ヨルダン/現在の政治体制・制度
- 正式国名
- ヨルダン・ハーシム王国
- 政治体制
- 立憲君主制
- 国家元首
- アブドゥッラー2世国王
- 首相(兼国防相)(国王の指名による)
- ビシャル・ハサーウナ
- 外相(首相の指名 国王の承認による 他の閣僚も同様)
- アイマン・サファディー
- 内相(同上)
- マーゼン・アブドゥッラー
- 議会
- 二院制
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- 下院(定数130名, 宗教・エスニシティ枠12、女性議席15議席(各行政区に1議席確保)、普通選挙, 任期4年)
- 上院(定数65名, 国王の指名, 任期4年)
- 司法
- 普通裁判所, 宗教裁判所, 特別裁判所
現在のヨルダンの政治体制は、立憲君主制であり、ハーシム家出身のアブドゥッラー2世が国王として大きな権限を持っている。現憲法は、1952年1月8日に制定されたが、その後改正を重ねてきた(1954, 1955, 1958, 1960, 1965, 1973, 1974, 1976, 1984,2011,2012, 2016年改正)。行政権は、国王と内閣に付与される。国王が全ての法律に署名し、それを執行する。国王の法律承認の拒否権は、上・下両院の3分の2の投票で覆される。国王は布告により、裁判官を解任することができ、憲法改正を承認し、宣戦布告し、軍を率いることができる。憲法では三権分立の原則が導入され、市民には、言論・出版・集会・学問的自由・結社・宗教的自由・国会議員及び地方議会議員選出の権利が保証されている。
議会(国民議会)は、国王の指名によって選ばれる上院(65名、任期4年)と18歳以上の男女による普通投票で選ばれる下院(定数130議席、うち15議席は女性議席、12議席は宗派・マイノリティ議席。任期4年)からなる。
国王は首相指名権を持っている。内閣は組閣後、議会に施政方針を発表するが、議会の絶対多数による不信任で解散する。また、閣僚は議会の絶対多数による不信任で更迭される。他方、国王は下院の解散権を有している。民主化要求の動きに応じて、2011年42項目にわたる憲法改正が行われ、その中で、国王の権限(選挙の延期の大権、下院の無期限解散権、政府の保護、首相の再指名など)制限にかかわる動きがあった。その中でも最も注目されたのは、首相の指名権であったが、国王の首相指名権は剥奪されず、議論の余地を残している。
司法面では憲法に基づき、裁判官は国王の指名を受けるが「法以外の何の権威にも従わない」と司法の独立性が謳われている。裁判所は、普通裁判所(初級裁判所、治安判事裁判所、上訴裁判所、最高裁判所)、宗教裁判所(シャリーア法廷、宗教共同体委員会)、特別裁判所(警察法廷、軍事評議会、関税法廷、国家治安法廷)が設置される。行政に対する審査は、特別高等法廷で行われる。
地方行政は、行政区の長官は国王に指名され内務省の管轄下に置かれるが、地方への開発政策等の実施に関しては州政府が権限を持つ。
政治体制発展略史
ヨルダンはイギリスの委任統治領パレスチナの管轄下におかれる一種の保護国トランスヨルダンを前身とし、1946年トランスヨルダン王国として独立した。トランスヨルダンは1948年のパレスチナ戦争(第一次中東戦争)をきっかけに、パレスチナの一部と見なされるヨルダン川西岸を占領し、その後、西岸の親ヨルダン的パレスチナ人有力者の要請を受ける形で(1950年ジェリコ宣言)、西岸を自国の領土として統合した(その時点でヨルダン・ハーシム王国と改称)。ヨルダンは、西岸の領有やヨルダン国民の6割程度を占めると見なされるパレスチナ系住民の扱いをめぐってPLOやアラブ民族主義勢力との間で、長らく緊張関係にあった。ヨルダンのパレスチナ系住民はヨルダン国籍を付与され、法的にはヨルダン国民と同等の権利を認められている。しかし、社会的には一般に不利な立場に置かれ、特に政府関係の職業に関しては差別を受けてきたと言われる。
1950年代下院は、西岸と東岸それぞれ同数(20名ずつ40議席、後に30名ずつ60議席に変更)の議員が選出される事になっていた。第三次中東戦争(1967年)後、西岸がイスラエルの占領下に置かれ、通常の選挙実施が不可能になった事を理由にヨルダン政府は選挙を凍結した(1957年以降の戒厳令により、すでに政治活動は実質的に凍結されていた)。イスラエルの占領が長期化し、また西岸のパレスチナへの帰属がアラブ世界や国際社会で承認されるようになり、1974年のラバト・アラブサミットでパレスチナ人の代表がPLOであることが確認されると、ヨルダン政府は凍結されてきた議会の解散を決定した。その後ヨルダン政府は、西岸選挙区を除く東岸のみの代表からなる議会とそのための選挙法改正を実施してきた。1988年にヨルダンは政治的な理由から、西岸の領有を正式に放棄する「西岸との法的・行政的関係の断絶宣言」を行った。これにより西岸を巡る選挙法上の問題点がなくなり、普通選挙の実施条件が整った。
1989年には1967年以来の下院議員選挙が実施された。更に、1991年に戒厳令が解除され、1992年に政党法により一定の条件を満たす政党の活動が許可された。しかし、投票方法を連記制から単記制に変更する事を決めた1993年の選挙法改正が、野党、特にイスラーム行動戦線(IAF)に不利に働いたとの批判を呼んだ。この投票方法が、一票の重さや選挙区割りの問題と合わせてその後の政府と野党の主な対立点となった。1997年には選挙法の改正に反対するIAFと他の野党の一部が選挙をボイコットした。その後の2001年の新選挙法では選挙区や票の重さの問題に関する多少の変更は見られたが、投票方法の見直しはされなかった。国政の場から離れることで多くの問題に直面した経験から、その後行われた2003年、2007年の選挙に野党は選挙に参加したものの、2009年の改正選挙法でも女性枠の拡大(6議席増)と若干の都市部の議員枠拡大(アンマン2、イルビド1、ザルカ1議席増)以外、対立点は解消せず、再びIAFや野党の一部の選挙ボイコットがあった。さらに、2012年の選挙法改正では、全国区の政党枠(政党以外の政治団体も参加可能)を導入し議会における政党代表率を18%とした。しかし、代表率を最低でも30%にすることを要求するIAFなどの野党勢力はこれを不十分とし、IAFは再び選挙をボイコットした。なお、2012年改正選挙法では、女性枠がさらに3議席拡大され、またバルカとカラク選挙区でキリスト教徒議席枠がそれぞれ1議席増やされた。
2016年の選挙法改正(2016年第6号選挙法)では、オープンリスト方式の比例代表制を採用した。これは、SNTV(単記制)から連記制への投票方法の変更を意味していた。候補者は各選挙区の中で3人以上(選挙区の定数を超えない範囲)で構成されるリストに登録し、投票者は、リスト全体、1つのリストの異なる候補者、または選択したリストのすべての候補者に投票できる。すなわち、オープンリストシステムにより、異なるリスト間および各リストの候補間で競合が発生する。また選挙区の範囲を行政区レベルまで拡大することで(アンマン、ザルカ、イルビドは例外)、選挙区は45から23に減少した。定数が20議席縮小されたが、以前の15議席が維持されたため、女性の代表率は上昇した。投票リストへの登録手続きを簡素化(受動的登録制)した。また投票権は投票日の90日前の段階で18歳であることを条件とするように変更され、投票権は若干拡大された。この制度は2020年の総選挙でも踏襲された。