「政治変動DB記事」カテゴリーの記事一覧

2021年9月21日

リビア/現在の政治体制・政治制度

2011年の「アラブの春」にともなう内戦とカダフィ政権崩壊を経て、現在(2021年8月時点)のリビアでは議院内閣制が採用されている。その根拠は、「憲法宣言(Constitutional Declaration)」(2011年8月発表、その後随時修正)および「リビア政治合意(Libyan Political Agreement)」(2015年12月締結)である。ただし、2021年12月24日に予定される国政選挙(大統領・議会選挙)をめぐり、今後政治制度が大きく変更される可能性がある。

「リビア政治合意」にもとづき、2016年1月に「国民合意政府(Government of National Accord: GNA)」が発足した。その後、2020年1月の独ベルリンでのリビア安定化に関する国際会議(Berlin International Conference on Libya)、2020年11月に発足した「リビア政治対話フォーラム(LPDF)」での議論にもとづき、2021年3月に国民統一政府(Government of National Accord: GNU)が設立された。GNUはあくまでも暫定政権という位置づけであり、任期は2021年12月24日に予定される国政選挙(大統領・議会選挙)の完了までと定められている。同政府の体制はアブドゥルハミード・ドゥバイバ(ドベイバ)首相以下、副首相2名、閣僚35名(うち国務大臣6名)で構成される。国防相は政治対立を避ける意図から空席のまま発足した。また、大統領と同様の立場で外交・内政の儀礼的役割を担う首脳評議会(Presidential Council: PC)が存在し、議長と副議長2名が東・西・南の地域から1名ずつ選出される。

立法府は2014年7月の選挙によって選ばれ、リビア東部のトブルクに拠点を置く代表議会(House of Representatives: HOR)が担う。また、トリポリに拠点を置く高等国家評議会(High Council of State: HCS)は政府の諮問機関として、GNCが議決した重要法案を承認・拒否する権限を持ち、GNUが提出する法案や国際的合意に対しても法的拘束力のある意見を提示できる。

「憲法宣言」

「憲法宣言」は内戦中の2011年8月3日、反体制派勢力である国民暫定評議会(National Transitional Congress: NTC)によって締結、同月10日に発表された。同宣言はいわば草案であり、議会による修正および承認決議を経て、国民投票によって3分の2以上の承認を得れば正式な憲法として制定される。

同宣言が締結された時点では、2012年7月の国民議会(GNC)の設立後すみやかに憲法起草委員が任命され、正式な憲法の起草・制定が行われると見込まれていた。しかし、憲法起草委員を選挙によって選ぶこととなり、またリビアの政治情勢が混乱したことから、2021年8月に至るまで正式な憲法は制定されていない。代わりに、GNCやGNCは「憲法宣言」を修正することで政治プロセスを進めてきた。2021年12月に予定される国政選挙の後、憲法承認のための国民投票の実施が見込まれている。

「憲法宣言」第1条には、リビアが民主国家であること、首都はトリポリであること、国教はイスラームであり、イスラーム法(シャリーア)が法制度の根源であるが、国家は非ムスリムにも信仰の自由を保障すること、公用語はアラビア語であることが定められている。また、「少数民族」という言葉は用いられず、「リビア社会の構成要素(components of the Libyan society)」として示され、アマージグ(ベルベル)、トゥーブ、トゥアレグに対して言語的・文化的権利を保障するとされている。

第4条には、国家は、政治的多元主義と多党制に基づく政治的民主制の確立に努め、権力の平和的・民主的交代を実現すると定められている。

第9条には、祖国の防衛、国家の団結の維持、文民統治・憲法・民主的制度の維持、市民の価値観の順守、地域・部族・氏族にもとづく対立との戦いは、全国民の義務であると定められている。

カッザーフィー政権期の法制度について、第35条では、既存の法律は修正・廃止されるまで、「憲法宣言」の内容と矛盾しない限りにおいて有効であると定められている。前政権で定められた法律における政治機構への言及は、国民暫定評議会や今後の移行政府に置き換えられる。また、カッザーフィー政権期の正式な国名「大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒーリーヤ国(Great Socialist People’s Libyan Arab Jamahiriya)」は、「リビア(State of Libya)」に置き換えられる。

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2021年9月21日

リビア/最近の政治変化

国民合意政府(2016年1月〜2021年3月)

カッザーフィー政権崩壊後、2012年7月の選挙を経て国民議会(GNC)と新内閣が発足したが、同議会の一部議員が2014年6月の代表議会(HOR)設立に抵抗し、傘下の民兵組織を動員してHORを攻撃した。このため、HORは首都トリポリから退避し、東部の都市トブルクに議会本部を設置した。これがいわゆる「東西対立」の発端である。GNCとHORの対立は行政の不機能や治安悪化、アルカーイダや「イスラーム国」などジハード主義組織の伸長につながったため、国連や欧米、周辺諸国が和平調停を進め、モロッコでのGNC・HOR間の協議によって2015年12月17日、「リビア政治合意」が締結された。

同合意は統一政府である国民合意政府(GNA)を樹立し、 HORを立法府として、GNCを高等国家(HCS)に改称して政府の諮問機関とすることを定めた。2016年1月に発足したGNAは、2021年3月のGNU発足まで「正式な政権」として国際的に承認されていた。同政府においてはファーイズ・サッラージュ首相が「首脳評議会(PC)」の議長を兼任し、PCは首相1名、副首相3名(東・西・南の地域から1名ずつ)、国務大臣2名で構成されていた。

「リビア政治合意」の狙いは、対立していたHORとGNCを新政府の下に統合し、国内対立を解消することであったが、今度はGNAとHORの対立が勃発した。HORはGNAの信任投票を行わなかったため、同政府の法的基盤は2021年3月の解散まで脆弱なままであった。また、HORは東部のトブルクに拠点を置いたまま、東部独自の内閣や中央銀行、石油公社、その他政府機関を設立してGNAに対抗した。これにより、東西政府機関の統合が政治プロセス進展や国民生活改善の障害となっている。さらに、HORがハリーファ・ハフタル率いる軍事組織「リビア国民軍(LNA、後述)」を支援したことで、国内の軍事対立が激化した。

大統領・議会選挙に向けた動き(2017~2019年)

2017年頃から、リビアの統治機構の再編と政治・治安の安定化を進めるため、選挙を求める声が主に国外で高まるようになった。 GNAは発足以来リビア全土を統治したことはなく、政治機構も脆弱で、リビアの安定化を主導することは難しいとみられていた。不安定なリビアが地中海を越える移民の玄関口となり、ジハード主義組織や武装勢力の拠点となり、治安悪化に伴う原油生産量の乱高下がグローバルな石油価格の変動要因となっている現状は、周辺国にとって大きな脅威だと認識されてきた。

さらに、GNAの任期の問題もあった。リビア政治合意には、GNAの任期は HORによる信任決議から1年間とされ、この間に憲法が制定されなければ1年のみ延長が認められると明記されている。また、憲法がGNA設立後2年以内に制定された場合は、その時点で任期が終了する。GNAが最初の会合を行ったのは2016年1月6日であり、これを起点とすれば2018年1月6日でGNAの任期は終了することになる(ただしHORはGNAの信任投票を行わなかったため、GNAの任期のカウントダウンはそもそも始まっていなかったというロジックも成り立つ)。

2017年9月20日、国連リビア支援ミッション(United Nations Support Mission in Libya: UNSMIL)のサラーマ代表は、リビアを安定化させるための「アクション・プラン」を発表した。それは、①全土での国民対話の実施、②リビア政治合意の修正とGNAの組織改革、③憲法制定のための国民投票、④大統領・議会選挙を行うための法制度の整備という4つの柱からなる。また、UNSMILは2017年末の時点で、リビアの移行期間は2018年で完了すると述べ、同年中に大統領選挙を予定していることを明らかにした。

2018年5月29日、フランス・パリにおいて、リビアの諸勢力を招いた会談が行われた。この会談で、遅くとも同年12月10日までの大統領・議会選挙の実施および9月16日までの憲法草案と選挙法案の制定で合意された。しかし、大統領制を導入するための準備は進まなかった。カッザーフィー政権崩壊後のリビアは議院内閣制を採用しており、大統領に付与される権限、大統領と軍、議会および内閣との関係、議会の規模などを取り決めるための法的枠組みは存在しなかった。また、国軍の最高指揮権や任命権、中央政府と地方政府の関係なども不透明なままであった。

これらを規定するのが憲法と選挙関連法案ということになるが、立法権を持つHORは憲法制定のための国民投票に関する法案審議を何度も延期してきた。このため、高等選挙委員会(HNEC)も法的・技術的な準備を進められず、選挙が2018年中に行われることはなかった。2019年2月のミュンヘン安全保障会議にて、サラーマUNSMIL代表は、大統領・議会選挙の実施は「2019年末が最も現実的だ」と述べた。そして、選挙プロセスを進めるために「国民対話」を行い、国内で対立する諸勢力の和平調停を行うと発表した。しかし、ハフタル司令官率いる「リビア国民軍(LNA)」が2019年4月からトリポリ侵攻を開始したことで、選挙や国民和解の動きは頓挫した(後述)。

トリポリ周辺での衝突(2019年4月~2020年10月)

2019年4月4日、ハフタルLNA総司令官は傘下の部隊にトリポリへの進軍を命じ、 LNAはリビア東部と南西部からトリポリに迫った。これをGNA傘下の軍や同政府を支援する民兵組織が迎え討ち、大規模な武力衝突に展開した。国連リビア支援ミッション(UNSMIL)は、2019年だけで戦闘による避難者が20万人を超えたと発表するなど、甚大な人道被害が発生した。

さらに、LNAをUAE、サウジアラビア、エジプトが、GNAをトルコが支援し、武器や戦闘員、軍事資金を提供したことで、紛争は国際化して「代理戦争」の様相を呈した。特に、ロシアは2019年9月頃からプーチン政権に近い民間軍事会社Wagnerの兵員を投入して、LNAへの軍事支援を強めた。サラーマUNSMIL代表は国連安保理にて人道状況の悪化に警鐘を鳴らし、同時に諸外国の軍事支援が戦況を激化させていると非難した。

戦況は膠着していたが、2019年11月のサッラージュGNA首相とエルドアン・トルコ大統領との会談で、両者は①両国間の安全保障協力、特にトルコからリビアへの軍事支援に関する覚書と、②東地中海における両国間の海洋境界設定に関する覚書に署名した。これを受けて、2020年初頭からトルコは軍事ドローンや装甲車とともにシリア人戦闘員のべ1万5千人以上を送り込み、GNAへの軍事支援を強化した。この結果、2020年6月上旬にGNA勢力がトリポリ周辺を制圧し、LNAは東部および南西部に撤退した。

LNAの撤退による戦況変化を受けて、国際社会は停戦調停を強化させた。2020年8月21日、GNAとHORが停戦合意を発表し、すべての勢力に対する戦闘の即時停止を求め、2021年3月までの大統領・議会選挙実施を提案した。10月23日にはGNAとLNAの軍事代表団がスイス・ジュネーブにて停戦合意に署名し、両勢力の戦闘を即時停止し、3か月以内に全ての傭兵や外国人戦闘員をリビアから退去させることで合意した。

その後、UNSMILの主導により、停戦合意の確認や選挙実施に向けた政治協議「リビア政治対話フォーラム(LPDF)」が10月下旬にオンラインで、11月上旬にチュニジアで開催された。LPDFでは停戦の実現と持続、18か月以内(2022年5月まで)の選挙実施が合意された。同フォーラムに参加する75人の代表( UNSMILが選定)は、公平性を担保するために新政府において公職に就く権利を放棄した。

国民統一政府の発足と選挙に向けた動き(2021年3月~)

