルコ民族主義の感情が急激に高まった。9月上旬に大量の殉死者がでると、国土の中西部を中心に、反クルド民族主義デモから暴徒化した群衆による襲撃や放火がHDPの本部・支部やクルド系民間人の商店に対して公然と行われ、東部・南東部地域を拠点にする長距離バスへの投石事件も多発した。HDP支持者のみならずクルド系の多くにとって、トルコ民族主義的な世論のみならず、こうした犯罪行為への断固たる非難と取締り、事前警戒の姿勢を見せない政府への不信感を高める結果となった。

他方で、HDPとCHPという左翼・世俗派支持層が行っていた、国内クルド問題やシリア内戦との関わりでクルド勢力とトルコの協力・融和を求める市民活動が2度にわたって「イスラム国」シンパによる自爆攻撃の標的となり、多数の死者を出した。PKKの武力攻撃再開の口実とされた最初の事件は、シリアとの国境をはさんでコバニと向かい合うスルチュ市で7月20日に発生し、30人以上の犠牲者を出した。10月10日には首都アンカラで紛争終結を求めるデモ参加者が標的となり、100名を超す死者が出た。特にアンカラでの事件は、政府と野党が分断と対立を超えて緊急時の団結と平和を目指す協調政治のきっかけにする絶好の機会だったにもかかわらず、特にAKPとHDPとの間で激しい非難合戦が起きた。

加えて、8月以降、東部・南東部地域のHDP系の地方自治体の中から、オジャランの政治理論でもある「民主的自治」(彼ら自身の言葉では「自己統治」。詳しくは澤江(2012)を参照。)を宣言して、現行法制下での地方自治の権限範囲を逸脱し、「自己防衛」の名のもとに警察・準軍的防衛行為をも自らが行使しようとする地域が現れた。そうした地区では、PKKの指導を受けた若者グループが、軍や警察が地区に立ち入ることを阻止しようと、バリケードを設置し、塹壕を掘り、地雷を埋め、見通しを遮るために毛布等で地区入り口の道路に目隠しを設置し、機関銃や携帯型ロケット弾で武装した。政府はそうした地区で何日にもわたる外出禁止令、つまり事実上の兵糧攻めを行うとともに武力行使を行った。その結果、双方から多数の犠牲者が出るとともに、民間人も外出禁止の影響で病死者や攻撃によるケガの治療に地区から出ることができず、死傷者が出た。

こうした文脈においてAKPは再びHDPを激しく非難しつつ、PKKへの断固たる対応を主張し、また実施した。CHPはAKPに対してこの状況を乗り越えるために協力を惜しまないと訴えたほか、6月選挙同様に社会の分断をあおることを自重して、経済政策中心の選挙戦を展開し、責任政党の印象付け戦略を維持した。

今回の選挙でまたもや存在感を発揮できなかったのがMHPである。トルコ民族主義感情が高揚している時期にもかかわらず、また、6月選挙後にAKP支持層にとっては最も連立が望まれる政党だと世論調査やメディアで指摘されたにもかかわらず、積極的に連立に持ち込む姿勢を見せず、トルコ民族主義のお株もAKPに奪われた状況を打開できなかった。MHPは支持を大幅に減らした。

選挙でのAKPの大躍進は選挙前の世評や世論調査を裏切るものだった。多くは6月選挙同様の結果を予想しており、AKP幹部さえもこれほどの大勝は予想外と発言するほどだった。6月選挙で全選挙区で得票率・数ともに減少させたのに対し、今回はほぼ全選挙区で増加させた。そもそも前回選挙での支持大幅減の理由としては、①クルド系支持層を中心にHDPの10%越えのためのHDPへの投票、②クルド系も含めてクルド問題解決から遠ざかるような幹部の発言や権威主義化への批判表明としての棄権、の二点が指摘できる。それに加えて、選挙疲れで草の根動員組織活動が滞りがちであったり、4選禁止の党規のために、有名政治家に替えて無名の新人候補が多数の候補者リストになったために、党組織の士気低下や広く党支持層一般での選挙への関心の低下を招いたことも無視できない要因とされた。そのため、AKPは党規を改正して4選禁止規定を廃止するとともに、前回立候補できなかった元議員や地元で名の知られた人物を、前回僅差で議席を失った選挙区を中心に重点的に配置した。(CNN Türkの2015年11月 3日放送の討論番組“Her Şey”によればAKPは6月選挙から候補者総数の半数近い235人を変えてきたという。)

11月選挙でのAKPの得票大幅増加の要因としては、IPSOS社実施の選挙直後の世論調査 や選挙区別得票数分析結果(Çirek Ağcı , Cuma Çiçek ) から、以下の指摘が可能である。第1に、AKP支持層の前回棄権者や、前回、HDPの10%越えの手助けとしてHDPに流れたAKP支持層の一部がAKPに投票したとみられる。また、そもそも新規増加分有権者数以上に6月選挙よりも投票者数が増加(投票率も国内、海外居住者の双方で上昇)したことを考慮すれば、とにかくAKP単独安定政権の成立を望む声が高まったと考えられる。つまり、不安定な可能性のある連立政権ではなく、内政安定と治安維持優先、それに依拠した経済安定・発展政策を実現してきたAKPが引き続き単独政権下でその再現に励む人たちが、AKPに投票したのである。MHPと、親イスラム系少数政党のSP(至福党)からもこの文脈で多くの票がAKPに流れた。

他方で、AKP支持層だったクルド系有権者については、6月選挙でHDPに流れた票のほんの一部分しかAKPには戻っておらず、多くはHDP支持か棄権を選んだとみられる。HDPが圧倒的な強さを誇る東部・南東部の地域では、投票率が減少したが、AKP支持が以前のレベルに回復したところはほとんどない。前述のように、AKPはこの間の情勢の変化を受けて、クルド政策を対話重視から武力制圧に完全に切り替えていた。武装対立再燃による犠牲の拡大は、HDP支持層を一層強固にHDPに繋ぎ止め、従来のクルド系AKP支持層のAKP回帰を逡巡させ、棄権に向かわせたと思われる。ただし、非PKK系クルド世論、とりわけ都市中間層や商工業関係者の間には、一般市民を巻き込み、地域の社会経済活動に打撃を与えることが分かっていながら、実力行使を伴う「自己統治」に踏み出したPKKやHDP系自治体への批判も多くある。AKP政権への反発は強く、それに対してHDPを支持することに迷いはなくとも、HDPとPKKの関係や武装活動を放棄できないPKKへの批判的なまなざしも高まっている。このことは、長期的な和平プロセスの展開を考える上で、忘れてはならない点であろう。

要約すれば、AKPは、前回は「灸をすえる」ために棄権した支持層に加え、安定政権を望む無党派層、MHPら右派政党からの票の取り込みを中心に得票を増やした。それに対して、HDPは他党への支持流出よりも、反発表明のための支持者の棄権によって支持率を下げた。つまり、クルド問題に関しては、分断を和らげつつ対話や非暴力路線中心での和平を強く後押しするような機運は見えず、むしろ6月選挙時に深まった、クルド系世論とトルコ系あるいは政府系支持層との分断は、この間の事態の悪化と相まって、改善の糸口を見いだせない状況にあった。

選挙前の数か月の間は、常に国軍とPKKの戦闘や「自己統治」を巡る紛争や、「イスラム国」による自爆攻撃とそれへの対策はどうあるべきかが世論の関心をほぼ独占していた。それに対して、数年来の争点である大統領も含めた政府の汚職問題や、それとも絡んだ政府による言論規制や警察・司法組織人事への介入問題は、主要争点にならなかった。後者は、かつて与党のパートナーであり、もはや完全な政敵となったイスラム系のギュレン・グループと与党との権力闘争とも関わっており(ギュレン派については「2014年大統領選挙」の項を参照)、ギュレン派の警察や司法関係者が盗聴や職権乱用などあらゆる手段を用いてエルドアン大統領やAKP政権の追い落としをしようとしているとの見方が世論を席巻していた。かといって、政権側の潔白を信じる向きも政権支持層でさえ少なかったが、エルドアンとAKPが権力喪失の危機に直面していると受け止めたAKP支持層は、6月選挙後の過半数割れによってその危機があわや実現しそうになるやいなや、断固としたAKP支持の態度を11月選挙で示したのである。政権はギュレン派の司法関係者や警察関係者のパージやギュレン派の資金源となっている系列企業や広告塔のメディアに対して締め付けを実施していた。選挙前にはその上に、系列メディアをケーブルテレビ網から締め出し、系列財閥に対して経営権剥奪と経営代理人指名を行った。財閥への経営代理人は傘下メディアの報道方針にさっそく介入し、それまでの政府批判方針を一転、親政権方針に転換した。これはギュレン派への断固たる締め付け策を選挙後も維持し続ける意志を誇示する、政府による示威行為であった。さらに、選挙直前には、アンカラ自爆攻撃を大なった「イスラム国」シンパやPKK幹部と並んで、ギュレンは最高ランクの指名手配犯とされ、懸賞金が掛けられた。野党勢力は主要メディアも含めて政府を強く批判したが、上述のように危機感に駆られて結束を強めた支持基盤を中心にして、AKPは49.5%という高得票率を収めたのである。

他党がクルド問題などのアイデンティティに関わる争点をめぐって支持を糾合しようとしたのに対し、CHPは前回同様、世俗主義を含め、アイデンティティ問題への言及を封印し、具体的な社会経済政策の他、AKPの権威主義化やシリア政策を批判した。AKP政権下での経済発展や社会政策の充実、その期間に育った若者世代に対して、旧来のケマリズムや世俗主義を掲げるイデオロギー政治を訴えてもアピールできないことは2013年のゲズィ・デモ以来、最大の課題だった。2014年の大統領選以来、党イメージや政策の刷新に努め、脱イデオロギー的な責任政党路線を追求してきた。国内状況が混乱する中で社会分断により支持層固めに走るAKPやエルドアン大統領に対し、政策重視かつ社会分断や相互非難・中傷の波に飲み込まれない姿勢は、一部のAKP派論客にも評価されるほどで、この混乱状況においてCHPがどこまで支持を伸ばせるのかも注目された。しかし、多くの事前世論調査で数%の支持増が予測されたにもかかわらず、結果的には横ばいであった。トルコ社会が過去の世俗主義をめぐる分断の歴史を簡単に忘却し、中道右派の浮動票がCHPを投票可能な対象とみることはそう簡単ではないことが再度、明らかになった。つまり、AKP政権期だけでなく、より長期的視点でトルコ共和国の政治史全体について、あらゆる政治社会勢力が批判的にとらえなおし、過去の反省や償い、未来に向けた建設的な姿勢を示すべき段階に入ったのである。CHPについていえば、政権担当可能な政党であるためには、クルド問題解決に関する明確な政策を打ち出す必要があるが、それは党史の総括に位置付けながら新しい党是を説得的に打ち出すことが不可欠であり、それは非常に困難なことでもあろう。

AKPは選挙戦を通じて、新憲法の必要性を説いた。大統領制は選挙期間中の論戦で主要テーマにはならず、今回は前回の反省にたってエルドアンはあからさまな選挙運動を控えた。しかし、AKPの選挙公約では前回以上にスペースを割いて、新憲法における大統領制移行を主張しており、選挙後に大統領制を新憲法制定と絡めて提案する流れがつくられた。ただし、前出IPSOS社の選挙後調査では、大統領制移行賛成が31%に対して議院内閣制支持が57%である他、エルドアン大統領は選挙後に全政党に対して中立であるべきだとの主張が82%に達していた。しかしこの後、「イスラム国」やPKKにおる自爆攻撃の多発や、2016年7月のクーデタ実行未遂事件をうけて、強権化の流れは加速していった。そしてエルドアンは国論を二分したまま大統領制移行を実現することになる。

OSCEの選挙監視報告書 によれば、選挙では16政党と無所属候補者21名が戦い、候補者の24%が女性だったが、女性当選者は6月選挙から15減の83名、全議席の15%となった(pp.2-3)。マイノリティ議員に関する報道はあまり見られなかったが、数名のアレヴィ活動家が議席を失ったことが話題となった。いずれもHDPの議席減に加え、各党が女性議員増加よりも得票に直結しそうな男性候補者擁立を優先させたためとみられる。また、メディアの選挙報道の不公正さは前回同様であり、国営放送のTRTはニュースの7割をAKPに好意的な報道に割いた(p.10)。民放局もAKPに関する報道の多さは同様の傾向であるが、内容については好意的な局と批判的な局に大きく分かれた。先述のように、ギュレン派のテレビ局がケーブル網から除外されたほか、クルド系のウェブサイトへのアクセス制限など、政府批判勢力への報道や言論が制限された。

PKKとの戦闘の再開や「イスラム国」の自爆攻撃の影響により、選挙活動は自粛気味となったほか、有権者の選挙疲れや、そもそも選挙をやり直す必要性についても説得的な理由の見当たらない状況のなかで、選挙戦は低調だった。特にHDPの関係者の主要各局への出演は6月選挙に比べて大幅に減った。これは局側の自主規制とともに、そうした不公平な選挙戦の条件に反発するHDP側のボイコットの結果である(この頃から、新聞テレビへの政府規制やメディアの自主規制に反発するジャーナリストらが、携帯電話のビデオ撮影機能を利用したコンテンツ作成とネット放映を始めており、その番組に出演したHDPのデミルタシュ共同党首の発言 による。)また、9月上旬の全国各地での党組織やクルド系民間人への物理的攻撃に象徴されるような反HDP的な雰囲気の中で、特にHDPの支持基盤が弱い地域では、選挙事務所を賃貸することが困難だったり、HDPの看板を掲げること自体が危険を伴うとの判断により、事務所を構えられず、大っぴらな選挙活動をできなかった地域もあった。

このように選挙活動のさまざまな側面で不公平さが顕著な選挙となったが、開票プロセスについては概ね信頼できる公正な選挙だったと言えそうである。今回は、野党勢力を中心とした市民選挙監視運動「票とその先」(Oy ve Ötesi)が立ち上げられ、投票所での開票作業以降への立ち合いが多くの投票所で実施された。事後報告書 によれば、全国各地で総勢6万人以上のボランティアが監視活動に参加して不正や間違いが起こらないように見張った。野党勢力によるこの活動は、AKPの圧倒的勝利という野党側には不本意かつ事前予想を大幅に裏切る選挙結果だったにも関わらず、不公平な選挙戦の後の開票作業自体はおおむね公正だったと認証する機能を果たした。

国政選挙結果

    選挙年 政党名(設立-解党年) 得票率%(議席数)
1987 1991 1995 1999 2002 2007 2011 2015.06 2015.11
祖国党・ANAP (83-09) 36.3 (292) 24.0 (115) 19.7 (132)*3 13.2 (86) 5.1 (0)        
正道党・DYP (83-07) 19.1 (59) 27.0 (178) 19.2 (135) 12.0 (85) 9.5 (0)        
/民主党・DP (07-)           5.4 (0) 0.7 (0)    
福祉党・RP (84-98) 7.2 (0) 16.9 (62)*1 21.3 (158)            
/美徳党・FP (97-01)       15.4 (111)          
/公正と発展党・AKP (01)         34.3 (363) 46.4 (341) 49.8 (327*8) 40.9 (258) 49.5 (317)
民族主義労働党・MÇP(89-93) 2.9 (0) *1              
/民族主義行動党・MHP (93-)     8.2 (0) 18.0 (129) 8.4 (0) 14.3 (70) 13.0 (53) 16.3 (80) 11.9 (40)
民主左派党・DSP (85-) 8.5 (0) 10.8 (7) 14.6 (76) 22.2 (136) 1.2 (0) *4 0.3 (0)    
社会民主人民主義党・SHP (85-95) 24.8 (99) 20.8*2 (88)              
社会民主人民党・SHP (02-)                
共和人民党・CHP (91-)     10.7 (49) 8.7 (0) 19.4 (178) 20.9*4 (112) 26.0 (135) 25.0 (132) 25.3 (134)
人民の労働党・HEP (90-93)                
/民主主義党・DEP (93-94)                  
/人民の民主主義党・HADEP (94-03)     4.2 (0) 4.7 (0) 6.2 (0)        
/民主人民党・DEHAP (97-05)                 
/民主社会党・DTP (05-09)                  
/平和と民主主義党・BDP (08-14)                
/諸人民の民主党・HDP (12-)               13.1 (80) 10.8 (59)
無所属 0.4(0) 0.1(0) 0.5(0) 0.9(3) 1.0(9) 5.2(26) 6.6(35*8) 1.1(0) 0.1(0)
議員数合計 (450) (450) (550) (550) (550) (549)*5 (550) (550) (550)
女性議員総計 (6) (8) (13) (23) (24) (50) (80) (98)   (83)
投票率 93.3 83.9 85.2 87.1 79.1 84.3 83.2 83.92 85.23
  1. 91年選挙で民族主義行動党は福祉党および改革民主党と選挙協力し19議席獲得。
  2. 91年選挙で人民の労働党は社会民主人民主義党と選挙協力し20議席を獲得。
  3. 95年選挙で祖国党は大統一党と選挙協力した。大統一党は7議席獲得。
  4. 07年選挙で共和人民党は民主左派党と選挙協力し、民主左派党は13議席獲得。
  5. 07年選挙で民族主義者行動党選出議員が選挙直後に交通事故で死亡したため、高等選挙会議は繰り上げ当選や補選を実施せず、欠員1の状態を公式選挙結果として発表した。
  6. 07年選挙で民主社会党は無所属候補を擁立し、20議席獲得。
  7. 祖国党は民主党に吸収合併。
  8. 2011年6月9日に最高裁で有罪判決が確定したことをうけて、本選挙で無所属からの当選者1名が当選取り消しとなったことにより、公正と発展党候補者が繰り上げ当選となったことを反映しての確定議席数。
  9. 各選挙結果は末尾参考文献の官報掲載データによる。
 2014年大統領選挙 
①選挙時の政治的状況 

2014年8月10日に実施されたトルコ共和国史上初の公選の大統領選は、2003年以来、一貫して首相としてトルコを率いてきたエルドアンが勝利した。過半数の得票率をかろうじて越え、決選投票を待つことなく勝利を決めた。

選挙は前年以来、政治的危機や外交的難題がつぎつぎと政府に降りかかる中で行われた。2013年春に政府と左派クルド民族主義ゲリラのPKKとの間で合意が成立し、5月からはいよいよゲリラの国外退去が始まった。このプロセスが完了すれば、ゲリラの社会統合やPKKの武装解除に向けて、さらなる前進がみられるだろうと期待された。しかしそれもつかの間、政府の主張によればシリア政権側の陰謀による、シリア国境の町での爆破テロで多数の死傷者が出た。また、5月末からはイスタンブル中心街の公園再開発問題を発端に、いわゆるゲズィ・デモが一月以上も続き、全国各地に飛び火して、多数の死傷者を出した(ゲズィ・デモについては朝日新聞ウェブ版上の連載記事「トルコのタクスィム・デモを読む(1)~(4)」 (朝日新聞記事データベース「聞蔵Ⅱビジュアル」にて検索) を参照)。また、12月には、エルドアンの息子や閣僚らに関する汚職疑惑が次々と持ち上がった。この汚職疑惑に対して、エルドアンは、ギュレン・グループによる陰謀であると主張した。同グループは、トルコで最も幅広い動員力を持ち、高級官僚や司法、警察でのシンパ浸透によってそうした領域でかなりの影響力を有すると噂されてきた。エルドアンは、警察や司法を中心に同グループのシンパに対するパージを開始した。

