「政治変動DB記事」カテゴリーの記事一覧
モロッコ/選挙
(1) 選挙制度
2011年憲法でもモロッコは二院制を維持している(憲法60条)。下院を構成する395名の議員は、直接普通選挙で選ばれ、任期は5年間である(旧憲法でも5年間)。上院議員は、間接選挙で選出され、任期は6年間である(旧憲法では9年間)。現在の上院は、旧憲法下での間接選挙によって選ばれた270名の議員で構成される。2011年憲法では、上院議員の定数が最低90名最高120名と改められた。そのうちの5分の3の議員は、地方議会議員で構成される集団によって、地域ごとに選出される。5分の2の議員は、職能組合(産業、農業、工芸、商業、サービス業、漁業)の代表の集団と給与所得者の代表で構成される集団によって、地域ごとに選出される。
国会の会期は通常2期(10月および4月の第2金曜日に開始)(憲法第65条)で、特別国会の開催には、勅令、下院の3分の1の議員の要請、上院の過半数の議員の要請のいずれかが必要である。(憲法第66条)。
国会は公開で、上下院とも内規を定めており、内規の合憲性については憲法評議会が監督している。下院議長は、会期の初めと3年目の4月会期に選出される。上院議長は、10月会期の初めと改選の際に選出される。
すべての法案は、上下院で審議される。下院は、内閣不信任動議を提出することができる。この動議の提出には、下院の少なくとも4分の1の議員による署名が必要である。またこの動議の可決には、下院議員全体の絶対多数の賛成が必要である。
(2) これまでの選挙・国民投票
モロッコで、独立以来実施された選挙・国民投票は30回で、詳細は次の通りである。
①国民投票(10回実施)
- 1962年12月7日:憲法制定に関する国民投票
- 1970年7月24日:1962年憲法改定に関する国民投票
- 1972年3月1日:1970年憲法改定に関する国民投票
- 1980年5月23日:1972年憲法第21条改定に関する国民投票
- 1980年5月30日:1972年憲法第43条・95条改定に関する国民投票
- 1984年8月31日:アラブ・アフリカ連合に関する国民投票
- 1989年12月1日:議会議員の任期2年延長に関する国民投票(1984年からの会期は、本来1990年に終了だが2年延長)
- 1992年9月4日:1972年憲法改定に関する国民投票
- 1996年9月13日:1992年憲法改定に関する国民投票
- 2011年7月1日:2011年憲法改定に関する国民投票
②地方選挙(10回実施)
- 1960年5月29日
- 1963年7月28日
- 1969年10月3日
- 1976年11月12日
- 1983年6月10日
- 1992年10月16日
- 1997年6月13日
- 2003年9月12日
- 2009年6月12日
- 2015年9月4日
③議会選挙(10回実施)
- 1963年5月17日
- 1970年8月28日
- 1977年6月3日
- 1984年9月14日
- 1993年6月25日(3分の2の議員選出のための直接選挙)と1993年9月17日(3分の1選出のための間接選挙)
- 1997年11月14日
- 2002年9月27日
- 2007年9月7日
- 2011年11月25日(2011年憲法下での初めての選挙。2012年9月に予定されていたが、憲法が改定されたために、前倒しで実施された。)
- 2016年10月6日
(3) 近年に実施された選挙
①2007年議会選挙
- 日時:2007年9月7日午前8時~午後7時
- 議席数:下院325議席(任期5年)
- 選挙区:全国区=30議席分(女性割り当て) 95の地方区=295議席分
- 候補者数:6,691名
- 有権者数:15,510,505名(男性=51.3%、女性=48.7%)
- 投票率:37%
- 投票所数:全国38,687箇所
選挙結果-獲得議席数
- イスティクラール党(PI-Parti Istiqlal):52議席
- 公正発展党(PDJ-Parti de la justice et du développement):46議席
- 大衆運動(MP-Mouvement populaire):41議席
- 国民独立連合(RNI-Rassemblement national des indépendants):39議席
- 大衆諸勢力社会主義連合(USFP-Union socialiste des forces populaires):38議席
- 立憲連合(UC- Union constitutionnelle):27議席
- 進歩社会主義党(PPS-Parti du progrès et du socialisme):17議席
- 民主勢力前線(FFD-Front des forces démocratiques):9議席
- 民主社会党(MDS-Mouvement démocratique et social):9議席
- 国民民主連合党(PND)-盟約党:14議席(PND・盟約党連合:8議席、盟約党:3議席、PND:3議席)
- 前衛民主社会党(PADS)-国民議会党(CNI)-社会主義統一党(PSU):6議席(PADS-CNI-PSU連合:5議席、CNI:1議席)
- 労働党(PT-Parti travailliste):5議席
- 環境発展党(PED-Parti de l’environnement et du développement):5議席
- 再生平等党(PRE-Parti du renouveau et de l’Equité):4議席
- 社会主義党(PS-Parti socialiste):2議席
- モロッコ民主連合(UMD-Union marocaine pour la démocratie):2議席
- 市民勢力(FC-Forces citoyennes)/自由連盟(ADL-Alliance des libertés)/発展・シチズンシップ・イニシアティブ(ICD-Initiative citoyenne pour le développement/復興善行党(PRV-Parti de la renaissance et de la vertu)=各々1議席
- 無所属:5議席
②2009年地方選挙
- 実施日:2009年6月12日
- 議席数:27795議席
- 選挙区数:1503 (都市部:221 、農村部:1282 )
- 候補者数:130223名-人口35,000人以下の地区(1人区)の候補者数:55751名
- 人口35000人以上の地区(比例代表)の候補者数:59188名
- 女性候補者向け名簿での候補者数:15284名
- 有権者数:13,360,219名
- 投票者数:7,005,050名
- 投票率:52.4%
- 投票所数:38285箇所
選挙結果・・・獲得議席数(得票率 %)
- 正統近代党(PAM:Parti authencité et modernité): 6015(21.7%)
- イスティクラール党(PI:Parti Istiqlal): 5292 (19,1 %).
- 国民独立連合(RNI:Rassemblement national des indépendants) : 4112 (14,8 %).
- 大衆諸勢力社会主義連合(USFP:Union socialiste des forces populaires): 3226 (11,6 %).
- 大衆運動(MP:Mouvement populaire) : 2213 (8 %).
- 公正発展党(PJD:Parti de la justice et du développement) : 1513 (5,5 %).
- 立憲連合(UC:Union constitutionnelle) : 1307 (4,7 %).
- 進歩社会主義党(PPS:Parti du progrès et du socialisme) : 1102 (4 %).
- 民主勢力前線(FFD :Front des forces démocratiques): 678 (2,4 %).
- 前衛民主社会党・国民議会党・社会主義統一党連合(PADS-CNI-PSU:Parti de l’avant-garde démocratique et socialiste, Congrès nationale ittihadi, Parti socialiste unifié) : 475 (1,7 %).
- 民主社会党(MDS:Mouvement démocratique et social): 319 (1,2 %).
- 民主協約党(Parti Al-Ahd Addimocrati): 294 (1,1 %).
- 労働党(PT :Parti travailliste): 288 (1 %).
- 再生平等党(PRE:Parti du renouveau et de l’équité) : 181 (0,7 %).
- 環境と持続可能な発展党(PEDD:Parti de l’environnement et du développement durable) : 106 (0,4 %).
- モロッコ自由党(PML:Parti marocain libéral) : 90 (0,3 %).
- 統一民主党(PUD :Parti de l’unité et de la démocratie): 84 (0,3 %).
- 改革発展党(PRD:Parti de la réforme et du développement) : 82 (0,3 %).
- 社会党(PS:Parti socialiste) : 81 (0,3 %).
- •市民勢力党(PFC:Parti des forces citoyennes) : 47 (0,2 %).
- 無所属(SAP:Sans appartenance politique): 47 (0,2 %).
- 復興善行党(PRV:Parti de la renaissance et de la vertu) : 30 (0,1 %).
- 国民行動党(PAN :Parti de l’action nationale): 23 (0,1 %).
- 行動党(PA :Parti de l’action): 21 (0,1 %).
- 希望党(PE :Parti de l’espoir): 14 (0,1 %).
- 民主社会党(PSD:Parti de la société démocratique) : 12 (0,0 %).
- 民主主義のためのモロッコ連合(UMD:Union marocaine pour la démocratie) : 7 (0,0 %).
- 自由社会正義党(PLJS:Parti de la liberté et de la justice sociale) : 7 (0,0 %).
③2011年議会選挙
- 日時:2011年11月25日
- 議席数:下院395議席(任期5年)
- 方式:比例代表制・中選挙区制
- 選挙区:
- 全国区=比例代表制:90議席分(30議席分=若年候補者割り当て、60議席分=女性候補者割り当て)
- 92の選挙区:305議席分
- 投票率:45.40%
選挙結果-獲得議席数
- 公正発展党Parti de la Justice et du Développement (PJD) : 107議席(27.08%)
- イスティクラール党Parti de l’Istiqlal (PI) : 60議席(15.19% )
- 国民独立連合Rassemblement National des Indépendants (RNI) : 52議席(13.16% )
- 正統近代党Parti Authenticité et Modernité (PAM) : 47議席(11.90%)
- 大衆諸勢力社会主義連合Union Socialiste des Forces Populaires (USFP) : 39議席(9.87%)
- 大衆運動Mouvement Populaire (MP) : 32議席(8.10%)
- 立憲連合Union Constitutionnelle (UC) : 23議席(5.32%)
- 進歩社会主義党Parti du Progrès et du Socialisme (PPS) : 18議席(4.55%)
- 労働党Parti Travailliste (PT) : 4議席(1%)
- 社会民主運動Mouvement Démocratique et Social (MDS) : 2議席(0.50%)
- 再生平等党Parti du Renouveau et de l’Equité (PRE) : 2議席(0.50%)
- 環境と持続可能な発展党Parti de l’Environnement et du Développement durable : 2議席(0.50%)
- 民主協約党 Parti Al Ahd Addimocrati : 2議席(0.50%)
- 左翼緑の党Parti de la Gauche Verte : 1議席(0.25%)
- 自由社会正義党Parti de la Liberté et de la Justice Sociale : 1議席(0.25%)
- 民主勢力前線 Front des Forces Démocratiques (FFD) : 1議席(0.25%)
- 行動党Parti de l’Action (PA) : 1議席(0.25%)
- 統一民主党Parti Unité et Démocratie : 1議席(0.25%)
④2015年地方選挙
〈地方議会〉
- 実施日:2015年9月4日
- 議席数:678議席
- 選挙区数:12
- 投票者数:8,096,132名
- 投票率:53.67%
選挙結果・・・獲得議席数・獲得票数(得票率 %)
- 公正発展党(PJD: Parti de la justice et du développement)174 議席・1,672,178票 (25.6 % )
- 正統近代党(PAM :Parti authencité et modernité): 132議席・1,318,700票(19.4 %)
- イスティクラール党(PI : Parti de l’Istiqlal) : 119議席・1,057,658票(17.55 %)
- 国民独立連合( RNI : Rassemblement national des indépendants) : 90議席・883.421票(13.27 %)
- 大衆運動(MP : Mouvement populaire) : 58議席・631,817 票(8.55 %)
- 大衆諸勢力社会主義連合 Union socialiste des forces populaires : 48議席・546,472票 (7.08 %)
- 立憲連合 Union constitutionnelle :27 議席・493,277 票( 3.98 %)
- 進歩社会主義党 Parti du progrès et du socialisme : 23議席・413,238票(3.39 %)
- 民主社会運動 Mouvement démocratique et social : 2議席・65, 554票(0.29 %)
- 民主協約党 Parti Al Ahd Addimocrati : 2議席・29,798票(0.29%)
- 改革発展党 Parti de la réforme et du développement : 2議席・9 600票(0.29%)
- 左派民主連盟 Fédération de la gauche démocratique : 1議席・90,998票(0.15%)
※9,10,11,12の党は、7議席を協議の上配分したため、それぞれの議席数は得票数に比例していない。
〈市議会〉
- 実施日:2015 年9月4日
- 総議席数: 31443議席
- 投票者数:8,096,132名
- 投票率:53.67%
選挙結果(獲得議席数・%)
- 正統近代党Parti authenticité et modernité (PAM) 6,655 議席(21.16 %),
- イスティクラール党Parti de l’Istiqlal (PI) 5,106 議席(16.23%)
- 公正発展党Parti de la justice et du développement (PJD) 5,021 議席(15.96 %).
