「政治変動DB記事」カテゴリーの記事一覧

2019年11月18日

インドネシア/選挙

国会議員選挙

インドネシアは独立以降(独立宣言1945年、(独立戦争の終結1949年)、1955、1971、1977、1982、1987、1992、1997、1999、2004、2009、2014、2019年と12度の総選挙を行った。このうちスカルノ初代大統領下の1955年は比較的自由な選挙であったが、スハルト大統領下における71年から97年までの6度の総選挙には政府による厳しい統制と介入があった。1973年にナショナリスト系諸政党がインドネシア民主党、イスラーム系諸政党が開発統一党に統合された(政党簡素化)。翼賛的なゴルカル(職能団体)がつねに60%以上の得票をし、独占的な立場にあった。

スハルト体制崩壊後に行われた1999年以降の総選挙においては、より民主的な手続きがとられるようになった。総選挙では、下院に当たる国会(DPR)と上院に当たる地方代表議会(DPD)、地方議会(州・県・市議会)選挙も同時に行われる。選挙のたびに細かな制度変更が行われており、国会の定数は500から、550、560、575へと増加した。選挙制度は、1955年の第1回総選挙以来つねに比例代表制が採用されてきたが、完全拘束名簿式、条件付非拘束名簿式と変わり、2009年総選挙では完全な非拘束名簿が導入された。非拘束名簿の採用によって、政党より候補者個人の人気に選挙の結果が左右される傾向が強まった。なお、この制度導入に当たっては、一時は国会が実質的な拘束名簿の採用を決めたが、憲法裁判所がこれを違憲とした経緯があった。

1999年総選挙以降、多党化の傾向が続いており、2014年選挙では議会獲得のための最低得票率が1%引き上げられて3.5%に、2019年選挙では4%に引き上げられた。政党数を削減による、議会運営の安定化を意図したものであった。しかしその効果は薄く、第1党でも得票率および議席占有率が2割を切る状態が続いている。その背景には、政党の支持基盤や組織の弱さ、政党不信から、支持政党を持たない有権者が増え続けている状況がある。このため、政党の分裂と新党結成が常態化している。

政党名( * がイスラーム系政党)1999年2004 年2009 年2014 年2019 年
闘争民主党 (PDI-P)33.7%153議席18.6%109議席14%94議席19%109議席19.3%128議席
グリンドラ党4.5%26議席11.8%73議席12.6%78議席
ゴルカル党22.4%120議席21.6%127議席14.5%106議席14.8%91議席12.3%85議席
民族覚醒党 (PKB) *12.6%51議席10.6%52議席4.9%28議席9%47議席9.7%58議席
国民民主党 (Nasdem)6.7%35議席9.1%59議席
福祉正義党 (PKS) *1.4%7議席7.3%45議席7.9%57議席6.8%40議席8.2%50議席
民主主義者党 (PD)7.5%56議席20.9%148議席10.2%61議席7.8%54議席
国民信託党 (PAN) *7.1%34議席6.4%53議席6%46議席7.6%49議席6.8%44議席
開発統一党 (PPP) *10.7%58議席8.1%58議席5.3%38議席6.5%39議席4.5%19議席
ハヌラ党3.8%17議席5.3%16議席1.5%
イスラーム系政党合計36.5%38.4%29.1%31.4%30.0%

2019年総選挙の得票率順。記載政党は、2014年選挙の結果議席を獲得した政党のみ。*はイスラーム系政党(著者作成)

大統領選挙

大統領は従来国民協議会で選出されていたが、2004年から全国1区の直接投票となり、国会議員選挙と同時に行われるようになった。政党の支持を得た正副大統領のペアで立候補し、過半数票と全国の州の半分以上で20%以上の票を得られれば当選となる。この要件を満たす候補者がいなければ、上位2組で決選投票が行われる。候補者の擁立ができるのは国会議員選挙の得票率25%以上もしくは国会議席の20%以上を得た単独もしくは複数の政党である。この要件を単独の政党が満たすことは極めて難しく、大統領と国会の関係を安定化させるために、政党間の協力を促すことを意図している。

2004年選挙では5組が立候補し、上位2組による決選投票の結果スシロ・バンバン・ユドヨノ―ユスフ・カラ組が当選した。2009年選挙では3組が立候補し、スシロ・バンバン・ユドヨノ―ブディオノ組が第1回目の投票で過半数を占めて当選した。「継続」をキーワードに再選に挑んだユドヨノが負けたのはわずか5州、得票は60%を超える圧勝だった。2014年選挙はジョコウィ―ユスフ・カラ、プラボウォ・スビアント―ハッタ・ラジャサの2組で争われ、かつてない大接戦のうえ、53.15%を獲得したジョコウィ組が勝利した。ユスフ・カラは二度目の副大統領就任となった。2019年選挙は再びジョコウィとプラボウォの一騎打ち(副大統領候補はそれぞれマアルフ・アミン、サンディアガ・ウノ)となり、ジョコ・ウィドドが55.5%を獲得して再選された(「最近の政治変化」参照)。

参考文献

  • 川村晃一「2014年選挙の制度と管理」川村晃一編『新興民主主義国インドネシア―ユドヨノ政権の10年とジョコウィ大統領の誕生―』アジア経済研究所、2015年、15-36ページ。
  • 川村晃一・東方孝之「国会議員選挙―民主主義者党の勝利と業績投票の出現―」、本名純・川村晃一編『2009年インドネシアの選挙―ユドヨノ再選の背景と第2期政権の展望―』アジア経済研究所、2010年、13-37ページ。
  • 川村晃一・見市建「大統領選挙―庶民派対エリートの大激戦―」川村晃一編『新興民主主義国インドネシア―ユドヨノ政権の10年とジョコウィ大統領の誕生―』アジア経済研究所、2015年、73-93ページ。
  • 本名純「大統領選挙―ユドヨノ再選の権力政治と動員プロジェクト―」、本名純・川村晃一編『2009年インドネシアの選挙―ユドヨノ再選の背景と第2期政権の展望―』アジア経済研究所、2010年、39-55ページ。
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2019年11月18日

インドネシア/最近の政治変化

1998年以降のインドネシアでは、大統領選出に前後して大連立が組まれることが常態化していた。しかし、2014年大統領選挙はジョコウィとプラボウォ・スビアントの大接戦となり、その後の国政は大統領選に際して組まれた連立に基づく与野党対立が続いた。当選したジョコウィ大統領が野党切り崩しによる地歩固めを行い、在野の急進的なイスラーム勢力と連合した野党の巻き返しが起こった。そしてインターネット上の辛辣なやりとりやフェイクニュース、そして政府の強権的な取り締まりが常態化している。2019年大統領選は社会に深い傷跡を残し、順調に進んできたとみなされてきたインドネシアの民主化にブレーキがかかったと評されている。

2014年10月に誕生した第一次ジョコウィ政権は少数与党で始まり、国会の主要ポストは野党に独占された。しかし老獪な人事と野党の切り崩しを組み合わせ、ゴルカル党、開発統一党が党の分裂を経て与党連合に加わった。明確な野党は、プラボウォのグリンドラ党とイスラーム主義の福祉正義党だけになった。ジョコウィはインフラ整備に力を入れる一方、大統領選で弱みになった、リーダーシップの欠如と世俗的イメージの改善を図り、高い支持率を維持した。

2019年の大統領選に向け、盤石に見えたジョコウィ政権であったが、これを揺るがしたのが2016年末の「宗教冒涜」事件である。きっかけは、華人でキリスト教徒のバスキ・チャハヤ・プルナマ(通称アホック)による「宗教冒涜」発言であった。アホックは9月末の遊説で、コーランの一節を根拠に異教徒の指導者を認めない勢力を茶化した。この発言が編集されてソーシャルメディアで拡散した。イスラーム急進派がアホックの「宗教冒涜」に対する抗議運動を指揮し、これに野党勢力も加わって、1998年以降最大規模の動員に成功した。アホックは2017年4月の州知事選挙で敗れた挙句、宗教冒涜罪で禁錮2年の罰を受けた。ジョコウィに近いアホックへの抗議は、ジョコウィの立場も危うくした。動員は、「#大統領交代」運動として継続した。

プラボウォの支持勢力は、ジョコウィやその支持勢力に「宗教冒涜」「共産党」「非ムスリム」「親中」といったラベルを貼り、「反イスラーム的」な政権とのイメージを植えつけた。他方、ジョコウィ側は急進的なイスラーム主義勢力への危機感を煽った。両陣営のプロパガンダには、ソーシャルメディアが駆使された。この結果、2019年4月の大統領選挙結果は、地域によって極端な分裂をした。つまり、一部のムスリム多数派地域ではプラボウォへの支持が9割近くになり、非ムスリム地域ではジョコウィが圧倒した。またこの過程で、政権はしばしば強権的な手法で取り締まりを行なった。ジョコウィは55.5%を獲得して再選されたが、社会に深い傷跡を残した。

2019年10月には第二次ジョコウィ政権が誕生した。プラボウォとそのグリンドラ党は連立政権に加わり、プラボウォは国防相になった。大連立による政権の安定が図られるとともに、プラボウォを始め退役軍人の入閣が目立った。しかし、2019年選挙での亀裂は次期2024年選挙の動向を睨みつつ、燻り続けている。