ギュレン・グループのリーダーである宗教家フェトフッラー・ギュレンは、1997年以降のイスラム派弾圧(2月28日キャンペーン)をきっかけに、アメリカに事実上、亡命していた。ギュレンと公正と発展党(AKP)につらなる親イスラム政党とは、軍部など世俗主義体制派との関係を、おもねったり妥協しながら活動の余地を確保・拡大していくのか(ギュレンの方針)、全面的に批判・対決していくのかという点で折り合わず、また、ギュレン派がよりトルコ民族主義的なのに対して、AKPの前身政党はよりウンマ的志向が強いといった違いもあると指摘されてきた。しかし、エルドアンのもと、AKPは選挙のたびに得票率を伸ばしながら不動の政権基盤を築き、EU加盟交渉過程も利用しながら、世俗主義体制の擁護者を自任する軍部の政治介入の法的根拠や心理的正当性を確実に切り崩していき、成熟した民主主義を求める左右の幅広い層の支持を取り付けていた。こうした政治的風向きの変化の中、ギュレン・グループもエルドアン政権の民主化改革を支援する姿勢を明らかにし、エルドアン政権下でシンパの政治家や官僚、司法関係者、大学教員などを各方面で要職につけることに成功したといわれる。

ただし、ギュレンとエルドアンは同志というよりは、それぞれに権力を争うライバルでありつつ、共通の敵を排除し、自らの勢力拡大に資するなら協力・援助しあうという関係をAKP政権期に築いただけだとみられる。すでに1990年代末以降にスカーフ問題が深刻化した時に、ギュレンはスカーフ着用禁止をめぐって世俗主義派の権力機関と対立したエルドアンを批判し、自派の女性たちにはスカーフ着用にこだわる必要はないと語り掛けており、エルドアンの属する「ムスリム国民の視座運動」(Milli Görüş Hareketi)との間に深い溝ができていた。また、ギュレンは、国際的な覇権国であるアメリカおよびアメリカの同盟国であるイスラエルに対してエルドアンが敵対を厭わないことも批判してきた。パレスチナ擁護をムスリムとしての国際的大義ととらえるエルドアンや彼の支持層は、こうしたギュレン派の態度に対して批判的だったが、両者の感情的対立は、ブルー・マルマラ号事件の際に、ギュレンがイスラエルではなく支援団体とトルコ政府を批判したことで決定的となった。同事件では、与党支持層の国際援助団体がガザに支援船を派遣した際にイスラエル国軍の急襲をうけ、死傷者が出ていた。また、クルド問題に関しても、両者それぞれに一般的にはクルド言語文化への規制を克服する方向の取り組みを進めていたにもかかわらず、PKK問題をめぐっては両者の決別以前には異なる考えを持っているとみられてきた。たとえば、真相は未解明であるが、2012年2月にPKKとの秘密交渉をエルドアンの肝いりで取り仕切る国家情報局長官が検察出頭命令を受けた事件については、それをきっかけにギュレン派司法関係者が国家背任罪で長官を有罪とし、その職務内容を与えたエルドアンの責任をも問おうとしていたとのうわさが政権関係者や支持層周辺でまことしやかに話されてきた。そして2013年秋にエルドアンが教育改革の一環として打ち出した学習塾制度の廃止によって、ギュレン側は大打撃を受けた。ギュレン・グループは全国チェーンの有名学習塾を大規模に展開しており、塾はグループの主要な財源となるとともに、メンバーやシンパの勤め先かつ、次世代動員、肯定的イメージの社会への浸透ツールともなっていたからである。これをきっかけにギュレン・グループは最終的な政権追い落としを決断し、汚職追及を始め、系列メディアでもエルドアン政権の権威主義化を糾弾するキャンペーンを張った。

汚職捜査の開始は、時期的には2014年3月末の統一地方選挙を3か月後に控えた時期であり、政権の動揺は大きかった。エルドアンはギュレン派との徹底対立姿勢を打ち出した。汚職捜査はギュレン派によるクーデタの試みであるとし、世俗主義派による政治介入をようやく克服したトルコはギュレン派の政治介入の試みに対しても断固としてそれを退け、民主主義を守らねばならないとの論陣をはり、警察や司法関係者の徹底的なギュレン派パージを正当化した。与党支持層には汚職があったと考える人々も少なくなかったが、ギュレン派に対する反感や疑念も広く浸透していたこともあり、エルドアンが、「民主的政治活動を通じた政策実現をめざす与党」vs.「民主的プロセスに乗らずに政治を思うままに動かそうとする陰謀勢力のギュレン派」という対立図式を強調すると、政府が本当に民主的かどうかはさておき、ギュレン派による政権転覆企図だとの見方は、幅広い受け皿を見出した。他方で、汚職捜査の妨害行為に他ならないこのパージは、2013年のゲズィ・デモ以来、世俗派を中心に強まったエルドアン憎悪に油を注ぐことになった。ギュレン派だけでなくゲズィ・デモ支持層からもソーシャル・メディアを中心にエルドアンやその家族を批判・中傷する発言が増加した。またこの間、汚職の証拠とされる電話の盗聴音声がネット上でリークされた。政府はそれまでも内外から批判を受けてきた報道メディアへの圧力に加え、ソーシャル・メディア規制にも乗り出した。一時はツイッターやフェイスブックへの接続が遮断される異常事態となった。

このような騒然とした政治社会状況で突入した3月の統一地方選では、地方選であるにもかかわらず、エルドアン政権信任投票の色彩を帯びた。批判勢力からのエルドアン攻撃を前に、エルドアンを守らねばならないとの与党キャンペーンが効果を発揮し、与党は基礎票固めをするとともに、一連の「エルドアンおろし」はクルド和平の妨害工作だと考えるクルド票や、ギュレン・グループのアメリカやイスラエルとの関係を疑う民族主義行動党支持層の一部からも支持を得て、与党は地方選挙の過去の実績に比較して最も高い得票率(43.4%)を獲得した。 エルドアンはその後もこの対立図式を強調し続けて大統領選挙に突入した。

②各候補の選挙活動と結果

大統領選に出馬したのは、与党からエルドアン、PKK系の左派クルド民族主義運動を支持基盤とする諸人民の民主党(HDP)党首デミルタシュ、世俗主義派の共和人民党(CHP)およびムスリム・アイデンティティをより強調する民族主義行動党(MHP)という二つのトルコ民族主義系の主要野党が共同で擁立したイフサンオールの3名だった。

イフサンオール擁立の発表は、驚きとともにもしやエルドアン支持基盤から支持獲得がありうるのではとの期待や懸念を各政治勢力に呼び起こした。イフサンオールは、イスラム世界での影響力拡大を狙っていたAKP政権が、イスラム協力機構(2011年までイスラーム諸国会議機構)の事務総長に就任させようと尽力した人物だった。イフサンオールは青年時代に宗教保守のトルコ民族主義系組織に属したことがあるとされ、右派に幅広く受け入れられる素地があった。そのため、AKP支持層を切り崩せる候補とみられたのである。特にゲズィ・デモ以降に顕在化した、エルドアンの強権的手法(警察の暴力的デモ取り締まりや、メディア規制など)に対する与党支持層内の批判層を取り込むことが期待された。また、彼はイスラム文明論の博士号を持ち、アラビア語やペルシャ語の他、英語や仏語にも堪能であることから、世俗派を含むインテリ層にアピールすると期待された。しかし、カイロ生まれで外国語生活が長い彼のトルコ語は、一般庶民が親しみを感じたり、エルドアンの持つトルコ語での演説力に太刀打ちできるレベルでなく、最後までシンパシーを呼び起こすことができなかったとされる。

また、選挙戦初期に彼が選挙スローガンとした「パン(ekmek)のためにエクメレッディン(Ekmeleddin)」という、彼の名前にかけたゴロ合わせのフレーズは不評をかった。トルコ語でekmekとは、パンという名詞のほかにも、植えるという動詞でもあり、緊張が高まるトルコの政治社会に敬意や一体感を植えるという意味も込められていた。しかし小麦畑をトルコの国土の形に切り取ったロゴマークは何よりもパンを想起させた。彼は政治家の経験がなく、個人的にもパンのための政治を想像させるような庶民性よりも国際的に活躍する知識人イメージで出馬したこと、さらには議員内閣制と併存する公選大統領の職務がパン(庶民の日常生活)とどう関係するのかも不明で、有権者に彼がどのような大統領を目指すのかを明確に示せなかったからである。結局、彼は最後まで、この点でなんらかのイメージを作ることができなかった。

あるトルコ日刊紙に発表された出口調査 によると、彼の宗教的アイデンティティ故に、CHP支持者には積極的に支持したい候補ではなく、現在はよりリベラルな政治主張を持つ故に、十分にトルコ民族主義的でないとして、MHPの支持者の支持も十分に取り付けることができなかった。また、イフサンオールへの投票者の37%は他の候補者に反対なので彼に投票したといい、36%は完全に支持するわけではないが、自分により近いと感じて、と答えており、消極的な支持の多さが目立った。同じ調査によれば、CHPの支持者は79%が投票に行ったものの、MHPの支持者は72%にとどまっている。MHP支持者の一部はエルドアンに投票したことが考えられるため、与党弱体化を共通目標とする両党にとって、各党の支持基盤を投票に駆り立てられる候補者という側面を犠牲にしてまでイフサンオールを擁立したことは戦略的失敗だったことが明らかとなった。

選挙で最低の得票率だったにもかかわらず、エルドアンにつぐ2人目の「勝者」との評が目立ったのが、デミルタシュである。彼は10%に迫る得票率で、彼の所属政党の系譜が過去に獲得したことのない支持を得た。10%が重要なのは、それが国政選挙で政党が国会で議席を得るために要求される全国平均最低得票率であり、彼が率いるHDPがこの勢いで党の支持を拡大できれば、2015年総選挙で、これまでの選挙のように無所属の個人としてではなく、政党として選挙戦を戦える見通しが立つという意味で、重要なメルクマールだからである。選挙資金としての寄付金総額に大差があり、政権政党、多数の自治体の力を使って精力的なメディア宣伝を繰り広げるエルドアンに対し、全国メディアでの露出が圧倒的に少なかったデミルタシュだが、ユーモアあふれる演説や、クルド・アイデンティティをあまり強調せずに、これまで抑圧されてきたあらゆる人々の権利を擁護し、クルド地域のみならずトルコ全土で支持層を持つ政党に脱皮しようとしていることを印象付けることに成功し、ほとんどの県で得票率を上昇させた。

デミルタシュが大統領選出というよりはトルコ系有権者のシンパシー増大と10%突破を目標とし、イフサンオールがなかなか有権者の関心を呼び起こせないなかで、選挙戦後半までにはエルドアンが決選投票に持ち越したとしても勝利することは確実視されるようになっていた。そこに、断食月やその後の祝祭日が重なったこともあって、選挙戦は低調だった。野党陣営は選挙の不公平さ(メディア露出の不公平さ、寄付金額の圧倒的差、選挙法に違反して投票日数日前にエルドアンが50%台後半の得票率で勝利との世論調査結果が発表されて、エルドアン反対派に選挙に行っても無駄だと思わせたとの批判、最後の2%の開票速報発表に異常に時間がかかっており、デミルタシュが10%を超えないように票集計操作が行われたとのデミルタシュ陣営の疑念)を選挙戦最中から選挙後まで取り上げ続けた。また、CHP支持層は伝統的に所得階層が高く、西欧的生活様式を好むため、8月には長期バカンスに出かけて、選挙のためにわざわざ自宅に帰らなかったことが影響しており、もしも彼らが投票に行っていれば、エルドアンの得票率はもっと下がったはずとの主張も多くなされた。しかし、先ほど紹介した出口調査によると、支持政党別投票率はHDPが87%と最も高く、次がCHP(79%)、AKP(73%)、MHP(72%)である(ちなみにこの調査を発表した日刊紙Radikalは世俗派リベラルであり、ゲズィ・デモ以来、もっとも激しくエルドアン批判を繰り広げる新聞の一つである)。夏の間、季節労働者として農産物の収穫のために居所をはなれて家族総出で移動する低所得者層にも投票に行けなかった人が多いと考えられるが、彼らはエルドアンかデミルタシュに投票した可能性も十分ある。

エルドアンは、過去12年の政権実績を選挙での訴えの基調としながら、その上でギュレン派への激しい非難によってイスラム系の票を固めるとともに、クルド和平はエルドアンのリーダーシップによってのみ可能だと考えるクルド系の票、エルドアンを追い落とそうとするギュレン派はアメリカやイスラエルと協力関係にあり、トルコの国益や名誉に背いていると考えるトルコ民族主義的国粋主義者からも票を得たと見られる。他方でイスラム系支持者のうち、エルドアンの強権手法に反発するとともにクルド系の権利向上による和平実現を支持する人々にはデミルタシュに投票する人もいた。その他、特にエルドアン勝利には女性票が影響したとの見方 もある。エルドアン政権の社会保障政策によって、女性のインフォーマル労働市場の中核をなす家事代行業従事者について、最低賃金保障や社会保障加入が雇用者に義務付けられた。また、自宅で障碍者や老齢家族、子供の世話をしなければならないために外に働きに出て所得を得ることができない女性に対し、国家が介護・保育職給与の名目で低額ではあるが手当を支払うとともに、そこから社会保険料を天引きすることで年金の権利を付与したり、夫と死別して生活に苦しい女性に寡婦年金を出す政策も実施され始めた。この政策の影響もあってか、この調査によれば、エルドアンへの投票者は男女比で女性が7ポイント近くも多かったという。

③2014年大統領選挙の意味

この選挙を通じて、トルコ政治が大きな転換点を通過しつつあることが明らかになった。第一に、ケマリズムの衰退である。CHPはイフサンオール擁立によって、親イスラム派に開かれなければ、支持拡大は難しいと判断するところまで追い詰められたということである。世俗主義とならんでケマリズムのもう一つの柱であるトルコ民族主義は根強いが、自身もクルド系のクルチダルオール党首のリーダーシップの下でリベラルな社会民主勢力に脱皮する方針は、選挙で負けた後も維持された。

第二に、デミルタシュの得票拡大が何を意味するかである。それは、デミルタシュ個人の資質に負っており、政党ベースで戦う国会議員選挙ではこれほどの得票は無理だとの見方もあるが、デミルタシュは少なくともその可能性を刻んだ。また彼がクルド・アイデンティティを強調せずに票を伸ばしたこと、つまり、平和と民主主義党(BDP)という前身政党がクルド民族主義運動を代表する政党だったのに比べて、明確にトルコ全国区政党化を目指して設立されたHDPの方向性を体現する選挙戦を戦って支持を拡大したことは、同党の方向転換が現段階ではうまくいっていることを示した。同党の方針転換については、トルコ主流社会への統合だとして歓迎する向きがトルコ系リベラル層の間では強かった。さらにはそれが、同様にリベラルな社会民主勢力として党の再構築を図ろうとするCHPとのイデオロギー的ポジション争いに発展すれば、CHPをさらにリベラル化へと促す可能性がそこに見いだせたからである。ただし、執筆者が選挙後に東部・南東部地域を訪れた際には、クルド・アイデンティティ承認欲求はかつてなく高まっていると感じた。特にシリアのPKK系列クルド勢力の状況は、「イスラム国」勢力拡大とともにめまぐるしく変わっており、それは党支持基盤のクルドの人々の感情はもちろん、それと関連しつつ党の戦略も影響することが必至であった。つまり、そう簡単に政党のアイデンティティ形成におけるクルド・アイデンティティの後退とトルコ全国区の社会民主勢力化が定着するとは楽観できないと思わせるほどに、クルド民族主義は高まってきた。

  2014年大統領選挙は、AKPおよびエルドアン一強の状況が続く中で、野党側に新しいダイナミズムが兆していることを垣間見せるものとなった。

2014年大統領選選挙結果一覧

立候補者名(生年) 総得票数 得票率(%)
レジェプ・タイップ・エルドアン(1954) 21,000,143 51.79
セラハッティン・デミルタシュ(1973) 3,958,048 9.76
エクメレッディン・メフメト・イフサンオール(1943) 15,587,720 38.44

末尾参考文献の官報掲載データによる。 有権者総数55,692,841 、投票者総数41,283,627 、有効投票総数40,505,911 、無効投票総数737,716、投票率74.13% 

(3) 大統領制時代の選挙結果

2018年選挙

①選挙に向けた政治的状況の展開と選挙活動

2011年以降のシリア内戦の泥沼化、2013年初夏の反政府デモの拡大、同年末ギュレン派との対立の公然化、2014年夏以降のシリア内戦北部戦線における「イスラム国」優勢とシリアのクルド系勢力への西洋諸国の軍事的協力関係構築および西洋世論の親近感の広がり、シリア難民のトルコ経由での欧州殺到をめぐるトルコ・EU諸国関係の悪化、同年夏の大統領選および2015年6月総選挙でのクルド左派勢力の躍進とエルドアンおよび公正と発展党(AKP)の辛勝、2015年夏以降の国内クルド系多数派地域市街地でのクルド系ゲリラPKKと警察の武力対立、同11月のやり直し選挙での与党支持率の盛り返しとクルド系左派の後退と、短期間に国内外の情勢がめまぐるしく揺れ動いた。さらに、2015年夏から2017年年初までの「イスラム国」とPKKによるトルコ国内各地での自爆攻撃頻発や2016年7月のクーデタ実行未遂事件など、複数の国内外勢力による事件がそうした不安定化に拍車をかけた。2018年1月からはシリア北部にトルコ陸軍が軍事侵攻して、PKK系列のシリア系クルド勢力を当地から一掃しようとする中で、多数の殉職者が出ている。この数年の国内でのPKK系のトルコ軍や警察を標的とした自爆攻撃や軍・警察のPKK掃討作戦による継続的殉職者発生と相まって、トルコ系世論を中心にトルコ民族主義と国家主義はこの上なく強固になってきている。

また、国際的にもこうした危機の時代において迅速な決定を下せる強い政治的リーダーシップがトレンドとなり、上述のようなトルコ国内外での危機的状況の目まぐるしい展開が続く中、エルドアンは権威主義的手法に急速に傾倒していった。自身への批判を抑圧するためにメディア監視・弾圧を強め、ウィキペディアなど一部のサイトへの接続を禁止し、権力におもねる司法や警察権力は反対勢力の政治家・評論家・ジャーナリスト・研究者らを不当に逮捕・勾留・有罪とした。特に2016年クーデタ後に非常事態宣言が発布された後は、この傾向は一段と強まった。特にクルド左派の諸人民の民主党(HDP)が地盤とする東部・南東部地域では、同党と分業協力関係にあって東部・南東部地域の地方自治体を治める民主的諸地域党(DBP)の首長が逮捕され、代わりに政府が選任した暫定首長が任命された。国政ではすでに、2017年5月には、その他野党の協力も得て、HDP議員を主たる標的として議員の不逮捕特権をはく奪する暫定条項を憲法に追加する法律が成立しており、その後、同党党首ら多数の議員が逮捕・勾留されている。

この政治社会的緊張状態は、短期間に選挙が繰り返されることにより、一層その激しさを増した。2014年3月から2018年6月までの間に、国民投票と統一地方選挙も加えれば6回も選挙が実施された。しかも、国政選挙と国民投票では政府支持の下落傾向が明らかになる中、与党は野党・反政府勢力を「非国民」扱いし、「我々」と「彼ら」に国民を二分して自身への支持を強いる言説を強めてきた。こうした分断的言説は、政府に批判的なメディアが弾圧され、主要メディアの翼賛化が強まるのに伴って、社会を覆っていった。