LPDFでの協議を受けて、2021年1月30日にUNSMILは新統一政府の首脳候補者45人を発表した。首相および「首脳評議会(PC)」の議長と副議長(2人)の選出に向けて4つの候補者リストが示され、LPDF参加者75人が投票する形を取った。2月5日の第1回投票、続く決選投票の結果、首相に実業家のアブドゥルハミード・ドベイバ、PC議長(大統領級)にギリシャ大使などを務めたムハンマド・ユーヌス・メンフィー、同副議長にトゥアレグ族出身の政治家ムーサー・クーニー、および代表議会(HOR)議員アブドゥッラー・ラーフィーが選出された。新政府の任期は、12月24日予定の大統領・議会選挙までとなる。

3月10日、リビアの立法機関であるHORは、新政府「国民統一政府(Government of National Unity: GNU)」およびダバイバ首相率いる新内閣を承認した。GNAも遅滞なく行政権を委譲した。HORの議員ほぼ全員の新政府承認決議への出席、トリポリ政府に反発し続けてきたサーリフHOR議長や東部政府による新内閣の承認、LPDFのスケジュールに概ね沿った形での新内閣承認は、いずれも大きな政治的成果である。国連の粘り強い働きかけに加え、国内外で政治プロセス進展への期待が高まったことが要因とされる。

GNUは発足後、UNSMILや国際社会の支援を受けながら、2021年12月の選挙に向けた政治プロセスや国内の和解・調整を進めているが、東西の政府機関や国軍の統合、外国軍・外国人戦闘員および外国人傭兵のリビアからの撤退、行政サービスや基礎インフラの復旧、民兵問題、移民問題等、対処すべき課題は山積している。このような中、治安問題、選挙法制定及び憲法基盤をめぐる合意形成の遅れ等を背景として、期日通りの選挙実施が危ぶまれる向きもある(選挙の項目で詳述)。

なお、日本政府は国連開発計画(UNDP)を通じた国政選挙支援(選挙機材の提供)、JICAを通じた司法や経済産業開発に関する技術協力、国連機関を通じた人道・社会安定化支援により、リビアの政治プロセスを支援している。

ハリーファ・ハフタル

内戦以降のリビアの政治プロセスに大きな影響を与えてきたのが、リビア東部を実効支配する軍事組織「リビア国民軍(Libyan National Army: LNA)」のハリーファ・ハフタル司令官である。

ハフタル(1943年生)はカッザーフィーによる1969年のクーデターの同志であり、1986年にリビア・チャド紛争(1978〜1987年)の司令官となるが、敗戦しチャドにて投獄された。その後は米国に約20年間在住したが、2011年のリビア政変時に帰国し、反カッザーフィー勢力を軍事的に指揮して台頭した。2014年5月にはリビア東部にてLNAを率い、国軍、部族勢力、民兵組織などの諸勢力と「尊厳作戦(Operation Dignity)」を立ち上げ、リビア国内のアルカーイダ系組織を含むイスラーム主義勢力への攻撃を開始した。また、2015年3月にはHORの軍総司令官に就任した。

LNAはジハード主義組織やイスラーム主義系の民兵組織に軍事的に対抗できるほぼ唯一の勢力であり、エジプトやUAE、サウジアラビアといった域内諸国だけでなく、欧米やロシアからも支援を受けた。しかし、ハフタルは2016年の「リビア政治合意」とGNA設立を外国の内政干渉として批判し、GNCの強硬派と連携してGNAに反発した。GNAの治安維持・法執行能力は脆弱であり、当時LNAは国軍や警察を凌ぐ軍事力を有していた。また、リビア東部地域を実効支配し、諸外国の支援を受けて支配圏を拡大した。

2019年1月、LNAはリビア南西部に進軍し、敵対する地元の民兵組織などを掃討して拠点を確保した。これによりハフタルの勢力圏は東部だけでなく南西部へと拡大され、主要な油田の大部分も同軍の支配下に入った。自信を高めたハフタルは2019年4月にLNAに対してトリポリ侵攻を命じる(前述)が失敗に終わり、2021年3月のGNU発足を受けて軍事力および政治力は大きく減衰した。しかし、2021年5月にはLNA設立7周年を祝う大規模な軍事パレードを東部で開催したり、東部や南西部で「対テロ作戦」を名目とした軍事活動を継続するなど、依然として一定程度の影響力を維持している。今後は12月に予定される大統領・議会選挙をめぐる動向が注目される。

他方で、ハフタルは高齢に加えて健康面でも不安を抱えており、その影響力は持続的ではないとの見方もある。現在は、長男サッダーム、次男ハーリドに加えて、同じファルジャーニ部族出身の2人を加えた4人のLNA高官が「ポスト・ハフタル」における重要人物だとみなされている。ただし、LNAはハフタル個人の圧倒的な影響力や諸外国とのネットワークによって存続しており、彼が病気や死亡によって不在になればLNAは求心力を失い、内部抗争が激化するという見方が強い。

国連リビア支援ミッション

国連リビア支援ミッション(UNSMIL)は内戦中の2011年9月に「国連安保理決議2009号」によって設立が承認された。その主な目的は以下の通りと定められている。

  • 公共の安全および秩序を回復し、また法の支配を促進すること
  • 包括的な政治的対話を行い、国民和解を促進し、また憲法起草と選挙プロセスを始めること
  • 説明責任のある制度と公共サービスの回復強化を含む、国の権限を拡大すること
  • 人権、特に脆弱な集団に属する者に対するものを促進し保護すること、および移行期司法を支援すること
  • 初期の経済回復のために要求される迅速な措置を講じること
  • 適切な場合には、他の多数の関係者および両関係者から要請される支援を調整すること

UNSMILはリビアの和平や国家建設に取り組み、全国・地方選挙、2016年リビア政治合意の締結、対立する諸勢力の調停、諸外国のリビア支援の調整などを行ってきた。しかし、米、露、仏といった国連安保理の常任理事国がリビアに対して独自の関与を続ける中で、UNSMILおよび国連はリビアの安定化に向けた取り組みを進めることができなかった。

2017年からUNSMIL代表の座についたレバノン人のガッサーン・サラーマはリビア安定化に向けた「アクション・プラン」を発表し、①全土での国民対話会議、②「リビア政治合意」の修正と GNAの組織改革、③憲法制定のための国民投票、④大統領・議会選挙を行うための法制度の整備を進めようとした。しかし、エジプト、UAE、フランス、イタリアが国連との十分な調整を行わないままに独自の「和平会議」を開催したことで、国連主導の政治プロセスは阻害された。さらに、2019年4月以降のトリポリ周辺での衝突を受けて国民対話会議や大統領・議会選挙が暗礁に乗り上げ、諸外国の利害対立によってリビア安定化のための国際的な協力も進まない中、2020年3月にサラーマ代表の辞職が発表された。

サラーマ代表の辞職以後、それまでUNSMIL副代表を務めていた米国人外交官のステファニー・ウィリアムズが代表代行に就任し、GNAとLNAの停戦、国内和解と政治プロセスの進展、諸外国の軍事介入の停止を精力的に進めた。この結果、LPDFでの議論を通じてGNUの設立や2021年12月24日を目標とする大統領・議会選挙の実施が合意された。2021年1月には在レバノン国連特別調整官や国連イラク支援ミッション(UNAMI)代表などを務めたジャン・クビシュが国連事務総長特使・UNSMIL代表として着任した。また、2020年12月からジンバブエ出身のライセドン・ゼネンガが副代表・ミッション調整官を、2021年1月からカナダ出身のジョルジェット・ギャノンが副代表・常駐調整官(人道・人権担当)を務めている。

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2021年9月21日

リビア/選挙

国民議会選挙(2012年7月)

2011年10月20日のムアンマル・カッザーフィー(カダフィ)殺害後、反体制派勢力である国民暫定評議会のムスタファー・アブドルジャリール議長は10月23日に「リビア全土の解放」を宣言した。「憲法宣言」第30条には、リビアの解放(カッザーフィー政権の崩壊)宣言後、国民暫定評議会は移行政府として再編成され、3ヶ月以内に①国民議会(GNC)選挙のための法案整備、②高等選挙委員会の任命、③GNC選挙への呼びかけを行うことが定められていた。また、リビアの解放後8ヶ月以内に国政選挙を行い、それから1年以内に議会と大統領選挙を実施すると定められていた。

2012年7月7日、GNC選挙が実施された。定数の200議席のうち80議席が政党別に選出される比例代表方式、残りの120議席が個人選出方式に割り当てられた。人口比などに基づき、国内主要3地域の議席配分は、首都トリポリを含めた西部100、東部60、南部40と定められた。女性や少数民族向けの議席割り当て(クォータ)はなかった。

選挙では、142の政党から合計で約3,700人(個人候補者約2,500人、比例代表候補者約1,200人)が立候補し、女性候補者も600人を超えた。選挙委員会の発表によれば、投票率は約60%(投票者170万人/登録有権者約280万人)という結果となった。

しかし、議席配分に不満をもつ東部地域では、連邦化や東部の自治権向上を主張する勢力がボイコットを呼びかけた。放火されたり、脅迫により閉鎖されたりした投票所もあった。

議席を獲得した政党は以下の通りである。

  • 国民勢力連合:39 議席(得票率 48.8%)
  • 公正発展党(ムスリム同胞団系):17 議席(21.3%)
  • 国民戦線党:3 議席(3.8%)
  • 民主主義と開発のための Wadi Al-Hayah 党:2 議席(2.5%)
  • 祖国のための連盟:2 議席(2.5%)
  • 国民中道潮流:2 議席(2.5%)
  • その他:15 議席(18.8%)

「憲法起草委員会」選挙(2014年2月)

2014年2月20日、憲法起草委員会(Constitutional Drafting Assembly)の選挙が実施された。「憲法宣言」ではGNCが60人の憲法起草委員を任命すると定められていたが、2012年7月の国民会議選挙の直前に、国民暫定評議会が同宣言を修正し、憲法起草委員会を国民投票によって選出すると決定した。そして、2013年4月にGNCが同委員会の選挙の実施を決議した。

「60人委員会」とも呼ばれる憲法起草委員会の60議席は西部、東部、南部の3地域に各20席に振り分けられ、そのうち女性に6議席、少数民族(ベルベル、トゥアレグ、トゥーブ)に2議席ずつが割り当てられた。GNC議員、国民暫定評議会議員、カッザーフィー政権の幹部、軍人、過去に有罪判決を受けた者には立候補資格は与えられなかった。すべての議席は個人選出方式に割り当てられた。

定員60名に対して立候補は649人(うち女性64人、少数民族20人)であった。選挙日が公式に発表されたのは2014年1月下旬(選挙日の約3週間)であり、有権者が候補者に関する情報を得る機会は限定的であったとの指摘もある。さらに、ベルベル(アマージグ)とトゥーブの人々が、少数民族向けの議席割当(2席ずつ)は過小であり、憲法にマイノリティの権利が反映されないとして本選挙をボイコットした。治安の悪化や地元住民の反発により、1,496の投票所のうち115か所では投票が実施されなかった(このうち一部では再選挙が実施された模様である)。

結果として、有権者登録は約110万人、そのうちの投票率は約46%(投票者約50万人/登録有権者約110万人)にとどまった。60議席のうち13議席は空席となった。

代表議会選挙(2014年6月)

2014年6月25日、代表議会(HOR)選挙が実施された。GNC選挙とは異なり、定数の200議席のすべてが個人選出方式に割り当てられた。これは、選挙運動が暴力化や政党間の抗争を防ぐためだとされる。32議席は女性に割り当てられた。

選挙では、1,714人(男性1,562人、女性152人)が立候補した。ただし、カッザーフィー政権の元職員が公職に就くことを禁止する「政治的隔離法」にもとづき、41人の候補者は資格をはく奪された。