新型コロナウィルスの流行は、各国の政治構造や制度、リーダーシップのあり方や問題点を浮き彫りにした。2020年3月上旬まで感染者が確認されなかったインドネシアでは、その対処方針をめぐって当初中央と地方の対立が目立った。両者の法律上の権限があいまいなことや、上に述べた政治的な亀裂や競争を反映したものだった。経済への影響を憂慮する大統領は、ロックダウンなど厳しい措置に消極的だったため、より強い規制を求める声があった。2021年8月現在、デルタ株の蔓延によって、インドネシアは世界でも最もひどい感染状況にある国の一つとなっている。

他方、こうした状況下で2024年大統領選に向けた動きは本格化しつつある(現時点の候補者については「政党」を参照)。ジョコウィは一定の人気を維持しており、憲法改正によってジョコウィの3選を可能にする案も取り沙汰されている。大統領の多選制限は1998年の民主化の重要な産物である。こうした案が浮上すること自体が、インドネシアにおける民主主義の緩慢な後退を象徴しているといえるだろう。

参考文献

  • 見市建「<インドネシア>庶民派大統領ジョコ・ウィドドの「強権」」『21世紀東南アジアの強権政治 「ストロングマン」時代の到来』明石書店、2018年、209-244ページ。
  • 見市建「インドネシアにおける「イスラームの位置付け」をめぐる闘争」『国際問題』675号、2018年、29-37ページ。
  • 見市建「インドネシア大統領選挙 二極化の虚実」『世界』55号、2019年、72-75ページ。
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2019年10月7日

リビア/補足

参考文献

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2019年1月18日

趣旨

このホームページは、人間文化研究機構(NIHU)「現代中東地域研究」東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所(AA研)拠点に属する政治変動研究会のものです。政治変動研究会は、文字通りイスラーム諸国の政治変動を研究することを目的としていますが、その活動のひとつに「中東・イスラーム諸国 政治変動データベース」の構築と公表があります。このホームページには、そのデータベースが掲載されています。

データベースの対象国は、中東(西アジアと北アフリカ)のみならず、中央アジア・南カフカス、西南アジア、東南アジアのイスラーム諸国(人口の半数以上をムスリムが占める国々)であり、データベース掲載国はこれから順次増えていく予定です。

データベースは、各国ごとに「政治体制・制度」、「最近の政治変化」、「選挙」、「政党」の4項目からなっています。「政治体制・制度」は憲法などに規定された三権の内容など、国家の基本構造を解説し、「最近の政治変化」は近年の政治的変化を簡潔にまとめています。「選挙」は選挙制度の解説と最近の議会選挙や大統領選挙などの結果を記載し、「政党」は政党制度と主要な政党、政治団体を解説しています。

以前に比べると、新聞などのメディアで多くの国の選挙が報道されるようになりました。1990年の冷戦崩壊以降、「民主化の第三の波」と呼ばれた大きな政治変動を経て、大半の国々で選挙がより大きな政治的意味を持つようになった結果であろうと思います。しかし、報道レベルでの選挙の結果やその解説は、量的・時間的制約などから、どうしても簡略化された内容となり、その意味するところが読者一般に十分には伝わっていないことが多いように思います。そこで、まずはデータベースの当該国をご覧いただき、その国の選挙結果にかかわるさまざまな内容や変化を理解する一助としていただきたいということが、我々の当面の目的です。

しかし、政治変動研究会やそのデータベースの目的は、これにとどまりません。イスラーム諸国に限らず、日本における諸外国の政治研究に最も欠けている点は、基礎研究であろうと思われます。もちろん、眼前の政治状況や事件が、報道だけでなく外交や経済活動の第一の関心事であることは明らかです。しかし、その理解のためには、憲法の規定やその変遷、選挙・政党に関わる制度とその変化など、政治変動の基層や背景にある基本情報の整理と提供が不可欠であることも、また明らかであると思います。冷戦期には、憲法規定や選挙自体にかかわる政治的意味が小さかった事例も多くありましたが、冷戦崩壊後には、それらの意味は格段に重要度を上げています。それゆえ、対象各国にかかわる政治制度や選挙・政党の基礎研究が、政治変動研究会の目的になります。

また、冷戦崩壊後の民主化は政治的な安定とは逆に、内戦などの混乱や、民主化の後退といった再権威主義化をもたらした事例もあります。2011年「アラブの春」のあとの、いくつかのアラブ諸国はその典型例ですが、そのような政治的な混乱や不安定にかかわる研究も当然、政治変動研究会の目的になります。さらに、少数ではありますが、政治制度として政党や立法権を有する議会が存在しないという国々もあります。これらの事例もデータベースの対象国とし、その政治制度や政治状況にかかわる解説を提供します。

データベースの各国の執筆者には、気鋭の研究者を揃えることができました(ぜひ「執筆者一覧」をご覧ください)。執筆者の方々には、完全なボランティアでこの研究会にご参加いただいております。この場をお借りして、厚く御礼申し上げます。「中東・イスラーム諸国 政治変動データベース」が、対象の国々の政治的な制度や変化の理解に資することができれば、それは執筆者陣の望外の喜びです。上記しましたように、データベース掲載国は順次増えていきますので、継続してご覧いただければと思います。なお、データベースにおける執筆者の見解は個人のものであり、現代中東地域研究によるものではないことを記しておきます。

(文責:松本弘)

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2019年1月18日

バングラデシュ/現在の政治体制・制度

バングラデシュは人口の9割をムスリムが占めている。同国の人口が1億6760万人(同国統計局による2020年度統計)であることを考えると、1億4000万人以上のムスリム人口をかかえていることとなり、実数でいえば、インドネシア、パキスタン、インドに次ぐ世界第4位のムスリム人口となる。そして、このような大多数のムスリム人口を背景とし、バングラデシュの国教はイスラームに規定されている。

現在バングラデシュでは、定数300名および、選出された議員の割合に応じて配分される女性留保議席50名の計350議席によって構成される、5年任期の一院制議会制度がとられている。しかし、議会制のもとでの民主主義の歴史は浅く、1975年から1990年までは、軍部出身の大統領に権限が集中し、国会が意味をなさない形骸化した議会制度、もしくは直接の軍政下にあった。バングラデシュ政治の実質的な民主化は、1990年にH・M・エルシャド政権が学生運動を主体とした民主化運動によって倒された後の憲法改正によって、大統領を元首とする議院内閣制度が確立した1991年になされたといえる。

現政権与党のアワミ連盟(Awami League)は2018年12月30日に実施された第11次国民議会選挙において、単独で全300議席中258議席を獲得し、民主化以降初の3期連続の政権党となった。しかしながら、野党支持者が暴力的に排除されたり、投票箱が持ち出されたりするなど、選挙の公正な実施に関しては疑問符がついた。以下に、現在のバングラデシュ政治体制に関する論点を整理したい。 

(1)政治体制・政治制度の概観

バングラデシュにおける現在の政治体制の柱は議院内閣制である。行政権は内閣総理大臣に与えられる。大統領は、国家の元首および軍の最高司令官として定められており、総理大臣、大臣、および最高裁判所裁判官の任命権を有する。しかし、大統領は首相の助言にしたがって行動しなければならない。また、交戦権の行使には議会の承認が必要である。

立法権は議会に属し、議会は任期5年の一院制である。内閣総理大臣は議会によって選出される。内閣総理大臣は内閣の人事権を有する。議席数は350議席で、直接選挙による300人定員の普通選挙に加えて、50人の女性留保議席がある。女性留保議席に関しては、普通選挙の得票率に従って政党ごとに割り当てられる。

司法権は、行政・立法権から独立する旨の憲法規定があるが、議会の3分の2以上の賛成で裁判官の罷免が可能である。裁判所は最高裁判所(Supreme Court)、高等裁判所(High Court)、下級裁判所(Subordinate Court)が憲法により定められている。これとは別に、軽度の民事訴訟においては村裁判によって裁判がおこなわれることもある。

(2)2大政党対立による政情不安

1991年の民主化以降、バングラデシュにおいては、アワミ連盟とBNPが交互に政権を担ってきた。そして、政権が交代する度に、野党側が「不正選挙」結果の取り消し要求、長期間にわたる議会ボイコットや政党傘下の学生組織を動員しての街頭デモやホルタル(ゼネスト)など、激しい反政府活動を展開し、国政を混乱させてきた。与党側も政策決定過程において実質的に野党を排除し、前政権の汚職の摘発や要職者の逮捕などをつうじて、野党の力を弱めようと画策した。また、中央から末端の地方行政、国立大学にまでおよぶ役職人事を政治的に任命し、影響力を強めてきた。2大政党のどちらが政権の座についても、同様のパターンが繰り返されており、今日までバングラデシュの政情混迷の主要因となっている。

国内で最も長い歴史を誇るアワミ連盟は、パキスタン時代にムジブル・ラフマン総裁を中心に自治権拡大運動を展開した。独立後、ムジブル・ラフマン総裁は初代首相(後に大統領)に就任したが、次第に強権的性格を強め、1975年の軍事クーデターによって暗殺された。後継者として、長女のシェイク・ハシナ(現首相)が総裁に就任した。