- 国民独立連合Rassemblement national des indépendants (RNI)4,408 議席(14.01%)
- 大衆運動Mouvement populaire (MP) 3,007 議席(9.56%),
- 大衆諸勢力社会主義連合Union socialiste des forces populaires (USFP) 2,656 議席(8.44%),
- 進歩社会主義党Parti du progrès et du socialisme (PPS) 1,766 議席(5.61%)
- 立憲連合Union constitutionnelle (UC) 1,489 議席(4.73 %),
- 左派民主連盟 Fédération de la gauche démocratique (FGD) 333 議席(1.06%),
- 民主社会運動Mouvement démocratique et social (MDS) 297 議席(0.94 %),
- 民主勢力前線Front des forces démocratiques (FFD) 193 議席(0.61%)
- 民主協約党 Parti Al Ahd Addimocrati (PAA) 142 議席(0.45%)
以下合計370議席(1.17%) - Parti de l’Environnement et du Développement Durable (PEDD) 79議席
- Parti de l’Unicité et de la Démocratie (PUD) 65議席
- Parti de la Renaissance et de la Vertu (PRV) 54議席
- Parti de la Réforme et du Développement (PRD) 39議席
- Parti du Renouveau et de l’Equité (PRE) 25議席
- Parti de l’Union marocaine pour la Démocratie (UMD) 21議席
- Parti de l’Action (PA) 15議席
- Parti National Démocrate (PDN) 13議席
- Parti de la Liberté et de la Justice Sociale (PLJS) 12議席
- Parti du Centre Social (PCS)11議席
- Parti des Néo-démocrates 10議席
- Parti de l’Espoir (parti Al-Amal) 7議席
- Parti Démocratique et de l’Indépendance (PDI)6議席
- Parti Marocain Libéral (PML), 5議席
- Parti de la Gauche Verte Marocaine (PGVM) 5議席
- Parti d’Annahda, 3議席
⑤2016年議会選挙
- 実施日:2016年10月6日
- 議席数:下院395議席(任期5年)
- 方式:比例代表制・中選挙区制
- 選挙区:
- 全国区=比例代表制:90議席分
- 30議席分=若年候補者割り当て
- 60議席分=女性候補者割り当て
- 92の選挙区:305議席分
- 全国区=比例代表制:90議席分
- 投票率:42.29%
選挙結果(獲得議席数・%)
- 公正発展党Parti de la justice et du développement (PJD) 125議席( 31.64%)
- 正統近代党Parti authenticité et modernité (PAM) 102議席( 25.82%)
- イスティクラール党Parti de l’Istiqlal (PI)46議席( 11.64 %)
- 国民独立連合Rassemblement national des indépendants (RNI) 37議席( 9.36 %)
- 大衆運動Mouvement populaire (MP) 27議席(6.83%)
- 大衆諸勢力社会主義連合Union socialiste des forces populaires (USFP) 20議席( 5.06%)
- 立憲連合Union constitutionnelle (UC) 19議席( 4.81%)
- 進歩社会主義党Parti du progrès et du socialisme (PPS) 12議席( 3.03%)
- 民主社会運動Mouvement démocratique et social (MDS) 3議席( 0.75%)
- 左派民主連盟Fédération de la gauche démocratique (FGD) 2議席( 0.5%)
- 統一民主党Parti de l’unité et de la démocratie (PUD) 1議席( 0.25%)
- 左派緑の党Parti de la gauche verte (PGV) 1議席( 0.25%)
イラク/現在の政治体制・制度
現在のイラクの政治体制は、2005年10月に国民投票で承認された新憲法によると、「共和制、代議制(議会制)、民主制」(第1条)と定義されている。世俗主義を党是としていたバアス党が2003年に倒れた後、宗教政党が大きく躍進したが、イラン型の「法学者の統治」は受け入れられておらず、宗教法学者は最高政治権力者である首相の座にはつかないことが暗黙の了解となっている。
新憲法は、大統領の役割を「国家の長、国家統一のシンボルであり、国家の主権を体現する」(第67条)と定める一方、首相は「国家の政策を遂行する責任者、軍の指揮官」(第78条)であるとしている。首相の選出は大統領の指名によって行われるが、その人選は、与党となる議会の最大政党が行うとされており(第76条第1項)、首相が閣僚を指名した後、議会の絶対過半数の賛成を経て内閣が発足する。従って、大統領は存在するが、制度としては議院内閣制に近い。国民議会は大統領・首相を罷免できるが、大統領・首相に国民議会の解散権はない。議会自体が解散を決定することは可能だが、2003年以降解散したことはなく、毎回4年の任期満了に伴って選挙が実施されている。
移行措置として、憲法制定後の最初の国民議会の任期(2006年からの4年間)に限って、大統領と副大統領2名で構成される「大統領評議会」が設けられ、議会を通過した法案に対する拒否権が付与されるなど大統領に一定の権限が存在した。しかし、これは当初から事前措置であり、現在はこうした権限はなくなっている。大統領は名誉職であるため、仮に法案に反対して署名せずとも、法律としては有効となる。
イラク戦争後に占領統治を行っていたCPA(連合国暫定当局)が設立した統治評議会(2003年7月発足)や暫定政府(2004年6月発足)が民族・宗派別の数合わせによる構成であったことや、2005年の議会選挙結果において、宗派・民族ごとのエスニック政党(特定のエスニック集団を基盤として形成され、かつその特定のエスニック集団からの支持に全面的に依存する政党)の躍進が顕著なものとなったことから、2006年に発足した初の正式政府である第一次マーリキ政権においては、挙国一致内閣との建前のもと、主要政党がほぼすべて与党に入り、議席数に応じてポストを分け合うクオータ・システムに依ることとなった。その後の政権に構成においても、首相はシーア派、国会議長はスンナ派、大統領はクルドから選出され、大臣ポストを分け合うことが慣例的に続いてきた。
2018年5月に行われた国民議会選挙では、一部のシーア派政党からスンナ派政治家が立候補し、スンナ派住民からの票を獲得するなど、宗派横断的な現象も見られた。しかしその背景には、2014~2018年の対IS掃討作戦で中心となったシーア派政党の勢力が増す一方で、分裂傾向が激しいスンナ派政党は特定の選挙区(県)に依存したごく狭い支持基盤でしか集票できなくなっているという現実があり、上記の宗派横断的な現象は、イラク全土を代表する政党が出現したことを意味していない。また、北部のクルド人自治区では、イラク国民議会選挙であっても非クルド政党はほとんど得票できず、クルド政党間の争いとなっている。
参考文献
- イラク憲法 (http://www.parliament.iq/)
- 移行期間のためのイラク国家施政法
イラク/最近の政治変化
イラクの民主化は、2003年3月のイラク戦争による旧フセイン政権の崩壊という劇的な形でもたらされた。しかし、戦後の占領統治を主導した米国が明確な統治プランを持っていなかったことから、戦後統治は迷走を極めた。CPA(連合国暫定当局)は、2003年7月にイラク人の代表組織として、亡命政治家を中心に25名からなる統治評議会を発足させたものの、正統性の確保に失敗し、また反米武装勢力の攻撃も次第に増加していったことから、2003年11月に、従来の政策を変更して占領統治体制終了を前倒しすることを統治評議会と合意した。 この合意に基づき、2004年3月8日に、イラク暫定政府に主権が移譲されてから恒久憲法の公布を経て正式政権の樹立に至るまでの政治プロセスを定めた「移行期間のためのイラク国家施政法」(基本法)が成立した。このスケジュールに従って、2005年に新憲法の起草や国民投票、二度の国民議会選挙が執り行われ、2006年5月の正式政権の発足をもって「民主化」プロセスは終了した。
しかし、こうした一連の民主化プロセスは、イラクに安定的な民主主義をもたらさなかった。理由の一つは、2005年1月 の制憲国民議会選挙の際、スンナ派住民が多い中部では極端に投票率が低かったことで、憲法にスンナ派政治勢力の意見が反映されなかった点にある。その後予定されていた憲法改正も棚上げ状態となり、イラク国家のあり方に対し、国内における合意の形成ができていない。さらに、2003年夏から反米武装闘争が活発化したことに加えて、2005年頃からは宗派間対立も顕著になった。米軍やイラク政府に協力する一般市民・政治家らを狙うスンナ派の武装勢力・過激派と、主として警察組織に浸透したシーア派民兵との間で報復攻撃がじわじわと拡大し、特に2006年以降、内乱状態に陥ったことは、イラク政界における政党・政治家間の協調を極めて難しくしたことが指摘できる。
他方、そうした内乱状況は結果的に勝者を生み出さなかった。過激派と地元の武装勢力間の亀裂、米軍の増派戦略、民兵間の停戦合意などを経て、治安状況は2007年後半から徐々に回復に向かった。イラク政府や議会はしばしば機能不全に陥りながらも完全には崩壊せず、国民議会は4年の任期を満了して2010年3月、さらに2014年4月は再度、国民議会選挙が実施された。しかしながら、2013年初頃から、マーリキ首相の強権統治に反発したスンナ派住民が中部で反政府デモを度々組織するようになり、市民の不満を利用する形で過激な武装勢力が再び力をつけ始め、隣国シリアの内戦の影響もあり、ついに2014年6月にはモスルなど中部の複数の主要都市が陥落するに至った。混乱の中で2014年9月にハイダル・アバーディを首相とする新政権が発足し、イラク政府は隣国イランや米国政府からの軍事支援を得て、その後3年以降をかけてようやくISをイラク国内から掃討した。
この過程で、敗退したイラク軍・警察に変わってシーア派民兵が国内外からの支援を得て軍事的に活躍し、人民動員部隊として半公的な立場を確保するに至った。また、北部クルド地域のクルド兵士ペシュメルガも、欧米からの支援を得てISの駆逐と同時に支配領域を拡張させた他、自警団的なスンナ派組織も形成されている。このように、ISの掃討は実現したものの、半公的な様々な武装集団の間で指揮命令系統が極めて複雑化するという状況が生まれている。
また、2003年以降のイラクが宗派・民族間でポストを分け合うクオータ・システムを採用した背景には、挙国一致という体裁をとることで少数派を決定的に排除することを防ぐという理由があった。しかしながら、野党不在の総与党体制となったことで政権へのチェック機能が働かなくなるという問題が生じている。その最たる問題とみられているのは汚職問題である。イラク戦争から10年以上が経ち、2010年代半ばまで原油価格が高い水準で推移したにもかかわらず、イラク全土の復興ペースが極めて遅く、市民が満足できるレベルの公共サービスが提供されていないことに極めて大きな不満が募っている。クオータ・システムの結果として、政界では、仮に汚職疑惑で大臣が離任しても後任はその大臣ポスト枠を持つ同じ政党から選出されるなど、説明責任の問われていない。加えて、汚職の追及自体が政争化する傾向にある。こうしたことから新たな政治システムが必要だとの認識が広まっている。しかし、選挙の時点で各党はスローガン以上の詳細な政策を戦わせているわけでもなく、一定の政策を軸に政党が形成されているわけでもないことから、機能的な政府のあり方について合意ができているとは言えない状況が続いている。
<イラク戦争後の政治プロセス>
- 2004年3月:基本法制定
- 2004年6月:暫定政府組閣、主権移譲
- 2004年8月:国民大会議開催、諮問評議会議員選出
- 2005年1月:制憲議会選挙
- 2005年5月:移行政府組閣
- 2005年8月:憲法草案を議会承認
- 2005年10月:憲法草案の国民投票
- 2005年12月:国民議会選挙
- 2006年5月:本格政権(第一次マーリキ政権)発足
- 2010年3月:国民議会選挙
- 2010年12月:第二次マーリキ政権発足
- 2014年4月:国民議会選挙
- 2014年9月:アバーディ政権発足
- 2018年5月:国民議会選挙
参考文献
- 移行期間のためのイラク国家施政法
- 中東経済研究所『イラク 中東諸国の政府機構と人脈等に関する調査』2005年3月
- 吉岡明子「イラク-戦後統治体制をめぐる迷路」『中東の新たな秩序』(松尾昌樹・岡野内正・吉川卓郎編著)ミネルヴァ書房、2016年
- 吉岡明子「2018年イラク国民議会選挙分析-低投票率と不正疑惑からみる民主化の課題-」『中東動向分析』日本エネルギー経済研究所中東研究センター、2018年6月
イラク/選挙
イラク戦争後、イラク暫定政府に主権が移譲されてから恒久憲法の公布を経て正式政権の樹立に至るまでの政治プロセスを定めた「移行期間のためのイラク国家施政法」(基本法、2004年3月8日成立)に則り、2005年1月30日と、2005年12月15日に国民議会選挙が行われた。最初の選挙は、憲法起草のための制憲議会選挙であり、2度目は通常の議会選挙となっているため、議会の役割は必ずしも同じではなく、その正式名称も最初の制憲議会がal-Jam’iya al-Wataniya、2度目の通常議会がMajlis al-Nuwwabと区別されている。しかし、2度の議会選挙はその参加政党や国民にとって連続性のあるものと捉えられていると言える。その後、議会任期満了を経て2010年3月、2014年4月、2018年5月に国民議会選挙が実施されている。
<選挙制度:2005年1月>