人権や自由、民主的手続きよりも抑圧的手法が優先され、一度は前進しかけたクルド問題での和平の機運も完全にしぼむ中、政治の手詰まり感や社会の閉塞感が急速に強まってきた。権威主義化に伴う閉塞感はメディア上にとどまらず、政権支持層を含む日常の人間関係を蝕んでいった。ギュレン派やクルド問題にかかわる有無を言わせぬパージと逮捕が繰り返され、具体的理由が明示されないままの失職や逮捕・長期拘留件数が急増した。また、それと並行して、密告が日常生活に蔓延した。筆者が現地で頻繁に耳にしたのは、上述の政治的問題とは全く無関係に、私怨・腹いせや昇進等のためのライバル蹴落とし、自分がギュレン派やクルド左派支持でないと証明する手段としてなど、様々な理由・目的による密告である。それは職場や知人関係など日常の人間関係の中で発生し、しかも得票率が50%に近い政権の支持層の近辺で多発したために、その閉塞感の息苦しさは相当なものだった。イスラム的な人々にとっては、親族内でもギュレン派関係者とエルドアン支持派の両方がいることは珍しくなかった(より正確にいえば、社会の末端であればあるほど、ギュレン派は慈善活動や教育活動を通じてイスラム的社会実現に努力し、エルドアン政権に貢献している組織として、両者への支持に何の矛盾もなかった。両者の競合・対立が関わってくるのはより組織上部の問題だった)。またAKP政権はその前半期にはクルド問題を多元主義的政治文化や制度への移行によって解決しようとしてきたゆえに、クルド問題にコミットした人たちも少なくなく、クルド関連でも同様のことが起きていた。こうして、不特定多数の人がいる場所や職場はもちろん親族や友人関係においても政治的話題は避けられるようになった。皆、密告を恐れ、あるいは家族や長年の友人関係でさえ政治的理由で崩壊することを避けようとした。

政府批判ができるメディアはネット上か、イデオロギー的色彩が鮮明なマイナーなニュースチャンネルに限られてしまった。人気ドラマなど娯楽番組を制作・放送する資本力のある大手テレビ局の政治系討論番組や系列日刊紙での自由な政府批判はもはや不可能となっていた。大手メディアは政府に批判的な評論家や記者との契約を打ち切り、毎日のようにエルドアンの演説がどこかで始まれば直ちに生放送に切り替え、翼賛放送局の様相を呈した。そのため、テレビの政治討論番組を好んで視聴し、政治に関する話題を親族・友人関係で議論するのが一般的だった人たちでさえ、多様な立場からの論戦が消えて翼賛化したメディアへの不信を募らせ、政治関連番組から遠ざかるようになっていった。こうした状況の中でエルドアンは大統領制への移行を決断し、そのための憲法改正を問う国民投票を2017年4月に行った。国民投票では辛うじて賛成が過半数を超え、次の選挙での大統領制移行が決まった。しかし、この国民投票の選挙期間はメディア報道内容・時間の点で反対論に圧倒的に不利なものだった(詳しくはOSCE報告書の特にp.19にリンクされた資料を参照。)また、開票時の不正も疑われた(同報告書、p.21。この国民投票のあり方自体の問題については末尾参考資料のBostan-Unsalを参照)。

国民投票は事実上、エルドアンが権力集中の度合いを強めた大統領になることをイメージしての、賛否を問う選挙となった。大統領制への移行を問うものではあったが、既存の憲法の限定的改正であり、議会選挙を現行システムから変更するのか(たとえば小選挙区制にしたり、全国最低得票率を下げるなど)どうかなど、権力分立や権力チェックのメカニズムについて細部をつめないまま、従来の首相の機能を大統領のそれに移行・統合させることで後者の権限拡大だけが突出した改正となった。大統領と議会過半数が同一政党に握られた場合、大統領をチェックできるメカニズムは、司法(の一部)や大学学長の人事でさえ大統領の管轄となった今、公的制度としてはもはや存在しないのではないかと思われる。大統領は大統領令を通じて広範な制度設計や政策を実施できる。クーデタ後の非常事態宣言下で反政府的な市民社会組織が多数閉鎖された(前出OSCE報告書(p.3)にはその数が1583に上るとある。)欧米由来の国際市民社会ネットワークのトルコ拠点も本来の批判的市民社会的活動はほとんど停止している。

このように、エルドアンは大統領制移行前の段階で既に、事実上は大統領制的な政治を、政府批判を抑圧しながら行っていた。それにもかかわらず、2019年の任期満了まで1年を残して早期選挙による大統領制への正式移行を急いだ理由は、この間に経済状況の悪化がとどまるところを知らず、有効な景気回復・浮揚策が見つからない中、任期満了を待っては再選が危ういと判断したからだと思われる。

こうした状況下で、「(1)選挙制度」の項目で説明したように、大統領選挙と国会議員選挙の双方で、与党過半数割れが懸念されたため、エルドアンは極右の民族主義行動党(MHP)と選挙協力することを決めた。両党の支持層はムスリム・アイデンティティとトルコ民族主義の点で重なり合っており、エルドアンは急速に 国内クルド政策とシリア内戦介入政策でトルコ民族主義的主張を強めてMHPへ接近した。他方で、バフチェリMHP党首は以前に政府の助けも借りて党内の幹部刷新の動きを回避したという借りがあったうえに(「政党」項目内のMHPの説明を参照)、政権への協力を通じた権力拡大期待もあった。 選挙協力によってエルドアンの大統領選出に貢献することで、MHPの議席獲得と自身のMHP内権力掌握を確実にし、さらにはトルコ民族主義的政治へとエルドアンを促し、党支持者への利益誘導も実現しようと目論んだのである。両党の選挙協力関係は「共和連合」(Cumhur İttifakı)と名付けられ、大統領選ではエルドアンだけを擁立し、バフチェリは国会議員に立候補した。選挙期間中、バフチェリの肖像がプリントされた選挙用横断幕が、与党系地方自治体が管轄する陸橋など、街中の人目につきやすい場所に掲げられるなど、与党の事実上の連立相手であると印象付ける選挙キャンペーンが行われた。この他、トルコ民族主義とイスラム主義を同等に重視する大統一党(Büyük Birlik Partisi, BBP)は得票率の低さから独自候補者リストでは議席確保が難しいため、直接、AKPの候補者リストから出馬させてもらうことで議席確保を狙った。得票率が1%前後の泡沫政党にも関わらず、エルドアンはBBP党首をAKPリストの選出確実な順位を与えてまでも、そのわずかな支持層の票を確保しようとしたのである。こうして「共和連合」はかなりトルコ民族主義色が際立つ政党連合となった。

2017年の国民投票時から権力集中型の大統領制への反対を中心に、是々非々の共闘関係を形成しつつあった一部の野党勢力も、10%の全国最低得票率を克服するために「国民連合」(Millet İttifakı)と名付けた選挙協力を立ち上げた。同連合に参加したのは、野党第1党の共和人民党(CHP)、MHPから分離して結党された良好党(IP)、AKPとルーツを共にする至福党(SP)の3党である。この3党のうち、独自得票率によっては議員選出が難しいと見込まれるSPは、CHPの独自候補者リストにも6名のSP候補者をリストアップしてもらい、融和関係を演出した。同様に、IPは90年代には中道右派の主要政党だったにもかかわらずAKPの中道政党化に押されて存在感をなくしていた正道党(DYP)の党首を選出可能性が高い順位で党独自リストに加えることで、トルコ民族主義勢力に加えて、政権に批判的な中道右派層の掘り起こしを目指した。

エルドアン政権の終焉、言論の自由と人権の保障、権力分立が機能する政治システムという主張で一致する野党勢力の大連合の可能性が模索されたものの、クルド左派のHDPは「国民連合」に参加することはかなわなかった。その代りに、クルド系の極小勢力の候補を含めた統一候補者リストがHDPリストとして提出された。

国民投票時から主要野党間でエルドアン政権の権威主義化に対して共同で対抗する流れが形成されており、それは国民投票後も続いていた。それを象徴するのは、2017年にCHP党首のクルチダルオールが「公正のための行進」(Adalet Yürüyüşü)と銘打って始めた徒歩によるデモ行進である。断食月中の6月15日にアンカラを出発し、約一か月をかけてイスタンブルを目指した行進では、自身は左翼のアレヴィであるにもかかわらず、断食月中はスンナ派の断食規定を遵守しながら行進を続けた。アレヴィは、保守的スンナ派からは伝統的に異端的イスラムとして差別されてきた。近年は、左翼当事者の間で非イスラム的独自思想文化であるとのアイデンティティ構築が進められており、断食をしない人も多い。また、トルコ政治史上では、極右トルコ民族主義からも真のトルコ民族ではないとして迫害対象とされてきた。クルチダルオールが党首を務めるCHPは、世俗主義を掲げ、そうした勢力と対立してきた象徴的存在であるが、アレヴィで左翼のCHP党首が、断食月に断食をしながら「公正」というムスリムの正義感にも鋭くアピールするスローガンを掲げて歩き続けるという行為からは、様々な意図が読み取れた。一つには、イスラム実践に熱心な国民を蔑視し弾圧してきた世俗主義的エリート、つまり国民の大多数と価値観や利害を共有しない、特権階級の代表である、とのCHPに関する固定観念を打ち破る意図が見える。また、そうした社会の固定的分断を克服し、政府批判勢力を、政府支持層のスンナ派保守の人たちも含めて幅広く糾合できる、新しい時代の政治運動を始めなければならないとのメッセージも読み取れる。そうした新しい政治運動は、国民の宗教的、民族的、イデオロギー的な多様性、自由な意見の表明に寛容でありつつ、公正さに依拠する民主的政治という原理原則において結集すべきであるとの主張である。

クルチダルオールの行進に芸能関係者や政治評論家、ジャーナリスト、政治活動家らが参加した。党首として参加した人はいなかったが、IP、SP、HDPは党幹部が賛同するメッセージを発したり、著名な党活動家たちが参加し、政府の権威主義化への批判に対する連帯姿勢を示した。ここに名を連ねた政党は、イデオロギー的にいえば、トルコの主要イデオロギー勢力のすべてを包摂している。つまり、左派勢力に加え、与党連合とイデオロギー的に競合する右派勢力を擁しており、与党連合以上のイデオロギー的広がりを有していた。CHPは世俗主義者や世俗派リベラルの都市中間層に、IPは中道右派から極右トルコ民族主義に、SPはイスラム系の保守系と革新系の両方の層を、HDPは左右のクルド系にアピールし得た。そのため、これらの政党が民主的原理で協力しつつ勢力を拡大することは、トルコが権威主義に急速に傾く中で、それへのアンチテーゼを体現するという観点で意義深いことだった。

クルチダルオールはこのように従来のトルコ社会の分断を克服する大連合の可能性に向けて努力を重ねてきたが、2018年選挙との関連では、もう一つ特筆に値する行動に出た。2018年4月20日に6月早期選挙が突如として決定されたため、結党から間もないIPが選挙参加資格を満たせない可能性が濃厚だった。先述のようにエルドアンにとっては自身の再選のためには経済状況がさらに悪化する前に選挙を済ませたいという事情があったが、選挙協力相手のバフチェリにとっては、自身の党内権力に挑戦して分派政党を作るに至ったIPが自党の支持基盤をかなり奪う可能性があり、IPが党勢を確立する前に、そしてできれば選挙参加資格を満たす前に選挙を済ませたいとの思惑があったと考えられる。政党法によれば、新党が国政選挙に参加するには、41県以上で選挙の6か月以上前に政党法に依拠して地方組織を設立済みであり、かつ党大会を開催していることが必要である。ただし、地方組織設立という条件と党大会開催という条件が個別に満たされれば済むのか、地方組織の条件を満たした後に開催された党大会から6か月が経過している必要があるのか、法の文言はどちらともとれ、後者の解釈ではIPは資格を満たさない状況だった。トルコでは中立であるはずの司法や高等選挙会議が、政治権力の意向を忖度して決定を下してきた歴史がある。IPは、MHPばかりでなくAKP支持層に食い込む可能性を秘めていた。IPの選挙参加資格を審査する高等選挙会議が、政権の意向をくみ取って資格なしとする可能性は大いにあった。そこで、クルチダルオールは新党の選挙参加を可能にするもう一つの十分条件、つまり、20名以上の国会議員を擁することという条件を、CHP選出議員をIPに一時的に移籍させることで満たそうと申し出た。IPもそれを受け入れ、選挙参加資格を確保した。ただし、IPは単独で10%を超えられるかの不安があった。また、他の野党勢力にしても、得票率が10%に迫ると見込まれるIPの得票が死票になるよりは、選挙協力によって国会で数十議席を獲得させることで、与党連合の過半数獲得阻止の可能性をそれだけ高めることができるとの思惑があった。こうしてIPも「国民連合」に参加することになった。

クルチダルオールは、クルド左派のHDPをも「国民連合」に参加させるべく模索した。同党もIP同様に10%獲得が確実とは言えないが、それに迫る支持は確実と思われた。しかし、トルコ系有権者が8割以上を占めると想定され、冒頭のようにトルコ民族主義がクルド排斥感情として先鋭化している状況下では、「国民連合」に参加するいずれの党にとっても、自身の支持層が反発し、離反するリスクが高かった。結局、HDPとの選挙協力はならなかった。それでも「国民連合」への参加政党はみな、HDPが党首以下、国政と地方の主要政治家の大量逮捕・勾留という状況下で選挙活動を強いられていることを批判し、有罪が確定していない候補者は釈放の上、自由な選挙活動を認められるべきだと声をそろえた。また、各党が長期的な党勢拡大を目指してクルド票の掘り起こしも試みたことは、後に述べる各党擁立大統領候補の活動から伺える。

野党の選挙協力模索過程では、エルドアン再選を阻止するために野党側も単独候補によって大統領選を戦うべく、適任候補が模索された。具体的には、世俗的世論、イスラム的世論、クルド系世論のいずれもが受け入れやすい、実績ある政治家として、ギュル前大統領の擁立が検討された。しかし、IP党首のアクシェネルが自身の出馬決意を曲げず、結局、各党がそれぞれに候補を擁立することになった。クルチダルオールは前述のように宗教少数派の出自ゆえに右派世論の支持を獲得しにくいと思われた。そこで、CHPは田舎町の保守的な家族に生まれ育ちながらも世俗主義派の政治家となったムハッレム・インジェ(Muharrem İnce)を擁立した。彼の母親は伝統的なトルコの母親像を思わせるスカーフの着用の仕方をしており、選挙活動では彼も母親を引き合いに出しては、自分はスカーフを見下すことも世俗主義的なイスラム抑圧を再度実施することもないと強調した。また、選挙期間中にクルド左派のHDP党首デミルタシュを獄中に訪れたり、彼の妻を自宅に表敬訪問するなど、クルド票掘り起こしも試みた。その一方で、クルド系多数派地域での訪問都市は4か所にとどまり、同地域での組織的基盤の薄さを印象付けた。

SPは党首のカラモッラオールを擁立した。彼はAKPにとってもルーツとなる「ムスリム国民の視座運動」(Milli Görüş Hareketi)を母体とする政党に1970年代から参加し、政治家活動の経験も長い。穏健な人柄で、英国留学経験と英国出身の妻をもつため、イデオロギー的分断を超えて協力を模索する状況下では、イスラム的世論と世俗派世論をつなぐ役割が期待された。彼はことさらにイスラムを持ち出すことなく、民主的で公正な国家、多様性を包摂する政治を説くことで、現政権への批判的態度を示し、党派を超えて野党支持層に好感を与えた。クルド問題については、クルド系多数派地域の中心都市であるディヤルバクルで、党の公式政策方針として「クルド報告書」を公表した。そこでは、母語による教育の権利を含めクルド語使用のあらゆる権利が認められるべきであること、クルド系多数派地域の経済開発に特化した政策が必要なこと、PKK問題解決にはゲリラや支持者もトルコ社会の一部であり、彼らを死に追いやることなく平和を実現する方法を模索するべきこと、が主要方針として掲げられた。かつてAKPがクルド系有権者の半数以上の支持を得ていた時期があったことを考えると、クルド系の親イスラム票をどれだけ獲得できるかも注目された。

政権支持層においてもここ数年、エルドアンと翼賛的メディアが数年にわたって国民の分断と対立を煽ることで支持を糾合しようとする度合いを強めてきたことに対して、反発や「エルドアン疲れ」ともいえる疲弊感を生んでいたため、このような野党側の大連合形成の兆しは、何か大きなうねりとして選挙結果に表れるのではないかとの期待が野党側で大きく膨らんだ。そのため、野党側メディアでは、エルドアンは勝てるとしても二巡目だろうとか、与党連合は国会議席過半数割れの可能性が高いといった、希望的観測が席巻した。

選挙戦は圧倒的に「共和連合」のが突出する、つまり野党の声がメディアからほとんど聞こえてこないほど、与党に有利な条件で戦われた。それにもかかわらず、あるいはそれ故に逆に、エルドアンと与党の手詰まり感が露呈した選挙戦となった。どのようにして現在の不況を克服するのか、国民を納得させるビジョンの提示はなかった。政治的・経済的危機を覆すような説得的処方箋を示せないなか、与党側の選挙演説は過去の実績の列挙(AKP政権前半の高度経済成長や社会福祉・保障制度の拡大・改善、高速道路・高速鉄道網の整備・拡張、スコッター地域の集合住宅地への転換と中下層階級への住宅供給政策など)や、それに類似する都市開発・インフラ整備事業の公約に終始した。

また、種々のアンケート結果に直接的に出てくることはないが、政権支持層も含めて、シリア難民がトルコ国民の本来享受すべき社会保障予算を圧迫しているとか、彼らが非正規の低賃金で働くことが国民の職を奪い、彼らの流入した地域の住宅賃料を押し上げているとして、政府のシリア難民受け入れ政策に批判的な声も蔓延していた。筆者が選挙期間中のアンカラで直接目にした例であるが、物乞いのために歩道上に座り込んでいる老婆の前を通り過ぎたとき、ちょうど後ろから追い越していった男性が、「トルコ国民がこうして困難な状況に置かれているのに、シリア人は気楽に暮らしている」と、携帯電話で話していた。こうした不満は時として社会不安の暴力的表出として現れている。たとえば、路上でのちょっとした諍いや、シリア難民が強姦事件を起こしたなどのデマをきっかけとして、住宅街でシリア難民へのリンチ事件が散発してきた。そうした状況がどう改善されるのか、選挙戦で明確なメッセージが発せられることはなかった。さらにいえば、トルコ民族主義的世論からすれば、トルコ軍兵士がシリア内戦で犠牲を払っているのに、シリア難民はなぜトルコで保護されているのか、という不満もある。これはシリア側からすれば、越境侵犯しているトルコ軍が撤退すればいい、ということになりそうだが、トルコ民族主義的世論にしてみれば、シリアとトルコのPKK系クルド系勢力が、欧米諸国と連携して自治や将来的独立を画策していると考えられるため、シリアに軍事介入して現地のクルド系武装勢力を一掃し、シリアでの自治獲得に勢いを得てトルコを含む周辺各国のクルド民族主義がさらに高揚することを何としても防がねばならないのである。つまり、シリアのPKK系クルド勢力の勢力拡大は、トルコの国家安全保障を揺るがしかねない最大級の脅威と認識されているのである。それゆえに、越境作戦による殉職者が多く出ているにもかかわらず、そしてそれ自体は政府にとっては支持低下のリスクを伴うにもかかわらず、シリア内戦後の秩序がトルコのクルド問題との関連で受け入れられるものだと確信できない限りは、もはやそう簡単に撤退できない問題となっている。

その一方で、シリア内戦にしてもトルコ国内におけるクルド問題にしても、トルコ政府の思うようには展開しそうにない。かつてはトルコの外交的存在感の高まりがAKPの国民的人気を下支えしたが、その再現は難しそうである。AKPは、パレスチナやソマリア、ロヒンギャなど、ムスリムが困難に見舞われているにもかかわらず、国際的に有効な解決策が打てていない問題での国際支援の実績、つまりトルコが中東を超えて、グローバルなムスリム・リーダー国だとのイメージを喚起し、イスラム系世論に訴えるしかなかった。

