ヨルダンの政党制度の変化

ヨルダンの政党制度は、1950年代に基礎ができたが、主に周辺諸国に拡大するアラブ民族主義や左翼勢力は国家の枠組みを超えた影響を持ち、その影響下にある国内の各政治勢力は時としてハーシム王制そのものを反動的体制として批判・攻撃の対象とした。このため、国王は政党活動を1957年以降禁止し、1992年までヨルダンを戒厳令下に置いた。政党活動が盛んな1950年代には、バース党やナーセル主義の影響力を受けたアラブ民族主義政党が影響力を持ち、それに対するカウンターバランスとしてハーシム王制はムスリム同胞団に依拠した。しかし、政党活動の禁止後は、イスラエルの西岸占領によって選挙も停止され、健全な政治的新陳代謝が不可能になる中で、各種職能組合が国民の意見表出機能を一部代替し、政党の機能を担った。その間、例外的に慈善団体として組織的活動を許されたヨルダンのムスリム同胞団は、社会活動における影響力拡大を政治的力にして、影響力を拡大した。

1992年の政党法は、政党設立の諸条件を規定しているが最も重要な条件として、ヨルダン以外の国の政党のメンバーであったり他の国を拠点にする政党であったりしてはならないということが規定されている。これは、1950年代の政治的経験によるものと考えられる。この規定により、シリアやエジプトやパレスチナとのつながりの深い政党は、党のヨルダン化を行わなければならなかった。1989年の第11期議会の選挙の時点では、政党が認められていなかったが、注目される政治的潮流としては1950年代にも見られたアラブ民族主義系、イスラーム系、左翼系の勢力で、唯一、同胞団が公認の組織としての強みを発揮する事になった。1992年の政党法以降は、上記傾向の諸政党が設立され、ムスリム同胞団も新政党法に合致するようにイスラーム行動戦線(IAF)を設立した(ムスリム同胞団も福祉団体として存続)。 

ヨルダンの政党制度の最大の問題は、政党に対する有権者の期待の低さに現れている。選挙において政党に基づいて投票した有権者の割合が極端に少ない事がヨルダンの民主主義の問題点を示している。野党側は、選挙制度の改変(投票方法の連記制から単記制への変更)が政党からの立候補者に不利に働いた事を指摘する。その指摘が正しかったとしても、もともとのヨルダンの政党全体に対する支持率の低さは説明できない。問題点の一つとして、各政党がイデオロギーや信仰などの抽象的問題にあまりにこだわり、国民の日常的な関心を議論の中心に据え、具体的な提案や対応を行ってこなかった事も考えられる。ヨルダン大学戦略問題研究所の世論調査では、「支持政党あり」と答えた割合が2004年に9.8%、2005年に6%、2006年に6.8%、2007年に9.7%、2008年に5%という数字しか示していない事や、「政党が(国民のためでなく)党のために働いている」と感じた市民が、上記年にそれぞれ49.1%、53.3%、58.7%、61.5%、59%という数字に上っている事が問題の一端を示している。

2016年の総選挙における政党(登録数40)からの立候補者は、1252人中215人であり、候補者の17%に相当する。これは結果的に2013年に採用され2016年に廃止された全国区の「政党枠」の全議席に対する代表率18%に近い数字である。そして選挙の結果、40名が政党からの立候補により当選した。形式的には近年では最も政党による当選者が拡大した。しかし内実は、イスラーム系22議席、左派民族主義2議席、その他は保守派政党からの当選者であった。2020年の総選挙では、41政党から389名の立候補があり、政党からの立候補者は増えたものの当選者は、イスラーム系10議席、その他2議席、党友としての当選者は6議席(政治傾向は不明)であった。なお、2016年の政党参加の背景として、参加政党には経済的な誘因が作用したことも考えられる。たとえば、3つの選挙区に6人の候補者を立てた政党は2万JD(約2万8千ドル)の助成金を獲得し、さらに女性候補者や35歳以下の若手候補者を立てると15%の増額が認められることになっていた。全投票数の1%を得た政党にはさらに助成金が交付されることになっていた。保守派政党の内実はほとんどが特定の影響力のある政治家が中心となり運営されており特記すべき政策は見られない。なお政党に関心を持たない有権者に関しては、部族や血縁関係に日常的要求実現を求めるのか、宗教組織に求めるのか、あるいは新たなNGOの機能に実現を求めるのか、無党派層の内実にも注目すべきである。 

ヨルダンの主要政党

ヨルダンの主要政党はイスラーム系、左翼系、アラブ民族主義系、中道・レベラル、保守と分かれる。その中で左翼系とアラブ民族主義系の政党は(共産党を除いて)主張が重なるところも多く、時には両方の要素が混合した政党も見られる。その中でも、議会に議員を一定数送り込み、実質的に党としての活動をしているのは、IAFのみと見なされる。他方国王は、民主主義の定着の証としての政党政治の重要性を謳っており、それは2012年や2016年の選挙法にも表れている。

(a)イスラーム系

イスラーム行動戦線党

  • Hizb Jabhah al-‘Amal al-Islami
  • (Islamic Action Front Party)
  • 1992公認
  • 発起人353人