一方のBNPは、1975年の軍事クーデターの主導者の一人である、ジヤウル・ラフマン陸軍参謀長(77年に大統領)が、民政移管に備え1978年に結成した官製政党である。ジヤウル・ラフマン大統領もまた、1981年に軍内部の対立から暗殺され、その後はカレダ・ジア夫人が総裁に就任した。

このように、両党の現総裁は、過去に大統領であった近親者を軍事クーデターによって暗殺されている。特に、初代大統領のムジブル・ラフマン暗殺の際には、大統領本人だけでなく一族の大半が殺害された(ハシナ現総裁は外遊中で殺害を免れた)。そしてクーデターの後に、軍部内の権力闘争に勝ち抜いて、自らBNPを結成し政権の座についたのがジヤウル・ラフマンであったことから、両総裁の間には晴れることのない遺恨が存在する。 

現在では、両党の間には、支持基盤や理念に違いはみられるものの、政策的には大きな差異はなく、むしろ党首間の心情的確執や利権の争奪、権力への強い固執からくる泥仕合的な対立が目立っている(村山2012)。現段階では上記二大政党に割って入るだけの支持基盤と強いリーダーシップを持つ政党・政治家が存在しないことから、国民はどちらかに国政を託すしかないのが現状である。2008年総選挙実施にあたり、ノーベル平和賞受賞者であるグラミン銀行のムハマド・ユヌス総裁が新党立ち上げを画策したが、実現しなかった。また、国政・地方に関わらず、選挙の不正に関する報道はあとをたたず、バングラデシュの議会制民主主義は、民意を反映する仕組みとしてはいまだ未成熟であるといえる。

(3)軍の影響

1991年の民主化以降、軍の間にも二大政党の対立が浸透しているといわれているが、軍の中立的姿勢と実行力は、2007年から2008年にかけての非政党選挙管理内閣を経て、国民の高い支持を得るにいたった。

2006年10月、2001年より国政を担っていたBNP政権が任期満了で退陣し、解散後90日以内に国会選挙を実施するために設けられる、非政党選挙管理内閣が発足した。1996年の憲法改正で導入されたこの制度は、与野党どちらの側にも与しない中立的な立場の暫定内閣を組閣し、選挙管理委員会を支援・監視することにより、国会選挙の公正性を担保することを目的としている。しかし、内閣人事などを巡り政党間の対立が激化し、国内の治安が悪化したため、同内閣のイアデュッディン大統領は2007年1月11日、バングラデシュ全土に向けて非常事態宣言を発令するとともに、全土に夜間外出禁止令を出した。そして軍の後援のもと、翌12日にファクルッディン・アーメド元中央銀行総裁を首班とする非政党選挙内閣が再発足した。

ファクルッディン政権は、これまで2大政党のどちらもが自らの足下への波及を恐れて着手してこなかった政治改革を断行した。特に、汚職の一掃にむけた取り組みは、大々的に実施され、元閣僚を含む政治家や官僚、企業家を矢継ぎ早に逮捕した。その対象は政治の中枢にまでおよび、BNPのカレダ・ジア総裁、アワミ連盟のシェイク・ハシナ総裁も汚職容疑で逮捕される事態となった(08年6月にハシナ総裁は海外での病気治療を理由に仮釈放され、ジア総裁も08年9月に保釈された)。報道によれば、400人以上におよぶ汚職容疑者リストは軍部によって用意されたとされる。そのため、軍部は、汚職のない環境制度作りに寄与し、2大政党による利益誘導型の政治にメスを入れたとして国民の高い支持を受けた。一方で、選挙実施にむけたロードマップ作成の遅れから、アメリカをはじめとする欧米諸国から、軍の強い影響下にある非政党選挙管理内閣が長期化することへの危惧が示されたが、結果として2年後の2009年12月に議会選挙が実施され、無事民政移管が果たされた。

このように、バングラデシュ政治における軍部の影響力は、国民の支持を背景に決して小さくないが、現状では軍部が全面にでて長期間政治運営をおこなうことは困難であると思われる。一つには外国援助依存がきわめて高いバングラデシュにおいては、欧米のドナー諸国の意向、とりわけ民主化促進、基本的人権の擁護を求める外的圧力が働き、軍政をしくこと自体が難しくなっている。また、軍の関心は、機微な舵取りと利害調整が求められ、時として軍内部でのクーデターに発展する恐れのある国内政治への関与から、議会制民主主義のもと民主化が前提となっている国連平和維持軍の派遣によって得られる経済的利益に移行していると考えられる。バングラデシュは2018年5月の段階でPKOミッションに7099人を派遣しており、世界第2位の派遣国である。バングラデシュにとっては、外貨と軍組織の維持費獲得、そして国際的な地位向上という派遣へのインセンティブがある。また、将兵個々人の経済的メリットも大きく、派遣兵士の平均月給は約75、680TK(約1、100USドル)となっている。この額は少尉クラスの基本給10、000TK、准将クラスの基本給38、565TKに比べると格段に高い(IWGIA 2012)。軍のリクルートサイトには海外勤務での手厚い追加手当てがうたわれており、国軍兵士を目指す動機付けとなっている。

非政党選挙管理内閣を支援したモイーン・アフマド陸軍参謀長は、自身の回顧録において、国連の平和維持軍担当の事務次長から、すべての与野党が参加したもとでの公正な選挙が実施されない場合には、バングラデシュ軍を平和維持軍から外すことを検討するとの警告があったとしたうえで、平和維持軍への機会が奪われた場合、限られた収入しかない兵士たちの不満を抑えるのは難しいと指摘した(堀口2009)。実際、2009年2月には平和維持軍への参加資格のない準軍事的組織である国境警備隊(BDR)が、平和維持軍への参加を含めた待遇改善を求めて反乱をおこし、軍関係者57人が殺害される事件が発生している。

軍政を引くと紛争国として扱われ、PKOへの参加資格を失うことから、現状のバングラデシュにおいては、PKOミッションという国外での役割が軍部に国内で政治に干渉することを思いとどまらせているといえる。また、2011年の第15次憲法改正によって、軍による国家権力の掌握と憲法停止に対して、極刑を含む厳しい処罰に処することが規定された。これは、2007年から2008年の軍後援の非政党選挙管理内閣下において、両党総裁を含む政治家多数が汚職容疑で逮捕された経験から、軍の介入を警戒してアワミ連盟がうった布石である。これらのことからも、今後軍が積極的に政権運営に介入することの政治的合理性はないといえる。

(4)イスラームと政治

BNPを創設したジヤウル・ラフマン大統領は、憲法から政教分離を削除し、コーランの一文を挿入するなど、イスラームに対して寛容な姿勢をとった。そして、独立戦争時にパキスタンに与した政治家の起用や、イスラーム政党の解禁を通じて、イスラーム勢力を取り込む政治姿勢を示した。続くエルシャド政権は、休日を日曜日ら金曜日に変更し、1988年には、憲法改正によってイスラームを国教化した。このようなジヤウル・ラフマン、エルシャドの両軍人政権を通じて、イスラームへの配慮の姿勢を示すことが重要視される政治的土壌がつくられたといえる。

1991年の民主化以降は、イスラーム主義政党が2大政党の間でたびたびキャスティンボードをにぎることによって、その存在感を示すようになった。主な政党としてイスラーム協会(Jamaat-e-Islami、Bangladesh:以下JI)とイスラーム統一戦線(Islami Oikiya Jote)がある。これらの政党は、イスラーム国家の実現や市民法に代わってイスラーム法を導入することなどを主張しており、イスラーム原理主義的傾向が強い。二大政党の中では、近年BNPがイスラーム主義政党と共同戦線を張る傾向がみられる。1996年の総選挙では、BNPとJIの離反がアワミ連盟の勝利へと結びついた。一方で2001年の総選挙では、BNPがイスラーム主義政党と共闘することによってアワミ連盟に勝利し、イスラーム主義政党が政権与党の一角を占めるにいたった。

しかしながら、BNPとイスラーム主義政党の連立政権下においては、非合法イスラーム武装主義勢力による爆弾事件が頻発したことから、武装主義勢力との関係が噂されるイスラーム主義政党や、連立政権を組むBNPは国民の支持を得られなくなり、2008年の総選挙では惨敗した。

代わって政権を奪取したアワミ連盟は、独立戦争時の戦争犯罪を裁く国際戦争犯罪法廷を設置し、イスラーム主義政党への攻勢を強めた。1971年の独立戦争当時、パキスタン軍に協力して独立運動を弾圧したとされる「戦争犯罪者」の中にはJIのメンバーが多く含まれている。国際戦争犯罪法廷の目的がJI指導者を裁判にかけることにあり、総選挙を視野にいれた野党勢力の切り崩しであるとしてBNPやイスラーム主義政党は批判を強めた(補足参照 )。

参考文献

  • アジア経済研究所編『アジア動向年報(各年版)』アジア経済研究所.
  • 日下部尚徳「バングラデシュの政治情勢:国内で抗議デモが頻発、暴動も-JI副総裁に死刑判決-」『金融財政ビジネス』、10316号、pp.10-14、時事通信社
  • 日下部尚徳「バングラデシュ総選挙をめぐる情勢不安-民主的で穏健なイスラム国家の行方-」『金融財政ビジネス』、10386号、pp.16-19、時事通信社
  • 佐藤宏編著『バングラデシュ: 低開発の政治構造』アジア経済研究所.
  • 佐藤宏「国をめぐる模索」『バングラデシュを知るための60章』pp. 23-26、 明石書店.
  • 佐藤宏「議会制民主主義のゆくえ」『バングラデシュを知るための60章』pp. 40-43、 明石書店.
  • 高田峰夫『バングラデシュ民衆社会のムスリム意識の変動-デシュとイスラーム-』明石書店.
  • 村山真弓「憲法第15次改正で再選への布石」『アジア動向年報2012』pp. 440-464、アジア経済研究所
  • 堀口松城『バングラデシュの歴史』明石書店.
  • A. T. Rafiqur Rahman. 2008. “Bangladesh Election 2008 and Beyond: Reforming Institutions and Political Culture for a Sustainable Democracy”. The University Press Limited.  
  • IWGIA. 2012. “Militarization in the Chittagong Hill Tracts、Bangladesh”. IWGIA・Organising Commitee CHT Campaign・SHIMIN GAIKOU CENTRE.
  • Mudud Ahmed. 2012.“Bangladesh: A Study of the Democratic Regimes”. The University Press Limited.