GNCの機能不全やリビア全土での治安悪化などを受けて、政治に対する国民の信頼は低下しており、有権者登録数は約151万人、投票率は42%(投票者63万人/登録有権者約151万人)という結果となった。2012年のGNC選挙と比較すると、投票者は約110万人、登録有権者は約130万人減少した。投票所の閉鎖や候補者の不在といった理由から12の議席は埋まらなかったが、再選挙は実施されなかった。

あくまで暫定的立法府であったGNCとは異なり、GNCは正式な立法府と位置付けられた。しかし、GNCの発足をもって解散する予定であったGNCの一部の議員が、GNCの設立手続きが違法であるとしてGNCの存続を主張し、独自の内閣である「国民救済政府(National Salvation Government)」を形成した。ここにおいて、リビアの東西に2つの政府が並存する事態が発生した。GNC(在トリポリ)とGNC(在トブルク)の対立は全国に拡大し、リビア国内の治安悪化やジハード主義組織の伸長につながった。

次期大統領・議会選挙に向けて

暫定政権である国民統一政府(GNU)は2021年12月24日の選挙実施を最大のマンデートとしているが、HORやHCS(GNCを母体とする政府諮問機関)は政治的利権の維持など独自の思惑を持って動いており、選挙プロセスは難航している。HORは選挙法案の決議を先延ばしし続けているほか、選挙によって既得権益を失うことを恐れる政治勢力を中心に、国政選挙に先駆けて、時間がかかる国民投票を通じた憲法制定を行うべきとの主張が繰り返されている。また、国民の間では、大統領に強大な権力が付与されることによる独裁体制の復活や国内対立の激化を恐れる意見も根強い。

次期選挙の準備は過去の選挙と同様に、高等国家選挙委員会(High National Electoral Commission: HNEC)が進めている。2011年に設立されたHNECは国政選挙の運営・実施を任務とする独立機関であり、2012年から2014年にかけて2度の国政選挙を実施してきた。特定の省庁には属さず、議会(HOR)のみに報告義務を負う。2021年8月現在、25の地方事務所と約350人の職員を擁している。対立の激しい情勢下においても、中立で信頼できる独立機関としての立場を確立しており、HNECの現地事務所は東西双方の勢力から支援を受けていた。また、UNDPがPromoting Elections for the People of Libya (PEPOL)という事業を通じてHNECに対する技術支援を行っている。

次期の大統領・議会選挙に向けて、2021年7月4日から8月17日にかけて追加の有権者登録が行われ、HNECは登録者合計を286万人(有権者全体の約63%)と発表した。新規登録者は52万人であり、紛争の影響を受けて退避した2万5千人は不在者投票という扱いになる。これに若干の在外投票登録者が加算される見込みもある。

9月9日にはサーリフHORが承認・署名した大統領選挙法(後述)がHNECおよびUNSMILに送付され、直後にクビシュUNSMIL代表は同法を承認する声明を発出した。ただし、9月中旬時点では議会選挙法が未承認である。また、大統領選挙法はHORの承認決議を経たわけではなく、サーリフHOR議長が一方的に発表したものであるため、これをUNSMILが「承認」したことは反発を呼ぶ可能性がある。また、高等国家評議会(HCS)は選挙法の発効には同機関の承認が必要だと主張しており、今後拒絶すると見られている。そうなれば、HCSが影響力を持つリビア西部の勢力が選挙妨害に動く恐れもあり、依然として選挙プロセスは流動的である。

2021年8月時点で大統領選への出馬を表明している者は少数である。2018年3月、元UAE大使のアーリフ・ナイードが、大統領選への立候補を表明した。ナイードは1990年代後半からリビア通信公社に勤務し、現在はヨルダンに拠点を置くテレビ局を経営している。彼はエジプトとUAEから支援を受けているとされ、ハフタル支持を公言している。また、2021年7月末にはカッザーフィー前指導者の次男であるサイフ・イスラームが2011年の内戦終結後約10年ぶりに欧米メディアに登場し、大統領選への出馬や政界への再復帰を示唆した。ただし、サイフ・イスラームは国内および国際刑事裁判所(ICC)から逮捕状を発行されており、出馬には多くの制限があると考えられている。

国際社会は一致して次期選挙を支援しているものの、その内実は多様である。米国は「リビア・トラップ(政府や議会の任期が切れ、正統性が失われた状態が継続すること)」による政治の不安定化を回避するために、スケジュールに沿った確実な選挙実施を最優先としており、リビア国内の主要アクター及び関連する諸外国に圧力をかけながら、積極的な働きかけを行っている。大統領選挙法が発表された直後には、米・英・仏・独・伊の在リビア大使館が合同で、期日通りの選挙実施を支援する共同声明を発出した。この背景には、トルコがGNAと結んだ安全保障協力を盾に自国軍の撤退を拒絶していることから、新政府の設立によってトルコとの合意を破棄し、リビア国内からの外国軍・傭兵の撤退を進めたい思惑がある。一方で、トルコやロシアは新政府の設立による自国の影響力低減を防ぐべく、選挙日程の後ろ倒しに向けて水面下で様々な働きかけを行っているとされる。また、上述の通り選挙実施に向けた法的な正統性が不十分であったり、大統領選における政治的暴力のリスクがあることから、国連や欧米諸国からも性急な選挙実施への懸念が指摘されている。

大統領選挙法(2021年9月9日発表)

選挙概要

(第5条)国家元首(大統領)の地位をめぐる選挙戦は、国全体を対象とした単一の小選挙区制に基づいて行われる。大統領候補者が有効投票総数の50%+1票を獲得した場合、当選者とみなされる。投票日に有効投票総数の50%+1票を獲得した候補者がいない場合は、最大の有効投票数を獲得した候補者が第2回投票に参加し、第2回投票で最大の得票数を獲得した候補者を当選者とする(注:決選投票に参加可能な候補者の人数は明示されていない)。

(第16条)大統領選出のための手続きの開始日、選挙日、決選投票日は、HNECの提案に基づいてHORによって決定される。

(第17条)立候補登録は、HNECが指定する期間内(登録開始日から10以上30日以内)に、指定された様式でHNECに提出する必要がある。この際、必要な資料を別添する必要がある。

(第19条)HNECは立候補者の申請を審査し、憲法宣言や選挙関連法で定められた条件の充足について確認し、登録期限の終了後5日以内に立候補可否を決定する。

(第34条)投票期間は特定の日の朝8時から夜8時までとし、投票センターの代表が同センター内で投票手続き終了を宣言する。ただしセンター内に未投票の投票者がいる場合は、所定期間後も投票手続きを継続するものとする。投票手続きの終了が宣言された後、投票センター代表及びスタッフ、オブザーバー、候補者代理人の立ち会いのもと、投票所内で直ちに票の選別および集計が開始される。

(第37条)投票手続きの終了後、HNECは10日以内に結果速報を発表する。

大統領の権限(第15条)

  1. 国の外交関係を代表する。
  2. 首相の選出、組閣の指示、解任。副大統領の選出。ただし副大統領と首相は、大統領の出身地域以外の出身であり、それぞれが異なる地域出身であること。
  3. リビア軍の最高司令官としての職務。
  4. HORの承認後、総合情報局長官(Head of the General Intelligence Service)の任命・解任。
  5. 内閣が提出した外務大臣の提案に基づく、大使及び国際機関への代表の任命。
  6. 外国及び国際機関の代表者の認定。
  7. HORで承認された法律の1か月以内の発行。法案は指定された期間内に議会に差し戻されない限り、法的に発行されたとみなされる。
  8. 国際協定や条約の締結。ただしHORで批准されるまで効力を持たない。
  9. 国家安全保障会議(National Security Council)の承認及びその後10日以内のHORの承認を経た、緊急事態の宣言。戒厳令はHORの承認が得られるまで宣言されない。
  10. 閣僚会議(内閣)に出席する際にはその議長を務める。
  11. 憲法宣言および法律に規定されたその他の権限。

候補者の要件(第9条)

  1. リビア人のムスリムであり、リビア人ムスリムの両親を持つこと。
  2. 立候補の時点で他国の国籍を有していないこと。
  3. 配偶者がリビア人であること。
  4. 出馬登録日において40歳以上(西暦)であること。
  5. 認定された大学における学士号またはそれに相当する学位を取得していること。
  6. リビアの市民権を得ていること。
  7. 裁判所の最終判決において、重罪または道徳的に不適切な軽犯罪に関する有罪判決を受けていないこと。
  8. 大統領の職務遂行に十分な健康状態であること。
  9. リビア国内外の本人、妻、未成年の子供の固定資産及び動産の申告書を提出すること。
  10. HNECや関連委員会の職員、または投票センターの委員でないこと。
  11. その他、法律で定められた要件を満たしていること。
  12. (第12条)候補者は民間人、軍人を問わず、選挙日の3か月前に職務を停止すること。選出されなかった場合は以前の仕事に戻り、職務停止中の全ての給与が支払われる。

副大統領(第14条)

選出された大統領は、在任中に辞任、死亡、永続的に職務遂行が不可能になった等の理由で大統領の地位が空席になった場合に職務を遂行する、副大統領を任命する。(大統領の退任後)新しい大統領は3か月以内に選出される。副大統領の任命に際しては、大統領の選出と同じ条件(第9条)が適用される。

選挙監視・取材(第55条)

市民社会、関連する地域・国際機関、候補者の代理人は、HNECの承認を経て選挙手続きの監視に参加することができる。またメディアの代表者は、本法及び関連規則に従って、選挙を取材することができる。

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2021年9月21日

リビア/政党

筆者は2019年10~11月に1,200人以上のリビア国民を対象として世論調査を実施したが、支持政党についての質問では、「どの政党も支持しない」という回答が全国平均で92%(西部93%、東部92%、南部93%)と圧倒的であった。2%以上の支持を得たのは「リベラル」とされる「国民勢力連合(National Forces Alliance)」とムスリム同胞団系の「公正建設党(Justice and Construction Party)」のみであった。

政党に対する支持の低さは、リビアでは1951年の独立からカッザーフィー政権期崩壊まで政党活動が禁じられており、政治における政党の役割が限定的であることが要因だと考えられる。本稿執筆時点で、比例代表方式による選挙が行われたのは2012年のGNC選挙のみであり、政党政治はリビア国内に定着していないと指摘できる。「国民勢力連合」と「公正建設党」は、2012年のGNC選挙において第1党、第2党となり、国内における政治的影響力が大きいとみなされてきた。しかし、政変後のリビアで要人の暗殺・誘拐、政党と関わりを持つ民兵組織による政府機関やインフラ施設の襲撃などが頻発し、政策でなく暴力によって政治が決定されてきた経緯から、リビア国民の政治に対する期待感が低下したと指摘できるだろう。

2021年12月に実施予定の国政選挙を見据えて、全国で約130の小規模政党が設立されたと報じられるが、多くの政党が新設であり、政策でなく特定の地域や部族によって構成された組織が大半であると指摘される。

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2021年9月21日

アルメニア/現在の政治体制・政治制度

アルメニアは、中東では珍しいキリスト教(東方教会系)国で、しかもソ連時代に世俗主義の政治が定着したことが、独立後の政治体制にも大きく影響している。独立後のアルメニア共和国においては信仰や結社の自由が認められ、宗教などの伝統的価値観を尊重する政党はあるものの、世俗主義的な政治体制が受け入れられている。

アルメニア共和国の政体は、ソ連邦末期の制度改革以来、久しく直接選挙によって選出される大統領を国家元首とする共和制をとってきた。一方で、内閣制度も併存し、大統領が直接選挙によって選ばれる国民議会内の多数派の中から首相を任命することが慣例となっていた。ただし、議会多数派が大統領を党首とした政党である時期が大半で、そうでないコチャリアン政権も、最大政党アルメニア共和党が大統領を支持して政権与党化したため、フランスのような保革共存政権になることはなかった。