2005年1月までの選挙実施のために、2004年3月から5月にかけて、国連スタッフがイラク国内で選挙管理委員会や政治家、宗教関係者らと会合を行い、いくつかの選挙制度を提示した。2000万 以上の人口を抱える国で、人口統計も不備な中、半年強の準備期間で国政選挙を行わなければならないことから、選挙制度の選択にあたってはその実現可能性が もっとも考慮され、最終的にイラク選挙管理委員会が全国一区の比例代表制を採用することを決定した。その後、統治評議会の認可を得て、2004年6月のCPA Order第96号「選挙法」に盛り込まれた。議席数は275議 席。選挙に出馬する政党は、「政治団体」として選管に登録されなければならず、個人としての立候補も可能である。登録された政党は、単独あるいは 他政党と連合を組んで候補者リストを選管に提出するが、主要政党はいずれも政党連合を形成した。選挙はクローズド・リスト(拘束名簿式比例代表制)で行われ、有権者は政党にのみ投票する。政党が獲得した票数に応じて議席数が決定され、当選者は各政党が前もって作成した候補者リストの上位から掲載順に当選が決まる。選管への提出後に順位を変更することはできない。なお、憲法によって4分の1以上の女性議員比率を実現することを求められているため(第46条第4条)、リストの掲載順を決定する際、必ず3名ごとに最低1名の女性を含まなければならないとされた。
<選挙制度:2005年12月>
2005年1月の選挙で採用された、全国一区の比例代表制という選挙制度がもたらした問題は、2005年1月の選挙でスンナ派住民が多い中部の投票率が極めて低かった結果、シーア派とクルドの票が人口比以上に議席に反映されたことであった。シーア派宗教勢力を中心とする統一イラク連合(140議席)と、クルドの二大政党が中心となって形成したクルディスタン同盟(75議席)の上位2政党だけで議席の78%を占める結果となった。この問題への対応から、12月の選挙で採用された選挙法では、全国を一区とするのではなく18県をそれぞれ一選挙区して設定することになった。制度としては引き続き、クローズド・リスト(拘束名簿式比例代表制)で実施された。
正確な有権者数が不明であったことから、各県への議席の配分は食糧配給名簿に基づいて行われ、合計230議席が18選挙区に割り当てられた。残る45議席については、補償議席として各選挙区で議席獲得に至らなかった小党に優先的に配分される(さらにその残りは、前回同様全国区比例代表制で各党に配分される)。しかし、実際にこの補償議席の仕組みによって議席を獲得することが可能となった政党は1つで、1議席のみであった。
<選挙制度:2010年3月>
およそ4年ぶりに国民議会選挙を実施するにあたって、選挙法にいくつかの変更がなされた。まず、クローズド・リスト方式(拘束名簿式比例代表制)からオープン・リスト方式(非拘束名簿式比例代表制)となり、有権者は、党とその党に所属する個人の両方に投票できるようになった。オープン・リスト方式は2009年1月 に行われた県議会選挙で初めて実施されたが、その際、比例名簿上位の候補者の落選が相次ぐ結果となった。そのため、多くの政党は国政選挙でのオープン・リスト採用に本音では 否定的だったが、透明性のある選挙を求める世論に押される形で採用が決まった。党が得た得票総数で獲得議席数が決まり、個々の立候補者の得票数に応じて当選者が決まる仕組みである。なお、憲法上4分の1以上の女性議員比率を実現する必要があるため、女性候補は獲得票数が少なくとも優先的に当選することなる。
また、「人口10万人につき1議席」との憲法上の規定に基づき、人口増加を反映して議席が拡大された。正確な人口統計が存在していないため、各県へ増加議席を分配するにあたって国民議会における議論は紛糾を極め、結局議席数は275議席から325議席まで膨らむこととなった。このうち、各県ごとの選挙区に310議席が割り当てられ、キリスト教徒などのマイノリティ枠として5県において計8議席が配分されることになった。補償議席は7議席設けられたが、この議席は各県ごとの選挙区で1議席以上獲得した政党間で、全国の得票数に応じて配分されることになっており、小党救済のための議席という位置付けではなくなっている。
<選挙制度:2014年4月>
引き続きオープン・リスト方式が採用されたが、議席配分方式がヘア式から修正サンラグ方式へと変更された。前年の2013年県議会選挙の際に、従来から使われていたヘア式が大政党に有利との批判から、より小党に有利なサンラグ方式へと変更されていた。しかし、この改正によって議席数減を余儀なくされた主要政党が国民議会選挙の選挙法改正時に巻き返しをはかり、その結果、修正サンラグ方式に変わった。
また、補償議席が撤廃され、かわりに北部3県を含む10県に1議席ずつ議席数が追加された。この背景には、クルディスタン地域の3県が他地域よりも総じて投票率が高いという事実を背景に、クルド政党が北部3県の議席増を求めたことがある。これにより総議席数は328議席となった。マイノリティ枠8議席は維持された。
なお、選挙連合、単独政党、個人など様々な資格で同等に選挙に出馬できる点は前回の選挙と同様だが、今回の選挙の特徴として、シーア派やクルド、スンナ派といった宗派民族ごとの大連合よりも、より細分化した小規模な政党連合ないしは単独政党が出馬する傾向にあり、その結果、議席獲得政党も倍以上に増加した。
<選挙制度:2018年5月>
前回同様、オープン・リスト方式、修正サンラグ方式が採用されたが、選挙法の制定にあたっては、修正サンラグ方式において議席計算に使用される除数の数値(大きいほど大政党有利となる)をめぐって激しい論争が続き、法案交渉が長引く要因となった。結局、2017年8月に成立した法案では、除数は1.7と前回の2014年と同じ数値が維持されることになった。議席数はマイノリティ枠の1議席増加して9議席となり、全体では329議席となった。
なお、今回初めて自動集計システム(有権者が投票用紙にマーキングし、それをスキャナで読み込んで投票箱に入れる)が採用された。毎回、投票結果の集計に数週間を要していたことが理由であり、このシステムの導入で、投票から2日で開票率95~97%の暫定結果、1週間後には開票率100%の選挙結果の発表が可能になった。しかしながら、ハッキングによる選挙不正が行われたのではないかという疑惑が拡大し、判事が選管委員と交代したり、異議申し立てがあった投票箱の手作業による再集計が行われたり、その間にも放火とみられる火事で一部の投票箱が焼失したり、混乱が拡大する要因にもなった。諸々の混乱を経て選挙結果が確定したのは8月19日と、選挙から3ヶ月以上が経ってからだった。なお、再集計による議席変動は1議席にとどまり、組織的な不正やハッキングがあったのかどうかは定かではない。
選挙連合については、前回同様、シーア派、スンナ派、クルドのそれぞれの内部でより細分化する傾向が続いている。さらに新たなトレンドとして、宗派の枠を越えて、アバーディ首相率いるシーア派政党からスンナ派政治家が立候補し、モスルなどのスンナ派住民地域で大きな得票を得るというケースが見られたことが特筆される。これは、2014~2017年の対IS戦においてスンナ派政党が実質的な役割を果たせなかったとい失望の裏返しであると考えられるが、こうしたトレンドは今後も続くのかどうかが注目される。
<選挙結果:2005年1月>
以下は、2005年1月30日に実施された国民議会選挙の結果である。
投票総数は855万571票で、うち有効投票数は845万6266票であった。
政党 | グループ | 獲得議席 | 得票 |
統一イラク連合 | シーア派 | 140 | 4,075,295 |
クルディスタン同盟 | クルド | 75 | 2,175,551 |
イラク・リスト | アラブ世俗派 | 40 | 1,168,943 |
イラク人たち | アラブ世俗派 | 5 | 150,680 |
イラク・トルコマン戦線 | トルコマン | 3 | 69,938 |
独立国民エリート集団 | シーア派 | 3 | 69,938 |
人民連合 | アラブ世俗派 | 2 | 69,920 |
クルド・イスラーム集団 | クルド | 2 | 60,292 |
イスラミック・アマル | シーア派 | 2 | 43,205 |
民主国民同盟 | スンナ派 | 1 | 36,795 |
国民ラーフィダイン・リスト | アッシリア | 1 | 33,255 |
和解解放団体 | スンナ派 | 1 | 30,796 |
<選挙結果:2005年12月>
以下は、2005年12月15日に実施された国民議会選挙の結果である。
投票総数は1239万6631票で、うち有効投票数は1219万1133票であった。
政党 | グループ | 獲得議席 | 得票 |
統一イラク連合 | シーア派 | 128 | 5,021,137 |
クルディスタン同盟 | クルド | 53 | 2,642,172 |
イラク合意戦線 | スンナ派 | 44 | 1,840,216 |
国民イラク・リスト | アラブ世俗派 | 25 | 977,325 |
国民対話イラク戦線 | スンナ派 | 11 | 499,963 |
クルド・イスラーム同盟 | クルド | 5 | 157,688 |
和解解放団体 | スンナ派 | 3 | 129,847 |
リサーリーユーン | シーア派 | 2 | 145,028 |
イラク・トルコマン戦線 | トルコマン | 1 | 87,993 |
ラーフィダイン・リスト | アッシリア | 1 | 47,263 |
イラク国家のためのミサール・アルーシーのリスト | スンナ派 | 1 | 32,245 |
改革・発展のためのヤジーディ運動 | ヤジーディ | 1 | 21,908 |
<選挙結果:2010年3月>
以下は、2010年3月7日に実施された国民議会選挙の結果である。
有効投票数は1162万1998票であった。
政党 | 獲得議席 | 得票 |
イラーキーヤ | 91 | 2,849,803 |
法治国家連合 | 89 | 2,794,038 |
INA(イラク国民連合) | 70 | 2,092,683 |
クルディスタン同盟 | 43 | 1,686,344* |
ゴラン | 8 | 487,181* |
イラク合意 | 6 | 303,057 |
イラク統一連合 | 4 | 314,823* |
KIU(クルディスタン・イスラーム連盟) | 4 | 247,366* |
KIG(クルディスタン・イスラーム集団) | 2 | 153,640* |
マイノリティ枠 | 8 | – |
注:*印については、バグダード県における再集計後の結果が発表されていないため、再集計前の暫定得票数である。
<選挙結果:2014年4月>
以下は、2014年4月30日に実施された国民議会選挙の結果である(3議席以上獲得した政党の一覧)。
有効投票数は1301万3765票であった。
政党 | 獲得議席 |
法治国家連合 | 95 |
サドル派 | 34 |
市民連合 | 31 |
ムッタヒドゥーン | 27 |
KDP | 25 |
PUK | 21 |
ワタニーヤ連合 | 21 |
アラビーヤ連合 | 11 |
ゴラン | 9 |
国民改革潮流 | 6 |
ファディーラ党 | 6 |
イラク連合 | 5 |
市民民主連合 | 4 |
KIU(クルディスタン・イスラーム連盟) | 4 |
KIG(クルディスタン・イスラーム集団) | 3 |
アンバール忠誠連合 | 3 |
その他 | 15 |
マイノリティ枠 | 8 |
合計 | 328 |
注:サドル派はアフラール連合、国民参加集団、エリート潮流の3リストの合計。市民民主連合には、独立民主連合の議席を含む。
注:選挙区によって相乗りしているケースがあるため、各党の全国レベルでの得票数の集計はできなくなっている。
<選挙結果:2018年5月>
以下は、2018年5月12日に実施された国民議会選挙の結果である(4議席以上獲得した政党の一覧)。
有効投票数は1034万3279票であった。
政党 | 獲得議席 |
サーイルーン | 54 |
ファタハ連合 | 48 |
勝利連合 | 42 |
KDP | 25 |
ワタニーヤ | 21 |
ヒクマ潮流 | 19 |
PUK | 18 |
イラクの決定連合 | 14 |
アンバールは我々のアイデンティティ | 6 |
ゴラン | 5 |
新世代 | 4 |
その他 | 24 |
マイノリティ枠 | 9 |
合計 | 329 |
注:選挙区によって相乗りしているケースがあるため、各党の全国レベルでの得票数の集計はできなくなっている。
参考文献
- イラク独立選挙管理委員会ホームページ(http://www.ihec.iq/)
イラク/政党
サーイルーン(54議席)
宗教法学者ムクタダ・サドルが率いる政治潮流サドル派は、これまでにも選挙に参加し、議会や政府の一角を占めてきたが、決して政界の主流派ではなく、野党に近い立場で政権の汚職などを批判してきた。そして、2015年から2016年にかけて市民の抗議デモが広がった際にはその動員力を駆使して大きな存在感を示し、一部の閣僚をテクノクラートと交代させるまでに至った。2018年の選挙でも改革を旗印に掲げたサドル派の政党連合「サーイルーン」を率いて躍進し、2014年の獲得議席である34議席 を大幅に上回る54議席を得た。
だが、2018年のサドル派の得票数を2014年と比較すると、それほど大きく伸びたわけではなく、全国的に投票率が低迷した結果、固い支持基盤を持ち支持者を動員することができたサドル派が相対的に立場を上昇させたと見られる。なお、抵投票率に表れているように、既存政治家に対する市民の不信感はかなり高い。そうした声に敏感なムクタダは、選挙を前にしてこれまでサドル派の主要政党だったアフラール党を解党し、新党「イスティカーマ党」を立ち上げたが、この時に新党に横滑りすることができたアフラール党の現職議員はわずか3名だった。そのうちの一人が、5万5184票を集めて全国8位、女性候補者としてはトップ当選だったマージダ・タミーミ議員である。このように、勝てる候補者を絞り込み、ほとんど新顔を擁立するという戦略があたったと言える。
サーイルーンはイスティカーマ党を中心としつつも、政治改革という理念を共有する共産党など世俗政党も参加している。ただし、サーイルーンが獲得した54議席のうち、51議席がイスティカーマ党の議席である。
ファタハ連合(48議席)
ファタハ連合の母体は、対IS戦において軍事面で活躍した義勇兵組織、人民動員部隊である。シーア派民兵の中でもイランとの関係が深いグループが多い。ファタハ連合には18政党が参加している。政党法では政党が武装組織を持つことは禁じられており、多くが武装組織とは異なる名称の政党名を冠しているが実態は同じと見られている。
ファタハ連合が得た48議席の内訳を見ると、まず、代表のハーディ・アーミリ司令官率いるバドル組織が21議席を占めて強さを見せた。ただし、2014年の選挙においても、バドル組織はマーリキ首相(当時)率いる法治国家連合に参加して22議席を得ていたため、それを比べると1議席減である。次に、AAH(アサーイブ・アフルルハック)の政治組織「サーディクーン」がバグダードと南部で幅広く得票して15議席を得た。2014年の選挙でのサーディクーンの議席が1であったことからすると、大きな躍進である。また、人民動員部隊の報道官だったアフマド・アサディ率いる「イマームの兵士旅団」が「イラクにおけるイスラーム潮流」の政党名で2議席を獲得した。