※参考文献は全項目に共通

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2019年1月18日

バングラデシュ/最近の政治変化

1民主化の経緯

 1-1独立と中央集権化

自治権とベンガル語の公用語化要求に端を発し、1971年、第3次印パ戦争を経て、東パキスタンはバングラデシュとして独立した。そして、翌1972年にムジブル・ラフマン政権(アワミ連盟)のもと、民主主義、社会主義、政教分離を柱とする議院内閣制を基本制度とした憲法を制定した。当政権が社会主義と政教分離主義を目指した背景としては、パキスタンへの対抗上インドに近い立場をとったこと、当時のインドが冷戦構造の中でソ連陣営に与していたことなどが考えられる。しかし、独立後の経済停滞、物価高騰、洪水被害、援助物資の横流しなどによって高まった政権に対する批判を抑えこむため、ムジブル・ラフマン政権は大統領制へと移行し、一部の政党を非合法化するなど中央集権的な政治体制となっていった。

1-2軍事政権とイスラーム主義

1975年、青年陸軍将校によるクーデターによって、ムジブル・ラフマンが自宅にて殺害された。その際、ムジブル・ラフマン本人だけでなく、夫人や3人の息子を含む一族の大半が殺された(現アワミ連盟総裁のシェイク・ハシナは当時ヨーロッパを外遊中で難を逃れた)。事件後、ジヤウル・ラフマン陸軍少将がクーデターをおこして政権を掌握したが、ジヤウル・ラフマンも1981年に軍内部のクーデターによって暗殺された(表1)。事件以降政権を掌握したH・M・エルシャド陸軍中将とあわせて、バングラデシュにおいては15年間軍人主導の政治が続いた。ジヤウル・ラフマン政権、H・M・エルシャド政権ともに、政権掌握後、自らの政権の受け皿として政党を結成した上で選挙を実施し、自らが大統領として政権運営をおこなった。この過程の中で生まれたのがジヤウル・ラフマンのBNPであり、エルシャドのジャティオ・パーティ(Jatiya Party:以下JP)である。

また、政教分離主義を目指したアワミ連盟と異なり、イスラーム主義の復活もこの両政権の特徴であった。ジヤウル・ラフマンは1977年に憲法前文に「慈悲深く、慈愛遍くアッラーの御名において」の一句を挿入し、政党としてイスラーム主義を全面に押し出した。エルシャドは1982年にアラビア語を義務教育化した。1988年にはイスラームを国教と規定し、週の休みを、日曜日からイスラームの安息日である金曜日に変更した。

表1 バングラデシュにおける主なクーデター
1975年8月15日青年将校らにより、ムジブル・ラフマン大統領が、夫人や3人の息子をはじめとする近親者とともに殺害される。
11月3日軍部内のムジブル・ラフマン支持派であったハレッド・ムシャラフ准将が、巻き返しのクーデターを起こす。
11月7日軍内部で反ハレッド・ムシャラフ派によるクーデターがおき、ジヤウル・ラフマン陸軍参謀長が権力を掌握する。ジヤウル・ラフマンは77年4月に大統領に就任。
1981年5月30日軍部内の改革派グループにより、ジヤウル・ラフマン大統領がチッタゴンで側近に暗殺される。
1982年3月24日無血軍事クーデターによりフセイン・ムハマド・エルシャド戒厳司令官が権力を掌握し、戒厳令を引いた。翌年、エルシャドは自らが大統領であると宣言。

1-3民主化運動

1986年、市民および諸外国の民主化要求に応じる形で行われた総選挙において選挙操作があったとして、エルシャド政権に対する民主化運動が盛り上がりを見せるようになった。中心的な役割を果たしたのは学生や知識人で、首都ダッカを始め、国立大学のあるチッタゴンやシレット、ラジシャヒなどの大学キャンパス付近で反政府デモが繰り返されるようになった。この民主化運動の際にはムジブル・ラフマンの娘シェイク・ハシナが党首を務めるアワミ連盟とジヤウル・ラフマンの妻カレダ・ジアが党首を務めるBNPが共闘し、エルシャド政権打倒のための運動を展開した。

1-4民主化

一般的に、バングラデシュの民主化はH・M・エルシャド政権が上記の民主化運動によって倒された後の憲法改正によって、大統領を元首とする議院内閣制度が確立した1991年になされたと言える。エルシャド退陣後の1991年2月に実施された国民議会選挙ではカレダ・ジア率いるBNPが勝利し、BNPは民主化後最初の政権党となった。以後、1996年選挙ではシェイク・ハシナ率いるアワミ連盟が、2001年選挙はBNP、2009年選挙はアワミ連盟と2大政党による政権運営が交互に続いてきたが、2014年、2018年の選挙ではアワミ連盟が勝利し一党支配体制を確立した。

制度上は民主主義とられているものの、 選挙実施に際しては有権者への目先の利益誘導が優先され、立候補者同士で具体的な政策が議論されるような機会は少ない。ときには現金が有権者へ配られることもあり、運用上の課題も少なくない。また、議会において政策上の意見の衝突があった場合には、議会ボイコットやホルタル(ゼネスト)、街頭デモといった手法で野党は対抗する。それらは時に先鋭化し暴力的な様相を呈することから、本来あるべき議会制民主主義がおこなわれているとは言いがたいのが実情である。

(2)最近の政治変化

2-1国際戦争犯罪法廷とイスラーム主義政党

アワミ連盟は91年の民主化以降、選挙のたびに独立戦争で西パキスタン側 に協力した者への処罰を主張することにより、戦争を経験した元軍人党員の支持を集め、党の結束をはかってきた。2008年12月の国会総選挙でも戦犯裁判の実施を選挙公約に掲げて戦い、3分の2以上の議席を獲得して地滑り的勝利を収めた。 そして、公約にもとづいて、2010年3月25日に、3人の裁判官と7人の検察官、12人の調査官を任命し「国際戦争犯罪法廷」を開く体制を整えた。「国際」と名付けられているが、2009年1月にアワミ連盟主導政権によって制定された国内法である国際犯罪(法廷)法(International Crime[Tribunal]Act)に基づく裁判であることから、その中立性には国内外から疑問符がつけられた。特に被疑者となったイスラーム主義政党の指導者と関係の深いパキスタンやトルコなどの中東諸国、死刑に反対の立場をとる欧州諸国は裁判の実施に強い懸念を示した。

裁判の対象は、1971年のバングラデシュ(東パキスタン)独立戦争当時、独立運動を弾圧したパキスタン軍に協力したものや、住民を虐殺したとされる者である。西パキスタン側への協力者の多くは、イスラーム主義政党の支持者であった。その中でも特に、農村住民に強い影響力をもつイスラーム教学者の支持のもと、地方にまで組織力を持つイスラーム協会(Jamaat-e-Islami:以下JI)が、反独立運動の中心的な役割を担っていた。JIは親パキスタンの立場から「和平委員会」と呼ばれる組織を結成し、独立に反対した。そして、イスラーム主義政党の地方・学生団体としてラザーカールやアル・バダル、アル・シャムスといった組織を編成し、和平委員会の下、アワミ連盟の活動家や独立を支持する知識人、ヒンドゥー教徒を虐殺した。反独立派はバングラデシュ独立による東西パキスタンの分断と、それによってヒンドゥー教徒が多数を占めるインドの影響力が南アジアで拡大することを恐れ、パキスタンに加担したとされる。一方で、独立戦争の際には、東パキスタンの独立派による反独立派に対する虐殺行為も同時におこなわれており、バングラデシュ独立戦争に際しては、独立派、反独立派の双方で、悲しむべき多くの虐殺事件がおきていたと理解すべきである。

しかしながら、戦犯法廷の対象がJIと一部のBNP指導者に限定されていることから、両党は裁判そのものが不当であるとして、激しい抗議運動を展開した。JI支持者や学生グループのメンバーは全国で治安部隊と衝突し、報道されているだけで300名以上が死亡する事態となった。アワミ連盟は、暴動を主導したとして2013年8月にJIを非合法化し、選挙資格を剥奪した。これらのことから、アワミ連盟による戦犯法廷設置の狙いは、野党指導者を裁判にかけ、有力野党の政治力を削ぎ、選挙を優位に進めることにあったと考えられ、その目的はおおむね達成されたと言える。