現行憲法は1995年6月の国民投票を経て制定され、2005年11月に一部条項を改定したもの(本稿に直接かかわる規定の変更に関しては民主化の経緯の項を参照のこと。)が土台になっているが、2015年12月の国民投票を経て、準大統領制から議院内閣制に移行する大幅な政治制度の変更がなされた。実際、これに従い2018年3月に大統領の任期が切れたセルジュ・サルキスィアンが、翌月首相に就任したところ、選挙を経ないで実質的な政権の延命を図ろうとする政治手法を批判した野党の抗議運動で政権が崩壊した。(詳細は、民主化の経緯(最近の政治変化)の項目を参照のこと。)

なお、現行憲法が制定されるまでは、1991年末日にアルメニアが独立した後も1978年のアルメニア・ソヴィエト社会主義共和国憲法(実質的には、前年に制定されたソ連憲法~ブレジネフ憲法~のアルメニア版)が、独立後制定された法律で補正しながら、流用されていた。以下、三権のシステムについて解説する。

1.大統領と内閣

2015年の憲法改正までは、行政府の長は大統領で、任期は5年であった。大統領は国民議会の法案の拒否ならびに議会そのものの解散、首相や検事総長の任免が可能で、しかも国軍の最高司令官であるなど絶大な権限を有した(2015年改定前の憲法第55条)。さらに、議会の同意を得ないで政令(大統領令)を発布することも出来た(同第56条)。大統領は、首相の提案に基づいて閣僚を任免するほか、外交政策を統括し、国際条約を締結する権限を有する(同第55条)ため、現実政治においては、内政一般を内閣が、外交並びに安全保障を大統領が分担していた。

なお、三権分立を明確化するため、国民議会の議員が閣僚に任命された際には、その任期中議員の資格は停止していた。また、大統領が職務遂行不能の状態に陥った際には、新たに大統領が選出されるまで、国民議会の議長、それが不可能な場合には首相が職務を代行することになっていた(同第60条)。実際、1998年2月にカラバフ紛争の和平プロセスをめぐって当時の大統領テル・ペトロスィアンと閣僚が対立して大統領が辞任に追い込まれた際には、当時首相だったコチャリアンが大統領代行となっている。

これに対し、新制度では、大統領は議会で選出される儀礼的な元首で、任期7年となった。また、政党に属さない、不偏不党の立場が求められている。(2015年改正後の第125条。)しかし、現実には、内閣が行政命令を執行する際に大統領が署名を拒否して首相の決定を覆すなど、決して儀礼的存在とは言えない。(同第129条では、国会で成立した法律と最高裁判所の決定には、大統領が21日以内に署名しないといけない規定になっているが、首相の政令に関しては、特に規定がない。)特に、アルメン・サルキスィアン現大統領は、2018年春、当時の共和党政権下で選出された人物であるため、2020年の第二次ナゴルノ・カラバフ紛争でアルメニアが敗北して政局が流動化して以来、パシニアン首相の政治姿勢を公然と批判するようになっている。基本的には、首相が政治の主導権を握っているとはいえ、大統領と首相の間では「保革共存」状態である。

2.議会

現行憲法下において、立法府である国民議会は131名定員の一院制で、任期は5年である(2015年の改正後の第90条。なお、2012年の改正前までは任期4年)。国民議会は、議長の提案に基づき、中央銀行の総裁ならびに副総裁を任命するほか、憲法裁判所の判事ならびにその長官を任免することが出来る。(第83条)また、多数決によって政府に対し不信任を表明した場合には、首相は辞任しなければならない(第74条)が、現状では議会多数派から首相が任命されているため、こうした状況は起こりにくい。

3.司法機関

司法は、独立後に大きな制度改変が見られ、第一審裁判所、控訴裁判所、破毀裁判所の三審制となり、憲法裁判所に上訴された事案を除けば破毀裁判所が最高裁の役割を担っている。(第163条)一般の裁判所の他に、経済裁判所などの法律で定める係争を専門的に扱う裁判所も存在する。

また、現行憲法では司法機関の独立が謳われている点も、大きな特徴である。もっとも、1995年の制定時の規定では、判事の人事は司法評議会によって決定されるが、この評議会は判事会から選ばれた9人の委員、国民議会の任命した法学者による2人の委員とならんで大統領の任命した法学者による2人の委員から構成されるうえ、憲法裁判所以外の判事の人事は大統領の同意事項でもあったため(2015年改正前の第94条)、行政が司法に介入する余地は残されていた。

2015年度の憲法改正で大統領制から議院内閣制に移行することが決定されたことに合わせ、裁判官の選任にも議会の関与するようになった。憲法裁判所の9名の判事のうち、3名が大統領推薦、3名が内閣推薦、3名が司法評議会による推薦で、これが国民議会で信任されて、任官されることになった。(任期は12年と定められた。)一方、破棄院の判事は、司法評議会の推薦の上で、大統領が指名し、任期は6年である(第166条)。このように、大統領も判事の任免をめぐって、一定程度影響力を残している。

参照:アルメニア共和国憲法(1995年版と2005年版)

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2021年9月21日

アルメニア/最近の政治変化

1.ソヴィエト体制から独立へ

アルメニア社会には古くからコミュニティの自治を行うための民会が存在したが、本格的な代議員制が見られたのは20世紀に入ってからであり、しかもアルメニア人代議士が進出したオスマン帝国議会やロシア帝国国会、アルメニアの独立期(1918~1920年)の議会など、いずれも短命なものだった。

また、ソ連時代にはソヴィエト(成立当初は、労働者、兵士、農民からなる評議会)という疑似議会が存在し、1936年憲法(スターリン憲法)制定後は、18歳以上の男女すべてに普通選挙権が与えられていた。しかし、代議員の候補者は、共産党ないし各社会団体の推薦を得た候補が各選挙区に一名のみ配置されたため、選挙は単なる信任投票と化し、ソヴィエトの形骸化が進んだ。

アルメニアの現体制の確立は、ソ連末期の全連邦的な制度改革に端を発している。まず、ゴルバチョフ書記長によるペレストロイカの一環として、このソヴィエトの活性化が図られた。1988年の憲法修正で複数候補制が導入され、90年2月には複数政党制が容認された結果、ソヴィエトの内実は欧米の議会に近づくことになった。ついで、1990年3月の第3回臨時人民代議員大会で、ソ連邦に複数政党制と大統領制が導入されることが決定し、ゴルバチョフ共産党書記長が大統領に就任した。引き続いて、同じ年の4月には連邦から民族共和国の離脱手続きに関する法律と、連邦・共和国の権限区分法が採択された。これによって、政治的多元性、連邦構成共和国の主体的な政治改革が促進されることとなった。アルメニア・ソヴィエト社会主義共和国(以下、ソヴィエト・アルメニアと略記)では、90年5月に共和国最高会議の自由選挙がおこなわれ、非共産系政党のアルメニア全国民運動が勝利し、8月4日には全国民運動の代表レヴォン・テル=ペトロスィアンが最高ソヴィエト議長に選ばれた。91年2月26日には政治団体法が採択され、司法および治安関係者が在職中に社会政治団体に加入する、あるいは政党が国外の団体から指導を受けたり、それに加盟したり財政的・物質的援助を受けたりすることが禁止されたことで、共産党の活動が事実上禁止された。

以後、連邦の経済改革の混乱とともにバルト諸国やグルジアなど連邦構成共和国の自立化が目立つようになり、91年8月には連邦と共和国との間の新たな関係を規定した新連邦条約が締結されるはずだったが、8月19日の共産主義守旧派のクーデタで頓挫した。しかし、クーデタの失敗後、各共和国で一斉に独立宣言が出されるなど、急速に連邦の分解が進み、ソヴィエト・アルメニアでも9月21日に独立を問う国民投票が行われ、独立派が勝利した。さらに、アルメニアにもソ連政府を模した大統領制が導入され、10月17日にはテル=ペトロスィアン最高会議議長が大統領に選出された。そして、91年末の連邦崩壊に伴い、アルメニアは短い独立期(1918~1920年)以来、久方ぶりに独立国となる。

2.独立後の権威主義的傾向

独立後のアルメニア共和国では、政治活動の自由化は制度的に確立したが、1988年に発生したナゴルノ・カラバフをめぐるアゼルバイジャンとの紛争が激化したことで挙国一致体制の色彩を帯び、制度は有名無実化した。その典型が、テル=ペトロスィアン大統領とダシュナク党(アルメニア革命連盟)との対立である。ダシュナク党はアルメニアの短い独立期の政権党で、ソ連期には世界各地の在外アルメニア人コミュニティを活動拠点にし、1991年の大統領選では、テル=ペトロスィアンに対抗して、独自候補を立てた。カラバフ紛争では積極的な役割を果たして国民の支持を伸ばした。ところが、92年5月以後は戦線が膠着状態に陥り、大統領がカラバフ戦局の不拡大方針を打ち出すと、ダシュナク党がこれを批判したため、大統領は92年夏にダシュナク党の議長フライル・マルヒアンに国外退去を命じた。さらに、1994年12月には元エレヴァン市長の暗殺事件で政情不安が高まったことを口実に、ダシュナク党そのものの活動も禁じた。これによって95年5月の議会選挙ではダシュナク党を排除することに成功したものの、こうした大統領の政治手法が非民主的との批判を国内外から浴びるにいたった。

1998年2月にテル=ペトロスィアンが、94年のカラバフ紛争停戦後の和平交渉の方策がもとで大統領辞任に追い込まれると、当時首相だったカラバフ出身のロベルト・コチャリアンが、大統領代行を務めることとなった。コチャリアンはダシュナク党を再び合法化し、ダシュナク党の選挙参加を約束した。これは彼がカラバフの大統領時代に接近したといわれるダシュナク党を与党化する意図で行われた可能性が高い。

独立後の歴代政権下では、ソヴィエト期のような一党独裁制こそ復活しなかったものの、テル=ペトロスィアン政権ではアルメニア全国民運動、コチャリアン政権では共和党とダシュナク党というように、議会には大統領を翼賛する巨大与党(ないし与党連合)が出現し、政権が安定化するという傾向がみられる。また、有力な政敵が排除される事案も発生している。2003年3月の大統領選に対抗馬として期待されていたアメリカ人ラッフィ・ホヴァニスィアン元外相は、かねてから申請していたアルメニアへの帰化が再三裁判所で拒否され立候補できなかった。カラバフ出身のコチャリアンが、容易にアルメニア国籍が取得できたのとは対照的である。また、99年10月27日の議会内銃乱射事件で何名かの有力政治家が暗殺される事件が起こったが、これには政府の関与が疑われている。

ところで、2005年11月にアルメニア共和国憲法の一部条項をめぐって国民投票が行われ、憲法改正が施された。これは2001年に欧州議会からの要求で、人権規約や制度的民主化を促進させる必要にアルメニア政府が迫られていたことが背景にある。主な点は、思想信条に基づく差別の禁止(第14条第1項)、公正な裁判を受ける権利(第19条)、報道の自由の保障(第27条)が追加されたこと、大統領が司法人事に与える影響力が減じられたことが挙げられる。その一方で、大統領は在職期間中、職務上の行為に関して訴追を免れる(第56条)ことが認められ、行政の裁量権が拡大した。

こうした国民の権利拡大が図られながらも、コチャリアン政権期には野党のデモを武力で鎮圧する事件が二度起こっている。憲法改正が議論されていた2005年春にアルメニア国民民主連合の議長ヴァズゲン・マヌキアン、アルメニア人民党のステパン・デミルチアンらが会派「正義」(Ardatut‘yun)を結成した。2003年にグルジア、2004年にウクライナ、そして2005年クルグスで発生した一連の「色革命」の影響を受け、政権交代に向けて座り込みストを行うと3月24日に決定した。しかし、与党だけでなく統一労働党も野党連合に非協力的であったため、4月9日に野党連合は支持者約8000名とともにデモや議会での座り込みを行うものの、それ以上には拡大しなかった。12日になると野党会派の議員が警察に身柄を拘束され、13日の未明にはデモ関係者が強制的に解散させられた。