他方で、野党の選挙公約も経済政策という国民の一大関心事において説得的ビジョンを示せなかった。それでも政権交代という一点で野党側の目標は一致しており、2017年国民投票がほぼ5分5分だったことから、僅差での実現という期待は開票結果が明らかになるまで失われることはなかった。特に、CHPの大統領候補のインジェが選挙戦の締めくくりに行った国内三大都市の集会では、参加者が広大な会場を埋め尽くした。アンカラとイスタンブルの参加者数をインジェはそれぞれ200万人と500万人と主張し、エルドアンは警察発表として7.5万人と30万人と主張したが、いずれにしても高揚感溢れる締めくくりとなった。しかし、その最後の盛り上がりのなかで、イスラム勢力への敵対という文脈で世俗主義派が使用してきたスローガン「我々はムスタファ・ケマル(アタテュルク)の兵隊だ」を叫ぶ人がいた。、筆者がAKP支持者から聞いたところでは、野党がどれほど過去の世俗主義的イスラム弾圧の時代は終わったと強調しようとも、一部の過激な世俗主義者が「選挙で我々が勝利した場合にはイスラム主義者は覚悟をしておけ」といったツイートをしており、そういった情報はAKP支持層の間で瞬時に共有されるため、エルドアンに全面賛成でなくとも、現時点での政権交代はダメだと思わせ、AKPの支持固めの機能を果たしているという。(類似の指摘として以下の記事も参照。)こうしたことも手伝って、結局、次項で見るように、国会議員選挙も大統領選挙も与党側が勝利して終わることになった。

ただし、メディアと選挙という点では、この選挙も不公平さが圧倒した。上述のインジェの大規模集会さえ、生中継はもちろんなく、ニュースとしての扱いも限定的だった。エルドアン始めAKPは公式な選挙演説だけでなく、公共事業等の起工式や竣工式などの政権党として利用しうる様々な機会を事実上の選挙キャンペーンの場に代えていた。それは公務であるが故、国家予算がカバーする移動手段が最大限に利用され、国営テレビ含め主要メディアが直ちに生中継に切り替えて延々と放送した。対する野党勢力は、テレビや新聞など、従来型の主流メディアがほぼ政権の翼賛メディアと化したために、そうしたメディアへの露出は極度に制限された。それは野党党首が主要テレビ局の番組に出演することが特別なニュースとなるほどに極端な不公平さだった。選挙監視を行ったOSCEの報告書によれば、野党側の報道は国営テレビを含む主要テレビ局では扱いが少ないだけでなく、取り上げ方も概ね野党候補者に否定的だった。与党連合の双方の支持基盤を切り崩す恐れのあるIPに至っては、ほとんど取り上げられないという状況だった。それでも家庭からのネット接続率が8割に達していることもあり、野党勢力は都市部中間層をターゲットにインターネット上の新聞や放送、ソーシャル・メディアを通じての選挙活動を精力的に展開した。

クルド左派のHDPの置かれた状況は、野党勢力のなかでも特殊だった。2017年12月のHDPによる報告書では、地方政治に特化したHDP系列の政党であるDBPが首長を輩出した自治体のうち、東部・南東部地域を中心に94自治体で首長がテロ支援の罪で逮捕・勾留され、政府任命の首長代理が据えられている。(AKP系シンクタンクのレポートでは、2018年2月現在で93自治体となっている。)同報告書によれば、免職処分となった首長のほとんどは逮捕され、その後一部は釈放されたものの70名が有罪とされて収監中であった。同様に、改選前の2018年2月時点の新聞報道によれば、同党選出国会議員のうち13名が議員資格をはく奪され、うち6名が実刑判決や審理中のために収監されていた。その13人には当時の党共同代表二人がともに含まれており、党活動家らも頻繁に逮捕・尋問・勾留の対象とされ、党の組織も組織活動も大きな打撃を受けていた。共同代表の一人で未決囚だったデミルタシュは、その後の党大会で共同代表選出馬を辞退して共同代表を降りたが、獄中にいながらにして大統領選への出馬を決意した。獄中から自由な選挙活動は望むべくもなく、選挙法で認められた国営テレビでの2度の演説枠(各10分)だけを、しかも2度分を同日の事前収録ですませねばならない、という制約の中で行使しただけとなった。さらに、同党の選挙活動は、時には内務・警察など行政側のサボタージュの下で妨害された。たとえば、エルドアンの選挙集会と同じ日に実施が決まっていた同党のアンカラでの選挙集会を、HDP集会の警備体制が整わないとして、当日になってアンカラ県知事がHDP集会の許可を撤回している。

このように、選挙戦は平等性と公正性が大きく損なわれたものとなった。

②国会議員選挙および大統領選結果

大統領制移行に伴い、今後は大統領選挙と国会議員選挙は補欠選挙を除いては同日選となり、さらには、投票所で一つの封筒に両方の投票用紙を入れることになった。また、大統領令公布によって大統領が国会の承認を得ずに広範な政策を実行できるようになり、国会がどのような存在意義をもつようになっていくのかがまだ見通せない段階の今回の選挙と、数年の経験を経た後の次回以降の選挙では、有権者の投票行動には違いが出てくる可能性がある。そのため大統領選と国会議員選の結果の相関については、何度かの選挙を経なければ有意な指摘はできないが、今回の選挙に限って言えば、投票率や、国会議員選挙における与党系の「共和連合」の得票率・得票数と、大統領選挙で同連合が擁立したエルドアン候補の得票率・得票数は概ね一致することとなった。他方で、野党勢力については二つの選挙結果の得票率は大きく異なった。

2018年国会議員選挙結果(投票率:86.22%)

政党名 選挙協力 得票数 得票率(%) 議席数* 議席数
(女性数)**
公正と発展党
(AKP)
共和連合 21,338,693 42.56 295 290
(53)
民族主義行動党(MHP) 5,565,331 11.10 49 49  (4)
共和人民党
(CHP)
国民連合 11,354,190 22.65 146 144
(18)
良好党(IP) 4,993,479 9.96 43 42  (3)
至福党(SP) 672,139 1.34 0 2  (0)
諸人民の民主党(HDP)   5,867,302 11.70 67 67 (26)
合計   50,137,175 100.00 600 596***(104)

注* 政党候補者リストによる議席配分数。末尾参考文献の官報掲載データによる。

注** 選挙時の女性議員数および2018年8月9日閲覧時点での政党別議席数は、トルコ大国民議会の以下のサイトによる。

注*** 選挙時の議席数と2018年8月9日時点での議席数の違いは二つの理由による。一つは、選挙協力によって別の政党候補者リストからいくつかの政党が議席を獲得したことによる。至福党は至福党自身の候補者リストからは当選者が出なかったが、共和人民党リストから2名が、民主党は良好党リストから1名が、大統一党は公正と発展党リストから1名が、それぞれ当選した。二つ目に、大統領制において、大臣は国会議員との兼務ができないため、大統領によって大臣に指名された公正と発展党選出議員4名が議員辞職をしたことによる。

2018年大統領選挙結果(投票率:86.24%)

大統領候補者名(所属政党名) 得票数 得票率(%)
レジェプ・タイップ・エルドアン(公正と発展党) 26,330,823 52.59
ムハッレム・インジェ(共和人民党) 15,340,321 30.64
セラハッティン・デミルタシュ(諸人民の民主党) 4,205,794 8.40
メラル・アクシェネル(良好党) 3,649,030 7.29
テメル・カラモッラオール(至福党) 443,704 0.89
ドーウ・ペリンチェク(愛国党) 98,955 0.20
合計 50,068,627 100.00

末尾参考文献の官報掲載データによる。

総選挙の結果は、野党勢力の「国民連合」側にとっては、大統領選でエルドアンの過半数獲得を阻止して第2回投票に持ち込むという目算さえはずれ、失意をもたらした。大方の予想を覆したのは、トルコ民族主義票の強さだった。MHPから分離したIPがMHPからどれだけの票を奪うかが注目されていたが、IPもかなりの支持を得たにもかかわらず、MHPもそれほど票を減らさなかったのである。

世論調査組織が選挙後に実施した二つの投票行動アンケートは、IPへの投票者が前回(2015年11月総選挙)どの党に投票したかについて、若干異なる結果を示している。KONDA社調査(p.32)によれば、IPの得票の6割はMHP支持者からきており、1/4ほどはCHPから流れてきている。IPSOS社の結果では、MHPとCHPからの鞍替えがそれぞれ3割、AKPからが2割、前回棄権者が1割となっている。 KONDA社調査はさらに地域、文化的特性、階層面での特徴にも言及している(pp.8-10, 37-40)。IPは、西部沿岸部に住む世俗的で上流中産階級に属するトルコ民族主義者から、MHPは、内陸アナトリアを中心に、より保守的なトルコ民族主義者で下層中産階級に属する人が多いという傾向を示す。IPSOS社は各党投票者の重視した争点も調査している。それによれば、MHPは国家一体性保持と対テロ政策を、IPは経済と教育を重視する人たちの支持を得ており、IPはトルコ民族主義者の中でより中道右派的位置取りをし、MHPは伝統的な極右のポジションを維持しているとみることができる。

AKP支持者は宗教保守で階層的には下の層が中心であるが、ほとんどの地域で第1党の座を維持しており、政権を獲得した2002年以降のトルコで唯一の国民的政党の位置づけを維持していることが分かる。今回もその点は変わらないものの、AKPの得票率は前回選挙から7%の減少となった。KONDA社は、そのほぼすべてがMHPに乗り換えたとみる(p.32)。IPSOS社はより複雑な票の行き来を指摘する。AKPの前回支持者はMHPを中心にCHPやIPに流れ、しかし、AKPにもMHPやCHP、HDPに前回投票した人たちの一部が鞍替えをしているという。IPSOS社による投票行動と注目争点の調査によれば、AKPへの投票者は過去の政策や経済的公約を重視しており、政権として経済政策で活路を見いだせないなかで、それでも過去の実績に照らせば、政権交代をリスクととらえる人々を繋ぎ止めたことが分かる。しかし、トルコの10大都市のすべてで前回選挙より大きく支持を減らしており、2015年6月総選挙での勢力減退や、2017年国民投票でのMHPとの協力による僅差の勝利などと併せると、確実に凋落傾向にあることが分かる。エルドアンの権威主義化はある意味、それへの危機感の裏返しであるともいえる。

大統領選におけるエルドアンの得票率は「共和連合」の得票率合計とほぼ一致し、上述の二つの調査は「共和連合」への投票者がほぼエルドアンに投票したと示している。他方で、CHP候補のインジェは同党の得票率を8%上回り、IP候補のアクシェネルとHDP候補のデミルタシュが党の得票率を2~3%ほど下回っている。両調査はいずれも、IPとHDPの一部がインジェに投票したことを示す。大統領選が第2回投票にもつれ込んだ場合に備えて、インジェ候補の勢いを付けておこうとしたものだと理解できる。他方で、IPSOS社の調査では、IP投票者の3割、HDPとMHPへの投票者それぞれ2割、CHP投票者の1割が、この選挙に限っての投票行動であり、固定的支持層ではない、と答えており、多様な投票動機を予想させる。HDPは10%を超えなければ死票となる。そのため、エルドアン大統領が当選した場合にも、せめて国会で「共和連合」を抑制できるようにとHDPの議席獲得を応援しようとするものや、トルコがイデオロギー的、民族的な分断を克服し、成熟した民主的社会に移行するためには、クルド民族主義の声を民主的に代表させる国会を死守しなければならないと考える人々が、HDPに投票したと思われる。IPについては、改革や経済発展を通じて中道勢力を惹きつけてきたAKPが急速に権威主義化を強める中で、その流れに批判的なトルコ系中道右派票を糾合したものの、新興政党として組織や支持基盤が未確立であることを、3割という数値は示しているとみられる。

HDPは、トルコ全土の民主化・文化多元主義化を主張するものの、支持層の観点からいえば、圧倒的にクルド政党である。しかし、KONDA社は選挙直前の調査を根拠に、トルコのクルド人の大多数を占めるクルマンジ語系(本人の母語がトルコ語に同化していても自認としてここに含まれる者もいる。全人口14%程度と推定)の53%、クルド少数派のザザ語系(全人口の2%程度と推定)の23%はHDPを支持したが、クルマンジ語系の24%、ザザ語系の31%はAKPを支持したと推定する。ちなみに、シリア国境地域に多くが住むアラブ系住民のうちHDP支持は6%にすぎず、AKPが37%、CHPが29%を支持していた(前掲文献pp.40, 103)。

今回の選挙では投票率が1990年代以降の国政選挙で最高となったにもかかわらず、クルド系人口が多数の東部・南東部地域では軒並み投票率が低下した。その理由としてまず考えられることとして、非常事態宣言下で投票所の安全と称して、この地域の僻地の投票所設置場所が住民の利便性を無視して遠隔地の投票所に統合され、自前の交通手段を持たない場合は数時間歩かなくては投票できない、という地域があったことや、政府の権威主義的傾向が強まる中で投開票作業の公正さへの疑念が大きくなり棄権を選ぶ人が増えた可能性がある。また、2015年の夏以降に、PKKがこの地域の都市部市街地で国軍や警察と武力対立を繰り広げた結果、一般市民も大きな犠牲を強いられるなか、HDPが事態を打開するためのPKKに対して自律的・建設的役割を担うことができず、PKKと政府の双方に対して働きかける国政政党としての存在意義がないとの反発を受ける一方、その他に投票に値する政党があるわけではないことから、棄権するしかなかったという理由も考えられる。

こうした状況と政党の得票との関連でいえば、前述の、HDP系首長が逮捕され、代わりに政府が首長代理を任命した自治体では、KONDA社調査(pp.78-82)によれば、AKPやMHPの支持率が若干ながら上昇したところもあり、そうした地域ではHDPは支持を減らしている。各選挙区の有権者プロフィールをある程度知っている人によっては、これまで棄権してきた地元のトルコ系マイノリティが今回は投票に行ったのだ、とか、地域の治安対策のために軍や警察関係者が多数配置されたために、彼らの票が「共和連合」の支持率上昇をもたらしたなどの指摘がある。KONDA社(p.32)は前回選挙でHDPに投票した人の5%は棄権したと推定する。このあたりについてのより詳細は、投票所別の選挙結果と世論調査やフィールド調査を組み合わせた分析を待つ必要があるだろう。

最後にKONDA社調査より、投票の実数の推移にかかる指摘を紹介しておきたい(p.27)。それによれば、寿命の伸びもあり、有権者数は2011年総選挙との比較で約500万人増加した。しかし、AKP、CHP、MHPの得票数は若干の増減はあるものの、2011年とほぼ同数にとどまっている(それぞれ2000万、1100万、550万)。投票率が2011年の83%に対して今回は88%と高まっており、その増加分も含めると2011年比で投票者数は800万人増となった。さらにIPとHDP以外の既存政党や無所属候補の得票減分は総計約100万票だった。この計900万票の半分以上は、新設のIP(500万票)が獲得した。残り400万票は、HDPが獲得した。HDPは2011年の200万票から得票を3倍に押し上げたことになる。HDPは2015年6月総選挙、同年11月総選挙でもそれぞれ600万票、500万票を得ており、クルドを巡る状況に大きな変化がない限り、これだけの固定的支持層を確立したと見て間違いなさそうである。他方で、IPは選挙後すぐに有力幹部が離党するなど基盤が確立しておらず、はやくも危機に直面している。今回初めて選挙権を得た有権者の3割はAKPを支持しているが、学生を中心に2~3割は棄権の可能性も高い浮動票であり(pp.28, 102)、大都市部でAKPの支持が一貫して後退している傾向を考えると、今後は、各党が固定支持層を手堅くまとめながら、どのように都市部を中心とした若年浮動票にアピールしていくかがカギとなりそうである。

参考文献

  • Erol Tuncer, Osmanlı’dan Günümüze Seçimler (1877-2002), (Genişletilmiş 2. Baskı) TESAV, 2003.
  • 澤江史子『現代トルコの民主政治とイスラーム』ナカニシヤ出版、2005年。
  • 澤江史子「トルコの選挙制度と政党」(日本国際問題研究所編『中東諸国の選挙制度と政党』、2002年)。
  • 間寧「トルコ2002年総選挙と親イスラム政権の行方」『現代の中東』35、2003年。
  • 官報より2007年総選挙結果 (サイト内左下リンク先にあるワードファイル) 。
  • 澤江史子「トルコ大統領選の行方」、「トルコ総選挙後の議席状況と潜在的混乱要因」、「二期目に向かう公正と発展党政権」( (財)日本エネルギー経済研究所・中東研究センター会員限定データベース所収、2007。)
  • 澤江史子「煮詰まるトルコのクルド問題解決策」『海外事情』2012年11月号、114-121頁。
  • Fatma Bostan-Unsal, “Turkey at a Crossroads? The 2017 Referendum’s Challenges and Opportunities,”Review of Middle East Studies 52(1):5-15.
  • 官報より2011年総選挙結果 。
  • 官報より2014年大統領選挙結果 。
  • 官報より2015年総選挙結果
  • 官報より2015年早期総選挙結果。
  • 官報より2018年国会議員選挙および大統領選挙結果。
  • Seçimlerin Temel Hükümleri ve Seçmen Kütükleri hakkında Kanun (選挙の基本規定および有権者登録に関する法。1961年4月26日成立。)http://www.mevzuat.gov.tr/MevzuatMetin/1.4.298.pdf#search=%27secim+kanunu%27
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2019年1月18日

トルコ/政党

(1) 政党制度

党の設立や活動についての規定は、政党法により定められている。同法では、全ての政党は、内務省に届け出を出さねばならない他、党本部をアンカラに置くこと等が義務づけられている。党員資格は、満18歳以上で参政権を有する者と規定されているが、裁判官、検察官、高等教育機関の教員、上級公務員、大学入学前の学生、軍人、過去にテロに関与したとして逮捕された者などは党員になることを禁じられている。

党の活動資金は、政党交付金(国政選挙で10%以上の全国平均得票率を獲得して国会議員を輩出した政党に加え、議員を輩出できなかったとしても政党法に規定された割合以上の得票率を得た政党には支給される。後者については2014年の法改正により、従来の全国平均7%以上の規定が3%以上に引き下げられた)の他、党員年会費、各種議員年会費、党関連商品収益(旗、バッジ等)、党出版物収益、党主催パーティー収益、党所有物からの収益、寄付などによることが規定されている。

トルコの体制が、世俗主義を中心とする特定の不可侵の原則に立脚し、軍部の政治的プレゼンスに支えられていることを既に述べたが、同様に、以下のような原則を遵守することが政党に対しても義務付けられている。

国土の一体性の保全、世俗主義を遵守し、アタテュルクに敬意を示さねばならない。

宗教・人種・言語・地域的な差違に基づく分離独立主義や差別主義を標榜してはならない。

こうした規定は、思想活動の自由に抵触するものであるが、政党法だけでなく、憲法においてさえ繰り返し規定されている。その他、共産主義、無政府主義、ファシスト、神権政治、国家社会主義、宗教・人種・宗派・地域の名称(あるいは主旨が同じもの)を党名に掲げた政党の結成が事実上、禁じられてきたが、EU加盟プロセスの加速や政権党に対する非合法化裁判などが、政党非合法化を一般論としては非民主的だとする認識を後押ししてきた。

政党の非合法化については、法律に違反したと共和国主席検事が判断した場合や、内閣の決定に基づいて法務大臣が要請した場合などに、憲法裁判所で解党の可否を決定することになっている。2017年12月末日時点で、1923年の共和国設立以来、合法的に存在した政党は合計340あり、そのうち解散・自然消滅・非合法化など多様な理由のためにもはや存在しない政党は全部で252にのぼる(Tuncel 2018, p.25)。政党法に基づく政党は2019年2月11日時点で77である。非合法化された政党の数は Tuncel (2018, p.29) の調査時点では、共和国設立以来、61政党にのぼる。クーデタにより軍事政権が樹立された際に非合法化されたものもあれば、国是に反する政治目標を掲げているとして裁判によって閉鎖されたものも少なくない。後者の例としては、共産主義を奉じるトルコ労働者党や親クルドの人民の労働党、親イスラムの福祉党や美徳党などがある。その一方で、そのような法律の運用は弾力的で、その時々の体制側の政治的判断に任されているといえる。例えば、1960年代の共産主義勢力の流れを汲む社会主義権力党(Sosyalist İktidar Partisi)が2001年11月にトルコ共産党(Türkiye Komünist Partisi)と改称したが、現在まで非合法化に向けた手続きは始められていない。2010年の憲法改正で、解党裁判は、国会が起訴を承認しなければ憲法裁判所は審理できないことになった。また、非合法化の原因と認定される言動をとった議員は、従来は政党の非合法化とともに議員資格を喪失したが、憲法改正によって、その後も議員活動を継続できることになった。クルド問題で揺れる社会状況を背景にして、なかなか一足飛びに政党非合法化という非民主的慣行にけりをつけられない状況での折衷的憲法改正といえる。