2-2シャハバーグ運動とイスラーム主義勢力

上述の戦犯法廷は2013年1月に元JI幹部のアブル・カラム・アザドに死刑判決をくだしたが、2月には同じく死刑判決が予想されていたJI幹事長補佐のアブドゥル・カデル・モッラに対しては終身刑をくだした。これに対して、「Blogger and Online Activist Network(BOAN)」に参加する若者たちが、ウェブサイト上でモッラ被告に対しても死刑を求める運動を呼びかけた。その結果、数万人規模の市民がダッカ南部のシャハバーグ地区交差点付近に集結し、無期限の座り込み集会をおこなった。シャハバーグ運動と名付けられたこの集会は、若者中心の市民運動として始まったが、ハシナ首相をはじめ、アワミ連盟の政治家も同調する姿勢をみせたため、政治色を帯びることとなった。

これに対して、JIとも関係の深いイスラーム主義団体であるヘファジャテ・イスラム(Hifazat-e-Islam)は、シャハバーグ運動を呼びかけた若者を、ムスリムとその予言者を冒涜する無神論者として、死罪を求める抗議行進をチッタゴンからダッカにかけて実施した。ヘファジャテ・イスラムは、全国の宗教学校に支持基盤をもつため、行進の途中に支持者が合流し、ダッカに到着する頃には、数十万人規模の集団に拡大していた。同組織は、反冒涜法の導入やシャハバーグ運動のリーダーの処罰、イスラーム主義にもとづく国家建設にむけた項目を含む「13か条の要求」を政府に突きつけた。シャハバーグ運動参加者との前面衝突にはいたらなかったが、イスラーム主義勢力の組織力を顕示する上では十分な効果があったといえる。

2-3イスラーム主義勢力による襲撃事件の増加

上記の国際戦争犯罪法廷に社会の注目が集まりはじめた2013年初頭より、イスラーム武装勢力による襲撃事件が増加した。襲撃の対象は、反イスラーム的であるとされたブロガー、外国人、宗教マイノリティに大別される。

ウェブ上で政治的意見を発言するブロガーは、バングラデシュにおけるインターネットの普及によって、急速にその存在感を増してきている。特に、アワミ連盟が戦犯裁判を推し進めることにより、戦犯推進派や保守的かつ武装主義的なイスラーム思想に対して批判的な立場をとる人びとが政権のお墨付きを得た形となり、活発に発言するようになった。また、自らの意見を誰からも精査されることなく容易にウェブ上で流布することができるようになったことから、イスラームに関する議論が過激な批判の応酬となって、互いの憎悪を高め合う結果となった。

これらを背景として、2013年頃から過激なイスラーム思想を批判する書き込みを行っていたブロガーや、戦犯裁判で被疑者に厳罰を求める運動をウェブ上で展開したブロガー、彼らの著作を発行する編集者、LGBT(性的マイノリティ)の権利を求める活動家などが、何者かに襲撃される事件が続いた。これに対してIS(イスラーム国)やインド亜大陸のアルカイーダ (Al Qaeda in the Indian Subcontinent: AQIS)は、彼らをイスラームの伝統的な教えに反する「無神論者」や「世俗主義者」であるとして犯行を認める声明をだした。

宗教マイノリティに対しては、シーア派宗教施設における無差別発砲事件や、イスラームの少数宗派であるアフマディヤのモスクにおける自爆テロ事件、ヒンドゥー教徒や仏教徒、キリスト教徒、イスラーム少数宗派に対する襲撃事件などが発生し、ISからの犯行声明がだされた。

また、2015年には外国人をターゲットにした襲擊事件が3件発生し、イタリア人2名、日本人1名が死傷した。外国人に対する襲撃事件がISの犯行声明の下、立て続けに発生したことに加え、ISの広報誌「ダービク12号」において、バングラデシュにおけるテロ活動の強化を示唆したことから、政府、各国大使館は警戒を強めた。

このような襲撃事件が断続的に発生するなか、2016年7月1日午後9時過ぎにダッカの外国人高級住宅街であるグルシャン地区のレストラン「ホーリー・アルチザン・ベーカリー」で、日本人7人を含む民間人20人が殺害されるという、大規模かつ計画的なテロ事件が発生した。事件は、武装した5人の若者によって引き起こされ、実行中にISからの犯行声明が出された。彼らはいずれも25歳以下で、バングラデシュにおいては富裕層・高学歴の部類に入る。事件当日はラマダン(断食月)の最終金曜日で、レストランは外国人客が多数を占めていた。実行犯は、殺害にあたりコーランの一節を朗読させたとの証言もあり、非ムスリムを狙って犯行に及んだことが予想される。

テロ事件後、政府はテロを一切容認しない「ゼロ・トレランス・ポリシー」を掲げ、取り締まりの強化にのりだした。現地治安当局は、2017年5月までの間に武装勢力のメンバー92人を殺害、1050人を拘束した。殺害されたなかには、ダカ襲撃テロ事件の首謀者とみられるタミム・アフメド・チョウドゥリも含まれる。また、若者が過激思想に感化されるのを防ぐために、テレビCMや看板を作成するなど、政府は一般の人の目に見える形で過激派の問題を提起した。 これによりイスラーム武装勢力内および組織間の指示系統は分断され,資金調達能力を低下させたことから,武装勢力による襲撃事件は減少した。

また、2018年7月23日にダカ襲撃テロ事件の起訴状が提出され、12月3日に裁判が開始された。警察は容疑者を21人と断定したが、そのうち13人は容疑者死亡で起訴見送りとなった。起訴状によると、事件はイスラーム武装勢力バングラデシュ・ムスリム戦士団(JMB)の分派、ネオJMBによって実行された。ネオJMBは6カ月間かけてダカ襲撃テロ事件を計画したとされる。テロの目的は、バングラデシュを不安定なテロ国家にすることだった。裁判では、逃亡中の2人を除き、起訴時点で逮捕拘留されていた6人全員が無罪を主張した。

2-4国民議会選挙

憲法第123条第3項(a)によると,任期満了による解散の場合、解散の期日に先立つこと90日前から解散の期日当日までの間に選挙を行うこととされる。直近の国民議会選挙は2018年12月30日に実施されており、次回の選挙は2023年に予定されている。

2018年12月に実施された国民議会選挙では,野党関係者の拘束・襲撃事件が多発し,野党関係者は批判を強めた。最大野党BNPは報道に対して,2013から2017年の間に34人が逮捕、435人が失踪し、そのうち252人がいまだに行方不明、39人が遺体で発見されたとして、与党アワミ連盟を非難した。

2018年2月8日には、ダッカ特別裁判所が慈善団体の基金横領の容疑でカレダ・ジアBNP総裁に懲役5年の有罪判決、ロンドンにいるタリク・ラフマンBNP上級副総裁に懲役10年の有罪判決を言い渡した。ジア総裁が刑務所に収監される事態を受け、BNP は全国で抗議運動を展開した。一連のBNP幹部の逮捕は、2年以上の懲役刑を受けた者で釈放から5年以内の者は国会総選挙に出馬できないという憲法規定を利用したBNPへの攻勢であるとの見方も強い。

また、選挙を前に国定教科書におけるイスラーム関連記述の増加や、宗教学校卒業者への公的な資格付与、最高裁判所の前に設置されたギリシャ神話の女神テミスをモチーフにした像の撤去など、イスラーム主義団体の要求に沿った政策が次々と実行された。世俗主義を標榜するアワミ連盟がこれまで手を付けてこなかった分野での政策変更は、総選挙を睨んでのイスラーム主義層の取り込みであるとの見方が強い。

国連事務総長の報道官は、2018年2月26日、国際社会にロヒンギャ難民支援を訴える一方で、バングラデシュ政府に対して公正な選挙を求める声明をだした。しかしながら、投票場の一時閉鎖や投票箱の持ち出し、暴力による野党支持者の排除など、国内外のメディアで選挙の不正が報じられた。ロヒンギャ難民支援を大規模に実施する以上、国連としてもバングラデシュに民主的な体制を維持してもらう必要があることから、次回2023年の国民議会選挙にむけてアワミ連盟に対する公正な選挙実施にむけた国際社会からの圧力が強まると考えられる。

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2019年1月18日

バングラデシュ/選挙

(1)選挙制度

バングラデシュでは、定数300名および女性留保議席50名の計350名によって構成される、5年任期の一院制議会制度がとられている。女性留保議席は普通選挙の得票率にしたがって政党ごとに割り当てられる。選挙にあたっては小選挙区制を採用し、各選挙区からひとりずつ議員が選出される。選挙権は18歳以上のバングラデシュ国籍をもつ者、もしくは法的居住者と認められる者に与えられるが、心身衰弱者、および独立戦争時にパキスタンに協力したとして訴訟された者は除外される。被選挙権は25才以上のバングラデシュ国籍をもつ者に与えられ、心身衰弱者、および二年以上の懲役刑を受けた者で釈放から5年以内の者、独立戦争時にパキスタンに協力したとして訴訟された者は除外される。