なお、これまでシーア派主要政党の一つであった「イラク・イスラーム最高評議会(ISCI)」は、党首のアンマール・ハキームが新党「ヒクマ潮流」を形成して離党したことで壊滅的な打撃を受け、今回の選挙ではわずか2議席の獲得にとどまった。ファタハ連合内では、この他、7党がそれぞれ1~2議席を得た。
人民動員部隊は、対IS戦を機に中西部も含めてシーア派住民地域以外にも展開するようになった。2018年の選挙では、彼らが傘下に置く部族ハシュドと呼ばれるスンナ派の自警団的な武装組織が、ファタハ連合の集票に寄与する可能性が注目されていたが、サラーハッディーン県で人民動員部隊の第51旅団を率いるヤズン・ジュブーリなど、主だったスンナ派民兵候補者は落選した。したがって、ファタハ連合の集票は総じて、バドル組織やAAHなどの中心勢力のシーア派コミュニティ内部での動員力に負っていると言える。
勝利連合(42議席)
アバーディ首相はダアワ党所属だが、党首のマーリキとの折り合いが悪く、2018年の選挙にはダアワ党は党として特定の政党連合に所属せず、党員は各々個別の政党連合に所属して出馬することになった。アバーディ首相が率いた政党連合が「勝利連合」である。過去4年間近く、イラク軍を率いて対IS戦の中心人物となってきたことから選挙での勝利が予想されていたが、選挙では投票率が低迷し、市民の支持を得票に繋げられなかった。特に票田であるはずのバグダードや南部において、組織力を持つサーイルーンやファタハ連合に水をあけられたことで伸び悩んだ。加えて、アバーディ首相が所属するダアワ党は前任のマーリキ、ジャァファリと合わせて、2005年以降常に首相を輩出しイラク政界の中心にいたことで、既存のエスタブリッシュメント政治への逆風を受けた。バスラ、マイサーン、ナジャフ、ディーカールの各県の勝利連合立候補者リストのトップはいずれもダアワ党現職議員が占めていたが、4名とも落選した。むしろ当選したのは、ジャッバール・ルアイビ石油相、アドナーン・ズルフィ元ナジャフ県知事、スハーム・アカイリ・マイサーン県議会議員など、非ダアワ党員の方だった。
他方、勝利連合はバグダード、南部9県、ディヤーラ県で合計約84万票を得票する一方、シーア派住民が少ないその他4県(アンバール、サラーハッディーン、キルクーク、ニナワ)でも約29万票を獲得している。この29万票という数字は、他のシーア派主要政党の中では抜きん出て多く、スンナ派の各党や世俗政党連合ワタニーヤも凌いだ。ニナワ県のトップ当選者は勝利連合から立候補したスンナ派のハーリド・オベイディ元国防相であり、サラーハッディーン県でもアンマール・ユースィフ元県議会議長が1万票を集めて当選した。
KDP(クルディスタン民主党、25議席)
クルド民族主義政党で、エルビルやドホークなどを地盤とする。KDPが主導して2017年10月に実施されたクルディスタン地域の独立を問う住民投票が、国内外からの反発を受けて結果的に失敗に終わったことで、マスード・バルザーニは自治政府大統領の職を辞したが、今もKDP党首の座にとどまっている。政界におけるKDPのライバルかつパートナーであるPUKが、2000年代半ばから党内の分裂を食い止められず党勢が衰退していることをうけて、KDPは自治政府の要職を独占するなど、事実上、自治区はKDPの一党支配体制になりつつある。
自治区内では、2010年代半ばから原油価格下落や対IS戦の影響、イラク政府との間の予算配分問題などによって経済状況が極めて悪化しており、独立住民投票の失敗もあって、2018年の選挙では、与党であるKDPは議席を減らす可能性が指摘されていた。しかし、結果は2014年と同じ25議席を維持し、安定的な力を見せた。その背景には、特にドホーク県とエルビル県ではバルザーニ家への支持者の忠誠心や、強固に張り巡らされた党のパトロン・ネットワークの存在があるとみられる。
ワタニーヤ(21議席)
アッラーウィ副大統領率いる世俗政党だが、2018年の選挙ではサリーム・ジュブーリ国会議長率いる「改革のための市民集会」、サーレハ・ムトゥラク元副首相率いる「国民対話戦線」など、複数のスンナ派政党を取り込んで参戦した。それでも、獲得議席数は21議席と2014年と変わらず、ジュブーリ国会議長も落選した。アッラーウィ自身の個人得票数も2014年の23万票から今回は2.8万票へと激減しており、影響力の低下は免れないだろう。
ヒクマ潮流(19議席)
ISCI(イラク・イスラーム最高評議会)党首のアンマール・ハキームが2017年7 月に立ち上げた新党。ハキームは新党を若者、女性のための党で、近代的で、イラク社会の全てに開かれた党だとしている。結成時に30名強のISCI 議員のうち、20 名が新党に移ったとみられている。
ISCI の前身のSCIRI(イラク・イスラーム革命最高評議会)は1982 年にイランで当時の反体制派を集めて、サイイド・ムハンマド・バーキル・ハキームの下で形成された(ムハ ンマド・バーキルは、1970 年に亡くなった大アーヤトッラ、ムフスィン・ハキームの息子)。 その後、分裂してSCIRI は反対派のグループの一つになり、イラク戦争後にイラクに帰国した。バーキル・ハキームは2003 年8 月のテロ事件で死亡し、兄弟のアブドゥル・アジーズ・ハキームが跡を継いだ後、ISCIに改称。2009 年にアブドゥル・アジーズ・ハキームが病死すると、その息子であり創設者の甥であるアンマール・ハキームが党首に就いた。アンマールは古参幹部よりも遥かに若く、さらに若手登用で幹部は不満を持つようになったと言われている。
2018年の総選挙ではISCIの獲得議席が2議席にとどまる一方、ヒクマ潮流は19議席を獲得した。ISCIがその支持の多くをハキーム家の威光に負っていたこと、アンマールがISCI のテレビ局や外郭団体などを連れて出たことなどが影響したとみられる。
PUK(クルディスタン愛国同盟、18議席)
スレイマニヤ県やキルクーク県を地盤とする。党の創設者であり長年党首を務めていたジャラール・タラバーニが2017年10月に死去したが、党内の分裂が激しく新党首を選出できていない。
2018年選挙では、幹部の一人バルハム・サーレハ元自治政府首相が離党し、新党CDJ(民主正義連合)を結成しており、他にもスレイマニヤを中心に新党が立ち上がっていたことや、経済危機に対する市民の不満が既存政党に向かう可能性から、2018年の選挙にあたっては、PUKはかなり議席を減らすことになるのではと憶測されていた。しかし、結果は18議席と3議席減にとどまった。
それに対してキルクーク県のアラブ政党やトルコマン政党、スレイマニヤ県のクルド政党が選挙不正の疑いを申し立て、選挙結果が紛糾する主要因となった。ただし、手作業による一部再集計を経ても、PUKの議席数は変わらなかった。仮に大規模な不正がなかったとするならば、PUKの善戦の理由として、タラバーニ家の威光を前面に押し出した選挙キャンペーン、投票率が低迷する中でのPUK支持者の動員、2006年にPUKから分裂して誕生した野党ゴランの失敗への市民の失望などが考えられる。
イラクの決定連合(14議席)
スンナ派政党は、スンナ派住民が多いバグダードと中部5県を中心に出馬しているものの、いずれも党としての歴史が浅く組織力も弱い。そのため、選挙のために県ごとに様々な政党連合が組まれ、入れ替わりも激しい。2018年選挙ではヌジャイフィ副大統領を代表として「イラクの決定連合」が形成され、政党連合としては14議席を得た。しかし、ヌジャイフィ自身が党首であるムッタヒドゥーンは、2014年の選挙では27議席を得てスンナ派政党の代表格となったものの、2018年は別の政党連合に参加して得た議席を合わせても3議席に過ぎず、大きく失速した。ニナワ県でのヌジャイフィの個人得票数も1万票強で、7万票以上を得たオベイディ元国防相(勝利連合から立候補)に大きく引き離された。
他のスンナ派政党についても、ジャマール・カルブーリ率いるハッル党、ハミース・ハンジャル率いるアラブ計画などが、複数の政党連合に参加して議席を得たが、いずれも一桁に留まっている。
イエメン/現在の政治体制・制度
大統領制をとる共和制。現在の政治体制は、1990年憲法および1994年、2001年の憲法改正によって規定されている。行政権は、大統領と内閣に属する。大統領は直接選挙による公選制で、任期7年、三選禁止。大統領は当選後に、副大統領1名と首相を任命し、大統領と首相の協議により、首相が閣僚を任命する。大統領は議会で可決された法案を発布するが、法案の再審議を求めて議会に差し戻すことができる。差し戻された法案を議会が再度過半数により可決した場合、大統領はその法案を2週間以内に発布する。大統領は議会閉会中に、憲法と予算に反さない限りにおいて、法的効力を持つ大統領令を発することができるが、それは開会された議会に提出され、承認されなければならない。
立法権は議会に属する。議会は定数301名で、すべて小選挙区による選出と憲法に規定されている。また、議会のほかに大統領により議員が任命される諮問評議会がある。これは立法機関ではないが、議会に準ずるものとされ、有識者が大統領および議会に対し必要な提言を行なう。1994年憲法改正により設置され、2001年憲法改正により拡充された。定数は59名から111名に増員され、上記提言とともに、議会との合同会合において大統領選挙候補者の指名や開発計画の承認、条約の批准を行なうこととなった。これにより、大統領選挙候補者の指名に関わる規定は、議会と諮問評議会の合同会合メンバーの5%(21名)以上の推薦と候補者3名以上に変更された。
司法機関は、憲法により「法的、財政的、行政的に自立した機関」とされ、「検察当局は下部機関のひとつ」とされる。司法と検察の成員は、法により規定された条件を除いて解任されず、最高司法会議が裁判官の任命、昇進、解任を執行する。
2000年1月に、イエメン初の地方自治法が公布された。地方自治法は、1994年憲法改正において規定された地方評議会の設置に基づくもので、それは以下のように規定している。州知事およびムディール(州より下位の行政区域ムディーリーヤの長)はそれまで通り中央政府により任命され、それぞれの地方評議会の議長を務める。州評議会の議員は、州を構成する各ムディーリーヤから1名ずつが選出される。ムディーリーヤ評議会の議員は、住民の規模に応じ17~27名が各ムディーリーヤにて選出される(任期はともに4年)。両評議会はそれぞれ、その選出議員の中から事務総長を選出する(事務総長は慣習的に、それぞれ副知事、副ムディールと呼ばれている)。地方評議会に条例などの議決権はなく、その職務は当該行政区域における開発計画等の決定や予算の承認および監査であり、事務総長がそれらに関わる準備や調整を担当する。この地方評議会は行政機関の一部として、地元の民意を地方行政に反映させる、もしくは地方行政を監督するためのものと位置付けられている。 その後、州知事およびサナア市長は地方評議会による間接選挙で選出されることとなり、2008年5月17日に選出が行なわれた。
2011年のサーレハ大統領辞任、2012年のハーディー大統領就任のあと、2013年3月から新憲法制定のための基本方針を決める包括的国民対話会議が始まった。包括的国民対話会議は2014年1月、連邦制導入などの方針を決定して閉幕したが、翌2015年3月以降の内戦により、憲法制定作業はなされていない。
参考文献
- 松本弘「イエメンの民主化」『現代の中東』27号(1999年7月)、pp.27-41。
- ―――「イエメン民主化の10年」『現代の中東』39号(2005年7月)、pp.24-39。
- ―――「イエメン:政党政治の成立と亀裂」間寧編『西・中央アジアにおける亀裂構造と政治体制』JETROアジア経済研究所、2006年、pp.95-158。
- イエメン1994年改正憲法 日本語(松本弘訳、付解説。日本国際問題研究所平成12年度外務省委託研究「中東基礎資料調査―主要中東諸国の憲法―」2001年)
イエメン/最近の政治変化
1990年5月22日、南北イエメンは統合を発表し、イエメン共和国が成立した。統一以前の南イエメンは、中東で唯一マルクス・レーニン主義を標榜する共産主義国家であり、イエメン社会党(YSP)一党独裁下でソ連型の国家体制を続けていた。北イエメンでは政党が禁止されていたが、国民全体会議(GPC)が唯一の公認政治団体として存在し、その大政翼賛的な性格をもって、実質的に単独支配政党の役割を果たしていた。冷戦構造崩壊に伴う北イエメン主導の統一においては、統一が実現する絶対条件としての「対等合併」が強調され、実際にそれを基本とする政治体制が形成された。
統一に際し、アデンで開催された第1回議会(北の議会議員159名と南の最高人民会議議員111名に任命議員31名を加えた301名)は、1981年に南北イエメン統一憲法合同委員会(1977年国境衝突の停戦合意であるクウェート協定に基づき設置)が作成した憲法案を、そのまま統一国家の憲法として承認した。同時に議会および政府は、その第39条に規定されていた「団体結成の自由」を複数政党制の承認と解釈し、その導入を決定した。政府の最高意思決定機関としては、5名からなる最高評議会(GPCから3名、YSPから2名)が設置され、その議長(北のアリー・アブドッラー・サーレハ大統領)が大統領、副議長(南のアリー・サーレム・ベイドYSP書記長)が副大統領とされた。GPC・YSPによる連立内閣の下、首相には南のアッタース最高人民会議幹部会議長(大統領)が就任し、大臣・次官ポストは南北出身者がそれぞれ同数を占め、それはすべての省において南北出身者による組み合わせとなった。
翌1991年5月に憲法は国民投票で承認され、正式に公布された。また、同年には政党・政治団体法(1991年66号法)が施行され、複数政党制に移行した。これによりGPCは正式な政党となったが、同時に保守派や左派(ナセル主義やバアス主義)が分離して新党を結成し、その大政翼賛的な性格を失った。南イエメンにおいても複数の新党が結成され、政党数は一時40を超えた。1992年には選挙法(1992年41号法)が施行され、1993年4月に第1回総選挙(301議席、任期4年)が実施された。選挙結果は、サーレハ大統領を党首とするGPCが122議席で第一党であったが、YSPは56議席で第三党に転落した。代わって第二党となったのは、63議席を獲得したイエメン改革党(イスラーハ)であった。これは、GPCから離脱した保守派の議員が北のハーシド部族連合長アブドッラー・ビン・フサイン・アハマルを党首に迎えて結成したもので、北イエメン北部の部族勢力と南部のウラマー層(ムスリム同胞団系)が合体したイスラーム政党であった。