一般には、ムスリム同胞団(1947)の政治部門とされる。しかし、行動戦線側では人的交流の深さを認めつつも、あくまでも別組織であり、ムスリム同胞団出身者以外のメンバーも多いとしている。1992年ムスリム同胞団の幹部と独立イスラーム主義者によって設立会議が開かれた。発起人には、元自治環境大臣や元法相など閣僚経験者も含まれている。選挙制度(単記制)への反発から2010年の総選挙をボイコットし、また新たな制度である政党ベースの全国区の議席率が少ないことに反対し、2013年の総選挙をボイコットした。選挙に復帰した2016年の選挙では15名、2020年には10名が当選した。

イスラーム的生活の回復とシャリーアの適用、シオニストや帝国主義に対するジハードの遂行とアラブ・イスラームの復興をめざす。国民統合、民主主義とシューラーに基礎をおく体制、自由の獲得をめざす。そのために、市民のためにあらゆる政治勢力との対話を行い、ヨルダンの政治・行政・経済の腐敗を除去し、国の安定を目差す。女性・青年の権利を守る努力をする。シューラー会議は、選挙で選ばれた120人の議員(4年任期)によって半年ごとに開催され、党の方針を決め、指導部も選出する(2年ごと)。党員は教育省関係者が多い。1991年にムスリム同胞団メンバーが史上初めて閣僚入りしたが、内閣参加への反対派(ハンマーム・サイードら)と賛成派(アブドゥッラー・アカーイレら)の間の対立も生まれた。また、独立系の党員からはムスリム同胞団の党への影響力関与への批判もある。

国民会議党(Zamzam)

  • Zamzam 
  • Jordanian National Conference Party
  • 公認2016年

ザムザムは穏健イスラーム政党であり、ヨルダンのムスリム同胞団を離脱したメンバー(レイル・ガラーイバが発起人)により構成される。2016年総選挙では5名が当選した。メンバーは党が市民中心で、党派的でなく、包括的で真に国民的な目標を達成し、民主主義と法の支配を達成することを目指す。ガラーイバは、「われわれは既存の宗教的・エスニック的・排他的なイデオロギーから離れたコンセンサスを渇望している」と述べた。(Jordan Times,26 March 2016) 

イスラーム・ワサト党

  • Hizb al-Wast al-Islami
  • (The Islamic Middle Party)
  • 2001年公認

Muhammad Al-Qudahを指導者とし、2001年IAFから離脱した者で結成された。党首、諮問評議会、諮問評議会事務局、General Assembly, General Conference、中央委員会、中央裁判所、訴追裁判所、約400人のメンバーがいるとみられる。シャリーアを柔軟に解釈し、民主的改革と政治的多元主義を重視し、政府の権力と市民の自由のバランスを取るように求める。議会で他の世俗政党とともに国民運動ブロックを形成している。また欧米諸国と公然と協力する姿勢を示し過激主義を批判している。

(b)左翼

ヨルダン共産党

  • Al-Hizb al-Shyu‘ii al-’Urduni
  • (Jordanian Communist Party)
  • 1993年公認
  • 発起人70人

イスラエルの成立後も西岸で活動を続けたパレスチナ解放運動組織の連合により、1951年ヨルダンに創設された。アラブ各国の大学で学ぶヨルダン人を中心に構成されていた。1950年代には「反共法」に基づき、治安当局からの取締りを受けた。秘密に発行される機関紙「ジャマーヒール(大衆)」紙により党員の連絡を保つ一方、労働組合・女性組織・学生組織・青年組織などの中で影響力維持を図った。共産党はその後、分裂も経験した。1980年代初めには、西岸のパレスチナ人共産主義者が離脱し、「パレスチナ共産党」を宣言した。また80年代初めに、ヤコブ・ズィヤッディーンが書記長に選出されると、古くからの党員で幹部のイーサー・マダナートが党を割った。社会主義圏の崩壊にもかかわらず、党は原則を主張しつづけている。労働組合などでの量的影響力は低下しているが、一般的な尊敬を引き続き集めているとも言われる。IMFの構造調整に反対し、イスラエルとの和平条約に反対を表明し、また協定後はイスラエルへの門戸開放に抵抗し、アラブ諸国間の協力関係強化を主張している。 現在議席は持っていない。 

(c)アラブ民族主義

アラブ・バース進歩党

  • Hizb al-Ba‘ath al-‘Arabi al-Taqaddumi
  • (The Arab Ba‘ath Progressive Party)
  • 1993年公認
  • 党員約200人

シリア・バース党系。法と憲法による統治とともに民主主義の拡大を追求している。人民の意思の支配を払しょくし、人民のための政治的・経済的利益の達成を求める。一神教の信仰と民族的遺産の尊重とアラブ民族の統一を尊重する。国内制度の安定とアラブの経済的統合の達成を目指す。政党としては規模が小さいが、書記長であるフアド・ダッブールの外交問題に関する発言がメディアで取り上げられることが多く党の知名度を上げることに貢献している。 ライバルであるイラク・バース党系のヨルダン・アラブ・バース社会主義党より規模が小さいとみられる。