(2)2018年国民議会選挙

1991年の民主化以降、アワミ連盟とBNPが交互に政権を担ってきた。そして、政権が交代する度に、野党側が「不正選挙」結果の取り消しを要求し、都市部の暴力団や政党傘下の学生組織を動員して激しい抗議活動を展開してきた。与党側も政策決定過程において実質的に野党を排除し、前政権の汚職の摘発や要職者の逮捕などを通じて、野党の力を弱めようと画策した。二大政党のどちらが政権の座についても、同様のパターンが繰り返されており、今日までバングラデシュの政情混迷の要因となっている。バングラデシュは小選挙区制を採用しているため、両者の獲得議席数で大差がついていたとしても、得票率では拮抗してきた経緯がある(表)。そのため、二大政党のどちらが政権をとっても、野党勢力による支持者を大規模に動員した抗議運動や政治活動が可能となる。

2018年12月30日に実施された国民議会選挙(以下、総選挙)は、電子投票の一部導入やSNSでの選挙活動など、政府の「デジタル・バングラデシュ」政策を反映させる新たな動きが見られたものの、一方で与党側の強権的な姿勢や、与野党の候補者に対する襲撃事件、投票所の一時閉鎖や票の水増しなどが報道されたことから、選挙の正当性に国内外より疑問符がつけられた。

総選挙では、各党に比例配分される女性留保枠50を除く小選挙区300議席が争われ、ALを中心とした与党連合が有効とされた298議席中288議席を獲得し、圧倒的多数派となった。ALは単独で全議席の86%となる257議席を獲得し、ハシナ政権は連続3期目を迎えた。

ALは過去の選挙戦において世俗主義を前面に出す傾向がみられたが、今回の選挙ではイスラーム政治団体15団体からなるイスラーム民主同盟(Islamic Democratic Alliance)の設立を画策し、ALを含む与党連合に対する支持を取り付けた。ハシナ首相は選挙戦を通じて、宗教色の強い非正規イスラーム教育機関であるコウミ・マドラサの教育委員会による大規模集会に参加するなど、イスラーム主義政党と共闘関係にあり、イスラーム保守層を票田に抱えるBNPに対抗する姿勢をみせた。

一方で、贈賄の容疑で逮捕されたカレダ・ジア総裁の保釈を求める最大野党BNPは、中立性が担保されていないとして5年前の前回総選挙同様に選挙をボイコットする姿勢をみせたが、国会に議席がないことによる党のさらなる弱体化を避けるため、野党連合として設立された国民統一戦線(Jotiya Oikya Front:JOF)から候補者を擁立した。しかし、JOFは「公正な政治の実現」を前面に押し出すものの、反ALということ以外に政策的共通性はみられず、また独立戦争時の戦争犯罪に加担したイスラーム主義政党ジャマアテ・イスラーミー(イスラーム協会:JI)と共闘するBNPの加入を否定的にとらえる政党も少なくなかったことから最後まで足並みがそろわず、わずか7議席を獲得するにとどまり、BNPの国政復帰は厳しい船出となった。

(3)非政党選挙管理内閣制度の廃止

2014年の国会総選挙において、BNPをはじめとする野党が選挙をボイコットした背景には、アワミ連盟主導政権による非政党選挙管理内閣制度(以下、選管内閣制度)の廃止がある。選管内閣制度は、96年の憲法改正で正式に導入された制度で、与野党どちらの側にも与しない中立的な立場の暫定内閣を組閣することによって選挙の公正性を担保することを目的としている。同制度下においては、公正な選挙を実施するため、直近に退職した最高裁判所長官を長とする諮問委員会が、暫定選挙管理内閣として政権を引き継ぎ、90日以内に総選挙を実施する。同制度が導入された背景には、1986年の選挙において、当時のエルシャド政権による選挙工作があり、政権側による投票の恣意的な操作があり得ることが政党間および国民の間でコンセンサスとなっていたことがある。同制度のもとではこれまでに3回の総選挙が実施されたが、すべての選挙で与野党逆転という結果を残してきた。選管内閣の下では、それまでの政権与党のマイナスイメージが強調される傾向があることから、一般的に同制度は与党の側に不利に働くと考えられている。

91年の民主化以降初の2期連続の政権党を目指したアワミ連盟は、選挙をできる限り有利に進めるために、2011年の第15次憲法改正で同制度を廃止し、政権党である同党の指揮のもとに2014年の総選挙を実施する手はずを整えた。これに対してBNPをはじめとする野党は、これまで通り政党政治家によらない中立な選管内閣の下で選挙が実施されない限り総選挙には参加しないとの声明をだすと同時に、国会をボイコットし、全国的な抗議デモであるホルタルを実施した。一部の抗議集会やデモ行進は暴徒化し、警官隊との衝突により多数の死傷者がでる事態となった。また選挙前後には手製爆弾が使用されるなど、その暴力性がエスカレートし、国内の治安情勢は悪化した。

(4)地方選挙制度

地方行政機構として、7つの地方管区(Division) 、64の県(District:ベンガル語ではジェラ) 、487 の郡(Upazira:ウポジラ)、4546 のユニオン(Union)に行政区画されている。中央政府より各地方に対し地方行政長官(Divisional Commissioner)が配置され、各県には県行政長官(Deputy Commissioner)が、各郡に対しては郡行政官(Upazila Executive Officer) が派遣されている。県レベルにおいては行政長官が地方行政の実質的な責任者となっている。上記行政区画のうち、以前から選挙による首長及び議員の選出が実施されていたのはユニオンのみである。2008年からはウポジラにおいても選挙により首長が選ばれるようになったが、議会は存在しない。また、県レベルにおいては民選の首長システムは存在しない。

ユニオン議会システムはイギリス統治時代のザミンダール制度の名残で、ザミンダールの持っていた徴税権がユニオン・チェアマンに移された事にその歴史的背景を有する。多くの地方でユニオン・チェアマンはザミンダールの子孫が選出されていた。ユニオン議会では当該地域が9つの選挙区に区分され、それぞれの選挙区からひとりずつ議員が選出される。また、女性留保議席が別途3議席あり、9つの選挙区を3つずつ合わせた選挙区で選出される。ウポジラ選挙においては、議長1人、副議長1人、女性副議長1人が投票により選出される。

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2019年1月18日

バングラデシュ/政党

 (1)Awami League:アワミ連盟

アワミ連盟は、パキスタン分離独立後の1949年に東パキスタンにおいて結成された。アワミ連盟の創始者はマオラナ・バシャニーとH・S・スフラワルディとされているが、リーダーとして認知されているのはシェイク・ムジブル・ラフマンである。結党当初からパキスタン政府の打ち出したウルドゥー語を公用語とする政策に強く反対し、パキスタンからのバングラデシュ独立に指導的な役割を果たした。

独立後、アワミ連盟は新国家バングラデシュの舵取りを担ったが、独立戦争によって国土が荒れていた上に度重なるサイクロンや洪水の被害により国民は飢餓に苦しみ、国家を安定的に導くことができなかった。また、ムジブル・ラフマンは初代首相(後に大統領)に就任したが、次第に強権的性格を強め、1975年の青年将校による軍事クーデターによって家族数十人とともに暗殺された。後継者には、クーデター当時ヨーロッパに滞在中で難を逃れた長女のシェイク・ハシナ(現首相)が総裁に就任した。

その後、アワミ連盟は1995年の総選挙に勝利し、政権を奪取するまでの20年間、野党の立場にあった。2001年総選挙には敗れたものの、2009年、2014年、2018の選挙に勝利し、三期連続の政権党となった。

アワミ連盟はパキスタンから独立を果たす際、インドからの支援を受けた経緯から、歴史的に親インドであり、特にインド国民会議派との関係は深い。独立戦争直後は社会主義と政教分離主義を柱とするなど、明確な左派政党であったが、近年では中道左派的な政策指向に変化している。国立大学に強力な学生支持団体を持ち、ヒンドゥー教徒や少数民族にも支持基盤をもつ。

(2) Bangladesh Nationalist Party (BNP):バングラデシュ民族主義党

BNPは、1978年にジヤウル・ラフマンによって設立された。ジヤウル・ラフマンは軍人出身で、独立戦争のリーダーだったムジブル・ラフマンを積極的に支持した。1975年の軍部青年将校によるムジブル・ラフマン暗殺事件のあと、クーデターを起こして事態を収拾し、そのまま政権を担った。その後、民政移管にむけてBNPを設立したが、1981年に軍内部の対立から暗殺された。

ジヤウル・ラフマンの暗殺事件後は、妻のカレダ・ジアが総裁に就任し、現在にいたっている。BNPは1990年および2001年の国会総選挙に勝利し、カレダ・ジア総裁は過去に2度首相を経験している。

BNPは、親インドで左派的な政策を指向するアワミ連盟への対抗上、親パキスタン、親イスラームの立場をとる。2001年の選挙からイスラーム主義政党であるジャマティ・イスラミと連立を組んでいる。2014年の総選挙では選挙のプロセスをめぐり与党アワミ連盟と対立し、選挙をボイコットしたことから、BNPは国会の議席を失い、急速に政治力を低下させた。2018年の総選挙では野党連合として選挙に参加したが、連合全体でわずか7議席を獲得するにとどまった。