その一方で、クルド系政党やクルド系世論の要求を汲んで、2014年には選挙期間中の宣伝活動について、クルド語を含めあらゆる言語や方言で行うことが合法的行為と認められ、それ以降、クルド語での選挙活動はクルド系人口が多い地域では一般的となった。 しかし、言論の自由がどこまで保証されるかが政治情勢によって大きく左右される状況は脱していない。中道右派のイスラム系政権がトルコ民族主義と権威主義を結びつけながら強めていった2015年夏以降には、クルド民族主義的な言論の自由は大きく制限され、クルド系人口の半数以上の支持を固めるに至ったクルド系左派の諸人民の民主党の政治家やシンパの知識人に逮捕や公職追放を含む厳しい抑圧政策がとられている。

  政党が選挙に参加するためには、投票日の6ヶ月前までに全国の半数以上の県において各県内の3分の1以上の自治体に支部を開設した上に党大会を開催済みであるか、もしくは国会に会派を有していることが条件とされている。選挙制度の項で説明したように、単独もしくは選挙協力を行った政党との合算による全国平均得票率が10%を超えなければ、国会に議席を得ることはできない。

(2) 主要政党の解説

現在、トルコの政党の多くはインターネット上に公式サイトを持っており、情報量に差はあるものの英語サイトを運営しているところも少なくなく、比較的情報は集めやすい。以下に、現在、議会に議席を有する政党を中心に、1980年代以降の国会に議員を擁した実績のある主要政党の基本情報をまとめておく。 政党の記載順は基本は2018年国会議員選挙における得票率順であるが、それらの政党から派生した政党で議席を獲得している党については、便宜的に得票率の大小にかかわらず、派生した党のすぐ次に掲載している。

公正と発展党(AKP)

2002年8月設立の親イスラム政党。党首は2017年5月よりレジェプ・タイップ・エルドアン(Recep Tayyip Erdoğan)。

1970年にネジメッティン・エルバカン(Necmettin Erbakan)を党首として設立された国民秩序党に始まり、クーデタや憲法裁判所の判決による解党と後継政党の設立を繰り返してきたイスラム政党の末裔。国民秩序党はナクシュバンディー系の教団の後押しを受けて設立され、内陸アナトリアを中心とした反体制イスラム復興勢力を糾合した。トルコでの世俗主義国家樹立とその後の世俗化・欧化政策を批判し、イスラム的な規範に依拠した体制や政策を通じて社会的公正と経済発展を両立できると説く綱領「ムスリム国民の視座」(Milli Görüş)を掲げた。イスラム復興勢力を支持基盤とするが、党の政策のレベルではイスラム国家の内容を具体的に示して政策立案をするというよりは、より現実的に、宗教活動の自由化、宗教教育の拡充、中小企業の振興による地域的経済格差の是正を訴えた。国民秩序党以来、宗教保守的な中小の商工業者を支持基盤としてきたが、1990年代には都市部で女性支持者をも巻き込んだ動員組織網を築き、都市貧困層の支持を拡大した結果、1995年総選挙では議会第一党となった。1996年7月にはエルバカンを首相とする連立政権が正道党とともに樹立されたが、軍部を中心とする体制派勢力の圧力に屈し、翌年の6月に連立政権は崩壊した。福祉党は世俗主義に反しているとして1998年2月に解党され、エルバカンは政治活動を禁じられたが、事前に設立されていた美徳党にほとんどの議員が移籍し、エルバカンの意向を受けたレジャイ・クタン(Recai Kutan)が党首となった。

しかし、2001年6月に美徳党も解散判決を受けた後、古参幹部率いる至福党と、次代のリーダーと目され大衆的人気を誇るレジェプ・タイップ・エルドアンを党首とする公正と発展党に分裂した。エルドアンら公正と発展党を設立したグループは、党幹部の世代交代や時代に対応した新しい思想や政策方針の必要性を主張し、美徳党までの支持層に加えて中道右派やリベラルな層からも支持を集めることに成功した。2002年総選挙で公正と発展党が議会第一党に大躍進したのに対し、至福党は大敗(得票率2.5%)を喫した。

エルドアンは国民秩序党結成当時の活動家の典型ともいえる。イスタンブルの下町の貧しい家庭に育ち、イマーム・ハティーブ学校を卒業した後、就職などを経て大学の経済行政学部に進学している。前後して、党の青年部で活動を始め、党内組織で上昇し、エルバカンの秘蔵っ子的存在となった。イスタンブルでの草の根動員組織立ち上げなど、独自の活動で党の台頭に貢献し、1994年からは国内最大の都市イスタンブルで大都市市長としてイスタンブルの近代的都市化を成し遂げて、国民的な人気を獲得した。

公正と発展党は、福祉党と美徳党が非合法化されて政治活動を続けられなくなった上、その際に非合法化が非民主的だとの国民的擁護を得られなかったことを反省し、エルバカンが率いてきた「ムスリム国民の視座」運動が、結局は、イスラム的言説を用いて国民の一部に疎外感や警戒感を与えたり、イスラムを政治的に利用しているとの反感を招いただけだったと結論づけた。そして、新党では、「保守民主主義」をイデオロギー的立場に掲げ、イスラム政党ではないと主張している。公正と発展党が擁護する「保守民主主義」とは、社会の伝統文化に根ざしながらも、急進的ではなく漸進的な変化を通じて社会の近代化や変化を遂げようとする立場だと説明されている。また、特定宗教や民族、イデオロギーを強制することは社会に分断や対立をもたらすことになると批判し、社会や文化の多様性を認めるような多元主義的な民主政治を実現することで、トルコの政治社会の発展と国際的な寛容や相互理解を促すことができると主張する。そして、社会の多様な立場を仲裁し、妥協点を見出させることのできる制度として政教分離を擁護している。また、党のイデオローグには、西洋のキリスト教民主党に類似した「ムスリム民主政党」ではないとの主張もあるが、社会の価値観や伝統文化に根ざした政策の実現として、家族の保護強化やイスラムの価値観と一致する政策が志向されており、党がイスラム的価値規範に依拠していることは、否定できない。例えば、2004年には刑法に姦通罪規定を盛り込もうとの意見が出されたり、地方の公正と発展党市政においては、市営の公共施設で酒類の販売を取りやめた自治体も出てきている。ただし、公正と発展党政権は、ユニセフから支援を得て女子児童就学促進キャンペーンを行ったり、女性への虐待を防止するための取り組みも始めており、イスラム的価値規範と伝統的慣習を精査峻別しながら女性に関連する領域についても社会改革を進めてきた。

2014年8月にエルドアンが大統領に選出されたのを機に、憲法規定に則り党籍を離脱した。これに伴い、新党首および新首相にはエルドアン政権を外交顧問や外相として支え続けてきたアフメト・ダヴトオール(Ahmet Davutoğlu)が就任した。エルドアンの大統領選出に伴って、前大統領のギュルが大統領職のために離れていた党に復籍し、党首および首相に就任する、という可能性もあった。しかし、多くの世論調査で自身をしのぐ国民的人気を集めていたギュルが党内権力を確立することを妨げるために、エルドアンはギュルから大統領職を引き継ぐ前日、つまりギュルが復党できる前日に党大会を開くことを決定し、そこでダヴトオールに党首および首相の任を任せることにした。2013年のゲズィ・デモ以来、エルドアンが首相として野党勢力や批判勢力を強硬な手段で弾圧したり、「非国民」とレッテルをはって国民の分断と批判勢力の弾圧を正当化する言説を強めてきた中で、ギュルはエルドアンに対する表立っての対立は避けながらも、そうした分断政治を和らげ、民主的な政治運営を求める発言をしており、野党勢力からは一定の評価を得ていた。そのため、その後、権威主義化が強まる中で、ギュルや彼に同調する勢力の党内権力掌握と、政権掌握を期待する声が、野党側メディアで繰り返し現れた。2018年大統領選においてもギュルを、国会議員選挙での選挙協力では一致した野党連合の「国民連合」の共同候補とする動きが起こったものの、同連合を構成する良好党の反対で実現しなかった。ギュルも野党勢力が一致して推すという条件が満たされた場合のみ出馬要請を受け入れるとしていたため、立候補には至らなかった。この間、エルドアンは、ギュルの学生時代からの友人である参謀総長(当時)と、公正と発展党政権下で長く首相顧問や大統領補佐官を務め、ギュルの信頼もあつい人物を使者に立て、立候補見送りを要請している。

この数年、エルドアンや彼の取り巻きによって、これまでの政権運営や党活動における功績を否定し、すべての功績はエルドアン一人の力によるものであるかのような言説づくりが進められており、その過程で、ギュルや彼に同調する旧幹部たちは、名誉や権威を失墜させるような発言やメディア活動にさらされてきた。ギュルらは未だに党籍は維持しているが、エルドアンとの関係は冷え切っており、エルドアン後が模索される度に、エルドアン批判勢力によってギュルの名前が取り沙汰されている。ただし、彼がエルドアンの権威主義化に対して公然と批判し、自らがそれを正すために打って出ることはなかった。強いリーダーを求めるトルコの政治文化において、ギュルへの期待がいつまで続くのかは未知数である。

ダヴトオールも、公正と発展党政権期を通じてその外交政策を策定してきた点で貢献は非常に大きかったものの、こうした権謀術数のなかでエルドアンのおかげで政治権力を得たにすぎず、党内や政権での権力基盤は脆弱だった。大学教授から政治家になったこともあり、公正と発展党に連なる政治運動や政党組織の内部から経験と人脈を蓄積してきた政治家ではなかった。ダヴトオールは彼なりにエルドアンから自立した国家運営を目指したものの、エルドアンがダヴトオールの党内や政権内で独自色や権力基盤を構築することを許すはずはなかった。党幹部選定はもちろんのこと、選挙候補者リストや閣僚リストの作成をめぐってエルドアンとの激しい確執が繰り広げられた。ギュレン派との対立の過程でエルドアンの親族を含む汚職事件が政権を揺るがした際にも、野党だけでなく党内支持基盤からも党関係者の汚職一般に関する批判が噴出する中で、弾劾裁判実施や汚職防止法の制定を目指したものの、エルドアンがそれを遮る発言をすると引き下がらざるをえなかった。対立が激しさを増す中で、エルドアンによって引き立てられたメンバーが牛耳る党幹部会において、党首の地方組織人事権を停止する決定が急になされたのをきっかけに、ダヴトオールは党首および首相辞任を決意した。

ダヴトオールにとって代わったのは、エルドアンがイスタンブル市長をしていた1990年代から腹心として彼を支えてきたビナリ・ユルドゥルム(Binali Yıldırım)である。ユルドゥルムは公正と発展党政権期の運輸・海運・通信相をほぼ独占的に務め、トルコのインフラ発展を象徴する政治家となった。大統領制移行にともない、首相職は廃止となったため、2018年国会議員選挙に立候補して当選し、新体制では国会議長としてエルドアン政権を支えている。

2017年4月に大統領制移行をかけた憲法改正国民投票が実施され、辛くも過半数を得られたが、その際に承認された憲法改正条項には、大統領就任に伴う党籍離脱規定を廃止する条項が含まれていた。従来はすべての政党に対して中立的であるべく大統領就任とともに党籍離脱が要請されていた。しかも、この規定は、大統領制移行と同時適用ではなく、国民投票結果が公的になり次第、一足先に実施されることとされていた。これを受けて同5月に早速、公正と発展党臨時党大会が開催され、2014年の大統領就任時に党籍を離脱していたエルドアンの復党および党首就任が承認された。

エルドアンは、自らは首相から大統領へ鞍替えし、大統領職もシステム変更によって2選禁止の適用をかわして権力ポストを維持しつづけている。その一方で、党が継続的・漸進的に人員刷新や世代交代を進める必要を説いて、国会議員の4選を党規で禁止し、現役議員の1/2から2/3を選挙の度に候補者リストから外し、被選挙権年齢を引き下げてきた(最新状況は18歳)。しかしこれは同時に、党組織や国会議員候補選定という人事をエルドアンが掌握し続けながら、ライバル候補の権力ポジションでの滞留を防ぐという効果(おそらく意図)もある。これは党や国政、地方行政にまつわる利権の受益者が全体として増加することを意味しており、そのおこぼれにあずかろうとする潜在的待機者の支持を取り付け、自分や親族がそこから弾かれないように批判を自己規制する人々を繋ぎ止めるのに役立ってきた。しかし、かつての「ムスリム国民の視座」運動の精神を根っこのところで共有しない中道右派やトルコ民族主義の人々、公正と発展党政権が利権政治の旨みを享受する時代に育った若い世代が、党の主流となることを懸念する声も、その時代を経験してきた世代からは漏れ聞こえてくる。

公正と発展党がイデオロギー的にどのような位置取りをするに至ったのかは、批判勢力からはイスラム的権威主義だとのレッテル張りが目立つが、イスラム的価値規範を重視する批判勢力からはイスラムから遠ざかっているとの批判を受けている。トルコ国内と国際的な政治経済・価値規範のヒエラルキーにおいて世俗主義や西洋中心主義が支配的であることを批判し、ムスリム・アイデンティティに巧みに訴えながら支持を糾合しつつも、同党の成長政策には欧米や日本がかつて行ってきた近代的な都市生活と技術開発をめざす点で目新しいものはない。環境破壊や汚職など、先発の高度発展社会が踏んできた轍もしっかり踏んでいる点で、アイデンティティという面を超えて、ムスリムであるということがどのような代替的規範として統治において作用しているのかは見えにくい。

2019年統一地方選における大都市部での敗北を受けて、エルドアンは足元を固めるために党内批判派への締め付けをますます強めている。2019年秋口に元首相のダヴトオールと、外相、EU担当相、経済担当相などを歴任したアリ・ババジャン (Ali Babacan)がそれぞれ年内の新党結成を目指して公に活動を開始した。両者は党綱領におけるイスラームの位置づけ、強調という点で、全く正反対の方針を取ると言われる。ダヴトオールは国家アイデンティティと外交政策においてムスリム・アイデンティティを重視するのに対し、ババジャンはリベラル路線を貫くことで欧米中心の国際社会からの信頼回復による経済の上向きと国内のマイノリティー問題の改善を目指す。最終的な党綱領と幹部の顔ぶれがどのようになるか、次の選挙がどのような政治社会情勢でいつ行われるかが、党勢を規定していくと思われるが、国内外でその政治手腕が評価を集めた実績をそれぞれに持つゆえに、AKPだけでなく野党からも一定の支持層獲得が見込まれる。

至福党(SP)

  ・Saadet Partisi

2002年7月に結成された至福党は、当時、エルバカンが政治活動を禁止されていたため、エルバカンを取り巻きとして常に支えてきたレジャイ・クタンが初代党首に就任した。その後、エルバカンの禁が解かれると、エルバカンが党首となったが、検察が党の政治資金の収支の不透明さを指摘したのをきっかけに、至福党がエルバカンに連座して再度、非合法化されるのを防ぐためとして党首を辞し、党籍を離れた。2006年4月から2008年10月までの間、隠然たるエルバカンの影響力のもと、再びクタンが党を率いたが、彼が引退を表明し、2008年10月からはヌーマン・クルトゥルムシュ(Numan Kurtulmuş)が党首に就任し、世代交代を果たした。クルトゥルムシュは2010年7月の党大会で結果的には再選されたが、エルバカンが影響力維持を目論んで、エルバカンの子供たちや娘婿を含む党幹部対抗リストを提出したために混乱した。その混乱が後を引き、その後、クルトゥルムシュは離党を決断した。その後、至福党ではエルバカンが党首に選出され、クルトゥルムシュは一緒に離党した仲間たちと2010年11月に人民の声党(Halkın Sesi Partisi)を旗揚げした。しかし2011年総選挙では至福党の得票率を超えることさえできず、2012年9月にエルドアン首相の呼びかけに応じる形で、党大会で解党を決議し、公正と発展党に幹部・党員の多くが移籍した。クルトゥルムシュは、公正と発展党副党首を経て、ダヴトオール政権で副首相を務めた。至福党では、2011年2月にエルバカンが逝去したのに伴い、党首はムスタファ・カマラク(Mustafa Kamalak)に引き継がれたのち、2016年10月以降はテメル・カラモッラオール(Temel Karamollaoğlu)が務める。至福党はいまでも「ムスリム国民の視座」を党是に掲げている。

公正と発展党政権が中道からイスラームやトルコ民族主義までを広く包摂する右派全体で圧倒的支持率を誇るなかで、至福党は存在感を示せないでいた。しかし、人民の声党解党後に行き場を失っていた、イスタンブルやアンカラといった都市部インテリ層を中心としたイスラム左派的市民運動潮流が、特に2013年の反政府デモ以降に共和人民党や諸人民の民主党のなかの、多元的政治アイデンティティの承認や社会民主主義に依拠した民主的で福祉国家的なトルコを目指すグループと共闘する基盤を模索する中、至福党もその流れに乗ることで党勢立て直しを図った。政権の権威主義化を批判し、イスラムは民族主義を否定し、人権を擁護するはずだとの主張によって存在感を示そうとしたのである。

それは、2018年6月選挙戦では至福党は支持率に比して多大な関心を集めることになった。ムスリム世論において政権の社会分断を煽る言説や汚職に対する不満が蓄積していることがしばしばメディアを賑わしていたことから、世俗派を中心に、至福党が与党支持基盤の不満を吸い上げて躍進し、政権交代か少なくとも議会過半数割れが起きてほしいとの期待が高まったのである。カラモッラオール党首の温厚な人柄も、対立的政治言説に疲れていた人々に好意的に受け入れられた。至福党は、共和人民党という、長きにわたってケマリズムを代表し、イスラム復興運動の担い手からは自らを弾圧する政治勢力の代表と目されてきた政党と選挙協力を実現し、さらには自党の候補者を共和人民党候補者リストから出馬させることにより、国会に2議席を確保した。

しかし至福党への関心はあくまで一時的なものであり、しかも有権者のほとんどには現実的な投票選択肢とは映らなかったようである。前回比で得票実数・比率ともに2倍にしたものの、過去の最大得票率である2.5%には大きく届かない1.3%にとどまった。また、共和人民党と是々非々で協力する流れは都市部の高学歴層を中心に支持されているが、全体としては至福党の支持層は地方都市や農村部などの宗教保守層が中心とみられる。そのため、個人の自由や多様なアイデンティティの承認を主柱とした主張がどれだけ党勢拡大につながるかについては、今回の選挙結果から見る限り、肯定的な評価をするのは難しい。

共和人民党(CHP)

1991年設立の中道左派政党。党首はケマル・クルチダルオール(Kemal Kılıçdaroğlu)。

建国以来、アタテュルクの指導の下で共和国体制を築いてきた共和人民党の流れを汲み、体制の基本原理である世俗化・西欧化による近代化を目指す。1965年に当時の共和人民党が左翼の労働運動や学生運動の高揚に対応して、従来の体制派の幹部政党から労働者階級に支持基盤を求める「中道左派」に路線変更を宣言した。「中道左派」は共産主義や社会主義とは一線を画し、共和国体制の遵守を掲げた。それ以後、体制派エリートおよび地方の名望家という旧来の支持基盤に加えて、都市の低所得階層の支持を獲得し、1970年代には、共和人民党は三度、連立政権を率いた。