いずれの政党も過半数に達しなかったため、サーレハ大統領はGPC・YSP・イスラーハによる三党連立内閣を発足させた。最高評議会はGPCとYSPが各2名にイスラーハが1名、閣僚はGPCが15名、YSPが9名、イスラーハが6名となり、首相はYSPのアッタースが留任し、議会の議長にはイスラーハ党首のアハマルが選出された。これは統一間もない政治状況のなかで、挙国一致態勢を確立しようとしたものであったが、それは逆に「政治危機」と呼ばれる事態を招く結果に陥った。YSPは、党中央委員会で社会主義放棄を決定したものの、党内の不一致から党大会を開催できず、その左派的傾向を強く残していた。それゆえ、保守的なイスラーハとはもともと水と油の関係であったが、連立政権でともに政策に関わるようになると、一気にその対立関係が表面化した。北イエメンでは、ハーシドおよびバキールと呼ばれる2つの部族連合を中心とする北部の部族勢力に対し、サーレハ政権が長く優遇・懐柔政策を続けていた。部族勢力はその民兵力を背景に大きな政治的影響力を有しており、政権の維持には彼らの暗黙の了解が不可欠とされている。YSPがこの部族勢力優遇に反対して急進的な政治改革を求め、それにイスラーハが強く反発したことが、対立の主たる要因であるといわれる。この対立は、イスラーハ支持者によるYSP幹部への襲撃事件を続発させ、1993年8月にベイド副大統領が職務放棄してアデンに引きこもったことから、「政治危機」に発展した。
「政治危機」に対しては様々な和解や仲介が試みられたが、その最中にも各地に駐屯する旧南北の軍部隊間で武力衝突が頻発し、結局彼らは翌1994年5月に内戦に突入してしまう。アッタース首相らのYSP最高幹部はアデンのベイド副大統領に合流し、南イエメンの分離・独立(イエメン民主共和国)を宣言した。しかし、YSP議員の大半はサナアに残り、南イエメンでもアビヤンやハドラマウトなどの各地方が、彼らに同調しなかった。サーレハ政権は優勢を保ちつつ戦局を進め、7月にベイドらが国外に逃亡して、内戦は2ヶ月で統一維持派の勝利に終わった。内戦に際し、YSPは連立政権からはずれ、党本部を含む資産を凍結されたが、その政党活動やサナアに残留した議員53名の身分および政治活動は維持された。
内戦終結後の1994年9月、議会は憲法を改正し、翌10月にサーレハを大統領に選出した。改正憲法では最高評議会が廃止され、大統領制の導入およびその権限強化(副大統領は大統領の任命など)、大統領公選制の導入がなされるとともに、シャリーアを法源とする規定や諮問評議会の導入、地方評議会・地方選挙の導入(後述)などが新たに盛り込まれた。ただし、この時の議会による憲法改正および大統領選出は、内戦後の非常事態による例外的措置とされ、議会による承認のみで国民投票は行われなかった。サーレハ大統領は、南イエメン出身のアブドッラッボ・マンスール・ハーディー(1986年アデン内戦で敗退し、北イエメンに亡命後GPCに参加)を副大統領に指名し、GPCとイスラーハによる二党連立内閣を成立させた。
内戦により国民経済が破綻寸前の危機に陥ったイエメンは、1994年からIMF・世銀と構造調整受け入れのための協議を開始し、翌1995年から構造調整による大規模な融資および政治経済改革が始まった。これにより国家再建が進んだが、民営化や都市部での起業にかかわる利権では、サーレハ支持層である退役軍人や部族長などが優遇され、サーレハの権力基盤が強化された。
1997年4月、任期満了に伴なう第2回総選挙が実施され、301議席中GPCが過半数の187議席(65議席増)を獲得し、初めて単独政権を樹立した。イスラーハは10議席減の53議席にとどまり、YSPは党資産凍結の継続などに抗議して選挙をボイコットし、無所属で4候補が当選した。その他の無所属は51議席、諸派(2党)は5議席。
1999年9月、イエメンで初めての大統領直接選挙が実施された。大統領選挙候補者は議会議員の10%(31名)以上の推薦を必要とし、議会は2名以上の候補者を指名しなければならない規定であったが、最大野党のイスラーハは候補者を出さない決定を行ない、YSPと他の野党は「政府・GPCより議員に対し、YSPから大統領候補を出さないよう圧力があった」として、選挙のボイコットを表明した。結局、GPC議員が推薦して指名された現職のサーレハ大統領と、無所属議員が推薦して指名されたナジーブ・カハターン・シャアビー(1967年南イエメン独立時に初代大統領となり、1969年に失脚したカハターン・シャアビーの息子)の候補者2名による選挙となった。しかし、南イエメン出身とはいえ、支持基盤を持たないシャアビー候補者には支持が集まらず、選挙自体は完全な「無風」と化して、サーレハ大統領が有効投票数の96.3%を獲得して再選された。1994年10月の議会によるサーレハ大統領の指名は内戦後の例外措置とされたため、サーレハ大統領の任期はこれが正式な大統領選挙を経た1期目とされた。
翌2000年1月に地方自治法が公布された。地方自治法は、94年改正憲法において規定された地方評議会の設置に基づくもので、それは以下のように規定している。州知事およびムディール(州より下位の行政区域ムディーリーヤの長)はそれまで通り中央政府により任命され、それぞれの地方評議会の議長を務める。州評議会の議員は、州を構成する各ムディーリーヤから1名ずつが選出される。ムディーリーヤ評議会の議員は、住民の規模に応じ17~27名が各ムディーリーヤにて選出される(任期はともに4年)。両評議会はそれぞれ、その選出議員の中から事務総長を選出する。
また同年8月には、大統領より議会に対し憲法改正が提案された。議会はその審議を続け、同年11月に憲法改正案を賛成多数で可決した。その内容は、大統領および議会議員任期の2年延長(それぞれ5年から7年、4年から6年)、大統領の議会解散権強化、諮問評議会の拡充、自由主義経済体制の明記などであった。諮問評議会は立法機関ではないが、議会に準ずるものとされる。これは、1994年改正憲法でその設置が規定されたもので、有識者が大統領および議会に対し必要な提言を行なう機関とされた(憲法改正後にそのメンバー59名が大統領より任命)。改正案ではそのメンバー数(111名に増加)および職務が拡充され、各種の提言とともに、議会との合同会合において大統領選挙候補者の指名や開発計画の承認、条約の批准を行なうこととなった。改正案において、大統領選挙候補者の指名に関わる規定は、議会と諮問評議会の合同会合メンバーの5%(21名)以上の推薦と候補者3名以上に変更された(大統領選挙において過半数を獲得した候補者がいない場合は、上位2名による決選投票を行なう規定には変更なし)。
2001年2月、憲法改正案に関わる国民投票とイエメン初の地方選挙が同時に実施された。憲法改正に関する国民投票では、賛成が77.42%(201万8527票)であった。国民投票での憲法改正案承認を受け、サーレハ大統領は同年4月に諮問評議会メンバーを任命している。地方評議会選挙では、州評議会(19州と首都特別区の20評議会、全401議席)選挙でGPCが277議席を獲得(得票率69%)、ムディーリーヤ評議会(全6213議席)選挙でもGPCが3771議席を獲得(60%)して勝利した。イスラーハは州評議会で78議席(19%)、ムディーリーヤ評議会で1433議席(23%)、YSPが州評議会で16議席(4%)、ムディーリーヤ評議会で218議席(4%)となっている。これら3党以外の州評議会議員はすべて無所属で30議席(7%)、ムディーリーヤ評議会議員は諸派6党で42議席(1%)、無所属で749議席(12%)であった。
2001年憲法改正により議会の任期が2年延長となったことから、第3回総選挙は2003年4月に実施された。GPCは全301議席中229議席を獲得して圧勝し、以下イスラーハの46議席、YSPの7議席、諸派(2党)の5議席、無所属14議席と続いた。政権与党GPCの42議席増に対し、最大野党イスラーハは7議席減となり、またYSPの巻き返しもならなかったことから、サーレハ大統領率いるGPCの安定政権がより固定化された結果となった。また、このときイスラーハ党首のアハマルはGPCからも公認を受け、イスラーハとGPCに両属する議員として当選し、引き続き議長に選出された。
2005年7月、翌年の大統領選挙への出馬と当選が確実視されていたサーレハ大統領は、突然選挙への不出馬を表明した。統一前の北イエメンで1978年に大統領に就任して以降、統一後を合わせてこの時点で27年間も大統領職にあることから、後進に道を譲りたいとの理由であった。しかし、その後GPCはサーレハ以外の大統領候補を擁立せず、2006年6月24日以降にサナアや地方都市でサーレハ出馬を求めるデモが続いた。このデモを受け、サーレハは7月5日に大統領候補への登録を行なった。
2006年9月20日、第2回大統領選挙と第2回地方評議会選挙が同時に実施された。大統領選挙では、議会と諮問評議会の合同会議において5名の候補者が指名された。現職のサーレハ候補の独走と見られたが、著名な実業家であるファイサル・ビン・シャムラーン候補(野党のイスラーハ、YSP、ナセル統一、ハック党、イエメン人民勢力同盟の推薦)が集会などで予想外の動員力を発揮し、選挙戦は両者の一騎打ちとなった。しかし、結果はサーレハ候補が有効投票の77.17%を獲得して2期目の大統領に就任し、シャムラーン候補の得票は21.82%にとどまった。
地方評議会選挙では、州評議会(20州と首都特別区の21評議会、全431議席)選挙でGPCが315議席を獲得(得票率74.12%)、ムディーリーヤ評議会(333評議会、全6869議席)選挙でもGPCが5078議席を獲得(73.75%)して大勝した。他の政党は、イスラーハが州評議会で28議席(6.59%)、ムディーリーヤ評議会で794議席(11.50%)、YSPが州評議会で10議席(2.35%)、ムディーリーヤ評議会で171議席(2.48%)、無所属が州評議会で20議席(4.71%)、ムディーリーヤ評議会で571議席(8.27%)となっている(そのほかは諸派)。
それまで大統領による任命であった州知事および首都サナア市長が、地方評議会からの間接選挙によって選出されることとなり、2007年5月17日にその選挙が実施された。州知事20人およびサナア市長の計21人のうち、18人が与党GPCによって占められ、3州(マーリブ、ベイダー、ジョウフ)の知事が無所属であった。当選者は、現職の知事のみならず、現職の副知事や中央政府の現職や元職の閣僚、次官、与党幹部、元大使、元軍幹部などであった。州知事の直接選挙を要求していた諸野党は、選挙のボイコットを宣言したが、投票に参加した野党の地方評議会議員もいた。
2007年、議会議長・イスラーハ党首・ハーシド部族連合長のアブッドラー・アハマルが死去し、長男のサーディク・アハマルがハーシド部族連合を継いだ。イスラーハ党首には、ムスリム同胞団のムハンマド・ビン・アブドッラー・ヤドゥーミーが就任し、議会議長は翌2008年に、GPCのヤヒヤー・アリー・ラーイが選出された。
2009年4月、議会は同年に予定されていた第4回総選挙の2年間延期を可決した。延期の理由は、比例代表制の導入を含む一連の議会・選挙制度改革のためであった。しかし、選挙人登録に多数の不正が発覚したための延期であるとの報道や、ホーシー派(2004年以降、サアダ州で政府軍と武力衝突。イラン革命防衛隊の支援を受ける)、南部運動(通称ヒラーク。2007年以降、旧南イエメンの平和的な再分離独立を求める諸組織の総称)、イスラーム過激派の活動、ソマリア沖海賊への対処など、問題山積の状況がこの総選挙延期に影響しているとの観測もある。
2011年4月に 予定される第4回総選挙のあと、議会において大統領任期と議会議員任期を2年間短縮して元の5年と4年に戻す、選挙制度に比例代表制を導入するなどの憲法改正を行なう予定であったが、2010年12月に与党GPCより、これに大統領の三選禁止規定廃止を加える新たな憲法改正案が提示された。野党は強く反発し、これに反対するデモを呼びかけたが、参加者が集まらず不発に終わった。
しかし、2011年1月、チュニジアの政変に触発されたサーレハ退陣を求める大規模なデモが発生した。サナアでの反政府デモは長期化、常態化し、同様なデモは国内各都市にも波及した。5月以降、部族勢力やイスラーム過激派(アラビア半島のアルカーイダAQAP)と政府軍との戦闘も続き、事態の混迷に拍車をかけた。ホーシー派は、サアダ州に加えて隣接するハッジャ州、ジョウフ州を掌握し、南部では新たなイスラーム過激派であるアンサール・シャリーアが、内陸部で勢力圏を確保して実質的な自治を始めた。サーレハ政権はサウジアラビアに仲介を依頼し、サウジアラビアはGCC外相会議においてこの問題を協議して、GCCイニシアチブ(アブドッラッボ・マンスール・ハーディー副大統領への権限移譲、挙国一致内閣、サーレハ大統領への訴追免除など)を提示した。11月23日、サーレハ大統領はこの調停案に署名し、ハーディー副大統領に権限を委譲。12月7日には、野党勢力のムハンマド・バーシンドアを首相とする挙国一致内閣が成立した。2012年1月21日、議会はGCCイニシアチブに沿ってサーレハ訴追免除のための法案を可決し、ハーディー副大統領を大統領選挙の単独候補に指名した。2月21日に実施された大統領選挙で、ハーディーが当選した(信任投票)。大統領選挙後の2年間を移行期間として、その間に憲法改正、議会選挙、大統領選挙が行われる予定となった。2012年4月、ハーディー政権はサーレハの長男アハマド・サーレハ(精鋭の共和国防衛隊司令官)や異父弟アリー・ムフシン(精鋭の第一機甲旅団長。2004年からホーシー派との戦闘を指揮。2011年にサーレハ辞任を求めるデモに合流)を含む、サーレハ親族の軍高官を更迭した。
しかし、憲法改正などに関わる方針を各政治勢力の代表によって協議する機関とされた包括的国民対話会議の設置が大幅に遅れ、2013年3月にようやく設置された。2014年1月、包括的国民対話会議は連邦制導入などを骨子とする合意文書を発表し、移行期間を1年延長して憲法制定と議会選挙、大統領選挙を1年以内に実施することとした。
2014年2月、ホーシー派がサアダ州からサナア北方のアムラーン州に進出し、7月には州都アムラーンを占拠した。8月、ホーシー派はサナア近郊に達し、9月に生活基礎物資値上げに抗議するデモに合流してサナア市内に進出した。その後、政府軍と衝突して一部の政府機関などを占拠した。 9月21日、政府とホーシー派は停戦に合意し、バーシンドア首相が辞任した。ハーディー大統領は10月7日にアフマド・アウド・ビン・ムバーラク大統領府長官を首相に任命したが、ホーシー派とGPCがこれを拒否した(本人も辞退)。10月13日、ハーディー大統領はハーリド・マフフーズ・バッハーフ国連大使(元石油相・首相。2011年にGPCを離脱して無所属)を首相に任命した(ホーシー派は拒否せず)。 ホーシー派のサナア占拠に際し、サーディク・ハーシド部族連合長やアリー・ムフシンはサウジアラビアに逃亡した。
ホーシー派は、ハーディー大統領に対し憲法案作成や選挙準備、経済政策の実施などを要求したが、政府の対応は遅々として進まなかった。2015年1月、ホーシー派はハーディーを軟禁し、翌2月には「革命委員会」を組織して2年間の暫定統治を開始した。3月、ハーディーはサナアを脱出してアデンに向かい、自らの政権の正当性を主張した。その直後、サナアのモスクでAQAPによる大規模な爆弾テロが発生し、幹部を含む多数のホーシー派メンバーが死亡した。これを契機として、ホーシー派はサナアより南方に本格的な侵攻を開始した。3月、サウジアラビアのサルマーン新国王(2015年1月23日のアブドッラー国王死去により即位)はアラブ有志連合(サウジアラビア、クウェート、UAE、カタル、バハレーン、エジプト、スーダン、ヨルダン、モロッコ、パキスタンが参加)を組織し、ホーシー派への空爆を開始した。ホーシー派は4月にはアデン近郊に達し、アデンを巡る攻防戦が続いた。5月、サウジアラビアとUAEがアデンとマーリブ州に地上軍を派遣し、ホーシー派はサウジアラビアへの弾道ミサイルによる攻撃を始めた。一方、イスラーム過激派では、2014年にアンサール・シャリーアからイスラーム国が分派した。AQAPとイスラーム国は、南イエメンの内陸部や東部で勢力圏を拡大するとともに、ホーシー派とアデンのハーディー政権の双方に攻撃を仕掛けている。