(3) Jatiya Party(JP):ジャティオ・パーティ

JPは、1981年に起きたジヤウル・ラフマン暗殺事件の後、戒厳令司令官として軍政を掌握したH・M・エルシャドが1986年に設立した。当時、欧米諸国の外的圧力もあり、エルシャドは民主的な総選挙をおこない国会に議席をもつことで政府の正統性を国内外に示す必要があった。その受け皿として設立されたのがJPである。1986年の総選挙では勝利したが、さまざまな選挙工作疑惑がもたれている。実質的な民主化がなされた1991年の選挙以降は第3政党となっている。

(4) Jamaat-e-Islami(JI):ジャマアテ・イスラーミー(イスラーム協会)

JIは1941年にイギリス植民地時代のインドにおいて結成された。パキスタンからバングラデシュが独立した際にBangladesh Jamaat-e-Islamiとして再結党された。イスラーム主義政党で農村部貧困層に強い支持基盤をもつ。議席数は多くないものの、過去にアワミ連盟とも、BNPとも連立政権を組んだ経験があるなど、強固な政治基盤をもとに政界に影響力を与えている。パキスタンからの独立戦争当時はパキスタン側についていたため、一時非合法政党となっていたこともある。

2009年の国民議会選挙に勝利したアワミ連盟により、独立戦争当時戦争犯罪を裁く、国際戦争犯罪裁判が設置され、JIの幹部の多くが有罪判決をうけた。2013年12月にそのうち一人が処刑されて以降、アワミ連盟とは厳しい緊張関係にあったが、2013年8月1日に党綱領が憲法および選挙法に違反するとの判決が下され、政治活動が禁止された。そのため2018年の国民議会選挙には党としての参加が認められず、一部が野党連合のもとで出馬したが全員落選した。

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2019年1月18日

マレーシア/選挙

(1) 選挙制度の内容とその実際の運用状況および問題点

マレーシアの選挙制度はイギリスから引き継いだ小選挙区制(First-Past-The-Post:FPTP)である。選挙権は21歳以上の国民に与えられ(119条)、連邦下院議会の被選挙権は21歳以上(47条)である。また、非選挙部分の連邦上院議員の選出年齢は30歳である(47条)。選挙を実施する主体である選挙管理委員会は憲法に規定された独立委員会であり、統治者会議での相談の後、国王によって任命され、議長、副議長と5人のメンバーで構成される(114条1項)。 現在のところ、選挙は連邦下院議会選挙と州議会選挙からなっており、サラワク州を除くマレー半島とサバ州では基本的に連邦と州の選挙が同時に行われている。近年のサラワク州議会選挙は、連邦下院議会選挙とは異なる日程で行われている。州元首の同意の下で、州首相が連邦下院と異なる日程で州議会を解散して州選挙を実施することは可能である。1960年代までは州の下位の自治体レベルでも選挙が行われ、野党が多数議席を占める議会も見られたが、当時のインドネシアとのボルネオの領土をめぐる対立が深まる中で非常時を理由に自治体選挙が停止され、以来、自治体の選挙は行われていない。

2013年総選挙では当時は野党の政党連合であったPRが得票率で与党連合のBNを上回ったが(BN47%、PR51%)、BNが連邦下院議席の議席数でPRを44議席上回って過半数を確保した。この得票率と実際の議席数とのギャップを生み出した要因として挙げられるのが、死票を多く生む小選挙区制による本来の制度的要因と、その要因を拡大させている「一票の格差」の問題である。特に後者の「一票の格差」の問題は2013年総選挙の時から大きな注目を集めるようになり、2018年総選挙でもその問題が浮き彫りになっていた。

「一票の格差」の問題について、2018年総選挙での極端な例を挙げよう。サラワク州のイガン選挙区では登録有権者数が1万9592人で、勝利した国民戦線候補者の得票数は1万538票である。これに対し、首都クアラルンプールを取り囲む人口密集地のスランゴール州のバンギ選挙区では登録有権者数が17万8790人で当選した希望連盟候補者の得票数が10万2557票である。サラワク州と首都圏の1票の格差は最大でおよそ8倍から9倍の格差がある。ここまで極端ではなくとも、国民戦線に批判的な有権者の多い人口密集地の首都圏やペナン州など都市部の票がこれまで過少代表されてきた一方で、サバ州、サラワク州およびマレー半島の村落部に位置する地方の選挙区が過大代表されている問題がある。2018年に至るまでBN体制の長期継続を支えてきた重要な要因がこの選挙区での「一票の格差」にあったことは間違いない。

「一票の格差」に代表されるような選挙制度上の不備や不公平性の問題は2000年代に入って重要なアジェンダとして浮上していった。野党やNGOによって選挙における二重投票や郵政投票での不正、選挙期間中の主流メディアの偏向報道など選挙の公平性に関わる問題に対して社会運動を通じて争点化する動きがアブドゥラ政権末期から本格化した。そうした選挙制度の改革運動を主導したのが、清廉で公平な選挙のための同盟(Bersih)、通称、ブルシ運動である。ブルシ運動は、これまで2007年11月、2011年7月、2012年4月、2015年8月、2016年11月の5度にわたって首都で大規模なデモ行進を行った。特に後半の2度のデモでは首都だけでなく、国内外の都市で在外マレーシア人も含めたデモが起こっている。こうしたデモ活動以外にも、ブルシ運動は選挙管理委員会との対話、一般市民に対するワークショップを通じた啓蒙活動など積極的な活動を行ってきた。

ブルシ運動で重要なのは、リーダーシップの変化である。ブルシ運動が2006年に設立された当初は、NGOは参加したものの野党が主導する運動であった。しかし、2010年に再結成されたとき、NGOが主導する運動となることで、指導部からは意図的に野党指導者が排された。これにより、ブルシ運動は運動外には非党派の国民運動としてのアピールを強めることとなった。

ブルシ運動は2008年、2013年、2018年の総選挙の動向に影響を与えている。特に、選挙管理委員会による、ずさんな投票人名簿の管理が一部の研究者や野党によってデータに基づいて提示され、その対応に選挙管理委員会や政府が十分に乗り出すことができなかったために、都市部の住民を中心に不満が高まっていった。また、ブルシ運動は、選挙制度改革運動の看板を掲げているが、選挙管理委員会と政府に求めた8大要求の中には、自由で公正なメディア、選挙管理委員会や反汚職委員会の強化、汚職の根絶などが含まれており、選挙制度改革という特定のアジェンダを越えてBN体制に対する一般の不満を組織化したということができる。こうしたブルシ運動によって表出されたBN体制への不満は、野党による総選挙での重要な争点となるとともに、(野党自身がブルシ運動の重要な構成団体であることもあって)野党自身の活性化にもつながった。さらに、ブルシ運動から派生した運動として、在外マレーシア人に帰国して投票を呼びかける運動(Jom Balik Undi)や、投票所での選挙監視運動が活発になった。

(2) 直近の国政選挙-第14回総選挙(2018年5月9日投票)

直近の国政選挙は2018年5月に実施された第14回総選挙である。この選挙によってマレーシア史上初の政権交代が起こった。選挙結果はPHが過半数の112議席を1議席上回る113議席を獲得する一方で、BNは79議席と前回選挙よりも54議席を一気に減らして政権から転落した。BNとPH以外にもこの2大政党連合の間でキャスティングボードを握ろうとしたPASが前回選挙時の議席から3議席を減らしたものの18議席を獲得した。さらに、元農村地域開発大臣でUMNOから離党したシャフィ・アプダルが新たに設立したサバの地域政党であるサバ伝統党(WARISAN)が8議席を獲得し、独立候補も3人が当選した。各政党連合および各党の得票率はPHが45.6%、BNが33.8、PASが16.9%、WARISANが2.3%であった。

2018年連邦下院議会選挙の結果
政党名(連合名) 獲得議席数 前回2013年総選挙議席
希望連盟(PH) 113
人民公正党(PKR) 47 30
民主行動党(DAP) 42 38
マレーシア統一プリブミ党(PPBM) 13
国民信託党(AMANAH) 11
サバ伝統党(WARISAN) 8
国民戦線(BN) 79 133
統一マレー人国民組織(UMNO) 54 88
マレーシア華人協会(MCA) 1 7
マレーシア・インド人会議(MIC) 2 4
マレーシア人民運動(Gerakan) 0 1
人民進歩党(myPPP) 0 0
サラワク統一ブミプトラ・プサカ党(PBB) 13 14
サラワク人民党(PRS) 3 6
民主進歩党(PDP)(1) 2 4
サラワク統一人民党(SUPP) 1 1
サバ統一党(PBS) 1 4
パソモモグン・カダザンドゥスン・ムルット統一組織(UPKO) 1 3
サバ人民統一党(PBRS) 1 1
自由民主党(LDP) 0 0
平穏構想(Gagasan Sejahtera) 18
汎マレーシア・イスラーム党(PAS) 18 21
マレーシア国民連合党(IKATAN) 0
汎マレーシア・イスラーム戦線(BERJASA) 0
故郷連帯党(STAR) 1
独立系候補 3 0
合計 222 222