1980年クーデタに際して非合法化された後、クーデタ以前の政党名での政党結成が1991年まで禁じられていたため、旧共和人民党勢力は社会民主人民主義党と民主左派党に分裂して活動していたが、1990年代の左翼勢力の低迷に対する一つの打開策として、「中道左派宣言」(1965年)以前の共和人民党の精神を再生することを主張したデニズ・バイカル(Deniz Baykal)率いる派閥が、社会民主人民主義党を辞して設立した。1995年には逆に社会民主人民主義党を統合したが、カリスマ性に欠け、時代の変化に対応した新機軸を打ち出せない指導層の下で低迷し、1999年選挙ではついに国会の議席を失った。しかし、2002年選挙では、エジェヴィト率いる民主左派党政権の失政に失望した左派勢力を糾合して大躍進し、公正と発展党と議席を二分する議会第二党となった。2007年選挙でも議会第2位を維持している。2010年5月の党大会でもバイカルが単独候補として党首を維持する見込みだったが、党大会直前になってバイカルの不倫動画がネットに流出したためにバイカルは党首辞任を余儀なくされた。代わりに急遽、単独候補として選出されたのがクルチダルオールである。

クルチダルオールは、トゥンジェリ県出身のアレヴィ系クルドであるが、かつては世俗的トルコ国民アイデンティティのもとでの国家と国民の一体性を主張するアタテュルク主義を擁護していた。しかし、バイカル党首期に強硬なアタテュルク主義路線で公正と発展党に対抗しようとしたことが政治的混乱を招き、国内外のリベラルな世俗派の不信を招く結果になったことを顧みて、党首就任演説では世俗主義体制擁護を持ち出すことなく、失業や貧困問題を訴えた。それ以降、福祉社会的国家をグローバル化する経済のなかでどのように実現できるのかを説得的に提示することを最優先課題とし、社会民主的党是の下に多様な宗教的信仰の人々やクルドの人々をも積極的に包摂する政党へと長期的に脱皮することを目指す幹部らが、クルチダルオールの指導下で党綱領の改定を目指してきた。

その一方で、クルチダルオール党首は党幹部にウルサルジュ(Ulusalcı)と呼ばれる、アタテュルク主義を絶対視し、それと矛盾する親イスラム的勢力やクルド主義勢力の排除を主張する人物も配し、当初は党の路線と幹部選出の一貫性よりは既存の支持基盤を維持する調和路線をとっていた。また、2014年1月に社会民主派の国会議員や党幹部にインタビューしたところでは、党綱領にあるアタテュルク主義や世俗主義を現段階でどのように定義・理解するのかについて、党内で理性的な議論ができる状態にないとの認識を示した。

2014年8月の大統領選挙では、親イスラムのアイデンティティで知られるイフサンオールを擁立して失敗したことへの批判が、ウルサルジュらを中心として党内で盛り上った。その結果、臨時党大会が開催され、党首および党幹部の選挙が行われた。結果はクルチダルオールの圧勝ではあったが、その際に、旧福祉党議員で、近年、「反資本主義ムスリム」(イスラムに依拠してグローバルおよび国内の階級格差やネオリベラリズムに根差した政策を批判する立場)を自称するメフメト・ベキャルオール(Mehmet Bekaroğlu)を党幹部に招き入れたことに反発して、ウルサルジュの重鎮であるエミネ・ウルケル・タルハンが離党した。彼女はアナトリア党(Anadolu Partisi)を設立し、党首となった。しかし、アナトリア党に現職議員が移籍することはなく、ウルサルジュの議員はほとんど共和人民党に残った

これは2013年初夏のゲズィ・デモが激しい弾圧を受け、その後急速に権威主義化を強める政権に対して批判を高めていこうとする時期のことであり、それ以降も、クルチダルオールはベキャルオールと近い関係にあるイスラム左派の潮流との関係構築に努めてきた。政治アイデンティティの多元主義と人権、社会民主主義的経済社会政策で折り合えるイスラム政治運動との信頼関係醸成を通じて、イスラム的価値を重視する人たちを長く共和人民党から遠ざけてきたレッテル、つまりイスラムを弾圧し蔑むエリート主義政党だとの強固な否定的固定観念に風穴を開けようとの試みである。それは、2018年選挙の項で触れたように、「公正のための行進」以降、一定の成果を結んだ。2018年選挙でそうしたイスラム左派を都市部で抱える至福党との選挙協力が可能になったのである。しかし、選挙結果から明らかなように、イスラム左派はイスラム復興の流れをくむ有権者を、公正と発展党から奪うだけの説得力を持ち得ていない。

2018年大統領選は結局、野党もそれぞれの候補者を擁立することになったが、クルチダルオールはクルド系アレヴィという自身のアイデンティティがトルコ系有権者を糾合するのは難しいとの判断から、2014年臨時党大会で党首の座を争ったライバルであるムハッレム・インジェ(Muharrem İnce)に白羽の矢を立てた。彼がアナトリアの農村の伝統的なイスラム的家庭の出身であり、母親がスカーフ着用者であることを選挙戦では強調した。また、自身は世俗的イデオロギー立場を共有する妻と家庭を築いていることも、西部大都市部での集会で一緒に登壇して示した。収監中の諸人民の民主党党首への面会やその妻を自宅に訪問し、クルド系有権者にもアピールしようとした。さらには、シリア難民にはシリアに戻ってもらおうと公言することで、トルコ社会で渦巻く難民受け入れにまつわる不満をすくい上げようとした。もともとウルサルジュの潮流に属するとみなされていたために、イスラムやクルドにまつわる問題で積極姿勢を見せたことは、リベラル派に嬉しい驚きとなり、大統領選の初回投票でエルドアンの過半数得票阻止の期待を高めた。結局はそうはならなかったものの、共和人民党の国会議員選挙での得票率を約8%も上回る得票率を獲得した。この得票率の差は、インジェ個人の人気、つまり彼が共和人民党党首だったら同じだけの得票率を党も国会議員選挙で収めることができたというよりは、エルドアンの当選阻止に望みをかける野党勢力(特に、良好党と諸人民の民主党の支持層)が、どう転んでも自党党首が大統領になる可能性はなさそうだとふんで、初回からインジェの勢いを示すために投票したと考えるほうが妥当だと思われる。しかし、インジェは、クルチダルオールの目指す方向性に賛同しない党内勢力の代表として党首選を戦った過去があり、この票差を理由として、早速、クルチダルオールに揺さぶりをかけた。しかし、アメリカとの摩擦のためにトルコリラが急落し、トルコ発の国際経済危機が心配される状況で、党内派閥争いを繰り広げることは半年後に予定されている統一地方選への悪影響を招きかねないと判断し、一旦は矛を収めることになった。また、クルチダルオールは国会議員選挙で当選したが大統領選で落選したインジェは公職にないこと、前回の党首選でクルチダルオールはインジェの倍の支持を得ていることから、インジェがクルチダルオールをそう簡単には覆せない可能性は強い。また、クルチダルオールがこの選挙のプロセスを通じて党利党略や私的利害を超えてトルコの民主主義の危機を軽減するために方策を尽くし、その一環としてインジェの擁立がなったことを考慮すれば、今後の党内勢力分布やより広くトルコ世論による評価を上述の得票率の差だけから見通すのは拙速であろう。

民族主義行動党(MHP)

1993年に、民族主義労働党(Milliyetçi Çalışma Partisi)から改称されたトルコ民族主義政党。党創設者で極右トルコ民族主義運動のカリスマ的指導者だったアルパルスラン・テュルケシュ(Alparslan Türkeş)が1997年に死去したのを受けて、デヴレト・バフチェリ(Devlet Bahçeli)が党首に選出された。

1980年9月の軍事クーデタにより政党は全て非合法化されたが、1983年に政党活動が解禁された際に、それ以前に存在した政党名を使用することが禁じられていた。党名の改称は、その法律が1992年に撤廃されたことに伴って行われた。

民族主義労働党は1985年に旧民族主義行動党の後継政党として、当時政治活動を禁じられていたテュルケシュの隠然たる指導のもとで設立された。1960年クーデタの首謀者でもあった退役陸軍大佐のテュルケシュは、軍政内部の抗争の結果、国外左遷に遭ったが、帰国・退役後に1965年に共和主義農民国民党(Cumhriyetçi Köylü Millet Partisi)党首に就任し、1969年に党名を民族主義行動党と改称した。 テュルケシュは、支持者の間では、イスラム化以前のトルコ族が中央アジアから破竹の勢いで勢力を広げていた頃の豪壮なイメージを彷彿とさせる「首領」(başbuğ)という愛称で親しまれた。

同党のトルコ民族主義は、ナチスの影響を受けたトルコ民族の「人種的優位」思想や国家社会主義、中央アジアまでを射程に入れた汎トルコ主義を主柱とする極右思想に立脚する。また、こうした思想を「理想」(ülkü)と奉じる勢力が、「トルコ人の炉辺」(Türk Ocağı)や「理想の炉辺」(Ülkü Ocağı)といった文化団体を各地に設立して国民への浸透を図った。こうした団体は正式に党の組織に組み込まれている訳ではないが、党のシンパ養成の役割を担ってきた。

党は、1960年代から70年代には反共の攻撃部隊と化した極右の学生・労働者組織と連動し、政治社会の混乱を引き起こした。党の支持層にはこの時期の反共右翼運動から分岐した世俗的民族主義とイスラム的な民族主義という二つの勢力を抱えているが、政策レベルでは体制護持が優先されるためか、宗教的な観点から世俗主義勢力を刺激することはほとんどない。

支持基盤は都市の中下層階層の他、中小の商工業者である。クルド地域である南東部や東部への最前線であり、アレヴィ(異端・習合的なムスリム少数派)人口も比較的多いといわれるアナトリア中央部で得票率が高い。ここに、単に言語的な排他主義ではなく、宗教アイデンティティの面でも少数派を排斥しようとする志向が窺える。1980年代以降は、トルコ民族主義勢力が文化省や国民教育省を始めとする官僚機構に浸透をはかり、文化・教育政策に重要な影響を与えたといわれている。しかし、こうした文化・教育政策は、政権を握っていた祖国党の政策の一環として実施された。

冷戦後にイデオロギー政治の時代が過ぎ去る中で、党の支持率は1999年選挙まで低迷したが、1999年選挙では、直前にPKK党首のオジャランが逮捕されたことで盛り上がっていたトルコ民族主義的国民感情が奏功して議会第2位に大躍進した。しかし、同党も参加した連立政権が経済危機などによって安定しない中、2002年総選挙では全国平均得票率が10%を下回る大敗を喫し、院外政党に転落した。これに対し、2007年選挙では、再び活発化するクルド系ゲリラ活動に対してトルコ・ナショナリズム感情が高まっていたという世相を反映し、議会第3党となるなど、クルド問題の展開とのかかわりでトルコ系国民のトルコ民族主義感情が強まっている中で、安定的に国会に議席を獲得できている。その一方で、公正と発展党政権もトルコ民族主義的言説を強めることで政権基盤を盤石化しようとし始めたため、2015年11月選挙と2018年選挙では11~12%程度に党勢は停滞している。

2015年11月選挙での党勢後退を受けて、20年に近づくバフチェリ体制に挑戦する動きが党内で高まり、バフチェリが拒否すると、法規定に従って臨時党大会開催と党首選実施のために充分な署名を集め、裁判所の承認を得るため司法手続きを行った。しかしバフチェリは、同様に支持縮小傾向の不安を覚え始めたエルドアン大統領に対し、彼が大統領制移行による大統領就任によってより強大かつ長期的な権力掌握が可能になるように協力を行うことと引き換えに、その代わりに司法に圧力をかけてバフチェリに対する党内挑戦勢力の動きを妨げるよう、取引を行ったとみられる。民族主義行動党の臨時党大会は開催が妨げられ、バフチェリ批判勢力は離党して良好党を設立した。

バフチェリはその後、エルドアンと密に連携しながら大統領制移行に向けて布石を打っていき、実際に移行が実現される上での立役者となった。2018年の大統領選挙では、他の主要野党党首が大統領候補として出馬する中、バフチェリは出馬せずにエルドアン支持を公言した。同日実施の国会議員選挙でも公正と発展党と選挙協力を行った。エルドアンは民族主義行動党の支持のおかげで大統領当選ラインの単純過半数の得票率と、国会での両党合計議席数における過半数獲得を実現した。バフチェリは、エルドアンの政治権力維持にはなくてはならない協力相手であることを思い知らせた形となり、エルドアンが大統領制で発揮するとみられる強い執政府の政治の方向性がトルコ民族主義からぶれないように、圧力をかけていくものと思われる。

良好党

 ・İyi Parti

2017年10月設立の中道右派的トルコ民族主義政党。党首はメラル・アクシェネル(Meral Akşener)。民族主義行動党のバフチェリ党首が万年野党に甘んじる中で党首交代を求める党内ライバルグループの動きを封じようとした際に、除名処分や自主的離党で党籍を離れた幹部たちにより結成された。

アクシェネル自身は民族主義行動党に近い思想傾向の家庭で育ったが、1990年代には中道右派の正道党から国会議員となり、福祉党との連立政権においては一時、内務相を務めるなど、若手女性幹部として早くから頭角を示していた。しかし、その後、公正と発展党結成プロセスで中道勢力が同党に結集する見込みとなると、同党に合流するために正道党を離党したものの、結局は同党幹部の主流派のイスラム主義的方向性とは相いれないと判断し、民族主義行動党に入党した。

良好党結成へのプロセスでは自分たちこそが民族主義行動党の奉じるトルコ民族主義の正当な継承者であると主張したが、2018年選挙において、トルコ民族主義と権威主義化を強め、民族主義行動党と選挙協力して党勢を維持拡大しようとする政権への批判勢力を糾合するために、クルド民族主義を公然と攻撃することは避けた。また、「我らが国民との契約」と題した選挙公約文書でもhttp://www.iyiparti.org.tr/assets/pdf/secim_beyani.pdf、平均的なトルコ民族主義を逸脱するほどの、多様なアイデンティティの排斥を表立って主張することはなく、多元主義と民主的参加による政治や、すべての国民が宗教や人種、言語やジェンダーによって差別されることなく国家予算から平等に恩恵を受ける権利、思想や言論の自由が保障されねばならないと述べている。ただし、基本的にはトルコ民族としてのトルコ国民という発想で政策が考えられていることは、北キプロス・トルコ共和国への言及や、在外トルコ系移民へのトルコ語とトルコ文化教育の支援の明言などに見て取れる。対して、クルド問題の焦点の一つである、非トルコ系母語話者への母語による教育の権利には全くふれていない。かといってクルド民族主義の盛り上がりを牽制するような、威圧的な国家主義的言説がことさらに強調されているわけでもない。せいぜい、公約冒頭で、「世界で最も偉大な国民が暮らす、世界で最も美しい国であるトルコ」というフレーズに極右民族主義の面影を、しかし民族名をきっぱりと排除した文面で、忍ばせているにすぎない。それさえも、伝統的なトルコの中道政治勢力が当然視してきた一般的なナショナリズムの範囲にとどまっているといえる。ただし、民族主義行動党の支持基盤を可能な限り継承するために、クルド系の諸人民の民主党を含めた選挙協力の動きに対しては断固として反対した。

2018年選挙では大統領選でアクシェネルは惨敗したが、国会議員選挙では10%に迫る得票率を収め、結党間もない政党としては好成績を収めたといえる。しかし、大統領選で野党の統一候補擁立にも断固として反対して出馬したにもかかわらず、国会議員選挙の得票率を下回る支持しか集められなかった責任を取るとして、選挙後に一旦、党首辞任の意向を公表した。その後、結局は党首継続の運びとなったが、その間にも、複数の重鎮的ポジションの結党メンバーが党内権力争いやクルド民族主義をめぐる党の方針をめぐる対立のために、離党していった。今後予想される政界再編においてどのような党勢となっていくか、予断を許さないが、これまでのところ、都市部、中間層以上、高学歴、若者といった特徴を有する層を中心に一定の支持を得ており、選挙での同党の動きが鍵を握る位置づけとなっている。

民主党(DP)

1983年設立の中道右派政党。党首はギュルテキン・ウイサル(Gültekin Uysal) 。

1945年の複数政党制導入の際に、共和人民党内の経済自由化論者が分派して設立した民主党(Demokrat Parti)とその後継の公正党(Adalet Partisi)、正道党(Doğru Yol Partisi)の流れを汲む、トルコの伝統的な中道右派政党である。初代の民主党以来、国家が主要な民間企業を保護・育成しつつ民間セクター主導で発展を目指した他、大規模農業開発を中心とした農村部の発展やイスラムへの寛容を基調としてきた。公共セクター重視で世俗主義政策を断行してきた共和人民党への対抗政党として、経済界、農村部の地主層、反体制でない宗教保守層の支持を得てきた。1964年以降、1993年の大統領就任により党籍を離れるまで、1980年クーデタによる政治活動禁止の期間を除いて、党首として一連の党を牽引したのはスレイマン・デミレル(Süleyman Demirel)である。彼は、若き日には大規模ダム開発で名を挙げ「ダム王」と呼ばれていたが、貧農の出にも関わらず出世し、七度も首相を務めた政治的存在感と田舎訛りの残る親しみやすい演説で大衆的な人気を博し、後年は「お父さん」(baba)の愛称で呼ばれた。

デミレルに代わって党首に就任したのは、アメリカ帰りのエリート女性経済学教授のふれ込みで、最新の経済的知見を活用した政策が期待されたタンス・チッレル(Tansu Çiller)だった。しかし、彼女が首相を務めた政権下で経済は乱高下を続け、親族を含めた汚職疑惑が次々に出ていた上に、1996年に福祉党と連立政権を組んだことを批判して影響力のある議員たちが離党し、求心力を失った。 正道党は2002年の総選挙で大敗し、議席を獲得できなかった。

チッレルに代わり党を率いたのがメフメト・アール(Mehmet Ağar)である。彼は、警察官僚の出世街道にのってチッレル政権下で警察庁長官を務めた後、正道党選出議員として福祉党連立政権では内務大臣に就任している。彼は、警察官僚としての特権や内部情報を最大限に利用してマフィアとの癒着も噂されたが、巧みに政界の荒波をかわしてきた。2002年選挙を無所属で当選した後すぐに正道党に移籍した。

大統領選と総選挙が実施される2007年に入っても、政権与党の公正と発展党の支持率は堅調であるのに対し、またもや 10%の全国平均最低得票率を超えられそうにない正道党と祖国党は、大統領選で与党候補に非協力の態度で共同歩調をとったのをきっかけに、トルコの中道右派政党の源流である民主党の名の下に合併を目指すことでも合意した。前回の得票率が高かった正道党が党首を出すことを機軸に、中央と地方組織の役員数を拡大することで、ポスト争いを予め封じることも決定された。この合意に則って、2007年5月27日に開催された正道党の党大会で、党名の変更が決定された。しかし、その後、総選挙での立候補者リストをめぐって合意に達しなかったことなどから、合併交渉は決裂した。結局、正道党の名称が変更されただけとなった。

2007年の総選挙では、結局、同党は全国平均最低得票率を超えることができず、アールは引責辞任の意向を表明した。それを受けて開催された臨時党大会の結果、1969年生まれの スュレイマン・ソイル(Süleyman Soylu) が後を託されることになった。 しかし、2009年5月の党大会で、ソイルを破って古参のヒュサメッティン・ジンドルク(Hüsamettin Cindoruk)が新党首に選出された。 1933年生まれのジンドルクは、かつての民主党時代から党の中心メンバーとして活躍してきた重鎮で、親交深いデミレル前大統領のバックアップを受けての出馬となった。ジンドルク党首はその知名度と経験を生かして分裂した中道右派の再統合を訴え、2009年には祖国党の吸収合併を実現させた。ジンドルクが不出馬を宣言した2011年1月の党大会では6名の候補の中からナムク・ケマル・ゼイベク (Namık Kemal Zeybek)が選出された。2012年党大会からはウイサルが党首を務める。