2016年4月、アリー・ムフシンがハーディー政権の副大統領に就任し、首相もアハマド・オベイド・ビン・ダガル副首相(GPC、元通信相)に交代した。5月、UAEと米が支援する南部諸勢力(南部運動を背景とする複数の政治団体、武装勢力)が、ハドラマウト州の州都ムカッラをAPAQから奪還した。7月、サナアのホーシー派とサーレハ支持派は、革命委員会に代わる統治組織として「最高政治評議会」を設けた。
2017年1月、UAEが支援する南部諸勢力は紅海沿岸部に進出し、3月にはモカを掌握した。5月、南部諸勢力の中心的な組織である南部移行評議会STC(UAEが支援する武装組織)がアデンを掌握した(正副大統領は従前からサウジに在住)。12月、サーレハはGPC総会でサウジアラビアとの和平に言及し、サウジアラビアもこの発言を歓迎する意向を示したが、その2日後にホーシー派はサーレハを殺害した。サウジに在住していた長男アハマドは復讐を表明したが、イエメン国内に特段の動きはなかった。
2018年1月、ハーディー政権が南部諸勢力による旧南イエメン分離独立のための集会を阻止しようとしたことから、ハーディー政権とセキュリティ・ベルト(略称ヒザーム、UAEが支援する武装組織、リーダーは上記STCの副代表を兼ねる)との武力衝突が発生。5月、紅海沿岸部を進撃していた南部諸勢力はホデイダ近郊に達し、イエメン最大の港湾都市ホデイダへの攻撃を開始した(一方、UAEはソコトラ島に地上軍を上陸させ占領)。しかし、ホデイダは陥落せず、戦線は膠着した。12月、国連の仲介によりホーシー派とハーディー政権は和平協議を行ない、ホデイダ州全域での停戦に合意した(ホデイダからの両派部隊の撤退はなされていない)。
2019年5月12日、UAEフジャイラ港沖合でサウジアラビアのタンカーが攻撃を受け、6月13日にはオマーン湾で日本とノルウェーのタンカーが攻撃を受ける(米英はイランによる攻撃と主張)。7月、UAEはイエメンに派遣していた地上軍(5000人規模)の撤退を開始。8月、ホーシー派との戦闘で死亡したヒザームの指揮官の葬儀をきっかけに、7日からハーディー政権とSTC、ヒザームとの武力衝突が生じ、STCとヒザームは大統領宮殿やアデン市内の主要政府施設を占拠(その後、撤退)。同月13日、テヘランでイラン最高指導者ハーネメイー師がホーシー派広報のムハンマド・アブドッサラームと会談。同月17日、ホーシー派はサウジアラビアのシャイバ油田を無人機10機で攻撃したと声明。9月14日、サウジアラビアのアブーカイク油田とクライス油田が巡航ミサイルと無人機により攻撃される(ホーシー派が攻撃声明を出したが、米などはイランによる攻撃と主張)。同月、ホーシー派はサウジアラビアのナジュラン方面に侵攻し、武器と捕虜を獲得と声明。10月11日には、サウジアラビアのジェッダ沖でイランのタンカーが攻撃された。
2019年11月5日、サウジアラビアの仲介により、リヤドでハーディー政権とSTCが和解した。両者は「権力分担協定」に署名し、ハーディー政権はSTCに複数の閣僚ポストを与え、STCの兵力(数万人規模)はハーディー政権の指揮下に入ることとなった。しかし、2020年4月26日、STCはアデン市と旧南イエメン各州の自治を宣言し、これを拒否するハーディー政権およびサウジアラビアとの対立関係が再燃した。ただし、実際に自治が行われているのは、アデン州とラヘジ州のみである模様。7月1日には、ハーディー政権またはSTCの勢力圏内にあるタイズ市で、サウジアラビアとUAEを非難するデモが生じた。12月18日、ハーディー政権とSTCは再び和解し、両者による連立内閣を発足させた。12月30日、新首相らを乗せた飛行機がアデン空港に着陸した直後、空港に攻撃があり、死傷者を出した(首相ら、政府関係者は無事)。
2020年1月10日、米ポンペオ国務長官は、ホーシー派をテロ祖域に指定したが、その後に発足したバイデン政権により取り消された(ホーシー派要人への経済制裁は続行)。バイデン政権は2月4日、アラブ有志連合への軍事支援を停止すると発表するなど、トランプ政権の中東政策を転換する意向を示した。一方、ホーシー派は2月以降、サウジアラビア南部の軍事施設や東部の石油関連施設、首都リヤドに対するミサイルや無人機による攻撃を頻繁に繰り返し、3月9日には、サウジアラビアがイエメンの首都サナアに対する大規模な空爆を行なった。22日、サウジアラビア政府はホーシー派に対し、国連監視下での全土での戦闘停止やハーディー政権との和平協議などの停戦案を示した。しかし、ホーシー派は「サウジアラビアがイエメンへの攻撃を停止することが前提」と停戦案を拒否し、26日には無人機を用いたサウジ領への越境攻撃を行なった。
2019年に自国の地上軍部隊をイエメンから撤退させたUAEは、自国に亡命したイエメン人に軍事訓練を施して民兵部隊を編成し、2021年12月にイエメンに派兵した。この民兵部隊はサウジアラビアと国境を接するマーリブ州、シャブワ州などで、一定の戦果を挙げた。これに対し、ホーシー派は2022年1月、3度にわたりアブダビの石油施設や米空軍が使用する空軍基地などに、無人機や弾道ミサイルによる攻撃をおこなった。このホーシー派の攻撃にアラブ有志連合は報復の空爆をサナアに行ない、2月には無人機を管制する衛星通信施設を爆破したと発表した。
参考文献
- 松本弘「イエメンの民主化」『現代の中東』27号(1999年7月)、pp.27-41。
- ―――「イエメン民主化の10年」『現代の中東』39号(2005年7月)、pp.24-39。
- ―――「イエメン:政党政治の成立と亀裂」、間寧編『西・中央アジアにおける亀裂構造と政治体制』JETROアジア経済研究所、2006年、pp.95-158。
- ―――「民主化と構造調整―イエメンの事例から―」『中東研究』500号(2008年6月)、pp.206-211。
- ―――「イエメン―政変とイスラーム主義―」『中東研究』512号(2011年9月)、pp.17-28。
- ―――「イエメンの混迷―その背景と特質―」『国際問題』605号(2011年10月)、pp.38-47。
- ―――「イエメンの民主化と部族社会―変化の中の伝統―」、酒井啓子編『中東政治学』有斐閣、2012年、pp.67-80。
- ―――「イエメン・ホーシー派の展開」、酒井啓子編『途上国における軍・政治権力・市民社会―21世紀の「新しい」政軍関係―』晃洋書房、2016年、pp.112-129。
- ―――「イエメンにおける政治と部族」『中東研究』526号(2016年5月)、pp.33-43。
- ―――「イエメン内戦の背景と特質」『海外事情』64巻9号(2016年9月)、pp.18-29。
- ―――「イエメンの内戦と宗派」、酒井啓子編『現代中東の宗派問題―政治対立の「宗派化」と「新冷戦」』晃洋書房、2019年、pp.205-226。
- 「特集 イエメン―忘れられた『アラブの春』の落とし子―」『アジ研ワールド・トレンド』248号(2016年5月)、pp.2-38。
- ―――「イエメン内戦における国家観の不在―ホーシー派支持者の意識と傾向―」、末近浩太・遠藤貢編『紛争が変える国家(グローバル関係学4)』岩波書店、2020年、pp.44-63。
- ―――「イエメン内戦―その要因と展開―」、近藤洋平編『アラビア半島の歴史・文化・社会』東京大学中東地域研究センター、2021年、pp.175-194。
イエメン/選挙
憲法は、議会定数の301すべてを小選挙区により選出すると規定している。1992年に施行された選挙法(92年第41号法)では、選挙権(国籍を有し国内に居住する18歳以上の男女)、被選挙権(同25歳以上)、選挙人登録制、小選挙区単純多数制(比較第1位の候補者の得票が有効投票数の過半数に達しなくとも、そのまま当選。その場合の上位2名による第2回投票はない)、選挙区設置(301小選挙区、人口格差5%以内、選挙区は複数の州にまたがらない)、選挙の運営・管理を行う最高選挙委員会(政府および各政党の代表者を委員とする)の設置及びその職務が規定されている。
1993年4月に実施された第1回総選挙においては、当時の総人口1429万7500人をもとに1選挙区の人口が4万7500人±5%、州別の平均選挙区人口格差が同じく±5%と設定され、全国に301小選挙区(旧北245、旧南56)が設置された。総有権者数は629万900人で、選挙登録した選挙人総数は269万1064人(全有権者の42.8%、うち女性50万1591人)、投票率は登録選挙人の84.5%(全有権者の約36%)。以後の総選挙もこれと同様に実施され、選挙区は人口の変化に応じて選挙ごとに調整されている。議員の任期は当初4年であったが、2001年憲法改正で6年となった。
大統領は直接選挙による公選制で、任期7年、三選禁止。大統領選挙候補者(国籍を有し40歳以上で配偶者が外国人でない者)は、議会(301名)と諮問評議会(111名)の合同会議において定員の5%(21名)以上の推薦を受けなければならず、合同会議は3名以上の候補者を指名しなければならない(候補者が合同会議のメンバーである必要はない)。大統領選挙において、過半数の得票を得た候補者がいない場合は、上位2名による決選投票となる。
選挙自体は種々の問題をはらみながらも、一般に自由との評価を受けている。しかし、選挙結果比較第1位の候補者がそのまま当選するため、大政党に有利で死票が多い選挙制度となっている。また、選挙のたびに一部の投票所で投票妨害のための暴力事件や混乱が起き、再投票や欠員が生じる事態となる。
2009年4月に予定されていた第4回総選挙は、比例代表制導入を含む議会・選挙制度改革を理由として、2009年4月に議会により2年間延長された。これにより、次回総選挙は2011年4月27日に予定されていた。しかし、2011年1月に始まった大規模な反政府デモにより、この総選挙は実施されず、サーレハ大統領辞任後の2012年2月に大統領選挙(ハーディー大統領信任)が実施された。2013年3月から、新憲法制定のための基本方針を決める包括的国民対話会議が始まった。包括的国民対話会議は2014年1月、連邦制導入などの方針を決定して閉幕した。しかし、翌2015年1月のホーシー派による「革命委員会」設置および3月以降の内戦により、その後はいかなる選挙も行われていない。
(1) 総選挙
政党・無所属の獲得議席(議席定数301)
政党 | 1993年 | 1997年 | 2003年*1 |
GPC | 122 | 187 | 229 |
イスラーハ | 63 | 53 | 46 |
YSP | 56 | 0 | 7 |
バアス党 | 7 | 2 | 2 |
ハック党 | 2 | 0 | 0 |
ナセル統一 | 1 | 3 | 3 |
ナセル民主 | 1 | 0 | 0 |
ナセル矯正 | 1 | 0 | 0 |
無所属 | 48 | 54 | 14 |
計 | 301 | 299*2 | 301 |
- 2003年総選挙においてGPCとイスラーハの双方から公認を受け、当選したアハマル議会議長(イスラーハ党首)については、イスラーハの議席に加算した。
- 1997年総選挙では、投票の際の混乱により2つの選挙区で当選者を確定できず、2名の欠員となった。
女性当選者
- 1993年: 2名(YSP)
- 1997年: 0名
- 2003年: 1名(GPC)
1993年総選挙の得票・得票率
政党 | 獲得議席 | 得票数 | 得票率 |
GPC | 122 | 640,523 | 28.69% |
イスラーハ | 63 | 383,545 | 17.18% |
YSP | 56 | 413,984 | 18.54% |
諸派19政党 | 12 | 142,007 | 6.36% |
無所属 | 48 | 600,620 | 27.25% |
- 有権者総数:629万0900人
- 登録選挙人総数:269万1064人
- 投票総数:227万1185票
- 有効投票総数:223万2573票
1997年総選挙の得票・得票率
政党 | 獲得議席 | 得票数 | 得票率 |
GPC | 187 | 1,175,243 | 42.94% |
イスラーハ | 53 | 237,727 | 8.69% |
YSP(ボイコット) | – | – | – |
諸派10政党 | 5 | 108,254 | 3.96% |
無所属 | 54 | 845,626 | 31,11% |
- 登録選挙人総数: 454万6306人
- 投票総数: 282万7369票
- 有効投票総数: 272万6961票
2003年総選挙の得票・得票率
政党 | 獲得議席 | 得票数 | 得票率 |
GPC | 229 | 3,465,117 | 57.59% |
イスラーハ | 46 | 1,349,485 | 22.51% |
YSP | 7 | 291,541 | 4.86% |
諸派19政党 | 5 | 269,291 | 4.49% |
無所属 | 14 | 620,615 | 10.35% |
- GPCとイスラーハの双方から公認を受け、当選したアハマル議会議長(イスラーハ党首)については、イスラーハの得票に加算した。
- 登録選挙人総数: 809万7514人
- 投票総数:620万1254票
- 有効投票総数: 599万6049票
(2) 大統領選挙
1999年
候補者 | 得票数 | 得票率 |
アリー・アブドッラー・サーレハ | 3,583,795 | 96.20% |
ナジーブ・カタハーン・シャアビー | 141,433 | 3.80% |
- サーレハは現職でGPC公認。
- シャアビーはYSP所属の議会議員だが、大統領選は無所属。
- 選挙人登録総数: 560万0119人
- 有効投票総数: 377万2941票
2006年
候補者 | 得票数 | 得票率 |
アリー・アブドッラー・サーレハ | 4,149,673 | 77.17% |
ファイサル・ビン・シャムラーン | 1,173,025 | 21.82% |
ファトヒー・アザブ | 24,524 | 0.46% |
ヤアシーン・アブドゥ・サイード | 21,642 | 0.40% |
アフマド・マジュディー | 8,324 | 0.15% |
- サーレハは現職でGPC公認。
- シャムラーン(実業家)は、5野党(イスラーハ、YSP、ナセル統一、ハック党、イエメン人民勢力同盟)による「政党合同会議」の推薦。
- サイードは、そのほかの野党による「野党国民会議」の推薦。
- アザブおよびマジュディーは無所属。
- 投票総数: 602万5818票
- 有効投票総数: 537万7238票
2012年2月21日
アブドッラッボ・マンスール・ハーディー 信任票 662万1921票(信任99.80%)
選挙人登録総数 1024万3364人(人口2405万)
有効投票総数 663万5192票(投票率64.78%)