第二の武力鎮圧事件は政権の最末期に起こった。大統領職を2期務めたコチャリアンは、憲法で大統領の三選禁止が規定されているため、2008年2月の大統領選では同じカラバフ出身のセルジュ・サルキスィアンを後継者に指名した。そして、ロシア大統領選に見られたプーチン、メドヴェージェフの二枚看板を模倣した広報活動を行い、勝利した。(ただし、ロシアの場合と違い、コチャリアンは、サルキスィアンが大統領に就任すると政治の表舞台からは身を引いた。)ところが、この選挙に不正があったとして、対立候補のテル=ペトロスィアン元大統領の支持者が抗議を続けていたが、3月1日には約8000人のデモ隊と警察が衝突し、多数の死傷者が出た。そのため、コチャリアン大統領はその日の夜に非常事態を宣言してデモ隊を強制的に排除したばかりでなく、この事件に関する報道も著しく制限した。

概して、アルメニア共和国では、多党制も制度的に認められ、政権交代も起こっているものの、大統領の権威主義体制が正当化されやすい環境にあるといえよう。こうした体制が容易に生み出される背景として、隣国アゼルバイジャンとのナゴルノ・カラバフ地域をめぐる対立、さらに隣国トルコとの不正常な関係といった対外的な緊張があり、強い権力を行使する大統領を国民が容認しているためと考えられる。

3.2018年の政変と民主化の課題

2018年3月に2期8年間の大統領任期を終えたセルジュ・サルキスィアンは、2015年の憲法改正で国政を議院内閣制に移行することが予定されていたので、それに則った首相に横滑りしようと画策したところ、野党の党首ニコル・パシニアン率いる反政府デモ隊の抗議活動に押されて、4月23日に首相を辞任し、翌月パシニアンが首相に指名された。首相は、エレヴァン市長のタロン・マルカリアンの所得隠しや市長の運営する財団への利益誘導疑惑を利用して辞任に追い込んだ。そうした旧政権の腐敗を追求するネガティヴ・キャンペーンを張ったうえで、2018年12月に実施された議会の出直し選挙では、与党共和党の議席が消滅し、パシニアンを中心に結集した選挙連合「我が一歩」ブロックが大勝した。

ところが、昨年9月27日から始まった第二次ナゴルノ・カラバフ紛争では、ドローンなどの最新兵器を投入したアゼルバイジャン軍が優勢で、アルメニア政府が11月10日に停戦した際にまだアルメニア側が押さえていた保障占領地域を引き渡しただけでなく、「カラバフ共和国」の領土も縮小したため、パシニアンの辞任を求めるデモが連日起こった。結局、2021年6月に繰り上げ議会選挙が行われたが、ダシュナク党がコチャリアン元大統領、復活を目指した共和党がサルキスィアン元大統領を担ぎ出して、パシニアン首相の失策を厳しく追及した。結果的には、パシニアン率いる「我が一歩」ブロックが過半数をわずかに上回って勝利したものの、投票率が49.37パーセントと国政選挙にしては低く、国民の4分の1しか首相の続投を信任していない実態が露わになった格好である。

参照

  • L.Chorbajian, ed. The Making of Nagorno-Karabagh, Chippenham, 2001
  • M.P.Croissant, The Armenia-Azerbaijan Conflict, West Port, 1998
  • G.E.Curtis ed., Armenia, Azerbaijan, and Georgia: country studies, Washington D.C., 1995
  • D.Golovanov, Armenia: constitution amended, http://merlin.obs.coe.int/iris/2006/2/article8.en.html
  • E.Herzig, The New Caucasus, New York, 1999
  • J.R.Masih&R.O.Krikorian, Armenia at the Crossroads, Amsterdam, 1999
  • C.Mouradian, L’Arménie, Paris, 1996
  • R.G.Suny, Looking toward Ararat, Bloomington & Indianapolis, 1993
  • Российский институт стратегических исследований, Армения, Москва, 1998
  • 上野俊彦「ロシアの選挙民主主義――ペレストロイカ期における競争選挙の導入――」、皆川修吾編『移行期のロシア政治』、渓水社、1999
  • 塩川伸明『多民族国家ソ連の興亡Ⅱ 国家の構築と解体』、岩波書店、2007
  • 吉村貴之『アルメニア近現代史』(ユーラシアブックレット)、東洋書店、2009
  • 吉村貴之「アルメニアの現代政治」(特集「ソ連解体から30年を経た現在」)、『ユーラシア研究』No.64、2021、23-25頁
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2021年9月21日

アルメニア/選挙

1.選挙制度

中央選管の統轄の下、アルメニア共和国の11の行政区、さらには有権者数に応じて等分された各選挙区それぞれに支部が配置される三層構造である。選挙権は18歳以上のすべてのアルメニア共和国国民が有しているが、兵役中ないし軍務に服している場合には、議会選挙の選挙区ならびに自治体選挙では投票できない一方で、国外在住市民の在外投票は認められている。

共和国議会選挙には、憲法裁判所のメンバー、裁判官、警察治安関係者、税務・税関職員、刑務官ならびに軍関係者を除く、25歳以上のアルメニア共和国国民が立候補することが可能である。(ただし、二重国籍者は不可。)1999年選挙より議会の定員が131名となり、2007年選挙では41名が選挙区制、90名が政党名簿式比例代表制で選出された。なお、比例代表制での議席獲得には「5パーセント条項」が課せられているが、近年、少数政党が選挙連合を組むことが多く、その場合は「7パーセント条項」が適用される。

また、2015年の憲法改正までは、アルメニア共和国は直接選挙による大統領制を採用していたが、その大統領選挙には、アルメニア共和国に10年以上居住する35歳以上のアルメニア共和国国民が立候補できた。(共和国議会同様、二重国籍者は不可。大統領の三選条項あり。)

共和国議会選および大統領選には、共和国選挙管理委員会だけでなく、OSCE(欧州安全保障協力機構)の選挙監視団も入り、おおむね公正な選挙だと認定されている。しかし、95年の議会選挙のようにダシュナク党の候補者受付を妨害したうえで選挙を行ったため、その正統性が当のOSCEからも疑問視されたうえ、大統領選では毎回のように投票用紙の不正操作が取り沙汰され、敗北した候補者の陣営が不正選挙を主張してデモを組織するなど、アルメニアに自由選挙が定着するには課題が多い。

2.共和国議会選挙

アルメニアの独立後、共和国最高ソヴィエトは共和国議会にそのまま移行していたが、議事の定足数が全議員の半数の124であるのに対し、法案を可決するための有効な票数が単純過半数の125と規定されていたばかりでなく、定員260名のうち160名以上の議員がしばしば欠席したため、議事運営が滞った。1995年4月にアルメニア共和国の選挙法が採択されたのに伴い、その年の7月に議会選挙が行われた。

・1995年7月5日実施の選挙結果

 投票総数:1,217,531 (投票率55.6%)

政党または会派比例得票率(%)獲得議席うち選挙区分
共和ブロック(アルメニア全国民運動系)42.6611999
シャミラム女性党16.8880
共産党12.1061
国民民主連合7.5132
国民自決連合5.5730
アルメニア民主自由党(ラムカヴァル党)2.5201
科学産業市民連合1.2901
ダシュナク党01
独立諸派4545
合計190150

・1999年5月30日実施の選挙結果

 投票総数:1,137,133 (52 %)

政党または会派比例得票率(%)獲得議席うち選挙区分改選による増減
「統一」ブロック(アルメニア共和党、アルメニア人民党)41.456233+61
共産党12.041020
「権利と統一」ブロック7.9371初当選
ダシュナク党7.7983+7
法治国家5.2562初当選
国民民主連合5.1462-3
独立諸派20.403232-61
合計13175-59

・2003年5月25日実施の選挙結果

 投票総数:1,234,925(51.5 %)

政党または会派比例得票率(%)獲得議席うち選挙区分改選による増減
アルメニア共和党23.373310+2
正義13.60140初当選
法治国家12.33197+17
ダシュナク党11.36110+3
国民の統一8.7990初当選
統一労働党5.6360初当選
全アルメニア労働党11初当選
アルメニア共産党2.0800-10
共和国党11初当選
独立諸派3737+5
(6月14、15日再選挙分)(3)
合計–  131560

・2007年5月12日実施の選挙結果

投票総数:1,375,733 (59.35%)

政党または会派比例得票率(%)獲得議席うち選挙区分改選による増減
アルメニア共和党33.916418+33
「繁栄のアルメニア」党15.13187+18
ダシュナク党13.16160+5
法治国家7.0592–10
遺産6.0070+7
統一労働党4.3900–6
国民の統一3.5800–9
共和国党1.650-1
独立諸派1313–24
合計131410

・2012年5月6日実施の選挙結果

投票総数1,559,939 (61.83%)

政党または会派比例得票率(%)獲得議席うち選挙区分改選による増減
アルメニア共和党44.126222+3
「繁栄のアルメニア」党30.19357+10
アルメニア国民会議7.1070+7
遺産5.7850-2
ダシュナク党5.6850-11
法治国家5.5261-4
共和国党4.2322+2
アルメニア全国民運動3.7711+1
独立諸派88-5
合計131410

・2017 年4月2日実施の選挙結果

投票総数:1,575,382 (60.86%)

政党または会派得票率(%)獲得議席改選による増減
アルメニア共和党49.1758-11
ツァルキアン連合(「繁栄のアルメニア」党、連合党、伝道党)27.3531-2
出口連合(「輝けるアルメニア」、共和国党、市民協約)7.789初当選
ダシュナク党6.587+2
アルメニアのルネサンス(法治国家、「団結されたるアルメニア人」党)3.720-6
ORO連合(遺産、統一党)*2.070-5
アルメニア国民会議・アルメニア人民党連合1.660-7
合計105-26

*選挙連合名の由来は、2016年のナゴルノ・カラバフでのアルメニア軍とアゼルバイジャン軍との軍事衝突の責任を取らされ、国防大臣を更迭されたセイラン・オハニアンを、「遺産」の党首ラフィ・ホヴァニスィアン元外相と統一党の党首ヴァルタン・オスカニアン元外相が引き込んだことから、この3名の名前または苗字の頭文字を取って付けたことにある。

・2018 年12月9日実施の出直し選挙結果

投票総数:1,260,847 (48.62%)

政党または会派得票率(%)獲得議席改選による増減
「我が一歩」連合(市民協約、伝導党、諸派)70.4488+83
繁栄のアルメニア8.2626-5
輝けるアルメニア6.3718+15
アルメニア共和党4.700-58
ダシュナク党3.890-7
「我ら」連合(共和国党、自由民主主義者)2.000-1
合計132+27

・2021 年6月20日実施の出直し選挙結果

投票総数:1,276,693 (49.37%)

政党または会派得票率(%)獲得議席改選による増減
市民協約53.9571-17
アルメニア連合(ダシュナク党、「再生アルメニア」)*21.1129初当選(ダシュナク党は議会復帰)
「我に誉れあり」連合(アルメニア共和党、祖国党)5.227初当選(共和党は議会復帰)
繁栄のアルメニア3.950-26
輝けるアルメニア1.220-18
合計107-25

