バハレーン/最近の政治変化
2011年2月から3月にかけての大規模抗議デモが鎮圧された後、ハマド国王の意向を受けてサルマーン皇太子が国民対話を主導し、改革と国内対立の緩和に努めたが、王族内ではハワーリドと称されるハーリド・ビン・アフマドKhalid bin Ahmad Al Khalifa王宮府顧問とハリーファ・ビン・アフマドKhalifa bin Ahmad Al Khalifa国防軍総司令官の兄弟に代表される強硬派が優勢で、野党解散と代表の逮捕収監、メンバーや支持者の国籍剥奪による国外追放、一部街区の封鎖といった抑圧的な対応が続いている。強硬派には、野党がイランの影響下にあるとの認識が強く、改革の要求も宗派主義とイランの脅威に対応するという安全保障の脅威として捉えられており、弾圧の継続が正当化されている。国内情勢はおおむね安定化しているが、強硬派が優勢な政府の対応は国内対立の緩和を難しくしている。
2011年の大規模抗議デモ
チュニジアとエジプトの革命に影響されて、バハレーンでも、国民行動憲章が国民投票で承認された10周年にあたる2月14日に政府へ抗議と改革を要求する「怒りの日」デモの予告と参加の呼びかけがなされた。ハマド国王は各世帯に1千ディーナール(約22万円)の支給を発表し、不満の抑え込みをはかったが、2月14日にマナーマ市内やシトラ地区で、シーア派住民を中心に数百人から数千人規模の抗議デモが行われた。これに対し、治安部隊が催涙弾やゴム弾で鎮圧にあたり、2名が死亡した。翌15日には、マナーマ市街のサルマーニーヤ病院に死亡者の追悼に集まった千人規模の群衆に対して治安部隊が介入して実力行使により解散させようとして更に死者が生じたことから、抗議行動が拡大し、カイロのタハリール広場に倣って、マナーマ西部の真珠広場に集まり、座り込みを開始した。国王はテレビ演説で犠牲者への哀悼を表明し、ネット・メディアの規制緩和と、真相を調査する特別委員会の設置を表明した。一方、議会の比較第一党でシーア派が支持基盤であるイスラーム国民協約協会Jamaiat al-Wifaq al-Watani al-Isalmi(以下、ウィファーク)は議会審議のボイコットを宣言した。
2月16日早朝、治安部隊は真珠広場を占拠していたデモ隊を強制排除し、更に強制排除に抗議したデモ隊に発砲した。更に実弾を使用していたことが判明したことから、シーア派住民を中心に、デモ参加者の政府に対する怒りが高まり、ウィファークは議員の辞職を表明し、2002年の第1回下院選挙をボイコットした国民民主行動協会Jamaiat al-Amal al-Watani al-Dimuqrati(以下、ワアド)やイスラーム行動協会Jamaiat al-Amal al-Islami(以下、アマル)など野党系6団体から成る合同政治委員会において、政府に対し、内務省の責任追及、ハリーファ首相(当時)の退陣と議院内閣制の実現、選挙制度改革、政治的帰化の中止、政治犯の釈放等を要求した。
政府側は、サルマーン皇太子が事態の対処にあたり、真珠広場からの軍・治安部隊の撤収や政治犯の釈放を決定した。しかしながら、ハリーファ首相の退陣要求に対しては、4閣僚の交代・横滑りでの対処に留まった。野党側はウィファークやワアドの指導者たちが、真珠広場で国民の連帯を呼びかける一方で、政府側の対応が不十分であるとして、要求が受け入れられるまで対話には応じない姿勢を示した。さらに、2月26日に、自由と民主主義のための権利運動Harakat Haqq Harakat al-Hurriyat wa al-Dimuqratiyah (以下、ハック)の代表であったハサン・ムシャイマHasan Mushaymaが恩赦により国外追放状態から帰国すると、王政打倒を主張する声が勢いづき、政府と野党および抗議デモ参加者との間で妥協点を見出すことが難しくなった。サルマーン皇太子の呼びかけに対し、野党指導者や抗議デモ参加者が応じる姿勢を見せない状態に対し、ハマド国王は治安維持のため湾岸協力会議(GCC)の合同部隊である「半島の盾」の介入を要請したうえで、3月14日に真珠広場のデモ参加者を強制排除して抗議デモを鎮圧した。
国民対話と野党の弾圧
デモ鎮圧後、ハマド国王の意向を受け、サルマーン皇太子が主導して改革と国内融和のための国民対話が7月2日から開催された。平行して、デモ参加者に対する政府の暴力・武力行使に関して真相究明のための独立調査委員会による調査も進められた。国民対話は国内各界代表300人を招いて開催され、まとめられた選挙制度や議会の権限強化についての答申が憲法修正に反映された。また、独立調査委員会は抗議デモの発生と大規模化、政府の治安行動への抵抗についてイランの関与はなかったことを公式に認めた。多数派を占めるシーア派を支持基盤とする野党側は国民対話において25名の枠しか認められず、国民の声が反映されない状況や対話への参加を安易な妥協とみなす支持層、とくに若年層からの批判が大きいこともあり、国民対話から離脱した後、抗議デモ時に結成した合同委員会の要求内容を改めて改革を要求する「マナーマ文書」を野党5団体連名で10月12日に発表した。
政府内では野党に対しやや穏健的な態度を取っていたサルマーン皇太子よりも、国内のシーア派政治団体がイランの影響下にあり、抗議デモの発生と拡大にイランの働きかけを疑い、国内のシーア派およびシーア派を主な支持基盤とする野党を安全保障上の脅威とみなす強硬派が優勢となり、民衆の扇動や現体制の否定、国家への侮辱といった罪状で野党指導者の逮捕や国籍剥奪による追放、野党の解散命令といった弾圧が続いている。