・2011年政変におけるGCCイニシアチブの規定に基づく大統領選挙。このイニシアチブには、ハーディー副大統領を唯一の大統領選挙候補とする旨記されており、かつイニシアチブの内容はイエメンの憲法および法律の代替をなし、イニシアチブに対する異議申し立てはできないと記されている。
参考文献
- 松本弘「イエメンの民主化」『現代の中東』27号(1999年7月)、pp.27-41。
- ―――「イエメン民主化の10年」『現代の中東』39号(2005年7月)、pp.24-39。
- ―――「イエメン:政党政治の成立と亀裂」間寧編『西・中央アジアにおける亀裂構造と政治体制』JETROアジア経済研究所、2006年、pp.95-158。
イエメン/政党
1990年南北イエメン統一において、1981年に南北イエメン統一憲法合同委員会(77年南北国境衝突の停戦協定であるクウェート協定に基づき設立)が作成した統一憲法案が、そのままイエメン共和国の憲法案に採用された。イエメン共和国議会はこの憲法案を承認し、さらに同憲法第39条に規定された「政治団体の自由」を複数政党制の承認と解釈して、その導入を決定した。これにより政府は、統一と同時に複数政党制による総選挙実施を公約として発表した。議会で承認された憲法案は、翌91年5月に国民投票で承認されて正式に発布・施行され、同じ年に政党・政治団体法(91年第66号法)も公布された。
政党・政治団体法では、政党・政治団体の結成の自由が明記されているが、それはイスラーム、イエメンの統一、旧南北イエメン革命および統一憲法の理念、政治的自由及び人権の尊重、アラブ民族の精神に合致するものとされている。また、特定の地域、言語、宗教などを基盤としてはならないとも規定されている。このほか、政党の結成手続きやその役員構成・会計などが規定され、政党・政治団体の認可・解散等を決定する政党・政治団体委員会(議会担当相を委員長とし、内務相、司法相などを委員とする)の設置およびその職務も規定されている。
法律上、政党の非認可および政党への解散命令は可能だが、現在までそのような例はない。たとえば、「イスラームに合致するもの」という規定と左派政党との関係、「特定の宗教を基盤としてはならない」という規定とイスラーム政党との関係、「特定の地域を基盤としてはならない」という規定と北部山岳地域を基盤とするザイド派イスラーム政党(エスニック政党)との関係などに問題の可能性はあるものの、これまで議論の対象となった形跡はなく、申請を行なった政党はすべて認可されている。また、1994年内戦で党幹部が旧南イエメン分離独立派に合流した諸政党(YSP、ナセル矯正、イエメン民族同盟)も、解散命令を受けていない。
2011年のサーレハ大統領辞任、2012年のハーディー大統領就任のあと、2013年3月から新憲法制定のための基本方針を決める包括的国民対話会議が始まった。包括的国民対話会議は2014年1月、連邦制導入などの方針を決定して閉幕したが、その後ハーディー政権は憲法案作成を行なわず、さらに翌2015年1月のホーシー派による「革命委員会」設置および3月以降の内戦により、政党政治は機能していない。
主要政党
国民全体会議(GPC)
イエメン・アラブ共和国(1990年南北イエメン統一以前の北イエメン)において、1982年にアリー・アブドッラー・サーレハ大統領により設立された同名の大政翼賛団体(各地方・職業団体からの選出700名、政府任命300名)を母体とする政党。統一以前の北イエメンでは政党が禁止されていたため、唯一の公認政治団体(実質的な単独支配政党)として、当時停止されていた議会の役割を果しながら、総選挙を準備する組織として位置づけられた。
統一後の政党・政治団体法施行に際し、政党申請を行なって一般から党員を募集する通常の政党となった(党首はサーレハ大統領)。もともと、アラブ民族主義を基調としながら、国内のさまざまな勢力や政治思想を包含する組織であったが、複数政党制の導入より左派(ナセル主義、バアス主義)や保守派が分離して新党を結成し、大政翼賛的な性格は失った。その後は、アラブ民族主義や革命理念の継承を掲げながらも、サーレハ政権を支持し、脱イデオロギー化のなかで国民経済の発展を優先する現実主義・実務志向の政党となっている。
1993年総選挙(定数301議席)で122議席(イスラーハ、YSPと三党連立内閣、1994年内戦後はイスラーハとの二党連立内閣)、1997年総選挙(単独内閣)で187議席、2003年総選挙で229議席(単独内閣)を獲得し、すべての総選挙で第一党となっている。また、2001年と2006年の地方選挙でも圧勝している。
1995年に構造調整を受け入れて以降、マクロ経済の安定・拡大と補助金削減や財政再建などによる国民生活の負担増大との間で、政局の運営を続けている。生活基礎物資の価格上昇のたびにデモ・暴動が発生し、政府への強い不満・批判が噴出するものの、選挙では支持を拡大し続けていた。
イエメン改革党(イスラーハ、YIP)
統一後のGPCとYSPの協力関係やナセル主義、バアス主義の左派新党設立に警戒感を抱いた保守派議員がGPCを離脱し、GPCメンバーであった旧北イエメン北部のハーシド部族連合長アブドッラー・ビン・フセイン・アハマル(統一以降、2007年の死去まで議会議長)を党首に仰いで結成した政党。結成には、旧北イエメン南部のムスリム同胞団系のウラマー層も加わり、イエメン最大のイスラーム政党となった(北部部族はシーア派のザイド派に属し、南部はスンナ派のシャーフィイー法学派だが、宗派の違いはこれまで問題となっていない)。
1993年総選挙で63議席(GPC、YSPと三党連立内閣、1994年内戦後はGPCと二党連立内閣)、1997年総選挙で53議席(最大野党)、2003年総選挙で46議席(最大野党)を獲得し、すべての総選挙および地方選挙で、GPCに次ぐ第二党の位置を占める。
イエメン最大最強の圧力団体とも言うべき保守的な北部部族勢力(ハーシド部族連合、バキール部族連合)を支持基盤とし、南部ウラマー層が政党としての思想や枠組みを提供する態勢をとっている。しかし、「イスラーハは動員力はあるが、集票力に欠ける」と評価されており、北部での支持は得票にはつながらず、議席の多くを南部に依存している。
党首はアハマル、党最高評議会議長はムスリム同胞団系の指導的ウラマーであるヤアシーン・アブドルアジーズ・クバーティー、党諮問委員長はサウジアラビアに近く、イエメン・イスラーム主義の教条派を代表するアブドルマジード・ジンダーニー(現イーマーン大学学長、党内では少数派)。アハマルもサウジアラビアと強い関係を有しており、アハマルとジンダーニーに着目すれば、イエメンにおける親サウジ政党ともいえる。
野党として経済・外交政策でGPCと激しく対立するものの、実質的にはサーレハ政権支持の姿勢を続けており、純粋な野党とは言いがたい。たとえば、1999年大統領選挙では対立候補を立てずにサーレハを支持し、2003年総選挙ではイスラーハ党首のアハマルがGPCからも公認を受け、イスラーハとGPCに両属する議員として当選して、引き続き議長に選出された。最大野党の党首が与党にも属して議長を務めることは、法律的にも政治倫理的にも問題とされておらず、イエメン政党政治の一面を象徴している。しかし、2006年大統領選挙では他の野党4党(YSP、ナセル統一、ハック党、イエメン人民勢力同盟)とサーレハの対立候補(実業家のシャムラーン)を擁立、支持し、活発な選挙戦を展開した。
2007年12月29日、アハマル党首が死去し、ムハンマド・ビン・アブドッラー・ヤドゥーミーが党首に就任した。
イエメン社会党(YSP)
イエメン民主主義人民共和国(統一前の南イエメン)における、マルクス・レーニン主義を掲げる単独支配政党。統一後の政党・政治団体法施行に際し、政党申請を行なって一般から党員を募集する通常の政党となった。ソ連崩壊と南北イエメン統一を背景に、党中央委員会は社会主義の放棄を決定したが、党内の混乱により党大会を開催できず、党の綱領自体は変わっていない。
1993年総選挙で56議席を獲得するが、GPC、イスラーハに次ぐ第三党に甘んじる(GPC、イスラーハと三党連立内閣)。党最高幹部が1994年内戦を引き起こし、旧南イエメンの分離独立(イエメン民主共和国の独立)を宣言したが、YSP議員の大半はこれに合流せず、首都サナアに残留した。内戦中にYSPは資産等を凍結され、連立内閣から排除されたが、内戦終結後も政党や議員としての活動には制限を加えられなかった。資産凍結の継続に抗議して、1997年総選挙をボイコット。2003年総選挙で復帰するも、7議席にとどまった。1999年大統領選挙では候補者を擁立できなかったが、2006年大統領選挙では他の野党4党(イスラーハ、ナセル統一、ハック党、イエメン人民勢力同盟)と候補者(実業家のシャムラーン)を擁立した。
旧北イエメンとの経済格差が解消されない旧南イエメンを支持基盤とする政党となるべき存在ではあるが、選挙では旧南イエメンでもGPCの得票が圧倒的となっている。
アラブ・バアス社会主義党イエメン地域指導部(バアス党)
複数政党制の導入に伴い、バアス主義者がGPCから分離して、イラク系バアス党のイエメン支部として結党。結党時の党首は、ムジャーヒド・アブー・シャワーリブ(統一以前からのサーレハ大統領の側近で、アハマル・イスラーハ党首の義弟)だが、1994年内戦後に大統領顧問に任命され離党。その後、イラクのサッダーム・フセイン大統領(当時)に近いカーシム・サッラームが党首となる。しかし、党内対立からサッラームは離党して、新たにバアス民族党(総選挙での当選者なし)を設立した。
1993年総選挙で7議席、1997年および2003年総選挙では2議席を獲得。
ナセル人民統一組織(ナセル統一)
統一直前のアデンで結成された、旧北イエメンのハムディー大統領(在職1974~77年、南部を基盤とするリベラル派として北部部族勢力と対抗した)の支持勢力による政党。ナセル主義に基づく公正を訴え、旧北イエメン南部や旧南イエメンのアデン、アブヤンで一定の支持者を有する。1993年総選挙で1議席、1997年および2003年総選挙では、GPCと選挙協力を行なって3議席を獲得。
ハック党
旧北イエメン北端のサアダを基盤とする、ザイド派(シーア派)カーディー(法学ウラマー)や旧サイイド層(シーア派初代イマーム・アリーの子孫。旧北イエメン革命前のイエメン・ムタワッキル王国における支配層。革命により特権剥奪)などが、GPCから分離して結成したザイド派のイスラーム政党であり、ホーシー家の活動を母体とする。1993年総選挙で2議席を獲得したが、その後は議席なし。
その他
- 民主ナセル党(ナセル民主。1993年総選挙で1議席のみ)
- ナセル人民矯正組織(ナセル矯正。1993年総選挙で1議席のみ)
- イエメン人民勢力同盟(ザイド派のイスラーム政党)
- イエメン統一グループ(アデンの知識人層による政党)
- イエメン民族同盟(旧南イエメン・ラヘジの保守層による政党)
- 国民社会党
- 人民民主同盟
政党以外の政治組織・政治勢力
ホーシー派(アンサール・アッラー)
1980年代、イエメン北部のザイド派地域(シーア派、信徒はハーシド部族連合とバキール部族連合に属する部族民)において、サウジアラビアが支援するワッハーブ派の布教活動拠点「ハディースの家」が設けられた。これに危機感を抱いたサイイド(預言者ムハンマドの子孫)のホーシー家(ザイド派ウラマーの家系)当主のバドルッディーン・ホーシーは、「信仰する若者」というザイド派の復興運動を開始した。これがホーシー派の起源とされる。1990年南北イエメン統一以降の民主化ではハック党を結成し、総選挙に参加した。
長男フサイン・ホーシーは、反ワッハーブ・反サウジの演説を繰り返したが、2003年のイラク戦争後に、それは反米の内容を多く含むようになり、多くの若者の支持を得た。しかし、2001年米同時多発テロ以降、米国の対テロ戦争に協力していたサーレハ大統領は、フセインに対し反米演説をしないよう求めたが、フセインは聞き入れなかった。2004年6月18日、サナアのアリー・アブドッラー・サーレハ・モスク前でフセインを支持する若者たちが反米のスローガンを叫び、拘束された(一説に640人)。サーレハは、説得のためにフセインをサナアに呼んだが、拒否された。7月、サーレハは治安部隊をフセイン拘束のために派遣したが、支持者と銃撃戦になって拘束に失敗。武力衝突が拡大したため、その後はアリー・ムフシン(サーレハの異父弟。現在はハーディー政権の副大統領)を司令官とする第一機甲旅団がその制圧にあたったが、ホーシー派を抑えることはできなかった。9月10日、フセインは銃撃戦の中で死亡した。父バドルッディーンも死亡したあとは、次男アブドルマリクなどの親族がホーシー派を率いた。その後、彼らはホーシー派と呼ばれるようになるが、彼ら自身は長く自称を持たず、2010年に自らを「アンサール・アッラー(アッラーの支援者)」と名乗った。2009年には、ホーシー派がサウジアラビアに対する越境攻撃を行ない、サウジはホーシー派を空爆している
イエメン政府は、ホーシー派はイラン流の「ウラマーによる政治」や「ザイド派イマーム(1918~1962年のイエメン・ムタワッキル王国国王)の復活」を求める集団であると喧伝したが、ホーシー派自身は特段の政治思想を展開せず、政府軍の攻撃に防御・反撃しているのみとの姿勢を取り続けた。ホーシー派に対するイランの革命防衛隊の支援については、不明な点が多い、イエメン政府やサウジアラビアは、2005年から支援が始まったとしているが、研究書の多くは、2011年の政変までイランのホーシー派支援にかかわる確たる証拠はないとしている。
当時、これはサアダ事件と呼ばれ、サアダ州の一部における衝突であったが、2011年の政変に乗じてホーシー派は北部3州(サアダ州、ハッジャ州、ジョウフ州)を掌握し、ハーディー政権下の包括的国民対話会議に参加した。しかし、2004年1月、包括的国民対話会議がホーシー派が反対する連邦制の導入に合意すると、翌2月より南下を開始し、同年9月にはサナアを占拠した。翌2015年1月、ホーシー派はハーディー大統領を軟禁下に置き、翌2月に「革命委員会」を組織して、2年間の暫定統治を宣言した。翌3月からはサナア以南に本格的な進攻を開始し、ハーディー政権およびそれを支援するサウジアラビア主導のアラブ有志連合との内戦に至った。
南部運動(ヒラーク)
2007年、アデン近郊で公務員解雇に反対するデモが生じた。その後、同様なデモが多発し、暴動に発展する例も増えた。1990年南北イエメン統一以降、政治経済の北部偏重に南部住民は大きな不満を持っており、これがデモや暴動の背景となっていた。そのような騒擾状態のなか、同年に旧南イエメンの平和的な再分離独立を求める南部運動(通称ヒラーク)が組織された。その内実は、さまざまな勢力や団体の集合体であり、まとまった組織とは呼べないものであったが、2011年政変後の包括的国民対話会議に参加し、連邦制の導入を主導した。
2015年以降の内戦では、この南部運動を背景とした複数の政治団体や武装勢力が南部諸勢力と呼ばれ、UAEの支援を受けて2016年以降の沿岸部での戦闘の主体となっている。ハーディー政権と対立し、2017年5月にアデンを掌握した南部移行評議会(Southern Transitional Council, STC)は、この南部諸勢力の中心的存在。ほかにも、ラヘジ州を基盤としてUAEの支援を受けるセキュリティ・ベルト(略称ヒザーム)があり、これが武装組織としては最大のものとみられている。