*代表は、ロベルト・コチャリアン元大統領

3.大統領選挙

ソ連末期の1991年に大統領に選出されたテル=ペトロスィアン大統領は、アルメニアの独立後もその職に留まり、96年には大統領に再選されたが、二期目の途中98年に辞任した。ついで、その年の出直し選挙で当選したコチャリアンは、2003年の選挙で再選され、二期目を全うした。この独立後3回の選挙に共通するのは、有力な対抗馬が出現して、96年選挙はテル=ペトロスィアンが過半数をわずか2ポイント弱上回って辛勝、98年、03年選挙はともにコチャリアンが第一回投票で過半数に達せず、決選投票に持ち込まれたことである。候補者登録の手続きや投票制度に問題があることが指摘されているとはいえ、政権に対する批判がある程度選挙で反映されることが分かる。なお、08年選挙では、03年選挙に続いて最有力対抗馬であるアルメニア系アメリカ人ホヴァニスィアンの帰化が拒否されて立候補できず、再出馬したテル=ペトロスィアン前大統領に対する国民の不信感が十分払拭されていなかったこともあり、サルキスィアンがテル=ペトロスィアンにダブルスコアで勝利した。もっとも、サルキスィアンも、アルメニア共和国の首相まで務め、コチャリアンの後継者として大々的に宣伝された割には、過半数を3ポイント弱上回っただけである。コチャリアンに引き続き、ナゴルノ・カラバフという、形式的にはアゼルバイジャンから独立した「外国」出身者だと野党側が批判していたことも、有権者の投票行動にある程度影響したと考えられる。コチャリアン路線を引き継いだサルキスィアンは、議会の最大会派アルメニア共和党の党首も務めたことで政権が安定し、以後10年に亘って政権を担当することになる。

なお、2015年の憲法改正で議院内閣制に移行し、大統領は国民議会が選出することが決定した。これにより、2018年3月2日の国民議会内の選挙で、アルメニア共和党が推挙したアルメン・サルキスィアン元駐英大使が大統領に当選した。

・1991年10月17日実施の選挙結果

投票総数:1,260,433 (70%)

候補者と所属政党得票数得票率(%)
レヴォン・テルペトロスィアン(アルメニア全国民運動)1,046,15983.0
パルイル・ハイリキアン(国民自決同盟)90,7517.2
ソス・サルキスィアン(ダシュナク党)54,1984.3
アショト・ナヴァサルディアン(アルメニア共和党)  
ラファエル・ガザリアン(無所属)  
ゾリ・バラヤン(無所属)  

・1996年9月22日実施の選挙結果

投票総数:1,308,548 (60.3%)

候補者と所属政党得票数得票率(%)
レヴォン・テル=ペトロスィアン(アルメニア全国民運動)646,88851.75
ヴァズゲン・マヌキアン(国民民主連合)516.12941.29
セルゲイ・バダリアン(共産党)79.3476.34
アショト・マヌチャリアン(無所属)7.5290.6

・1998年3月19日、30日実施の選挙結果

投票総数:1,456,109 (63.48%)(第1回投票)、1,567,702 (68.14%)(第2回投票)

候補者と所属政党第一回投票での得票数得票率(%)第二回投票での得票数得票率(%)
ロベルト・コチャリアン(無所属)545,93838.50908,61358.91
カレン・デミルチアン(元共産党)431,96730.46618,76440.12
ヴァズゲン・マヌキアン(国民民主連合)172,44912.16
セルゲイ・バダリアン(共産党)155,02310.93
パルイル・ハイリキアン(国民自決連合)76,2125.37
その他諸候補(諸派)26,4341.86

・2003年2月19日、3月5日実施の選挙結果

投票総数:1,463,499 (63.21%)(第1回投票)、1,563,071 (67.04%)(第2回投票)

候補者と所属政党第一回投票での得票数得票率(%)第二回投票での得票数得票率(%)
ロベルト・コチャリアン(無所属)710,67449.481,044,59167.45
ステパン・デミルチアン(アルメニア人民党)399,75728.22504,01132.55
アルタシェス・ゲガミアン(国民の統一)250,14517.66
アラム・カラぺティアン(無所属)41,7952.95
ヴァズゲン・マヌキアン(国民民主連合)12,9040.91
ルベン・アヴァギアン(統一アルメニア人党)5,7880.41
アラム・サルキスィアン(アルメニア民主党)3,0340.21%
ガルニク・マルカリアン(祖国と尊厳)1,2720.09
アラム・ハルテュニアン(国民協調党)8540.06

2008年2月19日実施の選挙結果

投票総数:1,668,464 (72.14%)

候補者と所属政党得票数得票率(%)
セルジュ・サルキスィアン(アルメニア共和党)862,36952.82
レヴォン・テル=ペトロスィアン(無所属)351,22221.50
アルトゥル・バグダサリアン(法治国家)272,42717.70
ヴァハン・ホヴァニスィアン(ダシュナク党)100,9666.20
ヴァズゲン・マヌキアン(国民民主連合)21,0751.30
ティグラン・カラぺティアン(人民党)9,7920.60
アルタシェス・ゲガミアン(国民の統一)7,5240.46
アルマン・メリキアン(無所属)4,3990.27
アラム・ハルテュニアン(国民協調党)2,8920.17

・2013年2月18日選挙

投票総数:1,519,603 (60.09%)

候補者と所属政党得票数得票率(%)
セルジュ・サルキスィアン(アルメニア共和党)861,16058.64
ラフィ・ホヴァニスィアン(遺産)539,67236.75
フラント・バグラティアン(自由党)31,6432.15
パルイル・ハイリキアン(国民自決同盟)18,0931.23
アンドリアス・グカスィアン(無所属)8,3280.57
ヴァルタン・セドラキアン(無所属)6,2030.42
アルマン・ミカエリアン(無所属)3,5160.24

参照

  • G.E.Curtis ed., Armenia, Azerbaijan, and Georgia: country studies, Washington D.C., 1995
  • http://www.parliament.am/
  • http://www.elections.am/Default.aspx
  • http://www.ipu.org/parline-e/reports/2013_arc.htmhttp://www.electionguide.org/
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2021年9月21日

アルメニア/政党

ソ連時代の一党独裁制が崩れると、多党制に移行し、「アルメニア人が2人集まると3つの派閥ができる」という冗談が出るほどの百花繚乱ぶりである。ただ、党の団結が党首の強烈な個性に依存しているせいもあって政党の離合集散が多く、政局に影響を与える政党はわずかしかない。本稿では、第一次大戦以降のアルメニア社会に大きな役割を果たした政党を含めて、現代のアルメニア共和国の主要政党について解説する。(なお、政党のアルメニア語表記は、読者の便宜に鑑み、ラテン文字に転写してある。)

アルメニア全国民運動

Hayots‘ hamazgayin sharzhum

1989年にナゴルノ・カラバフ運動(ソヴィエト・アゼルバイジャン内のアルメニア人集住地域ナゴルノ・カラバフ自治州とソヴィエト・アルメニアとが合併するのが目標)の指導者レヴォン・テル=ペトロスィアンが設立した政党だが、前年に成立したカラバフ委員会の流れを汲むという説もある。テル・ペトロスィアンが政権の座に就いてからは与党として議会の多数派を占めたが、98年に大統領が辞任してからは党勢が急速に衰え、その後の議会選でも議席が取れない期間が続き、2012年の議会選で辛うじて1議席を獲得したものの、2013年に解党した。

ダシュナク党(アルメニア革命連盟)

Hay heghap‘okhakan dashnakts‘ut‘yun

1890年にチフリス(現:ジョージアのトビリシ)で複数の民族主義勢力が結集して成立した。1907年にロシアの人民主義政党エスエル(社会革命党あるいは社会主義者革命家党)と活動提携を結び、民族主義的社会主義を模索した。アルメニアにソヴィエト政権が成立した後、党内の反共グループは国外に亡命した。1925年以降は反共路線を打ち出し、在外アルメニア人コミュニティを根城にソヴィエト政権と厳しく対立した。ソ連邦末期にアルメニアに帰還し、カラバフ紛争に積極的に介入して国民の支持を伸ばしたが、対トルコ関係や94年のカラバフ紛争停戦後の対アゼルバイジャン政策をめぐってテル・ペトロスィアン政権と対立し、94年末からは非合法化され、98年の大統領辞任の直後、コチャリアン臨時大統領によって合法化された。コチャリアン政権期は事実上の与党として大統領を支えていたが、サルキスィアン政権が2009年春に打ち出したトルコとの国交樹立路線に反発して政権を離脱し、アルメニア人虐殺の謝罪をトルコ政府から勝ち取るまでトルコとの国交回復は容認しないとしている。2018年春の政変を受けた同年末の出直し議会選挙では、共和党とパシニアン新首相率いる「我が一歩」ブロックの対決の陰に隠れ、全議席を失ったが、第二次カラバフ紛争後の政局の混乱を収めるために行われた2021年6月の繰り上げ議会選では、「再生されるアルメニア」党と組み、かつて与党時代に関係の良かったコチャリアン元大統領を代表とした「アルメニア連合」ブロックを形成し、議席を奪還した。現議会では、この選挙ブロックで29議席を有する。

http://www.arfd.info/

アルメニア共和党

Hayastani Hanrapetakan kusakts‘ut‘yun

1990年結党。思想的にはダシュナク党右派のガレギン・ヌジュデ(1886~1955)および1967年から87年にかけてソヴィエト・アルメニアで非合法に活動していた民族統一党の流れを汲むという。99年に暗殺されたヴァズゲン・サルキスィアン元首相、2007年に急死したアンドラニク・マルカリアン元首相も党首を務めたことがある。現在の党議長はセルジュ・サルキスィアン前大統領。2018年末の出直し議会選挙では、パシニアン新首相率いる「我が一歩」連合の政治腐敗一掃キャンペーンが功を奏し、全議席を失ったが、2021年6月の繰り上げ議会選では、新設の祖国党と「我に誇りあり」ブロックを組んで、パシニアン首相のカラバフ紛争での失政を批判し、議席を回復した。現議会では7議席を有する。

http://www.hhk.am/eng/index.php?page=program

「市民協約」

K’aghak’ats’iakan paymanagir

ジャーナリストのニコル・パシニアンが、それまで支持していたテル・ペトロスィアン元大統領と袂を分かって、2013年に設立した。当時のサルキスィアン政権の打倒と完全自由選挙を目指した。しかし、急ごしらえの政治団体だったため、2015年に政党として登録した後も、他党との連携で選挙に臨んだ。2017年の議会選では、「輝けるアルメニア」や共和国党(与党共和党とは別団体)と「出口連合」ブロックを形成、選挙連合全体で9議席獲得した。2018年春のパシニアンが主導した民衆革命でパシニアン内閣が成立したことを受けた同年末の出直し議会選では伝導党と「我が一歩」ブロックを形成、共和党との対決姿勢で88議席を獲得し、名実ともに与党化した。しかし、2021年の繰り上げ議会選では、第二次カラバフ紛争の失政を野党から厳しく追及され、71議席に減らしたものの、「市民協約」の単独過半数となり、引き続き与党を担っている。

https://www.civilcontract.am/hy

「繁栄のアルメニア」党

Vargavatsh Hayastani kusakts‘ut‘yun

2004年結党だが、この党が注目されるようになったのは、2006年夏に実業家でアームレスリング選手のガギク・ツァルキアンが党首に就いてからである。手広く事業を行う実業家が突如として政界入りして急速に党勢を拡張させたため、共和党に次ぐ第二与党を育成しようという大統領の思惑を訝る観測もあるが、実態は不明。実際、共和党政権に協力的な態度を示した。2018年春の政変を受けた同年末の出直し議会選挙では、共和党とパシニアン新首相率いる「我が一歩」連合の対決の中でも議席を守ったものの、第二次カラバフ紛争後の政局の混乱を収めるために行われた2021年6月の繰り上げ議会選では、パシニアン首相を批判する元大統領を擁する選挙連合が2つも現れたことで存在感が薄れ、全議席を失った。