2018年国会議員選挙で良好党との選挙協力により、同党の候補者リストに4名の民主党候補者名を書き入れてもらい、党首のウイサルが当選を果たした。2007年から2年間、党首を務めたソイルは2012年に公正と発展党に移籍し、2015年6月以降、同党の国会議員となり、同年11月以降には労働・社会保障相と内務相も歴任した。2018年選挙でも国会議員に当選したが、エルドアン大統領が内務相に指名したため、大統領制の下で国会議員を辞職し、内務相に就任している。

諸人民の民主党(HDP)

2012年10月に設立されたクルド系中心の左派政党。男女1人ずつからなる共同代表は2018年2月からぺルヴィン・ブルダン(㊛Pervin Buldan)およびセザイ・テメッリ(㊚Sezai Temelli)。2016年11月に前共同代表だったセラハッティン・デミルタシュ(㊚Selahattin Demirtaş)とフィゲン・ユクセクダー(㊛Figen Yüksekdağ)がともにテロ支援の容疑で国会議員不逮捕特権はく奪の上、収監され、ユクセクダーは有罪判決に伴って国会で除名処分となるとともに政党法の規定によって党籍を自動的に喪失するという異常事態に陥った。ユクセクダーの代わりには、直ちにセルピル・ケマルバイ(㊛Serpil Kemalbay)が選出されたが、デミルタシュは司法プロセスが遅々として進展しない中で収監状態が続くまま共同代表の職を続けていた。現共同代表が選出された後も、デミルタシュは収監中である。

同党は、PKKリーダーのオジャランの指導のもと、トルコ東部・南東部のクルド地域およびクルド人口を多く抱える大都市イスタンブルを除けば、平和と民主主義党が国会議員を輩出できないという状況を克服するために設立された。つまり「左派クルド政党」という実情を脱皮して全国区の政党として発展することが目指されたのである(平和と民主主義党およびそれが受け継いできた政党の系譜については、次の民主的諸地域党の項を参照のこと)。党名にある「人民」が複数形のHalklarとなっている理由は、共産主義理論に基づいて、多様なアイデンティティ(民族のほか宗教・宗派やジェンダー・セクシュアリティの多様性も含む)や職場やエコロジスト共同体、 既存の左翼やクルド系の極小政党や市民社会組織など、多様な観点で形成される細胞組織による下からの積み上げ的動員の総体としての党や理想社会を目指していることを、複数形で明示するためである。加えて、本来的には同党の精神的リーダーであるPKKリーダーのオジャランが描く「民主的自治」は、トルコ周辺国とも国境に分断されてはいるが地続きで広がっているクルド人多数派地域全体について、既存の主権国家から独立することなしに、同様の積み上げ的組織化を通じて民主的意志決定と政治を地域的に行うことを主眼としたことも背景にある。その点ではトルコ国境をまたぐトランスナショナルなクルド政治運動という企図がそもそもの出発点にあったことは確かであり、その実践は諸人民の民主党に先立つ2000年代半ばから試行錯誤されてきた(他方で、この試行錯誤においては、同地域における多様なアイデンティティ集団を包摂するとしながらも、イデオロギーやリーダーシップの面でPKKと対立する勢力はクルド系であっても排除されがちである)。

諸人民の民主党の党名の複数形と、同党がトルコの政党として主張する民主的自治との関係については、筆者は2013年12月に、当時、 ディヤルバクル市中心の旧市街に相当するスル(Sur)区長であり、諸人民の民主党と 民主的諸地域党 を包摂する左派クルド運動の若手幹部の一人だったデミルバシュ氏(Abdullah Demirbaş )にインタビューする機会をもてた。同氏は、この理念の浸透とそれに依拠した組織化が試みられてはいるものの、支持層外はもちろん支持層内でも、しばしば「人民」(halk)とは民族を指すと理解されがちであること、クルド人の抑圧の歴史とそれが故に現在、民族主義が高まっていることを考えれば、そのような理解が根強いことはやむを得ない面もあるが、だからこそ、クルド人が人口的に支配的な東部・南東部地域を中心とした民主的諸地域党とは別に、トルコの全国政党として諸人民の民主党が国政でその理念を主張して民主化と多様性の共存のために活動していくことが重要なのだと述べた。つまり、諸人民の民主党は理論上は、クルド問題・地域だけではなく、トルコ全体について、多様なアイデンティティや集団の草の根的組織化から立ち上げて国政へとつなげていく下からの政治的営みを通じて、トルコの国家主義やトルコ民族主義を解体し、多様性に依拠する市民社会の活性化を通じた民主主義の実践を目指す政党であった。しかし、現実には、そのような理念の支持層への浸透は困難で、それに加えて、2014年秋以降のシリア情勢(特に「イスラム国」の支配地域拡大によってシリアのクルド人多数派地域が脅かされたり、シリアのPKK系列組織が米軍の地上部隊として「イスラム国」らと闘ったこと)や、2015年秋以降のPKKとトルコ国軍の武力対立再燃やその後の政治運動への弾圧強化を通じて、クルド民族主義がかつてなく高揚しており、諸人民の民主党はますますクルド民族主義政党の様相を呈するようになっている(「選挙」の項目の2015年の6月と11月の二つの国会議員選挙の項も参照のこと)。

以下、結党以来の過程における様々な政治的事件との関連で、党の理念と組織化が現実にはどう変化してきたかをより具体的に述べる。話を結党後の党組織化に戻すならば、HDPは2014年の地方選直後に平和と民主主義党に残っていた議員をほぼすべて移籍させ、その後、平和と民主主義党の地方組織も吸収した。このタイミングで有名国会議員の移籍を行ったのは、2014年3月の統一地方選挙にクルド系多数派地域では平和と民主主義党が、トルコ系多数派地域では諸人民の民主党が、それぞれの地域により適した言説を用いるという地域的役割分担を行うためだった。また、これはちょうど2013年5月末以降、イスタンブル中心部の公園再開発政策への小規模な左翼環境保護グループの反対デモが、政府の過度に暴力的な鎮圧活動をきっかけとして、多様なイデオロギー的な市民を巻き込む全国的な反政府デモに発展するという経験を経た時期であり、そうしたデモを直接・間接に支持した幅広い層を糾合するチャンスと見てとっての対応でもある。このデモが起きた際には、平和と民主主義党はオジャランと政府の合意によりちょうど本格的に始まったばかりのクルド和平プロセス(PKK武装解除の第一段階であるゲリラの国外撤退が5月に開始)への悪影響を懸念して、デモ参加には慎重な姿勢を見せた。ただし、諸人民の民主党に移籍したイスタンブル選出議員のスッル・スレイヤ・オンデル(Sırrı Sürreya Önder)がデモが拡大する直前からデモを支持し、政府側の強硬な鎮圧策に体をはって抗議する活動を行うなど、同党の政治家や支持基盤の市民グループなどがそれぞれの資格で参加し、政府批判を強める左派やリベラルな世論における共感の足掛かりをつかんでいた。デモ終息後には、オジャランがデモの精神への共感や支持を、PKK幹部がデモに積極的に参加すべきだったとの反省をそれぞれ示した。こうした流れの中で、諸人民の民主党はクルド民族主義の地域的政党を脱却し、全国レベルで市民社会の多元主義的な代表を目指すことが党是として認知されるようになっていった。

その状況の組織面での反映として、特に特徴的な2点を指摘できる。一つは、平和と民主主義党が代表してきた左翼を中心としたクルド民族主義勢力に加えて、より広くトルコの多様な左派やリベラル派、さらには宗教や性的マイノリティをも糾合することが目指された。特に、2013年の反政府デモの参加者の多様性を取り込もうと、党の最高決定機関である党議会(Parti Meclisi)委員には、環境保護活動家やLGBT活動家、公正と発展党に批判的なイスラム派女性活動家ら、デモ参加者らが登用された他、アルメニア系作家など非イスラム系マイノリティの委員も選ばれている。 (ゲズィ・デモについては朝日新聞ウェブ版上の連載記事「トルコのタクスィム・デモを読む(1)~(4)」 (朝日新聞記事データベース「聞蔵Ⅱビジュアル」にて検索) を参照。)

もう1点は多様な代表ポストにおけるジェンダー平等を目指した取り組みである。他のPKK系列組織同様に諸人民の民主党も、男女1人ずつからなる共同代表制を採用している。組織内のポストだけでなく、系列地方自治体幹部職でも共同代表制や男女同数を目指した人事を行ってきた。国会議員も男女同数を目標にした候補者リストで戦い、国会議員の女性議員比率向上に大きく貢献してきた。

ただし、現実には、下からの決定の積み上げによる民主的組織とはいかず、トップダウンの権威主義的組織構造であることが、党内外からしばしば批判されてもきた。しかも、党幹部や議員候補者リスト選定もPKK中枢部を中心に行われてきたといわれる。その軋みは、運動のリーダーであるオジャランが逮捕されて以降、カリスマとしてのオジャラン、武装活動によって血を実際に流してきたという点で説得力を持つPKKの幹部たち、合法政党幹部として弾圧に立ち向かいながら言論活動を通じて党勢拡大の立役者となった若きカリスマのデミルタシュ、という3者のバランスのなかで、合法政党リーダーとしてトルコ世論とクルド世論の両方に対する説明責任を負わされるデミルタシュに重くのしかかってきた。

そこに、2014年秋以降のシリア内戦にかかわる新しい展開が覆いかぶさってきた。シリアのクルド地域がISの猛攻にさらされ、それを欧米諸国の軍事支援によってPKK系列の武装勢力が跳ね返し、逆にIS掃討地上部隊として米軍と協力しながら支配地域を伝統的なクルド地域の外にまで広げたプロセスでは、クルド民族主義がトルコのクルド系国民の間でこの上なく高まった。そのプロセスと関連して、トルコ国内でも、2015年夏以降、クルド系多数派地域でPKKと国軍や機動隊との武装対立が再燃し、PKK支持層以外のクルド系市民にも大きな被害をもたらした。そのために、諸人民の民主党系地方自治体が事実上、武装対立の当事者となったことに対する党支持基盤以外のクルド系市民の間で反発を招いた。また他方で、2016年夏のクーデタ実行未遂事件後には、諸人民の民主党やその支持層に対して包括的弾圧政策が実施され、党組織と地方自治体という合法的組織活動の基盤が切り崩された。デミルタシュも同年秋にはテロ組織支援の容疑で逮捕され、司法手続きが遅々として進まないなかで勾留され続けている。これらはそれぞれに複雑な、しかもクルド問題を大きく超えた射程のなかで多様な要素と関連して展開するダイナミズムを内包しているだけに、こうした展開になる以前に想定されたレベルをはるかに凌駕する軋みとなって党にのしかかっている。

かつては、全国区政党として成功するにはクルド民族主義色を薄めねばならず、そうすれば中核支持層のクルド民族主義感情に背き、場合によっては離反を招きかねないというジレンマにおいてどのようなバランスをとるかが主要な懸念材料だった。また、トルコのリベラル左派政党という側面を強調しすぎると、敬虔なムスリムのクルド層の反発を招く可能性が心配された。そのため、2014年8月の大統領選に立候補したデミルタシュは、クルド・アイデンティティを全面に出すのではなく、むしろクルドを含むあらゆる抑圧されてきた人々の権利擁護を訴えて支持を拡大した(「選挙」の「2014年大統領選挙」の項目を参照)。しかし、上述の2015年以降の目まぐるしい事態の変化のなかで、そしてとりわけエルドアン政権がトルコ民族主義的で分断を煽る言説を強めるにつれて、諸人民の民主党支持層だけでなくクルド系世論全般においてクルド民族主義が、トルコ系世論のトルコ民族主義の強硬化と相乗するかたちで強まっている。党やシンパの市民活動家をめぐる非常事態的状況が今後も悪化の一途をたどり、軋轢の度合いが極限に達した場合に、そのひずみのエネルギーがどのような形と震度となって現れるのか、想像を絶する状況だといえる。

このように党の政治活動環境は、トルコ政府との関係においても、PKKとの関係においても、非常に厳しいものとなっている。この状況において、デミルタシュは当選の可能性はほぼないにもかかわらず大統領選出馬を決め、それゆえ国会議員に再選されて不逮捕特権を回復できる可能性を放棄した。デミルタシュ以外に彼ほどの存在感を示せる市民政治家を現状では擁さない同党にとってこのことは大きな痛手であるが、デミルタシュは獄中から限られた機会をみつけてはメッセージを発することで、今も支持層内で一定の影響力を維持している。

2018年国会議員選挙では、党は10%の全国平均得票率を超えて野党第2位の議席を確保した。同選挙ではクルド系世論を代表する党が国会に存在することが民主主義のために欠かせないとの考えや、それが政権党の議席数の相対的比率を低めるとの考えから、トルコ系の票も左翼や世俗主義派、リベラル派を中心に限定的ながらも獲得し、積み増しをしたと考えられる。また、大統領選では同党支持基盤からエルドアンへの最有力対抗馬と考えられた共和人民党候補に一定数の支持が流れ込んだと思われる。こうした民族的区分を超えた投票行動が起こるうちは、まだ民主的プロセスの望みはあるといえるかもしれない。しかし、クルド人口多数派地域での投票率低下傾向は、トルコの民主的プロセスに意味を見出せなくなった国民の増加を示している可能性もある。合法政党として武装組織とは明確に異なる存在意義をどのようにして示していくのか、大きな試練に直面していることは確かである。

民主的諸地域党(DBP)
  • Demokratik Bölgeler Partisi

  2014年7月に設立されたクルド系の左派政党。党首はセバハト・トゥンジェル(㊛Sebahat Tuncel)とメフメト・アルスラン(㊚Mehmet Arslan)。前身の平和と民主主義党(Barış ve Demokrasi Partisi)の党名変更によるが、それに伴って地方自治を主要活動領域とした。国政レベルで活動する系列政党については諸人民の民主党の項を参照のこと。

同党の共同代表制は、平和と民主主義党のさらに前身の民主社会党(Demokratik Toplum Partisi)で実践され始め、政党法規定の党組織構造に反しているとして最高裁が警告したこともあった共同代表制度であるが、2014年の政党法改正により合法的政党組織形態として認められた。

平和と民主主義党は、院内政党だった民主社会党に対する非合法化の司法過程が始まったのを期に2008年5月に設立されたが、クルド多数派地域に限定的な地域政党を脱してトルコ全国区化を目指すにあたり、諸人民の民主党に国会議員が移籍して、国政活動の中心は諸人民の民主党に場を移した。民主的諸地域党の国会議員は党名変更当時の共同代表だったエミネ・アイナ(㊛Emine Ayna)1人だった。ただし、そうした実験的役割分担の実施にあたり、諸人民の民主党設立後の最初の統一地方選となる2014年3月の選挙では、民主的諸地域党への党名変更をせず、平和と民主主義党として諸人民の民主党と地域的役割分担を行った。つまり、すでに国民にPKK系のクルド民族主義政党としてイメージが浸透している前者は東部・南東部のクルド系多数派地域で、新設の諸人民の民主党はトルコ系多数派地域でクルド民族主義色を強く出さず、アイデンティティ多元主義の社会民主主義政党としての浸透をはかった。結果として、クルド系多数派地域で戦った平和と民主主義党は100近くの地方自治体首長選で勝利したが、諸人民の民主党は首長選全敗となった。選挙後の7月に党名変更がされ、平和と民主主義党は民主的諸地域党の名の地方自治専門の政党に切り替わった。

民主的諸地域党は、非合法のクルディスタン労働者党(PKK)リーダーのアブドゥッラー・オジャラン(Abdullah Öcalan)が近年、統治システムとして主張する「民主的自治」を地方自治レベルで実践にうつす目的で設立された。党名変更後間もない2014年8月に筆者が党関係者にインタビューしたところでは、政党活動というよりは、政治家教育や「民主的自治」の考え方の浸透を目指す「アカデミー」との位置づけを当面、与えられていた(と理解されていた)。なぜ諸人民の民主党があるのに、別に政党として組織を作るのかについては、インタビュー相手毎に異なる答えが返ってきたリ、実は目的に関して組織内でさえ浸透してないという点では一致した回答を得たほどに、党名変更当初は党の目的の理解はあやふやだった。しかし、その後の経過を見れば、あえて国政レベルで全国区政党を目指す諸人民の民主党を別途設立して、実質的には平和と民主主義党の国政政党としての機能はそちらに引き継がせたにも関わらず、あえて後者の党名を民主的諸地域という、「民主的自治」の領域的基盤を彷彿とさせる名前に変更して合法政党としての地位を引き継がせた理由は明らかである。「民主的自治」という統治理論を、同党が圧倒的支持率を誇る地域を中心に実験的に実践に移すことを目指したのである。

https://www.dw.com/tr/hendek-sava%C5%9Flar%C4%B1nda-sona-gelindi/a-19291491
https://www.bbc.com/turkce/haberler/2015/09/150913_cizre_hendek_hatice_kamer

2015年6月総選挙で系列の諸人民の民主党が大幅に支持率を伸ばした後、国軍とPKKの間で武力対立が再燃し始めていた。それ以前から民主的諸地域党系の複数の自治体で、地域の中心市街地で警察や軍が立ち入れないようにバリケードや塹壕を掘る一方で、武器備蓄に励んでいたとも噂されるが、同8月にいずれもイラク国境沿いのシュルナク市とユクセクオヴァ市が民主的自治宣言をしたことを直接的なきっかけとして、民主的諸地域党系自治体への警察や軍、機動隊による直接介入が始まった。それは市街地のPKKシンパだけでなく一般の市民をも巻き込み、多大な人命や市街地破壊に至る事実上の市街戦に転化していく。その後も「民主的自治」を宣言する系列自治体が続き、同様の市街戦や、同党や系列自治体への弾圧が拡大した。2016年7月クーデタ実行未遂事件後には非常事態宣言が発布され、クーデタに直接連座した者だけでなく、政府と対立する勢力を根こそぎにする政策がとられた。民主的諸地域党系の自治体では首長や党幹部らが次々と逮捕され、代わりに政府が直接、代理首長を任命した。例えば、党共同代表のトゥンジェルは2016年11月から、アルスランも2018年2月からそれぞれ逮捕・勾留されている。

トゥンジェルは2017年7月の党大会では拘留中であるにもかかわらず引き続き共同代表に選ばれた。PKK系列組織での慣例がこの党大会でも踏襲され、共同代表ならびに党幹部に関する単独候補者リストの承認投票による選出だった。2019年3月に予定されている統一地方選は、クルド系多数派地域での同党の支持基盤の強固さを示す重要な機会であるが、選挙に参加できるのか、できたとしてどのような結果を有権者が示すのか、いずれにしても非常に困難な状況にある。

一連の党の原点は1990年に社会民主人民主義党から分派したグループ、人民の労働党(Halkın Emek Partisi)に遡る。人民の労働党はその後、非合法化されて民主主義党(Demokrasi Partisi)が結成されるが、それも再び非合法化されると、人民の民主主義党(Halkın Demokrasi Partisi)が結成された。

人民の民主主義党は、トルコ語とトルコ民族の歴史・文化を国民概念の中核に据える共和国の政策を批判し、体制内での非暴力的な活動を通じてクルド語による教育や出版・放送、文化活動の自由化を目指して活動した。反体制武装闘争を展開してきたPKKとは組織的に一線を画していたが、PKKへのそもそものシンパシーと、国軍によるクルド・ゲリラ掃討作戦に対する批判がクルド分離主義やPKKを擁護するものとみなされて、非常に厳しい体制の監視下に置かれた。クルド人が多数派である東部や南東アナトリア地域と、クルド移民が集住する一部の都市周辺地区に特化して強い支持基盤を有した。しかし、全国平均得票率が10%を越えなければ議席を獲得できないという1987年以降の選挙法のために、選挙協力無くして国会に議席を獲得することは極めて困難であった。過去には、たとえば1991年選挙では社会民主人民主義党との協力で人民の労働党が議席を獲得したことがある。選挙区での得票率のみが問題となる地方選挙では、東部・南東部地域で首長や地方議会議員を輩出した。人民の民主主義党は1999年選挙で、計37の選挙区で首長の座を獲得した。