連邦下院選挙と12州で州選挙も同時に行われた。マレー半島をみれば、PHがクダ州、ペナン州、ペラ州、スランゴール州、ヌグリスンビラン州、マラッカ州、ジョホール州の7州の州政権、BNがプルリス州とパハン州の2州の州政権、PASがクランタン州とトレンガヌ州の2州の州政権を獲得した。サバ州では選挙後にBNとWARISAN(およびWARISANと共闘するPH)の間で州政権をめぐって混乱があったものの、BNから6人の州議員が離党してWARISANに入党したためにWARISAN主導の州政権が成立した。サラワク州は州議会選挙が2018年総選挙と同時に実施されず(前回のサラワク州議会選挙は2016年に実施された)、BNを構成するサラワクの地方政党4党(PBB、PRS、PDP、SUPP)が州政権を確保していたが、2018年総選挙後にこの4党はBNを離脱して新しいサラワクの地方政党連合であるサラワク政党連合(GPS)を結成した。

2018年総選挙をめぐって研究者、世論調査機関、メディアの事前予想ではBNが政権を維持するとの声が大多数だった。1MDBスキャンダルを筆頭にナジブ首相やBN体制の問題が浮上して政権批判は高まっていたものの、野党間の分裂が引き起こす3党競合、総選挙直前に実施されたBNに有利な新選挙区割りの導入、投票日が休日の週末ではなく水曜日に設定されたこと、といった要因によってPHがBNに勝利するのは難しいと考えられていた。

野党間の分裂については、主にマレー半島の選挙区で与党のBNに対して、野党のPHとPASが挑戦する構図で3党が競合する状況で与党への批判票が分裂して、結果的に与党を有利にするとみられていた。しかし、選挙結果をみれば野党間での票の分散の効果を上回るほど与党への批判が強かったとみられる。その一方で、PHは2008年総選挙以降のトレンドを継続して非マレー人票の大多数を確保しつつ、マレー人票がBN、PHとPASとの3勢力間で分裂した中で少なくとも3分の1程度のマレー人票をPHが確保したことが政権交代につながったとする指摘がなされている。選挙直前の3月末に連邦下院で採決されて導入された新選挙区割りについては、野党や市民社会組織からBNに有利なゲリマンダリング選挙区であるとの批判が強かった。また、前回2013年および前々回の2008年総選挙では投票日が週末であったが、2018年総選挙では選挙管理員会が水曜日を投票日とした。2013年総選挙の投票率は84.8%で非常に高かったが、2018年総選挙では水曜日が投票日となったことで投票率低下が懸念された。しかし、実際の投票率は82.3%と2013年総選挙には及ばないものの、依然として高い投票率を記録した。

2018年総選挙で重要な焦点となったのは、生活コストの上昇や現役首相も関与したとされる政治的スキャンダルであったが、マハティール首相に率いられたPHは一般国民の不満の声をうまくすくい上げて政権交代につなげたといえよう。

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2019年1月18日

モロッコ/現在の政治体制・制度

現在の政治制度は立憲君主制である。現在の国王は、前国王ハサン二世の死去によって、1999年7月23日に即位したムハンマド六世である。

(1) 国王

モロッコの憲法第42条では、国王は「国家元首」であり、「国民統合の象徴」「国家の永続性を擁護する者」であると定められている。また、第41条では、「アミール・アル・ムーミニーン(信徒の指揮者)」と規定され、国民に対して精神的な面での権威も有している。

王位の継承については、憲法第43条で、原則として直系男子の長子相続が定められている。現在のハサン皇太子は、ムハンマド六世の長男である。

また皇太子が未成年で国王に即位するような事態が起こった場合は、国王が満18歳に達するまで、複数の構成員(議長を憲法裁判所裁判長がつとめ、首相、上下院議長、司法権高等評議会議長、ウラマー高等評議会事務局長、その他国王が任命した10名で構成)からなる摂政評議会が憲法改正を除いて、憲法で定められている国王の諸権利・諸権力を行使する(憲法第44条)。

国王は不可侵で神聖である(憲法第46条)と定められている。

国王は首相の任命権を持つ(憲法第47条)。但し、2011年の新憲法では、首相として任命されるのは、下院選挙で第一党となった政党から任命すると明記されている。

閣議の議長は国王である(憲法第48条)。

国王は、法律が採択され政府に送られてから30日以内に法律を公布する(憲法50条)。また、国王は、憲法第96条、97条および98条に従って、勅令によって、上下院両方またはいずれかを解散させることができる(憲法第51条)。

国王は、国民と議会に向けてメッセージを発することができる。メッセージは上下院それぞれで読まれ、いかなる議論の対象にもすることはできない(憲法第52条)。

国王は、国軍の最高司令官である(憲法第53条)。

国王は外国および国際機関に駐劄する大使に信任状を渡して派遣する。また、モロッコに駐劄する外国または国際機関の大使を信任する。条約への署名と批准をおこなう。ただし、国境に関する条約、通商条約、および国家財政に関する条約は、法律によって事前に承認がなければ、批准することはできない。また憲法の条項に触れる恐れのある条約は、憲法改定の後でなければ条約の批准はできない。(憲法第55条)

国王は、高等司法評議会の議長をつとめる。(憲法第56条)

国王は、高等司法評議会の司法官を任命する。(憲法第57条)

国王は、恩赦の権利を行使する。(憲法第58条)

国土の一体性が脅かされたとき、または立憲体制の機能を阻害する恐れのある出来事が起こった場合、国王は、首相、上下院議長、憲法評議会議長と協議し、国民にメッセージを発した後、勅令によって非常事態を宣言することができる。その場合、国王は領土の一体性の擁護、立憲諸機関の機能回復、国事の遂行に必要な措置をとることができる。

非常事態は議会の解散を伴わない。非常事態の終了は、発令と同じ手続きでおこなわれる。(憲法第59条)

(2) 立法権:議会

1963年の国会開設以来、時期によって一院制と二院制両方の制度が採用された。現在は、二院制である。

1963年に、下院と上院からなる二院制の国会が開設された。(下院議員は、4年ごとの直接普通選挙で選出。上院議員は、6年ごとの間接普通選挙で選出。3分の2は、地方議会の代表から、3分の1は商工会議所および労働組合の代表から選出。)

この議会の会期は、20か月継続した。その後1965年から、新憲法が採択される1970年までの5年間にわたって非常事態が続き、国会不在の時期が続いた。

1970年7月31日に改正された憲法では二院制は廃止され、任期6年の一院制となった。1972年に再度改正された憲法でも一院制は維持された。1972年の改正憲法では、直接選挙で3分の1、間接選挙で3分の2を選出することを第43条に明記した。この割合は、1980年の43条改正によって、直接選挙で3分の2、間接選挙で3分の1と変更された。しかし、モロッコ国内外は不安定な時期を迎え、1971年末から1977年10月まで議会は停止されている。

1977、1984年から始まる会期、そして1992年に憲法が改正された後の1993年から始まる会期でも一院制が維持された。

1996年9月13日に改正された憲法では、二院制が再度採用された。この改正された憲法では、法案が両院それぞれで審議されることが定められた。両院間で異なる審議結果となった場合、内閣は両院から同数の代表からなる委員会を設置し、法案の採択に努めなければならない。同委員会の設置したのちも、調整がつかない場合は、下院の審議結果が優先される。

2011年7月29日に公布された新憲法でも、二院制は維持されている。

下院議員は直接選挙で選ばれ、任期は5年。人数は法律によって定められることになっている(憲法62条)。上院議員は、間接選挙で選ばれ、任期は6年である。人数は90名から120名までと定められている(憲法63条)

議会の権限は、立法と政府の行為の監視である(憲法70条)。法案の発議権は、首相と議員の両方にあり、法案はまず下院事務局に提出される。しかし、国土の一体性、地域開発、社会に関する事項については、最初に上院事務局に提出される(憲法78条)  

(3) 行政権:政府

首相は任命されたのち、両院で施政方針演説をおこなう。首相の説明した方針は両院で議論され、下院で採決される(憲法第88条)。

内閣不信任案について、下院が提出する場合は、議員の少なくとも5分の1の議員の賛成が必要である。不信任案の決議には、下院議員の絶対過半数が賛成する必要がある(憲法第105条)。上院が提出する場合は、議員の少なくとも5分の1の賛成が必要であり、決議には絶対過半数の議員の賛成が必要である(憲法第106条)。

(4) 司法権:裁判所

 モロッコの憲法は第107条で、司法権は立法権および行政権から独立していると定めている。2011年の憲法改定では、「国王は司法権独立を保障する」という一文が加えられている。また、裁判官は罷免されない(憲法第108条)。

 裁判官の昇進や懲罰を監督する司法高等評議会の議長は国王で、構成員は以下の通りである。(憲法第115条)

  • 最高裁判所長官(議長代理)
  • 最高裁判所付き国王代理検事
  • 最高裁判所第一法廷主席判事
  • 高等裁判所判事から4名
  • 第一級法廷判事から6名(高等裁判所判事からの4名と第一級法廷判事からの6名の計10名には必ず女性が含まれなければならないとしている。)
  • 調停者
  • 国立人権評議会議長
  • 「能力、不偏性、誠実さを兼ね備え、司法の独立と権利の優越に資する人物」として国王が任命した5名。この5名の中に、国王高等ウラマー評議会事務局長が提案した人物1名を含む。
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