http://www.bhk.am/

「輝けるアルメニア」

Lusavor Hayastan

2015年に法律家のエドモン・マヌキアンが設立した政党で、EUとの関係を重視している。2017年の議会選挙では、パシニアンの率いる「市民協約」などと「出口連合」ブロックを形成して、3議席を確保し、続く2018年の出直し議会選では、単独で18議席を獲得し、第3会派に躍り出た。しかし、2021年6月の繰り上げ議会選では、パシニアン首相を批判する元大統領を擁する選挙連合が他に2つも現れたことで存在感が薄れ、全議席を失った。

https://brightarmenia.am/

「法治国家」

Orinats‘ yerkir

1998年に法律家のアルトゥル・バグダサリアン議員が中心になって創設されたEUとの関係を重視する政党。2003年のコチャリアン大統領再選後に与党となるが、2006年末メツァモル原発の民営化問題をめぐって政府と対立し、政権から離脱した。2008年の大統領選では党首が立候補し、第3位となった。その後、サルキスィアン政権誕生時に再び与党入りした。しかし、2017年の議会選で議席を失って以来、党勢は回復していない。

http://www.oek.am/main/free_text/home_page.php?lng=1

「遺産」

Zharangut‘yun

アルメニアの体制転換時の1991、92年に外相を務めたラッフィ・ホヴァニスィアンが、2002年に設立した。党首がアメリカ合衆国生まれということもあり、欧米型の政治経済制度をアルメニアに定着させることを目指している。2007年の議会選挙で7議席を獲得した。しかし、2018年の出直し議会選で議席を失って以来、党勢は回復していない。

http://www.heritage.am/indexeng.htm

アルメニア共産党

Hayastani komunistakan kusakts‘ut‘yun

アルメニア共産党はソ連末期に解体分裂したが、その中で後継政党を自任する。2003年の議会選で議席を失って以来、党勢は回復していない。

アルメニア統一共産党

Hayastani miavorvatz komunistakan kusakts‘ut‘yun

旧共産党系の諸政党、アルメニア新共産党、アルメニア労働共産党、アルメニア統一労働党、アルメニア共産主義者同盟、アルメニア・マルクス主義者党、知識人党が、2003年7月に結集して成立したが、2007年の議会選挙で議席を失った。

民主自由党

Ramkavar azatakan kusakts‘ut‘yun

1908年にイスタンブル(現トルコ)で結成された。支持者にはオスマン帝国の高級官僚、富裕な商人や銀行家が多く、当時零細商工業者や下級聖職者出身者が多かったダシュナク党とは対照的な政党であった。民主自由党は、第一次大戦時にオスマン帝国下でアルメニア人虐殺が起こってから、この事件後に世界に四散したアルメニア人のコミュニティに根を下ろした。ソヴィエト・アルメニア成立後は、在外アルメニア人コミュニティに進出してきたダシュナク党に対抗し、一貫してソヴィエト政権を支持した。アルメニアの独立後は、「本国」政界にも進出したが、1999年の議会選で議席を失って以来、党勢拡大は見られない。

http://www.ramgavar.org/index.php?lang=en

(社会民主主義)フンチャク党

Sots‘ial democrat hnch‘akyan kusakts‘ut‘yun

フンチャク(「鐘」の意)党は、1887年夏にスイスのジュネーヴで結成されたアルメニア最初の社会主義政党である。創設者は西欧で教育を受けたマルクス主義者であった。1896年にオスマン帝国のアルメニア人社会の実情に鑑みれば社会主義は時期尚早とするグループが脱落したため党勢を縮小したものの、各地のアルメニア人コミュニティに活動拠点を築いていった。1920年代以降は、ソヴィエト・アルメニアを支持する派閥として、民主自由党と協力しつつ、ダシュナク党と対立した。アルメニアが独立した後はテル=ペトロスィアン政権を支持する立場を示していたが、サルキスィアン政権に批判的だった。

http://www.hunchak.org.au/aboutus/historical_turabian.html

国民民主連合

Azgayin demokratakan miut‘yun

ソヴィエト・アルメニア末期の1990~91年にアルメニア全国民運動政権時に首相を務めたヴァズゲン・マヌキアンが、91年にテル・ペトロスィアンと袂を分かってこの党を創設した。党首マヌキアンが1996、98、2003、2008年と大統領選に出馬するなど、野党を貫いている。また、2003年に会派「正義」を結成するなど、マヌキアンは野党結集に奔走したが、2007年の議会選挙でこの党は議席を失った。

「国民の統一」

Azgayin miabanut‘yun

1997年に元共産党員で、エレヴァン市長も務めたアルタシェス・ゲガミアンが1997年に設立した。党首ゲガミアンが2003年、2008年の大統領選に出馬するなど、野党を貫いている。2003年の議会選挙では議席を獲得したものの、2007年の議会選挙で議席を失った。

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2021年8月31日

レバノン/現在の政治体制・制度

シリアの西方、イスラエルの北方に位置するレバノンは、面積10,452平方キロメートル(日本の岐阜県ほど)、人口およそ600万人という小さなアラブ国家である。首都はベイルート。公用語はアラビア語であるが、英語やフランス語も多くの地域で通じる。

宗教とエスニシティの観点から見れば、レバノンは18の公認宗派、そして多様なエスニック・グループが共存するモザイク国家である。宗派毎に見ると、相対多数派としてマロン派キリスト教徒、スンナ派イスラーム教徒、シーア派イスラーム教徒が存在し、その他の少数派として、ギリシャ・カトリック、アルメニア教徒、ドゥルーズ派、アラウィー派などが存在する(宗派毎の人口比に関しては表1を参照)。エスニック・グループとしては、人口の約90%を占めるアラブ人がいて、これ以外にアルメニア人、クルド人、チェルケス人などの小さなエスニック・グループが存在している。

さらに、正確な数字は不明ではあるが、レバノン国外には国内のおよそ10倍ものレバノン人あるいはレバノン起源の移民が居住しているとされる。その多くはフランス、カナダ、オーストラリア、メキシコ、ブラジル、湾岸産油国、西アフリカ沿岸諸国、米国などに在住しており、なかにはそれぞれの国や地域でビジネスを成功させ、巨額の財を築いた者も少なくない。2019年末の国外逃亡劇で世間を騒がせた日産自動車のカルロス・ゴーン元会長などもブラジル出身でレバノンに起源を持つマロン派キリスト教徒である。

1943年11月に仏領委任統治からの独立を果たして以降、1970年代初頭に至るまで、レバノンはアジアとヨーロッパを繋ぐ中継地としての地政学的重要性、外国語を自由に操る国際的な貿易商の存在、レッセ・フェール(自由放任)を基礎とした政治経済体制、そして風光明媚な自然環境も相まって、金融・観光部門を中心に「中東のパリ」とも呼ばれるほどの栄華を誇った。だが、1975年から15年もの長きにわたって戦われた凄惨な内戦の影響で、国土は極度に荒廃、経済は完全に破綻し、知識や技術を持った貴重な人材の多くが国外へと去っていった。 

内戦終結以降から2005年までの期間、レバノンは隣国シリアによる実効支配を受けることになる。内戦初期の1976年、シリアはレバノンに対して大規模な軍事介入に踏み切っており、内戦終結以降もレバノンが国防能力と治安維持能力を回復するまでという名目で軍と治安部隊を引き続き駐留させ続け、レバノンに巨大な政治的影響力を行使し続けた。また、内戦の最中に台頭したシーア派政治組織/対イスラエル抵抗運動組織であり、シリア・イランと密接な同盟関係にあるヒズブッラー(ヒズボラ)は、イスラエルの脅威は依然として消えていないとの論理によって内戦終結以降も唯一武装解除を免れた(その軍事力は今では国軍を遥かに凌いでいる)。シリアによる実効支配はレバノンに一応の安定をもたらしたものの、隣国に対する長引く実効支配とヒズブッラーに対する援助は国際的な批判をうけることにもなった。

そうしたなかで2005年2月、レバノンの大富豪で元首相、同国復興の立役者でもあるラフィーク・ハリーリー氏が暗殺された(実行犯は未だに明らかとはなっていないが、シリア当局の関与が強く疑われている)ことを契機に、レバノン国内では反シリアを掲げる国民運動、いわゆる「杉の木革命」が急速な盛り上がりを見せた。そうした動きを受けて、同年5月、シリアはレバノンからの完全撤退を決断する。

しかしながら、シリアという「重石」が取り除かれたことで、レバノン政治は再び深刻な政情不安に陥ることになり、2008〜09年頃には再び内戦の足音が聞こえてくるまでに事態は悪化した。ただ、このときはシリアやサウジアラビアをはじめとする外国勢力が再びレバノン政局に介入し、一応の秩序をもたらすことに成功した。だが、2011年以降はシリア内戦や地域情勢の不安定化の影響を強く受けることとなり(レバノンには現在まででトルコに次いで2番目に多い約150万人ものシリア難民が押し寄せたといわれている)、同国はまたもや深刻な困難を背負うこととなってしまった。 

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2021年8月31日

レバノン/最近の政治変化

政治・社会

独立以降、現在に至るまで、レバノンの政治・社会は基本的に「宗派主義制度」と「パトロン・クライアント関係」(親分・子分関係)の二点によって特徴付けられてきた。 

第一の「宗派主義」に関して、レバノンが18もの公認宗派集団によって構成されるモザイク国家であることは既に述べた。そんなレバノンでは歴史的に、国民を識別する第一義的な要素を「宗派」とし、国家権力・利権はある特定の宗派集団によって独占されるのではなく主要宗派間で共有されなければならないとする考え方、つまり「宗派主義」が基本理念として保持されてきた。そして、この理念を制度化したものが「宗派主義制度」と呼ばれる現行の権力分有システムである。この制度の下では宗派は事実上の「利権集団」として扱われ、あらゆる公的機関のポストはあらかじめ各宗派に定数配分されることになっている。たとえば大統領はマロン派、首相はスンナ派、国会議長はシーア派とするといったように憲法には明記されている。また総議席128の国民議会議席数も宗派ごとにあらかじめ定数が割り当てられている(表を参照)。

また、レバノン政治においては、重要度の高い法案や政策の可決に議会や内閣における3分の2以上の賛成票が必要とされる(「拒否権を行使できる3分の1」条項)。だが、実際のところ、宗派ごと/派閥ごとに細切れにされた同国政治においては、3分の2以上の議席を1つの勢力が握ることはきわめて困難である。

このような各宗派/派閥の権力を均衡させ、多数決ではなく合議/談合によって意思決定を行うことを意図したこうした制度の下では、これまでに宗派間の利害が鋭く対立するような争点をめぐって政治過程はしばしば麻痺状態に陥った。また、宗派単位で細切れにされた行政機関はしばしばその非効率性・硬直性を露呈してきた。

ついで、第二の「パトロン・クライアント関係」とは、要するに日本の文脈における利益誘導政治の一種と考えて良い。つまり、レバノンにおいては宗派ごとに「ザイーム」と呼ばれる派閥領袖(親分)らが存在し、彼らは政治家として国家機構内外の権力を独占的に占有し続け、そこから得られた恩恵を自らの庇護下の人々に便宜供与というかたち(たとえば政策的な便宜を図る、就職先を斡旋する、ビジネスの機会を提供するなど)で提供する。他方、庇護下の人々(子分)は、その見返りとしてザイームに対する政治献金、選挙における投票、そして有事に際しては民兵としての奉仕などを求められる。こうした慣行は世界各国にある程度普遍的に見られる現象ではあるが、レバノンの場合はそうした「公的権力の私物化」(つまりは政治腐敗)があまりに度を越しており、ザイームたちは政治や公共政策をあたかも彼らのファミリー・ビジネスかのように扱ってきたとしばしば批判されてきた1