人民の民主主義党は2002年選挙を前に、解党裁判が始まり、選挙への参加はかなわなかった。結局、2003年に非合法化されると、その代替となったのが、既に1997年に設立されていた民主人民党(Demokratik Halk Partisi)である。同党は、人民の民主主義党の陰に隠れて知名度が低く、得票率も非常に低かったために、非合法化を免れてきたと考えられるが、2002年選挙では人民の民主主義党の支持基盤を受け継いで6.4%の得票にとどまり、議席獲得はならなかった。

2005年11月の民主社会党設立の動きは、旧民主主義党幹部で投獄されていたレイラ・ザーナ(Leyla Zana)らの釈放とともに始まった。ザーナらは、1991年に社会民主人民主義党との選挙協力で議員に選出されたものの、国会での宣誓をクルド語で行ったために党籍を剥奪され、その後、民主主義党を設立したものの、1994年以来、PKKメンバーだとして党が非合法化されたのと同時に投獄されていた。そこで民主社会党の設立に際しては、ザーナらは公式の党幹部にはならず、クルド民族主義運動の外部から著名な左派トルコ人政治家を迎え入れることにより、両民族が協力し民主的で自由な政治社会の実現を目指す政党づくりをアピールしようとした。しかし、その試みは結局、実現せず、PKKシンパの政党というイメージを払拭できなかった。

2007年選挙に無所属で立候補するためにアフメト・テュルク(Ahmet Türk)前党首が辞任・離党したために、同年11月に行われた党首選挙では、当時35歳のヌレッティン・デミルタシュ(Nurettin Demirtaş、HDP前共同代表のセラハッティンの兄)が選出された。彼は、国家反逆罪の罪で終身刑を受けたPKKリーダーのオジャランの擁護が刑法罰の適用もありえる時代状況においてそれを公言するなど「タカ派的」存在として知られていた。国軍のPKK掃討作戦が続き、国内のトルコ民族主義感情が高まる中で、それに対抗する力づよく若き新リーダー育成という党指導部の思惑と、むしろ平穏な社会の中での確実なクルド民族文化の権利拡大を望む支持層世論との狭間で党内意見はまとまらず、党首選では、単独候補として出馬したにもかかわらず、過半数の得票を獲得できず、第3回投票でやっと投票総数の1/4余りをもって選出された。

2007年選挙では無所属で当選した議員20人が党に復帰し国会に議席と会派を有するにいたった。しかし、国家と国民の不可分の一体性という国是を脅かしているとして、デミルタシュ新党首誕生直後に非合法化を求める提訴がなされた他、党設立以来、オジャランに対する敬意やシンパシーの表明によって多くの党幹部が逮捕された。2008年7月の党大会以降は党首を再度、テュルクが務め、アメリカやイラクに党支部設立を計画するなど、存立基盤を国際的に強化しようとの試みも進んでいたが、2009年12月に憲法裁判所の全会一致の判断で解党が命じられた。

解党命令は、党首テュルクを始め37名に5年間の参政権剥奪をもたらした。しかし、21名の国会議員のうち有罪とされたのは2名のみである他、党員でないレイラ・ザーナ旧民主主義党幹部をも有罪としたり、党内でタカ派とされる議員や活動家が有罪とされないなど、判決の論理整合性や意図に疑念が残るとの指摘もメディアでなされた。有罪とならなかった国会議員や地方自治体の首長や議員らは、平和と民主主義党に移籍した。

民主社会党は欧州司法裁判所に提訴したが、民主社会党の前身である人民の民主主義党の裁判も結審しておらず、判決はかなり先のことになると見込まれる。ちなみに、人民の民主主義党以前に閉鎖された3党についてはいずれもトルコが敗訴している。

平和と民主主義党党首はムスタファ・アイズィト(Mustafa Ayzit)、デミル・チェリク(Demir Çelik)と続き、2010年1月よりセラハッティン・デミルタシュ(Selahattin Demirtaş、 民主社会党で党首を務めたヌレッティン・デミルタシュの弟)が党首となった。2011年総選挙で平和と民主主義党は、国会議員選出条件である全国平均最低得票率10%を超えられない場合に備えて無所属で臨むことを決定し、デミルタシュを含む候補者が党籍を離脱したため、ハミト・ゲイラニ(Hamit Geylani)が党首となったが、総選挙後に再当選したデミルタシュが復党し、党首に返り咲いた。2011年選挙では、クルド地域を中心に活動する左派、イスラム派の多様な勢力が選挙協力のために結集し、躍進した。東部、南東部地域はクルド民族主義勢力が公正と発展党と勢力を二分する形となり、無所属当選者が選挙後に移籍したことで、平和と民主主義党所属国会議員は最大時、29名を数えた。

平和と民主主義党を国政レベルで引き継いだ諸人民の民主党(Halkların Demokratik Partisi)は、党内組織のあらゆるレベルにおいて女性の幹部職就任および党員としての活動を奨励してきた。冒頭で述べた共同代表制はその一例である。共同代表の一人は必ず女性とし、党組織でも40%を女性に留保し、2011年総選挙の候補者リストでも40%の女性留保を行った。女性留保政策は同党のみならず、PKK系列の組織で採用されている。同党は国会の女性議員数上昇に大きく貢献している。また、2014年3月の地方選挙にあたっては、可能な限り男女半々の地方議会代表を送り出すため、報道によれば144の選挙区で男女を交互にならべた県議会、市議会、区議会候補者名簿を作成した。地方自治体首長は制度的には1名であるため、同党候補が首長に選出され、議員多数を構成する自治体では議会議長を事実上の共同代表として、首長とは異なる性別の議員から選定し、地方政治を運営していくつもりであるという。このような地方行政運営が従来の行政組織形態と実質的にどのような違いを生み出すかは未知数であるが、少なくとも同党が支配的な自治体ではジェンダー比については男女の代表比が一段と対等に近付いた。

平和と民主主義党が諸人民の民主党に移行した理由は以下の通りである。2000年代以降に、PKKリーダーのオジャランは、クルド地域やクルド人のみならず、トルコ全土に勢力を拡大したいと考え、特に合法政党の全国区化を目指してきたが、これまでは成果が出なかった。しかし、2011年総選挙での躍進をきっかけに、諸人民の民主会議(Halkların Demokratik Kongresi)というプラットフォームが選挙後に立ち上げられ、2012年10月15日には、来る選挙に備えるために諸人民の民主党(Halkların Demokratik Partisi)として公式に政党となった。オジャランは、2014年3月の統一地方選では同党がトルコ西部で候補者を擁立し、平和と民主主義党が東部・南東部地域で候補者を擁立する形で選挙協力を行い、2015年の国政選挙では諸人民の民主党が平和と民主主義党を吸収合併して単独で選挙に参加するように、獄中から指示した。平和と民主主義党内では議論もあったが、結局はこの方針が承認された。これを受けてまず、2013年10月開催の諸人民の民主党にとっては結党大会を意味した第1回臨時党大会が開かれ、3名の著名な平和と民主主義党議員が同党に移籍した。そして2014年統一地方選と2015年総選挙でもオジャランの支持の通りに選挙に参加した。

2014年統一地方選挙後の党大会で、平和と民主主義党は民主的諸地域党に改名し、地方自治でオジャランの理論を実践するための主体という位置づけを確立していった。しかし、前述のように、党幹部や系列自治体の首長や幹部らが逮捕・投獄され、自治体には政府が首長代理を任命するという異常事態になっており、「民主的自治」の実験はとん挫した。

民主左派党(DSP)

1985年11月設立の中道左派政党。党首は マースム・テュルケル(Masum Türker)。

共和国体制の護持を主張する点や、長く同党を率いたビュレント・エジェヴィト(Bülent Ecevit)が、トルコ民族の伝統・文化の純化を目指しつつ「トルコ国民国家」の発展を唱える文化運動の中心的人物であったことから、トルコ民族主義と通底するイデオロギー的傾向がある。

エジェヴィトは1972年に共和人民党の党首に就任したが、1980年のクーデタで政治活動を禁じられたため、妻のラフシャン・エジェヴィト(Rahşan Ecevit)が民主左派党を結成した。エジェヴィトは1987年に禁を解かれ、党首に就任した。エジェヴィトは質素な生活や服装と潔癖を通し、太った体に高価なスーツを着込んで親分的なイメージを売り物にする他の政治家の間にあって、清貧・清廉のイメージで一定の人気を確保していた。しかし、共和人民党の後継を主張する社会民主人民主義党や1991年に結成された共和人民党との競合や、冷戦後の左翼運動の衰退の結果、低迷していた。

1997年6月に、軍部が先頭に立って福祉党・正道党連立政権を崩壊に追い込むと、祖国党を首班とする連立政権に民主トルコ党とともに参加した。1998年に祖国党の閣僚が汚職で糾弾されたことをきっかけとして政局が混乱すると、代替政権の組閣が難航する中で、単独で少数党内閣を組閣した。政界の混迷が極まる中で突入した1999年選挙では、その直前に長年、ゲリラ活動を行ってきたクルド労働者党の党首が逮捕され、トルコ民族主義の感情が国内に蔓延していたことも奏功し、議会第一党に大躍進した。その後、民族主義行動党、祖国党とともに連立政権を率いたが、2001年秋頃よりエジェヴィトは時に執政に支障をきたすほどに体調を崩したにもかかわらず、首相ポストに固執したため、国民的な批判を招き、政局は再び混乱し始めた。結局、任期を一年半も残して解散総選挙を行う事態となり、2002年選挙では大敗を喫し、議席を失った。2004年から ゼキ・セゼル(Zeki Sezer)が党首を務め、2007年選挙で共和人民党との選挙協力により13議席を獲得、2009年3月の統一地方選でも前回より票をのばしたが、目標に達しなかった責任をとってセゼルは辞任した。2009年5月の党大会で  テュルケルが新党首に選出された。 

社会民主人民党(SHP)
  • Sosyaldemokrat Halk Parti  

2002年設立の中道左派政党。最後の党首はヒュセイン・エルギュン(Hüseyin Ergün) 。

1985年に設立された社会民主人民主義党の流れを汲む。社会民主人民主義党は民政移管後にいち早く設立された中道左派政党として、1991年の総選挙までは左派の最大政党だったが、イスタンブルなど地方自治体での汚職が発覚して、急速に支持を失い、1995年には共和人民党に吸収合併された。 党設立時の党首ムラト・カラヤルチン(Murat Karayalçın)は、社会民主人民主義党時代の1989年に地方選挙でアンカラ大都市市長に選出されて、若手リーダーとして頭角を現し、1991年選挙では国会議員に選出。1993年から二年間は外相を務めた。共和人民党に吸収された後も、国会議員として活動を続けていたが、1999年選挙での大敗や党内権力争いの結果、党を割り、社会民主人民党を立ち上げた。2005年3月に共和人民党選出議員が移籍し、院内政党となった。しかし2007年選挙では、他の左派政党との選挙協力を行わず、勝算が見込めないことから選挙自体にも参加しなかった。 カラヤルチンは2009年3月の統一地方選で公正と発展党に一矢報いるために共和人民党からアンカラ大都市市長選に出馬を決め、離党したものの、当選はならなかった。カラヤルチン離党後は、党幹事長だったウール・ジラスン(Uğur Cilasun)が党首を引き継ぎ、2009年6月にはエルギュンが党首に選出された。しかし、2010年3月に左派の再興を目指して立ち上げられる平等と民主主義党 (Eşitlik ve Demokrasi Partisi)に合流することになり、同党の設立とともに解散した。

平等と民主主義党の初代党首は社会民主人民党議員として大臣経験もあるジヤ・ハーリス(Ziya Halis)。党首自身もアレヴィであり、都市部クルドやアレヴィの支持をかねてより集めてきた自由と連帯党(Özgürlük ve Dayanışma Partisi)から鞍替えした支持者や、有力アレヴィ団体や左派労組も支持を表明していたが、公正と発展党政権の2010年9月憲法改正国民投票への賛成表明や、平和と民主主義党の要求するクルド語学校教育や地方自治権強化による文化的多様性への対応といった争点に理解を示したことで、離反も起きている。

祖国党(ANAP)
  • Anavatan Partisi

1983年設立に設立され、2009年に民主党への統合により消滅した中道右派政党。最後の党首は サーリフ・ウズン(Salih Uzun) 。

 1983年の民政移管後に、1970年代の4つの政治勢力(中道右派、親イスラム、トルコ民族主義、中道左派)を糾合し、トゥルグト・オザル(Turgut Özal)を党首として設立された。オザルは国家計画庁長官を務めた後に、国際通貨基金勤務を通じてアメリカの政財界に人脈を築いた親米派の経済官僚だったが、一方で、ナクシュバンディー教団の門徒としても知られていた。

こうしたプロフィールは、1983年から1991年までの祖国党政権の政策に如実に反映された。オザルは国際政治経済的な観点からトルコの取るべき戦略を考え、政治、社会、経済、貿易のあらゆる領域で自由化を進め、ヨーロッパ、中東を中心とするイスラム世界、環黒海地域、中央アジアのトルコ系諸国といった地域設定を行って新しい政治経済関係を開拓しようとした。また、イスラム銀行の設立といったイスラム的政策や、ムスリムとしてのトルコ国民意識の醸成を目指す文化・教育政策も行った。自由化政策は物質的な豊かさや自由な雰囲気をもたらしたが、消費主義の蔓延や所得格差の拡大に対する批判を招き、祖国党政権の終焉をも導いた。

オザルの大統領就任(1989年)後、党首にはユルドゥルム・アクブルト(Yıldırım Akbulut)が選ばれたが、体制を確立できないまま、祖国党創設メンバーで、オザル政権下で情報相や外相を歴任したメスット・ユルマズ(Mesut Yılmaz)に党首の座を奪われた。オザルの死(1993年)により、ユルマズは党内権力を掌握したが、世俗的な経済自由主義者であったため、党内のイスラム勢力が次々に党を去り、党はイスラム復興勢力の支持を失った。1995年選挙以降、議会第一党の福祉党と体制との軋轢が高まる中で連立政権を二度立ち上げて首相となったが、いずれも短命に終わった。1999年選挙後は民主左派党首班の連立政権に参加したが、逆にそこでイニシアティブを発揮できないままエジェヴィトの失権にも引きずられる形で、2002年選挙で議席を失った。

祖国党は2003年7月に、無所属で当選した議員が入党したのをきっかけに院内政党に復帰した。その後、2005年2月に公正と発展党を辞して祖国党に移籍した エルカン・ムムジュ(Erkan Mumcu) が同年の党大会で党首に選出された。ムムジュは1995年選挙で祖国党選出国会議員となり、党首顧問、党幹事長、副党首など党役員を歴任したほか、祖国党が参加した連立政権でも閣僚を務めたが、2002年選挙では公正と発展党から当選していた。同党でも閣僚に抜擢されたものの、政策内容や体制との関係をめぐって党と衝突して離党した。

2007年選挙では、正道党との合併により中道右派の盛り返しを目指したが、土壇場で話し合いが決裂した。祖国党は一旦、立候補者名簿を高等選挙会議に提出したものの、選挙戦不参加を決定した。祖国党の候補者名簿に記載されている主要政治家は、手続き上、無所属の立候補もできなくなった。 ムムジュは2008年9月に党首辞任を決意し、同年10月に ウズンが選出された。

2007年総選挙に続き、2009年3月の統一地方選挙でも惨敗した結果を受け、正道党から改名した民主党との合併協議を再度、本格化させ、7月には民主党への吸収合併が党首間で合意された。11月に祖国党臨時党大会で民主党への統合による党の解散が決定され、同時に同じ会場で開催されていた民主党党大会で即座に祖国党の吸収合併が承認された。

トルコ党
  • Türkiye Partisi

2009年5月に設立され、寛容の精神と透明な行政を掲げる、中道右派政党。党首はアブデゥルラティフ・シェネル(Abdüllatif Şener)。シェネルは1991年に福祉党議員として当選して以来、美徳党、公正と発展党に籍を移しながら議員を続け、福祉党首班の連立政権時代には財務大臣、公正と発展党政権では国務大臣や副党首を歴任した。しかし、2007年の大統領選挙での候補者選定などの際に、世俗主義の国是をめぐる野党や軍部、司法機関との緊張関係を高めるような決定を党がなすことなどに批判を強め、2007年総選挙に出馬せず、公正と発展党から離党した。2008年9月にやはり公正と発展党から離党した国会議員のメフメト・ヤシャル・オズテュルク(Mehmet Yaşar Öztürk)も結党時に参加し、国会に議席を得た。

しかし、2011年の総選挙で国会の議席を失い、2012年8月には党を維持することが困難との判断から、自発的に解党された。シェネルはその後も公正と発展党政権批判を続けており、2018年総選挙で共和人民党から出馬し、現在、同党の国会議員の職にある。

人民の隆盛党
  • Halkın Yükselişi Partisi

2005年2月に設立された、世俗主義とイスラムの融和を目指す政党。党首はヤシャル・ヌリ・オズテュルク(Yaşar Nuri Öztürk)。

共和人民党選出議員として2002年選挙で初めて政界入りしたオズテュルクが離党し、設立した。同党はリベラルなイスラム理解とアタテュルク信奉の総合によりトルコ社会の亀裂を克服しようと主張している。オズテュルクは、長年、神学部教授を努め、イスラム学の伝統やイスラム社会の伝統を経由することなく、直接、各信徒がクルアーンを参照して信仰実践のあり方を自主的に判断するべきだと主張する。また、平易な解説と、アタテュルク信奉者として体制とも問題がない神学者として、非宗教系テレビ局の宗教の解説や視聴者相談を行うテレビ番組にも頻繁に登場し、知名度が高い。しかし、リベラルなイスラム解釈 やアタテュルクへの態度の故に、イスラム復興勢力からは批判や反発も強い。2007年総選挙では再選を果たせなかった。 2016年にオズテュルクは亡くなり、党は2018年にケマリスト系泡沫政党の国民権利擁護運動党(Müdafaa-i Hukuk Hareketi Partisi )に吸収合併された。

参考文献
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  • Commission of the European Communities, Turkey 2006 Progress Report, 2006.
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  • Erol Tuncel, 1923’den Günümüze Siyasi Partiler, Ankara: TESAV, 2018.
  • Fumiko Sawae, “Development of Constitutional Democracy in Turkey: Constituent Power and Constitutional Identity in the Democratizing Process,” in Tsugitaka Sato ed., Development of Parliamentarism in the Modern Islamic World, The Toyo Bunko, 2009, pp. 220-245.
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  • 新井政美『トルコ近現代史:イスラム国家から国民国家へ』みすず書房、2001年。
  • 澤江史子「トルコの選挙制度と政党」(日本国際問題研究所編『中東諸国の選挙制度と政党』、2002年)。
  • ―――『現代トルコの民主政治とイスラーム』ナカニシヤ出版、2005年。
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  • ――― 「エルドアン政権「強権化」の構図」『外交』第39号、都市出版株式会社、2016年 、72-79頁 。
  • ――― 「未完の東方問題」納家政嗣・永野隆行 『帝国の遺産と現代国際関係』勁草書房、2017年。
  • ――― 「2019年3月31日統一地方選挙に向かうトルコ」『中東協力センターニュース』 巻 3号、2019年、10-17頁。
  • ――― 「トルコの「クルド系政党」」 山口明彦編 『クルド人を知るための55章』明石書店、2019年。
  • 間寧「トルコ2002年総選挙と親イスラム政権の行方」『現代の中東』35、2003年。
  • 高等選挙会議ホームページより2007年総選挙結果および、政党別議席配分表
  • 高等選挙会議ホームページより2011年総選挙結果および政党別議席配分表
  • 高等選挙会議ホームページより2014年大統領選挙結果
  • 憲法裁判所ホームページより政党リスト (2019年2月11日現在)。
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