参考文献
- 松本弘「イエメンの民主化」『現代の中東』27号(1999年7月)、pp.27-41。
- ―――「イエメン民主化の10年」『現代の中東』39号(2005年7月)、pp.24-39。
- ―――「イエメン:政党政治の成立と亀裂」間寧編『西・中央アジアにおける亀裂構造と政治体制』JETROアジア経済研究所、2006年、pp.95-158。
- ―――「イエメン・ホーシー派の展開」、酒井啓子編『途上国における軍・政治権力・市民社会―21世紀の「新しい」政軍関係―』晃洋書房、2016年、pp.112-129。
- ―――「イエメン内戦の背景と特質」『海外事情』64巻9号(2016年9月)、pp.18-29。
- ―――「イエメンの内戦と宗派」、酒井啓子編『現代中東の宗派問題―政治対立の「宗派化」と「新冷戦」―』晃洋書房、2019年、pp.205-226。
トルコ/最近の政治変化
(1) トルコ共和国の政治変動略史
トルコ共和国は1923年10月に樹立が宣言されて以降、1924年3月にカリフ制を廃止し、大統領を国家元首とし、西洋世界を見習って国民主権や世俗主義を柱とする国家建設を進めた。世俗主義は、国家の正当性原理に留まらず、国民アイデンティティの脱宗教化や、教育や法体系の世俗化(近代西洋的制度の導入)にまで及び、1937年には世俗主義条項が憲法に挿入された。加えて、オスマン帝国が民族分離独立運動によって瓦解した経緯から、建国エリートはトルコ民族文化への同化による国民建設こそが国家の存立基盤だと考えた。その結果、非トルコ系民族文化の主張や、国境を越える労働者の連帯活動を唱える共産主義運動は新生国家への主要脅威とみなされ、抑圧された。共和制樹立から1945年までは、共和人民党の一党制が敷かれ、体制基盤の確立に注力された。
第二次世界大戦の終結にともなって、民主主義が国際的な政治スローガンとなった。国内的にも準臨戦態勢で国民生活は疲弊し、体制への不満が高まっていた。そうした中で指導者層において、体制の枠組みが確立された上、西洋世界への仲間入りを目指す以上、複数政党制に移行するべきだとの議論が優勢となり、民主化が決定された。
1950年には選挙による政権交代が実現し、民主党政権が誕生した。選挙制度としては、大選挙区非拘束名簿式連記投票制による多数代表制が採用されたため、選挙区の第1位政党が当該選挙区議席を独占することになり、1950年代を通じて民主党は国会で圧倒的多数を維持した。しかし、1950年代後半には貧富の格差が拡大し、経済不況にも見舞われたため、民主党政権批判が高まった。政権維持のために民主党が、軍隊を動員して共和人民党の選挙活動を妨害し、政権批判を封じ込めるためにメディア全体への検閲体制を強めると、反政府感情は軍部の若手将校や学生らの間にも広がっていった。また、民主党は、かつて世俗化政策を進めた共和人民党を「無神論者」や「共産主義者」呼ばわりすることで、宗教感情の側面から国民の歓心を買おうとした。そしてついに、1960年5月に軍幹部が収拾に乗り出し、民主党幹部を逮捕し、党の解散、国会の停止を宣言した。
1960年5月から1961年10月にかけて続いた軍事政権は、その後のトルコの政治に重要な影響をもたらした。まず、軍が「民主主義の回復」と「公正な選挙による早期民政移管」を掲げて介入し、それを実現したことで、「民主主義体制擁護の貢献者としての軍部」として軍部の政治介入を正当化するイデオロギーが定着するきっかけとなった。軍事政権である国家統一委員会は、内部に軍政の恒久化を唱える強硬派を抱えていたが、結果的には、政治結社や言論の自由にも言及する1961年憲法を、国民投票による賛成多数を得た上で制定し、国会第一党の権力濫用を防ぐための制度改革を行った。国会には上院が新設され、立法府の活動をチェックできるように憲法裁判所も設置された。また、国会内で一定以上の野党勢力が存在し、与党をチェックできるように、中選挙区比例代表選挙制が導入された。その上で、1961年10月に民政移管のための総選挙を行った。
その一方で、軍事政権下では旧民主党幹部は懲役刑に、党首等3人は絞首刑に処せられた。また、国会を監督するために新設された上院で、国家統一委員会(すなわち軍幹部)の委員全員が終身議員に着任し、1980年代まで軍出身者が就任することになる大統領にも一定数の議員を選任する権限が付与された。さらに、軍幹部が主導する国家安全保障会議が新設された。これは、政権に対して国家安全保障の問題で強制力のある意見を述べる機関と位置づけられ、事実上、軍部が政治に直接介入することを許す憲法上の機関となった。国家安全保障会議は、国内の宗教的、民族的、イデオロギー的問題が体制の安全を脅かすと判断した場合には、一般に内政問題とみなされるものについても、強い影響力を発揮することになるのである。
こうして軍部は「民主主義の後見人」であるとの言説とイメージを創りだし、軍部の政治介入を正当化していった。さらには、軍部が民主主義の危機だと考える状況では政治に直接介入していくことになる。
例えば、トルコの1960年代から70年代は、左翼の労働運動や学生運動と、それへの対抗勢力としてトルコ民族主義やイスラム復興勢力がそれぞれ高揚し、大学構内や街中で抗争や衝突を繰り返すという不安定な時代であった。国会では、経済政策を巡って紛糾しては内閣が交替を繰り返しており、社会不安と政治的麻痺があからさまになっていた。そこで軍部は、1971年に、事態収拾のためには政権奪取もやむをえずとの書簡を政府に突きつけ、内閣総辞職と軍の後押しを受けた超党派内閣の承認を要求し、国会にそれを受け入れさせた。しかし、1970年代には各種イデオロギー運動はますます高まり、新選挙制度があだとなって、国会は小党分立に陥り、またもや政権交代が繰り返されていた。国民生活は年率100%を超えるハイパー・インフレで疲弊し、抗争の激化による社会不安も極大化する中、1980年9月に再び軍部が政権奪取を宣言した。以後、約3年の間、軍部による国家安全保障評議会が政治を行った。
この軍事政権もまた、民主主義が機能できるように、その阻害要因を取り除くことを公言して行われた。前回にも増して徹底的なパージが行われ、旧政党は全て非合法化されて幹部は懲役刑に処せられた上で参政権を剥奪された。また、1982年に新憲法が制定され、1983年には総選挙も実施されたが、軍事政権のチェックを通った政党と政治家のみが参加できる制限的な選挙となった。
さらに、1982年憲法でも、上院は廃止されたものの、軍部の政治介入を可能にする国家安全保障会議が再び設置され、1980年代を通じて軍部の政治的影響力が公然と発揮されることになった。まず、軍事政権内閣が大統領府評議会に改編され、以後6年にわたって、体制原理に関わると考える法律を審査する権限を与えられた。また、大統領には国家安全保障評議会議長が就任しており、7年の任期を約束された。さらに、1987年まで新憲法は国民投票にかけられなかった。1987年には1980年クーデターにより公職追放された政治家たちの公職復帰が許され、1987年の国政選挙を以て1980年クーデターの制度的遺産がある程度精算されたが、その後も何度かの条項改廃を経ながらも、1982年憲法がトルコの体制の枠組みを規定している。
しかし、その後も軍の政治介入は続いた。1997年に軍部がイニシアティブをとった政権交代劇が起きた。そもそも1995年選挙の結果、親イスラムの福祉党が国会で第一党となったが、軍幹部が大統領に対して第二党の中道右派政党に首班指名をするよう圧力を与え、成功したとされている。しかし、その時の国会第二党と第三党の連立が上手く機能しなかった上に、金銭スキャンダルも発覚し、1996年7月には福祉党を首班とする連立を認めないわけには行かない状況になった。しかし、福祉党連立政権はイスラム系諸国との外交に積極的になりすぎたことが軍を刺激し、1997年2月の国家安全保障会議で軍側からイスラム復興による体制の危機を宣告されるに至った。この会議がきっかけとなって、連立政権が崩壊した上、軍部はメディアや司法関係者、大学当局に対してイスラム復興対策を講じるように要請し、福祉党非合法化を始めとする復興勢力弾圧が実行されたのである。
世俗主義国家エスタブリッシュメントと、国是に批判的な党是を有する政党との対立はその後も続いてきた。しかし、2010年の憲法改正は世俗主義国家エスタブリッシュメントの権力基盤を揺るがすものとなった。軍部批判のタブーを覆しかねない条項改正として、1980年軍事政権メンバーを起訴することを禁じた条項が削除され、軍政期の拷問やパージ等の責任を司法的に問うことが可能となった。その他、軍内人事を決定する高等軍事会議の決定についても司法的救済の道が開かれ、思想・信条などを理由として軍から懲戒解雇された人々に文民法廷でその正当性を問う権利が認められた。また、司法人事組織の高等判事・検事会議の委員選出方法も変更され、下級判事の直接投票による選出枠が上級判事による選出枠を上回るなど、司法人事のあり方にも大きな変更が加えられた。
このようにこの20年間でかなりの民主化改革が進むとともに、従来の世俗主義国家エスタブリッシュメントと政党・議会との力関係にも本質的な変化が生じ始めている。それはアイデンティティや思想・信条の多様性を尊重する、成熟した民主主義へと展開していくと期待された。しかし、世俗主義とトルコ民族主義という二つの建国以来の国是の下で積み重ねられた抑圧は、それを是正しようとする局面になって、別の新たな抑圧に道を開いた。世俗主義の克服を目指した福祉党の流れをくむ公正と発展党は、一旦、権力を確立すると、批判を許さず、公正で清潔な政治から遠ざかり、強権化に傾くようになった。それは、「選挙」や「政治体制」の項目で詳述するように、国内で旧来エリートとは異なる文化資本を有する新興エリートが急速に富と権力を拡大したことによる権力バランスの反転が引き起こす摩擦や、シリア内戦を中心とした地域国際社会の政治変動とトルコのクルド問題が一体化してトルコ政治を揺るがすようになったという、国内外の大きな構造変動と関わっている。しかも、その構造変動は、アメリカが中東介入に及び腰になるのに対して、ロシアがシリア内戦へ関与を通じて中東でのプレゼンスを高めるというグローバル大国間の力関係の変化に敏感に反応しながら展開している。21世紀のトルコの政治変動は、国際的な政治変動を反映する鏡と言えるのかもしれない。
(2) EU加盟プロセスと民主化改革
1987年に選挙プロセスが大幅に民主化されたものの、民主化課題は山積していた。しかし、トルコが1987年にEU正式加盟を申請したことが契機となり、今日に至るまでEUの民主化基準を物差しとして民主化改革が進められた。
前項との関係で重要な改革は、軍部の政治関与を排除するものである。国家安全保障会議は文民政府代表の多数が確保され、同事務局長も文官出身者を任命するよう法改正された。また、高等教育やマスメディアを統制する委員会において軍代表常任委員ポストが廃止された。イスラム主義やクルド民族主義など国是と相容れない主義主張を掲げる人たちをも扱ってきた国家治安裁判所にも軍籍判事が常駐していたが、まず完全文民化された上で、最終的には裁判所自体が廃止された。2006年のEUによる進捗報告書は、軍幹部が政治的影響力を行使しようとして公式・非公式に政治的発言を行うことも重大な問題としているが、制度的には大幅に文民化が進んだといえる。
また、言論・思想の自由についても、特にマイノリティ言語での公的コミュニケーションが大幅に自由化された。1990年代冒頭に、クルド語での出版や音楽活動が解禁され、2000年以降には、マイノリティ言語での放送が始まり、2009年1月には国営放送にクルド語専門チャンネルが開設された。また、マイノリティ言語での命名や選挙活動も可能となった。
政治参加の自由化という面では、1995年の法改正によって、大学の学生や教員が政党の党員になる権利や、上級公務員が労組を結成する権利が認められた。政党側にも、青年組織や女性組織、海外動員組織を設立することが認められるとともに、2003年の法改正では、政党を非合法化するまでに、当該政党への警告発令など、いくつかの手続き的段階が設定され、政党側にも対応の余地が与えられることになった。
こうした改革の進展が認められ、トルコは2005年10月にEU加盟の最終段階である正式加盟交渉を開始した。つまり、制度的にはかなりEUの民主化基準に近づいてきていると認められたのである。
しかし、それにもかかわらずトルコの加盟交渉の道のりは厳しいものとなった。一つはトルコが対立してきたキプロス共和国が2004年にEUに加盟したことで、同国がトルコの加盟を承認しない限り、加盟が無理となったことである。また、EU側も東欧・バルカン諸国の加盟を矢継ぎ早に実施したことによる拡大疲れがあった。それは新規加盟の中進国に対する財政負担という面だけではなく、文化的アイデンティティの面で「ヨーロッパ」かどうかが近代以降、常に論争の的になってきたムスリム多数派国家のトルコを受け入れることへの抵抗という面も強かった。2005年に正式加盟交渉を開始する時点で、財政プランの面で少なくとも以後10年はトルコの加盟はあり得ない、ということが明示されており、その後も、欧州内のムスリム移民差別感情が盛り上がるたびに、EU・トルコ関係も軋んだ。ムスリム・アイデンティティを全面に押し出すエルドアン政権が強権化する過程と、シリア難民受け入れをめぐってEU世論が大きく揺れた時期、フランスなど欧州内大国の中心都市部で「イスラム国」の自爆攻撃が多発した時期が重なったために、こうした摩擦は、なおさらに厳しいものとなった。
2018年の大統領制移行によってトルコではエルドアンの強権化は制度化され、後戻りのできない地点に差し掛かっていると欧米では見られているため、もはやトルコのEU加盟はあり得ない、という雰囲気がEU世論では支配的にみえる。しかし、エルドアン新体制が発足してすぐにトランプ米大統領がトルコやイラン、中国など、今後の国際政治構造変動において鍵を握る国に制裁を発動し、それが欧州経済をも揺るがしかねない事態になっている。トルコも新体制の下で、多様な政治改革を行っていく一環として、EU基準での改革をEUとも協力しながら進めていく意向を示すなど、柔軟かつ多元主義的外交政策を志向することを示唆している。トルコ外交の基軸を作ってきた米国との同盟関係が揺らぐ一方で、シリア内戦をめぐってはロシアに翻弄され続けたトルコがロシアの覇権下に組み込まれてしまうような外交的選択をするとは考えられず、その際にはEUとの関係が必ずバランサーとして重要になってくるだろう。EUとの関係は、内政における民主化やその他の高度成長社会に向けた取り組み目標としてだけでなく、今後は変動する国際政治バランスのなかで巧みにかじ取りをしていくうえで、トルコにとってできるだけいい関係を築いておくべきアクターと位置付けられていくと思われる。
参考文献
- 新井政美『トルコ近現代史:イスラム国家から国民国家へ』みすず書房、2001年。
- 澤江史子『現代トルコの民主政治とイスラーム』ナカニシヤ出版、2005年。
- Commission of the European Communities, Turkey 2006 Progress Report, 2006.