レバノンの公認18宗派の人口比と議席配分

 宗派名人口比議席数
1932年2010年1960~92年1992年~
キリスト教諸派マロン派28.218.253034
ギリシャ正教9.781114
ギリシャ・カトリック5.94.568
アルメニア正教3.22.7545
アルメニア・カトリック0.711
プロテスタント0.9111
マイノリティ
(アッシリア正教、カルディア正教、
ラテン教会、シリア教会、
シリア・カトリック、コプト教)
11
小計50.834.55464
イスラーム諸派スンナ派22.4292027
シーア派19.6331927
ドルーズ派6.85.6368
アラウィー派0.8902

1990〜2005年、すなわちシリア軍・治安機関がレバノンに駐留していた期間においては、シリア政府が権威主義的支配をレバノンにまで拡大し、レバノン政界における事実上の支配者として最終的な裁定を行ってきた。これによってレバノンでは一定の秩序が維持されたが、同時に多くの国際的批判を受けてきたことは上述の通りである。だが、シリア軍・治安機関が撤退して以降、上述の2つの政治・社会的特徴が急速に表面化し、様々な政治・社会・経済問題を引き起こすようになった。

実際、2005年から2008年にかけては、シリア政府との関係をめぐってレバノン政局が「3月8日勢力」(ヒズブッラーなどによって構成される、いわゆる「親シリア派」)と「3月14日勢力」(ムスタクバル潮流などによって構成される、いわゆる「反シリア派」)という2つの勢力に分断され、政治の場や街頭において(内戦時代を想起させるような)激しい政治・武力闘争を繰り広げた。2008年5月にアラブ連盟とカタルの仲介によって「ドーハ合意」と呼ばれる和平合意が成立するも、両勢力間の対立の火種が解消したわけでは決してなかった。

2011年以降は内戦状況に陥ったシリア政府との関係をめぐってレバノン政局は再び深刻な分断・麻痺状況に陥り、政治的に重要な議案や争点はことごとく先送りされるようになっていった。たとえば2013年6月には国民議会議員(任期4年)の任期満了に伴う議会選挙が実施されるはずであったが、選挙制度に関する議論が最後までまとまらず、結局、任期切れの議員たちが2018年5月まで居座ることとなった。また、2014年5月にはミシェル・スライマーン大統領が任期満了で退任するも議会では後継大統領が決まらず、結局、2016年10月にミシェル・アウン氏が新大統領に選出されるまで大統領職は空位のままであった。こうした「憲政上の空白」とも呼びうる異常状態においては重要な意思決定を行うことなど到底不可能であり、実際、年度ごとの予算案などは2005年度以降12年間にわたって議会で可決されてこなかった。2016年頃から政治過程が僅かなりとも前に進むようになってきたのは、レバノンの根源的問題が解決されたからではなく、単にシリア情勢がバッシャール・アサド政権優位で終結の兆しを見せ始めたからに過ぎない。 

かねてより非効率性・硬直性が指摘され続けてきたレバノンの行政機構もまた、2011年以降はこうした政局の影響を大きく受け、まったくの機能不全に陥ってしまった。そもそもレバノンの行政機構に関する問題は数え上げればキリがないほどだが、たとえば2015年以降、政府が固形廃棄物の処理計画とその財源をいつまでも策定できなかったために国全体がゴミの山で溢れかえるようになった問題は、こうした状況を象徴していた。この問題はその後、放置されたゴミから放たれる悪臭と政治家たちの腐敗をかけた「おまえたちは臭う(You Stink)」という名の市民による抗議運動につながった。

2020年8月にはベイルート港湾部の倉庫が突如として爆発した。爆発はキノコ雲と数キロ先まで到達するほどの爆風を伴う大規模なもので、200人以上の死者、6,500人以上の負傷者、30万人もの避難者を出し、経済的損失も180〜200億ドルに上ると推計された。爆発したのは2013年9月に政府によって違法な貨物船から没収され保管されていたおよそ2,750トンもの硝酸アンモニウムであった。その直接的な原因(「事故」なのか「事件」なのか)は依然として調査中であるとはいえ、この危険な物質が2013年から6年にわたって杜撰な管理下で放置されてきたことは事実であり、その意味でこの爆発は間違いなく「人災」であった(少なくともレバノン国民からはそう認識された)。そして実際、事件から4日後にはベイルート中心部で政府の責任を追及する激しい抗議デモが発生し、暴徒化した市民が外務省ビルを占拠し「革命」を呼びかける事態となった。

加えて、次項で詳述するように、レバノンは現在、内戦後最悪とも言われるきわめて深刻な経済・財政危機に直面しており、それに対する政府の無策、そしてその背景にある深刻な腐敗問題に対して、2019年以降、レバノン各地で大規模な反政府デモが散発的に続いている。2020年3月には外貨建て国債の返済延期が表明され(同国による債務不履行〔デフォルト〕は今回が初めて)、同年4月には財政支援を受けるべくIMFとの協議に着手する旨が表明された。しかしながら、相変わらず腐敗と汚職が蔓延し、さらには(米国によって「国際テロ組織」に指定されている)ヒズブッラーが大きな発言権を持つレバノン政府に対してIMFが融資を躊躇していること、そしてヒズブッラーの側もIMFの介入を米国主導の「イラン/ヒズブッラー包囲網」と認識し、それに強い抵抗感を示していることから、レバノン政府とIMFとのあいだの交渉は依然として難航している。

経済・財政

2018年の世界銀行の調査によると、レバノンの経済規模はおよそ570億ドル、一人当たりGDPは9,251ドルと、経済規模は小さいながら中高位所得国に位置付けられている。2007年から2010年にかけては8~10%の経済成長を達成したが、2011年以降はシリア内戦や中東全域の混乱、そして海外からの資本流入の減少などにより急減速し、ここ数年は1~2%で推移した後、2019年はゼロ成長に落ち込んだ(図を参照)。2019年の時点で公的債務残高は国内総生産(GDP)の150%以上に達し、これは債務対GDP比で世界3番目に大きい数字である(なお、レバノンの上はギリシアと日本である)。また、経済格差という点で言えば、レバノンでは上位1%の最裕福層が GDPのおよそ25%を稼ぎだす一方、下位50%の人々の収入は合計してもGDPの10%足らずという、いわゆる「中間層」がすっぽり抜け落ちた、世界で最も不平等な国の一つとなっている。

レバノン経済の中心はサービス部門であり、とりわけ貿易・観光・金融部門はレバノンにおける最も重要な経済部門で主要な外貨獲得源となっている。2008年から2018年までの期間において、GDPに占めるこうしたサービス部門の割合は平均でおよそ73%であった一方、工業・建設業といった製造業と農業は合わせてもGDPの中で平均およそ19%を占めるに過ぎなかった。こうしたことからレバノンでは、経済成長を続けるにつれて輸入が増加するという構造にあり、加えて原油やガスといったエネルギー資源のすべて輸入に依存していることもあり、貿易収支は常に赤字基調にある(WTOのレポートによると、2017年の総輸出額は40.26億ドル、総輸入額は201.09億ドルであり、貿易収支は160.83億ドルの赤字となっている)。

こうした経常赤字はこれまで主として観光などを始めとするサービス業、および在外レバノン人からの送金や外国直接投資(FDI)によって補填されてきた。長期に渡った内戦を境に地域経済・金融のハブとしての地位を湾岸諸国へ譲り渡すことにはなったが、英・仏・アラビア語が通じ、美しい自然や様々な世界遺産、そして豊かな食文化とアルコール(この点は特に湾岸産油国の富豪たちにとって重要である)を楽しめるレバノンは、依然として多くの観光客を魅了し続けている。GDPに占める観光部門の割合は例年15~20%であり、2009年にはおよそ200万人の観光客を受け入れて戦前の最多記録を塗り替えた。

他方で、在外レバノン人からの国内への送金額は巨額に上り、2018年の世界銀行のデータによると、その額は年間でおよそ70億ドル(GDPのおよそ12.7%に相当)と推計されている。また、FDIに関しては、内戦終結以降、政府は国家再建のために非常に高い金利を設定し、為替売買や資本移動に関する規制をほとんど設けず、銀行の秘匿権を厳密に保証しており、これによって海外、とりわけ産油国からのオイルマネーを集めることに尽力した。内戦終結以降のベイルートにおける建設ブームと不動産価格の高騰とも相まって、こうした手法は短期的には功を奏した。以降、政府は同様の手法を続け、いわゆる「不労所得経済」に大きく依存する経済構造が確立していく。だが、こうして集められた外貨は結局、不透明なかたちで政治家の懐に入るだけで、政府によって有効に有用・投資されることはなかった。また、こうしたバブル的な経済構造は当然、大きなリスクをはらむものでもあった。

事実、シリア内戦をきっかけとして、2012〜13年頃からレバノン経済は深刻な財政危機に陥いるようになっていった。FDIに大きく依存するレバノンにおいては国外からの投資を積極的に呼び込むため極端に高い金利が設定され、これまで同国の商業銀行は大口預金者に対して法外な利息を約束し支払ってきたが、その元手は投資・運用によって得た利益ではなくあくまでリスクの低い政府への貸し付けで得た利息である場合が多く(ある報道によるとレバノンの商業銀行が中央銀行に預けた預金は2017年から2019年の間に70%以上増加しているともいわれる)、そのしわ寄せは当然納税者の国民に向かうことになる。「巨大なポンジ・スキーム」(いわゆる出資金詐欺)と揶揄されることも多いこうした金融システムにおいては、外貨が流入し続けているうちは良いが、一旦外貨引き上げの兆候が見られると途端に負債が雪だるま式に増大していく。ここ数年のレバノン経済はまさにこのような悪循環の只中にある。

加えて、レバノンの風土病とも言いうる腐敗も、経済システムの基本構造と指摘して良いだろう。たとえば「腐敗認知指数」2019年度版によるとレバノンの汚職度合いは180ヵ国中137位であり、また世界銀行の2020年の研究によると同国での「ビジネスのしやすさ」は190ヵ国中143位(他の中東諸国、たとえばトルコは33位、バハレーンは43位、サウジアラビアは62位)であった。そして、レバノンにおけるビジネス環境の順位を著しく落としている最大の要因が「非効率で腐敗にまみれた官僚機構」であるとされ、煩雑な手続きや腐敗があらゆる形態・場所で蔓延し、贈収賄、縁故・恩顧主義、談合などが日常的に観察されるとされている。

世銀による1995年の調査は、レバノンにおいてビジネスを行う際の困難さを、次のように的確に表現している。「国際的なビジネス社会には[レバノン経済に関して]、私的取引、贈収賄、恩顧、圧力のために、法を超越して、[既得権益]保護のネットワークにおいて腐敗が制度化されているとの認識が存在している。潜在的な投資家たちは、こうした状況が継続するならば、党派的・家族的な忠誠心が経済的参入や成功を独断的に決定するようになると予想している。結果として、国際的なビジネス社会は、法的要求や国家機構への信頼無しに、自分たちが知っており、出来事やアクターをコントロールできる範囲においてのみリスクを引き受けるようになる」2。 レバノンでは2019年10月中旬以降、悪化する一方の経済状況と、それに対して何らの対処策も打ち出せない無能で腐敗した政府に対して、大規模な抗議デモが続いている。2020年3月にはレバノン史上初となる債務不履行(デフォルト)が宣言され、その後も現在に至るまで深刻な債務危機は解決の見通しも立たないままである。そうしたなかでレバノン・リラ(LL)も急落し、1ドル1,500LLが正規レートであるにもかかわらず、現時点では街の両替商のレートは2,300LLで1ドルとなっている。外貨準備も極端に不足しており、ほとんどの銀行は1週間の引き出し上限を200ドルに制限するに至った。

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