ヨルダン人民民主党

  • Hizb al-Sha‘ab al-Dimqrati al-’Urdni (Hashd)
  • (Jordanian People’s Democratic Party)
  • 1993年公認
  • 発起人100人

1989年、DFLPがヨルダン内に自立性を持つ政党を作る方針を出したことにより、設立された。1993年DFLPメンバー・労働組合員・職能組合員・女性運動家・青年組織・知識人などからなる創設機関が作られ、1989年の総選挙では1人当選者を出した。週刊の党機関紙「アルアハーリー」がある。1970年代から80年代にかけてはパレスチナ人が党の基盤となったが、1991年と1994年に党は分裂し、影響力を弱めた。2010年の選挙では女性枠で事務局長のアブラ・アブー・オルベ(アンマン第1区)が当選し、1994年以降初めての議員となるとともに、第16期議会の唯一の野党議員となった。その後の議会では当選者は出ていない。

(d)左翼+アラブ民族主義

ヨルダン民主左翼党

  • Al-Hizb al-Yasar al-Dimuqrati
  • (Jordanian Democratic Leftist Party)
  • 1994年公認

1997年、ヨルダン民主統一党 Al-Hizb al-Dimqrati al-Wahdawi (The Jordanian Democratic Unitary Party)より改称した。左翼とアラブ民族主義諸派の連合で構成されている。党側は自らを左翼政党ではなく、民主主義政党としているが、むしろ革新的左翼の主張に近い。以下の政党及び政治グループから成る。

(i)社会民主党Al-Hizb al-Dimuqrati al-Ishtiraki

イーサー・マダナートが率いる。ヨルダン共産党から、スターリン主義的傾向を持つ党の方針に反対し、民主主義やアラブや世界との交流を主張し、離脱した。第12期下院に1人当選した。 

(ii)ヨルダン民主アラブ党 Al-Hizb al-‘Arabi al-Dimqurati al-’Urduni

マーゼン・サーキトMazin al-Sakit が率いる。バアス主義者、共産党員、パレスチナ政治グループの多様な派の集まり。アラブ民族主義・ヨルダン国民主義・社会主義・穏健な自由主義などの混合が見られる。

(iii)ヨルダン民主進歩党 Al-Hizb al-Taqaddumi al-Dimqurati al-’Urduni

ヨルダン人民民主党(Hashd)から分離した勢力によるもの。1991年にDFLPを脱退したヤーセル・アブドラッボ派に近く、「刷新と民主主義」をスローガンとしている。

(iv)ヨルダン人民民主党民主派Al-Taiyar al-Dimuqrati fi Hizb al-Sha‘ab al-Dimqrati al-’Urduni (Hashd)

1994年ヨルダン人民民主党(Hashd)から分離した。同党のバッサーム・ハッダーディーン Bassam Haddadinは89年と93年の選挙で下院議員に当選以降、6期にわたって議員を務め、議会・政治開発担当大臣(2012‐13)をつとめた。 

(e)中道・リベラル

未来党

  • Hizb al-Mustaqbal
  • (Future Party)
  • 1992年公認

1980年代に内務相などを務めたスレイマン・アラール Sulaiman ‘Ararが中心となり、1992年中道の政党としては初めて登録した。スレイマン・アラールはまた、1989年から90年11期下院の議長を務めている。ヨルダン国民主義とアラブ民族主義の中間の政治方針を持っているが、政府の金融政策とイスラエルとの政治経済的な平和の構築を支持した。しかし、最近の民主化や選挙法改正に関する政府批判に同調し、1997年選挙はボイコットした。1989年の第11期議会には3人、1993年の第12期議会には1名議員を当選させている。結党当初から発行されていた機関紙は、発行停止になった。

(f)保守

国民潮流党

  • Hizb al-Tayar al-Watani
  • (National Current Party)
  • 2009年公認

党の基本的方針としては、国民的統一、政治的忠誠心、公正、節度、寛容の価値の推進、市民の参加の拡大、法の統治の構築、政治改革によるガバナンスの強化、そのための法による自由や市民の保護と政府による安全や政策の展開との調和を掲げている。第16期議会選挙では、マジャーリー指揮下に国民潮流党の名のもとに、8名、第17期選挙では1人、第18期選挙では4人当選している。政党の形をとっているが、部族的背景で当選した者も多く、保守派と無党派の境界領域にあるもの、とみなすこともできる。

国民連合党

  • Hizb al-Ittihad al-Watani
  • (The Jordanian National Union party)
  • 2011年公認

組織:総会、議長、事務局長、事務局、経済局、会計局、専門局(議会、政党、選挙、人権、女性等) 政党、選挙等に関する政治関係法への市民の関心を喚起することを目的とする。民主主義推進のための適切な環境を整備する。各種会議への参加を通して、ヨルダンのアラブ諸国や域内、国際社会での役割を強化する。表現の自由、集会、平和的デモの権利を確立しそれへの障害を取り除く。憲法の原則を維持し、それに反する法律や規定を排除する。法の統治を確立する。第18期選挙では、7名の当選者をだした。